トラジットで岩沼→柴田駅→仙台





岩沼でおりて阿武隈河畔に向かった。阿武隈河畔は風が強かった。木枯らしだったのだ。途中墓所がありそこに菊が咲いていた。墓にふさわしい花だと思いデジカメで写真をとった。次に冬田の道を走った。白石まで行こうと思ったが木枯らしの風が強い。それで出てきたのが阿武隈急行の駅だった。東船岡駅とあり閑散としていた。ここの電車は余り通らないだろう。自転車で行くと意外なものが見えてくる。前は電車ばかりで見るものは同じだった。白石川が阿武隈川にそそいでいる所が見えた。これもわからないことだった。電車からの景色ではかなり見落とすものがある。その点このトラジットは一駅おりてその次の駅くらいまでなら走れる。それで違った視点が得られると思った。木枯らしが強いので白石まで行くのはやめたというよりかなり遠かった。着いたのは柴田駅でありこれも意外だった。

トラジットは片手でも持てる軽いもので意外と便利だった。仙台にきて街を軽く一周してブックオフとかで古本買った。品揃いがいいので買うものがいつもある。今パリのことなど調べているのでその方面探したがいいものがなかった。それで次にジュンク堂に行った。ここでパリ関係のものを7千円くらい買った。今専門的な本は高い、詩とか文学とか歴史とかこうした専門の本は高いから苦しい。それでもインタ-ネットでは同じ情報しかない、みんなパリに行っているがたいがい同じようなことしか書いていない、その理由は歴史がわからないから書けないのである。東京が江戸でありそこに歴史があったことを知らないと現代の東京だけ見ていたらなんだつまらないなとなるのと同じである。この歴史を知ることは容易ではない、だからみんな一様なものしかならないのだ。

仙台は前は一週間に一回とか行っていた。本を買うためである。定禅寺通りは仙台の情緒ある通りである。ここに行ったのは何年かぶりだった。歩いて行くのがめんどうだったからだ。トラジットでスイスイと来て回ってきた。前あった喫茶店はなくなって安い喫茶店になっていた。喫茶店の窓辺により落葉の通りを行く人々をなんとなく見ていた日があった。あの頃から自分は暇人だったのだ。高等遊民だった。団塊の世代は大学は遊んでいたがほとんどが猛烈な企業戦士となったことが不思議である。あんな自由な青春を送ったらそうならないはずだからだ。事実フリ-タ-やヒキコモリとか何百万も今いるということがそれを示している。自由で多少金があれば人間はやりたくなことはやらないのだ。団塊の世代はまだ貧しく育った人が多いからそうなったともとれる。それにしてもあまりにもすべてが猛烈な企業戦士となったことは意外である。その当時はみんなもてはやされた。会社人間であらずば人間にあらずであった。仕事はみんな景気が良くうまくいったのだ。自分のようなアウトサイダ-になって社会からはずれた人間は極々まれだしそうしたことを許されない風潮があった。今は逆にそうした人間が普通になっているということも不思議である。


仙台に林子平の墓がひっそりとあることをインタ-ネットで知った。50年後に墓を作ることを許されたという。それでも先を見通していたのだ。未来に通じていたのだ。未来に通じているものが生き残るのだ。今ばかり見ていたらわからない、今勢力を持っているものが50年後には跡形もなくなる。そんなものがあったのかとなるのは珍しくないのだ。全く無視されたものでも未来に通じていれば残るのである。林子平という名前は聞いていても関心がなかった。ただテムズ河に行ったことがあり思い出してそんなこと書いていた人あったなと思い調べたのである。歴史は身近なことでも関心をもたないとわからないことが多いのだ。おつりの新札は野口英世であった。これはまだ自分の田舎で出回っていなかったから新鮮な感じがした。新しい札は何か経済的効果があるのか、その辺はわからない、ともかく都会には都会の良さがあり必要なことはいえる。都会だけではなく田舎も必要なのである。冬田を行けばしんみりとするし墓がにあう、仙台辺りだとそうした自然はまだある。田舎の風景から都会に出る、それが新鮮なのだ。都会だけだったらつまらないのである。とにかくトランジットは電車の旅で新しい旅ができるかもしれない、一駅おりて次の駅くらいまでの旅である。


冬晴れや流れは海へ阿武隈川

寒菊やただ黙して墓石かな

誰が墓や冬田の道に風唸る

北風や阿武隈急行の駅一つ

木枯らしに追いやられ来ぬ柴田駅

仙台や隅の喫茶店に落葉かな

定禅寺落葉のたまり喫茶店

仙台に古本買いて落葉かな

僧一人黙して立てる冬の暮

木枯らしや林子平の墓残る

仙台の通りのはずれ古道具売る店ありて落葉踏みゆく