時事問題の深層16
時事問題もありますがその時々の私的な日記です

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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一
私の研究メモ


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仙台のペデストリアンデッキ5月8日

自己責任は自分の心に納得すること 5月11日

物や情報の使用価値 (トヨタでの事故のことなど)5月15日

アフリカの悲惨(ス-ダンの難民問題) 5月17日

BOOKOFFでまた本買った 5月18日

一老ジャ-ナリストの死 5月28日

労働が疎外される現代(失った労働の喜び) 6月1日

インタ-ネットの不思議
(通信販売や魔術的錬金術的情報世界)
6月4日


ネットワ-キングと使用価値
(NHK景気回復は本物かを見て) 6月6日

発言が規制された2ちゃんねる 6月11日

フラワ-長井線で白鷹町へ 6月18日






仙台のペデストリアンデッキ



何カ月かぶりに仙台に行った、ペデストリアンデッキというのは高いから気持ちがいいのかもしれない、仙台には前は一週間に一回くらい行っていた。もちろん原町を基点にして電車が一時間おきに通っているのだから通っている人もいる。一時間十分くらいでつく。そんなに遠くはないが最近それほど魅力を感じなくなっていた。というのは本をほとんど買わなくなったからである。今日は東北関係の本を高いのを買った。みんなで一万以上買った。bookoffにいい古本があった。地域の本だったがこれをあとから買おうと思ってもう一回よったらなくなっていてがっかりした。地方からでた本でかなり貴重なのがある。地方の本は希少価値がある。なかなか売られていないからだ。そして思ったことは知識はあるとき仕入れないと永遠にそのことがわからずしまいになることがある。有名人の知識はどこにでもあるから接しやすいのだ。どこの本屋でも石原慎太郎の本は置いてある。その本自体みんながそんなに必要としているかどうかに関係なく置いてあるのだ。知識の場合は物と違い売れるから必要なものとは限らない、マイナ-ものこそ実際は必要な人にとってはあってほしいものであるから知識に関しては他の商売と同じにはならないからやはりインタ-ネットのような知識の共有を目指すのが理にかなっているのだ。ともかくある人にとって必要な知識は意外と探すのに苦労する。特に私の場合旅に明け暮れたからどうしてもその地域の情報が欲しいのだがある地域に関しての情報は本当にわかりにくいのだ。あとから調べるのにも苦労する、インタ-ネットで多少はに狭い地域の点の情報が入りやすくなったことは確かである。偶然青森の方を旅したときインタ-ネットで見たサイトは有効だった。
役屋の松というのがあり役屋というのは佐竹の殿様の狩猟の役をつとめる場だった。そこに松だけが忠節の証しのように残っていたのだ。それで見たこともないが想像して作った句がこれである。

一本の役屋の松や冬の暮(自作)

そんな松があったのかと感心したことや男鹿半島の気候は荒れやすく潮風の影響で紅葉にならないということが書いてあった、そして寒風山という名が心にしみたのである。三月で春はまだ遠く雪の世界だった。なぜここが寒風山という名がついたのかまさにここの気候条件にあったのだ。ナマハゲという祭りもあの荒い北の果の海ににあった祭りであった。何を意味しているのかわからないが北の寒々しい嵐の化身なのかもしれない、旅したとき実感して大事なのは地理感覚と気候である。これは体験の世界だからわかりにくいのだ。汽車の旅だと地理感覚はわからなくなる、坂をやっと上って隣の街に来たとかそうした地理感覚が欠落するのだ。

沖縄に7月の一番暑いときに行ったのであの猛暑を体験して沖縄がわかる。からからに喉がかわきそこに珊瑚の石垣の家がひっそりとその暑さをさけるように静まっている。そこにいかにも日に焼けた老人が氷水を売っていた。そこではいかに水が大事かわかる。井戸の水が枯れて波照間島では村がそっくり移動したりしている。今では水は大きな島から船ではなく水道管を海に通して水を運んでいる島もあった。船で運ぶとなるとこれも大変だった。飛島の話しでは魚などと交換に酒田から米を仕入れていた。これは物々交換だった。物々交換できな家がありそれらは酒田の米屋から借金して米を食べていた。米を食べることが島では簡単にできなかった。沖縄の旅でもそうだった。内地の米は米だけでオカズなくてもうまいんだよなと言っていた。沖縄の米は安い米を買うからうまくないのだ。沖縄では前は田んぼが結構あったが今はなくなっている。内地ですら減反なんだから米を作っても金にはならないから果物を作るようになっているのだろう。

こうしたちょっとした知識というか学問的なことでもなく人々の生活実感を知らないとまるでその地域のことがわからずしまいになってしまうのだ。それは旅したかいもないことになる。こういうことをちょっと旅したくらいでは聞き出せない、それで民俗学者聞き調べたものが役に立つのだ。つまりあの飛島に行ってもやけに小さい島だなくらいしか印象として残らないのだ。そこにアメリカ人の観光客が一人できていたが外人だったら余計にわからない、というよりまるっきりあの島についてはわからずじまいになる。私が外国旅行したときがそうだったようにまるでそこが何なのかわからずじまいになるのが多かったのだ。一人の人間に例えるなら必ずその人の生い立ちがあり過去があり現在がある、それを知ることがその人を語る礼儀なようにその土地についても同じなのである。

仙台はそれほど特徴がない街である。森の都といっても多少街路樹が緑でもそれほど緑があるわけでもない、広瀬川があり青葉城があるから自然と歴史はあるがそれほど歴史ある街とはいえない、前は良く広瀬川辺りまで歩いていた。青葉通りも歩いていたが今はほとんどそこまでも行かない、駅前だけで買い物だけだから用を足して終わりである。都会自体通りに街の中の小さい商店街には足を運ばず駅前の大きなデパ-トだけで用をすませてしまうようになる。大きな都会でも人が集中するところとしない所に別れてしまうのかもしれない、商店街の不便は一軒一軒出たり入ったりすることにある。それ自体が不便になってしまったのだ。一カ所になんでも集まると買い物は便利だからだ。特に外から来るものにはそうなってしまうのだ。

これは物だけではないのだ。情報もそうである。インタ-ネットでどれだけ調べられるか新本か古本買ったが全然違ったものがきたりつまらないものだったりほとんど効果なかったので今は買わない、知っているものはいいが全く立ち読みできないものは当て外れなものが来るのが多かった。つまり情報の摂取方法はランダムに興味あるもの拾い読みしたり関連づけたりすることが必要でありそれは一冊の本ではない本の一部のペ-ジにある場合が多いのだ。とするとインタ-ネットのペ-ジを検索する方法はそれにあたるがインタ-ネットの情報はある関連したものがまとまってあるわけではないから無駄が多すぎるのだ。本は立ち読みが絶対必要でありそれなくし本は買いないのだ。また一方効率的情報の集め方に本のペ-ジを拾い読みすることが必要なのだ。それは本の全文検索にあたる。そうなると一冊の本自体今は高価だから関連した情報を集めることはできないのである。

私が今回買いそこねた地域の本がそうだった。この本の問題はもしその本がないとしたら永遠にその知識をその人の体験を知らずに終わってしまうことなのである。そういう知識や人の体験談はかなりある。なぜかというとこれまで出したいい情報は本は古本とかに膨大にありそれはもはや集められないし知り得ない情報になっている。そんなに買いないしわからないのである。だからインタ-ネット時代、著作権というのは何か不都合なのである。これまで本にするには大変な労力がかかりコストが高すぎた。本を作り流通させるのに7、8割りががかかり一割が印税として作者の手に入るだけだった。ところがインタ-ネットになったら8割りかかった本作りや流通のコストは無料になる。としたらもっと安く流通してもいいはずだが以前として古本などにいいものがありそれは高かったり多すぎて知られずに終わるのが多いのである。インタ-ネットのいい点はこうしてし日記のようにすぐに体験したことを書けることである。


仙台のペデストリアンデッキ

仙台のペデストリアンデッキを人々の歩む
新緑の樹の風にそよぎ乙女の髪も風にそよぐ
初夏の日ざしが明るくふりそそぎ
若いエネルギ-がここに満ちるように
東北新幹線がそのスマ-トな車体を見せる
新しいデバ-トもできてそこに入る
沖縄の特産点店でマンゴ-の黒砂糖を買う
何カ月かぶりに都会の風にふれる
カ-ネ-ションの花が街角にかざられ
人々の行き来も盛んである
新しい本と古い本を手にとり買い
新しい知識を仕入れる
街もまた一つの生き物であろう
仙台から東北の四方に交通が伸びる
古代の多賀城が基点のように
すでに壺の碑(つぼのいしぶみ)に靺鞨国が視界にあり
伊達政宗の視界はさらに遠くヨ-ロッパまで到達していた
そのような雄図がいかに生まれしや
政宗の親書をたずさえてバチカンに日本の侍が
秀吉の命令で九州の名護屋城から朝鮮征伐に
家康とも渡り合う戦国武将の視野の広さであろうか
広瀬川の流れの瀬音、反る青葉城の石垣
仙台より商人も各地に広がる
わが町にも仙台屋とか多々あるはそのため
燕が飛び交い街はまた装いを新たにする
ここも若きものの学都でもある
物であれ情報であれ知識であれ技術であれ
それが集まる所が都である
人は都で視野を広くして発想を豊かにする
それが都会の役割である






自己責任は自分の心に納得すること

自己責任が問題になったけど自己責任を要求したり自ら自己責任を担うことは最高にむずかしい。自己責任はどういうことかというと事前に納得することである。あなたはイラクで死ぬかもしれませんがいいですか、あなたの仕事のために使命としてやるのは自由ですがそれで納得しますかということである。事前に9割くらい死ぬ確率があったら相当な覚悟と納得が心の中で葛藤をのりこえることが必要になってくる。だから自己責任は最高にむずかしい、そこまで自覚してやれた人はほとんどいない、例えば戦争でも若い人が特攻隊などで死んだけど死ぬことになんとかしかたないから納得させたけど本当は心から国のために犠牲になると納得した人はいない、若いから誰も死にたくないからだ。無理やり押しつけられた犠牲だった。それでも心の中でそれぞれ納得せざるをえない状況に追い込まれたのだ。犠牲になることは大変なことであり特に若い人だったらなおさらそうである。自分が死ぬという極限状況のなかで納得することは覚悟することは容易ではない、だから心から納得して死んだ人はいない、無理やり国のために死んでくれと納得させられたのだ。つまり犠牲になることはそれほど大変なことである。

だから慈善というのも犠牲が要求されるとしたら簡単にはできない、金持ちのお嬢さんが外国で金を恵んでいい気分になるような覚悟では本当の慈善はできないだろう。犠牲が要求されることに耐えられないからだ。自己責任が自ら納得することだとするとほとんどの人はできない、こんなことで何で死なねばならんのだとなるからだ。死ぬという極限の状態で人はいかに自らを納得させられるかこれは人間の最大の課題である。なぜ自爆テロなどできるのかこれもその行動だけをみているがどうしてそういうことができるのかという心の葛藤を知らねばならぬはずである。人間は行動だけを見ていたらわからない、死ぬ前には自分の心を納得させられるのか?その心を見ないとその行動もわからない、評価できないのだ。主キリストにしたってけ十字架を望んだわけでもないのである。そこでその前に「血の汗を流す」ほど悩み苦しんだのだからやはり一人間として俺はどうして十字架じて死なねばならぬのかということが納得できなかったから悩んだのである。ましてや普通の人だったらそう簡単に犠牲になる行動はできない、心から納得して死んでゆく、犠牲になることはできない、私自身にしても情けないがこの年になるまでできないということはまさに心で納得させることがいかにむずかしいかである。自己に心から納得して死地におもむくとか犠牲になるとか死ぬとかはそうした自己責任を持つことは最高にむずかしいことだから誰も自己責任をもって死地に行くことはできない、たいがい強制的にそうさせられているのが実情なのだ。

歴史上いろんな犠牲があったけどたいがい自ら納得して犠牲になったり死についた人は極々わずかであろう。だから自己責任で行動しろと言ってもそこまで自分を追い詰めて自己を納得させられる人はほんの一部の宗教者をのぞいてしかできなかったように思う。親鸞にしても妻帯したということに対する葛藤があった。つまりその頃妻帯することは僧にとってあらざるべきことだったのだ。だからそこに葛藤があり悩み自己を納得させる煩悶がありその心の葛藤が人間的でありかえって人を導くものとなった。でもその教えは今は全く違う、僧は妻帯してもかまわない、それが当然だ、なんの問題もないとなっている。妻帯して僧であることが当たり前であり疑問も感じないのである。だから今の僧侶は観光僧侶や葬式僧侶になっている。せめてなんらかの葛藤があっていいはずなのだがそんなものはない檀家の葬式を取り仕切るだけである。自分は悩んでいるけどどうしても煩悩を抑えられない罪深いものなのだということさえ感じないだろう。もし悩んだら檀家の僧侶になどなっていないからである。

行動がなんでも称賛されないのはそこに深い思想的背景がないからである。「うじうじ悩むなよ、行動が先だ、御国のために敵の艦隊につっこめ」とか言われ「ハイ、私は何も悩むことはありません、お国のために命を捧げます、なんの未練もありません、」とか言うのは全く心の葛藤がないから自分に嘘ついているのだ。なんから悩み生に未練があるのが普通だからだ。集団組織はこうした心の内面の葛藤を無視させるのだ。創価にしてもそうである。「権力奪取」と会合で叫び宗教って善とか心の修養とかそうしたものと関係あるんじゃないですかとか悩むとそんなことは悩む必要ない、すべては組織の命令に従うこと池田大作生き仏の命令に従うことが成仏することだですべては終わりでありあとは思考停止になるのだ。つまり天皇万歳、ヒットラ-万歳、池田万歳、金正日万歳、麻原万歳ですべて終わってしまうのである。ナチスにしても日本軍にしてもなぜ人を殺さねばならぬのかということを悩み葛藤していたら戦争にならないからだ。だから自衛隊の隊員も悩まない考えないようにしているというのはわかるのである。つまりロボットになるのが一番組織や団体にとっては都合いいことなのである。実際オ-ムでは電極がつけられ本物のロボットにされていた驚怖である。組織団体化は人間のロボット化なのだ。カルトもそうである。完全に思考が停止しているのだ。そういう所では悩みはじめたらきりないし結果的には反逆するようになることは確かであるから考えるなとなる。だから宗教団体でも戦争に積極的に賛成し戦争をすすめることもあるのだ。仏国土建設のためにポアせよと言われて悩まず実行したことでもわかる。殺人も簡単に教義化され正当化されるのがカルトである。思考停止しているのだから疑問を許さないのだからそうなるのである。

行動することがすべて称賛されるわけではない、「お前、戦地では人を殺すのは当たり前だ、悩まず殺せ」こうして悩まず殺したとしたらそれはロボットになるのだ。ロボットは命令どおりに人を殺すからである。ロボットも殺人ロボットにされる可能性があるから怖いのである。人間は心から自己責任で納得して行動した人は古来まれなのだ。強制的にか無謀だったのか考えなしだったかのどっちかである。今回のイラク人質事件は考えなし無謀だった。もし死ぬということが確実だったらそこまでしないし自らに納得させる自己責任は持ちえない、自己責任と政府も言うけどそもそも自己責任自体とんでもなくむずかしいものかわかっていないのである。自衛隊なども別に自己責任など関係なく国から強制的に行かされている。任務だから行くという割り切った考えであり深くは考えたくないと隊員が言っていたから自らの自己責任で納得して行ったわけではないのだ。つまり人間は思想と行動が一致することはまれなのだ。行動からみると大変なことを軽々とやっているように見えても自ら思想的に納得して行動している人はまれなのである。カルトとか組織集団はそれ自体が思考停止している、上の命令に従うことに機能化しているから問題がおきる。会社でもタイヤがはずれて危ないとわかっていても多大な損害が起きて会社が倒産しかねないとなれば会社、組織の維持が優先される。それは組織団体の維持には必要だからである。結局組織団体の維持が優先されてそれが悪でも個々が犠牲になってきたのが歴史だった。今回の人質事件は国のために迷惑かけても戦中のように犠牲にされたわけではない、国によって莫大な金を費やして救われたのである。だからあの戦争で犠牲になった若者とは正反対の幸福な人たちであった。日本では命は地球より重いと言ったように今の平和な時代は人間の命は重かったのである。一方あの戦争のときは命は余りにも軽すぎたのだ。戦争はそれほど人間の命を軽くしてしまうのだ。人間は戦争では鉄砲玉である。容赦なく鉄砲玉にされるのだ。そのギャップの大きさに驚くのである。



物や情報の使用価値

価値にはその物自体の価値があり使用価値とか交換価値がある。でも金があったとしてもそれがただ埋もれているだけならなんの価値もない、この世のものは使用されたとき価値がでてくる。使用されなければ価値がなかったものなのだ。交換価値はただ交換するための価値であり使用価値とは違う、この点昔のものは物自体貴重だから使用価値があった。椀にしても食器にしても着るものにしても親から子へとまで使っていたのだ。それだけ使われること自体その物の価値は高かった。物がそれだけ貴重だったのだ。今は使い捨てであり物の価値は低い、価値とか意味というのは人間自体計れないものなのだ。すべてに値段がついているから値段どおりの価値だと思っている。物が価値を生むのはいろんな要素があり計れないものがある。その物の価値を貨幣で世界で一様化すること自体に無理があった。それ自体非常に矛盾したものである。使用されたものには使用したものが価値がある。情報なんかこれは使用価値の方が高い、情報を提供する人がいるが実は情報は提供した人より利用した人、使用した人の方が価値がある。情報は多くの人に利用されれば価値がでてくる。インタ-ネットでは情報はカオスとなって噴出していてもこれをうまく利用されないならば価値は帯びてこないのだ。だからこうしたカオスの情報から編集して一つの情報世界を作る人は価値がある。うまく効果的に使用する人は価値があるのだ。

デジカメはそうだった。デジカメの利用方法としてパソコンをもっている人ともっていない人、またパソコンを通じてインタ-ネットなどでホ-ムペ-ジで写真を出している人ではかなりの差がある。パソコンを持ちそのデシカメでとった写真をホ-ムペ-ジにのせて日々更新している人は何十倍もの使用価値を作り出している。それは私自身が経験したからわかるのだ。3万円くらいでこれだけ使ったのだからその使用価値は20万円くらいになっている。今度また新しいのを買ったが実際これは安かった。パソコンは無駄なものが多すぎて損しすぎた。ソフトなんかもうまく使用できないのだ。その無駄が大きすぎた。実際一番役立ったのが「紙」というフリ-ソフトだったという皮肉である。他は何十万もして買ったが使いなかった。使用価値がゼロだった。パソコンのものは使用する方がむずかしいのだ。インタ-ネットの情報も使用する方がむずかしい。それなりのアイデアとか工夫とかその人なりのカスタム化が必要なのがパソコンなのだ。パソコンという機械自体がそうならそれを応用するインタ-ネットというのも実際これはカオスであり利用方法がわからないのだ。2ちゃんねるとかはその一つ方法として成功した。やはり速報性とか日々起こることの簡単な即時の人々の反応とか知りたいしマスコミだけでない鋭い指摘もする人がいるからだ。そして内部情報も意外と役に立つ場合がある。

創価学会の地区部長が、こんなこといってるぞ。

ちなみに今日の会合では
「年金なんかみんな払ってないんだからたいしたことじゃない。
こんなのは堂々とつっぱねればいい、神崎さんは辞める必要はない、
これにめげずに今後も選挙活動をがんばってください、
がんばればがんばっただけ福運がつくんです」と幹部が言ってました。
もううんざり。そんなこと言われたって恥ずかしくて
選挙なんか頼めるわけないだろ。アホらし〜。


どういうわけか創価の内部の情報が2ちゃんねるとかにもれてくる。創価はやたら福運、福運なのだ。犯罪犯そうが嘘付こうが税金ごまかそうが選挙で不正しようがとにかく福運なのである。罪とかそんなのは全然関係ない、福運とは商売が繁盛するとか現世利益があることなのだ。選挙はその最大の福運をつける仏法の戦いなのである。自分を折伏したものも議員になり大学まであげてもらったとかまさに公明の議員になったことが生活になったから福運なのだ。なんらかで家が傾き創価に頼り議員になったのである。だからすべてが創価の運動が生活そのものになっていた。創価ではだから会社がつぶれたりして悲惨な目にあってるやつは福運がないとなる。呪われているとなる。でもそういう人も相当いる。そういう不運な社会的底辺の人が最初支えたのだから福運と現世利益が強調された。いづれにしろこの話もいかに創価は四六時中選挙しか頭にないことかわかる。というより自分が活動してきたのは寝ても覚めても選挙のためだった。二年前から選挙の準備をしている。幽霊会員というのが何百万もいるのだ。座談会にもでてこない人である。それを起こすのが幹部の仕事なのだ。一票に結びつけるのが仕事なのである。創価は確かに数が多いのだがこうしたただ選挙のときだけ一票入れる入れてもらう会員が何百万もいるのである。数が多いとしても自由党だって500百万入るし票は別に宗教団体でなくてもそれくらい集まるのである。

今回2ちゃんねるでその他注目したのはトヨタの会社でプレスにはさまり二人死んだ事件だった。これは内容がこいものだった。経験者が語っているから具体的で訴えるものがあったのだ。そういう体験談が今までにあまり語られていないことなのだ。

朝起きたら、親父の指がなかった。包帯グルグル巻きにされてた。
2日後何事もなく仕事に行ってた。漢だと思った。

トヨタ方式ってのは安い人や物を使えるってのが前提だからな。
ヨーロッパが現地では衰退しているように見えても優雅なのは、
旧植民地に対する利権がすざまじいからであって、
それがない日本じゃ、いずれネズミ講の様に破綻するだろう

事故隠し多いし、過労死や自殺隠し更に多いし


みんながこんなに心配してくれていいよな〜
日産クラスの企業で同様の事故が発生しても
表に出ることはない (´・ω・`)ショボーン


でも良かったな犠牲者が社員で。一応組合や会社から弔慰金でるじゃん
これが期間工だったら周辺の期間工に香典急募の回覧がまわってくるだけ

ハードな仕事は見習社員や応援、期間工にやらせるのは普通
仕事はきつくなったのに、期間工の報酬はバブル前の2/3以下だからな
それでも職のない下層階級がいくらでもいるから安泰だね

中日新聞はスルー。
トヨタの決算でマンセー記事のみ。
さすがトヨタ新聞。偏りすぎ。

俺は数年前ヨタの期間工で稼がせてもらったけど、
期間工は事故起こすことはほぼない。
ライン止まったりしたら危険な所に行くのは正社員だから。
札なんてちゃちいのしか触らせてくれんし。
一年がまんすれば200万以上は貯金できるぞ。
部屋代ただだし。

報道がきちんとしてればこういう事故も防げるのにね。
大スポンサー様にはしっぽを振り続けなきゃならない宿命

車体工場なんか糞のする仕事。期間工が8割を占めていないと
機能しない職場じゃないか。期間工と言えば、ムショ帰りの奴
や住所不定の奴やらが一時的な身の置く場所として利用される
職。こんな糞のような奴らが働く、糞のような工場で、糞のよ
うにミンチとなって死んだこの社員はとても気の毒だ。

世界のトヨタに貢献するも……命まで落としちゃ意味ないわな


これは一部をとりだしたものだがこれを分析するとそれなりにこの問題の核心にせまることもできる。トヨタは大会社で一兆円ももうけたのだから社会にとっては大きな存在感のある会社である。だから中日新聞など地元の新聞でもこの事故のことは大きくとりあげないということがある。それから工場でも建設現場でも事故が起こりやすい、私も建設現場にちょっと働いたが慣れない人間は危険である。事故が起こしやすいのだ。それにしても指一本なくなってその次の日に工場にでているというのは驚きである。それほどの事故ではない、ひんぱんにありうる事故なのか、スリランカの労働者が指二本工場でなくしたというのもそのためかもしれん、保険がおりたからかなりの金をもらった。金をもらったのだからそんなにひどいとはいえないかもしれない、なぜならインドでは肝臓を売ってそれを資金にして事業やろうとしている人が結構いたからだ。
これにもう一つ関心を持ったのは期間工というものである。NHKで五所川原の大学卒業した人が就職先がないと応募したのである。青森は一番失業率が高いし不況の影響が大きいのだ。だからトヨタの期間工に出稼ぎに行く、出稼ぎの形態が変わった。大学卒でも出稼ぎになるのが今の社会である。フリ-タ-にもいろいろあるらしいがそうした期間工のような所で金をためる他ないかもしれない、これも現代社会の一断面を示している。期間工は今やムショ帰りだけのような人だけではないだろう。ただこれもここから情報不足になるからわからない、こうした発言のあとが詳しくつづかないのが2ちゃんねるなのだ。こうした体験談のあとにもっと深く詳しく追及することがないのである。一時の憂さ晴らしとか酒飲みのついでの話で終わってしまうのだ。つまりこの情報もインタ-ネットではうまく効果的に利用されていないのだ。だから2ちゃんねるでもインタ-ネットの情報は自分で分析したり編集したりしないと生きてこない、使用価値を高めないと生きてこないのである。だからインタ-ネットも効果的使用している人に価値があるのだ。情報をいかに活かすかそれがむずかしいからそうなるのである。

トヨタ.txt へのリンク

期間工の苦労話



アフリカの悲惨(ス-ダンの難民の記事)


チャド・バハイ(CNN) スーダン西部のダルフール地方で続く内戦を逃れて、隣国チャド北部に難民が流入している。伝えられることの少ないこの戦争は、今日の世界最大の人道危機と呼ばれている。

人口約900万人のチャドだが、医師はわずか271人しかいない。北部地域では、医者や看護師はおらず、基礎的な医薬品を出す資格がある医療技術者が1人いるだけだ。国際救援委員会のバルデラマ医師は基礎的な医療の穴を埋める努力を続けている。

生後わずか22日という赤ん坊の成長が止まり、老人のような顔をしている。バルデラマ医師は深刻な栄養失調と診断したが、最近設立された国際医療施設に搬送するには車で少なくとも5時間かかるという。(CNN)



ヌビアは14世紀頃までキリスト教王国があったんだよね。

イギリスに逆らうエジプト王国にはやりたくない。
旧仏領とは一緒にさせたくない。
エチオピア帝国に併合されるようなことは避けたい。
ハルトゥームのイスラム教徒はエジプト嫌いで独立する気まんまんだ。

このあたりが建国理由かと。

スーダンは原始キリスト教に近いけど、キリスト教徒の方が古くから住んでる。
新しくバラ撒かれているのはコーラン。・・・いや、やっぱり剣か。

政権を握ったイスラム教徒は社会主義化したから、反政府活動は
当然アメリカの援助ですね。



ス-ダンはエジプトのナイル川下りでその国境近くでヌビア人の船頭のフル-カ-という帆のつきの舟にのったので覚えていた。ヌビア人には前にもちょっと書いた。ヌビア人の歴史は古い、エジプト王朝に知られていたし黄金がとれてエジプトとにも影響及ぼしているのだから結構大きな勢力だった。ヌビア語も残っている。アフリカの歴史はそもそもわかりにくい、歴史そのものがあるのかもわからない、ただス-ダンがイスラム原理主義者が治める国となりビン・ラデンなどが入り込みテロリストの拠点となってしまった。それでアメリカが薬工場を爆撃した。化学兵器を作っているのではないかと疑われたのだ。ここもアフガニスタンのようにス-ダンという国がまとまり存在しているのかどうかわからない、こういう国は他国の干渉を受けやすいのだ。外国に食い荒らされる、特に資源があるとそうである。コンゴでもダイヤモンドがとれて内戦となったりス-ダンでも中国が石油利権でからみ勢力を延ばしているというのも時世である。アメリカが薬工場を爆撃した結果、薬が不足して子供2万人死んだとかそのあとも悲惨なのだ。そういうことはあまり報道されない、つまりアメリカ人はテロで3千人殺されたがその十倍くらい実質はすでに殺している。だからその底辺で反発が根強く残る。

アフリカは図のように外国の巨大な虫に食い荒されてしまう悲惨である。アフリカにもエチオピアがそうなようにキリスト教徒がいてそこにアラブ系のイスラム教徒が入り宗教的にも複雑である。部族同士の争いもありアフガニスタンとにているがアフガニスタンよりまとまりがない、国としての統一がないのだ。そうした政治的分裂、争いが飢餓とかを増大させている。その点イラクはもともと石油も豊富だし豊かな国だった。ス-ダンとかアフリカの方が実際は悲惨である。結局こうした弱小国は強国に干渉されて誰の国なのかさえわからなくなる。その内部でさえ部族争いと宗教争いとか入り乱れて統一がないのだ。だから巨大な外国の虫に食い荒らされる。カンボジアもそうである。ベトナムは一時侵入したりタイが入って来たり中国人がネテル経営したり経済も外国人がにぎっていて不満が大きいからあるときタイ人を襲ったりしている。外国人が経済であれ軍事であれ干渉して介入してくると国が乱れるから危険である。日本も今や不景気でアメリカ資本に牛耳られているから国自体が外国にのっとられるとか危機感を抱く人もいる。これはアメリカ寄りすぎる小泉の政策の結果だと批判している。アメリカ的弱肉強食の世界を作り出している。これも弱小国をみるとそういえる。日本も明治維新とか敗戦のときそうなる可能性があった。大国により国が分断されかねなかった。それが幸運と日本の力で分断されず統一が保たれ発展したのである。

ス-ダンのことは考えても普通ここはわからない、情報不足になる。それにしても人口約900万人のチャドだが、医師はわずか271人にしかいないというのは驚きだ。医者がいないと同じであり医者無しの国と同じである。こうしたとき数字の方がインパクトを与える。そんな国があること自体いかに格差があるか一目瞭然だからだ。まさに原始時代とたいした変わらない世界が未だにあることの驚きである。アフリカと中東も一つづきでありこれらが世界的政治不安をもたらししているのだ。テロリストになるのも多いからだ。イスラム原理主義者と結びつきやすい環境にあるからだ。

今回をこれを書いたのはCGを見てス-ダンもこんなふうだなとひらめいた。あの絵はリアルである。それも中学生が書いたとなるとこの分野では才能ある人が若い人から出ていることがわかる。まさに毒々しい巨大な外国虫が一本の樹にとまりにらみあい食い荒らそうとしている。それが世界情勢なのかもしれない、あのCGは実に優れている。CGの世界は新しい芸術分野であり可能性が大きいのだ。私自身も合成写真やっているから絵の才能なくてもそれなりに写真加工すると芸術品になったりするからまさにartは技術であったことを実感するのがパソコンであった。歴史的にエジプトのピラミッドの文化とアラブのイスラム文化関係ないようだけど例えばピラミッドの四隅にミナレットを建てるとあれはオベリスクになるから建築的には連続性があるかもしれんよ、誰かCGで作ってくれればなるほどと思うだろう。

入賞作品
http://www3.saga-ed.jp/school/edq13452/nyusyosakuhin.html

ヌビア人との出会い(時事問題)



BOOKOFFでまた本を買った

相馬のbookoffでまた本とビデオなど買った。「ベジタリアンの文化誌」とかこれは変わった本である。内容もさっとみて面白い感じだ。本というのは今までも地方ではふれられないものが相当数ある。こんな本があったのかという驚きである。本にはそういうのが多いのだ。というのは地方では本は本の一部しかまわってこない、並べてもいない。売れないから置かなかったのである。それがbookoffに流れてきているのだ。だからこんな変わった本があったのかと驚くのだ。本は本当にほんの一部しかふれられないものだった。それがほとんど百円とかになっているのも驚く、これは稀少な本だから定価2千円になっている。本というのはこのように非常に非効率的なものである。そもそも人は何かを訴えたいものをもっている。それを伝える一つが本にすぎなかったのだ。だから柳田国男は口碑を重んじて旅をして民俗学を起こした。人は必ず伝えたいものがあるが現代だって本で伝えられたものはほんの一部にすぎなかった。本は何かを伝えるのには不便なものだから庶民の伝達手段にはならなかった。ある大きな組織とか選ばれたものの宣伝機関になっていた。ただ本には様々なものがあるし多様な面はテレビとかよりはあった。だからこんな本があったのかと驚くのがかなりあるのだ。それらはたいして売れなかったとしても貴重なものがある。つまりメデアとはあくまでも仲介するという意味であり人々の伝達したいものを中継ぎするという役目だった。ところがメデアはそのメデアを持つことで自分たちのいいように編集して大衆に宣伝する機関となってしまった。大手の出版社などもそうである。そこにはコマ-シャリズムが先行する。みんな売ってもうけようとする。ベストセラ-を出して過度に宣伝して売ろうとする。それは民俗学という分野で考えるとおかしいことである。人間はその暮らしの智恵を子供やその他村の人に残そうとする。それは別に商業主義でもうけようとかする心からではない、村に暮らすものとしての勤めであり極自然な行為だったのだ。

そもそもジャ-ナリズムは何かを伝いたいということがあり発生したのでありそこには最初それでもうけようとか一発あてようとかそうした商業主義はなかった。歴史を伝えるのはそれが自発的であり伝えねばならぬ使命感みたいなものがあり代々伝えられたものである。もともと人間には誰にも他人に伝えたいものがある。それは極身近なものにしか伝えられなかった。本に出すとかマスコミに出る人は限られているからだ。それはつまらない面白くないことでもあるかもしれない、一方マスコミでは大勢にみてもらうために「そんなありきたりのおもしろくないものじゃ、注目されないから誰も見ないから放送しないよ、面白くするために刺激的にするにはここを誇張するのも手だな・・」とかなりやらせになった。マスコミにはそういうことが事実あったのだ。そうなりやすいメデアだったのだ。メデアは単に仲介するものではない、何を放送するか出すかはメデアによって決められる、これは金になりそうだとなれば出すかもしれないがこんなの出しても売れないとか視聴率がとれないとかなれば出さないのである。出すときもそのままではなくメデアによって編集されメデアの意図が加わり出されるのだ。その極端なのがやらせだった。つまりこういうふうになりやすいメデアであったのだ。

インタ-ネットというメデアはマスコミとは全然違う、メデアを出版社であれ新聞社であれテレビなどのメデアを通さない直接の個人から語ることがそのまま出てしまうメデアである。そういう商業主義の操作とか視聴率も多少読まれないと困るが気にしないで出せるから今までにない情報が出てきて驚くことがあるのだ。個々人の語りの世界がインタ-ネットでできるのである。それは別に面白くないから今までのメデアでは出せないものであっても出せるのだ。その辺がかなり本来非商業主義の自発的なものである、ボランティアから発したインタ-ネットの情報は今までのマスコミとはかなり違っている。もちろんマスコミにはマスコミの使命がマスコミにしかできないことがかなりある。個人では外国まで行って取材などできない、大がかりなことができないのだ。やはり外国の取材となると大変だからできない、でも個々人が旅行した体験談の中にも情報はでてくる。だから外国のホテルの情報をインタ-ネットで調べ本にした人が著作権違反になった。情報というのは専門家のジャ-ナリストだけではない、一般の人も情報をもちうるし伝えるものをもっているのだ。

いづれにしろ本の歴史は長いからいろいろそれにまつわるものは伝説にさえなっている。本というのは知識の中心をしめていたからだ。その中に非常に変わった本もあった。ただ本というのはどんなに個人が集めたとしてもほんの一部しか集められないものなのだ。その知識にしてもそうである。本として蓄積されてきたから実際は古本にいいものがあるのだ。第一インタ-ネットはここ5年くらいが歴史なのだ。それもみんながホ-ムペ-ジを出すようになったのは2000年からではないか、私そうだった。とすると実際は三年くらいしか歴史がないからその蓄積もないのである。それでも相当な知識があることに驚くのだ。例えばなぜ自分の町にも「大学」という地名があり阿武隈の山の中の鄙びた村の橋が「大学橋」とついているのか、大学という地名はかなりある。江戸時代の漢学は「孝経」と「大学」が好んで用いられたと今日買ってきた「江戸時代の教育」R.Pド-ア著に書いてあった。外人が書いたことも変わっている。こんな本があること自体不思議であるしなかなか手にとる、それも買うというまではいかない本だろう。これが百円くらいなのは驚く、持ち主の名前まで書いてあった。こうした本を素読して学んでいた子供がいたのか寺子屋みたいなのがあったのかわからないが大学という地名が結構あるみたいなのだ。そんな山奥まで大学を学んでいたのか不思議である。本というのは学術書にしても雑誌にしても膨大なものがある。インタ-ネットにはそのほんの一部しかでていないのだ。だから学術関係になると非常に知識の層が薄いのである。

ともかく今や知識は情報はインタ-ネットで大変な変革をせまられている。本来の無償の語りとか本来の伝達したいことを伝達するということに変わってゆく、マスコミとか出版とか書店はその役目をはたしえない、その時代の変化の一つとして必然的に現れたのがbookoffなのだ。つまり今まで流通しなかった目にふれることもできなかった本が見れるだけでなく買えるという不思議である。だからそうした学術書を安いのを集めると書庫ができてしまうしそうしたことができるのだ。個人の書庫が図書館ができるのである。別に今や学術書が文学書が百円で売られていた作家にとってはこれは安売りでたえられないと言っているが百円でもそれを買う人がいるということに感謝すべき時代なのだ。読まれることはありがたいことなのだ。そうしたむずかしいものは読む人が少ないしそうしたものを読む人は志の高い知的レベルの高い人であり尊重すべき人なのだ。無料でも聖書とかその他の古典は読まれることはいいことなのだ。元来そうしたものはもうけるためには存在していない、読まれて教養豊かな人になることが目的なのである。だから百円で売られて読まれることはいいことなのだ。もし高くて買いないくて読めなかったとするなら貧乏で上の学校に行けなかったことを今でも嘆いている人たちがいっぱいいる老人がいることを知るべきである。尋常小学校くらいでみんな終わっているからだ。インタ-ネットではアクセスしてくれる、読んで価値を認めてくれる人の方が価値があるから歓迎されるから「私のホ-ムペ-ジを読んでくれてありがとう」と礼を言っているのだ。そういう奇妙な時代になったというよりこれが本来の知識とか情報とかのあり方であったともいえる。知識はそもそも秘匿すべきものではなく広く流通して人々を賢くするべきものだったからだ。

その最たるものが聖書が直接読めなかった時代があった、そうした中世の長い時代があった。聖書に鍵がかけられていたのだ。肝心の聖書すら読めなかったのだ。それがグ-テンベルグの印刷機でルタ-が翻訳して万人に読めるよにうなったのである。それが宗教改革につながったのだ。そうした改革がインタ-ネットにはあるのだ。情報は知識は広くそれも本当は無料で無償で伝達されるべき性質のものだったのである。別に百円だからといっても芸能人が出している本ではない、学術書も百円なのである。そしたら百円なら買って読んで勉強してみるかという人がでてくれば知識の向上につながるのだ。それはいいことなのである。ただこれも今しばらくの繁栄かもしれない、次々に古本でも供給されないとなりたたないからだ。そうした本がなくなるとインタ-ネットに出されるとなくなってしまう可能性があるから一時的なビジネスとして終わるかもしれない、それでもこれは時代の要請によって自動車社会はコンビニを生んだように必然的に生まれたものだからこれが悪いとはいえないのである。
それにしても今日買った本は「ベジタリアンの文化誌」「江戸時代の教育」「ネティズンの時代」それにビデオのアニメの「アトランティス」スタ-ウオ-ズの特撮の裏側とか非売品のビデオでこれは百円だった。前のは2千円だから一番高かった。あとは百円というのはこれは本の値段とはいえない、本をまわし読むという感覚である。

インタ-ネット時代には一冊の本を作り出すということはない、普通一冊の本も出さずに終わるのが出版の世界である。何か話題性がないかぎり本は出せないものである。インタ-ネットは本を出しているのではない、放送しているというのがあっている、本に金を払うのではなく本人が放送しているそれを見ている人が金を払うのだからやはり放送権料を払うというのがいいのかもしれない、現実一カ月二回元新聞記者の人がメルマガしてカンパしている人がいた。余りに少ないが一年間契約で払うとかになる。一冊の本を売っているのではないから一年間の放送権料をとるということになる。でもそれだけのものを出しつづけられるのかというと個人では苦しい面がある。本ではないから放送権をもっているからそれに対して金を払うという形式がインタ-ネット時代の金のとり方になるのだろう。


しかし前にBOOKOFFに2800円と600円の本(新しいよ)持ってって 二つで20円といわれた時は、目が点になりました。
誰が売るかー、このやろう!回収業者に回したほうがまし、と思ったよ



自分も本整理したいものがかなりあるけどbookoffに売るのには抵抗ある。もう一つは本はインタ-ネットで書くようになってから引用するために置いてある。全部読むのじゃなくて今じゃ一部分をキ−ワ−ドで関連するものを読む、というのは年とともに読書力がなくなるんだよ。人生は皮肉だよ、若いときは金がないから本を買いないとなり金の余裕ができたら実際は本など買いるのだか読むエネルギ-がなくなってくるのだ。若いときは金がなくても何もなくても若さとか体力とかこれが最高の資産なんだよ、外国旅行だって自分がパックパッカ-したけど自分には辛かった。若さはそれだけで大きな資産なんだがこれもすぐに使い果たされる。若いときは無駄が多すぎるのだ。自分が買った本は手放したくないということもある。書物愛、所蔵愛みたいなものが生じてくる。これも本というのが物として残るからである。本当はその中味が情報が大事なんだけど本は物としてあるからそうなるんだな、でもいくら本を集めたって人間読める本は限られているからつまらない本は読まない方がいい、これも人生の相当な無駄である。






一老ジャ-ナリストの死
(その自己責任と意味)

「人間はパンのみにて生きるにあらず」というとき何も宗教的なことだけではない、人間はどういうわけか死んだとき不思議にその人の生の意味が問われる。それまでは金のためだとか生活のためだとか何か理由がわからなくても人間は食うために生きている、食うことにせまられて生きている。だからとりだてて何で生きているのかなど問わない、金になればいいし金をもうけているやつがうまくやっているとか、すべて金で計られる、しかし死に際しては違う、その人がどれだけの財産を残そうがその財産は別にその人の生の意味を残しているわけではない、今回のジャ-ナリストの死も戦場カメラマンだったという、その生涯を戦場カメラマンとして過ごした。私はこの人についていかなる人か何をしてきた人か知らない、今突然知ろうとしても一人の人間のことは知り得ないのだ。ただ不思議なのは人間が死んだときはその人の人生の意味とか何を追及してきたのかとか純粋にその意味が問われる。もうその人がどれだけの金をもうけたとか月収がいくらだったとか財産を残したとか立派な家に住んでいるとか関係なくそうした物的なもをのぞいて意味だけが問われる。

「人間はパンのみにて生きるにあらず」というとき日頃はみんな訳もわからず生活のために働くことを強いられている。人生に何の意味があるかなど考えない、ただ死んだときどんな人でもこの人は何を求め何を追及したきたのかと意味だけが問われる。その一生の意味だけが問われる。食うために危険なところにも行ったのかそれとも何か戦場から伝いたいものがあったのかそれが問われている。不思議に死んだ後もこの人がいくら金になったとかそんなことよりどういう意味ある仕事をしたのか問われる。若いこの人の甥はそういう意味の探求上で死んだからその意味もあまり問われない、意味を追及する前の無念の死となった。ジャ-ナリストになぜこれだけ関心があるのかインタ-ネット時代一億総ジャ-ナリストになっているからだろう。みんな何かを伝いたいことがある。その伝いたいものが何であったのか?それが今回の一老ジャ-ナリストの死だった。しかしそれを探求するのも大変である。一人の人間の意味を問うこと自体大変な労力がいる。ただ死んだとき問われるのはその人生の意味でありその仕事の意味でありそれ自体に価値があったことが判明する。死んだ時点で収入がどうだこうだとか問題にならない、純粋に意味だけが問われるしその人の価値はその生きる意味にあったことが判明する。だから金だけにパンだけに生きる人はなんら意味のない人生を送ったことが死んだ時判明するのだ。つまり
「まず神の国と神の義とを求めなさい」 というのは人生の意味をまず求めなさいということでありそれが先にあって日々のパンがあるのだ。これが逆になっているから死んだときはじめてその意味がわかるのだ。意味だけしか問われていないということが判明するしそれがその人の人生の価値だたったのだ。

(まずお金だ、そうすれば私は病人を見舞うことができる、まずお金を、お金のあとに徳を(意味、価値)を、神の国は最後にようやくやってくる」(キケルゴ-ル)

人間の生きる意味とか価値は死んだとき最後に判明する。それまでは金、金、金が人間の生活なのだ。

靖国問題がなぜこれほど問題になるのか?戦死者を英霊として祀るか祀らないかはその死の意味だけが今や問われているからだ。その時全然ただ赤紙が来たから戦争に行かざるをえない、行かねば村に住んでいられないとか強制的に意味もわからずに戦争にかりだされた人が大半であった。ただ「オレは靖国に国の英霊として神として祀られるから行く」という約束のようなものを信じて戦場に散った人達もいた。なぜ日本人がこれほどまでに靖国にこだわるのかそれは今はただその戦死した意味だけが問われているからだ。ところが戦争した人は別にその時戦争の意味など深く考えずに戦地に行ったのである。ところが一旦戦争が終わり多くの人が死んだあと一体あの戦争は何だったんだろうとその意味だけが追及されているしそれが問題の要になっているのだ。いづれにしろ今回は誰も自己責任とか責める人もいなかった。それなりに意味を戦場カメラマンとしてのキャリアがそうしたのかでもその死に同情しないという人はいた。自己責任だからとなる。でもその自己責任も例えばヒマラヤ登山で死んだ人がいる、それは自己責任だから政府もかまわないしその死体の処置はその本人や仲間たちですることになる。現実ヒマラヤにはそうした死体がごろごろしているという。あそこから死体をもってくることは容易ではないからだ。

今回のイラクのジャ-ナリストの死体をもってくるには結構な費用がかかるのか、政府がなんらかかかわらざるをえないだろう。すると登山での自己責任とは違うのである。国民の税金が多少払われるたり政府もかかわらざるをえないから政府では危険地帯に行くなと言っていた。それを犯して行った、その理由は戦場を実際に見て伝えねばならぬものがあるという使命感というか意味なのだ。それは日本国民に「俺たちジャ-ナリストが伝えねばならぬものがある、だから俺たちは危険を犯してまで行くのだ」国民も戦争の何かを彼らジャ-ナリストが伝えるものの意味を知らなければその意味を認めさせたいのだ。では国民ははたしてそれだけの意味を感じるのかそこが問題になるから登山とは違う。彼らは自己責任といっても国民全体にその報道の意義を問うている。俺たちは必死で戦争を伝えているんだ、だから国民も応援せねばならぬとなる。NGOでも海外援助にたずさわる人はそうしたことで応援を募金を求めているから自己責任だと言っても他の人もその仕事にまきこむのだから彼ら自身の自己責任だけでかたずかないのである。もし今度も人質になったらどうなるのか、やはり登山とは違い政府も放っておくけにはいかない、また莫大な金を費やすことにもなる。そこが自己責任といっても登山とはかなり違ったものでありむずかしいのだ。

この時事問題もずいぶん連続して書いたので疲れたので休んだ。自己責任はつづきで発言したのでまた書いた。



労働が疎外される現代(失った労働の喜び)

現代は何かを知るとき例えばなぜマルクスの理論がまるで宗教のように世界を洗脳したのか、なぜそれほど一思想家のマルクスが世界に影響手きたのか?それはやはり彼が唱えた思想がそれなりにこの世界の矛盾を指摘したからこれが幻想を生んだのだ。それは何かというと人間が商品化する、あらゆるものが世界市場化して商品化するということであり労働が疎外されるとか彼の理論はそれなりに世界の共感を得たということなのだ。経済学部を一応でたけど全然勉強しないから詳しくは語れない、でも人間そのものまでが商品化、市場化される、それが労働の疎外でありグロ-バリゼ-ションの世界の矛盾が現代の世界の混乱をもたらしたことは確かである。イスラムの問題も世界のグロ-バリゼ-ション、市場化というなかで富めるものと貧乏なものの対立の構図のなかで起きている。カンボジアなどは貧困で少女が5ドルで買春されているとかあらゆるものが商品化される。「売るものがないのか、体で売れ」と買うものが増える、欲望が拡大すると売るものが必要になるが売るものがないものは体まで売らざるをえなくなる。マルクスの理論はそういうことでは的を得ていたし現代の矛盾を鋭く追及したから普及したのだ。それが失敗したのは人間の本質は変わらなかったからである。社会主義という体制になろうが民主主義になろうが人間の本性は欲望の追及であり権力の追及である。組織化自体すでに権力のヒエラルキ-を階層を作ることであり人はそこで必死に上に権力をえるために争うことになる。これはオ-ムでも幹部になりたくて殺人まで犯していたという驚きである。組織のなかで上に上がるためあんなことまでするという驚きであった。組織とは会社でも国でも宗教団体でもそうである。組織化すればすでにそこは権力志向なのである。創価にしても軍隊組織になっていたし階級制なのだ。北朝鮮も中国もまた階級社会である。幹部になれば利権があり上にたって威張ることができるのだ。組織化は権力志向であり組織化は必然的に人間を非人間化するのだ。これは「誹謗と瞑想」上野霄里著を読んでなるほどとわかったのだ。あれは名著であるが書店にないのである。なぜわかったかというとまさに創価で組織の駒となって活動していたからわかったのである。

マルクスの理論で労働を一番大事なものとしたことは人間を深く洞察していた。労働こそ人間が人間たるものであるということを示した。それは正しいことだった。「働かざるもの食うべからず」これも正しいことであった。その労働自体が商品化され疎外されることが現代の問題であり今でもその解決方法はない、確かに現代は物が豊かにある。でも労働自体で生の充実感をもっている人は非常に少ない、労働が人生の実りそのものであり労働にこそ人生があるとしたときその労働が実りとならないならば人生はつまらないとなる。物の豊かさだけでなく労働そのものに生きがいがないとしたら人間の生は充実しない、その点江戸時代の方が貧乏でも物が不足していても職人はその作るものに自ら作り出す喜びをもっていた。だから櫛一本までその人の名前がついていて誰々の櫛として重宝された。今の時代に個人の名前の付いた商品などないのだ。江戸時代の方が農民だって貧しいとしても労働に喜びをもっていた。それは芸能を見ればわかる。田植え歌や踊りやそうした民俗芸能は労働の中から生まれたし万葉時代だって労働を基にした歌が多い。今の芸能は芸能人が商品として提供ししているから民衆の文化とは言い難い、商品化された生産するものと消費するものとにすべて別れているのだ。江戸時代はこれが一体化していた。消費と生産は別物ではない、それも生産することに重点が置かれていた。ばあちゃんが炉端で昔話を子供に語る方が豊かな文化でもあったのだ。それは商品として売るとか関係ない、文化の伝承として勤めのようにやっていたのである。例えばいたるところで和紙がつくられていた。その和紙もその土地の名でてブランド化していた。そしてその生産はその土地の木とか水とかその土地の自然から生まれていたから健全であった。江戸時代はある意味で今からするとかえって人間本来の生活があったのだ。そこに極端な商品化、それも世界的な商品化などなかったのであり自給自足的経済が基本だったのである。いづれにしろすべての商品化される、市場化され労働が疎外されるというのが現代であった。人間が今まともな人間になるのには上野霄里氏のように他のアウトサイダ-のように社会から離れねばならぬというのはそうした人間そのものが商品化されるからである。あなたは商品的価値がないですとなれば本も出せないしまた精神的なものも商品化市場化されるのだ。主キリストが聖なる場で商売するなと怒ったことは今でもあてはまるしまたマルクスの主な論点もこの労働の疎外論にあったことは確かである。

いづれにしろそもそも労働が疎外されるということは労働が呪いとなったのは人間の罪のためだった。アダムが神の戒めを破り罪を犯したとき労働は呪いとなった。苦しみとなった。カインがはじめて兄弟を殺して殺人を犯したとき逃れた地がノドであり意味は動揺である。そこは絶えず動揺している、神の御意にかなわない地だから動揺している。

創 4:12
 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。


まさに人間は地上をさまようもの、さすらう者となった。それが都会の始まりである。都会はさすらう、よりどころのないもの、大地から故郷から切り離された呪われたものが住む場所だった。都会はだから今も犯罪の巣窟である。カインの末裔が住む所なのだ。そこには神が与えた正常な感覚が身につかない、異常な世界なのだ。このようにそもそも労働が疎外されるようになったのはアダムからだとすると罪の結果労働が神の御意にかなうものではなくなったのだ。罪のない労働それは喜び意外のなにものでもない、日々喜びのなかに生きていた。それは単純な大地と自然の密着したなかの生活にあった。だから文明人からみてルソ-が見たように原始的な生活している人が不幸とは限らない、文明人から計れない尺度がそれぞれの文化にあった。だから原始人や江戸時代の人がみな貧乏で不幸だったとはいえないのだ。その顔は現代人より和やかで穏やかで悩みが少なかったことは確かである。現代文明人が社会から分離しないとまともになれないということがそれを一番物語っているのだ。
文化とはculture(耕す)であり文明とはグロ-バリゼ-ションは土地から離れることである。飛行機とか汽車とか自動車とか輸送手段の発達が文明である。それが世界の商品化市場化になった。結果的にはそれぞれ固有の土地の文化から離脱すること、都会化することでありそれはカインのように地上をさまようものとなりそれが不幸なのである。グロ-バリゼ-ションとはその土地土地に独自に育まれた文化を破壊することなのだ。文化の最たるものその国の農業である。農業が文明によって一番破壊されていることがそのことを一番示している。工業は文明であり農業は文化であるから農業と工業と同一に語れないし同じ政策をとることは良くないのである。

労働の喜び

一つ一つブロックを積み重ねるように
荘厳な神の宮居を大地の上に築き上げる
その礎は固く堅実なる労働はここに実る
我々が目指すのは堅実さ、壮健さ、調和だ
その労働の汗は尊くここに実る
私の心にやましさのなく糧は得られる
ここは神に祝福された大地なのだ
神があらかじめ備えたもう大地なのだ
豊かな実りはここに約束されているのだ
我等はみな神の宮居を築く働き手だ
知識の殿堂を作ることもまたその一つ
様々な職がありそれは神の宮居を作るにある
花々は開き日は照らし神の国を飾る
大地の上に我々の充実の日々がある
労働の喜びはここに自ずから沸き上がる
労働そのものが喜びとならねばならぬ
神の御意にかなう労働は喜びがともなう
それは堅実であり壮健であり自然と共に
人は日々倦むことなく働く
労働が苦となりしは罪なるゆえ
罪なき労働は常に喜びに満ちて倦むことを知らない
人はそれぞれに仕事が与えられている


今は田舎でもこうした労働の喜びがない、まず北朝鮮から帰った拉致家族の子供がなぜ田んぼに人がいないのかと聞いた。それもそうなのだ。人が田んぼにいない、昔は田畑に人が働いていた。今は機械でやっている。山の中の小さな田までトラクタ-で耕している。機械の方が高くつく、機械に金をかけてつぶれた農家もいる。今は老人農業だから機械に頼っている。だから農家にも労働の喜びがない、一方昔は若い人が田畑にいて中心にいたからそこから万葉の恋の歌でも民謡も生まれた。今でも遅れた外国の農村地帯に行くと農村の中心は若者なのである。だからそこから歌や踊りも生まれたのだ。それが普通の健全な社会だったのだ。




インタ-ネットの不思議
(通信販売や魔術的錬金術的情報世界)

今インタ-ネットで起きていることは不思議なことである。通信販売というのも不思議なのものである。注文してボタンを押せば品物が届いている。相手は誰かわからない、近くの電器店では説明してくれたのがおばさんで娘もデジカメ使っていますよ・・・とか話すとこの人娘を持っている女性で働いている。田舎であれば近くの漁師の家の女性が石鰈など売りにくるが同級生だから買うとか地縁、血縁とかのつながりがあり商売もそうした地縁とか血縁とかなんらかの人間的関係で成り立つ傾向がある。ある人が言うには田舎じゃ一カ所の店にだけ行けないんだよみんな見ているから公平によその店にも行かなきゃならないから自由がないとか言っていた。地縁血縁から離れないと商売はできないことがある。無縁の場所、神社などが商売のやりとりに使われたとか、一旦無縁の場所がないと商売がなりたたないとかというのは本当だろう。というのは昔の村だったらもっと濃厚な人間関係にあったから今のような商売だけに割り切ることなどできないのだ。村とか小さな町では商売してもうけたりするとうとまれる。村で炭焼きして町に炭を売りしてもうけたりしてもその人は村人からねたまれたりうとまれる。田舎に呉服を売りに来た人はその村の娘と仲よくなり結婚するかというとならない、村はよそ者の入りにくい所だった。都会は商売のしやすい所だった。しかしここでさえ人間が生身の人間が売りにきていたのだから人間的になる。

でもインタ-ネットの通信販売はその人さえ見えない、買ったからといって喜んでいる顔も見えないし買ってありがとうとかもない、ただ品物が来るだけである。それはある意味で今までにない魔術的世界の中にある。技術そのものが錬金術のように魔術的要素が常にあったのだ。科学の発見もそうである。科学者が現代の呪術師とか魔術師になっている。科学者が現代の司祭になっていることでもわかる。科学が全能の神のように思っている、現代起きていることの不思議はインタ-ネットのチャットで子供が殺人を犯したということなどこれも不可解な事件である。インタ-ネットが関係していたのか因果関係はわからないが現代の環境がそうしたのか不明だが理解できないことが常に起きてくる。この場合は相手が知っている仲良しなのだから匿名でやりとりして問題を起こすインタ-ネットとは違う。でも悪口を言いやすいということは関係していたのかもしれない、未熟な人にとってインタ-ネットは危険性があることは確かである。この道具の使い方がわからないのだ。2ちゃんねるでソフトを使わないで二年間もやっていてうまくいかなかったように使い方がわからないといつまでも不便のままだったり問題を起こすのである。ニフティでは一つの親密なコミニュティ感覚があり必ず親切に教える人がいたのである。インタ-ネットではいないのだ。案内する人もいないのだ。だからかえって自由な発言の場になっている。ニフティではちょっとしたことでいさかいとなりその場にいづらくなるから論争するには向いていなかったのだ。一カ所だけ思想の場だけ自由な発言が許されているから裁判ざたにまでなった。思想の場そうなりやすいから怖いのだ。

マスコミの報道は一方的に報道され一方的に聞いて見ているだけでありそれに反論したり疑問をさしはさんだりすることもできなかった。インタ-ネットは逆に絶えざる反論や議論の応酬なのだ。ただ深く議論の応酬する場は少ないし人も少ない、でも絶えず批判と議論と罵倒の応酬なのだ。そして相手は誰か姿も見えないのである。それでもやはり何か重要なことが語られそれなりに知的に情報的に刺激を受けて世の中の動きがここにも反映されているのだ。ただこれを理解することは非常にむずかしい世界である。2ちゃんねるがその象徴であった。そこに語られていることはまさにカオスである。様々な問題が絶え間なく語られ消えてゆく、それでもその中に生の人間の生きた声があるのだ。これを読み取ることもむずかしいが貴重な体験談がでてくるときがある。


今は飯食わなくなったんやのう。
昔の山林作業では、五合入る弁当が当たり前だったが。
後川船を上流まで曳く人は、一日一升食ってたがなあ



この発言の驚きは実際に船を引いて経験のある人がいたことである。
土方弁当とか今の厚さが倍もある大きな弁当だった。「船引」という地名が多いが船を引いて生活していた人がかなりいた。川の交通として船が使われていたからだ。農家の人が手間賃稼ぎにやっていたのだ。これは短い発言なのだがここに体験の重みがある。こんな人本当にいかのかという驚きだった。ただこれはレスもないし誰かその後はわからない、もしもっとこの人のことが聞ければ実感として船引の地名の意味がわかるのだ。インタ-ネットはこういう体験談がでている、これが貴重なのである。ただこれもなかなかわからないから困るのだ。2ちゃんねるは読みやすいからさ-と読んでいる。でもこうした年配の人の体験談はほとんどでてこない、これが問題なのだ。

他にも様々な話がある、モンゴルの話では犬が糞を食うというから驚きだ。草原には糞が多いというのも確かだろう。糞が燃料になったりもししている。糞転がしなどもいたりインドでも牛の糞は家の材料になったり燃料になったりと利用されている。向こうにはまだ野犬などいるから怖い。犬といえば古代の研究していたら古代の日本の最も古い郡とか郷をのせた記録に「辛犬郷」というのがあった。これは武蔵国だから関東である。ここにはかなりの渡来人が入ってきて開拓した。その頃は確かに犬まで俺は韓(から)の犬だよ、日本人じゃない、韓(から)の犬だよ、ワンワン、オレは韓の犬だから韓国語で吠えるんだ、日本語じゃない・・・・・」今も在日がうるさいがその当時は韓の国の影響は大きかった。だから犬まで韓(から)の犬だったのだ。そもそも辛犬(からいぬ)郷というのがあること自体不思議である。そんな名前をなぜつけるのか?犬まで韓人(からひと)であることを主張するためなのかわからないがあったのだ。犬の話にしてもこうして様々な情報が飛び交うのである。なぜこれを書いたかというと在日対する批判が毎日のように2ちゃんねるでは流れている。東北では在日は少ないしほとんど知らない、でも大坂辺りでは多いからそれが常に話題となっていることに気付いたのだ。ニフティで裁判ざたになったのも在日の人だったのだ。在日は現実生活でも常に話題になるのである。

いづれにしろインタ-ネットは様々な多様な情報が入り交じり展開しているからこれを理解することは大変である。マスコミとか今までの情報環境と違うから前にもインタ-ネットの読書の不思議で何度も書いたように不思議な世界なのである。絶版された本がでていたり今までに流せない情報がカオスとなって流れだしているからこれをくみとることはむずかしい作業なのだ。今回の小学生の事件もチャットのなかで未熟であるから過剰に反応したのかもしれない、そういうことを経験している人が多いが大人だったらそこまでやる人はいない、ただ少数でも仲間うちでも公表されることは名誉棄損になるから何かインタ-ネットのチャットが契機となったのかもしれない、子供は感情の世界に生きている。表情でのコミニケ-ションの方が大きい。文字だけのコミニケ-ションとなると問題が起きることはありえる。大人になると文字だけでもかなり読み込んで発言しているが子供にはそれができなかったかもしれない、文字だけのコミニケ-ションはかなり高等なことである。若い人がそれを簡単にやっているのはやはり感性が鋭い違うからである。ともかくこの世界は今までにない不思議な世界を魔術的世界を生み出しているからだ。しかし技術は歴史的にも錬金術的なものがありまさにこのインタ-ネットは錬金術的魔法を生み出す情報環境でもあるのだ。今までにふれ得ない情報にふれえるからだ。この情報のカオスから錬金術的に黄金をとりだすこともできるがそれはかなり熟達しないとむずかいしということである。



ネットワ-キングと使用価値
(NHK景気回復は本物かを見て)


NHKの特集の「景気回復は本物かは」面白かった。現代の経済事情がわかりやすく説明されていた。中国特需は鉄鉱石の不足となり値段が上がり呉市の造船業では注文があっても船を作ることができない、中国の影響は世界の資源まで食いつくすほど大きなもんだいになる。一方地元では一向に景気が良くなっていると思っていない、というのは正社員の採用が増えていない、コストをおさえるために期間工を採用していたのだ。期間工であれパ-トタイマ-であれフリ-タ-も含めると2千万くらいが正社員ではない、コストがかかるからフリ-タ-も今や選んでいるのではなく社会的にそうさせられているのだ。フリ-タ-が400万とかいうようなのは異常である。昔は自由業目指すのは自分の才能を伸ばしたい人が多かったのだ。それなりになんらか才能があった人なのだ。第一そういう人は極端に少ないしアウトサイイダ-的存在であった。要するに変人とか奇人の類でありこれは数にすれば極端に少ないものだった。今問題なのは数が多すぎることなのだ。昔だったらこうした社会からはずれた人は極端に少ないから社会的な問題にならなかった。社会からはずれたような芸術家志向のような人はそもそも極端に少ないものだしそれが社会的には正常なのである。

中小企業は大企業の下請けとしてのネットとして存在していた。しかし今別なネットを構築せねばならない、もう一つは新しい使用価値の創造なのである。研磨塗装業者がcdの傷を磨きとりさる仕事とか技術を別な所に使用価値を見いだすことが必要になっている。情報とかもネットワ-クキングが大事なのだ。学問もネットワ-キングされると生きてくる。地名とか地方史で書いたように知のネットワ-キングが必要である。中小企業でも物作りの新たなネットワ-キングが必要になっている。もう一つは物を作っても使用価値を見いださないとあらゆるものが活かされない、使用価値は眠っているし見いだされないのだ。私もこの同じ故郷の土地に住んでいてそこはそんなにいいところではない、平凡なありふれたところだと思っていた。でも今年の夏はそこから蔵王が見えたのだ。蔵王は普通この辺から見えない、なぜ八沢浦から見えたのか不思議である。前に雪の蔵王がわずかに見えた。今回はかなり大きく見えたことである。これに気付いている人は少ないし感動したのは自分一人だけかもしれない、芸術家はその土地の景観のまだ知られていない魅力を見いだす、画家が描いたのを見たらあれここがこんなふうに見えるのかと不思議に思うことがある。画家の目で見た時別なふうに見える。普通の人には見えないものが見えるのだ。これはあらゆる分野に言えることである。最近の私の万葉の陸奥の真野の草原(カヤハラ)が本当に萱原なのかという疑問もそうだった。これまで誰も疑問をさしはさまない、規定のことだった。だからやたら萱原を宣伝していたのも奇妙である。ともかく世の中こういうことが多いのだ。

ネットワ-キングと使用価値は社会にとって一番重要なことなのだ。ネットワ-キングと使用価値がなければなんであれ活かされないのだ。道具を作っても使用価値がなければ活かされない、インタ-ネットもそうである。これこそまさに各自の使用価値にかかっている。使用価値が見いだされなければなんの効力も発揮できない、インタ-ネットこそネットワ-キングと使用価値の世界でありそれなくして何の価値もない、インタ-ネットのなかに知識が情報が結ばれ使用されるとき価値を帯びてくる。また編集するとき価値を帯びてくる。この作業がなければインタ-ネットは活きてこない、トヨタの向上で事故で死んだ人がいたが私のホ-ムペ-ジに来た人を逆探知したら期間工の人が会話している掲示板があった。かなり奴隷的仕事で嫌気がさしている。あそこで働いている人は社会の底辺層で話は競馬の話だけだとか言っていたけど本当である。異常なほど競馬狂の人間が多い。あれしか生きがいがないかというくらい競馬狂なのだ。仕事はロボットとと変わらない、仕事というときあういうロボット的な仕事が多いのだ。パ-トタイマ-、フリ-タ-、期間工、・・・これらは負け組でありそれと一部の高収入の技術者とか成功者が勝ち組にわかれたのが現代である。景気がいいとししても社会構造が昔と違い勝ち組と負け組に別れる仕組みになってしまった。牛丼がなくなると大騒ぎするものがいたり一カ月一万で生活するにはとかのテレビの番組がそれを象徴している。一方それなりに高級品を消費できるクラスがいる。社会がすでに階層分化してしまっているのだ。フリ-タ-だから負け組の下の階層化してしまった人達だった。昔の自由業を目指す芸術家といったものとは全然違う、負け組にされた人達である。そもそもそんなに人間、才能を持った人や芸術志向の人がいるのは異常である。そういう人は極端に少数であるのが普通だからだ。

いづれにしろ現代の不況の再生が地域の特質を活かすということ、それはちょうど私が江戸時代をふりかえるで書いた地域のブランドの復活になるがこれを作ることは非常にむずかしい。そのブランド品は何なのかそれは必ずしも物に限定されないし今になるとわかりにくい、ただ私が見いだしたようにその土地のことを知らない人は多いのだ。ええ、そんなものが何の価値があるとなるようなものとなる。現代とは全国のネットに出品してつまらないものが価値を帯びて高くなったり何か今までとは違う価値観の世界が生まれている。価値観は常に変わることなのだ。物はあふれているからどうしても知識とか情報とかセンスとかそうした物だけではない精神的なものの使用価値も増大してくるのだ。インタ-ネットだとそうした情報とか芸術的なものとかは発信しやすい、一方それを地域の活性化にどう結びつけるかはそれぞれの智恵である。

夏の日に蔵王を仰ぐ八沢浦その山迫り雄々しきかも


今日の一句一首へ



発言規制された2ちゃんねる
(この世に完全な自由はない)


2ちゃんねるこの頃人大杉とか規制が多くなって変だと思っていたら規制リストに入って書き込みできなくなった。創価版は半分みることさえできなくなった。創価批判多少していたからそうなった。2ちゃんねる批判しているサイトあったけど2ちゃんねるは一見自由に見えたけど自由じゃなくなった。というのはあまりにもアクセスがふえすぎたのだ。百万でもアクセスすればそれは恐ろしい数である。個々のホ-ムペ-ジが10に満たないとするとこれはもうマスコミなのだ。便所落書きなどではない、そこには聴衆が何万とかいる世界になってしまった。それが逆にマスコミと同じように規制せざるをえなくなったのだ。そこには今やいろんな団体が背後にかかわり操作するようになるし一見自由に見えて実は今やおそらく巧妙に管理されているし警察とも連絡とりあっているからへたな発言はするなと批判する掲示板にあった。監視の目が厳しくなった。実際掲示板には発言の自由はそもそもどこにもなかった。なぜなら誰かが管理しないものはいないから当然そうなる。その管理する人が規制すれば発言はできなくなる。それはどこの掲示板でも同じである。それはまた主催する人の自由なのである。ただ2ちゃんねるは社会的に影響力が大きくなりすぎたから問題になるようになった。団体のイメ-ジを落とすことが容易にできるしそれが影響しているから団体でも放っておかないのだ。掲示板の運営がむずかしいのは匿名だから責任もたないし運営者が運営できなくなることである。つまりこの世に完全な自由などない、完全な自由は不自由になるという皮肉である。自由の落とし穴がここにあるのだ。規制の中の自由しかありえない、民主主義は自由を重んじるがすべてが自由ではない、そもそも完全な自由などありえないのだ。そこがネットの落とし穴だった。勝手に書き込めるからこれはいいとあることないこと面白がって書いていたらその人のipとが記録され警察にもマ-クされていたのだ。自分の場合は創価にマ-クされて書き込みできなくなった。自分の場合、書き込みはほとんどしていない、ニュ-スの閲覧として利用していただけである。

情報の世界は一カ所に集まると便利である。多様な人々が発言すればそこは利用価値が高くなる。一方で集中しすぎるとマスコミのように規制せざるをえなくなる。こうした矛盾が情報にはある。権力も集中しすぎると横暴になる。マスコミの横暴は情報が集中して権力をもったからである。でも情報が分散すると今度は様々な角度からの情報の多様性がなくなる。情報はこうした矛盾をかかえている。そしてみんな時間を制限されているのだからインタ-ネットをあちらこちら閲覧することには限度があり必要な情報にアクセスできないということになる。インタ-ネットは情報の自由空間のように思っているがこれもまた不自由な空間であることを知るべきである。どこにも完全な自由などない、みんな制限されているのだ。ただインタ-ネットは自由だからまた他にそうした3ちゃんねるの掲示板を作れるし批判している掲示板もあった。簡単に移れるのだが情報がたりないという欠陥があり利用しなかった。でも今2ちゃんねるは曲がり角であり新たな掲示板とかニュ-スの核のようなものが必要になっている。ネットの世界は常にその中心が変わるのだ。そういう点変わらないマスコミとは違う、常に新たなものが作れるのだ。そういう情報の柔軟性があるのだ。例えばニフティの場合だったらそういうことはなかった。他に発言する場がなくなっていた。しかしインタ-ネットの場合、ホ-ムペ-ジは規制することができない、本当の自由は個々のホ-ムペ-ジにあり掲示板にはどこにもないと知るべきである。それがインタ-ネット一つの盲点なのだ。掲示板に頼りすぎている。ホ-ムペ-ジを探すのは大変でも本当の自由な発言は個々のホ-ムペ-ジにあることを知るべきでありそこがインタ-ネットの自由な空間を提供しているのだ。2ちゃんねるとか他の掲示板でもない、個々のホ-ムペ-ジこそインタ-ネットの自由な情報空間を提供しているのだ。ところが個々のホ-ムペ-ジはアクセス数が極端に少ないから影響力はない、でもそこにこそ自由があるとした個々のホ-ムペ-ジを基点にして探すべきであり掲示板ではない、インタ-ネットはそもそも分散型の情報システムとして作られたのだ。一カ所がアクセスできなくても別な所からアクセスできたりと軍事的に作られた。情報が集中管理すれば今回のように2ちゃんねるで監視できるのだ。そこに焦点をあててとりしまればいいのだから楽なのである。だからマスコミは管理しやすいのだ。インタ-ネットの錯覚は自由はどこにもない、インタ-ネットにもないということである。2ちゃんねるは明らかに今や管理されているから監視されているからへたな発言するべきではない、警察とも今や通じているのだ。

これは恐るべきことである。この人はこんなやつだとか調べられている。2ちゃんねるは数が多いからそういう調査するのにも向いている。だから2ちゃんねるはもはや自由な空間でないことを自覚するべきである。つまり新たな場を作るべきであり情報の場は分散せざるをえない、不便になってもしょうがない、そういう曲がり角にきたのであり常にネットの世界はそうなる。でも今や自覚すべきは情報のインタ-ネットの世界でも昔と違う、数が増えてきたし完全な勝手な発言は許されない、そういうipをさらさない術をもっている人もいるがそれも規制されてゆく、あなたはipがないから発言されない閲覧されないとかなってくる。つまりこの世の中どこにも完全な自由などないのだ。匿名性で自由だと錯覚していたがそういう時代は終わっている。あなたは発言したことに責任をとらされる。いやでもそうさせられる時代がネットでもきている。それを自覚すべきである。
つまりもはや2ちゃんねるにアクセスすること自体危険だということである。そこには知らない罠がしかけられているかもしれない、そういう場になったことをみんなも自覚すべきである。


2ちゃんねる批判サイト
http://www.megabbs.com/2ch/index.html


フラワ-長井線で白鷹町へ

仙山線で山寺にでると山形である。あそこの山が国境であることはわかりやすい、日本の国境は山なのだ。常に峠なのだ。川俣と飯館の間にも長い峠があった。村と村の境も峠である。峠を越えると別な世界がひらける。まじかに残雪の峰が見えたのもそうである。山形は山形県にあっている。山に囲まれた国なのだ。日本はそういう国が多いが山形は山々が重なり山形に来たなといつも感じる。宮城県も東北では多賀城があったから東北の宮城があるところであっている。ところが福島県は一体どうしてこんな名になったのかわからない、福島市に福島城があったからなのかこの名前は歴史的にも地形的にもそぐわないのだ。岩手もあっている、この岩手の岩は三陸の岩の海岸らしい。地形的にもそれなりにあっている。秋田は古代からの地名をひきついだらしいからそれなりに何かあっているのかわからないが古代に由来している。青森は何なのか、これはまだ書いていないがアオとは墓のことらしく森は盛るであり墓のあった所となれば恐山のごとく青森とは霊場なのだ。また青々と森が深いということでもあっているのだ。福島県の福島は全くイメ-ジ的にもあっていない、これはどうしてこうなったのかわからないし何かイメ-ジしないから、名からイメ-ジしないから損である。名前の持つ力は意外と大きいのだ。地名から語るものがかなりあるからだ。

山形から米沢に向かったのだがフラワ-長井線というのは赤湯から直接終点の荒砥(アラト)に行けた。知らないので米沢から今泉に行きそこから乗り換えて終点まで行った。今泉は閑散とした町だった。夏の暑い日ざしがてりつけた道を歩いた。そこに茅葺の家が町の通りに一軒あったのに目をひいた。あまり町の中に茅葺きの家は今は残っていない、これもその中に住む人はどうなのかしらないが風情があるからいいのだ。田舎に来たなと感じるからだ。猪苗代湖の福良には町の通りに何軒か茅葺きの家があった。あれは珍しいだろう。菖蒲が咲いていたのがにあっていた。フラワ-長井線というのもロ-カルのロ-カルで面白かった。旅情があった。白兎とか蚕桑とか駅の名も鄙びて昔を思わせるもので多少昔を感じて良かった。旅とは現在でなく必ず昔を感じることなのだ。それがないと半分しか旅の面白さ深さを味わうことができない、白鷹町という名そのものが変わっているしその線は朝日町に向かう所で終点になっていた。朝日町へ行くバスも電車もないのだ。この朝日町という名はいかにもつまらない、平凡すぎる。つまりこうした山の奥でも地名の作用は大きいのだ。いかにもそこにふさわしい地名があるとそれが作られたものでも何か惹かれるものがでてくるのだ。

この終点の駅から深山に行くとそこは深山紙で有名な所だった。私は行けなかったが「山野海まんだら」(赤坂憲雄)に隣村の蚕桑(こぐわ)から二二歳のとき嫁いできた女性が紙漉きになったことが書いてある。紙漉きというのはこれは相当な手のこんだ業なのだ。水がきれいな場で日当たりのいいところとか燃料の柴があるところとかつまり自然の作用の中で作られるのが和紙なのである。だからいかにも奥深い深山という場所で作られる和紙に行く前から想像をふくらましていたがそういう場所であった。ただあまり高い山がなかったのは想像したものとは違っていた。この和紙作りも戦後の出稼ぎ時代とかで現金収入が入り今は廃れた。一時期出稼ぎが盛んなときがあった。しかしそれが残したものは金が入ったとしても本当の価値を作りだしたものではなかった。金がすべて本当の価値を作り出すわけでないのだ。深山紙には自然の作用とか歴史とか人間の血の通った生活がしみついている。単なる紙以上のものの価値があったのだ。それがわかるのはほんのわずかに語ったことからその暮らしが彷彿と浮かんでくるからだ。

隣の村の蚕桑より
深山に嫁ぐ一女性
姑に習い紙漉きの業
冬冷たき水に洗い
天日に干して丹念に
一枚一枚作りしものぞ
その値は簡単に金に計れざれ
そを失うは根の失われるごとしも


紙漉きは紙は暑さに弱いから冬行われたのだ。あの奥深い深山で冷たい水が流れる冬に行われたことを想像すると何か身がひきしまるような思いがする。紙漉き沢とか川も各地に残っている。とにかくここにすでに語りきれないほどの人間の物語があるのだ。ものが語るものがその自然を背景にしてあるのだ。決して何度も書いたように現代のものはこれほどに語らない、物はありふれているし苦労なくいつもそこにある。だからそのものはいくらあってもその価値の尺度は全く違っている。作られた物の価値にはとても考えられないような複雑な奥深いものがあった。それはそこに自然が深くかかわっていたからである。自然の作用なくしてできないものだったからだ。現代のものは工場だけで作られて自然とのかかわりが浮かんでこない、自然とは関係なく作られている人工的なものに見えてしまうのである。確かに美化しすぎだともなるが現代の期間工とかフリ-タ-の労働とかにはただ賃金のため使われる奴隷の姿しかない、現実延々とその不満を語っているだけの殺伐とした労働の世界なのだ。

ここからは最上川を通じて船運があった。

米沢藩主、上杉鷹山公の命により、この地の紬は始まった。越後や京から織物職人を呼び寄せ、家中の女子に技術を習わせ、元来養蚕の盛んだった白鷹では農民に機を織らせた。置賜の地に紬の技術が根付くのと平行して藩財政は回復して行った。

ここから船運があったことはいかに最上川が交通の要となっていたかわかる。ここから酒田へと海へ通じていたのだ。ここはかなり奥だから浅瀬が多い、だから船を曳く仕事がかなりあった。そこに船引という地名が残るのだ。この最上川の奥でも道として川は生きていたからこそこの奥深い白鷹の機織りの業も活きたのだ。「はたおり」という駅もあるのもあのような線には何か素朴でいいのである。あのようなロ-カルのロ-カル線はより地元に密着しているからいいのである。フラワ-長井線で無線ランができるというのも変わっている。あんな線でパソコン通信していた人が確かにいた。何のためなのか客をふやすためにしたのか、そんな長い線でないから必要とは思えないが何かの意図はあったのだろう。今の時期宿はこんでいる。サクランボ狩りでこんでいる。お祭りなどこむ時期にあたると旅はまずい、離れた場所に泊まるのがコツである。そういうわてで今回もかなり俳句短歌ができた。とりあえずインタ-ネットで感想を書いた。こうしてすぐにアップするのがインタ-ネットの醍醐味である。






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