時事問題の深層15

イラクの人質問題中心のペ-ジ、自己責任についての論議

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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一
私の研究メモ


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変わる価値観(見いだされない自然の価値)4月10日

自己責任(イラクの人質問題のむずかしさ) 4月10日

自由の意味(民主主義の発展に不可欠なもの)
(2ちゃんねる誹謗中傷問題の深層など) 4月11日

自己責任のむずかしさ(イラクの日本人人質問題) (2)4月14日

イラク人質事件の問題提起(国民の合意の意味) 4月19日

情報環境の変化(昼のスクランブル朝日テレビはあまりにひどい) 4月21日

日米、「命」代に大きな差 自衛隊員1億円、米兵2700万円4月22日

ボランティアとは何なのか?(あいまいなボランティア)4月23日

ボランティアで解決しない世界の貧困問題 4月25日

共感がないのはなぜ(イラクの日本人人質の国民的反発の深層) 4月30日

飯館の「共栄橋」からの発信(インタ-ネットの情報の特徴) 5月2日




変わる価値観(見いだされない自然の価値)
(飯館まで自転車で)

今朝のテレビで会津の山都町で棚田になっている所を作る人もなくなり放置していたら福寿草がその放置した棚田に一面に咲きそれでその花を見る人が今一日千人も来ているという。それで部落の人が案内して蕎麦などが売れている。観光バスでもつめかけている。福寿草は前から山に咲いていたが他の人は注目していなかったし地元の人もそれが他から人が押し寄せるほどの価値あるものと思っていなかったのだ。ではなぜこういうことが起こったのか、時代によって価値観が変わるのだ。また価値は発見されていないのだ。豊かな時代になると米より花の方が果物の方が価値があるようになる。貧しいときは米が価値があったのだ。阿武隈の山に行ったらリンゴを売る道の駅が人で一杯だったのもそうである。花というの魅力があり価値あるものなのだ。尾瀬を有名にしたのもそうである。尾瀬すら田代とあるごとく田にすべき土地だった。それほど米の価値が高かったのだ。日本は長い間米の経済だったのだ。
鹿島町の上萱でも福寿草が自生していた。でもみんなとってなくなってしまった。福寿草が自生している所を見たことがない、自生した福寿草見たらきれいなことは確かだし見たくて見れないのだ。貧しいときは米が価値があったからとにかくどこでも米を作るために必死だった。八沢浦のように大変な苦労して海をうめたてたりと全国でそういうことが行われた。しかし今やかえって元のままの自然の美の方が価値あるとなる。つまり自然が美しければ観光になり人も来るとなる。

その土地に住んでいる人は意外とその土地の自然の美とかに無関心なのだ。そのいい例が飯館のあの山陰の隠れた道だった。そこは全く自然に覆われた道であり清らかな流れが一すじあるだけだった。そこはだから神秘的な場所だった。でも舗装された道が作られかつての流れはコンクリ-トの堀にされて流れの岸にはキクザキイチゲとかカタクリとか咲いていたがそこに弁当とかぺットボトルなどが投げられてあってだいなしになっていた。それでも地元の人はあそこの自然に関心をもっていないのだ。自分は特殊だから関心をもっていた。でも詩人とか画家とかのように地元の人は自然をみていない、それが生活にかかせないものであるとき自然に関心を持つのである。だから尾瀬のような自然でも田にできて米がとれるとなると破壊してしまうことになったかもしれないのだ。それが人間の法則である。人間はいつの世でも生活第一だからだ。それにしても道というのはできるものだ。立石から飯館にでてくる新しい道ができた。あれだと飯館には一番近い道かもしれない。あの辺の道は一日十台くらいしか車も通らない、自転車だと新しい道ができるとまた新しい道を行くので面白いが無駄だとも思う。自動車だとちょっと遠回りしても気にならないと思うからだ。

いづれにしろ自然保護に関心があるのは外部の人の場合がある。西表もそうだし尾瀬も観光客が自然保護の運動をしたのである。ただそれは著名な観光地であり飯館のようなマイナ-な自分だけがあってほしいという自然は各地で破壊されているのだ。人間は何に価値があるかわからないことが多いのだ。芸術なんかもそうである。だからインタ-ネットのなかにもいいものがかなりあるが実際は埋もれている。価値を見いだす人がいないからである。あらゆるものの価値は埋もれているし見いだされていない、特に芸術的価値は見いだされていない、自然の価値も見いだされていないし人間の価値も見いだされていない、歴史的に価値あるものも見いだされていない、埋もれている。結局それは何が価値あるかわからないからだ。山の棚田が放置されてそこに一面に福寿草が咲きよそから人が集まるようになりその価値に初めて気付く、これが象徴的なことだった。

私自身もあるものの価値について気付いていなかった。その大きな石は注目していたのだがよくみていなかった。それは実際もう百回くらい見ていたかもしれない、でもよく見ていなかったのだ。その石を良くみると上野霄里氏がかつて「岩石は燃えている」という文を書いた。「ええ、どうして岩石が燃えているのか、岩石は冷たく固まったものだ」そう思っていたのだがある人から見ると岩石も燃えているのだ。というのはこの石をよくみると燃えたぎった溶岩の流れが凝固した様があり何かたくましい躍動的なものを感じたからだ。ただの岩ではない、原生の躍動的な岩の表情を発見したのである。それで原生岩と名付けた。つまりこの百回も見ていた岩すらただの岩としてみている人が多いのだ。この岩に画家が詩人がその他哲学者でも注目すればこれは芸術作品なのだ。岩一つ一つにも表情があり違うのだ。そしてそれは存在感のあるものなのだ。天才とは常人の気付かない価値を発見した人なのである。ええ、こんな見方もあるのかと驚くものを発見したのである。科学者でもそうである。つくづく価値は見いだされていないのだ。良くみていないからである。






自己責任(イラク人質問題のむずかしさ)

今回の日本人拉致事件は自己責任で行ったのだから殺されてもしかたないという意見が多い。自己責任とは何なのか。外国では危険地帯には自己責任でとよく書いてある。責任はあなたが負うのであって他人は国もおいないということである。日本人は自己責任が弱い。集団で行動する人たちも自己責任が弱い。集団は組織の命令で動くのだから自己責任などない、みんなで赤信号渡れば怖くないとなる。宗教団体都下には自己責任はそもそもないのだ。自分がない人にどうして自己責任があるのか、自己をもった人に自己責任がある。集団で行動すると自己責任がないのだ。だから戦争などは集団でするもの組織でするものだから人を殺しても自己責任などない、集団に責任があるといっても国民全部がしたことになると誰も責任などとる必要がないのだ。

登山は危険であるから自己責任である。でも遭難して死んでも自己責任となる。助けてもらうにも大変な金を払うが自己負担となる。国やどこかで払ってくれるわけではない、それは確かに自己責任になる。今回の事件は自己責任だから国で税金をはらってまで助けることはできないとなるのか、お前らが美名のもとでかってにやってきたことでありそれに対して国民が犠牲をはらう必要がないとなるのか、税金など使うなとなるのかもちろん自衛隊を撤退することなど今になってはありえないとなる。そんな要求をかってに危険地帯に自己責任でやってきたもののためにまげることはできないとなるのか、お前らはお前らの意志でやったことだからお前らが責任をとれ、イラクで死んでも満足だろうとなる。その最終的評価はあとでイラク人が決める。イラク人のために働いたというならイラク人が彼らの評価を決める。あのとき拉致して殺した奴は許せないとか死んだ日本人はイラクの英雄になるかもしれない、ただその評価はわからない、無駄死にとされるかもしれない、自衛隊は国策としていい悪いは別にして日本国家が決めたことである。

時の政権が悪いからそれを決めたから自分は従わないし自分には責任はないと言う人もいる。でも結局イラクに派遣することを決めた時点で日本人は全部その責任を負うことになった。結果的に国内のテロにもさらされている。自衛隊派遣はそういう危険が日本人全部にも及ぶことでありそれを日本人が覚悟して派遣することになることはわかっていたことである。ここに重大な政策の決定があったことを再認識したのだ。しょせん今の政権が決めることでありいくら反対してもどうにもならないともなるが自衛隊派遣に反対するそれなりの意思表示は行動は必要だったのだ。自己責任といっても国家的問題は国家的政策として決定すればそれに従わざるをえない、自己責任がないにしても責任を負わされてくるのだ。そこに国家的問題では矛盾があるのだ。国家の意思決定は誰がするのか、それは多数決で決められた時の政権がすることになる。そして国家が決めたことは従わねばならないのだ。国家が戦争を決めたら最初は自衛隊が行うが次に国民が戦前のように赤紙一枚で戦地に派遣される。そこまでになるといかに国家の意思決定が個々に及び個々が責任をとらされることになる。そこではじめて国家の意思決定の重大さを知ることになる。自衛隊派遣した時点で危険は予想されていた。そういうリスクを日本はすでに負っているのだ。「日本は危険にさらされますがアメリカとの同盟が大事なのであえて派遣します、国民のみなさんも覚悟してください、責任をもってください」と首相が言うのが責任ある首相の立場ではないか、それを復興支援とかまるでボランティアのように言うのはおかしかった、現実民間でのボランティアの復興支援もイラク側からみれば今やアメリカと一体化した日本人に反感を持つものとされ拉致されたのである。一部の過激派はいくら民間で援助されても日本人全体の政策には反対でありその抗議がそうなったのだ。イラク人の一部にしろそういう人がいる。

この事件のむずかしさは自己責任ということにある。登山なら自己責任でかたずけられるが観光目的行ったなら自己責任なのだが彼らがボランティアの援助者だったということが複雑にした。それも自己責任なのだけどその援助していたという行為が何か重大なものとしてアピ-ルする。「イラク人のために行動していたのに、なぜイラク人にむごい仕打ちで殺されるのか?」「日本国家はなぜイラク人のために尽くしていた俺たちを見殺しにするのか」となるのだ。これが観光や登山だったらこうはならない、そういうことがイラク人にも日本人にも何か重いものとなり自己責任ではないお前らかってにやったんだから勝手に死ねといえない問題となっている。でもそれほどその海外援助を評価できるのか、そんなにしてまでイラク人に尽くしたいとなるとそれはイラク人が評価することであり日本人が国家として評価することはできるのか、それは日本人の国家の行動の範囲を越えた行動でありそれは自己責任となる。日本国家としても海外援助はしているからである。将来彼らが犠牲になればイラク人がそれを評価して日本人の価値があがるかもしれない、野口英世のように外国のために細菌によって死んだように「イラクのために尽くした立派な日本人がいました」となる。これはカンボジアで選挙のためにポルポトに殺された青年がそうだった。そこに青年の名前の村が残っているからだ。そこでその日本人を評価しているからそうなったのである。

だから日本国家は自衛隊は国策として決めたものでありこれはもはや撤退できない、彼らはイラクに尽くした立派な人たちだったとして犠牲にするのもやむをえないとなる。そして彼らもそれで本望だったとなる。それが自己責任となる。そこまで覚悟して行ったんだからいいではないかとなる。ただそこまでの覚悟がなく行ったなら彼ら自身が後悔して軽薄な決定の自己責任を負うことになる。このように自己責任であれ慈善であれむずかしいのである。慈善は本当にむずかしいのだ。それが偽善になりやすいのだ。慈善や今回の援助でも「俺はいいことをしているんだ、俺を見習え、俺は命懸けでイラクの人のために尽くしているんだ、俺を見習え」と何かこうしたことを常にあからさまに現して訴えている。善をあからさまに宣伝する、それは他者への強制ともなる。他の人も援助しなければならないとか強制してくる人が多いのだ。現実それで詐欺している人も常に存在している。援助の金を自分たちで使っていたのである。隠れた所で善を行いとか言うのとは違う、あからさまにみんなに示して強制まですることの慈善の問題があるのだ。それでいやがられることがある。おまえはこんなに不幸な人たちがいるのに無関心でいるのかとかかえって責められるのである。そういう問題がここにもあったのだ。だから隠れて寄付するような人たちの方がかえって協力しているかもしれないのだ。しかしそういう人は全然表に現れないのだ。だからボランティアにも問題がありかえって一つの仕事として勤めを果たすというやり方がいい面もある。そこではただ勤めを果たすのであり慈善だ、援助してくれなどと余り騒ぐ必要がなくなるからだ。
いづれにしろ人道復興支援のために自衛隊を派遣したというのは詭弁でありこれは太平洋戦争がアジアの正義のための戦い、植民地解放の戦いだったという美名のもとに戦争したこととにているのだ。
この戦争は国家の利益のための汚い戦争でありおまえたちはその犠牲になるのだなどとは時の政権担当者は言わないのである。常に政治とかこの世は裏と表とか本音と裏腹の二枚舌になるのである。



自由の意味(民主主義の発展に不可欠なもの)
(2ちゃんねる誹謗中傷問題の深層など)

ここ二三日の事件で注目したのが2ちゃんねるの武富士問題で作者が誹謗中傷で2ちゃんねるを訴えたことである。これは常に2ちゃんねるでおきていることである。匿名だから誹謗中傷が起こりやすいのだ。これはインタ-ネット特有の問題であった。最初からこういう問題があったのだ。つまりとにかくインタ-ネットは簡単に他者を批判しやすいものなのである。でも他者を批判することはかなりの自己責任があることに気付いていない、相手のことを本人が知る以上に知らないと批判できない、だから内部にいたもの創価とか共産でも他の会社、団体でも組織でも内部にいたものは良く知っているからその情報は貴重になる。そういう人は内部の批判ができる理由、自由があるのだ。


「自」分の行為が自分自身に「由」来することを「自由」っていうんだよ。
何をしてもいいってことじゃない。


これ2ちゃんねるにでていたけど面白い。時々こういう発言がある。馬鹿話だけではないんだ。意外とこれ気付かないよ、自由と日本語に訳したのにはそれなりの訳があったのか、自由とは自らのなんらかの理由があって行動するのが発言したりするのが自由でありなんにもわけもなく行動する、ただ自由に行動することは自由ではない、自由に行動したいとか発言したいとか言うときはそれなりに個々人のもっている理由があるのだ。
depend on indivisial reasonsがあるのだ。それを自由に発言させてくれというのが自由なのである。その人が社会で生活して理不尽を感じたらそれを発言したい、これは個々人によって違うのだ。のっぴきならない個々人の事情があるのだ。医者に不満を持つ人、学校に不満を持つ人、会社に不満を持つ人、地域に不満を持つ人、不満は無数にある。それは個人の事情によって違ってくる。なんらかの正当な理由がなければ逆に自由な発言や行動は許されないのである。もちろん裁判に訴えることもできない、なぜなら正当と認められる理由にかけているから裁判に訴える自由もないのだ。

つまり裁判はその訴えることが正当な理由なのかということが常に審理される。それが自由社会なのだ。理屈といえば理屈だがそのた理由が正当でなければともかく取り上げてもくれないだろう。自由とreason(理由)は一体なものなのだ。理由なき行動や発言には自由は許されないのだ。だから理由をはっきりさせろとなる。理由をはっきりさせないから物事はわからなくなる。自由社会は自分の自と理由が大事な社会となる。権利があるとしたら理由が明確で主張するにたるからである。正当である、正しいとするから理由がはっきりしているから自由に主張できるのだ。ただ感情にまかせて俺を馬鹿にしたから殺したなどという理由は成り立たないしそんな行動の自由もないのである。自由はなんらかのっぴきならぬ理由があってこそ自由な発言や行動ができるのだ。これはインタ-ネットにも合っている。個々人の発言にはそれなりの個々人の背景、理由があり自由に発言するのである。インタ-ネットは個々人の自由な発言を促進させることは確かである。ただ相手をただ誹謗中傷することを喜んだりすれば裁判ざたになるしそうした理由なき無責任な発言には自由な発言の権利はないのだ。2ちゃんねるにはそこまで自覚している人が少ないのだ。ただやたらと相手をそしることでリンチして喜んでいる。そういう発言の自由はない、だから武富士のことを書いた記者から訴えられることもある。訴える方にはそれなりの理由があるからだ。もちろん反論する理由もあるが匿名の不特定多数ではその理由を責任をとるものはいないから自由の発言はゆるされないとなる。

太平洋戦争の問題は戦争した理由がよく分からないことなのだ。どういうプロセスで戦争にいたったのか理由がわからないのだ。国家にも戦争する自由がある。ではその自由の行動の理由が何なのか明確ではない、だからこそ今でももめている。植民地解放戦争だとかいうけど現地の人はそう思っていない、未だに不可解な戦争となってるいるから歴史としてもその是非が判定できないのである。日本国民自体でも判断できないのだ。それは当時言論の自由とか国策の意思決定がどのうように行われていたのか、今のような言論の自由がないとすれば情報開示などがなければ責任は国民全部にあるわけではないのだ。なぜなら言論の自由も情報も開示されなかったら国民は判断しようがないのだ。「我々はこういう理由で戦争を開始することにした」そうした明確な理由が言われていないのだ。何か突然真珠湾攻撃が始まり戦争に突入した。それまでの理由がわからないのである。今回の事件から考えると自衛隊が人道復興支援のためだというが実際は軍隊を派遣したからイラクでは反発する人もいた。アジアの植民地解放だから軍隊を派遣して戦争になった太平洋戦争もアジアの人は反発していたのだ。そこに常に美化した二枚舌の外交がある。世の中は裏表が多すぎるのだ。ただ一旦国策と決定してしまったら簡単には変えられないから議論に議論を重ねなぜ行かねばならぬのか明らかにして国民に納得してもらって行動する。それなら国民も納得するのだ。

太平洋戦争が国民全部がそうした議論とか理由が不明のままに闇雲に戦争に突入した感があるからもめているのではないか、いづれにしろ民主主義はみんな自由に行動発言できる社会だが言論の自由とか情報公開とかがなければ実現できない、現実言論の自由など一部のマスコミが今まではにぎっていたし発言するものなど限られていた。インタ-ネットは確かに個々の市井の名もなき人にも発言権を与えた。例えば10日に「自己責任」という文を時事問題に書いた。人質解放前に書けたということはその時点での発言ができたいうことである。こんなこと今まではマスコミしかできなかったのだ。その時点でどうあるべきかという判断ができるし伝えることができる。それは緊急の事件に対しても即座に反応できるメデアであることがわかった。だからマスコミはそうした緊急事態の場合、かなり責任ある立場にあったことを自覚した。なぜならそうした場合、明確な情報を伝える責任があるからだ。一方そういう緊急のときインタ-ネットの2ちゃんねるのような所ではデマなどがでやすく煽動されたりするのである。もちろん自分のサイトはアクセスが微々たるものだから人質解放前に「自己責任」に書いてもなんの影響力もない、またあとから変えてもわからない、簡単に是正しても見ている人が少ないから影響力がないのである。ただマスコミと同じように即時的に発言できるから同時間で社会とかかわるメデアということを経験したのである。


たとえば、車のハンドルを握る人は、安全に運転する「義務」とともに、運転の「自由」と「喜び」を感じることができるが、電車に乗るとき、乗客に安全運転の「責任」はない。それゆえ昼間から車内で居眠りすることもできる。このように「責任」を伴わない行為は、「安全」であるが、面白くない。このことに関連してバーナード・ショーは次のように述べる。「自由とは責任のことだ。だから人は自由を恐れる
("Liberty means responsibility" That is why most men dread it.")」と。

ラテン語と英単語のはなし
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/eigo.html



自己責任のむずかしさ(イラクの日本人人質問題)(2)

今回のイラク人質事件で盛んに自己責任だから日本国家で税金まではらって助ける必要があるのか、登山で遭難した大学生も自己責任だからといって県の救助隊に助けてもらったことが非難された。それであとから多少金をはらったらしい。登山では自己責任が問われる。そもそもしかし自己責任とはかなりむずかしい重いことなのだ。自己責任をもって行動している人が本当にいるのか?
例えば太平洋戦争に参加した人も結果的には自己責任ではないか?国家の命令だからどうにもならなかったと言って自己責任はまるっきりないのだろうか?
そもそも国家の意思は誰が決めるのか、天皇の一存で決められるわけでもないのだ。民主主義では国家の意思はともかく選挙で多数をとって政権を取ったものが国家の意思を代表して政策を決める。小泉首相が決める。小泉首相に自民党が政権をもったとき自民党に国家の意思はゆだねられ決められる。それにもはや反対しても従わざるをえないのだ。それに反対するなら次の選挙で一票でその政策の反対する野党に票を入れる他ないのだ。それが民主主義社会である。では投票に棄権する人も多い、この人たちはある意味で最低の民主主義の自己責任も放棄したともいえる。誰がなろうとかまわない、誰がやっても同じだとあきらめているのかもしれないが今回のような自衛隊派遣となると重大な問題でありその責任を負わされかねない、太平洋戦争のように戦地に行かされることも想定されるのだ。関係ないではすまされないことになる。

三人の人質のうち一人は一八歳である。この人に自己責任などあるのかとなる。親がとめるべきだったという意見が多かった。親に責任があり子供には責任がないとなる。一八歳では自己責任がもちえないとなる。でもすでに海外協力メンバ-の指導者となっていたから責任があったともなる。この一八歳の人の自己責任はあまり問うのは酷になる。あとは三〇歳以上だから自己責任があったとなる。別に政治活動であれ宗教活動であれ何活動であれ民主主義社会は自由だとすると一八歳だろうがしてもかまわないのである。ただ今回のようにおまえは自己責任で危険な場所に行くんだからこんなことにあっても自分で納得して行ったのだから殺されても誰にも文句言うなよとなる。それが一八歳で納得しえたかどうかは疑問である。青年は思慮より行動が先になる。なんでもいいから理由はとにかく行動したいのである。騒ぎたいのである。だから政治や宗教の団体に入り運動するのである。なんか社会が運動することにより一気に変えられるという妄想に支配されるのだ。自分が創価にいたときもそうだった。カルト団体にはまりやすいのだ。革命だ革命だなんかそれだけ騒いでいるだけで社会はまるっきり変わるように錯覚してしまうのである。学生運動にしてもそうだった。あれもなんだったか今ではさっぱりわからないものになっているのだ。

自己責任は何かと言ったらまさしく自己責任は自己に責任を持つことから始まっているのだ。自己がまず責任の対象なのだ。自己に責任をもたないやつは自己責任がもてるはずがないではないか?自己に責任を持つとはまず社会に責任を持つとか国家に責任をもつとかそういうものではない、自分自身に対して責任を持つということである。ではこの自分自身に責任を持って自己責任を果たしている人がいるかというとほとんどいないという矛盾なのである。自分に正直である人はほとんといない、上野霄里氏などは自分の責任をつきつめ自分に正直な人だった。これは自分の罪の告白にもなるからかえって辛いことになるのだ。自分に正直なことこれこそ自己責任なのだがこれを果たしている人はほとんどいない、自分を偽っている。自己に正直な人は犯罪者にまでされる。一方組織や団体に属して犯罪を犯してもかえってほめられる場合さえある。社会を変えるとか革命だというまえに自分の自己責任を果たせとなるがそれをしている人はまれなのである。まず自分の行動をかえりみてみよ、自分のやったことを素直に洗いざらい言ってみろ、それが十分人に訴えるものになる。そうした肝心の自己責任をないがしろにして社会など改革できないし慈善などもできないのだ。自分の良心に問うてみよ、そこにいかなる人もやましいことがあることに気付くのだ。

いづれにしろ宗教であれ政治であれ何であれ団体や組織に属している人には自己責任はない、誰かが決めるのである。天国に行くのも地獄に行くのも誰に投票するかもすべて組織できめる。組織に入った人は天国に行き入らない人は地獄だとなる。その時点自己責任については問うこともない問われることもない、すべて組織団体に一任される。その長がサタンでもそうである。すでにロボット化される。ロボットには自己責任はない、上の命令、それがサタンでも従うだけなのである。自己責任のないものにまた自由もない、自己責任がもたされるから自由もありうる。自由には自己責任が負わされるのだ。創価をやめたいとかカルトを脱出したいとか民主主義社会では自由なのだ。だから言論の自由が大事である。言論の自由があれば判断の材料はあるが北朝鮮のような言論の自由がなければ自己責任はないとなる。自己で判断することもできないからだ。自由とは自己責任なるから実際は苦しいものとなるから組織団体に入って命令のままに動く方が楽だとなるのだ。今回の事件だっておまえら自由に選んでやったことだから自己責任をとれと言われている。これが国の命令で外交官が殺された時は責任は国にもあり国の英雄のように迎えられた。一方で自衛隊派遣に反対してやめた外交官もいるのだ。これも自己責任でしたことでありその損害も自分でこうむる。しかし自己が納得できない、責任もてないからあえて外交官をやめる選択をしたことはやはり大きなことである。その場その場でそれぞれが自己責任を果たす納得することをするならばそれはまさに自己責任の社会であり民主主義社会の自主的な社会になる。国の命令だからと言ってそれが絶対的なものではないのだ。

太平洋戦争は国が責任の主体になっているから死んだ人も国で責任があるから靖国に祀るとなる。それが国の責任だとなる。では国の意思だからといって戦争で死んだ人がみんな納得して死んでいったのかというと実際はそうではない、国の命令だから従っただけでなぜ死なねばならなかったのか納得しているとは限らないからつまり自己責任で行動したのではないから問題なのだ。「俺たちはなんのために死んだんだ、無念だ、わからない」とか死者は言わないし今生きている人もこんなにもめるはずがない。「私たちは自己責任で戦争に参加した、納得づくであり我々は崇高な目的のために死んだ、犠牲になった、悔いはありません」と死者はいい安らかに眠る。しかし現実は自己責任ではなくただ国家の命令だからと納得づくで死んだわけではないから亡霊となる。恨みや様々な無念を残して祟る霊にもなるのだ。その霊を鎮めるたに靖国があるのだがそこでまたもめることになるのだ。

自己責任をいろいろ要求して言うがむずかしいのだ。いづれにしろ人生そのものが最終的には自己責任になる。お前が選んだ人生でありあのときああしていればよかったとかあそこで決断していればよかったとかもっと勉強しておけばよかったとか後悔しても遅い、あなたの自己責任ですよとしかならない、それが厳粛なことなのだ。だからそれぞれの立場で悔いのない人生を目指す必要があるのだ。あとから後悔してももう終わりである。自己責任となり誰のせいにもすることができないのだ。集団に属して自己責任を放棄した人はどこに行くのか、ただ上から命令される奴隷の社会に行く、彼らはみんなロボットであるからそういう社会に行く、天国にも極楽にも行かない、成仏もしない、ただ命令どおりに動くロボットであり悲しい自ら選んだ奴隷の世界に生きるだけなのだ。それもまた自己責任なのだ。

このように集団に属したロボットが多いというとき自己責任で生きている人がまれなとき他人の自己責任がそんなに問いるものなのかも疑問なのである。他人を責めるときは必ず自分も問われる。今回の事件の人も自己責任を自覚していたわけではないがではその責める人もそんなに自己責任で生きているかと言ったら生きていないのだ。アジアの国に買春に行ってエイズなどの病気をもってきて自分だけがかかるなら自己責任だが必ず他者にうつすとなると自己責任だけではすまない、他者の無責任な行動は必ず関係ない人にも影響するのだ。だから買春に行くなとなる。でもこういうことに関してはたいした騒ぎもしないのだ。大目にみているのである。民主主義社会では自由があるから自己責任をおしつけられる度合いが大きいのだ。だから自己責任をとれない行動はするなとなる。でも集団や組織に属する人は自己責任を放棄しているのだから民主主義社会に反する人たちだとなるのだ。買春も会社ぐるみでみんなでやれば怖くないとなり中国でひんしゅくをかったのである。それは誰も自己責任とれなどと責めないのである。

なぜでは今回いやがらせ電話などがあり自作自演だとか国民の反感が多いのかと言うとプロ市民と言うのに反発している人が日頃から多いからである。人道支援とかでもすぐに政治的発言をして首相に要求したように人質にされたのは政府の政策のせいだとなる。そしてデモ活動をする。人道支援は政治と関係なく党派とか関係なく宗教すら関係なく人道的立場からした方がいいのである。この人道支援が必ず党派的に利用される。これは創価でも共産でも政治として利用されるのである。我が党ではかわいそうな人を援助しているんですよとそれは純粋な人道的立場ではなく政治として党勢拡大のための宣伝のためにやっているのだ。だから現実は宗教団体が権力奪取と毎日叫んでいても誰も疑問に感じないのである。このプロ市民も政治活動としての人道支援なのである。党派的なものであり純粋な人道支援ではないのだ。インドのマザ-テレサさえ純粋の人道支援ではなかった。カトリックであるからキリスト教徒優先でありそれをいやがって行かない人もいた。政治党派とか宗派とか政治団体の人道支援は党勢拡大とか背後にあるからいやがられる。人道支援はナイチンゲ-ルの精神だろう。敵味方関係なく党派や宗派や政治に関係なくそこに傷ついている人がいるから助けるというのが理想だが実際はいろんな党派とか宗派とか団体の利害が関係してくるからいやがられるのである。医者の勤めは病人を直すことであり病気を治すことであり相手が例え犯罪者でも病気を直すのが医者のつとめだとするようにそれが人道支援の理想なのだ。国益とか政治とか宗教と関係ないとき人道支援なのだがそういうふうにしているのはまれだから何かいやがられるのである。



イラク人質事件の問題提起(国民の合意の意味)

今回の事件はなんかややこしい、それはなぜなのか、国際問題になっているからだ。ボランティアでかってに他国の人助けをしているんだからいいではないかとなるがここに戦争に巻きこまれる国際問題化してしまったことである。
「おまえら人助けはいいが国に迷惑をかけるな、国民に迷惑をかけるな」
となる。NGOとか左翼系の合意は得て彼らは派遣されている。左翼系が多かった。ジャ-ナリストも朝日とか左翼系だったのだ。それで自作自演説が横行した。自衛隊撤退を目論んで左翼系が仕組んだのではないかとなった。
事実ナイフをつきつけた脅迫シ-ンは作られたものだったから全部が嘘ではなかった。

今回の一番の問題点はNGOとか左翼系が危険地帯で別行動していたことである。外国では日本国民として一つとして見られる。例えは反政府勢力があっても日本国は時の政権が代表して国外では一つとしてみられる。それが別行動している団体が党派がNGOや左翼系や個人の勝手なボランティアになった。例え自己責任でも海外では日本国を代表するようになるのだ。NGOでは政府は何もしないとか政府はいらないとか騒いでいるし無国籍人間だとかを主張する人もふえているし世界的に国境を越えて活動している人も多い。国連はそうした国を越えたところで世界をまとめようとする組織である。しかしこれもイラク人の反発にあい機能せず悲惨な爆破事件で頓挫した。国を越えて活動するまとまることのむずかしさがあった。

今回なぜ日本人の人質があれほど責められるのか、それは異常なほどであり執拗なものだった。公明党までかかった費用を払いと公然と要求した。これは共産党とかの対決を意識したものらしい。全般的に国民の反発は実際かなり大きかった。2ちゃんねる異常なほどの執拗な攻撃には恐怖さえ感じた。それほどの憎悪と怒りがでてきたのか?プロ市民とか左翼系への日頃の活動に対する不満が一気にでてきたのだろう。つまり日本と言う国家が二分している。北朝鮮の日本人拉致問題でもそうである。国内では二分していても外国では国家は統一した行動をとらねばならぬ。自衛隊を派遣した時点で日本はアメリカと一体とみなされる。いくら反対だとしてもそれを認めざるをえないしその国策の中で海外では行動する他ないのだ。いい悪いにしろ国策として決めたのであり一旦決めた以上従うほかないのだ。政府にしても自衛隊を派遣するのに非戦闘地域だからとか人道支援だとかいうのも国民に偽っていた。国民にもそれなりの覚悟が必要なことを言うべきだった。海外で日本国民は統一した行動をとらねばならないしNGOのように国を越えて活動することは理想であっても今は不可能なのである。

こうした戦争状態の国にジャ-ナリストであれNGOであれ個人のボランティアであれあえて行くならば自己責任だけでもだめではないか?つまり国民の合意のもとにある人しか行ってはならないのではないか?自己責任で行っても人質になれば放っておくわけにもいかない、自己責任だから死んで下さいとなるがこれも非情だとなる。こういう危険地帯には国益がかかり国難になるような所には国民の合意がある人しか使命をもって行くのはいいが他は行ってはならないのだ。それは国でも責任は持てないのだ。NGOでも左翼系でもジャ-ナリストもそこを自覚していなかったのだ。国に大損害を与えてしまったからだ。だから税金の無駄使いを執拗に言う人がいる。自衛隊は派遣すべきではない、それ自体が誤りだからこうなった、だから政府の責任だとなるがでも国民の合意で決めたことを海外で実行している。その責任も負わざるをえなくなっている。自衛隊の派遣をやめさせるにはそれなりの政治活動を国内でしてやめさせるほかない。世界はグロ-バル化して国籍とか関係ないとか国を越えて活動するのだといってもそれは理想論であり現実は国なくして存在しえないのが人間なのだ。一旦国民の合意として決めたことに従わないものは日本国民ではないから日本の政府も責任をもてないとなる。勝手に行動されると国家の威信がなくなり国家が大損害をこうむる。国家はテロのゆすりの対象になったりしてしまうから軽率な行動はするなとなる。国家意識などがなくなっている時代だかそういう国家意識をうながす事件であり一体国家とは何かと言うことを真剣に考えさせられる事件だった。



無事解放された安田純平さん(30)と、現地で行動を共にした
非政府組織(NGO)「ピースオン」代表の相沢恭行さん(32)は17日、福島県いわき市で講演会を開き、被害者に対し「自己責任の徹底を」との批判が出ていることについて「市民の力が聖職者を動かした。国はいらないんだなという印象を持った」などと反論した。


国がいらないと言うなら、日本国籍捨てて、無国籍者になれば日本政府も
無駄な活動も心配もしなくてすむよね。

国家など要らないといいながら、一方派遣先では「日本のNGO団体○○です」と経済大国日本の看板をウリにしているヤツラ



NGOとはnon−governmental organization 非政府組織.

政府に非を唱える団体?


まさに彼らの思想は国を離脱する組織形成にある。国と対立するものにもなる。だけど今回の事件では国に多大な迷惑をかけた。日本国と言うバックボ-ンがあって活動できるのだ。援助しているのも日本の経済力を背景にした日本国民がいるから活動できるのである。NGOという人たちの活動もよくわからないがその思想自体が非政府組織を目指しているのだからこんな発言がでてくる。プロ市民の人質のジャ-ナリストは日本国民に謝罪する必要はないというのもそのためだろう。日本国民とは関係ない、俺たち日本国とは違う非政府組織を作ろうとしているのだからとなる。それなのに日本国政府に多大な迷惑をかけているのにそれも関知しないという傲慢さである。これはどうみてもおかしい。NGOというものもわからなかったがこんな思想団体だとすると応援する気がなくなった。今回の事件でも情報分析が必要になった。やはり2ちゃんねるは反応が早く要約的に事件の真相を知るのには役立っている。自分の場合発言していない、発言がここではできない、反応できないからだ。ただ読んで面白い情報分析にも役立つのだ。  



NGOへの資金は市民団体だけではない、日本国民からもでている。政党や団体に属していない一般市民からもでている。日本国民からでている。もし資金がある特定の団体からしか集めないなら非政府組織としてやれるのかもしれない、日本だけではなくまさに非政府組織とあるのだから他の国からも集めるなら成り立つが実際は日本国民の資金だから日本国民に反することはするべきではない、迷惑をかけることはするべきではない、実際世界市民が理想としてもそういうものは存在しないから日本国民として代表して活動する必要があるのだ。イラクの代表でもない、他国と協調するにしても日本国の代表なのだ。イラク人の代弁するようなことは言うべきではない。それをするなら国籍を離脱してイラク人になってやれとなる。あくまでも日本国籍があるかぎり日本国は責任を負わされる。日本政府では非政府組織は日本人とみなさないとなってもしょうがないのだ。それでもプロ市民は応援してもいいが日本国民は応援しない、日本国民でないのだからその責任を負う必要はないのである。




情報環境の変化(昼のスクランブル朝日テレビはあまりにひどい)


朝日テレビの12時のスクランブルで20億なんか国民一人20円にすぎない、人質にされた二人に敬意を払いますというのは確かにひどかった。そもそも芸能人とかが司会者になりAV監督がしきっているという番組でこうした深刻な問題を論じられるだろうか?これは国家的な深刻な問題になったのだ。常々思っていることは芸能番組とスポ-ツ番組と政治番組がごっちゃになっていることである。政治とか国際問題に詳しくさらに芸能とかスポ-ツに詳しい人間はいない、芸能人がこうした真面目な問題を司会していること自体問題なのである。12時の息抜きで芸能的な軽いことをやるだけならいいがこうした深刻な国民的問題を話題にするのには向いていない、週刊誌でも真面目な問題と芸能とかいろんな下世話なネタがごったにになる。そこにマスコミの問題がある。売れなければならないということでそうなる。視聴率でそうなる。これは国民にも問題がある。そういうものを要求するからだ。芸能人にそういう真面目な国家的も問題をあつかわせること自体矛盾している。こういう問題はおもしろおかしく見せる芸能とは違うからだ。今回はかなり深刻な国民的問題となったから批判されてもしょうがない、マスコミが特にテレビ朝日は普通の批判的に見ない人でもおかしいなと思った。それほどずれていたことは確かである。

自分も実際のところわからないことが多いので2ちゃんねるを見ながら最近テレビを見ているとこれがなるほどおかしいなと気付くことがある。こういう簡単なことでも気付かないしテレビは確かに洗脳されやすいしわからないことがある。だからテレビがパソコンで見られるものを買ったのがよかった。端に小さい窓でテレビを見て2ちゃんねるの批評を見るのである。こういう使い方は新しい情報の取り入れかたなのだ。インタ-ネット時代情報の取り入れかたが変わってしまったのだ。パソコンという機械がメデアが情報の取り入れかたを変えてしまったのだ。地方から発信される郷土誌がかなり役立ったようにメデアにより情報環境が変わるしその使い方、ソフトを使いこなすことが大事になる。これは慣れであり実践だから結構時間がかかりむずかしいのだ。例えば本だともう一回読んだりすることは簡単である。インタ-ネットではもう一回読むことがわからなくなる、履歴をたどり自分が読んでことをさかのぼることがもう一回読むことにあたる。これも意外とわからないことなのだ。検索にしてもこれもかなりスキルのいることである。本を読むというのとはかなり違う、でもこれに通じれば郷土誌研究でやったようにそれなりの研究成果を出すことができる。つまり研究と資料は一体でありあることに関する資料とか情報が豊富であればそれなりの成果を素人でも出すことができるのだ。研究の方法が大事になるのだ。インタ-ネットでは特にそうである。図書館にも資料があるが調べるのにはなんかめんどうすぎるからだめなのだ。

情報は常に比較検討することが強いられる。今回の事件もそうである。2ちゃんねるだけを見ていたらかたよるしマスコミだけでもさらにかたよって報道に気づかないのだ。12時のテレ朝はあまりに一方的にかたよっていた。それは国民を馬鹿にするなというくらいかたよっていた。なんらか抗議があっても不思議ではない、国民が政府が人質のためにゆすられて20億円だしたとか大損害を与えたのだ。だから国民の怒りはかなりのものである。2ちゃんねるだけではない、国民的怒りが巻き起こっているときあの報道はあまりにずれていた。同時間につながれそれを見て批判するというインタ-ネットの時代はこうしたあまりにかたよった報道は浮き彫りにされたたかれる。そういう自覚が必要である。今まではマスコミには何も言えないが今は見ながら言えるのだ。この変化は大きい。だからテレビ付きのパソコンが必要なのだ。2ちゃんねるでなくても批判的な言論がテレビの中で流れていると同じなのである。ただ自分のホ-ムペ-ジでも同時間に批判を書いても見る人が極端に少ないから何の影響もないが2ちゃんねるは見ている人が多いから影響される。

テレビが百万人みていたら軽く一万人は2ちゃんねるを同時にみている。これは少ないかもしれないがかなりの影響があるのだ。ヤホ-の掲示板はテレビを見ながら批評するのはむずかしいから見ていない、あの一言スレのようなものが次々にでてくるのが見やすいしわかりやすいのだ。だからリアルタイムのやりとりに向いているし今回のような事件のとき真っ先に「自作自演説」がでたのも2ちゃんねるだったのだ。それはすべてではないにしろ的をえていたのだ。なんらか的を得たことを言う人がいることは確かである。なぜならいろんな立場の人がいるからその立場の違いでハッとする発言があるのだ。ただこれも情報分析とか編集が必要なのだ。報道とはみんな編集されたものである。今回の自作自演説の脅迫シ-ンが作られた編集されたものであったことがそうであった。それにしてもうまく作るものでありあれが作られたものだとは思わなかった。テレビでも映像でも作れるからわからないものなのだ。つまり報道とかには背後に必ずそれを出す側の意図がありその意図にそって編集されるのだ。中立的報道はない、出す方の意図があって報道されるのである。報道は一定の意図をもち編集して出す方がわかりやすいのだ。2ちゃんねるのようなカオスになるとなにがなんだかわからなくなるからだ。情報を分析し編集する能力がインタ-ネットでは求められているがこれはかなり暇な人間でないとできない、なぜなら
ニュ-スを絶えず注視して分析編集することはまさにこれはプロの仕事なのだ。でもインタ-ネットというメデアなら個人的レベルでもできるからこうして自分もやっているのだ。



この映像はテレビ朝日の昼のスクランブルとか関係ありません



日米、「命」代に大きな差
     自衛隊員1億円、米兵2700万円


今回のイラク人質事件で20億はらったと言う、それでこれを自己責任だから一部払いという、昼のスクランブル(テレ朝)では司会者がこれは国民一人20円ではないかということに2ちゃんねるで反発があった。自分もそんなこということ自体、これは2ちゃんねるの馬鹿なみではないかと思った。でも日本人の命はこれほど価値があり高いとういことでもあったのだ。アメリカという国について自分はわからない、すでに700人も死んでも戦いをつづける。死んでも日本人とはこれだけの差があるのだ。それでも戦争をする。兵隊として行くものはいる。一つは背後に失業問題がある。人質にとられたアメリカ人の一人も妻が病気で借金をかかえてやむをえない事情からだっ。中国人の人質も国内の失業問題があった。金のためには人間は戦争の出稼ぎにもゆく、それは切羽詰まってのことなのだ。野次馬的金もうけ的ジャ-ナリストとか自己満足のボランティアとは違いその動機は切実である。日本人はあんな戦場に出稼ぎに行く人はいないのはそれほど切羽詰まっていないからなのだろうか、でも中高年が3万人自殺しているとか深刻ではあるのだ。

ともかく命の値段はあまりにも違う、日本人の命の値段は高い、これはいいことである。それだけの金が今回問題あるしろはらえるのが日本なのである。他の国はインドでもアフリカでも中国でもアメリカさえ命の値段が安い、大きな国は極端である。アメリカでさえ失業者が多数いて黒人のような貧困層も多いのだ。中国もそうである。国が巨大なだけ人的資源も多いのだがそれも安売りされる。戦場にでも金のためには行くのだ。今回の人質事件は問題があったが日本はこの点命の重みがある。金で換算すれば日本人の命が世界で一番重いのかもしれない、死んだら一億円もはらう国はないだろう。それは誇りにしていいことである。いろいろ問題があったに資しても金より命を優先したのだ。だから人質になって帰った人も日本国民に感謝するのが普通であるし事情を話すのも義務である。そして命を大事にして日本なり世界なりに本当に尽くすことを考えればいいのである。外国のボランティアより外国人に感謝されるより日本国民にまず謝罪して感謝するのがこれから生きる道ではないか、その重みを受けとればこれからそれなりの人生を歩めるだろう。NGOの人も日本という経済大国があって活動できることを考えるべきである。日本人が世界の競争に負けないようにがんばって働いているからこそボランティアの援助もできるのである。それをないがしろにして世界でいい気になり俺たちは日本国には世話にならない、政府は何もできない、市民が人質を解放したというのは傲慢である。ではわからないにしても20億の金はどこからでたのか、これをよくよく考えるべきである。アラブのしたたかな商人がただで金持ちの日本人を返したとは考えられないからだ。

ボランティアの問題はボランティアする人がなんかスタ-のようになりもてはやされるが、後ろで応援するものは金を出す人など表明にでてこないのだ。ボランティアとは実際は犠牲が強いられる厳しいものではないか、人のことは自分のことがあるから厳しくは言えないがボランティアは援助する人にただちやほやされるだけなら楽ではないか、それはまさに自己満足のいい気分にさせてくれるものだけのものになる。社会の普通の仕事にも責任がありボランティアもただ無責任にやれるものではない、責任があるのだ。かわいそうな子供を養子にとろうとしたというがこれも大変な責任ともなう、ボランティアは本当にむずかしい、自分も失敗したから人のことはあまりいえないが無私の奉仕となるとそれは簡単にできない、だからそれには宗教的な信仰も必要となる。自分がちやほやされもてはやされるというボランティアは何かおかしい。ボランティアはまた一人でできない、ボランティアされるものとするものの友好関係と信頼が必要なのだ。イラクにはそれが欠けていた。戦闘状態で敵国になっている人にボランティアはできなくなっていたのだ。ボランティアとはこうして自戒から言うが非常にむずかしいものということを認識すべきである。信頼と友好関係があってボランティアもできる。それが先だった。それが壊れたらボランティアできないのだ。いづれにしろ自分の場合であれ他の人でも失敗はある。だから失敗を責めつづけるのも問題である。反省はしてもらいたいが「自殺しろ」とか責めるのはひどすぎるだろう。鳥インフルエンザで浅田社長はマスコミに「責任とって自殺しないのか」と言われたそうである。2ちゃんねるもひどいがマスコミの取材もひどいものなのだ。この責め苦で自殺したとしたらマスコミの責任も重い。今回の事件は思わぬ厳しい結果となった。いろいろ国際問題やら国家意識やらNGOやらポランティアやら左翼系の横暴やら実にここにふくまれる問題は多岐にわたり複雑であり日本の問題をあぶりだしたのである。だからまた関心が深いものとなったのだ。





ボランティアとは何なのか?(ポランティアのあいまいさ)


 また、彼らの負担軽減のためには、これまで彼らを支援してきた人々も、−−「援助の真の意味も知らないで」という意味で−−一定の責任負担を分け合うべきであろう。換言すれば、自身は、危険を冒さず手を汚さず、ただ資金的に協力するだけでは、真の「人道支援協力」とは言えないどころか、逆効果でさえあると知るべきなのだ

小野五郎のホ-ムペ-ジ
http://homepage2.nifty.com/GORO-O/index.html


ただ金払うだけでもだめなのか?そういうものか、金払う方もいいかげんではだめなのである。よくNGOを調べる必要があるのだ。NGOはいいかげんなのが多すぎるらしい。この人は経験しているから信頼関係を築いてやってきたから自信もって言っている。あの発言が今回は国民を代弁したものである。


米国なんかでは、何らかの慈善団体に寄付をするとそれが確定申告で
税金控除できるんだ。(だからきちんとした領収書くれる)
税金控除できるから、企業も普通の人も気軽に寄付をする。

すると、どんな団体にしろ金の使い道に厳しい目が向けられることに
なるから、必然的にDQN団体の繁殖が抑えられる。
(キリスト教の縛りも関係あるけど)

日本は、↑ほど宗教で慈善活動を厳命してもいないし、節税できるから
誰でも気軽に寄付できる環境じゃないから、どうしても特殊な人間だけが
関わるものになって、結果一般から切り離される。
日本のよくわからないナントカ団体なんて、欧米で広くなじんでいるところ
のボランティア活動とは別物と思ったほうがいい。(2ちゃんねる)


キリスト教の歴史ある所では慈善の方法が伝統的に確立しているが日本では歴史がないから底が浅いからNGOのような何かわからないものが活動しやすいのだろう。なんかわけわからない新興宗教団体と同じだと言う人もいたがそういうものかもしれない、日本ではちゃんとしたNGOは極めて少ないらしい、政治運動に利用されたりなんかわけわからないのが野放し状態なのだ。自分の反省点として寄付するならよく相手を知らないとだめである。寄付する方にも責任があるということは気付いていない、金があるから金をやるでは無責任になるのだ。ただ金をやっても効果はない、効果あるように責任もって金を与えれば多少は援助に役立つだろう。これもそもそもNGOが何なのかわからないからこうなるのである。いろいろなことがわからないから浅はかに意味もなく深い考えもなく行動したりするのだ。マスコミの情報は一方的でありあれにのせられていたら一億総白痴化にされてしまうのだ。インタ-ネットは探すのが大変だがこうして情報も苦労して探さねば真実はわからない、この世には様々な仕事にたずさわる人がいてその経験的知識を持っている人がいる、マスコミにでてくる人だけからの発信ではわからないのだ。アメリカの慈善団体についてなんらかアメリカ暮らししていて経験したからこんなことを書けたのかもしれない、こうした様々な分野の人の経験知というべきものを参考にしないとかたよった見方になるのだ。何度も言っているようにインタ-ネットはこうして情報を集め分析する人が必要なのである。これは暇な人しかやれない仕事なのである

いづれにしろこのボランティア言葉そのものがあいまいなもので明確でない、無償で志願するとなるが一般の仕事ととの違いは何かと言ったら収益をあげる必要がないということ、利潤をあげる活動ではないこと、慈善行動だからその金は寄付に頼る、だからなんか怪しいわけのわからない金を集めの新興宗教団体とにているという指摘もある。責任もあいまいである。成果がどこであがっているのかそれもわからない、確かなことは金が必要であるがそれは寄付に頼ることになる。慈善だから善意だからボランティアは何か特別な人、聖職者がやるような人にも見られる。極端な話今回人質になった人は支援者にとっては祭り上げる存在らしい。公明党がかかった金を払いというが公明創価も実際は慈善とか宗教とか善意とかを売り物にして金を集め政治活動している、凄まじい政治活動しているから利権団体だからおまえらはそんな偉そうなこと言えるのかとなる。確かに左翼も政治活動に利用している。でもお前らも同じではないかとなるのだ。ボランティアとは政治活動の一手段になっている。それが今回ひんしゅくをかった大きな原因である。

働く人から見ると俺たちは上司にこきつかわれ客に頭を下げて必死に働いている。でもボランティアって成果も示す必要もないし責任ももつ必要がない、でもNGOのボランティアはプロとして月給もらい生活している。つまりそれが専門の仕事であり生活の手段になっている。もしこれが自腹でやっているならそんなに文句と言われない、でもボランティアとして専門的にやっている人が問題にされているのだろう。今回の人質の女性は金持ちだからできた。暇があり金があるからできたとなる。他の人は生活するために精一杯だからできないとなる。ボランティア自体が何か普通の人にはできない特別なもののように見ている。でも海外で苦労して働いている人もいるし企業に派遣されて働いて橋やら道路やら海外で作っている人もいる。それらもボランティアではないがその国に尽くしているのだ。ボランティアだけが何か特別なもの別扱いにされる。普通の人にはできない、マザ-テレサのようなものとして見られている。そのギャップが今回大きかったのだ。ボランティアにもいろいろあり今回のはかなりそんな高等な慈善活動でなかったことは確かである。すべてボランティアだからといって推奨されるものではないのだ。NGOもだからなんか怪しいカルトの新興宗教団体とにているというのは一面あたっている。絶えず寄付を強要して慈善を人助けを騒いでいるからだ。

そもそもボランティアとは志願するとなれば仕事というのはみんな志願してやるものである。仕事自体に興味と意味を見いだせるからやれるのである。収入より先にボランティア、志願してやるのだ。芸術なんかとくにそうである。収入とは関係なく画家は自分の納得のいくいい絵を描きたいのだし詩人でも音楽でもいい作品を作りたいのである。誰に言われなくても志願してそうなる。仕事は与えられるものではない、志願して見いだすものでもある。例えば自分がこれほど毎日のようにホ-ムペ-ジに書いている。これは今やまさに志願してボランティアでやっているのだ。ここから収入がなくても自分としては報道するということに魅せられたというか書くことに夢中になったというか相手がどう思うかよりそれが先になってやってきた。ちょうど画家と同じである。自分が描いたものに自ら魅了されるという経験である。強制されるのはおまえこれやったら金やるからやってくれというのは本当の仕事ではない、これがどうしてもしたいからやるのが志願してボランティアでやるのが仕事なのだ。仕事は本来ボランティアから生まれたのだ。病気のワクチンを作る人でも何か技術を発明する人でも病気を治したい、もっと便利にしたいとかそうしたボランティア、志願するものがあり仕事をしてそれが収入ある仕事に結びついたのである。
そもそもボランティア、志願するものがなかったらこの世のいいものはほとんど生まれていない、芸術作品でもそうだし科学技術の発明でもそうである。誰かが天才が志願したボランティアの熱意でできたものである。それがやがて企業化され一般の人も仕事になる。自転車でも、自動車でも最初に誰かが志願して発明して作りそれが人類全体の仕事を生み出したのだ。仕事はボランティアとして生まれ作られ普及するのである。新しい仕事は常に作られ生み出されている。ボランティアとして始めてもそれが収入のある仕事になることは相当ある。自分のホ-ムペ-ジでもこれだけやればこれを評価するものがあれば金を与える人があればすでに収入のある仕事になっているのだ。仕事は常に変わるし新しく作られる。米作りが何千年もやってきたが今や花作りが収入になったり仕事は常に新たに作られのだ。だから人間に仕事がないとかありえない、ただ収入のないと仕事していないと見られるだけである。人間にはいくらでも仕事がある。常に山ほど仕事がある。ボランティアでもそれがプロとして専任としてやっているならもはや単なるボランティアではない、無責任でもありえない、成果を出して報告して一般人が苦労して働く成果を出さなければならないのだ。ボランティアだからといって責任もない、成果も必要ない、そして善意の人として讃えられるというだけなのは何かおかしいのだ。



ボランティアで解決しない世界の貧困問題


彼らはイラクでの活動資金をどうやって調達しているの?
親の資産?工事現場のアルバイト?
豊かな日本で、正業従事者の成果をちょっとばかり掠めれば、イラクで施しをするのに十分な資金は調達できるということ?

ボランティアがそういうものならば、彼らは本当にそれで満足なの?
日本で正業に就かなくても余裕で稼げる資金で、最大のリターン(かわいそうな人たちの感謝?笑顔?)を得られる場所をイラクに見つけたのでは?

結局、彼らは豊かな日本を利用し、かつイラクを利用しているのでは?
中途半端な自分を、あえて貧富のボーダーラインにおいて、どちらにも根を下ろそうとしない。要はいいとこどりではないの?


ボランティアとか慈善活動の相違は何なのか?営利活動しない、利潤をあげなくてもいいという活動である。でも不思議な事にボランティアに寄付しているのはお客さんに頭を下げ上司に怒鳴られ使われて必死で収益をあげる努力している人たちである。つまりこうして努力して日本が経済大国になっているからNGOの活動もできるのである。一般の人は善意の人ではない、でもその人たちからでている金は善意の金である。それなりに直接は何もできないからかわいそうな人に役立ててもらいたいことなのだ。利益をあげるために必死で働いている人がいてそこからの収入なくしては寄付なくしては成り立たないのがNGOなのである。そして国からもかなりの部分資金がでているから今回のような国家に損害を与えることに猛反発があった。一方NGOの言い分からすると俺たちは日本国家のために働いているのではない、俺たちは世界市民であり世界の弱い貧しい人たちのために働く世界市民なのだ、だから日本国家の干渉を受けたくないとなる。それも一理あるわけで否定はできない、国籍なんか関係ない、俺は世界市民だ、世界に尽くす人間だというのは格好いいし現代のトレンドになっている。日本人なんていやだ日本人でいたくない人も現実に外国に移住した人にいて実際その国の国籍をとった人がいる。それも今や自由なのである。でもそうなると貧乏な国の人々は欧米とか日本とか豊かな国の国籍をとりたいとなる。在日の人でも韓国の国籍よりアメリカの国籍をもちたいのである。アメリカの国籍がやはり現代では一番価値があるのだ。

それはロ-マの市民権と同じである。ロ-マの市民権をもっていればロ-マ領内では法律が適用され安全が確保された。ロ-マの市民権のないものはなんら保証もされないのだ。だからそもそも世界市民というときそうしたロ-マ帝国のような市民権であり世界市民、コスモポリタンというのは現実には宇宙人のようなもので存在しないのである。アメリカでも中国でも大きな帝国になるとある意味で世界市民的存在なのだ。あれだけの大きな国で市民権を持つ事は自由に生活ができることは世界市民になる。そもそもcivilzation(文明)とはcivilは市民のことだから市民意識をもった人の集まりがcivilzationを作ったのである。市民とは農民でもない、漁民でもない、騎士とかでもない、その概念自体が良くわからない、市の民となると物を自由に売買できる商人が市民の起こりかもしれない、日本には市民の概念はないから市民もなかった。それに近いのが町人だろう。市民の確かなことは都市国家ができて市民がでてきた。最初の国家は都市国家だった。ギリシャのポリスだった。そこに市民が生まれたのだ。商業とは血縁とか地縁とかから離脱して成り立つものでありそうした商人など集まる都市が市民を生んだのである。だから日本国家に属しない、世界市民でありたいというのは別に悪いものではない、それは理想論としてある。civilzationそのものがそういう発想の元に作られたものだからだ。マルクスが世界の労働者よ団結せよと言ったときそれはこの世界市民的発想から生まれたのである。でも結局国家の壁を越えられることはなかった。国家の壁はそれほど重いのである。

では今回の人質事件の深層はなんであったのか?NGOのような世界で尽くす人には当然日本国家という意識より世界市民としての共同を目指す意識が生まれのは当然である。人種を越え国を越えてかわいそうな人を助けるのだから国というのが邪魔になる場合がある。そこには国を越えた連帯感が生まれるのだ。そこに海外で働く魅力を感じる。まさに世界市民という意識になる。不思議に世界市民という意識の前に人間は国が明確に存在していなかったからただ人間はヒトと意識していた。モンゴルはヒトという意味でありアイヌにもアイヌ国家がなかったからヒトとという意味であった。国がないときそこにあるのはヒトである。国の名前はヒトであることが多いということは国をそんなに意識することがない人々がいたということである。この単なるヒトと認識されていたものが誰々の家のものとか部族とかある地域のものとかある藩のものとかある王国のものとか遂には現代のようなある国家のものとしてヒトは組み入れられたのである。でも国家というのもそれは大きいからその国内では世界市民的なものとなった。つまり国というアイディンテティが一番大きなアイディンテティであり現代にいたってもそれ以上のアイディンテティはないからこれに属していない人間はいないしこれに属さないものは安全も保証されないし国境も自由に行き来できないのだ。

そして大きな国に属している、金持ちの国に属している人は得なのである。日本が世界で活躍できるのは国土は小さくても経済大国だから世界でNGOのような援助もできる。貧乏な国はそんなことできない、貧乏な国の人は豊かな国へ不法で出稼ぎにくるほかなく、それも市民権などもてないのだからいつ追放されるかもしれないのだ。一方金持ち国から援助に行く人はその身分も保証され相手国からも歓迎される。人質になれば一人五億円でも払うというほど金持ち国は保証されるのである。つまりそれも日本が経済大国だからこそできることなのだ。利益をあげるために必死に働いている人がいてその金の一部が援助にまわされる。そういうバックなしに世界市民たること、世界の貧しい国から迎えられることもないのだ。現実は貧乏な国が不法で出稼ぎに来て働く他ないのに援助で行く人とは全然違っている。世界に援助というなら外国からの出稼ぎ者をもっと受け入れることも大きな援助になる。今や世界に出てゆくことだけが援助でないともいえる。これはいろいろ問題があるにしろ20億もの金が日本人が人質にされて国家がゆすられたとうこと自体、何か馬鹿げていないか、その中にイラクのかわいそうな人を援助する人がいた。そんなこと全く無視されて20億が脅されてとられてしまったということ自体NGOの援助ってなんなんなのだ、金持ち国から脅し盗みするのが彼らの手でありそんな国に善意の援助に行ってどうなるんだという素朴な疑問が湧いても不思議ではなかった。いろいろ複雑な背景があるにしろこうした素朴な疑問がこれほどの反発になった。根本的なこの問題の解決は経済格差にありこれが解消しないと根本的な解決はない、つまり貧乏な国が豊かな国のように働いて収益、利潤をあげることなのだ。援助ばかりされたって結局、自ら働き利潤をあげ豊かにならないかぎり解決しない問題なのである。


土木の訳



civil engineering
ドイツ語
der Tiefbau
フランス語
technique des ponts et chaussees
スペイン語
ingenieria civil
イタリア語
genio civile

civilと土木は一体のものであった。公共財を作ること、ヨ-ロッパの建築は土木はロ-マの道から始まり公共的なものとしての建築であり私的なものではない、この公共的なものを作るという概念が日本には欠けている。ヨ-ロッパは建築自体土木自体が公共的なものを作るということに密接に結びついていた。アジアにはこのcivilとpublicの意識が希薄なのだ。公が公家を意味してたとか中国の王もまさに専制支配であり人民は奴隷である。こうした公共的なものを作るということは慈善活動とも結びついているのだ。だから世界的に慈善活動する、公共的なものとして世界を共有するという積極的姿勢からボランティアが欧米では盛んなのかもしれない、社会そのものの成り立ちが違うから日本のボランティアとは欧米のボランティアは違うしなんで日本ではボランティアは批判するのかかとなる。日本のボランティアは欧米よりエゴ的な側面が強いかもしれない、売名行為とか予算獲得とか政治運動とかボランティアが様々な私的な意図で行われている。つまり歴史が違うとそのやることは同じに見えても実質は違うのである。それが誤解することになる。

カンボジアに入ってくるNGOには嫌悪感を抱かずにはいられない。彼らの中でそこに住む人の事を本気で考えている人間は少ないのではないだろうか。事実あるNGOには「お前はセールスマンか?」と疑いたくなるような奴もいた。毎日の食べるものに困っている村人に多額の借金を負わせて設備投資をしようなどと考えていたからだ。また日本の援助グループにも疑問を感じてしまう。なぜ自分達の名前を、援助して造ったものに残そうとするのか?ご丁寧にプレートを日本から持参してきた人もいた。

カンボジア漂流記 22
http://www.myticket.jp/masayuki23.html




共感がないのはなぜ(人質への国民的反発の深層)


そして日本のNPOの存在基盤を支えているのは
日々働いて、日本社会を成り立たせている
普通の日本国民たちだろうが・・・

まともに働かず、社会に貢献もせずに
呑気に海外へ行って、どっちが安全地帯なんだよ・・



海外に出ている人間がみんな立派だなというのは嘘である。ベトナムであったのはひどかった。半年も女と遊んでいるだけだった。他にもぶらぶらして何しているのかわからないのが結構いる。今日の記者会見を見たかぎりでは18才の青年は日頃から活動しているあれだけテキパキ答えられる。32歳の今井はなにかのんびりしているというか間がぬけていた感じだ。他の二人も何かジャ-ナリストとして使命感をもってイラクに行ったのではない、そもそも使命感を持つこと自体簡単にできない、海外に行っている人が援助している人が使命感をもてるとは思えない、死んでもこれを伝えねばならぬのだという使命感をそう簡単に持てるわけがない、マラソンの起源がスパルタにペルシャの戦争で勝ったということを伝えるのに走ってそれを伝えて死んだ人は本当にそれを一刻も早く伝えたかったのだ。だから死ぬまでも走れたのである。そんな使命感をもてる人がそんなにいるだろうか?NGOの人たちにしてもそんな使命感をもっている人は少ないだろう。

使命感というより娘が医療ミスで死んだことから医療問題を追及するようになる。それが知識がなくてもそこに凄い関心を持つようになるのだ。人ごとでなくなるからだ。そういう動機の方がわかりやすいのだ。イラクにしても戦争の中で自分の子供や妻や身近なものが死ぬとアメリカ兵に殺されるから必死で反抗してくる、自爆テロをやってくるのだ。人間はそうした個人個人の関心からの動機がありそれであることに熱心になる。アメリカがベトナムに負けたのはそうした地元の人たちの弱くても必死の抵抗にあったからだ。アメリカにはそんな強い動機をもちにくいから負けたのである。ここに他国に外国軍が入る危険性があるのだ。日本もまたそのために負けたのだ。アメリカに負けたというよりアジアの民に日本軍が占領してその反発が大きかったのである。いづれにしろそうした私的な動機の方がわかりやすい。ジャ-ナリストで本当にそうした動機が生まれるのか、むしろその動機はイラクという危険な所にいて写真をとりそれで金になるというのがわかりやすい、特別そこで何かをイラクの悲惨を伝えたいという動機よりわかりやすいしそれはそれでいい。そもそもそんなにイラクの人に同情心がもてるのかという疑問もある。それをジャ-ナリストとしてどうしても伝えたいことがあるからというのがわからないのである。それが本音とは思えないのだ。きれいごとになってしまうからだ。

なぜでは今回こんなに国内の反発が大きかったのか?ギリシャのマラトンの丘を走った一兵士とスパルタの人たちのような共感がなかった。国民とNGOとかジャ-ナリストの人たちと国民との共感がなかったのだ。例えば日本が戦争してその兵士が敵に殺されるとかそうした生々しい映像を送ればそこに共感が生まれる。それは日本国民だからである。自衛隊でもやはりその報告するジャ-ナリストと必要である。真実がどうなっているのか知りたいからである。でもそれは国民と共感がある場合である。そもそもイラクになんで自衛隊を派遣するのかわからないとき日本人自体が自衛隊が戦地に行くことに共感をもっていないときそこからの報告に共感をもてないのだ。そんな危険なところになぜジャ-ナリストが行くんだという前に自衛隊がなぜそんなところに行くんだという共感がないからそんなところに行くジャ-ナリストにも共感がないのである。なんであいつらあんな所に行っているんだ、それで人質にとられたとき大金をふんだくられたからその金だけがとられることに頭に来たのである。イスラムではアルジャジ-ラの放送にみんな共感をもってみている。アラジャ-ジ-ラの記者は使命感をもって行っている。自分たちのイスラム教徒の同胞が死ぬことにイスラム圏の人は共感しているからだ。あれでアメリカの反発が広がっている。日本はアメリカ人が死んでも同盟国の人が死んでもまた共感がもてないのだ。もともとそんな戦争するから悪いんだとなるからだ。。それは自衛隊派遣すること自体に莫大な金をとられることにも通じているがこれはアメリカに従う他ない、義理のためとあきらめている、安全同盟ののための代償みたいなものとして派遣されている。そもそも義をみてせざるは勇なきなりとか何か積極的に派遣する動機がないのである。アメリカ自体のイラク侵略もそうである。大義名分もない侵略行為だったのだ。

いかなる国家も、他の国家の体制や統治に暴力をもって干渉してはならない(カント)

フセインの体制が民主主義に反するからといって独立国である国に暴力でもって干渉すること自体国際法違反だったのだ。大量破壊兵器などなかったしその理由もない、結局正当な理由のない他国への暴力的干渉だったのだ。だから他の国も撤退してゆく、熱心になれないのである。平和になれば石油がとれるとかそれなりに経済的動機がでてくるからイラクに企業の人が行くのは共感がもてる。いづれにしろ今回のイラクの自衛隊派遣にしろそもそも日本人が積極的に共感したわけでないしまたそんな危険なところにわざわざ行って金をただふんだくられたことに国民が腹をたてたのである。別にアフリカでもどこでも困った人は世界中でいくらでもいるし今の時点でイラクに行くことは非常識だし日本人の共感を得られなかったのだ。とにかく国内で真面目に苦労して働いている人とNGOとの何か日頃の意思疎通のなさが今回の事件の深層でもあった。

NGOに日頃反発している人たちがかなりいたということである。これは確かに日本人が経済的利益がなければ世界に無関心だという島国であったという歴史から抜け出せないことにも原因がある。だから別に安全地帯で外国で援助活動することは悪いことではない、それなりに世界に協力する、同じ人間として協力するということに目覚めるからである。こういう観点からすると今の青年は18歳でなんであれあれだけのことができること自体昔とは違う国際感覚が養われているのである。偽善ですらそれなり国際的に働くということがどういうことか体で知るからいいのである。ただイラクという場所が良くなかったのである。ただこの人の言っている社会に貢献しているというのはそれほど言えるのか疑問である。誰でも食うために働いているし社会に貢献しているという感覚はNGOと同じように世界に貢献しているという感覚になる。それより家族のために働いているとか私的な動機の方が本音であり社会に貢献するとか国のために尽くすとか世界に貢献するとかなるとそこに欺瞞が生まれてくる。今回のNGOに対する反発もまさにそういうところが嫌がられ反発されたのだからそんなに社会貢献というのを言うのは変である。


飯館の共栄橋から(地域からの情報発信)



ボランティアについていろいろ書いたが例えばボランティアはまず身近な所から始めるのが筋だろう。飯館の秘密の山陰の川の流れているところが道になり自動車が通るようになり清い流れの岸に花が咲いていたがゴミが投げられるようになった。そこは自分にとって大事な場所だったが公共事業の道作りによって破壊された。あそこは神秘的な場所だったのだ。道は森に隠されてそこは山陰になりいつも薄暗かった。細い流れがその森ののなかを一すじ流れていた。これは詩として「森の聖域」に書いた。

ここで私が自動車をもっていればその自動車から捨てられたゴミを拾いそこをきれいにしたい、そこはきれいな所だから自分にとってきれいにしたいから誰に言われなくてもそのゴミを撤去したい、ここにゴミを捨てるなとまた言いたい、それは実際は地元の人が言うべきなのだが地元の人は関心ないのだ。道を作るときも誰も関心ないから道になった。こういうことは多いのだ。つまりボランテアとはそこに住んでいて街をきれいにしたい良くしたいということから起こる。誰でも自分の住んでいるところがきれいでありたい、住みよくしたいのが普通である。一方外国となるとこれはなかなかそういう身近に考えるボランテアとは違ってくる。また簡単にはできないから組織化してやるほかなくなる。ただボランテアはこうした身近な問題から始まるのだ。

あそこには二軒家があり一軒は廃屋になった。その近くに小さな橋があり「共栄橋」と名がついていた。つまりここは不便なところだからあとから開拓に入りこうした名前がついた。こういう名前は開拓に入ったのに多いのだ。ともに栄えるという意味であったが一軒は消失して廃屋だけになったのだ。今は一時的に道路整理の労働者が借りているらしい。ボランティアはそうした近くのものに目を向けることから始まる。これは郷土史とも関係していた。時事問題と郷土史が関係ないかというと関係している。過去の問題も必ず現実の問題と関係しているのだ。なぜならその道を行き上萱の方に入る道に凶作で飢饉のために被害があった。飯館はかなりの高地だから冷害が多い。「作見の井戸」などがあるのも豊作であって欲しいという願いからでてきた智恵であろう。井戸を見て作況を占うのである。飯館は寒冷地だからこうした作況占いも切実になるのだ。

インタ-ネットの新しい情報分野にこうした地域のことそれもその人だけが関心あることや個々人の恨みやら不満がインタ-ネットでは書ける。こんなこと新聞にものせないし本にもならないつまり今までの情報をしきっていた新聞であれマスコミであれ出版社であれ書店でも営利事業だから売れないものは情報として価値ないから置かないのである。だから簡単に邪魔になるから置けないと拒否されるだけであり本であれば大手の出版社が一手に担っているのであり書店はその配本を待っているだけである。それもベストセラ-という売れるものを置くだけでありそれが誇大に宣伝されて馬鹿な浮気な読者のために消費されるものでもかまわないのだ。つまりこういう所は教養とか情報社会とも関係なくなっている旧来の特権をにぎっていた独占者だったのだ。だからインタ-ネットの情報は全く別な視点の情報環境を創出したのだ。だから出版を拒否されて一人で出版社を作った人のサイトもあった。こんな人いても不思議ではないと思ったからだ。社会に発言を拒否されてしまうことは民主主義社会ではない、出版社の許可がないなら発言もできないではすべての権力は出版社とかマスコミににぎられしまうのだ。現実そうなっていたのだ。

その他裁判の不満を訴える人とか様々な個人の不満をホ-ムペ-ジで訴えている。ただこれもいちいち関心を払う人がいるかどうかは疑問である。マスコミの欠点はマスメデアであり常にすべての人が関心を持つものは出すのだがこうした地域とか個人の非常に狭い範囲の中のある一人がかかわるような情報については出さないのだ。だからどうしてもマスメデアはどこ見ても同じになりやすいのである。多様性に欠けてくるのだ。一方逆にインタ-ネット多様すぎてどこに注意をはらっていいのかもわからないのである。この地域や個人の点の情報も時事問題として現代社会を反映したものなのである。ここから上萱を通るとそこも廃屋がいくつか残り土を盛った墓があったがそれも住人によって持ち去られて墓もなくなった。ここもあとから開拓に入った所であった。ここは相馬から塩の道が通じていた。塩は当時貴重であり二本松まで運ばれたのだ。こうした点の情報が無数に出てきたのがインタ-ネットである。

それからホ-ムペ-ジで注目したのが廃村をバイクでたずね歩いている人だった。2000近くが廃村化したというがそれだけ深刻な過疎化が全国をおおってしまった。

湖沿いには,金色の麻那姫の像がありました。麻那姫はこの地方の伝説上のお姫さまで,「ひどい旱魃があったとき,うら若き乙女が川に身を投げて,その後乙女の死を悲しんだか雨が降り続き,村は生きかえった」とのこと。
吉田さんのお話によると,麻那姫の像の製作には2000万円かかったとのことです。(福井県旧西谷村大野市上若生子)


これに注目したのは犠牲にしてまでこの村を救おうとした、そうして村が続いてきた。その村が途絶えることは惜しい、村は一個の村として代々つづくことに意味がある。そこに生産があり暮らしがあることによって村は一つの生き物のように代々存続する。それは他のものにとってもそこに村が生き続けることはやはり山を守り自然を活かす存在として必要だったのである。その村がただ公共事業の道作りだけに活用されるとしたらそのこと自体自然の理に反することなのだ。人間の暮らしは自然の理に則ってあるべきでありそれがなくなるとき社会は荒廃する、確かに物質的に豊かになっても今の社会の荒廃の原因はこうした基本的な生活の地域の自然に則った暮らしがなくなることにもあった。日本人の本質的な部分がこの村で作られたからである。村があって町もありうる。これらは相互に補完すべきものだった。どちらも欠けてもバランスを欠き歪(いびつ)になるのだ。昔の町は都会は市がたつということから起こっているからそもそも村のものがその生産物を持って集まる所だから村が生産の基盤であり町はそもそもマチで一区画の意味であり大きな町は少なかったのだ。生産基盤は村にありまた京都のような都ができても生産の基盤は地方にあり地方の豪族に都会の官僚が土着したのであり地方に冨はあった。地方の冨を集めるのが都だったのだ。

麻那姫の消えにし村の跡に立ちあわれ哀しき春風吹くも

この綿々とつづいた村がたたれることこれは日本の歴史的大損失であることに気付くべきである。大都会は消えてもいいがこの代々つづいた村は残るべきだった。これが逆になったことは日本全体の荒廃につながったのである。

飯館に来たらここが何なのかというとき一つはこうした私が書いた情報も一つの参考になる。ここはこんなところだったかということで理解を深める。まずあそこにある「共栄橋」というのに注目している人はいないからだ。

共栄橋

昔ここに共に栄えむと
開拓に入りし家二軒
「共栄橋」とここに名づけぬ
今その一軒の家は廃屋となる
秋の夕日さしてあわれ
山深く淋しき処かな
釣鐘草にソバナの花
ここにうなだれ咲きしも
二つの石の黙して
この道を行く人まれに
山陰ひそかに暮れぬ

詳しくは「飯館の道」へ

HN「廃村と過疎の風景
http://www.din.or.jp/~heyaneko/haison.html