時事問題の深層17
時事問題もありますがその時々の私的な日記です
同じ日に追加解説することあります

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小林勇一



野馬追いビデオ(2mb)


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起こりすぎる事件(そして言葉を失う)6月28日

失ったものは人間そのものだった(計りえぬもの)7月2日

著作権の疑問(あるホ-ムペ-ジ読んで)7月4日

場と結びつかない情報(情報の摂取能力の衰退)7月8日

一郷土人の死から(新開ゆり子さん死亡から) 7月13日

過去を歴史をふりかる(1914年に起こったこと) 7月15日

1914年に起こったこと(続き) 7月17日

いろいろな旅(旅のシ-ズン) 7月21日

教養の衰退からカルトへ 7月22日

市町村合併で変わる名前(野馬追の日) 7月24日

起こりすぎる事件(そして言葉を失う)

戦争でもテロでも余りに人が死に事件が起こりすぎると無感覚になる。イラクで次々に人が死んでいる。これは大変なことなのだが無感覚になっている。人質も殺されて悲惨である。ホ-ムペ-ジもってからアメリカのニュ-ヨ-クのテロの衝撃からいろいろ自分なりに考えて書いてきた。でも何か今や無感覚になっている。次から次と事件が死者がでてくる。それに対してどうすることもできない、韓国の人質殺害は余りに無惨だった。その断末魔の声は世界中にひびいた。殺すほうも必死であり世界に訴えたからあえてそうししている。アメリカに抵抗している。しかし日本でもそうだが次々に起こる事件を考えることができない、考えるのがいやになるのだ。一方江戸時代のような狭い社会では単調な世界ではもし殺人事件などが起きたら大変なことであり語り継がれて伝説にまでなり残っただろう。それが今や殺人事件でも何かめずらしくもない事件なのだ。事件が起こりすぎることは何か人間の普通の感覚を麻痺させる。ある事件について深く考えられないのだ。事件が次々におこる。死者が次々にでる。こうしたなかで人間の正常な感覚は麻痺してゆく。異常が当たり前になる。交通事故で一年に一万人死んでもたいして騒ぎにもならない、これも何か正常な感覚を麻痺させている。こうした異常なことはめったに起こってはならないことなのだ。もちろん戦争もそうであり血を流す革命もそうである。革命なども実際はめったに起こってはならないものだし普通の生活はそんなにこんなに事件ばかり追い事件の説明に費やされるのは異常である。

だからイラクでイラク人何十人死んだ、アメリカ人が死んだということに無感覚になる。戦争は死を無感覚にする。重大事件も次から次に起これば無感覚になる。戦争とか事件ばかり追及しているのは異常なことなのだ。むしろもっと日常の生活について追及して語るのが人間の生活のはずだ。戦争は大変なことであり事件も大変なことなのだがそれについて余り語りたくないし追及したくなくなった。今や戦争でも事件でも世界大に拡大しているからかえって世界でおきる事件も無限大だから無感覚になる。人間はそんなに感心を持つことができないし追及できない、自分の経験したことについてはどういう理由でそういう行動したとかどういうことに惹かれたとか書いてきたがでは他人に起こった事件を考えるとそんなに関心をもてるものではない、人間の関心がもてる範囲は限られている。事件でもそれをみんなで受けとめなんでそんな事件が起きたのか起こさないのにはどうするのかということについてさえ対処する時間の余裕がない、あわただしく次から次へと事件が起きればそうなる。おそらく江戸時代のような時間の感覚ではない、次から次と人間の死もその意味やら原因やらその人について考える間もなく処理していかねばならぬ、これが大量の死者を出す、戦争になると死者は文字通り一個の人間としてでてなく大量の物のようにガス室送りとかで始末されるだけになる。戦争でも昔だったら歩いたり馬にしても非常に時間がかかるものなのだ。突然飛行機が飛んできたりミサイルが飛んで来たりしない、しかし現代は距離も関係なく突然ミサイルが飛んできて人が次々に死んでゆくのだ。その死に対して考える暇もなく人が死んでゆくとき誰も考えなくなる。ただ何かわからないが人は殺し合い死んでゆくのだ。

そういうことが現代の戦争はもたらした。広島の原子爆弾もそうである。余りにも人間の尺度からはみだしたから考えることすらできない地獄に唖然となり言葉を失ったのだ。現代でいろいろ失ったものを書いてきたがまさに言葉を失うということが現代なのだ。そもそも現代の文明は言葉で表現できない異様なものと化している。文明そのものもがそうだとするとそこで起きる事件もそうである。言葉で言い現せないことが起きてくる。人がそれについて語りたくなくなり無感覚になる。関心がもてなくなる。現代はあらゆることに無関心になりやすいのだ。冷淡になりやすい、それは関心の範囲は広がりすぎたことと次々に事件が起こりすぎるためである。その原因が何なのかと問うても説明できない事件も多くなっている。事件は突然テロのように爆発して辺りのものを吹き飛ばす、しかしそれが何なのかわからない、事件は説明できない、そして今や人間は事件に対して無力でありどうにもならないものとしてあきらめ言葉を失うのである。事件を消化する共同体と時間がなくなっているためである。時間の中で反芻されるものが必要なのだ。

なぜ今私が古代に関心を持つのか、それは古代から人間の歴史は始まり現代に通じているからだ。そのつながりに意味があるからだ。古代は朝鮮が日本に影響したことが大きかったことは驚きである。それは今の外国人労働者とは全然違う、渡来人の影響力はその根底にまで影響があり日本人の生活の土台を作った。だから渡来人は日本の歴史形成に大きく加担した。今の外国人労働者はそうした日本人の歴史形成に加担するものではない、歴史的なものとしては脇役にすぎないしふりかえればそれほど意味がないのだ。私の住んでいる市の昔の古代の役所跡から発見された□□白人という木簡の発見のほうが一大事件に思える。というのはこの人の姓は明らかに高麗らしいからだ。高句麗、高麗から来た人が古代にここに現実に住んでいたということは驚きである。その名前すらわかったということは驚きであり現代の外国人より過去の外国人への関心が強くなった。調べてみると高麗人の影響は各地にあり日本の神話までに食い込み残している。日本人は日本人だけの歴史と思っているが唯一古代においては朝鮮と共同の歴史を文明をもったということなのだ。それが重要なのだ。そして渡来人が外国人が直接これほど日本に移住してかかわったということはその後ないのだ。明治維新後も戦後も古代ほど外国人が日本に直接かかわることがなかったのだ。千年もたって木簡からと発見されるような外国人の名前は日本に残るのか、現代では確かに現代を見ることはできない、わからない、でも事件と思えることがたいした事件ではないこともありうる。つまり歴史的事件が何なのか歴史に残るほどのものが何なのか現代の事件に追われるても見えてこないのだ。


参照-陸奥真野草原は萱原でなかった(郷土史の部)



一番失ったものは人間そのものだった

計りえぬもの

大いなる時
大いなる空間
大いなる沈黙
文明は時を奪う
刻まれた時に人は酷使される
この大いなる空間は誰のものか
空間は国により区切られ奪われる
時も空間もみな創り主なる神のものだ
文明は絶えず人を計る
金で、能力で、職業で計る
もののように人に値をつけつづける
人の価値は計りえない
傲慢なるもの文明人よ
人間は文明によって卑小にされている
ただ金だけが評価の基準となっている
金だけが人間を交流させるものとなっている
人間は値のつけられぬもの
人間は計りえぬもの
それでこそ人間なのだ
神の荘厳なる大地、荘厳なる時
私はその中で神のように老いてゆく
文明によって失われたもの
その最たるものは人間そのものだ!
夏の日よ、馥郁とした風が大洋から吹いてくる
境界のない世界から吹いてくる
南国の芳醇な花々は風にそよぐ
その花の下に菩提樹の下に仏陀は安らぐ
何物にも動ぜず座りつつづける
神により与えられたもの
それも計りえぬもの
この地球、宇宙そのものだ!
神(キリスト)そのものだ
その主が人間なのだ!

結局、ここで失われたものを書きつづけた。何が一番失われたのかそれは他ならぬ人間そのものだった。これは上野霄里氏も言いつづけたしニ-チェもそうだった。老子でも荘子でも二千年前に言っていたのだから文明そのものはその時代から変わっていなかった。それに対するアンチテ-ゼだった。人間も変わっていなかった。ただ人間の生活は自然に隠されていたからまだ現代の文明のように露骨にその汚さをむきだしにしないから良かったのだ。人間の価値とか人間の存在意義とか意味とかそうしたものは計りえぬものである。物だったから計りえるが人間の価値は計りえない、それが端的に現れているのが精神的価値の分野でである。芸術とか思想とか文芸の価値は全くでたらめなことでもわかる。これは価値を簡単につけようがないからそうなるのだ。売れる売れないとか関係ない世界だからだ。だいだいゴッホも一枚の絵も売れなかったし大思想家でもアウトサイダ-化してほとんど認められていなかった。精神的なものの価値は計りえない、計られるとしたらそれはたいしたことはない、現代の文明の価値は百億円もうけた、ITでインタ-ネットでそんな金もうかるのかと感嘆する。八百万の会員がいるって凄いなとか数や計量でしか計れない世界になっている。数は確かに経済力になる。インタ-ネットでもアクセスが百万とかなれば経済力の対象となる。大衆化すると成功しやすい。でもホ-ムペ-ジの価値はアクセス数とは関係ない所にもあった。学術的貴重なものが500くらいしかないホ-ムペ-ジであったが自分にとっては貴重だった。検索とかアクセス数も全くでたらめの世界なのだ。

そして上野霄里氏が言ったように肝心の人間が一人もいない物質の荒野になってしまったのが現代文明なのだ。そこで追及されているのは宗教団体だろうがなんだろうが物質的なものである。巨大なビルが建てばすごいとか百億円もうければすごいとか会員数が八百万だったらすごいとかベストセラ-で百万部売れたってとかそういう価値観しかないのだ。つまり人間そのものに価値を置かない、人間を一番失った世界は荒野以外何物でもない、だから政治でも教育でも経済でも科学でも文化でも荒野になってしまうし解決の方法がないのだ。人間的に生かしめないのが文明なのだから当然そうなるのである。人間が一つの職につくこと自体、卑小化される。人間の価値が固定化されるからだ。人間はそもそも一つの限定した職などにつけるものではない、その職業で人間の価値を計ることも間違っている。いづれにしろ人間の価値は誰も計りえない、だからこそ人間なのだ。それは誰も神を計りえないと同じである。人間も神に似たものだからそうなるのである。確かに人間の歴史始まって以来疎外されつづけてきたのは上野氏流に言えば原生人間だったということになる。原生人間だとそんなものなんなんなのだ、一億円の方が価値があるというのが文明社会である。しかし文明が過去のものになったとき、ええ、ここには人間が生きていなかった?物質の荒野だけだった、なんと索漠とした世界だったことか、主人たるべき人間が生きていなかったとなり愕然とするかもしれない、それは神話の世界を生きた人間とは余りに違いすぎるから過去の人間が貧しいだけだったとかする価値観も全くでたらめなのだ。

それは現代からの価値観であり歴史はまた全然違った価値観を作りだす、歴史は政治的なものでも極端に一時代が終わるとその評価ががらりと変わることが常に起きているからである。江戸時代の価値が高くなっているのはそういう世界が永遠に失われたからである。では現代が失われたからといって次の時代に惜しむものとなるのかそれはわからない、こういう時代を惜しむようになるとは思えないからだ。貧乏になれば豊かな時代が良かったとなるが江戸時代のようにその世界全体を惜しむものとはならない、江戸時代とかは不便でももはやその世界を作りえない所に価値があるのだ。現代の科学文明は次の時代はもっと進んでいるし再びつくりえるから価値あると思えないのだ。いづれにしろ一時代の価値となるとこれも一時代が過去にならない限り計りえようがない、昔の物が価値があったのはお碗一つでも価値があったのは神秘的だったのはそういう環境にあったからであり現代では同じものを作ってもなりえないと同じである。確かに今や芸術品として売っているがその価値は実際に使っていた時代とは違う、それは全体の世界、価値観の中で生きていたしその全体の世界が失われれば価値がなくなったのである。芸術品ではなく日用品として使っていたことに価値があった。物が少ない中で大切に使われていたことに価値があった。つまり一個の物でも全体の中で価値があるものであり計りえないものということなのだ。だからましてやそこに生きていた人間の価値も計りえないのである。




著作権の疑問(あるホ-ムペ-ジ読んで)



これらの発言は、個人的な判断を並べているだけですので、深謀遠慮に基づく重大な意見であると解釈されると、とても困ります。
 もし、異論があるのであれば、あなたのwebで発表してください。mailされてもすぐに読めるとは限らないし、返事を書かない可能性の方が高いです。
 その日その時の判断ですから、あなたが反論を書く前に、ころっと転向しているかもしれません。
 この日記へのリンクや引用に、許諾を求める必要はありません。リンクや引用したから自分のサイトを見て欲しいという要求は、ブラクラやウィルスの散布手段として使われる場合があるので、基本的に見に行きません。サーチエンジンで検索してヒットしたり、信頼できるサイトからリンクが張られている場合にのみ、見に行きます

くえすのペ-ジ



ホ-ムペ-ジを持つことはまだどういうことか理解していない人が多いかもしれん、自由にものが言えるしそれも制限なくものが言える。この人のホ-ムペ-ジを読んでいるのは著作権問題とかインタ-ネットがどういうものかよくわからないためである。インタ-ネットで著作権の概念が変わってしまったことは間違いない、著作権を独占していた商売の種にしていたのが既存のメデア、テレビや新聞や、音楽プロドュサ-とか出版関係などである。こうしたメデアの媒介なしに世に出されるものではなかった。winnyなど私はしていないしわからないがインタ-ネットで著作権で逮捕者がでたのはそのためである。既存のメデアとインタ-ネットは共存関係にない面がある。それは結局インタ-ネットでは既存のメデアがテレビでも新聞でも週刊誌でも出版社でも出番がなくなるからだ。ホ-ムペ-ジの紹介だけでは自分たちの権力を保持することができない、なぜならホ-ムペ-ジにその人のことは紹介されており作品も全部でているのだからそれを読むことがその人について知ることである。そしたら自分たちのやることがなくなってしまう。出版社は編集から販売から宣伝を請け負って著作者の著作権を自分のものにしていたのである。だから自分たちでその価値を判断していた、出版権でも放映権でもメデアのものであり著作者にはなかった。それだけの権力をもっていたのだ。その権力がインタ-ネットでゆらいだから朝日でも岩波でも2ちゃんねる攻撃するようになった。常にあからさまに批判されることに脅威を感じたのかもしれない、2ちゃんねるはそれだけの力を持つようになったのだ。2ちゃんねるにはすでにプロの発言者がいて金になっているのだ。何百万もアクセスすればすでにインタ-ネットのマスコミになったのだ。意見がないといえばないが実際は人間はなにかしらメデアから必ず影響受けるのである

本屋(出版社も含む)には、他の業界で見られる以上に、強固とも言うべき同胞意識がある。本来は商売仇であるべき間柄なのに、呉越同舟どころか一房の葡萄の如き「身内意識」が存在している

こういうふうに既存のメデアには利権を守るために結託しているのだ。俺たちを通さないで出版できるのかとか本を置けるのかとか言っているのだ。私が思うに大きな新聞社でもテレビ局でもそれは民営なんだからそんなに情報を独占して社会に力を持つことはおかしい。出版社にしても大手だけが有利なのもおかしい。こうしたメデアは大勢の人に伝えることができる装置をもっていたことで権力をもっていたのだ。お茶の間で何百万人が見ていることがどれだけすごいことかわかる。インタ-ネットではそういうことには絶対にならない、見ている人が10人くらいだったらその商売は完全に成り立たない、宣伝も何の効力もないから金も入らないからだ。いづれにしろ古いものと新しいものは常に対立関係になる。汽車がでてきたら馬車屋が汽車とどっちが早いかと競争したり騒動も起きた。川俣のよう養蚕地帯では煙が有害だとして汽車を通さなかったり駅をわざわざ中心街から遠くしたりと今でもその障害は残っている。新しい技術は必ずしも歓迎されない、既存の利権と対立するからだ。ただその人たちもインタ-ネットの中でそれなりに商売になれば対立したり対抗したたしない、膨大な古本にいいものがあってもそれが未だに出版社にあるのかどうか、著者がコピ-するなというならわかるが出版社がそれを保持して出さない、古本としてしか出させないようにしているのもわからない、そんな権利があるのだろうかという疑問である。著者はもっと多くの人に読んでもらいたいと思っているかもしれない、すでに印税などそこから入らないからだ。とにかくインタ-ネットという世界を理解すること自体わからないからいろいろ問題になるのだ。

この人が反論があれば自分のホ-ムペ-ジでやってくださいというのはわかる。というのは掲示板などで匿名で2ちゃんねるのように批判されるとこちらでも困るのだ。正当な批評というより誹謗中傷が多くなるからアラシが多くなるから掲示板が問題になるのである。批判は自由である。でも批判したいならそれぞれのホ-ムペ-ジでやるのが筋なのかもしれない、それならいくらでも発言できるからだ。一行二行でその人の印象を悪くするだけのものは拒否されてもしかたない、しかし反論は必ずあるからそれならそれぞれのホ-ムペ-ジでやればいいとなる。私もこれだけ書いてきたが反応はほどんどない、多少読む人はふえたかもしれない、批判はその人のホ-ムペ-ジでやってくれというのはホ-ムペ-ジに出すとその人なりのものが出てしまうので簡単にできない、こいつはこんな浅薄な思想の持ち主なのかと露骨に現れるからだ。それは匿名だとしてもそうである。ところが掲示板はそうならない、相手がそもそもどんな思想の持ち主かとかどんな背景でそう言っているのかなどわからないのだ。ホ-ムペ-ジを見ればその人となりかなりわかる。掲示板ではわからないのだ。この人のサイトがこんなに用心しているのはやたらメ-ルとかがいろんなものが紛れ込んでとめられないし貴重なメ-ルが読みすごすこともあり困っている。メ-ルも信頼に値しないとういかなんかもっと別なものが必要になっている。何かウィルスが交じっていないのか相手が攻撃のために罠をしかけていないのかとか不安になる。インタ-ネットをこの人は知っているからプログラムにも関係しているからこんなに用心しているのだろう。



場と結びつかない情報(情報の摂取能力の衰退)

出来事が生じている場所についてはっきりしなくなっている。また出来事の生じている時についても混乱している(過剰化社会-D.ブ-アスティン)


事件と場所は密接に結びついている。歴史的事件もそうである。現代の事件が問題が理解できなくなっているのは世界になっているからだ。その場所についてもわからない、事件が起きている場所が離れすぎて理解できないのである。take place が起こるということはplaceが大事だったのだ。確かにテレビで世界中にニュ-スがかけめぐる。でもそれが現実のように思えないのはなぜなのか?信じられない悲惨なことが次々に起こってくる、日々テレビに映されている。でもそれがまるで一時の電気信号のように花火のように映されては消えてゆく、バ-チャル的になり何か戦争でも映画を見てるようにショ-のように見ているのだ。ミサイルや爆弾が落とされるわけでないから見ているだならそうなる。これだけ実際は現実を見せつけられていいるのに現実に無感覚になっている不思議である。それは結局場所と結びつかないからではないか、ある場所からは何か必ず情報が発信されている。歴史的事件の場にはそこに何かしら伝えられるものがある。現代にはその場から発せられる情報ではない、場と分離しているから現実性、リアリティが欠如してくる。テレビのブラウン管やパソコンの画面だけからまるでゲ-ムのように事件を見ている。戦争もそうである。そのテレビでもやらせがありその映像は出す方で操作される。イラクの人質事件もそうだった。あのとき盛んに自作自演説が流れたのもそのためである。テレビは必ずしも真実を映し出すとは限らない、恣意的な操作の中で映されているし重要な場面をかえって出さないとか操作されている。だからあれは作られたものだとするのも不思議ではないのだ。だから戦争の真実を知りたいから危険でもその場に行くというのは迷惑をかけなければ正論である。現場から見た戦争とテレビで見る戦争は全然違うからだ。こうした大事件でもテレビとかマスコミとかからの一方的報道でしか事件の真意に迫るほかない情報環境にあるから問題が生じる。なぜ首まで切らねばならぬのか?そのくらいしないと現実に思えないから、訴えなくなっているからあんなことまでしているのではないか?自爆で死んだ、爆撃で死んだまたかとなり無感覚になる。でも首を切るのを実況中継したらさすがに驚く、その現実に驚く訴えるからあそこまでやったのかもしれない、明らかにあれはメデアのために世界に訴えるための手段としてエスカレ−トしてしまったのだ。そのくらいしないと訴えなくなったためである。現代ほど情報が氾濫して情報時代になったことはない、では過去は全く情報は伝えられなかったのか、人々は全く無知の中に生きていたのかというとそうでもないのだ。情報の摂取方法が違っていただけかもしれない、情報は必ずその土地と場と結びついていた。だからかえって情報はその場とともに生き続けた。

古代を研究して最近面白いと思ったのが壬申の乱で死んだ大友皇子の伝説である。これがなぜ千葉県の木更津市に残されたのか、これはその土地と一体となり今日まで残されたのだ。

大友皇子は、死を覚悟して腹を切って自害します。白山神社の近くの御腹川は、それでこの名がついたといいます。
また、白山神社は久留里線の小櫃駅と俵田駅の中間くらいにあり、近くに小櫃川が流れているのですが、この小櫃という地名は、大友皇子の遺骸を納めた櫃に由来するとも言われています。


ここには他にも濃厚な伝説を残している。大伴馬来田はこの馬来田の出身から名付けられたかどうかわからないが何らかの関係があった。ここに逃れた理由がそれなりにあった。こんなことをなぜ問題にしたかというと大津で起こったような壬申の乱のことなどその当時離れているしわかりえようがない、それは人伝いに聞く他わからない、それが大事件でもわかりえようがない、では民衆は全くそうした歴史的事件に無知だったのだろうか?何も知らずに終わっていたのかというとそうでもない。そうした当時の事件がこの遠く離れた地域に伝説として残している。それはこの土地に何かしら伝えられてこの土地の人々が同情したか何か大友皇子を哀れむものがあって初めて今日まで地名となってまで残ったのである。そして地名というのは非常に古く消えないのだ。地名は歴史の化石というごとく消えないのである。

これは義経伝説でもそうである。いたるところに弁慶石とか弁慶、義経にまつわる伝説はその土地土地に結びつき残されている。これはやはり当時の民衆が義経に同情したからこそ残されたものでありそうでなければこんなに伝説がその土地土地に結びつき残されない、北海道の果てまで残っているわけがないのだ。つまり伝説は一つの情報の伝達、記録の役割があった。それは必ずその土地と結びつき残されている。それは当時の時間感覚の中でゆっくりと咀嚼されて何代にもわたり受け継がれたものとなった。現代の事件は歴史的事件でもその土地と結びつかない分離しているからリアリティが感じられないのだ。この大友皇子の伝説がどこまで真実かわからないにしても真実味を感じるということの方が大事である。テレビに日々映されていることが報道されていることがかえってバ-チャルに見えることと対称的に一千年前以上の事件が真実味を帯びているという不思議である。今や情報はマスコミやインタ-ネットから様々なものであふれかえっている。

しかし情報の摂取、消化、咀嚼する点において現代が優れているかというとそうでもない、古代の人々の方がそれなりに情報を摂取して残していたという不思議である。その理由は土地と結びつかないからなのだ。特に大都会では伝説はビルの谷間にうもれそこから何か過去が語りかけることは少ない、ようやくビルの下を掘り出したら江戸時代の日常生活品の陶器類が山ほどでてきて初めてそこに過去の生きた証しを見て過去を実感する。考古学の魅力は文献にはないリアリティを感じることにある。原町市の泉廃寺跡から出た木簡の□□白人と書かれたものによって渡来人がここまで来て名前まで残していたことに驚いたように現代をみたら白という人が民主党から議員候補になっていたり北朝鮮の人も白という政府の人が出てきたり白とは今でも朝鮮半島に多い名でありどちらかというと昔の高句麗、北朝鮮系に多いのかもしれない、ということは歴史の連続性がここにあったことを発見するのである。場所とかその場から発見された過去の遺物により歴史が現実性を帯びてくる。いづれにしろ現代は情報氾濫の時代だが情報の消化、咀嚼という点では昔の人が優れていたかもしれないし、すべて科学が発達したからといって人間は物事を知ったり伝えることが昔がすべて遅れているとはならない、科学が発達しなくてもそれなりの智恵で伝説のようにして次代に伝えたのである。

時間の進み方が日本人とはまた違うみたいだ、
自分から三代前と三代先はつい「最近」にあたるらしい。
特にモンゴル族は移動する騎馬民族なので珍しい客や気に入った客は
子供たちに語り継いで物語として忘れないようにしているそうだ


海外体験記
http://www.maromaro.com/foreigncountry.html

これはある学生が体験して書いていた。モンゴルでは単調な生活であり情報の摂取は伝達は人伝いだから客人は大切にされた。客人は何よりの情報伝達者だったからだ。そしてあれだけ広いところだから見知らぬ人と会うのは一回限りともなるからご馳走して客人が来ることはお祭りだった。だから歓待の儀式の歌があった。その美声はあの広い草原と空に木霊した。つまり情報過多と出会いの過剰な現代社会ではかえって情報に価値がなくなったのだ。無数の情報の氾濫の中で洪水の中で貴重な情報もかえって読まれないのである。
ある意味でそれぞれが百万のホ-ムペ-ジが情報発信しているのだが孤立しているのだ。情報が氾濫して情報の価値が低下して情報の稀少性もなくそれを伝える人も大事にされなくなっている。モンゴルでもラジオを使っているしやがてテレビを見るようになると現代文明社会と同じようになるかもしれない、現代は逆に無駄な情報を遮断する智恵が必要になっている。テレビでもすべて見る必要ないし情報氾濫から身を守ることが必要である。そうしなければ有益な情報も活きてこないのだ。



台湾から観光旅行に来ていた女子大生蕭任喬さん(21)が山梨県で殺害
された事件で、台湾の新駐日代表として5日に来日した許世楷氏が同日夜、
東京都港区の台北駐日経済文化代表処で蕭さんの両親らと面会する。

代表処によると、許代表は蕭さんが通っていた台湾の大学で教授を務めて
いた縁もあり、弔意を表すことになったという。

蕭さんは6月28日夜、ホテルを出て行方不明になり1日、無職渡辺高裕
容疑者(25)=死体遺棄容疑で逮捕=が出頭、殺害を自供した。

これは河口湖で起こったことであり河口湖では花火大会などのイベントを中止したとか観光まで打撃を受けた。これも何か現代を象徴する事件だった。無職で25歳で台湾人を殺害した。それも一地方で起きた事件だった。無職というのは今は珍しくないし非常に多い、フリ-タ-が普通のように地方でも多いのだ。それと台湾は親日的な国でありそれが非常に残念だったとしきり2ちゃんねるで言っていたし地元の人も怒っていた。現代は国際化であるがこれは庶民レベルで起きている。日本に出稼ぎに来たスリランカ人が指二本を工場で事故で無くしたのもそうだったしそういうことが庶民レベルで起きているのが現代である。国際化はいい面だけではない、外国人の犯罪の増加とか悪いことももたらした。これは安全な日本で行われたことだから日本ももはや安全でない国とされるかもしれない、台湾では日本人の女性も無惨に殺されたから別に国の問題ではない、どこにでも悪いやつはいるとなるがこれも地域にとっては一つの記録に残る事件となる。つまり昔だったら供養の地蔵を建てて村の記念にするとか語り継がれてこんなことはしていけないとかの後々の教訓にする。一つの事件をただテレビから垂れ流すだけで終わってはいけないのだ。つまりこうした事件も場所と結びつくと伝説となりのちのちまでも残りその事件を偲び後世に伝えることができるのである。



一郷土人の死(新開ゆり子さん死亡)から

●著作権訴訟


福島県原町市などが上演した町おこしミュージカルに自分の作品が無断で使われたなどとして、福島市在住の児童文学作家新開ゆり子さん(75)が同市などに340万円の慰謝料と謝罪広告掲載を求めた訴訟が28日、仙台高裁(武藤冬士己裁判長)で「今後は劇の脚本や印刷物に新開さんの作品名を表示する」ことなどを条件に和解しました


 
本件脚本には、「江戸時代末期に、五箇山から数多くの人々がここ相馬を目指した」との記述があるほか、「五箇山」「五箇」の地名が十数ヵ所に使用され、本件パンフレットにも、「相馬に旅立った五箇山の人々」などと数ヵ所にその地名が使用されているところ、史実によると五箇山から相馬への移民は十数戸にすぎなかった上、著作物甲2が同地内出身の少年を主人公とした物語であることに鑑みると、著作物甲2を脚色したものである。

登場人物として「伏見儀助」が存在し、同人が相馬藩の隠密として飴屋、行商人、修業<「業」は「行」の誤?>僧に姿を変えて活躍したこと、最後には捕えられて処刑されたこと、その際に故郷の歌を歌っていたことなど同人に関する内容は著作物甲1の記述と同一であるところ、同人は、原告の創作上の人物である。
日本ユニ著作権センター
http://www31.ocn.ne.jp/~jucccopyright/
 


新聞に新開ゆり子死亡とあったのでああ、著作権問題の人であり故郷の人でもあり関心を持った。この問題は市側が歴史的事実を劇にしたというが実際は新開さんの創作した小説を劇にしたから問題になった。新開さんの歴史的事実から創作したものをそのまま劇にしたから問題になった。歴史的事実だけなら問題にならなかった。しかし歴史的事実だけでは面白くないから劇にならないから新開さんの創作したものを借りて劇にしたため問題になった。歴史的事実を取り上げただけなら著作権侵害にならない、ニュ-スにしてもそこに事件の事実だけを取り上げるのは著作権侵害にならない、そこに作者の想像で創作したら著作権が生じる。例えば今回の選挙でそれぞれの党がいくら議席を獲得したとか票をいくらとったとか報道してそれを引用しても著作権侵害にはならない、ところが福島民報でその票を図で解析したものには著作権がある。自民党と民主党の票を市町村で色分けしていた。町村部では自民党の色になりいわき市とか福島市で会津若松市は民主党になっていたが相馬市、自民党になっていた。つまり福島県では都市部は民主であり町村部は自民である。二大政党化でこれからはこのようにどちらかに色分けされる。やはり自民は町村部を基盤にしている。公共事業で町村部に基盤があったからだ。その公共事業が減ったたため町村部での支持基盤もゆらいだし農協とか農民の票もかつてのように強固ではなくなった。でも以前として町村部では人的ネットワ-クやコネ社会だから自民党が強い傾向がある。でも一人区で民主に負けたのが多いのは地方でもその地盤がゆらいでいる。その点公明は支持基盤が変わらないからかえって安定多数を得るのには都合がいいのだ。地方でも一割くらいは創価がいるからだ。それらが安定した票を提供するとなると失った票の補強になる。
今取り上げているのは著作権の問題であるがこれは明らかに市側の落ち度だったろう。市でも役所でも著作権のことがわからないためにこんなふうになっている。素人ならさらにわからないのが著作権なのだ。

●移動の自由がなかった江戸時代

この問題でもう一つわかるのがいかに江戸時代は移動するのがむずかしかったかである。

寺請制度・・・・結婚・奉公などの移動には,寺院の証明が必要である。

(18世紀のイングランドには教会区をまたがる住居移動の自由がなかった)


寺とか教会は役所の役割を果たしていたのは外国でも同じだった。

幕府は1637(寛永14)年、農民の村外移動(離村)を厳しく規制するため、農民の村外移動には役人の証明書を必要とするお触れ(法令)を出し、また、1643(寛永20)年には、田畑永代売買禁止を定め、かつ農民の離村を完全に禁止した。

 一、百姓、地頭の年貢所当相つとめず、他領へまかり去る事、盗人
の罪科たるべし

「塵芥集(じんかいしゅう)」 伊達稙宗(伊達政宗) 16世紀前半

江戸時代まで移動の自由はなかった。藩によって管理されていた。白石から逃れた百姓が追われて飯館殺されてその墓まであったというのは驚きである。相馬への移民は民謡にも残っている。移民が必要だったから相馬よいとこ、相馬相馬と木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く 花が咲く これは移民を奨励する宣伝する歌だった。相馬に真宗系の寺があるのはそのためである。真宗系は火葬をもたらした。それまでは葬儀は土葬だった。真宗系移民は良く働いたという、草分けといって旧家の指導の下に良く働いた。移民は上昇志向が強いからかえってその土地でも国でもプラスになるのだ。アメリカの活力が移民によって保たれていることでもわかる。


明治時代が活力があったのは、長州や薩摩、土佐といった西国の人たちが江戸に乗り込んで新しい"常識"を東京に造りあげたからだと考えている。江戸時代の藩は独立王国である。外来語が多く伝えられ、科学から哲学まで多くの概念が次々と日本語に翻訳された。明治期には山の手言葉という新たな言語まで生まれた。

移民が支える起業家精神
URL:http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9806/980608.htm



人間の移動はゲルマン人の移動でも移動自体が革命を変革をもたらした。中国でも革命のときは流民化して大量の移動者が国を変えてしまった。移動すること自体人間は巨大なエネルギ-をもたらしている。シルクロ-ドであれモンゴルであれ砂漠とか草原とかは馬やラクダは移動に適していたが故に世界史の揺籃の地となった。モンゴルが世界史を塗り替えたというのもそのためである。当時の戦争は文明の移動でもあったのだ。アレキサンダ-の移動もそうである。コロンブスの新大陸発見も海が移動の舞台となったためである。なぜそれができたかというと地中海がそもそも古代から移動の海であり交通の海でありその延長で大西洋に出ることができたのだ。

日本も明治以降は大変な移動の時代だったからエネルギュッシュな変革の時代だった。あれほど戦争であれアジアに軍隊が移動したのもそのためである。戦後もやはり移動の時代だった。世界にも移動しているし観光でも移動している。商業化、工業化は移動をもたらす、第一次産業の農村基盤は定着でありこれは自民の票の基盤であり都市化は移動時代でありこれは民主の票である。ともかく身近な一人の人間が死にまた何かを後世に語ってゆく、この人の場合、著作権とか郷土史関係で語るものがあったのでここに一文を書いたのである。五ケ個村のある利賀村には自転車で行ったことがある。そこは廃校になった中学校を宿舎に改造した宿だった。そこで文化関係の催し物などができるようになっている。山村の学校の廃校になったところが多い、利賀村は相馬と歴史的に関係していたことも発見だった。

日本ユニ著作権センター
http://www31.ocn.ne.jp/~jucccopyright/
 


1914年に起こったこと

1914年

第四特集
オーストリア皇太子暗殺で第1次世界大戦勃発!
サラエボの空に轟いた二発の銃声。それは四年三ヶ月にわたり、世界三一カ国を巻き込んだ世界大戦の引き金であった。参加兵力六四〇〇万人、戦死者約一〇〇〇万人、負傷者二〇〇〇万人の犠牲を出した未曾有の戦闘は、ヨーロッパを主戦場に、帝国主義諸国間に矛盾と対立がいっきょに爆発したものであった。

出来事
1月1日 日本郵船、東北凶作地救済のため、宮城県石巻港に荷揚げする米殻の無賃輸送開始。
1月5日 定員の五倍の駿河湾汽船「愛鷹丸」、土肥―戸田間沖で風浪のため沈没。一二一人死亡2月3日 英・ベルギー、ベルギー領コンゴと英領東アフリカの境界線を確定。
2月15日 英、ロンドンで婦人参政権運動が暴動化。
2月24日 海軍問題で疑惑の松本和中将、呉から上京。
3月17日 東京・日本橋に天然色活動写真(天活)創立。
3月20日 東京大正博覧会、開幕(〜7月31日)。
3月24日 英・中・チベット、チベットと英領インド間の国境線(マクマホン・ライン)を画定
4月15日 群馬県安中教会の牧師・柏木義円、「上毛教界月報」で同化主義的な朝鮮人伝道方針を非難。
4月20日 夏目漱石、「朝日新聞」に「こゝろ」連載開始。
4月21日 東京下谷宮内で線ペスト発生(25日、ペスト・発疹チフスに関し注意書発表)。
4月24日 米国・コロラド州の炭坑ストで民兵一〇〇〇人と労働者が衝突、死傷者多数。
4月30日 大阪電気軌道(現・近鉄)大阪―奈良間開業。
5月24日 東京・代々木で昭憲皇太后大葬。
5月26日 日本石油の秋田県黒川油田で日本最大の噴油。
5月29日 軍法会議、海軍収賄事件に有罪判決(松本和中将に懲役三年など)。
6月4日 日本蓄音機商会、吹きこみ芸術家の著作権を譲り受け、複製レコードの駆逐に乗り出す6月7日 被差別部落民に対する偏見の打破などが目的の帝国会(会長・板垣退助)結成。
6月13日 兵庫、鳴尾競馬場で第一回民間飛行競技大会開催(帝国飛行協会主催。参加五機)。 6月15日 米・パナマ運河通航料法を制定。
6月26日 東洋紡、創立総会開催(三重・四日市)。
6月28日 オーストリア皇太子、セルビア系青年に暗殺される(サラエボ事件)。
7月8日 日本亡命中の孫文、東京で中華革命党結成。
7月10日 水路部、日本で初めて航空図の製作に着手。
7月14日 米のゴダード、液体燃料ロケットの特許取得。
7月20日 ポアンカレ仏大統領、露で対露支援を再確認。
7月23日 オーストリア、セルビアに対し最後通牒。
7月26日 グレー英外相、セルビア危機について英・露・仏・独・伊の大使会議を提案(独は拒否)。
7月28日 オーストリア、セルビアに宣戦布告(第一次世界大戦始まる。)
8月1日 南満州鉄道、大連ヤマトホテルをオープン。
8月1日 独が露に宣戦布告(3日、仏にも)。
8月4日 ウィルソン米大統領、欧州大戦に中立宣言。
8月7日 グリーン英駐日大使、加藤高明外相に独武装商船撃破のため日本の対独参戦を要請。
8月14日 独軍、ロレーヌで攻勢開始(仏軍後退)。
8月15日 政府、独に膠州湾租借地の日本への公布、武装解除要求の最後通牒。
8月15日 パナマ運河、開通。
8月23日 日本が対独宣戦布告。第一次大戦に参戦。
8月26日 タンネンベルクの戦い(独軍が露軍を撃退)。
8月30日 独飛行機がパリに爆弾投下(世界最初の空爆)。
9月1日 米国・オハイオ州の動物園で地球上最後のリョコウバトが死に、ひとつの種が絶滅。
9月2日 日本軍、山東省竜口に上陸開始。
9月5日 青島の独軍攻撃に、海軍のモーリス・ファルマン式水上機参戦。日本初の飛行機実戦使用。
9月6日 仏軍、独軍に総反撃(マルヌの戦い)。
9月9日 片山潜、米に亡命。米の社会主義運動に参加。
9月15日 三越呉服店本館落成、デパートで日本初のエスカレーター設置(10月1日開店)。
9月19日 友愛会、第一回競技会開催。
9月28日 日本海軍、膠州湾砲撃開始。
10月6日 福岡・久留米に俘虜収容所設置。
10月9日 台湾高砂族が蜂起、警部補ら二二人殺害。
10月14日 日本軍がサイパン島占領、赤道以北の独領南洋諸島占領完了。
10月15日 大杉栄・荒畑寒村ら「平民新聞」創刊。
10月25日 高村幸太郎、処女詩集「道程」刊。
11月2日 露、トルコに宣戦布告(5日、英・仏も)。
11月5日 英、キプロス島併合を宣言。
11月7日 日本軍、青島を占領(8日、宮城前から英大使館へ祝賀の提灯行列)。
11月11日 陸軍省、九州・大阪・東京など全国九ヵ所に俘虜収容所設置を指令(独俘虜は四四六一人)。
11月12日 猪苗代水力電気、開業。
11月16日 日本軍、青島入城式。
11月20日 米国で旅券申請に顔写真添付を義務付け。
12月3日 加藤高明外相、駐中国公使・日置益に「対華要求二一か条」を訓令。
12月10日 「徳島丸」、日本船初のパナマ運河通過。
12月15日 福岡・方城炭坑でガス爆発、六八七人死亡(これまでの日本の炭坑事故で最大最悪)12月18日 英、エジプトを保護領化と宣言。
12月20日 東京駅開業、東海道本線の起点となる(新橋駅は貨物専用となり、汐留と改称)。
12月25日 衆議院、予算案の軍艦建造費可決。


1914年(大正13年)にこれだけのことが起こっている。

1月1日 日本郵船、東北凶作地救済のため、宮城県石巻港に荷揚げする米殻の無賃輸送開始。
1月5日 定員の五倍の駿河湾汽船「愛鷹丸」、土肥―戸田間沖で風浪のため沈没。一二一人死亡


これは当時船の交通が盛んな証拠である。石巻港とかがかなり重要な港となっていたから江戸時代のつづきでもあった。何故なら江戸時代は仙台藩の米を石巻港から江戸へ出していたのだ。仙台藩の米は江戸にとってかかせないものだった。

牡鹿半島の明治14年から三菱汽船会社が定期船航路開設の寄港となり,更に共同運輸会社の汽船も寄港し荻浜港は整備された。明治22年東北線(道路)の開通により汽船の乗客も減少,大型化する船舶の寄港には不向きとなり乗客や便数は減少し,大正6年には定期船の寄港は廃止となった

 荻浜は,歌人石川啄木が明治41年上京途中に荻浜港に立ち寄り,
港町 とろろとなきて 輪を描く 鳶を壓せる 潮曇りかな」と詠んだ歌碑が羽山姫神社下に建立されている。
折浜・蛤浜・桃浦・月浦・侍浜・荻浜・小積浜の7つの集落からなる。地区を縦断する県道石巻鮎川線の道路整備も進み,風越トンネルの開通により交通の便も良くなった


あんな小さなひなびた漁港にも船の便があったのだ。ここには一度行ったし裏山の羽山姫神社にも行った。春の終わりで桜が散って崩れかかったような石段に散っていた。今は侘しい所であり鯨取りで栄えた鮎川も寂れている。船の便があれば地方の港も生きていた。それは北前船の時代から続いていたのだ。今寂れている下北半島も北前船で北海道の物産や昆布や材木や関西からは陶器類が運ばれ栄えていたのだ。仙台の石巻から船で相馬の産物、相馬焼なども運ばれた。この時代まで船はかなり活きていた。海の道があったのだ。それと海軍が大きな力をもっていて海軍の話題、造船の仕事が日本の工業の中核にあった。海の時代だったのだ。この年東北で凶作になった。原因は何なのか良くわからないが調べればわかるだろう。荻浜の地名を見ると面白い。
蛤浜、月浦、侍浜、荻浜、小積浜・・・・いかに淋しげな名前で合っている。
侍浜(さむらいはま)という名付け方はかなり古い、というのはこれは「さもらひ)という言葉から来ている。風待ちの港だった。こういう小さな湊が日本には無数にあったのだ。湊ともいえない浦である。

945 風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つた)の細江に浦隠り居り

中国や朝鮮は今からするとかなりその地位は低い、植民地とか中国の地位も余りにも低いからかなりの反発がありテロもあった。台湾高砂族というのが日本に対してテロを行った。そういう時代でもあった。日本支配に対して抵抗があったのだ。国際的にも大事件があった年である。ドイツと戦争になりドイツ人の捕虜が日本に来ていたのだ。これは四国の徳島にあった。この年イギリスがキプロスとかエジプトを植民地化した。これは旅行してエジプトがホンドを単位としていることやキプロスで船が寄港しておりそこでイギリスの貨幣を買ったのもその因縁だった。ここで歴史というのが結びつく、連続することの発見である。この年の東京駅開業というのは大きなイベントであった。この一年にこれだけのものが起きている。この記事を読むと当時の息吹がよみがえってくる。ニュ-スというのが現代ばかり注目していると実際その意味もわからない、過去と結びつくなかで歴史のなかで意味を帯びてくるものがあるからだ。この項目で2ちゃんねるで庶民の声が残っていたら面白かったろう。現代は凄まじいニュ-スの時代である。情報化時代である。分刻みでニュ-スが報道されている。その中でニュ-スに情報に溺れてしまいかえって何が起きているのか何が大事なのかもわからないのだ。情報の利用の仕方もわからない、このサイトは過去をふりかえるのに役立つ。当時の息吹が伝わってくる。現代でもニュ-スは次々に報じられる。

NTTで4thMEDIAでビデオ、テレビをブロ-ドバンドではじめる
桜netがレンタル-サ-バ-の格安サ-ビスはじめる(300mb-月130円)


このニュ-スも現代的なニュ-スである。光ファイバ-ならできると思ったがadslでもここまでできるのか多ちゃんねるの大衆化が始まるのか何かそうした先触れのニュ-スだった。メデアの激変時代を迎えている。nttで電子本を取り扱ったのもその一つである。情報分野での激変はこれからもつづく。これは現代のニュ-スであるがニュ-スは過去の歴史と結びつくとき一連の流れのなかで見るとどういう価値があるかなどわかってくるのだ。現代ばかりに目を向けるとわからないのだ。だからもっと現代だけでなく過去にも歴史にも目を向けるべきなのだ。だからこのサイトは役にたつ。

E231秋葉交差点
http://www.ucatv.ne.jp/~keiryudo.sky/

20世紀の部

http://www.ucatv.ne.jp/~keiryudo.sky/20c/20c.htm



1914年に起こったこと(続き)

戦前の基幹産業は石炭とか紡績、造船などであり交通は海運、鉄道が主であった。社会は一つの有機体だから一つのニュ-スがあるとしたらそれはそれだけが独立して分離して起こることはない、もちろん基本的な性犯罪とか窃盗とか個人的恨みの犯罪は人類始まって以来起こされてきたしこれは時代と関係なく起きている。石炭が基幹産業だったというときそれは石炭だけではない、社会全体と結びついていた。石炭がまずあって鉄道が作られた。小樽などの線も石炭を運ぶために最初に作られたのだ。北海道の鉄道は石炭と密接に結びついていた。

また中央の三井・住友・三菱・ 古河など大手の大規模な進出によって、我国最大の炭田を抱える筑豊の百年は決定づけら れた。
 明治二二年、筑豊の石炭業者が出資して筑豊鉱業鉄道会社が設立され、二四年に若松〜 直方間、二六年に直方〜飯塚・直方〜金田間、二九年には豊州鉄道によって行橋〜伊田〜 後藤寺間というように相次いで鉄道が整備され、その後も筑豊各地には網の目のように鉄道網が張り巡らされ、やがて筑豊の石炭産出量は飛躍的に伸びることになる。

石炭と鉄道は密接に結びついていた。石炭が鉄道の発展をうながした。その当時だから新たな鉄道路線が開通していた。それが常にニュ-スとなっていた。今なら高速道路が開通するような感じである。交通の中心は鉄道にありその鉄道を発展させたのは石炭だった。石油が巨大なタンカ-を必要とするように石炭は鉄道を必要としたのだ。炭鉱の事故は常にあり炭鉱の事故のニュ-スは今の交通事故のように報道されていた。文明は常に便利さを追及して犠牲を作り出してきた。今でも中国では炭鉱で一年で7千人死んでいる。能率的に効率的に石炭をとることが要求され人間の命は軽視される。これは日本の交通事故の死者と同じである。文明は便利さを追及する結果、かえって肝心の命をかえりみなくなる。もし戦前のように鉄道中心の世界だったら交通事故はこんなに起こらなかったのだ。交通事故を無くす方法はある。しかし自動車文明社会を維持するには交通事故はしかたない犠牲としているのだ。自動車はこれは日本の基幹産業でもあるから石炭と同じなのである。自動車というのが社会から分離した単なる物ではない、社会と有機的に一体と化した物であり自動車だけを無くすということはできないのだ。いづれにしろ炭鉱事故は日本でも常に起きていたしそこで働いて辛酸をなめた人も多いのだ。

ザルに石炭を入れて「よいしょ」と立ち上がっても肩が痛くてどうしようもなかった。右が痛ければ左肩で、そしてまた右でと交互に担っているうちに肩の皮が破れて沁みだした。でも痛いからと担わねば仕事にならず、歯を食いしばり、涙を流しながら一塊の石炭でも炭車に入れねばと頑張っていた・・・・・

(忘れな草)

http://www.miike-coalmine.net/data/yamazaki.html

これも日本の歴史でありまた世界の歴史であった。石炭が石油に変わってもやはりイラクでの戦争のように石油の争奪戦の戦争が起こったり文明は必ず犠牲を要求するのだ。文明の故の犠牲なのだ。国家のための犠牲というよりは現代は文明故の犠牲なのである。

この1914年だけを見ても国際的にも常にテロは起きていた。日本帝国主義に反発して台湾の高砂族までテロを起こしていた。中国でも朝鮮でもテロを起こしていた。これがテロといいえるかどうかわからないがアメリカ帝国主義に対してイスラムがテロを起こしているがこれも歴史的に見ればテロなのかレジスタンなのかわからないのだ。つまり歴史をふりかえれば同じことが起きていたのだ。中国でも朝鮮でも当時の日本に対するテロはレジスタンスでありテロとしていない、イスラムでももしアメリカと拮抗するような国力を持つようになったら今のテロはテロではない、アメリカ帝国主義に対するレジスタンだったと歴史的に評価されるかもしれてないのだ。帝国主義、植民地化されることの抵抗としてテロがあったのだ。つまり今の時点からばかり見ていたら事の真相はわからないのだ。長い歴史的な眼で見る必要があるのだ。つまり今の事ばかりに注目していると目を奪われているとかえって見えないのである。もっと昔を歴史を語るべきなのだ。過去から歴史から現代を浮き彫りにすることが必要なのである。昔でも同じような問題が起きていた。

6月4日 日本蓄音機商会、吹きこみ芸術家の著作権を譲り受け、複製レコードの駆逐に乗り出す

ここにすでに著作権の問題が起きていたからこれもやはり同じようにあった問題である。ところで今回引用した1914年の出来事は新聞社からの引用らしい。鉄道に関心ある人だから鉄道の記事をのせたのか?これにも著作権があるのかもしれない、というのは一カ月に何が重要なことなのか選んで一年のニュ-スを構成しているからだ。つまりニュ-スを編集しているから著作権があるのかもしれない、ただやたら目的もなくニュ-スを並べたものに著作権はない、ある目的でもってまたは重要と思われる記事を選び構成することは創造的なことかもしれないから著作権があるのか、ニュ-スというのもその人なりの眼で編集し構成するとき意味を帯びたものになることは確かである。ただ何があったと報道するだけのニュ-スは何の意味ももたらさないのだ。これまで時事問題の深層で私が書いて来たことは歴史をふりかえり自分の眼で歴史的哲学的に考察したことだった。ニュ-スに対してこういう書き方をしているのは少ない、これはインタ-ネットだからできた。週刊誌とかその他は興味本位に大衆に受けるように書くから問題なのだ。真面目に事の真相とかその意味とか追及していないのだ。その時々のことをこのようにいくらでも自分なりに書けるというメデアはなかったからだ。だからこれは新しいメデアによる時事問題の探求であることを知ったのだ。ふりかえってみればそうなっている。インタ-ネットはいくら書いてもいいことなのだ。新聞の投稿記事や掲示板の弱点はこうした長い文を書けないから浅薄になる。だから2ちゃんねるようなものはその時々の鬱憤を晴らすようなその場その場のたわいもないおしゃべりで終わる可能性が大きいのだ。確かに読んでいる人は多いが何か社会に意味あるものとしてまたは大げさにはなるが歴史的に意味あるものとして残されるかとなると疑問である。余りにも現在に集中したその時々のうさ晴らしになって誰もあとでそれ参考にしたり読んだりしないとなることはありうる。ただ一部は庶民の声としてああ、あのときこんなことを言っていたかこんな状況だったからあんなことになったのかなどあとからも参考にされることはありうる。



いろいろな旅(旅のシ-ズン)

●歴史を刻んだ汽車


現代では旅というのはなくなっている。旅があったのは江戸時代までであり汽車ができたとき本当の旅はなくなった。もちろんそれでも本物の旅を志向する人はいた。山頭火などである。あの時代まで本当に歩いていた。でもそのときでも汽車は通っていたから汽車にのることができたはずである。汽車は最初は荷物を運ぶことに重きがあったみたいだ。石炭を運ぶために鉄道が作られたように整備されたように人間はそのあとだった。一般の人は汽車をそんなに利用していなかった。結構運賃が高かった。汽車に乗ることは珍しい経験だった。だから現代のようにめまぐるしく移動していることはなかった。経済もそんなに一分を争い物流を急がせることなどなかった。やはり汽車というと子供の頃、長い貨物列車を見送っていた記憶がある。貨物列車が多かったことと小さな田舎の駅にも引き込み線がありそこで荷物を積んでいた。なんかそれがなつかしい風景である。

引込み線縄を積み出す縄屋という屋号の家も消えにけるかな

田舎の駅でもいろいろなものを積み出していた。縄というのもその一つだったのだ。鉄道と田舎の産業が結びついていた。

私が小学校の頃までは当駅にも貨物ホームが在り写真の側線以外にも合計で5本程存在しておりました。貨物は米と石炭、それに木材が主な物でした。勿論雷電山の石灰もです。

雷電山の引き込み線

鉄道でもそうだが生活のなかで生きていたときそれは意味を持っていたのだ。アメリカのアムトラックも西部開拓時代だったらそれは生活のなかで生きていた、

歴史の古い主要な都市を縦横に結ぶことから始まり、やがて小さな町にも通じるようになる。そのうち沿線に、幾つもの町が雨後の筍のように発生する。郵便局も点々とできていく。

アメリカ鉄道の歴史

汽車が通ることによって町もできたことでもわかるように汽車は重要な役割を果たした。それがアムトラックは今は貨物列車として生きているが人間が運ぶのは観光になっている。そこに人間のドラマは消えた。観光になれば例えば中山道を昔のままに再現してもそこは観光のためであり何か映画のセットを見ているようで作り物のように見えてしまい、リアリティがなくなるのだ。過去のものはやはり歴史は実際はどこでも再現できないのである。

汽車という言葉自体電車に変わったごとくこの言葉自体すでに歴史化しているのだ。蒸気機関車でもそうだが汽車には何か人間的なものを感じるのだ。でも最初はこの汽車も何か文明の最先端を行く、新時代を代表していた。でも東京まで八時間かかるとか何か今とは時間の感覚が違っていた。汽車はやはり町と町、遠くの都会と憧れをもってつなぐものだったのだ。そして駅というのはいつも出会いと別れの場になっていたのだ。そこが人の集まる場所だったからだ。これが明治時代だとさらにそうである。

ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 啄木

となる。駅も何かまだ人間的であり人間のぬくもりが人間的な時間の流れがあった。今はそれが感じられない、ただ早く早くというスピ-ド第一であり機能的であり人間が出会い別れる場ではない、だから今あまり電車が去るのを見送るという場面はあまり見かけない、現代に会うとか別れるという感覚は消えているのではないか、いつでも携帯で連絡できるとか、特急で何時間だとか新幹線でとんぼ帰りだとか飛行機で何時間だとか時間の感覚が全然違うのだ。特に自動車社会になったら余計そうである。高速道路なんか人間的感覚が消失する。巨大なベルトコンベア-にのっていると同じ感覚であり旅するという感覚はない、移動しているだけである。旅の情緒などなくなっている。根本的に時間の流れが違ってしまったことなのだ。NHKでトラック運転手が市場が開くまで遅滞しないように一分を争って走りつづけている。まさに現代はスピ-ドの時代でありそのスピ-ド時代の犠牲者がトラック運転手だった。そんなに急ぐ必要があるのかとなるがそれを社会を要求しているしそうしないと会社が存続できない、トラック運転手なんかやりたくないというのはわかる。居眠り事故が起きても不思議ではない、これも現代文明の異常さである。大都会自体が不自然でありいびつなものである。九州の果てから大根をセリに間に合うまで必死でトラックで運ばねばならぬということ自体異常なことである。その土地土地でとれたものはその近くで消費するのが普通だったからだ。東京だって練馬大根が有名になったのは江戸が消費地であったからでありそんな遠くから野菜は運んでいないのだ。

●自転車旅行の誤解

旅がなくなったというというがそれでも人間はやはり旅がしたい、それで旅が変わったのだ。旅はレジャ-にスポ-ツになったのだ。バイクで世界一周してもそれは旅なのか、一面バイクで走るという快感、スポ-ツの面がある。これは登山やカヌ-や自転車でもそうである。旅というよりスポ-ツなのだ。歩いて旅している人がいるがあれも実際は歩き通している人はいない、バスにのったり途中電車にのったりいつでもどんな遠くに行っても帰れなくなるという恐怖を感じる旅はない、現代はどんな旅をしてもそうである。外国に行っても飛行機にのりさえすれば帰れる。旅自体に危険はないのだ。自転車旅行はみんな誤解している。20歳代のとき旅行をはじめたがすべて汽車だった。北海道もそうだった。そのとき自転車旅行をみてあんなことできないなと思っていたのが失敗だった。今でもそうみている人がいる。そして関根氏という世界を自転車でシベリアまで旅した人の年齢が2歳しか違わないのに驚いた。若い人だと思っていたからだ。自転車旅行は体力ではない、精神力の方が大事である。確かに体も使うが調整できる。疲れたら休めばいいし坂が上るのがきつければ歩けばいいしとそれなりにペ-スダウンできるのだ。私の場合北海道を一カ月旅したときは一日走って二日休んですすんだ。自炊道具ももたない、日本だったらいくらでも食い物はあるし必ず町にでるから食い物の心配はない、テントで寝れば宿泊代もただである。自転車旅行は体力がなくてもできる。老人でもしている人があるのはそのためである。ただ関根氏のようなことは無理である。やはりサポ-タ-がついて冒険が商売になっているみたいだ。日本の自転車旅行はちょっと経験積めばできる。山のように遭難したりもない、危険なのは交通事故だけなのだ。だから自転車旅行についてみんな誤解している。体力なくてもできるし自転車旅行は冒険の部類まで入らない、日本国内だったらそうである。一カ月旅行してみたらわかる。意外とできるもんだなとわかる。

そして意外と日本って狭いなと思った。一カ月で北海道を半分回ったからだ。自転車で回っても狭いのにバイクだとしたらもっと狭く感じる。自動車だったら一カ月あったら全部くまなく回れるくらい日本は狭い、ただ日本の国の特徴は山が多いから山の道が多いから実は山の道を行くとかなり違った景色がみられる。近くでも飯館まで行くのに坂を越すのに自分の場合半日もかかる。歩くからだ。それだけ山が多いから日本の旅はこの坂が難所であり登山みたくなるのだ。そして実際山の道、林道なんかが行くのが日本で向いている。そういう道は山の眺望があり気持ちいいのだ。ただ坂がきついので楽ではないのだ。だからどこまでも走るという快感が日本では北海道くらいしかないし走るという点では日本はサイクリングに向いていないのだ。ここが大陸とは違う点である。いづれにしろ人間は常に先入観があったりして経験しないで誤解している。50才越えて世界の厳しい場所を旅行しているのはやはり自転車はかえって中高年向きなのである。それはペ-スダウンできる、自分なりに遅くてもすすめることなのだ。いづれにしろ夏は旅の季節である。去年の沖縄の旅は充実していた。一カ所滞在型の旅だった。暑さにはまいったが刺激的な旅だった。旅を追及すると北海道を自転車で半周したらなんか自転車の旅もつまらなくなった。これで終わりかという感じになる。人間とは旅にしてもより高度な大きな旅をしたくなる。冒険者はきりがなくより高度な危険な冒険を求めるのはそのためである。人間はそういう宿命にある。旅も尽きることなく結局人間は満足しない、この果ての果てには何があるのか、さらなる未知の世界へ冒険の世界へ進んで行くのが運命なのだがそれが現代では喪失したからカヌ-が盛んになったり沢登りに挑んだりといろいろ新たな冒険を試すことになるのだ。



教養の衰退からカルトへ

現代の学問は実用一点ばりである。理系の時代であり文系は役に立たない遊びだという感覚が強い。大学では文系は大学に入っても勉強していないから遊んでいるからそう言われてもしかたない、文系がこのようにでは低く見られていたのかとなるとそうではない、文系の教養が基礎であり理系的なものは脇役的存在だった。現代は理系が科学が肥大化して文系的教養を圧倒してしまったのだ。中国でも官吏になるには詩を作ることが求められた。詩を作れることが官吏のたしなみでありそれ以上に詩を作れないような官吏は資格が与えられなかったのだ。中国の漢詩と日本の詩は性格的にかなり違う。中国では政治的であり日本は感覚的感情的なものとなり風流となった。しかし中国では詩というのは志、思想を表現するものだった。だから詩の役割は大きかった。なぜこれまで日本でも文系の時代だったかというと明治時代を見ればわかる、明治時代に一番漢詩の興隆があったのだ。江戸時代ではなく明治時代にそうなったのはやはり江戸時代の蓄積があり明治に華開いたのである。漱石や正岡子規でも漢詩でやりとりしているし漢詩が挨拶代わりになるほど漢詩ができたのだ。だから相当な教養が江戸時代を通じて積まれていたのだ。明治時代は科学技術が怒濤のごとく入ってきた時代だったがそれでもやはりその基礎は文系の教養だった。

現代の学問は極端な専門家であた専門バカを生む。しかし現実はこの専門家が実用的だから社会では専門家を重宝する。法律でもある分野に詳しい人間や科学でも眼だったら眼に詳しい人間が実用的になる。経済だったら株に詳しいとか何かある特定の分野に詳しい人が社会にとって役に立つとなる。そもそも才能は材からきており一部を切り取って役に立てるという意味があり全体を役に立たせるということでないから人間にとって才能とはゆがめられた一面があったのだ。学問とか哲学とかは総合的なことであり哲学の一分野として様々な学問が派生した。数学もギリシャではピタゴラスのように宗教だった。哲学だった。宗教は総合的なことを宗(むね)なることを目指していた。だから釈迦は医学についても説いている。ギリシャというのは学問の創始者だったから学問とは何か考えるのには参考になる。学問とはもともと哲学だった。哲学とは総合的学問のことである。現代に一番欠けているのはこの哲学であり宗教である。総合的視点がもてないし総合的人間の欠落である。総合的全体的人間が社会にとっては何も役に立たない不可解な人間になっている。上野霄里氏の原生人間とかそれは何かわからない奇異なもの、アウトサイダ-化する。英語できる、通訳ができる、ああ、あれは英語できるから役に立つ社会から見られる。医学でもあれは耳や眼の医者だ鼻の医者だとか体の一部に通じているものとして見られ有能だとなる。人間の体全体をみるひとはもはや存在しない、そういう医者はいない、かえってそういう医者は無能な医者にみえる。耳であれ眼であれ一部に通じた医者は有能なものとして認識できるが全体をみる医者は存在しない、そんな医者は社会でも認めていないのだ。ただ病気は人間にとって昔から最大の問題でもあったからそれをいやすために信仰も分業化していた。


心配事・悩み (釘抜地蔵)

お寺にある大きなくぎ抜きで心の悩みを抜いてもらうとよいでしょう

歯痛に (ぬりこべ地蔵尊)
ぬりこべ地蔵尊は病気を塗り込めます。とりわけ歯痛に効き目があります。

神経痛、腰痛 (善峰寺)
藥師如來様のご利益は、病気平癒・長寿・健康、出世祈願です。

頭痛 (三十三間堂)
本尊の霊力でご祈祷した法水を、霊木とされる柳の枝で参拝者に灌いで祈願します。

目の病気 (柳谷観音)
境内にある岩穴からしたたる水は、独鈷水(おこうずい)と呼ばれ
眼病治療の霊薬として信仰されていて、参拝者の多くの方が持ち帰ります。 

耳の病気 (大原来迎院)
耳の病気でお困りの方はこちらまで。ここは、平安時代のはじめ、
声明(しょうみょう)の修練道場として建立したのがその起こりとされています。 

不老長寿 (源光庵)
不老長寿を願うならば、霊芝から作られた観世音菩薩がお待ちしてます。



このように祈る地蔵さんや観音様や寺や神社も分業化していた。分業化すると祈ることもはっきりしているのだから祈り安いとなる。こうした地蔵山が小さな村に集まっていた所もある。医者にかかることもできないからその小さな村のなかでそれぞれの地蔵さんに祈るほかなかった。今ではそれぞれの専門の医者に行くようになった。

分業化することは宿命的なものである。効率、能率を追及するとそうならざるをえない。でもそれによって全体の総合的な人間は失われる。では結果的に文明化は何をもたらしたか、分裂をもたらした。総合的視点の欠如からバランスの欠如から社会全体を総合的に見れない分裂をもたらした。人間疎外ともなるし原生人間の迫害ともなる。オ-ムは理系が多く一流大学をでていた。そして世間の人がみんな言っていた。「なぜあんな優秀な頭のいい青年があんなことを起こしたのか」つまり理系と文系のバランスが崩れ総合的視点、教養が喪失していたからこそ起きたことなのだ。あれも現代を象徴する事件だしナチスもそうだったし創価もそうである。文系的教養が失われ現代は知は知たりえずカルト化しやすいのだ。カルトとは現代文明特有の問題として現実化したものである。デカンション、デカンションとあとは寝て暮らすというとき大学生は実用的なものだけでなく哲学、思想を追及するのが青春だという意識があったのだ。それも社会で認めていたからあの当時だったらオ-ムのようなカルト青年は生まれていない、科学が異様に肥大化して理系万能の世界もかなり危ういものなのだ。ただこれは今や世界に共通した文明そのもの問題だから簡単には解決できない、解決不可能なくらいむずかしいのだ。

おそらく自分が創価に入ったころから学生運動のゲバ学生が生まれた頃からそうした矛盾に飲み込まれようになった。思想すること哲学することよりゲバ棒を持って暴れることがかっこいいとなりまた創価でも集団化して社会を権力を我が物にすることこそ具体的に思想性がなくても行動に走ることが快感になったのだ。だからその根底になっている思想性が貧弱でありカルトになっているのだ。ロボット化されてしまうのである。一票をとるために毎日幽霊会員を回っていた自分も創価のカルトのロボットだった。かなり知性的な知識人も創価のカルトにのみこまれてゆくのもそのためである。現代とは集団化したところはなんらかカルト化していることは間違いない、まず上野霄里氏のような強烈な自立志向思想は天才でなければできない、強烈な意志が必要だからだ。現代では総合的全体的人間は社会から見えない、存在しないのだ。だから総合的人間になろうとするとみんなアウトサイダ-化しているのだ。社会から離脱して全体性を目指すほかなくなっているのだ。そういう人はしかし社会から見えないし存在しないのである。



市町村合併で変わる名前(野馬追の日)

そもそも町の名とか村の名は歴史的に変わってきた。意外なものまで合併した名前が多いのだ。長野県の楢川村も奈良井と贄川という村が合併してできたから楢川とした。これはもともとあった村だと思ったが違っていた。奈良は楢になっていた。これは味気ないものであるし問題がある。楢川村はさらに塩尻市と合併するとどうなるのか、楢川村は消えてしまうだろう。合併論議が盛んだが小さな町や村の名は消えるかもしれない、合成地名が多いのは二つの国が統合されるからそうなる。
(地名散策)

景行27年紀に「日高見国」とあり、祝詞(六月晦大祓など)にも「大倭日高見国を安国と定め」

日本自体倭と蝦夷の国、日高見国と合併したからこういう呼び名も古くあったのだ。日本はもともと日高見国だったのだ。地名や町でも村でも名前は一番歴史を語る。だから名前は大事なのだ。名は体を現すである。実際古代になれば名前しか残っていないのが多い。歴代の天皇でもなんともややこしい長たらしい名前しか残っていない、でもその名前こそ歴史を解きあかすものなのだ。人間は死んで名を残すというのは本当である。動物には名前はないし歴史もない、猫はみんな猫であり犬はみんな犬である。ただ馬は優れた馬は名前を後世に伝説として名前を残した。聖書でも残っているのは名前だけの人がいてその名前が何かを意味していて大事なのである。人間の場合名前は歴史であり名前から歴史をたどる。相馬藩の殿様の名前には

初代
相馬利胤(としたね)
二代
相馬義胤(よしたね)
三代
相馬忠胤(ただたね)
四代
相馬貞胤(さだたね)
五代
相馬昌胤(まさたね)

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一三代まで胤というのがついている。胤は歴史の継続を示している。相馬市というのはしかし前は中村市だった。中村神社があり中村市だったのだ。中村神社と相馬神社があり中村神社は地域の神を祭るもので相馬神社は相馬氏一族を祀るものであった。中村の由来は古代にさかのぼり宇多郡の中村郷からきている。ここは古代では行方郡でありそれが宇多郡と行方郡に別れた。その宇多郡が相馬市になった。鹿島町は北郷となっているがなぜ北郷なのか?これは相馬市が中心になっていればそうならない、相馬から南だから南郷となる。北郷となっているのはもともと原町市の大田神社に相馬氏が移りそこを本拠としたから鹿島町はその大田から北だから北郷となった。大田の前は小高に相馬氏の城はあり小高が一番古く野馬懸という野生の馬を追う神事が残っているのもそのためであり野馬土手、馬を逃がさない石垣も残っている。歴史的順序としてはそうなっている。ところが今回の合併で名前を応募したら「南相馬」という名前がでていた。相馬の南だから南相馬市となる。これも歴史的順序としてはおかしなものである。北郷という名前は残っていて今度南相馬となるのはおかしい。歴史的順序としてそぐわない。位置的にはそうなるが歴史的順序としてそぐわないのだ。やはり命名には歴史を知る必要があるのだ。ただ合成化した地名は歴史を無視しているのが多い。飯館が大館が基であり館があったことは確かだからそれなりに歴史を残しているのか、しかし歴史が全然わからなくなっているのも多いのだ。そこに合成地名の問題がある。「行方市(なめかた)」にしろというのもあるがこれも今ではあまりなじみがない、歴史的にはそうなのだが今ではなじみがないのだ。地元の人にとってもなじみがない、原町市という名自体なじみがあってもこれがどうして名付けられたのか良くわからない、原町という名はどこにでもあるからだ。ともかく名前には歴史を考慮しないとまずい、だから南相馬は歴史を無視するからまずいのだ。合成地名だと「
相馬原市」となる、相馬市と原町市を入れたものだが相馬市と合併するのでないから合併地名としては合わないがこれも一つの提案となる。なぜ原をつけたかというと原町の羽山横穴古墳の装飾古墳が川が描かれ狩猟が描かれている。原町は広い狩りをする原だった。鹿も描かれていたからだ。もう一つ不思議なのは渦巻きの紋が二つ結合するように描かれている。あれは新しく入って来たものと元からいた在地の勢力との合体図なのである。合併地名ならぬ氏族の合体図かもしれないのだ。原には陸奥真野草原の原も入っている。草原は萱原ではないと私の説だが原というのにはこの意味もある。ともかく原町は広い原があった。野馬原市などもいいかもしれない、原がついていれば地名の継続があることは確かである。

所属神社
郡名
郷名
市町村名
中村神社 宇多郡 宇多郷 相馬市
行方郡 北郷 鹿島町
太田神社 行方郡 中郷 原町市
小高神社 行方郡 小高郷 小高町
標葉郡 標葉郷 浪江町・双葉町
この表のように北郷、中の郷、山中郷(飯館)もあった。旗印も決まっていた。



羽山横穴
http://homepage2.nifty.com/qtvr/qtvrscenes/hayama_bc/hayama.html



これはドイツのザクセン州と
ザクセン=アンハルト州であるが二つの州が合体していることがよくわかる

今年も野馬追いの季節がきたが最近は余り興奮しない、やはり野馬追いは地元の人が全部参加する祭りではない、武家の出の人だけが行列に参加できるから全体が盛り上がらない、文化財として保存の対象であり今に生きているとは言えない、これと似た祭りにイタリアの旗祭りがあった。「世界うるるん紀行」でやっていた。旗をいろいろに操り投げる中世の祭りである。ヨ-ロッパにも城があり騎士がいて様々な紋様の旗があったからにているのだ。それは国と国の結合を示す旗もあった。野馬追の旗も多彩である。そこには武田家の旗や仙台藩の紋の旗やいろいろある。なぜ武田家の旗があるかというとやはり相馬藩にもいろんな藩の出の人が入ってきたからだろう。近くの人がその武田藩の出の人だった。武田藩は戦国時代、信長に敗れて家康にも仕えるようになったり流散したのだ。それも長い歴史を物語っているのだろう。この日だけは馬の日である。馬は忘れられてしまった。朝から馬がいなないたので驚く、町中に馬のいななきを聞くのはこの日だけである。馬が生活のなかで生きていた時代も遠いから馬というものが何なのかさえわからなくなっている。馬は人間と共に長い歴史をともにしたものだがそれがわすれらてしまったのだ。馬が朝からいなないてその馬の時代を思い起こさせた。今日は雲雀が原で神旗争奪戦のハイライトである。

野馬追の朝いななくや暴れ馬

のうぜんや野馬追の旗延々と

野馬追や馬いななきて出番かな


標葉 小高 中ノ郷 北郷 宇多郷
標葉郷
(大熊・双葉・浪江町)
標葉郷出陣式
小高郷(小高町)
小高郷出陣式・火祭り・野馬懸
中ノ郷 (原町市)
雲雀が原/宵乗・競馬・旗取
北郷 (鹿島町)
総大将お出迎え・口上
宇多郷
(相馬市・新地町)
出陣式・総大将ご出陣



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ヨ-ロッパの旅の報告