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大江戸春の絵巻の詩2004-2-24
蕪村の俳句から江戸時代を偲ぶ(生活感覚の俳句2)2004-2-18
江戸の生活感覚の俳句 2004-2-
江戸時代の魅力 1月30日(評論と鑑賞) 2004-1-30
日本詩歌紀行地図に「松江と常夜灯」アップ2004
秋の阿武隈高原から二本松へ(俳句短歌−詩−写真集)
2月29日
故郷の知らぬ道かな月と梅
日永きや隣の市に遊び暮る
春の日や渋佐の村に我が来る
春の日や烏に追わるイタチかな
自転車で原町市まで行ったが知らない道がまだあった。ほとんど行かない道はないと思っていた。まだあったことの不思議である。道は無数にある。その道を行けばあきないのだ。そこに梅が咲き夕べの月がでていた。原町駅で青春18切符を買ったが汽車の旅はあきた。いつも同じ所でありコ-スが決められているからつまらないのだ。そして駅を過ぎ駅の名前だけが頭に残る。そしてやたら駅で待つことが多いし途中下車も今は便数が少なくてできないのだ。汽車の待つ時間が長いのである。近くでも自転車で行けばあきないが汽車はあきた。でも出かけることにした。角館から秋田の方に行く線がまだのっていないからそれにのる。青春18切符も意外と損する場合がある。遠くに行くにはいいが近くはそんなに使わないから得ともいえないのだ。
ただ旅というのは思い出すということが大きなあとの仕事であることがわかる。あとから思い出して書くことになる。その時はなかなかかけないがあとからの方が書くようになる。だから印象的な旅が必要なのだ。心に残る旅である。それはどういう旅かあとからあざやかに思い出すならその旅は印象的だったのだ。それでちょっと思い出して作った。
冬の燈や技を受け継ぎ樺細工
角館は樺細工で有名である。それで思い出して作ったのだ。こういう土地と結びついたのが俳句としていい。
自転車でも隣の街でも遠いから一日遊ぶと気持ちいい、隣の街でも世界が広がった感じがする。つまり歩いて行く世界だったら隣の村であれ街さえ遠いのだ。その感覚が全く麻痺しているのだ。隣の街や村より外国が近いという感覚は実に奇妙なことである。
渋佐の領域はかなり広い、このシブサは渋い砂であり砂鉄がとれたところらしい。日本でも有数の古代の製鉄遺跡が発見されたからだ。黒い砂であり砂鉄をとっていたのである。渋佐の村に来たというだけで春を感じた。それも冬は閉ざされているから遠くに行けないから一つの喜びの表現として生まれた。こういう句は別になんでもないのだが江戸時代あたりは当たり前だったろう。隣の村に来ただけでもなにかうれしいという気持ちである。なぜなら日本は山が多く坂を越えて上らねばならぬ所が多いからだ。いづれにしろ自動車社会はこうした原始的ともいえる人間の喜びを失ったいう皮肉である。自動車にはそれなりに開ける世界もあるがこうした原初的喜びは失われた歩く喜びも失われたという皮肉である。江戸時代は俳句なんかでも歩いた感覚から作っているのだから歩いてみないとわからない、自動車のない世界というのがいかに不思議な今とは全然違った世界になるか想像してみることである。それは非常に不思議な世界なのだ。
イタチが烏に追われて逃げ隠れた。イタチは時々みかける。イタチは私の父が虎バサミとかでとっていたのだ。皮をはがして売っていた。戦後仕事がなくそんなことをしていたのである。イタチだけは今でもいるということは結構ちょっと街はずれでも生きることができる。前はすぐ近くの桜田山にウサギがいたのには驚いた。今はウサギは山の奥でもなかなか見られないだろう。ウサギがいたということは自然があったということである。そういう自然があることはここ和むことであり自然の動物がいることも楽しいことなのだ。
2月28日
誰買うや 四五色の薔薇 春のス-パ-
日永きに 急がざるかな 石二つ
2月27日
みちのくの都なれども寒しかな花咲く日を待つ平泉かな
みちのくにも確かに都があった。平泉である。規模は小さいが七堂伽藍がありそれなりに栄えた。最初の陸奥の都であった。柳の御所は船着場だったらしい。北上川をはるばると上ってきた。ここにも川が交通として生きていた。最近CGで再現を試みていた。何かの資料がでてきたらしい。過去というのは江戸時代で自分も再現を試みたが絶えず資料を見て想像して作りだしていかねばわからない、ただその場に行ってもそれだけでは過去の歴史は浮かんでこないことがわかった。戦争でもよくよく資料が実際は残っているから調べれば過去が浮かんでくる。ただ戦争はあまりにも無惨なので再現したくないのだ。都であればそこは美しいから再現したいとなる。美しいものそれが建築であれ自然であれ再現したいし語りたい歌いたい詩にしたいとかなるのだ。太平洋戦争はあまりにも無惨であり再現したくないのだ。陸奥には都はあり長い冬を待って花開くときがくる。時間の中でどこでも都は産まれる。時間によって成熟してくるものがある。それにしてもこの半年くらいほとんど外にも出かけないからそろそろちょっと出かけてみるか、遠くには行けないだろう。
2月26日
梅咲いて 里の雀の 群れ集う
みちのくに籠もる日長し都に上る日はいつならむ
梅は身近に咲き桜は遠くに花見に行く、それも今では遠く遠くへと心が向かっている。それは乗り物のせいなのだ。汽車であれ、自動車であれ、飛行機であれ、自転車さえも遠くへ遠くへと先に行くことだけを目的としている。歩くことも先に先に行くことにしてもなかなか先が遠いから常に旅は途中にあるのだ。途中に親しむことが必然的にあるのだ。どうしてもなぜ江戸時代をふりかえるのかというとそういう本来持っていた人間の心が文明によってゆがめられている。心が安定しない、何か常に追われている、これはやはり文明が作り出した心の状態なのである。近くが遠くなり遠くが近くなるのも人間的に見ればおかしいのである。
まず里には梅が咲くそこによるの渡り鳥ではない、いつも地元にいる雀であり雀が梅により春を来たのを感じるのだ。桜は梅とは全然違う花である。むしろ桜は地元で見るより遠くで見るのにふさわしい花なのだ。桜はかつて栄えた所の都で一段と映える。桜は田舎より都であり梅は田舎ににあうのだ。
昔の時間の感覚だとなかなか遠くに行けないから遠い都に行く日は楽しみだった。都はかえって遠いから夢の中にまでみるように一度は行ってみたい憧れの場所だったのだ。距離感覚が喪失した現代では都はいつでも行ける場所だから憧れの場所でなくなったのだ。つまり江戸時代と今はこの時間感覚、距離感覚が違うことが大きな相違なのだ。このように半年以上もみちのくにこもりようやく春になり江戸であれ都に上る日は心はずむ日になった。それも汽車で二三時間で行けるものではない、それは一歩一歩近づいて行く都なのである。その距離に隔てられていることが人間のドラマを作ったのである。現代では旅がないのはこうして一歩一歩都に近づいてゆくようなことがない、あっというまに目的地に着いてしまうから旅にならないのである。だから旅の経験はみんなうすっぺらでつまらないのだ。同じようなことを書いているのもその出会いも分かれもないしただ通り一遍の観光の報告になっている。中味が薄いのだ。これが江戸時代になると旅は一生に一度とかなるとその中味は非常にこい、深い経験となりみんな違った旅をしたことになる。だからそこには伝説や昔話やいろいろ旅にまつわる話が山ほどできた、それほど旅は神秘的な経験だったのだ。まずその頃テレビも新聞もない時代だから他国は自分の目で確かめる他なかったのだ。だからその新鮮さ驚きは全然今とは違っていたのだ。
2月25日
春の雲 海へ流れて 沖望む
2月24日
春光の やわらかくつつみ 隠居かな
sunny soft beams in spring
at a small retired house
人間が死にようにもいろいろある。西行とか蕪村は春の詩人だった。花の下にて春死なむ・・・というとき本当に春に往生した、春の光につつまれるようにして昇天した。これはいい死にかただった。だんだん老いてくると春というのは全然違ったように思えてくるのだ。春の日をあびることが非常に幸せを感じる。老年に平安があり平和なる春の光につつまれる人は幸いである。自然を感じることが青年とか壮年とか初老と中老とか大老とかでは違う。青年が感じる世の中と自然は老年が感じる世の中や自然と全然違う。芸術作品とかを見るにしても同じ小説を読んでも今は全く別なように感じるのだ。死が遠い先であったのが現実になるとか全然違ったものになる。浮世絵なんかちょっと見ただけでほとんどこの年まで見ることもなかった。今は穴をあくほどみている。江戸時代の不思議さである。
2月23日
媼嫗(おうな)二人 昔を語る 日永かな
京暮らし インタ-ネットに 覗くかな
90と80とかこのくらいの年の老人は今では普通である。今は最高の長寿のときである。前にも書いたがこの長寿は今の時代を現してをりふりかえればああ、このとき平和だったとなつかしむかもしれない、江戸時代がそうであったように戦国時代ばかり面白がる、戦争ばかりが人の世ではない、平和が常なるものの歴史である。戦争と革命は異常なときでありそんなものはめったにあるべきでなかったのだ。平和のときこそ偲ぶべきなのである。それが江戸時代にあった。時間ものんびりしていたし人と人のふれあいもあったし今やスロ-ライフのお手本が江戸時代なのである。しかしなぜ今の時代平和なのに戦争もないのに殺伐と感じるのか、これも不思議である。ただニュ-スなどで過剰に殺伐とさせているのか、これは時代をふりかえればそれなりに平和だったとなるのか、それにしても余りにも戦争はないのだが現代は江戸時代より殺伐としていないか?
インタ-ネットは何がでてくるかわからないのだ。これがいいとか誰も示してくれないのだ。普通なら本だったら永遠にでないものがが庶民の芸術がででいる。これも三流五流となるがそれなりに面白いものもある。その地域には地域の文化が必ずありそれが反映されるのだ。京都に住んでいれば必ず京都を反映されるはずだがそうしたものがなかなか見つからない、私はかなり見ているから見つかるはずなのだが見つからないのだ。インタ-ネットはそれだけつまらないものが多いといえる。
このホ-ムペ-ジに丁稚羊羹とあった。これは近江が発祥の地らしい、近江商人は有名でありそれで生まれたのかよくわからないらしい。いかにも関西らしい菓子である。足軽饅頭というのが白石にあった。こうした歴史的なものはかなり京都にはある。ちょっと旅したくらいではわからないのだ。だから今やパ-チャルトリップに明け暮れている。由来がわかるから面白いのだ。
江戸時代、城下町として栄えた明石。文太夫は参勤交代で江戸から戻った知人にうまい和菓子の話を聞き、それをもとに独自の菓子を作っていた。そんな文太夫は羊羹を初めて食べたとき、「こういううまいものを丁稚(少年店員)にも食べさせたい」と思ったという
これが起こりなのかよくわからない、江戸のものが明石の方に伝わるというのも不思議である。江戸時代は旅が盛んになり農民もかなり旅をしていた。それはいい種を見つけるためとか物見遊山の旅だけではない、実際の生活に根づいて見聞と実際に生活に役立つものを求めての旅でもあったのだ。江戸時代はいろんな点で本当に興味が尽きないし日本人の生活の基本は江戸時代に築かれたというのは本当である。
京の春の一日を・・・
古い長き土塀の家
京のいづこや
そぞろ歩みて
春の日影の
ゆるやかに
影を映して
うつるかな
京の春の日永よ
蕪村の墓にもたずねむや
安らかに眠る人こそよし
平和の日こそよし
その昔を思うかな
春の日永に・・・・・
Poem(日曜詩人)
http://homepage1.nifty.com/uesugisei/index.html
2月22日
三日ほど咲き開きたる福寿草光満ちゆき今日の暮れにき
福寿草に三日ほど咲き満つ光
福寿草が開いて三日ほどたった。この三日ほど暑いくらいになった。それでまばゆいほどに福寿草が光を一杯に受けて開いた。ここで光みちゆくとしたのは三日の時の経過を示したのだ。
三日して光はこの花に満ちた。花は光を感じた。三日でかなり光を感じた。短歌の方が長いから説明はできる。俳句は説明しないと短いからわからない、俳句だけで独立して存在するのがむずかしいから俳句日記としての表現が向いているのだ。近代詩は情景を歌うより内面的になる。だからむずかしくなるし説明も必要になるのだ。
江戸時代辺りだとその情景そのものが詩となり絵となっている。だから素直にその情景を絵になり俳句なりにできたのだ。広重の浮世絵は別に彼が想像して作った絵でないのだ。そのまま写しとったのである。これは実際今になると驚きである。あんな光景があったこと自体信じられないほど変わってしまったからだ。あまり注意して見なかったが今浮世絵何度も見ている、すると心がいやされる、なごみがある。美には心をいやす働きがあるのだ。音楽にもあった。河というのは全く人間の手の入らない自然の川なのだ。岸辺が蛇行して草が生えている、そこをゆっくりと棹さして舟がゆく、これを見ているだけで気持ちが穏やかになりいやされるのである。そういう自然があったこと自体江戸時代は美しかったのだ。江戸という町自体美しいものだったのだ。その当時の人はそれを当たり前と見ていたがそれは今や全く面影もないのだ。絵のなかでしか見ることもできないという不幸がある。浮世絵には今の絵とは違いそこに人間が生きていて和みを与える絵である。今では絶対にこうした人間と自然が調和した絵は描けないのだ。山や川は確かに今でもあり描けるが人間は描けないのだ。自然と人間の調和、そこに二重の貴重なものが浮世絵にしか残されていないということであり現代の都会はこうした風景を失い全くなごみとかがない、いろいろあるにしても心はあの風景のなかで豊かであった。自然にいやされるものが江戸にすらあったのだ。今はただどぎついものが節制もなくあふれ人工物のなかで醜くなっているだけである。
2月21日
近くへと通う草枯れの細き道春日のさして今日我が歩む
この道は舗装されてないなかった。舗装された道は新しい、古くからあった道ではない、しかしこの道の上は新国道でガ-ガ-が車がひっきりなし通っている。道は今やすべて遠くへ遠くへと通じている。心も遠くへ遠くへと向いている。それは汽車でも自動車でも飛行機でも遠くに行くのが容易だからである。本来道は近くを結ぶのが近くを結ぶために最初はできた。今やそういう近くへ行く道は忘れられている。皮肉なことに隣が今や一番遠いのかもしれない、近くより心は遠くに向かっているしその遠くへ行くことは簡単に実現するから遠くへ向かうのである。道はやはり近くを結びそして遠くを結ぶのが普通である。そうした道こそ原点の道である。道はだから歩くべきものである。歩いてこそその道を知ることができる。わざわざ我が歩むとしなければならないほど今や歩くことがないのだ。自動車で出かけるから近くの道でも歩くことがないのである。
2月20日
故郷の小さき棚田や知らざりき今日見つけたり春の夕暮
春の星空に満ちゆく二町村
春の星空にみちゆく大和かな
ちょっとした小さな山の段々の田を見つけた。棚田とまではいかないがこうした小さな空間を見つけては田にしていったのが日本である。隠し田というのがあるがここでは隠町(かくれまち)となっている。これが隠し田なのかどの辺なのか今みたかぎりではこの辺では山奥でないから隠せるような田があったのかどうか疑問である。でもこの税金逃れの隠し田が各地にあった。これが見つかると厳罰に処される。死刑になることもあった。それほどの危険を犯して作ったのかどうかその辺の事情がわからないのだ。故郷は隅から隅まで見ていたと思うが発見されないものはあるかもしれない、それには自転車でゆくか歩くかしないとわからない、新国道ぞいに草枯れた道がありそれが昔の道だった。舗装された道は昔の道ではない、あれは本当に古い道だったのだろう。そういうこともなかなか気づかないのだ。
今日は風もないあたたかい、本当に春であった。自転車で二町村くらいの範囲を夜まで走った。気持ちよかった。風があると自転車はすすめない。そらみつ大和との国は・・・となる空に満つるのは星しかない、星のことを言ったのだ。最初に渡来した人々が交野の物部氏などでありその人たちが北斗七星を信仰する妙見信仰をもってきた。それでそらみつ大和・・・星を歌ったのである。ただ万葉集は謎が多くてはわかりにくいのだ。星が空に満ちひろがってゆくようにだんだん行動範囲もひろげてゆこう。電車で行けるのだがどうも電車は自然を飛ばしてしまうのだ。だから汽車の旅は何かつまらないと感じるようになった。どこか一カ所にいて散策するとかえってその土地のことがわかる、転々と移ってゆく旅は今は印象に残らないのだ。ともかく明日は17度にもなるというから本当に春である。
2月19日
春なれや 誰か呼ぶなれ 一茶室
Spring come
Who is invited at there?
a kind of japanese tea room
江戸時代のことをホ-ムペ-ジで調べていて武家屋敷の門を紹介する所でこの茶室がでてきた。面白い茶室である。二階が茶室になっているのはめずらしい。武家屋敷は江戸にはいくらでもあったのだがどこに残っているかわからない、門だけ残っていたのがあった。江戸のことを偲ぶのは東京に行ったって皆目わからない、その場に行ったってわからない、自動車洪水とビルの狭間に埋もれ昔を偲ぶものは何もない、この武家屋敷の門でわずかに偲ぶことができる。防火壁という建て方もあり火事に備えていたことでやはり当時火事が心配だったことがわかる。
そもそも江戸の家財道具はタンスでも折り畳み式だし畳みも本来ござのように折り畳むものだった。火事が多いからそうなった。火事が日常茶飯事にあった。江戸時代の最大の災難だった。では今が災難がないかというと交通事故がそれに代わっている。災難はいつの世にもある。
こんなに科学が発達したのに交通事故の災難は火事と同じように大きいし避けられないのだ。
人間の世から災難は消えることはない、火宅の世であることには変わりないのだ。
-参考--
淀藩稲葉家下屋敷茶室
横浜市中区本牧三之谷、三渓園
淀藩稲葉家下屋敷茶室
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/shiro/inaba.htm
2月18日
春の日や蕪村の句集一日手に
蕪村の句はかなり深読みしないとわからない、また時代背景も知らないと鑑賞できない
当時の生活をうたっているから貴重である。江戸時代の俳句は江戸時代でしかできないから貴重なのである。時代的特質がそこにあり時代が残したからである。それは二度とかえってこない世界なのだ。確かにその空間は同じように一部残されているがその生活は失われた。過去は今や各自の想像の世界にしかありえないのだ。まあ、春の詩人であったことは確かである。
2月17日
何かあれ今日も愛でけり福寿草
古き碑の残りて昔の道示す北風うなり山里暮れぬ
人は何か特別なことを求める。しかし特別なことは人生にはそんなにない、特別なことが生じるときは今回のイラクへの自衛隊の派遣のように悪いことの兆しの方が多い。庭に咲いた福寿草を愛でるような日々はいいときである。江戸時代は平和なときだったから花作りとか盆栽とか趣味の芸術が花ひらいた。革命、革命なんか騒ぐときもいいときではない、それは世の中が乱れるからそうなる。江戸時代がいいのはそうした騒乱がなかったからである。もちろん過去とは美化されやすい、なぜなら過去とはその人によってかってに作られる世界なのだ。過去とはそういう点で便利なのだ。悪い点があったとしてもいい点だけを見ることもできる。その現実に生きていないのだから空想化バ-チャル化するのである。また一面バ-チャル化しないと過去は見えない、東京でも大坂でももはやそこに過去を偲ぶことなどできないのだ。過去の景色も何も消されてしまったからだ。だからバ-チャルに想像しない限り過去は浮かんでこないのだ。
もう一つの歌はかたくなに残って並んでいた古い碑があった。そこは昔の道に並んでいた。それは忘れられた道となった。碑というのは昔あったところにあると意味がある。それは歴史を示しているからだ。しかし碑は今は新しい道にまとめて並べられたりしているからわからない、そうすると歴史の道は消えて昔を偲ぶことができないのだ。博物館に納めたりするとそれも歴史をわからなくする。保存には良くても生活があった生きた場所にあるのがいいのである。
2月15日
幽けきや窓に写れる枯木かな
一瞬窓に写っている老木の枯木を感じた。その存在は余りにも微かだった。あたかも一瞬幽霊のように思えた。人間も90才くらいになると存在そのものがかそかになる。もはや存在しているのかいないのかわからないくらいになる。それでも一本なお残っている枯木だった。ちょっと不気味でもあった。90才くらいになると人間生きていることが不気味に感じることがある。
こんなにまで人間生きるのかという不思議である。でも90まで生きるのは今やめずらしくない。もし自分が90まで生きたらどうなるのか、どんな俳句をその時作るのか、俳句などはかえって年を重ねれば重ねるほど枯れた句ができたりいいものができるかもしれない、わび、さびの世界だから年と関係ないのである。若いときはいいものはかえってできない、やはり東洋的なもだからそうなるのかもしれない、老境というのは自然と調和する共感する境地でもある。青年は内面化が苦手だからいい句ができないのだ。
2月13日
飯館の山陰の道残る雪行く人まれに今日も暮れにき
老の待つバス停一つ冬の暮
鹿島から飯館に行く道は三つある。一つは川俣への幹線道路でありバスも通っている。
もう一つは塩の道だった上萱に行く道だがこれは林道をつないだ道で新しい。しかし塩の道のル-トは一番古いのだ。次に大倉から行く道である。この道も通る人が少ないが上萱に行く道よりは通る。昔の生活は人の交わる点でも歩きだったらそんなに頻繁な行き来はないのだ。よその部落の人の交わりも悠長なものになる。部落はそれぞれの場で濃密な人間関係の中で暮らしていたから村八分の制裁は厳しいものとなった。今は距離はあまり関係ないのだ。車で行ける、日帰りできるような距離が生活圏とすると相馬郡から川俣とか生活圏が田舎でも広いから合併しても別に事務手続きなどでも困らないのだ。
ただ私の場合自動車がないからたまにしか行けないからこういう歌ができるのである。そういう道の方が自然につつまれているから気持ちいいのである。他の山でもこうして辺鄙な所に長い冬閉ざされてくらしていた人々がいた。それは今と全く違った感覚でくらしていた。テレビもない、新聞もない、電話もない、そういう中での暮らしはどんなものだったのか、白川郷ではドブロク飲んで紛らわしたとかかなりの閉塞感があったことは確かである。
バスは老人のために役立っているのか、たまに私の母も利用するが最近また筋を悪くして寝て医者にはタクシ-で行った。バスは便が少ないから役に立たないのだ。
2月11日
春めきて坂越え来たる久々に鹿狼山を我が望むかな
街道や枯木が下に地蔵かな
相馬までは原町の倍あるから自転車ではあまり行けない、何カ月ぶりかで行った。
がろう山は新地にあるが目印しなる山である。でも阿武隈山脈は際立って高い山がないのでつまらない、アクセントがないのだ。やはり高い山を望むと気持ちいいししまりがでてくる。
その点毎日富士山とか高い山を望んで暮らしている人がうらやましい。都会に住んでいる人をうらやましく思わない、いつもそうした自然に接して暮らしている人がうらやましい。
浜街道の「石積み地蔵」とはなんの謂われかわからない、街道だからこうした地蔵やら昔のものが残されている。でも地蔵というのも今では祈るとかはなくなっているだろう。昔は地蔵にも祈っていた。地蔵は身近なものとしてあった。地蔵にはいろいろある、油地蔵というのもあった。大坂近辺で菜種から油をとっていたからその関係で油地蔵があったのだ。近畿辺りにはそうした古い謂われあるものが多い。池にしても古代からあるから古いのだ。東北では古代からあるものは古墳くらいで少ないのだ。歴史の厚みが違うのだ。ただ大坂とか行っても淀川について書いたがそうした昔のことがちょっと旅したくらいでわからない、ビルと自動車洪水の中でそうしたものがわからなくなっている。だからバ-チャルトリップが面白いのだ。場所の写真がでていて説明があり漢詩とか短歌がでていたりその場所の歴史を多角的に見れるからだ。
そもそも歴史はこうした説明がない限りわからない、地蔵の謂われなんか旅したらわからない、インタ-ネットの方が説明がでているからわかるのだ。油は貴重であり地蔵に油をかけて繁栄を願ったのである。地蔵には塩に関するものとか何か生活に直接結びついたのが多いみたいだ。油とか塩とか日常生活にかかせないものだから地蔵と結びついた。地蔵は道の辻とか最も親しい日常の生活の場にあったからだ。
2月10日
晩年や 冬の燈静か 家二軒
人生が長くなっているから晩年も実際はかなり遅くなる。50以上なると晩年なんだろう。いろいろふりかえることが多くなる。晩年のショックは人生はやり直すことはもはやできないことである。後悔することはできてもやりなおすことはできない人生の厳粛さである。それがわかるのは晩年であり青春はたちまちすぎてしまうかということなのだ。何度もいうように青春時代のかえがたい大事さはここにあるのだ。青春は二度とないしかえってこないのだ。青春に志し青春に求道し青春に行動し青春に苦しまないものは何も得られないし何も後年実らないということなのだ。青春が大事なのはこのことなのだ。そして青春は浪費しやすいのだ。浪費が人生だというくらい人生で一番浪費されるのが時間である。くだらない本を読み快楽に浸り映画をみているだけでもあっというまに時間は過ぎてしまう。仕事していない自分さえそうだとしたら他の人は結婚して仕事に追われあっというまに晩年になっている。知的な成果もほとんど示さず終わってしまう。それほど実りを残せないのが人間なのだ。
そして残されたことは何か、ただこの世から消えてゆくだけだという現実である。本当にこの世から消えてゆくだけだということが意外なほど現実になる。死というものを頭では知っている。青春時代なら自分が年取るとか死が来るとかこの世から去るだけだと頭では知っても現実として実感できない、しかし晩年になればもうそれが現実でありこの世とは去るべき所でいつまでもいる所ではないとどんな人でもそれが現実になるのだ。これは実際は不思議な感覚である。なんだこの世は去るだけの所だったのかとなるととてつもないものと思えたこの世が極端に縮小して見える。実際私も東京に行けば何かとてつもないものが待っているとか、何か大きなものが開けてくるとか幻想で一杯だったにすぎない、結局大都会自体幻想だった。故郷に帰ってみれば今ただ静かな冬の燈が灯っている。それも二軒だけである。その二軒は変わらず存在している。あとはみな消えてしまった。私が経験したことは夢であり幻想であったのだ。今静かに灯っている故郷の二軒の家の冬の燈が心にしみるのだ。
2月8日
日々通る 倉庫の古りて 冬芒
毎日買い物に行くときこの農協の米を置く倉庫を通る。これは別になんでもない、目にとめない風景である。どこにでもある風景である。倉庫なんかどこにでもある。だからここが俳句になる、詩になる場面ではない、ところがこうした何気ないものでも、日常生活のなかに詩はある。絵もある。物語もある。特別なところ、観光地の神社仏閣や城だけに詩や絵があるわけではない、つまらない平凡ななかにも詩は語るべきものはあるのだ。これは倉庫だけではない、人間だってそうである。平凡な人間も詩でありまた語るべきものがあり絵にもなる。普通の人間は倉庫のような存在なのだ。目立たないのだが日常の中で欠かせないものである。だから目立たないのだが気づかないのだがその意味を知りその存在感に気づくのが遅いのだ。
ここで枯芒ではなく冬芒としたのが良かった。この季語も一つの発見である。枯芒→冬芒と変わってゆく、冬芒はさらに寂寥感が強くなるのだ。自分でもこれは発見だった。この何もない冬芒が一つの俳句となり詩となる。美というか自然のなかにある深いものは実際見えないことが多いのだ。見る目に欠けているから見えないのだ。これを見させるのが芸術家である。こんなふうに自然を見ていたのかと絵を見て気づくことがよくあるからだ。写真にもある。こんなふうに写真もとれるのかと感心することがある。だから写真も芸術なのである。芸術は芸術家だけにあるのではなく誰にでもあるのだが芸術家が何気なく見ていたものに美なり意味を発見しただけなのである。
2月6日
冬の山さらに風吹き鎮まりぬ流れも澄みつ乱れざるかも
The firm settled mountain in winter
The still silenced one which winds are blowing at
自然は乱れない、人間は混乱(バビロン)である。自然は調和である。
文明は乱れである。文明により精神の安定は得られない、常に混乱でありそれは治まることはない、それがこの世だ。
2月5日
春はまだ山は遠きも雪に風今日もこもりて町をい出ざり
山の方も晴れたと思いしばらくぶりで自転車で行こうと思ったら風は冷たく山は雪で少し白くなっていた。まだ寒くて行けない、自転車だと冬は遠くには行けない、12、3キロでも遠くなるのだ。これが歩いたらもっと遠いしあとの絶えなむとかになるのだ。歩く距離感覚からすると近くの山すら遠いから交流がなくなる。バスの便があればなんとか行けるとなるがたまにしか通らないからほとんどバスの便はないから自動車がないと今の時代遠くに行くことはかなり不便だ。私は町に住んでいるから買い物などに困らないが山の方だと生活もできなくなる。
こんな状態だから例えば京都から離れた大原などは今では自動車で近いと思うが相当隔絶した遠いものになってしまったのだ。だからそこで後白河天皇と会ったのも一回限りであり会えないのである。だからもしこうした交通の便ないとしたら山と町に別れて住んだものは春には会えてそのうれしさは何十倍にもなる。不便だからこそ会うという喜びが生まれるのである。江戸時代あたりは遠くの人とは一回くらい会ったらあとは会えないのである。今生の見納めのように会えないということがわからなくなっているのだ。
歩く距離の感覚で昔を考えないとわからない、仙台は電車で一時間くらいだとなるが昔はこれも歩いたら80キロだから大変な遠さなのだ。往復四日くらいかかるかもしれない、だから仙台すらめったに行けないところであった。その距離の感覚がかけていることが昔のことを実感できないものとしたのだ。
2月4日
石鰈は冬にうましも南より鯛のうましも春めきにけり
石鰈なじみの人よりまた買いぬ
ここでとれる石鰈は年の暮に食うものである。冬には身がしまってうまい。石鰈は冬の季語になる。これは高いのだが買っている。家族の同級生とかがくるので同じ人から買っている。あまりこれは高いので買う人は限られている。東京に売ると高いからだ。魚は北のものがうまい、南のものは鯛はうまいが北の方がうまい、北と南は食うものも違うし食生活も違っていた。南は弥生人であり北は縄文人である
二つが混じり合って日本ができたのだ。
食は文化であり生活そのものである。食がわからないと文化もわからない、面白かったのは江戸では白米であり地方では玄米を食っていた。子供の頃は麦ご飯であり昔は麦飯というものも食っていたらしい。純粋の白米を田舎では食っていなかった。
白米だけを食ってカッケになった。これはかなり深刻な国民病とされた。死んだ人もかなりいるし将軍もこれで死んだ。「玄米四合と味噌と少しの野菜」これが日本人の基本的な食だった。それに一品の魚が食えればいい方だとなる。
2月3日
乱されじ白鳥三羽移る池
啄木鳥のたたける音や雪の森
three swans are floating
on a pond in secret
with no disturbance
白鳥が川に来ているがここで餌やるので鴨とか鴎まで群れて騒々しい。近くの国道もうるさい。でもそこはひっそりとした池でありそこに三羽移動していた。そこでは人にも車にも鴨にも乱されない、三羽がひっそりと隠れるように泳いでいた。林には風がなり気持ちいい。こういう場所が実際は自然のものにはふさわしいのだ。
啄木鳥の句は思い出して作った。北の雪の森でそこに聞こえたのはひたすら木を打ちつけて餌を探すコアカゲラだった。森閑とした雪の森に聞こえるのはそのコアカゲラの木をたたく音だけだった。それだけがひびくだけであとは雪に閉ざされている森だった。どうしても現代は騒音社会だから音に鈍感になっている。日本人の繊細な感情が失われている。そういう環境が常に自動車とかその他騒音によって乱される。湖をモ-タ-バイクがものすごい音で突っ走る。静かな湖もそれでだいなしになる。なぜあのようなものが放置されているのか、全くわからない。なぜこんなに日本人が音に鈍感になっているのかわからない、その感覚は麻痺している。自然は静寂の中で生きる。騒音の中で自然は死ぬ。文明はこのことでも異常だ。その点エジプトでも古代でも中世でも沈黙社会だからそこは気持ちいい心静まる世界だった。江戸時代になぜひかれるようになったか、私の求める静寂とか今にないものがある世界だったからだ。江戸時代のいい点は平和が300年つづいたことなのだ。その前は戦国時代だし戦乱がつづいていたのだ。世界でも戦争のない時代がなかった。ヨ-ロッパでは平和とは戦争のない休止状態が平和という意味だというからいかに戦争がたえまなくあった世界かわかる。日本の江戸時代はこうした点からみると奇跡的でもあった。いろいろ負の部分があっても平和だったということが尊いのだ。一方明治維新以降は三回も大きな戦争があり世界的戦争の時代だった。それで戦争をふりかえることがいやになる。そこはいまわしいおぞましいものとなるのだ。語りたくないもの、避けたくなる所である。明治時代すら革命とはいえ血が流されたからいやなものがあった。新撰組なんかも好きではない、言ってみれば幕府の用心棒のようなところがあり血なまぐさいのである。それに比べ江戸時代は平凡ではあるがそこになんともいえぬ平和の日々があったし平和の時が流れていた。時の感覚もまるで違っていた。静寂のなかの平和が300年もつづいたのである。蕪村の句などもその象徴であろう。
2月2日
みちのくに鯛に伊予柑春めきぬ
昨日は熊本産の鯛を食った。一年に一回くらいス-パ-にでる。やはり鯛はうまい。私は肉を食わないので魚だけだからやはりその中で鯛は一番うまい。瀬戸内海では今桜鯛というのがとれるらしい。季語にもなっている。伊予柑(イヨウカン)は今が季節だ。柑橘類は橘であるがこれは茨城県の筑波山にまであった。万葉集に残っているからだ。群馬県などにも早くから入ってきたらしい。そうした言い伝えがある。茨城県までは早くから古代にも開けた国である。茨城県は平野が多く関東の延長だからである。
4371: 橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも
ともかく春は今は食べ物からやってくる。春というとやはり瀬戸内海辺りの春は一段と春らしくなる。日本では西が奈良、大阪、京都が栄えた所だからだ。瀬戸内海はやはり春の海としていち早く春を感じる場所である。
現代の幸福はあらゆるものが世界から入り食えることである。江戸時代は初かつおが一両くらいしたがこれはぜひ食いたいものだったらしい。それほど旬のものは日本では人気があったのだ。ただ一般の暮らしは味噌が貴重なおかずの役割を果たしていた。仙台味噌などは人気あったらしい。
四五日は生みそで喰ふ新世帯
みそが主なおかずであり酒の肴も味噌を焼いて親父がちびりちびり酒を飲んでいた。酒もバラ売りであり樽から枡に出してその日その日飲んでいた。子供のときこうして近くの酒屋に酒を買わされに行った。江戸っ子の暮らしもその日暮らしでありその日に使うものを米でも何でも買ったのだ。あまり買いだめすることはなかった。
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
この宮沢賢治の詩の玄米四合というのは米は玄米だったこと、それから一人分食うのが一日五合くらいだった。ここに味噌がでてくるのが戦前までも味噌が貴重な栄養源であり食料そのものだったのである。
合掌作りの白川郷で朴葉味噌焼きというのをおかずにだしていた。
白川郷朴葉味噌や秋深む
江戸時代は果物はほとんど食っていないだろう。そういう資料がない、みかんは庶民がそんなに食っていたとも思えない、食い物に関しては江戸時代と今では相当な差がある。現代ほどあらゆるものを食っている時代はないのだ。
いづれにしろ春の便りは食い物によってまずみちのくにも北の国にもくる。それが鯛と伊予柑であった。
2月1日
人訪わぬ門や寒月の光かな
池一つ溶けぬ氷に木々の影重なりあいて今日も暮れにき
今日は春めいた日差しになった。でも今年は寒いのだろうか、凍った池の氷が溶けていない
この頃結構寒さがつづいた。余りこの辺は寒くないし凍るということが少ない、今日別な堤の池を見たら凍っていて日がさし木々の影がさしていた。あとでデジカメで撮りにいこう。
私の家は数十年店をやっていたから夕飯でも人がきて母は満足に飯すら食えなかった。絶えず立って店にでていたからだ。その頃忙しかったのだ。だから実際は店が玄関であり門もなかった。今も門はないが玄関はある。今は人が来ない方がいい、寒の月の光が煌々と照らしている。隠者の門は鎖され滅多に人は来ないのである。俗世を離れた所、冴えた月の光のみが冷たく照らしている。