フラワ-長井線で白鷹町へ(小林勇一)
今泉駅
フラワ-長井線
山形駅の縄文彫刻
夏菊や旅人来る今泉
夏草や電車まれなるロ-カル線
夏草や米沢藩の蚕桑かな
夏草や何の謂われや白兎
ジャガイモの花に暮れるや長井線
夏菊や高校生群れつ降りて行く
田の草をとる男あり長井線
夕郭公最上の奥の流れかな
涼しさや最上の奥の流れかな
ヨシキリや白鷹の最上草深し
田の畦を歩みて駅に戻りけり
夏の夜や共同浴場に蛙鳴く
夏の夜や上山城や蛙鳴く
立葵朝の車窓に映えにけり
夏の山後ろの峰の高きかな
深緑や山寺囲む夏の峰
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山形をいでて楯山残雪の峰の光りて朝清しかも
山形の緑深きや残雪の峰々仰ぎ電車めぐりぬ
二本の松の良き家今泉日影の道をを我は歩みぬ
町中に茅葺きの家一軒今泉の駅に一時間待つ
深山紙をここに作るや一すじの最上の流れ都に通じぬ
白鷹を旅人たずね夕郭公四方の山にしひびきわたりぬ
最上川奥の流れや白鷹の山間静か夏の夕暮
終点の荒砥の駅の淋しかも夏の夕日に最上川暮る
残雪の峰々仰ぎ白鷹や水清くして深山紙作る
最上川奥の流れや夏の日の夕日川面に照らし沈みぬ
夏の峰遠くに望み最上川さらに奥へと流れはつづく
最上川舟曳く人を語るかな昔は遠き夏の夕暮
汽車の旅はやはり途中下車がいい、早すぎたら旅は印象に残らない、今泉で一時間待ったが何もない所だったが庭を見たら松が二本ある家が落ち着いていいなとか初めての所はなにかしらあるものだ。長井線は高校生の通勤電車だった。夏草が茂り夏菊がにわっていた。それにしても最上川は奥深い、上流の方をさらにみると流れは奥につづき源流をたどりたくなる。はるかに残雪の夏の峰が望まれ、夕べ郭公の声が高くひびいた。そして最上川の舟運は今はなく草深くうもれヨシキリが盛んに鳴くだけだった。夕日が照らし沈み一日の旅は終わった。
夜上山で泊まろうとよったら城がライトアップして見えた。共同浴場とかありここは斎藤茂吉の故郷だが母親が死んで帰郷して遠田の蛙しんしんと鳴くとか歌にしているが蛙の声が聞こえることはまだ自然があるということだ。歓楽街の感じだが蛙の声が聞こえてほっとした。城があるということもいいことだ。ただ斎藤茂吉に関しては自分はあまり評価していない、アララギ派というと自分もそうだがそこは結構な数がいてその家元みたくなったのが斎藤茂吉であり彼自身の歌がそれほど芸術的に優れていたかは疑問である。というのは宮沢賢治とか啄木は今でもまねできない異色なものであり天才的なものでありだから残る。ところがアララギ派は普通の人でも作れる、一般化通俗化しやすいから会員が多いのである。もちろん自分も天才でないからアララギ派であり地味なのだからとやかく言えないが彼の場合はそれほど優れているとは思えない、人間的にも普通の人であり医者として社会的地位もあった人だから啄木とか他のアウトサイダ-的詩人とは違うのである。
山頭火などは俳句そのものはそんなにいいと思えないがあの時代歩いて旅したということが凄いことである。あれだけ歩いたことは凄い、なぜなら山頭火以降歩く旅が本当になくなったのだ。またできなくなったのだ。ということは彼は日本史上最後の歩く旅人になったから価値が高いのだ。芸術的価値は後世の時代の変化にも関係してくるのだ。歩いて旅した最後の俳人ということで歴史に残る。それは今やできないからだ。今の旅は汽車からの視線とか自転車からの景色とか車の旅であり歩くたびにはなりえない、歩く人もいるが今や道路は歩く所じゃないのだ。歩きたくても歩けなくなっているのだ。だから日本の詩の世界で最後に歩いた詩人として彼は記念碑的存在なのである。江戸時代の芭蕉や蕪村、一茶の価値が高いかというとその時代でしか作れなかったものでありその時代は永遠になくなったから価値が高いのだ。
ところが今の時代の文学は後世から見るとかなり貧弱であろう。残るものもほとんどないかもしれない、芥川賞などというのも一つのショ-でありほとんど残らない、その時代だけ作るものが本当に価値あるものなのだ。深山紙というものがあの山深い所で作られていたということは何にもかいがたい価値があった。なぜならその価値は失って見てはじめてわかるからだ。失ってみてはじめてわかる価値がかなりある。なぜ自分がこんなに過去のものをいとおしむのかというのもそのためである。失われたものそれがものすごく残念に思う、それは自分だけが意識するのではなく何かそこに生じた空虚感をうめるためにこんなに書いている、書かせられているということがあるのだ。
時事問題16-フラワ-長井線で白鷹町へ
地名散策-白鷹と高鷲村
左沢(あてら)までの春の小旅行(最上川が白鷹から左沢へ流れる)
夏草や電車まれなるロ-カル線
町中に茅葺きの家一軒あり
今泉駅に一時間待つ
二本の松の良き家今泉日影の道を我は歩みぬ
夏菊や高校生群れつ降りて行く