時事問題の深層920031月〜5月

    5   8  10 11 12
相馬私局(小林)
a private channel in soma-gun
(近況報告ー日記)
小林勇一 感想はこちらへ



脱北日本人妻問題の裏側 1月20日
江戸時代ブ−ムの裏側(金沢の枯木橋)1月25日
NHKBS−幻冬舎の一方的発言 2月4日
 対馬で韓国船が日本の巡視船に体当たり 2月14日
  (2ちゃんねるで対馬島民とコンタクト!)
「倹約より投資」資本主義の精神 2月20日
インタ−ネット自殺は何故? 3月7日
インタ−ネット情報学(ニュ−スを読む) 3月15日
何のための戦争なのか 3月25日
戦争の意味 3月29日
4月14日
インタ−ネットの情報の生命はリンク(SARS関連) 4月29日


 
 脱北日本人妻問題の裏側

脱北日本人妻に韓国人ブロ−カ−が外務省に3千万要求
中国政府に誘拐犯として韓国人二人が逮捕される


今回のこの事件の背景は実に複雑なものだった。韓国の南と北と中国と日本と三つ巴から四つ巴になった問題だったからだ。これだけで一冊の小説になる十分な内容だった。テレ朝がからみNGOがからみ韓国のブロ−カ−がからみ中国がからみ日本人が餌食になった。テレ朝がこの韓国のブロ−カ−を通じて取材できたのか、金を払ったのか、多分金を払っていることは確かだろう。思うことはテレビの映像とは影響力あることなのだ。あの日本人妻の生々しい姿と告白をテレビで見せられる同情しない人はいない、活字になってもリアルには想像できないが、テレビだとまざまざと眼前に訴えるのである。テレビの力を再認識したのだ。小泉首相も田中真紀子も一躍政界のスタ−になったのもテレビとマスコミの力だということがわかる。テレビはまず人間の感情に訴えるのである。
一方活字は人間の理性に訴える。テレビの画面にでるとあれは美人だとかあれは太っているとかあれは顔に品がないとか白髪だとか禿げだとかそうした表情が最初の第一印象になる。だからテレビで見るテレビで解説する評論家を本やホームページでその意見を読むのとは違ってくる。本やホームページではその人がどんな考えの人なのか問題になる。その人の表情など太っているとかとかどんな顔なのかとかは見えないから問題にならない。あれこの人はこんな考えの人なのかと驚くことがある。これもメディアの違いなのである。

テレビで日本人妻の窮状を見た人はみんな同情した。いろいろその背景があったにしても同情したことは確かである。しかしこの裏には暴力団がらみの闇があった。韓国人ブロ−カ−のゆすりたかりにNGOやテレ朝が協力していたのだ。善意が利用されていたのである。テレ朝は善意というより視聴率とかをあげることや社の方針にそって企画した。企画したのは韓国人のブロ−カ−だったかもしれないことがこれでわかった。3000万円の要求は中国人にしては大きすぎると思っていた。韓国人なら物価からみてそうなるのかそれにしても額が大きすぎた。欲張る乞食は貰いが少ないというようにこの韓国人のブロカ−は欲張りすぎたのだ。そんな金払いないと日本人も中国人に泣きついた。まあなんとかしてやると中国はこの悪徳ブロ−カ−をつかまえた。誘拐犯としてとするとその刑はかなり重く死刑になるかれしれないと騒いでいる。ここには国際的複雑な問題がからんでいる。日本人妻にしたってなぜ未だに日本国籍を持っているのかわからない人も多い。国籍は何ぞやという問題もある。実際二重三重国籍の人すらいるのだ。こういう人は単一民族の日本では理解しにくいのだ。まあ国籍なんかどうでもいい、世界市民とか無国籍人とかを言う人間が多くなっているが国籍がないことは安全が保証されないことになる。宇宙人なんていないし誰もその人の保証はしてくれない。だからアルカイダは国籍不明となり国際法に則った捕虜の扱いがされていないと人道問題になっている。つまり無国籍人間には人権すら保証されないのだ。在日のわかりにくさはコウモリのような存在であることなのだ。韓国なのか日本なのかはたまたアメリカなのかわからないのだ。北朝鮮に行った在日は実は南の韓国人だったということもその複雑さを示している。

私が知った韓国人はアメリカ国籍で日本人を妻にしていて子供は日本国籍である。こういう人が在日ではめずらしくない、日本の国籍をとりたくないからアメリカ国籍になったのだ。在日の力は東北辺りでは目立たないがかなりの力がある。金銭的にも力を持っているしそれが北朝鮮を応援する結果になった。在日に外国人に選挙権を与えることで問題になるのもその勢力の圧力であった。公明や社民やその他これを後押しするのはやはり在日がその中の大きな勢力となっているためである。「在日教授同盟を粉砕せよ」と出ていたのは何だろうか?
在日のいろいろな同盟があるのかもしれない、そういう団体が政治勢力になっているからいろいす問題が起きてくる。社民は在日に財政援助やらしてもらっていたのか大きく依存していたから拉致などなかったと言ってはばかることもなかったのだ。今回の事件で明らかになったことは北朝鮮は暴力団と対して変わらないゆすりたかりの国だったことである。日本は過去のことあるにしろヤクザにいろんな因縁をつけられてゆすられるのだ。私の知った在日の人はじいちゃんが日本人に日本刀で切られた背中の傷があるとかそれで因縁つけられて延々と日本人の罪業を責めつづける。「この傷のおとしまえどうしてくれんだよ、・・・・」これは謝ってもだめである。金を払ったとしても許すことはない、延々と因縁つけられてゆすられたかられるのだ。そういう個人がねらわれたドラマがある。どうしようもなくてそのゆする相手を殺してしまうのが結末になる。今回の事件はそれとにている。日本人も困って中国に頼んだのだ。中国もまた日本をゆする相手でもあるが今回は暗黒街の大親分に頼んだのだ。そのにらみは大きいし怖いものとなる。韓国は中国には頭が上がらないからだ。

日本人妻を責めるだけのも問題である。というのは宣伝にのせられたことや3年に一回は日本に帰れるという約束を破ったことやその時北朝鮮について判断できないからだった。若いときは社会のことはわからず判断を謝る。わけもわからず政治運動したり狂信団体に入ったり道に迷うことが普通なのである。青年の純粋な心が通るような世界ではない。善意が善意として通る世界でもない、善意を利用する人もいるし巨大な闇の勢力が利権を得るために存在する。利権とか利害がからむとどうしても善意でも利用される。鈴木宗男のODAの援助問題もそうだった。政党や派閥や党派や団体に属するものがなぜ公平で中立でありえないのか、それはすべて利害で結びつき利権がからむからである。政治評論家でもある団体から金をもらったり援助されたり仲間となればその応援することになる。人と人のつながりも利害がからむとおかしくなるのだ。本当に公正中立の立場から批判するには利害から離れている人が適当なのである。神が偏り見ないという時、神はどちらの国にも味方するわけではないのだ。その判断の基準は正義であり強いものに味方するわけでもない、世界が強いものだけが勝っているわけではない。アメリカだってベトナムでは敗北したのだ。ベトナムは弱小国だった。強い国の言い分がすべて通るとは限らない、今回のイラクの戦争は世界の世論も反対に動いている。アメリカの横暴さが目立つからである。そもそもマスコミの報道自体、公平ではない、なぜかというと会社からの宣伝費用で運営すること自体公平でなくなるからだ。それで偏った報道になるのだ。ともかく利害がからむとそこに公平さは失われるのだ。だから本当に公平に判断できるのは神しかいないとなるのだ。なぜならすでに人はどこかの国に属していてそれ自体公平な立場でなくなる。どうしても国の利益が優先し考えるからだ。神はどこの国にも属していない、だから公平に判断できるのである。神は地にさえ属していないから公平に判断できるのだ。

ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ(イザヤ−1−4)

今北朝鮮はこちらから見るとこう見えるのだ。北朝鮮では逆の宣伝をしているが日本から見れば今回はそう見えるのだ。

シオンは公平をもってあがなわれ、そのうちの悔い改める者は
正義をもってあがなわれる(イザヤ−1−27)

この世界史に正義など働いていたのか神などどこに存在したのかと疑問を持つ人も確かに多い。多くの無辜の人達が犠牲になったことも確かである。でも確かにこの世界史にも世界にも神の力は働いているのだ。はたしてでは人間は軍事力だけで力だけで世界を支配できるのかといったらできないはずである。アメリカだってできないのだ。今回のアメリカのイラク攻撃がとうしても抵抗があるのはそこに義のための戦争というのが欠けているからである。一方的な力の横暴に感じられるからだ。



 江戸時代ブ−ムの裏側(金沢の枯木橋)

金沢風情ある城下町である。金沢について何をか書こうとする時やはりそれなりの資料が必要になってくる。金沢をどうして知るのか本を読むこともあるが手っとり早いのはやはりインターネットである。また金沢の細部を知らないとありふれたガイドブックになってしまう。しかしよそ者は細部を知ることはむずかしい。ちょっと旅行したくらいではわからない。今回イメ−ジ検索のkarekiからどういうわけか枯木橋が金沢にあることがわかった。写真もでていた。いかにも古い橋といった感じだ。なぜこんな名前がついたのだろうか、これはわからない。もしかしたらもとは枯木で作った橋だったからかもしれない、昔は橋は粗末なものが多かったからである。石橋とあるのは石の橋が珍しいからわざわざ石橋と名づけた。そういえば石橋とつけること自体あまりにも今ではありふれているが日本はほとんど木の橋だったのだ。だから木橋などと名前をつけないのだ。橋の名前もいろいろ探れば面白い。江戸時代の街の堀りなどにかかっている小さな橋も風情がある。また中山道に枯松坂があった。これもなぜ枯松坂と枯れた松を名にしたのだろうか、それはもともと枯れた松ではなかった。枯れた松になってもその松がありそこで枯松坂になったのかもしれない、枯松になっても切り取られずにそこにあったからそう名がついたのか、今だったら不用となり切り取られているからである。いづれにしろその名の由来はわかりにくくなっている。

この枯木橋を検索すると尾張町で紙屋をしていた女性の一代記を見つけて読んだ。紙屋というのは自分の家でも店やっていたから紙を仕入れて袋にしていたのだ。新聞紙を袋にしたこともあるが袋にしていたことは確かである。インドでは今でも三文店屋で新聞を袋にしていた。尾張町とは前田利家が尾張から移ってきてここに商人町や職人町ができたからである。相馬というのもそもそも相馬流山市があるごとく武士の移動してできた市だった。街の始まりはそういうものが多いのだ。江戸そのものが家康の家臣団が移動してできたものなのだ。だからいたるところに他国の町の名前がついている。米子町と松江にあったのは大工を米子から移動してきたからであった。城下町を作ると他国から大工や商人や職人を移動させたのである。つまり農民と違いこういう人達は移動してきて住み着いた人が多いのだ。

この枯木橋だが味噌蔵町→9人橋→枯木橋→浅野川という経路で水路があるというがこれも昔を語る名で面白い。なぜ9人橋なのだろうか一日9人渡る橋だから9人橋なのか、そういう淋しい橋なのか由来はわからない。ただこの町の名をたどって行くと昔が偲ばれるのだ。

尾張町紙屋の語る昔かな枯木橋通り冬の日暮れぬ

金沢の枯木橋かな冬の暮

これは想像でできた一歌だが地名や町の名にはそうした昔が歴史がこめられているからこれを変えたらその風情や歴史が失われることになるのだ。なぜ今江戸時代ブ−ムなのかつまり急速な文明化で日本がもっていた良きものが回りから消えてしまい、やたら自動車の騒音ばかりや無味乾燥なビルばかりたち何か精神が疲れるというだけではない、病む人さえ増えてきたのだ。江戸時代であれ戦前であれ何か日本的なこまやかな人情が残っていたのだ。江戸時代それは濃密な人間関係のなかで人々は生きていた。村でも侍でも商人でも職人でもそうである。それらの仕事仲間は家族同様だったのである。それほど親密だったのだ。会社というのがその日本の終身雇用の場となったがそれも失われた。会社というのは盛衰をまねがれえないことである。今日のような国際化のなかで永続的なものは存在しにくい。絶えず変化の波に襲われているのだ。

江戸時代の暗黒面を取り上げればきりがない、江戸時代にはそれなりにいい面もあったのだ。大工でも2時頃までしか働かずあとは遊んでいたとかその生活は一面余裕あるものだったのだ。もちろん貧乏を言えばきりがないが反面貧乏の中で物を大切にすることがあった。下働きの女性はお碗は持ち込みで自分用として変えないでそれだけを使っていたという。お碗一つそれだけ大事にしたのだ。形見分けというのも一生着ていたものを分けるから貴重なものだったのだし意味があったわけである。今形見分けなど必要ないのだ。次々に新しいものを買えばいいからだ。ただこれによって物を大切にする心は失われ物は大事にして使うというより使ったら捨てるという習慣になってしまったのだ。そのことは人間にもはねかえる。人間も使ったら捨てられるとなりかねないのだ。古くなった老人は用ないから捨てるとなる。そういうものが捨てるという行為のなかで生き物にも応用される。例えばニワトリが庭の鳥でなく卵を生む機械にされたと同じように人間も流れ作業の中でロボットのように働かせられる。ナチスの人間ガス室の処理場はこうした過度の工業社会が人間を物化したためそういうことに無関心になったためだという指摘がありあんなことは人間を物と考えない限りできない。つまり文明がナチスを生んだのでありその原因は文明そのものにあったともいえるのだ。

今いろんな点で江戸時代が見直されるのも明治維新以来の西洋に追いつけ追い越せという凄まじい努力に日本人は疲れたのである。これからの時代は再び日本的なものを見直す国風文化を養う時になったのだ。奈良時代が中国からの外来文化の輸入の時代であり平安時代が国風文化になり織田信長の南蛮文化が外来文化の輸入であり次に国風文化の江戸時代となり明治が西洋文化の輸入であり次に来るのは国風文化、日本的なものを見直す国風文化になる。江戸時代ブ−ムはそのために起こっている。鎖国にはならないが日本は日本的良いものを見直す国風文化の時代になる。ルネサンスとは蘇る、再生という意味だから国風文化の再生でありそれが江戸時代ブ−ムになっているのだ。年とったせいもあるのかどうも今の音楽でもテンポが早すぎてなじめない、年のせいでなく確かに

昔のものにはいいものがあった。それは見直されるべきである。経済発展、GDPだけにこだわるだけの時代は終わった。高度成長時代は帰ってこない、新しい江戸時代の回帰が次代を作るかもしれない、新しいものとは実は古いものであり古いものの再生だからである。イタリアのルネサンスの壮観はそこにあった。ギリシャがロ−マが中世のキリスト教修道院文化の時代に新しい血としてアジアのイスラムの文化が混入してあの壮観が生まれたのだ。日本も今そういう要素をもっているからルネサンスが起こるといえる。このバソコンにインターネットはその強力な武器となる。



 縁側のあった時代

家にはどこでも縁側があり
縁側に日がさして
隣近所の人がそこに腰かけ話していた
庭には古い柿の木があり
親父はのんびりキセルを吸っていた
炭小屋があり山では炭を焼いていた
水は近くの井戸水をもらい
風呂は鉄砲風呂とかで紙屑を入れて
不用になった木切れを燃やしていた
家はトタン屋根ですき間風やら
雨漏りしたがみんな一生懸命働いた
貧しいがチャボ台に一家団欒があった
そんな貧しい日々も思い出となる
すべてが甘美な思い出となる
新しい便利な時代も過ぎ去る
しかしそこにいかなる思い出が残るのか
ゲ−ムに明け暮れ時間を無駄にしたとか
豊かな時代が必ずしもいい思い出を残さず
かえって貧しい時代がいい思い出になる
これも人生の皮肉かもしれない
それぞれの時代がありパタ−ン化して
貧しい豊かだだけでは語れない
人間は一様には語れない
時代もまた同じである


この縁側というのが農家くらいでほとんどなくなった。必要なくなったのだ。今では隣近所はむしろ遠い存在なのである。今家に必要なのはベランダである。縁側使われない。縁側はやはり社会的機能として作られたものであり便利さだけからではなかったのだ。縁側がなくなったということはそれと同時に隣近所もなくなったことなのだ。江戸時代ブ−ムはこうしたもう一度失ったものを見直すことになる。



今回の検索も奇妙なものだった。karekiとイメ−ジ検索して枯木橋がでてきて
次に枯木橋と入れて金沢の案内がでてきて尾張町の紙屋の一代記があり次に
朝日新聞の金沢についての連載がでていた。インターネットを読むということは前も言ったが本を読むのとは違う。インターネットの検索のコツは意外と枯木橋などという百以内のヒットのものがしぼられてその連関性もでてくる。一万とか千でも多いからしぼれないしその中がすべて有益とはならない、数が多ければ無駄が多く時間もかかる。「旅の俳句」で数十しかでてこないことでもわかる。俳句で探すのは駄目である。不思議に「旅の俳句」と意外と入れていないのである。
数が少ないもののなかにいいものがあればしぼられて読み安くなるのである。今回はそうしてしぼられてあったので連関がたどり易く書けたのである。





 NHKBS−幻冬舎の一方的発言

幻冬舎の社長がでてきていいたい事をNHKで言った。本は売れる本がいい本なのだかと大衆の価値観に基づくものがいいのだとか・・・・
いかに出版そのものがいい本というのは売れる本でしかないのだ。それはどういう本でも風俗本でもいいということになる。
はっきり言ってあんな出版社から出す時流的な本は買うべきではない、
最近のベストセラ−がでているがあんなのを買うべきではない、
出版−取り次ぎ−書店これらは今や文化を作り出す使命感も何もなくなっているのだ。すべての価値観は大衆に受けるもの、売れるものになるからである。戦前のように本を読むエリ−ト層がなくなり硬いものは売れなくなったことは確かであろう。読者の質が落ちたことが本の質も落としたこととは相関関係にあるのだろう。本自体が大衆消費的なものになってしまった。座右の書として置くものではない、その場限りで読んでは捨てるという感覚である。bookoffはそうした本を安くまわし読むシステムを作ったのだ。

NHKのおかしな点は幻冬舎を話題として出すのはいい、一方で幻冬舎と
検索を入れたらそれを批判している自費出版社があった。
玄文社だった。この出版社の社長も呼んでその批判者の意見も出すべきなのだ。マスコミがnhkすら一方的かたよった報道をしているのだ。
江藤淳は、脳梗塞の病苦によって自殺したのであり、断じて愛する奥様に殉じたのではない
つまり美談化されて本にされ売り出されたと言っているのだ。本というものを信用するが売るためにはマスコミ報道と同じように作られるのである。出版の世界や本の世界は知や情報の独占であったがこれからはインターネットで変わってくる。

「マスコミによる選択の痕跡が露骨に表れていて不快である。その正反対の声もあるはずなのに、マスコミは成功を証拠だてるインタビューだけを作為的に選択することができる 」

これはある地方の祭りついてこの社の社長が言ったことである。これは別にそれだけでなくマスコミで話題を取り上げるときこうなりやすい。ある人を呼んでしゃべらせるのはいい、しかしそれに反対する人も呼ぶのが公平なことである。インターネットでどう変わるかというと幻冬舎の社長の話をさせる一方でこうした出版のあり方に反する地方の出版社の意見もあります。玄人社です。このホームページのアドレスを出したりすることもインターネット時代のマナ−となる。adslになれば映像としてリアルタイムでインターネットとつなぐことができるのだ。実際テレビを見ながら幻冬舎の反するものを検索していた。

「おい、NHKよ、一方的に幻冬舎の言い分を放送するな、それに反する出版社もあるんだぞ、それに反発する人もいるんだぞ」
こういうふうにそのテレビの画面に向かって叫びたくなった。現実そうした声はインターネットに無数にある。マスコミの放送の独占はインターネットで変わるのだ。いづれにしろ本とマスコミはこれから急速に変わらざるをえない、こんな田舎でもadslが普及したことは言論や表現、コミニュケ−ションの世界が変わるからだ。adslは個人がテレビ局にもなれるからだ。無数のテレビ局ができるのだ。放送すること自体特権でもなんでもなくなるのである。情報戦国時代になるのだ。下克上である。マスコミの権威はそうした下からの蜂起、エネルギ−によって崩されてゆくのである。そういう兆候が日経新聞をやめた人のホームページにあった。日経新聞は財界と結びついた偏向新聞だとしてやめて自らを主張している。個人で大会社を告発しているのだ。2ちゃんねるでは赤井邦夫という偽名の人がそっくり韓国よりの2ちゃんねるにでていた文を投稿したりそのまま出されて朝日新聞のことを話題にしていた。つまりそういうことができるメデアなのだ。これからもマスコミとインターネットの争いはつづく。マスコミはこれまでの大衆を支配する権威を保ちたい、一方インターネットはそれに対抗するものなのだ。マスコミはインターネットを無視するがだんだん無視もできなくなる。本の世界は出版社−取り次ぎ−書店と情報独占の構造になっていた。ここでかつての良書を期待するのは無理である。コンビニで買うパソコン雑誌や手軽な暇つぶしの本だけが出される。書店自体はなくなる。本は残るがこうした商業主義一辺倒の情報独占の構造体からはもういい本などでないのだ。書店もその系列化に組み入れられているから消えるのである。書店とはいい本が邪魔になる場所なのだ。「邪魔になるから置けない」と自分が排除されたことでもわかる。これからは営利的な所にはいい本は置かれなくなる。本はそういうものと違う価値をもっているからである。私的怨念があるにしてもこれは自分だけの問題ではない、出版は余りにも不公平な世界だったのである。



幻冬舎の話を聞きました、これに関しては玄文社から反論がありました 次のホームページにアクセス 他にも異論反論あり、実際は異論反論を出していないのだ

このように番組はもはやマスコミだけが作るものではない、視聴者も
一緒に作るものになる。




玄文社

http://www1.odn.ne.jp/~cal67130/jihi


 
 対馬で韓国船が日本の巡視船に体当たり
(2ちゃんねるで対馬島民とコンタクト!)
http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/10451

1 :キシャ━━━(゜∀゜)━━━φ ★ :03/02/13 14:22 ID:???
 厳原海上保安部(長崎県・対馬)に入った連絡によると、12日
午後8時40分ごろ、同県上対馬町から北北東に約31キロ沖の、
日本の排他的経済水域内で、同保安部の巡視艇が漂泊中の韓国の
はえ縄漁船を発見、立ち入り検査しようとしたところ、漁船が
体当たりや蛇行を繰り返しながら韓国の領海方向に逃げた。
 巡視艇は停船命令を出して数回、強行接舷を試みた際、船首左側に
約70センチ四方の穴があいて浸水。ポンプで排水しながら自力で同町の比田勝港に入港した。乗組員9人にけがはなく、油の流出もなかった。 同保安部は、公務執行妨害の疑いで、逃亡した漁船を韓国の海洋警察庁に手配した。


対馬島民

今日昼間、比田勝港に、あきぐも、はやぐもと見慣れない
巡視艇あきつき(?)が泊まってたんでちょっくら見てきたけどそれらしい穴なし。もう修復に入ってたのかな?




比田勝港か、対馬の人か、対馬に去年の10月に行ったばかりだ
ずいぶん淋しい所だったな、バスに乗っていたのはバチンコに来た
漁師一人だけだった、あそこに韓国にやられた船が帰ってきた
対馬は本当に韓国近いよな

対馬島民

通信って、まぁ電話回線くらいはあるからね。
福岡に行くにも今は結構便利になったよ。日帰りで行こうと思えば行けるし。
夜景は夏休み3回トライしたうち1回見れますた。結構キレーだよ。
ちなみに一番韓国に近い地区は鰐浦ってとこです。

やっぱり、国境の島ということで陸自、海自、空自の基地はあるよ。大きくはないけど。
特に航空は最北端の海栗島で、でかいレーダーと共に警戒に当たっておられます。


漏れが舗装のバイトに行った時、ちょうどテポドン発射された後だったから北に向けてでかいパラボラが3基並んでおりますた。


電話あればインターネットできるんだよな、無線するんじゃないから
電話はどんな離島にでもあるよな
プサンの夜景はいつも見れるとは限らない
プサンの夜景が見れるとは日本より韓国が近く感じるよな
プサンからも対馬が見えると言っていた
プサンには二回行っている、夏には対馬からも船で行ける
本当に対馬は韓国が近い、
船で博多まで帰ったけど4時間くらいかかったみたいだ
やはり日帰りはちょっときつい感じだった
船の料金も高いからやはりなんか離島だよな
そういう離島に住んでいる人の気持ちはわかんない
陸地に住んでいると大分違った感じしたからな


対馬島民

れとしては、周り全員日本人だし、9チャンネルで韓国のテレビが映るとはいえ、日本人として近く感じるのはやはり日本。
でも、夏に夜景見て、やっぱ距離的には韓国近いなぁと思ったことはあるけどね。


そうか、距離的には近くても外国は外国、日本人は日本が近い
韓国のテレビ映る、やはり韓国圏内だな
オレは東北から初めて対馬に行ったから遠い遠い
青春18切符で東北から博多までだよ、一日汽車で泊まって
青春はとっくに終わっているけど、(老人も乗っていたけど)
東北からだと九州は遠いんだよ
飛行機だと仙台から近いが汽車だと遠いよ


比田勝は韓国船の避難港か、いや韓国身近だな、
どうしても対馬は昔からそうだったよな、韓国の遭難者の墓があるとか
韓国の人が墓参りにきたとか、いろいろ韓国とまつわる歴史があるな


対馬島民

避難港は、舟志(しゅうし)湾だよ。
比田勝港は福岡への定期航路、フェリーやら貨物船やらの航路が多いんで避難航ではないよ。

比田勝は韓国船の避難港か、いや韓国身近だな、
どうしても対馬は昔からそうだったよな、韓国の遭難者の墓があるとか
韓国の人が墓参りにきたとか、いろいろ韓国とまつわる歴史があるな

対馬島民

参りはしらんかったが、バルチック艦隊が沈んだ時の話は島民の間で有名だよ。主砲も砂浜に記念として残ってる。

朝群国訳官使殉難之碑 (上対馬町)

元禄16年(1703年)旧暦2月5日、108名乗りの訳官使船は浅、釜山を対馬に向け出港したが、急変した天候の為、鰐浦を目前に遭難、全員が死亡するという悲惨な海難事故に見舞われました。事故の史的背景が善隣友好を基底とした国際交流に鑑み、碑は国境を越え、官・民の枠を越えた総合的善意で完成(平成3年3月20日)また、韓国までは53kmの距離にあり、天候の良い日には韓国を遠望することができます。
鰐浦が韓国に一番近い


2ちゃんのニュ−ス速報にでていたものだが比田勝港に住んでいた人からの連絡がここにあったことが注目すべきことだった。確かにその当事者とその場にいる人と連絡とれるのがこのインターネットなのだ。無線で対馬の人と連絡できて応答できただけで凄いとと思うようにとにかく応答することがパソコン通信では必要だった。レスがないのはパソコン通信では通じているかいないかわからないのでレスは重要だった。インターネットを有効利用するには必ず掲示板に書いたらレスがあったらそれを知らせる機能である。メ−ルでもいい、なんでもいい、返答ありましたというメッセ−ジが必要なのだ。それでないといちいちその反応を調べるのに手間がかかりすぎるのだ。だから2ちゃんでも一回限りでどこに書いたかもかわらなくなる。そして素早いレスがないとレスはできなくなるのもこの世界である。最近はみんな常時接続だから特にそうである。一分間に数十の発言がつづくことがあるからだ。そのスレッドは生きていることになる。

2ちゃんは明らかにチャットの延長したものである。ここで大事なことは対馬で問題が起きたらそこに住んでいる人からの連絡があるということである。これは全国的にそうなのだ。自分もインターネットの支局として存在していることなのだ。こういうふうな利用がインターネットに向いているし今までにないことである。全国民が放送局員になっているのである。ボランティアの放送局員になっているのだ。対馬にでも今や離島でも通信環境は整うようになり連絡できるようになる。2ちゃんは問題だが全国のニュ−ス速報の点の情報を知るには適しているのだ。同時につながっていることがインターネットの強みなのである。ライブであり同時に全国が世界がつながってっていることで開ける世界がある。これに注目しそうしたソフトの開発も必要である。どうしても掲示板に書き込んだらそのレスがあったらピンポンとかレスがありましたとかパソコン上にわかるようなソフト、通信機能が必要なのだ。

とにかくライブで対馬島民と多少とも話せたことは面白かった。遠い所の人との交流は新鮮なのである。年齢に関係なくややはり地元の人は情報は違うのである。その土地の人にとって当たり前でも対馬となると東北の陸地とは全然違った環境になるのだ。インターネットの交流を活かすには例えば外国だったら一度はその人の住んでいる所に行ってみてそれからインターネットで交信すると通じるものがでてくる。言葉の障害はあるのだが何か通じるものがでてくる。遠い人との交流は明らかに面白いのだ。対馬はある一面東北からすると外国なのだ。これは一つのインターネットの利用の仕方であった。まだこの世界にはいろいろな利用方法があるのだがなかなか情報を有効利用することがむずかしいのだ。
「倹約より投資」資本主義の精神

 
 資本主義とは何か、capitalのcapは動物の頭だという。おそらく羊と関係している。外国では羊の頭が店頭に置かれているのを目にするからだ。牧畜民族では羊がすべての資本であるからだ。ということは資本主義は農耕民族から起こったものではない、遊牧民から起こったものである。遊牧民が海の民となり航海に乗り出したという説は遊牧民と航海民は共通性があるからだ。何が最大の共通性かというと方向感覚である。砂漠でも方向を一歩間違うと死にいたるのだ。だから方向は一番大事なのだ。それで星が方向の目印となるから星の文化が生まれたのだ。砂漠の国、イスラム関係の国がみんな星を国の旗にしているのもそのためである。その方向を知る一番の標が北極星であり北斗七星なのだ。何もない砂漠に映える星は実に美しい、はっきりとその方向を示してくれるのである。考えてみれば砂漠は乾燥地帯だから常に星をみることができるのだ。人間の盲点は意外と天候とか地理に無知になる。また誤解が多いことである。天候と地理的感覚を養うことは実にむずかしいのだ。なぜかテレビで世界の報道に接しようが地球儀を見ていてもこの広い世界の地理を見る目は生まれない。例えばそもそも日本国内だって土地の人でないと地理にはうとくなるからだ。地元の人でないと土地勘はもてないのだ。方向感覚も失うのである。歴史にしてもなぜ西郷隆盛が征韓論者となったかというと九州は韓国が身近なのである。東北では韓国は遠いのである。関が原がなぜ天下分け目の戦場となったかも地理にある。

とにかく北斗七星は日本には妙見信仰となって伝わった。これは相馬藩の九曜の紋にもなっている。妙見信仰は幅広く日本中に存在した。韓国にも濃厚に北斗七星の信仰があった。古代に天文台と言われるものもあって瞻星台というのが残っている。星の文化は遊牧民から農耕民へ海をわたり日本に伝わったのである。遊牧民の特徴、文化を理解することは簡単にできない、それは農耕民と余りに異質な世界だからである。遊牧民は絶えず羊の草を求め移動する民である。海洋民も移動するからにているのだ。資本主義が一体何なのかとは学問的には自分はわからないが牧畜の羊を資産とするものから発したことと海洋民的なもの、貿易と関係している。遊牧民はすでに移動する民だから貿易の商品を運ぶ民でもあったのだ。漁業というのも魚をとるだけではなく貿易に発展する。農耕は土地に定着するから遊牧とか漁業とか貿易の海洋民とは性格がかなり違うのだ。農耕民は太陽を信仰するのも方向ではなく天候と関係するからだろう。農耕民は倹約、貯蓄が道徳となるのも遊牧民や海洋民や貿易にたずさわる商人とは違う。農耕民はなんかシステム的であり組織的であり土に根ざして着実であり倹約と貯蓄が美徳となり消費とか投機とはなじまないのだ。それが農耕民には資本主義が理解できない要因となっている。「倹約より投資」だと実業家が言う時、資本主義とは資本を大事であり常に資本を投資して事業を起こす、新しいものを作っていく、消費するものを作ってゆく、絶えざる挑戦なのである。それは内にでなくて外に拡大する大航海時代を生んだのである。その外洋という危険な海に乗り出すための保険として株主が危険を分散させるために作られたのが最初の保険だったのだ。

世界の指導権を握ったのはヨ−ロッパで海を制したものだった。イスラム国家→ポルトガル→スペイン→オランダ→イギリス→アメリカと海を制したものか世界を制したのである。資本主義と社会主義を比較したとき資本主義は移動する遊牧民や海洋民、航海民に適したものでありし社会主義は陸の農耕民に適したものだった。皮肉なことに資本主義から社会主義になるというマルクスの理論は逆だった。先進性があったのは資本主義である。これはいろいろ弊害を生んでいるが資本主義的なものが生産を向上させ社会を発展させる力をもっていた。社会主義は大陸の農耕民にあったものだったのだ。だからソビエトとか中国とか巨大な大陸の農耕民のイデオロギ−となったのである。それは昔の巨大専制国家と同じだった。社会主義は何かそうした自由性のない非効率的な国に管理される保守的なものとなってしまったのだ。一方資本主義は環境破壊とか競争原理とか様々なマイナス面もあったのだが冒険商人とか企業家精神とか絶えず新しいものを生み出す原動力となったのである。資本主義と民主主義も表裏一体の関係となるとこちらの欧米型自由社会の方が世界を導く精神と社会を作るものでもあったのだ。

いづれにしろ一カ所に留まり営々と土を耕すものに新しいものは生まれないし革新的なものは生まれない、絶えず新しい風が吹く世界がやはり活力を生み出す、それがヨ−ロッパでありアメリカであったのだ。絶えずフロンティアを目指す精神である。ただ空間的には物理的にはフロンティアの領域は無くなりつつあるがやはり人間の精神面でのフロンティアはあり開発されてゆく、芸術の分野は限りない創造の世界だから絶えず今までにない新しいものを生み出す世界だから人間に芸術創造のエネルギ−はなくなることはない、パソコンとともに新しいア−トや文化が生まれるように絶えず更新されてゆくのがこの世界である。インターネットの世界もこれは今までの情報環境と違いすぎるから異次元の空間といえるほど情報環境が違っているからその中では今までにないマスコミでは得られないものが日々増殖し網の目のように発展し続けている。世界は常に新たな意味を帯びて発展している。90才まで普通に生きるという超高齢化社会もマイナス面もあるが今までに歴史で経験したことのない社会なのである。それが停滞した社会になるかもしれないがやはり今までにない90まで生きるという社会は人生はそれなりに評価されるべきである。

 海に活路を見いだした

新しい歌を主に向かって歌い、
喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ(詩篇33−3)


海に活路を見いだした
冒険者よ、汝らは果敢に進む
そして新大陸は発見された
大陸に移住しても前進はやまなかった
広大な西部が待っていた
地中海は実に大西洋に乗り出すための
航海の訓練場として働いた
投資と冒険は同じ精神
しかり常に未知なる世界の挑戦
それが資本主義の精神
「倹約と貯蓄」にあらず
その命も財産も新たな世界の発見のため
投資して次代にその希望をたくす
新しい創造、新しい発見、新しい夢に向かって
人間はたゆまず前進する
風は吹きそよぐ、新しい花を求めて
世界めぐりふきそよぐ
千の花に向かってふきそよぐ
まだ見ぬ花は尽きることなくあり
風は山を越え海をわたりふきそよぐ
発見の旅は終わることはない
冒険者の魂はなお息づいている
船乗りのバイキングの末裔
ポルトガルからスペインから
イギリスがオランダがアメリカが
海に活路を見いだした
そして新しい世界が開けた


この図でわかるように海を制したものが世界を制した。イギリスからアメリカへ移り最後に太平洋をめぐり日本と衝突したのは歴史の必然であった。海が世界を制するからである。
太平洋戦争は海を支配するための戦争だったのだ。

投資と船(東インド会社)
http://ad.diamond.ne.jp/ZAi/20000621/pr02/03.html


 
  インタ−ネット自殺は何故?

インタ−ネットで自殺募集して実際に自殺した若者がつづけてあった。
なぜこんなことが起きるのか世間では不思議がある。マスメディアではインタ−ネットのせいだ批判する局もあった。私もインタ−ネットというメディアが関係している面はあると思った。このメデアの特徴がそうしたとも言えるかもしれない、かといって私はインタ−ネットの推進派だから積極的に利用しようとする規制のマスメディアに不満をもつものだからインタ−ネットをやめろというものではない。ただインタ−ネットが今までにないメデアでありそれに影響されたものであることは否定できないのだ。それはなぜかというとこの世に自殺したいという人はいくらでもいるのだ。ただそれを言い出せないだけなのである。この世に強姦の思いを抱く人も無数にいる。その欲望のはけ口を求めている人は常時存在している。ただそういう人と実際にあって即実行するということにはならない、またそんなことを公に募集することもできないのだ。インタ−ネットはそれができるメデアなのだ。それが今までのメデアと根本的に違うのだ。

インタ−ネットの検索そのものが常に共通項を探しているのだ。これは変わっているかもしれんが一本粛条として田んぼのなかにある柳を見て自分の家にも90の老人がいるからそれをイメ−ジして「姥柳」(うばやなぎ)と名づけた。それが自分のアイデアだと思ったが実際は違う、「姥柳」という地名もあるし伝説もすでにあったのだ。それは意外とポピュラ−な名づけかたかもしれない、人間の長い歴史の中でそういうことはすでに誰かがイメ−ジして定着していたのである。俳句でも今ではまるっきり同じ俳句があるのだ。自分も自分が作った俳句と全く同じ俳句をインタ−ネットで発見した。俳句は短いし同じものがあっても不思議ではない、もしインタ−ネット上にすべての俳句をのせて検索したらどのくらいになるかわからないが確実に同じ俳句がでてくる。インタ−ネットは同じものを探す検索にすぐれている。だから同じ趣味や同じ思いをいだく人がインタ−ネットでは単に検索でなくても同じ意向や思いを抱く人が出会いやすいのである。それがマイナスのいげつないものでもそうなるのだ。インタ−ネットで強姦しようと仲間を募り実際にした人もいたからである。そういう悪い思いもなに憚ることなく露出してとがめるものもいないのだ。それらの悪い思いはマスメディアだったら一応規制されていた。反面いいものも規制されていた。だからマスメディアにしてもそれをとがめるだけではすまないのだ。

インタ−ネットの特徴は人の内面の思いが露骨に表出されることである。この思いが念が意外と曲者である。宗教そのものが本来心の探求にあり心を清めることに重点を置いたものである。心が思いが悪いこと自体すでに罪だと言っている。女を見て欲情を抱くのはすでに罪だとキリストも言っているし宗教は心を重くみている。ただ世間では実際の犯罪に結びつかない限りとりしまることはない、法律に違反しない限り取り締まることはないのだ。だからそうした無数の悪い思いと念は放置されたままでありそれが時々行動に表れるのが犯罪なのだ。心に悪い念があると人間は不幸なのである。他人を呪っているもの何であれ他人に憎み殺したいとまで思っている人は不幸なのである。心に安らぎがないのだ。
一方他人の幸福を思っているものは行動に表れなくても幸福である。例えそれが行動に表れなくてもそうなのだ。少なくても他人に無関心な方が心にはいいのである。

若者のヒキコモリはいいとは言えない、青年は活動の時代であり暴れる時代だからそんなやつは蛆虫だともいえるが一方成熟したものにとってはヒキコモリは有効なのだ。精神にとって有効である。人と会わないことや人とやたらしゃべらないことも精神にとっては心にとってはいいのである。沈黙は心を浄化するのだ。自然は石であれ木であれ山であれ沈黙している。何千年何万年と沈黙している。その大いなる沈黙こそ学ぶべきである。何年もしゃべらない修行者がインドにはいる。それが修行だと言っていた。馬鹿げているかもしれないがそれが宗教的なことであり毎日一票とるために物質的功徳世間的功徳をご利益を説いて回るのは全く宗教ではないがそれは人を集めるのだ。
「オマエは心を清めるために1年間しゃべるな」と言うのが宗教である。物質的なご利益とは関係ないから世間はこうしたことに注目しない、現代では奇人変人かアウトサイダ−になるのだ。ヒキコモリといえば昔の修行僧はみんなヒキコモリなのだ。禅僧でもそうであり世間と隔絶して心の修行に励んでいたからだ。世の中の職業につくことは心が汚れるからつかなかったのである。職業自体、業とつくごとく何らかの業だという観念があった。だからインドのカ−スト制では職業は業であり洗濯屋は代々その輪廻の業として洗濯屋にしかなれなかったのだ。いづれにしろ商売だと愛想笑いしたり心にもないことを言わざるをえない。それは明らかに精神衛生上悪いのだ。笑いとかは心のそこからわき上がるものであり作るものではないからだ。人間という存在は一つの分業化した職業に収まるものではない、本来大自然の中のホストであり大自然を映すものが人間だった。上野霄里氏が体現した原生人間だったのである。社会に役立たなくても大自然の中に存在感をもつ人間はいたのである。

とにかく思いとか念とかを軽く見る人がいるが誰かが殺したいという念をもちその念が強いと本当にその人が殺さなくてもその念が空中に放出されて誰かに伝播し本当に殺人が起こってしまうというのは本当にありうることである。気の弱いものは真っ先にやられるのかもしれない、北朝鮮の怖さは「アメリカと戦争だ、戦争だ」毎日その念を送り出していることである。だから実際に戦争になりうるかもしれない、それが狂気だとこちらからみていてもそうした念がナチスであれ日本の戦争でも起こっているのだ。そして現実にそうした悪念いだく宗教団体もありたいがい今の宗教団体はそうした悪い念を集めた所なのである。人間の欲望の念が宗教という名のもとに集まっているのだ。だからそもそもそんなところに行っても心とか念が清められないのだ。自然と接している職業の人は農民であれ山で暮らす人であれ漁師であれ純朴だというのはやはり環境の影響だろう。ただこれも千差万別であり田舎でも醜い心の人はうじゃうじゃいるのだ。だから一概には言えないにしても悪い念の作用は都会に起こりやすい、源氏物語の藤壺は源氏に寵愛された結果、まわりの女性の嫉妬の念で病気になり死んだのである。誰かの悪い念で病気になることはありえることなのだ。医者は確かに医療技術も大事だがいい念をもたないと患者に作用することがありうるのだ。金だけをとろうとする医者も問題かもしれない、技術の善し悪しもあるがあらゆることに念が作用する。念が思いが悪いからこの世が一向に良くならないともいえるのだ。「神が心を見ている」というとき確かに心はみえないものだけども心を見えるのが神なのだ。あなたがどういう思いを抱いて生きてきたのか死んでからも問われる、裁かれるとある。つまり行為でなくその思いが裁かれるとあるのだ。実際自分にしても何らか常に不満があるし思いを清めることはむずかしいのである。

  春寒しこの道通り姥柳




人間の生活は家族とか村とか学校とか会社とか共同体に属して生活している。その中で自殺志願者は必ずいるのだ。他にも変わった願望を抱く人は悪事の願望を抱く人もいる。しかしそれぞれの属するコミニュテイ(共同体)は分離してつながりがないのが普通である。aという自殺志願の願望の強い要素がインタ−ネットで抽出されそのaという要素の強い人間が集まり行動に移る。インタ−ネットはそういうことができるメデアなのだ。aという自殺願望を強くもっていても分離した小さな共同体ではそれは変わったものであり孤立しているのである。だからたいがい自殺は一人でしている。共同でしても心中とか相愛の中の女性としているのだ。インタ−ネットでは全然知らないものでもaという要素で結びつく、それも小さな共同体を越えて結びつくのである。



インタ−ネット情報学(ニュ−スを読む)

@ハリ−ポッタ−が本屋に在庫の山(2ちゃんねる)

A家電激戦区仙台ラオックスがパソコン部門など大幅に縮小(2ちゃんねる)

Bコンビニがない島にブロードバンドが来た―温泉郡中島町の住民によ る1年以上の“誘致運動”が実る(2ちゃんねる)

C中高年エイズ患者・感染症が急増中(2ちゃんねる)

D東証の閉鎖も考えられる(株価の余りの下落)

インタ−ネット時代のニュ−スの読み方は違ってくる。意外と2ちゃんねるにマスコミで報道しなくても重要なものがある。これらのことを報道していない、その人によってニュ−スを要約することが必要になっている。ニュ−スに軽いコメントしたり、これは2ちゃんねるでしている。マスコミで報道されるのにならされているからニュ−スを自ら解読するということをしていなかったのだ。マスコミでこれが大事だとこれがニュ−スだというのが必ずしもニュ−スとは限らない、もちろんイラクのことは重要問題だからそういうものは変わらないにしても他に芸能のゴシップなどは必要ないのだ。仙台のラオックスは自分が買い物していたから関心をもった。Bはブロ−ドバンドは島でも山村でもどこでも必要なものである。そうでなければ情報過疎地域ができる。田舎でもかえって受信するだけでなく発信にすぐれているインタ−ネットは使いるのである。Cも中高年の買春に対する警告の事実である。Dはこれほど深刻なのかということを認識した。閉鎖とまでは思わなかったからだ。他にも注目すべきことはある。ただニュ−スというものがただのべつとなく垂れ流しのように流れてくるがそれでは意味を成さないのだ。2ちゃんねるにしてもその解説者が必要になっているのだ。現代はあらゆることに的確に批評しコメントする人が求められている。ニュ−スというものを一つの意味あるものとして編集する人が必要なのである。インタ−ネットは個人レベルでそれができるから自分もやっているのである。


 
映画は誘われて両方観た。原作は読んでいない。
文庫本サイズになったら買おうかと思っていたが(しかもブクオフで)
一向に出る気配がなく、ついに読もうという気さえ失せた。
映画の内容はそこらのB級の作品よりも話に奥行きがなくつまらない。
前評判だけで初めのうちはどうにかなっただろうけど、ありふれた
しかも感動も何もないこの作品がずっと売れるはずもなく。
ロード・オブ・ザ・リングも2作目はただドタバタやっているだけで
どこにも見せ場がなくてつまらなかった。
大々的に宣伝している作品が必ずしも名作ではないんだなと最近思う。
何気にビデオ屋でレンタルした作品に、心に残るものがたくさんあったし。



前にベストセラ−というのがあって何百万とか売れたとか
そういう時代は終わりでしょう
情報がインタ−ネットとかで増大した
でもまだマスコミの力は大きくのせられたんだな
何気なくビデオ屋でレンタルした作品が良かった
何気なくインタ−ネットで見たものが良かった
それはおそらくあなたがその価値を見いだしたんでしょう
あなたの目で見たあなたが価値判断して良かった
それがいいものですよ
例え宣伝されない多くの人が注目しなくても
インタ−ネットはそういう時代ではないでしょうか



良書は得てして地味で静かなブームなものである。
ホントの本好きには、ベストセラーかどうかなんて関係ないし



2ちゃんねるのハリ−ポッタ−が本屋の買い切りで在庫をかかえて困っているという。ハリ−ポッタ−の訳者は原町市の人だった。講演にも呼ばれたし同じ高校の出だったのだ。これは面白かった。というのは本屋の人やいろいろな人、出版に詳しい人も発言していたらしいから。読者でなく本屋がこれにのせられたというのが今までと違う。本屋とはそもそも本の価値など判断できない、売れるものだけを売ればいいのである。その本がどんなものかなど関係ないのである。宗教団体の本も売れるからいいと言っている。買わないものは何言ってもだめだと言っている。本屋は本の価値判断できないのだ。どんな商店でも商品の善し悪しがわかるしいいものを売ることをこころがけている。本屋はただ一方的に出版社の売れそうなものを並べるだけである。雑誌と漫画だけになるというのは本当だし現実に町の本屋はそうなっているのだ。

いづれにしろもう本屋はインタ−ネットやら多チャンネル化や現代の情報革命には対応できないし消える運命にあるのだ。本屋なくなってもまず困るという人はいなくなっているのである。これも自分の怨念からだけではない、本屋は今や本当に魅力がない、町の本屋にはブックオフより本はないし本はもはや置けないのである。本の時代はある意味で終わっているのだ。価値観が余りに多様化したのである。ベストセラ−の時代は終わった。マスコミの宣伝にのせられる時代は終わった。個々人がそれぞれの価値を追求する時代である。それがインタ−ネットの時代である。

2ちゃんねるはバカネタも多いがマスコミが盗作したように巷のネタが多いからそれをネタに記者は文を書ける。2ちゃんねるは個々の関心に対応するものがでている場合がかなりある。テレビの芸能ネタとかスポ−ツネタとかその他多数を相手にしたニュ−スが必ずしもみんなに必要ではないのだ。インタ−ネット時代の情報洪水に対処するには個々人に見識や知恵や技術も求められているから大変なのだ。社会も多様なように本来ニュ−スも多様だし個々人の要求によって違ってくるのが正常だったのである。一方的なマスコミの情報独占の時代は終わった。マスコミがこれが今のニュ−スだというのは必ずしもそうでないしその押しつけも誇大化も通らない時代になりつつあるのだ。


 何のための戦争なのか?


今回の戦争は一体何のための戦争なのか?
テロを撲滅するための戦争なのか、アメリカの先制攻撃でテロをなくす為の戦争なのか、でも戦争に勝ってもテロはなくならない、むしろテロの脅威は増加してくる。ではなんのための戦争なのか、独裁政権は世界にとって危険でありこれは撲滅させねばならない、政治は民主的であらねはならない、独裁政権は必ずテロの脅威となり他国の脅威となる。とすると一つのイデオロギ−の戦いなのか、冷戦のときもそうだった。自由と共産主義の戦いだった。その裏側は大国の覇権争いだった。ロ−マがあれだけの広域支配を確立したのは一応法というものを施行したからであり武力だけでは治めることができないのだ。

イスラムは政教一致の体制で民主社会とは相容れないから撲滅するべきだ。ではイスラム社会が民主的社会に比べて劣るのかといえばそうではない、ギャンブル、酒の禁止とかモラルの維持につとめるのは悪くない、むしろ西欧型自由社会の方がモラルの低下がみられる。アメリカは一番殺人などの犯罪が多い国であることがそれを示しているのだ。とにかく日本の戦争もアジアを欧米から解放するための戦争だったとしきり言っている。結局戦争は自国防衛以外正当性が見いだせない。テロ撲滅は武力では力では成すことができないことは確かである。平和の仕事は地味である。植林とか井戸掘るとか教育の普及とか技術指導とかそうした底辺を助ける仕事だから時間がかかり忍耐を要する。戦争のような一時的華々しい結果では解決しない。戦争は憎しみを残す、そしてなんのために戦争するのかということがベトナムで起こった。地獄の黙示録になったのだ。

ただベトナムとの違いは彼らの戦いは民衆に根付いたものである。イラクはフセインは独裁者であり民衆と分離しているのだ。それから部族社会も根底にありイラク民族の一体化が脆弱なのだ。だからクルド民族とかイラクという国のアイディンティが歴史的一体化が脆弱なのだ。ベトナムのように愛国心に基づいた戦争になったらベトナム化するがイラクはそのためにフセインのもとにはそれができないからこれからどうなるかはわかからないのだ。アメリカが中東の地図を変えると画策したがその思惑とははずれて別なもの、クルドの独立をうながしイランのシ−アが台頭しそうした複雑な事情にアメリカも巻き込まれ中東に動乱をもたらしそこで新たな秩序が生まれてくるかもしれない、ただそれはアメリカの画策通りにはならない、反米政権もできる可能性もあるのだ。いづれにしろフセイン政権は倒れる。次がどうなるのかそれがアメリカの思惑通りになるとは思えないのだ。

とにかく今回の戦争でアメリカが失敗すれば世界的影響力とか地位が下がる。軍事力があっても国連からも孤立してやったからだ。そのとばっちりは日本にもくる。日本と英米とは一体とみなされ日本の地位も危うくなる。アメリカに味方した国の影響力は軍事力、経済力があっても立場は弱くなるのだ。何でもアメリカに追従することのツケが回ってくるのだ。戦争とは何かという時、太平洋戦争でもそうだがリアルに感じることができなくなっていることなのだ。戦争で人が死ぬということがどういうことなのか実感できないのである。そのことは今多少苦戦を強いられている死者を出して感じている。ベトナムの戦争で今もそこで戦った人が生きている。そういう人と現に会うということが歴史をリアルに感じることである。なかなかテレビだけだとドラマのように見てしまうのだ。ただイラクのジオラマで気づいたことはイラクとイランの間にはかなり高い山脈があることに気づいた。あの山脈が国境となっていた。イラクまではアラブ人が拡散したがあの山脈でさえぎられペルシャ人の領域になった。ペルシャの末裔のイランとイラクは同じイスラム教でも違っていて戦争したというのも背景に歴史的にも違った民族だったことも原因している。ともかく歴史は地理が要でありまた学問だけでなくテレビだけではわからないリアルな体験が必要である。

ベトナムに戦う人のなお生きぬその傷深く歴史の証し

イラクではイラン戦争でも傷ついた人がテレビに映しだされていた。アフガニスタンでもそうだがあの傷が生々しく痛々しいのである。

 
  戦争の意味

人はさほど行動の意味を問わず行動を起こす
戦争という重大事もまたそうである
戦場に若者の血が流され傷つき人は考える
この砂塵のなかに砂にまみれ苦しい戦いをなぜ
自由と解放のためならばなぜ一緒に立ち上がらぬのか
力あるものはその力の故に行動起こす
しかしその行動の意味を考えるのはその行動のままならず
敵国の砂嵐にさえぎられあまたの若者の死者をだし
傷つく兵の故国に帰りてその行動をふりかえる時
行動の前にその意味を知らず行動の後にその意味が問われる
それが人間が繰り返してきた業のようなもの
砂漠の砂嵐の中に爆撃された戦車が放置される
それは虚しくただ砂に埋もれてゆくだけなのか
その戦争の道具すらその意味を問うのである
物すら虚しくは朽ち果てたくはないのだ
日本の戦争の遺物ゼロ戦が南国の島の海に沈んでいる
それもまだ戦争の意味を問い残骸を残している
人は意味なき労働、戦いに耐えられぬのだ
自由と解放を、しかしそれならばなぜたちあがらぬのか
血を流し犠牲になるのは他国の兵士
石油の利権のための争いなのか
石油のために尊い若者の命が犠牲になるのか
イラクもまた自国防衛の大義のために戦う
それもまた独裁ではあれ大きな意味を持つ
砂嵐にさえぎられ同胞の兵士が死に傷つき
やがて兵士はこの戦いが不毛のようにのしかかるのか
ベトナム戦争の悪夢が再び彼らにのしかかるのか
新たな戦争は再び砂漠で開始された
戦端を開けばトロイの攻防のように
ずるずると戦いは果てし無くつづく
策略、陰謀、諜報活動、あの手この手
しかし現代の戦争に英雄はなし
ただ科学(化学)兵器や原爆の恐怖が襲う
人間力は恐るべき科学の力に圧倒される
その戦いの勝敗を決するのは何なのか
人知の知られざる所、神が知りたもうにあらじや
強きもの必ずしも勝つにあらじ
力にてこの世は治められじを知るべし


  征服の民

大西洋をわたりインディアンをインカを滅ぼし
ヨ−ロッパの民の末裔は征服を好む
広大な西部を開拓し太平洋戦争に勝ち
七つの海を支配したイギリスの末裔
アメリカは敵を求め敵と戦い征服する
ベトナムのジャングルにアフガニスタンの山岳に
今度はイラクの砂嵐の砂にまみれて戦う
アメリカ人、ビジネスで世界を征服する
戦争もその一環としての征服の戦い
彼らは宇宙時代になっても戦っている
その意味は問わず戦うことに生き甲斐を見いだす
彼らは生来、征服の民なのだ
彼らは一カ所に安住することは好まぬ
新たな戦いの場を求めて進んで行く
その意味は問わず戦うこと自体が生き甲斐
彼らは外に外に拡張する征服の民である



近代の戦争は組織力であり科学力であり人間的なものがなから戦争のロマンなどないのだ。むごたらしく死体が並ぶ。大量殺戮の非人間的なものである。文明の戦争には叙事詩はない、例えば漢詩になっている中国古代の戦争は極めて人間的だからヒュ−マンサイズの戦争だから人間的に解釈できるし詩にもなっているのだ。戦争の美学が存在してそれが騎士道とか武士道となってモラル化したのである。戦争であってもそこには常に後の世に語られる人間的なものが存在した。イラクがしきりにブッシュよここにきて一対一で戦いとか叫んでいるのもわかる。兵器では圧倒的な力を持つアメリカには対抗できない。大将同士の一騎討ちで勝敗を決めた時代もあった。そうした戦いの美学など微塵も存在しない、瞬間的にビュ−ンと飛んでくるミサイルで街は無惨に破壊される。そこに守るべき城もない、地下に逃れるくらいしかない、天守閣で燃える炎の中にその最後を遂げる美学もない、武士の戦いには確かに美学がありモラルがありそれで武士道というものが世界からも称賛されたのである。人間は殺し合いするにもケダモノではない、何がしか人間的なもの、人間でありたいというものがありそこで美学を残したのである。負けるものには負けるものの人間として誇りを残したのである。ただただ敵を打ちのめし殺戮し抹殺しゴミのように捨てる現代の科学戦争とは違っていたのだ。

つまり人間は科学が発達してもモラルとか人間的な面ではかえって野蛮化しているのだ。文明といい法律だ、自由だといいながら人間は何か人間的であるかということについて昔より精神面では退化しているのだ。ファシズムとか独裁になるのも文明の特徴なのである。ここにもモラルはなく、ただ恐怖政治があるだけである。これも野蛮化である。君主に王に仕えるという美学とかモラルもないのだ。独裁者とその臣下の関係も封建時代より何か野蛮化している。独裁者はその臣下を奴隷のように扱っているしそこにあるのは恐怖の支配である。文明というと進歩したものとみられがちだが実際は精神的には退化したともいえるのだ。民主主義からファシズムが発生したように民主主義も文明下の大衆民主主義は混乱をもたらすだけになるしすべてにすすめられるものでもないしイスラムの古いやり方にもそれなりに歴史的に培われた社会の調和を計るものがあるかもしれないのだ。

民主主義が科学一辺倒の社会が必ずしも優れた社会でもないし封建社会が必ずしも遅れた社会でもない、もしかしたら古代のエジプトの社会が調和のとれたそれなりに平和な社会であったから何千年も文明がつづいたのかもしれない、つまり人間は必ずしも進歩していないのだ。科学は進歩しても人間は相変わらず愚行を繰り返しているのだ。アメリカの文明が必ずしもすべて称賛に値するものでないしそれを押しつけるのはおかしいのだ。どうしてもアメリカは常に戦争をすることを国是としている国ではないかと思える。定期的に戦争を起こすことが国策として必要な国ではないのか、中国という国もあれだけ戦乱を経験した国だからなんとか平和を保つ、権力のバランスを保つ感覚がありやたらに戦争を起こし攻め込むということはないのではないか、とにかくアメリカは力あるが故に力を行使する。アメリカ人が最も野蛮人なのではないかと思える時がある。アメリカ人こそ法の力より武力、暴力の力を信じているのではないか、定期的に戦争が必要だから戦争を起こしている。その理由は戦争を必要とするものがあるということである。それは何なのかわからないが世界を支配する軍事力を世界に見せつけるために戦争を行うという面もある。ブッシュがイラクに「最後の審判を下してやる」という傲慢な言葉にもうかがえるのだ。神のごとき立場になっているとアメリカは力に奢っているである。イラクを親米政権にすればイランにもにらみがきくしパレスチナにもにらみがきくしサウジアラビアにもにらみがきく要所を手に入れることができるのだ。そうした世界支配の戦略の一環としての戦争であることは言えそうだ。

涼州詞   王翰

葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人回

葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す
酔うて沙場に臥すとも 君笑ふことなかれ
古来 征戦 幾人か回(かえ)る


この漢詩では異国の文化を称賛し味わっている。西域の異国の音楽にも耳を傾けている。これは戦争といっても今では優雅に感じるし余り悲壮なものに思えないのだ。異国の美酒に酔い音楽に耳を傾ける。そこには性急ではないゆったりとした時間が流れている。西域という異国に身をおく作者はそれなりに異国を楽しんでいる感さえあるのだ。詩を残すこと自体余裕があるからできるのである。つまり昔の戦争は文化の交流という側面があったのだ。秀吉が李氏朝鮮から陶工を連れてきたのもそのためだった。戦争は文化の交わりのための性急な手段だった面があった。現代の戦争にはそうしたものがない、ただ殺伐としているだけなのだ。アメリカにしてもイラクにしてもそうである。一方は科学力を見せつける、一方は人間味のない異様な覆面の殺戮集団だしそこには古代の戦争のような人間的なものがまるでないのだ。それでも戦争では人間が死ぬから仲間が死ぬから戦争の意味を一人一人の兵士にも問うことになる。いづれにしろ現代の戦争は何か科学力だけが突出し無惨なものだけが残される。その後は歴史として語り伝えるというよりアメリカが映画として戦争の題材になる。いづれにしろ現代の文明戦争は何かむごたらしいものばかり残すのだ。




(イラクの国家予算に匹敵)

イラクの戦争は終結したみたいだかこれからが大変である。国立博物館の陳列品が根こそぎ盗まれたことは無惨だった。あそこまでするのかという驚きである。火事場泥棒はどこでもある。自分も経験している。水害にあい店のものが流された。カンヅメとかその他のものも全部もっていかれた。とるにたらない薪になるようなものまでとられた。これが人間の真実である。2ちゃんねるでこのことが話題になった。その同じ例として神戸の震災のことが語られた。

実際に「震災時にレイプ事件は多発してた。 他県からのボランティアの女性が襲われた件もあった。
だが、「こんな大災害時でもパニックになることなく、秩序を守り助け合う日本人」というイメージを守るために、また実際的な問題としてそう言う事実が報道されてボランティアや援助の流入に差し障りが出たり、被災者達の間にも疑心暗鬼が産まれるては困ると言う判断もあって、報道にはストップがかけられてたんだよね。ボランティアの女性達には単独での行動はしない事が厳命されてた(特に夜間)。
普通に考えても警察力が低下し窃盗・強盗は多発してたのにレイプ事件だけは増えてないなんて考えられないでしょ?


この発言のどこまでが真実かはわからない、この発言している人自体、体験者であってもそれぞれの体験者から聞いたわけではないから憶測で言っているのだ。こういう時の報道は混乱するのだ。正確に事情を知ることは不可能である。やたら憶測ばかり噂ばかりが飛び交うのだ。だからこうした戦争や災害時の報道は鵜呑みにできない、何が真実かわからんからだ。誰かが2ちゃんねると同じだわなというのもわかる。情報の混乱状態になる。何か災害があったとき2ちゃんねるやインタ−ネットでもその信頼性が薄いから混乱することになる。私がインタ−ネットでちょっと調べたら次のようなものが出ていた。

神戸震災時の少なからぬレイプ事件に激怒して《女性は自分の身を守る方法を知っていなくてはいけない》と護身法を学び‘97年に設立したFAIRWINDの代表・八木るみ子さんを

http://ckk.gn.to/sinbun518.htm

噂話がたくさんあるので騙されないように。
震災当時レイプされた人がたくさんいたという話は、ある団体の
でっち上げであることが
「物語の海,揺れる島」(与那原恵:小学館)
にレポートされています。

芦屋の奥様方の食器、花瓶などの高価なコレクションは全部やられたらしいです。 ちょっと、ざまぁみろと、貧乏人はひがんで思ってしまいました。こういうコレクションをしている人は気をつけて!

http://kame.tadaima.com/log/news03.html



真実は確かにレイプがあったが少なからぬであり多発したわけではなかった、これが真実であろう、もしそういう体験者がいたら怒って
八木さんのように名前を出して訴えていると思うからだ。

・当時厨房だった庵は家族全員の飯を得るために若い衆がいる中、並んで取り合いはした。
・電話の代わりに避難所から電報打ちまくり
・強盗に入ったおっさんのドタマを金属バットか角材で殴ったら逃げた記憶はある。
・近所の店で祭り級のインフレ発生(w
・喪家の会館から適当にゴネてきた缶詰まいてじーさんばーさんの神になる(w
・最終的に余った乾パンはトンカツのパン粉がわりに使った記憶が。今でもやるけどこれが案外まいうー


これは体験者の話だから一応信用できる。つまり体験者の話は多少誇張があっても何かしかの真実を語っている。断片でもそうである。ところがマスコミは体験者の語っていることを伝えるからそこで真実が歪曲されるのだ。直接体験者の語ることが可能になったインタ−ネットの情報の貴重さがここにあるのだ。例えば

俺の知り合いが魚市場に勤めてるんだけど、募集かけても人が来ないってさ。
来ても3日と持たないってぼやいてた。
「週休2日じゃない」「朝が早くて辛い」「魚くさい」「水が冷たい」って散々文句ばっかり言って辞めていくんだと。



無職で自殺した若者の話からでてきたが仕事はあっても嫌な仕事をやめている。失業の実態はどうなのかというと嫌なきつい仕事はある。でも日本人はやらないから外国人がその穴埋めをしている。失業が本当に深刻なら嫌な仕事でも必死にやるほかないからだ。こういう辛い仕事をしている人がいて魚を食えるといことを自覚する。隣が魚屋だったから魚のにおいが体につきどうしても魚臭くなってしまう。これはある人からの体験を聞いたものだがそれでもその辛さが伝わっている。つまり表現が具体的になっているからわかりやすいといえる。

とにかくイラクはこれからも混乱状態がつづく、日本のようにはいかない、独裁は悪いがアナ−キ−はさらに悪い、フランス革命時代もアナ−キ−状態になり多くの人が血祭りにあげられた。無政府状態になると人間の本性がでてくるのだ。人間は本来悪なのだから悪を取り締まることができないとしたら悪のやりほうだいになる。心の内がさらけだされこの世はまさに地獄となる。アラ−の神も何の威力もない、ただモスクは神聖なものとして生まれたときからたたきこまれているから破壊などしないのだ。盗みもしない、しかしハムラビ法典などはそうした教育も不十分であり貧乏人はこれぞとばかり盗みに入ったのである。イスラム教は盗みとかに実際は厳格であるがそれは多分に強制的なものとしての宗教なのだ。イスラム教ではみんな信心深いと思っているが強制的な面が強いのだ。今回の事件でもフセインの独裁でも強制されていたから従順だったとも言える。イスラム世界では自由は少ない、言論の自由もない、自由が何かも良くわからないが、タガがはずれたら略奪する自由になったのだ。自由社会ではいろいろ問題はあるが自由に選択し自由に考えて行動するということがある。自主的な力を養う環境はあるのだ。民主主義も問題はあるが情報の自由を保証するとかそれなりに整備されているからだ。もちろんこの中でも独裁制、ファシズムが起こる危険性はありそういう団体も(創価やその他)現実に存在して支配しているからわからない、でも自主的に物事を考え行動することが民主主義でありそういう力を養う場を提供するのが民主主義である。

インタ−ネットも大きな権力団体だけではない、マスコミだけではない、言論の場を提供したのも民主主義があったからだ。イスラムでも中国でもインタ−ネットが危険なものとされるのもそのためである。イラクには自由が何かもわからない、こういう社会ではやはり宗教がモラルでありこれに変わって民主主義だなどといってもこうした混乱状態になるだけであるから怖いのだ。急速に伝統社会を壊すことの怖さである。日本の明治維新はやはり日本人が改革したのであり外国人でなかったことに大きな意味があったのだ。とにかくインタ−ネット時代は過剰な情報をどう処理していくか常に問題である。2ちゃんねるも貴重な体験の情報があるがあれだけでは情報の混乱になる。噂のようなものが肥大化して広がりやすいことである。それを確かめる方法もないから疑った方がいいとなる。いづれにしろ真実を知るということは容易でない、特に戦争とか災害時は情報が錯綜し混乱するから余計そうである。冷静に判断できないから一応疑って自分なり納得いく解釈をするほかないのかもしれない、マスコミも誇大化報道する、視聴率第一だからとにかく目立つことだけをとりあげるから問題なのだ。


インタ−ネットの情報の生命はリンク(SARS関連)

蛇、亀、鶏、鳥、犬、猫、猿、狸、穴熊、ムササビ、蛙そして各種昆虫まで売っている。一瞬ドキッとしたのは、ゴキブリを並べて売っている老人を見つけたと思ったときだ。よくよく見ると、それはゲンゴロウとタガメだった。こんなもの、どのようにして、食べるのだろうか?

http://plaza21.mbn.or.jp/~somo/index1.html

インタ−ネットで有効なのは情報の関連を見つけることである。これが大変である。掲示板にもそれに関連したものがあってもそれに行き当たることは大変である。テロとかSARS関連でオ−ストラリアに行くには検査が厳しくなっているし香港経由ではめんどうになるとか、香港で10日間留められたとかそうした経験者の情報がある。今の情報があるのだがこれは検索でも探すのに大変な労力がかかるから有効にならないのだ。もう一つの問題として著作権があり勝手に利用し組み立てることができないのだ。

私が発見したこの中国での広州の見聞録を見れば中国には今まであのような病原菌が発生しないこと自体不思議なことだった。いや実際は発生していても隠されていたのである。今回も政府の役人が隠したことでわかる。中国は表沙汰にならないことがいくらでもあるのだ。10億人もの人間を管理などできない、奥地では何が起きているのかもわからないのだ。中国では飢饉のときは土まで食ったという過酷な世界だから何があっても不思議ではない。

北朝鮮の説、中国の南部では猫を食う習慣がありそこから発生した(5月3日)

野生動物の売買取り締まり逃れ後絶たず…中国・広東省


http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20030503id25.htm

何美郷さんによると、大部分の新しい感染症の原因は、全く新しい病原体が出現したということではなく、微生物が宿主に入るルートが新しく生れたか、あるいは検査技術が進んだために、新たなウイルスや細菌が発見されるようになったというものだ。

(人類と細菌の戦い)
http://www.sinorama.com.tw/jp/1998/199810/index.html


このことは原因不明で死んだ人はかなりの数がいるが発見されずまた今のように報道もされなかった。中国などでは特にそうである。国際化していやいやながら中国も公表し細菌の戦いを強いられるようになったのだ。こうして人の行き来が活発になると
未知の細菌もまた発見され人類を脅かすことになる。国際化ではいいものも入ってくるのだが悪いものを必ず入ってくるのだ。日本の国際化とかは歴史的にも日本人が選んでいいものだけを取り入れ日本流に根付かせたのだ。それが現代ではできないのである。

何回も言っているがインタ−ネットの情報は様々な関連したものを結びつけると有効になるのだがそれが著作権とか検索のむずかしさでできないのである。細菌について検索して前の文を付け加えたのも常にインタ−ネットのなかではリンクして行く、付け加えてゆく作業が継続される。一人一人の情報を越えて情報が結ばれる機能があるのだ。だから個人のホームページは決してその個人では終わっていない、誰かと誰かの情報とリンクされてゆくのである。それがリンクされていないとしてもボジティブにリンクされるべき状態にあるのだ。インタ−ネット情報の生命は結びつけることリンクにあるのだがこれがうまくできていないのだ。インタ−ネットを探していると必ず自分の書いたものと関連したものがでてくる。それらを取り入れて編集すると一冊の本になるくらいのものがかけるのだ。人間の知識とか情報は本来リンクされるものだということがインタ−ネットでわかった。ちょうど脳細胞と同じである。脳細胞の一つ一つが触手のように伸びて他の情報と知識とリンクする神経細胞が結びついてくる。インタ−ネットがまさに巨大な脳細胞を形成しようとしている。だから一面人間の個など越えた化け物的なものを人工的に脳を作ってゆくような感覚に襲われる。でも実際は個々の情報、知識を結びつけるのは人間なのだ。

脳は常に定期的に脳内の情報と外部の新しい情報を繋げようとする働きをしている。つまり、部分的な情報を全体像へと導こうとしているのだ

http://komechu.hp.infoseek.co.jp/education/education_brain.html

人間の脳は固定したものではなく生まれつきのものではなく増殖する、人工的に変化する。もちろん人間には生まれつきの才能は関係している。それとは別に人間の脳自体は実際3パ−センはしか活用していないというように脳は働かせれば働かせるほど活性化するのだ。脳をつかわない者は生まれつきいいものを持っていたとしても停滞し縮小してしまうのだ。過度に酒を飲むものは脳細胞が死滅するとか性交も脳の働きを弱める。天才というのは必ずしも生まれつきではなく脳を知性を活性化した人であったのだ。天才でも才能だけでなく環境に恵まれていない人はなれないというのは環境と関係している。家庭環境と知的環境とか経済的環境とかいろいろあるがこれらは関係している。自分にしてもこうしてホームページで発表する場が与えられて絶えず創作が刺激されるということがあった。今まではそういう場がないから埋もれていたのである。おそらく大方の才能は埋もれさせられたのである。場が与えられないとか才能があっても開発できる環境になかったとか様々なファクタ−でそうなったのである。天才は生まれつきのものであるがこれは極少数の変種でありあとは環境や努力で天才的になりうるのが人間なのだ。コンピュタ−、インタ−ネット自体極めて脳細胞と似た働きをしている。関連したものを結びつける、リンクさせようとする力である。コンピュタ−には創造する能力がないにしても人間の創造する道具としては強力な道具になるのだ。

脳のアメ−バ−のような神経細胞も絶えず結びつき、リンクして増殖していくからだ。インタ−ネットの効用はそこにあるのだ。パソコン、インタ−ネットを使うことは脳の増殖を増進させる。それは本とは違う知識の取り入れかたなのだ。本は一冊一冊完成したもので別々の感じて結びつける力が弱い、インタ−ネットは強力にリンクし結びつこうとする。四方八方に触手を伸ばし関連したものと結びつきリンクし新たなものを創造するのだ。だから著作者を超えたものとして結びつく、著作者を離れて知識が情報が脳の神経細胞として結びつく、そういう今までにないことを経験することになるのだ。 例えば一冊の本の知識でもインタ−ネット上にテキスト化すると必ずペ−ジとどこかのペ−ジが結びついてしまうことは明らかである。関連した情報が一冊の本の中味の一部と結びつくからである。つまり一冊の本では足りないものが必ずありそれが補足されて結びつくのである。