江戸の生活感覚の俳句 小林勇一作

生活感覚は誰にでもある。働かない人にもある。そもそも金がなければ生活できないのだから金勘定が生活である。金はそれだけ密接に生活と結びついたものである。江戸時代を知るにも金がどのように使われていたか、物にはどれだけの価値があったのかが問題になる。どういう生活をしていたのかが問題になる。そのいい例が二八蕎麦というのは2×8=16文の意味だった。一六文で食えるから今でいえばハンバ-グとか吉野屋の牛丼とかであった。最も安い外食だった。大工の手間賃は一日五〇〇文であり一升の米は百文であった。一日五合が一人分だったらしい、これは戦前まで変わらない、「一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜をたべ」と宮沢賢治が言っているからだ。味噌はかなり貴重な栄養源だった。仙台味噌などがもてはやされた。

一日三度、精米したご飯をふんだんに食べられることは江戸市民の誇りでした。しかし、玄米を食べる田舎に比べ、白米が食べる江戸ではビタミンB1が不足するので、脚気にかかる人が多く、「江戸患い」と呼ばれるほどでした。

田舎では玄米であり江戸では白米だったのだ。玄米の方が栄養的にはいいものだった。それで玄米を健康食として食べろと言う人がいる。

四五日は生みそで喰ふ新世帯

みそが主なおかずであり酒の肴も味噌を焼いて親父がちびりちびり酒を飲んでいた。酒もバラ売りであり樽から枡に出してその日その日飲んでいた。子供のときこうして近くの酒屋に酒を買わされに行った。江戸っ子の暮らしもその日暮らしでありその日に使うものを米でも何でも買ったのだ。あまり買いだめすることはなかった。

米に比べて蝋燭二百文とするとかなりの贅沢品だった。油もかなり貴重なものだった。油は菜種油であり菜の花は菜種油をとるものだから風物として一面の黄色の菜の花畑があるのが日本の原風景だった。今はその生活感覚がないから菜の花は所々に残りそれは美的に今や花だけとして見ているから生活実感がないから詩にも俳句にも深みがないのだ。

18世紀には菜種油の製造が近畿、特に西宮を中心とする阪神間で盛んになり、この菜種油の大量製造とその販売で大阪の繁栄の基礎が築かれた。これには水車による搾油技術の進歩が大いにあずかっている。

「十文が油をとぼして五文の夜なべせよ」と言う江戸時代の諺があります。目先の勘定では損をするように見える仕事でも、精を出せば身のためになる。


ここでは水車が菜種油作りに水車が使われていたことや油はいろいろな格言にもなった。油断大敵は油が切れることへの注意であった。油は当時きれやすかったのだ。一茶でも蕪村でも江戸時代の生活実感から作っているから違うのである。蕪村の菜の花の句はこうした経済的背景を知って読まないとただ菜の花が一面に美しいなで終わってしまう。菜の花が生活の糧でありその菜の花で暮らしている人があり菜の花の生活にしめる割合は大きかったのだ。

今ではその生活実感は余りにもかけ離れているから昔の人のことが理解できなくなっている。当時風呂は侍の家でもなかったらしい。風呂はみんな銭湯でありそこが江戸の社交場になっていた。外人が男女混浴があったのに驚いたというが風呂は江戸の人が集まる場所だった。そこには髪結いとかいろいろな飲み食いの場にもなった。薪が当時結構高いものだった。燃料になるものは高かったのだ。一軒一軒風呂を持つのはかなりの贅沢なことだった。省エネが徹底していたのだ。

囲碁・将棋などが楽しめる「2階風呂」が流行した。(もともと湯屋の2階は武士の両刀を預けるためにはじまった事から町人の町大阪では「2階風呂」はなかったようである。

風呂というとロ-マの浴場が有名だがあれは奴隷は排除されていたしロ-マ市民だけのものだった。日本には奴隷はいないかったにしろ侍と同じく町民も風呂に入っていたのだ。ここには別に差別がなかったのである。侍と町民の差はそれほどのものではなく日本人にはヨ-ロッパのような貴族社会とか階級社会ではなく均質な平等社会の性格をもっていたのだ。それは島国という小さな国だったから異民族など支配がなかったからである。異民族が入った支配したら階級社会になり奴隷が生まれ今とは全然違ったものとなっていた。

旅を考えると旅籠賃なんか今から考えると安いと思ったが150から200文と結構高い、渡し銭は、80から90文。人夫の背、馬の背、駕篭とありこれはやはり人の手をかりてきつい仕事だから高くなった。旅行自体結構金がかかっていた。ただ滅多にお伊勢参りなどしないから一生に一度くらいだから高くてもしかたないということだったろう。ここで大工の手間賃500文としたが当時大工は恵まれてをり他はもっと安かった。いづれにしろ着物も一生着るものでありさらに親譲りだとすると一代だけ使うものではないから物がいかに貴重なものだったかわかる。だから物はまず丈夫に作らねばならなかったのだ。今のように次から次に買え変えるようなことはなかった。

菜の花や油ともしき小家がち 蕪村

油は貴重なものだし小家というのは江戸時代は大きな家は庄屋とか何か少なく小さい粗末な小屋のような家が多かったのだ。これも今の感覚で見ていると見間違うのだ。蕪村は画家であり色彩的に風景をとらえている。もう一つの特徴として蕪村は農家の出らしく農家の生活感覚があり芭蕉のような侍出身とは違っていたらしい。感覚的には非常に洗練されているのだが農家の出ということで生活実感にも根ざしている。一茶は生活感覚丸出しの俳風であった。蕪村はみちのくにも旅で来ていた。

新米の酒田はやしや最上川

ここでは新米に注目した。「五月雨や集めてはやし最上川」という芭蕉の句があってできたようだが新米は生活感覚に根ざしたものであり農家の出である生活感覚をもっていた。どっちかというとこっちの方が好きであり面白い。芭蕉には生活感覚に欠けている面があった。

西国の手形受取り小日のくれ

この西国は長崎、博多なのかよくわからないが手形まで俳句にしている。商人の生活感さえもある不思議である。ただ蕪村には生活困窮の一茶の恨み節はない、実に優雅なのである。それでいて下々のことも生活実感としてわかっているのだ。だから芭蕉の次に蕪村があるとなる。

我が春や炭団一つに小菜一把(一茶)

上々のみかん一山五文かな

夕立や二文花火も夜の体

夕立や三文花もそれそよぐ

涼風に月もそえて五文かな

朔日や一文凧も江戸の空

おとらじと一文凧も上りけり

蓬莱や只三文の御代の松


炭団は炭俵ではない、炭俵一つ買うとかなり高いから炭団一つしかなかった。ここでいいみかんが一山五文というのは安いなと思った。庶民はミカンをそんなに食っていたのか不思議である。陸奥ではみかんを食っていない、江戸までは来たが陸奥までは運ばれていない。凧は一文で買いた。しかしこれは庶民用の安いものだろう。一茶から江戸の経済を知るにはいい。江戸時代はただ風雅からだけではわからない、実証的なものが必要でありそれがわかると句の意味もわかる。江戸時代は全体的に知る必要があり俳句はその一つの手がかりである。それにしても今回もインタ-ネットの不思議を体験した。
一茶 一文 とかキ−ワ−ド入れて検索していたら京都の一文橋というのがでてきた。こんな橋があったのかと奇妙だった。

京の東寺口を始まりとする旧西国街道が向日市を過ぎ、長岡京市との市境に差し掛かると小畑川に架かる橋に出会います。
 一文銭のモニュメントが行き来する人や車を見守るようにどっしりと腰をおろすその橋は「一文橋」地名にまつわる橋名が多い中、珍しい名称です。由来は、その昔、大雨で川が氾濫し、たびたび橋が流失したため、架け替え費用に困った近在の農民らが「通行料」として一文を徴収したことから名付けられたhttp://www.wander-trail.com/1999_2/saigo/nisi.html

この橋はかなり長く交通の要所であり確かに一文をとる有料橋だった。というのは金沢にも一文橋がありある橋は十回もかけかえている。昔の橋はヤハであり洪水で流されやすかったのだ。流されるたびにまた橋を渡すことは費用がかかるから負担してくれとなるのも自然であり当時の交通の不便さを物語るものである。
「ここで一文払うのか、橋にも金払うのか、川の渡しで払い、籠にかつがれて
大川をわたり80文はいたかった、旅は金がかかるわい・・・まあ、橋は壊れやすいしここに橋がなくては困るわ、一文しかたないな」
「旅の方ありがとうございます、ここは往来が多く橋がなくては困ります
橋を作るには金がかかりますんですみませんね」とかなった。

月さして 一文橋の 春辺哉    一茶

一文橋は各地にあった。百両橋とか大阪にある千両橋となるとやはりそれだけ金のかかった大きな橋になるのか金から江戸時代を探るのも一つの手法である

賽銭に一文投げて江戸の春(自作)

こんな句を書いたらもしかしたら一茶の句だよと言ったら信じるかもしれない、想像の俳句は実感がないからだめなのだ。まあ、江戸だったらやはり金が集まるのだ。

江戸衆や庵の犬にも御年玉(一茶)


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