2004-
小林勇一作
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青春18切符で雪の青森へ(全俳句短歌と写真)2004-12-25
旅の経過については時事問題24へ
存続あやうい栗原電鉄(末枯の野を行く一両の電車)2004-12-17
パリの秋(東駅より)2004-12-8
トランジットで岩沼→柴田→仙台へ(俳句短歌エッセイ)2004-11-17
阿武隈の魅力は道にある2004-11-12
川俣から東和へ秋の俳句と写真2004-11-6
柿の話(俳句エッセイ)(評論と鑑賞)2004-10-13
飯館の秋(俳句短歌紀行) 2004-10-8
失われた馬との生活(俳句エッセイ)(評論と鑑賞)2004-9-18
月山の花の写真と俳句-2-阿賀野川の津川駅写真と俳句 2004-8-7
フラワ-長井線で白鷹町へ(俳句、短歌、写真の部)2004-6-19
冬の旅の記録へ(青森へ)
大江戸春の絵巻の詩2004-2-24
蕪村の俳句から江戸時代を偲ぶ(生活感覚の俳句2)2004-2-18
江戸の生活感覚の俳句 2004-2-
江戸時代の魅力 1月30日(評論と鑑賞) 2004-1-30
日本詩歌紀行地図に「松江と常夜灯」アップ2004
秋の阿武隈高原から二本松へ(俳句短歌−詩−写真集)
三春まで(春の阿武隈を行く)2004-3月(1)
三春の春(2)
注意⇒英語の俳句は自己流だから正しくありません
英語の勉強のために試しに出しています
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2004年9月30日(木) 隣の柿の木
窓開けて隣に古き柿のなる
この辺は前も書いたがまるっきり昔の面影がない町になった。唯一残ったのが隣の古い柿の木である。これは自分の子供時代からあった。ほかは何もなくなった。その隣の家の人が最近死んだ。呆気なく死んだ。時々この窓から見ていたので死ぬとは思っていなかった。話すこともなかった。東京の方へでて帰ってきた人だった。おくさんは東京の人だったがそれでもすでにここに長い、でも一言も話すことなく死んでしまった。ただこの柿の木は結局人間の寿命より長い、木の命は人間より長いから人間が死んでも残るのだ。人間がいなくなっても木は昔と同じように存在して柿が今年もなった。
秋の虹鴉帰るや田舎町
夕方秋の虹が長々とかかっていた。完全な虹だった。それも5分くらいかかっていた。あんなに長くかかっていた虹はめずらしい。ちょうど鴉が四五羽飛んでいた。それでこの句になったのだがこれも写生だった。俳句はとにかくうまくなるには写生から始めることである。見た通りに作るのが基本である。理屈を言ったり・・・・のようにとかするとだめだ。見たありのままを句にすることが先だ。田舎町ということがちょっと工夫しただけであとは写生である。秋の虹-鴉がポイントでありこれが合っている。説明したり想像したりした俳句はだめである。俳句は短いから事物そのものをしして語らしめるというのがいいのだ。
2004年9月29日(水) 沓掛
沓掛(くつかけ)や沓はきかえて旅人の道の長しも坂一つ越ゆ
沓掛という地名は多い。沓をはきかえた所が沓掛だという、沓といっても草鞋のことである。庶民は草鞋だった。草鞋をいくつかもっていってはきかえたのだ。草鞋はいたみやすかったのだろう。沓掛は坂のような所に多い地名である。そういう所で沓をはきかえることが多かった。これも当時の旅人にならないとわからない、今だったら沓二足もって旅する人などいない、そもそも何度も言っているように旅自体現代ではないのだ。旅というとテレビで放送するように食い物とか贅沢な旅館に泊まるとか全くそこには旅などないのだ。だからあれを見ても全然つまらない、旅とは金かけて立派な旅館に泊まることではない、野宿しても旅はあるしその方が旅なのだ。つまり昔の人の方が旅をしていたし旅に生きていたのである。旅そのものが何なのか現代ではわからなくなってしまった。自動車やその他便利なものができて旅をなくしてしまったのだ。芭蕉が人生が旅だというとき旅のない社会これは何かつまらない、やたら贅沢な金かける旅が旅ではない、現代では旅人がいないのだ。旅人がいないということはいかにつまらない社会かともなる。確かに豪華な旅館はある、しかし旅人の泊まる旅籠がない、観光の温泉町があっても宿場町がないのだ。旅とは何かよほど想像しないとわからなくなっているのだ。沓をはきかえるということが想像できないからだ。そこに一見豊かに見えて貧しい世界がある。
2004年9月28日(火) 遍路橋
また一人秋の日さして遍路橋
傷心を癒す遍路や柿なりぬ
これは想像で作った。遍路橋というのがインタ-ネットにでていた。いかにも古そうな橋だった。インタ-ネットはバ-チャルな旅に向いている。遍路橋とあってもこれに実際旅してもわからないここを通ることはおそらくできないのだ。バ-チャルな空間だったらできるのだ。インタ-ネットの中で前にもしたがバ-チャルな旅ができるのだ。でもインタ-ネットでは必ずしも探したものがでてこない、遍路と入れてもいろいろあるからわからない、本は出ていてもいちいち本を買っていたら大変である。本は読むのに長いから時間かかる。だからインタ-ネットで触りだけでもバ-チャルな旅をする。江戸時代へにもバ-チャルな旅をした。今や遍路といっても自動車の騒音やらビルの街中を通ったり昔の雰囲気はないのだ。遍路で大事なのはそこに歴史がありその道筋で死んだ人もいた。そうした歴史の道であるから貴重なのだ。しかし今それを偲ぶことはむずかしくなっている。昔の道はとぎれ自動車の騒音の道に入ってゆく、昔の時間はそこになくなっているのだ。遍路の格好をしても芝居染みたものになっている。なんか今は本当の旅がないから議員が白装束を着ても何か芝居染みてくる。つまり実際は今や誰も旅人となれていように遍路ともなれないのだ。ただ遍路には歴史があるということが他の道とは違うし今も傷心を癒す効能はあるのかもしれない、これはなんらか癒しの宗教として意味がある。宗教団体よりは何か宗教性はある。なぜなら個々の傷心を癒すとか個々の動機による癒しをもとめているからだ。それは集団で要求するものではない、個々の傷心をいやすための個々の巡礼だからいいのかもしれてい、そこに歴史的な意味があった。草に埋もれた碑にもなんらか故人を偲ぶものがあるのだ。
遍路橋は山の中の粗末な橋もそうだし町中の古い橋も遍路橋であり各地にあるようです
キ-ワ-ド(遍路)で調べてください
2004年9月27日(月) 彼岸花
彼岸花垣根に道に墓を染む
彼岸花についてこれは球根植物でその球根に毒がある。毒々しく感じるから好きになれない花だった。球根だからチュ-リップのように10年間で自分の領域を1メ-トルしかふやせないとある。これは山の中とかに自生しているものではなく意図的に植えられた。何のためにか飢饉のそなえのためだと樋口清之氏は「梅干しと日本刀」で言っている。あれが飢饉のための備えの食料かと驚いた。それが本当だとすると大変な発見である。根に毒があっても水にさらすと消えるという、これは飢饉の最後に食う食料だという、だから彼岸花とか言っている。これはなぜか人間の身近に一時期真っ赤に毒々しくそめる。農家の垣根や道端や特に墓に咲く、おそらく墓に咲くから彼岸花と名付けたのが正解ではないか、飢饉のための食料だとしたらどんなものでも人間の用がありただ今の人はそれを知らなくなったのかもしれない、そういうことはかなりある。この人はなんかわかりやすく身近なものから歴史を語るから面白い。歴史はなんであれつまらないと見えるものにも意味を見いだすことなのだ。もしこれが飢饉のための食料に植えたとするとこの花は嫌いだがそんな意味があったのか大事な花だったんだなと見るようになるのだ。
彼岸花は元々畑を荒らすモグラを寄せ付けないために、根に毒性のある
彼岸花を田畑の際に植えたそうです。
こういうこともインタ-ネットで発見した。実際あまり説明はでていない、これも一つの彼岸花の効用であったのか、ともかくこれは鑑賞用に中国からもたらされたのではなく何か薬でもあったようだし実用的なものとして意図的に植えられたのだ。
2004年9月22日(水) 旧道の秋
一時に秋の実りや旧道に
六号線の脇の旧道そいにはあらゆる秋の実りがあった。栗から萩から薄に草の実からどんぐり・・・・あれだけの狭い場所に秋の実りがあるものだ。一通りそろっている。実りはむしろ旧道にある。新しい道はまだ何が実りはあとで気づくものかもしれない、江戸時代のことは今になればよくわかる。何が真の実りだったかわかる。
今の時代の実りはなにかわからない、インタ-ネットでもそうである。現時点の評価はむずかしい。俳句なんかも過去の作品の方がわかりやすいし評価しやすいのだ。実りは一時代あとにわかる。ルネンサンスとは古代の復興だったという意味だった。再生だったのである。過去の再生が実りなのである。
2004年9月20日(月) 赤とんぼ
夕空にアキツの群れの尽きず飛ぶ
今一心に仲間と飛びぬ赤トンボ
ものすごい量の赤とんぼが海の方に飛んでいた。それも南を目指して大飛行編隊を組んでそれこそ尽きることなく飛んでいた。何かわからないが一時あのように飛ぶことがある。南を目指して飛ぶのだ。なぜかわからない、鴉も南に帰る習性があるのか南に飛んで帰る。とにかくすごい数だった。どこから湧いてきたのかというくらい飛んでいたか。
赤とんぼってちょっと0線ににている。小さいから0線ににている。
URL変わったのでちょっとめんどうになった。
2004年9月15日(水) 事もなし
誰が知るや今日も行く道草深く昼顔咲きて事もなしかも
この頃事件が多すぎる。事もないことつくづくいいことだ。便りのないことはいいことだ。事件を追いきれない、疲れる。
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2004年9月13日(月) 菊
七八輪黄菊新たに粛然と
seven and eight
bright yellow chrysanthemums
refreshed and quiet
庭に新たに黄菊を植えた。清涼な空気の中にまた新たに咲いた。
秋はやはり菊の花だ。
。
2004年9月12日(日) 秋の朝の海
秋の朝日さしまぶしき船の出て白銀色に輝く海かな
最近曇りがつづいている。今日は晴れて朝早くめずらしく起きた。やはり時々朝早く起きると気持ちいいだろう。見慣れた風景でも朝早いとまた違って見える。ただ同じ場所にいるとマンネリ化してくる。それからどうしても火力発電所が目障りである。あれで自然がかなりそこなわれた。ただ浜通りは発電所が多く税金の収入になっているのだ。でもそこなわれない自然のなかで暮らす人はやはり幸せだ。まあ、都会よりはずっとめぐまれている。自然から離れた人間ならざるものになってゆくのではないか、ともかく秋の早朝の気持ちいい時間だった。
2004年9月11日(土) 夏から秋へ
里の道稲穂の垂れて野菊かな
ノウゼンの花の散りにき数輪の残れる花に秋の薔薇咲く
実るほど垂れる稲穂の頭かな・・・・かなり稲穂が実ってきた。今年は豊作だ。
可憐な野菊も咲いていた。ノウゼンの花は散り黄色の薔薇が咲いていた。デジカメでとろうとしたがうまくイメ-ジ通りにとれない、今日は曇っているし映りが悪いからだめだ。身近なところでもこれだけ俳句短歌書いているのも不思議だ。これも書く場所が与えられているからだろう。そうでなければこんなに書いていないからだ。
2004年9月9日(木) 山鳩と実りの秋
山鳩に実りの秋や里の道
山鳩は良くみかける。山にいるから山鳩になった。山のものと里のものがいる。それが調和する。水田には山がかかせないのだ。水を供給する山がかかせない、日本では山と里は一体のものである。やっと今日は涼しくなった。今年は今まで暑かった。ようやく秋が来たようだ。
2004年9月6日(月) ダリアと蝶 ダリアの庭蝶のみたずね留守の家
蝶あまた今日もダリアの庭に舞う
2004年9月3日(金) 平和の小径
この小径誰も荒らさず草深く昼顔ひそか微笑み暮れぬ
蝶二三羽ここに眠るや草深し
大きな道はいろんな人が出入りして荒らされる。しかしこの小径は歩む人もまれだから荒されることもない、人間の行き交う道、それはなぜこれほどに荒らされるのか、そこは犯罪の道であり暴力の道である。この小径にあるような平和はない、そして道を荒らすのは本当は自分自身だったのだ。自分自身に平和がないものは自らその小径を荒らすのである。だから田舎でもそうなるが自然自体は自然らしくあるから罪なくあるから平和がある。
2004年9月1日(水) 鷺と波紋
二つ三つ水辺に波紋鷺一羽
one heron
two and three ripples
on the surface of water
静かな夕べの川の水辺そこに二つ三つの波紋、それくらいならいいだろう。
このくらいの波紋はあるものである。波紋がありすぎるとだめだ。現代は波紋がありすぎるのだ。そこに静寂がない、それで疲れるのである。