今日の一句一歌

2002−11月

2003 新年の部へ

カレンダ−式で今日の一句一歌アップしてきたがめんどうになったので一ペ−ジに連続して書くことにした。とにかくホームページは毎日書くことなのだ。ライブなのである。写真が増えたら別ペ−ジにするほかない。


12月31日

壺一つ花を挿さずに年終わる

六号線の農家の店で買ったこの石の壺はいい。形がいいのだ。
なかなかこういう石はみつけられないだろう。石もかなり高価なものがありそんな石を探している人がいた。その人は何十万とかとんでもない高く売れるといっていたがその人間は実にあさましい顔していた。頭には金しかない人間である。そういう人がこんないい石を見つける眼があるとも思えない、金でも穴の中に入り探すのならいいが石も清らかな自然の産物だし特にどういう石がいいのかはむずかしい、その人の審美眼が働くからだ。石の素材だけでなくこれは形が問題になる。形を選ぶのがむずかしい。今の時代こういうものが価値あるように思える。大量生産ではない、この世に一つしかない石だからである。
とにかく今年も終わった。これには花を挿すこともなく終わってしまった。やり残すことはいろいろある。

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12月129日

五本松残る一本冬の暮

五本松にはもう一本しか松が残っていない。今は六号線を行くからほとんど行かない、あの松もいづれなくなるかもしれない、すると五本松という地名だけが残る。陸前浜街道もかなり松があった。植松とか高松とか五本松と連続して松の名がついているからだ。近くの池が日陰なので氷りついていた。

 五本松

五本松
その一本松の
残る街道すじ
あわれかな
堤の水は打ち氷りて
溶けず暮るるや
五本松
その一本松の
標とてなお残る
北風唸る
街道すじに
あわれかな
我はまたこの松に
寄りて去りにき
なおこの松の
ここにあれかし
我は見守りぬ




12月28日

故郷の誰が手入れすや冬菜畑

誰が畑や冬菜手入れし月いでぬ



誰かが手を入れて冬菜も育つ。今の時代野菜でも何でも生産者のことなど考えない。ス−バ−で買うから品物は生産者から切り離されて売られている。なんでも生産する人は見えてこない、食卓に並ぶものが外国産のものも多いとなるとさらに見えにくいのだ。しかし人が手を入れてこそ商品もありうるのだ。田舎だと田んぼや畑があるから誰かが働いている。そういう人を見ているから手入れする人を思うのである。この世にあふている商品もそれなりにいろいろな過程をへてきているのだがそれが見えないのである。人間の労働が見えず商品だけが切り離されて売られているのだ。



12月27日

北の果乙女の像に冬の月

釧路の幣舞橋に四人の乙女のブロンズ像がある。冬に北海道を旅してここによった。その時は暖冬だったのでそれほどの寒さではなかったが
阿寒湖辺りでは零下5度にもなって寒かった。北海道は冬の旅もいい。
しかし今年はかなり寒いことは確かである。インターネットですぐでてくる。


12月26日

梟の木彫り書斎に冬籠もる

これは北海道で買った。困るのはこうしたものに著作權があり出せないことなのだ。この写真を出さないと創作として余り意味がないのだ。訴えることがない。写真と一体化して一つの訴える創作物となる。しかしよくよく考えるとこの梟のお土産でも創作物であり著作權がある。誰かのアイディアと技術故に作られたからである。では誰に許可を得ればいいのかといったらわからないのである。作っている人であるがこれを販売している人にあるのだろう。いちいちそれを確かめることもめんどうなのだ。こうして著作權の制約をいたるところで受けると創作はかなり制限されるのだ。
ともかく著作権の問題はやっかいでありインターネットにとって大きな問題である。


12月25日

年の暮会津高田の納豆買う


会津高田の手作りの納豆を買う、納豆は安い、馬鹿安だ、三つで100円以下である。納豆だけが後進国並にやすい。貧乏人は納豆食いとなるか、福島県産であり会津産である。会津高田市には自転車で行き泊まったことがあった。一度行って泊まった所は親しみがでる。神社はイサスミ神社で由緒ある神社である。でも自分は納豆は食わない、べとべとしていやなのだ。いろいろ納豆があるがこれは納豆の粒が大きく量は多いのだがあまりうまくなかったということは残念である。。これは昔なら家でだけとか地元だけとかで売っていれば食っていれば問題なかった。しかし商品として売るとなると他にもいろいろあるので競争しないといけない、これでは売るにはむずかしいとなる。これが現代の経済の問題である。親しみがあって買ったものだがうまくなくてはどうにもならない。とにかく今年も暮れた。



12月24日


山の村猿の供養碑年暮れぬ

山の村に猿がでる。その猿が迷惑するので殺したのかそれとも
死んでいたのを供養したのかわからない、猿が最近頻繁にどこでも里にでてくる。餌が不足しているからかもしれぬ。
とにかく今年もいいろあって終わりである。猿もここで供養されて眠れば成仏するか、猿もまた村の暮らしとともにある。共存するのが好ましいのだ。野生との共存が必要なのだ。野生の存在があることは確かに自然がまだ生きている証拠でもあるからだ。


12月23日


隠町闇夜の道に冬の星

隠町とは何か、隠し田であり、隠田百姓村のことか、税金の逃れのためにこっそり作った田のこととある。このことについてはインターネットで伝説やらいろいろでていたのであとで書く、鹿島町に隠町というのが二つ地名としてある。ただそれが山の中の辺鄙な所でもないのだ。ただ昔からすると目立たない隠された地域だったのかもしれない、今とはかなり様子が違っていることを考えねばならぬ。この種の地名が全国的に多いことは単なる一地域ではなく全国規模での農民のしたたかな生き方があったのだろう。


12月21日


犬猫の墓の一つや年の暮

浜にあったこれは何の墓だろうか、子供が遊びに作ったものとは違う。しっかりと作ってあるからだ。埋めたとしたら犬か猫なのか、今ではペットの墓を作っている。ペットも人間より手厚く扱われる。なぜペットブ−ムかといペットを飼っていた人がペットには欲がないという。子供すら欲があり親にねだるのは金ばかりだとなるといやになるのかもしれない。老人になりそういうことがいやになりペットに愛情をそそぐことになった。これがなにのはかなのかどうしてここにあるのかわからない。ただ墓というのは誰かがお参りし供養しなければ墓の意味がないのだ。墓は死者との連続性を維持することだから歴史の維持なのである。墓にこだわるわけではないが言い伝えでも何かを後世に伝えたいということがみんなもっている。特に老人にはそのことがテ−マとさえなっている。この墓もなんらかの言い伝えが殘りそれが語り継がれれば誰かが供養して保存されるかもしれないがこれはいづれ消えてしまうだろう。
今年一年犬猫も死んだりいろいろあったのである。



12月18日


冬鴎今日も漁師は海にいず

ここの海でとれる石鰈(いしがれい)は高い。一匹千五百円とかする。ただ年を越す時はこの石鰈を食う、今が身がしまって一番うまいのだ。
なぜこう高くなるのかというと東京に売っているからである。鮮魚として売っているから高くなるのである。山村とか漁村で本当にそこだけで暮らしを建てている人は非常に少ない。専門の農家も少ない。山村で農家でも漁村でもそこに暮らしがない時、死んだものとなる。生計を立てることが第一であるが生計を立てるだけなら別に街にでてでもできる。農村とか漁村とか農村の価値はまた別な所にある。自然と密接に結びついて存在していることなのだ。そこに暮らしがない時何か欠けている。そこで生計が成り立っても何か欠けている。肝心なものが欠けている。
今の山村に活気がないのはやはり炭焼きとかの暮らしががなくなったことなのだ。街に勤めにでている山の生活はすでに山の生活ではない、町の生活になっているのである。まあこういうことを他者が生活がないものが言っても訴えることはない。ただ他者からみても農村や漁村や山村に暮らしがないことはその存在価値を失っている。

例えば農村、漁村、山村に電子の工場が暮らしになったらその存在価値は生計が成り立っても別なものになってしまう。他者からとやかく言うのはなんだが第一次産業の存在価値は工業とか商業とは違うものでありそれを失ったことは他者からみても大きな損失であった。第一次産業は自然と結びついた本然的存在だから基礎だから社会全体から見ると人間間生活の重要な部分が欠落した歪んだ社会になる。第一次産業の効用は資本主義的経済原則とは合わない、効率的とか合理的とか工業とか商業のもつ論理とは合わないものでありそれでは計れない存在価値があった。人間の本質的基本的生活が人間の生き物の存在としてあったものでありその存在価値は生産高とか商業的価値、市場の価値とは違ったそれ自体、生活自体が価値があった。交換価値ではない、使用価値である。商品としての価値ではなく使用価値である。交換され金にならないものでも金として高く売れなくてもそれ自体価値あるものがあるということなのだ。


12月17日


寒鳥に種を食われて嘆くかな

ヒヨドリが二羽いつも庭にきていた。こんな所に餌があるのかと思っていたが庭にまいた花の種がなくなってをり鳥が食べたらしい。雀はご飯を毎日おいているので雀が食べたとは思えない。餌がない時期だから土を掘り起こして食ったらしい。寒鳥は窮鳥でもあった。どうしようもない、北朝鮮も窮鳥なのだ。窮鳥はどうにもならない、多少の餌は与える他ないのだ。



12月15日


飯館に久しく行かじ峠越え残る家一軒冬の日暮れぬ

冬の日や山になお残る家二軒

大倉から峠を越えた所に二軒あったうち一軒の家が残っている。別な佐須の方に行く奥の道にも二軒残っている。地名に四家とか二つ谷(家)とか三家とか七軒とちめいがあるのはまさに地名のごとくそこにある家が目印となる。今でも残っているが仕事は町にでてしているのだろう。山では今は暮らしがたたないからだ。
寒いと自転車で行くのも億劫になる。飯館は高原だから氷点下16度になったとか山の家は一軒でも存在感がある。人間の存在感も山とか農家とかはある。自分の存在感を確かめつつ生きることができる。都会では存在感は希薄になり組織化、団体化でしかその存在感を示すことができない、現代の文明の問題は人間の存在感の喪失である。自分のの人間の存在感を示そうとすると上野霄里氏やニ−チェやキケル−ゴ−ルなど単独者となりこの世から除外されたものとなるのだ。だからしかし現代を代表しているのは単独者だった。現代文明は人間の存在感を失わせて病気にしてしまったのだ。だから現代人はすべてなんらかの病気なのである。ストレスをかかえ苦しんでいるのだ


12月14日


北国の樹にしみ入る寒さかな

「りんごの木が休眠するためには、寒さが必要です。木は、秋になっ
て葉っぱを落とすと、休眠に入り、なかなか目がさめません。
ふただび目をさますのは、平均気温が7度以下の日が、約50日ぐ
らいすぎた後になります。


樹が冬眠するというのも不思議である。木も花が咲かせたり実を実らせるには寒さが必要であると聞いたがリンゴの木の場合そうなのかもしれない。このところの寒さは今までにない寒さである。体が縛れる、しばれるという寒さを実感した。動けなくなるように寒いのだ。北国の木にこの寒さがしみ入っている。



12月13日


空家一軒残る山里冬の暮

大倉から飯館に行く山の入り口に残ったのは空き家となった一軒だった。二軒あったが一軒だけは残ったのである。その一軒は売りに出しているようだが交通が不便だから自動車ない人には棲めない、買い物が大変だからだ。いつの頃かあそこに住み始めたか知れないが不便な所に住んでいる人は開拓のために入った人などが多いから必ずしもその部落が古いとは限らない、共栄橋とあるから開拓に入ったのだろう。江戸時代からつづく部落ではない、上萱もそうだった。炭焼きなどのために山に棲むようになった。炭焼きは山の大きな産業だったのだ。それがなくなったことが山の過疎になったのである。空き家一軒殘り何をか昔を語りつづけている。上萱と家も墓すら移動してなくなってしまったからあそこになにか昔を語るものというと桜の樹一本くらいと桑畑とかそこが昔暮らした跡として残っている。4、5軒しかなかったのだからその跡はかすかになる。
冬の暮にははやすぎるが冬はあまり俳句もできにくい、題材がともしいからだ。


12月9日



枯菊を覆い隠しぬ今朝の雪

枯れた菊がいつまでも枯れたままにあるのは一面いいものではない、醜い老醜をさらす老人も同じである。しかし今朝の雪は結構降ってその枯れた菊、醜い姿を隠してしまった。夕方も雪がまた降ってきた。しんしんと雪がふってきた。


12月6日



北風の外に唸りて分厚き本書斎に籠もり読み返すかな


こんな本をなぜ買ったのかわからない、昭和44年に出たものであり古本屋で買ったものかもしれない、本のコレクタ−だから別に読まなくても集める習性があるのだ。本とういのは生涯で読める量は極めて限られている。理解力がないことも確かなのだが頭に残っているのは数冊になってしまうかもしれない、本はそれだけ読みこなすことが大変だといことである。この本は手にとってると貫祿がある。内容は英語交じりの詩の評論である。本というのは物だから所有したい持っているとなんか読まなくても豊かになった感じがするのだ。本を並べているだけの人も多い。積んどくが多いのだ。本は買っても理解することがむずかしいのである。本を集めたことで知識が増えたような錯覚におちいるのだ。本はとにかく物としてあるから所有欲とか財産の対象にもなる。手触りとか装丁も本が本として価値を持つものである。本にはそうした手応え、貫祿が感じられるのだ。手垢にまみれたこともなんらかの歳月の流れを感じさせたり物だから古くもなるのである。しかしデジタルの世界はそうでない、所有するとか物として持つという感覚がまるでないのだ。古くなることもないのだ。一冊としてこのように貫祿ある重みも感じられない、物としての存在が全くない世界だから知識を集めることはあるが所蔵するという感覚はまるでないのだ。ただ知識の交流はものすごく活発になる世界なのである。


12月5日


残菊を見ず走り去る車かな

残菊やロ−カル線の駅舎かな

自動車はポイントポイントでの観察に向いている。富士山を見るいいポイントに行くには自動車が最適である。でもその他は省かれて見ないのである。自動車は途中を省いてしまうのだ。自動車は便利でも自然には優しくない調和しない乗り物なのだ。機械は自然に調和しないものだがそれなりに自然と調和することを考えるべきなのだ。便利さだけを追求することは歪みをもたらすのだ。


12月4日

枯菊や今日もこの道通るかな

毎日通る道の菊も枯れた。住んでいる所では枯れこ菊も見えるし見ざるをえない、枯れた花や菊がいやだとはいえない、旅している時はどっちかというといいものだけをいい面だけを見て帰れるが住んでいるところではそうはいかないのだ。結婚するとアラがでてくるのと同じである。

12月2日

萩焼に菊を挿したる暇あり

みちのくに帰りてあわれ萩焼に残菊さして部屋におくかな


萩焼にいいものがあった。一つだけ買ってきた。これがず−と荷物なってしまった。一つばかり送ることもできなかったのだ。旅になると荷物が重いことは致命的である。ノ−トパソコンは結構重いので困った。
昔は遠くから買ったものは価値があった。何故なら運ぶこと自体大変だったからだ。なぜ有田焼きが伊万里焼きとされたのか生産地ではなく運び出された港の方が大事であり記録された。海を越えて運ばれるのだから貴重なものだったのだ。つまり運ばれる港の方が大事であり運ぶことが作るより大変な仕事になったのである。
12月1日

枯芒また来た道や日の没りぬ

また来たるこの道ひそか残る虫


何度も来る道も枯芒になっている。いつも行く道にも季節の変化がある。枯芒にも親しいものを感じるのである。人間も変化する。みんな誰でも年老いて枯芒になってしまうのだよ・・・・・

11月30日

墓守るひそかなるかな残る虫

墓守りも必要である。墓はやはり誰かが守り供養する必要があるのだ。墓守りは無駄なものではない。供養されない墓、捨てられた墓はなんらかの不幸を示している。墓を守ることも意義あることである。残る虫も必要なのだ。墓とはおそらく死者と生者をつなぐものであり先祖との連続性を維持する意味があるのかもしれない。歴史もこの連続性を維持するためにある。家の崩壊、核家族化はこの基礎である家の連続性をも喪失させる。この歴史の連続性を斷たれることは深刻なことなのだ。日本は二回もこの百年で歴史の連続性が斷たれたのだ。明治維新と大東亜戦争で日本独自の連続性が斷たれたのである。天皇が残っているのは日本の歴史の連続性を維持するものとして意味があったのだ。天皇がここまでつづいていることはやはり世界でも少ないからである。ヨ−ロッパは宗教でも社会でも歴史的連続性が維持されているから安定しているが日本はその歴史の連続性も斷たれ不安定であり混乱し衰退するというのも一理ある。キリスト教という大聖堂などもヨ−ロッパの社会を統一させ安定することに寄与している。社会には精神的シンボルが必要なのである。キリスト教というバックボ−ンがあって民主主義も機能するがそういう精神的バックボ−ンがないとき社会はただ数だけがすべての混乱状態になり社会そのものが維持できなくなる。日本は歴史の連続性が斷たれているからそうなりやすい。ファシズムとか無節制な大衆により社会そのものが踏みにじられ秩序を維持できなくなるのだ。

11月29日

残菊に夕日のさして道の隅

花の盛りあるが枯れてゆく花もある。見捨てられたように咲いている花である。人間華やかな時だけではない、枯れて醜くなってゆくのも人間である。明と暗がある。永遠に華やかなものはない、明だけに生きることもできない、それが生の真の姿でありそれもまた認めざるをえない。老年は誰にも訪れからだ。


11月28日

アルプスの雪の嶺迫る朝かな

朝寒し夜明けの富士や巨摩の村

忽然と夜明けの富士や朝寒し


これは

アルプスのはや雪厚く迫りつつ夜明けの富士や巨摩の村かな

というものを俳句にしてみた。この風景は思いがけない風景だった。富士が忽然と現れたのだ。富士山は汽車の旅だと同じ所からしかみていない。富士山はいろんなところから見えるのだ。これは自動車でいかないといい富士は見られない。そういうポイントに半年も写真をとるために寝泊まりしている人がいるとかテレビで映していた。巨摩の村は高麗(こま)であり帰化人が住んだという名も面白かった。高速バスは昼間は走れば景色が見れるから面白いしあきない、汽車とはかなり違った景色になるからだ。富士山の句は凄い数ある。
11月27日

また来たる寒さやここに六地蔵

六地蔵は昔の共同体のシンボルみたいなものだった。
村のは入り口とかにどこにでもある。地蔵のいい点はそれが庶民のもので権力などと関係しないものだからである。大きな集団とも関係しない、その土地と結びついたものや交通事故で死んだから地蔵を建てたとか個人的な供養のためにもある。そうした素朴な点がいいのである。大伽藍とか集団化し組織化した宗教はすでにその時点で素朴さなどない人間的なものもない圧力団体になっている。地蔵はある点で無力であるがなんか庶民的であり親しみやすい、権力的ではないことがいいのだ。野の花でも捧げるしかない、そうした無力さ素朴さがいいのである。無力な庶民が託したものがあるからだ。今は庶民も無力ではない、無力なものも集団化するとそれは権力化して他者を圧迫する。大衆社会は大衆がマスが集団が力を持つ時代だからだ。その善しあし別にして数が多いということが権力になり力になる時代なのだ。

11月26日

晩菊に風雨のありて光かな

晩年に平穏な日々がくるということはない、この世の中というのは絶えざる変化なのだ。身辺も変わるし自分も変わる。体が弱ったり病気になる。それも風雨なのだ。体が弱ることは辛いことなのだ。すでにそのことで変化に対応できなくなる。だからアフガニスタンのような所では子供と老人が死んでいった。人間死ぬまで平穏な日々などない。絶えず世の中が変化するからだ。大きな変化でなくても回りの環境が変わったり病気になったり身近なもが死んだりと変化に見舞われそれで憔悴したようになっている人がいるのだ。人間は死なない限り平穏はこない。必ず風雨がありそのあとに光がある。その繰り返しなのだ。

11月24日


短日や忘らる碑一つ何語る

今日発見した碑である。何の碑だろう。右烏(からす)左(右田)とかいてあり弥勒という文字なみたいだ。道標なのか、いつの時代のものなのかなぜここにあるのか、こうして故郷でも長く住んでいてもわからないことはまだまだあるしというよりはこうした過去のもの歴史は発見されないと存在しないものなのだ。そういうものはどこでもあるのである。歴史は現在生きている人が発見し意味を与えなければ存在しないのである。この碑は大正時代のもので新しいものだった。江戸時代のものは本当に少ないのだ。江戸時代のものは何でも貴重である。
11月23日


冬の日や土蔵二つに松の影

吸殻に人の匂いや枯芒


吸殻が枯芒の道に捨てられて残っていた。そこに強烈な人の匂いが残される。枯芒とは対照的な人の匂いである。人の匂い、生き物の匂いは地球上では消せない、砂漠の果てまで人の匂いは残される。
11月22日

晩菊を壺にさしたる暇あり


芸術と学問は暇がないとできない、スク−ルはスコ−レであり暇のことだった。花をさす余裕さえないのが現代である。そこで何か貴重なものを見落とすことになる。花というものを良く見るには時間的余裕が必要なのである。旅でもそうである。団体旅行などではじっくり観察もできないのである。だから記憶にも残らないのだ。文明は時間の余裕を作るはずなのだが時間に追われて生活しているのも皮肉である。石の壺はわが町の六号線の農家の店で売っていた。いい石である。他にもいい石の壺を買った。1500円したが高くはない。いい石はかなり高価なものになる。なぜ石にひかれるかと言うと石という素材はコンクリ−トとは違うからである。石という素材は加工はできても石そのものは作りだせないから価値がある。

11月19日

晩菊にはや午後となる光かな


11月17日

晩菊や一坂越えて帰るかな

晩菊や旧道帰り夕暮れぬ

愛犬と散歩や秋の夕日かな



晩菊が隣の市にも咲いている。一つの坂を自転車を引き帰ってくる。その時隣の市にもつくづく晩菊がやはり咲いている。秋の深まりを感じる。自動車でさっと行ってさっと帰ってきたらこうした物によせる心がなくなってしまう。坂を越える、歩くという行為のなかに物によせる心が生まれる。坂を越えたからこそ隣の市に来たという感覚が生まれる。自動車だとなんの苦労もないからそうした感覚も生まれないのだ。自然の事物との一体感もなくなってしまうのである。常に言っていることだが旅というのが無くなったのは旅が道中にあり道中を省いた旅は旅ではない、ただの移動になってしまうのである。

11月15日

弱りたるバッタ一つや里の道

晩菊や古町あわれ旅による

晩菊に今日一日の光かな

田舎では小さな命でも目にするからそこに愛情が生まれる。都会では身近な自然でも目配りができない。自然と共に生きるというものがなくなってしまう。巨大なビルとか自動車の洪水の中で小さな命が生きていることも気づかないのだ。古町とはどこにでもある地名である。前は新しい町だったのだが賑わった町だったのだが古町になった。山の中の町にもあるのだ。今では昔の通りはス−バ−やその他自動車社会になりほとんと古町になってしまったのだ。
古町温泉「赤岩荘」
【住所】 福島県南会津郡伊南村古町太子堂186-2
自転車で行った時この温泉に入った。村でも古町とある。必ずどこでも新旧の変化があるのだ。こんな山の中の村でもあったのだ。
11月11日

日あたりて晩菊静か片隅に

故郷にかすかに残る虫の声

病室の窓から月や見舞いかな