時事問題の深層24
(私的な日記です)
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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一



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創価学会員の控訴棄却判決 日蓮正宗本堂解体訴訟 12月10日

新撰組の価値観は何であったのか(「武士」にこだわった時代)12月13日

存続あやうい栗原電鉄(末枯の野を行く一両の電車)
12月17日

日露戦争からウクライナのこと12月19日

偉大なる個々の死を・・・・(上野霄里氏の文明批判の要点)12月20日

市町村合併の名前の混乱
(ひばりの市は反対で投票で相馬郡-原町市の合併の名前を決める)12月21日


再び青春18切符で雪の青森へ 12月25日

NHK不祥事から受信料不払いはなぜ12月26日

歴史の連続性-大町桂月の時代(日露戦争軍国訓を読んで)2月27日

失われた山の生活(秋田内陸縦貫鉄道の阿仁マタギ)2月29日



創価学会員の控訴棄却判決 日蓮正宗本堂解体訴訟


日蓮正宗総本山の大石寺(静岡県富士宮市)が、信徒の寄付金で建立した
 「正本堂」を解体したことをめぐり、寄付をした元信徒で創価学会の会員ら
 計324人が「精神的苦痛を受けた」として、大石寺と阿部日顕法主を相手に
 約2億6000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が8日、東京高裁で
 あった。宮崎公男裁判長は、請求を棄却した一審・静岡地裁判決を支持し、
 学会員側の控訴を棄却した。



学会は新興宗教ではなく、700年来の伝統を持つ、と言うのが売りだった。
だから、大石寺の権威が欲しかった。
発足以来、信徒団体であり、本尊は大石寺の板曼陀羅だった。
この大御本尊に帰依しないと幸福になれないと言う教義でずっと来たから、
学会は宗門から離れる事が出来なかった


昭和47年の正本堂完成時に池田氏は、「ローマの廃墟、アンコールワットの遺跡等は、いかに壮麗を誇るとも、2千年にしてくずれた姿なのである。世界平和の根本道場たる正本堂は、末法万年、いな、尽未来際まで不滅」と、正本堂は万年にわたって不滅であると豪語していた。


新幹線の新富士駅はなぁ、
大石寺と草加がくついていた頃に、大石寺に行くためだけに無理やり今
の位置に決められたんだぞ、在来線ともつながんないのに。おかげでも
のすごい不便で利用価値のない駅になっちゃってる。
当時、無理やり決めたヤシは責任とれよな。



学生時代このお山に7回も行ったんだから馬鹿げている。あえて自分の馬鹿をさらしているのは後世のためにと恥さらしてまで書いているのだ。誰かの参考になると思い書いている。老人には老人の勤めがある。それは過去を告白し懺悔することである。正直に告白すればそれが罪滅ぼしになるし償いになる。善行も何もできなくても自分の罪や過ちを告白してそれを後世の人に参考にさせるのである。インタ-ネットはこうした個々の告白とかに向いているのだ。だから個々の歴史の記録としてそれなりに意味あるものなのだ。(我々は自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう-哀歌3-40)戦争でもやたら植民地解放の正義の戦争だったとか美化するのは良くない、戦争の暗黒面を赤裸々に告白があれば納得するものがある。それが例え悪としても過ちとしても正直に語れば罪滅ぼしになるのだ。創価というのはこれから壮大な過ちとして糾弾されるときがくる。今は権力を持っているからそれも時の政権と一体となっているから誰も批判はしない、でも北朝鮮であれ太平洋戦争であれ文化大革命であれそうした過ちは必ずあとで総括され糾弾される。ソビエトのレ-ニンさえ糾弾されその像は倒された。

この壮大な過ちに導いたのは何なのか、それはいろいろな要因があり社会の側にもあり一概にはいえない、社会的に底辺層へそれなりのご利益を提供して社会的要求があってこれだけのものとなったともいえる。始めの内は小規模な時は都会の相互扶助団体としてそれほど害がなかった。池田大作は折伏の鬼だったとか伝説を作り上げているが彼は一人も折伏などしていないという説もある。むしろ戸田会長のもとで借金取りに奔走してしいたらしい、というのはその当時の写真がありそれを見たらヤクザのような人と一団になり映っていた。一番嫌なことをさせられたと本人が言っているのだから間違いない、苦労人であったことは確かなのだ。そうした下から這い上がろうとするために権力に執着するようになった。金で苦労した人は金の亡者になることがよくある。宗教はそうした欲から解放させるものだが宗教は逆に怨念の宗教ともなりうる。人はいろいろなことを祈る、その祈りも百人百様であり決して相手の幸福だけを祈るようなものではない、たいがい祈りはエゴになっているのだ。自分の欲望を達成させるための祈りでありだからこそ人がそこに集まるのだ。

それにしても創価は社会経済生活に相当な影響を与えた。汽車の駅まで創価の都合で決められたのだ。あのとき国鉄でも相当にもうかった。経済的効果が大きいからそうなった。数が多いし金で社会を動かせるからそうなる。それも鉄道史の一駒であった。本山と争ったときはバスの運転手が自殺までした。なぜこれほどまで憎み合うのか?これは学生運動の内ゲバともにている。セクト争いが激しくなり今でも殺人が起きている。どっちが正しいというよりどっちもどっちである。その醜い争いを見たら創価の人もうんざりするし嫌になるはずだがそれでもカルトから脱することができない、まともにやっていればこれっておかしいな、宗教なのかなと自然に疑問を感じてしまう、あまりにも宗教というイメ-ジからかけ離れているのが創価だからだ。私の場合はだみ声で幹部の集まりで「お前ら、ここで何で集まっているんだ、創価の目的はなんだ、権力奪取だぞ、これだけははっきりしておくぞ」ここまで言っていて何にも疑問に感じない幹部達とは何なのだろうと根本的に疑問に思った。幹部になれば権力奪取が至上命令として公然と豪語されるのだ。

学会も同様で、客席である末端組織はキレイだけど、学会中枢は汚い

末端はキレイというのではなく無知なのである。無知だからだまされるのだ。まただまされるのを良しとする人や積極的に学会の力を利用しようとする人も多いのだ。

しかし一方で御義口伝講義とかとんでもない分厚いむずかしい教義を学生部だけに池田大作が講義しているというのも奇妙である。そんな重い本を持ち歩き一方で毎日幽霊会員を回り一票を確保するためにただ費やされたのが自分だった。創価とはこうしたとんでもない支離滅裂な矛盾した宗教団体なのである。こんなものに洗脳される人々は何なのか、知性の一片もない人達なのかと思ってしまうしナチスも席巻したように人間なんかこんなものなかとも思う、ヒットラ-が同じことでも百回どなっていれば通じるようになるとか人間の理性にではなく愚かさ訴えて支配したように大衆を支配するためにはその方が効果的であることを証明したのだ。ただ宗教はこのように悪用するのに便利な道具でもあるのだ。やめれば罰あたるとか不幸になるとかそういうものが馬鹿にしても意外ときくのは人間の盲点をついているからである。文明という知性や理性をたよる大層なものも一皮むけばなんともその中味はロボットとして機能する自主性のない機械的回路になっている。文明とは人間の知能を尽くして作ったものでも信じられない愚かさに満ちたものだった。何が愚かで利口なのか全くわからないのがこの世である。

自分の目に自ら智恵ある者とする人を、あなたは見るか、彼よりかえって愚かな人に望みがある(箴言10-26-12)

人間は神の導きなくして智恵あるもの利口にはなれないのだ。なぜなら本当の智恵は神にあり人間にはないからだ。文明というのも結局人間の最高の愚かさを示すものだったということがそれを如実に示している。自ら智恵あるものとして作ったこの文明も結局混乱とカオスであり大殺戮となった。文明に神の智恵は宿らないのだ。本当の智恵は神より与えられる。自らを智恵あるものとした科学が迷妄に陥ってゆくのもそうだし文明社会も統制のない混乱とカオスに陥ってゆくのもそのためである。文明と結託した宗教もただ混乱とカオスのうちにバベルの塔のように崩壊する。何が賢いのか賢くないのか大局的にみるとわからない、最近の自然破壊も人間の智恵によって生み出された文明が神の智恵によってコントロ-ルされている世界を乱すからそうなる。

いづれにしろ板曼陀羅にしても正本堂にしても大がかりな装置が宗教には必要だしそうした大がかりな装置に人はだまされる。板曼陀羅なんかも何なのかわからなくても大きいからありがたみがあるご利益があると自然に思うのが人間なのである。現代の宗教は何かすべておかしい、歪んでいる。戒名で金をとっているの坊主もそうである。あれはそもそも仏教となんの関係もないものである。宗教の一つの効用は人を支配する道具になることである。これはカトリックの時代からそうである。カトリックで政治と一体化して強力な支配体制を作り上げた。俗世の中に深く入り込んで宗教と政治が一体化したからルタ-の宗教革命があったのだ。人間を支配するためにはどうしても権威が必要である。その権威が武力とか金とかだけではたりない、精神的権威がどうしても必要なのだ。だから神の権威を借りて権威を作ることになるのだ。宗教は今やこれで信者を獲得して政治勢力化して権力奪取を目指したり戒名商売と化したりとにかく宗教者は最も社会では無用な害となる存在になっている。魂の救済をすべきものが魂を一番ゆがめるものになっているから奇妙である。それも宗教のむずかしさはどうしても盲従する人達がいるからである。キリスト教であれ仏教であれ信仰的に独立することがむずかしいからカルトから脱することがむずかしいから以前として勢力を保っている。

ただインタ-ネット時代になったら個々の体験を書く人がふえてきた。創価をやめた人の発言には感心する。若者が堂々と御本尊を焼くのを写真で見せたりやめた人の方になんか偉いものを感じる。こいつやるなと感心するのだ。宗教は他人に頼るとだめである。これはいつまでたっても集団からぬけられないし自立できない、自ら御本尊焼くなり偶像に頼らない強い意志が必要でありそれは他人ではできない、自ら決意して行動するとき道が開けるからだ。その行動するのは本人であり他人はただその決意をうながすことができても実際行動するのは本人にしかできないし本人が勇気を出して行動してこそ意味があることなのだ。結局人生はみんな自己責任である。他人から棚からぼた餅のように幸運や祝福がやってくることはない、その人自ら勝ち取らねばならない、ヤコブは長子のエサウの祝福を欺き奪った。長子権は神の定めたものであり変えられない、しかしそれすら安泰ではなく油断していると奪われるのだ。神はそのヤコブをとがめず愛したのである。他人に頼るものは一生他人にたより集団に便り自らの人生をロボットと化して終わる。自らロボットであったことさえ知らずにあの世に行く人もいる。それも自己責任であり他人にはどうすることもできない、ただその責任はとらされる。真実は明らかにされる。今目覚めないものは来世でも目覚めない、闇の世界に落ちてゆくことは間違いない、死んで目覚めるということ神になるということなどありえないのだ。

創価駆け込み寺http://www.medianetjapan.com/10/meeting/soka/guid.htm

ここのホ-ムペ-ジは創価をやめる人にはかなり参考になる。仏教一人信仰を目指した人がいたという不思議である。つまり創価の中に真面目に宗教を求めていた人がいたのである。考えて見れば宗教団体だから宗教を求めるのは当然なわけだからそういう人がいるのは当たり前である。しかしそんな人には出会わなかった。すべて毎日が選挙のためであり政治活動がすべてなのが創価であった。だから創価をやめた人に感心する人がいる。それはインタ-ネットがでてきてそういう人達がいたことがわかったのである。普通こういう人達は発言すらできなかったのだ。だから「創価をやめた人」ということでインタ-ネットで企画すると面白いものができるし参考になるものができる。というのはすでに創価をやめた人が千万人いるとか最低でも百万人はいる。それほど出入りが多いということである。だからそれに関してもの話題も多いのだが表にはでなかったのである。赤裸々な体験談がインタ-ネットで語られるようになったのだ。ただやめるにしても別な宗教団体に入ると元のままである。この人はそうした他者にたよるのではない独立の信仰の方法をといている好感がもてるのだ。



新撰組の価値観は何であったのか(「武士」にこだわった時代)

新撰組とは何であったのか、ただのテロ集団だったとかいろいろ評価があるし私も実際調べてもいないからわからない、ただ農民出の人達であり「武士」になりたいという人達だった。でも不思議なのは武士になりたいというとき幕末の武士はそんなに魅力あるものだったのか、戦国時代なら武士になって戦場で活躍して城に仕えることができるということがある。実利的なものと武士という地位を得ることがある。明治維新でもそういう戦国時代とにていて混乱時代だから一方でそういう人達がでてくるのもわかる。普通だったら武士になるチャンスは生まれにくい、動乱になるとかえってチャンスがあるのだ。それにしても幕府にはもはや武士の気概あるものはなく新撰組がその武士の気概を受け継いだというのも解せないのである。ただ明治維新はフランス革命のような国民による革命ではなかった。下級武士中心の武士による武士の革命であり「武士」という世界からぬけだせない世界だったのである。「武士」というものが強固にありつづけた世界だった。だからその反動として一旦明治維新を成し遂げた最大の功労者の西郷隆盛が刀をとりあげるとか武士であることを拒否されたとき武士を残すための西南戦争を起こしたのである。明治維新はそもそも「武士」というものを無くすものとして起こされたものではない、倒幕が目的でも武士を無くすことになるとは思っていなかったのである。その中でなお「武士」というものに固執する農民上がりの新撰組ができたというのもおかしくないとなる。西南戦争で国民軍が勝ちそこではじめて武士階級はなくなったのである。それまでは「武士」というのは根強く残っていたしその後も「武士道」は残り武士道は内村鑑三とかその他、宗教にも新しく入ってきた思想にも接ぎ木された。

日露戦争では俘虜虐待といった事実はほとんどきかない、水師営における乃木大将とロシア軍ステッセル将軍の会見をみても、極めてなごやかである。「昨日の敵は今日の友」というごとく互いに刀剣と乗馬を贈りあい温かい握手をかわし労をねぎらった。

このことはまさしく武士道がまた生きていたしロシアでも貴族は武士のようなモラルがあったから通じるものがあったのだ。日露戦争までは戦争でも人間的なものがあった。その後は戦争というと殺戮だけの殺伐な世界となったのだ。明治が偉大というときそれは何が偉大なのかとなるとそこに「武士」とか「武士道」というのが本当に生きていたからではないか?武士というと武力だけの人かというと全然違う、一つの道を実践する人だったのである。「武士」というときだから「武士道」にこだわる。武士の道がありそれにはずれることは非難されるのだ。新撰組が単なるテロ集団でないとすると「武士」の道を全うしたからこそういえる。武士の美学に最後まで生きたからカッコいいとなる。この「武士」も大正から昭和になると消えたのである。太平洋戦争で刀をふりまわして侍だと言ってもそれは全然別なものなのだ。国民と国民の組織的大量殺戮の時代になったのである。だからそこには乃木大将のような人間的な物語はなくなっている。何百万という人間の死骸だけが積まれる科学兵器の大量殺戮の時代になったのである。組織力とか科学兵器の戦いが近代の戦争になった。イラクでもそうだがそこに人間的物語がない無惨に人が死んでゆくだけなのだ。

いづれにしろ今「武士道」がどうのこうのと言ったってそれ自体何なのかもわからなくなっているし太平洋戦争での武士道なども全然違ったものとなっていた。国民的組織的科学戦争に古色蒼然たる「武士道」など成り立たないのである。空からバタバタバタと爆撃されたりミサイルが飛んでくる世界ではそうした人間的なものが介入する余地がないのだ。最近アメリカでロボットが兵器としてイラクでも使うという、まさに今や人間の戦いではない、ロボット同士の戦いとなる。人間は人間ではなくロボットに殺される時代になる。実際この文明自体組織化ロボット化しているのだから戦争もそうなっておかしくない。「武士」がどうのこうのと映画化したりしているが現実にそうしたものが現代の文明社会に再現されることはない、文明自体そうした人間的なものを介入させる余地もないからだ。文明は巨大組織のなかでパ-ツとしてしか存在させられない、それは宗教でも会社でもそうである。組織的にしか人は存在しえない、その組織人間から脱しようとしたら上野霄里氏などのようにアウトサイダ-になるほかなくなっているのだ。個人として発言していると思っても出版などは組織がないと出版できないようになっている。出版という世界なども組織として組み立てられてた世界なのである。個人で出版するなど実際はできないから本当に個人で発言できるのかというのも疑問である。組織的な力をもたなければ発言できない、出版社も組織でありあらゆるものが組織を通じて行われるのが文明社会なのである。それで上野霄里氏が個人として発言したことは驚くべきことであり衝撃的なことになったのである。

新撰組も鉄の組織として苛烈な粛清をしたがなおそこに人間的なもの「武士道」追及するものがあったから評価されているのかもしれない、それは体制、反体制であっても当時「武士」ということの価値にこだわる点で共通な価値観をもっていたからできたことなのである。これを実践しようとした三島由紀夫もなんか歌舞伎役者のような時代かかった芝居染みたものになったのもやはり現代の時代からみるとあまりに突飛なものになった。あれが明治維新のころなら普通のこととして受け入れられたのである。今の時代に本当に幕末の侍が現れたら驚きのようにそれとにているのである。組織的に大勢でしか存在をアピ-ルできない時代、そうした個が突出することは異様なことになる。上野霄里氏の言うように現代文明は組織人間でなければ人間でないとなる、逆に組織人間はアウトサイダ-から見るとロボットであり人間でないと見えるのだ。このギャップは大きいのである。つまり武士というモラルを実践する人がいて組織があった。武士にあるまじき行為をするから組織的制裁があった。現代の組織は営利追及だけでモラルはない、会社でも団体でも組織の利益を追及するにはかえって個のモラルが否定されるまでになっているのだ。



存続あやうい栗原電鉄(末枯の野を行く一両の電車)



末枯れ栗原電鉄

青春18切符で石越まで行き栗原電鉄にのって日帰りだった。折り畳み自転車のトランジットにつけたライトが無くした。必ず何か最初にトラブルがある、何かを必ず無くすのが自分である。自分でさえいやになっている。カ-ドとかも無くしたし青春18切符も夏は落とした。何か無くさないときはない、今回はトラジットに乗る所がなかった。まあ、軽いからさほど邪魔にならない、栗原電鉄は存続が本当にむずかしい、幼稚園帰りの子供が多少と帰り栗原高校がありそこから高校生が乗ったのと観光客が二人に地元の人がにニ三人である。あれではつづけるのがむずかしい、人件費もまかないえない、鉄道を維持するのは結構金かかるらしいからあれではむずかしい。でもどういうわけか私鉄とかには情緒がある。地元に密着した線となっている。家の間とか庭の間とか通る感じなのだ。乗る線がなくてこうした私鉄の線を乗るしかないのだがこれがなんか親しみを感じる、その土地にとけこんでいる。極めて人間的なのである。

でも廃車が置いてあったりまるでもう最後の日を刻んでいる感じだ。その古くなった車両に哀惜を感じる。車が嫌いな私にとってこうした鉄道がなくなることは悲しい。でもどうにもならん、あの鉄道の余命は短い、観光用だけに維持するのは無理だろう。荒町-谷地畑-沢辺-津久毛-杉橋-鳥矢崎-栗原田町-これらの駅名はおそらく湿地帯だった名残りだろう、田町は田が町になったところでこれはどこにでもある。でも比較的繁華な城下町のはずれなような所にある。相馬の田町通りはそうである。東北には谷地というのは多い。杉橋などというもの本当に杉で作った橋がかかっていたのだろう。

細川鉱山跡に行くとき雨がふった。御堂のなかに地蔵が入れられてあった。あれだと雨にぬれないから地蔵も守られていると思った。地蔵は人間のように地元の人があつかっていた。笠地蔵とかいろいろ人間のように扱っていた。地蔵は身近な存在であり昔は地蔵との交流があり伝説がいろいろと残っているのもそのためである。この地蔵は巨大な寺院とかに祀られるのではなく何か庶民的だからいいのである。今回はともかく一日乗り放題だから帰ってきた。すでに5千円分使ったからやはり青春18切符は近くに行くのにも得である。あと何日かしてまた盛岡の方からのっていない線をのってみよう。私は鉄道マニアではないが車がないと旅をすることは鉄道にのることだからいつのまにか鉄道好きになっているし鉄道に愛着を感じるようになっている自分に気づいた。ともかく自分の人生がある意味で旅に費やされたのである。その旅の中心が鉄道だったのだから鉄道には思いが深くなるのは当然のなりゆきだった。

自動車社会が人間の情を奪った

なぜ地域の交通のバスとか鉄道とか昔の商店街が廃れるのか、それは誰でも知っている。自動車社会になったからである。自動車の方が便利だからだ。自動車が社会自体を変えてしまったことなのだ。それはどういうことかというとバスとか電車とかはまだこれはその地域の人々がみんなで利用する公共的なものである。みんなで乗り合わすこと自体が車と違っている。車は核家族的な延長として生まれた。車に乗れるのは数人であり家族以外はなかなか乗れないものなのだ。家族以外は排除するのだ。車は閉鎖的なものである。ただ車さえあれば現代社会は困ることはない、遠くにあっても車さえあれば用はたせるから不便さを感じないのだ。だから今の社会は助け合うということがなくなっているのも車社会になったことも関係している。車は公共性が育まれない、電車のようにみんなで維持して利用するという感覚が生まれない、車一台もっていれば事たりるとなる。だから誰にも助けられる必要がないしそうしたことも感じないのだ。ところが車がないとバスはない、電車もないとなるとタクシ-になるがこれは馬鹿高いとなり車がない人は弱者になり取り残される。事実ここでも隣の大きな市の病院まで行くにはかなり不便である。でも車をもっている人はそうした不便を感じないから車をもっていない利用できない人のことは考えない、だからこうした地域に密着した路線でも関心がうすい、車をみんなもっているからそうなる。ただおそらく地元の人ですら感傷的に地域のために残してほしいといっても現実は車を利用しているのだからそこに切実さはないのである。
「文明は人間の情を奪った」ということで何度か書いてきたが歩く時代から汽車の時代から自動車の時代と変わる中でやはり人間の情は奪われたのだ。汽車から自動車への時代もこのように人間の情は奪われた、このように自分が電車に情をそそぐのはそのためである。そのことはどういうことかというと社会全体が情の奪われた殺伐とした世界となったということである。その原因が自動車社会にあったことは確かである。


栗電や孫を迎える冬の駅

栗電の一両古りて枯芒

栗電やはや冬日没り茜雲




写真は栗原電鉄でいいのがかなりでています。



日露戦争からウクラナイナのこと


昨日のNHKの日露戦争の番組も面白かった。歴史はやはり地理から考えるのが一番わかりやすいのだ。いろんな要素があっても基本に地理がわからないとわからないのだ。日本人が世界史が苦手なのは島国という世界から隔絶した地理にあるのだ。本当に世界から隔絶した鎖国300年の歴史があるのは世界で日本くらいである。だから陸地がつながっている大陸の歴史は理解しにくいのだ。ロシアというととてつもない広さでありこれも日本的感覚で理解することはむずかしい。ただ日露戦争は双方とも犠牲者も多く大きな戦争だったのである。日本はこの戦争に実際は辛うじて勝ったのであるがその後奢りとなり太平洋戦争に結びついた。満州でもロシアとの激しい興亡があり満州への日本人の進出が加速化されて中国大陸へ深く入ってしまう切っ掛けを日露戦争で作ってしまったのだ。個人の人生も連続したものであり歴史も連続したものとして見るべきである。突然太平洋戦争が起こったのではない、日露戦争の連続線として起こるべきして起こったのかもしれない、つまり日露戦争で日本は傲慢になってしまったのだ。あそこで負ければ太平洋戦争はなかったかもしれない、一方でロシアの日本への驚異は増した。

ロシアというのを地理的に考えるとロシアは海への出口がない、それを如実に証明していたのがバルチック艦隊がバルト海からはるばるアフリカ回りで旅順まで行こうとしていたことである。マダカスル島で二カ月滞留していた。旅順まで来る前にかなり消耗していたのである。海からの攻撃、援護ができないことが致命的だった。だから最後までニコライ皇帝は海からの攻撃にこだわり勝利に導こうとしていた。もう一つはウクライナから160万人もの人が極東地域に移住したのである。それもオデッサ港からスエズ運河回りでインド洋にいたりウラジオストックに来たのだ。シベリア鉄道ができた時代であってもそうだった。それだけ遠回りしても船が便利だったのだ。あれだけ広い陸地となると陸路を移動するとなると大変なのである。どうしても最初船の方が便利なのだ。北海道移住も道が湿地帯となっていて船で渡ったのである。ウクライナからはアメリカやカナダにも百万単位で移住しているからめれなりの勢力で政治に影響しているという、またユダヤ人が200百万とか移住した地域でもありここが何か世界史の揺籃地帯になっていたのである。ユダヤ人といっても純粋のユダヤ人ではなくユダヤ教化したユダヤ人である。今イスラエルが問題になるときイスラエルに移住したのはこのウクライナのユダヤ人が主だったのである。ここはまたモンゴルからも攻められてヨ-ロッパの防衛戦になった。ロシアはタタ-ルの軛というようにモンゴルに支配されたのだ。

そしてウクライナはドニエプル河をはさんでヨ-ロッパ側とロシア側に歴史的に文化的にも分かれていた。それからノルマン人とかポ-ランド人とか南下してまた古くギリシャがジプラルタル海峡から黒海へ船で貿易に来ていたしオスマン・トルコも一時支配した。ここが歴史、文化の交差する世界だったのだ。だから今もめているけど世界史的に重要な場所だったのである。そこでドニエプル河は大きな河であり歴史の境界でもあったのだ。ウクライナの複雑さは定冠詞のtheをつけて呼ばれたくない、Ukraineでありたいというのは常にロシアとかその他の国に支配されてthe-その支配されたthe Ukraineになっていたからである。どの国にも支配されないUkraineでありたいとなる。ドナウ川もそうだったがこのドニエプル河も国を歴史を分ける河だったのである。

国分かつ歴史の古りぬ冬の河

今冷たい大きな河が歴史を分かち国を分かち冷たく横たえている。想像ではあるが冬の河というのも日本の河とは全然違う、例えばアム-ル河なども大河でありその河口で流氷が作られるてオホ-ツクに流れてくるらしい。真水と塩水の交わる地点で流氷ができるらしい、つまりこれもアム-ル河という大きな河が成さしめる自然のドラマであり一方はドナウ河であれドニエプル河は歴史を作る河なのである。

ともかく明治維新から日露戦争と日本は国威高揚した時代だった。大陸進出の意気に燃え上がっていたのだ。満州の奉天(瀋陽市)、奉天へ旅順へ旅順へ草木もなびく・・・となっていたのかもしれない、そしてその犠牲者もひっそりと墓に埋もれて忘れられてしまった。そこに大きな歴史のうねりがあった。そのうねりは太平洋戦争まで継続されていたのだ。突然太平洋戦争が勃発したのではない、歴史は一連のものとして存在しているのだ。だからあのとき内村鑑三が日露戦争の非戦を唱えたのは希有なことであったし反対されたのだ。国民は戦争に熱狂していたのである。特にまがりなりにも勝ったから余計そうだったのだ。それが太平洋戦争への地獄へと導いた引き金にもなっていたのだ。ロシアという大国に勝ったことが過剰な自信になってしまったのだ。日露戦争の評価も様々であるがやはり日本人これで過剰な自信となり世界をみくびる結果となった。ロマノフ王朝は弱体化した王朝だったから勝ったのである。ともかく絶えず過去への歴史の検証は必要なのだ。それは未来のために必要なのである。




偉大なる個々の死を・・・・(上野霄里氏の文明批判の要点)

私は日本の政治やモラルや法律の間にひそかにあたかも仮定のようにそして幻のように存在する。(上野霄里-単細胞的思考(洞窟の哲学より))


上野霄里氏の主張したことがなぜわかりにくいのか、また一般の人に理解されないのか、私自身も今の年になるまで理解していなかった。そもそもなぜ人間というのは何か理解するのにこれほど時間がかかるのかということである。これは自分というものが天才ではない普通の人間であるためでもあった。若い時代に相当に本を読んでも理解できないのが多かった。人間は精神的成長には非常に時間がかかるものなのだ。肉体は動物のように15才くらいで完成してしまうし生殖は教えられなくても動物のようにすることができる。しかし精神の成長とか何かを理解すること例えば外国の一国を理解すること自体とんでもなく大変なことだし時間がかかる。文学関係でも理解すること自体非常にむずかしい。俳句なんかでも50以上にならないといいものができないというのもそのためである。モラトリアム時代というけどそもそも人間は一生が実はモラトリアム時代猶予の時間がないと精神も成長しないしあらゆることについて理解できないものである。ただ老年になると確かにあることが確実に具体的に悟るようになる。「死」というのは実際は観念的には死ぬということは誰でも知っている。しかしそれは観念的にであり本当に死というものがどういうものかわからないのだ。老年になれば死はすぐそこにあるからどんな平凡な人でも人間はこんな簡単に死ぬものかと理解できるのだ。そのことだけで老人は若者と精神的に全然違ったものとして生きているのである。老年とは死の状態に徐々に移行してゆく存在である。

それは確かに怖いことだがある意味で甘美なことでもある。なぜなら死がなくしてこの世の問題の解決もないからだ。つまりこの世とは結局アダムが罪を犯してエデンの園を追われて以来人間は変わらなかったしこの世がこれほど科学が発達しても人間そのものは変わらなかった。この世が天国になることなどないし人間の世界はますます犯罪も多くなり悪化してさえいる。罪なる人間の状態が変わらないとしたら結局この世にあることは絶望しかないのだ。とすると死はこの世から離脱するのだから救いでもあるのだ。人間は誰でも偉大な死を目指すべきものである。ところがこの死に関して誤解がある。偉大な死とはその人の生前の地位とか大金持ちだったとか大々的に葬儀を成されたとかそうした外面的なことで決まるわけではない、内面的な死というものもありそれは外から見てわからない、どんなに金持ちでも地位があっても死が必ずしも偉大な死となるとは限らない、例え野垂れ死にでも偉大な死は偉大な死なのである。主キリストの死が十字架でありこれは最悪の死に外見的には見えたし神の子たるものがこんな無惨な死に方をするのかと愕然として弟子も見ていたのだがそれは最高の偉大なる死に方であったのだ。だから人間の価値とは外見だけでは判断できないのだ。ソクラテスが死について語りつつ逍遥として毒を飲んで死んで行ったのもむずかしい理屈はからないにしても偉大な死であった。ではそれは特別な人のみが偉大な死を迎える、平凡人は平凡に死ぬと言うかもしれないが必ずしもそうではない、自分など相当な平凡な普通の人より人間的に劣った人間であることは承知のことである。平凡とか平凡でないとか言う前に文明社会は人間を人間らしめないということに気づいていないのだ。文明の価値観に染まりすぎて人間の人間たる価値を見失ってしまったのだ。

文明の価値というと結局、デジタルカメラを作っているから世界で売れている優秀なトヨタの自動車を作っているから日本人が優れているとかの評価になる。そして人間の価値はそういう文明の便利なものを作る物に集約される。会社というのはまさにカメラを作る会社であり自動車を作る会社でありその価値がすべてとなっている。そして一生その組織に従属していい自動車を作ることが一生になっている。そうした組織の一員になっていることが人間の価値のすべてとなっている。それ以外の価値は人間に認められない、宗教団体でも・・・・会員であることに意味があるのであり価値があるのでありその人本来の価値などどうでもいいのである。完全に個々の人間としての価値は無視されせいぜい一票を入れてくれるとか金を布施してくれるくらいの存在でしかない、人間に対する価値観がそうした物とか金とか一票とかに置き換えられて卑小化されている。

では人間がそんなものなのかといったら人間とはこの宇宙を大自然を自由に生きるものとして存在させられた。会社に入って文明の便利品を作ることがすべてではない、これは明らかに鳥とか動物より人間が卑小化されている。動物ですら鳥などは広大な大気のなかを自由に飛び大海をわたり大きな森に巣を作る。人間より鳥の方が神の創造した世界を生きるにふさわしく人間は文明の便利品を作る奴隷と化してその道具にふりまわされていると見ることもできるがそんな見方をしている人はいない、ただ古代からそうした見方をしていた人が大陸にはいた。老子とか荘子とかがそうである。無用の用とか文明に役立つ人間より無用の用の方が自然の方が大きな存在でありそこに生きるものこそ人間にふさわしいと言っていたのである。そのことが意外と会社人間組織人間になっている人は理解できない、見えないのだ。ただひたすら会社人間になり文明の便利なものを作ることこそすべてであり人間の価値はそこにしかないとなっている。それが悪いというのではなくすべての価値がそこに集中して他が見えなくなっていることなのだ。だからソロ-でも森全体を生きる場所とした、森全体のなかに生きることに生きがいを見いだした自由人はあいつは何をやっているんだ、無益なやつだとされて批判されたのである。ところが商人がきて森の木を見てそれを売るものは社会にとって有用なものとされた。それは材というのが一部の才能を切り取る意味でありまた森というのがマテリア-ルされた、物質として材として文明の用にだけのものとして切り取られてしまったこととにている。ラテン語のmateriaはもともと材料ではなく森全体を意味していた。ラテン語のsilva(シルファ)というのも森と同時に「材料」を意味していた。materiaがmater(母)が語源となっている。森は母なるものであった。森は最初森全体として存在していたが材として材料として切り取られるものとなったのだ。森のもっている全体はその神秘で計り知れない美や荘厳さは無視され失われたのだ。

「単細胞思考」から上野霄里氏の文明批判がはじまったのだがその中核は組織批判であった。文明社会はもはや隅々まで組織人間としてしかありえないという現実である。それは出版界とかでもそうであり文学関係でもそこは組織として構築されていてその組織に入らないものは存在すらしえないのである。だから文学賞とかマスコミから商業主義からでてくる人物には注意する必要がある。それは宗教団体でも同じだが組織的に作られた人物でそれはマスコミ通じて過大化されているのだ。そこは大衆に売るために企画されたものだということを念頭におく必要があるのだ。そのことはインタ-ネットで自由に発言ができるようになり商業主義の世界からではない個々の発言に新鮮なもの今までにないものに触れて発見したことがかなりあったことでもわかる。だから老子とか荘子という人間はあんな昔から中国に存在していたこと自体、やはり大陸はスケ-ルが違うのである。明らかに現代の文明を痛烈に告発していたのである。それも老子の時代など原始的な状態だったときから鍬など道具を使うと人間性が失われと言っていたのだから驚く、それがこんなに文明化したなかで人間が文明に適応していることこそ奇妙だし人間がこんな非人間的な文明社会に適応すること自体、異常なことではないか、自分の場合、結局いろいろあるが文明社会に不適応であったからこそかえってアウトサイダ-化して文明社会が見えるということにもなった。だからニ-トだとかヒキコモリはまた別なものかもしれんがそのなかには文明社会からはみだして本来の人間に目覚め巨大化する人間がでてくるかもしれない、この文明社会にすんなり適応できる人間こそ異常なのことだからだ。ともかく組織人間として.....の一会員として死んで行くものに人間の偉大さはありえない、偉大な死もありえない、indivisal great deathを目指す所に人間の偉大な死がありうるのだ。死に入ることも人間は動物と違うから最も偉大なものへとなるべく道として死があるのだ。もちろん主キリストの信仰にあるものは死はない、死なない命を与えたのがキリストだからだ。人間は肉なる存在ではない、霊的な存在だから死なないのだ。

ともかく文明は人間を卑小化した。文明は人間の使う道具にすぎないのに人間が文明の道具になってしまったのである。文明の便利なものはしょせん道具であり道具にすぎない、あくまでも人間こそ偉大な主人公であることなのだ。それがアウトサイダ-にならないと見えない不幸が現代にあったのである。ただ単細胞思考や上野霄里氏のことが理解できないのはまさにアウトサイダ-にならないと文明社会の矛盾が見えないからである。それほど文明におおわれ文明のなかにどっぷり入りすぎてしまったのだ。だから老年になって一体自分の人生なんだったんだとなる。大金持ちになっても地位があってもなんだこんなものたいしたことなかったなとなる、こんなものを求めてあくせくして馬鹿みたともなる。それが老年になると誰でも馬鹿でもわかるのである。老年になると馬鹿でも見えてくるものがあるのだ。それが若者と老年の根本的違いなのである。

上野霄里氏の言うようにそもそも人間が何が偉大なのかとをあるべきなのかなど見えなくなっている。文明で大きな存在となるのは本来の人間、原生人間とはまるで違った人間になっている。専門家というのはある意味で特殊能力の肥大化したものでありある意味で人間としては奇形的存在なのだ。弁護士ですらそうである。なぜあんなにむずかしいのかあれを理解すること自体大変な能力が必要であり能力がかたより奇形化してしまう。文明には本来の人間は必要でないのだ。全体として森のようになる人間は必要はない、一本の材となる商品となる木が必要なのである。だから全人間は見えないし森全体の価値はわからなくなっている。文明社会にとって原人間とか原生人間とか神の子も見えない、幻である。一方アウトサイダ-原人間、全人間、神の子から見ると文明は幻である。巨大な幻影に見えるのだ。はたしてどっちが幻影だったのか文明は消え去り文明こそが幻影に幻にすぎなかったことが遠い未来に証明される。そして逆に文明人には見えなかった原人間が巨大なものとして現れてくる。そのためにあとは千年は必要なのだろう。いづれにしろも文明は死ねばなくなる。それはすべて消え去る。そのあとは文明を見ることはない、生まれ変わり千年後に来てみたら文明は喪失しているだろう。この巨大と見える文明もはかないものなのである。

クマゲラの音

クマゲラには大きな森が必要だ
その巣を作る大きな森が必要だ
トントント-ントントント-ン
木を叩く音が大きな森にひびきわたる
その力強い音はひびき木霊する
神はクマゲラに大きな森を与えた
一本の木ではない大きな森を与えた
この大きな北の森がクマゲラの住処だ
そこに自由に住み巣を作る
大きな森がクマゲラを養うのだ
トントント-ントントント-ン
エゾマツやトドマツの深々とした森
そこはカムイの森、神域の森
森の神シマフクロウもそこにすむ
清らかな流れを魚が踊り上る
その流れは底まで澄んで豊富な魚の群れ
その森とともにアイヌコタンの神話生まれた

上野霄里氏の部作りました



市町村合併の名前の混乱
(ひばりの市は反対で投票で相馬郡-原町市の合併の名前を決める)

例えば東京の大田区は「大森」と「蒲田」の合成ですし、4月に長野県に誕生した「東御市」は「東部町」と「北御牧村」から一文字ずつとっています。国分寺と立川のあいだにできた「国立」なんてのもあった。

そうか、国立も合成地名だったか、飯館も大館と飯曽村が合併した合成地名だったから驚きだよ、合成地名はかなり多い。相馬も小高-原町市-鹿島町が合併するのに名前でもめたよ、

例えば東京の大田区は「大森」と「蒲田」の合成ですし、4月に長野県に誕生した「東御市」は「東部町」と「北御牧村」から一文字ずつとっています。国分寺と立川のあいだにできた「国立」なんてのもあった。

大田区もそうだったのか、てっきり大田は元からあった地名だと思ったよ、大田という地名は多いからな

2004年10月に鳥取県に誕生した「湯梨浜(ゆりはま)町」は、三つの町村が合併して出来ました。それぞれの町のセールスポイントである、「温泉=湯」「二十世紀梨=梨」「日本海の砂浜=浜」を組み合わせて「湯梨浜」になったのだそう。

これもややこしい合成地名だな、観光宣伝のためにはいいみたいだけどちょっと作りすぎな感じもするよ

合成地名じゃないけど、過去に福島県で、5市4町5村という大きな規模で合併して「いわき市」が誕生したとき、その名前は「以和貴」であり「和をもってとうとしとなす」だ、と言ったそうです。

ひばりの市は雲雀が原で神旗争奪戦がおこなわれるのでひばりの市に決めたけど相馬を残すべきだと取り消しになって投票で決める、鹿島の人は相馬からの行列を鹿島で迎えるので相馬を残したいとか野馬追いに参加する人が主張した。

存続派は「地域の歴史を大事にしたい」「名前に愛着がある」、廃止派は「ムラ意識を排して新市の一体感をつくる」「住所表記が長くなり、面倒だ」などと主張した。廃止した場合、現在「字勝連」がない勝連町は「地名が消える」こともあり、蔵當真徳町長は合併協の席上、「『勝連』だけは残してほしい」と訴えた。

地域の歴史を大事にしたいとなるとここは相馬をどうしても入れないとだめになる、相馬は知られているけど「ひばりの市」では知られないから致命的だったんだよ、新興住宅地か団地の名と勘違いする人もでてくる、知名度がないとだめなんだよな、白神市は能代市が反対して御破算に・・・能代は古い地名だから愛着あるのわかるよ・・・知床市にすると爆弾しかけるともめていた・・・・名前はやっかいだよ、地名をあんまり変えるのはよくないよ、前の歴史的地名がわからなくなるから

歴史のある町村を廃して新しい名前の市をつくってどうするのだろうと心を痛めている。古川市,鳴子町,岩出山町,涌谷町,松山町,南郷町,小牛田町,三本木町,鹿島台町・・いずれもそれぞれの歴史を持っているではないか。これを補助金のためとかなんたらで葬り去る権利は誰にもない。


これも古い地名だから変えるといろいろ困るよ、小牛田神という石碑が相馬に少ないけどある、福島には多い、小牛田には山神様の信仰でお参りに農民が行ったらしいよ・・・それが変わるとなんか歴史が失われるだろう・・・古川、鳴子、岩出山などもなじんだ名前だからな

大きくて有名な町があり、そこに吸収されるのであれば、名前に関しては問題ありません。でも、二つ以上の町が対等に結ばれるとき、新しい名前が必要になります

そうだな、相馬市に吸収されれば問題はなかったな

美幌の名前を捨ててまで合併したいとは思わない

美幌はなんかいい感じの名前だしな、それもわかるよ 美瑛もそうだよ

10月に山口県を旅したとき、徳山駅で降りたら見慣れない地名が・・・。市町村合併によって「周南市」となっていた。
 合併の是非は知らず、こんな味も素っ気もない名前をよく付けたものだ。周南(周防の南部)というのは、一地方の名前で、福井県で言えば嶺北・嶺南のようなもの。
 こういうのは公募によって選ぶ場合が多いが、応募数の多いものを安易に採用するとこうなる。
この種のことは、多数決が一番、というものでもなさそうです。
 新興住宅地で、緑ヶ丘とか希望が丘とか、そういうのもどうかと思います。
 松の木が三本あったから「三本松」というような、シンプルだけど親しみやすい名前が滅亡していくのが悲しいです。

南相馬もそうだよ、投票で決める前に決まっているよ、この名前は一番多くアンケ-トで出たんだから・・・他にもいろいろあった、私が想像したのも全部出ていたよ、

北名古屋市とは、またベタな名前ですね。
よほど知的創造力のない人が考えたに違いない。
安易にただ方角をつけただけの名前はやめてほしい。

そう思うな、南相馬は味気ないよ、

では何がいいんだ、なんとハガキに書いたんだ

相馬原だよ 相馬と原町の合成地名だな、これも味気ないけど、原は雲雀が原でもあるよ これもアンケ-トで何票かあったけどここは南相馬で決まりだよ、相馬の南ということでなんか相馬が中心で附属した感じにはなるな、相馬藩の城は相馬にあったからしかたないのか、地名はやはり歴史によって決められるのが多いな、南相馬は相馬市が親分で子分みたいになるな、人口的には多くなるんだから納得いかない人も多くなるだろう

うらやましいのは、いい名前は筑紫野市だよ、ここのホ-ムペ-ジは絵巻物風にして芸術的だよ、一見の価値あり、ここは万葉から古代の地名から生きている、いい名前だよ・・・・紫という漢字を当て字にしたのもよかったな・・・・詩的だよ・・
地名は美的センスだけではつけられない、やはり歴史が大事なのかな・・・

全国でこれだけ地名が変わるのも問題だよ、私はよく旅したけどその旅した駅の名が町の名が変わっていてショックだった、なくなってショックだった、一瞬その町が消えてしまったかと思ったよ、つまりそれだけ歳月がすぎて変わってしまったことに愕然としたんだよ、地名はあまり変わると困るものなんだよ

消えた駅名-楢原

私が書いた名は相馬原だったけどこれもしかたなく書いた、実際投票だとみ南相馬に決まっている。こういう名づけかたが無難なのか、武南が武蔵の南だということなど他の人はわからない、最悪の名前よりはいいか、相馬はわかるから

 


再び青春18切符で雪の青森へ




青春18切符で二回目の旅にまたでた。一回目は東北線の日帰りで岩越から栗原電鉄にのった。これも風前の灯のうよなロ-カル線だった。今汽車の旅はかなり不便である。新幹線とかは便利になっているが東北線ですら一部が銀河鉄道のように民間で経営するようになっている。そこは青春18切符が使いないのだ。そして便数が少ないから途中下車することがむずかしい、ロ-カル線の旅は途中下車が楽しいのである。それができないことが旅の楽しみを奪ってしまった。途中「渋民」をすぎた。ここも一度もよっていない、それでも一句作った。

渋民に寄ることなしや冬の暮

渋民は啄木だけの町である。それから盛岡に行き花輪線を回り十和田南駅から十和田湖を目指した。十和田南駅についたときは暗くなっていた。そこに宿があると思ったらなかった。実は大湯という温泉町がありそこまでバスで行った。このバスも雪が降りはじめてその用意がなく遅れたためのれたのだ。バスの便は非常に悪い、十和田湖に朝バスで行くのが不安になって駅に行くバスがないかと宿の人に尋ねたらちょうど休みだったのでないというのには驚いた。バスの停留所も廃止されたという、今観光でバスの便が十和田湖一便はある。今の時期普通バスの便はどこでもなくなっているのだ。十和田南駅は新しい所である。鉄道は必ずしも前からあった町を通るわけではない、鹿角に宿はありそこを始発として十和田湖まで行く、それにしても寒かった。大湯では廊下を歩くだけはく息が白くなっていた。それでも温泉はかえってそのように寒い方が情緒があるともいえる。帰りのバスには台湾人らしい女性が二人と自分一人だった。必ず台湾の観光客などがみかけるようになった。雪の世界はさぞかし驚きであり魅力あるに違いない、観光の活性化には今やどうしても外人を呼ぶ必要がどこの国でも必要なのだ。

大館にとまり次は秋田内陸縦貫鉄道にのった。これもJRではないから青春18切符は使いなかった。角館にでて大曲から横手にきて北上線にのった。横手は駅前のビルがゲ-ム場になっていて街が荒れ果てた感じがした。カマクラで有名だがそんな素朴な感じなどなくなっていた。駅前は街の顔だからそれなりの通りなどが生きている、歴史も生きていればいいのだが今やどこも通りは廃れ駅前はさびれているからこうした荒廃がおこる。これは観光にとってはイメ-ジがわるくなるのだ。観光ではス-パ-には行かないからだ。ともかく途中下車できないから汽車の旅も前ほどに楽しめなくなっていた。旅なら急行でもだめである。途中に一駅一駅泊まり生活路線になっていないとだめである。こうしたロ-カル線の一部は観光用の特別列車がでているがあれだと情緒がなくなる。普通列車は一駅一駅泊まり生活を感じることにあるのだ。それが今電車はなくなりつつある。汽車という呼び名がなくなり電車となりそれもワンマンカ-となり味気なくなりかつての汽車の旅の旅情は消えつつある。



外は雪車内に荷一つロ-カル線

昔は行商のおばさんが重い荷を背負って行商していたりとか何か人間臭い光景があった。自動車社会はこうした人間臭い光景を奪ってしまったのだ。私は鉄道に愛着がある。自然と汽車の旅が長いから愛着が生まれたのだ。鉄道史というのは実はかなり広範囲だし奥深いものがある。鉄道の歴史は日本ではすでに百年でありヨ-ロッパでは2百年くらいある。だからイギリス辺りはいかにも古そうな車両基地があり機関車を回してタ-ンするようなものまであった。大館の駅でで雪の積もったなかで働いている人をみかけた。

大館に作業の人や雪の駅

とかなり鉄道に働く人も何か生活の重みをになっていて親近感まで覚えた。これが自動車だと何か排斥された感じになり私の場合極端だが拒絶する感情が働いてしまうのだ。いづれにしろ鉄道の歴史はすでに日本でも深く生活にくいこんできたからその物語は個々に語り尽くせないものがある。

昭和31(1956)年登場した急行津軽は別名「出世列車」「出稼ぎ列車」とも言われ青森、秋田から首都圏への出稼ぎ客を乗せて走った。

「十和田」もかつては常磐線を行き交った夜行急行ですが,この頃には既に季節便になっており,これもやがて消えてしまいました。


常磐線を夜行列車が走っていたことを知らなかった。今だったら必ずのっていただろう。これに乗っていたら貴重な思い出になっていた。北海道には廃線になった線が多く記念の駅に車両が置いてあってそこは宿泊できるようになっていてそこで一夜泊まったことがあった。出稼ぎというのは高度成長時代ブ-ムのようにあった。これが「出世列車」となっていたのは結構の金を稼いできたからであろう。その出稼ぎで稼いだ金で子供を大学まで出した農家がかなりいるのだ。そして皮肉なことはその大学を出ても青森では就職先がなくトヨタの期間工として出稼ぎで大学まで出した息子がまた出稼ぎに行っていることなのだ。こうした青森特有の地域の後進性から脱却されていなかったのである。「貧乏」→「低賃金」→「出稼ぎ」→「進学低下」→「離婚増加」→「乳児死亡率上昇」→「寿命が短い」負のスパイラルになっている。沖縄もにているが沖縄は長寿の国なのは南国だからである。青森はその点寒いから厳しい。

出稼ぎで工事現場で事故で死んだものや一つの例としてホ-ムレスとなって死んだ人もいた。


戦後、青森から出稼ぎにきたが、東京の山谷から横浜のコトブキに流れてきて、からだをこわし仕事がなく、山下公園に住みつくようになった。永井さんもまた同じような道をたどっている。翌朝、酒田市の寺にある永井さんの両親の墓に、永井さんの写真を供えた。永井さんは四十年ぶりに両親の墓に詣でたことになる。立派な新しい墓だが、しかし遺族の同意がないから、ここにはいることはできない。七十一歳で大雪の朝に凍死した永井さんが、山下公園の段ボ-ルの寝床で、つねに夢みていた古里の勇大な景色である。月光川は雪どけ水の水量ゆたかに流れていた。


山下公園のヘミングウェイ
http://fuumaru.ld.infoseek.co.jp/nagaikansou.html

これはホ-ムレスの人の死を小説にしたらしい。その頃どこにでも出稼ぎ者がいたし金の卵と言われた中卒者は出稼ぎ者ではなく東京に住み着いた人達だった。これの出稼ぎに果たした鉄道の歴史もまた大きかったのである。ともかく最後は北上線回りで家まで一日で帰ってきた。北上線ではすでに夕暮れから夜で冬の灯が夜の雪のなかにともっていた。

冬の灯や北上線を帰るかな

前にも北上線や花輪線には乗っていたがあまりにも前になり記憶になくなっていた。こういうことになるから何か記録は残しておく必要がある。今青春18切符で旅している若者も必ず全く記憶にない忘れてしまったとなりかねない、人間は忘れやすいのである。青森へ冬の旅は魅力ある。幻想的な雪一色の世界となるからだ。これは意外とおすすめである。しかし旅はスロ-でないと旅情がない、それとこれからは宿は温泉街とか騒々しいところとかスキ-場なども廃れてゆく、かえって中高年がゆったりとくつろげる場所がほしくなる。それで秘湯めぐりが人気があるのだ。十和田湖では博物館に暖炉がありそこにあたたまり大町桂月の蔦温泉冬ごもり帖とか読んで暇つぶしていた。暖炉にでもあたたまり過去を回想したり本を読むのもいい、しかし客がこないとか十和田湖のホテルの人がなげいていた。「クリスマスのように電飾すたりもっと外に出て楽しめるようにすればいい・・」こんなことを言うホテルマンはいることに驚きだ。ここも歓楽街にするのか馬鹿もほどほどにしろ、そこは聖域であり秘境だからこそ価値があるのだ。団体の温泉街にした国立公園としての価値もなくなる。大町桂月は蔦温泉のような一軒宿でないとだめだと書いてあった。それは嫉妬とか商売の争いが生まれ秘境の良さがなくなるからだと書いてあった。そこまで当時宿が少ないときすら考えていたことには驚きである。十和田湖は人の手のつかない秘境だからこそ価値があるのだ。それがなくなったら終わりというより国立公園の聖域としてそれは許されないのだ。今やたまたま聞いている人もいてこうしてインタ-ネットで書いたりするから注意した方がいい、気軽にその宿や街の評価が書かれる時代なのである。それが意外とわかっていない、観光地の評価が口コミで常に広がる時代なのである。


十和田湖の喫茶店からとる

青春18切符で雪の青森へ(全俳句短歌と写真)




NHK不祥事から受信料不払いはなぜ

●NHKの巨大化が特権化を生んだ


この問題は一個人のモラルの問題とかではなくNHKだけの問題でもない、現代のメデア、マスコミ全体に関係して起きたのだ。NHKは受信料を税金のように全所帯から強制的にとっているから責められた。民放からすれば全くうらやましいかぎりなのだ。そしてNHKはメデアとして巨大化しすぎてしまったのだ。巨大化は特権化であり権力化である。芸能人を自由に動かし番組を作る。芸能人はNHKに出れば名前が売れるとかNHK様様になる。スポンサ-でないにしてもNHKにでること自体、芸能人だけでなくあらゆる人が名前が知られて有名にしてしまうのである。これはテレビが何百万人が見ているのかで報道できるからである。だから宣伝が絶大な力を発揮することになり宣伝で買わせられるものがあったのだ。一つの例としてちゃちな耳掻きがそうだった。オモチャの耳掻きにすぎないのを三千円もして買った。耳にあかだたまややすいので買ったが垢などとるほどのものではない、単なる耳掻きしているというオモチャであり今は二三百円で売っていた。これも宣伝にのせられて買ったのである。他にも宣伝にのせられて本でもいろいろ買って失敗するものがあるのだ。ベストセラ-なども作られるのである。大手の出版社によってしかけられるのだ。そして売り出される。そこで名前だけが極端に大きくされ有名人になるのである。報道する権利というのは今まではテレビとか新聞とか大手の出版社にしかない、そこで報道するものを決めていたのだ。だから報道されないものがいくらでもあったし報道からもれてしまい世間にでてこないものなどいくらでもあったのだ。そのなかでNHKは一番影響力があり権力をもっていたから今回のような問題が起きたのだ。会社ではどこでも派閥争いがあり海老沢会長はそうしした派閥争いで勝ち上がり権力を持つようになった。それは解雇された人でもその側近は出身者の茨城県の人でしめられていたとか言われるからこれはどこでも同じである。

● マスコミは一方的メデア

NHKに今必要なものは何なのか、それはもっともNHKらしいことNHKにしかできないことに専念することである。テレビ時代は長い、最初は娯楽番組、芸能番組が必要だった。テレビの出始めはともかく写れば見るという時代であった。テレビの最大の影響力は茶の間に入ってきたことである。テレビ見ながら食事するということはテレビ中心にした生活でありこの影響はあまりにおおきすぎた。そして今までのメデア一方的なメデアであった。だからいつのまにその一方的メデアに洗脳されていたのである。両親のいないタイの少女が日本に滞在するピザがとれないと報道しただけですでにこんなかわいそうな少女がいるのに法務省はビザを出さないのかと一方的に要求しているのである。その真意がどこにあるんだろうというとき、それを知ることはなかなか容易ではない、とくにすぐに知るということは容易ではない、情報が不足するからである。だから信用できないにしろとっとりばやい方法として2ちゃんねるを参考にするのが習慣になったりしたのである。それによるとその少女にはアパ-トを経営する祖父がいて十分にタイで幸せに暮らせるとか在日の人が関係して裏でプロの人が運動して利用しているとか書いてあった、これは本当かどうか憶測にしろこれもそれなりに情報であり判断の材料になるのである。テレビというメデアは強く感情に訴えるからすぐに画面を見てかわいそうじゃないですかとかなるである。現実アフガニスタンでの足が両方なくなった女性を見たりしたときはショックだった。それだけで訴えるのである。だから援助したりする。最近そうした戦争の犯罪などでショック的な映像がでてくる、それがいつのまにかそうしたショック的な映像に不感症になってしまった。あまりにも次々にそうした映像がでてくると人間は無関心になってしまうのだ。事実新潟地震では無惨に家が壊されたりしたが無惨に死んだ人がでてこないのでショック受けないのでかわいそうだなと思わなかったのである。神戸地震と比べてそう思い同情心がわかないということがあった。テレビはとにかくショッキングな映像を放映して訴えることが必要なのだ。そして今やそうした映像になれてショックを受けなくなっている。それで今やインタ-ネットで首切りの映像まで映されるからインタ-ネットにそうした映像を求めているのだ。首切る側もそうしたショック的映像を出さないと世界に訴えないからそうしているのである。いかにメデアに訴えるかが問題になるからだ

●インタ-ネット時代の情報の意味

インタ-ネット時代の情報とは何かまだわかっていない、私もこうして時事問題なんかに何年か書いてみてわかったことがあるが本当はこれが何なのかわからないのである。なぜなら報道するということにたずさわったことがないからだ。一方的に報道されるのを受ける方であり自ら報道することなど一般の人は経験していないのだ。それがインタ-ネットでみんな誰でもできるようになったことは大きな革命なのである。こうして日々書いているのはこうして自ら報道することに興奮するし何か大きなことをしているような感覚になるからだ。インタ-ネットは読む人は少ない影響力は微弱である。それにしても個人が報道主体となることは今までなかった。メデアを通さないかぎり報道はできなかったのである。

判決によると、土木建築会社は昨年10月、掲示板「2ちゃんねる」に、
 「顧客とのトラブル処理の際に会話を録音されないよう、従業員が妨害
 電波発生装置を携帯している」などと事実に反する匿名の書き込みを
 された。

 会社側は2ちゃんねるの管理者から発信機器を特定するIPアドレスの
 開示を受け、このプロバイダーのユーザーが発信したことを突き止めた。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041222-00000109-kyodo-soci


こうした内部情報がもれてくるのもインタ-ネット時代である。それがどういうことかというと今や日常的にそうした情報もれる可能性がでてきた。例えば会社の秘密情報は会社員が知っている。その会社員が会社の情報を匿名で書くということがありうる。それは今までできなかったことである。マスコミでは厳しくチェックしたものしかださない、マスコミから通してしか情報はでなかったのである。その結果マスコミと役所とか警察とかの癒着があった。記者は特別待遇されて監視するのではなく官報のように一方的な報告だけをしていたとか厳しい追及をしなかったのである。情報は権力者のものだけであってはならない、情報は民主主義社会では公開され共有すべきものである。正しい情報が知らされなければ判断しようがないからだ。その情報を得るのも報道するのもマスコミだけににぎられていたから不公正になったのである。ただ情報というのは一般の人にはわかりにくいからごまかされるのだ。情報は非常に操作されやすいのである。だから戦争でも情報は一方通行で軍部により操作されていた。不利な情報はでなかったのである。情報に関してはやはりプロの記者が必要だし知らせる人、分析してわかりやすく伝えるプロが必要だがこれがうまく機能していなかった。そういう人は育てたり作られるものであり自然に生まれたりしないからである。情報にかかわるのは作家もそうだった。これは芸術家だと思っていたが小説だけの世界の人と思っていたら軍事関係に詳しく伝えていた作家がいてわかったのだ。実際はあるゆる人が情報にかかわるのである。これは公共的な責任問題としてあるがそれだけでなくささいな日常の生活のなかで情報がもれてくるということがあるのだ。例えば近くの医者の評判が書かれたり単なる噂話とかがいたるところにでている。しかしこれも情報として影響するのである。

私が与那国しまで警察に理不尽なことで怪しいと地元の人に通報されて職務質問された。この職務質問は非常に一方的であり自転車で旅行していると必ずされて根掘り葉掘り聞かれるからいやになるのだ。あらいざらい聞かれてもプライバシ-の侵害でもどうにもならない、これは普通に誰でもやられていることなのだ。その例が公安委員だった白川議員もしつこく職務質問されたことでもわかる。警察は権力もっているからさからえないのだ。なぜあのとき頭にきたかというと地元の人が警察につまらないことで通報したからである。別に島の人に恨みはないしづけづけ言い合うのはいいことである。自分にも非があることはあるしそれも指摘されてもしかたない、でも私はそうしたいい面と悪い面を両方書いている。公平に書くことはむずかしい。恨みで情報を流したりすると公平がなくなる。その人の個人的恨みとかが入ってくると公平な報道はできなくなくなる。報道するものは今やモラルが必要なのである。ともかく十和田湖の喫茶店で話していたことがたまたま聞いてホテルの人があんなところに電飾して人を呼び込むようなことを言っていたとか私が書いたのも情報がそこで聞いて終わりでなくインタ-ネット通じて流れるということがある時代である。 「壁に耳あり障子に目あり」の時代がインタ-ネットであることなのだ。どこからもれるかわからないのだ。この建設会社の事件もまるで007のような情報戦争になっていることなのだ。情報戦がいたるところで行われる時代なのである。


●NHKも民放も変革の時代

結局、NHKも民放も変革の時代でありインタ-ネット時代は変わらざるをえない、NHKには芸能番組や娯楽番組はもはや必要ではない、その時代は終わったのである。ニュ-スと災害番組とかしぼるべきである。NHKに要求するものは昔とは違ってきている。なんでも提供する時代とは違うし写ればいいという時代は終わった。番組はしぼりこみやがてはコンテツだけを買うことになる。光ファイバ-時代になればそうなる。放送するコストが極端に安くなるからだ。しかし一方で番組を作る労力は以前として人出も金もかかるし技術も創作力も必要だからここに金を使うことは変わらないしそれに受信料は払われるべきである。コンテンツ、番組を買い見るという時代になっている。一部はすでににそうなっているのだ。誰もが一方的に見させられるという時代は終わりである。情報は各自取捨選択し分析してそれぞれ解釈し批評する時代になる。こうして時事問題で書いてみてわかったのは情報は必ず自分なりに解読して分析する作業が必要だった。これは大変なことであるから今まで一方的報道を鵜呑みするだけだったのだ。



歴史の連続性-大町桂月の時代(日露戦争軍国訓)

歴史は連続したものである。歴史の問題は例えは縄文時代があり弥生時代がある。平安時代があり鎌倉時代がある。江戸時代があり明治時代がある。ある時期を画して全然違った社会になるものだろうか?縄文時代と弥生時代という区分けすると歴史の連続性が失われるのだ。それが精神に与える影響が大きい、連続しないから全く別なものと変わってしまったから黒から白へ赤から青へと極端に色が変わったものとして認識する。これは精神に不安定をもたらし混乱させる。歴史は連続したものとして理解せねばならない、例え革命があっても全く変わってしまうことは人間社会にはないのだ。技術の進歩は確かにすさまじい。狩猟の時代から稲作の時代の変化も激しい、でもやはり人間は人間であり人間の営みはそう極端に変わるものではないし、人間そのものまで変わらないのである。すでに縄文時代に稲作が平行して行われていたとか研究があり縄文時代と弥生時代は全く別物とする歴史の見方は混乱をひきおこす、歴史は連続したものであり連続しているからこそ意味がある。黒から白に変わるのでなく白と黒は交わり、赤と青は交わり社会は変わってゆくだけである。断絶してしまったら歴史の連続性がなくなるからまるで長大な川の流れは途中たたれてしまうような感覚になってしまう。時代区分はあくまでも目安とすべきであり歴史の教えかたは間違っている。明治維新にしてもノ-マンなどがすでに寺子屋とかが多く日本人の読み書き能力が世界でぬきんでていたとか欧米の文明化の素地があったのである。

ヨ-ロッパの歴史は一つの連続したものとして把握される。それは最古の文明のメソポタミアまで通じている。聖書を基盤としているからそうなる。そこに連続した長大な歴史が形成されている。だから個々の国の争いがあったとしても一つの連続したものとして形成されている。だからロ-マの再来のようなEUが形成される。それはそうした連続した歴史的基盤があるからである。だから精神的に安定したものが社会に醸成されるのである。それは日本人が訪ねてみてもそう見える。石の文明だから古いものが残っていることも歴史の連続性を感じるのだ。歴史が不連続になるとき精神も不安定になり混乱をもたらす、現代の文明は極端の科学技術の進歩でそうした歴史の連続性すら無視する不安定さをもたらした。あれだけの歴史を有する国でナチスのようなものが生まれることが理解できないからだ。巨大な科学技術の重圧のなかで文明への破壊衝動が現実化したのかもしれない、それが沈黙の世界などでピカ-トなどが指摘したことである。歴史の連続性もそこで破壊された。

日本の太平洋戦争(大東亜戦争)をふりかえるとこれも突然起こったことではない、歴史の連続性から必然的に起こったのだ。その一番の原因が日露戦争であることがわかった。たまたま十和田湖に行き大町桂月に興味を持った。国会図書館のデジタル図書館で「軍国訓」というのを読んだら手放しの戦争遂行者だった。まるで軍神の賛美者でもあった。あれは特殊ではなくああいう時代風潮だったのだ。そして明治時代はまだ武士の生き残りが精神的にも国民に影響していたのである。日本人は侍だ、武の国だとしきりに言っている。日清戦争と日露戦争は日本人が国民として一体感を持つ好機となった。国民が武人となり戦いに行き真の侍の国家たる日本人になったと熱烈に戦争を賛美している。それも時代の精神を受け継いだためである。明治維新は下級武士であれ武士が行ったのでありそのあとも指導的役割をになったのは武士だったのだ。教師になったのも武士が多かった。だから武が重んじることが生きていた。武士というのがプラスにもマイナスにも働いた。大町桂月ほどの戦国時代のような武力尊重主義は今になると異常に見えるがあれが明治時代でもあったのだ。その精神は全く太平洋戦争(大東亜戦争)まで受け継がれたしあれを読んだら太平洋戦争が起こるのも必然だと思ったのである。一億総火の玉突撃になるのも必然だったのだ。日清日露戦争の勝利の結果、太平洋戦争があった。そこですでに日本は負けない国だと確信していた。これは一人大町桂月だけの見解ではない、すべての国民がそうした風潮にあり戦争は肯定されていた。だから内村鑑三の非戦論は全く例外的な誰も同調しないものだったのでありだからこそ今当時の風潮からするとその非戦論に驚くのである。

支邦は援はれたり。韓国もすくわれたり。東洋の平和も維持されたり。日本は実に渡洋用諸国の恩人なり、韓国はすでに我が属国なりとなりぬ。支邦も益して敬すべし。戦後、支邦もしくは韓国におもむきて、日本人の経営すべきことすこぶる多し。まず京釜鉄道を延長して韓国と支邦と交通することをはじめとして教育学問に種々の事業に日本人の手腕を発揮すべきもの、要するに日本は干戈をもって東洋諸国を助けるのみならず精神上に教化する所となかるべからず、文化の盟主となりて東洋諸国をして文化の恩に欲せしめ一人たちのできる様にしてやることこれ日本国民のつとめなり。(日露戦争軍国訓-大町桂月)-国立デジタル図書館より

これは全く太平洋戦争の主張と同じであり今も右翼は同じことを主張して酔っているのだ。突然に事件は起こらない、日清日露で戦争の種はまかれ太平洋戦争につづいたのである。今のように平和平和という団体などは存在しない、それは女々しいとか完全に否定されていたというのも全く今と逆である。天皇が戦争の責任あったというより企業も国民も明治維新の富国強兵から戦争に向かっていたのである。そういう時流だったのである。その激しい流れをとめることなどできなかったのだ。なぜ無謀な太平洋戦争を起こしたのかと今になって問うがそれは日清日露戦争に勝利した結果、必然的に起こったのだ。日本は負けるなど思いもしなかったのである。それほど日清日露戦争の勝利で国の力を過信してしまったのだ。




失われた山の生活
(秋田内陸縦貫鉄道の阿仁マタギ)

今回の十和田湖への旅で「阿仁マタギ」という駅を過ぎた。それでマタギとは何かなど考えた。かなり奥深い場所であった。それを一番感じたのは角館に出るのに5キロある長いトンネルがあったことである。実際かなり長く感じられた。この長いトンネルをぬけると角館という街に出る。街への通路が長いトンネルだった。雪国は山に閉ざされる。だからトンネルが大事になる。道もトンネルを通さないと通じないのだ。青森の温川温泉に行ったときもトンネルをぬけると小国という町は隠されるように雪に埋もれてあった。地震で被害を受けた山古志村の手掘りのトンネルもその象徴であた。会津の只見の鉄道が通る前は険しい山道を行くほかなかった。日本の鉄道はその山々を通るからトンネルが多くなるのだ。そうした雪に閉ざされた山村でどうして生活しえたのか不思議である。

その一つの方法として狩猟が昔からあった。狩猟の歴史は人類の始めからあった。獣を食うことなしで人間は生活できなかった。農耕がはじまり狩猟は第二次産業になった。それでも戦前まで狩猟はつづいていたのだ。この狩猟は江戸時代と明治時代は違っていた。明治から銃器や弾薬の民間払い下げを行い狩猟を政府は奨励したのだ。毛皮として欧米に売るためだったのだ。日本は開国して世界貨幣経済のグロ-バル化の中に入り何か商品となるものが必要になった。それが獣の皮だったのだ。驚くのはカモシカとかもとられて皮にされていた。カモシカはもともと地元でも足袋などにしていた。皮が良質だったのである。もともと熊の肝だとかは薬として珍重され高く売れた商品になったのである。それも山で暮らすにはやむをえないために熊を殺していた。ところが世界的商品化になると虎のペニスが漢方薬としていいとか象の牙が象牙として売られるとかになりそうした動物が絶滅化の危機にさらされる。それは日本でも同じだった。カモシカも絶滅していたかもしれない、奇妙なことは私の家の父はイタチをとりその皮をはいで売っていた。戦後仕事がなくそんな仕事をしていた。だから家にはトラバサミとかがあり朝早く罠をしかけにでて行ったのである。

確かに動物の皮などは江戸時代でも商品でありそれを町に売ることで買えるものがあり狩猟は山の人々にとって不可欠のものだった。実際山の暮らしは厳しいものだった。秋山郷でも飢饉で村が廃絶したり阿武隈の飯館村とかにも飢饉で死んだ人の碑があり六字妙号の碑があり村人は飢饉からまねがれるために祈っていた証拠だろう。川俣の口太山は人が朽ちる山(朽ちた山)、うば捨て山のことだという、これを知ったとき寒々としたものを感じた。山の暮らしはもともとこのように厳しいものだったのだ。それでも山には狩猟であれ鉱山とかが多く炭焼きもあり戦後は養蚕が盛んになり山の暮らしもそれなりに豊かになっていた。木材も売れたから山には長者もいたのである。しかし今秋田内陸縦貫鉄道の阿仁マタギでもそうだが炭焼きもない、狩猟もない、鉱山資源は取りつくし文字通り空洞化してしまっている。

一般的に第一産業は空洞化している。観光だけが売り物となるが観光は生活ではないから山自体の魅力はなくなる。秋山郷にしてもそこに行ったから昔の秘境を感じることはない、檜枝岐でもそうである。観光地化したら秘境ではない、日本には秘境などないのだ。マタギというのも今や想像の世界にしかない、熊を殺し食ったりすることによって人間と動物の神秘的な交流がありそれが熊祭りなどの儀式化した。それは相手は生き物だから同じ生き物を殺すことは畏れを感じたのである。だから動物は神とされたりしたのだ。殺し食うことによってかえって実は動物との深い交わりが生まれたのである。狩猟時代の狩猟は牛を屠殺して肉として食うだけの存在ではない、動物も神々の一つとして見ていたのだ。だからエジプトでは牛にまで大きな墓を作っているしインドでも牛は聖なるものにされたりと動物が大事にされたのである。

賢治の童話でも熊を殺すことはやむをえないから殺す、そして最後は熊に殺される、それで何か互いに和解するとかの気持ちになる。

「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ。」と小十郎は思った(なめとこ山の熊)


それも熊をじかに殺すという行為のなかで芽生えた感情なのだ。これは外から自然保護を考えるのとは違う切実な人間と動物の交流の結果だったのである。これは創作にしろ獣を殺すものには何かそうした罪のようなものを感じる。だから仏教ともつながっていった。法華経の起こりが虎が飢えて子供を殺すというのを見て自らの肉を与えたというのはそうした動物との深い交流が日常的にあったから起こったのだ。賢治のようになぜあんなに食うことにこだわったのか不思議である。今はあらゆるものを遠慮なくがつがつ食っている時代である。ああした感情がなぜ生まれたのか、それはなんらかあの頃まだ動物との殺し食うとかの交流があった世界なのである。山が荒廃したというとき人間が狩猟で動物を殺すとか山の生活が失われるときかえって自然破壊が起きる、自然に無関心になるのだ。外からの直接に山やその動物とかかわらない自然保護は白々しい理論的なものになってしまうのだ。いづれにしろ今や山でも田舎でも何か生活感がともしい。それで俳句でも芸術でも生きてこない、アルタミラの洞窟のリアルな牛の表現はないのである。

熊の肝を供えて雪の山深しマタギの仲間ここに集いぬ