柿の話(俳句エッセイ)小林勇一作
「里古(ふ)りて柿の木持たぬ家もなし」 芭蕉の句
旧道を今日も行くかな柿なりぬ
柿なりて街道行けば一里塚
柿というのは何か質実なもの堅実なもを示していないか、ちょっと他の果物とは変わっている。昔の道を歩む、そこに柿がなっている、この柿と昔の道は良くあうのだ。果物というと外国産の果物はバナナでも食うだけであり日本にはなっていない、これは変なことなのだ。日本の土地に根付いたとき日本でとれるようになったときそれは食うだけでない文化となる。柿は寒冷地向きなのだろうか、橘というと南国をイメ-ジして万葉集にも盛んに歌われた。柿はなかった。柿の栽培はあとであった。日本では外来種の方が珍重された。梅も中国からきたものだしその梅が盛んに歌われた。日本人は植物からして外来種を外国のものを唐ものを尊ぶ文化があった。柿はその中でも食うものとして干し柿にもなったから食料として貴重なものだった。ミカンなどは食えるようになったのは江戸時代であり柿は最も早くから日本にあった。柿はどこの家にもあった。おそらく垣根とはこの垣は柿だったのだ。柿が植えてあるから垣根であったのかもしれない、それで大垣というのが漢字から石垣でもある城に由来しているのかと思ったらこれは「大柿」だったのだ。
茶人でもあった豊臣秀吉は、わざわざ大垣地方から干し柿を取り寄せて茶会を開いたとか、関が原の合戦の祭には、徳川家康が当時呂久川(現在の揖斐川)まで進軍して来たのを迎えた地元の農民が、大きな柿を献上したところ家康は「われ戦わずして大柿(大垣)を得たり」と喜んで全軍を鼓舞したと言う話は有名です。
柿羊羹http://www.kakiyokan.com/emaki/
漢字は当て字だから間違いやすいのだ。柿とつく地名も多い。名前でも多い。柿下とか柿本とか小柿とか柿はどこにでもあったから柿の名がついても不思議ではない、柿と人間の関係も密接だった。
柿の木問答
昔は嫁ぐに当たって柿の苗木を持って行ったらしい。その嫁が一生を終えると、すでに大木になっているその柿の枝が切られ、火葬の薪やお骨を拾う箸(はし)にされた。古い農家などに今も残っている大きな柿の木は、そんなふうにして代々の女たちが残したものだろう。
昔はまた、新婚初夜にあたって、新郎新婦が次のような問答をしたという。「おまえの家に柿の木があるか」。「あります」。「おれが取ってよいか」。「どうぞ取って下さい」。これを《柿の木問答》と言い、この問答のあとで夫婦ははじめて結ばれた。加賀の千代の作と伝えられている「渋かろか知らねど柿の初ちぎり」は柿の木問答の俳句版。
柿にまつわる話は多い。柿には地方の名がついたのが多い、信濃柿、会津身知らず柿、次郎柿、・・・・・1000種類もあるというから驚きだ。これほど地方地方で多様に改良した柿があったからこれは日本の土地に深く根ざしたものだった。カキというのは牡蠣もカキで同じ音である。これも柿と関係していたかもしれぬ。というのは栗はグリで石のことだった。蛤(ハマグリ)は浜の石のことであり栗は石のように硬いからグリ→クリとなった。柿ももとは牡蠣(カキ)のカキなのかわからないが何か関係あるかもしれない、海のものが先であとで山の産物に名付けられたことになる。
柿で思い出すのは隣の柿の木である。この辺が住宅地になって昔のものが残ったのは隣の柿の木一本だけだった。昔の面影はあとは何もない、あの柿の木はこの辺では一番古い、そして隣の人が死んだ、そのあとにも柿の木は残った。樅の木は残ったとかドラマになったけど人間より木の方が残るのだ。
柿の木の残る一本に寒雀
柿というものは何か質実、堅実なものの象徴である。柿には精神的な意味合いがある。柿というのが外国でもkakiだということは日本の果物を文化を代表するものが柿なのである。
柿熟りて若狭造の家古りぬ
柿なりて近江聖人の跡尋ぬ
柿なりて一村あわれ六地蔵
干し柿に屋並の古りぬ妻籠かな
一村は柿に茶畑日の暮れぬ
何語る夜泣き石や柿と寺
米沢や柿とむくげと古き松
曲屋に柿の熟すや奥会津
柿熟し民宿数軒里暮れぬ
柿の木坂の家
この古い歌謡曲も柿を歌ったものである。柿はなじみのあるものだからいろいろある。
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