このペ-ジがいつも「国風文化」とか「唐風文化」のキ−ワ−ドでアクセスが多い
それで連続したものとして日本の色合いに引用した文などを付け加えまとめました。
あとからまた国風文化などをテ-マにして付け加えるかもしれません、何にアクセスされているか知るのがホ-ムペ-ジではやはり出す方にしてもそのテ-マにそったものを出すようになる。
なぜ「国風文化」のキ−ワ−ドで探す人が多いのかやはり時代が求めているためだろう
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小林勇一
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地方の復興(ルネサンス) 常民への回帰 1月1日
虞美人草から地方の産物を読む 1月10日
明治大正の小説から昔の風物をふりかえる 1月23日
せかされる文明の時間(グロ−バリ-ゼ-ション−の世界の時間) 1月15日
失われた日本の伝統(職人気質) 2月2日
新年の福はどこにあるのか 1月5日
伊丹郷土史を読む 1月7日
注目記事二つ(団体化組織の意向が権力だ) 1月17日
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情報戦国時代(情報分析が必須の時代) 1月22日
政治は名聞名利の世界 1月27日
モラトリアムの時代(人間積み重ねが大事) 1月28日
宗教のもたらす混乱の恐怖 2月3日
バ-チャルなインタ-ネットの旅の発見 2月5日
新春特集
地方の復興(ルネサンス) 常民への回帰
●日本文化の地層
日本の文化の地層を見ると最初に縄文文化があった。これは非常に古い最下層の地層でありその歴史も長い、定かでないにしろ一万年とか言うのはやはりそこに長い蓄積があった。この縄文文化はどちらかというと東の文化であった。東北地方が縄文文化では西より発達していた。これは非常に大地に密着した文化であり日本人の原型を作った。最初に国風文化がありそれが神道の基となった。日本語はわからないにしてもすでに長い歴史のなかで縄文時代の言葉がそれがどこからきたかわからないにしても日本語は古くから混合してハイブリッド化してできあがっていたのだ。そこに弥生人が来てハイテクを製鉄とか米作りの技術をもたらした。銅鐸などもそうであった。銅鐸の文様や絵柄は南方的である。高床式とか水の文様とか南国的である。南からの集団の移住が色濃く残されている。九州の隼人は竹細工の技術をもってきた。竹は南方的なものでありベトナムなどでは竹が多い、日本は北方的要素と南方的なものが交わり所でもあった。縄文文化という国風文化の次に外来の弥生人がハイテクの技術をもって日本にわたり西日本を中心にしてやがて東北まで広がった。弥生文化がそれが発展して邪馬台国のような国が形成されてゆく、縄文時代は狩猟とか採集、漁労中心だから大きな統一国家はできなかった。その中であまり争いが記録されていないのは武器が関係していた。鉄もないから人を殺す武器がないから大規模な戦争にならなかったのだ。国ができるとすでに百余国が騒乱の時代となり邪馬台国がのし上がってきた。吉野ヶ里は竹槍のようなもので回りを囲んだ柵で囲んだ防御の最初の城だった。外敵の攻めてくるのであれだけの防御の陣地を築いたのだ。米作りが盛んになり鉄の生産で強力な武器ができると戦争も大規模化して殺戮も大規模化してくる。これは共通の人間の歴史である。ヨ-ロッパは絶えざる戦争の歴史だったゆえに武器が発達した。城壁も堅固なものとなった。ところが大砲ができて城壁が容易に破られるようになると地方の封建領主は力を失い国王中心の中央集権国家ができるようになった。武器の発達が城壁を無用のものにしたのだ。
●歴史のサイクル
ともかく弥生時代が発展して邪馬台国ができて古墳時代になった。古墳時代はさらなる力の集積の結果あのような巨大古墳が作られた。この時代は南方系の素朴な技術とは違い大規模な技術力や権力の集中が行われた。これが発展して奈良時代の唐風文化時代に入る。仏教も入ってくるがこれは最初は巨大な仏像を作る技術力に注目された。その技術力が日本の統一国家を形成するにいたったのだ。その唐風文化から次は平安時代となりまた国風文化になる。かなの発明など日本人独特の文化が生まれた。この平安時代に平家の公家時代がありこれに対抗して東国から鎌倉の武士が平家を倒して政権をとる。これはまた新しい国風文化であった。日蓮とか親鸞とか道元とか宗教の教祖が生まれて貴族仏教、国家仏教を日本的なものにしたのだ。ラビ、バトラによると軍人の時代であり軍人の時代には巨大な人物が生まれる。
万葉時代も軍人の時代であり柿本人麻呂のような叙事詩の時代だった。刃のなかで説教しているような時代だから強烈な人物が生まれる。鎌倉文化は東国の武士を背景にしていたから骨太であり粗削りである。鎌倉時代の次が戦国時代、信長の南蛮文化が入ってきたのだが唐風文化時代になったのだがこれは一時的なものとして中途半端に終わってしまった。キリスト教の弾圧など外国文化の拒否となり家康の鎖国時代、また国風文化の300年の平和の時代を作った。300年間内外に戦争がない平和が続いてたことは海外でもまれだから一つの世界史的にみたら例外的なことであった。日本の歴史はこのように土着の国風文化と外来の唐風文化が交互に交代して歴史を作り上げてきたのだ。こうして長い国風文化がつづき明治維新になった。これは凄まじい唐風文化の席巻であり外国一辺倒になってしまった。太平洋戦争までそれはつづいたのだ。明治は軍人の時代であり内村鑑三のような巨大な人物を生んだ。明治には今の大学であれ政治であれ文化であれ企業であれ創始者になっていたことでもわかる。それを成功させたのは300年の国風文化の基、武士道などがあったからだ。東南アジアのようなそうした文化の基礎がないところは植民地にされたことでもわかる。
●欧米大陸は戦争の歴史
欧米の史観では永久平和はない、平和とは戦争の休止状態にすぎないという。だから江戸時代のような刀狩り、武器を放棄するようなことはなかった。武器は絶えず蓄えより強力な武器を作る必要があった。そもそも武器を放棄すること自体非常にむずかしいことである。現実にそれをしている国などないからだ。武器が放棄できないから戦争が終わらないことは確かなのだ。武器を蓄え、互いに核を持ったりすればそこには平和などありえない、入り鉄砲を一番恐れたのは武器が反乱の元凶であるからだ。テロが一番恐れられているのもやはり爆弾という武器を持って入ってくるからだ。昔からテロの恐怖はあったのだ。武器を減らすことが平和への道である。相手は自分を守るためだというが隣国にとっていつ核ミサイルが飛んでくるのか恐怖以外のなにものでもない。ダ−ウィンの進化論でもそうだが適者生存とか進化しないものは競争に敗れるとか競争原理が欧米の原理である。それはとりもなおさず欧米の歴史は戦争の歴史だったからである。それが現実だった。三国志が生まれマキャベリが生まれるのが大陸である。絶えざる異民族の侵入とか平和が維持できないのだ。それを象徴しているのか万里の長城である。あのようなとてつもないものを作らざるを得ないのだ。異民族同士になると殺戮も凄惨なものとなる。中国人が日本人にしたような残酷なものとなるのだ。そうした恐怖心が常に大陸の国ではもっている。それが恐るべき戦争を起こすことになる。民族を根絶やしにすることも起きてくる。聖書でも禍根を残さないため神の命により民族を絶滅させた。これは別に聖書だけではない大陸ではそうした民族同士の争い中で起きるから恐怖したのである。やらなければやられる。そういう恐怖心があったのだ。チェスとか中国の将棋と日本の将棋の違いは大陸では駒をつぎつきにとってしまうことで勝ちになる。つまり根絶やしにすると勝ちになるのだ。日本の将棋だけはとられてもそれが生き返って攻めに転じる。だから大逆転がありうる。守っているうちに勝つことがあるのだ。敵を根絶やしにしないということがある。ゲ-ムのようなものでも民族性とか歴史が反映されるだ。日本人が異民族と本格的に戦争したのは太平洋戦争だけでありそこで死者の始末、捕虜の始末に困って残酷な殺し方をしたとか日本人は異民族と大規模な戦争の経験がないからそうしたことが起こった。中国の歴史が一つは西域問題であり遊牧民の侵攻の恐怖であった。常に政治の重要課題としてその恐怖があったのだ。だからあれだけのエネルギ−を費やす結果となった。日本でも蝦夷がそうであった。征夷大将軍とは徳川家康もそうであり蝦夷を征服するための将軍であった。どういうわけか中国の遣唐使に「蝦夷」のことを聞いている。蝦夷は中国の満州とか渤海辺りも古地図では蝦夷になっているから異民族問題にいかに関心があったかわかる。漢民族が中心でも常に異民族がその周辺にはいたのだ。漢詩でも胡天という異国の空になる。中国の歴史は異民族侵攻がその歴史だったのだ。その一つに日本もあった。日本の場合、異民族問題がないことが一つの歴史である。早い時期に日本人は同化して同じ民族になってしまったのだ。異民族問題がないことは国際化もない、そうした歴史も風土もないから外交や国際化は苦手である。日本文明は日本だけであり広がらない、閉鎖してしまっているのだ。
●力(ちから)の意味
地(チ)はまた血でありこれは日本人か風土と歴史から築いてきた文化である。地と文化は一体不二である。cultureは耕すだから文化はその国々の大地を基に作られてきた。その地にカラの技術力、文化が入ってきたのだがそれも本来あった地を基にしないと血肉とはならない、カラだけになったら外国文化一辺倒になったら地がなくなり日本人自体もなくなってしまう。このカラは唐だけでなく唐の文化は韓(から)国から入って来た。カラとは韓国であり外国は日本はカラではあり朝鮮半島だったのだ。明治維新というとき元からあったものを新たにするという意味だから呼び覚ますという意味だから外国一辺倒にすることではなかった。キリスト教ですら内村鑑三が言うように武士道とか日本人でないと伝統的モラルが骨格にないと身につかないといったのはそのためである。地は国風文化でありカラは外国の文化の輸入時期である。しかし今はあまりにも外国文化は入りすぎたため消化不良になっているのが現代なのである。これを独自に日本的に深化させねばならぬのだ。日本の大地の力とカラの文化の融合からなら新しい復興(ルネサンス)が課題となるのだ。世界史的に見ても文明化されないフロティア、辺境から清新な文化が生まれた。野蛮な辺境には大地には今だ目覚めざるものが蓄えられていた。イスラムが遅れているというかヨ-ロッパが十字軍時代は野蛮な辺境だったのだ。キリスト教徒数多く奴隷にされていた。少女一人が銀貨一枚にも値しなかったというから驚きである。今カンボジア辺りで5ドルで少女が売春させられているのと同じである。大陸では戦争に負けたものは奴隷にされる。バクダッドは文化の中心でありギリシャの文物もここで訳されてイタリアにもたらされルネサンスが起こった。ロ-マからギリシャの学問の成果は伝えられたのではなかったのだ。イスラムの方が文化国家だったのだ。これも日本ではなかったしヨ-ロッパではイスラムの恐怖であった。ドラキュラの伝説もトルコの兵隊をくし刺しにしたことから生まれた伝説である。それほどの恐怖がイスラムに対してあったのだ。モンゴルのとき確かに日本も異民族侵入の恐怖に直面した。しかしこれも神風が吹いたとか地の利で危機を脱した。日本人は異民族に対しての恐怖や融和する方法などの歴史も文化もないのだ。世界史は異民族同士が戦い融和してゆく、それが歴史であった。だから日本史は世界史では例外的なものとなっているのだ。
●地方の復興(ルネサンス)
このように歴史は常に逆転する。ただ新しいエネルギ-は一度栄えた所には再び起こるようには思えない、王宮とか壮麗な都とかベネチアのような商業都市は消耗されて憔悴してしまった感じなのだ。文明の都はどこもそうなっている。そこは栄えた所でも消耗して衰退してししまっている。一方地の力は大地や太陽や海や山や水のある自然を基にしているからそのエネルギ-はなくなることはない、何かが蓄えられて循環している。だからまたそこから再生の復興のエネルギ-がでてくるのだ。都会はどこでも一時の栄えとして衰退して次にまた新しいエネルギ-のある所に移るのだ。日本で古代に何回も遷都をしたのはエネルギ-の場が移る、移すために新しい場所を求めたともいえる。大地から切り離された文明の都はすべて消耗し衰退する。これは文明の法則というより自然の法則である。自然の法則から離れて人間もありえないのだ。だからこれからは日本でも唐風文化時代の時代は終わり国風文化になり地方の地のエネルギ-を基にした国風文化が培う時代となった。歴史にも百年単位とかで大きなサイクルが形成されているのだ。明治維新から百年はまさに国風文化の時代になったのだ。十分に過剰に外国文化を取り入れすぎたからだ。日本は太平洋戦争で外国への拡張の壮大な無駄をした。だからある意味で海外に向かうという側面もあるが鎖国的な国風文化を求める時代となったのだ。アメリカなどは常に拡張の文化であり内部に蓄える歴史がない、今だにフロンティア時代の拡張時代にあるのだ。国の成り立ちが根本的に違う。一攫千金を求めて渡ってきた移民の群れだった。東部から西部へと大規模な民族移動だった。村単位で長い間つつましく暮らして来た日本人の文化とは全然違うのだ。アメリカは国まで金でドルで買おうとする国であるが文化は買いない、なぜなら美術品は買いても文化は作りえないからだ。だから未だに世界的な芸術家とか思想家とかはあまりでないのである。科学者は世界から集めて最高水準にできた。でも芸術とかになるとアメリカに呼んでもできない、文化はその土地と密接に結びついているからできない。科学は共通の原理と結びつくからできる。文化はその土地によって違う景色のごとく多様なのである。とにかく鎖国はありえないにしてしも国風文化の時代であり芭蕉が江戸時代にわび、さびを追求したようにそうした生産力一辺倒の時代から精神的価値の追求に移るのである。
●常民への復帰
紅白歌合戦ではあるがこれも例えば沖縄の民謡を基にしたものはゆったりしてよかった。沖縄では今でも三味線の音がどこからでも聞こえてくる。三味線は日常的に使うものであり特殊な人たちのものではない、民謡が日常的に生きているのだ。民謡というのは舞台でショ-として見るものではない、農作業や馬子歌など生活の場でまさに自然の中で歌われたときそれは最も生きていた。それはステ-ジで華々しくきらびやかにグロテスクまでに着飾って歌うのとは全然違うそれは自然の生活の中で歌われているから本当に森の中で歌う小鳥の音のように気持ちいい、感動的なものだったろう。今はそうした生活そのものの中から自然にわき上がる歌がないのだ。フォ-クソングというとき、フォ-クロアでありこれは民衆であり民衆は文化をもっていたが大衆はコマ-シャリズムの中で売るために作られる。大衆は消費者であり生産者ではない、大衆は消費者であるが民衆は文化の創造者であり継承者だった。この違いも大きいのだ。スキ-も歩くスキ-はいいが自然に溶け込む歩くスキ-はいいが滑走するスキ-は何か騒々しい。自然破壊にもなっている。スキ-はそもそも雪の上をある事から始まったのだから歩くスキ-が自然なのだ。スポ-ツというのはそもそもなかった。ギリシャのオリンピックすら今のオリンピックとは全然違う、神に捧げるものとしての神事でありまた生活に必要なものとしてのスポ-ツでありやたら勝敗だけにこだわりショ-化した今のスポ-ツとは全然違うのだ。マルソンの起こりはスパルタに勝利を告げるために走って力尽き死んだことにある。これは死ぬほど走っても伝えねばならないという使命感から走ったのであり見せるために勝つために走ったのとは違う。精神的要素の方が強かったのだ。日本の武道だってそうである。それは精神的要素が外国のスポ-ツより要求されるメンタルな面が多いのだ。現代の芸能であり芸術でありスポ-ツであれコマ-シャリズム化したものは人間の本来あるべき姿ではない、金によってゆがめられたものである。マスコミも出版も放送界もショ-化しコマ-シャリズム化した。
つまり今大衆消費社会とかコマ-シャリズムの世界はここ百年くらいに急速に普及したものでありそれは人間の本来の生活から生まれたものでないからかえってアフリカとかアイヌとかにあった文化を軽蔑するが必ずしもそうではない、自然と調和した文化があったのであり現代の方が異常であり本来の人間の生活をゆがめたものなのだ。フォ-クロアとは常民のことである。常なる民とはコマ-シャリズムの中で専門家し商売化したものではない、自然の中で自然営みのなかに常に存在するものの中に生きることから生まれたものである。芸能でも物語でもスポ-ツでも比べ石とかショ-ではない、全体の機能として不可欠のものとしてあったのだ。放送であれ、出版であれ、芸能であれ、スポ-ツであれ・・・・こうしたものはここ百年の間に生まれたものでありそれが当たり前と思っているがこれは特殊なことだった。本来の人間の生活の原型からはかけ離れた異常なものであった。それは技術の異常な急速な進歩によってできあがったものでありそれは決して人間本来の生活と適合したものではなかったのだ。技術がすべて否定されるわけではないが技術もやはり常なる民の中で機能される程度にとどめるべきであり無際限な技術の応用はもはやひかえるべきである。つまり常なる民のものではない、常ではない異なる常であるから、常ではない、異常なのだ。現代文明の混乱はまさにこの異常なる民によってもたらされたのだ。ファシズムもカルト宗教団体もそうである。異常なる民が異常なるものを作り出したのだ。だから社会自体が異常なるものとなっていても異常なる民には異常すら気づかない、そうした常なる民の感覚を喪失しているからだ。大衆、マス社会から常民へ常なる民への復帰が21世紀の課題だ。民主主義の民とはマス化した大衆ではない、常なる民のことである。常民である。マスコミに売り出されている人気作家などに余りに影響されると危険である。それらは常民のなかから出てきた英雄とは違う、コマ-シャリズムのなかで作られる人気者、商品の場合があるからだ。過度に宣伝されて売り出されるのだ。その人物より宣伝の方が大きいのである。だから現代では真の英雄は出ない、例えば現代の思想家がアウトサイダ-化している、キケルゴ-ルとかニ-チェとか上野霄里氏のような人が現代を代表する人になっているのもそのためである。どうしても大衆批判と現代文明批判になるからである。
文明と文化の相違
文明と文化の相違が混乱した。文明とは政治に限れば図のようになる。他にもあるがこれはグロ−バリ-ゼ-ション化しても問題ないというか、この方向が正しいように趨勢としてなっている。なぜなら社会主義は一党独裁で多くの弊害を生んだからだ。これは実験の多大な犠牲の結果でありやはり政治体制としては民主主義がいいとなっている。ただ文化となると多様なのだ。食にしてもそれぞれその土地にあったものが一番いいし歴史的にその民族に適したものがいいのである。宗教になるとむずかしいがイスラム教でも習慣と化したベ-ルで顔おおうことなどは別にかまわないのである。それは文化として習慣化したものである。ちらと目を見てすごい色気を感じるとかそれなりの男女の文化になっているのだ。日本でも社がたくさんあるがあれは宗教より文化なのである。豊作を大地に祈るもので宗教というより文化なのである。だから今では文化財的保護の対象になっているのだ。文化は多様であり文明となるとそれはグロ−バリ-ゼ-ション化されるものである。宗教も多様であるが政治体制としては民主主義が基準になる。まず言論の自由とか法の下の平等とか実現していなかったらやはり中国のように王朝国家になってしまう。何に権威をおくかといったら権力者が勝手に物事を決めることができる。農民を虫けらのように殺しても罰せられないとしたらそういう政治体制には誰も従わない、もちろん何が法律家というとこれもむずかしいがやはり法律はむずかしいにしろ何かしら不完全でも法が必要なのだ。人類はやはり間違いを侵しながらも歴史的には欧米型の民主主義に向かうというのが実験の結果そうなってきた。他に治めるいい方法が見いだせないからだ。
虞美人草から地方の産物を読む
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春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫(つら)ぬいて、煙(けぶ)る柳の間から、温(ぬく)き水打つ白き布(ぬの)を、高野川(たかのがわ)の磧(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路(みち)を、おおかたは二里余りも来たら、山は自(おのず)から左右に逼(せま)って、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更(ふ)けたるを、山を極(きわ)めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾(すそ)を縫(ぬ)うて、暗き陰に走る一条(ひとすじ)の路に、爪上(つまあが)りなる向うから大原女(おはらめ)が来る。牛が来る。京の春は牛の尿(いばり)の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
この頃牛がまだ利用されていた。この牛は牛車でないとすると荷物を運ぶ牛か農耕用の牛だったのだろう。馬はまだ荷を運ぶものとして利用されていた。新宿は字の通り宿場町だった。ここで漱石が生まれた。そして俳句を作った。
四谷新宿馬糞の中に・・・
馬糞で道は汚れる。これは相馬野馬追いで馬糞で困るのと同じである。
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋(まるきばし)を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行(ある)いていると若狭(わかさ)の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴(き)いて見た。この橋を渡って、あの細い道を向(むこう)へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「叡山(えいざん)の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
渓川(たにがわ)に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛(かろ)うじて一縷(いちる)の細き力に頂(いただ)きへ抜ける小径(こみち)のなかに隠れた。。
丸木橋とかわたるのもその頃はみんなヤハな木の橋が多かったのだ。木の橋はいたみやすいし危ない橋であった。日本の橋は戦前からその後非常にヤハな危ない橋だった。だから自動車が通るようになってぐらぐら揺れたりして危険だったのだ。橋はまた洪水でよく流された。丸木橋などもよく見かけた光景なのだ。一本橋というのもそうだろう。東京の一つ橋も一本の丸木橋があったから名づけられた。それから二枚橋とか三枚橋とか八つ橋とか板橋とか橋は板を渡して川をわたるようなものが多かったのだ。橋の名のつくのが多いのはそこが一つの道の障害となっていたからである。
橋朽ちて冬川枯れる月夜かな(漱石)
引っ着いて見えるほどの藁葺(わらぶき)は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引(たなび)く霞(かすみ)は長(とこ)しえに八瀬(やせ)の山里を封じて長閑(のどか)である。
籾干して天平よりの旧家かな 橋本多桂子
こんな古い旧家も京都辺りにはあるだろう。
「この辺の女はみんな奇麗(きれい)だな。感心だ。何だか画(え)のようだ」と宗近君が云う。
「あれが 大原女 (おはらめ)なんだろう」
「なに八瀬女(やせめ)だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度逢(あ)ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
大原女のものうる声や京のまち眠りさそひて花に雨ふる 山川登美子
これも京にふさわしい、何かゆったりした時の流れを感じさせる。とにかく昔は時の流れが今より遅かった。貧乏なわりにはのんびりしていた。現代は新幹線に代表されるようにせかせかしてみんな時間に追われている。かえって時間的には貧しくなっている。
宗近君は 米沢絣 (よねざわがすり)の羽織を脱いで、袖畳(そでだた)みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う間(ま)に諸肌(もろはだ)を脱いだ。
小倉(こくら)の袴(はかま)で、 久留米 (くるめ)らしい絣(かすり)の袷(あわせ)、白い襯衣(しゃつ)を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺(あたり)まで捲手(まくりで)で何とも以(もっ)て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張(さっぱり)捗(はかど)らぬ。態(なり)に似合わず悠然(ゆうぜん)と落着済(おちつきす)まして、聊(いささ)か権高(けんだか)に見える処(ところ)は、土地の士族の子孫らしい
国貞(くにさだ)えがく(泉鏡花)
沖縄は世界にも類稀なる染織の産地。琉球絣を始め、芭蕉布、久米島紬、宮古上布、八重山上布、ミンサー、八重山グンボー、与那国カガンヌブー、手縞・綾の中、首里花織、読谷山花織、南風原花織、石川ミンサー、ロートン織、絽織等々、ほんとうに沢山の織物がある。沖縄はまさにアジアの染織の交差点なのだ。王朝時代の交易や亜熱帯気候の中で、染料・繊維植物といった原料が豊富であった事に加え、1609年の薩摩侵攻も大きな影響をもたらした。「衣服定」「人頭税」「貢納布」「御用布」といった税としての織物の生産制度や、身分によって分けられる服制、冊封使、江戸上り、戦争、その他もろもろの政治経済的な背景のなかで発達してきたのが、沖縄の織物ではないかと言われているんだ。そして今や久留米絣・伊予絣・米沢絣・本州や四国、東北の絣にまで大きな影響を与え、絵図式という日本独特の技法をも生みだすまでに至った琉球絣を見学GOGO!
http://www.okinawa-joho.net/joho/web/custom/kasuri.html
蕪村の俳句(織り物)へ
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床(ひらどこ)に据えた 古薩摩 (こさつま)の香炉(こうろ)に、いつ焼(た)き残したる煙の迹(あと)か、こぼれた灰の、灰のままに崩(くず)れもせず、藤尾の部屋は昨日(きのう)も今日も静かである。敷き棄てた八反(はったん)の座布団(ざぶとん)に、主(ぬし)を待つ間(ま)の温気(ぬくもり)は、軽く払う春風に、ひっそり閑(かん)と吹かれている。
薩摩藩主島津義弘が連れ帰った朝鮮陶工の手により薩摩焼の歴史が始まる。薩摩焼は白薩摩と黒薩摩に大別されるが,特に白薩摩は献上用として使われ,幕末から明治にかけては海外の万国博覧会に多数出品し,海外貿易品として藩の重要な役割を担うものであった。
「二枚の 唐紙 (からかみ)に三本描(か)いたのは、どう云う因縁(いんねん)だろう
http://www.kyoto-story.ne.jp/kougei/m/karakami.html
藤尾(ふじお)は無言で後(あと)を締める。母の向(むこう)に火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶(てつびん)はしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目(ふしめ)に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時に真(まこと)少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は逝(ゆ)きつつある。
鉄瓶も良く使われていた。この浅葱桜とは浅葱色の半纏 に桜をあしらったものだった。インタ-ネットにでていたのだ。半纏にはいろいろな模様があった。昔は着るものも個性豊かだったのだ。職業で着るものが違っていたからである。
http://store.yahoo.co.jp/hanten/
長煙管 (ながぎせる)に煙草(たばこ)の殻を丁(ちょう)とはたく音がする。
母は掻(か)き馴(な)らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭(さくらずみ)の白き残骸(なきがら)の完(まった)きを毀(こぼ)ちて、心(しん)に潜む赤きものを片寄せる。
川上右仲
下総富塚村出身だったとか。寛政(1789-1801頃)
クヌギの黒炭を藩の収入源とし江戸に売りましょうと提案。佐倉藩も、この案を良い金蔓と理解し、佐倉炭というブランド名で江戸に出荷した。
炭から考える都会と田舎の問題
煙管や煙草は当時盛んに使っていたから葉タバコも山で作られ四国の光貞町のらうにうだつがあがるという諺までできるように栄えた所もあった。佐倉が、炭の集荷地になったので佐倉炭となっただけで堀田家の領内あちこちで農民によって作られていたのです。いろいろな炭が各地で作られた。自分の家にも炭小屋があった。炭が石油の代わりだった。
宇治の茶 と、 薩摩の急須 (きゅうす)と、 佐倉の切り炭 を描(えが)くは瞬時の閑(かん)を偸(ぬす)んで、一弾指頭(いちだんしとう)に脱離の安慰を読者に与うるの方便である
母は掻(か)き馴(な)らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭(さくらずみ)の白き残骸(なきがら)の完(まった)きを毀(こぼ)ちて、心(しん)に潜む赤きものを片寄せる。温(ぬく)もる穴の崩(くず)れたる中には、黒く輪切の正しきを択(えら)んで、ぴちぴちと活(い)ける。――室内の春光は飽(あ)くまでも二人(ふたり)の母子(ぼし)に穏かである。
「優等で 銀時計 をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――
「京都の宿屋の隣に琴(こと)を引く別嬪(べっぴん)がいてね」
琴の音の巷に聞こえ水の音京の橋古り柳しだれぬ(自作)
時に小夜の事だがね」と先生は洋灯(ランプ)の灯(ひ)を見ながら云う。五
小路(こうじ)を蕎麦屋(そばや)の行灯(あんどん)まで抜け出して左へ折れた
銀時計などもっているのは裕福な家だったろう。時計も大事なものだったし時計を修理する時計屋はどこにでもあった。洋灯と行灯が一緒にあった時代も不思議である。
吾妻下駄 (あずまげた)と駒下駄の音が調子を揃(そろ)えて生温(なまぬる)く宵を刻んで寛(ゆたか)なるなかに、話し声は聞える。
日和下駄に表を打ちつけたものが吾妻下駄である。江戸末期に流行したが、この名のおこりは寛永年間に吾妻という吉原の遊女が初めてはいたので、その名をとったものであるという。
下駄屋も各地にあり下駄は修理して履くものだった。下駄を直して歩く商売の人もいた。下駄は大きな産業だったのだ。そして下駄の種類も非常に多かったのだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/geta/syurui/syurui.htm
山峡新春( 宮本百合子)
夜中の一時過、カラカラ、コロコロ吊橋を渡って行く吾妻下駄の音がした。これから女中達が髪結に出かけるのだと見える。
私共は火鉢を囲み、どてらを羽織って餅を焼きながらそれを聴いた。若々しい人声と下駄の音が次第に遠のき、やがて消えると、後に川瀬の響が高く冴えた。吊橋にこんもりかぶさって密生している椎の梢の上に黒い深夜の空があり、黒が温泉場らしく和んだ大気に燦いているのが雨戸越しにも感じられる。除夜の鐘も鳴らない大晦日の晩が、ひっそりと正月に辷り込んだ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3877_13006.html
相変らずの 唐机 (とうづくえ)を控えて、宗近の父(おとっ)さんが鬼更紗(おにざらさ)の座蒲団(ざぶとん)の上に坐っている。襯衣(シャツ)を嫌った、黒八丈(くろはちじょう)の襦袢(じゅばん)の襟(えり)が崩(くず)れて、素肌に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。忌部焼(いんべやき)の布袋(ほてい)の置物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の煙草盆(たばこぼん)を置く。
停車場 (ステーション)で落ち合う手筈(てはず)をする。手筈が順に行って、汽笛(きてき)がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際まで逼(せま)った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄(ぼけ)の顔を 箱馬車 の中に入れて、空しく家(うち)へ帰って来た
停車場というと何か人間臭いなつかしいものを感じる。言葉自体なつかしいというかそこに人間的なものがあるからだろう。その当時の人間の暮らしがこの言葉にもつまっているからだ。言葉も歴史的なものを受け継いでいるから言葉が廃れることはその生活も廃れたということである。
ふるさとの訛(なま)りなつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく 啄木
箱馬車についてはここに詳しい。これも中国で使われ日本に伝わった歴史的なものであった
http://pengzipk.hp.infoseek.co.jp/01/jiaoche.htm
違棚の 高岡塗 は沈んだ小豆色(あずきいろ)に古木(こぼく)の幹を青く盛り上げて、寒紅梅(かんこうばい)の数点を螺鈿擬(らでんまがい)に錬(ね)り出した
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/761.html
http://www.chuokai-toyama.or.jp/~shikki/gal/gally7.html
今なぜ日本の過去をふりからねばならないのか、明治維新から戦後のアメリカナイズされた世界に日本は席巻されてそのよきものが失われたからだ。戦前までは日本的なものが洋風化のなかでも混在化して残っていた。それは物質的な面だけでなく精神的にもそれらの風景とともに残っていたのだ。いかに地方色豊かな世界だったかわかる。なぜかと言えば地方で自前で生産していたからだ。自給自足が原則だった。戦後は大量規格化生産でそれらを根こそぎ失ってしまった。そして地方は土木事業とか中央の工場の下請けとなってしまった。地元で生産するものかなくなることは貧しくなることである。それが不況で明らかになる。公共事業や中央からの金もこなくなると地方では燃料の炭を作り出すわけでもないし着るものも作っていない、あらゆるものを輸入していることは豊かなことではない、いづれ輸入できなくなる。履くものでも下駄だったら桐を使い地元の木を使うから材料に事欠かないから不足することはないのだ。だから下駄にしろというのではなくそういう地元の産業がなくなれは地方は豊かになれないのだ。
江戸時代から明治といかに地方色豊かで地方の産業が受け継がれてきたかこの虞美人草を拾い読みすればわかる。明治時代をふりかえるとなぜかえって文化的に豊かに見えるのかというと日本的なものが残りかつ洋風の文化が取り入れられそれが調和したようになって豊かにしていたのだ。唐の文化と日本の文化の混交して独特の世界を作り出していた。奈良の万葉時代のようなエキゾチックな時代を生み出していた。そのことは明治に漢詩が一番盛んになったというのも明治にこそ伝統が生きていたのだ。今どき明治の文人のような文章を書ける作家はいない、それは古典を受け継いでいたのだ。古文が生きていたのである。もちろん漢文も生きていたから漱石は漢詩も書いたのだ。今どき作家で漢詩など書ける人はまれである。そういう教養を持つこと自体無理になっていた。つまり伝統が途切れるということの深刻な文化の断絶がある。これが今の日本の最大の問題である。戦争の敗北で日本は伝統的な価値を廃したのはいいが新しいものは古いものと接ぎ木しないとできないということなのだ。明治が偉大なのは即江戸時代からの伝統が武士道のように生きていて接ぎ木されたからである。それは経済でもいえる。地方の産業が江戸時代からありそれで地方色豊かな世界が洋風化にと一体となり独特の世界を作ったのである。
『夏目漱石 「彼岸過迄」』
彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋(ぶっしや)だの、古臭(ふるくさ)い生薬屋(きぐすりや)だの、徳川時代のがらくたを埃(ほこり)といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡(もんぜき)の中を抜けて、奴鰻(やっこうなぎ)の角へ出た。 彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父(じい)さんから、しばしば観音様(かんのんさま)の繁華(はんか)を耳にした。仲見世(なかみせ)だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯(なめし)と田楽(でんがく)を食わせるすみ屋という洒落(しゃれ)た家があるとか、駒形の御堂 の前の綺麗(きれい)な縄暖簾(なわのれん)を下げた鰌屋(どじょうや)は昔しから名代(なだい)なものだとか、食物の話もだいぶ聞かされたが、すべての中(うち)で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助(ながいひょうすけ)の居合抜(いあいぬき)と、脇差をぐいぐい呑んで見せる豆蔵(まめぞう)と、江州伊吹山(ごうしゅういぶきやま)の麓(ふもと)にいる前足が四つで後足(あとあし)が六つある大蟇(おおがま)の干し固めたのであった。それらには蔵の二階の長持の中にある草双紙(くさぞうし)の画解(えとき)が、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。一本歯の下駄を穿(は)いたまま、小さい三宝(さんぼう)の上に曲(しゃ)がんだ男が、襷(たすき)がけで身体(からだ)よりも高く反(そ)り返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆(がま)の上に胡坐(あぐら)をかいて、児雷也(じらいや)が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡(てんがんきょう)を持った白い髯の爺さんが、唐机(とうづくえ)の前に坐って、平突(へいつく)ばったちょん髷(まげ)を上から見下(みおろ)すところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。
駒形堂
馬頭観音を本尊に祀るため、駒形とよばれる。浅草寺の本尊の観音様はこの辺りから引き上げられたという。元々はそれを縁起として建てられたものだという。
昔、江戸っ子は「コマカタ」と濁らず発音したという。吉原の遊女2代目高尾が仙台の殿様、伊達綱宗を恋しがって詠んだという 「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句で有名。この句碑は駒形堂のある駒形公園に建てられている。なお、高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと言われているが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。この2代目高尾の墓は春慶院(台東区東浅草2−14−1)にあり、仙台候の内命により建てられたという
駒形あたりというとき近いのだが遠ざかってゆく歩いた旅の距離感から来る感情なのだ。また江戸と地方は参勤交代でもかなり距離感を感じるからそこで江戸を慕う、故郷を慕うことがあったのだ。そこで育まれる思想や感情は今とは違う、なかなか会えないということがかえって思いをつのらせ豊かな感情を育むということがある。携帯電話で四六時中つながっているためにかえって感情的思想的に貧しくなっている。すぐに会えなければキレるとか何か性急に短兵急に物事をかたずけようとする。なかなか会いないから出会いを大事にするとか
そのあともその人を偲ぶとかがなくなってしまうのだ。会う気なら新幹線で二時間だ飛行機で一時間だとなると距離が離れていることで育まれた人間的感情は喪失するのである。
参考-評論鑑賞(距離感の喪失)-失われた旅
江戸の春殿様慕う遊女かな(自作)
仙台藩とのまつわる話があったので身近に感じた。そんなものが記念に残っているのも意外だった。インタ-ネットは意外なものを発見する。今回もインタ-ネットの一つの利用の仕方であった。つまりこうした過去の特殊となったものがインタ-ネットでは探しやすいのだ。インタ-ネット的読書方法は今までとは違う、漱石の本はむずかしいので読んでいなかったのだがたまたま何かを探していたら虞美人草がでてきてあれここに関連したものがあったなとたどってゆきそしてまたそれに関連したものがつながってゆく、一冊の本を読むのとは違い何冊の本のあるペ-ジを横断的に拾い読みするのがインタ-ネットなのだ。ある関連したものをたどってゆく読み方がインタ-ネットである。だから何か探していないものはインタ-ネットなんか何もないなとなる。目的意識がないとインタ-ネットはうまく利用できない、漠然としていると何かテレビのように与えられると思っていると何もでてこないのだ。この読書からいかにこうした特殊なキ−ワ−ドはうまくインタ-ネットでヒットするかわかるのである。
青い文字→漱石
黒い文字→自作
明治大正の小説から昔の風物をふりかえる
男女八十人ほどの生徒今日を晴れと着飾り。親譲りの奉書の羽織や母の古手の山繭の綿入れ、小さくて寒そうなフヨチルの洋服もあれど、太く長くブクブクとして子供には不似合いな黒のマンテルなど着た当人の喜悦より、着せた親たちの嬉しさもどれほど、中よりもここの村長の秘蔵息子に亀太郎という悪戯盛り。黒七子の羽織、黄八丈の大縞の綿入れ。また新しいフヨチルのシャツ、歩くとしゅしゅと音がする絹裏の袴。白足袋に畳付きの下駄までゆきとどいてこれを男方の大関とおれば。女方には油問屋の一人娘のお鶴。中形友染の二枚重ね、紫縮緬の花やかな裾模様、しかも桃色の綴紐のついた道行。髪は付け髷の唐人髷、針打ちの毒々しいのを真ん中に刺し。櫛は東京土産の朱塗りの花櫛、おまけの花簪の大形のを挿して頭は簪屋の看板かと思われるばかり。少し高めのぽっくり(下駄)に天鵞絨(ビロウド)の鼻緒。
赤い毛糸の手袋をはめて常から綺羅を飾る所を今日は一段と目に立つ扮装。その他には召縮緬(めしちりめん)糸織琉球。節糸銘仙綿銘仙。二子唐桟手織木綿。帯より博多、小柳襦子、友染
(当世少年気質-大江小波)
● 奉書の羽織
絹もんでは無いよぉなけど、それは奉書でやすか?◆いやいや、そんな上等やないのんで■どっかの紬(つむぎ)ですか?◆いやいや、違います■木綿?◆いやいや、これは草紙■そおし?「そおし」ちゅう布(きれ)あったかいなぁ?「そおし」て何でんねん?
◆長屋の子供が手習いをして真っ黒になった草紙をな、糊で貼り合わしたんや■ほぉ、紙の着物着てきはったんや。どぉりでガサガサ音がすると思た。白抜きになってる紋は?◆紙で切り抜いて貼ってある■羽織の紐は?◆紙縒り(こより)やがな■何でも紙やなぁ……、雨に合ぉたらワヤになるで。
奉書などというものを知っている人はいないだろう。これについては全然わからなかった。かなりわからなくなったものがある。これは完全な死語である。
経見れば紺紙なりけりうばたまの黒髪に似ぬ色とし思ふ(与謝野晶子)
紺紙金泥阿弥陀経などとあるようにいろいろな色があった。それは渋いというか日本独特の色であり日本には世界にはない独自の色合いの文化があったのだ。
色の文化について(陰翳礼賛)
● 母の古手の山繭の綿入
これに対して天蚕は、野蚕の一種で山繭とも呼ばれ、地方ではヤマコ・ヤママイとも称する。屋外に生えているクヌギなどの木の葉に直接蚕を付けて飼うもので、古来は、自然の中で生息する天蚕の繭を集めて糸にしていた。それゆえ、家蚕に比べて史書に記録される機会が少なく、信州の穂高地方(穂高町有明)で天明年間(1781〜1789)に飼育したという記録が古いほうで、実際にはそれ以前にも飼育していたところがあると推測される
名なし草蚕子の繭に似る花を春雨ぬらし暮れにけるかな(与謝野晶子)
SASAERU-108
http://www.nihon-kogeikai.com/SASAERU/SASAERU-108.html
● 黒七子の羽織
● 黄八丈の大縞の綿入れ
● 白足袋に畳付きの下駄
鈴のついた木履(ぼくり)をはいて眉を落した六つばかりの女の子の手を引いてゆく耳かくしをゆつた姉らしい女は女給ででもあらうか、素足の足の裏が黒い。
田村屋かちくせんあたりの小紋風な浴衣をきた好い女房が、これはまた何んとしたことかドロンウオークの長襦袢をきてゐる。下駄も鹿嶋屋がなくなつてからこのかた、この女も蝶貝のえせ表現派模樣をちりばめたごてごてしたものをはいて歩いてゐる(竹久夢二)
この木履(ぼくり)は木製のサンダルであった。明治時代は浴衣を中形と言っていたのだ。だから与謝野晶子は短歌で中形としている。
● 中形(ゆかた)友染の二枚重ね
中形のよき袂ふり二町ほどぬれぬれきぬる水無月の雨 (与謝野晶子)
● 紫縮緬の花やかな裾模様
● 色の綴紐(とじひも)のついた道行
道行とはなんだろうと思ったが道行とは着物に上に着るコ-トのようなものとあった。
つまり道行の意味は誰かと連れでともに旅するという意味である。だから昔は女性一人で
外に出るということが少なかったから誰かとともに外に出るから道行のコ-トになったのかもしれない、これも実に不思議な名付けかたなのだ。
● 付け髷の唐人髷(まげ)
● 櫛は東京土産の朱塗りの花櫛
望める岸に船の着くとひとしく、女は小走りに走り抜けて、そのなる小路を左に折れしが、遠からぬ橋間に早灯影の見えそめて、薄明く薄暗きおぼろが中を、水は猶ゆるく流れぬ。仰げば星出でたり。
椽の障子を一枚明ければどんよりと空睡たげな朧月、河浪の靄に咽ぶ間から、両国橋を行く提灯が、二階の欄干越しに三つ五つ見えて、こんもり黒んだ向こう河岸の森に、物思いは春の夜と知られた。欄干に片手載せて、貴客ちょいと御覧なさいと小歌が言うのを、貞之進は立ちもせず振り向けば、水にも雲が映って居るというだけのことで、
小歌は近頃小紋織とかいう御召しの袷、色は藍気鼠、黒の唐繻子の帯を締めて、下駄は黒塗りの小町とかいうもの(斉藤緑雨-油地獄)
燈籠の火の幽かに洩れる格子戸を開けて、お神さんお客さまと、小歌が庭に音を立てれば、この春泉というは待合で、円顔の雛形ともいうような二十ばかりの婢が出迎え、貞之進をちらりと視て奥にしましょうかと小歌に言えば、そうねえ貴客いらっしゃいと、上がり口を横に通り過ぎて、庭づたいに小歌が先へ立って行くを、婢は竹筒のような台の洋燈に、俗に玉火屋というおんを懸けたのを右手に持って潜りぬけ、奥まった一室の障子をあければ、三尺の床に袋戸棚が隣ってそこから座蒲団が引き出され、掛花活けのあざみは大方萎れて、無頓着が売り物の小座敷だ
この情景も渡し場があった当時の時間の流れの中で描写された。ここでは人間と人間が出会っていたのだ。こんな当たり前のこと新鮮に思えるのはなぜか、こうした人間と人間の出会いは今ないからだ。こうした出会いはその古い生活と情景の中でありうるもので現代のような自動車洪水とか新幹線の駅ではありえない、人間そのものが活きてこないのだ。今や人間は自動車のように走り抜けて行くだけである。人間と人間の別れとか見送るとかそうした情緒までないのだ。急速なアメリカ化、工業化でこうした日本的なものが根こそぎ喪失したのだ。今や全然違った空間に日本人はいる。時間も人のリズムの時間なのである。人が主人公である。自動車やバイクだったらブ-ンと飛ばして合い別れる情緒も時間もない、あっというまに50キロくらい遠くに行ってしまったと思ったらまた帰ってきているのだ。人間の出会いそのものが便利になり喪失したのである。おそらく気づいていないかもしれないがこの急速な近代化はいろいろなものを喪失した。橋の情景もああした情景というか時間の流れがないのだ。橋は留まる所ではなくスタスタと通りすぎる所なのである。下駄にもいろいろ名前があった。名前までいろいろあるということは下駄の種類が多かったのだ。色街にしてもなんかそこに祇園のような情緒をかもしだしている。今の歓楽街は外国人やら何やら異様であり日本の文化などない、騒々しいだけなのだ。そうしたところまで日本の文化があったのでありそこで心なごむことがあった。今のモ-テルとか歓楽街のネオン街とは全然違うのだ。もちろんこれはその時代の暗黒面を知らなすぎて美化しすぎるといえばそうなる。でもやはり確かにこれを読んだ限り今の歓楽街の情景とは全然違うのである。
中形のよき袂ふり二町ほどぬれぬれきぬる水無月の雨 (与謝野晶子)
この情緒はまさに二町ほど歩く感覚から生まれた情緒なのだ。二町ほどというのも昔の距離の感覚なのだ。しとしとと雨ふる京都もいいものである。しかし現代に何度も言っているが旅がなくなったと同時に実は観光化した所は魅力なくなる。元来街でも農家でもそこは見せ物ではない、生活する場である。生活が活きていてこそすべては活きてくる。観光だけにある町とか農村とか都会もありえないのだ。そういうふうにデズニ-ランドのように作られた世界はあきるのだ。こうした日本的なものの喪失は実は日本的精神の喪失にもつながっていたのだ。
例えばつつむからつつしみかくすという言葉ができたようにツツムがもともと罪であり汚れである、それはツツムものつつみかくすものとして意識されツツシムという言葉生まれた。人間の罪は自然界にツツミ隠されるべきものと認識した日本人古来の知恵と伝統があるのだ。これはイスラムのベ-ルで人体を隠すことと文化的にはにている。その中でちらと見せた肌や足や色気がなんともいえぬ奥ゆかしさを示していた。それは遊女にまであったということ、また遊女の世界が露骨なセックスだけではない、男女の文化も育んだ面があった。流行はたいがい遊女が最初に生み出している。イキな下駄をはきそれが話題となりその遊女の名前の下駄にまでなっているのだ。遊女は今の芸能人だったのだ。下駄にも様々な下駄があったのだ。不思議なのは山繭である。こういうのもありこれは桑は結構山に自生していてその実をとって集め食ったりしたから山繭という育てかたもあったのである。いづれにしろ日本人のつつしみとか奥ゆかしさとかそうした言葉自体が死語になりつつあるごとく精神も喪失している。ケバケバした露骨なものを好みゲラゲラ笑い街でくわえタバコをぷかぷか吸う女性を見ればわかる。そこに日本人のもっていたつつしみ深さなどない、それはそうした環境を失ったというだけではない、精神まで失った現代の極端なアメリカ化の結果なのである。現代が旅をして何か足りない何かつまらないと感じるのはこうした日本に昔から生活の中に息づいたものがなくなったからである。
例えば長煙管にしても長火鉢というのがありそこに主が座りすぱすぱとタバコを吸う、時々とんとんとたたいてヤニを出したりする、そこで何かを話すにしても落ち着いているし話したあとに間があり沈黙が辺りを支配している。人間そのものに沈黙の余韻があった。悠長な時の流れががあったのだ。なぜならその時茶の間にはテレビなどなかったからだ。今はニュ-スの時代というように絶えずニュ-スに追われている、世界からのニュ-スに追われそれが生活になっているのだ。そもそも茶の間にテレビがある生活が現代の生活を根本的に昔と違ったものとしてしまった。それが結果的にマスコミの絶大な力となり世を支配する結果となったのだ。いつも茶の間にいるのが司会者なのである。精神的に豊かになるには今やバ-チャルな過去への旅行の方が豊かになれるのだ。それには過去の小説などがかえって価値がある。現代的な小説よりずっと価値がある。現代にはないものがその当時の活きた世界が描かれているからだ。これはインタ-ネットでも無料でかなり読めるようになったから各自読んでみると面白い。そこに様々な昔の悠長な時の流れで活きていた悲哀も何かなつかしいのである。そこには人間的なものが情緒がしみついているからだろう、今は無惨にそうしたものが交通事故やらビルの林立やら何やらで引き裂かれているのだ。文明世界ではもはや人間らしくさえなれないのだ。
日本の色合いの文化は世界に独自のものだ
「もし我々が我々独自の物理学を有し化学を有していたならば、それに基づく技術や工業もょた自ら別様の発展を遂げ、日用百般の機械でも、薬品でも、工芸品でももっと我々の国民性に合致するようなものを生まれていなかっただろうか」陰翳礼賛(谷崎潤一郎)
これは現代の文明化した日本に対するかなりの重い予言だった。日本という国が全く日本でないような国になっていることこれは科学というものが日本の国に適合したものとして作られなかったということを示唆している。もちろん科学は国の文化に関係なく適用されるものだから世界はみんな同じ灰色のコンクリ-トのビルになるのだといわれればそうなのかとなる。しかし今切実に何かが失われているものに気づいた。私も俳句とか短歌とか作ってきたが日本に日本的なものがあらゆる面で失われたという喪失感である。そして江戸時代から明治とあった日本的なものがある意味で救いとまで思えるようになった。そこには癒しがあったのだ。和風の世界に癒しがある。国会に和服を着て登院したがあれも形だけでも日本的になるからいい、和服を着るだけでやはり日本人的になる。文化とはそういうものである。和紙のくすんだような色合いとか浅葱桜というその色も独特なのである。これを自分も和風の素材で発見して壁紙に使った。このなんともいえぬ明るい緑ではない浅葱色というものに落ち着きを見いだしたのだ。日本人の好む色はハデなものではない、わび、さびの地味なくすんだような落ち着いた色である。これは天気と関係あるかもしれない、砂漠や南国のようにからっとは晴れないからだ。強烈な原色の色を日本人は好まない、韓国からしてチマチョゴリにして原色である。大陸はたいがい原色である。南国もそうである。花自体が強烈な太陽のもとで原色なのである。日本人の色、模様は違う、これは世界的に見て独特である。日本人だけが好む色がある。浮世絵にしてもそうである。あれをよく見て研究する必要がある。そこに日本人に回帰する文化が残されている。私自身芸術の創作者であってもそういう日本的なものを本当に知りたいとかそこに癒しがありそこに実は新しい文化を再生(ルネサンス)させるものがあるということは強く思っていなかった。ルネサンスというとヨ-ロッパのルネサンスを考えていたのだ。
日本人の癒しの色とかかつて日本にあったもの、そうしたものが街から消えたとしても何かそういうものを街に再現されればそれは非常に落ち着いた、日本的風景の中で安らぐことになる。それには今のような自動車社会とかでも多少は変える必要がある。日本的歴史的風景にマッチするような工業、科学、機械が必要とも言えるのだ。これからはそういうものを作る必要があるのだ。そうなればかえって日本は欧米のまねだけではない、日本独自の科学の応用をした社会として世界から注目されるのではないか、もちろんこれは科学にはからきしだめだからなんともいえない、でもそういう日本的なものの回帰がかえって今やそれは新鮮であり癒しであり創造にもなってゆく。だから日本的なものの再現というとき何を再現するのかとなるが日本的なもの本来日本にあったもの日本人が作ったもの日本の独特な色合いの再発見とかが必要なのだ。これは確かにパソコンで和風の素材として復活している。これをもっと農家でも街でも活用することが必要である。今や日本人は物だけには満足しない、それに対する付加価値を望んでいる。それがデザインとか日本的色合いとかそうした回りに日常的にあったものが実は貴重なものだったのだ。益子焼がただ平凡な庶民が作ったものであったがそれを芸術作品として再発見した陶芸家のようにである。日本には世界にはない独特な色の文化をもっていたことは間違いないのだ。これは非常に貴重なことである。染め物でも漆でも陶芸でもそうなのである。相馬焼きのひび割れた緑色でもそうである。これも独特の緑なのだ。緑といっても何十種類もの緑があるのだ。色の不思議がここにある。色は本当に神秘的なものなのだ。それは明らかに精神に作用する不思議なものである。この日本的色合いの探求が必要である。
ロシア使節団の一員であった作家ゴンチャローフは、先ほどの川路の引用文より半年ほど前に、長崎奉行とはじめて正式に会見した日の光景を生き生きと記しています。おそらく、ここに描かれている服装の一部は、高野岩吉の手になったものだったに相違ありません。
「さらに私の気に入ったのは、こうも多くの絹の羽織や、袴や、肩衣が集まっていながら、その中に一つも派手などぎつい色がないことであった。赤も黄も緑も、一つとして原色はなく、すべて混合色の二色または三色の、和やかな軟らかい色調である。〔中略〕正装の色どりはヨーロッパの婦人たちと同様である。私は、老人たちが緞子の袴をはいているのを五人ほど見かけたが、いずれも地味な色調であった。後の連中の袴は、なめらかな灰色や薄鼠色のものもあり、くすんだ青色、adelaide〔アドレード風、つまり緑を帯びた色調〕、vert
de gris〔緑青色〕、vert de pomme〔リンゴの青味がかった緑色〕など、一口にいえばヨーロッパの最新の流行色、couleurs
fantaisie〔幻想的な色調〕がそこにはそろっていた。 奉行は黒い細縞の入った単色のpensee〔紫色〕の長着と袴を着けていた。奉行の肩衣は、他の者と仕立が異なっていた。みなの者は背も袖もすんなりとなめらかな型で、袖は手首のところが広くて、全般にロシアの婦人マントに似ている。奉行のは、脇腹のあたりで袖が切り落としてあって、小さな翼のように張り出した上下装束である。後で知ったことだが、これはわが国の文官通常制服に相当するいわば略装である。
せかされる文明の時間
(グロ−バリ-ゼ-ション−の世界の時間)
長煙管にキザミ煙草をつめこんでタバコをスパスパ吸っているのはかなり時間がかかる。今でもアラブなどのイスラム圏の水タバコと似ている。なんか昔の時間の流れにひたる。今タバコを吸うにも道端とか歩きタバコとかせかせかして追われるように吸っている。時間の流れが違っていたのだ。携帯電話でもそうである。何かせかされて文字を売っている。一つのものはやはりそれなりにその時代を如実に示すものなのだ。のんきな父さんなどという漫画もあったが人間自体のんびりしていたのだ。貧乏なわりにそうなのである。戦後十年くらいはそうだった。それから高度成長期に入り時間の流れは新幹線のようにスピ-ドアップしたのだ。今でも田舎と都会の時間の流れは違う。また辺鄙な所、離島なんかの時間の流れはかなり遅く感じるだろう。現代は常に何かに追われている。ニュ-スに追われ事件に追われ自動車に追われ電車に追われ流行に追われこれを買いあれを買いとせかされる。人と人がゆっくりあって話すこともない、会ったらすぐ別れる、そして携帯電話でつながる、ネットで常時つながる。テンポが全然違っている。おそらくこうした文明の時間からは田舎でも多少は緩和されても一様になっている。かなり文明から離れた場所に行かないとこうしてせかされる時間から解放されることはない、団体旅行のいやなのはゆっくり見ていられない、次から次とせかされるからゆっくり見れないのだ。ゆっくりその土地の雰囲気などを味わいる時間がないのだ。その分旅の印象は薄いものになるのだ。
雪が舞い北風がうなる
薪をくべる、炭をおこす
ゆっくりと赤くなり
静かに燃える
大きく一本煤けた大黒柱
どっしりと囲炉裏に主は座る
思念はゆるやかに巡り湧く
今日も石は動かず冬籠もり
一服スパスパ長煙管
ゆったり座って
スパスパ煙をくゆらせる
その昔のゆるやかな時の流れを
今なつかしむ
煙管については詳しくはこちらへ
そもそもなぜこんなにせかされるのか、すべてが金で動かされているからである。ゆっくり海外旅行するにはそれだけ金がかかる。金を節約して見るには早くしなければならない、勤めている人は時間がないから早くせねばならない、また世界が広くなると知識の量が増えると仕事の種類が増えて多様になると時間も短くなる。情報が多いとまたその多くの情報を消化するのに時間がかかるから時間に追われることになる。新しいパソコンでビデオの整理しようとしたらいちいち移すのに時間がかかる。一枚の写真のように移せないのだ。整理するだけで大変な仕事になる。インタ-ネットも探すだけで大変な仕事になる。考えると大作家の作品も詳しく読んでいなかった、それなのに無数の普通の人の日記に目を通すことなどできない、キ−ワ−ドで探すときだけその目的の情報を見ようとするがあとは読めないのである。いろいろなものが欲しくなれば時間が短くなる。なぜならば世界中で電気製品が欲しい、自動車欲しいとなるとアフリカの奥地の部族であれ忙しくなる。コ-ヒ-やバナナをそれをうまいのを多く作って売らねばならなくなる。すると自給自足でやっている時間ではない、絶えず売るために今までの何倍も働かねばならぬ。こうして世界中が文明世界では時間に追われるようになる。ピラミッドを建てた古代文明やその文明の時間は今と全然違う。非常に遅かった。そんなに外国から買ったり欲しいものも限られていたから自給自足的だから時間にせかされて生産することはなかった。今や時間が勝負なのだ。日本の半導体メ-カ-も注文を勝ち取るために時間を早めてその受注に答えようとして必死だった。文明は時間まで奪ったのだ。
だから文明を離れた中で初めて時間が正常な感覚にもどる。何にも追われない自然の中の時間の流れ、リズムを感じるのだ。人間は時間まで奪われ酷使されている。小刻みな時間に刻まれている。そして消耗される。時間によって大きくなるのではなく刻まれた時間に酷使され消耗される。だから過去の偉大な遺産であるピラミッドであれ大聖堂のようなものは作れない、時間の中でさらに重みを増して成長しているようなものは作れない、一時的なものそれもその時間はさらに短くなりつぎつきに物も変わるのだ。おそらく子供を親が虐待するのは育てるのがめんどうだから早く一人前の大人になれとなる。数年で大人になれとなる。長い目で手をかけることや見守ることができないのだ。親自体が時間に追われているからそうなる。なんでもそうして人間まで即席にインスタントに仕上げようとするときロクな人間は育たない、文明というのは今や世界共通の中にありグロ−バリ-ゼ-ション化されているからどこも時間に追われているのだ。文明の時間は工業の時間、商業の時間であり人間がこれまで基本にしてきた自然の中の農業とか牧畜とは余りにも違いすぎるのだ。農業は三代くらい継続されてできるものだということは自然が相手だからだ。森林の木材にしても50年かかるとしたら次の代の人がその木を利用することになる。長い時間が必要だから長い目でみる時間の感覚が生活ができあがる。継続される時間の中で技術などが伝えられてゆく。自然で学んだ知恵も伝えられてゆく。
何故今継続した時間が歴史が意識できなくなっているのか、農業のように三代つづくような職業がなくなっているからだ。ということは歴史が切断される。長い歴史に育まれたものが今という一断面だけが露骨に現れる。それでみんな浅薄なものになる。ともかくあまりに様々な欲望を持つと人間の精神的平衡が失われる。常にいらいらして落ち着かなくなるのだ。だから昔の今でも部族の人の顔だちなどと文明人とは全然違う。人間そのものが違っているのだ。欲が少ないから比較的なごやかな平静な顔だちになる。一方いらいらして常に落ち着かないのが現代人なのだ。
「活動的で汗を流し動き回りますます骨のおれる仕事を求めて絶えず苦しむ。彼は死ぬまで働き生きることを求めるには死を求めることさえある。あるいは不朽の名声を得るためには生命をあきらめるのである。彼は自分では憎んでいる身分の高い人たちや軽蔑している金持ちたちにお世辞を使いそういう人たちに奉仕するという名誉を得るためにどんなことでもやる。」
「人類が拡大するにつれその苦労もその数をましてゆく」(人間不平等起源論ルソ-)
現代は特別な金持ちのために働いているのではない、みんな金持ちになり金持ちになりたいから働くのだ。みんなが金持ちになることはさらにみんなが忙しく働かねばならなくなる。ハタラクとは端を楽にするであり誰かが働くのを見た楽にさせたいということだが今やハタラクことは端を苦しめることもある。のんびりできる余裕があっても働かないとなまけていると責められる。働くことがすべて礼賛されるわけではないのだ。グロ−バリ-ゼ-ションの負の部分も大きいのだ。その弊害をもろに受けたのがルソ-の言う未開人だったのだ。情念が平静を保つ環境にあったからである。
長煙管のリンク
長煙管(ながぎせる)で煙草を一ぷく喫(す)って、左の手で袖口を掴(つか)み展(ひら)き、着ている大島の男縞が似合うか似合わないか検(ため)してみる様子をしたのち「うっちゃってお置き、そうそうはこっちも甘くなってはいられないんだから」
そして膝の灰をぽんぽんぽんと叩いて、楽譜をゆっくりしまいかけた
岡本かの子 老妓妙
胡坐をかいて、長煙管で、おもちゃの日英同盟国旗の上へ、しきりに煙草を吹きつけて、さも退屈気に見えたが、
漱石 草枕
加州(かしゅう)石川郡(ごおり)金沢城の城主、前田斉広(なりひろ)は、参覲中(さんきんちゅう)、江戸城の本丸(ほんまる)へ登城(とじょう)する毎に、必ず愛用の煙管(きせる)を持って行った。当時有名な煙管商、住吉屋七兵衛(すみよしやしちべえ)の手に成った、金無垢地(きんむくじ)に、剣梅鉢(けんうめばち)の紋(もん)ぢらしと云う、数寄(すき)を凝(こ)らした煙管(きせる)である。
芥川龍之介「煙管」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/80.html
古い時代の小説はこうした風物誌として読むのも一つの発見である。写真が少ない時代だから時代を偲ぶにはいい、インタ-ネットでは煙管というキ−ワ−ドから始まる。その関連したものを読んでゆくのである。煙管には家紋を入れたり昔は手作りだから装飾に凝っているし自分用のオ-ダ-もできた。つまり現代もこうした自分だけのオ-ダ-する物を作ってもらいたいという要望がでてくるし多様化するとそうなってくるから江戸時代に回帰してゆく傾向がある。。『凝った根付けに銀金具、金唐草の煙草入れから刻み煙草を取り出し、・・・・」江戸時代から明治時代がこれからの見本なのだ。日本人が急速な近代化で喪失したものがそこにあるからだ。現代の小説とか読むより過去のものが面白い。小説は苦手だが自分が興味ある部分を抜粋して読むのだ。
失われた日本の伝統(職人気質)
青色発光ダイオード(LED)を開発した中村修二・米カリフォルニア大教授が、
開発当時勤務していた日亜化学工業(徳島県)に特許権を譲渡した対価の一部として
200億円の支払いを求めた訴訟の判決で、東京地裁は30日、請求通り200億円の
支払いを命じた。
引用:http://www.sankei.co.jp/news/040130/0130sha082.htm
この問題はやはり技術者に不満がある。それも優秀な技術者に相当な不満がある。金でも認められないし名声でも認められない、理科系の人の不満が爆発したものかもしれない、では昔の職人はどうだったのかというと
高村光雲が弟子入りした師匠にこう言われた。
「算盤もいらぬぞ、職人が銭勘定するようじゃ駄目だ。職人として偉くなれば字でも算盤でも出来る人を使うことができる。唯、一生懸命に彫物を勉強せい 」と言ってそれが入門の許可になった。
職人気質の誇りは何よりいいものを作ることが第一でありそれに精根傾けていた。ひたすらもの作りに励んでいた。そうした伝統が日本にはあったのだ。神にまで祈りいいものを作ることを祈願してきた。神道がそうした祈りと関係していたことでもわかる。その伝統があり日本人はいいものを作り世界的に認められ裕福になったのだ。昔は職人は別に特別な人間ではない、多くの職人がいてその道に励んでいたのだ。江戸時代はオ-ダ-メ-ドの時代であり一人一人の注文に応じていた結果、それにふさわしいものを作ろうとして独特のものができたという。江戸時代の贅沢はその人だけの物をもっていたことである。それはこの世に一つしかない飾りなど彫られていたのだ。中村氏の不満もやはりこうした江戸時代のような職人のような誇りが持てないことやその対価がないことにあった。組織内で働き個は埋没してその個の技は称揚されない、会社という組織に個の能力は埋没させられる。それが金の面だけではない、やはり名誉という面でもそうである。ただ現代は一人で個で発明はできない、だからますます優秀な天才的な個は目立つことがむずかしい。それで文系では上野氏のようにアウトサイダ-になり主張したり個というのは組織に集団に埋没させられるのだ。「お前だけやったんじゃないぞ、・・・・威張るな」とかごうごうたる批判もでてくる。昔だったら職人気質ということでそれが多少偏屈でもいいものを作っていれば社会に認められていたのだ。「武士は食わねど高楊枝」というのも武士には町人にはない誇りがありその誇りが社会で認められていた。武士には武士であらねばならぬ品格のようなものが認められていた。だからこうした社会では金だけが価値基準ではない、今はすべて金だけが価値基準だからこうした矛盾がでてくる。ともかく個人が一人で発明したというものは今ではなかなかありえない、常に資本が必要だったり装備も大変でありできないから個人が目立たない、だから優秀な人でも「これは俺一人でやったんだ」とはいえないわけである。江戸時代がすべて遅れているという見方は違っていた。職人気質というのはこれは悪いことではない、一つの社会の価値観としてはいいものだったのだ。武士道というのもこれも古いから良くないというものでなかった。武士のモラルとして立派な人間を作ったのである。職人であれ町人であれ、百姓であれ、江戸時代はそれなりにその時代のモラルのなかで懸命に働いていたのである。明治維新ができたのも文明開化できたのもそうした蓄積があったからなのだ。つまり現代に失われたものが江戸時代にあったのだ。とすると未来はむしろ過去の歴史にあり再生(ルネサンス)は過去の歴史の再生にあることなのだ。
織物などでも実に多彩なものだった。
黄八丈が襖にかけてある
島の人丹念に織りたるものそ
末永く着るべきものなり
長火鉢の詩で書いたが江戸時代に地方色が豊かだったのはその土地にあるものでその土地の工夫で織物を作りその柄をも作っていたからそれぞれ独特なものとなっていた。その地方を鮮やかに浮かび上がらせるものを生産していたのだ。黄八丈というとこれは高級品だから庶民が着るのはあまりなかったらしい。ただ家に黄八丈があるということはその柄といいそれは必ず八丈島をイメ-ジする。それと同時にこれを作った人を偲ぶ、丹念に苦労して織ったものということをその作った人を思う。その物からは今のようにただ便利なものとしてだけでない、その土地やこれを作った人やいろいろなものをメッセ-ジとして受け取って使っていたのだ。今のものは地球の裏側から入って来たり誰が作ったものかもわからない、また大量生産であり誰が作ったかなど意識しないのだ。それが物は豊富なのだが精神的に豊かさが感じられないのだ。つまり今何か欠けているのは豊かなのだが欠けているなと思うものが実は江戸時代にあったのだ。それは未来にはない、かえって何か喪失したものが江戸時代にあったのだ。精神的豊かさというのは貧しいなかでもあったのである。
戦前までは職人は職人芸に励んでいた。鉄瓶とか刃物とか独自のものを作る人がいてその作ったものには作った人の名前が記されていたのだ。草履とか下駄とか様々なものに名前がついているものがあった。それはその人独自の工夫で作ったものである。そこに職人として工夫するもの、独自のものが作れたのだ。職人としての誇りも持つことができたのだ。今はそれがない、作る喜びがない、大量生産の同じ規格のものを消費するだけである。作る喜びがないということは生きがいもないのである。現代で生きがいある仕事を見つけることは大変なことである。だからフリ-タ-などが増えるのである。金をもらっても仕事が面白くないということがあるのだ。私などもそうだった。創造的仕事がない、だから仕事しなかったともいえる。昔は一般の職人でもその人独自のものを作っていたのだ。ものが豊かで幸福という反面、現代で満たされないものが渦巻いている。それが時々怒りとなり社会に爆発して犯罪ともなる。
鑿(のみ)は石堂とか千代鶴、鋸鍛冶では虎二郎、久作が有名・・・・
大工は道具にこだわった。道具は侍の刀と同じだった。職人芸と道具は密接不可分であった。だからその道具を作る人、いい道具を作る人が求められた。名前までついているのがその証しである。今人の名前がつくものなんかめったにない、名人なる人を求めることはないのだ。教育にしたって人を求めることはない、コンピュタ-とか設備に重点が求められる。政治でも三顧の礼で迎えるような人を求めていない、人の価値は現代では低いのである。江戸時代は道具でもその道具を作る人が求められていたのだ。現代のような複雑な社会では人より組織であり資金でありとか機械でありとか人は求められていない、コンピュタ-ですべてできるからと伝統の技とか職人芸は廃れてしまう危機にある。文様作りなどは確かに今やコンピュタ-が優れている。ただ江戸時代のようにその人でなければ作れないもの、そういうものがない、だから仕事に生きがいを見いだすことがむずかしいのだ。
江戸時代は一つの閉鎖社会ではあったがすべてが有機的に結びつく連関した社会であった。それはもの作りがそれぞれ自前で作っていたということが原因である。確かに物は少ないし貧乏であるが社会が一つの織物のように有機的に関連して作られていた。だから落ち着いた社会になっていた。現代は常にばらばらな感じになる。物は豊富なのだがその物は自ら作り出したものでないから常に金で買う消費者でしかすぎない、そこで金ばかりが肥大化して重要性を帯びてくる。その結果、デイトレダ-のようなパソコンの中で数字だけを操ってまるでゲ-ムのようにして一日一千万もうけたとかそれで虚しくなって金をばらまいたという現代を象徴するような怪事件を起こしたのだ。江戸時代の風物が今と違うのは生産されるものがその土地で自前で作られるからそれぞれの土地で個性がでてくる、地方色豊かな時代だった。また家内工業だからそこは濃密な人間の小さな集団で作っていたから人間的でもあった。大工場で流れ作業で作っているのとは違う。それがだから常に自然ともマッチして風物誌として絵のような世界を生み出していたのだ。つまり手作りの世界がそこにありそれが日本の盆栽的な風景ともマッチして浮世絵のような独特の美しさを作り出していたのだ。つまり江戸時代は人間の手仕事やその他ヒュ-マンサイズのなかにあって自然とマッチしていた独特の小宇宙を作り美観を作り出していたのだ。すべてが美化されるものではない、常に時代の負の部分がある。でも皮肉なことに現代が喪失したものが江戸時代にあったのだ。こまやかな人情とか気配りとか繊細な美意識とかそういうものが江戸時代に洗練され育まれたのだ。それは織物とか様々な分野の工芸品などに結晶した。こうした現代が失ったものを江戸時代に見いだされることはやはり日本の歴史の層の厚さを作り現代をも豊かにする。現代に失ったものを取り戻せるものを見いだすことができるのだ。未来がさらなる工業の発展ばかり考える時代は終わった。それがあるとしても江戸時代のようにヒュ-マンサイズの自然と調和した技術が望まれているのだ。
参考-江戸時代の魅力(漢詩などから)(評論と鑑賞)
注目記事二つ(集団組織の意向が本当の権力だ)
公明党がイラクへの自衛隊派遣を容認するなかで、党の支持母体である宗教団体、創価学会の活動家らが公然と派遣反対の声をあげ始めた。
学会員158人とともに党本部に「中止」を迫り、神崎武法代表や小泉純一郎首相あての署名を学会の内外に呼びかける。
朝日新聞 http://www.asahi.com/national/update/0110/016.html
中国黒竜江省ハルビン市の女性(44)が、ドイツの高級車BMWを運転して
農民ら13人を死傷させた人身事故が、貧富の格差と政治腐敗でくすぶる国民の
不満に火を 付け、新年早々、中国メディアを巻き込んだ騒動に発展している。
単純な交通事故として執行猶予付きの軽い判決を受けたことで騒ぎは拡大。
「女性は省政府幹部の親族」「殺人事件だ」などと、特権階級への激しい攻撃が
インターネット上を飛び交い、中国政府も事故の再調査に乗り出さざるを得なくなった。
http://www.sankei.co.jp/news/040116/0116kok069.htm
この二つの記事を2ちゃんねるで見つけた。新聞は地方新聞でテレビで報道しないとわからない、全国紙にはそれぞれいろいろとりあげる。なぜ朝日で創価のイラク反対をとりあげたかのか、そもそも朝日が自衛隊派遣反対だからとりあげた。産経新聞が中国の暗部をとりあげたのも社の方針からだ。つまり報道には明らかにその社の方針があり取り上げる記事と取り上げない記事がある。NHKは中国の悪口は言わないというのもそのためである。NHKにも社の方針があるのだ。驚いたのは2ちゃんねるに中国の農民が無惨にひき殺された写真がでていたことである。幹部の乗っていた車は一千万もしたという、幹部は一部信じられない特権階級化している。どういうわけか共産党の幹部が泊まる宿があり特別室が用意されている。そこに自分は泊まったことあるからだ。普通は民間人も泊めているのだ。共産党幹部は中国では別格になっているのだ。ここで注目したのは創価でもインタ-ネットで署名を求めて集めたことである。インタ-ネットが具体的な活動に役立っていることに注目したのだ。
そもそも集団化組織化するとそれは個々人の意志と別なもとなる。例えばなぜ池田大作が日頃平和の権化のように平和だ平和だと運動していたのにイラクの自衛隊派遣に対して一言も言わない、めずらしいことに内部から100人くらい本部に抗議があった。これはめずらしいことである。内部の不満が表にでることはありえないことだったから。池田大作がなぜ何も言えないのか、沈黙しているのか?池田の一言ですべては決まる組織ではないか?つまり団体化組織化したところでは実はそのトップに立つものはその個人の意志より団体組織の意向の方が強くなる。池田大作が力を権力をもっていると見えたが実際の権力は集団組織の意向にある。小泉首相にしたって「私個人では自衛隊は派遣したくない・・・」と思っているかもしれない、戦争のときだって天皇は「私は戦争などしたくなかった、戦争には反対だった、私は神などではない・・・」こういうふうに個人的には思っていたのかもしれない、ブッシュにしたってイラクと戦争したくなかったかもしれない、個人的にそう思っても背後の団体組織の意向によって決められる。それはいろいろな圧力団体かもしれない、個人的に私はこう思うからこうすべきだとは団体組織の長は言えない、そう言ってもだめだとなる。通らないのだ。会社だって利益優先になるから会社全体の利益に反することはできないとなる。それも組織集団の意向で決まる。だから池田大作でも小泉首相でも天皇でも会社の社長でもインタ-ネットの日記のような私信を書けない、それは集団組織を代表しているからだ。良心は個人にはあるが団体組織にはない、もちろん国にもない、だから実際はどこの国だって自分の国の犯罪を謝ることはない、組織団体でやったものは個人に責任がなくなるのだ。だから組織団体の犯罪の最たるものが戦争である。人を殺してもどっちにも責任はなくなる。殺すことはかえって奨励される。それも千人殺したら英雄になるのだ。
「私は自衛隊派遣は反対ですが、いろいろ圧力がありましてね・・・」そんなこと書けない、団体化組織化したところはそこには良心は存在させられなくなる。マスコミなんかも本当のこと真実を追及したいのですかいろいろ組織団体の圧力があるし経営にひびきますからできませんよとなる。現実週間現代に創価の機関紙の潮の宣伝をしているのもわからなくなった。創価を批判していたのに、おそらく金の問題でそうなるのだろう。週刊誌自体実際は面白おかしく大衆向けの娯楽雑誌だ。それが真実追及するものと思うこと自体言論界がおかしいのである。ただああしてコンビニなどで創価批判のものが置けること自体一応日本では言論の自由があることを示していた。コンビニはかなり今や宣伝にに役に立つ。コンビニに商品を置けばめだつ。商品の宣伝にもなるのだ。コンビニは今や郵便局にもなり銀行にもなりいろいろな日常の用途になりつつある。
ともかくこれまでの情報環境はこうした組織団体の意向によって決められていた。テレビは影響力あるからどこかの組織団体からクレ-ムがつくと何も言えなくなる。それで差別用語の狭苦しい規制ができた。そうした団体に気をつかい何も言えなくなる。一方インタ-ネットはそうした規制がないから個人的にも金がかからないから言いたいことが言える。個人的にも言える。だから意外とそうした組織団体に従属していない個人の意見の方が真実を言っているのだ。インタ-ネットの影響が方々にででてくるのがこれからの社会かもしれない、やはりその強みはリアルタイムに反応ができることだろう。西安の日本人学生へのデモも即時に広がったのもインタ-ネットがリアルタイムに反応できるからである。いづれにしろあの写真はインパクトがあった。
新年の福はどこにあるのか
新年で四つのス-パ-などを回った。それぞれそこにしかないものを買った。そこにしかないものがあれば店にも特徴が出せる。同じだったら安いものを買うからだ。これからの店は何かしらその店独自の特徴を出さないと売れない、同じことをやっていては売れない、街の商店街がどこでもだめになったが同じ品物なら安い方に行ってしまう。でも小さい店でも何か特徴を出せば売れるかもしれない、そんなもの作れるのかということもあるがやはりこまめな小さな商店でしかできないサ-ビスなどこころがける。人のサ-ビスで売れるということがある。中高年をタ-ゲットにして昔のなつかしさを人情的つながりをサ-ビスを売るのもいい、多様化の時代それぞれの特徴を出さない限り今や売れない、商売とは何か、福を与えることなのだ。その福とは何なのか、単に安いということではない、食べるものだったら味だし人間的サ-ビスもその中に入っている。がつがつもうけようとしてももうからないのが商売である。人間は確かに物が必要で物を買うのだがそれと同時に福をもらいにゆく、その福は何なのかわからないが物についている付加価値も福になる。道具を買ってもその使い方がよくわからないがそれを丁寧に教えてもらったりすると得した感じになる。なんかにこにこした人がいて楽しそうな人がいてその店に行ったら楽しくなったからまた行こうとかなんか福はそのものだけではない何か全体的なものとしての福である。福というとあまりに物とか金が福と思っている人が多すぎるのだ。
金もない何もない人も福をもっている。福を与えることもできるのだ。病気でも障害をもってもそれでも生命をいとおしみなごんでいられる人は何ももっていなくても苦境にあっても福を与えている。貧乏でも福をもっている、福を与える人はいるのだ。貧乏を気にしないで明るく生きている人は福を与えている。子供はみんな福を与えている。笑い声が絶えないからだ。子供は餓鬼というがそれでも与えるものがある。だから愛情を与え苦労して育てるのだ。誰でも金銭がなくても与えるものがある。老人だったら経験を与えることができる。その経験は貴重なものだからそれを参考にする若者がいる。その失敗談すら貴重なものであり参考になるのだ。とにかくがつがつと不足ばかりいい、何か得ようとろうとするばかりだとそこに幸福はない、その心の状態が幸福ではない、そこには貧乏神がとりついてしまう。その心の状態が貧乏神なのだ。与える人の心はやはり欲があるとだめである。欲がなくなると自然と福を与えるものとなる。一方で何かを無理やりに与えようとするもの、おしつけがましく与えようとするものはそれは福とはならない、与えた以上のものを得ようとするからだ。それは強制的にも得ようとする、得られないと恨んだりもする。福を与えることは非常にむづかしい、例えば一億円の金がある。これを与えようとすると物とか金銭の場合、俺にもくれ俺にもくれと奪い合いになる。その金で殺し合いまでになる。福を奪い取ろうとする祭りもあるがあれでは福は得られない、福は与えるとき福なのだ。その福も物や金銭でない福はその人の心にあり欲のない心にありその人がそうして満足しているなら福を自ずから与えるものとなる。近くでもかわいそうだからと百万円をぽんと貸した人がいたのに驚いたが今ではもめるだけになっている。返さないからだ。物とか金銭を与えることは非常にむずかしいのだ。財産を子供に残しても奪い合いとなり悲惨な結果になっている場合もあるから必ずしも財産が福となるとは限らないのだ。
知識でもホ-ムペ-ジを無数にだしているがやはりそこで何かを与えようとしている。福を与えようとしている。ホ-ムペ-ジに来る人も福を得ようとしている。知識は情報は今まで専門家とかマスコミとか出版業者とかに独占されてきた。流通しにくいものだった。本自体が物だから作るのも運ぶのも大変だからそうなった。だから知識の独占状態が起こった。大きな出版社が取り仕切ることになる。流通でも大きな力を持つものが二社くらいでとりしきってしまうとか独占が必然的に起こったのだ。新聞なども毎日配るということがその主な仕事であり毎日配達されることが新聞の大きな役目だった。それをできるのは大きな資本を持つものだけである。だから情報や知識はは自由なようで流通しなかった。インタ-ネットは必ずリンクして乗数的に知識が増大してゆく、それはリンクの力なのだ。知識がまるで核分裂のように増えてゆくのだ。福は独占するとどこかに滞ると増加しない、知識だけでなくかねでも物でも一カ所に滞るとそれは腐ってしまう。民話で蔵に蓄えた大量の米が一夜にして飛んで行って空になったとかそうした伝説が多いのも富は一カ所に留めて置くことができないのだ。富は絶えず流通していないとだめなのだ。
金は天下の回り物である。あるとき必要な人には何か福を与える人には与えられるのかもしれない、福をもっている人には与えられるのかもしれない、福は才能であったり人柄であったり熟練の経験、技術だったり、知識の豊かさだったり、人のめんどうみがいいやさしさとか人柄にもある。それそれの性格にある。例えば医者は病気だけを直すものだけではない、やはり病気をみると同時に福を与えねばならないのだ。技術も必要だがそれ以外のものもいやす心が必要になってくる。人間一様じゃないから何かしら福をもっている。自分でもっていないと思う人も自分で気づかないだけで他者から見ると持っている。人にはいろんな才能があるのだ。地域にしても国にしてもみんな景色が違うしその土地はその土地独特のものを福を持っている。貧しい国だって福をもっているのだ。ネパ-ルは貧しいがヒマラヤという大きな強烈な自然の福をもっている。どこにでも誰にでも何かしら福がある。それを金銭とか物だけから見ると何にもないように見えてしまうのだ。
国にしてもやはり世界に福を与えることは幸せなことである。日本は確かに金銭で福を与えているがそれでも感謝されていない、物だけが必ずしも福ではないからだ。金と物を与えれば福を与えたとならないからむずかしいのだ。技術的が進歩しているからこれを他国に与えるのも福である。確かに民主主義もいい制度だからこれを国に採用させるのも福である。文明国はそうした大きな福を技術とか文化を与えたから尊敬されることになる。イスラムはかつてヨ-ロッパより文明国だった。それがヨ-ロッパに蹂躙されたから恨みとなっている。中国も韓国もそうである。日本は野蛮国で俺たちが文化を与えてやったのに俺たちを踏みにじったのだと恨みが消えない、イスラムもそうなのである。恩を仇で返したと怒っている。七福神はインドや中国の仙人とか技芸天とか技術や文化を伝えたものだった。日本の場合も外国から福をもらってきたのだ。だから北朝鮮問題でも必ずしも締めつけることがいいとは限らない、米でも与えるのがいいのかもしれない、窮迫しているのには与えた方がいい、軍事に転用されるとか下には回らないとかあるがやはりあれだけの窮状だとすると与えられるものは与えた方がいい、太陽政策の方がいい気がする。経済が改善すれば気持ちも余裕ができて変わる。イラクも経済をだめにしたから余裕がなくなっているからテロがやまないのである。
ともかく人であれ地域であれ何かしら福をもっている。福がないというのはまだ発見されていないのだ。福を与えるものは幸せである。神は常に福を与えるものだからそして見返りも要求していないから幸せなのだ。自分は旅をしたがやはりその土地から多くの福をもらってきた。その景色も福である。その歴史に触れたのも福である。新しい視界を得たのも福である。世界が広がったからだ。それで詩を書いたりエッセイを書いたりするのもその福を得たから書いている。福はもらいまた与えられるのである。福は知識のよう限りなく増大して減らないものである。減ってしまうもの枯渇してしまうものそれは本来の福ではなく冨でもなかった。インカの黄金よりジャガイモの方が福だったのだ。個人にしても国にしても何か与えるべきものがあるものは幸せなのだ。主キリストにしろ仏陀にしろすべて与えるだけのものだったから幸福であった。それは欲がないからできたのであり欲がなかったらできない、だから宗教は何かを与えるというより欲がない心が大事だと説かれてきたのである。それにしても地球上にいる60億人が誰一人満足していないというのも不思議な光景である。誰でも何かしらたりない、何かを欲しい、それが得られない、それで不満なのである。その不満は永遠に解消しない、自然界でオレは犬になんか生まれてこなきゃよかったとか思っている犬はいない、オレはなぜ木に生まれたんだとか木も思わない、人間だけだが人間であることに永遠に不満な動物なのだ。その欲が限りないからである。つまり人間は誰も人間であること自分自身に満足している人はいない、人間は神にならない限り誰も満足しない、神の子にならない限り満足しないのだ。キリストは神でないにしろ神の子だったから完全な人間だった。神が人間を自分にイメ-ジして作ったというときそれはキリストしかいなかった。60億人いやこれまで生きてきた何百億人何千億人いても完全な人間は神の御意にかなった人間は一人しかいなかったのだ。あとは神の御意にかなわないものが延々とその欲のために争いつづけ、不満を言いつづけているのが現実である。これは人間が滅亡するまで解消しない、不満がなくなることがないからである。
−−インターネットで盛んな郷土誌研究−−
伊丹郷土史を読む
今回またたまたま見た「伊丹の歴史」はよくできている郷土史である。これでかなり伊丹のことがわかった。ここには別に興味を持ったわけではない、インタ-ネットはたまたまでてきてこれがいいみることが多いのだ。どれがいいという案内、評価がないからだ。郷土史関係でかなりいいものがある。その案内が必要なのだ。ここでも最近埋もれた城の石垣が発掘されたりしている。ここは船と関係深いので面白かった。すでに古代から船がきていた。その船にまつわる話が自分が書いてきた船の話と一致していたのだ。船がその頃いかに貴重かもわかった。船が焼けたので新羅に弁償を迫った。(新羅から献上の工匠…武庫の港で朝貢船失火の代償) そ もそも瀬戸内海は船とかかわり深い港であった。頻繁に外国からも船が入ってきたし船の行き来の盛んな場所だった。
天離る、鄙の長道ゆ、恋ひ来れば、明石の門(と)より、大和島見ゆ 柿本人麻呂
この歌のように船で難波につきそれから飛鳥などに入って行ったのだ。江戸時代には酒を江戸に運び栄えた。船が大きなテ-マになっているのだ。酒造りの話も面白い。株をとらないと酒を作れなかった。専売特許のようなものである。お上からの鑑札が必要だった。よく時代劇でこの鑑札やお上からの株で悪い役人や商人が暗躍するのが上映されるがなるほどなと思った。これがないと酒造りもできなかったのだ。ドブロク造りがさかんだったのもこのためである。常に隠れてドブロクを作り庶民は飲んでいたのだ。こういう歴史がわからないと架空のドラマだけになってしまう。なかなか東北はそうした歴史の厚みがないから歴史を勉強するとき具体的に思い浮かばない、歴史の厚みのある所はそれが具体的なものとして思い浮かぶからいいのである。
昆陽の大池思ひそ出る面影も月の遠つ近江 夏目瓶麿(安政1774)
大きな池がまるで近江の琵琶湖に写る月のようだと歌っている。西には大きな池が作られ稲作が早くから行われていたのだ。だからその池も古いのである。空海や行基がそうした工事にもたづさわったからそれで庶民から崇められた。僧というのは最初実益を与える技術的な役割もあったのだ。酒も最初は寺院で作られた。ヨ-ロッパの修道院でワインが作られた。寺院は宗教的な場だけでなく実際的な生活を導く技術を伝える場でもあったから歴史的に多く残っている。カトリックでは地区の行政をになっていたのだから今の感覚とは違う。ただ今でも宗教は実際の生活にかかわり勢力を拡大化する。世俗かかわり世俗化してくる。真宗でも一つの今の新興宗教団体のように生活共同体になるからそこに入るのである。だからこそ近代化するには政教分離が必要だったのである。信仰の前にそうした共同的機能としてありそこで共同の生活のために不可欠となるから入るのである。信仰そのものと必ずしも関係ないことがあるのだ。江戸時代でも寺は戸籍係であり葬式屋であり行政機能として役場の代わりをしていたのだ。ここも地名で面白い。藁屋町とか柴屋町とか藁とか柴がいかに利用されていたかわかる。無足町とは面白い、足軽町というのはある、足が軽いというか昔は参勤交代で歩いて従者がついてゆくのだから足が軽い、足が早いとかそれが必要だった。使いにも出されたから足が軽いものが必要だった。では無足町は足のない人とは何なのか。
「外城」の少し南のほう、この地図では、伊勢町と書いてある場所です。伊勢町と呼ばれる以前は、「無足町」だったようです。この時代よりも古い地図を見ると、「無足町」となってるんですね。無足とは、所領や禄のない侍、つまり足軽や雑兵を意味する言葉です。先ほどの「殿町」や「中殿町」は武士としての地位は上なんでしょうけど、ここはやっぱり、出城の近くでもあったし、そういう足軽、雑兵クラスが住んだ町ではないかなと思います。
無足町、足軽町とは足はおわしがないなどと金とか何か日銭稼ぎのような金を意味していた。外城にそうした日銭をかせぐような人々がたむろしていて無足町と名づけたのか、人足寄場の一種のようなものかそこに地名として残るのだから人々の暮らしの跡であったことは確かである。(福岡藩士の居住区ではあったんですが、足軽より1つ上の無足 組と呼ばれた士分クラス(下級武士)の居住区の一角にあります)この無足組とは足軽が無しであり領地を持たない侍のことではないか?領地がないから足軽を持てなかったのであ。だから外城辺りに住居をもっていた。足軽よりは身分が上とあるからそうかもしれない。
にぎりしむ日銭や都会の寒さかな(自作)
自分もちょっとの間、たいした苦労ではないが日銭稼ぎやったことあるので昔もそんな人がいたのだ。こういう経験も今となれば貴重である。やはり人間体験しないと実感としてわからないのだ。ともかく伊丹について別に関心がないから考えもしなかった。これを読んで面白いと思い、ああ伊丹ってこんなところかとインタ-ネットで再認識した。インタ-ネットは地方の情報を発信するのにいかに向いているかわかる。これもこうした専門的に書いたものを出すと本で調べる必要もないから効果的なのだ。自宅でパソコンでこれを読みイメ-ジをふくらませることができるのだ。ホ-ムペ-ジもいろいろあるが国際問題とか他の時事問題でも体験とか専門的知識がないと素人のつまらないものになる。これで発言することはかなりむずかしいのだ。インタ-ネットではその人が体験したこととその人の住んでいる歴史や情報の発信はかなり有効である。その人がつまらないと思う伝説なども他の人からみるとそこでしか聞けないものがあるから有益なのだ。情報でもそこにしかないものは価値がある。どんな人もその人だけの情報をもっている。その家族の歴史自体その人しか知らない情報なのだ。地方の情報はこれまで手に入れることがむずかしかった。このホ-ムペ-ジはかなり専門的だから価値がある。
伊丹なる池の大きく古りにけり栄し跡をいつか訪ねむ(自作)
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/itaminorekishi/index.html
注目記事二つ(集団組織の意向が本当の権力だ)
公明党がイラクへの自衛隊派遣を容認するなかで、党の支持母体である宗教団体、創価学会の活動家らが公然と派遣反対の声をあげ始めた。
学会員158人とともに党本部に「中止」を迫り、神崎武法代表や小泉純一郎首相あての署名を学会の内外に呼びかける。
朝日新聞 http://www.asahi.com/national/update/0110/016.html
中国黒竜江省ハルビン市の女性(44)が、ドイツの高級車BMWを運転して
農民ら13人を死傷させた人身事故が、貧富の格差と政治腐敗でくすぶる国民の
不満に火を 付け、新年早々、中国メディアを巻き込んだ騒動に発展している。
単純な交通事故として執行猶予付きの軽い判決を受けたことで騒ぎは拡大。
「女性は省政府幹部の親族」「殺人事件だ」などと、特権階級への激しい攻撃が
インターネット上を飛び交い、中国政府も事故の再調査に乗り出さざるを得なくなった。
http://www.sankei.co.jp/news/040116/0116kok069.htm
この二つの記事を2ちゃんねるで見つけた。新聞は地方新聞でテレビで報道しないとわからない、全国紙にはそれぞれいろいろとりあげる。なぜ朝日で創価のイラク反対をとりあげたかのか、そもそも朝日が自衛隊派遣反対だからとりあげた。産経新聞が中国の暗部をとりあげたのも社の方針からだ。つまり報道には明らかにその社の方針があり取り上げる記事と取り上げない記事がある。NHKは中国の悪口は言わないというのもそのためである。NHKにも社の方針があるのだ。驚いたのは2ちゃんねるに中国の農民が無惨にひき殺された写真がでていたことである。幹部の乗っていた車は一千万もしたという、幹部は一部信じられない特権階級化している。どういうわけか共産党の幹部が泊まる宿があり特別室が用意されている。そこに自分は泊まったことあるからだ。普通は民間人も泊めているのだ。共産党幹部は中国では別格になっているのだ。ここで注目したのは創価でもインタ-ネットで署名を求めて集めたことである。インタ-ネットが具体的な活動に役立っていることに注目したのだ。
そもそも集団化組織化するとそれは個々人の意志と別なもとなる。例えばなぜ池田大作が日頃平和の権化のように平和だ平和だと運動していたのにイラクの自衛隊派遣に対して一言も言わない、めずらしいことに内部から100人くらい本部に抗議があった。これはめずらしいことである。内部の不満が表にでることはありえないことだったから。池田大作がなぜ何も言えないのか、沈黙しているのか?池田の一言ですべては決まる組織ではないか?つまり団体化組織化したところでは実はそのトップに立つものはその個人の意志より団体組織の意向の方が強くなる。池田大作が力を権力をもっていると見えたが実際の権力は集団組織の意向にある。小泉首相にしたって「私個人では自衛隊は派遣したくない・・・」と思っているかもしれない、戦争のときだって天皇は「私は戦争などしたくなかった、戦争には反対だった、私は神などではない・・・」こういうふうに個人的には思っていたのかもしれない、ブッシュにしたってイラクと戦争したくなかったかもしれない、個人的にそう思っても背後の団体組織の意向によって決められる。それはいろいろな圧力団体かもしれない、個人的に私はこう思うからこうすべきだとは団体組織の長は言えない、そう言ってもだめだとなる。通らないのだ。会社だって利益優先になるから会社全体の利益に反することはできないとなる。それも組織集団の意向で決まる。だから池田大作でも小泉首相でも天皇でも会社の社長でもインタ-ネットの日記のような私信を書けない、それは集団組織を代表しているからだ。良心は個人にはあるが団体組織にはない、もちろん国にもない、だから実際はどこの国だって自分の国の犯罪を謝ることはない、組織団体でやったものは個人に責任がなくなるのだ。だから組織団体の犯罪の最たるものが戦争である。人を殺してもどっちにも責任はなくなる。殺すことはかえって奨励される。それも千人殺したら英雄になるのだ。
「私は自衛隊派遣は反対ですが、いろいろ圧力がありましてね・・・」そんなこと書けない、団体化組織化したところはそこには良心は存在させられなくなる。マスコミなんかも本当のこと真実を追及したいのですかいろいろ組織団体の圧力があるし経営にひびきますからできませんよとなる。現実週間現代に創価の機関紙の潮の宣伝をしているのもわからなくなった。創価を批判していたのに、おそらく金の問題でそうなるのだろう。週刊誌自体実際は面白おかしく大衆向けの娯楽雑誌だ。それが真実追及するものと思うこと自体言論界がおかしいのである。ただああしてコンビニなどで創価批判のものが置けること自体一応日本では言論の自由があることを示していた。コンビニはかなり今や宣伝にに役に立つ。コンビニに商品を置けばめだつ。商品の宣伝にもなるのだ。コンビニは今や郵便局にもなり銀行にもなりいろいろな日常の用途になりつつある。
ともかくこれまでの情報環境はこうした組織団体の意向によって決められていた。テレビは影響力あるからどこかの組織団体からクレ-ムがつくと何も言えなくなる。それで差別用語の狭苦しい規制ができた。そうした団体に気をつかい何も言えなくなる。一方インタ-ネットはそうした規制がないから個人的にも金がかからないから言いたいことが言える。個人的にも言える。だから意外とそうした組織団体に従属していない個人の意見の方が真実を言っているのだ。インタ-ネットの影響が方々にででてくるのがこれからの社会かもしれない、やはりその強みはリアルタイムに反応ができることだろう。西安の日本人学生へのデモも即時に広がったのもインタ-ネットがリアルタイムに反応できるからである。いづれにしろあの写真はインパクトがあった。
【国際】高級車の事故契機に…中国、ネットで特権階級への不満爆発
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1074242683/l50
中国韓国嫌いはなぜ(サツマイのことなど)
サツマイモはもともと南米産であるから南だからあたたかい所に適している。サツマイモは沖縄経由で入ってきた。最初は沖縄ではカライモと言っていた。唐の芋だからである。唐とつくものが日本には多い。時事問題で書いたチカラもこじつけかもしれんが地と唐なのである。奈良時代は唐の影響が大きかった。唐の文化だったのだ。漢字がそのとき日本に入ってきたことでもわかる。まさに唐の文化に席巻されたのだ。次にサツマイモは薩摩藩に琉球から入ったから琉球芋と薩摩では呼んでいたが薩摩藩から全国に普及したので薩摩芋となった。最近ホシイモを買いに行ったら中国産のがでていてこれが安くてうまいのだ。日本のよりうまいしやすいのである。日本産は三倍もしてそれほどうまくないのだ。だから中国産を買っている。日本産のホシイモはこれでは売れないと思った。中国産はうまくないと今まではあったが今は輸出用にうまく作っている。韓国では中国からキムチを輸入しているというのは驚きだった。キムチまで作っているのか、韓国では最近中国のあおりでやはり失業者がふえているという。中国産がなんでも売れるようになっているのだ。なんか中国ではでかい焼き芋食ったことある。トルコでもでかいジャガイモ食ったことある。大陸では野菜でもでかいのとれるのかもしれない、なぜこんなことを書いたかというとサツマイモはもともと中国から入ったもので中国で古くから栽培されていたからうまいはずなのだ。今でも世界の80パ-セント中国でサツマイモは作られている。サツマイモはまた飢饉のための食料として奨励された。例えばサツマイモは南国では一日でかなり成長するらしく、ベトナム戦争のときタピオカと言われるサツマイモを食ってベトコンは戦った。食料があったから戦えたのだ。サツマイモは常食にもなれる食料なのだ。ジャガイモは南米の高地から入ってきた。これはイギリスなどのチップとなったから寒い所にむいていた。タバコも南米から入ってきた。南米から入ったものが結構あるのだ。
なぜサツマイモのことを書いたかというともともと文化は中国、唐から入ってきたということをこれで思い出したのだ。中国とか朝鮮半島は欧米化で遅れたものとして欧米や日本に一時支配された。それで中国のことなどが遅れた国、シナというのも蔑称として言われるようになった。中国はこれで精神的にかなり傷ついた。だから日本のことを今でも責める。唐の文化の国であり中国に礼を保ち、中国の支持に従うのが礼儀だという観念が歴史的に植えつけられている。その中国が日本に一時的にも踏みにじられたことが許せないのである。だから経済が好調なので日本を攻撃してくる。今やる気まんまんとなっているというのはやはり経済で自信をつけたからだ。でも今、日本人は中国嫌い、韓国嫌いである。それはなぜなのか、韓国にいたってはすべて日本でできたものが韓国起源にしている。合気道も韓国で作られたものだと言っているのは驚いた。現実にその道場もある。あれは明治時代に植芝盛平という人が創始したのである。大学時代一時ちょっと合気道をやってその神社に行ったからである。これは韓国により文化捏造であるがこれはいつもやられていることである。なんでも韓国起源にしているのだ。だから韓国はこうしたことでも嫌われる。これは一面著作権侵害とにている。韓国経由できても日本で発明したものを韓国で発明したとなると著作権の侵害になる。
日本で韓国中国嫌いが多いのかというとこうした文化的問題も大きいのだ。中国が過去に歴史的に優れているから日本が学んだことは確かであるし韓国経由で仏教も入り韓国についても学んだ。しかし欧米化で韓国と中国は遅れをとったのだ。だから日本は脱亜入欧になったのは悪いことではない、戦争は別にしてこれは中国にも今ではいい影響を及ぼしている。日本の方が欧米化の先進国でありそれに中国も技術的にも日本経由で学んでまねて経済発展しているとも言える。過去に文化的に優れた国でもそれは変わるのだ。イスラムだって過去には欧米より優れていた。十字軍の方が野蛮国だったのだ。でも歴史は絶えず変動しているからその地位も変わる。中国が嫌いなのは文化的な問題ではないか、経済的には成長しても文化的に今の中国に従いたい人は少ない、それが共産党の高級幹部の嫁がトラクタ-に一千万の自動車をぶつけられ激怒して農民をひきころした 。それがインタ-ネットで広がり追及されることになった。文化的に優れていることは経済がいいというだけでなくてやはり法律とかが適用され報道が自由であり民主的あることが現代の文明の基準である。政教分離も文明国の基準でありこれに反すると欧米からみると文明国の基準にあわないとなる。
だからアメリカにもいろいろ欠点はあるがそれを世界でも学び政治に取り入れているしそれを実行しているのが文明国だとなる。いや銃社会だから野蛮国だとういのもあるかもしれない、もちろんこれはイスラムの社会とは相入れないから適用されないというのもあるから対立する。でも日本人が中国が嫌いなのはそうした共産党独裁の民主的でない、またはチベットなどの覇権の暴力的拡張などに恐れからである。中国は唐の時代と同じように考えることはできないのだ。「何十年後かに日本はなくなる」という中国人の幹部の発言は日本が中国の属国になるという意味だろう。それはどういうことかというとチベットのようにしたいのかもしれない、漢人がチベットに入り込み混血してチベットという国をなくしてしまうということがある。日本はこれまで海に囲まれて異民族の侵入をはばむことができたが現代のような交通が発達すれば中国人の犯罪者増えたように中国からどっと人が流入してくることがありうる。それで日本がなくなるということかもしれない、それで今の中国に恐怖を感じる人が多くなっている。
ともかく中国は今の文明の基準とは違う。文明国とは経済だけではない、文化的にそれに見合うものを社会の基準にしていることなのだ。中国でそれを民主化することは非常に困難なことである。軍閥が支配しているとか、その支配体制が軍が支配していることはこれも今の文明国ではない、こういう文化的なことで日本は中国に従いたくないのだ。中国よりアメリカの方がいいとなるのだ。もちろん台湾もそうである。香港だって中国に従いたくなかったのだ。そういう文化的なものが改善されない限り日本は中国嫌いだし中国に従いたくない、アメリカの方がいいとなる。中国側にすれば中国の方が歴史的に文化的に優れているということになるがそれは過去のことであり現代の基準にすれば中国はまるで昔の王朝の再現であり特権階級が農民に対してそういう横暴ができるということなのだ。こういうことは欧米ではありえないことだからだ。こういう国に従うよりアメリカがいいとなるのだ。法律の下には大統領でも平等であるということである。ただアメリカが銃社会だということはアメリカも本当の文明国ではないのだ。西部劇時代がつづいている。日本で言えば刀を持っていた時代と同じなのである。文化は食の多様性のようにその土地によって違ってくるが文明は法律とか報道の自由があるとか政治で特権階級を作らないとかが文明国の基準になる。今中国に留学する人は何を学びにゆくのかわからないと言っているし留学となれば欧米なのである。中国に留学したから特別扱いはされないしむしろ日本で問題になっているが留学に来て学びに来る方が中国では優遇されるだろう。つまり中国の問題は文化的問題が根底にある。ただ中国との経済的交流がますます盛んになれば中国の文化的なものも再び見直される。サツマイモのような卑近なことでもやはりそうなのだ。これはカライモであり中国産だったんだなと感心するのである。アメリカの安い牛肉が食えなくても中国のサツマイモが食えればいいともなる。それはやはり経済だけではない食だけではない全体の文化として考えるものである。
情報戦国時代(情報分析が必須の時代)
現代とは何か、インタ-ネットの普及で情報戦国時代が加速された。政府でも情報省を作るという。まさに現代とは様々な情報が飛び交う情報洪水の時代になった。それで必要になったのが情報を分析する仕事である。情報省の仕事はインフラ整備も必要だが情報を正確に分析することである。なぜ現代が情報が大事かというと様々な情報があふれ情報によって様々なことが左右される。国政そのものがそうなのだ。今回の古賀氏の学歴詐称事件もそうである。これば外国のことなどわからないから外国の大学三つも経歴にのっていたのでこれですごいなと思う人はかなりいたし投票した人もいたのである。現代で情報が大事なのは人が人によって判断するのではない、江戸時代とか明治時代あたりならある人が人を判断していた。この人はつきあってみてこういう人だから信頼できる、将来役に立つとか判断していた。それが今は何によって判断するのかといったら情報なのである。もちろん民主党の幹部が古賀氏の人物を見込んだということがある。しかしその人選はあいまいであり深いつきあいがあるわけでもないから外見だけ判断することが多いのだ。むしろその人物より外見の方が選挙では有利である。誰も人物のことなどわかりえようがない、するとテニスのプロ、アメリカ留学か、それも三つの大学も経歴にのっていた。するとそうした情報にまどわされる人がいるし選挙では深く考えない外見だけで判断することが多いのだ。だからマスコミの情報操作が力を発揮したのだ。例えば芥川賞が20才の人になったりマスコミで操作され売り出される人がいる。それは別にその作品がいいとかではなくマスコミや出版界ではそうして騒いで売り出す商品が必要だから騒ぎ軽薄な人はそれにのるというのがこれまでの構図だったのだ。民主党は自民党のように親から受け継ぐような地盤をもっていない新人を出す、するとその人選は票のとれる外見のいいものとなるのだ。これは選ぶ方にも責任がある。外見だけで投票する人が多いからだ。一方組織をもっている創価とか共産とかその他は組織の活動歴で決まる、別に外見は必要ではないのだ。その点は堅実なのである。民主党はそうした組織がないからそうした外見だけで決めることが多くなるのだ。これが最大の民主党の弱点かもしれない、これは選挙民も悪いのだ。大衆民主主義の弊害でもある。浮動票はあてにならない、だから組織票に頼った方が堅実だとなり創価と自民は組んだ。確かに浮動票は何か信念をもっているわけでもないしそのときの気分とかに左右される。だから一面今回のようにかっこいいとなり浮動票が流れて勝ったりする。浮動票はそんときそんときの気分とか情勢とかその人の外見に左右されやすいのである。
もう一つ注目したのは私のホ-ムペ-ジに来たキ−ワ−ドで「浅井隆 2ちゃんねる 」というのがあった。これは時事問題(あなたの財産はかくも簡単に消滅する」浅井隆を読んで) で私も書いたから同じことを議論していたのだと思いリンクをたどって読んだ。自分が書いたことでもそれに関するものを読んでいないことがかなりある。情報の世界が広いから特にインタ-ネットは本当に探すことが容易でないから大変なのである。これは私と同じような批評がでていた。やっぱりなるほどなと納得したのだ。これでわかることはこの情報戦国時代では情報分析がいかに大事かわかる。情報省が現代の最先端の省になる。様々な情報にまどわされるのが現代なのだ。これまで情報はマスコミとか本とかが主流だった。今やインタ-ネットでその裾野は飛躍的に拡大した。個々人が情報源となってしまった。その個々人の情報を日記などをいちいちよむことは今やできない、だから2ちゃんねるが問題でも一つの掲示板に集中するしそこからリンクをたどり情報を広げようとする。だから2ちゃんねるのようなものでなくいつも見るニュ-スの掲示板は一番大事だからそこではいろいろな専門家がリアルタイムに議論して情報を提供する場が不可欠になっているのだ。2ちゃんねるではヤジとか大衆の不満やリンチ的なものになり本当の真意がわからなくなるからだ。情報は出す方によって決められることがある。正確な情報をだすというよりその団体組織なりがそうあってほしいとか相手を批判するために情報を利用することもあるし情報は絶えず出す側によって操作されている。だから創価であれ、自民党であれ民主党であれ自分の党に不利なことは隠そうとするし相手のことは追及してくる。そしてこれまで団体組織は力をもっていたからマスコミをおさえることができた。自分たちのいいように操作できたのである。報道は公平ではありえない、どんな情報もその出す側によって偏るのである。実際それが報道でありかまわない、ただ同じ見方の報道がよくないのだ。一方的になる情報の出しかたがよくない、民主的でないのだ。それはファシズムになる。今回の情報分析として二つの問題をのせた。
まずいね。こんな「爆弾」をかかえて国会議員になろうとしていた
とは・・。必ずばれる。山拓を倒したヒーローだからやたらと
めだってしまう。いわば正義の味方。経歴は必ず詳細に調べられてしまう。
自殺行為だ。県議レベルならば別にどうということもなかったわけだ。
古賀は格好をつける癖があったわけだ。しかし古賀はそれなりの政治家になれ
る玉だったとは思う。成長次第だがもしかすると民主党の党首にまでなった
かもしれない。無能ではないことはわかっている。
しかし実に残念だが、こうなった以上もはやもちこたえらないだろう。
選挙みたいに短い時間で、接触のない人を判断しな
ければならない時、
学歴や職歴は大きく人の判断に影響する。
学歴で入れたのではないという者も
候補者がどんな人か、そのイメージに学歴が全く影響していないことはないだろう。
アメリカ大卒、爽やかな優勝経験あるテニスプレイヤーというイメージは
票とりに大きく貢献したはずだ。ハロー効果はけっこう馬鹿にできないだろう。
そこを恣意的に歪めて当選するのはありだとなったら、えらいことになる。
ここでは身近に接する人がいてそれからの詳しい情報が知りたかったが反応がなかった。
現代は情報が大事であるのは選挙はその人のなんたるかより外見の情報で決めるのが多いのだ。だからテレビで何回も出る人はすでにそれだけで大きな力を持つのである。その例が田中真紀子だったのだ。テレビでマスコミで騒がれれば大きな存在となる。その政治的手腕とかよりそうした外見が大事になるのだ。小泉首相の場合も田中真紀子と組んでテレビのマスコミにのり首相になれたのである。
結局、放漫経営のアングロサクソンは、勤勉な日本
人の貯蓄を狙ってるのです。その手先が、日本にうようよいる。
浅井はその一人に過ぎない。移民コンサルタントとか称し
ている連中の大半は、詐欺師と見て間違いないでしょう。
もしくは、まったく仕事の出来ない口だけ人間です。
結局、放漫経営のアングロサクソンは、勤勉な日本人の
貯蓄を狙ってるのです。その手先が、日本にうようよいる。
浅井はその一人に過ぎない。移民コンサルタントとか称し
ている連中の大半は、詐欺師と見て間違いないでしょう。
もしくは、まったく仕事の出来ない口だけ人間です。
ニュージーランドは治安が良く女性が夜一人歩きができるというくだりが
ありますが、あちらでは年間何千件もの性犯罪が発生しています。
人口が羊の数の10分の1程度という国で、です。
70才過ぎの女性が就寝中にレイプされた報道もありました。
邦人観光客で被害にあったケースもあります。
また、ワーキングホリデー中に殺された邦人もいます。
928 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :04/01/03 23:41
私は現在、著者の非難するオーストラリアに暮らしているが、
ここオーストラリアでの外国人投資額の一位はニュージーランドからの
ものであり、多くの若者が職と生活の質を求めて移住してきている。
929 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :04/01/04 00:57
金持ってる日本人が住む分には特別居住区もあるし
同じ額で日本の約3倍分は金が使えるし、フットワークの良い人間には
天国だってことだ。
この人は実際にオ-ストラリアに住んでいる人の発言だから信憑性があるしこういうことって実際に住んでいる人でない限り書けない、その人の体験談も嘘は簡単に書けないのだ。インタ-ネットにはこうした個人の経験からの発言がありこれが新鮮なのである。しかしこれを探すことは容易ではない、現実私は今回誰かがたどってきたキ−ワ−ドを逆探知してこれを発見したのだ。いづれにしろ情報戦国時代には情報分析が不可欠である、そのまま鵜呑みにすることは危険である。マスコミでも本でもそれらは権威として君臨していたがこれからはこうしたものも実際はわからない、なぜなら浅井隆という人も一番の目的は本を売り投資をうながしもうけることにあるからだ。ベストセラ-なんかもそうだった。ここにコマシャ-リズムの危険が常にひそんでいる。かえってこのオ-ストラリアに住んでいる人は別に金もうけるために言っているではない、体験談をありのままに語っただけなのだがそれが真実なのだ。これまでの情報の問題は無料で情報を出したい人はいたが出す場がなかったのである。インタ-ネットではやはり情報のリンクが大事である。浅井隆というキ−ワ−ドでそれに関するものをたどって判断することである。だからインタ-ネット情報術とか情報学とか操作術とかが必然的に必要になってくるのだ。
http://money.2ch.net/test/read.cgi/eco/1073035636/48/
モラトリアムの時代(人間積み重ねが大事)
1000万円もうけた日があった。それ以上に損をした日もある。取引を始めて3年余。
名古屋でばらまいた紙幣は、経営破たんした足利銀行の持ち株会社だった
あしぎんフィナンシャルグループ(FG)株を破たん直後に約600万株買い、
値上がりした時に約550万株売ったもうけが元手だった。男性は東京の国立大学を卒業後、大手銀行に就職したが、半年で退職した。
「いつか先輩たちのようにリストラされてしまう」という不安からだったという。
実家に戻って公認会計士の勉強を続ける間に企業の財務諸表に詳しくなり、デイトレーダーになった。
だが生活は「引きこもり」そのものだった。「コンピューターゲームの感覚」でパソコンに向かい、他人との会話のない日々。孤独感が募った。「自由な半面、市場から利益をもぎ取るだけで、世間に何のプラスも生み出していない。この世界に自分がいてもいなくても同じと思うと、たまらない気持ちになった」
毎日新聞 http://ime.nu/www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20040125k0000m040082000c.html
2ちゃんねるではデイトレダ-が金儲けにむなしくなって金をばらまいたという。一方でテレビではパチスロのプロになってかせいでいるものもいる。外国ではただ女と遊んでぶらぶらしているものもいる。なんか知り合いのものでも田舎でぶらぶら音楽などやっているものもいる。仕事しないフリ-タ-がふえている。これはどういうことなのか、仕事ないからなのか?キツイ肉体労働はしたくないからか、外国人がそういう仕事をしている。フリ-タ-は自分の考えでは余裕があるからフリ-タ-になっているのだ。本当に余裕がない時代だったら親が世話するわけがない、そんなに親が収入なくても現代では食うくらい困らない人が多いのだ。それに今は中高年でも高等遊民の時代である。アメリカでも中高年は80万人くらい働いていないという。フリ-タ-も増えたが高等遊民も増えてゆくしそれが豊かになった証拠である。不況になるとそんなことできなくなるというが私が昔の考えられない貧乏 で書いたように貧乏のレベルが違うのだ。退職した人が相当数いて年金暮らししている。豊かな時代になるとこうなるのだ。そういう人たちが責められる時代でもないのだ。今の時代公共事業して無駄な道路を作って金をもらっている人を責めたりはしない、なんであれ仕事して金もらえば社会にとって有能な人間とみなされるのだ。高等遊民も無駄であるなら今や仕事している人が社会にとって切実に必要なことをしているわけではないのだ。実際今や働くこと自体迷惑になるということがあるのだ。余裕があるのに何することもないから事業をやろう、事業こそ生きがいだとあちこち穴を掘ったりもっといらないものでも作り売る必要があるんだ、そうして余裕ある身でも働きその働くやつがお前らも怠けていないで働けとなる。そして無駄な穴堀りをやらされる。現実こういうことありうるのだ。国が戦争になれば兵士にされる。
だから荘子の例えは何も戦争のことではない、今の公共事業や無駄な事業のために働かせられることがあるのだ。ダムがもはやいらないとしてもそのダムを作ったりすると現金になるからと働く人がいる。でもそんなこと無駄だからオレは働かない、花を見て楽しむなどと言うと「お前俺たちが汗水流して働いているのに遊んでいるのかと」なるのだ。今ふりかえると戦争なんか壮大な無駄な事業だったかもしれない、でもそれは有用だった、偉大なことだったと国のために尽くしたから靖国に神として祀るのだとなる。
「お上が兵士を募集するときでも不具者は徴兵免除になる。大手をふって人中を歩き回ることができる。またお上が大工仕事のた人を徴発するにも不具者は免除される。お上が病人に施しをするときには食料と薪をもらうことになる。」
この荘子の例えには中国人の大きさがある。中国人の社会の見方のスケ-ルの大きさがある。国を越えた何かスケ-ル大きな日本人には持てない視野があるのだ。戦争中に徴兵検査が行われた。
甲種合格の基準は二十歳で、筋肉強健、視力0・6以上、身長155センチ以上となっている。乙種はこれに次ぐ。昔は甲種合格は名誉なことで家門の誉れとお祝いをしたそうだ。その合格者だけが軍隊に入隊した
「お前は甲種合格だ、立派な体だ、真っ先に戦陣の最先端につきお国のために尽くせ、お前は郷土の自慢だ」
「お前の体は貧弱だな、お前は不合格、戦争できる体じゃない、戦争に行く必要なし、お前は郷土の恥だ、不具者だ」
こんなふうになったのだがこうして戦争に有能なものとして駆り出されて死んだものと不具者として戦争にも行かず生き残ったものと一体どっちが今ほめられるのかわからなくなっているのだ。戦争一辺倒の時代にお国のために死ぬことが唯一の価値観になっていたからだ。こんなふうに見る人はいなかったのだ。反対するのにも別な見方で反対していた。戦争は負けるかもしれないとか人道に反するとかであるが荘子のように見る人はいない、日本人は働くことにこりかたまった人間である。働いていれば有用な有能なものだということがこびりついている。戦争のために命をとられたことは愚かなことだったかもしれぬ、そういうことが今問われているのだ。植民地解放のためだとかいろいろ理由を言うが今になると戦争に対してはこうした見方もできるのだ。哲学とか思想は別にむずかしいものにあるのではなくこうした時事問題の中で生活する中で考えることなのだ。宗教団体に属している人は全然考えない、盲従する。哲学、思想は平凡な生活の中にも応用されるものである。
だからこの世には様々な見方、視点があることを知っている必要があるのだ。そういう思想の自由が必要なのである。思想の自由がないから言論の自由がないから一方的な見方しかできなくなるのである。つくづく最近インタ-ネットで書いてみてわかったことはこうして文章書いてみると人々のいろんな見方を取り入れている自分に気づいた。それは有名な人だけでなく普通の人の見方にもいろいろあるんだなと気づいたのである。普通の人でもいろいろな見方ができるのである。それは今まで発表する場が与えられないからできなかっただけである。発言する人は極端に制限されていたからだ。思想哲学は日常的な生活に応用される。その様々な見方でも応用されるのだ。現代は選ばれた知識人だけではない、庶民が思想哲学を語る時代になっている。マルクスがどうだこうだなど知らなくても思想哲学はありうるのだ。現代は余りにも専門化して医学でも法律でも政治でも経済でもなんでもお前ら無学なものにはこのことはわかるはずがないから俺たち専門家にまかせればいいんだ、法律を俺たちは死ぬ思いで勉強していたんだ、お前たちにはわかるはずがないとなる、これはまさに宗教が聖書すら読ませなかったり意味もわからず経文だけを読むようになったりとしているのと同じである。むずかしくてもこの世のことを常識的にわかることが必要であり専門的にすべては知ることは不可能でも常識として知る必要があるのだ。そうした常識的知識は庶民の中にもあり情報化社会ではとりださせるのだ。ともかく一方的な見方をさせるために戦時中でも言論弾圧があり今でも創価やその他一方的な見方をマスコミなどは押しつけるのだ。無駄といえば公務員なんか半分くらい無駄な人員がいるというのも本当だろう。でも金をもらっていれば有能な人間になるのである。でも今回の若者の例は今や金ではない、自分が何を目的として何をしたいのか、何を生きがいとしたいのかということである。食うことだけが今や仕事でない、だからフリ-タ-が多いともいえる。それだけ何か生きがいのあるものを見つけたい人が多くなっている。社会もだから親も余裕をもってみているのだ。モラトリアムの時代である。
実際に今の時代世界を旅行するのが簡単だからいろいろ見聞することが多い。感動することも多い。世界中を何年も旅しているなんて昔だったらほとんどいない、だから小田実なんかが有名人になれたのだ。今だとそれを語ってもたいした価値がないのだ。俺も見て来たよ、同じこと言うなよくらいでかたずけられる。今は女性でも世界を駆けめぐっているからすごい。人間はとにかく黙っていても時間がすぎる。どんどん時間はすぎてゆくのだ。パチスロやっている人間をみてぞっとした。大事な時間無駄にしているな、時間はどんどんすきですぐ30だぞ、40だぞ、白髪だぞ、50だぞ、老人だぞ、そう今ではみてしまう。時間はなんで与えられているのか、その人が何かを蓄えるためである。何事一朝一夕にならない、それは将棋のような遊びでもそうである。すでに小学生で基礎ができていないものはプロになれないのである。
今から思うとやれずに失敗したことがいくらでもある。自分は元来勉強が学問が好きだったのだ。学校では全く学問が嫌いになった。受験だとか集団生活とかなんか面白くないことばかりだった。だから勉強することが本当にいやだったのだ。だから大学まで全く勉強に身が入らなかった。勉強に身が入らなかったのだ。だから英語なんかもっとやっていれば良かったと思う。勉強の仕方も悪かったのだ。勉強がいやなのは創造的にしないからである。暗記は必要でも長つづきしない、数学でもなんでも図形化することが創造性を育むことなど創造的に学ぶと面白くなるのだ。モラトリアムの時代とは見聞する時代が長くつづくことである。見聞だけ何十年とつづくかもしれない、例えば世界を旅行することも見聞である。私は世界を見聞することは遅すぎたが日本は隈なく旅して見聞したのだ。その貯えが知らずにできているから思い出して旅のことを書いたりしている。旅の貯えというものもあるのだ。何も貯えないという人はありえないのだ。無駄なことでも貯えているのだ。俳句とか短歌もそうである。これも一朝一夕に天才でない限りうまくならない、積み重ねなのである。どんなことだって積み重ねがないなら何も成らない、これはどんな分野にも言える。天才でも積み重ねがないなら何にもできない、才能がなくても積み重ねがあるとそれなりのものになる。学問の世界なんか広いからある一分野にだけ趣味の分野でも積み重ねがあれば詳しくなれる。何かの収集するんだってそうである。世界を歩きこつこつ集めればその人なりのコレクションができる。
学問をむずかしく考えるがこれと同じなのだ。積み重ねの方が大事なのだ。才能ではない、積み重ねの努力の結果そうなっているのである。人間が才能がないとだめだだめだというがどんなことでも積み重ねをつづけていけば大を成す、発明だって一朝一夕にできない、なんらかの積み重ねがありひらめきがあるのだ。天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗である。(エジソン) というときあくことなき実験をしてきたのだ。それが凡人を凌駕しているからあれだけのものができたのである。エジソンやアイシュタインが劣等生だったのはなぜか、学校は一番創造性に欠ける場所なのだ。試験でもそうだし暗記が第一になったり創造性と無縁な場所なのである。だから成功は学歴なんかも必ずしも関係していない、芸術の分野では学歴はほとんど関係ない、どこの大学でたから芸術家になったなどないのだ。作家が中退を誇りにしていたのはそのためである。作家は経験が大事だからいろいろな仕事、辛い仕事でも経験した方がなりやすい。ホ-ムレス作家というのがいたがあれも経験したから書けたのである。極端な話、殺人を犯すようなことをすればすごい作品が書けるかもしれないのだ。金脈を掘りあてるにしたって簡単にはできない、例えば水を得るために井戸を掘るにしても深く深く掘っていかねばならぬ、そこに水はでないかもしれない、掘っていかねばならぬ。日本では温泉がそうである。そうして根気よく掘り続けてゆくとき積み重ねがあって水であれ温泉であれ出てくるのだ。その時ようやく苦労が報われる。
我が力たゆまずそそぐものあれやそこに幸いの満つるべきかな
とにかくそこに力を注ぐべきものが見いだすことである。モラトリアムの時代はそれを探していることが多い。ただそこに力を注いで満たされないのは何か問題がある。子育てなら子供を育てること自体に幸福を感じる、母親は満たされるから無償で子育てをする。画家だって報酬は欲しいにしてもむしろいい絵を描くことの方に力をそそぐのだ。作家だってそうである。ただこれら芸術家をねらって売り物にしてもうけようとする出版社や画商がいるのだ。彼らは商売人だから金を第一に考える場合がある。本来芸術家ならいい作品を作ることに力をそそぐことが喜びであり金のために創作している人はいない、彼の努力の報いはいい作品ができたことにあるのだ。これは芸術家だけでなく仕事の報いは金だけではない、その仕事自体にある。福祉の仕事なんかもそうである。たゆまず力そそぐべきものが与えられることが幸せなのだ。だから報酬なくても仕事をしているべきだし、仕事がないということはありえないのだ。金が入らないだけで仕事はこの世にいくらでもあるのだ。俺には才能がないから仕事がないというが仕事自体はある。収入を考えなければ仕事はいくらでもある。収入にならなきゃ生きてゆくこともできないとなるがそもそもモラトリアムの時代は自分のあった仕事を探している人でありその自分に適した仕事がないからモラトリアムだとすると収入が第一ではないのである。
私は日本を隈なく旅したから今思い出して紀行文なんか書けるのである。旅に通じるには旅を積み重ねなければならないのだ。遂に芭蕉も旅に死すとまでなったように旅することが遂にはその人の仕事となり一生となった。それも無駄かといえば無駄ではない、旅もまた人生なのである。芭蕉の人生が無駄だったなどと誰も今は言わない、そしたからこんなに評価するわけがないのだ。いづれにしろみんな才能あるからあんなことできたんだと思っている人が多いが実際は違う。最初からその芽はあったとしても積み重ねなくして何かを成し得た人はないのだ。職人でもなんでも向き不向きがあってもなぜ親の仕事を継いでそれなりにやっていけたのはやはり職人だって積み重ねが大事だからだ。だから親の見よう見まねで積み重ねの努力していればそれなりのものになっているのだ。何事一朝一夕でなったもがあるだろうか。棚からぼた餅のように幸運が来ることはない、鯉の養殖であれ牡蠣の養殖であれ花の栽培であれいいものを作るのには積み重ねの努力、研究をしている。学問なんかも才能ではない、それが証明できるのはあと百年このくらいの能力が持続して生きれれば大学者になれると思うからだ。というのは語学そのものが身につけるのがものすごく大変だし知識の量も膨大だし世界が今や舞台だとするとその世界のことを理解するとなると実地に深く旅行したりと大変な積み重ねが必要になるからだ。だから「少年老いやすく学成りがたし」なのである。
英才はその人の系統上の前代の人々の「努力の堆積」がその人の血液に宿って而してその人が英才たるを得たのであ。(幸田露伴-努力論)
これは家系とも関係している。家がそれなりに栄えるのはそれなりの代々の努力の結果である。最初は貧農でも努力して財を成す農家がある。なんらかの努力の積み重ねでそうなる。その積み重ねを受け継いでさらに豊かになる。その家から何か良きものがでてるのはその家の積み重ねの結果である。そこに努力の積み重ねがあったのだ。親が放蕩して暮らしていたりすればその息子も放蕩息子になる可能性が高いのだ。なぜアフリカが植民地から解放されて自由になったのに部族間の争いであのような信じられない悲惨な結果になっているのか、日本のように長い歴史により作られた国でないからだ。いろいろな蓄積がそこに欠けているのに「お前ら自由にやれ」と言ったら元の原始時代の野蛮な争いの時代にもどってしまったのだ。民主主義はそれなりの歴史と基礎がないところでは成り立たないものなのだ。なぜならその民衆が原始時代のレベルでは成り立ち得ようがないのである。考えてみれば自由とは恐ろしいことでもある。野獣が自由に放たれた結果あのようになった。人間の本性は野獣だったことをアフリカの悲惨は示している。
歴史は蓄積である。そこに技術の蓄積もあるし政治や学問や文化や様々の蓄積がありその上に花開くものなのである。江戸時代も負の部分も多くてもやはり日本にとっては大きな蓄積である。こういう歴史だけはアメリカでも買いないし作り得ようがないから貴重なのである。明治維新ができたのは江戸時代三〇〇年の蓄積の結果である。そうでなければアフリカのように部族社会のようなものだったら明治維新ができるはずがない、では歴史ある中国は歴史の蓄積がある中国はなぜあのようになったのか?これはやはり蓄積があってもそれを更新する力が出てこないと蓄積も無駄になることである。蓄積を今に活かすものがなかった。あれだけの歴史の蓄積を活かすことがなかった。また文明は他者の蓄積を摂取して己のものにすることでもある。日本はかつて中国文明から学びその歴史の蓄積の恩恵にあづかった。次は欧米文明の蓄積をいち早く摂取して更新したのである。中国はそれができなかったから遅れをとったが今は積極的にその遅れをとりもどそうとしているから発展しているのである。
バ-チャルなインタ-ネットの旅の発見
(インタ-ネットの読書の方法)
ビデオでとったものを調べていたら思い出して歴史をたどってみたらどういうわけか枚方市がでてきた。そこは江戸時代に淀川の舟運で栄えていた。それがなぜわからなくなったかというと新幹線で行ったら東京と大阪間でありその間がぬけているからだ。そこは京都から大阪まで普通の電車で行く必要があった。京都-大阪間は欠落しているのだ。今はこういうことがよくある。川が重要な交通路であったことが全くわからなくなっている。だから旅がつまらないものになっている。東京から大阪まで新幹線で通過しても何も面白いことはないのだ。何も知ることも見ることすらできないのだ。
今はインタ-ネットでバ-チャルな旅をした方が歴史がわかる。地図も必ずでているしそれぞれの市とかいろいろな歴史をリンクでたどるのだ。そうすると地理的にも歴史的にも一つのつながりがでてくる。これは新しいインタ-ネットの利用の仕方だ。日本だとだいたい歴史でも地理でもそれなりにわかるので想像がつく、これがもっと情報が郷土誌が詳しくでていればもっとバ-チャルな詳しい旅をすることができる。つまりその角を曲がったら何々の地蔵がありそれはなんの謂われでできたとか説明があれば興味が尽きない、そういう細かいことは旅してもわからないからだ。
油地蔵というのがあった。油にまつわることが多いのに驚いた。大阪近辺に多い。こうした地理と歴史とか文学でもリンクしてたどってゆくこと一つのバ-チャルな旅ができるのだ。新しい郷土誌発見である。これが本になるとこういうことはできない、そんなに買うこともできないし調べることができないのだ。図書館だって調べるのはむずかしい、こうしてパソコンのネットで調べるのが一番便利である。とにかくこのバ-チャルな旅の経験はかなり知的に刺激がありこれは子供の勉強にもいいしインタ-ネットで活かされるべきである。インタ-ネットのいい点は様々な知識、情報を組み合わせリンクをたどり知識を広げていけることなのだ。これもビデオとか地図とか写真とかマルチメデアで広げるとこれは明らかに歴史が非常に面白いものになる。日本であれば全国が一つにつなげる。歴史はつながっている。日本は一つの脳のように脳細胞のように結びついてくる。日本の地理と歴史が一つの脳のなかで結びつき活きてくるのだ。これは新しい知的体験だ。インタ-ネットによる新しい学問分野だ。
遠くに行くとき新幹線で行くのと急行で行くのと普通列車で行くのとさらに自動車で、バイクで自転車で歩きで行くのでは違ってくる。見える風景が違ってくる。インタ-ネットでは詳細な点と点を結びつけるのに向いている。点と点を結びつけて線にするのである。旅することは実は時間軸としての歴史がかかせない、過去をたどることがかかせない、これが現代ではわからないのだ。この時間軸と同時に空間軸、地理を知って地理と合わせて全体を一つの世界として知ることができる。日本だとバ-チャルな旅でもかえって詳しくリンクしてたどっていけばわかりやすくなる。たいがい私の場合はその地を踏んでいるから想像できる。インタ-ネットで便利なのは地図がでていることである。それも詳細なその土地の歴史地図がでていることである。どんな神社があってその謂われがのっていたりとこの地図が意外と大事である。ある地点の詳しい地図は市販の地図にはのせられないのだ。またわかりにくいのだ。これはかなり重宝するのである。バ-チャルになるには地図とか写真とかその他イラストとか絵とかさらにビデオとかこたうした目で確認できるものが不可欠でありこれがインタ-ネットでやりやすいことが強みである。いづれにしろこれからの学習方法自体がかなり変わってくる。本というのも一冊を読むというより調べる場合は何十冊何百冊の本の中の関連するものをたどりそれらを関連づけると一つの世界ができあがる。それで論文もできる。だから本をテキスト化してその文章を検索するやり方を取り入れたアメリカの方式はインタ-ネットに向いているわけである。
インタ-ネットはこの詳細な点と点を結びつける。マスメデアは大きな面でありこうした個々の点と点の情報は欠落しているのだ。新幹線的情報であり間がぬけている。、細かいプロセスがぬけている。情報の質が違うのだ。インタ-ネットはミクロメデアとなるかしれない、小さい点を分子を結びつけて一つの情報世界を作ってゆくのである。