ドイツから国境をこえてフランスに入ったがその途中の光景が記憶にない、外国旅行でも記憶にないと思い出して書くこともできない、これがビデオでもとっていれば思い出す、ビデオはその時無駄だと思ってもとっていればあとで思い出すのに役に立つ、とにかく旅とは忘れやすいものだということを念頭におかねばならないのだ。

パリに向かう電車
窓辺に古い教会の塔
淋しき駅に秋の薔薇
コンパ-トメントに
本を読む女性と二人
いづこの駅や
電車は過ぎ去りぬ


ヨ-ロッパのコンパ-トメントは部屋になっていて広いしゆったりししている。日本にはない一つのぜいたくな(spacious)空間である。大陸的である。このワンシ-ンはたまたま思い出したので書いたのだ。コンパ-トメントはとにかくゆったりとしてくつろげる空間だから旅にはいいものである。日本は軌道が狭く窮屈である。日本のような狭い山国でなぜ汽車が最初から作られ発展したのか不思議である。トンネルだらけになってしまうし能率的でないからだ。その頃自動車時代でないのとやはり長距離には汽車が便利だったのだろう。今遅れた国ではバスが便利だからだ。ヨ-ロッパと日本と比べるとヨ-ロッパでは江戸時代頃に馬車が盛んに使われた。パリの大通りでも馬車が盛んに通りそれでルソ-が馬車にひかれて交通事故で死んだのだ。「自然に帰れ」と叫んだルソ-が交通事故で死んだのは当時馬車の交通が盛んになったり工業化のはじまりで文明化していた反動として生まれた思想でありこれはロンドンでも同じだった。それでブレ-クのような反文明の詩人が生まれた。これは近代の思想家、ニ-チェや原生人間の主張者、アウトサイダ-の上野霄里氏などに受け継がれたのだ。その頃からすでにかなり文明化が激しくなって矛盾が生まれていたのだ。日本との共通点として遊女が文化を作ったというがパリでも同じだった。頽廃的なパリを演出したのが娼婦だったのだ。どこの国でも娼婦がいるしこれは世界的に変わりがない、特に都会には必ずつきものなのである。今でも新宿に世界の娼婦が集まるのと同じである。人間としての共通な歴史があるということは理解しやすいのだ。

パリには2回行ったけどパリはやはり芸術的になる雰囲気がある。私が泊まったのは東駅でサンモルト運河のある裏町だった。なぜヨ-ロッパの駅が街のはずれにあるのかそれは昔城壁で囲まれていて容易に中央部に入れないようにしていた名残りだという、そもそもなぜ電車がパリの中央部に入らず東駅かというと城壁に囲まれていたからそのはずれに駅を作った。それだけでなく日本でも汽車の駅は昔の街の中央部よりはずれにできることが多い。京都駅も七条通りであり京のはずれだった。他でも街のはずれにできることが多いのだ。ここはパリの下町情緒がある有名なところだった。太鼓橋が有名である。下を船を通すために高くしてある。ここに北ホテルとか映画の舞台になった有名なホテルがあったとか何かそうしたパリの物語が生まれそうな雰囲気だった。あの鉄の太鼓橋はかなり古い、前は石でありその前は木だった。鉄は珍しいものだったのだ。エッフェル塔もそうだが鉄の時代がはじまったのはパリ万博からである。ヨ-ロッパの文化は明らかに木→石→鉄となっている。日本は石の文化がぬけている。これが日本の特殊性である。

木の葉散るパリの裏町あわれかな安宿今日は満員なりしも

落葉踏みパリの裏町ア-チ門




パリには何かいたるところ路地裏でも絵になる風景があるから画家が多いことになるのか、ただどうも外国はわかりにくい、外国を語るにはやはり一年くらい住んだ人でないとわからない、何日かいたってわからないのだ。たまたま常に安宿探していたがそこにいたのは受け付けは黒人である。そこは下がカフェ-になっていて上が泊まる部屋だが最低の宿である。そこは満員で泊まらず近くの個室の部屋に泊まったがここは高かった。それでまた別な安い宿に移った。宿探しには苦労するし自分の場合外国は何か楽しめない、外国旅行はかなりの苦行になってしまう。外国は日本と変わっているからなじむには時間が必要なのである。これは何だろうと知るまで時間がかかるからだ。結局わからずじまいに印象も残らずに帰ってきてしまうのが一般的な外国旅行ではなかろうか、その中でデ-プな旅をする人はやはり時間をかけている人である。ただ東駅界隈はパリの下町情緒のあるところであることがわかった。「北ホテル」というのがパリに流れ着いた無産者の集まる所だった。パリの屋根裏部屋は有名だがあそこは昔エレベ-タ-がないから屋根裏は安かったのである。今ではかえってながめのいい場所となっている。



そこにも古い教会がありいかにも長い生活の埃りをかぶっている。生活のにおいがしみついている。あの運河辺りの落葉を踏みながら歩むとパリの生活感が実感としてにじみだしてくる。一応ロ-マとかロンドンとか行ったのだが三日くらいしかいないから印象がうすいのだ。ロ-マはロ-マの遺跡で代表されるように古代がそこにあった。しかしパリは中世から近代から現代と連続する街であった。その辻や裏通りに人間の生活の息づかいが色濃く反映してしみついているのだ。ロンドンはテムズ河の街でパリとはまた雰囲気が違う、霧の街、雨の街でなんとなく陰気である。いづれにしろそのサンモルト運河にしろテムズ河にしろセ-ヌ川にしろ河が中心にある都会である。パリの紋章が城壁と船なのは船で物資が運ばれたからだ。馬車では荷物を運ぶのは無理である。船だと大量のものが運べる。セ-ヌが凍って物資がこないときは大変な騒ぎになった。河は交通の要でありライフラインだったのだ。逆に河は異民族の侵入する通路にもなった。ノルマン人がセ-ヌ河をさかのぼり侵入してきた。ライン川もそうだが河の役割は大きいのだ。このセ-ヌで面白いのは大勢の女性が洗濯していたことである。釣りもしていた。セ-ヌは洗濯にとってかかせない河だった。洗濯船というのもあり船で選択していた。それでモンマルトの芸術家が集まったカフェ-が「洗濯船」なのである。あのパリもじいさんは柴刈りにばあさんは川で洗濯にと変わらなかったのである。パリはかなり不衛生であり水もセ-ヌの水を飲んでいた。それで田舎からパリに来た人は下痢したという、汚物が道路にあったりと江戸より汚かったかもしれない、下水道は不可欠なのが都市だったのだ。

パリの天気はまた変わりやすいという、9月-10月は短く雨も多い、そしてすぐに冬になり寒くなる。私がいた時も二日くらい嵐だった。パリも風雲の時代があった。フランス革命の民衆の反乱はやりすぎであったと反省している。どんな革命でもやはり人を殺すとなるとそこに血なまぐさい非人間的なものが生まれる。そして自由といってもそれが無制限になるとき人間は野獣となるから怖い、その時とばかり人間の野獣性が噴出する。その悲劇がフランス革命にもあった。フランス革命のあと混乱状態になたからだ。人間は時代の中で誰でも無常に吹き散らされる木の葉である。そうした感慨は明治維新とか戦争のときとかみんな感じているし今だってバブルがはじけて中高年のリストラ旋風とか常に時代に翻弄されるのが人間でありこれはいつの世にも変わらないことである。時代を作るより時代に翻弄されるのが多いのである。

こんなふうにパリに嵐の雨がふった。ノ-トルダムにも雨がうち風がふきつけた。そのあとに晴れて澄んだ月がノ-トルダムにでていた。

嵐のあとノ-トル見上げ澄める月

今はパリも身近である。例えば今やパリは中国より文化的には近い存在なのかもしれない、東北だったら九州に行くくらいの感覚になっている。一見地理的には離れていても飛行機だから距離的には近い、パリにちょっと買い物へという感覚の人も多くなっている。インタ-ネットでパリから直接プログで報告している女性もいた。そこで醤油を買いに「京子」という店に行ったとか報告がある。その写真もでていた。ああ、こんなところに日本人用の店があったのかとパリも身近な存在に感じるのである。もう一つは歴史がわかるとその国が身近に思えるのだ。なぜヨ-ロッパが人気でいいのかとなるとやはり明治維新でもヨ-ロッパから学んだのでありヨ-ロッパの歴史と明治維新がつながっているからである。ヨ-ロッパの歴史に日本は明治維新で連結したのであり中国ではないのだ。むしろヨ-ロッパ→日本→韓国、中国という順序の歴史になっているからである。

パリにある京子という店年の暮

http://blog.odn.ne.jp/paris/archives/000871.html

年の暮は早いかもしれんがすでにパリとかロンドンとか離れていても同じ時間に結ばれている。リアルタイム的につながれているのだ。つまり現代の時間は世界的に差がない、リアルタイムの時間感覚になってしまった。インタ-ネットでその日のパリを報告していることもリアルタイムな感覚を如実にし示しているのだ。一カ月かかってヨ-ロッパに船で行った時代とはあまりにも感覚的に違ったいるのである。中国に船で老人がサンダルをはいて突然行ったりするのもそのためである。中国のことなど全然知らないのにとにかく船に乗れば中国に着くのだ。そして自分もそうだった、中国のことなど全然知らなくて最初に行った海外旅行が中国というのも無謀だった。だからひどいめにあったがそれでも外国に行ってしまうのである。だからそうした無謀に外国に行く中高年の人もふえているのである。ともかく飛行機に乗れば外国に行けるということなのだ。ただ外国を知るには歴史を知ることが不可欠なのだ。その理解の一つのてがかりがやはり日本との共通性があることはわかりやすいことなのだ。
パリの秋(東駅から)
小林勇一作