蕪村の句から江戸時代を偲ぶ(生活感覚の俳句2)小林勇一
山守の冷飯寒き桜かな
江戸時代の山には御林(幕府の山)御留山(火災などにより木材を緊急に使用するため)寺社山(
神社仏閣が所持する、 名主等を選任して管理)百姓山( 落葉(肥料)や燃料(まき)として使用するために入る、
領主が百姓(名主)に山守を選任して管理させた)
入会権
@ 村中入会―村の人は入れる
A 村々入会―特定の村の人は入れる
B 他村持入会―税金を払って入る
山守としての仕事は江戸時代には山を管理する人としてあった。今だと営林署になるが山は管理され手入れされていた。なぜなら江戸時代は石油などないから自給自足であり身近なものを無駄なく利用していたから今のように山が荒れるということはなかった。それぞれに明確な役割があり自然も存在していた。自然は花鳥風月の風流の対象ではなかった。現代は観光とかで自然と生活が遊離しているから自然と生活が一体となっていた江戸時代の感覚がわからないのだ。生活があって実際は山であれ川であれ海であれ生きたものとなる。自然はもともと風流の対象としては存在していないのだ。生活があるからこそ山村であれそこで炭焼きであれ蚕であれ細田で米をとっていてこそ村も自然も生きたものとなる。この山は藩の財政源にもなった。
だから山守という職業は山には欠かせないものであり何代も山でつづいている旧家がある。山にも存在感があった。なぜ今山に存在感がないのか空洞化するのかそれは炭焼きとか蚕とか昔あった生活がなくなったからである。蚕も大きな役割を果たしていた。白川郷の合掌作りも蚕のために作られていた。蚕が大きな産業だったのだ。この句は山守が冷たい飯を食っている。
そして桜咲く山を守っている。山は不便であり山で暮らすものへのまなざしがあった。不思議には蕪村は風雅を極めているのだが生活者へのまなざしがある、愛情があることなのだ。しかし今だったら山の中までス-パ-があり弁当も売っていてレンジであたためるから山でもあったかいものを食っているのだ。ここでは冷たい飯ということで山の暮らしを仕事を偲ぶのである。
河内女の宿に居ぬ日やきじの声
この河内女(かわちめ)とは河内は名高い木綿どころであるから河内女は多く織ったのだが機織りの音が聞こえず今日は留守できじが甲高く鳴いている。これも生活と密着した句なのである。河内女というのを良く知っていなければこの句はできない、いつも機織りの音を聞いているからこの句ができた。この河内女という言い方は万葉集にもあったから非常に古い。ここには機織りの技術が唐から入ってきて早くから機織りをしていた
1316 河内女(かふちめ)の手染の糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思(も)へや
あと大和女とかがあった。河内女というと万葉の時代から機を織る女性として固有名詞化していた。それほどここでは機織りをしていたのだ。河内女といえば機織りの代名詞のようになっていた。江戸時代は家内工業でであり規模が小さいし機織りを休んだとき自然の静寂とか満ちて自然の声がひびいてくるのだ。今は工場とかで働いているがそこは仕事が休んだら工場はなお仕事をしつづけている。機械や道具が24時間休みなく動いている。こうこうと電気の明かりも消えることはない、工場とか文明には静寂とか闇がないから自然も排除され人工物が休みなく働きつづける。人間もまた休むことなく働かせられる消耗されるのである。また河内女とか大原女とか八瀬女とか・・・・女性もその土地の名によって呼ばれることは女性自体にその土地固有の特徴があり一目でわかるような地方性があった。今でも雲南とかの奥地では部族語とに着るものも違っているし顔かたちも違っていたのだ。文明社会のようにみんな同じになることはそれはむしろ普遍的ではない、文化は人間は多様なのが普遍的であり
豊かさをもたらしていたのだ。今やこれは中国やインドやその他相当奥地に行かないと見いだせない、その奥地まで実際はグロ-バル化は進んでいるのだ。だからこの多様性は過去に歴史のかなりの過去に求めそこにパ-チャル化して想像力で見いだす他ないのだ。それで蕪村の句などが役に立つのである。
水ぬるむ頃や女のわたし守
湖や堅田わたりを春の水
土舟や蜂うち払ふみなれ棹
舟よせて藍魚買うや岸の梅
この川に関しても生活と川は密着していた。川は交通路でありただ水が流れているというのではない、魚をとるというものでもない、川は日々交通する場だった。女のわたし守とういのもいたのだ。女性のタクシドライバ-がいるとにている。そこで水ぬるむと一致して何か当時の平和ななごやかな雰囲気をかもしだしている。わたしとは当時は人々が行き交う生きた場所であり川は人々が絶えず行き交う場所だった。湖もそうである。交通路として湖があったのだ。堅田というのは舟着き場であり舟の行き来が絶えずあったところなのである。それで栄えたのである。
もの負うて堅田帰るしぐれかな
ここには絶えずもの負う人が商いとかで行き来していた。堅田という船運で栄えた町の歴史を知らないとこれもわからないのである。当時の行き来する船にのる人々などを頭にイメ-ジしないとわからないのだ。川というのもこれもほとんど生活の場としては死んでいる。川は単に水が流れているだけではない人が川を行き来する場所だったから川の持つ意味(川の俳句)は今とは全然違っていたのだ。水ぬるむというときこれは川のわたしの人もふえてくる、そうした生活が生きていたときの水めるむであり自然現象と人間の生活が一致していたから水ぬるむというのはわたしに人間の活動も盛んになることが見えてくる。川とともに生きていた人間の姿をイメ-ジしないかぎり当時の句や鑑賞できないのである。今の句はこうした生活者が見えない、ビルのオフイスや工場に人がいても隔離されている、見えないのである。だから青色発光ダイオ-ドを発明して何百億の特許権がもらいるとかデイトレダ-が金ばらまいたとか突然社会に問題になったとき事件になったときでてきてそんな人がいたのかと驚くのである。江戸時代は生活する人が自然のなかではっきりとした輪郭をもち存在感あり見えていた。自然の中の点景としてアクセントとして欠かせない要素となっていた。商いの小さな人でも自然のなかで明瞭に見えるものだったのだ。
石工の飛火流るる清水かな
石工の鑿冷したる清水かな
石工が石をうち火花が散る、そこに冷たい清水が流れている。懸命に石を打つ、そしてその脇を冷たい清水が流れる、この対比により働くものの姿が明瞭に浮かんでくる。これは私の近くにも石屋があり石を打つのを子供の頃みていたからわかるのだ。ここに一心に石を打ちその一仕事のあとの清涼感が伝わってくる。満足感が伝わってくる。一心に仕事に打ち込めることが満足感をもたらす、報酬の多寡もあるが人間は打ち込める仕事が不可欠なのだ。精根込めて打ち込める仕事が必要なのだ。それが与えられないとしたら生きがいもなにもない、現代文明社会にはこうして打ち込める仕事がないからフリ-タ-とかその他不満が多くなるのだ。私にしてもものを書く表現すること自体喜びだからこうして懸命に書いている。書くこと自体に夢中になってやっているのだ。そういう場が与えられないいうことが不幸だったのである。仕事は収入がいくらとかいう前に精根込めて打ち込めることが必要である。昔の職人気質にはそれがあったしありえたのだ。納得のいくものをただ作り出すということに重点がおかれたのだ。昔は籠屋とか鍛冶屋とか漆屋とか身近に存在して仕事していた。近くに仕事していることは社会が見えていたのだ。子供にも見える社会だったのである。その子供もそうした仕事をみてあとを継ぐことがあったのだ。
山吹や井出を流るる鉋屑(かんなくず)
これなども大工とその土地で働く大工と自然の流れを浮き彫りにした句であり懸命に働く人の姿が見えるのである。これも機械になると人の働きより機械の方に注意がそらされ人は生きた姿として見えて来ない、今や田畑はトラクタ-や田植機でやっているから何か人間の存在が江戸時代のように生きた姿として見えない、農家でも機械が主役になってしまうのだ。蕪村の句の不思議は生活感覚を自分のものにしている。
道の辺の手よりこぼれて蕎麦花
こんなふうに普通蕎麦の花を見ないのだ。蕎麦というのも当時はかなり食っていた。だから蕎麦は不可欠であった。だから手にとるというのは単にきれいだなと見ているのではない、手で摘むというか農民の感覚がある。手に触るものとしての蕎麦の花なのだ。普通自分も生活感覚に欠けているから蕎麦の花だったから蕎麦の花が一面に咲いている所だなとしかくらい美的にしか見ないのである。手にこぼれた触る感覚としては見ていないのだ。だから蕪村は農民の出だったといわれるのである。芭蕉にもこうした句は書けなかったのだろう。一茶にはこれが確かに書けたが露骨であり美的感覚として優雅さに欠けている。蕪村の場合は生活と密着して優雅なのだ。
片町に更紗染むるや江戸の春
片町とは片方に町並があり片方は町並みがない原のような所だった。今の繁華な街とは違い広い空間があった。更紗染めるにはきれいな水が必要だった。そのきれいな水が江戸にもあったのだ。
江戸時代、新宿区の落合近辺は「落合蛍」と呼ばれる蛍狩りの名所でした。
その美しい川の水を求めて、妙正寺川と神田川が出会う落合に、多くの染色工房や染色作家が移り住みました。
これなど全く信じられない、想像もつかない、新宿に蛍がいてきれいな水が流れていたのだ。江戸は今よりかなり狭く回りは自然にあふれていた。仙台辺りでも郊外はすぐ田んぼだから百万都市でも自然は豊かだったのだ。そして水の都だったのである。水路がめぐらされて侍屋敷には舟が出入りしていた。今とはあまりにも違いすぎる。水が生きていた都市なのだ。時代劇でよく堀をゆっくりとこいでくる舟がくる、小さな橋がある、そこにたたずむ人影、古い柳がしだれなんともいえぬ情緒をかもしだしていた。時代劇のような事件はめったに起こらない、静かな日々が流れていたのだ。この織物にしても各地で河内女の織るものもあったごとく織物は多様であり地場産業であった。地場産業があったことは地方も生きていた。地場産業がなくなれば地方は死んでしまうのだ。公共事業は地場産業ではない、それは土建業者のためであり地方を育むものではない、機織りのような地場産業は一つの文化でありその織物の紋様でも独自のものを生み出していたのだ。例えば与那国島のようなあんな日本の果てにあるような所でも独自の織物があったことの驚きである。与那国花織というのがあったのだ。こうした名前がつくものが個々人の技でもそうだし土地土地にあったのだ。
江戸時代それは実に多様な世界だった。現代は個性化個性化というがその土地土地の個性の喪失だった。どこにいっても同じような街になっている。だから旅自体がつまらなくなりせいぜいただ食うだけの無趣味なものになっている。江戸時代の旅は全然違っている。土地土地で自分の土地にはないものにめぐり合っていたのだ。着るものにしてから違ったものを着ていたのである。同じものが作られたのは大量に安いものを作る大量規格生産の結果であり江戸時代は職人に自分独自のものを注文して作らせていた。持つものさえみんな違っていたのだ。あまり江戸時代を美化するのもなんだが過去はかってにその人により作り出される便利なものでもある。その人のいいようなバ-チャルな世界にされる。それが過去には歴史にはできる。いい点だけを見るようにできるからかえって過去というのは理想化されるのだ。太平洋戦争も植民地解放戦争の大義の戦争だったとかいくらでも美化できるのだ。現実の世界は毎日のように現実のみにくい場面だけを見せられるから理想化できない、これは過去でも歴史でもそうであるが過去のいい点は悪い面を簡単に省くことができる。美しい情景だけに恍惚とすることができるのだ。そこに過去を見る危険性もある。いづれにしろ蕪村の句は芭蕉より不思議である。これも江戸時代の300年の平和から生まれたものであり現代の騒々しい世界から作り得ないものである。だから時代を映すから貴重なのである。現代が百年二百年たってふりかえり何が映し出されるのか、そこは豊かではあったがふりかえるものにとっては殺伐としたものとなっている。江戸時代は貧しくてもふりかえるとそこには美しい景色が残っている夢のような世界になっているという不思議である。時代単位で残すものを考えるとき江戸時代の方がずっと豊かでありその美しい過去を想像して逍遥できるという不思議である。
地味なれど与那国花織はるかなる島にもあれや織物の技(自作)
蕪村の句の不思議(邯鄲の市に鰒(ふく)見る朝の雪の解読)
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