白鷹町(山形県)、高鷲村(岐阜県)について(小林勇一)

白鷹の町の遠しも深山紙のここに作らる一度たずねむ

東和町の白猪とか地名のことを相馬郡の部の地名散策で書いた。白がついているので白鷹という町に注目した。なぜ白鷹とついたのかこれも白猪と類似の地名である。古代人は白というのを特別なもの吉兆とみたのである。何か神の使いのように見たからこれを何か効験あらたかなものとして記念してそこの地名ともした。有名な上杉治憲は「鷹山(ようざん)公」と呼ばれた。この白鷹山からとった名だった。この山を信仰の対象にしたらしい。ここに相当な思いがあった。

嘗て白鷹(しろたか)の鹿角(ろくかく)を啣(ふく)んで〔クワヘル〕諸を楓樹上(せう−ママ)に架し、以て巣を結ぶを見る、以て瑞〔吉兆〕となし、之を捕得して、神祖に奉ず、因りて姓を賜ひ、鷹見氏と曰ふ、當時の人皆焉〔之〕を榮とす(譯註先哲叢談(後編) 卷三)

434年 新羅に良馬二頭と白鷹を送った。新羅は黄金と夜明珠を返礼として送った 


インタ-ネットで白鷹と入れたらこんなのがでてきた。かなり白鷹ではでてきた。
白鷹の絵まででてきた。これは立山の開山縁起になっている。

有頼少年は父秘蔵の白鷹をこっそり持ち出し、父のまねをして鷹狩りをしてみたのであった。
 鷹は有頼の手を放れて獲物(えもの)に襲いかかったが、どうしたはずみか、獲物の小鳥は身をひるがえして鷹の鋭い爪をのがれた。
 すると鷹はそのまま天高く飛び去ってしまった。有頼はあわてた。父秘蔵の鷹を逃がして、どうしておめおめ家に帰られるものか、どんなことがあっても取りもどしてみせるぞと、死物狂いで鷹のあとを追跡したのであった


鷹匠の話で鷹が逃げられる話である。鷹匠の鷹はよく逃げられるからこんな話ができたのだろう。鷹は鷹匠と関係していたからここでも鷹匠がいたのかもしれない、あまり鷹という地名はあるが白鷹というのはない。鷲にまつわるものはある。長野県の高鷲村は自転車の旅で寄ったことがある。

鷲狩り伝説についての一考察

2、鷲狩り伝説(鷲見氏の由来伝説)には、3つの伝説が伝わっていること

 A、鷲狩り伝説(鷲見大鑑、濃北一覧)

 B、これは鷲が赤子をさらってきて(貶せられて)それを大屋氏が育て,長じて鷲見氏(皇族)になったという伝説(鷲見白山神社由緒)

 C、鷹司卿の救出伝説(鮎走白山神社の鷲見大鑑) 天皇の叔父と鷹司卿という貴族が流されてきて、それを捜し出したのが鷲見頼保であるという伝説。
 頼保が与えられた知行地は美濃国芥見庄鷲見郷となっています。


 ここで注目していただきたいのは、鷹司院です。伝説の天皇の叔父と鷹司卿の話と山田庄が鷹司院の所領になったのはわずか一年の違いです。 また、実際に鷹狩りの鷹を献納したことがあったのかもしれません。
高鷲村は合併して作られた名前であり鷲見郷が古い村の名前である。またさらに合併して名前がなくなと騒いでいる。ここでやはり鷹司とかが関係していることは鷹匠がいて鷹を飼い馴らす人がいて鷹を皇室や上の支配者に献上したのかもしれない、最初は皇室関係の人が移ってきたのである。白鷹町というのも鷹を飼い馴らし鷹をお上に献上する所だったかもしれない、鹿尾、熊膏(くまのあぶら)、昆布、砂金、薬草、鷹などが古代陸奥から朝廷に献上された。いづれにしろどちらも相当に山深い村であった。四方が深々と山にかこまれているのだ。


高鷲村

高鷲村その名の謂れ 鷲による
鷲見の姓の ここより起こりぬ
その昔大鷲の 風にのり舞いぬかも
弓を射る的場の残る 城の跡
朝紅葉に映えて 滝ひびく
四十雀来たり さえずるや
晩秋の山路に深く 夫婦滝
木の葉も散り 滝壷に沈み
旅人の急峻なる 坂越え去りぬ


紅葉映え奥の山路や夫婦滝(自作)


白鷹町には白兎神社とか白のついたのがまたある。この白兎という地名であるが1393年僧恵法律師が金の薬師如来を見つけ、白狐と白兎の導きで西山に登り、葉山神社を建てて祀ったため白兎の地名が生まれたという。また地区では白兎を神の使いとして大切に扱っているらしい。
これも出雲の稲葉の白兎のような伝説がここまで伝わったのか、諏訪神社とか立山とか出雲とか向こうの方と関係している。出雲の神が諏訪に逃れたとあるからだ。

この白鷹町で注目すべきことは最上川の船運があったことである。今の時代川を交通路として見ることが非常にむずかしい。川というのを一続きのものとして見ることができない、この川は白鷹町から左沢(あてらさわ)とかにも通じていた。でも電車で行ったらその川の流れは全くわからない、川の断片を見るから川を一続きの交通路として見ることがでないし実感できないのだ。川はただ水が流れるだけで死んでしまっている。交通路として活用されていたとき生きていたのだ。最上川はかなりうねうねと長い川である。この川が酒田まで通じて京、大坂と通じていたのだ。だから古い豪華な雛人形が蔵のなかに残されたのである。この川を通じて筏で木材も運ばれた。筏流しがあった。船場という地名や川が生きていたころの地名が残る。なぜまた川にこだわるかというと川は自然であり自然にのっとった生活は人間にとっても気持ちいいのだ。不便といえば不便だがそこになんともいえぬ安らぎがあるのだ。川と人間は一体となりまるで絵のように詩のように生きていたのである。船が転覆したような事故もあったがどうしてしも今になると絵のように詩のように見てしまうのである。旅をするときまさにそうした昔の生活を知らないと想像しないとつまらないものになる。こんな山奥まで来たけど何もないなとなってしまう。特に昔の生産がなくなっているから特になんにも代わり映えしない山の村にすぎないとなってしまうのだ。山の村でも町でもそれぞれ個性あったのが昔だったのだ。

現代は生産も一様化したからどこでも同じだと感じてしまう。昔はどこでもロ-カル色が強いから昔の村は今の村や町より魅力あるのだ。それがなくなったからこうして想像して昔を蘇らせる作業が必要になっている。そこに一度行ってみたいのはその生産されて場に一度行ってみたい、生産される場を見てみたいというのが人情である。それが今や世界経済だからどうして物が豊かでもその生産される場所や人のことは欠落してまるで金を出せば魔法のようになんでもでてくる世界は異常なことに気付いていないのだ。深山紙を作っている場所がこんな奥深い山里かとなると何かそのもの自体神秘的でさえあるのだ。ここでは他に独自の織物が作られカミシモは能の装束となっているからブランド品だった。蚕桑駅とあるのもその名残である。昔の生活には何か神秘的なのは椀貸し伝説とかそうした奥深い山里でもそれなりの技術を持った人がいていいものを作っていたから神秘的になったのである。今は物は豊富でも物に対する神秘性とか希少性がほとんどない、プラスチックであり何か物語性とか人の匂いとかそういうものが全くないのである。かろうじて陶芸の分野に何かひたすら土をこねて独自のものを作り出している世界がある。あとはほとんどそうした人間の手になる神秘的ともいえる物作りは地方ではなくなっているのだ。そこに地方の本当の衰退と貧しさがあったことに気付くべきである。これほどまでに昔を求めるのはやはり欠落したもの喪失したものを取り戻そうという無意識の強烈な精神作用のためである。

新蕎麦や むぐらの宿の 根来椀 蕪村

『根来塗り』の名称は、紀州(和歌山県)の根来寺からきているそうです。僧徒が自分の寺で使うものを作ったもので、黒漆で何回も塗り重ね、最後に一回朱漆を塗った仕上がりで、毎日使っているうちに、朱漆がすり切れ下の黒漆が出てきて模様のようになる。この朱と黒の色調を、後世、根来塗りと称するようになったそうです。

漆はJAPANが漆のごとく漆の産地だった。茶碗は陶器のことで鎌倉時代以降茶とともに入ってきた。茶を飲む陶器が茶碗になったがこの椀が使われたのはそもそも日本では茶を飲まないし椀は飯を盛る木の器であったから木篇の椀であり茶碗は石だから陶器なのである。飯椀であり汁椀だったのだ。椀は木で作っていたから木地師とか山で働く人がいたのである。漆と木地師は一体であった。物作りにはそうした共同作業が必ず必要なのである。この句の意味はむぐらの宿にあれ立派な渋いいい椀を使っているなと根来椀を使っていることに感心したのだ。そういう物に対する驚きとかこんなものがここで作られているのかという新鮮な驚きが昔はかえってあった。物の希少性がありそうした手作りのものは今の大量生産のものとは全然違う、価値も違う、それはその山の中で作られるということに意味があった、価値があったのだ。その土地の材料ですべて作られるということに意味があったのだ。だから神秘的すらあり単なる物ではなく物語を語る物でもあった。だから物にまつわる昔話がやたらに多いのはそのためである。物というのが単なる道具ではない、生活の中の宝物のようになってかかわっていたのである。そこにはだから現代にはない深い美とか意味とか金では買いないような価値があった。今も確かにそうしたものを作り高価な飾りものとして売ってはいるがその奥深い山の中で使っていた作られていたものとは違う、それはもはや芸術品であり鑑賞品になってしまったからその昔の椀とは違ったものであり生活から遊離した芸術品としての過去を思い出すものとしての物だからかつて使っていた物とは違うから魅力に欠けるのである。





左沢への春の小旅行へ

地名散策(安達太良から阿武隈高原を結ぶ)


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