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キ−ワ−ドで探すのには時事問題の深層で探すとたいがいでてきます。27ペ-ジありますが根気よく調べるほか方法がないです

私の研究メモ


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時事問題15(4月10日〜)開始

サクラで今日の一句一首のプログをはじめる

ペ-ジ案内掲示板(キ−ワ−ド研究)

このペ-ジは主にインタ-ネットの操作や旅に出るとか近況報告です
2005年12月30日(金)
アクセスをふりかえる


掲示板 3
プログ 20-30
本サイト200

一番書きやすかったのが掲示板で次にプログでありここ一カ月はプログに集中した。24時間のなかでばらつきがあるがアクセスされている。プログの世界はまだわからりにくい、自由に構成できないことが苦しい。この三つを更新してゆくことは苦しい。更新してゆく材料はあるのだが一人では苦しくなる。掲示板も結局自分一人で書きつづけただけであった。本サイト200を常時こえている。思うに自分のホ-ムペ-ジはアクセス数は減らない感じがした。なぜか情報量が多いのとキ−ワ−ドで百科事典のように探す人がいて読まれるからだ。そこにはかなりのミスマッチがある。二三割くらいしか読んでないかもしれない、でもこの200という数は最近落ちていないから変わらないのかもしれない、変動はあっても変わらなくなっている。私のサイトは過去のものでもニュ-スを伝えるだけでないからそれなりに読まれる。ただキ−ワ−ドでしか読まれないから一挙に増えるということはないのだ。ただ不思議なのは会津の詩などが一時大量に読まれたみたいだ。ある一部分が読まれることがあるが平均して200ペ-ジもあったらどれか読まれるのである。季節がら今読まれているのは正月俳句とか凧あげの俳句とかである。これは去年書いたものだが季節がら読まれているのである。

2005年12月11日(日)
プログのアクセス数の謎


サクラのプログの「今日の一句一首」をやってみてわかったこと
ホ-ムペ-ジとは別個のシステムとして作られている。別なホ-ムペ-ジを作るのとにている。そのホ-ムペ-ジは他のプログとリンクしやすく検索しやすく一つの情報世界をつくる。アクセスが一日3000とか4000とあるのはペ-ジビュ-が多くなるためである。一カ月のタイトルが毎日書いたら30になる。その一タイトルをクリックするとアクセスされたことになるからアクセス数が多くなる。実際のアクセス数は10分の1にも満たないのだ。ペ-ジビュ-だとそれだけ多くなる。

最近私のホ-ムペ-ジは一カ月200を越えた。平均200の壁こえることはむずかしかった。ただこれは実際はわからない、この中で読まれるのは一、二割なのがホ-ムペ-ジだからだ。また200とあってもかなり割り引かねばならないのがホ-ムペ-ジである。そしてアクセス数を維持する増やすのがむずかしいのもホ-ムペ-ジなのだ。創価関係からリンクされたものから10以上きているのと相馬合併の地名の問題が以前として10以上とかあるのでなんとかもっている。人気あるペ-ジは一般受けするものであり普通にはアクセスを増やすのはインタ-ネットはむずかしいのだ。

プログは一タイトルごとに文章をこまく分類できるので整理するのに便利だと思った。公開しなくても整理のために使えるのだ。今のところ本サイトからのアクセスしかないがそれでもアクセスが何十とかなるのはプログはペ-ジビュ-だからそうなりやすいのだ。今まで何人かくらいしかきてないのに10人くらいくるとかなり多いと感じる。ただリンク元をたどるようなアクセスされたことないから何を目的にしてきているかわからないので困る。プログもインタ-ネットやる人なら自分でやってみるのがいい、明らかに情報を整理するのに向いていることはやってみてわかったからだ。

2005年12月2日(金)
プログをはじめる


インタ-ネットの世界は自分で主宰してやらない限りわからない、掲示板は他で書き込みはしていたが自分でやってみて掲示板の意味がわかった。掲示板はかきこみしやすい、自分だけ書き込んでもサ-バ-に送る必要ないから書き込みしやすい、これは自分だけが書き込んだが誰かの書き込みがあればさらに発展する、ただ自分の場合は、危険がつきまとっているからアラシが怖いから制限した。というより本当に自分の掲示板に他者が書き込みできるようになっているのかもわからない、だからこれは試しである。

次にサクラでプログをやれるようになったのではじめた。プログ自体読んではいたがこれも自分でやってみないかぎりわからないものである。ネットの世界は発信する方には便利にできているのだ。これはこんなふうになっていたのかとやってみてはじめてわかることが多いし自分でやってみると使い方もわかるのである。だからプログもサクラでやってみることにした。

2005年11月25日(金)
変わらないアクセス数


プログとかホ-ムペ-ジを出せばどうしてもアクセス数が気になる。私のホ-ムペ-ジはアクセス数は変わっていないのが不思議だ。アクセス解析を四つしかけてある。150訪問者が全体のアクセスの部ででていたとしても100くらいだろう。自分ながらこれだけ書くと自分でどこに何を書いたのかさえわからなくなっている。アクセス数は数と質がある。数をふやす気ならふやす方法がある。一般受けするものを書けばいいのだ。数より質の方が大事である。一日10人でもその内容を熟読されれば目的を果たしている。10人くらいはその目的を達しているようだがそこからでは常連になっているかというとなっていない。どういうわけか何百回も来ているのにキ−ワ−ドで探しているのが自分のホ-ムペ-ジでは多いのだ。何百回来ても目的のものが探しえないのだろうか?すでに1000回来ている人がいるとなるとこの人は相当興味をもって見ている常連である。そういう人は少なく自分のホ-ムペ-ジはキ−ワ−ドで探す人が多いのだ。だからグ-グルロボットでペ-ジがアップされないとアクセスはあまりないのである。このアクセスはどれだけ認知されているのか、知られているのかの目安になる。報道するとなるとある程度の数に読まれないと報道としての目的は達していないのだ。報道でないならば数は多くなくても質が問題になる。原町に住んで東京に出た人からメ-ルが来た。これも一つの反応である。思想とか宗教、哲学となるとこれは危険な面があり簡単にはやりとりはできないものがある。軽いものだったら気楽に話せるが宗教団体のカルトをやめたいとなるとそれは実際命をかけるほど重いテ-マになりうるのだ。だからそういうことに簡単に答えることはできないしその人もそれなりの覚悟が必要になってくるのだ。ともかく私のホ-ムペ-ジはあまりにもいろいろなことがテ-マになりすぎてしまったのだ。

2005年11月14日(月)
インタ-ネット民俗学

インタ-ネットで重要になったのがキ-ワ-ドである。私のホ-ムペ-ジにきているのは千回近く来ていてもキ-ワ-ドできている謎である。余りにも多いから私の膨大なホ-ムペ-ジをキ-ワ-ドで探しているのだ。自分さえどこに何を書いているのかわからなくなった。自分のサイトを検索させるのが必要なのだが技術的にできないのである。できるとしたら一ペ-ジにテキストサイトを作ってそこに全部文章を入れて検索させる方法しかないのだ。今でもウラジオストック 売春 ロシア 売春とかできている。これはなぜか、グ-グルでロシア 売春で10万でていてそのトップになっているからきている。ミスマッチになっているのだ。インタ-ネットの検索はミスマッチが非常に多い世界である。ただ言葉をしぼるとそれなりのものがでてくる。相馬でしぼれば千くらいでていてもないようあるのは一割にもみたないから全部検索できる。それくらいの量しかないから探せるのだ。今回の相馬で書いていた農民の体験談は貴重だった。インタ-ネットは体験談とかは実際は体験しているものは誰でも書ける。それはアピ-ルする。体験していないものは訴えない、2チャンネルでもそうである。体験したものは訴える。体験していないものが語っても迫力がないのである。田舎にいても農民のことなどつきあいがないからわからない、でも今回の体験談ではリアルにわかったのである。インタ-ネットではこうした庶民の語りが生きてくることがあるのだ。コピ-しやすいから利用しやすい、編集しやすいからインタ-ネット民俗学という研究部門ができたのである。

フレーム
2005年11月7日(月)
事故現場

あそこは自分が常に通る道だった。あのまっすぐな道を行く人は日に十人くらいと限られている。原町から相馬に横につながる道は車が多いが浜に行く道は車はほとんど通らないのだ。その十字路で事故が起きたのだ。そこに花束とかあったから事故現場がわかった。事故は北海道で多いように車が通らないと思って飛ばすと事故が起きる。だから車の通らない所でも事故が起きやすいことがわかる。最近近くで三人も死んだことは異常事態である。


2005年11月6日(日)
一人掲示板

掲示板も一人で発言してレスつけているけど今の所読む人がいる。最初で見ているのか一人掲示板も成り立つということか?どうもインタ-ネットの読み方自体本とも違う、新聞とも違う、例えば上から下にスクロ-ルする読み方は本とか新聞でできない、掲示板は次々にレスを付け加えて行く、それは一人掲示板でも同じなんだよ、まとめて書くのではなく情報を次々に付け加えてゆく書き方なんだよ、これは毎日書き込むのに便利なんだよ、ちょっとと気づいたことや新しい情報をつけくわえてゆくのに便利なんだよ、上から下にスクロ-ルする読み方は次に何がでてくるかという期待がありそれが読む動機となる。だから次々に斬新なホットな書き込みがあると掲示板は生きてくる。それが一人掲示板でやれるものなのか疑問、でも今のところアクセスあるとなると読んでいる人がいるということか、インタ-ネットはどうしてもアクセスに左右される。反応あるのかというのが気になるんだよ、ともかく一人掲示板というのもありえたんだよ

フレーム
2005年10月29日(土)
マルチパワ-ステ-ション


これは手動で発電できる。かなり発電力がある。回すと明るく発光しやすくなっている。蛍光灯もついているがこれは手動ではすぐ消える。ソ-ラ-電源もあまり蓄電しないから使えるのは手動発電の発光とラジオだけである。他に携帯の充電機能もあるが大きいので持ち運びに不便である。キャンプ用などに持ち運びでできると思ったが緊急用の手動発電の発光には向いている。乾電池が切れても十分に明るくできる。あとはほとんど役たたなかった。自転車にも手動で発光できても走りながら手動ではつでんできないから役にたたない。でも手動発電は優れているから買って損ではない、電池切れてもラジオと明かりは手動で得られることは心強い。

2005年10月24日(月)
全文検索は効果的


前から言っていることだけどインタ-ネットの生命はリンクにある。知識を連結させることにより知識が生きてくる。知識がばらばらでは生きてこない、結ばれたとき生きてくる。注目しない知識も誰かのちょっとした体験談も生きてくるのだ。だから本の全文検索とかが役立つことは間違いない、知識は結びついてくるからだ。それで上野霄里氏の本の中味の一部がグ-グルの検索にひっかかった。何だろうと思ったら明窓出版で本文をの50パ-セントも立ち読みできることにしたのである。これはかなり画期的なことである。電子本は立ち読みできないことが弱点だった。50パ-セント読んだら本を買わないのではないか、コピ-されたら困るんじゃないかと思うけど60パ-セントに興味を持ったらあとの40パ-セントを読みたくなるのが人間の心理なのだ。だからそのあとも読むことによって完結するのだから本を買うということにもなる。知識は編集したり別なものと結びつけるとまた違ったものとして生きてくるのである。インタ-ネットはリンクして結びつけるのに大きな力を発揮する。今まで個々にリンクされない知識でも誰かによってリンクされると生きてくるのだ。私はかなりを時事問題の深層ではそうしたリンクの作業をしてきてインタ-ネットの知識の利用の仕方は今までとは違うなと気づいたのである。本一冊一冊を読むのと本の一部をリンクして連結させて編集するというのはかなり違った利用の仕方なのである。ただリンクすることによって必ず知識が広がり読みがより広く深くなってゆくのだ。またあることについての知識の集積作業もできる。あるテ-マにそった知識を集積しリンクしてゆくとそこにまた一つの知識の世界が生まれてくるのだ。本の全文検索は知識の幅をさらに飛躍的に拡大化させることは間違いない、本の中には専門的なことや研究者が書いていることが多いからである。その一部でもわかると知識はさらに深く広範囲に結びつけられるのである。だから本という形式にしばられるとこれからは本自体売れなくなっているしゆきづまる。それで明窓出版社の半分も立ち読みできるというのは新しい読者を獲得するようになる。いづれにしろ本当はコピ-権とか別な金のとり方がインタ-ネットでは必要になっているのだ。

2005年10月19日(水)
インタ-ネットが買い物に影響

坂のぼるのがつらくなったから電動自転車を探していたら価格comで自転車など商品の評価をしていた。あれは結構影響するな、わからないから使っている人の話を懸命に読むからだ。そこで何々がだめだとなるとそれもそうかとなり買う方にかなり影響する。企業ではいいことしか宣伝しないがインタ-ネットでは悪い情報も流れる、それがかなり影響するのだ。だからこういうところにこそ企業の工作員が書き込みしないと販売にかなり影響するようになっているかもしれない、消費者が今までは発言できなかったがインタ-ネットではできるからだ。ともかく買い物でもインタ-ネットを参考する時代になった。通信販売も三倍にふえたのもわかる。ただ知識の面ではインタ-ネットはまだまだいい情報がでていない、でも明窓出版で半分立ち読みできたのは良かった。あれだけで相当な内容のあるものをさ-と読むだけで価値があるからだ。本の全文検索もかなり役立つことは確かである。あることに関して十行でものっているとかなりの手がかりになるからだ。本には専門家が書いているから十行でも読めば役に立つしそこからデ-プな知識の探求に入ることがあるからだ。
2005年10月12日(水)
掲示板のことわかった


掲示板実験的に作ったけどこれも便利なもんだと思った。誰か書き込みするとメ-ルで連絡あるからすぐに反応して書きやすい、またじかに書き込むからサ-バ-に送ることがないから本当にリアルタイムになる。ホ-ムペ-ジにアクセスした人にすぐ反応も書ける、家の外でも掲示板に書き込みできる。外国からも書き込みできるのだ。これも自分で経験してみないとわからない、インタ-ネットは自分で主宰しないと何もわからない、掲示板は今は自分だけしか書き込みしていないがこのあともそうなるかもしれんがそれでも掲示板はこういうものかとわかったのである。掲示板の問題はアラシとか相手が誰かわからず信用できないとかでむずかしい。でもこれは実際は本当に便利なものなのだ。メ-ルはスパムで使いなくなっているからこの掲示板に書き込みしてもらうとかえってわかりやすいのだ。まあ、他の人の書き込みはないから十分に活用できないがそれでも掲示板がこういうものかとやってみてわかったのである。それなりにいいレスをつけていけば掲示板も活発化する。ただいろいろな人が入りすぎるとかえって低俗化してだめになる。選ばれた人でやるとかえって充実したものになるかもしれない、それも掲示板ではできるのだ。ともかくインタ-ネットというのはどう応用していいかまだわからないことが多いのだ。技術的な面の問題もあるからだ。でも掲示板は借りれば誰でも使うことができるだろう。ただ誰でもやたら書き込みされると無秩序になりだめである。こういうふうに言うと結局誰も書き込まないとなるが掲示板は問題になりやすいから運営はむずかしいのである。

2005年10月9日(日)
掲示板を設置した理由


掲示板設置しようと調べたら宗教、政治に関しての発言をしないようにと規約にあるのが多かった。やはりここで問題が起きるからそれで責任が問われるからそうしている。でも掲示板貸すだけでも責任問われるのか疑問である。めんどうなものにかかわりたくないというのはわかる。宗教、政治だと工作員とか入ってくる。宗教の場合、創価などは数が多いし上からの命令でいやがらせをする。その他思想にかかわるとアラシとかいろいろ問題が多すぎる。私の場合掲示板は書き込みされることもないかもしれない、前がそうだったから、制限されるから書き込みしずらいからである。それで前はやめたが掲示板はでもホ-ムペ-ジには必ず必要なものである。例えばゲストブックとしても必要だし外から書き込みして連絡板にも使える。外国で掲示板もっていれば連絡板として書き込めたな気づいたのである。それで掲示板を設置したのである。ただ書き込みがないと宣伝効果もないから自動的に消される。だから有料で連絡板として設置しておく必要がある。

2005年10月2日(日)
ウラジオストック 売春


なぜウラジオストック 売春ですでに10名以上も私のホ-ムペ-ジにアクセスあるのか?
ロシアのこと書いたからウラジオストックで調べに来た。ウラジオストックへ売春を望む人が多いことがわかった。ロシア人の若い女性は美人が多い。スタイルもいい、年をとるとみんな同じように太ってしまうのは不思議である。東南アジアの売春はやりやすいようになっている。ロシアに売春の要求があるのはアジア人ではない、ロシア人は白人であり美人が多いことなのだ。ウラジオストックがまた日本から近いこともある。しかしロシアは売春なんかできるのか、閉鎖された世界だし売春にはマフィアからむし政府の監視の目も厳しい、そしてそういうことするにはロシアはかなり危険である。自由な社会ではないからだ。金を全部とられたかとあり非常に危険である。いづれにしろこんなところまで売春求めるものが多いのが現代なのである。金の差でそういうことを考えるのだ。ロシアはまだ未知な世界でありそういう裏の世界はかなり危険なことになる。いづれにしろキ−ワ−ドを調べると1、2割はなんらか私のホ-ムペ-ジにマッチしているがあとは無駄なものが多いのがアクセスなのだ。

でも150あるとしてこの一割15人がマッチしてヒットすればかなりの数なのである。ただアクセスは平均して150あるが実際のところはわからない、三つのアクセス解析と全部のアクセス解析あるのだがレンタルサ-バ-にある全部の解析は数しかわからないからこれだけからは判定できない、ただもし100人としてもそのうち10人がマッチしていればかなりの数だとなる。この数を維持してゆくのも容易ではない、更新は時事問題でつづけているがあとは評論の部なども最近していないからアクセスは伸びない、そんなに更新しつづけることは個人では無理なのだ。だからいかにホ-ムペ-ジでもプログでもアクセスされること常時アクセスすることがむずかしいかわかる。実際自分が一週間に一回とか10日に一回とかアクセスしているのは今の所は一カ所しかないことでもわかる。たいがいあることをキ−ワ−ドで調べるために利用しているのがホ-ムペ-ジなのである。自分のホ-ムペ-ジ何かを調べるために利用されていることが多いのだ。ともかく量が多いからそれなりにキ−ワ−ドでアクセスあるのが自分のホ-ムペ-ジである。

2005年9月21日(水)
パソコンのソフトは誰も教えない


なぜパソコンのソフトは教える人がいないのか?電器店でもヨドバシでも知らないという、DVDに記録したファイルを直接呼び出して編集できるのだ。それがDVD moviewriterだった。DVDに記録したものはdvd-vrというファイルになっいる。これを編集ソフトで呼び出せなかった。しかしDVD moviewriterで呼び出して簡単に編集できた。編集用のmpgファイルにできるのである。これをいろいろなメ-カ-や電器店に聞いても教えなかった。直接このソフトを作った会社に電話で聞いてその体験版をダウンロ-ドしてできることがわかったのである。パソコンはもともと誰も教えない世界だった。ソフト自体が前は使えないのが多かった。それでいろいろなことをやれると思って試しに買って10万は損した。実際ソフト自体がでたらめなの多かったのである。今はハ-ドもソフトも安定している。ソフトはまだ使うことがむずかしいのが多い。

だからソフトは高いの5千以上のを買うと損する、前は安いと思って買っていたのだ。オワシスのワ-プロソフトを2万で買っていたりした。ワ-プロソフトなどパソコンでは買う必要なかったのだ。知らないからワ-プロソフトがないとオワシスが使いないと思っていたのだ。パソコンはソフトのことはかなりむずかしい。ハ-ドのことはcpuでありメモリ-であれわかった。ソフトはわからないことが多い。パソコンはともかく前はハ-ドでも使いないものもあり大変な苦労していた。ソフトもこれも使いようがわからなくて10万の損だった。パソコンは今まで無駄が多すぎた。ノ-トパソコンも20万くらいで持ち運びに買ったがこれも結局あまり役に立たない、重すぎて持ち運べない、今だとかなり軽いのがでているから持ち運びには軽くないとだめなのだ。パソコンはいかに買うのも利用するのもむずかしいかわかる。ただ今や機械自体は安定しているし不具合になることはなくなった。だからパソコンの操作とかその他で時間をとられずに創作とか情報収集とか本来の目的に時間を集中できるのだ。

ソフトのバ-ジョンアップもこれも無駄なのが多いのだ。たいして変わらないのにまた金を払わせられて新しいものを買わせられる。それで旧バ-ジョンの
moviewriter2を通信販売で注文した。通信販売はデジカメのメモリ-でもヨドバシより半額にもなっているのに驚いた。これもおかしな話である。ではなぜそんなに高いのかとなる。パソコン関係は買うことに習熟するまで相当の年期が必要なのだ。ただ今は比較的わかりやすい、技術が安定してきたから古い型でも十分に現在でも最先端のものとして使いるのだ。前は新しいものでないとかなり見劣りしたが今は十分に最先端の機能があるから安心である。デジカメもそれで旧型のを買ったがこれも最先端のものと変わりないのである。

2005年9月17日(土)
芸しかできないイルカ


カトリ-ナというハリ-ケンで水族館のイルカも洪水で放り出された。海に出ても海で餌をとることができない、だからやせ細っていたという。これは何を意味しているのか?本来広い海で生きるものが人間にしこまれて芸しかできない生き物になっていいた。これは何か文明人間を象徴していた。人間は今やみんな専門家して何か一つの芸をしこまれてそれにはたけていても自然の中で生きる能力は失っているのだ。農業のこと漁業のこと山のことなど自然のことがわからないしそこで生きる術もそこから離れた人が多いからわからないのである。農業でもコ-ヒ-が売れればコ-ヒ-だけを作り他のものは作れないのでコ-ヒ-が売れなくなると飢饉になったりする。自然の中で調和して生きる術をグロ-バル化や商品経済化の中で失い一つの芸だけをしこまれて生きている。もしその芸が通用しない大自然に放り出されたら何もできない、自分の餌さえとることができないのだ。海には餌が十分にあってもとることができなくなるのだ。自然から遊離した人間はある異変が起きた時脆弱であり自分の餌さえとることができなくなる可能性がある。それぞれいろんな無数の専門家になっていてもそれは一つの芸であり他には適用できないからである。文明人もこのイルカの芸人になっているのだ。

2005年9月10日(土)
海外旅行で疲れた


海外旅行で疲れた。選挙のことも考えられない、海外でもデジカメとかビデオの電源は簡単にとれた。さしこみ口を自由に合わせるものを事前に買っていったのが良かった。電気があるかぎり電気器具は世界中で実際は使うことができるのだ。パソコンもインタ-ネットも今はどこにでもある。ウルグアイからアクセスあったように電話があればインタ-ネットもできるのだ。デジカメでもソフトを入れなくてもパソコンにじかにつなぎ中味を見れるものがあった。今回買ったデジカメもそうである。海外でもこうした電気製品も簡単に使うことができる。だから充電の心配はする必要なかったのだ。汽車の中でさえ充電させてくれたところがあったと報告がある。自分のホ-ムペ-ジも海外で簡単に見れるので試しにちょっと話した学生に中国のユ-スホステルで紹介したが別にそれで関心を持ってくれることはなかった。ただ海外でも自分のことは紹介できるのがホ-ムペ-ジだしホ-ムペ-ジはその人を永続的に表現するツ-ルなのである。海外でもこれは同じであり言葉がわかればその人を海外で別れてもどういう人ある程度わかるようになる。連絡もできるのである。つまり海外でも簡単に自分というものを紹介できるものなのだ。世界旅行は老人の個人旅行ができるように楽になっている。ただ老人だと異常に疲れる。一カ月だと必ず病気になる。今回は二週間くらいだからなんとかのりきれた。ともかく二週間でも海外の経験は一年分を経験したような感覚になる。いろんなことを一度に経験するからそうなる。だから日本国内より何倍も疲れるのだ。

2005年8月18日(木)
ビザが6時にユウパックで来た


ビザを月曜日に送ったというのは嘘だった。火曜日に速達のユウパックで送り6時にパスポ-トが着いた。間に合わないと思ってあきらめていたが明日なんとか新幹線で大宮に行きまた新幹線でまにあう、12時頃に富山に着く、そこから3時まで港まで行けばいい、しかしこれも時間的余裕はさほどない、今日4時まできていれば6時のバスで新潟まで行き夜行の急行で富山に2時だった。この計算はソフトで簡単にでてくる。これを人間で計算すると大変である。
今回は行く前に疲れてしまった。明日もぎりぎりだからのんきにはしていられない、バスで行った場合、十分一万で間に合ったが新幹線だと2万かかるし港までタクシ-だとこれまたかかる。ともかくロシア10日間でありなんとか通過する旅である。モンゴルに出たらちょっと楽になる。今回は長くても20日間くらいである。家族の関係で長くはもう旅はできない、とにかくまた失敗だが行くほかない、最初から悪戦苦闘だった。時間の余裕を見てなかったのが失敗だった。

2005年8月16日(火)
ロシアへギリギリで行けそう


アクセスをあげるキ−ワ−ドは「著作権フリ-」という言葉だった。これで表紙に20くらいきた。壁紙とか素材として利用するところは二桁くらい違うアクセスがある。著作権フリ-のいい素材をおけば百万になるかもしれない、というのは素材作りも結構大変だし才能がいる。そして素材は必ず必要になる。いつもかわりばえしなくては飽きられるからだ。だけどこれを自分で作ることは結構大変だから「著作権フリ-」というキ−ワ−ドになったのだ。

あとはその時々のキ−ワ−ドがある。小野田少尉 横井庄一と一緒に並べたキ−ワ−ドがあったからこれを書いたからアクセスされた。今の時期戦争で話題になるからだ。ホ-ムペ-ジとかプログはアクセスが気になる。これはどうしようもない、アクセスをふやすことが目的でなくてもそもそもそんなホ-ムペ-ジ、プログあったのというのが多いからだ。そしてどこに目当ての情報があるのかわからない、偶然に見つかる世界なのだ。モンゴル馬は足が短く低い、これが済州島とかその他日本にも残ったというのはモンゴル馬系統の伝播があった。ロシアの情報を探していてわかったのだ。ロシアのピロシキではロシアに博学な人がいた。東北人だった。ロシアはわかりにくい、まあ、なんとか19日船で行けそうだ。ぎりぎりだった。まだビザは来ていないが明日には来るだろう。

今日は地震やら旅行の用意やらいろいろ大変だった。どうも自分はまた旅行で大変な失敗をしてしまうかもしれんがどうしようもない、行ってみないことにはどうにもならん、今回は10日間のビザだからウラジオストック-ハバロフスク→ウランウデ(ここでバイカル湖を見る)→ウランバ-トルとなる。ウランウデでビザをとるからここで終わりである。10日間ではこういう行程しかありえない、ロシアのビザは一カ月とった方がいい、とにかく汽車に乗っているだけで一週間かかるからだ。ともかくすべてがギリギリでとれた。これもインタ-ネットやっていたからできたことである。

2005年8月15日(月)
アクセス解析の比較


アクセス解析を比べてみるとみんな違う

ヒットグラフ

グラフ化してわかりやすいがキ-ワ-ドがでてこない

アクセスレ-ダ

キ−ワ−ドが一覧できるが全部グラフ化していない

忍者

一応全部できているがグラフ化とかでわかりにくい点がある
ここだけが一年三千円で有料で広告なしの解析ができる
他は10万とかているのはわからない、機能的には忍者より劣っているのに

ここは生ログをたどる時便利だ、システム化していてたどりやすい
生ログを閲覧しないとどこを読まれているか本当の所はわからない、
一番使われているのは忍者であることはわかる、一通りそろっていて
キ−ワ−ドとか他も閲覧できるからだ

2005年8月7日(日)
再販制は廃止すべき


再販制とかはやはり廃止すべきではないか、仙台のブックオフで二冊本を買った。これを定価どおりに買ったら5000円とかになってしまう。それを半額とかなればロシアのことを知りたいからとちょっと読んでみるかとなり買うことになる。これは全部読むというより参考になるところを読むのである。今の本は一般的に高すぎる。実際それだけのコストがかかっているのだから高いとはいえないのだがそうなる。本が安くなればむずかしい本さえ買う人はふえる。高いから買わない人が結構いるのだ。それでまず学生はインタ-ネットで情報を探しているのだ。学生がやはり一番来ている。論文とかの参考にするためである。今ではインタ-ネットからコピ-して論文にしているのが多いというのもわかる。本から探求することは金がかかりすぎるのだ。本のコンセプトは一冊として作り上げている。一冊のテ-マがありそれにのっとって作ってある。ところがインタ-ネットはペ-ジを読んでいる人が多い、キ−ワ−ドでペ-ジを読んでいる。自分のホ-ムペ-ジもペ-ジを読まれている。常連の人は少ない、それは新しくアップしたものがすぐに読まれていないからだ。一カ月あとからつまりグ-グルの検索にのってから読まれことが多いのだ。何かを探求する時は本一冊読むより多角的な読み方調べかたがいいのである。

学問に関しては本はかなり量を読まないと新しい見解は出せない、一方人生論とか哲学とか宗教に関してはあまり多読する必要はない、ある一人の人間から学ぶことの方が多い。人生論とか宗教哲学論がものを調べるのとは違う,これをキ−ワ−ドで調べてもわからない、キ−ワ−ドで調べてわかるのは一つのテ-マを探求するときである。江戸時代の貨幣とか米経済とか具体的な問題の時、かなりの情報が必要になって来るのだ。これは一人の人間から学ぶというのではなく幅広い情報が必要になって来る。インタ-ネットはかえってそうした幅広く情報を集め検索するのに向いているのだ。いづれにしろ知識は本だけの世界でなくなった。インタ-ネットやってみると知識は出版社とか書店とか著作権とか何か知識を独占する、知識を囲い込みそれを商売とすることが合わないものであることがわかった。知識は利用されると価値帯びるものであり利用されないと何の価値もない、利用したほうが価値を作りだすような世界であった。だから今までの本一冊を結構高価なものとして売るということが合わなくなったのだ。知識は何か別な方法で広範囲に安価に流通させることが必要である。それがどういう方法になるのかわからない、なんらかスポンサ-がついて知識は無料とかにする。物を売っているところではその物についての知識は無料になっているように・・・ともかく知識というのは物を売るとかとは全く別のものだったことがインタ-ネットでわかったのである。だから本は今までのように高いと買わないし売れない、知識の要求はあるのだが本だけでそれをまかなう時代は終わったのである。

2005年8月3日(水)
アクセスの数(報道と個々の価値の探求の相違)


アクセスをみんなホ-ムペ-ジでもプログでも一番気になる。なぜなのか、インタ-ネットがそもそも読まれること知られること自体が非常にむずかしいからだ。アクセスがないということは認知度がない、いいものをのせても知られないから見られないとなる。ただ報道と芸術探求と信仰を求めるとかなるとこれは別問題なのである。報道はともかく大勢の人に見られたり読まれないと意味が出てこない、こういう事件があったからみんな注目しろと言ってももインタ-ネットのようにその報道する相手が数人とかなると報道することになんら力をもてないのだ。ところがホ-ムペ-ジとかプログで発信した人ならわかるだろうがインタ-ネットで発信することは報道の要素が必ずある。何かを知らせたい何かを関心をもってもらいたいとかここを注意してみてもらいたいとか様々な問題提起もある。テレビである問題をとりあげれば数百万見るからその報道に意味がでてくる。数人なら報道しても結局は誰も知らないとなるから何の効力もないのだ。報道という側面からインタ-ネットのホ-ムペ-ジなどを考えるとこれで効力をもっているホ-ムペ-ジは極めて少ない、報道なら10万とか毎日アクセスないと効力かないかもしれない、しかし信仰問題とか芸術探求となるとこれは全然違う、そもそもこういうことにかかわる人は実際もともと極めて少ない、求める人は少ない、師が一人で弟子が一人ということさえある。理解する人は極めて少ない世界である。だがらアクセス数よりアクセスしてくる人の質の方が問題になる。ただ報道となるとみんなに知らせねばならないという役目があるのだ。台風情報とか地震情報とか災害情報とか何かの危険情報とかもそうである。何か国民全部に知らせねばならぬことがある。これは報道の第一の役目なのだ。これはインタ-ネットでは無理である。インタ-ネットのホ-ムペ-ジもそういう報道に必然的になるのだがその役目を果たしえない、なぜなら何百万人など見るということはありえないからだ。それでもアクセスが目安になるからどうしても報道としてホ-ムペ-ジ作りするから何かアクセスがふえないからやる気がなくなるとなる。

インタ-ネットは報道できるのだが報道も百万人が報道してもそれ読む人がいないなら報道することが無意味だとなる。ただ信仰の追及とか芸術の追及は別問題である。これは常に少数者しかかかわらない世界だったのだ。極端なときは一人しか伝えられなかったということもありえた。天才の芸術は生前全く理解されず終わっていることがめずらしくないからだ。報道の役目を目指すとなぜアクセスがないのかとなりやる気がなくなってくる。でもインタ-ネットの役割は報道ではない、個々の関心事とか表現とか芸術とか様々な個々の関心事の探求であるからこれは報道ではない、報道の側面があっても何々があったとか毎日ニュ-スを流すのとは違った世界なのである。だからアクセスばかり問題にするのはおかしいのだがどうしてもアクセスが認知度のパロメ-タ-になっているからつまりインタ-ネットの世界でどのくらい知られているのかのバロメ-タ-だから気になるのもやむをえない、今日は11時の時点百になっていない、先月は平均して170あった。今日アクセスが落ちたのは夏休みで旅行などに出かける人が多くなったからかもしれない、こんなに落ちるはずないからだ。夏の休暇の間はアクセスが落ちるかもしれない、まあ、自分もロシア旅行だけどこれもビザがまだとれないのだから嫌になった。ともかく夏は旅行の季節だ。

2005年8月1日(月)
アクセス解析はインタ-ネットのシステムに不可欠


インタ-ネットは自分で参加してこのシステムの中でやってみないとわからないようになっている。今までの情報世界ではテレビ局とか大手の出版社とか新聞社とかそこに普通の人は発言したりはいりこむことができない世界である。本なども簡単に出せないから一方的独占支配だった。ではこのインタ-ネットは誰でも参加できることができる今までにないメデアなのだ。ただしかしこのインタ-ネット自体新しいシステムだからかなりのノウハウとかテクニックとかが必要になってくる。その一つがアクセス解析である。これは今三つしかけたがこれは絶対に必要なのものなのだ。これが何を意味しているかというとペ-ジ全部に設置しておくとそこにともかく人が入り込むと警報がなりその足跡を記すことになる。人が来れば反応がそこにありそのキ-ワ-ドから何が読まれたかわかる。新聞だったら何が読まれているかわからないがインタ-ネット化するとどの記事が人気があり読まれたかまで分析できる。つまりインタ-ネットの情報世界は電気信号化しているから一ペ-ジごとにそのペ-ジの一部分まで読まれたかまでわかるようになるかもしれない、そういう反応システムを作りやすいのだ。

インタ-ネットは本のように文字が書かれているだけではない、そこが電気や電子として反応する世界になっている。紙に書かれた文字ではない電子文字だということは電気的電子的に反応する世界を作れるということなのだ。だからまたアクセス解析に一ペ-ジごと登録すると電子図書館に自分の作品が登録された気分になるのだ。ただ200ぺ-じくらい設置してもその中で読まれないのが自分の場合50ペ-ジくらいあった。それほどペ-ジ数が多くなったのだ。これは無用といえない図書館の膨大な使われない資料として埋もれたものかもしれない、誰かが発見するのを待っているのかもしれない、ともかくインタ-ネットは電子の壮大な記録の文庫であり相互にリンクした一つの情報の共同世界であるということを認識しないとうまく利用ができないのだ。つまり今までの一冊一冊本を出したり読む世界とは違う、常にキ−ワ−ドで探し読んでいる読み方も本を読むのとは違う、だからペ-ジごとにアクセスされる数がかなり違うのである。キ−ワ−ドでリンクをたどったりしてくるからそうなる。ある特定の個人の本を全部読むという読み方ではないのだ。アクセス解析もともかく体験しないとわからないのがインタ-ネットの世界である。

2005年7月27日(水)
三つのアクセス解析


情報は一カ所からアクセスできないと不便だ。

なぜヤホ-がポ-タルとして優位にたったのか?それはそこからニュ-スや検索などアクセスしやすく作ったからだろう。ただ掲示板はわかりにくい、2ちゃんねるの方がわかりやすい、2ちゃんねるで意外と役立っているのはURLをソ-スとして連結するからである。一カ所からいろいろな情報にアクセスするのが便利なのである。掲示板も一カ所に集中してあるといいのだ。無数に散在するとアクセスできなくなる。めんどうになってだめなのだ。掲示板にはだから問題が多い、例えば2ちゃんねるはスレッドばかりやたら多い、その内容は陳腐になりやすい、ところがそのテ-マに関してホ-ムペ-ジやプログにつなぐと知識の深まりがでてくるのだ。

アクセス解析を今度は忍者でつけた。忍者にはタグのなかに宣伝が入らない、アクセスレ-ダ-にはヨガインストラクタ-というのが入っているからヨガとキ−ワ−ドを入れるとヨガの宣伝にてっているのだ。でもこの宣伝は無料でやっているのだから省くわけにはいかないだろう。でも普通アクセス解析は特定の会社の宣伝の言葉は入れていない、忍者がそうである。忍者で100ぺ-じの解析ができる。有料でも一年で3000円くらいである。ではなぜヒットグラフでは100万とかになるのかこれもわけわからない、今100ペ-ジ解析で一番安いのは忍者手ある。いづれここに移行するほかないだろう。

2005年7月24日(日)
無料アクセス解析の落とし穴


がん患者の体験記を紹介した書籍で、キノコの一種アガリクスを加工した特定商品の広告をしたなどとして、出版元の「史輝出版」(東京都港区、瀬川博美社長)に薬事法(承認前医薬品の広告禁止など)違反の疑いがでている事件で、警視庁は18日にも、同社の関連会社の「ライブ出版」(世田谷区)と「青山書籍」(港区)など数カ所を同法違反容疑で家宅捜索する。 

インタ-ネットのアクセス解析のHTTGRAPHが使いやすいと思って使っていたがなんかわからないけどグ-グルでアグリスクという文字がでてきて宣伝になっている。もう一つのアクセス解析にはヨガインストラクタ-とまたこれも宣伝がでてくるのだ。普通はアクセス解析そのものを宣伝するのしかでてこないのだ。タグを見てもその字が入っていないのである。どうしてそうなるのかわからない、こういうことがインタ-ネットにあるから困る。単にアクセス解析とか出れば問題ないがこんな問題があるとなると簡単に無料のものは使えない、危険なことがわかった。インタ-ネットはこうしたことがわかりにくい、みんなプログでもホ-ムペ-ジでも無料になっているのだ。そこからはじめる他ないが無料には落とし穴があることに気づいた。ただアクセス解析は必要であるし結構高い場合があるのだ。まずアクセス解析が何なのか知ること自体容易ではないのだ。つくづく世の中いろんなところに落とし穴があると思った。

2005年7月21日(木)
生まれた時代の損得


時代によって国によって生まれた損得がある。ニ-トとかフリ-タ-がなぜこんなに多いのか、時代を考えるとこういう人達がこんなに数が多くいる時代はなかった。ニ-トが50万いるとすれば異常な数である。フリ-タ-はなんとか働いて金もらっているとするとそういう人達は江戸時代で普通だたったなる。手間賃稼ぎの人が多くいたからだ。どう考えても現代の若者は就職できないとかいろいろ不満を言うが戦時中は死なねばならなかったし職に就かないことは非社会的人間のレッテルをはられた。アウトサイダ-にならざるをえなかったしそういう人はまれであった。こういう人達が大勢普通にいること自体、時代が豊かだからありえることである。10万でも食っていけるしそれなりの楽しみも見つけることはできる。外国でぶらぶらして遊んでいることもできる。ただ社会的に考えると税金とかその他社会の労働を担う人がきなくなるから困るとなる。その労働も最低限の労働なのである。そうした労働は外国人にまかせればいいとかなる。つまりそうした最低辺の労働をしたくないから仕事をしないとなる。ではニ-トとかフリ-タ-は将来どうなるのか・・・高等遊民とかにみなんなるのかといったらならない、遊ぶというとき彼らの遊びは高尚な遊びではない、女を買うとかギャンブルにのめりこむとかゲ-ムするとかそんなものの暇つぶしで終わっているとしたら何か生産的ではない、その人たちの一部は確実に自由の中で生産的なものに従事するがその他はそうではないことが問題なのだ。そういう人達は最低辺の仕事でも仕事をもって結婚して普通に暮らすのが社会にとってといいのだ。50万とか百万の人間が高等遊民とかアウトサイダ-になるとは思えないからだ。ともかく外国にこれだけ自由に行ける時代も時代的に恵まれている。外国に行くというだけで相当意味あることである。私の時代は本とかテレビの番組くらいでしか知り得なかったのだから・・・時代的に常に損得はあるのだ。

2005年7月12日(火)
100ぺ-じのアクセス解析を加える


100ぺ-じのアクセス解析をまた設置した。やはりヒットグラフのアクセス 解析は一番優れているだろう。グラフになっているからわかりやすいのだ。ただこれも50ペ-ジだからたりなかった。他はなにを読まれているからよくわからない、私のホ-ムペ-ジは200ペ-ジ近くあると思う。ペ-ジ数を多くしてしまったのだ。リンクしやすいようにそうしたのと前は容量が多くなるとまずいので写真を入れた長いものを作れなかった。それでペ-ジ数がふえたのだ。毎日アクセスというのが問題になるのはともかく人の流れがあるかどうかが最初に問題になる。それからどういうキ-ワ-ドできたかがわかるとこの人はこんなことを探ししてここを読んでいるなとわかるのだ。とにかくこのキ-ワ-ドは実に多様である。みんな相当苦労してキ-ワ-ドを考えお目当てのものを出そうとしているのだ。

普通本だったら一冊を読むのだが今やペ-ジを読むという作業なのだ。ペ-ジの関連で読むということにもなる。こういう読み方は今までなかった。読書だったらある一人の作家のものを毎日のように読んでいたのである。そういう読み方は以前として必要であるが知識を広めるというか何かを知りたいとかいうときちょっとしたことでも知りたいときはインタ-ネット的調べかたの方が効率的である。

だから私のホ-ムペ-ジは百科事典のように使われている面がある。他のホ-ムペ-ジもそうなりやすいのがインタ-ネットなのだ。それでも結構むずかしい言葉で来ている。イスラムとか国風文化とか西欧文明とかである。インタ-ネットは来た人の足跡が残ってしまう、何を読んだか、どれに関心があったとかわかってしまうのだ。新聞だったらどの記事が読まれたか関心あったかわかる、現実その記事とかにカウンタ-が置いてあったからどのくらい関心があるか一目でわかる仕組みになっているのだ。だからアクセス 解析は必要なのである。

2005年7月10日(日)
客が逃げる2ちゃんねる


2ちゃんねるのことを書いたがあそこはソフトととして便利でもそれなりの知識とか年配者の体験をもっている人とか見識ある人はほとんど逃げているかもしれない、突然若いやつが馬鹿だとか罵倒したりオマエは馬鹿とか初心者を嫌いすぐ責めてくる、相手がどんな人間かもしらないですぐに判断してしまう、自分でさえそうなのである。ロシア旅行を予定していて情報を集めようとしたが2ちゃんねるでは初心者は嫌われる、ロシア旅行者の経験者は初心者には答えてくれない、別なロシア旅行関係のところ行ってていねいに聞いたら答えてくれた。なぜかと思ったからそこではロシア関係の商売しているらしい、それで人を集めて掲示板にも答えているのかもしれない、そもそもインタ-ネットは誰かしらないやつにていねいに答える義務などないのだ。それを要求するのも無理だ。ただここでは人を集めて商売になるとすると掲示板も活発にする必要があり人集めが必要になるからやるという動機がある。

2ちゃんねるは初心者の入りにくいところでありかなりの数の人が逃げていってしまっている。私自身も創価関係意外はほとんど発言していない、そこにかかわる人がそれなりの常識ある人ならいいが2ちゃんねるには今や大衆化してどんなやつがいるかわからん世界である。非常に低劣な人々も交じっている。特に旅行板はそうである。あそこで旅行の情報をえることはむずかしいし初心者には答えてくれない、オメエ馬鹿とかで終わっているのだ。2ちゃんねるはそういう点で確実に客が逃げてをり低劣なものに占拠されたということもいえる。だからまともなやつは発言しなくなったのだ。ただ掲示板になるとインタ-ネットはそもそも人が集まらないからあそこがまだ全国的な掲示板江戸端会議になっているかもしれんがそれもなくなってくるかもしれん、ともかくまともなものをださせるには何らかの動機づけが必要でありそれがインタ-ネットにはない、自分でもこれだけ書いてもただアクセスとキ-ワ-ドで相手を知っているだけである。自ら放送することには興奮するのだが何かものたりないものを感じるのだ。ただ百科事典のように利用されているだけな感じもするからだ。それでも啓蒙運動になることは確かである。それぞれが放送することは何かを啓蒙しているのだ。啓蒙は本来無料の方がいいのである。宗教の啓蒙も無料の方がいいし情報関係ではかえって無料が向いているのがかなりある。ロシア関係の情報をだして旅行案内してそれが旅行の仕事に結びつくというのはいい利用の仕方である。

2005年6月30日(木)
テレビ報道の問題(意識が集中できない)


天皇陛下がサイパンのバンザイクリフで慰霊に行ったのをテレビで写していた。韓国人の墓にも慰霊した。ここでは7万死んだとか大変な激戦地だった。
「天皇陛下万歳」と言ってあの崖から飛び下りたのだ。批判は常にあるが特別なことであった。戦争というのが忘れられることが一番の問題なのだ。
ニュ-スの報道の問題は10分間くらいでもその場を写しつづけて注視させる、集中力をそこに向けさせる必要があるのだ。天皇陛下が来たということは一瞬あそこで死んだ人達の霊がそこに浮かんだりする。意識を集中するとそうなる。戦争を生々しく思い浮かばせる。そのためには雑音を省きその場に注視させ意識を集中させることが意識的に必要なのだ。しかしすぐにヤハラちゃんが妊娠したとか笑ってでてきたり別なニュ-スに移ってしまう、するとパンザイクリフに集中していた意識が別なものに移り混乱してしまう、ヤハラちゃんは笑っているのだからそこに意識が集中できない、意識を集中すれば涙さえ出す人もでてくる悲しい場所なのである。やはり報道は網羅的ではなく一点集中的に注意を向けさせることが必要なのだ。インタ-ネットはむしろ項目で選ぶからその項目については情報が集められ詳しくなる。ただまだ実況放送はテレビだからできない、ピカ-トの言うように世界は常に混乱するものとして与えられる、それがファシズムを生んだという。一点にただそこだけを10分も写すということはない、次から次へと画面が変わり混乱する。何かを知得するには時間が必要である。その時間がこまぎれにされているから常に混乱して自ら思索したりできなくなる。だからテレビとかの情報は自ら遮断することも必要なのである。意識を集中することは何かを知るには非常に大事なことなのだ。

2005年6月23日(木)
団塊 抹殺

今日来たキ−ワ−ドである。今の若者の団塊への憎悪は普通じゃない、2ちゃんねる絶えず団塊をたたきをしている。上役に団塊がいるからなのか、この辺の事情にうといからわからないがともかく尋常じゃない、このキ−ワ−ドには殺意さえある。必ず自殺とかもきている。なぜこんなに団塊が若者に今嫌われているのか?数が多いから前は人手不足で良かったが今や団塊とは若者から見ると仕事ができないパソコンができないとかそれなのに高額の何倍もの給料とっているとかその憎悪がこんな言葉となって自分のホ-ムペ-ジにもきた。年金問題にしても税金があがることや団塊より下の世代に重荷がかかりすぎるから余計にこれからもそうなってくる。これからの年寄りは若者に尊敬されることはない、早く死んでくれとか冷たい視線のなかで生きるようになる。だから長生きするというのも仕事ができることでいいのだが社会的には除け者にされるかもしれない、数が多いから労働力になっていたときはいいが遊んでいるだけとなると老人の遊ぶ金を支払うため働くのかとも若者にはみえてくる。
まあ、人間還暦まで生きれば十分に生きたのだ。ただふりかえると人間は仕事となるとまず結果を残せない、ホ-ムペ-ジで懸命に書いてきたがそれにしてもまだまだである。意外と一生の仕事を残すにしても仕事(WOERK)となるとなかなかまとまったものが残せないのだ。だから人生が長くなれば仕事の量は残せることになる。今まで旅したことなど思い出してまとめて書こうとしているのだがこれもなかなかすんなり書けない、これは学者の仕事でもなんでも老人になると思い知らされるのだ。ほとんどが人生が半分は浪費だったとか何がなんだかわからないうちに過ぎ去ってしまったというのがほとんどの人の実感なのである。

2005年6月22日(水)
カメラの眼が優れている


デジカメを良くつかうようになった。今のは600万画素である。夏鹿島の風景でとった写真が道とアザミだったがこれは自分では見ていないものをあとから見て感動した。道でもそれが土の道で草など生えているところが良く見えたのだ。アザミは蔓がにょきにょき伸びているところがクロ-ズアップされていた。これも発見だった。普通人間の眼の方が優れていると思っている。カメラの眼の方が実は優れているところがあったのだ。これもひんぱんにデジカメでとって出していたから気づいたことである。カメラはわかるにはひんぱんにとり見ることなのだ。特に大きくしてみるとなんでもその本当の姿が生き生きと写し出される。絵が描けなくても写真がその代わりをすることが一部ありうるのだ。

2005年6月19日(日)
アクセスは極端に上がらない


インタ-ネットはアクセスしたらなんらか痕跡が残ってしまう、時々アクセスが上がるとそれは同じipのものなのだ。今回も20回くらいきている。普通は一回しか同一人物ならカウントしない、時々こういうことがある。なぜかわからない、斉藤さん イラクのキ−ワ−ドはキ−ワ−ドからわかったが同一人物が十数回もアクセスするのはわからない、だいたい私のホ-ムペ-ジはアクセス数は百ぐらいで同じであるからだ。極端に伸びることはないのだ。テ-マが多いからなんらかのキ−ワ−ドでひっかかりそれで入ってくる。そして毎日入ってくるペ-ジも違っている。時事問題の宗教の部は今一番多い、といっても毎日10くらいである。これも創価関係が入るためだから内部の人は読みたくないものだから読んでいないだろう。それでも創価のことを知りたい人はかなりいるのだ。このペ-ジは宗教全体の批判だからそれなりに中味がある。更新もしている。

私のホ-ムペ-ジの問題は余りにもテ-マが多すぎることなのだ。たいがいはテ-マは一つであり何を読まれているかわかる。私のホ-ムペ-ジは膨大な時事問題の深層の一部に入ってくる。だからどこかに一人とか二人入ってくることが多いのだ。つまり百科事典のように利用されている。ともかくキ−ワ−ドは丹念に調べている。50ペ-ジ分しかできないがそれでも結構どこが読まれているかわかる。時事問題では13の国風文化のキ−ワ−ドで入ってくる人が多い、だからこのペ-ジからそれに関したものを誘導することが効果的になるのだ。国風文化となるとしかし範囲も広いのである。国風文化、日本文化が何かということもかなり欧米文化と対象として書いている。私のホ-ムペ-ジの反応は唯一キ−ワ−ドだからこれを知ることはホ-ムペ-ジ作りに役立つのである。

2005年6月11日(土)
live2chは使いやすい


ソフトではlive2chが一番使いやすかった。あれはニュ-スをカスタマイズできる。自分の関心のあったものを順次更新されたものから上位に表示されたりと便利である。あるテ-マについてそこが毎日一回のレスでも自分の関心があったものについて書き込んだり読んだり継続してできるのだ。インタ-ネットはテレビのように一方的に受け身で見るものではない、常にニュ-スさえ自分なりにカスタマイズして整理して編集作業をしなければならない、大きく報道されないものでも関心がある人はいるしそれを知りたい人がいる。インタ-ネットはともかくソフトに左右されることが多い、2ちゃんねるやっているのはここがいいというより自分にとってやりやすいからでありニュ-スを調べるためである。プログがはやったのもフソトのためである。パソコンとかインタ-ネットは一方的メデアでないのだからソフトに左右されることが多いのだ。

これは自分のホ-ムペ-ジでもそうである。プログラムできる2ちゃんねるとかの閲覧ソフトが自分のホ-ムペ-ジに組み込むことができればすごく便利になる。一つのスレにたいしてその関連した情報を付け加えてゆくのである。ホ-ムペ-ジはあとからいくらでも関連した情報を付け加えられるしリニュ-アルできるのだ。だから自分の書いたもののさらなる編集も必要だしできるのだ。個人的にもかなりの情報基地を持てるのだ。ただここで問題なのはそうしたソフトを提供してもそこに発言する人が集めるのが情報を集めるのがむずかしくなっている。2ちゃんねるやプログでもではそうした良質な必要な情報が順次入ってくるからといったら入ってこないし、見つけられない、ソフトを作ったら次にその中味になるのだ。掲示板とか情報の整理ではlive2chは自分にとっては使いやすかった。だからレスの極端に少ないものでも読んでいた。ソフトがありそこに専門家が入りまた一般の人も幅広く入って情報の整理をすればそれはかなりの威力を発揮する、いづれにしろインタ-ネットはどう利用していいかまだまだ定まっていない、ソフトの問題ともう一つ大きな問題としてここに参加する人の問題があるのだ。ソフトを用意しても人がそこに入り活用されないと生きてこないからだ。


フレーム
2005年6月6日(月)
定期的にアクセスされるむずかしさ


私のホ-ムペ-ジの特徴は核になるリピ-タ-は2,3割でありふえていないし減っているかもしれん、一番多いのはキ-ワ-ドで閲覧のように調べている人である。これは余りにも私のホ-ムペ-ジが多様なテ-マを扱っているからだ。そのキ-ワ-ドを調べていると確かに私のホ-ムペ-ジが参考になるのがかなりある。ニュ-スの解説をしているようなホ-ムペ-ジは毎日アクセスある。私のホ-ムペ-ジは常にあとからアクセスがある。今書いたものが一カ月あととか半年あととかになって読まれている。あとからキ-ワ-ドをたどって読まれているのだ。ニュ-スを扱っていればその時々読まれのだが読まれない、斉藤さん、イラクとキ-ワ-ドで20人くらいきてもあとはきていないからアクセス数は上がらないしへっている方だろう、ただ数ではなく内容を読まれる方が大事であるから数では決められない、ニュ-ス的解説はあとで読まれなくなる。その時々で消化されて終わりである。でも時事問題を扱ってもそれを思想的、文化的、哲学的に解説したものはあとからも読まれる。それは時事問題とは違った普遍的なもの人間の普遍的な真理のようなものを追及しているからだ。だからあとからも読まれる。

インタ-ネットで定期的に読まれるようなものを書くこと自体大変である。そういうものが極めて少ないことでもわかる。でも軍事専門家の小説など読みもしないがインタ-ネットでプログでニュ-ス解説を読み感心することがあるからインタ-ネットで別に注目されたりする人はいる。小説だと全然読む気しないからだ。本当はインタ-ネットでいろいろな才能を表現できるし開発できる。でもプロになると学者でもインタ-ネットに出すとなると著作権とかで問題になる。大学の許可も必要になってくるかもしれないからだ。だから小説家は時給800円くらいで書いている。それも大変だというのはわかる。ホ-ムペ-ジであれプログであれ定期的にアクセスされるのを個人的に書きつづけるのはかなりの労力なのだ。ただインタ-ネットはいろいろ新しい仕事を作り出しているのだ。ただこれを今までの物書きやジャ-ナリストのように集金システムが不十分だからむずかしいのである。

2005年6月5日(日)
インタ-ネットは編集が必須


「斉藤さん イラク」というキ-ワ-ドでアクセスされた人の流れは一過性のものであった。プログに今話題のものが急速にトラックバックされてアクセスされるように流れてきた。解析すると一人一人が原子のように跡を留めて流れて行ったことがわかる。私のホ-ムペ-ジのアクセスはふえないが有効なものマッチするものが50くらいあればかなり生きたホ-ムペ-ジだろう。問題はペ-ジ数が多いのでどういうわけかリピ-タ-でも何回もキ-ワ-ドでグ-グルから探しているみたいだ。だから時事問題の部はペ-ジ数を少なくしてキ-ワ-ドでも探しやすいようにする必要がある。

そしてインタ-ネットの利用のコツは編集にある。今回の時事28に出した川への意識が日本人の文化を作ったという文も川が側であり瀬であるということかさヒントを得た、これは本にあった、次に英語の時世は自分でも半分くらい気づいていたのだがそれを完全に補うものがインタ-ネットにあったことは驚きだった。なかなか良質なものがないからだ。これは本にも出している研究者が書いていたから内容が濃いものだった。必ず補うものが必要なのが文章を書くことなのだ。まず自分自身の頭の中で構想がある、家の全体設計がありそこに柱やら窓をつけていくのが編集作業なのだ。自分の独創性はさほどなかった。それでも編集により創造的なものに仕上がるのだ。構想とかすでに文章の骨格はできているからそれに補うものを探せばいいとなる。これが学生とかなると自らの構成とか頭の中がゼロだから編集ができない、何ももっていないものは編集自体無理である。最初に探すべきものをすでにもっていれば編集はできる。
家の枠組みがすでにできていてそれに窓ととか飾り棚とか部品をくっつけてゆくのが編集なのである。でもその前に家の枠組みが頭の中にできている必要があるのだ。それがゼロの場合編集はできない、だから学生などは枠組みの知識とか経験がないからコピ-はできても編集ができないのである。

2005年5月28日(土)
斉藤さん イラク(アクセスは通りを歩む人の数


「斉藤さん イラク」のキ-ワ-ドでで15人くらい一度にきた。このキ-ワ-ド自体でてくるのが100とか10しかないからひっかかった。ただ画像とあればすぐに画像を見たくて探している人が多いことがわかる。プログだと今の話題に関してあるサイトは千とか一万来たというからトラックバックはそれだけアクセスがとれるようなシステムになっている。その時みんな知りたいからである。ただ私のホ-ムペ-ジは確かに斉藤さんのことを書いても理屈が多いからあまり読まないで一回かぎりで終わっているのが多いだろう。つまり斉藤さんについて知りたいだけの人だからである。でもインタ-ネットは日頃たいしたアクセスなどないのが普通だからアクセスが多いとなんか熱気が生じてくることは確かである。ただホ-ムペ-ジも数ばかりふやそうとするのも問題である。商売ならそうであるが視聴率をかせぐマスコミならそうなるがインタ-ネットはむずかしいことでも自分なりのものを追及する場でもあるのだ。別に視聴率をかせぐなくても出すのは無料と同じだからだ。ただアクセスが目安になることはやむをえない、誰か読んでいるなとなるとそれは商店街に例えると人が通っていることなのだ。アクセスは人通りであり人が多く通っていれは集まれば陳列してある商品も見てもらいることがある。むずかしいものでもその中に関心ある人が見るということがあるからだ。全部が店によって見たり買ったりしなくても人通りがあれば関心を持つ人がでてくることなのだ。テレビだと毎日百万人単位の人が通りに集まり見ていることになるのだからインタ-ネットと比べるとその影響力の大きさは信じられないような数だった。それだけ大きな力をもっていたことをインタ-ネットのホ-ムペ-ジをもって改めて知ったのである。

図のようにキ-ワ-ドを通して一人一人の流れが原子のように確認できるのだ。インタ-ネットはキ-ワ-ドとかアクセス記録から人の流れがわかるのである。通りを通った人が何を望んで来たのかわかるのだ。「斉藤さん イラク」でなくてもここに商品名を入れ替えるとその商品を求めてアクセスして来たことがわかるのだ。一人一人の流れが記録され何を見たかなどもアクセスログを見るとめんどうだがわかる。ただ私の場合はキ-ワ-ドを見ているだけである。

2005年5月26日(木)
キ-ワ-ドは具体的にしぼれ


今日のキ-ワ-ドを調べてみると「江戸時代 経済問題」とう入れてきているけどこういう漠然としたキ-ワ-ドは探しにくい、具体的な問題、例えば江戸時代遊女とかなるとそれなりのものがでてくる。経済問題となると範囲が大きすぎるのだ。範囲が大きすぎるのは探しにくい、池についての名前とか地名だとそれなりのものが集まった。キ-ワ-ドはおおざっぱなものはだめである。より具体的なものでないとそれに関係したものがでてこない、それがキ-ワ-ドのコツである。江戸時代というと大きな範囲でありそこから具体的な問題を入れる。江戸時代 火事とか入れるとそこから経済問題もからんでくるから江戸時代の火事と経済の問題がわかってくる。キ-ワ-ドで探すにしてもかなり具体的な問題意識をもっていないと探しえないのだ。つまり闇雲に探してもインタ-ネットでは探しえない、それなりの問題意識をもっていれば探しやすいし参考になることはでてくるのだ。ただ実際自分が捜し当てたのも偶然だったから検索は本当にむずかしいのだ。

2005年5月25日(水)
プログと私のホ-ムペ-ジ


プログはやっている人しか実際はわからない、ネットの世界は参加しないかぎりわからないからだ。話題がもりあがったとき1000とか1万もヒットがあったという、トラックバックでそうなったのだろう。一ペ-ジごとにリンクはり互いにアクセスすることができる。インタ-ネットは双方向が容易だからそうした使い方になる。私のホ-ムペ-ジは軽く100ペ-ジあるから一ペ-ジに一人来ても百人来たことになる。私のホ-ムペ-ジの読まれかたは毎日アクセスして見る人は少ない、テ-マが多いからそれにそったものがアクセスされる。多様なキ-ワ-ドで入ってくるのだ。最近また若干増えたようだ。平均は百みたいだが平均が150になればかなりの数だとなる。ただ一回だけで帰るのが2、3割あるからこの世界は必ずしも数にこだわるのはよくない、ただ数は一応の目安となる。認知度が上がらないと読まれないからだ。

ホ-ムペ-ジの読み方は本のように読むわけではない、例えば「姥捨山」というキ-ワ-ドで入って来た人がいたがここに「捨子谷」というのを書いてあったら捨子谷というキ-ワ-ドでまたグ-グルで探すといいのだ。そのペ-ジ内の特徴ある言葉をキ-ワ-ドで探すのである。市町村合併名前の問題に捨子谷のことを書いていたがリンクしていなかったのでリンクした。私のホ-ムペ-ジはぺ-じ数が多いから探したものが見つけられない、それでリンクをふやす必要がでてきた。ペ-ジと一部のリンクができるようになったのでそれを増やす必要がある。キ-ワ-ドを調べトラックバックしているとこれはプログとにているのだ。キ-ワ-ドしかわからないにしても何を目的で来たかキ-ワ-ドからだいたいわかるのである。ただそのキ-ワ-ドにマッチしたものを自分のホ-ムペ-ジから探すことがむずかしくなっているのだ。掲示板があればそれに答えてもいいが掲示板になると大変になるのでやっていないのである。プログでもトラックバックになると何かウィルスをしこまれたりとか変なのを拒否できないとかそこがこのインタ-ネットのむずかしい所なのだ。

2005年5月22日(日)
mypopもうまくいかんな


mypopというキ-ワ-ド入れてプログを選んだりしてニュ-スをデスクトップに流すサ-ビスも実験的にやってみたが確かに一部便利ではあった。あるキ-ワ-ドについての情報がプログからもとりだせる。プログはなかなかわかりにくいから検索するのもむずかしい。プログはグ-グルの検索システムと別なシステムになっているのだ。やたらリンクされるからフログ内ではアクセス数が多くなるからホ-ムペ-ジやるよりプログの方が初心者にはいい、必ずアクセスあるし反応が得られる。つまらないことでも盛り上がるのである。相互アクセスが容易になっているからだ。インタ-ネットは相互アクセスが基本にある。私のホ-ムペ-ジですらコミニケ-ションを全然していなくてもキ-ワ-ドを見るとだいたい今日はこのペ-ジのここが読まれたなとわかるときが結構あるのだ。いろいろなキ-ワ-ドを工夫していることがありありとわかる。そして私のホ-ムペ-ジは10以下とか100以下とかでもひっかかりやすいようだ。というのは余りにもペ-ジが多いし何かしらキ-ワ-ドにひっかかりやすいのだ。それでアクセスがふえたのである。

mypopはフラッシュのようにデスクトップに一日何回か広告がでるからこれを見たくなくても見るからかなり有効である。キ-ワ-ドからそれに関連するものが向こうから選んで流れてくるという利便もある。ところが困ったのは中国とかのキ-ワ-ド入れると何回もデスクトップにでてくるからそれをいちいち見るのもわずらわしくなるし迷惑になる。たまにならいいが中国とか事件とか入れるとデスクトップに絶え間なくでるようになりわずらわしくなるし自分の作業の邪魔になるのだ。だからこれもまた必要な情報をひきだすには難点がかなりあった。ただ向こうからキ-ワ-ドで選んでくれるのはそれなりに便利である。明らかにインタ-ネットでは自分だけ検索したり選んだりすることが不可能なのだ。そこがどう補うのか常に問題だからだ。

2005年5月17日(火)
オビニオンリ-ダ-の必要


2ちゃんねるで捕鯨問題で発言して面白かったのはあそこに捕鯨問題のプロのような人がいてそれが気のきいたレスをあらゆる人につけていた。一つの啓蒙運動として捕鯨に対しての理解を深めさせるためにやっていた。結果的に一般の人でも発言しやすいし専門家でなくても参加できる場所になっていた。だから鯨って欧米が牛を食わせるためだったのとか一般の人でも理解を深めたのである。私の場合鯨についてまた時事問題で書けるくらいの知識を得た。グ-グルでも鯨というキ-ワ-ドからかなたのものが調べられる。何かインタ-ネットは特化して調べるとき集中的に出てきて参考になることがある。掲示板の面白さは別にある。生身の人間と対話することなのだ。その醍醐味がある。ただなかなかそうした面白さを理解することができない場合がある。やはり2ちゃんねるだったら2ちゃんねるの独特の盛り上がりかたとか特有の発言がありあれも過激なのだが若者が作った文化なのである。はっきりしたことは掲示板でもああしてプロがいてオピニオンリ-ダ-となりレスをつけてくれると盛り上がることである。そのレスのつけかたも当意即妙であるから急速にのびた。鯨は東京湾でも話題になったこともあった。とにかく私は掲示板をやっていないが掲示板にはまず人が集まることが第一だしそれなりの人が知識ある人や経験ある人が年齢に関係なく層厚く集まることが必要なのだ。それだと議論も白熱して盛り上がるのだ。そういうことを個人的な掲示板ではできないからだめなのだ。そこがいつもなにか物足りないもので終わっている。だから必ずグ-グルとか専門的本も読む必要がでてくのである。

このメモもずいぶん書いていなかった。いろいろあってなかなかあっちこっち書きつづけるのがむずかしくなった。普通日記だったらそこにしか書いていないのだから私のようにあっちこっち毎日書くことは無理である。なんとか時事問題だけは今でも二日おきくらいに書いているのだから。

2005年5月4日(水)
情報検索には根気が必要


検索でみんな苦労している。私の場合,あまりにもペ-ジ数が多くなり自分の書いたものさえわからなくなって探すのに一苦労した。それで時事問題のペ-ジから検索を入れてやっとみつけた。私のホ-ムペ-ジは時事問題の深層からたいがいのものは探せる。キ−ワ−ドをここに入れてゆけば必ずでてくる。プラウザから編集でキ−ワ−ドを入れて探すとでてくる。他のペ-ジ数の多いホ-ムペ-ジでもこの方法しかない、自分のホ-ムペ-ジに検索システムを作ればいいがこれはむずかしい、掲示板さえ自前で作れないからだめである。掲示板も必要なのだが自前のがcgiができないので作れない、インタ-ネット自体検索が大変な仕事である。これも数をあたり根気よくやるほか方法がない、なぜそうなるのかというと学術的なものを調べるのにもあまりにも商売のホ-ムペ-ジとか日記とかいろんなものにひっかかりすぎるからだめなのだ。でもそもそも検索というか調べることもこれも一つの仕事であり情報世界を広げるためにどうしようもないことである。マスコミだと一方的に与えられていただけだがインタ-ネット時代になると自分で必要なものは探し自ら情報を構築する術が必要になったのだ。まあ、くだらないテレビの番組を見ているより手間と根気がいるが情報もまたそうしなければ得られないということである。

2005年5月1日(日)
elisa-laajakaista.fi


elisa-laajakaista.fi, このfiがFinlandであった。。ゲルマン系の人間がアジア系のフィン人をFenni人と記録したことがはじまりでフィンランドになったそうです

xian(西安)やアイスランドとかキプロスとかチリからもアクセスがあった。これらはめずらしいと思った。fiはなんだと思ったら国名なのだ。ここでゲルマン系とアジア系とあるからフィンランドとはアジア系統の人達だったのか、かなり容貌も違った人達だったのか?多民族から意識されて民族名がつくことがある。ゲルマン系は大きな民族でそれでそういう呼称になったらしい。アクセスあったといっても何か関係ができるわけではないが世界中の人が見るということがある。ビジュアル系統の日本文化の紹介は興味をもたれる。どこでも外国からも見ることは簡単なのである。フィランドから来たかとちょっとだけ興味を持つので調べるのだ。それから日本の場合はキ−ワ−ドを調べるの日課である。何を読んでいるかだいたい見当つく、ただ私のホ-ムペ-ジは膨大であり自分さえ何書いたのかさえわからなくなっている。それで読み直してもいるのだ。

2005年4月30日(土)
インタ-ネットは民主主義を発達させる


インタ-ネットの普及で何が変わったかというと個々が直接発言できるということは書くということ議論ということに習熟する熟達する必要がでてきたのだ。これは2ちゃんねるのようなところでさえそうである。理論闘争、理屈を語らねばならないのがインタ-ネットであり書くということが中心になるからまた書くということに習熟することになる。これは民主主義にとってはいいことである。ただ一票を投じる権利が民主主義の権利ではない、自由に個々が発言する報道する権利を得ることは民主主義にとって大事なことである。つくつぐ政教分離について書いたがこれも定義そのものが明確でなかったし問題があった。あることについて知っているようでも自ら書いてみると知らないことがいくらでもある。なぜかというとこれまで自ら発言していないし議論もする場がなかったからである。だからすべて専門家にまかすことになった。議論するとなると法律がかなり身近なものとして存在することに気づいた。法律はみんなが納得いく理屈だしまた法律ができた背景も知ることである。インタ-ネットの弱点は読まれないことだがあることについて詳しければそこは読まれる。市町村合併問題で名前のことで発言したらあそこだけはいつも10人くらい読んでいるからだ。ともかくインタ-ネットは自分で書いてその理論を深めることにはいい、多少なりとも他人が読めば責任もでてくるからだ。それぞれ人生の体験から課題をもっているからそこから発言するのがいい。

2005年4月20日(水)
私のホ-ムペ-ジの特徴


今一番読まれているのは市町村合併問題である。私のホ-ムペ-ジは時事問題でも新しく書いてもほとんど最初は読まれていない、中国問題のデモのことなども時事問題に書いていたがほとんどアクセスがないみたいだ。今日の一句一首も毎日書いているがこれも最近ほとんどアクセスがない、私のホ-ムペ-ジはキ−ワ−ドでしか読まれていない、普通プログでも日記でも関心ある人は何日かおきに見ているのだ。それが自分のホ-ムペ-ジにはない、ただプログでも日記でもインタ-ネットは実際読まれることがむずかしいものであり読み方が違っている。キ−ワ−ド中心の読み方はある人の関心から読まれているのでありその時々の事件などの解説を求めるのはテレビなどが手っとり早くていいのかもしれない、自分自身でも毎日とか見ているものはないし何かそういうふうに見るのがインタ-ネットの読み方とも違っている。個人がニュ-スの解説でも毎日している人が多いが何か個人では無理がある。何か飽きてしまうというか個人で書き続ける事には限界があるみたいだ。それでも軍事に詳しい作家がメルマガで一カ月9万くらいもらっているのはそれなりに評価があるためだろう。毎日相当数の人が読まれているのはその時々のニュ-ス解説に力を入れて反応があるのだ。私の場合はこれがほとんどないのだ。それでも毎日ニュ-スについてあれこれ短くてもコメントしてゆくのは大変な作業である。つまり毎日だから大変なのである。そして読んでいる方でも何かものたりなくなるし書く方もしんどくなるのだ。

そして最大の問題は読まれないというのがインタ-ネットの最大の弱点なのだ。やはりともかく反応がなくてもアクセスがあれば誰か読んでいるのかとやる気になるがそれがないと誰も読んでないとなるとやる気が失せるのである。まあ私のホ-ムペ-ジは今書いてもすぐ読む人はいないがどういうわけかあとからキ−ワ−ドをたどりアクセスがある。過去の時事問題も常に新しくアクセスがある。だから今読まれなくてもあとで読まれることがあるから無駄だとはならないが常にテレビとか新聞のように時事問題を書いてもその時点では読まれていないからその時々のことをあわてて書いても無益な気がした。そういう読まれかたをしていないからである。半年あとからとかもキ−ワ−ドをたどって読まれているのが自分のホ-ムペ-ジであった。

2005年4月18日(月)
記録に残らない人々


無念なる人の思いは碑にならず地の底にも埋もれけるかな

遍路には謎が多い、遍路が死んで碑が立てられたのは金のもっている裕福な遍路だった。普通遍路は悲惨なものであった。乞食だったのだ。だから石を投げられたり邪魔者扱いであった。普通碑というものはなんらかの過去の証拠というか記念であるが記念にもされないものが数多くあるしそれは四国の辺土(へじ)に埋もれてしまったのだ。人間は墓でも記念となって残っていればまだいい方である。墓もない記録もない、記念もなく埋もれてしまった人達の数が多いのだ。不思議なのは記念に残っている遍路の道端の碑が恵まれているという不思議だった。碑に国名とか名前の残っているのは本当に恵まれた人達だったということはいかに遍路が悲惨なものかを物語っていたのだ。

2005年4月12日(火)
しまなみ海道をわたる


 がしかし、その世界一の橋たちの交通量はがっくりくるほど少ない。これだけの観光資源を抱えた島々をゴールデンウィークまっただ中に通ったにも関わらず、である。まあやはりこの不況のさなか、いかに四国へ渡れるからといって4000円という料金は高いということだ。 
 3つの本四架橋を管理する本四公団の赤字額は、現在3兆8千億円だそうである。しまなみにせよアクアラインにせよ一ドライバーとして走るにはいい道なのだけれど、税金を納める一国民の立場としては怒りを通り越して呆れるくらいの代物だ。もちろんこういった事業は数十年たってみないと真価は計りにくいものだけど(東名高速も当初は馬鹿事業呼ばわりをされたという)、

しまなみ海道でははじめて橋をわたるのに金をとられた。合計で400円くらいとられた。自転車ではたいしたことはないし一文橋とか橋は費用がかかるから昔から通行料がとられていたのだから当然だと思ったが自動車だと高いから余り自動車も通っていなかったし自転車も少なかった。遠くから自転車で来るのは大変だし走り通すことも大変である。でもあそこだけは一回くらいは走る価値がある。空を走るような気分になった。

しかしあの壮大な橋も青函トンネルとかとにている。公共事業として事業者のためにやっているような橋だったのか、島は以前として過疎化して廃校になった小学校があった。そこは海が見えて沖に船が行きとてもいいながめの所だった。その小学校あとを宿泊施設などにしているが何か子供がいないとか若者がいなくなると活気がなくなる。橋ができても島に泊まらず通り道になることもある。島の情緒は船で行くところにあったからだ。ともかく島が島でなくなる陸地としてつながってしまうのは奇妙な経験であった。

2005年4月10日(日)
ホテル情報


今回の旅ではホテル、旅館を探すのに苦労しなかった。四国は一割から二割り安かった。一番安かったのは松山の駅前の3200円と徳島の3300円である。これも駅前だから安い、これくらい安いと助かる。松山には三日泊まった。三日くらいとまるとその場所になじむ。旅はゆっくりしないとだめだ。特に中高年になったらそうだ。
徳島まで東京から船で行くのはいい、結局今回青春18切符ではほとんど得していない、四国は鉄道路線が短いからだ。しまなみ海道は自転車だったし東京までの往復も普通車だったら往復一万である。

いづれにしろ一番安く四国の方に行くのは船がいい、高速バスは一万だがバスには旅情が全くない、船にはあるからいいのだ。

食事は四国でも高い、食事で安いのは東京である。競争が激しいから駅前からはずれると500円でうまいテンプラ定食が食べられた。ともかく旅は泊まる場所が安いと割安になる。その泊まる場所にいつも苦労しているのが自分だった。東京の上野の5000円の宿は発見だった。あそこは意外とわかりにくい所だった。意外なところに安い宿がある場合がある。徳島の宿もそうだった。値段はでていなかったが3300円は安かった。今回は大きな失敗はなかった。何かなくすこともなかった。こういうのはじぶんにとってはめずらしいが旅というのはともかく日本でもちょっとしたことがわからずとまどうものだと思った。これが外国だったらもっとそうである。日本でさえ旅では何かすぐにわからないことが多くなる。タオルなどホテルにどこでも置いてあったのだがその場所がわからなかった。よく見ればわかったのだが良く見ている暇もなかった。そんなちょっとしたことがわからないことが多いのが旅なのだ。

2005年3月17日(木)
track back


プログのtrack backとは何なのか?これも経験しないとわからない、自分がしていることキ-ワ-ドを探りどこからきたのかアクセスしたのか探るのはtrack backとにているのかもしれない、アクセスした人を逆にたどりアクセスする、これもインタ-ネット的使い方である。おそらくプログにはそういう機能があるのだ。
今日大家族 あざみというキ-ワ-ドでまたきた。なぜこれが来るのか?テレビ番組でありそれが花あざみという短歌のところにきている。これは別にこの番組と関係していない、短歌とか俳句はそんなに読まれない、しかしこの番組は相当な数の人が見ているから相当数この話しで盛り上がっていることがわかった。だから今日7人もアクセスがあったのだ。こうした人気番組やその他で盛り上がるとあるところには一日でも千とかのアクセスになるのかもしれない、でもインタ-ネットのアクセスは有効なのは二割くらいである。二割でも百人きているとすると20人もし興味ある人が来たら多いがアクセス自体はふえていないようだ。百人くらいなようだ。百ぺ-ジ以上あるからそのくらいになる。アクセスがホ-ムペ-ジの目安になることはしかたない、これが読まれているなとなるとやる気にもなる。全然読まれていなかったらただ自分で読んでいるだけになる。実際前は自分のホ-ムペ-ジはそうだった。ただ一人勝手に相手のこと読まれているかいないかわからないで書くことが面白くて書いていたのだ。それほど自分は書くことがたまっていたのである。何故なら本格的に書いたのはやっとすでに死にかかる時ですらあったのだ。最後にようやく表現できた、書けたということでこれだけ書きつづけているのだ。

ともかく明日は四国にでかける、また必ず失敗があるがどうしようもない、自分でもいやになっている。トラジットをもってゆくとちょっと不便になる。バスにのせられないときがある。長距離バスがそうである。電車の便がないところがありかといってトランジットではせいぜい20キロくらい行くのが限度だろう。それで困ることになるかもしれない、でも電車とバスだけの旅では今や旅した気分になれないのだ。春風を受けて走ると気持ちいいからだ。まあ、行ってみるほかない、どうしても行くのに二日帰るのに二日かかるからそれだけで遠くなるから大変である。ただ四国、中国、九州はまだまだ旅の空白地域である。わからないことが多いのだ。

2005年3月16日(水)
トランジットでまた旅に


ちょっと青春18切符でまた旅だ。今どこに行くか迷っている。乗る線もなくなっている。トランジットをもってゆく旅になるがこれもいいのだがこれで遠くに行くとなると結構大変になる。99里浜辺りまで行きたいがそこまでの距離が結構ある。
なかなか遠くはむずかしい。何日かの旅行になるだろう。旅行もやはり歴史を知らないとつまらない、湯本の湯の岳について知っているのと知らないのとは大違いだった。そんな近くでも知らないのが結構あるのだ。茨城県辺りは観光では見るべきものがない、千葉県は多少ある。東京になると混雑してトランジットを持ち込むとめんどうになる。やはりトランジットをもった旅は制限される。

2005年3月15日(火)
世界からのアクセスは当たり前


今日はチリのサンチャゴからからアクセスあったので驚いたがこれは他の会社の世界からのアクセス見たらあらゆる国からそれも何千とアクセスが統計化されていた。建築会社だけど実用的にアクセスがあるのだろう。これはインタ-ネットではめずらしくない、個人レベルだからめずらしいと感じたがインタ-ネットは世界からアクセスあることは珍しくないし簡単なのである。簡単に個人レベルで世界に放送できるのだ。ただ言葉の壁とか世界と通じていることが実感できないからリアルなものに感じなかった。個人レベルで世界に放送することが簡単にできるのだ。野馬追いビデオとかこういう日本を紹介するビジュアルなものを工夫して置けば見られることがありうる。
japanese culture とかして置けばそこから見られることがありうる。ただこれもかなりめんどうなことになる。何かするにもインタ-ネットは手間がかかる。掲示板とかゲストブックとか簡単なものが置けないのはcgiがめんどうだからだしそれから英語となるとこれもめんどうなのだ。なんとか俳句を英語にする試みをしているがこれも疲れる。ビデオは20巻くらいあるがこれも公開しようとしているが編集するのがめんどうなのだ。

どうもプログというのは楽で返答もコメントも簡単にできていいらしい、時事問題だと情報の連関が必要になってくる。自分だけではできないし市民の言論の場、情報流通の場としてプログはいいのかもしれない、ただこれも新しくはじめるとまたいろいろめんどうになるのだ。インタ-ネットは確かに今日テレビにでていた人のプログを見たように多角的に見るとテレビだけではない文章で説明を読むとわかりやすいしもっと図解などテレビですへきだったがそれをしていなかった。誰かが図解などをすればそういうことかなど納得する人がふえてくる。しかしホ-ムペ-ジは解説したり図解してもテレビが百万見ていたとする、ここで見るのは数十人なのだ。それほど極端に見る人が違うのである。そもそも一つのテレビ局が百万とかを見ていること自体普通でなかったことだった。それはメデアの独占だったことに気づいたのである。

2005年3月11日(金)
人間は全く忘れやすい


ペ-ジが多くなりすぎて自分で何を書いたかわからなくなったのがある。キ−ワ−ドで入ってきた人の逆サ-チするのが一つの仕事である。掲示板を置いていないから何が読まれているから見るのにそうしている。それで自分で書いたものを忘れていたペ-ジが結構ある。あれこんなもの書いていたのかともう一回自分で読み直したりしている。人間とは自分で書いたものさえわからなくなるほど忘れやすいのである。小名浜に行ったのがいつだったのか思い出せなくなっていた。春に行っていたのだ。自転車で行ったということは記憶しているのだが季節がわからなくなっていたのだ。湯本のさはこの湯というのを調べていてその記録が必要になった。小名浜から見えた印象的な山がサハコの山、湯の岳だったらしい。人間は忘れやすいのと旅でも良く記憶していないからだめなのだ。旅の印象はいつしかうすれ遂に全く忘却してしまう。外国だとそこがあとで確かめることもできないので余計わからなくなる。つまり人間ほど忘れやすいものはないから旅ではメモのようなものでも記録が大事なことがわかる。

2005年3月8日(火)
停電の恐怖


昨日は下の階だけ停電した。レンジと魚焼きを一緒に使ったからだった。ヒュ-ズが古くなりきれたのだ。幸い二階はきれなかった。しかしパソコンの電源はきれていた。前も雷にあり突然きれていた。パソコンは一瞬電源がきれると怖いことになる。それがいつ起こるかわからない、これで二回命拾いしたことになる。全く消えてしまうことがありうる。それを一回経験しているからホ-ムペ-ジもミラ-サイトを作ったのである。ただ今のパソコンはXPはかなり違っている。これはなかなか壊れない、システムダウンしないようにできているようだ。フリ-ズになることはなくなった。前は一日一回なっていた。この点なんとなく安心だ。しかし安全に備えないとパソコンは怖い、突然の停電とかは常にありうるし一瞬にして貴重な記録は消えてしまう。その対策はしておくべきだ。

2005年3月5日(土)
キ−ワ−ド(浅井隆)


損害賠償を請求する民事訴訟が最近、提起された。同氏は「国家破産サバイバル読本」などの著書があるが、一部雑誌で批判記事が掲載された経緯もある。

浅井隆に時事問題で一部書いたら「浅井隆」のキ−ワ−ドでくる人が常時ある。
「浅井隆 損した」というのもあった。やはり本当に損して裁判にまでなっている。インタ-ネットはキ−ワ−ドが大事なのである。キ−ワ−ドから広がる情報の世界なのだ。だから私のホ-ムペ-ジに来るキ−ワ−ドを毎日調べているが全部は調べようがない、ペ-ジ数が多いからわからないのがかなりある。

ただキ−ワ−ドに情報のオンデマンドなのだ。キ−ワ−ドからインタ-ネットの世界は始まっている。インタ-ネットの世界はまずキ−ワ−ドを入れてその世界に入ってゆくからキ−ワ−ドが大事になる。私のホ-ムペ-ジでもキ−ワ−ドを調べるとこんな人がこんな要求できているなとわかる。最近は特別企画した市町村合併関係が多い。これも地元だけではない、必ずホ-ムペ-ジは全国からアクセスがある。しかしまたこのキ−ワ−ドははずれているのもある。関係ない人も入ってくるのだ。だから百のうち二三割くらいしかヒットしないかもしれない、ミスマッチも多いのがインタ-ネットであり有効な情報を得るのがむずかしいのもインタ-ネットである。情報がばらばらだから編集が必要なのである。あることについてキ−ワ−ドでも編集され整頓されていると読みやすくなるのである。そこがインタ-ネットの弱点なのだ。

2005年2月27日(日)
インタ-ネットの読み方読まれ方


インタ-ネットの読まれ方

インタ-ネットの読み方も読まれかたも今までとは違う。キ−ワ−ドから探すからもともと読まないようなもを読むことになる。その一つの例が花あざみである。このキ−ワ−ドからなぜ明治時代の大和田健樹という短歌の評論を書いたところに入ってくるのか?ここに花あざみの短歌やスコットランドの花が花あざみだと書いたからである。これは国立図書館のデジタルアイカ-ブで見つけ書いた。ここにすでにインタ-ネット的情報の拡大化があるのだ。なぜ花あざみでアクセスされるかというと花に興味をもつ人がはなあざみのキ−ワ−ドで入りその径路に私のホ-ムペ-ジの中に入ってくる、誰かがリンクするとそのリンクで花あざみを書いた一部分に入ってくるのだ。花あざみがハイライトされてそこで花あざみの情報を豊かにしているのだ。そもそも国立国会図書館でこの歌に出会わなかったら花あざみの情報を提供できなかった。

ともかく花あざみのキ−ワ−ドでこのペ-ジにくるのはインタ-ネットが百科事典のようになっていてここに入るようになっているからである。だからインタ-ネットでは全体に関心がなくても一部分を百科事典のように利用している人が多い、自分もそういうことが多くなる。この人はおそらく花あざみについては読むが他には読まないということがある。でも花あざみでアクセスがあるからそこは活きているペ-ジともなる。アクセスないペ-ジは死んだペ-ジともなる。アクセスないとインタ-ネットに置いても死んだペ-ジとなってしまう、アクセスがあればこれ読まれているなと思うからなんか有効である、ヒットしたと思いやりがいがでてくる。だから実際は花あざみというキ−ワ−ドでそれに関する情報分野を広げそこに花あざみという世界を作る編集するともっと利用しやすくなるのである。インタ-ネットはキ−ワ−ドで探すのだからそうなりやすいのだ。

2005年2月20日(日)
宣伝効果


acrwebのレンタルサ-バ-はやめる。8千円では今や高い、サクラは1GBでドメインつきで4000円くらいなのは馬鹿安だ。価格破壊だ。電話で応対もしてくれる。ITの世界は極端に安くなるものがある。事務のコストも電子化すれば十分の一になる。ミラ-サイトのinfoseekはこれも今や高いけどここから結構アクセスがある。宣伝効果があるのだ。ホ-ムペ-ジはアクセスされやすい径路に置かれるとその内容とあまり関係なくアクセスされる。誰かが画像にリンクしてそれがいつもアクセスされたりするのはリンクのためである。外国からアクセスがあるのもそうした径路に置かれためだろう。

宣伝効果というのが意外と大事なのだ。特に商売する人は宣伝しなければならないから宣伝費用はふえているのだ。宣伝効果のある場所が必要なのである。それで宣伝効果あるのはコンビニとかは今や書店より人がひんぱんに出入りするのだからそこに週刊誌でも本でも置くと売れやすいことになる。それで週刊誌ではコンビニとかキオスクの批判はしないという話を2ちゃんねるでしていたがなるほどと思った。スポンサ-にはさからえませんとなる。これだから言論界自体公平でなくなるのだ。

書店でも宣伝効果がある。書店に置かれればそれなりに目立つのだ。しかし一般的に本は書店に置けないのだ。書店を支配しているのは大手の出版社である。その支店のようなものが書店である。一方インタ-ネットは極めて宣伝効果がない、出してもあるのかないのかさえ気づかない人が多いのだ。だからライブドアでも楽天でもマスコミにでたら宣伝効果でて売り上げがふえたとなる。ただインタ-ネットは反面マスコミ的センセ-ショナルなものでもなく地道に活動できる場でもあるのだ。マスコミとか出版界とかで商業主義的にとりあげられないものでも読まれることはありうる。数は少ないにしてもそういうものを求めている人がいるがインタ-ネットには本のように出している人がまれだからだ。それはキ−ワ−ドを調べてわかった。結構むずかしいものを探し求めてる人がいたからだ。

2005年2月17日(木)
キ−ワ−ドの不思議


宗教 解決 努力
江戸時代 箪笥預金
自転車 俳句
相馬藩 司馬遼太郎 石巻

今日私のホ-ムペ-ジに来たキ−ワ−ドである。毎日キ−ワ−ドを調べている。百くらい調べるとなると時間がかかる。ただこのキ−ワ−ドが私のホ-ムペ-ジの反応なのである。
「宗教 解決 努力」は明らかに時事問題の宗教の部に入っているからヒットしていることがわかる。この人は宗教の問題に解決することに努力している人である。しかし何を解決しようとしているのかわからない、掲示板で聞いて見ればわかるかもしれん、みんな何かを知ろうとして解決しようとして様々なキ−ワ−ドで探している。これは自分もそうだから他者もインタ-ネットではそうなっている。私のホ-ムペ-ジと確実にヒット、適合するものがかなりある。これはほんの一部である。江戸時代 箪笥預金 などは預金に困っているから江戸時代はどうだったのかと調べているのだろう。 江戸時代についてかなり書いているから江戸時代もヒットしやすい、それから驚いたのは自転車 俳句 このキ−ワ−ドで入った人である。自転車と俳句を結びつける人はいない、ところが自転車 俳句は自分のテ-マでもある。自転車と自分は切ってもきりはなせないものになっていたからだ。自転車にのって俳句や短歌や詩を書くことが多いからだ。このキ−ワ−ドで来た人は自分のテ-マと一致している不思議である。ただ相手が本当は何を求めてきたのかわからない、対話すれば面白いし話が発展することは確かである。相馬藩となるとそもそも相馬の歴史などについて書いている人が少ないからヒットする。福島県とか相馬にしても何かホ-ムペ-ジに中味のあるものを書いているものが少ない、まだ郷土史の中味のあるものは本にあるのだ。相馬藩とキ−ワ−ド入れればひっかかりやすいのだ。

いづれにしろ掲示板とかもてばいいのだがどうも自前でcgiなどができないしわからないことや掲示板だとアラシが入り誰なのかわからなくなりそれに答えるのも大変になる。だから掲示板をやることは大変なことである。むしろ限定された人で掲示板でやりとりするのがいいのかもしれない、掲示板は匿名だとするとごちゃごちゃになってしまう、それでやめる人も多いのだ。無制限にしたらそうなる。2チャンネルのようなところではいいのだが個人の場合、これに対応できない、そしてアラシが入り無制限にしたら終始がつかなくなるのだ。サクラネットには掲示板作れるがcgiだからこれが簡単なようでわからないのだ。まあ、ゲストブックくらい作らないとまずいと思っているがもうcgiになるとわかりにくくなるからできないのだ。

2005年2月13日(日)
インタ-ネットの弱点

インホ-シ-クのミラ-サイトの契約更新のペ-ジにログインできなかった。これはメ-ルでちゃんととっていたしIDとかパスワ-ドは間違いがない、パソコン二台でもやってみたができない、ともかくパスワ-ドには困るのだ。やたらあちこちパスワ-ドを使い混乱してくる。今回のメ-ルに記録されていたし比較的簡単だからこんなことありえないと思った。
ジャパネットもこれも暗号がパズルのようになっていて使いなくなり解約することにした。郵便で知らせを受けとっていたのでこれで380円くらい一カ月とられていたのには驚いた。この世界は認証がめんどうなのだ。それが最大のつまづきである。個人認証することが壁となっている。そしして個人情報がもれることが問題になる。笑い事ではなく使いなくなることがありうる。肝心のペ-ジにログインできないとしたら使いないからやめるほかないという普通の社会ではありえないことがありうる。その一つがジャパネット銀行だった。

なぜログインできないかと連絡してもあなたのパソコンがどうのうこうのいろいろこっちの方が問題にされるのがパソコンの世界だとすると使いなくなってしまう。おそらくインホ-シ-クのような大きな所は細かい対応ができないしセキュリティにあまりにも過敏になるからかえってむずかしくなる。小さい所はメ-ルでどこどこの銀行に入金してくれで使える、いちいちそうした登録画面になど入る必要がないのだ。ただ高くなったりいろいろなサ-ビスに欠けている。でもインホ-シ-クは300mbで6000円とっている。サクラは1GBでドメインと合わせても3000円くらいなのかとんでもない安さなのである。それで電話で対応してくれるのである。これは力強い、インホ-シ-クは電話対応してくれない、ということはパソコン画面でしか対応できないのだからそこでできなかったらやめる他ないという奇妙な結果となる。インホ-シ-クはミラ-サイトとして結構アクセスあったから簡単にやめるわけにいかない、これも困ったもんである。本当にこんなことになるならめんどうならやりたくなくなるのが普通である。

2005年2月12日(土)
キ−ワ−ドから読まれるインタ-ネットの不思議


インタ-ネットの特徴は何かといえばキ−ワ−ドから絶えず探していることなのだ。ところが私のホ-ムペ-ジのキ−ワ−ドを毎日みているとわかることはそのタイトルと関係ないものが入ってきている。短歌に興味がなくてもその文の中に明治時代 子供とキ−ワ−ドで入れると明治時代の短歌の評論の部門に入ってきている。自分が思った意図した人が読んだりしていない、これは本との大きな相違である。本だったらその本に関心ない人は買わない、金だすのだからよほど関心ある人なのである。しかしインタ-ネットは違う、キ−ワ−ドから探すから一見まるっきり違ったような所にも入ってくる、それが全然関係ないかというと情報として関連あるのだ。それは自分自身もキ−ワ−ドで探しているから自分の意図した所ではない別なペ-ジに入ってゆく、しかしあれ、こんなペ-ジあったのか、変わっているなとか注目して読んでいる。それはまず事前に読むようなものではないものだった。キ−ワ−ドで探しているうち読んでいるのだ。だからこうした読書の方法などなかった。キ−ワ−ドで本のペ-ジからペ-ジを読むということはありえないのだ。本だったらそのテ-マにそったものを読んでいるのである。でも本でもさらに詳しく知ろうとしたら必ず本の中のキ−ワ−ドを探しそこの部分を詳しく知ると本の理解も深いものとなるし知識の広がりもでてくるのである。現実本を読んであるキ−ワ−ドをインタ-ネットで探してみたらそこからさらに知識が広がったのである。

アクセスは百以上あっても実際は2割くらいがヒットして読まれいるようなのがインタ-ネットのホ-ムペ-ジである。だからアクセスは常時多くないとだめなのである。百あっても2割くらいしかヒットしないとなるとそうなる。本の場合は確実にそれにふさわしい人が来ているのだ。今の問題である市町村合併問題のペ-ジはアクセスがある。これも相馬郡関係かというと実際は全国の人の方が多いのだ。キ−ワ−ドから入ってくる探すということが何か今まてにない変則的な読み方というか探しかたになっているのだ。それでも意外なものをそこから発見したりしているのである。

2005年2月7日(月)
キプロスからのアクセス


etname: CYTANET 
descr: Cyprus Telecommuncations Authority 
descr: Internet Service Provider 
country: CY

キプロスには船で何時間かあったのでよった。そのキプロスからアクセスがあった。インタ-ネットの世界は広がっている。トルコの大学からもアクセスが前にあった。バスで同乗したのはトルコ人でキプロスにヨットをもっている人だったから金持ちだったのか、キプロスはギリシャとトルコに分かれている。別に自分のホ-ムペ-ジと関係なくアクセスされる径路におくと見られる傾向がある。どこかにリンクされると見られる傾向があるのだ。マレ-シアとかからもきたがやはモスクワとか黒竜江省とかキプロスはめずらしい、簡単に世界とつながるのがこの世界なのだ。だからといって別に何か相手のことがわかったりコミニケ-ションあるわげではないからまだまだ国際的には活用していない、前に外人の対話を英語の勉強のためにただ読んでいたが盗み聞きはできないからやめた。返答を求められるからだめなのだ。聞くことができても英語では話できないからだ。ただインタ-ネットで2ちゃんねるのように本音の話が聞けたらその国の事情がかなり裏までわかってしまうから本当に国際的にも情報化時代になることは確かである。まあ、翻訳ソフトもあるがまだまだこれでは無理だから対話となると日本語でもむずかしいのだから外国になると壁が大きい、でもインタ-ネットが国際的なものであり国際的に活用する方法も考える必要がある。 

2005年2月3日(木)
アクセスのキ−ワ−ドをたどる


私のホ-ムペ-ジにくるキ-ワ-ドを毎日、調べている。結構めんどうだが私のホ-ムペ-ジは掲示板もないし今のところコミニケ-ションしていなからキ-ワ-ドが反応なのだ。キ-ワ-ドをみるとみんななんとか目的のものを出そうと苦労していることがありありとわかる。自分もそうだがキ-ワ-ドから目的のものをさがすだからキ-ワ-ドが大事なのだ。「地方産業」(寒い)とかでてきたりして笑ったり藍場川 汚れとかでてきたりしてあれ藍場川は汚れが問題になっているのかと逆に気づいたりする。それなりものが毎日きている。私のホ-ムペ-ジは過去のものが常に必ずアクセスされている。普通だったら日記形式なら一番新しく更新した場所にくるはずである。一番新しく更新している時事問題は新しくしても意外とこない、過去の方に常にアクセスがある、そして時間がたつと一カ月すぎたりするとアクセスがふえてくるのだ。こうして過去のものが毎日アクセスあるということも不思議である。一つの論文になっているし作品として読まれている。いいものであれば長く読まれることは確かである。

インタ-ネットはキ-ワ-ドが大事である。スリッパがいいのがないかと母が言うので宣伝の1200円のを買った、これはふわふわしてあたたかく軽く肌触りがいい、普通安いのは同じものでありこうしたいいものは売っていない、これは便利用品として特別売り出したものである。スリッバとキ-ワ-ドいれてみたらこれよりいいスリッパは2400円で楽天にでていた。スリッパの専門店もでていた。インタ-ネットはこうしてスリッパに関してならスリッパの世界が現れてくる。そしてス-パ-にはおいてないものを買うときなど便利だしまたそういうものが売れることは確かである。高くてもそういうものは買う人がいるのだ。インタ-ネット的買い物はそういうことなのだ。キ-ワ-ドから世界を広げてゆく、一つのキ−ワ−ドからリンクをたどり知識が広がってゆくときインタ-ネットの力を感じるのである。そのためにはかなりの量をアクセスしないとだめなのが苦しい。意外なところにあるからだ。カンボジアの体験談書いていた人には驚いた。地獄をみたとか少女買春の信じられない体験談を書いていたのだ。自分のことではない誰かのことを書いたのである。あんなことをしているとは実に罪深い、その罪は必ず問われる、神は見過ごしていないことをあとでしることになる。罪として魂に刻印される恐ろしさを感じていないのだ。一時的な快楽のために無辜の少女をいためつけるのは恐ろしい悪行である。

ともかくインタ-ネットは情報知識を連結させることが大事である。リンクが生命なのだ。earthlinkなどというアメリカからアクセスがあったがまさに地球をリンクさせることなのだ。

2005年1月29日(土)
インタ-ネットを世界的に活かすには

 インタ-ネットを世界的に活かすには

NURNBERG(ニュ-ルンベルグ)
address: 518/25 Soi ramkamhaeng39 ramkamhaeng rd., wangthonglang 
city: Bangkok 
broomfield(デンバ-の近く)

インタ-ネットは確かに世界に通じている。簡単に通じやすいのだ。ただパソコンの画面からすぐに世界と通じているとかなるとそれはなかなか実感できない、それは言葉がわからず対話できないからだ。多少なりとも対話ができれば世界と通じていることが実感できる。ニュ-ルンベルグとバンコクからデンバ-の近くのbroomfieldからアクセスがあった。この名前は日本語にすれば花野である。でもその場所についての歴史とかその町を語るほどにはなれない、知識とか情報もわからない、日本だったら一度も行かないのにその土地の歴史的説明ができたようにある程度察しがつくが外国はわからないのだ。だから対話もむずかしい、ただこれだけ世界と通じているのだからインタ-ネットを世界的に活かす方法何なのか模索する人もでてくる。私の場合はやはり英語で日本の俳句の紹介とかすることだろう。そうすれば日本文化の紹介にもなる、なるべく写真とかわかりやすいのにする必要がある。ただインタ-ネットも結構手間暇かかるので疲れるのだ。なんらかのゲストブックなんか作ろうとしているがそれもcgiとかなんかめんどうになる。なかなかインタ-ネットは手間暇はかかる。いろいろまだやることがあるができないのである。

2005年1月25日(火)
インタ-ネット銀行での失敗


ジャパネット銀行では失敗だった。まず暗号があわせるのがむずかしくてできなかった。認証作業がめんどうなのだ。そのカ-ドをなくしたためもあった。これは普通のカ-ドより使うのがめんどうであった。そして大失敗は郵便で明細書送ってもらったことである。これだけで380円とかかっていたのだ。これに気づいたのはnttで郵送かインタ-ネットで見るかでときかれ郵送を停止したのでわかった。郵送でも百円くらいだと思っていたのだ。これで放置していたから二年間分くらいとられた。その間金を一回ATMで試しにおろしただけで一回も使っていない、インタ-ネットはまだ実験段階だからこういうことがある。買い物などで使えると思ったがカ-ドの方が便利である。インタ-ネットであれパソコンはマメにチェックしないとこういうことがある。第一私はかなりズボラでありパソコンにもインタ-ネットにも実際は向いていない、ただ文章を書くことが仕事なのでこの世界に入ってきただけである。それもニフティから始めたのはこれも文章を書くためにオワシスを買ったのでありそこに通信機器がついていたからである。私自身はパソコンマニアでもなんでもない、文章書きたくてやってきただけであったのだ。だから二年間くらいそうしたことを放置したりしている。ともかく数字にも弱いしずぼらだからこうしたマメにアクセスしてやりとりする世界は向いていない、バソコンインタ-ネットはまず手間暇かかる世界なのだ。手間暇を省くからインタ-ネット銀行は安くなるが使う方はかなり覚えるまでめんどうになる。

次に津川のことを知りたくて本を注文した。これは郵便小為替というのがあってそれをつかった。小額の為替を買って郵便で送り送られた方が金に変えて送ってくる。送られた本は着払いになる。これは便利だ。ただ送料とかで400円以上高くなる。為替自体は30円くらいだから安い、送る手紙代の方が高い、つまり今や80円という手紙代はインタ-ネット時代、電話時代では高過ぎるのだ。それにしても380円も手紙代にとられていたとは馬鹿げていた。まあ、この世界は実験段階であるからやる人も失敗がかなりある。だまされる人もでてくる。認証作業とかまだまだ信用システムを築くのがむずかしいことがわかる。

2005年1月22日(土)
郷土史研究に役立つインタ-ネット(3)


足軽長屋というのに興味をもってインタ-ネットで調べたらそれなりのものがでてきた。ただ何百と調べないとでてこない、それで今回の新発田への旅などに付け加えた。インタ-ネットに置くことは情報の共有化になる。岩村町誌など普通関係ない人は読まない、地元の人しかよまないのだ。それがなぜインタ-ネットでよむようになるかというと「足軽長屋」というキ−ワ−ドで調べるからそれに関連したものとしてよむのである。足軽長屋を題材にした小説の本もあった。これも興味深いものだが買うとなるとめんどうだし大変になる。全部小説をよむより一部をよむことがインタ-ネット的な読書なのである。そして意外なものがつながってゆくことがあるのだ。砂糖というキ−ワ−ドで堺がでてきたのもインタ-ネット的なことだった。情報の連携、組み合わせができてくる。一冊の本全部ではなくその一ペ-ジとかと結びつけることがよくあるのだ。とくに郷土史研究とか歴史的研究とかにはそういうことが多いのである。郷土史研究で困るのはその土地の本など全部よむこともできないし買うこともできない、一部資料としてよむからである。郷土史研究にはインタ-ネットは役に立つ、ただ資料をもっとだしてくれないとだめである。

2005年1月13日(木)
アクセスが増えた謎



最近アクセスがかなりふえている。ペ-ジ数をふやしてアクセス解析をおいたのでわかった。時事問題の過去のが毎日のように何人か読んでいる。私の場合結構むずかしいものだからそんなにアクセスないと思っていたが最近かなりのアクセスがある。時事問題はすでに25ペ-ジあり必ずどれかにアクセスが平均して二人くればすでに50人はきている。今日は確実に150人以上きている。キ-ワ-ドを逆にたどるとそれなりにいかにみんな探しているかわかる、そのキ-ワ-ドが結構工夫しているのだ。いくつもならべてなんとか探そうとしていることがありありとわかる。私のホ-ムペ-ジは百以下とか10、20とかにひっかかりやすいのだ。そこからアクセスがふえたみたいだ。とにかくペ-ジ数はすでに百ををゆうにこえているしテ-マが多いからなにかかにかひっかかるのだ。キ-ワ-ドで読まれるようにするには自分のようなやり方がよかったのだ。つまりまず多くのキ-ワ-ドにひっかかるような量を作ることである。すると10とか20でもその中から選ばれてよまれるのである。ただ150人以上といってもその中味はわからない、学生が多いことは確かである。必ず大学生が入ってきている、学生は大学からアクセスするからわかりやすいのだ。来ているのはどういうわけか私立大学が多いようだ。最近なぜか「国風文化」などというキ-ワ-ドが多い、これも時代なのか、江戸時代も知りたい人がいるし自然関係のものも多い、何かのキ-ワ-ドにヒットしやすいのが私のホ-ムペ-ジだからアクセスがこれほどふえてきたのだ。しかしこのアクセス解析は実際は詳しくはわからない、そこに重複したものや何かありふえているかもしれない、そこがわからない、正確なアクセス解析はどこでもできていないのだ。でもアクセスログをみると数は一致している。ipがみな違って一人として数えているからそれだけの人がきているのかもしれない、ただこれはまだよくわからないのだ。

フレーム
2005年1月5日(水)
福の神仙台四郎



仙台四郎の伝説をNHKでやっていたけどたこの福の神は昔の通りで一軒一軒の店になっていたときできたのだ。その時店の種類も多いしはやる店とはやらない店がはっきりする場合がある。それであんな伝説が生まれた。その人は確かに実在したけどこうした昔の店のありようと関係して生まれた。今ならス-パ-とかデパ-トとか大きな店で買い物をすます人が多い、商店街を一軒一軒回る人は少ない、とくに外からきた人はそうである。この関係のグッズも売っているから商売にしていることもある。それだけ商店街自体なんか伝説化するほどどこも衰退したともなる。仙台辺りではわからないがなんか商店街という一軒一軒回るのがめんどうになるのだ。

今回買ったのは本とパッグだった。バッグはなかなか見た感じも軽い感じでいいような気がする。これが気に入ったのは磁石がついていたことなのだ。磁石は意外ととくに外国では必要なものでこれだけでも役に立つと思い買った。そこにgrad stoneと書いてあったがこの意味がわからない、輸入品なのだろう。

2004年12月31日(金)
私のホ-ムペ-ジの特徴.


4年間くらいホ-ムペ-ジやってきたけど私の場合は常に書くことがあった。だから書くことに集中した。これに説明の図とか絵とか写真を入れると結構時間がかかった。人間何かを作り上げるときはかなりの労力が必要であり時間がなくなる。素材はかなりあるのだがこれをいかすとなると手間がかかった。写真にしても並べかたでもそれなりの工夫が必要になってくるのだ。私のホ-ムペ-ジは掲示板を置かなかったので反応はほとんどなかった。でもキ−ワ−ドを調べるとそれなりのものが常にきている。例えは今日きていた「唐風文化」とか「西欧文明」とかこうしたむずかしいものや、ヒット数が百以下のがひっかかる。そして問題はあまりにもペ-ジ数が多くなりどこに何が書いてあるのか自分さえわからなくなったことである。だからわかりやすいように分類が必要になった。例えは今日来ていた「国境の意味」というのは別なペ-ジにひっかかっていた。前のメモにひっかかるのが多いのだ。今三つもレンタルサ-バ-に入っているから混乱している。インタ-ネットは前のがいつまでも検索にひっかかるのだ。実際だから一年位しないと上位にランクされないのが多いのだ。

私のホ-ムペ-ジの特徴はとにかくペ-ジ数が多いから百以上は軽くあるから一ペ-ジに一人きただけで百になるのだ。実際全ペ-ジではそうなっているのかもしれない、全ペ-ジのアクセスではそうなっている。でも他のプログとか日記では毎日同じペ-ジにアクセスしている。一カ月単位にしろそうなのである。ある作家はそれで毎日百以上はある。ということは同じペ-ジを毎日百人以上みていることになるのか?これは多い数である。というのは私の毎日書いている「今日の一句一首」や「時事問題の深層」は意外と新しくアップしたからといってアクセスされない、毎日数人にとどまっている。ただ私のホ-ムペ-ジの特徴は平均的に過去に書いたものが一人でもキ−ワ−ドでアクセスされている。何かしらひっかかる傾向があるのだ。単に時事的な短いコメントではなく論文のようになっているから今の時間に関係なく読めるものだから一人くらいは読むということになるのか、ともかく私のホ-ムペ-ジは量が多くなりすぎた。だからわかりやすくなるよう整理することが不可欠である。一番いいのは自分のホ-ムペ-ジ内をキ−ワ−ドで検索することである。これはかなり技術的にむずかしくてできない、ただこれをすれば一番わかりやいのだ。

2004年12月21日(火)
青春18切符でまたでかける


青春18切符で今度は遠くへでかける。盛岡から大館の方に行くのに一日がかりだ。青春18切符は連続してのらないと損したかんじになる。途中寄り道すると一日分が短い区間で終わり損した気分になる。一日遠くまでのるの向いているのだ。秋田内陸縦貫鉄道などまだのっていないのでのってみよう。これもかなり時間的にかかる。あと私鉄のようなあったからそこものってみよう。2日で行くとあと2日分まだ残るから得である。今電車は便数が少ないから乗り継ぐの大変である。計画してのらないと待つ時間が長くなりすぎる。ともかく明日は大館に朝6時に出発して夕方6時につくことになる。

2004年12月16日(木)
青春18切符


何日になるかわからないけど青春18切符買ったのででかけよう、トラジットをもってだからノ-トパソコンは重いからもっていけない、今年はほとんど遠出しなかった。天候不順とか身内の病気とかで行けなかった。今回もあまり遠くには行けないだろう。ただ青春18切符は遠くに行かないと損なのである。近くでは買った意味がない、ただこれも途中泊まると金かかるのだ。今は日が短いので旅行しにくい、まあ、とにかくでかけみよう。

2004年12月11日(土)
ある作家の日記


軍事専門家の作家のホ-ムペ-ジをみているが彼はかなり小説を出している。近くの本屋にもシリ-ズものがでていた。しかしその方面は興味がないので全然読んでいないし今も小説には興味がないから読んでいない、でもなぜこの人に注目したかというとインタ-ネットでホ-ムペ-ジの日記で毎日書いているからだ。それなりにプロの作家の目を通して見ているし情報を提供しているからみている。普通今までの情報環境はテレビとか本を通じて知られる、マスコミで知られたものは爆発的に普及する傾向がある。名前も売れる、しかしこの人のことについては全然興味がないから知らなかった。ただ知ったのはインタ-ネットを通じてでありインタ-ネットがなかったらこの人に興味もないし知らないで終わったのである。こういうことが意外とあるのだ。それなりに有名な作家でも興味をもたないと知らないことがある。その人なりのことを知ることは実は本からだけではむずかしい、その点プログでも日記は別な観点からその人なりのことを知ることができる。

だから有名な作家などもプログとかもっと日記などで書けばいいのだが本の宣伝とか一ペ-ジくらい本の説明とかしか書いていないのだ。無料で出すのは損だともなるが作家でもインタ-ネットから興味をもってその本を知り買うということもある。彼については本を読まないからもしインタ-ネットがなかったら本を出していても全然知らずに終わったのである。あそこで何かもめているらしい、そこで野次馬が面白がりあおる。バトルになるとそうなる。そして一万もアクセスがあったというから驚きである。野次馬が集まると2ちゃんねるのようにアクセスがふえる。一行でも何でも罵倒できたり面白がるやつがいるからだ。でも作家というのはそういうふうにして人を集めるのも仕事なのかもしれない、人が騒ぐことによってその人が知られ本も知られ売れるとなる。芸能人もそうだがそういう野次馬を排除できないしそういうやつともつきあわざるをえないのか、あえて2ちゃんねるとかでそうしているのだから商売柄やむをえないのかもしれない、ともかくアクセスをふやすにはこのように野次馬のようなものでも受け入れないとふやせないことは確かである。

2004年12月7日(火)
老人の病気


田舎で繁盛するのは医者である。近くの90才の医者が死んだがそのあとを継いだ息子の医者は繁盛ししている。最近また家族が病気になって往診してもらったが心臓ではなく背中の筋肉の異常であった。今日は肩が悪いと毎日医者通いである。とにかく老人の病気は直らないから毎日医者通いなのだ。安いからちょっとしたことでも医者通いになるという、田舎で繁盛するのは医者だけというのも歪んでいる。ただ近くに医者がないとこまる。山だと自動車がなかったりしたら医者に来るのも一日かかりになるから簡単にはこれない、小さな町でも近くに医者があるからいい、でも医者がこんでいるから一日かかりになる。老人は医者に行くことが仕事なのだ。だから保険費用はへらない、それもまた若い者の負担になってゆくのだ。団塊の世代がもし今のように長生きしたら医療費が大変だと思う。老人は医療費が安ければどうしても医者に行く、注射一本すると楽になるからだ。今年は夏の暑さやら身内の病気やらで遠くへでかけられなかった。それでもまた青春18切符買った。折り畳み自転車のトランジットででかけようと思ったからだ。これは遠くは無理だか途中下車してちょっと走るのである。私は汽車の路線はほとんどのったから乗る線がない。でも道は尽きることなくあるから自転車の旅は尽きないのである。

2004年12月2日(木)
アクセス問題


ホ-ムペ-ジのアクセスはかなた置く場所が大事だ。最近アクセスが倍にふえたのはinfoseekのミラ-サイトからだった。infoseek内からまずアクセスされる。ここは狭いから意外と効率よくヒットする。つまりアクセスは置く場所に左右されるのだ。その内容に関係なくまずアクセスされやすい径路に置かれないと見てももらえないのである。例えは本屋でも目立つところに置けばまず手にとってはもらえるし目に入るからだ。ホ-ムペ-ジでもヤホ-に置かれるとその内容と関係なくアクセスが10倍になるというのはそのためである。明らかに私のホ-ムペ-ジが倍になったのはinfoseekから来るようになったからである。それと外国から一日一回必ずアクセスがあるのもそうである。そういう径路に置かれているから自分のサイトと関係なく来る場合があるのだ。だからまず無料のinfoseekなどでホ-ムペ-ジをもったほうがよい、明らかにここは狭いからアクセスされやすい、数をふやすだけを目的とするわけではないがアクセスは一つの重要な目安になるというのは内容が何であれまず読んでもらいない、気づいてさえもらえないということがあるのだ。最初5以下だったのもそのためである。今は50くらい来ているのかもしれない、ただこのアクセス数というのはヒット数とかペ-ジ数とかややこしいから実際はわからない、ヒット数だと百倍になるしペ-ジ数だと10倍になる。ただ前からすると10倍にふえたことは確かである。置かれる場所によってはまだふえるのだ。だからアクセスあるサイトの目立つところに置かれるとアクセスがふえるというのは本当である。アクセスされる径路に置かれるからである。大通りに置かれると同じでありともかくそこだと人の流れがありこれ何だろうと見る人だけもふえるのである。

2004年11月27日(土)
ホ-ムペ-ジは英語用が必要

ホ-ムペ-ジは意外と世界とつながっている国際的なものなのだ。海外からも簡単にアクセスできるからだ。どういうわけか一日一回くらい必ず外国からきていることに気づいた。何を探し何をみているのか外国の場合わからない、英語じゃないからみづらいことも確かである。ホ-ムペ-ジはその内容に関係なく目立つところ見られるル-トにおくとこれなんだろうとまず見るのである。普通最初これなんだろうと見るものさえいないのが普通なのだ。だからグ-グルの広告に出したりしないとまず見られない、英語の学習方法なんか入れたら百万でてきた。これでは英語関係の仕事の人はこまる。しかし脇の広告は見られる率が高いのだ。ヤホ-に登録されると有利なのはそのためである。まずこれなんだろうと見るものがないかぎりどうにもならないのだ。とにかく自分のホ-ムペ-ジはキ-ワ-ド検索だけでかなり見られるようになったみたいだ。私のホ-ムペ-ジは量が多いからなんらかのキ-ワ-ドでひっかかる率が多いのだ。そこから多少ふえてきたのである。

普通英語ではこないはずだが英語でも来ているので英語対策をする必要を感じた。英語のペ-ジは写真中心に俳句とかで別に,来る必要がある。写真関係は万国共通だからわかりやすい、それに俳句などの簡単な英語ペ-ジと説明を作るのである。英語はなかなかできないが簡単な説明くらいならなんとかなるかもしれない、写真中心に作ってみよう、しかしこれも大変である。ホ-ムペ-ジは結構書くにしても手間がかかる、まだ整理もできていないし、これは結構な仕事であった。いづれにしろどこでも英語の能力がそれもある程度使える必要の英語である。しかし別に英語が言葉がそんなに大事かというとそうでもない、言葉があっても意味がわからないとだめである。言葉と意味は違う、詩を理解することは言葉を理解することではない、その意味を理解することである。詩をそもそも理解しない人は訳すことも鑑賞することもできないのだ。白い薔薇に関して訳したのはそれにもともと関心があり自分も俳句なり詩にしていたからである。あれも正確な訳でないにしろあらかじめその意味についてイメ-ジしていたからこじつけでも訳せた、最初に言葉ありきではなく、意味ありきだったのだ。

2004年11月22日(月)
メ-ルの混乱(2)


インタ-ネットは国際的であることは確かだ。必ず外国から一人は来ている。オランダ-ベルギ-マレ-シアとかからきていた。何を調べるのか見に来ているのかはわからない、香港とか台湾とかはよくくるがこのへんはめずらしい。ただ何の関係なくてもアクセスされることは多い、何かのル-トにのっかると外国でもアクセスされやすいのである。外国ではどこにも登録していない、それでもおそらくキ-ワ-ドだけからでもアクセスされるのか、外国からスパムのメ-ルが結構くる、これで混乱しているから外国からメ-ルが来ても応対はできない、たいがい投資とかの宣伝である。スパムメ-ルには本当に困る。メ-ルが使い物にならなくなっている。自分の場合,題名にはっきり用件がわかるものと何か信頼されるものでないとメ-ルは今見ていない、連絡とること自体むずかしくなっている。本名と用件がはっきりしないと答えようがない、思想的宗教的な発言、批判もしているからいやがらせとかのメ-ルが創価などからくる。これも読んでいない、こんなのにいちいち応対していたら大変だからだ。それで掲示板ももてないのである。でも応対して答える必要があるメ-ルもあるから困るのだ。なんらか連絡する方法がメ-ルのアドレスなど変えて必要なのだ。いづれにしろ便利なのだがいろいろこの世界はめんどうなので困る。

2004年11月20日(土)
公平なロボット検索


自分のホ-ムペ-ジにはロボット検索でしかこない、それでも前よりかなり多くなったのはロボット検索で探している人が多いからだ。自分のホ-ムペ-ジには百以下ののようなキ-ワ-ドで検索にひっかかる。変わっためんどうな言葉のときひっかかる。そしてこのホ-ムペ-ジの不思議は宣戦しなくてもそれなりの量のコンテンツをだしていると見る人が必ずでてくる。検索で探しているからそれにひっかかるのだ。ミラ-サイトは何の宣伝もしていない、カテゴリ-にも登録したこともないのだがここも見ている人がふえている。infoseekとかは前にも言ったがロボット検索が最初に探すのでひっかかりやすいのとinfoseek内で見られやすいのだ。だからこうした大きなポ-タルサイトに入るとそこから見られやすくなる。インタ-ネットはやはり内容があればロボット検索だけでも見られるようになるから不思議だ。自分の場合、膨大な量だからなんらかキ-ワ-ドにひっかかる割合が多くなっているのだ。他のは一ペ-ジとか二ぺ-じくらいしか出していない、学者のなんかたいがいそうである。これだけの量を出しているのは少ない、だからなんらかキ-ワ-ドにひっかかり見られるようになったのかもしれない、そしてインタ-ネットではある程度見られるようになるとそこからまたふえてゆくことがある。

検索にひっかかりやすくなっているからだ。検索にひっかかるル-トに入ると見られやすくなるのだ。だから一日一回は外国から一人は来ている。普通外国からはこないがそういう検索のル-トにのったから入ってくる。MSNの関係で来ているきかもしれない、ここも一回も宣伝していないしカテゴリ-には一カ所くらいしか登録されていない、それでもロボット検索でふえるようになっている。つまりロボット検索は公平なのである。人間の手が加わらないことが公平だというのもインタ-ネットの不思議である。かえってヤホ-とかの登録はかなり不公平であり肝心なものが登録されないし前に登録された人が得している。ともかくホ-ムペ-ジは内容である。内容が更新があればロボット検索でもふえてくる。ともかく更新がないとだめである。でも最近更新するのにちょっと疲れた。書くことはかなり疲れることである。まあ、暇だからなんとかつづけている。ホ-ムペ-ジもこれだけやるとかなりの労働である。

2004年11月9日(火)
ホ-ムペ-ジにはプロの眼が必要になった


ネットの世界の検索は一番大事である。そのためにgoogleが力をもつようになった。あとは有料でサイトを登録させるところもでてきた。ヤホ-に登録されるとヒット率が十倍になるというのはそこに人の流れができているからだ。そこがたいしたものでなくてもヒットされる通路ができているからヒットしやすくなる。目立ったところにある店は目につくから集客にいい、一応なんだろうかと入る物見遊山の客もくる、一元さんもくる。特に商売する人にとってはそういう人の流れができていることが大事なのだ。これはホ-ムペ-ジにもいえる。その内容と関係なくいい場所に置かれたものは何だろうとみる、そのうち10人の内一人でも関心を持ち品物を買ってくれるかもしれないのだ。つまりインタ-ネットはそのホ-ムペ-ジの内容よりまずそうした人の流れができているところに置けないと最初はヒットすらしない、商売する人にとってはだから最初にヒットする人の流れのある場所におかないとだめである。インタ-ネットではだからヤホ-だったらそこがまずヒットしやすいから入り口になっているからヒットしやすいのだ。リンクでも人の流れのあるところにリンクされるとそこから人が流れてくる、一元さんでも一応見るだけは見る、まず見るだけは見てくれないとホ-ムペ-ジはどうにもならない、それ自体がホ-ムペ-ジはむずかしいのだ。ただ自分の場合どこにカテゴリ-では登録されていないがロボット検索でかなり読まれるようになったみたいだ。

とにかく更新だけは毎日のようにしているし種が尽きることはない、毎日書いていても全部を書いているわけでもないのだ。他にもまだ書けることはあるからだ。更新がないことがリピ-タ-を獲得できない、だからホ-ムペ-ジは日記でも書きつづけねばならないのだ。更新がホ-ムペ-ジの命である。ということはすでにホ-ムペ-ジで書いたり報告することは実際は素人とでもプロになっている感覚になる。だってそれだけ毎日有益なものを放送することはプロになってしまう。例えば海外旅行するにしてもそれをよめるものとして報告するにはかなり知識も必要だし大変なことになる。たいがい海外旅行でも今や同じような写真や報告だらけであり個性的味方の報告はないのである。報告するにも今やプロ的見方が必要だしプロの眼が必要になっている。それでないと今やなかなかホ-ムペ-ジは読まれないことは確かである。

2004年10月25日(月)
キ-ワ-ドの謎


検索のキ-ワ-ドは謎である。しかしインタ-ネットではキ-ワ-ドはかなり大事なものである。これで探すほかないからだ。レンタルサ-バ-にあるwebanalizerという解析はよくわからなかった。これを調べたが最初わからなかった。キ-ワ-ドが悪かったのだ。webanalizer 解説と入れてそれなりのものがでてきた。なぜならこれはレンタルサ-バ-で結構使っているのだ。これはサクラのレンタルサ-バ-でも電話応対しているが答えてくれないかもしれない、インタ-ネットは自助努力が強いられるものなのだ。聞くという前にかなり事前に調べたり試していないとそもそもがわからない、cgiとかjavaとかこんなプログラムなど関係ないしわからないがもしやろうとしたら事前にかなりやっていないと質問すらできないだろう。パソコンとインタ-ネットはそういう世界なのである。自助努力してそして聞いていけばわかる。visitが80とあってもおそらく自分の訪問者は20〜30だろう。ただペ-ジビュ-はそもそもペ-ジが多いからかなり多くなっている。もう一つ前のレンタルサ-バ-から移動していないペ-ジがありそこにアクセスあらからそれをたしたりするとふえているのか、結局これは正確にはわからないが前よりかなりふえている。

いづれにしろキ-ワ-ドがマッチしないとインタ-ネットはうまく使えない、そのキ-ワ-ドが謎なのである。例えば自分のホ-ムペ-ジは「時事問題         」この時事問題の次に何か言葉入れるとヒットしやすい、でも時事問題とそこにいろいろなものを組み合わせる人はまれである。キ-ワ-ドを見たらそうだった。時事問題とさえ入れていない人がおおいのだ。自分のホ-ムペ-ジのキ-ワ-ドは時事問題なのだ。でも時事問題だけ入れてもでてこないのだ。キ-ワ-ドがわからないと自分の探しているサイトにはたどりつかない、いづれにしろインタ-ネットのキ-ワ-ドは謎であるから困るのだ。

2004年10月21日(木)
メ-ルの混乱


インタ-ネットのメ-ルはうまく機能していない、スパムとか迷惑メ-ルがとめられない、フィルタ-かけてもだめだしいろんなものがまぎれこんで混乱する。どういうわけか外国から結構くるのだ。投資とか何か売りつけるためのものである。ホ-ムペ-ジにも外国からのアクセスがある。これは何を見ているのかわからない、宣伝メ-ルおくるためのものかもしれん、というのは外国人どんなキ−ワ−ドで入ってくるかわからない、日本人はキ−ワ−ドを見るとその目的が全部ではないにしろわかる。特に古代関係のは変わっているからわかりやすい、外人のわからないが今は必ずアクセスがある。俳句というペ-ジがあってもhaikuで入ってきているのかどうか見当もつかない、やはりなにを読んでいるくらい知りたいのだが外人はわからないから困る。そして私もしているから非難できなきが写真とかその他画像は勝手に利用される。それでも外国だから著作権などない、第一わからないから文句も言いようがないだろう。だから外国のコピ-しやすいのだ。こういう点もインタ-ネットの変な点である。18才の少年が脅迫文までそっくりコピ-していて警察につかまった。これほどコピ-が容易でありコピ-文化なのだ。でもコピ-がすべては悪いとはいえない、なぜなら合成写真とかコピ-しやすいことは表現の幅が拡大する、だから私のホ-ムペ-ジもあれだけ書けたのである。

マスコミは情報源をもっている、個人はもてないから今までマスコミには到底かなわなかったのだ。今やインタ-ネットが情報源としてかなり力を発揮している。だから個人でもニュ-スの解説のサイトを作れるのだ。ともかくメ-ルの問題は解決しない、sakuraのレンタルサ-バ-は良くできている。個人と会社が直結している、メ-ルが自分専用の情報板でも見れるのだ。個人の連絡がホ-ムペ-ジ上でできるようになっている。あれは便利だし安全だし連絡を見逃すことはない、メ-ルは正確に連絡するのもむずかしくなっている。いろいろなものがまぎれこんで見逃してしまうのだ。そしてメ-ルはいくらでもメ-ルのアドレスを作れることも混乱する。住所は普通一つなんだから、パスワ-ドも十カ所くらいのパスワ-ドを使ったりジャパネット銀行は非常にめんどうなパズルようなもので番号を合わせるのだがその番号をなくしてしまって使いなくなった。インタ-ネットの弱点は個人認証ができないことである。これはやはり混乱する。ホ-ムペ-ジは自由に見てもかまわない、ではインタ-ネットの中で相手を確認して連絡しあうのがむずかしくなっている。フィルタ-をかけたら大事なメ-ルがこなかったりとかなったりする。

だからsakuraのレンタルサ-バ-のやり方は相手確実に連絡する方式としては優れている。電話でも連絡とれるので初心者にも安心である。最初どこがいいのかレンタルサ-バ-の意味もよくわからなかった。レンタルサ-バ-もやはりそれなりの大きな会社でないとだめである。できれアクセス解析が詳しくできるのがいい、でないとホ-ムペ-ジはもっていてもその状況が把握できないからだ。アクセス数はわからないが今50くらい来ているかもしれない、全ペ-ジではそうなっている。かなりふえたことは確かに思える。

2004年10月12日(火)
インタ-ネットはコピ-文化?


インタ-ネットの特性はコピ-が多くなることである。あるサイトではこれは本からのコピ-をして著作権で訴えられた。実際半分がコピ-なのだ。自分でもあれは問題だと思った。それでもそれなりに自分の意見があり読むべきものがあることの不思議である。その人の意見が思想がないということはないのだ。しかしあれ読むと変な気分になった。実際誰の意見なのだがわからなくなる。インタ-ネットから引用すると余計にそうなる。引用だけでコピ-だけをつなぎあわせて自分でちょっと脚色するとそれが誰の創作なのだがわからなくなる。インタ-ネットはそうしたことがしやすいのだ。2ちゃんねるで発言しているのは実際誰かのコピ-が多いのである。奇妙なコピ-文化がインタ-ネットの文化でもある。

自分が思うにすべて引用するものに著作権はない、歴史にしても単に歴史的事実を述べたものに著作権はない、歴史的事実でもそれを基にしてその人なりの感想とか書けば違う、でも歴史的事実の羅列には著作権はない、そういうものを制限されると表現ができなくなる。著作権の不可解さは出版社とかがその人の著作権を管理していた。だからわかりやすかった。でも作家が自由にインタ-ネットで発表すると著作権を管理するものはいなくなる。しかしその利用される応用は格段に広がる。第一書店に置けない本とか無数にある。地方で出している本など決して書店などに並ばないしこれまでだした本でもいいものが膨大にあっても古本でしか出していないからほとんど利用できないのだ。ハリ-ポッタ-のようなものしか今までの小さな書店では置きたくないし書店はもはや知的文化的な場ではない、図書館にしても調べるのが大変でよほどの暇人しかうまく利用できない、インタ-ネットにあるといかに便利かわかる。

今回の対馬のイノシシが八万頭も殺されたということは衝撃だった。これはみんな知っていることかもしれないが自分は知らなかった。地方のことはわからないことが多いのだ。たまたま熊が里で人を襲うということでそれに関することを調べたらでてきたのだ。つまり何か関心がありそにについてすぐに知りたいときインタ-ネットは便利なのである。ともかくインタ-ネットの利用方法はまだわからない、だから問題が起きるのである。

2004年10月3日(日)
アクセス解析の必要性


ホ-ムペ-ジの解析はむずかしい。それぞれ完全な解析はできない、何かがたりないのだ。キ-ワ-ドも重要であるがseoというのはこのキ-ワ-ドを探すのが得意だがどれくらいアクセスされているのかなど他はわからなん、一方どのペ-ジにどれくらいのアクセスがあるとかそれを図表にしているhitgraphはわかりやすい、ただこれからキ-ワ-ドはよくわからない、解析はみんな何かが欠けている。正確な解析は無理である。ただわかったことは意外と古代史のような専門的なもののアクセスが意外とあることであった。これはなぜかというとそもそも専門家がインタ-ネットには出していないし調べると意外と限られたものしかでてこないのとキ-ワ-ド自体変わっているから少なくてもアクセスされやすかったのだ。俳句とか時事問題とかではアクセスされにくい、古代史などのキ-ワ-ドは変わっているしヒットするペ-ジ数も百ペ-ジ以内だからそれなりのものがでてくるが専門家が出していないからその情報は極めて限られているし研究するには限界がある。一方本には蓄積があり膨大なものがあるがそれを調べると読むとなると容易ではない、だからアマチュアはインタ-ネットき情報くらいでまにあわせるがそれでもかなり不満で終わっているだろう。インタ-ネットは何か触りのような軽い情報しかでてこない、触りくらいの情報で満足するならいい、広く軽く知るならいいが狭く深く知るのには向いていないというよりインタ-ネットにはそうした情報は出されていないのだ。

おそらく自分のホ-ムペ-ジのヒット数は20〜30くらいかもしれない、前は5以内だったからかなりふえている方だろう。ただこれも予想であり正確にはわからない、前からするとかなりふえた方である。でもほとんど読まれていないペ-ジもかなりあった。何が読まれているのか意外とインタ-ネットではこれが大事だ。誰も読まないものを書いていてもそれは記録として残すだけとなる。自分のホ-ムペ-ジにはそうしたペ-ジが結構ある。何しろ膨大なものとなっているからだ。それでも記録として残すのに意義がある。今は読まれなくても後に読まれるということがある。知られないから読まれないということもあるし理解されないということもあるからだ。本当はインタ-ネットは対話が必要である。相手が要求するものが何なのかそれに対して答えるというのが向いている。リアルタイムの応答が必要なのだ。それをしていないから自分のホ-ムペ-ジは一方的になっていることに大きな欠陥がある。誰かに情報とかノウハウを提供しているのだがその対象がしぼられていないし一方的なのである。例えば中高年のパソコンというペ-ジはここ3年くらい更新していないが誰かが読んでいた。あれはもう読まれていないと思った。しかし今中高年でパソコンに悩んでいる人は多くいるのかもしれない、だからどうしたらうまくパソコンを使えるかわかりやすく書いたら読まれかもしれない、そうした要求に答える書き方も必要である。それにはニフティのようにそうしたフォ-ラムに入り情報を仕入れる他ない、パソコンをいかに使いやすくするかはやはり大きな問題である。ちょっとしたことがわからないことが多いからだ。

まあ、解析して多少読まれてアクセス数もふえたのでURL変更してもそれなりにアクセスがあった。ホ-ムペ-ジの不思議はヤホ-など有名なポ-タルとかに登録されなくてもキ-ワ-ドだけで読まれることがある。そこから増えてゆくこともある。だからこの世界はマスコミや出版界のようにすぐに目立つことはありえない、地道に更新して改良してさらにコミニケ-ションししてゆくことが大事である。コミニケ-ションするということは中高年はパソコンの使い方に悩んでいるからそれにたいする経験などを書くとかそうしたコミニケ-ションがないとホ-ムペ-ジは活きてこない、掲示板が必要なのだがこれも自分のホ-ムペ-ジにはない、だから解析がその手がかりとなるからこれに力を入れているのだ。ただこれも実際はわからない、でアメリカのある地域からアクセスが定期的にあったり韓国からアクセスあったりすると中味と関係なく来たにしても何か世界とつながっているのがインタ-ネットだなと思ったりするからアクセス解析が必要なのである。

2004年9月25日(土)
URL変わると影響大きい


自分の場合、URL変わって影響が大きい。多少アクセスがふえたところでつまづいた。自分の場合、ロボット検索しかからしか訪問がない、今大手のポ-タルは登録が有料になっている。前から自分のは登録されていなかったがキ-ワ-ドからそれなりにアクセスがふえていたのだ。それがつまづいたのは苦しい。ホ-ムペ-ジはキ-ワ-ドからのほうが探しやすい、これもかなり根気がいり量をみないとだめなのだ。ティレクトリ-登録されているのは必ずしもいいものではない、・・・協会とか組織が優先される場合がある。そして思った以上いいものが見つけられない、新しいものは登録されてないから余計いつも同じものがそこにありわかっているからつまらない場合があるのだ。一方キ-ワ-ド検索は根気よく調べていると意外なものにあたるのだ。自分の場合もロボット検索でいいところにきていたのだ。かえって古代史関係なんかでも探している人がいて驚いた。それは百くらいしかないから見られることになるのだ。こうした専門的なものはキ-ワ-ドでひっかかりやすい、一般的なものはひっかかりにくいのだ。自分の場合はかなり変わったキ-ワ-ドでひっかかっていたことでもわかる。インタ-ネットはマスコミのように大々的に宣伝されないからわからないのだ。何がいいのかも自分で判断する他ないから若い人はここでいいものを発見することはむずかしいかもしれない、たいがいこれがいいものだよとマスコミとか書店では与えられていたからだ。それが自分で判断するとなるとむずかしくなる。いづれにしろURLかわったのは自分の場合かなり影響があった、グ-グルの検索には一カ月はのらないしまた半年くらい目立つところにくるにはかかる。それ以上かかる。一からやり直しみたくなってしまうからURLが変わることは影響が大きいから失敗だった。

インタ-ネットはやはりアクセスが問題なのはともかくアクセスされないとそれはそのホ-ムペ-ジがどんなものであれ活きてない、ちょうど血が通っていない水が流れていないホ-ムペ-ジなのだ。入ってこないのはその内容がともかく何か問題があるのだ。水の流れ反応を作り出してゆく、それが活きたホ-ムペ-ジになるからだ。実際今アクセス解析見たら何十分か前に誰かがアクセスしたことがわかった。今アクセスされているな、誰かが見ているなとなるとインタ-ネットに水の流れ電流の流れかそういうものを感じるからアクセスが大事なのである。もちろんアクセスの量をかせぐなら別な方法がある。掲示板とかその他アクセスだけをかせぐ方法はある。でも硬いものでもアクセスは絶えず必要なのである。キ-ワ-ドで絶えずアクセスがないならやはり血が通わないもの電流の流れニュ-ロンの反応がないからインタ-ネットの中の頭脳として活きていない、流れのない死んだホ-ムペ-ジになってしまうのからある程度のアクセスは必ず必要なのである。数はそんなに多くなくてもアクセスと更新がホ-ムペ-ジが活きている証拠である。更新がほとんどないのは死んでいる。ただ日記でも人に読ませるほどに更新しつづけるのはむずかしいだろう。まあ、本でも本屋では売れない本はやっかいものとなり返本されるのだろう。
インタ-ネットではアクセスが必要でありアクセスがないと死んだものになってしまう。なんらか水の流れ、反応の流れが必要なのだ。だから誰かがホ-ムペ-ジに来たらパソコンに電球のようなものが点滅したりすると臨場感がでてくる。今誰か来ているなとリアルタイムの活きた場を感じさせるのである。そのためには掲示板が必要なのだがこれはアラシとかその他かなり思想的場ではめんどうである。思想的場ではやはり真面目な話になるから真剣な対話になるから匿名とかでは無理に思える。相手が匿名だと無責任になるから真面目に対応できないのだ。匿名でもやれるものはある。しかし思想的問題になるとむずかしい。いいかげんなものには真面目に対応できない、対応したらバカ見るからだ。2チャンネルなではそうである。あそこでは真面目なやりとりはできない、一回くらい適当に書いてあとは相手にしない、真面目に対話できるところではない、ただそれでも裏の情報とか人々が何に関心を持ち不満なのかなど人々の動向などを知るのにはいいのだ。

2004年9月20日(月)
アクセスはインタ-ネットでは簡単にふえない

アクセスは簡単にふやせない

インタ-ネットのアクセスはアクセス代行に頼んで金払ってもあんまり効果ないだろう。商売だったらなんとかアクセスさせようとやっきとなるがあれも知らないから金だけとられる面がある。自分がソフトで大失敗したようパソコンのソフトがめったに使えるものがないようにアクセスアップの簡単な方法はない、掲示板とかやたらどこでも登録してもだめである。今大手のポ-タルが登録するのに金とっているのは驚いた。なんでもかんでも登録しなくなった。カテゴリ-登録されたものはほとんど見ていない、自分のホ-ムペ-ジもカテゴリ-にはほとんど登録されていない、あのカテゴリ-登録は実際はいいかげんなのだ。特に文学関係なんかミ-ハ-の詩やくだらないのが多すぎるだ。金とるならまともなの並べておけ、文学関係なんかポ-タルの人なんかコンピュタ-に詳しくても全然わからないのだ。カテゴリ-登録からはディレクトリ-登録から文学関係などいいものが少ない、今ではほとんとみていない、ゴ-グルのキ-ワ-ド検索がやはりいいものにあたるのだ。それもいつも偶然に見つかるのが多いのがインタ-ネットだから数うちゃあたるという手間が必要になってくる。必ずしもいいものが並べてあるわけではない、雑多ななから自分にあった探しているものを見つけるのがインタ-ネットなのだ。これがいいものだよ、これが賞とったからいいものだよとか今ままでの書店に行くのとは違う、自分で選ぶ作業が常に必要なのだ。

そこが今までのメデアと違う、主体性が選ぶ眼がないとインタ-ネットは生きてこない、だから全くポ-タルでもいいものが並べられてあると限らないのだ。文学だったら文学に詳しいものが選ぶ必要がある。それがポ-タルでも成されていない、まあ・・・協会とかは優先的になる。そこには意外と情報が少ないし有名人は本には出してもインタ-ネットでは出さない、結局どうなるのか、インタ-ネット中に引用してある有名な作家の引用とか古典の抜粋とかそういうものがかえって役に立っているのだ。いづれにしろアクセスをふやす方法はinfoseekなどに入りそこでアクセスをふやしてゆく、次に独自のドメインをとったりする。登録代行では効果があった商売関係の人もいるが一般的には効果はないだろう。最初は頼んでもしかたないがアクセスはふやせない、インタ-ネットの中で目立つことは大変な努力が必要になる。でもロボット検索はそれなりにキ-ワ-ドで人をひきこめる。ロボット検索は公平である。誰かが選ぶのではないしそもそも文学関係では選ぶ能力がある人が選んでいないのだからディレクトリ-登録もあてにならない、つまらないのが多いのだ。この世界は今までのメデアとは違う、個々の要望とかに一致したり何かそうした個々人に対応するからみんなに一気に読まれるなどないのである。まあ、時間はかかってもキ-ワ-ド検索からでもいいホ-ムペ-ジは読まれる可能性はある。とにかくURLが変わったのはいたかった。これで当分またアクセスはへる。でも多少積み重ねたものがあるから前よりはいいかもしれない、前よりはヒットするようになったからだ。

2004年9月16日(木)
ドメインをとる


インタ-ネットはわからないと失敗する。ドメインというのがインタ-ネットにはかなり重要だった。これもなんのことかわからなかった。ドメインは変わらない一生固定化した住所なのだ。これさえもっていればレンタルサ-バ-が変わっても変わらずに使用できる。レンタルサ-バ-とかプロバイダ-はなくなることがある。ジャストネットがそうだったし今のacrwebもレンタルサ-バ-を募集していないからやめるのかもしれない、そうなるとまた困る。URL変わると影響が大きいのだ。アクセスはかなり一時期へるしめんどうになる。そしてacrwebは二三年やめることができない、現実に前のサ-バ-はやめていない、URLが変わったと表示しておかないとそこからのアクセスがあるからだ。infooseekからはまだアクセスがある。あそこは大きな会社だからアクセスがあるのだ。アクセスしやすくするには大きな会社に登録した方がいい、今回安いのでsakurネットでドメインをとり1Gを使えるのに入った。ドメイン名を何にしようかとこれも困った。相馬-somaにしようとしたら雲雀野市に合併でなるのでうまくいかない、簡単なのがいいというので結ぶ-musub.jpにした。ネットは結びつけるからである。

今回また失敗したのはニフティのメ-ルのフイルタ-でスパムメ-ルのフィルタ-をかけていたら操作を誤って一切受信できなくなっていたのだ。きていたのは別なメ-ルの住所であった。これも失敗だった。大事なメ-ルが来なくなることがある。ただ言葉のフィルタ-をかけても迷惑メ-ルはくる。だから今度もメ-ルの住所を変えねばならない、でもこのメ-ルは長く使っていたから変えると問題だと思った。メ-ルはほとんど大事なのが来ないから余り考えなかった。いづれにしろこのインタ-ネットを利用することはまだまだわかりにくい、でも本にしても書店でいつまでも大事に本など置いてくれない、出版社では保管しても誰も大事にいつまでも保管などしてくれないのだ。置いてあっても3か月とか短い、その点かえってインタ-ネットの方が永久的に置けるのだ。本だした人すらそういっている。これは個人的なアクセスが極端に少ないのでも記録として残せる、その負担が少ないからだ。でもこれは大きな会社のレンタルサ-バ-でないとまずい、他は消えるかもしれない、ジャストネットすら消えた。でもドメインをとっていれば誰かに委託しておけばいつまでもおけるのだ。デジタルだから負担が少ない、これは図書館さえ古い資料とか本が多くなると廃棄されている保管しきれないからだ。こういう点デジタルはものすごい数のホ-ムペ-ジがあっても検索では困るが記録するには負担がほとんどかからないのである。現実1Gで年間5千円とか安いのである。ほとんど無料の感覚で保管はできるのだ。

2004年9月12日(日)
ネットの失敗はつづく


ネットでは失敗が多い。アマゾンで一括で送ってもらう処理をせずに送料千円損した。
ジャパネット銀行にも試しに入ったこれも金の支払いがインタ-ネットでできると思っていたが肝心のパスワ-ドがめんどうでそれを記した紙をなくしたので使いなくなった。セブンエレブンの本もパスワ-ドがわからなくなり変えることができず使いなくなった。ただ今回のアマゾンは自己責任だった。良く調べていなかったのだ。こうした手違いなどがありネットの実用的利用はかなりなれないとめんどうなものである。自分はどうもこうしたことに失敗する達だから何かちゃんとしないからめんどうがりやだからうまく利用できない、acrwebのレンタルも100mbをこえているようだし変えねばならぬ。しかしこれもめんどうだ。三年くらいは変えられない、使えなくても変えられないのだ。URLの移動を提示していないと読んでもらいなからだ。なんかいろいろめんどうだが自分はここでやるほかないのだからどうしようもないのだ。ネットは便利でも自分で勉強して操作とかいろいろ覚えねばならぬ。自己責任の世界である。誰かが案内してくれるわけでもない、その代わり自由な発言が許される。これも読まれることも大変だが特権や権力のないものはネットでやるほかないのだ。

2004年8月19日(木)
不安なパソコン


ニフティのスパムメ-ルを拒否するの聞いたみたいだ。やっぱりパソコンに詳しい所に入っていないとパソコンはまずい。他では拒否する方法がない、nttでもはじめたけどソフトの面で弱い。昨日は画面がおかしくなってあせった。色がでなくなった。いろいろやったがだめだった。どうもビデオアダブタ-とか入れると不安定になる。でも今日起動したら直っていた。xpは安定しているのか、フリ-ズすることがほとんどないからやりやすい。パソコン新しいのにしないとだめだ。パソコンはまた怖い、この前は外出していたら突然雷きてきれたのだ。これでだめになったかと思った。しかしなんでもなかった。今日は突然地震がきた。これもひびった。パソコンはこういう点不安である。突然全部消えるという恐怖である。前に一回やっているから怖い。何カ所にも記録していないと安心できないのだ。ホ-ムペ-ジは二カ所においてある。前にニフティで情報だけ保管するものをやっていたがこれもソフトが使いなくなりやめた。ソフトが使いなくなることがあるのだ。パソコンはソフトが大事だ。2ちゃんねるを最近またはじめたのはソフトが使いやすいからであ。live2は使いやすい、ヤホ-の掲示板はつかいにくいからやめた。パソコンはソフトに影響されることが多いのだ。なかなか自分にマッチしたソフトがないのだ。使いこなせないのだ。縦書きの小町もフリ-ソフトだが面白い、書斎の棚のように分類できるし縦書きで読める。あれがフリ-だとするとフリ-でもいいものがあるのがこの世界であり高いソフトでも使いないのはだめである。ソフトはだから余り金かけたくなっている。無駄が多いからだ。

2004年8月13日(金)
常に学習を強いられるインタ-ネット


ニフティのメ-ルはニフティのホ-ムペ-ジから送受信できる。スパムメ-ルのブロックなどもできる。最近ほとんどニフティは見ていなかった。今やっているのはメ-ルだけである。ここも常に変わっているからこまる。メ-ルで困るのはスパムである。メ-ルのアドレスの変更もしないとまずいかもしれない、ホ-ムペ-ジにメ-ルを公開するとスパムがくる。いづれにしろインタ-ネットの世界はわかりにくい、常に何かしら学習していないとわからないのだ。今度はプログだ、検索が変わるとか、調べるのにも大変だ、とにかく手間暇かかるものなのだ。何か理解するのだって手間暇かかるし理解するのが一苦労である。ホ-ムペ-ジに直接メ-ルを出せるようにしてはいけない、メ-ルのアドレスを直接打ち込ませるようにするとアドレスが収集されない、@というので収集しているからだ。リンクでメ-ルを送らせるようにするのはまずかった。この世界ってすでに十年近くやっているけどわからない、技術的にもさほど進歩していない、それはこの世界が変わりやすいからである。すべてが整理されていないし未だに混沌の世界なのだ。それを整理するのが自分しかいない、他人はやってくれないから疲れるのだ。情報だって選択して編集することをしてないと自分だけではない他人にとっても有益なものとならない、その作業が手間暇かかるのだ。これだけ手間暇かかる道具は今までなかった。嫌になってしまう人もいる。常に学習しつづけねばならないのがパソコンでありインタ-ネットなのだ。技術的な面もそうだが情報学みたいなものが常にかかわってくるしそれが大変なのだ。だからこれに習熟するということは簡単にありえない、常に発展するもの拡大するものそれがこの世界である。

2004年8月8日(日)
一万円は大損失、百万は無感覚


今回の旅行の失敗は青春18切符を落としたことである。暑い街を懸命に探したが見つからなかった。旅行にでるとなにかかにか失敗するのが自分である。それも大変な失敗、犯罪的なまでの失敗もしたので自分でもあきれるし家族もあきれている。今回の失敗で考えたことは人間、一万とかになるとかえってその損失が大きいものとして自覚する。日常的に使っている金は一万くらいまでだからだ。ところがこれが百万くらいになるとそうならない、庶民は百万という金は大金なのだが百万を日常的に使うことないから百万なくしたとしても奇妙だが損失として自覚できないということがあるのだ。これは自分の経験でもある。百万くらい家の修理で何回も使っているからだ。しかしそれが大金だと自覚できないのだ。ここに数の落とし穴がある。人間の生活感覚をこえた金には人間は無感覚になる。日本は借金が百兆円だとか年金の金が何兆円だとか事業で損失した金が何百億円とかこうした金の感覚になぜ怒りも感じないのかというと日常的生活感覚の金をこえているから感覚的にとらえることができないのだ。だからそうした金について損失と感じないのだ。人間は日々生活する一万円こそ大事であり百万単位になると無感覚になる。これは貧乏人だから百万をぽんと使ったことないからともなるが自分の場合はそうである。戦争で百万人死んだとかもこれも感覚的にとらえる範囲を越えているから無感覚になるのだ。むしろ身近な人が一人死んだ方が感覚的に痛切なものとなる。これは外国のそうだった。中国でもアメリカでも土地が広すぎて大きすぎて日本的感覚でとらえることができなかった。だから印象に残らない、感覚的にとらえられないものとなったのだ。

2004年8月2日(月)
月山に上る


明日月山に上る予定、登山は登山口まで行くのが大変だ。山登りは自転車より大変である。労力がいる。10年以上上っていない、登山はあとで死ぬように疲れることがあった。遭難の危険もある。山登りで事故があるのはそのためである。月山は一番登りやすい、日帰りできる。
今年はくそ暑いから山の上は涼しくていいだろう。日本の山はいい山が多いのだが会津でも行きにくい、なんか登りにくいの山なのだ。日本には簡単に上れる山が少ないというのは本当である。ちょっとしたことで事故になる。急峻で危ない山が多すぎる。そこが日本の山の問題である。でも本当の自然は山にある。下界はどうしても町とかに必ずでてくるし本当の自然ではない、山には本当の自然がある。

2004年7月30日(金)
情報社会は未知の世界


情報社会とは何なのか、インタ-ネットとは何なのか、これは未知の世界であり誰もこれが何なのかわかっている人はいないのだ。情報によって明らかにされる世界となるがこれは今まで経験したことがない世界なのだ。その一つが今回時事問題18に書いた「昭和天皇の御歌」であるがそこからどうして岩手県の山深い大迫高等学校がでてきたのか、たまたまアガタというキ-ワ-ドでつながりでてきたのだ。こんなこと今まで経験しないことである。キ-ワ-ドで探すから偶然でてくる。でもアガタというキ-ワ-ドでつながり大迫高等学校というのがありこんな校歌かがありあれなかなかいい校歌だなどしる、するとここの地域に関心がおよんでくる。つまり情報によってその土地のことが新たに知るということである。高等学校など多いから知らないのが多いがインタ-ネットによって知られるということがありうる。それもキ-ワ-ドから知られるのである。こういう知られ方は普通ないのだから今までにない情報社会の一端がここで開けたことがわかる。校歌なんかあまり興味がない普通はそんなものを調べもしないがキ-ワ-ドで偶然でてきてあれこれはいいなと思い注目して自分のホ-ムペ-ジに取り入れたりする。そしてそこが注目される場所になるのだ。情報社会というのは情報によって緻密にむすびつく社会である。様々な情報によって地域が結びつく社会なのだ。だから地域の情報を出す必要があるのだ。これを本で今まで出していたが本では結びつかないのである。地域の本を全部買ってなど読まないしそうなると地域のことはわからないままに終わる。インタ-ネット上にあると地域の情報が利用しやすく生きてくるのである。

2004年7月20日(火)
避暑はどこがいいか


なんか暑くて何もやるきなくなった。暑いから寒いところに行こうとしたがモンゴルとかロシアがいいと行こうとしたがビザをとるとかめんどうになった。モンゴルの飛行機代も今は高い。あそこは気持ちいいだろう。北海道には10回も行ったしちょっとあきた。でも暑いから何もする気なくなった。この辺の天候は今年は変だ、山は大雨になったりしているが浜通り日照り気味だ。なんかいろいろうまくいかない、でもなんにもやる気しないからどこかに出かけるほかない、去年は沖縄だった。あれは面白い旅だった。これほど旅をしていると普通の旅がつまらなくなる。ツア-の旅なんかもつまらないだろう。バイクでシベリア横断なんかは旅のしがいあるだろう。やる気ならできるらしい、ロシアはめんどうでもそれなりに方法あるらしいから・・・つまり今の世の中世界中本当に旅行する気ならできるようになっている。だから若い人はひょいひょいと何にも考えず行ってそれなりにどこでも旅行しているのだ。そこで死ぬということなどめったにない、そういう生きるか死ぬかの冒険旅行はまれである。登山の方が中高年でもかなりの数死んでいるしヒマラヤでも死んでいる。登山の方が確率としてはかなり危険なものなのだ。平地じゃないからそこに人もいないしいざというとき助ける人もいない、食料もない、町にも出ないからそうなるのである。世界中バイクで行くとしても町に出れば食い物くらいはあるからなんとかなる。一晩泊まれなくても寝る容易してあるから死ぬようなことないのだ。砂漠とかなら確かに危険だがとにかく村でも町でも人の住む所にでる旅行は死ぬようなことはめったにないしそれで死んだ人はまれだろう。道がなくてシベリアの湿地帯を歩いたということが報告されている。この道がないということ新鮮な時代だ。それは原始の時代だからだ。道は世界中どこにでも張りめぐらされているからだ。道なき道を行くというのは実に新鮮なことだろう。そういう場所は本当にシベリアの奥地くらいしかなくなっている。北海道も釧路湿原のようになっていて道がなくカヌ-で行くような場所だった。だから海から舟で入ったのである。ともかく今年は暑い、暑いと何もする気がなくなる。だから出かけるのがいいが外国行きはちょっとつまづいた。

2004年7月18日(日)
自転車旅行の誤解


自転車旅行はみんな誤解している。20歳代のとき旅行をはじめたがすべて汽車だった。北海道もそうだった。そのとき自転車旅行をみてあんなことできないなと思っていたのが失敗だった。今でもそうみている人がいる。そして関根氏という世界を自転車でシベリアまで旅した人の年齢が2歳しか違わないのに驚いた。若い人だと思っていたからだ。自転車旅行は体力ではない、精神力の方が大事である。確かに体も使うが調整できる。疲れたら休めばいいし坂が上るのがきつければ歩けばいいしとそれなりにペ-スダウンできるのだ。私の場合北海道を一カ月旅したときは一日走って二日休んですすんだ。自炊道具ももたない、日本だったらいくらでも食い物はあるし必ず町にでるから食い物の心配はない、テントで寝れば宿泊代もただである。自転車旅行は体力がなくてもできる。老人でもしている人があるのはそのためである。ただ関根氏のようなことは無理である。やはりサポ-タ-がついて冒険が商売になっているみたいだ。日本の自転車旅行はちょっと経験積めばできる。山のように遭難したりもない、危険なのは交通事故だけなのだ。だから自転車旅行についてみんな誤解している。体力なくてもできるし自転車旅行は冒険の部類まで入らない、日本国内だったらそうである。一カ月旅行してみたらわかる。意外とできるもんだなとわかる。

そして意外と日本って狭いなと思った。一カ月で北海道を半分回ったからだ。自転車で回っても狭いのにバイクだとしたらもっと狭く感じる。自動車だったら一カ月あったら全部くまなく回れるくらい日本は狭い、ただ日本の国の特徴は山が多いから山の道が多いから実は山の道を行くとかなり違った景色がみられる。近くでも飯館まで行くのに坂を越すのに自分の場合半日もかかる。歩くからだ。それだけ山が多いから日本の旅はこの坂が難所であり登山みたくなるのだ。そして実際山の道、林道なんかが行くのが日本で向いている。そういう道は山の眺望があり気持ちいいのだ。ただ坂がきついので楽ではないのだ。だからどこまでも走るという快感が日本では北海道くらいしかないし走るという点では日本はサイクリングに向いていないのだ。ここが大陸とは違う点である。いづれにしろ人間は常に先入観があったりして経験しないで誤解している。50才越えて世界の厳しい場所を旅行しているのはやはり自転車はかえって中高年向きなのである。それはペ-スダウンできる、自分なりに遅くてもすすめることなのだ。

2004年7月15日(木)
激変するITの世界


情報分野の激変がつづいている。nttで始めたadslを利用したテレビとビデオがテレビの大画面でも見れるというサ-ビスは良くわからないがテレビのように見れるインタ-ネットになってしまうのか?大画面で見れることがわからないのだ。あれならテレビを見るのとかわりがない、ビデオまで見れるとしたらあれの方が得になる。光ファイバ-ならテレビの大画面でも見れると思っていたがadslでもできるのか、あういうことができるとなるとこれからテレビは百チャンネルとか千チャンネルとかになってしまい今までのテレビを見るのとは違ってくる。今までのテレビをみんなが見ることはなくなる。百万見てれば大変な数でる。百万以上同じ番組を見ていること自体それ自体放送するものにとってはメリットが大きかったのだ。それはインタ-ネットでホ-ムペ-ジを出してみればわかる。百人集めるのに大変な苦労が必要だからだ。これから千チャンネルのなかから選ぶとなると百万人もみんなでテレビを見る世界というのはなくなる。nttがコンテンツを流すnhkのような存在になるといったが本当だ。nhkは受信料を半ば強制的に一年に2万以上とっているのはおかしい。高すぎる。nhkすら今までのように見なくなるかもしれない、これからは番組に金を払うとすると強制的に受信料をとっているのはおかしい。私としては古代史とか考古学に興味があるからそうした方面の番組をもっと見たい、専門的に見たいという希望があるがそうしたチャンネルはない、もちろんそれを誰が作るのか、無料で作れるのかともなる。百人千人に流す番組で利益になるのかということもある。いづれにしろ情報世界は激変する。レンタルサ-バ-がサクラネットで一カ月百円くらいになっているのは驚いた。それも1GBとかまで格安でできる。信じられない値段である。十分の一の値段になった。それも大容量である。こんなに安くすること自体異常だ、信じられない値段だ。この世界はこんなに安くできるものなのだ。今acrweb8000円というのは高い。100mbで一杯になっているから別なサ-バ-を使うほかなくなっている。Gクラスになるとビデオもかなり出せるだろう。放送局が簡単にできてしまう時代になるのか、この世界は放送すること自体安くなる、だからコンテンツが大事になるのだ。

2004年7月14日(水)
本の概念の変化


本の問題は本の概念が変化したからではないか、知識や情報という概念も変化した。本の扱うものが他の商品と違いすぎたことなのだ。他のものは売れる売れないとかともかく売ることに専念することに別に抵抗ないのだ。しかし知識とか情報は違う、売れる売れないかではなく、まず必要か必要でないかが問題になる。価値づけ方が物とは余りに違っていたし価値のつけ方が間違っていたのだ。学術や専門分野だったらその価値はその方面にたずさわる、それを求める人が判断するのであり売れるとか売れないではない、学術的に価値あるものではも専門的に必要なものでも売れないのである。だからインタ-ネットの時代、知識とか情報の価値づけ方が変わってしまったことに旧来のメデアの人は気付かないのだ。知識や情報を売れる売れないという観点からだけ見ること自体間違ったことだったのだ。書店にしろ出版にしろ売れなければ商売にならないとなるから売れるものを・・・賞とかで作り上げベストセラ-だとか騒いで買わせたのがこれまでの手法である。しかし知識とか情報は本来そうした売れる売れないという物とか商売の観点から離れて見るべきものだった。売れるか売れないかから判定したら古典というものは残らなかったし学術的専門的なものも残らなかった。それらの価値は大量に売れることと関係ないものであった。学術的価値とか芸術的価値とか実用的価値とか・・・・様々あるにしてしも全部が大量に売れることと結びついていない。学術的なものは研究者にとって必要なものであり売れるとか売れないとかとは関係ない、何か調べるため必要になってくる。キ-ワ-ドで探すのはまさにそれである。キ-ワ-ドで探すとき調べるのは本を読むのとはかなり違う、ある必要なものを探しているのだ。インタ-ネットとという全体から探している。そのキ-ワ-ドからこれは面白いとその人のホ-ムペ-ジ読むようにもなる。

いづれにしろ旧来の書店とか出版社は知識とか情報の概念が変わったことに気付かないと取り残される。不用になる。それは売れなきゃとをにもならんというより必要なもの提供するという観点にたたないとインタ-ネット時代には用なしになる。これを営利化するのはむずかしいという点もある。でもそれが本来の知識とか情報とか文化のあり方であり売れる売れないという資本主義的な物を売り買いするものとは知識、情報は違っていたということに気付くべきなのだ。書店に必要なのは知識の案内人、ガイドなのかもしれない、私はこういうことを勉強したいのですがはどうしたらいいのでしょうか、何を読み何を重点に調べればいいのでしょうかとかなる。私が経験したことでは古代史には「和名抄」という日本最古の地名の本の詳しいのを買っておく必要がある。これは一万以上したがこれは古代研究には不可欠なのだ。こんなもの普通の書店には置いてないからネットなどで買うほかない、何が必要なものかそれを案内するのが書店員の役目なのだがそれもむずかしいからおそらく書店とかはなくなり出版社はインタ-ネットで独自のコンテンツを作り放送することになるのかもしれない、ともかく概念が変わるということこれは理解しにくいことなのだ。明治時代に投票のことが理解できず入れ札と言っていたように概念が理解できないからそうなる。インタ-ネットで流通する知識や情報についてもそうなのである。

2004年7月11日(日)
選挙に行く


選挙も行きたくなかった。行く動機がない、参議院自体廃止した方がいい、税金の無駄使いだ。それが投票率に現れている。今回どうして民主党に入れたかというとやはりカルトの創価の犬までになった自民のためである。あんなものに操られるようになったら日本は終わりである。北朝鮮と同じになってしまう。カルトとは何かというとこれもむずかしいが自主的に考えることができないロボットにされた人間である。不思議なのは幹部自体もロボットなのである。世俗のことをすべて宗教的に判断する。この世で得することがあれば福運であり悪ければ福運がないから百万遍拝めとなる。そして罰が当たるとかそうしたことを相手を恐れさせているが幹部自体も恐れているのだ。だから宗教の奴隷になっている。ある意味で宗教により祝福されたものではなく呪われた団体である。いづれにしろ自民党はカルトの犬になるなら一旦野党になるべきである。共産党が苦しくなったのは二大政党化したためである。共産党独自の主張はわかるが二大政党化では損である。二者択一であり政権交代を選択するのが二大政党化なのだ。だから公明党が自民党と一緒になったのもやむをえない選択だったように民主党と一緒になるほかないのだ。二大政党化はやはり政権交代できる仕組みなのだ。政権交代しなければいつまでも改革はできない、50年間も自民党の時代は終わったのだ。

2004年7月10日(土)
文章を書くことの意味


これは一番の自己開発だったことがわかった。奇妙な話だがホ-ムペ-ジを誰が一番読んだか、それはほかならぬ自分自身だった。何回も自分の文章を読んでいたのだ。自分にほれこむように読んでいた。ホ-ムペ-ジは自分が最大限に表現できる場なのだ。これが出版社とかマスコミとかメデアが入ってきたら絶対に表現できない、テレビで一番表現できるのが司会者であくことでよくわかる。マスコミのテレビで一番の表現者は司会者でありその本人でない、司会者が主役なのだ。だから質問されてほんのわずかしか自分のことを表現できないし発言もできない、肝心の本人はほんのわずかしか表現できないのだ。ところがホ-ムペ-ジはメデアを持っているのだからいくらでも自分なりに表現できる。この自分なりに表現できるということが大事なのだ。出版社を通したらメデア通したらそれができなくなる。メデアを通すとなんらかそうなりやすい、直接の当人ではなくそこに他者が介在するからだ。その他者の方が権力をもっているから表現も変えられてしまう可能性もある。だから自分で放送局をもって自分なり自由に表現できるのはホ-ムペ-ジである。この魅力は自分にとって大きかった。おそらくアクセスなしでもやっていたかもしれてい、延々とこうして書きつづけていることでもわかる。

でもホ-ムペ-ジの問題は商売でなくてもアクセスされない、読まれないことなのだ。それがかなり優れたものでも読まれないことがありうる。その方が多いかも知れない、普通世間と同じようにつまらない俗的なことの方がアクセスが多い。人間の関心はいろいろでありその人の価値判断だからそうなる。いづれにしろこのインタ-ネットが個人の放送局だということこれを十分に活かしている人は少ないしそれは出す方でもそうだし読む方でもそれはわずかにしか活かされていないのだ。出版社関係がカラ-の表紙に本の代金の半分以上使っていに感じの本だった。それは博物館にあるものでホ-ムペ-ジにでていた。こうしたカラ-写真はものすごく本にすると高くなるのだ。だからこうしたものを本で買わされるのは馬鹿らしい、余りに高すぎるからだ。ただ出版社で独自にこうした考古学などのコンテツを出しているのはほとんどない、金がとれる仕組みがわからないからそうなっている。でも高価な本にして出すことはもはや限界である。ますます高くなりますます売れなくなることは目に見えているのだ。プロの人がコンテンツ作りする段階にきている。でも実際は全然進んでいない、素人が歴史でも奮闘している。それが結構役に立っているのだ。その証しが「陸奥真野草原考」でできたことでわかる。

フレーム
2004年7月9日(金)
日照り

今年の陽気は変だ。今日も晴れて暑かった。中通りの一部は大雨になるらしい、今6時だが雷が鳴った。稲の一部が枯れていた。ダムもあるし今はなかなか水不足になるとは思えないが今年は浜通りは日照り気味である。でも日照りで米がとれなかったというのは聞いたことがないからやはりダムなどがあるから水不足にならないのか、水は山では絶えることなく流れているのだ。山のほうが雨がふれば平地も水は流れてくるから水不足にはならない。

2004年7月8日(木)
デジカメの欠点


FINpix F700の欠点はスイッチを入れる所だった。いちいちオン、オフにするのに手でずらさないとならないから即座にとるときシャッタ-チャンスを逃しやすい、ここだけか不満だった。これも使って見なきゃわからないところである。今の商品はみんな使ってみないとわからないのが多いのだ。あとはほぼ満足だった。ここの一点が使いにくいしここが大事なところだから問題である。デジカメのサイトがあったが一日一千もアクセスがあるというから驚きだ。日記も読んだがそれなりに面白かった。同年代だがホ-ムペ-ジは一般的に中高年の人のが面白い、なんらか経験を積んで個性がでるからである。失敗談だってそれなりに面白いし若い人はその体験談を読んでもためになる。つまんない体験談でも何かそれはやはり一つの歴史を語るみたいになってためになる。インタ-ネットのホ-ムペ-ジには今まで語られないものがかなりある。一方で若い人に有害なこともかなりある。思想的にマイナスなのがかなりあることなのだ。人生はセックスだとか人生は金だとか人生はこんなもんだとか非常にそうしたことに影響されやすい、人生とはそんなもんかと簡単に考える人もでてくるかもしれない、思想はどんな思想でも影響するからだ。そこにインタ-ネットのマイナス面を感じたのだ。

それにしても一日千もアクセスあって何の影響もないとか少ないといっているのはなんなんだろう。10でも多い気がしているのにこれもわからない、デジカメとか薬の問題とか実用的なところはアクセスが多くなる。悩んでいる人がかなりいるからだ。個人の日記サイトで千になっているのはまれでありトップ何十かの部類に入るのでは、プログというのは検索の上位にきやすいらしい、なんか確かにプログが最近良くヒットする、でもあれもなかなか読むほうにするとわかりにくい、出しているほうはわかりやすいしアクセスされやすい、つながりやすいのかもしれない、いづれにしろそこのサイトだって三年間分の日記を一日で読んだ。量を多くしているのが自分のサイトの特徴だと言っていたがそんなに量は多くない、だから一日で読んだのだ。一般的にホ-ムペ-ジは量が少ない、一冊の本にもならない、量が少なすぎるのだ。なにか学術的なものでもまとまって出しているのは非常に少ない。だから一回アクセスしておわりのが多いのだ。

2004年7月5日(月)
ビデオの公開を始める


まず北海道のビデオの一部を短くしてだしてみた。意外と簡単だった。余計なものを切ってつなぎ合わせただけである。ビデオの編集はむずかしいと思っていた。前にちょっとやって失敗したからだ。たまたまnhkの編集の番組見てあんな簡単にできるのかとわかった。なかなかそんな簡単なことすらわからないのがこの世界である。ちょっとしたアドバイスでわかることがある。ビデオはやはり記録としてはすぐれている。時間の流れと全体的な視野がそこに入ってくる。今回の2分くらいの中にも実は相当な情報がふくまれている。これは実際そこに長々といたからわかるのだ。なぜ人はテレビを見てもそれほど感銘しないのか、そこにいないからその場に対する情報はテレビから映し出されるものだけだから余り感銘しない、ところがその場にいれば情報は無限大にあるものなのだ。花もいろいろ咲いているし回りの状況もいろいろある。それは省かれているしその場にいないかぎりわからないことが多いのだ。だから意外と旅では記録が大事なのだ。15年前になるとほとんど忘れている。何か書いていればそうかなと思い出す、でなければほとんど忘れている。ビデオは忘れていたものを生々しく再現する。

何か貴重なものがあったらビデオにとっておいたほうがいい、家族のことでもそれは残るしホ-ムペ-ジに出すと誰かがダウンロ-ドするから記録として残されるのだ。ビデオの情報発信はかなり強力なものとなる。テレビをこんなにみんな見ているのはやはりそれだけ訴える力を持っているからだ。これも自分でやってみないとわからないことだった。二分くらいでもあの北海道の一部が浮き彫りにされそこに時間の流れと何か遠い忘れられたような空間が映し出されていた。あそこに駅があっても家は五六軒しかなかった。クガイ草というのが注意するものだった。あの花は北海道にしか咲いていない、風がそよぎ広い牧場がありジャガイモの花が咲いている。そんなところに長い時間なかなか来ない汽車を待っていたのだ。そういう時間の流れがあってはじめて記憶に残る。忙しい旅は記録に残らないのだ。これを手始めとしてビデオを出すつもりだ。これくらいのものは誰でも簡単に作れる。ビデオを写真と違いまた別な表現を生み出している。インタ-ネットは本当に個人の放送局になるのだ。ビデオまでやるとすると本当にそこまでできるんだなと実感した。

2004年7月4日(日)
共産党の年金政策、最低5万保証


共産党の年金代わりに最低保証5万というのが面白かった。共産党らしいといえばそれまでだしせこいともなるがこの方がすっきりしていいのではないか、もはや本当に年金は保証できるのか、そこには嘘が多すぎる。嘘でとりつくろうから余計にみんな信用しない、すでに破産状態であり現実でなくなっている。いつもらえるのかもわからない、67歳になるとか、これも結構辛いことになる。団塊の世代が退職したらこれは大変なことになる。5万というのもせこいが自分の場合、家とか税金とか極端に安い、ただこれも隣の市と合併すると高くなる。田舎だと5万でも飢え死にはしないかもしれない、その他は貯金とか何か働くとかするほかない、5万というのは現実的な政策なのだ。そもそも実際は払いきれないし少子化とか若者の不満はものすごいもきとなるからだ。「早く死んでしまい」とかそうした不満がぶつけられるのも生き苦しくする。今回の選挙にはなんか興味がわかない、自分の老後のことなど考えていない、自分は結構早く死ぬように思える。自分は十分に生きたと思っているしそんなに生きたいとも思わない、ただ明日のことは誰もわからん、母は年金を60代でもらって大損した。90まで生きたからだ。あわてる乞食はもらい少ないとはこのことだ。

年金のことは良くわからない、生活にノ-テンキといわれればそれまでだが自分はのたれ死にでも文句はいえない、そういう生き方をしてきたしそれでも恨むことはできない、一応そう思っているだけは思っている、そのときになれば人間はどうなるかわからん、だから年金なんかどうでもいい、5万保証というのが自分にはあっている。もらえないよりいいということだ。でも年金やNHKの受信料も全部払っている。年金はどうみたってペテンなのだ、それをとりつくろうとするから余計にわからなくなる、現実的でないから嘘だと思ってしまう、最低5万というのは実現可能だからこれでもいいと思ったが私は共産党には入れない、やっぱり民主党だろう。自民は創価の犬になったから絶対に入れない、カルトの犬にまでなるのか権力を保持するためにはこれは許せない、冬柴が石油なくなったらどうするんだとかまるで脅迫するように言っていたが石油なくても死ぬわけじゃなかろう。まああいつらなんでもご利益だから石油もご利益だし戦争さえご利益なんだよ、それしか頭にない、宗教も何にも関係ない、一片のパンのためには宗教なんか簡単に捨ててしまう、すべてはご利益とパンしかない、精神的なものの追及はゼロだからだ。正直選挙に興味がもてない、ただ自公には入れたくないというのは決まっている。今回は投票する気力もない、参議院自体税金の無駄使いにも思えるからやめた方がいいように思う。

2004年6月30日(水)
プログの時代へ移行か?



プログというのが面白いらしい。これもまた新しいソフトであろう。2ちゃんねる形式には利点もあったが弱点もあった。個人が深く語れない、大衆的誹謗中傷が多くなりアクセスはマスコミのようにふえたのだがそれがかえってだめにしてしまった。そもそもインタ-ネットは大衆的なものではない、個人がベ-スなのだ。ホ-ムペ-ジがベ-スなのだ。掲示板でもないのだ。プログはまだやっていないのでわからないが個人がベ-スになっている。個人が出せるようになっている。だから創価や他の宗教団体をあからさまに批判しているプログもあった。掲示板でやるとアラシや発言も簡単にとめることができる。2ちゃんねるでもそうである。インタ-ネットは掲示板でもない、本来はその個人の基地たるホ-ムペ-ジが基本なのだ。だからプログはそういうインタ-ネットのコンセプトにあっている。これは個人と個人が結びつきやすいものみたいだ。2ちゃんねる形式はこれも一時的な興隆をみた。しかし数が多くなり大衆化してだめになった。ホ-ムペ-ジをだしてもアクセスがほとんどないとやる気がなくなっている人が多い。これはまた別なソフトなので相互にアクセスされるやり方なのかもしれない、この世界はソフトによって常に変わる。2チャンネル形式も新しいソフトを見いだした段階で終わりになった。今度はプログになるのか、これで新しい情報の世界が開けるのが、この世界は変化が激しいからこまる。

でも今回古代関係では「陸奥真野草原」ではインタ-ネットは役に立った。学問の醍醐味は新説をだすことにあることがわかった。これは理系でも文系でも同じである。新説を出せば学問の醍醐味がわかるし熱心になる。それを証明するのは大変だし素人には無理だとかなるが意外と郷土史関係にはある。地元でもわからないことが結構あるからだ。新しい発見が常にあるのだ。あれだけのものを書いたのは裏付けができたのはインタ-ネットの力だった。あれだけの資料とか裏付けはなかなかえられないからだ。そしてインタ-ネットの有効利用は編集力にかかっている。編集すると一つの作品として読めるものになるのだ。そのための資料が豊富であれば凄い力を発揮する。とてもさがしえない読めないものが読めたことであれだけのものができた。自我自賛かもしれないがかなりのものだと自分ながら思ったのである。

インタ-ネットのlivedoorが球団を買収するというのも不思議である。インタ-ネットでそんなにもうかるのかということが不思議なのだ。インタ-ネットは未知の世界だから実際に社会のように金が流通するのだろうかという疑問があったが何かそれを成功させているものもいる。でも通信の世界は架空の世界のように見えるからその辺がわからない人が多い人が多いことは確かである。でも学問の世界ではかなり役に立つものであることを私自身も郷土史関係でやってみてわかったのだ。

2004年6月23日(水)
また工事だ



今また近くの老人の医者が死んで息子が跡を継ぐことになった。その息子も老人である。自分も老人になっている。老人は今や90の大老人から中老人、小老人がいる。今や自分は小老人である。自分の場合すでに20代で老成していた。老人に見えていたから老人になることはあまり苦にならない、むしろ知的には老人のほうが活発化する。いろいろなことがわかってくるし書くことが尽きることなくある。それでインタ-ネットはいくらでも書けるから便利なのだ。知的なものが実るのは若いときはだめである。吸収する時期だし思想的に成熟しないからだ。若いとき書いたのはなんでも無駄になることが多い。作品にならない、でも小老人にでもなれば必ずいいものが書ける。努力しなくても今までわからないことがわかったり見えてくるものがある。それはある意味で自然に造作無くできるようになる。若いときは無理しても書けないのである。だから若いときは無理して書けなくてもいい、いいものができなくてもいいのだ。実際自分が書き始めたのは50以後でありホ-ムペ-ジもってから3年間である。それまではほとんど書いていない、作品を出していなかったのだ。遅いともなるが書くことは遅くてもおそらく最後の何年間でも十分である。そのときどんな人でもいいものが書ける。自然と書けるのである。だからいいものが傑作を書けないと嘆いたりあせったりすることはないのだ。時間によって自然と解決するものがあるのだ。

いづれにしろ知的なものが実ることがむずかしいのは環境が大きく作用している。現実の生活に貴重な時間が奪われまた常に知的な思索が回りの環境で妨げられることが多すぎるのだ。今回また近くで工事になり騒音で邪魔される。なにかかにか障害が必ずでてくるのだ。知的なものが実らないのは才能ではない、環境が用意されていないことが多すぎるのだ。自分はかなり恵まれたがそれでもたいして書いていないのは知的なものを実らせるのは手間暇がかかり時間がかかる積み重ねが必要なためである。ほとんどの人は結婚やら金儲けの仕事やらで時間を奪われできなくなっている。環境も整っていない、つまり知的な実りを得られるのは多分に才能より環境が作用しているのが多いような気がする。

2004年6月20日(日)
高価になる本


歴史とか考古学の本を買ったが高くなった。4000円くらいになると高い。専門書だから高くなる。私は別に専門の研究者じゃないからそんなに買う必要もない、自分の研究に関係しているものは全部にはない、ある本は2ペ-ジが貴重な自分が追及しているのがでていた。専門の研究に関するものは全部を読むことはない、一部が必要なのである。だからその2ペ-ジをメモしてきて本は買わなかった。哲学とか思想の本を買う必要があるがこうした研究所は一部だけが必要なのだ。だから他によまないもののために3000円も払うのは苦しい。本は高くなるといったがそうなりつつある。本はコストがかかるものなのだ。だから能率的ではないのだ。そして今や読書力が衰えたから本は全部読まないで前読んだのを読み直したり必要なものを拾い読みすることが多くなったから本一冊厚いものを買うのは無駄なのだ。本は売れなくなるといったがますます高価になると売れなくなる。本は今や一冊一万とか豪華本として記念に残すようなものになっていくというのが現実化しているかもしれない、専門の研究する人にとってもこれは苦しいことである。公共の援助などがないと本は出せなくなる。「横穴式古墳の研究」これは3800円とかした。

今郷土史もやっているのでしかたなく買った。他も高かった。専門書は今や最低で2500円とかになる。こういうものは売れないしそれほどみんな必要なものではないのだ。はっきりいって一部をコピ-できれば十分なのである。図書館に行くのがめんどうだからしていない、ただインタ-ネットは専門的になるとまだまだ断片的しかでていない、それでもインタ-ネットに出るとすぐ使えるからとりだせるからリンクできるから便利なのだ。ともかく本が高価になるとますますホンは情報分野としてその人だけの豪華本、記念の本となる。第一一生研究したものを豪華本として買ってもらうとか記念に残すとかになりこれを広く活用してもらうとはならなくなる。でもまだまだ専門の研究者はインタ-ネットに研究成果を出していない、研究所を豪華本ではやれない、もっとそうした情報はネット化してりゅうつうさせるべきものである。特に考古学とか地域の歴史はネット化すると格段に研究がすすむことを私がやってみてわかった。豪華本ではもうこれは情報を流通させるものとは違う、記念品として残すというもので情報を活用させるものではくなっている。

2004年6月19日(土)
歩いて帰る道


人間ほど交通に左右されるものはない、人間の歴史が交通による興亡だったことでもわかる。シルクロ-ドが廃れたことや陸から海の道へ空の道へと交通は変わっている。こんなことを考えたのは電車で帰り家まで歩いた道が一番の近道だったからだ。荷物が重くいつも自転車で行っている道を行けなかったのだ。自転車だと簡単に行ける道も歩くと遠くなるのだ。自転車すらこうなのだから自動車がいかに社会に影響を及ぼしたかわかる。今まであるいた道は歩いて生活していた道は廃れた。歩く範囲にあった商店街が老人の商店街になったりしている。自動車社会になり犯罪がふえたのも地方に自動車によって犯罪が拡散したのだ。自動車では簡単に別の世界に行けるからつかまえようもないのだ。便利な文明は悪いものも拡散させる。江戸時代は歩く世界基盤にして作られていた。明治時代でも漱石が歩きながら考えるとか歩く世界、大地をふみしめて歩く世界の中で世界を考えた。しかし今や歩くという行為がめずらしい異常な世界なのだ。人間はめったに歩かない、自動車だから歩かないのだ。そこで起きてくることは歩くことを基本に結ばれた社会の崩壊でありそれも様々なものに影響してくる。自動車になると行動範囲が歩く範囲とは違って桁違いに広がるから地域社会の紐帯を弱まり匿名の犯罪社会になったというのもそうである。自転車さえこのように行動範囲が広がる。ところがわかるのは皮肉なのは老人になると隣まで歩くのがやっととなる。買い物も近くでないとできない、自転車すらのれないのだ。自動車社会は自動車がないものは老人になとかなり行動範囲も狭められるから苦しくなる。近くで用もたせないからだ。だから老人でも自動車を使わざるをえない社会なのだ。歩く世界は行動範囲が限られてくる。

仙台で今や動いているのはベトストリアンデッキ界隈であり青葉町とか歩いて行っていない、あそこまでも遠くなってしまう。歩くとそうなってしまうのだ。山形で小さな車輪の折り畳み式の自転車をもっていた人が電車からおりてきた。これはオランダ製で良く走るという、車輪が小さいから走らないかと思ったらかなり走るらしい、あれは確かに見た限りではいい自転車である。オランダは自転車社会である。自転車道もあるし自転車がどこにでもある。どっちかというと作りが頑丈な自転車が多い。これもオランダ的質実な合理的作りのためか、オランダは坂がないから自転車に向いているのだ。オランダ辺りだったら自転車で旅行できるかもしれない、自転車で旅行したら面白いことは確かだ。街にでるとそれなり活きた情報に接することができる。だからときたま街に出る必要があるのだ。いづれにしろ今回の一日の旅でも相当な刺激を受けた。

2004年6月16日(水)
ちょっと出かけよう

米沢から白鷹町に行く線を乗っていないので明日行ってみよう
最上川はかなり長い、あんなに奥深くまで通じていたし
船の交通があった。昔の交通をたどると面白いのだ。

2004年6月11日(金)
2ちゃんねるの終わり



掲示板はむずかしい。2ちゃんねるのように人が集まりすぎてもだめである。みんな人を集めることに苦労しているが2ちゃんねるのように一カ所に集中したのは異常だった。それがかえって弊害を生んだのだ。人が多すぎると中味のこい情報でなくて大衆的騒ぎのようなものになる。祭りだとかなにか大勢でリンチして面白がるとかその中にいい必要な情報はうもれてしまう。あまりにも人が多すぎることはそのこと自体問題になる。マスコミは何百万人もの聴衆を相手にしているから問題になるのだ。そもそもそうした情報環境は異常である。大衆的煽動的なものになってしまう。冷静に情報を出し合い検討するところではない、現実2ちゃんねるはあおりだとか何かやたらけなすことが多いのはそのためである。あそこではまともな議論はできない、そうした人達の集まりではない、何かみんなでリンチのよう祭りで騒いでもりあがるという群集心理の世界になってしまった。人が大杉ることは実はインタ-ネットではまれなことであるがその人大杉が弱点となった。確かに人が多く集まれば様々な人の意見を聞くことができるがそれ以上に野次馬的な人々の方が多くなりそっちのほうにつられることが多くなる。インタ-ネットの世界はアクセスにみんな苦労しているが2ちゃんねるは人大杉になってかえって自滅したのだ。一方個々のホ-ムペ-ジ10人みたないから極端に差がある。でもホ-ムペ-ジで発言している限りこれを制限することはできない、とするとホ-ムペ-ジの方が自由な発言の基地になるのだ。ホ-ムペ-ジなんかどこになにあるかわからないとなるがそうして探さないならインタ-ネットも使用価値がないのだ。探す努力なくししてそもそもインタ-ネットは使えないものなのだ。マスコミのように何百万人に宣伝することもできないのだから個々のホ-ムペ-ジは目立たないのだ。

掲示板にはどこも発言の自由はない、2ちゃんねるも誰かが運営しているんだしインタ-ネットの掲示板は基本は個人の掲示板である。だからその運営する個人で発言は規制できるしそれは自由なのである。つまり他に無数の掲示板がありそっちに発言してくださいとなっているからだ。2ちゃんねる個人のホ-ムペ-ジにしては一極集中になりすぎたからインタ-ネットのマスコミになったから問題になったのだ。だから分散すべきでありまたインタ-ネットはすべて自由とは限らない、個々のホ-ムペ-ジ以外はみんな制限されているしそれに抗議することはできない、他で発言してくださいということなのだ。ここはナニガシの主催するホ-ムペ-ジでありその主催者の気に食わないもの不適当とされたものは発言できなくさせられる、そういうのがインタ-ネットの掲示板でありニフティのように文句言うことはできないしやたら削除とかなんとかを問題にすることもないのだ。いくらでも掲示板はありまた自分でも作れるのだからそこで発言してくださいとなるから今やニフティのような削除とか会員資格停止とか問題にならない、ただ他に行ってくださいとか自分のホ-ムペ-ジで発言してくださいとなるだけである。それがインタ-ネットの自由なのだ。個々のホ-ムペ-ジは自由な発言の基地でありその他の他者の掲示板に発言の自由はないのだ。そこがインタ-ネットを誤解している。掲示板を重視すぎていたことなのだ。そこが確かにニュ-スを得られやすいがやはり制限された場であり一カ所ばかりに集中するのはよくなかったのだ。だからみんなも2ちゃんねるばかりに集中するべきではない、他のホ-ムペ-ジや掲示板も利用すべきなのである。つまり2ちゃんねるに集中させて権力を与えてしまったのだ。情報はそうなりやすいがこれも各自反省してインタ-ネットの自由な情報の場を育成すべきだろう。2ちゃんねるの時代は自分にとっては終わった。

2004年6月3日(木)
2ちゃんねる live2ch

2ちゃんねるは使いづらかった。二年間くらいソフトも使うことなくやっていたのが失敗だった。読むことはなんとかできたが発言することは本当にめんどうだった。というのはどこに発言したのかさえわからなくなる。
今度のソフトはそれがマ-クがついてわかりやすい、インタ-ネットとかパソコンは本当に使い方がわからないのだ。この方式は掲示板としてはやはり一番使いやすい、これで情報を蓄積すればかなり役立つ、肝心なのはここに人が集まることなのだ。歴史とか地域の研究をこうした方式でやればかなり研究には役立つ。
とにかくこの世界は使い方がまだできていないのだ。簡単なことさえわからないのだ。対話式の情報収集はかなりめんどうなのだ。これもまたインタ-ネット的情報収集の仕方であり慣れる必要があるのだ。やはり一番むずかしいのは掲示板から有効な情報を見つけることだからだ。掲示板が一番むずかしいのだ。

2004年6月2日(水)
2ちゃんねるのソフト


パソコン、インタ-ネットは未だにわからん、2ちゃんねるがどうも使いずらいと思ったら2チャンネル用のソフトを使ってなかったからだった。それがあるのを知っていたのだが使っていなかった。これもすでに2年くらい不便なことをしていた。2ちゃんねるでは書き込みがつづけてできないのが多かった。ときたま一回くらい練習するように書いて終わりだった。一部参加したが書き込みをつづけてすることレスすることがめんどうだった。ソフトを使っていなかったからだ。前のパソコンが古かったからできないこともあった。パソコンやインタ-ネットは使いこなすことの方がめんどうなのだ。ニフティは意外と中高年にやさしいものだった。初心者を指導するのも必ずいたし親切な人がいた。インタ-ネットにはそうした人がいない、パソコンはソフトをいかに使うかの方が問題である。一年とか二年やっていても気付かないことが多いのだ。声で文章にするのも一回使って終わりとかなんかソフトが使いない、2ちゃんねるを有効利用すること自体かなりむずかしいのだ。

今度「いきなりPDF」というソフトをアマゾンで注文した。二〇〇〇円でやすいからだ。ソフトは安いのでないとだめだ。使いないのが多いからだ。ペインタ-なんか九〇〇〇円で高かった。これもアマゾンで買った。アマゾンは本買うよりソフトとかこの前はXDピクチャ-を一万四千円で買った。カ-ドで払っているからボタンを押すとあとは何もしなくても商品が来ているのも不思議だ。アメリカンエクスプレスは無職でもとれたから不思議だ。あとはカ-ドは持てないから困ることがある。最近買ったFinPIX700は使ってみて感心するくらいいいものであった。まず軽くて持ちやすい、なぜこんなに軽いのか不思議だ。600万画素だから緻密にきれいにとれている。動画もかなり鮮明だ。バッテリ-は付属のものだが多少長持ちするみたいだ。だもこれは四千円かかるし予備買うと八千円になる。これは三万五千円だったがおすすめである。前の四角いタイプはこれからするとかなり使いにくい、だから一万くらいの値段の差ではこっちを買うべきだが二、三万余計にかかったことは確かである。とにかく技術は進歩しているから無関心でもいられないからこまる。バソコンやデジタルカメラや携帯関係は日進月歩だからこれに追いつくことはなかなか大変である。

2004年5月28日(金)
一老ジャ-ナリストの死


「人間はパンのみにて生きるにあらず」というとき何も宗教的なことだけではない、人間はどういうわけか死んだとき不思議にその人の生の意味が問われる。それまでは金のためだとか生活のためだとか何か理由がわからなくても人間は食うために生きている、食うことにせまられて生きている。だからとりだてて何で生きているのかなど問わない、金になればいいし金をもうけているやつがうまくやっているとか、すべて金で計られる、しかし死に際しては違う、その人がどれだけの財産を残そうがその財産は別にその人の生の意味を残しているわけではない、今回のジャ-ナリストの死も戦場カメラマンだったという、その生涯を戦場カメラマンとして過ごした。私はこの人についていかなる人か何をしてきた人か知らない、今突然知ろうとしても一人の人間のことは知り得ないのだ。ただ不思議なのは人間が死んだときはその人の人生の意味とか何を追及してきたのかとか純粋にその意味が問われる。もうその人がどれだけの金をもうけたとか月収がいくらだったとか財産を残したとか立派な家に住んでいるとか関係なくそうした物的なもをのぞいて意味だけが問われる。

「人間はパンのみにて生きるにあらず」というとき日頃はみんな訳もわからず生活のために働くことを強いられている。人生に何の意味があるかなど考えない、ただ死んだときどんな人でもこの人は何を求め何を追及したきたのかと意味だけが問われる。その一生の意味だけが問われる。食うために危険なところにも行ったのかそれとも何か戦場から伝いたいものがあったのかそれが問われている。不思議に死んだ後もこの人がいくら金になったとかそんなことよりどういう意味ある仕事をしたのか問われる。若いこの人の甥はそういう意味の探求上で死んだからその意味もあまり問われない、意味を追及する前の無念の死となった。ジャ-ナリストになぜこれだけ関心があるのかインタ-ネット時代一億総ジャ-ナリストになっているからだろう。みんな何かを伝いたいことがある。その伝いたいものが何であったのか?それが今回の一老ジャ-ナリストの死だった。しかしそれを探求するのも大変である。一人の人間の意味を問うこと自体大変な労力がいる。ただ死んだとき問われるのはその人生の意味でありその仕事の意味でありそれ自体に価値があったことが判明する。死んだ時点で収入がどうだこうだとか問題にならない、純粋に意味だけが問われるしその人の価値はその生きる意味にあったことが判明する。だから金だけにパンだけに生きる人はなんら意味のない人生を送ったことが死んだ時判明するのだ。

2004年5月27日(木)
地方の歴史のドラマ

今回真野の草原(萱原)は本当に萱原だったのかという疑問を書いてきた。地方にも掘り起こすとかなりのドラマがあった。ただ古代についてはわかりにくい、突然なぜ装飾古墳がでてきてこれが九州と一致しているのかこれは大きな謎である。ここにも大きなドラマがある。ドラマは後の人が掘り起こさないかぎり眠っている、わからないのだ。まあ、なんとかここまで掘り起こした。埼玉が関係していたのは自分ながら意外だった。この辺は仮説だから断定はできないがかなり有力な説だろう。古代の歴史はパズルを組み合わせるのとにている。考古学的資料とか文献とかそれから学者の研究とかいろいろなものをパズルのように組み合わせると一連のものとしてつながりがでてくる。これには豊富な資料を読んだり点と線をつなぐ作業が必要なのだ。まさに点と線を結ぶ作業が古代史である。

2004年5月25日(火)
辛犬(からいぬ)と言葉

辛犬とは唐(から)の犬のことだ。唐は韓国だった。犬まで古代は韓だった。
犬までワンワンと韓だと吠えていたのだ。今でも在日などうるさく言うが古代は本当にそうだった。主役的役割を果たしたのだ。でもこれだけ影響力あるのに韓国の言葉が伝わらないのは不思議である。言葉はやはり民族の根っこのようなものだから容易に変わらないのだ。相当な民族の混交がないかぎり変わらない、漢字が入ってきて変わったが日本語は日本語として存続しつづけた。言葉がなくなれば民族がなくなることは確かである。だから民族の言葉を否定することは大変なことなのだ。いづれにしろ古代には犬さえ韓国語で吠えていたのではないかと思うくらい影響力があったのだ。

2004年5月23日(日)
共同研究に向いているインタ-ネット


いや-疲れた。陸奥真野郷に関しての画期的な疑問を提示した。学問的な考証は小説や詩とか想像でないから苦しい、なんらかの歴史的事実の証拠を示さねばならない、日本の歴史は天皇の歴史でもあった。実在しない天皇がいたと言っているが天皇は実在した。その証拠が誰の天皇かわからない古墳があることなのだ。系譜とか残っているかあれも史実でありそうした人物は確かに存在したのだ。でもこうした研究は資料をよみ資料が豊富にあることで内容も決まる。インタ-ネットで役に立った。これは図書館で通い調べなければわからないからめんどうだ。私は地方を旅行して地方の本を買っていたのでそれをもう一回読んで参照して書いた。地ほんの本は手に入れにくいから問題だ。こうした歴史の研究は広範囲に資料が多ければ多いほど確かになってくる。この地方の本を買い集めることはもはやできない、高いし数も多い。学問はやはり積み重ねだ。特に歴史の研究はそうである。学問も結構労力がいる。でも今回提示したことはかなり重要なことだ。なぜならみんな陸奥真野の草原を萱原なびく地と思っているからだ。これには反論もあるだろうがまあ、余り読む人がいないからなんの反応もないのが私のホ-ムペ-ジである。地元の人すら読んでないかもしれない、でもインタ-ネットにおいておくと誰かが参考にする場合がありそれは直結して研究の中に組み入れられるのだ。インタ-ネットにおくと即座にコピ-して自分の文章に取り入れられるからそうなる。ああ、そうかと閃いて自分の文にとりこんだのがかなりある。だからインタ-ネットは学者の共同研究のために開発されたというのがわかるのである。インタ-ネットを実際に役立てているのはこうした研究する人達である。漠然とアクセスしても何も出てこないのだ。ただ日本ではアメリカのように情報が開示されていないからまだまだ歴史の研究でも役に立たない、古本とかに貴重な情報が蓄積されているが著作権の関係でほとんど出てこないからだめなのだ。

2004年5月17日(月)
年金または仕事の価値

いろいろ文句言っているけど自分は年金もNHKの受信料もはらっている。もれなく払っている。家のものが年金係だったから無職でも払っている。NHKの受信料でも払わないやつは確かに何も言えないのだ。これはもはや「罪なきものは打て」のようになっている。年金払わないものが国会議員では半数以上になっているのか、これからどうなるのか、年金はそもそもでたらめなのだ。自分としては老後は最低保証されるのがいい、姥捨山に捨てられるよりはましというくらいだ。今の老人は金持ちすぎる。老人になると金しか頼りになる誇るものしかないというのは淋しいからやはりそれ以外のものを精神的に豊かなものをものを身につけることだ。

長者番つけでもなんかくだらない、商売が一番になっている。あんなものが売れて金儲けになっている。「ついている、ついている」あれは創価と同じだ。福運、福運とくじでもあたってくれというのににている。なんか馬鹿げている。これが世の中なのか、あんなことが金が入り世間的にはほめられているのだ。この世は何かおかしい。こんな世の中だからこの世自体つまらんものだとなる。金ってあんなやつに入るのかということである。一方精神的に高貴な者は明日食うものもなく極貧のなかに死んだりしているのがこの世なのだ。そういうことは変わっていないだろう。だから金だけで価値を計るとおかしくなるのだが今の世はすべて金で計られている。だから金で近づいてくる者は来るなとなるのだ。

これからの時代、その人なりの価値を追及することが仕事になるかもしれない、陶芸家だったら売れるか売れないか関係なく自分の納得いくものをひたすら作って見ろとか、絵にしてもそうなる。ジャ-ナリズムでもお前の追及したいことを追及して見ろとかなる。価値とはその人が価値あると思ったことをひたすら追及することでありそれに対して金が支払われる。その価値あるものは何なのか?それは他人が与えるというより本人が一番知っているし本人が価値あると思うものをひたすら追及してゆくのが仕事なのである。お前のは本は金にならないから必要ないとかそういう権利は商売的に見たら言えるが価値がないからやめろとは言えない、結局価値を認めないも価値を知り得ないものにはわからないからだ。でも画家だったら作家でもひたすら自分が価値あるもの表現したいものを追及してゆく。それは他人とかかわりなくそうなのである。そういうものが本来の仕事なのだ。仕事とはだから志願するものボランティアなとき実は本当の仕事をしているのだ。他者から強制されるのは仕事でないからだ。

2004年5月15日(土)
アクセス数の問題


アクセスが少ない理由は

なぜだろうか、ミラ-サイトのinfoseekの方が検索で自分のサイトがでて来るのが多い、infooseekには広告つきの無料で出したのと300mbの有料のがあった。ただこれは自分でどこかに登録した覚えはない、最近見たらここからのが検索ではひっかかる。本サイトのacrwebは小さなレンタルサ-バ-である。こういう所がなぜアクセスされにくいか、googleではまずniftyとか大きなプロバイダ-や大きな一括りのサイトを探してそれから個々のサイトを探すみたいだ。だからinfoseekというURLは大きいからそこを基点に必ずあたり次に個々のサイトを探してゆくから大きなグル-プに入り登録した方がアクセスされやすいのだ。ヤホ-などもアクセスされやすいのはそのためである。つまりホ-ムペ-ジはアクセスされやすくする方法がある。あるサイトが何回もでて目だつのはそのためである。自分の場合今三つもurl違うのを出しているから混乱する。二つでも混乱するから困る。アクセスをふやす方法はやはり方法がありこれもめんどうだからやっていない、アクセスログというのも正確にとれていない、ペ-ジ数が多いからそうなのだ。一応全ペ-ジのアクセスをとれる無料のを設置したがこれもほとんど効果なかった。実際自分のホ-ムペ-ジのアクセス数とかわからない、まあ、あんまり代わり映えしていないが300mbの新しいミラ-サイトのがかなり検索でひっかかるのでそれなりにふえてくるかもしれない、ただこれもアクセス数はわからない、二つになると混乱するしわからなくなる。でも確かなことは大きなグル-プに入らないとアクセスはないしアクセス数も伸びない、これは確かでありホ-ムペ-ジを持つ人は注意すべきである。


2004年5月13日(木)
地域の町誌などはインタ-ネットで無料に


価値は何かといったらすべてが金で換算されるわけではない、芸術品に例えると絵であれ詩であれ小説であれこれは金では換算されない、確かにいい絵は高くなるがでも絵の価値がわからない場合がある。そうしたら絵の価値を見れる人は金持ちが投資で高額で買うのとは違う、その絵の良さを認める人こそ実際は高額でその絵の価値を知らないでいる人より価値があるのだ。インタ-ネットでは何が価値があるかわからない、その価値を決めているのはそれを読んでいる人である。ちょっとした情報でもそれ有益なものとして価値を見いだした人の方が価値ある人なのだ。それがインタ-ネットの情報環境の変化なのだ。
どうして三千円とかで本買ったけど高すぎる。作る方にすれば高くないのだがインタ-ネット時代こんな高い本を買わせること自体矛盾している。確かに専門的なものだからそれなり価値あるし学者として追及してきたことだから価値がある。でもそれだけが情報のすべてでない、ある地域の情報にしても多様だから語りつくせない、飛島についても学者が語り素人が語るのも参考になるのだ。情報はある地域の情報でも様々な人が語るときそこが生きてくるのである。情報は今や専門家だけが出して高く買わせるようなものではなくなっているのだ。様々な人が多角的に情報を出し合うのがインタ-ネットの情報環境なのである。おかしなのは町誌なんか読む人もその土地の特別な人かよほど興味ある人しか読まないのだ。こういうものは本にすると高いし読む人は少ない、だから公共的にテキスト化して無料で出せば地域の研究に役立つし公益的立場にあるのだからインタ-ネットにもっと出すべきなのである。そもそも町誌なんか本にしたってもうかるのは出版社か誰かわからんが税金の無駄に思える。そしてそういうものは普通は読めないのだから一般の人は読めないのだから無数の町誌などはインタ-ネットに町村で出すべきなのである。すると自分のような素人でも地域について書いたきたように書くことができるのである。

2004年5月11日(火)
自己責任は心で納得することだが



自己責任が問題になったけど自己責任を要求したり自ら自己責任を担うことは最高にむずかしい。自己責任はどういうことかというと事前に納得することである。あなたはイラクで死ぬかもしれませんがいいですか、あなたの仕事のために使命としてやるのは自由ですがそれで納得しますかということである。事前に9割くらい死ぬ確率があったら相当な覚悟と納得が心の中で葛藤をのりこえることが必要になってくる。だから自己責任は最高にむずかしい、そこまで自覚してやれた人はほとんどいない、例えば戦争でも若い人が特攻隊などで死んだけど死ぬことになんとかしかたないから納得させたけど本当は心から国のために犠牲になると納得した人はいない、若いから誰も死にたくないからだ。無理やり押しつけられた犠牲だった。それでも心の中でそれぞれ納得せざるをえない状況に追い込まれたのだ。犠牲になることは大変なことであり特に若い人だったらなおさらそうである。自分が死ぬという極限状況のなかで納得することは覚悟することは容易ではない、だから心から納得して死んだ人はいない、無理やり国のために死んでくれと納得させられたのだ。つまり犠牲になることはそれほど大変なことである。

だから慈善というのも犠牲が要求されるとしたら簡単にはできない、金持ちのお嬢さんが外国で金を恵んでいい気分になるような覚悟では本当の慈善はできないだろう。犠牲が要求されることに耐えられないからだ。自己責任が自ら納得することだとするとほとんどの人はできない、こんなことで何で死なねばならんのだとなるからだ。死ぬという極限の状態で人はいかに自らを納得させられるかこれは人間の最大の課題である。なぜ自爆テロなどできるのかこれもその行動だけをみているがどうしてそういうことができるのかという心の葛藤を知らねばならぬはずである。人間は行動だけを見ていたらわからない、死ぬ前には自分の心を納得させられるのか?その心を見ないとその行動もわからない、評価できないのだ。主キリストにしたってけ十字架を望んだわけでもないのである。そこでその前に「血の汗を流す」ほど悩み苦しんだのだからやはり一人間として俺はどうして十字架じて死なねばならぬのかということが納得できなかったから悩んだのである。ましてや普通の人だったらそう簡単に犠牲になる行動はできない、心から納得して死んでゆく、犠牲になることはできない、私自身にしてもこの年になるまでできなかったということはまさに心で納得させることがいかにむずかしいかである。自己に心から納得して死地におもむくとか犠牲になるとか死ぬとかはそうした自己責任を持つことは最高にむずかしいことだから誰も自己責任をもって死地に行くことはできない、たいがい強制的にそうさせられているのが実情なのだ。

歴史上いろんな犠牲があったけどたいがい自ら納得して犠牲になったり死についた人は極々わずかであろう。だから自己責任で行動しろと言ってもそこまで自分を追い詰めて自己を納得させられる人はほんの一部の宗教者をのぞいてしかできなかったように思う。その他は強制的にか無謀だったのか考えなしだったかのどっちかである。今回のイラク人質事件は考えなし無謀だった。もし死ぬということが確実だったらそこまでしないし自らに納得させる自己責任は持ちえない、自己責任と政府も言うけどそもそも自己責任自体とんでもなくむずかしいものかわかっていないのである。自衛隊なども別に自己責任など関係なく国から強制的に行かされている。任務だから行くという割り切った考えであり深くは考えたくないと隊員が言っていたから自らの自己責任で納得して行ったわけではないのだ。つまり人間は思想と行動が一致することはまれなのだ。行動からみると大変なことを軽々とやっているように見えても自ら思想的に納得して行動している人はまれなのである。

2004年5月9日(日)
インタ-ネットで変わる情報知識の概念



今回は仙台で結構本を買った。専門書は高くなる。3000円とかそれ以上だったし一般的に1500円になっているのは高い。bookoffでも全集物の一部を買った。これは買い得である。百円だからだ。読むのはその中の一部であり拾い読みしている。全集物のは絶対に全部など読めない、みんな飾っておくか積んで置くだけである。自分でも買った本の二三割しか読んでいないような気がする。読んでも忘れているから本のコレクタ-みたいになっている。本に興味があるというとき誰でも本そのものではなくその書いてあるコンテンツとか情報自体に興味あるのだから自分の必要な情報は一冊の中にはないのだ。ホ-ムペ-ジ作ってみてわかったことは情報というのは自分なりに集め編集するとき自分にとっても他人にとっても意味あるものとなる。深く読める人は断片的な情報からも一つの物語を作ることができる。だから本屋での立ち読みは有効なのだ。それもかなりかなり大きな書店でないとだめである。仙台にあるような大きな規模の書店が必要なのだ。情報はインタ-ネットで調べるように情報館というか図書館というかそういう場に入ることが必要である。

一冊の本を読んだり買うという手法は現代には合わなくなった。だから一冊づつ本かっていたら欲しい情報にめぐりあわないし個人で本を買うのは限度がある。bookoffは情報収集には役たつのだ。百円とか500円とかなると買っていてもいいとなるからだ。ただ専門的なものは少ないからこれも有効ではない、でもいらなくなった本を回し読みするというのはいことなのだ。つまりそれが誰かが役に立てるのだからその本なり知識は誰かのためにまた役に立っているのだ。知識はだから普通の物を売るのとは違う、誰かがまたそれを読んで役に立ててくれるならその知識はまた価値を帯びて流通するのである。知識と営利として考えるとなじまないのだ。だから一冊の本を作って売るとかそうした概念自体インタ-ネット時代に合わなくなったのだ。知識は無料にしろとかではなく知識が普通の物とは違う、本は実際は中の知識が大事であり本自体に金かかったり流通に金がかかる物ではないのだ。そういう今までの概念自体が変わってしまったことに出版社も書店もきずかないのである。別にbookoffで有名な作家の本を百円で売られていてもかまわないのである。なぜならそんな硬いむずかしい本を読むとしたらそれは読んで貰えること自体ありがたいことになっている。そういう本を読む消費者の方が価値があるのだ。

現実インタ-ネットのホ-ムペ-ジは無料であり読んでくれてありがとうと金もはらわないのに言っているからだ。読んでくれる人は金を払わなくても価値あるという奇妙な世界になってきたのである。その個人に興味を持ってくれた人の方がインタ-ネットでは価値があるのだ。インタ-ネットでは関心をはらわれること自体とんでもないむずかしいことだからだ。一方有名な作家は関心をもたれと当然だとか金を払うのが当然だとかそういう上下関係の中にあった。出版社でも知識とかは俺たち専門家が作り与える、俺たちが選んだものが読ませるというのが今までの知識にたずさわるものたちであった。これはマスコミにも通じていたのだ。でも情報とか知識とかはそういう独占したり商業化したりするものと実際はなじまない性質のものだったのである。知識は情報はもっと安く早く広範囲に流通して人間を知識豊かな個性ある人々を作るためのものである。インタ-ネットはカオスであるがそうした知識とか情報の概念を変えていることがわからないのである。だから今までの情報知識関係の人はどう対処していいかわからないことが一番の問題なのだ。

2004年5月8日(土)
縦書きと横書き

諸君に出ていたけど縦書きと横書きでは確かに精神に作用度合いが違ってくるだろう。
縦書きだと垂直志向になることは確かである。だから安定性が増してくる。木とか山でも垂直であり安定性がある。横書きは横につながるのだから平行思考である。つまり砂漠とか海とか遊牧民と航海民とかの横につながる志向なのだ。だからそこでは地球を横に拡大してゆく、フロンティア志向になる。農耕民的定住的志向ではない、それは不安定であり変化しやすいのだ。だから横書きは商人向きであり何か宗教的哲学的向きではないのだ。絶えず変動して定まらない、次々に継ぎ足しも容易であり会話的であり横につながるからIとYOUが対等の関係なようにアメリカの平民的志向であり民主主義的志向でもある。
どちらがいいというのではなく横書きと縦書きではかなり表現するものも違ってくることは確かである。英語のようなものは表音文字は横書きであり世界が並行的に横につながる思想である。しかし漢字はもともと象形文字だから縦書き志向であり表音文字と性質を異にしている。象形文字は神秘的になり意味深いものとなる。表音文字はアルファベットはフェニキア人発明したように商人向きの取引に使われたように横につながるものであり誰でも仲間だという解放性がありだから気軽にパソコンは会話的に書けるのである。

2004年5月4日(火)
ホ-ムペ-ジの整理

infoseekで50mbの無料の広告つきのに出していたがそれが半年くらいアップしないと自動的に消されるとあった。それが消えていなかった。検索すると意外と結構でてくるのだ。infoseekのような所はアクセスされやすいのかもしれない、一般的に検索だけだとアクセスされにくい、どこかメインのブロバイダ-なり大きなポ-タルサイトにおくとそれも順位が上だとアクセスされやすい、それにしてもなぜ50mb以上になっているのにアップできていたのも奇妙である。100mbまでアップできるみたいだ。両方やるのはきついので一年くらい放置していたのだ。ここは広告のないのもできるし300mbのホ-ムペ-ジも安くもてる。
何かわからないがCGIとかもできる。でもインタ-ネットはペ−ジがリンクされて誰が書いたのだかわからなくなったりペ−ジだけがどこかに表示されたりキャッシュで消えたと思ったら残っていたりそれも誰のかわからないようにもなっている。こういう点おかしな世界であることは確かである。著作者の存在感がうすいのである。今ペ−ジ数が多くなったので整理中である。自分でもどこに何があるかわからないくらいにペ−ジ数がふえた。すでに100mbに近くなっている。今度はドメインをとる必要がある。これもわからなかった。ドメインは住所だから絶対に必要だったのだ。これをもてばどこでもアップしても住所は変わらない、urlは変わらない、最初からこれに気付いていればこんなめんどうなことにはならなかった。
この世界はいろいろわかりにくい、だから失敗が多いのだ。理解できないことが多いからそうなるのである。でもこれだけのものを本にしたら写真が多いから一千万円くらいのものになってしまうかもしれない、実際はそれほどのものを作っているのだ。カラ−のは非常に高くなるからだ。本にした場合の価値にしたらそれくらいの価値がある。他のサイトも写真だったらそうである。ともかく自分のホ-ムペ-ジはもっとわかりやすく整理する必要がある。

2004年5月3日(月)
情報は構築して価値がでる



情報は建物のように構築される。ブロックを積み重ねるように構築される。情報構築術のようなものがあった。郷土史とか歴史がそうだった。これは明らかに情報をブロックのように積み重ねてゆく作業が必要なのだ。ここに文学的才能とか関係なく数式的につなぎ合わせたり欠けたものを探してうめたりとかそういう機械的作業が必要である。文章を書くこと自体そうだった。文章はブロックを積み重ねるように構築されてゆくものである。もちろんその人のセンスも関係してくるが情報は多様であるから自分一人では必ずたりなくなる。するとどこからか足りないものを補う必要がでてくる。インタ-ネットとか本でも必ずたりないものを探す作業が機械的に必要なのである。私が書いた郷土史もそうしてできたのである。ブロックのように積み重ね相互に連関をもたせることが文章を書くことでもあった。廃村というテ-マでも城というテ-マでも何かをテ-マにして書くことはブロックを積み重ねるような機械的作業が必要になってくるのだ。

ともかく旅は今やなかなか昔のような旅はできないのだ。余りにも便利になりすぎたのである。だから想像からバ-チャルに組み立てる旅が一つの小説のようになってくる。それが私自身インタ-ネットでやってみて面白いことがわかった。ただやたらと目的もなく旅行しているとつまらなくなる。何かテ-マをもってブロックを積み重ねるように構築してゆくと面白いのだ。これは外国でも同じである。情報はもちろん自分の経験したことがメインになるがその他の他人の経験したこと報告も必ず必要でありそれで情報の厚みがましてくる。つまり情報というのは相互連関、相互の積み重ねなのだ。外国では言葉がわからないからその情報の連関とかができずわからずじまいになる。しかし日本だとそうした情報の連関ができるから一つの小説のように情報が過去の歴史からも現代からも構築できるのだ。芭蕉の奥の細道も経験もあったがあらかじめの情報、つまり枕詞としての旅先の情報がありそしてあとからまた小説のように想像して作ったのである。単なる旅の事実の報告がかえって面白いものではない、そこになんらか情報の構築とその人の想像力が加わると読めるものになるのだ。外国ではある場所についての情報がわからないから意外と体験の割りにはいい報告がないしわからないのである。ともかくインタ-ネットは地域の情報構築の道を開いたのである。

2004年5月2日(日)
テロ警戒の看板が六号線に

テロのこんな田舎の道路にまで出しているのはよほど警戒しているのか?
こんなところに爆弾しかけるのか、こんなに警戒したらきりがない、とても全部の道路を見て回れないだろう。
これで思ったことはインタ-ネット時代一人一人が情報を発信できるから何かそうしたテロに関しても連絡取り合うことが簡単にできる。

またここを注意しろとかもホ-ムペ-ジで出せるのだがホ-ムペ-ジは全国に発信できても読めないから注意しろといってもそれがわからないのが弱点なのである。
だからなんらかこういうときは全国的に書き込みできる掲示板が必要なのだがこれもまたデマなどが書き込まれて信頼性がない場合があり情報の発信協力体制ができていないのだ。インタ-ネットの利用方法がわからないためである。

2004年4月27日(火)
パソコンは使い方が大事


パソコンとはやってみないかぎりわからない世界である。応用がむずかしい世界なのだ。こんなに応用がむずかしいものはない、単なる遊びすらわからないのだ。将棋をやってみたが通信の将棋は一回失敗したら負けるのでつまらなくなりやめた。一方強い将棋のソフトは面白い、いくらでも待ったができてやりなおすことができてギリギリの戦いになる。自分がギリギリで勝つまでやれるのである。コンピュタ-が段クラスで強いからだ。これはかえって面白いから息抜きにやっている。つまり遊び方までパソコンは変えてしまった。将棋は近くに段クラスの人なんかいないし現実に人とやるつとなると片手間にやれなくなる。ところがソフトならいつでもできるのだ。これで将棋の面白さがわかった。通信の将棋では一回のミスで終わりだからいつまでたっても上達しなかった。でもこれだといつでも段クラスを相手に勝つまで楽しむことができたのだ。これも使い方がわからなかったのだ。

それからソフト自体使い方がわからないのが多いのだ。「紙」というのはフリ-ソフトにしては優れている。それがインタ-ネットきペ-ジをそっくり取り込むことができたのだがそれをしていなかった。気がつかなかったのだ。それも一年くらいそうだった。ちょっとしたこと気付かないと便利なことを使っていず不便なことをずっ-しているのだ。ソフト自体使いないものが多いし使い方に習熟する方がむずかしい。それで10万は使いずに損した。それほどソフトは使いこなす方がむずかしいのだ。なぜ「紙」が便利かというとそのつど簡単に記録できるから利用しやすいのである。必ずこれ役に立つなと思ったらインタ-ネットはメモとしてとっておく必要がある。あとで行方不明になってしまう。本だったらなんとか探せるがインタ-ネットはどこにあったかあとからわからなくなってしまう。

ninjaも記録するものだがこれも整理するのが大変である。簡単にワンタッチで記憶できる「紙」はソフトとしてかなり役立っている。何かこうしてソフトとか使い方になれないかぎりインタ-ネットは使いこなせない、例えば学問にしても地名に興味があれば地名のデ-タ-ベ-スができる、それは地図などを交えてビジュアルにすればすごいデ-タ-ベ-スができる、そうした使い方がソフトを作ることが必要なのである。

2004年4月26日(月)
書店、出版社の消滅


本というのなくなっても別にかまわないし書店も出版社もなくなってかまはない、そもそも本というのは本自体が価値あるのではなくそこに記されたものが価値があるのだ。でも実際はその記される中味よりロ-マ時代だったら紙が貴重だから紙を提供している人にかかせてもらったというのが実情であった。
どんな文学作品だって中味が問題であり中味がなかったら何の価値もないのだ。どんなに立派に装丁しても中味が問題なのだ。人間の歴史は何らかの価値を追及してきた。文学もそうである。その価値が問題であり出版社とか書店はその価値を追及してきたかというとしていない、特に書店は全くそうした価値を追及していない、ただ置くだけの倉庫と同じである。そこに置かれているものが石ころなのか黄金なのかそんなこと一切関係ないのだ。またそれを見る価値もわからない、とにかく出版社から来るものを並べるだけの仕事である。その中でベストセラ-になるものが一番いいものと思っている。売れるものがいいのである。ところが文学とかこうした精神文化の価値は百万部売れたから価値あるというものではない、過去の古典がそんなに売れるものではないし読む人も実際は少ないのである。ベストセラ-になっていること自体大衆的に受けるものだから古典として残るようなものではないのだ。つまり精神的文化の価値と物の価値は全然違う、食料でも電気製品でも自動車でもこうしたものの価値追及はいいものは売れるのである。食料でもうまいものは売れる。これはだから売る方もいい物を高く売ろうとするしその物の価値は売る方でもわかっているし悪いものをたかくうることなとできないのだ。でも精神的価値を追及する文学や思想、芸術は全く違った価値を追及している。その価値は非常にわかりにくいのが多いのだ。宮沢賢治の文学は今でも難解であり理解できないのだ。

でも人類に普遍的な精神的な価値を追及している。出版社はそういう価値を追及してきた。岩波文庫などがそうであろう。でも今や本を読む人が少なくなったとか本は不況で高いとか売れなくなった。でもそもそも精神的価値を追及している作家も芸術家も哲学者もいる。それらは売れる売れないにかかわらず精神的価値を追及しているのだ。そういう努力は少数者でも以前としてつづけられるのである。それを応援するのが出版社とか書店なのである。食料でもいかにうまいものを物でもいかにいいものを消費者に提供するか苦心している。食料とか道具はその追及する価値が生産者であれ消費者であれ販売するものであれ一致している。精神的価値の場合は価値がわからないから一致しないのである。だから今や書店とか出版社がなくなってもインタ-ネットでもその他のメデアでも精神的価値が追及できればそれでいいのだ。だから別に書店とか出版社がなくなってもその代わりになるものがあれば誰も困らないのである。昔だったら本がないということは書店がないことは知識を専門にする人にとっては手足をなくしたようなことになっていた。他に知識を得るほうほうがなかったからである。今やその代わりがインタ-ネットであれその他のメデアであるとしたらなくてもいいのである。それらがなくなっても精神的価値の追及はつづいているのだ。だからそうした精神的価値の追及に価値を見いださないものはそもそもそこにたずさわる必要などなかったのである。金をもうけたいのなら別な職業につくべきだった。他にいくらでも仕事はあるからだ。おそらく理想としてはこれからは真にそのものの価値を追及する人が必要なのでありそれにそれなりの金は与えられる時代がくるかもしれない、その価値こそ意味を追及するものこそ真に存在すべきものだったからだ。

2004年4月25日(日)
資源が枯渇する



大豆の値段が上がったのはアメリカの不作と中国の消費量増大のためだった。魚を食う量が飛躍的に増えたのも中国だった。中国が発展すれば石油の消費量が増大する。中国は世界の資源を枯渇するほど貪欲な消費者になる。アメリカも地球温暖化に協力しない、中国の問題は世界の問題である。中国の公害は日本にも影響する。中国は日本の海を調査している。資源を探しているのだ。領土問題も資源問題である。中国の脅威は世界環境の破壊になる、資源の枯渇になるという深刻な問題でもある。紙の消費量にしても桁外れになるから電子本の普及はいいことである。木がなくなりはげ山になったのも中国の木を切りつくしてしまったからだ。中国は水も不足する。だから山峡ダムのようなとてつもないものを作る。その結果日本海の海も汚れ魚までとれなくなる。中国は石油が欲しいからアメリカと対立するようになり世界戦争になるとか資源問題は深刻である。モロッコのタコがとれなくなったのも取りすぎたからである。日本へ輸出されていたが今はなくなったという。そういえばモロッコ産のタコをよくみかけた。買い物しているからわかるのだ。秋田のハタハタが禁漁してとれるようになった。やはり畑も休耕して輪作すると土地が肥えてとれるようになるようにやたらとりつづけることは資源を枯渇させることなのだ。なぜ今休みなく魚をとりつづけるのか、これもグロ−バリ-ゼ-ション−で魚が輸出すると金になる、世界的商品化しているからだ。世界がグロ−バリ-ゼ-ション−することはあらゆるものが商品化する。貧しい国の少女も安い売春の対象として商品化する。それが今までの生態系を自然まで破壊する。やはりグロ−バリ-ゼ-ションの悪しき面はあるのだ。結局そうした経済格差がイスラムとの戦争の大きな一因であることは間違いない、不思議なのはイスラムは工業化に適応できない文明だという、インドですら経済が上向きなのにイスラムがいつまで停滞している原因は文明そのものにあるのだろうか?とにかくグロ−バリ-ゼ-ションの負の部分をどう解決するのか、これは意外と深刻である、なぜなら資源戦争になるからだ。それは日本と中国ですでになっているからだ。

2004年4月22日(木)
人質三人は操り人形?

これは誰が見たって自作自演でないにしろ仕組まれたものである。三人が自作自演したのではなく誰か背後にシナリオを作ったヤツがいた。これは素人でもわかる。政府から金をふんだくるためにしくまれたのだ。三人はいいカモだった。三人は利用されたのだ。三人にはそれほど罪はない、背後に仕組んだものこそ本当に悪い奴である。そしてこの闇に隠れるものはわからないのが人間世界なのだ。
三人はただ操られただけである。警察ではだいたい見当ついているのではないか、なんかあまりに見え見えのところがあるからその道のプロだったらわかりやすいだろう。限りなく黒に近い犯人が浮かんできているはずである。それは結局表にはでない、わかっても政治的配慮からでてこない、でも仕組まれたことだけは素人でもわかる事件だった。

2004年4月20日(火)
2ちゃんねるの危険



今回の2ちゃんねるはかなり問題だった。弁護士が誹謗した人の個人情報開示を請求するというのもわかる。匿名で言いたい放題というのは無責任である。インタ-ネットは言いたい放題である。自制がない。でも今回ほど自分のような社会から孤立している人間には状況がわかってよかった。どういうことなのかどういことが起こっているのかどういう反応するのかこうしたことはマスコミからはわからない、マスコミはあまりにも制限されているしコメテイタ-とかに話させるがそれが国民の声ではない、かたよっているのだ。2らゃんねるも極端になるが今回はそれなりに的をえていた。国民的反発を代表していた。何にみんなむかついたのかこれは共通していた。でもこれがまさにいつものようにリンチになることの恐怖だった。言葉を軽く見てはいけない、言葉は恐るべき凶器である。その辛辣な言葉はヤジリのように容赦なく突き刺さっていったのだ。2ちゃんねるは今や見ている人が相当な数である。一つの若者の世論を形成している。現実にあおられて空港に抗議しに行った人が2ちゃんねるからいたのだ。今回の発言は影響力が大きかった。あれほどまでに実名の現実の人をこきおろしたら名誉棄損で訴えられても不思議ではない、ニフティで現実そういうことがあった。それよりひどいかもしれない、あれは一人の人間がやったことであり2ちゃんねるは匿名の集団のリンチだからあれよりタチが悪い、ニフティでは匿名でもなんとなく個人が特定できた。2チャンネルは不特定多数であり見ている人もニフティが百人くらいだとしたらその百倍以上の人は見ているのだ。その怖さを認識していないのだ。言葉はやはり通信でも凶器であり恐ろしい効果を発するものなのだ。文字になった言葉もそれは恐ろしい効果を発する。それを自覚していないのだ。言葉を発するものは言葉に責任を持たないといけない、責任を持てない人は発言するべきではないのだ。

2004年4月18日(日)
あの映像は自作自演だったのか



今回2ちゃんねるで自作自演説しきりに言っていたけど今回は全部でないにしろ的を得ていた。しかしナイフをつきつけたのが演技だとは思わなかった。女性も泣き叫んでいたから本当だと思った。でも今まで人質を危険な目に合わせる映像を見たことがない、だからそんな映像を世界中の人に見せたのは変だと思ったがこれも情報戦の工作に使われたのだ。まさに世界が情報社会になっている。ビデオとか写真もそれが本当なのかどうかわからない場合がある。自分も合成写真を作っているが簡単に現場にいなくても現場にいるように見せることができるのだ。ビデオすらやらせがあった。ともかく現代は情報によって左右される時代なのだ。インタ-ネットの2ちゃんねるで自作自演説が最初から言っていたのでそうなのかと疑いながらもそっちに傾いていた。今回は全部ではないにしろ自作自演があったから2ちゃんねるの推測が必ずしも嘘ではないことがわかった。やっぱり人が多いから感のいい人もいるしその道のプロもいるからそれなりの情報もでてくるのか、緊急の場合、これはなんだろうと言うときマスコミだけではない、インタ-ネットの情報も貴重になっている。

人が死ぬことも戦争も演技ではない、そういう深刻なことをメデアが伝えることには限度がある。実感ではない、戦争も演技のように見てしまう、見ているかぎり面白いともなる。戦争作家はそれを得意気に解説したりしている。戦争も直接関係ないものには面白いものとなる。でも今回は日本人か生命の危険にさらされたので戦争の現実に直面したがあまりにも間がぬけたような人質で戦争の深刻さを伝えることの逆効果になった。一人でも死ねば確かにこの事件の意味がでてきたが以前として日本人は平和ボケからぬけられないのだろう。あの三人の様子をみればわかる。深刻な反省もなにもないからだ。いづれにしろ今回の事件はいろんな問題をあぶりだしたのでこれがいかなることなのか理解することどうすればいいのかなどなかなかすぐには解答がだせない問題を提起したことは確かである。

2004年4月17日(土)
わからない海外援助

真面目なNGOが今回の事件でイメ-ジ悪くして寄付が集まらなくなったと言う。
そもそも海外援助の団体に寄付してもその金がどういうふうに使われているかわからない、だから金をだす方にするとなんかつまらない。金をもらって外国に行って活動する人はそれなりにいい格好できる。今回の女性のボランティアは金持ちの道楽という人がいた。なんかそういう感じだ。やっぱり援助も人によるのか、あういう女性を見て幻滅した人がかなりいるのではないか、あんな程度の人がお遊びで暇つぶしに刺激を求めてポランティアやっているのかとイメ-ジ低下したことは確かである。そもそも海外の貧乏な国に行くと金の差があるから簡単に寄付もできるしそれで歓迎されていい気になっているポランティア結構いるのかもしれない、だからここにも偽善的なものが感じられるからいやがる人も多いのだ。でもやはりかわいそうな人に寄付してくださいとなると日本ではまだ金持ちだから寄付する人がいるのだ。ボランティアも人によるし実績も良く見る必要がある。ただ海外ですることだからわかりにくいのだ。今回の事件はいろいろ日本にとって考えさせられる事件だった。

今までマスコミだけから情報受けとっていたがこういうときすぐに2ちゃんねるのを見るのが習慣になった。マスコミではなく一般の人はどう考えるのかということが知りたからである。極端にはなるが今やそれなりの世論にもなっている。今回はマスコミでも自己責任を言ったから世間的にはかなりずれたひはんされてもしょうがないことだった。でもまずいのは住所がでていたからなんか実際いやがらせをしたのは2ちゃんねるを見た人があおられてやったかもしれない、みんなこんなに批判しているのだから許されるだろうということでやったかもしれないし、またいやがらせがおこるかもしれない、2ちゃんねるは正当な批判もあるのだがリンチの面がでてくる、人間の劣情がもろにでてくる。それであおられて実際に行動する人もでてくるとするとそこに情報に対して発言に対して匿名であるから自己責任を持たない人たちの危険性がでてくるのだ。

自転車で二本松まで行き疲れた。筋肉が痛くなる。

二本松は桜が満開だった。途中隠れ里のようなところがあり気にいった。阿武隈高原は広い、その山々の間に隠されるように村が点々とあるのだ。

2004年4月14日(水)
善意のむずかしさ



今回の人質事件は当人にしてみればかなりのショックだろう。イラク人のためにやってるはずがイラク人に殺されるほどひどいめにあったこと、それから日本人が俺たちはいいことをしているのに援助されはずなのに応援されるはずなのに自作自演だとか自己責任だとか突き放されてさらに非難が多かったことなどこれはもし帰ってきてもかなりのショックだろう。実際善意がこういうことになることがある。自分も失敗したからわかる。自分が善意だと思ってもそれがすんなり受け入れられたりほめられたりする世界ではないのだ。善意に対する奢りがあった。善意が何でもいい方向に行くとは限らない。善意はこのように無惨にくじかれることが多いのだ。イラク人のために尽くしているんだからイラク人が襲い殺そうとまですることなど考えられなかった。そこに善意に対する奢りがあった。また善意に対して何か反発する人がかなりある。善人ぶってとかいい子になりやがってとか慈善にはそういうふうに見ている人もかなりいる。俺は善を行っている、善を与えているとかそういうことが前面に出て意識すぎるとなんで善を与えているのに援助しているのにこんな目にあうのかとなる。ただ子供たちと接していて楽しいからとか外国で働くのが面白いとかそうした私的な動機の方がかえって慈善にはいい場合がある。

例えば海外旅行に行ったら貧しい子供にボ-ルペン配るとか何か軽い気持ちで援助する。俺は善をどうしても行うんだとなるとそれに対して今回のようなことが起こるとショックが大きいことは確かである。ここに善を行うことのむずかしさがある。善が簡単に受け入れられると思っている奢りがあったことは確かだろう。善の強制みたいのが人間にはありそれがこういう目にあうとかなりショックを受ける。これだけショック受けたら彼らは果たしてイラク人に援助できるのかむずかしくなる。恩を仇で返されたとか思うかもしれないし現実恩を仇かえされることは人間社会には常にあることだったのだ。善を成すことは最高にむずかしいことなのだ。それを安易に考えると今回のようなしっペ返しが起こる。

2004年4月13日(火)
やはり自作自演なのか


今回の事件は謎が多い。素人から見ても常識的に見ても不自然さが目立つからいたるところで「自作自演説」が言われる。それだけ不自然だからである。

日本式の西暦
の書き方です。左から年・月・日の順。
アラビア語は右から左へ書きますが、数字は左から右になります。
したがって西暦にしたとしても、日本式になることはまず有りません。
普通ならヨーロッパ式の日・月・年になります。
犯行声明文に日本人が関与している気がします

まずこうしたことから日本人関与説が言われる。これはしかたないことである。黒幕は日本人であり日本人がやらせたとかその背後も気にかかる。そういうふうに思わせるのが素人でもそうかなと思える事件なのだ。

ではあの迫真力ある刃物をつきつけられた映像はなんなんだとなるとあれも演技なのかとなる。ただ全体的になんらかの演技がそこにありその背後に日本人がいてもおかしくないというのは素人から見てもそうだしマスコミの一部まで言っていることはあまりにも不自然であり何か操作された部分が見えてしまっているからだ。結局何か背後の日本人グル-プに利用されたのか何かあってもとかしくないとみられる。イラク人による単純な人質作戦とは思えない。こうみられてもしかたない、だからあまり同情されないというのも気の毒だが事件の成り行き上そう言われるのも責めることもできない事件だった。

2004年4月12日(月)
市民の情報力

なぜ今回自作自演説がでてきたのか、日本のテレビではアラジャジ-ラの放映された全部を報道せず一部最も核心の部分を省いて放送した。それが2ちゃんねるにリンクがはってありドイツの放送局に通じて見れたのだ。それは18歳青年が刃物を喉につきつけられ首をしめあげられアラ-アクバルと叫び今にも殺されそうな雰囲気だった。女性は泣き叫んでいた。これが自作自演とは思えないのだ。最初から不自然であったが自作自演であそこまではできない、前にも生生しい映像にリンクがはってあった。これは市民レベルでの情報力が広がったのである。マスコミだけではない、市民による情報収集が可能になったためてある。
それをすぐにリンクしてみせることができることがインタ-ネットのすごいところである。市民のこうした情報力は必要である。マスコミだけだと一方的になり真実にフィルタ-がかかるからだ。今回もそうだった。それにしても人質事件のあとにもすぐにイラクにヨルダンから行く人がいるのには驚いた。ともかく今は世界中に日本人がごろごろしている。フリ-タ-が何百万人いるとしてその中の一パ-セントでも外国で安いから一年とか暮らすとなるとどこにでもそうした外国放浪者のようなのがごろごろいてイラクのような所まで行こうとしているのだから驚く。こんな危険地帯に行く人を国ではめんどうみきれないのだ。フリ-カメラマンというのも必ずいるのだ。それもフリ-タ-の一種でありカメラマンとかフリ-の記者だとかそんなこと言っている人結構いる。記者だという人が東京であったら新聞配達していたというからそんな程度なのである。つまりごろごろ世界放浪者のたまり場どこにでもありそれらがイラクまでも行くという驚きである。こんなものはとても国で保護することなどできないのだ。

アラジャジ-ラの全放送
http://www.spiegel.de/video/0,4916,2549,00.html

2004年4月11日(日)
情報源は一つではかたよる


情報というのは実際は一般の人にとっては受け身としてうけとるものだけだった。情報はテレビとか新聞とか週刊誌とか雑誌とか本から一方的に受けとるものとしてあったのだ。情報を集め構成して分析するなどということをマスコミではやっていたが一個人がやるということはなかったのだ。またできなかったのだ。自分で情報を発信する側にたったら絶えず情報を集め構成し分析し比較するとかしなければ真実がわからないことにきづいた。情報とはもともと一方的に一つのソ-スからだけ受けとっていてはわからないのだ。

例えば今回拉致事件でもそうだった。まず2ちゃんねるでどんな反応なのだろうとみると2ちゃんねるは自己責任派が多く突き放す論調になる。それも極端になる。小泉首相は人質にされた家族とは合わなかったから冷たいと指摘した人がいたがああ、そうなのか家族と会わなかったのかとなる。一方大石英治氏のサイトをのぞいてみたらカメラマンだった人は自衛隊に六年もいたという、自衛隊に関心を持った人だったのだ。あんな危険な地域に行ったのは自衛隊に関心があったからだ。危険な地域に行く自由の由(理由)があった。それも個人的強い理由があったのである。私のスタンスとしてはこうした個人的関心とか個人的強い理由をもっている人は評価する、つまり自衛隊に6年もいれば自分の問題として自衛隊を考えるからである。その人がどうしてあることについて関心を持ったりするのかこだわるのかというのはその人の経験からそうなる。その個人的関心の方が冷静に学者的に分析するより個人的にこだわっているからかえって核心的なことを発言できる。

そもそもインタ-ネットは個人的関心から始まる私的な発言なのだ。それが今までのマスコミとは違う、例えは有名な人でも森田氏なども文春に嘘を前に書かれたとか怒っていた。つまりこうした有名人でも私的な怒りとか恨みとかがでてくるのだ。週刊誌でも一方的に書かれても攻撃されても一個人では反論することがむずかしいから泣き寝入りになっていた。本を出すとなると背後に組織があればいいがないものは本などだせないのだ。マスコミは一方的メデアである。ある事件に関して何か言う場合、情報のソ-スは多い方がかたよらないのだ。ところが情報は一方的になりやすい、多くの情報ソ-スを調べるのは大変だからだ。カメラマンが6年も自衛隊にいたということはこれを知らないとかなり人質に対しての誤解がうまれる。そもそもこうした突発事件に対しては誤解することが普通である。正確にとっさに判断などできないのだ。だから情報のソ-ス常に多くもっている、チャンネルを多くもっていることが必要になる。しかしこれはプロの仕事なのだ。すなわち今や自分でも素人だが半プロのジャ-ナリストになっていることに気付いたのである。

2004年4月10日(土)
自由の意味

「自」分の行為が自分自身に「由」来することを「自由」っていうんだよ。
何をしてもいいってことじゃない。


これ2ちゃんねるにでていたけど面白い。時々こういう発言がある。馬鹿話だけではないんだ。意外とこれ気付かないよ、自由と日本語に訳したのにはそれなりの訳があったのか、自由とは自らのなんらかの理由があって行動するのが発言したりするのが自由でありなんにもわけもなく行動する、ただ自由に行動することは自由ではない、自由に行動したいとか発言したいとか言うときはそれなりに個々人のもっている理由があるのだ。depend on indivisial reasonがあるのだ。それを自由に発言させてくれというのが自由なのである。その人が社会で生活して理不尽を感じたらそれを発言したい、これは個々人によって違うのだ。のっぴきならない個々人の事情があるのだ。医者に不満を持つ人、学校に不満を持つ人、会社に不満を持つ人、地域に不満を持つ人、不満は無数にある。それは個人の事情によって違ってくる。なんらかの正当な理由がなければ逆に自由な発言や行動は許されないのである。もちろん裁判に訴えることもできない、なぜなら正当と認められる理由にかけているから裁判に訴える自由もないのだ。

つまり裁判はその訴えることが正当な理由なのかということが常に審理される。それが自由社会なのだ。理屈といえば理屈だがそのた理由が正当でなければともかく取り上げてもくれないだろう。自由とreason(理由)は一体なものなのだ。理由なき行動や発言には自由は許されないのだ。だから理由をはっきりさせろとなる。理由をはっきりさせないから物事はわからなくなる。自由社会は自分の自と理由が大事な社会となる。権利があるとしたら理由が明確で主張するにたるからである。正当である、正しいとするから理由がはっきりしているから自由に主張できるのだ。ただ感情にまかせて俺を馬鹿にしたから殺したなどという理由は成り立たないしそんな行動の自由もないのである。自由はなんらかのっぴきならぬ理由があってこそ自由な発言や行動ができるのだ。これはインタ-ネットにも合っている。個々人の発言にはそれなりの個々人の背景、理由があり自由に発言するのである。インタ-ネットは個々人の自由な発言を促進させることは確かである。ただ相手をただ誹謗中傷することを喜んだりすれば裁判ざたになるしそうした理由なき無責任な発言には自由な発言の権利はないのだ。2ちゃんねるにはそこまで自覚している人が少ないのだ。ただやたらと相手をそしることでリンチして喜んでいる。そういう発言の自由はない、だから武富士のことを書いた記者から訴えられることもある。訴える方にはそれなりの理由があるからだ。もちろん反論する理由もあるが匿名の不特定多数ではその理由を責任をとるものはいないから自由の発言はゆるされないとなる。

2004年4月9日(金)
平和ボケ日本人


ラクに18歳の青年がいた、驚き、あんな危険なところに許可されていること自体驚き。外国に行くと一般市民でも国家を代表するようになる。だから国家をゆさぶるために使われる。外国に行けばそれもこんな危険地帯に行くことはそれも自衛隊を派遣したときからアメリカと一体とみなされることはわかっていたことだ。日本人は平和ボケと言われてもしかたない、復興支援とかボランティアとかそんな場所じゃないんだよ、戦争しているところに復興支援とかボランティアとかはできないんだよ、そこに欺瞞があった。何かきれいごとでとりつくろうとすることがおかしかったのだ。

外交はみんな二枚舌だ。みんなきれいごといいすぎる。民主主義を与えるのだとか、大量兵器もなかったのにイラク人をかってに他国が侵入して殺すこと自体許されること自体おかしかったのだ。日本の考えは甘い、イスラムは狂気でも特攻隊でくる、それは余程のことでありその行動の背景には日本では計り知れない怨念か何かあるのだ。日本は平和ボケだ。18歳に女性も行っているのがわからない、時世といえばそうだがやはりこうした無謀が許されていたこと自体わからないことであった。本人だけではない、政府にも国家の威信とかにもかかわってくる。国家を左右してしまうという責任があったのだ。外国では国家を背負うということがあるのだ。特にイラクではそうだった。日本人は余りにも平和ボケだったのだ。戦乱を経験している場所では異常な雰囲気があり死を恐れないということがありうる。死が日常となることがありうる。日本の戦争もそうだったのだ。だから戦争は人間の日常的感覚を麻痺させる。そこに平和ボケ日本人が人道支援だ、ボランティアだときれいごとを言うのは二枚舌だった。アメリカには逆らえねえということだったのだ。



2004年4月8日(木)
外国からの誘い


アメリカのインタ-ネットで検索しやすいようにするディレクトリ-の登録しないかときている。でもカ-ドで50ドルとか払うとなると簡単に払えるのか、外国に個人情報をもらすのは信用できるのか、最初知らないで日本でもやたら住所とか電話番号を書けとあり信用するためだとあり書いて失敗した。アンケ-トでも個人情報がもれていた。自分がやってわかったのだ。メ-ルアドレスつきの返信が来たからだ。あとは全然わからない、何の原因なのかわからない、サ-バ-が悪いのか何かわからない、失敗したのはサ-バ-はいいサ-バ-にした方がよかった。ちょっと高くてもCGIとかいう何か操作できるものとか、仕掛けができるものである。またもっとアクセスログがとれるものなどである。今のサ-バ-はそういう点だめかもしれない、でも月8000円は今では安くもなくなっているのだ。つまりインタ-ネットは個人情報がアクセスしているだけでもれてしまうのだ。
どうしてかわからないがアクセスしただけでメ-ルアドレスがかってしまうサイトもあるみたいなのだ。アダルトサイトに多いかもしれない、ここはかなり危険だ。これも実験のためにやっていた。アクセスログを見たらipがないものが結構あった。おそらく個人情報を知りたくない人がふえているのか、でもどうしてipがなくてアクセスできるのかも不思議である。それにどうして外国と信用関係がインタ-ネットで築けるのか?外国から簡単に買いものなどできるのか、ただホ-ムペ-ジ持つとインタ-ネットでは外国というのも視野に入ってくることは確かである。世界が広がるのはいいのだがもう一つわからないのだ。英語にするのもむずかしい。ただ英語の俳句をまとめては出せるかもしれない、これも英語力がないからもう一つだ。私のサイトはmsnからくるのが多い、なんらかいい場所に登録されている。アクセスされる経路にあるとアクセスされやすくなるのだ。他はあまりこないことでもわかる。

なかなか阿武隈の方へ自転車ででかけられなかった。
明日はなんとかでかけよう。梅も散ったがまだ阿武隈は春が遅いから咲いているだろう。
それにしても阿武隈に行くのは久しぶりだ。自転車で行く道はあきることはない、道はいくらでもある。
このメモは私の研究メモもはじめたからやはり3日おきくらいに書くか、まあ、ここは近況報告にいいだろう。


2004年4月5日(月)
新聞はやはり無駄だ



新聞はつまらないというとき新聞自体無駄だというとき新聞を配る人も実際は無駄なことをしているとなる。新聞配達する人は新聞が無駄だとかそんなことを考えずに金のために働いているのだからそんなことを考えてもしかたないしそれはそれでいいではないかとなる。でも新聞配達は朝早いし子供もしている。そうして働いている人は偉いとか世間に見られるのだ。現実近くで新聞配達している人がいるから朝早いし大変だねとその人の評価は世間的に偉いとなるのだ。ところが新聞自体の価値を考えると新聞が今やそんなに価値あるものとなっていないのだ。だから自分から見るとそういう労働も金をもらうからといって必ずしも労働自体が価値あるとは思えないのだ。金だけに働く人は真に働いている人ではない、金がもらえればどんな労働でもいいというのはおかしいのだ。

でも実際人はとにかく働いて金さえもらえれば何のために働いているとかそんなこと関係ないしいちいちそんなこと考えている人などいないのだ。でも金だけで働いている人はやはりそれだけでほめられるものでもないのだ。ちゃんと自分の働く目的をしり使命感をもち働いている人は本当に働いている人である。それは金をもらわなくても働いているのだ。そういう人は極めて少ないのだ。そこに労働の大きな問題があるのだ。別に自分は新聞を目の敵にしているわけではない、書店、出版社には多少あるが新聞社には恨みもない、新聞というのがどうしてもつまらない、無駄だと思えるからだ。読むべきものがほとんどないのだ。全国ニュ-スはテレビでもインタ-ネットでも見れるし新聞はそれの後追いにすぎない、地方の記事に詳しいわけでもないのだ。週刊誌の方が面白い、内容がないのである。まあ、それぞれの価値観があるから新聞も必要だからとっている人がいるんだからとやかくはいわない、でも自分にはどうししても無駄に思うようになった。

2004年4月3日(土)
メデア(マスコミ)批評の時代

前に一億総評論家時代といったけどあれはうそだった。インタ-ネット時代こそ一億総評論家時代になったのである。なぜなら例えばテレビで言っていることを新聞にのっていること雑誌や本のことについてこれはどうかなと思っても批評などできないしそれをのせてくれる場所などなかったのだ。福島民報を自分が批判したら絶対に福島民報ではその意見などのせない、これはNHKでもどこのメデアでもそうなのだ。ところがNHKの受信料を払わないサイトがありそこで払わなくてもいいという運動していて結構そこに同調しているものがいたのだ。こういうことは今までどこでもできないのである。今やメデア自体批評の対象なのである。メデアは権力をもっていた。意見が言いたくても実際の取捨選択はメデア側にあったのだ。雑誌でも本でもそうである。出版社がその価値を決めて実際は作家の7割くらいはとっていて実質作家に入る金は一割だったのである。それは出すのに金がかかるからだ。出版社とかメデアが著作権をもっている感じになったのだ。だからメデア自体を批判する批評するということができないしまたそういうことにも気付かなかったのである。

本屋(出版社も含む)には、他の業界で見られる以上に、強固とも言うべき同胞意識がある本来は商売仇であるべき間柄なのに、呉越同舟どころか一房の葡萄の如き「身内意識」が存在している

メデアは収入をえるために結託していたものがあった。つまりメデアの許可なしで本も出せないし意見ももちろん簡単にメデアそのものもを批評することなどできなかったのである。それがインタ-ネット時代になりメデアだけではないあらゆるものが批評の対象になる。まさに一億総評論家時代こそインタ-ネット時代である。ではここで適格に批評することができるのかとなる。それにはそれ相応の情報力と知力とかいろいろなものが必要になってくる。でもどうみても福島民報にしろ新聞は読むべきものがないしやめたくなった。老人が読むのでしかたなくとっている。自分としては日本経済新聞の方が読むものがある。民報が地元に詳しい情報のせるかというとなんかつまらないのだ。民報をとらなくても困ることはほとんどないのだ。この新聞をとらないと日常生活に支障をきたすというものであれば価値があるのだ。今やそれがないのだ。メデアは今まで社会的に大きな役割があった。

今の情報取得はインタ-ネットになると個人単位からの情報取得も大きなウエイトをしめるようになる。それの方がメデアを仲介しないでその人の生の発言になるから訴えるものがかえってある。メデア(仲介)通すとかえってフィルタ-とかがかかりわからなくなるのだ。つまりメデア(仲介)するものはこれからいらなくなる。書店などただ本を置くだけでは意味がないしやっていけない、書店とかも本をただ出版社からくるものを置くだけということではやっていけない、書店も情報に関係していたから情報を扱うから情報を取捨選択して流すというか情報のサ-ビスをしないと今や不必要になった。メデアは仲介するものはインタ-ネット時代には不必要になる。直接発信できるからだ。だからコンテンツ(内容)が大事になる。内容があれば読みたいものがあればコンテンツを買う時代になるのだ。毎日つまらない内容のない新聞など配る必要はない、テレビの番組もインタ-ネットでいつでもみられるしインタ-ネットの情報が重要性をおびてくる。メデアが権力を持った時代は終わりつつあるのだ。

2004年4月1日(木)
自動作成web日記へ

このメモは3日おきくらいに書いていた。これも日付とかいちいち変えるのがめんどうなので自動作成日記にした。これだとデスクトップにアイコンがあり簡単にメモできる。パソコンはパソコンで書いたりしたことが自然と流れてしまうような錯覚におちいれるほど出す方に便利なものなのだ。こうしておけばさらにひんぱんにメモは書ける。これが誰かが読むとは別に自分に必要なものをメモしている、それをたまたま誰かがよむというのがホ-ムペ-ジなのだ。だから大勢の人が見たり読んだりするというものじゃない、それが今までのメデアとの根本的な違いなのだ。パソコン上でちょっと書いたメモが誰かの役に立ったりする。それがメモなんだよ。第一こうしたメモだったら誰もよむ人などいなかった。こうしたメモでも互いに役に立つというのもこのメデアの特徴だよ、「今日の一句一首」は毎日書いているけどここのメモは3日おきになっている。これからは簡単だからもっと書けるかもしれない、ここは時事問題の深層に書くメモになっている。ここでメモして時事問題の深層で本文にしている。いづれにしろこのホ-ムペ-ジは出す方には実に便利なものだよ
ただこれが誰かの役に立っているかどうかわからないというのが問題なんだ。

今回新しく私の研究メモをはじめました。日記を簡単にかけるようになったのこれはホ-ムペ-ジにあっているなと思いはじめました。これは人に読ませるというより自分のために書いている。ホ-ムペ-ジは自分のためにまずやっているのだ。それを誰かが参考にするというメデアなのである。極めて私的なものであり今までのマスメデアとは余りにも違うのだ。だから大勢の人に読まれなくてもメモしておくことは有効なのである。あとで役に立つのである。