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小林勇一作
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(2003)
秋の阿武隈高原から二本松へ(俳句短歌−詩−写真集)
(10月20日)
夫婦岩の絵追加
12月31日
里の道月影照らし沼に星ひそかに写り年の終えにき
里の道月影照らし年終えぬ
月影に照らされて里の道が見える。それはしかし明るい街の灯と自動車のライトの洪水がすぐわきの道にある。現代は人工的な灯が多すぎるのだ。その人工的な光の洪水で実際は原生の感性は鈍っている。では人工の光で人間が聡明になっているかというとかえって文明的奇形児を生み出しているのだ。沖縄では詩にも書いたが月の光が美しかった。砂浜に月が昇りそれは昔にタイムスリップした感じだった。沖縄の離島が人気があるのはわかる。文明の人工的な灯に人間の感性は退化してしまった。24時間眠らない都市はまさに異常都市だ。冬には自然は山眠るごとく眠りにつくのがいいのだ。自然のリズムからはずれた人間も人間ならざるものになってゆく。月の光に照らされて里の道が自分には見える、その道に導かれて行ったのは沼ではない、堤である。自然の沼だったらいいが堤でもないよりはいい。会津の方にはこうした沼があるからいい、神秘的な自然の沼である。そうした自然を日常的にもっている事は幸せである。会津の針生部落にはその神秘的沼があった。しかしあそこをスキ-場にしたのは良くなかった。がんがん音楽をならしうるさくなったのだ。生活のためでも昔の部落のたたずまいはなくなったのだ。
12月29日
故郷に社一つや冬木立
自分の場合、暇だからかなり旅行していたから故郷は旅行に帰ってくる場所のような感覚になっていた。それでも海外の旅行は最近だから旅行したというほどにはならない、外国は旅行してもわからないことその土地についてわからないことが致命的だった。言葉もわからないしその土地を読むことができない、日本だったら地名一つからかなりのこと歴史も読めるのだが外国ではできない、これが外国旅行の貴重な経験にしては余りにも残念なことだった。たいがい外国旅行について詳しく書けるのはそこに住んでいる人であるのがこれでわかる。ちょっと観光で行ったくらいで外国はわからない、だから意外とあれだけの経験をしているのに書いたものが
旅の仕方などに重点がおかれていいものが書けていない、事情がわからないからだ。まあ、今年も終わった。社一つ一つ見て歩くのも郷土を知る一つだろう。意外と人はじ自分の土地のことについて知らない、遠い外国のことを語りたがる。それが何か進んでいる、特別な人のように見えさせる時代である。しかし意外と外国のことは行ったとしてもわからないから良く説明されていないのだ。深い体験にならない、外国旅行と国内旅行はずいぶん違う、あとで思い出していいものが書けるのは国内旅行だが外国旅行は体験のわりには自分の場合は印象として残らなかった。これは人によって違うが外国を知り深く体験することはむずかしいということである。
12月27日
白石の城下への道遠しかも山陰の家年も暮れなむ
相馬から白石まで行く道はくねくねと細い道がつづいていた。山が迫り山の陰になっていた。白石の城下まで行くことは市の立つ日とかにしか行かなかった。歩いたらかなりの距離だからだ。だから市の立つ日、七日町とか六日町とかがある。一カ月に一回市がたち人々が遠くから集まる。市の立つ日は特別な日だったのだ。今は自動車だから遠さ感じなくなった。自動車がないと山間地はバスの便もないから遠く感じるのだ。仙台が汽車で一時間くらいだとするとかなり近く感じる。でも山間地は自動車がないとやけに遠く感じるのだ。なかなか行けない所になるのだ。この感覚は自動車をもっている人にはわからない、だから昔はなるべく身近なもので間に合わせて暮らしていた。それしか暮らす方法がなかった。電話もないし交通の便がないとしたらそれぞれが島のように孤立した感じになる。だから山間のわずかの細田でも米が取れる貴重なものとなっていた。そうした昔の生活感覚が今はわからないのだ。通信販売でも今や物は簡単に手に入る。ただ金がかかるから金がないと物が得られないから貧乏に感じるのだ。昔は物は城下に行ったてそれほどのものはない、最低限の生活でありそれで満足する他なかった。情報量も極端に少ない、村の範囲でありちょうど島のように孤立した生活である。ここではよそ者はすぐに目立つしよそ者は特別の人だった。現代は情報の過剰である。昔の情報が人伝いであり人を通してしか情報は伝わらなかった。遠い都の話は神秘的であり不思議なものだったろう。つまり一生に一度も行けない場所だからである。今や東京というのは誰でも行っているし生活した人も多いから神秘的なものではない、何か特別なものがある所でもなくなっている。情報の過剰が神秘性をなくしてしまったのだ。
12月27日
枯芒人気なきかも繊き月
12月26日
隠されてまた一二軒冬の暮
昨日は磯部の方を自転車で回ってきた。あそこはまだ一回くらいしか通っていなかった。手の沢の沼へ出る道だった。近くでも道は幾重にもあるから行かない所に行くのが面白い。しかし相馬郡内隈なく行っている。もう行く道がないと思っていた。それでもやはりそこの山陰に隠されるように家があった。まるで自分は相馬郡内の家を一つ一つ数えるかのように見て歩っている。暇といえば暇である。それで思うことは田舎の家は存在感がある。一軒また家があることはそこに暮らしがあり存在感を示している。家が大地に根付いたような頼もしさを感じるのだ。一方都会では家なんか多すぎて数える気もしない、うんざりする。都会では家も存在感がない、特に団地とかマンションとかビルの狭間に家があるのはいやだ。のしかかるような圧迫感を感じる。
それに比べ山陰に点々と隠されるようにある家はその土地と一体となり存在感を示しているのだ。それが本来の人間の生活の姿なのだ。大都会はもはや人間の棲む場所ではない、そういう所にいること自体ストレスがたまり家に放火でもしたくなる、普通の人でもそうなりやすいのだ。破壊衝動が起きてくるのだ。平和な心にはなれないのだ。平和平和というけど戦争のないことだけが平和ではない日々の暮らしに平和がなければ平和はない、それが大都会にはない、10万くらいが人間として暮らす限度かもしれない、この俳句もちょっと読めばつまらない平凡極まりないものだがそれが心に訴えるものがあるのだ。それは自然と調和しているから自然の中で存在感あるのだ。
12月25日
海沿いの保養の宿や冬椿
古磯部一本松の切られしやあわれ淋しも冬の日暮れぬ
蒲庭(かばにわ)の宿は海が見えるから保養にはいいかもしれん、なんか今日はまたあたたかい、今年は暖冬なのか、でも急に寒くなったりする。寒椿というとさらに寒い感じだが冬椿は12月頃の椿になるのか、季語によって微妙に違うのだ。
古磯部はもともとあそこが磯部の中心地だったのか、古町とあるのはそうだからあそこに最初に移住した人が住んだのか、一本あった松がまた切られた。松は切られやすい、枯れやすいためなのか、枯松という地名が残るのは、その松を惜しむからかもしれない、松はやはり日本を象徴する木なのだ。
12月23日
しんしんとつつがなしかな眠る山
しんしんと静寂極め眠る山
the deep sleeping mountains in tranquility
山眠るというのはいい季語である。中国人が発明した。中国と日本は文化的には欧米文化より密接である。インドでも仏教が伝わったから文化的つながりが深い。ただ欧米一辺倒の文化摂取で忘れられているのだ。
今中国はかえってわからない、東洋文化というとカンボジアのアンコ-ルワットのように忘れられている面がある。この復興、ルネサンスが必要なのだ。東洋は哲学的にも宗教的にも欧米より深いのだ。キリスト教が欧米の文化の基礎としてもそれは欧米的キリスト教であり政治的組織的なカトリックが基礎にある。世界遺産で見たドイツの修道院は行政組織であり国家の前にカトリックが政府の代わりをしていたから宗教改革が必要だったのだ。世俗の権力と宗教の権力の分離が必要だったのである。
いづれにしろ眠る山という表現は欧米にはないだろう。これは東洋的な自然の見方である。眠る山のキ-ワ-ドで検索すると結構いいのがあった。これは各自するほかないだろう。冬はやはり自然のリズムに従って休息して眠る、冬ごもりになるのがいい、これも気持ちがいい、現代文明に必要なのは静寂である。茶の湯でも静寂の中で培われた文明である。
現代はあまりに騒々しい、東洋的静寂の文化が必要である。
12月22日
寒菊や松一本に今日も寄る
廃線の跡をたどりて年暮れぬ
いつも行く道に一本の松がある。それを人間に例えればいつも指標として頼りになるのは大勢ではない、一本の松である。人間であれば精神的に頼りになる人はいつも頼りにするのは非常に少ないのだ。それだけの人間は少ない、情報として摂取するのと人間として指標となるのは別である。内村鑑三とか上野霄里氏とかあとは天才といわれる人とか人になると非常に少なくなる。それだけ人物は少ないのだ。現代ではほとんどいない、マスコミからでて有名になっている人はマスコミによって売り出された人で人物ではない、そこが昔と違うのだ。マスコミから売り出された人は芸能人なのである。
今一番有名で影響力あるのがテレビに呼ばれて発言する人より司会者なのである。司会者が仕切っている。司会者の方が肝心の発言する人より上になっている。司会者が一番目立っている。司会者は単なる案内者だが一番目立つ人になっているのだ。いづれにしろ現代は水平化の時代だからもはや内村鑑三のような特別秀でた人を指標にすることはないしそういう人はでない、つくづくこれほど自分と比べても人物の大きさが違うのだろうかと思い一面がっかりする。明治という時代が生んだ人物だからかもしれない、変革期には巨大な人物が生まれる。
万葉時代、戦国時代、明治維新、・・・これは軍人の時代であり明治も最後の武士の文化を継承した人達が活躍した。内村鑑三もそうである。戦後になるとラビ、バトラによると守銭奴の時代であり有識者の時代であるから英雄的人物はでてこない、その中で上野霄里氏は例外的人物だとなる。明治にあらゆる大学でも実業でも宗教でもなんでも創始者がでたことでわかる。現代では創始者はいないのである。
12月21日
みちのくの山の眠りの深きかな
みちのくとは何か、やはりみちのく独特の風土と歴史がある。みちのくと北海道は近いがかなりちがったものである。東北にはまず大都会がない、仙台がそうだが50万といってもちょっといくと田んぼになっているし50万人が集中して住んでいるわけではない、せいぜい10万単位の都市であり大都会ではない、100万以上となると大都会である。みちのくは歴史的にも大きな都もなかった。みちのくはやはりみちのくとしての特性が未だにある。ただ芭蕉が旅したみちのくとはあまりに違う。奥の細道はない、全体としての陸奥に目を向けるとそこはやはり自然がまだ広く覆っている。だから未だ眠りのなかにあるしまたその眠りが深いことが安らぎとなる。自然の安らぎがあるのだ。俳句や詩も土地の特性、風土と関係して生きてくる。
みちのくの日本からみた現代の役割は経済発展だけでなく過度に文明化都会化したなかでそうではない価値を見いだすことである。冬は文明の騒擾を離れ深く眠る山々、そこに安らぎがある。深い安らぎがある。みちのくは瞑想的場所であり哲学的場であり経済や工業や商業の場ではない価値がある。日本すべて一つの価値を追求するべきではない、みちのくは精神的安らぎの場所にふさわしいからあまり開発をすべきではない、九州はどうしても韓国と近いから中国ともつながりを求める役割がある。地理的条件の違いが個性を作る。東北は遅れているからだめだとはならない、それぞれの役割が違うのだ。
これは世界的に見てもそうなのだ。国には地理的条件によって役割がありみんな同じではないのだ。いづれにしろこれからは文化の時代である。文化とはculture(耕す)だからその土地に根付いて耕すものとなる。多様性の時代なのだ。インターネットがそれを示している。インターネットはマスコミとは違い多様性に満ちている。多様なる価値の追求がインターネットであり21世紀である。
12月20日
山眠るその寂けさの深まりぬ
今日は風が吹いて寒い。一日部屋にこもりきりだ。冬は瞑想に適している。
冥王星は瞑想の星である。地球から遠く離れている死の惑星かもしれない、そこには墓場があるかもしれない、文明に静寂がない、眠ることなく働きつづける。働いているものは何か社会に貢献している。それが無益なものでもそうである。無駄な道路でも作っても仕事をしたと称賛されるのだ。しかし一方その森を神聖なものとして入り小鳥の声に耳を傾け花を探している人間は無駄な人間となる。これはソロ−が言ったことである。
今や聖なる森を破壞する人間が社会のためになると称賛される時代は終わった。道は確かに埃だらけのぼこぼこ道だった時代なら必要であった。今は過剰である。それが自然破壊までなっている。文明は眠らない、だからそこに安らぎがない、文明は絶えず何かに追われ仕事をしている。文明は休むことがない、だから疲れるしストレスがたまりそれが爆発して放火となって四人も死んだ。そもそも安らぐ環境がないのだ。冬は農民のように季節に従い冬ごもりとなり田が休むように休むのが自然にかなっている。休むことがない文明、それは豊かな文明ではない、むしろエジプトのピラミッドは休止している。何か精神に安定感をもたらす、単なる王の墓ではなく宗教的建築物であり象徴でありそこに安らぐものを見いだすのだ。つまり現代は文明から離れないかぎり精神の安定さえ得られない時代なのだ。山は文明の世界では眠ることはできない、自然のリズムの破壊が文明である。
12月19日
花輪線久しく乗らじあわれかな小屋の畑駅年も暮れなむ
花輪線には十何年か前に一度だけ乗った。それっきり一度も乗っていない、かなりのロ−カル線だった。考えて見ると不思議だ。外国なら一度きりしか行かないのが普通であるが日本だと一度だけしか乗らないというのはまれだし何かそれで思い出となっている。あの線に一度乗ったな、あれこんな駅があったのかと思い出すのである。つまりこの駅のことは全然記憶になかったのだ。日本だとあとから思い出せる。そして遂に二度とその鉄道にも乗らないということもありうる。これもまた不思議なことである。汽車でずいぶん旅したから汽車には自分の場合かなり未練が残るのかもしれない、なんかいつも汽車に乗っていた気がするのだ。
兄畑とは兄が耕していた畑のことだろうか?そういう畑もあったのか?扇田とは扇の形をした田のことである。
12月17日
珠一つ傷なきごとく冬の薔薇
これは写生でない、理屈があるから問題である。ただ人間は傷のない罪のない人間はいない、自然には傷のない無傷の美がある。薔薇は春から冬まで咲いている。これは日本の四季のなかで生きたものとなった。自然は傷がない、人間は絶えず自然でも人間でも互いに傷つけあうのだ。自然は神によって傷なくよそわれている。
それが限りなく魅了するのだ。
12月15日
冬の薔薇遂に散りたり我が庭に
冬日没る花無き庭に石二つ
the sunset go down in winter
two settled stones in my garden
with no flower
俳句は一連の変化の中で生きてくる。だから季語が大事なのだ。
庭にはもう花はない、しかしそれも静寂の冬の庭である。石が二つそこに存在感がある。寂寥もまたいいものである。わび、さびの世界である。こういう処にも美を見いだしたのが日本である。砂漠とかでも何もないことが精神的に清められるから神は砂漠に住んだのだ。現代はこのわび、さびの世界を失った。それは欲望のぎらぎらした世界になってしまった。これはアメリカの資本主義がもたらしたものだ。アメリカは若い国であり欲望を限りなく拡大する若い国なのだ。アメリカンドリ−ムとか一攫千金の世界である。それを一部実現したのがアメリカである。しかし日本はわび、さびの世界である。質素なもの、わび、さびに美を見いだしたのだ。そういう風土でもあった。だから宮廷でもあまりはでではない、それだけの富が権力者に集積されないのだ。
藤原定家
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫家の秋の夕暮
こうした世界も心にしみるものでいい、こういう世界はヨ−ロッパでは廃墟となるがアメリカにはないような気がする。現代物質文明には今安らぎとなるのは逆説的だがこうしたわび、さびの世界である。戦後五十年を経て高度成長時代から今はこうしたわび、さびを求める時代になる。かえってこういう何もない世界が荒野が精神的に必ず必要なのだ。砂漠なんか何にもないから必要ではないといえない、精神的に荒野は必ず必要なのである。都会にいたらただ精神が荒廃してくるのだ。
12月14日
枯芦に波紋かすかや日も暮れむ
(枯芦に波紋かすかや映る月)
寒菊に竹の林や日も暮れむ
鴨一羽枯芦による静けさやこの道暮れて我が家に帰る
カッコはついでに想像で作った。沼は省いた。俳句は短いからその要所だけを出すべきだ。寒菊に竹の垣根とかなれば日本の風景としてあっているが竹の垣根はなかった。なんか今は外から見られるといやなのだ。だから垣根は少ないがそれでも結構見られる。日本には垣根とか鍵がないのも都にも城も塀で囲まないのも、外国から侵略されるという歴史を持たないからだろう。垣根に寒菊というのも風情があるだろう。しかしなかなか今は風情あるものが少なくなった。やはり自動車騒音が風情を壊していることは確かなのだ。風情に対して鈍感にしてしまっているのだ。虫の声に耳をそばたてる日本人のこまやかな感覚も自動車によってかなりそこなわれているのだ。垣根はやはり自然をそのまま取り入れる
ものである。相手との壁を作らないことでもある。だから寒菊がそこに咲いていれば外からも見えるし風情あるものとなる。
枯芦の日に日に折れて流れけり 闌更
これはつぎつきに老人が死んでゆくさまであろうか、俳句もなんらか人間を反映するのだ、あらゆるものは人間の反映としてある。こうした季語から同じ俳句を探すと面白いのだ。それは編集になる。ただ今これを作った人のことはわからない、たまたまでていた。江戸時代の人だろう。
give … the wall 人に道を譲る; 人の立場を有利にさせる.
off the wall 〔米俗〕 怪奇な, 一風変った, 突飛な.
take the wall of (人に)道を譲らせる; (人よりも)有利な立場をとる.
壁を与えるがなぜこうなるのか、壁は城壁はヨ−ロッパでは必要不可欠なものだったから壁があることは有利になる。一方offすることは離れることは危険だから突飛になったのか、そのへんはわからないが言葉には歴史や文化の背景があるからむずかしいのだ。垣根はヨ−ロッパにはないから理解しにくいのだ。とにかくヨ−ロッパと日本の文化は違ったものでありそれで理解し合うことがむずかしいのだ。俳句も垣根がわからないと垣根とでてくるものは理解されないだろう。
12月12日
丸森の冬の日暮れぬ夫婦岩
病院の前に五六本枯木かな
丸森を案内している情報をインターネットでまたたまたま見つけた。
丸森には相馬から近いから何回か自転車で通っている。しかし実際その地域のことはわからないのだ。この夫婦岩が山の上にあったのもわからなかった。これは霊山の玄武岩とにて黒々とした岩が山に突き出ている。夫婦岩というと全国にある。だから丸森のが前に必要だった。これは行ったわけではないし見たわけでもないがインターネットの写真を見て想像で作った。俳句は写生だから想像で作るのはタブ−である。ただ身近にあるものは想像でも写生に近くなるからこれは俳句になったといえる。「夫婦岩」と検索するとこれに関するデ−タ−が全国から集まる。それで編集すると夫婦岩に関して書ける。それがインターネット的使い方である。一冊の個人の本を読むのとは違うのだ。俳句の場合、必ず類似の俳句がありそれをまとめて読むと面白いのだ。つまりインターネットの読み方そのものが違っているのだ。絶えずキ−ワ−ドで探しているからそうなるのである。でも不思議なのは必ずキ−ワ−ド意外のものを読んで参考にしているから奇妙なのである。
次の句はまさに写生そのものなのだ。病院の前に枯木が粛条として五、六本たっている。なぜこれに注目したかというと家のものが病院に入院したので病院が身近なものに感じたから注目した。ただ写生はそれだけで本当に俳句になるのかどうかわからない、病院の前に枯木が五六本、それがなんなんだとなるがやはりそれ以上付け加えられないしそれが写生の極意である。
http://www.pref.miyagi.jp/kohou/sanpo/pdf/0108p-sanpo.pdf
12月10日
枯芒墓所の鎭まり夕日没る
汽車の窓枯木四、五本ロ−カル線
このロ−カル線は常磐線だがこれは磐城と岩沼間は複線になっていない、常磐高速道も磐城までは来たが今延長中である。ロ−カル線は複線だとロ−カルという感じがしない、ロ−カル線は単線なのがロ−カル線である。ロ−カル線、単線から見える枯木なのである。枯木が一層粛条と見える。それがロ−カル線である。常磐線は一時間に一回くらいでているから寂れたロ−カル線とは違う。でも単線だからロ−カル線なのだ。
冬の日かえってこうしたロ−カル線が風情がある。ただもう乗る線がないのである。むしろ近くで自転車だと道が変われば景色も変わり面白い。だから最近本当に汽車に乗る気もしないのだ。仙台にも行かなくなった。
旅とは発見であり意外なものに出会うことである。だから道に迷うということも旅の面白さなのだ。そうした未知への旅はないからいつも同じレ−ルの上を走るだけではあきるのだ。旅の要素として必ず未知(道)が必要なのだ。未知への発見がないとしたら旅ではないのだ。食うものでもそこでしか食べることができないものを食いば発見である。しかし今ではたいがいグロ−バル化して同じものを食っているのである。
土地のものを食うのは高いし特殊な場でしか食いなくなっているのだ。
ただ知的発見だといくらでもある。こんなこと知らなかったとかあそこに旅したけどこんな歴史あったのかと知らないことが発見されないことがいくらでもあるのだ。だから知的探求は終わることがない、それに比べて物作りは今や飽和状態で新しいものを作れない、だから情報社会になった。情報の世界は常に未知の世界なのだ。俳句にしたって知らない俳句がいくらでもある。こんな俳句作っていたのかといくらでもあるのだ。知的発見には探求は限りないのである。
12月7日
白鳥を月煌々と照らすかな
白鳥が川に来た。その白鳥を寒の月が照らしている。月と白鳥、穢れいないものが美がここにある。画家であれば白鳥と月という題で描いていただろう。美しいものと美しいものは呼応するのだ。自然の美はまさにそうである。人間界はいつもどこでも田舎でも汚れている。しかし自然界には神の美があふれている。それがこの世の慰めであり生き甲斐である。この句も誰かが作っている。俳句ってなんかそう思うのだ。俳句は今や膨大な数だとすると同じ俳句がある。だから同じ俳句があるから俳句のデ−タ−ベ−ス化が必要なのだ。そうすれば同じ俳句があったということで出す必要はなくなる。インターネットはそういうことがデ−タ−ベ−ス化すればできるのである。
12月5日
月の出てここにひそかや冬の薔薇
the moon come out
a rose in winter
a hiden one in secret
山茶花に夕べの光愛しむ
12月3日
日々通う社の脇に冬菜かな
枯芒にそいて歩むや日の暮れぬ
田の中の小さな社のわきに冬菜の畑があった。社というのはどこにでもある日本的風景である。ところがその社を一年中見ているものと旅をして見る人の感覚は違ってくる。その社にも春があり夏があり秋があり冬がある。その社も土地とともに季節の移り変わりとともに生きているものなのだ。そこに生活があり社がある。生活がないとそこは死んでしまうのだ。観光地の問題は日常的生活が欠落して観光だけになるとなんか物足りないものを感じる。例えば妻籠なんか確かに昔のままの街道の街並みを残しているのだがそれが映画のセットのように見えたのだ。今の生活がなく昔だけを保存するだけでも何か欠けたものになる。今と昔が結びつかないとやはり生きたものとはならないのだ。
k
次の句の枯芒にそって歩む、これだけで俳句になるのか?ただこれも写生なのだ。枯芒というとやはり田舎にふさわしい。老人社会になっているからだ。ただこれもあまりにも単純で俳句なのかどうか自分にもわからない、俳句は写生が基本なのだ。枯芒にそって歩いて日が暮れた、それがなんなのだとなるがそれでもやはり俳句となるのか、読む人によって見解は違ってくるだろう。
12月2日
冬の日やまたここの墓に来たるかな
残菊やバス停一つ誰か乗る
山に来て残る虫鳴く塩の道
苔むせる石に木の根や冬の川
寂然と山の間に没る冬日かな
一枚の朴の落葉や山深し
清流に橋の一つや冬の月
隣合う庭に晩菊山の里
山里の流れ清らか冬椿
今日は上萱の方に行ってきた。最近出かけなかったから気持ちよかった。やはり近くに自然があるのはいい、自然はやはり日常的に親しむものでたまに都会から自然の真っ只中にゆくのは普通ではない、同じ墓所に行くのもそれだけ故郷を知るということであり何度も行くから郷土誌は地元の人しか書けない、学問有る無しにそうなのだ。何度も行っているうちわかるものがあるのだ。今年はあたたかいが冬椿が咲いていた。やはり冬は冬らしく寒くないと四季のメリハリがなくなる。自然があれば日常的に接する自然があれば詩もできるし俳句もできる。特に俳句は写生だから身近に常に観察する自然がないとこのように毎日作り出すことはむずかしくなる。
残る虫が山では鳴いていた。平地ではもうなく声が聞こえなくなっていたが山ではまだ鳴いていた。山には自然は残るし自然の命はそこでなお生き続ける。山では自然はにぎやかであり繁栄する。だから山にはまだ虫の声が聞こえるのだ。自然と都会の関係は逆である。都会では自然がないから虫の声も消えるのが早い。人間はそこに集まり繁栄する。山には人間でにぎわうことないのだが自然でにぎわうのである。山鳩が何十羽も飛んでいたのもそうである。ここをかつては塩を運んでいた塩の道があったから山も人間の通る道で栄えていたとも言える。山には山の暮らしがあった。自然と調和して人間もあったのだ。
今回の句で「苔むせる石に木の根や冬の川」はなんでもないようだが写生の句として句になったようだ。なんでもないそのままを句にしても写生は確かに活きてくる。かえって飾られない力強いものを表現する。これはだから写真と一緒に出すとさらに活きてくる。写真とは写生なのだ。子規も写真の時代に生きていなかったから写真を知らなかったから写生をもっと効果的に表せなかったのだ。絵にするのと写真は違うからだ。デジカメ時代はまさに写生の句を作るには最適である。