野馬追のビデオは時事問題の深層へ17へ
2004-
小林勇一作
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二本松まで(春の阿武隈をたずねる)2004-4月18日
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大江戸春の絵巻の詩2004-2-24
蕪村の俳句から江戸時代を偲ぶ(生活感覚の俳句2)2004-2-18
江戸の生活感覚の俳句 2004-2-
江戸時代の魅力 1月30日(評論と鑑賞) 2004-1-30
日本詩歌紀行地図に「松江と常夜灯」アップ2004
秋の阿武隈高原から二本松へ(俳句短歌−詩−写真集)
注意⇒英語の俳句は自己流だから正しくありません
英語の勉強のために試しに出しています
2002年8、9、10月の分を一ペ-ジづつに作り直しました。
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2004年8月31日(火) 羽根がすれきれた夏の蝶
なお飛ぶや羽根すりきれて夏の蝶
身にあびて晩夏の陽ざし惜しむかな
この羽根がきれている夏の蝶を見て自分もぼろぼろになるまで自転車で旅したことを思い出した。この夏の蝶も羽根がぼろぼろになるまで飛んだのだ。そしてなお飛ぼうとしている。夏も終わりだが今日も明日もまた暑い、ただ晩夏の日ざしで今は惜しむようにその日ざしをうける。そしてまた隣で人が死んだ。この頃死ぬ人が多い。なんにも話すこともない人だった。今は田舎でも隣は何しているかわからない人が多くなっている。だから話すこともなく何をししていたのかもわからない人だった。庭の手入れなどをしたのをすぐ近くでは見ていたのだ。近くても今は遠い人がかなりいるし遠くても近い人もいる、そういう時代でもある。
2004年8月29日(日) 雨にめれた蝶
飛び去れり嵐も来るや夏の蝶
雨ぬれてあわれ五六羽秋の蝶
雨ぬれて五六羽というのは写生である。これに説明加えると良くない、説明加えているのが結構多いのだ。・・・のごとしとか・・これはたいがい良くない俳句である。
2004年8月28日(土) 都草
都草何か新しきものいでよ
都草の袂に眠る蝶一つ
鶏頭や新しき会社ここに建つ
都草のイメ-ジはやはり何か新しいものである。田舎にはこの新しいものがない、新しいものが起こりにくいのだ。都会では新しいものが常に試されている。田舎にはそれが欠けている、しかし都草は田舎にも咲くのである。都に咲いていたから都草と言ったというがそんなはずはない、野草は田舎の方に咲いているのだ。インタ-ネットはかなり新しい試みだからここから新しいものがでてくる。インタ-ネットとは常に革新の場なのである。多少日にちをおくようになったが「今日の一句一首」もそうだった。これは新しい表現なのだ。他にもインタ-ネットならではの表現がある、ただ発見されるのがむずかしいのがこの世界なのである。
2004年8月25日(水) 秋の蝉
故郷に共に暮らして秋の蝉
馬の顔少女なでるや秋の風
こんな簡単な句が俳句なのか?これって誰か作っていないか、同じ俳句があるのではないか、自分もそう思う、これが俳句になるのか、でもこれの意味するものは人間は子供から青年そして壮年から老年とあり老年ともなれば秋の蝉なのである。つまり秋の蝉というときそれは同年代がすでに故郷に老年となり秋の蝉となったということである。ただそれだけのことだがここに人生の移り変わりがある。いつまでも夏に激しく鳴く蝉ではない、いつしか秋の蝉になっているのも人生なのだ。だからこれはやはり老年にならないとわからない句だろう。これについては時事問題で「地域通貨の意味」で書いてみよう。
野馬追いの里だから馬を一年中飼っているところがある。ばあんさに連れられた少女が馬の顔をなでる。これも動物と人間の交流である。気持ちよさそうに馬は顔なでられている。動物と人間が共存する世界はいいものなのだ。これほどまでにペットブ-ムなのは無垢な自然や動物との接触を求めているからだ。無垢な動物と接していると癒されるからである。
2004年8月24日(火) 曲がったキュウリ
庭に育つまがったキュウリに人の顔
まがったキュウリは今やない、それは規格外として認められない、文明はすべて規格化である。規格外の人間は排除される。人間的なものは排除される。しかし本来まがったキュウリと人間の顔はにあう。今や顔さえ規格化されている。ロボットのような顔にされてしまう。
規格外のものこそ人間的なものなのだ。人間というは規格化されないものである。
2004年8月22日(日) カボチャの白い花
津川にて朝目覚めれば川の土手カボチャ?の白き花の咲くかな
津川は写真にも出したがいいところだった。あの川がやっぱりいいんだ。駅に泊まって朝目覚めて川に行ったらカボチャの白い花が咲いていた。カボチャに白い花があったのだ。なんとなくこれがにあっていた山の町だった。ただ町の方には行っていない、駅で寝ていたのだ。暑いから駅でも良かった。
これは明らかにカボチャだろう。白い花のかぼちゃとなるとどういう種類なのか今はわからないが・・・
これはカボチャでないようだ。今のところこれが何の花なのかわからない・・・
2004年8月21日(土) かすかな声
部屋にいて耳を澄ませば秋の蝉
人間年とると読むこととか聞くことにたけてくる。しかしいかにいい本でも人間はそれを読んでいなかったことにきづいた。こんないいことを書いたあったのかと気付いたりすることが多すぎるのだ。本を山ほど積んでいても読んでいなかったことに気付くのだ。この世にはいくらでも読むべきもの聞くべきものがある。つまらない人が書いていることでもそれを読める人は参考になる。ホ-ムペ-ジでもそうである。これは読む力、聞く力がなければとてもじゃないが活かせない、これは若い者にはない、相手を読む、理解する力は青年ではできない、これは経験とか体験が必要だしかなりの知識の貯えも必要である。年取ると読むとか聞く力がででくるからじっとしていても何か意味あるものを見い出すことができる。
なぜ芭蕉が「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」とは死が近くなるとけしきは見えないのだが声だけは聞こえてくる。耳を澄ませば声だけが聞こえてくる。かすかな声がきこえてくる。けしきはみえなくなってしまう、それでも最後は蝉の声でも虫の声でもかすかな声は臨終の中でもきこえてくる。だからこの句ができたのかもしれぬ、ただ現代は騒音社会だから人間は自動車とかの騒音のなかに消されてしまう、微妙なかすかな命の声も聞こえなくされているのが現代である、江戸時代などの静寂の世界とは余りにも違った世界だから感覚的に人間は退化しているからいろいろなかすかなものや命の声を聞こえなくなっている。まあ、秋はこうしたかすかな命の声に耳を傾けるのに向いている。
2004年8月19日(木) 虫の音とパソコン,
虫の音のかすかやもの書くパソコンに
秋の蝉一人聞きつつ野良仕事
虫の音を聞きながら今この文をパソコンに向かい書いている。かすかな虫の音に耳を傾ける。それは他者のかすかなめだたぬ声に耳を傾けることでもある。自分はかなり他者のホ-ムペ-ジを読み利用している。インタ-ネットとのコンセプトは三人寄れば文殊の智恵である。何かしら有効な体験とか情報をもっているのが人間なのだ。何ももっていない人はいない、そこで問題なのが専門家なのである。これらは金にならないとか素人を相手にできるかとか情報を出さないし素人を締め出す傲慢さがある。専門家でなければわからないのだとかいって情報を出さないし独占している。利益がでなければ出さないというのもわかるがそれはインタ-ネット時代にあっていなのである。有名な作家もインタ-ネット上では書いていない、なぜか金にならないからだ。ほとんど本の紹介でおわっているからかえってつまらないのだ。一方で出版社や原稿を没にされたとか排除された人は書いている。自分もその一人だがその人たちの書いたものがつまらないかというとそうでもない、読むべきものは必ずある。結局マスコミや出版社は権力をもっているからそれらのものによって決められる。三人寄れば文殊の智恵といいコンセプトは今までのメデアにはないのである。そこにあるのは排除であり団体組織の力とか権力に従うとか一方的に押しつけるとか双方向でなくて一方通行だったのである。
2004年8月15日(日) 屋敷林
芙蓉咲き前田の広く屋敷林
屋敷林って結構ある。木立囲まれた家、その前に広々と田が広がっている。
一番いい住まいである。街からもそんなに離れていない、一番理想的な住まいである。ただここも六号線のような道路が走っていたら騒音ですみにくい。屋敷林に囲まれていれば森の中にいるような感じになる。街中にいるのとは全然違うだろう。
自分の住環境はかなり悪い。となりはくっつくようにあるし自動車の騒音はあるし見晴らしはゼロになった。将来的にはどうしても移りたいがなかなか住まいを変えることはむずかしい。
2004年8月14日(土) 秋めく
桔梗二輪松一本や旧き道
ようやく秋めいてきた。今日は涼しい。芙蓉には黄色の芙蓉もあった。
いろいろ品種改良したのだろう。芙蓉は大きな花でゆったりと咲くのにふさわしい。
ただ現代は何かに常に追われていてゆったりできないのだ。田舎に住もうがどこでもそうだろう。
情報もある程度遮断しないとゆったりできない、オリンピックなどもみんな見る必要はない、オリンピックにのせられるのもまた忙しくする要因になる。
2004年8月13日(金)
大ひまわり小ひまわり昼の畑かな
Big sunflwers and little sunflowers
at noon in bloom in the field
芙蓉咲き一日まつわり蝶の飛ぶ
涼しさや夜の田に流る水の音
写真もむずかしい、二枚はなんとか見れるものになった。毎日晴れているから写真とるのにはいい、でも思ったようにとれない、やはりアップでとると見映えがする。二枚はなんとか見れたか、夜まで暑いから田んぼの道を自転車で走った。水が流れる音がして涼しかった。こういうことは都会にはないだろう。からっと晴れた日がつづいている。
ゆくりかに入陽や二色の芙蓉かな
8月1日
蟻一匹重い死骸を曳きにけり
one mighty ant pulls up
the big dead body
a kind of insect
ビデオへ(蟻の力)1mb
鬼百合やもう一坂越えゆかむ
ひぐらしのひびきに静か四方の山
七色のダリア広がり夢の国
seven coloured dahliaes
the dreamy world
in my sight
七色のダリアにひまわり映えて暮る
こんな大きな虫の死骸を一匹の蟻で引っ張っているのには驚いた。一匹の蟻にこれだけの力があるのだ。これは自然の驚異である。生命の驚異である。蟻一匹にすらこれだけの力があるのだ。何をエネルギ-源としてこれだけの力がでるのか不思議だ。自然はよくよく観察すると驚異であり神秘である。科学的に解明されたようで実際は何にもわかっていない、科学でわかるのとではこの一匹の蟻のエネルギ-はどこからでてくるのかわからないのだ。こんな小さなものにも神は大きな業をなす、その驚きだ。今日は山の方に久々に行ってきた。この頃暑さで体調を崩したがまた元気になったのでこれから動きはじめよう。