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2000−4月〜12月
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(近況報告ー日記)小林勇一 感想はこちらへ
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中高年の悲惨
ロサンゼルスのホ−ムレス
法の華の福永氏逮捕
自殺の恐怖
ホ−ムペ−ジ作りの意味するもの
創価学会の闇社会の闇
福島民報新聞の疑問
バイクの洪水(カンボジアからベトナム)
ベトコンの墓
●中高年の悲惨
昨夜のNHK のインタ−ネットで一万人の配置転換で中高年が倉庫係りにまわされてつらい思いしているのは
あわれだった、今になって中高年は月給が高いのに新しい分野で役にたたない、しかし一般的には若い時苦労して年取ってから楽するというのが普通だから順序的には人生のサイクルに合っていない、これからは若い時は能力のある時は稼せぐだけ稼ぎあとは半端仕事でもいいからそれなりの収入でがまんするという時代になるのかもしれない、ただ中高年は生きがいのある仕事をしたいし仕事を完成するの年齢だからそうした仕事にまわされることは辛いことは確かだ
農耕民は蓄積型、貯蓄型というのは言えるのかも、狩猟型や漁業や商業は蓄積型ではない、獲物がとれるた時はそれをためるのではなく使ってしまう方が多い、農業より狩猟型は獲物をとる能力が重視される、漁業も商業もその時その時が勝負だ、農業のような蓄積型ではないのだ、漁業に従事する人が大漁の時は金を使うので金使いが荒いというが確かにそういうことになる。農業型はこせこせ毎日勤勉に働きちびりちびりためてゆく、資本主義はそうした農業型の文化と違った精神から出てきていてそれが日本人に実は合わないので混乱をもたらしているのかもしれない、儒教の徳というのも極めて農業的エトスから発しているからだ。資本を投下しギャンブルのようにもうけてゆくということは農業型には合わないことなのだ、これは中国のような農業型の国家にも言える、資本主義というのは農業型と合わず今年功序列などが崩れることなど資本主義の持っている精神というか思想とういかそうした影響がもろに出て不景気になり
苦しんでいる、つまり資本主義の悪い側面が不景気でもろに出てきたともいえる、かといって資本主義が悪いとかいうのではなく安全性重視とは違ったものが資本主義にはあるとうことである。投機とは冒険であり農業にはそうした投機的要素が少ないのだ、西洋型の文化が世界を席巻したのはまさにこうした冒険精神だったのだ。それはアメリカの西部へのフロンティア精神まで続いていたのだ。
ロサンゼルスのホ−ムレス
テレビでロサンゼルスのお金持ちの豪邸を紹介していた、3億円で世界中にハンティングに行ったとかロサンゼルスの丘に建っている御殿である、しかしアメリカという国はものすごく貧富の差がある国である。私が泊まった有名な安宿の回りはホ−ムレスがうろうろしてヤバイと思った、危険だと思った、実際は危険ではないのだが誰でも知らなければ危険だと思うのは仕方がない、ホ−ムレスは路上で寝ていた、黒人が多かった、一方ではロスの高台の眺めのいい所で贅沢三昧して暮らしている人がいる、この差は天と地ほどある、あれだげ差があると下で暮らすものはいやになるだろう、それで犯罪も多いのかもしれない、とにかくホ−ムレスが結構目についたのである。一方はふかふかの超贅沢なベッドに眠り一方は路上で寝ているのだ、この差は余りにも大きい、テレビはこうして現実の全体を見せずある錯覚を視聴者に植え付けている、ある誤ったイメ−ジを抱かせる、ロスの犯罪やホ−ムレスも同時に映す時、全体として調和がとれるし社会の現実を知ることができるのだ。とにかく夜泊まることができなくてうろうろホ−ムレスのたむろする中を歩き回っていた時は不安だった、しかしホ−ムレスは余り犯罪は犯さないらしい、日本ではこうした極端な貧富の差はない、アメリカは貧富の差も人種の種類も、才能の種類も種々雑多なものの集まりなのだ、一方は家もなく路上に寝ている、それを見下ろして一方は御殿に住んでいる、こういうことが犯罪の温床になることはいなめないのでは、そういう差を許容するのもアメリカなのだろう
法の華の福永氏逮捕
福永法源の本は何冊か読んだ、言っていることは悪いことではない、貧乏でも心が億万長者であればいいという主旨でありそれは批判されるべきではない、問題は本当に自らがみんなが現実に億万長者になろうとしたことである、宗教は貧乏であれ金持ちであれ心の修養であり心を治めることにある、それが現実に億の金を持つということになるとそれを実践するとなるとこの世ではサタンに魂を売らない限り実現しない,この世の力と権力はサタンのものなのだ、どうしてか神はこの世の力はサタンに譲り渡している、故にサタンにひざまづかない限りこの世で力をえることはできない、政治であれ経済であれ報道、マスコミであれサタンのものなのだ、何故にあのように急速に大伽藍やら金を集めに成功したのかサタンに魂を売ったからサタンがそうさせてくれたのだ、サタンの力の恐るべきものがここに遺憾なく発揮された、彼が本を出版できたのも金集めに成功したのもサタンの力によっていたのだ、この世の権力を求める時、サタンは協力するのである、なぜならこの世はこの世の力をみな求めているからだ、創価学会であれカトリックであれ巨大な宗教団体はサタンにのっとられたしサタンのものになったのだ、宗教すら容易にサタンの手中のものとなる、宗教は本来この世で力を得ることはできない、無権力なる時、純粋に宗教的になる、何故なら人は権力を常に求めているから大伽藍やら人数やら土地の所有のいかんやら家の大きさやら金に目がくらまさられ心の平静や浄化を求めることの反対方向にその目が向いてしまい宗教どころではない、この世の欲望のために振り回されるだけになってしまう、権力は最小限におさえ宗教を心の平静を願うものは一軒のあばら家に棲むことがにあっている、しかしその時一冊の本も出す力もなく一人であれば誰も見向きもしないことになる、しかしこれが宗教的なことであり何百万の人間が集まる時すでにそこはサタンなる偶像をを祭り上げる集会になっているのだ。
それにしても警察があそこまでもこんなに早い時期に宗教に介入するとは思わなかった、宗教団体はあれほど極端でなくとも同じようなことをしてをりそれが警察が介入するとなると反対する人もあるだろうし問題視する団体も出てくる、宗教弾圧だとこれまでうるさいほど言っていたしそれに守られていたのだからこれには宗教団体もやりすぎだとか恐れを感じるものも出てきているはずである。大小があっても宗教団体は詐欺という点で共通しているからだ。
自殺の恐怖
かつてインドの哲学者の本を熱心に読んでいた。そこに思いというものがただ思うということだけで影響を及ぼすということが信じられなかった。それを今回は身近で実感として納得した。幸い自殺未遂で終わったのだがすぐ近くで三日後くらいに本当に自殺した若者が出たのである。その若者はやさしい気の弱いところのある性格であった。自殺したいという思いがその気の弱い若者に伝播したとしかいいようがないし
、誰かを殺したいという思いを憎しみを恨みを持つとそれが伝播して気の弱い人にその念が伝播し実際に殺人まで行われてしまう。心や念の恐ろしさがここにある。現実に人を殺さなくても人は心の中で殺人を犯しているし姦淫も行っている。それは罪と罰せられなくとも罪と言える。ただ現実の行為とならないだけだったのだ。その思いや念は他者に影響することはやはり怖いしそういう念や思いを持たないことも大事だと思った、インタ−ネットでも自殺の相談を受けた人が薬物まで与えたというのはやはり自殺幇助になった、自殺したいという時それをうながすようなことをいえば自殺したいと思っている人は自殺の行為のきっかけとして自殺する。自殺は伝播性をもっている。
誰かが自殺するとまた誰かが引き込まれるように自殺する、次々に自殺の思いが伝播してゆく、思いとか念を軽くみてはいけない、思想を軽くみてはいけない、人間は思いとか念に左右されるものなのだ。ナチスにしろ日本の戦争にしろ国民が一つの念に思いに支配された結果ではないか。とにかく戦争しなければならない、アメリカに勝たねばならない、国のために死なねばならない、そうした念、思想、思いに全国民が一体となり支配された結果でせはないか。その念の思いは強くそれ以外の念を戦争は馬鹿げているとか戦争のために死にたくないとかいう念、思いを持つことはできなかったのだ。そしてこの念は巨大なエネルギ−となって大勢もの支配するようになる。ファシズムはこうして起こる、多数が一致するものはこの様々な悪念が一体化しもはやその念をとめることができない、世界がなぜ常にサタンの支配下にあるのか、それは大勢の人が悪念を持ち支配するからである。宗教団体もまたこの悪念に支配され巨大化しサタンの思うがままに動くのだ。宗教も簡単にサタンに利用されるのだ。
宗教はかえって人間を支配するのに好都合なものなのだ。なぜなら地獄に落ちるとかの恐怖をふきこむと気の弱い人はそこからぬけられない、だからサタンは宗教も支配の道具に使うのである。
千人が集まる時そこにはすでにこの世の欲望の念が想いが集まった集会と考えた方がいい,良い念は想いは集団的にはなく個人的なものだからである。とにかく自殺は一代だけで終わらず次の代にも影響する、自殺した念がその子孫に伝わり自殺しやすい家系になってゆく、因縁となってゆくし自殺した場所も自殺しよしとした場所もそこに自殺にひきこむ悪い因縁の場となってゆく、現実に自殺した場所で同じように自殺が起こりやすい、自殺の名所というのはそこが自殺しやすいのではなく、前に誰かが自殺して自殺にひきこまれるのだ。これは実感の世界であり理屈を越えたことなのだ。とにかく想いを清めないと人に決して平和はこない、この世にはあまりにも憎しみ妬み様々な悪念にみちみちているのだ。それに影響されずにはいられない世界なのだ。現代はどうも若者でもなぜか人相の悪い人が多いように思う、女性もつつましい日本人的な着物の似合う人は少ない、何か異次元の世界にきたように思うことがある。おそらく念が想いがにごりそれが形となって現れてきているのではないか。結局のところ世界は人の想いが具体化する所なのだから。いいにしろ悪しきにしろ。
ホ−ムペ−ジの自殺をたどってゆくと親戚などに何人か自殺した人がいる家系の人が呪縛されたように自殺に追い込まれ体験を書いている、これはまさに自殺した家系からは自殺者がまた出てくることを証明している。
ホ−ムペ−ジ作りの意味するもの
ホ−ムペ−ジを作りをしていて気づいたことはこのホ−ムペ−ジ作りは極めて自己中心的作業でありメディアであることに気づいた。何故ならホ−ムペ−ジとは自分だけの世界をどこまでも追求できる、自己を制限なく表現できるもので今までにはない世界であることに気づいた。ホ−ムペ−ジは個人の世界の構築であり他者との共同作業がない世界なのである。それ故に個人が主体となり個人が明確される世界でもある。
こういうものがなかったというのは自分が発言したり他人に問う時そこには常に相手がをり共同でやることが多かった、同人誌とか雑誌にしてもそこに書くということ発表することは個人だけの場は与えられていない、ホ−ムペ−ジはいくらでも自分を表現する場があるということである。パソコン通信などは相手との対話の中で数行くらいしか発言できないものだった。しかしホ−ムペ−ジは写真であれなんであれ常に自分というものを出してゆく媒体である。そこに仲介するものマスコミであればテレビ、新聞、出版社とかいったものは一切なくストレ−トに自分が出てしまうものなのだ。
こういうことは今までなかったから戸惑う人も出ているようにも思う。そもそも自分だけの世界を与えられている世界を個人だけの世界を持ち8票することは経験していない、個人は常に組織の一員として従属するものだった。マスコミはまさにマスを大勢を対象として大勢に対して最大公約数的なものを提供していた。そこには大勢の反感をかうものはのせないということである。巨大な宗教団体や様々な団体の圧力がありそれらに反感をかうことはしないことである。何よりも営利団体だからそれが怖いのである。
というのは新聞社やテレビ局でもその装置や販売部数やまさに大勢を相手にするマスコミなのである。テレビ局の装置といったら何百億もの装置を持ち番組を流しているのだ。その装置の巨大さに一個人など圧倒される。メディアは権力だということが思い知らされる。個人などその前に何の力もないのだ。これは新聞社などでも同じである。やはり大変な機械を使い販売網を確保し大勢を相手にする商売なのだ。一個人など全く眼中にない、あるのは常に大勢なのだ。出版社にしてもある程度の大勢のものを相手にしないと成り立たない、常に売れなければならないという圧力がありそれが前提条件となってしまう。
だから大勢を相手にすることになり売れるものを目指さないといけない、つまり営利を目的とするかぎり大勢を相手にする必要が出てくる。一冊でも多く売ればもうけになるからだ。本屋にしても営利を目的としているから一冊でも売れるものを置きたいのだ。売れないものは慈善団体でないから置きたくないのである。しかしホ−ムペ−ジは営利というのがほとんど関係ない、そのコストの安さから無償の世界だということである。こういうこともこの実社会ではなかったとである。本作りは校正だ製本だなんにかにと本自体作ることが大変でありそのあと売ることも大変である。余りにも手間暇コストがかかりすぎたのだ。
本はこれから装飾品のようになり非常に高いものとなる。つまり実用的なものはネットで流通し本は記念的な豪華な装飾品として持つことになる。それ故にまだネット社会に電子本がかなりの数流通しないと本の世界から脱却できない、ネットの問題などは電子本で流通すべきなのだが未だに本を買ってくれとなると抵抗を感じるのである。そうすると不便だし二重のコストがかかってしまう。ただ本の世界で生活していた人たちの問題もあり金の問題をどうするかはこれからの大きな問題である。本はあるものは実際はとてつもなく高いものなのである。本一冊百万とか言っていた人がいたがそれも笑い事でないほど本は金がかかりすぎる故、実用的に流通するために安くなりすぎている面もあるのだ。
一般的に宗教とか教育とか芸術とか文化的なものは営利にすることがなじまない、そこに金がかかわってくると不純なものになり汚されるのである。だから宗教では布施ということにするのである。今では募金となる。そういうことは営利目的であるためにマスコミ関係がいつも不純なものとなっていた。
ベストセラ−なども実はマスコミで売るために作られマスコミによって画策されあらかじめベストセラ−にさせられていたのだ。そういう戦略を出版社では練って出していたのである。消費者の要求によって売れたのではなく出版社の宣伝によって売れたのである。これは本だけではなく宣伝によって買わされ売れるものがあると同じである。出版の場合はいろいろあって一概に言えないがマスコミには常に大勢に受けるもの大勢を対象とする故個性的意見より大衆に受けるものだけを提供するようになった。ファシズムとこの大衆マスコミ主義は一体不二の関係にありナチスはこれを利用したのだ
確かにこの通信の変化でマスコミとか情報関係では変革を迫られることが多い、個人でも新聞が作れるという驚きである。新聞には記者が書いてもその個人としての記者の比重は極めて低い、名前すら提示されないことが多い、しかし
インタ−ネットの世界では新聞社でしか出版社であれどこにも所属していなくても個人として記事の解説など発信できるのだ。これは現実メルマガなどで送られてくるものがそうである。その個人の発言の方が注目され個人中心になっているのである。個人自身でそうした記事の解説など発信することも今までにないことであった。そうした手段を持たず大きなマスコミの会社に頼って会社員として記事を書いていたのである。そこでは収入も確保できた。がこのインタ−ネットの世界が無償であるとするとプロの人は困るようになる。そうしたシステムがてきていないからだ。ここに営利的なものが入ってくるとまた不純なものになることもありうる。現実アクセスの多いところはやはりマスコミ的な大衆娯楽的なものが多いからだ。
ホ−ムペ−ジはアクセスが最大の問題であることも気づいた。アクセスされないことにはどうにもならない世界である。一見ホ−ムペ−ジを出しただけで公表され読まれると錯覚した面がったがそれからが大変だということである。硬いものになると余計そうであり誰も読まない文を書きつづけるハメにもなる。ホ−ムペ−ジは今までに経験しない表現手段であることは確かでありこれも今後どうなるか民主主義が個人を中心にするものとする時民主主義を本当に血肉とするものにはいいものなのかもしれない、このホ−ムペ−ジ作りも自分でやらないとわからない世界であった。この通信の世界は技術的な段階とハ−ドの面とソフトの面が一体となった世界だからこれを理解することがむずかしいのだ。
創価学会の闇社会の闇
幹部の集まる会合で「お前らなぜここにいるんだ、権力奪取!権力奪取!のためだ」こうして幹部の会合で叫んでいる団体とは何なのだろう。三国志を読ませては権力奪取の実践しようとする、頭の中が毎日権力奪取しかないという団体は何なのだろう。創価学会の怖さはすでに社会の枢要な地位に会員を配置して権力を我が物にしようとしていることです。役所であれマスコミであれ法曹会であれ権力を掌握するために配置されているのである。今ふりかえると幹部として一番耳にしたことが「権力奪取」「掌握」という言葉でした。これが宗教なのだからあいた口がふさからないしこれを支持する人の数の多さには驚きです
創価学会の闇は社会そのものの闇です。暴力団がなくならないように社会の闇も消えることがない,暴力団を膿む闇創価学会うむ闇そのものが問題です。それは社会そのものだからこの闇はあまりに深い、今や創価学会を批判することは社会そのものを敵に回すことになるから批判できないのである。題目をあげてノイロ−ゼが直った、病気が直ったと婦人がいい、それが政治に結びつく一票を公明党に投票することになることはをかしい。理性的に考えれば病気が直るのは医者の治療で直ったり心持で直ったりすることもある。宗教で百万回題目を必死に唱えて直ることもある。でもそれがどうして政治と結びつき一票と結びつくのかわからない、しかし創価学会が婦人部が大きな力を持っているように女性は理性的に考えることができない、宗教と政治が一体になっていることへの疑問もないのである。ここに女性が力を持つことの危険性があった。
ともかく何か御利益があればいいだけの宗教である、それはしかし結局ほとんどの宗教団体がそうだから創価学会だけを批判することも間違っている。ただ露骨に権力を奪取し支配しようとすることが許せないのである。私を折伏した人も家が傾き創価学会に入り市会議員になりそれでその弟は大学に入ることができた、それは功徳だ功徳だとそればかり言っていた。御利益がすべてなのだ。ところが創価学会は社会の縮図だからご利益ばかりはない、交通事故で死ぬものや突然病気で死ぬもの破産するもの犯罪を犯すもの社会と同じようにあれだけの数がいれば起こるしそれは信心となんの関係もない、創価学会をやめると不幸になるというがやめなくても不幸な人も多いのである。最近の商店街の衰退や中高年のリストラとか社会の変化で苦しい目にあっている人の中にも創価学会員はいる。でもそれは別に信心がたりないとか信仰とはなんの関係もない、病気になるのもみんななるのである。
創価学会員だけが倒産しないとか病気にならないとかにはならない、それをどうして信仰と結びつけるのかわからない、私は創価学会をやめて天国に行ける約束を得た。そのためだけではないにしろなぜ医者だとか弁護士だとか官僚だとか一般の常識人が下々で働く人たちがあらゆるものを権力奪取の目的に向かわせる団体の一員として協力しるのかわからないのである。これも人間の社会の闇だからいかんともしがたい、池田大作を批判したとてどうにもならない,その欲望といい権力欲といいみんな池田大作と同じなのだから。池田大作はヒットラ−と同じであり大衆によって作られた虚像である。池田大作は存在しなくてもいい、やはり大衆、マスコミにより祭り上げる架空の存在でもいいのである。実際池田大作がいかなる人物なのかなどわかりえようがないのだ。勝手に都合いいように聖人君子に作り上げられているのだ。大衆を相手にするところではヤラセも日常的に行われている。ありもしない架空の作られた情報が本当のことのように流されているのだ。テレビでも写真でもそういうことが作り上げられそれが本当に思えてしまうのだ。美化されたものには何か作られた意図的なものがあり真実とは違う面があることを考慮せねばならぬ。それを受ける方ではその情報の真意を知りえようがないからそれをうのみにしてしまうのである。
先生はどうだこうだとまるで神様のように幹部が言うのも権力者に対してのへつらいごますりでありそうすれば組織での地位が保たれ利益があるからである。これはオウムさえそうだったし共産党支配のロシアであれ中国でも同じだった。人間のすること過去も今も世界中で同じだということである。結局人間の欲というのが変わらないからだ。手変え品を変え詐欺も続いていると同じである。そして巧妙に美化され演技され作られた虚像をマスコミ社会では大衆は信じるのである。創価学会もまた巨大なマスコミであり個人など相手にしていない、数がすべてだからマスコミと同じなのだ。何が真実なのかなどわかりえようがない、聖教新聞などもいいことばかり書いているがその実際はわからない、ただかつて戦争が美化されたように美化されるのである。信仰による青年の友情とかなんとかきれいごとならべているがその実は権力奪取を目指せと幹部の会では堂々と毎日激を飛ばしているのだ、わからないことは学生部にしても幹部にしてもみんなそれを聞いて疑問に感じないことなのだ。ということは真面目に信仰や宗教のことを考えている人は皆無だということになる。ただなんかしらないのだが罰だとか地獄だとか池田大作すら恐れていることは確かである。ただ罰だと地獄だというのも自分の都合いいように利用しているだけでありなんの根拠もないのである。本当に恐れているならあんなことをやっていられないからである。仏の最大の誹謗者が彼らなのだから・・・・・
それにしても学生部たるものが池田の親衛隊ナチスの親衛隊だったとは余りにもこの団体の社会の闇に愕然とする。それに疑問を感じない青年とは一体なんであったのだろうか。この世がサタンの支配することの紛れもない事実がここにあった。青年の純粋さのひとかけらも入る余地のない暗黒の世界だった。゛これにくらべて特攻隊などはお国のためにと死んでいった。そこには私心はなかった。権力欲など毛頭なかった。ただ犠牲心がありそれがあの悲惨な戦争という中で一瞬の美しい光芒を放ったのだ。
創価学会にはそんなもの微塵もないのだ。平和だとか正義だとか叫んでもただ求めているのは権力だけなのだ。そこから何一つ宗教的な悔悛だとか美の創造だとか生まれない、生まれようがないのだ。求めているのは権力と欲だけなのだから。戦争で死んだ人たちの方が間違っていたにしろ自己犠牲があったかもしれない、なぜなら彼らは苦しみのたうちまわり死んだのだから。御利益しか求めない人間はそこまでしないだろう。強制されたにしても創価学会よりはましだった、そこは余りにも醜悪なものでその醜悪なものを崇拝ししている人たちももわからないがやはり同じように醜悪にならざるをえないし醜悪なのだ。毎日権力奪取と叫んで集まる会合がどうして宗教と関係あるのかそれに気づかない人たち、大衆というもの自体の不信が自分にはあり得たいの知れない大衆というものがまたファシズムをうみ創価学会を作っているのだ。
だからその闇は余りにも深く創価学会というサタンの魔殿も容易には消えない、創価学会とは社会そのものなのだから。現実に公明党はある時は自民党に反対していた。その時は地獄に落ちるとか息まいていたが自民党と今度はくっついた。それではなぜ地獄に落ちるなどというのだろうか。創価学会やめた人は地獄に落ちるという。政治だったらある時は自民党に票を入れることもあるし民主党に入れることもある。それだからといって地獄に落ちるとかそんなことは誰も言わないのである。裏切り者とかは言うかもしれないが世俗のことに宗教を持ち出しそれで物事を判断するとおかしなことになるのだ。ともかく地獄に落ちるなどと言うことは神か絶対者しか仏かしか口にできることではない、誰も来世のことや誰が善人で悪人なのかなど普通の人間には知りえようがないのだから。来世ではそのことが明らかにされ逆に大衆は愕然とするかもしれない、自分たちは崇拝していたものがサタンだったということに・・・・・大衆もまた罪なきものではなく罰せられるのだ
民主主義では言論は自由だしそういうことを言う人はいたのに耳を傾けない考えもしないということは許されないのである。江戸時代とは違うのだから。いづれにしろ宗教はやっかいなものでやめることは簡単にできない、一旦団体の宗教組織に束縛されたらやめることは容易ではない、それ故に30年前とほとんと支持する人の数に変動がないのかもしれない・・・・・
水澄むや理性のさえて世を見なむ
福島民報新聞の疑問
時事通信社は創価学会の弁護士が入り創価学会系にくなっていることを批判している記事をインタ−ネットでみかけた。9月16日今日の福島民報に池田大作の少年の心の闇がどうのこうのと教育について一文を特別扱いしてのせている。福島民報も創価学会に買収されているふしがある。創価学会では金があるからマスコミ対策として広告をだす,それがマスコミでは大きな収入源となるからそういう要求が断れないのである。大新聞社の一部もすでに買収されているし知識人もとりこまれてゆく、福島民友にも同じように広告が大々的にのせられているからマスコミは経営するために金がかかるから結局大きな団体には弱いのである。創価学会は組織体としてまとまりがあるから不買運動や抗議されると怖いからマスコミは批判しない、でも一体福島民報にしろ新聞社とは誰のものなのだろうか、自分も一部とっているから多少その紙面についても言う権利があるのではないか。もし公平を期すなら他の宗教団体の長も特別扱いで発言させるべきだろう。いつれにしろ一部くらいとっている個人など抗議しても相手にされないだろう。マスコミは常に大勢が相手の商売であり一部くらい不買運動したって痛くもかゆくもないのである。
これは今の出版活動やテレビであれあてはまるのだ。やはり金がかかる営利活動が自由を拘束し大きなものに言いなりになるのである。言論はそうあってはならない、民主主義の問題は大勢を大事にし少数者が損することである。このところの我が近辺の住宅工事でも20軒くらいは何千万の金が与えられ新しい家を建てたが二三軒は金がなくなったから家自体を移動してくれという。(家を引っ張ることができる)、自分の家も回りがみんな高くなり低くなってしまい水が低いところに流れるようになって心配である。しかし損したのは数軒でありあとは新しい家を建ててもらったのだから文句は言わない、少数のものだけが損して馬鹿をみることになったのだ。少数者は抗議しようにも抗議もできないのである。数だけを優先する世界は必然的に不公平を生むのだ。インタ−ネットが金がかからず意見を述べることができることは力のない個人も大きなものに対抗できるということでメディアの報道面での革命となってゆくのかもしれない、しかしその力はまだまだではあると思うが・・・そういう力を秘めていることは確かなのかもしれない
創価学会問題のサイトで毎日が一番近く朝日新聞から読売と財政的に結びついているとあった
テレビ局も聖教新聞の広告を出しているからその急所を握られている
権力掌握が目的なのだから豊富な資金はあらゆる権力買収に使われる
善男善女が考える世界とは全然違った世の中の現実である
マスコミは意外と金に弱いし大きな権力に弱いからマスコミはとにかく権力ある方につくようになる
バイクの洪水
バイクの洪水(カンボジアとベトナム)
カンボジアとベトナムの主な交通手段はバイクである。カンボジアもベトナムもバイクが観光の手段でもあり日常生活で先進国で車が欠かせないようにバイクは欠かせない、道幅一杯にバイクが洪水のように走っている、常にバイクにのせられ観光した。カンボジアでベトナムよりバイクを持っている人が少ないからバイクは貴重品である。中国人が経営するホテルではバイクを借りて観光の仕事をしている。タクシ−のように半分を貸し手にとられるから取り分は少ないと嘆いていた。確かに安いからそうなる。自分も十台くらいバイクを貸して商売になると思うくらい安い資本でオ−ナ−になれると思うくらい向こうでの仕事の資本は安いのである。あまり商売のことを考えない自分だが資本の安さには驚いた、日本では何か始めるのにも今や大変な金がかかる、設備費が大変である。しかし発展途上国では安い資本で商売でも起業できる。日本もかつてはそうだった。私の家の経験でも店を始める時5万借りるのにとんでもない苦労をした。銀行は金を貸さなかったのだ。
ここに資本を持つこと、資本主義とはまさに資本がないと始まらないのだ。発展途上国には資本がないから中国人やらに経営者がいてその下でカンボジア人が働くことになる。極端な話バイクを欲しくて娘を売ったというカンボジア人の話は嘘ではないのかもしれない、それほどバイクは役にたつし欲しいものなのだ。バスとかの交通手段も整備されていないからバイクはすごく役に立つのだ。やはり技術の力は大きい、社会を大きく変えてしまう。日本に鉄砲が入って来た時、鉄砲を利用した信長が勝利し騎馬戦にこだわった武田が破れたのも当然である。道幅一杯にバイクが埋め尽くして走っているさまは壮観だった。まるで草原を埋め尽くして疾走するモンゴルの騎馬軍団のようであった。そのバイクはスズキとかホンダのス−パカブなのである。今日本ではバイクの部品が貴重となり投げないでくれと言ってるそうだ。というのは部品が必要なので東南アジアに輸出しているからだ。
私はハノイに一週間くらいいた。ハノイは落ち着いた古都でいいところだった。通りに木が多く木陰の道がいい、毎日近くの有名な湖の廻りを歩いてすごした。そこでまた会ったのはホ−ムレスの青年だった。田舎から出で来て3年くらいになるが寝る家もないという、ネパ−ルでも会った。ベトナムはベトナム戦争のことしか念頭になかったがベトナム戦争の痕跡はメコンデルタのベトコンの小さな土をもった墓に感じた。ああ こんな所に泥まみれになり戦ったベトコンの兵士が眠っているのかとこうした墓が無数にあるのかもしれない、しかし今は熱帯の平和な地帯となっている。
椰子の影メコンデルタにベトコンの兵士眠りぬなお貧しきに
それからハノイでは実にヘルメットのが似合うのだ。みんな今も被っていていかにもベトナムらしいものだと思った。ちょうど侍が明治になりなかなか刀を手離せないように鉄帽をかぶっているつのだ。
ベトナムはカンボジアよりかなり豊かに見えた、実際もともと豊かな地である。年に三回も米がとれるし事実一方で田植えして一方で稲刈りしている風景を見た。果物も豊富で食うには困らないところであった。
いづれにしろベトナム戦争はベトナム人にとってはまだまだ過去の歴史として清算できないものなのであろう。ベトナム人の逞しさはその地を這うごとくして戦った姿はやはり歴史に記したものは大きい。
メコンデルタのベトコンの墓
ハノイ
ベトコンの墓
メコンデルタの椰子の葉陰に眠る
この粗末な墓にベトナム人の誇りが宿る
みな資力もなしに強大なアメリカと戦った
穴にもぐり地を這い草の根を食し戦った
この粗末な墓にベトナム人の栄光は宿っている
一方日本人はアメリカに負けたが豊かになった
しかしこの墓が語る精神の勝利の栄光はない
ただ金だけを求めてアメリカに追従した
そこに美名のもとに語られる
いかなるアジアとの連帯があったのか
アメリカ軍は沖縄の基地からベトナムに向かった
日本はアメリカとの同盟軍であり
ベトナムを日本は攻めた一員なのだ
反共の戦いとはいえしっくりこないものがある
その墓の前で何か責められるものを感じた
何故なら日本人は敵の一員だったのだから
最近日本の戦争を賛美する肯定する風潮がある。それがあまりにも一方的に肯定的になる時理解できなくなる。アジアの大同団結、欧米を追い払うという目的ある戦争だったという、しかし現地の人との連帯があったかというとはなはだ疑問なのだ。一部あったことはあった。欧米を追い払うきっかけを作ったことはいえる。でもそれは日本の一方的思いこみ押し付けであり現地の人ととの連帯感があったとは思えないのだ。現実に現地の人を殺しているのだから。
そして現実今でも現地の人を踏みにじっているのが日本人だということなのだ。日本人とフィリッピン人のハ−フの子供が相当数いる。アジアで中高年がまだいたけない女性を食い物にしている。これをみても戦前の構図と変わりないのではないか。もちろん海外協力隊として現地の人と汗を流している青年は各地にいるし援助もしている。しかし日本人は欧米には頭があがらずアジアには居丈高になっているのは確かである。それはただ経済的優位のせいでである。
アメリカとあれほど戦った日本が全くアメリカに追従している姿はあの戦争を賛美することとひどく矛盾している。つまり日本はアメリカに負けてその精神の独立性まで失われたのではないかということである。日本人の心の誇りが失われた。それが尾を引いて日本人の心の荒廃があるのではないか。物質的には豊かなのだが日本の独立性の喪失が深く日本人というのに誇りがもてないのである。ただ経済的優位性では圧倒しているので居丈高になっている。一方ベトコンの墓は粗末なものだがそこにはベトナム人の誇りがある。もちろん時代が変わりその意味も変わり忘れられることもあるがこの名もないベトコンの墓にはベトナム人の誇りがあるのではないか。我が故郷にある「亭年31歳戦死」と刻まれた墓は誰も省みるものもなく忘れられている。そこから何か犠牲にされたという苦渋が虚しさしか伝わってこないのである。
アジアはやはり日本の歴史の舞台だから歴史的共感やら反発やらいろいろ考えさせるものがある。ヨ−ロッハやアメリカに旅行してもどうも歴史的共感やら反発を感じることがあまりない、ロ−マの遺跡を見ても教会をめぐっても何か歴史的共感にかける。欧米の場合そうした歴史的共感より文化的に接触することが多いのである。音楽であれ絵画であれ建築であれそれを芸術的に鑑賞することが多く歴史的に共感したり反発することが少ないのだ。歴史を見るにしても客観的にみるだけで現在自分の問題として見ることが少ないのだ。例えば在日韓国人はアメリカで人種差別に敏感で共鳴することが多い、日本人はそういうことがない、アメリカ人は移民の国でありヨ−ロッハとは密接なつながりがある、祖先をたどると誰かしらヨ−ロッハとつながっている。アメリカ人でも祖先がわからなくなっている人もいる。アイリッシュというガイドの女性がいたが何代目かでわからなくなっている。でも祖先のヨ−ロッハには強い関心を持つことになる。アメリカのユダヤ人がイスラエルに強い影響力もつのもそのためである。
日本人が世界のことをよそ事として関心が薄いのは島国で国際性を養うことができなかったためである。自分なども全く国際性のない人間であった、遅きに失したがここ三年ばかり外国を旅行して多少は世界への目が開けたようだ。こんなに結構楽に世界を旅行できるとは思っていなかったのだ。これからの若い人は世界への認識は高い故世界の中での独自の日本を構築する素地はある。ただ旅行したくらいでは国際人にはなれないようである。どうしても上辺だけの理解に終わるからである。
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