2002年10月 今日の一句一首


10月21日

一輪の竜胆ひそかこの道の行く人まれに我のみ知りぬ

約3ケ月間今日の一句一歌やった。これもインターネット的表現方法で
表現する者としては新しい経験だった。この毎日アップするということで創作が刺激されてできたものもあった。過去のものも出したがそれは二三にすぎなかった。ほとんどライブで今できたものをだした。こういうことは今までのメデアでは絶対にできない。そういう場が与えられていないからだ。ホームページは表現するものにとっていろいろなことができるものなのだ。今日の一句一歌というのは一つの句なり短歌をクロ−ズアップしてだした。これも一つの表現方法だった。例えば新聞にこんなふうにして表現できる人などいないのだ。なぜならマスメディアは大勢の人が対象だから個人には表現の場など与えないのだ。ただこれはアップするのに手間がかかった。結構めんどうになった。インフォ−シ−クにもアップしていたので手間がかかった。やはり一ペ−ジに日記風にアップするのが楽である。毎日二ペ−ジづつアップするのはめんどうである。一ペ−ジだと写真が増えてこまるが別のペ−ジに写真をリンクさせよう。ともかくホームページはいろいろな表現方法があり試せる場でもある。ただこれが読まれるかというとこれは非常にむずかしい。みんな私的な日記になっているからだ。俳句にしても一万くらいのホームページがありこれをいちいちチェックできる人はいない。ここにインターネットの問題がある。だから他者の俳句でもほとんど読んでない、評価のない新人を発掘するようにして読まねばならぬのがインターネットだから大変なのだ。おそらく自分のこの実験も読んだ人は微々たるものである。でもライブだということはその時読めば臨場感があって訴えるものがでてくる。これをあとから読むのもいいがそうするとライブ感覚はなくなる。でもホームページをそんなに注意して読む人は極限られた人である。2ちゃんねるにしてもライブ感覚の江戸端会議なので面白いのだ。インターネットはライブ感覚の表現に向いているのだ。それで今度九州を旅するのでAIRHの無線インターネットでライブの中継の実験をしてみよう。これはどこでも無線が通じる所でホームページにアップできる。一日の内に何回かアップできるかもしれん、そうするとどうなるのかこれも実験である。旅のライブ放送になるかどうかである。


10月17日

可也山の秋のあわれや韓国(からくに)を偲びてこに住める人かな

草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさを鹿鳴くも 3674

韓国紀行を中断してしまったがなかなかまとまったものを書くとなるとむずかしいのだ。文学的作品にするにはむずかしい。こうして一句一歌となると書きやすいのだが長くまとまったものは時間がかかる。
可也(かや)伽耶とは韓国の釜山辺りにあった。韓国とは非常に身近な国なのである。拉致事件なども起きた古代にもこれとにたような事件がおきていたかもしれない、簡単に船で連れ去ることができるということである。

あじかまの可家の港に入る潮のこてたずくもが入りて寝まく 3553

これもカヤとなっているがこの意味は良くわからない、カヤという国から来た人たちが名づけた港かもしれない。韓国紀行は続編を書く予定だが時間がかかる。

検索で写真はかなりでています


10月16日

残り咲く三輪ほどの秋の薔薇この道今日も我が通り暮る



10月15日
今日も来ぬ雀や庭の小菊かな

家のものがご飯を毎日置いているので雀がくる。毎日来るのそれはくらいだ。しかしいいものなど来ないのだ。いい人もめったにこない。何かいいことが来ることを望むべきでない。何か期待することはよくない。人間は何らか常に欲望がからんでいるからだめなのだ。雀は今日の一日分の腹を満たせば満足なのだ。明日のことは考える必要もないのだ。幸せになるのには欲を少なくすることである。欲が多くなれば憂いもます。何か得られないもの得たいという
ことになると不幸になる。少ないもので満足すれば幸せになる。そういう暮らしを考える時が来たのである。十分に日本は少ないもので満足する暮らしができるはずである。どう考えても日本がアメリカにつぐ経済大国というのは身分相応ではない。だから縮小せざるるを得ないのだ。これは自然の摂理なのだ。富は貧乏な国にもまわってゆく。それが公平なことである。

10月13日
秋の薔薇一輪散るを惜しむかな


いつもゆく道に今日みたら薔薇は散って最後の一輪になっていた。
一輪一輪散ってゆく薔薇は秋らしい。惜しみつつ見ていた。夏の薔薇は散ってもまた咲くという感じで散ることにあまり感じないが秋の薔薇は夏の薔薇とは違うのだ。「また一輪散りて残れる秋の薔薇」これも薔薇の連作である。
薔薇の句の連作があるので参照してください

10月10日

日々行ける道の静けさ秋の薔薇

だんだん秋が深まってゆくようだ、どういうわけか夏の薔薇より秋の薔薇にひかれるし秋の薔薇の方が美しいように思う。青春は確かに夏の薔薇である。
華やかに輝いている。しかしこの青春もたちまちすぎてしまうのだ。青春の輝きの日は余りにみじかい。たちまち老年の日が誰にもやってくる。静かに咲いている秋の薔薇にひかれる。ひっそりと静まって咲いている。年とともに自然も社会もすべて違ってみえてくる。年とともに自然は一段と味わい深くなるし人生もそうといえる。青年時代は時間をもてあますことが多い。年とともに時間というのが一番大事になってくる。残された時間が少なくなってくるのだ。
今までなんでもない当たり前だと思っていたことがとるにたらないものが貴重なかけがいのないものに見えてくる。なぜかというと時間は有限でありその有限の中で限られた時間の中でしか見れないし会いないものだからである。
青年は行動の時代だから芸術的にはあまりいいものはできない。
壮年と老年は鑑賞の時代なのである。花でも何でも振り返ったり鑑賞することが喜びなのだ。老年になると思い出が意外と貴重なものになる。しかし思い出は金によっては買えないのだ。その人がどう生きたかにかかわっているからだ。金持ちになったがその思い出は苦いものである人もいるし貧乏でもその思い出はいいものだった人もいるのである。これは内面の問題であり外からは計り知れないことである。外見だけから幸不幸は判断すべきでない。芸術は内面に実るものであり宗教もそうである。政治とか経済的なものと違うのがそこにあるのだ。宗教が数の多さとかそういうものにはなく一人の改悛した
人の方が尊い世界であり数は関係ないのである。数を誇るということは権力的なものを目指しているのだ。


10月9日
隣り合う病人あわれ虫の声

家族の入院した病室は特別室で応接間にあるソファ−もある。まあ四五日だから金がかかってもいいだろう。病院には老人が多い。毎日のように病院に通う人がいるのだ。近くだからすぐ行ける。でも5万くらいの都市が住むにはいいかもしれない、やはりたりないものがでてくるからだ。


10月7日

病院の身近にありて虫の声

家のものが目の手術のために入院した。緑内障と白内障である。この手術は簡単である。老人になると必ずくらいなるもので白内障は直るらしい。近くの厚生病院で手術できるので楽だ。自転車で5分くらいで行ける。これが隣の市となると自動車がないので大変だ。病院は身近にないと不便な場合多い。近くにある虫の声には耳を傾けることができるが遠くとなるとそうもいかない。福祉施設とか病院は身近にあるのがいい。
毎日くらい通っている町の医院は隣と同じなので往診にきてくれた。老人はみんな病気をもっているのでその医者自体85才以上の老人なのだがつづいている。自分の体調不良や何やかにやで毎日アップするこのペ−ジもかなり休んだ。またつづけてみよう。


10月1日

秋の蝶羽根美しく弱り死ぬ


路上に秋の蝶が一羽死んでいた。蝶は美しい羽根をもちその羽根を残して死んだ。ただ美しい羽根のみが輝いている。蝶は神がその美しい羽根
故に創造したのだ。ただ美しい羽根をみせるために蝶は花々のなかを舞い短い命を終えた。記録に残るのは花々のなかを飛んだ思い出だけてある。その羽根は最後のとき一段と美しく輝きを放った。蝶はしあわせだった。まことに神の手から放たれた天使だった。しかし動物の死は人間と同じように無残だ。隣の犬は断末魔の叫びを二三日か天に向かい鳴きつづけ死んだ。あんなに動物も生に未練があるのかと意外だった。人間の死も無残だ。断末魔の叫びとともに死ぬのだ。欲深いものは余計にそうだろう。死の瞬間はまさにこの世の欲望から断ち切られる時だからだ。欲のないものは比較的楽に死ねるかもしれない。この世に死ほど無残な残酷なものはない、死の克服なくして成仏はない、成仏というと楽に死ぬということだがそれだけでは死の問題は解決しない。蘇りとかか永遠の命をもたさらなければ死の克服はないのだ。つまりキリストに頼る意外それは方法がないのだ。死とともにすべてが終わるとしたら人間の生に何の意味もないのだ。