2002/8〜2002/11
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(近況報告ー日記)小林勇一 感想はこちらへ
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日本海が東海への理不尽(8月28日)
情報戦国時代(8月29日)(一億総ライター時代5)
インターネットは表現のメデアだ(一億総ライター時代6)9月6日
織田無道が逮捕された(宗教人のいかがわしさ) 9月13日
北朝鮮の衝撃的犯罪の告白 9月18日
反省が強いられるグローバリゼーション9月21日
はずされた看板(存在感のない電子空間)9月25日
インタ-ネットの将棋9月29日
非道が非道を生む(北朝鮮の拉致事件の酷さ) 10月7日
アメリカのグローバリゼーションの疑問 10月9日
現代の三つの災厄(交通事故、医療事故、創価学会)10月16日
日本海が東海への理不尽
この問題は海がどこの国に属すかという発想している面がありことだ。海はそもそも公海であることが原則である。海はどこの国にも属していないのだ。海を陸地の延長として考えることに問題がある。海は本来どこの国も領有できないものなのだ。陸地なら境界をもうけ区切り国境を作り領土とすることができる。そのために陸地を分割し国と国が延々と争ってきたのだ。川もまた領土の一部とされた。ライン川沿いにはたくさんの城があった。その城がライン川を通る船を見下ろしていた。ただ見下ろしていたのではない、通行税をとる検問所でもあったのでだ。それで強欲な通行税をふんだくる領主が伝説となって残った。関所が無数にあったのだ。川は領土の一部だったのだ。封建時代はその土地に根ざして支配する領主がいたのだ。商売するものにとってはこうした封建領主は安全を守ってくれると同時に税金をとられる存在だった。それでハンザ同盟とか商人の同盟が封建領主に対抗して生まれた。ヨーロッパは無数の封建領主が縄張りを持つ分割された国だった。それが不便ということでEUができたのである。
陸地はこのように分割されるが海はどこの国にも本来は属さないものである。海を分割して領有することはできない。海は船が自由に通行する道だからである。国に関係なく広い海があって遠くの国と自由に行き来できて貿易もできたのである。海は自由の通行路であることに意味があったのだ。ヨーロッパとアジアが結ばれたのは海によってであり陸を通じてではない。陸は交通の障害になる。そこには幾多の国があり山が川があり障害となるのだ。では日本海とは日本の領土の延長として名ずけられたのかというとそうではない、最初にヨーロッパ人によって名ずけられた。つまり日本の陸地に沿って日本に囲まれるように海があったから自然とヨーロッパ人が日本の海と言ったのである。東海という感覚は中国人にもなかったし朝鮮の海というのも歴史的になかったのだ。古くは渤海という国があり高句麗の後継者として日本と日本海を通じて交流があった。これは二百年くらい続いたから密接な関係にあったのだ。
去京一千五百里 (京を去ること一千五百里)
「京」は平城京。平城京からの駅数と、駅間の里程から計算すると「一千五百里」に近い距離になるという。
去蝦夷国界一百廿里 (蝦夷国の界<さかい>を去ること一百廿里)
蝦夷国境を、桃生郡の辺とする説、衣川、一関とする説などがある。
去常陸国界四百十二里 (常陸国の界を去ること四百十二里)
「東奥紀行」の著者長久保赤水は、同書の中で天平時代の常陸国境が今の那珂湊(茨城県)で、六町を一里とすれば、そこから多賀城までほぼ412里になる、としている。異説もある。
去下野国界二百七十四里 (下野国の界を去ること二百七十四里)
下野国と陸奥国の国境は白河関付近。
去靺鞨国界三千里 (靺鞨<まっかつ>国の界を去ること三千里)
「多賀城市史3」に、「日本で靺鞨国としたのは、渤海の東北に存在した黒水靺鞨に代表される渤海に服さない靺鞨族を指した呼称か、あるいは渤海国を構成する靺鞨族をも含めて、広義の意味での靺鞨族全体に対して靺鞨国と表したのかもしれない」とある。
「多賀城碑」の建立日(762年12月1日)とされたとするとすでに平安京の時代に入り「去蝦夷国界一百廿里」とあるのはやはり岩手県辺りだろう。蝦夷の国境がほぼ決められたからである。「去下野国界二百七十四里」とあるのは東北は毛野王国の支配下にあったからである。(参照ー相馬郡の部ー古代史の中の真野郷ー毛野王国の謎)ここでもっとも不思議なことは 「去靺鞨国界三千里」である。壺の石碑に靺鞨国よりと記されてあるのか、普通今でもソウルより何千里などと記すことはないしそんな距離の測り方はしない。靺鞨国と日本が一体となっているような記述の不思議なのだ。つまり日本海は渤海であり靺鞨海であり蝦夷の海とも言えたのだ。それらが消えて日本海になったのである。次の図の不思議は蝦夷と記されているのが渤海国や靺鞨国のあった所なのである。大和王権が最初に接した日本海の出羽の秋田のは北方民族でありこれらは一体の意識があった。その延長として外が浜とか一三湊の貿易による繁栄があった。つまり大和朝廷の圏外で誇示する繁栄があったのだ。その後江戸時代の山丹貿易、蝦夷錦というのがアイヌから江戸にかつての蝦夷国を通りもたらされたのである。
そもそもなぜ大和王権に対してあれほどの抵抗ができたのか、それは北方民族との密接な関係がありそこから馬なども入り蝦夷を強力なものにしたという説がでるのも北方との民族との一体感があったからである。日本の場合は北から歴史を考えることはむずかしい。「日の昇る国から日の没する国へ」と中国への使者が皇帝を怒らせたごとく韓国もまた日の昇る国に面しているからそう言われることは嫌なのである。日本海は靺鞨国、渤海国、蝦夷の海であり東海というものではなかった。そういう呼称は歴史的にも出てこないのである。
確かに日本海となると日本の海として陸地の延長として領有する感覚になり韓国からすると嫌な感じになる。しかし日本海はそうした意図で名ずけられたのではない。日本人が命名したものではないからだ。ヨーロッパ人でありロシア人が極自然に日本の領土に囲まれるようにしてあったから日本海としただけなのである。東海というのは太平洋側も東海となるからまぎらわしいしこの海には何らかの別な名前が必要なことは国際上困るのである。朝鮮海とか東海は不自然なのである。日本海が一番自然なのである。これはヨーロッパ人やロシア人がここを航海してそう思ったことでわかる。韓国側にすると確かに日が昇るところであり東海というのがふさわしい。日の沈む日本海の感覚とは逆になる。しかし全体的に見たとき日本海なのであり東海ではないのだ。ただ日本人でも啄木は東海という感覚を持っていた。
東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて蟹と戯る
この歌は日本は大陸の果ての極東の東海の小さな島にすぎない、こんなちいさな島をでて俺は本来世界に飛躍するんだという意識があった。
日本の祝賀ムードのなかで、詩人・ 石川啄木はさめた目で日韓併合条約をこう詠みました。
「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」
この歌にも当時の政府に対する不満があった。力にまかせて韓国を踏みにじるという横暴を感じていた。
一方で太平洋戦争が日本人にとっていかに誇大妄想的になっていたかわかるのが次の歌である。
今日よりは日本洋と名をかへむ御国のものそ太平洋は(尾上柴舟)
今では考えられないが太平洋戦争というように太平洋をめぐるアメリカとの戦いだからこんな発想になった。戦争のときほとんどの作家は戦争讃歌のものを作っていたのだ。太平洋はアメリカまで広がる海でこれを日本洋とすることは日本がいかに世界を知らぬ傲慢な国になっていたかわかる。この歌をみても日本の戦争は度をこした世界を知らぬ横暴があった。
日本海が名づけられたのはこれとは全然違う。そもそも日本人か言い出した名ではないからだ。いづれにしろもし東海になったら日本の歴史的情緒やら培われてきたものが破壊されるのだ。これは日本人にとって耐えられない問題である。これは日本人の歴史を否定されることでもある。日本人にとってこれは理屈ではなく感情の問題なのだ。それを考えないで敢えて言うのはどういう意図なのだろうか、日本という国の弱体化につけ込まれているためか、今や日本という国は容易に踏みにじられるのか、これは日本の尊厳にかかわる問題でもある。いずれにしろ日本は戦後国体という意識を無くした。国に対する誇りとか威厳というものに無感覚になってしまった。ただひたすら経済優先でやてきた。その肝心の経済が弱体化したとき日本人は自信を失いそこをついて責めてきたのかもしれない。それと同時に日本人は国に対する意識が希薄化しているためともいえる。国をやっかいなものとしてきたことがこんなところまでつけ込まれる原因であった。個人には個人の誇りがあり国にも国の誇りがある。それを一概に否定することがこのような結果を生むことになったのかもしれない。日本の国は古来から悠久の歴史を持ちすばらしいんだということも教えねばならない、つまり否定的な側面を強調過ぎたことは言えるのである。
情報戦国時代(一億総ライター時代5)
(インターネットは新たな権威を作るのか)
インターネットそのものが未だ話題であり未知である。インターネットそのものについての興味が尽きないのはこうしたものがこの世になかったものだからである。世界的にも2000年くらい情報は本であった。本すらない時代も長かった。自分の世代はラジオから始まったのだ。明治生まれの親父はラジオで浪花節を聞くのが楽しみだった。それからテレビが出てきたとき情報環境が急速に変わった。しかし以前として知識は本だった。本なしの知識は考えられないのだ。本に思い入れが強い人が多いのだ。中国でも知識人とは本を集める人、本を大量に持っている人であった。本とはまた聖書であったごとく聖書には鍵がかけられ中世は
一般の人は読めなかったのだ。写本としても本は大事にされた。高価な財産であったのだ。本自体が装丁されその表紙も厚く何か威厳あるものなのだ。それゆえ出版社も権威があり実際に権威を作っていたのである。出版社と本屋は一体であり世の中の権威を作る場所だったのだ。とにかく昔になればなるほど本の価値は高かった。仏典なども三蔵法師が命がけでインドから持ってきた非常に貴重なものだった。本はそうした思い入れがある。
まず本は誰でも出せるものではない、今でもそうであり常に本屋に並ぶものは常時売れる作家は限られておりその人たちが世論を先導し権威を作ってきたのだ。雑誌もそうである。新聞でもテレビでもマスコミは権威を作る場であり何がしかの教育の場であった。なぜなら大勢の人がそれを指標にするからである。芸能人ですらテレビにでれば影響力がありタケシのように指導しているのだ。実際に芸能人は国会議員にもかなりなっているから権威を作っているのだ。本屋はやはり知識の宝庫として人々を導くものとして権威を持っていたのだ。出版社もそれゆえ大きな権威を作るものだった。本というのは出版社を通じてしか本屋には並ばないからだ。しかしインターネットがでてきてこの権威がゆらいでしまった。江戸時代のような特権階級の侍の権威が失われつつある。インターネットからみると本は硬直したもので融通無碍なものがない。それでもなお権威を保つ場として存在しようとしている。過去の神殿のように
本自体が崇めたてまつられようとしている。しかし本であれ雑誌であれ新聞であれ人々がそれを利用しなくなると自然に権威も失われる。インターネットとと対照的にみるとそうなるのだ。
ではインターネットの世界が新しい権威を作るのか2ちゃんねるが人々を感化して導くものとなるのか、インターネットはアナキーの世界である。匿名なことがそれに拍車をかけている。フランス革命で大衆が王の権威を倒したのは良かったのだがそのあとアナキー状態、旧来の権威とか権力に変わり民衆が大衆が権威となり権力となりそれがアナキー、無政府状態となり混乱からナポレオンが出てきたのである。インターネットは誰かか導いているわけではない、無数のホームページはアナーキーとして自己主張しているだけである。ホームページはいいものがあったとしても多くの人に影響を及ぼすことは少ない。インターネットのなかで権威を持つことは大変である。インターネットは容易に相手を否定できる。つまらない意見でも述べることができるし俺とお前は同じだと言えるメデアでありキケルゴールの水平化のメデアなのだ。本の世界はすでに本を出し本屋に並ぶだけで権威を獲得しているのだ。大衆にとって権威なんか必要がないというのが大衆である。その結果何にに向かったかというとナチスのファシズムだったしナポレオンのような強い圧制であった。
本の世界は古色蒼然たる権威のなかに過去のものとなる。それに変わる権威は秩序は生まれるのか、人間の世界は何がしの権威とか秩序なしでは維持できないからである。本とか雑誌、新聞、テレビで獲得したマスコミの権威が崩壊したとしてインターネットはそのあとの権威を秩序を作ることができるのか、そういう情報の混乱、戦国時代になっていることは確かである。面白いといえば面白いのだがその戦国時代を制するのは何なのか誰なのかそれが全く見えてこないのだ。ポータルサイトにしてもいくつも見れない。1箇所から基本的なものが閲覧できることが便利なのだ。あまりにも分散しすぎてアナキーになりすぎているからだ。ともかくインターネットはグローバルなものだが一方で極めて地域的なものであり個人的なものであり分散的なものでありかえって太古の部族の状態に回帰している。無数の部族が跋扈し意思疎通がない、インターネットはアナーキーなメデアなのだ。インターネットに頼るとマスコミを否定するとして2ちゃんねるを頼りにするのか、現実若者ではそうなっている人が多くなっている。2ちゃんねるの意見に頼っているのだ。2ちゃんねるが若者の世論を形成する。2ちゃんねる自体またアナキーでありそれを指標にすることには無理がある。おそらく日本が戦争するかしないかなど重大な決定になれば2ちゃんねるはますます混乱してとても議論すらできなくなる。何らかの行動に導くものをそこで作ることはできないからだ。マスコミの力は権威は情報発信能力自体にあった。それがインターネットに変わったとき何が権威を作るのか混乱状態にある。
「意味」とは全体的なものであり、「情報」は部分的なものだということだ。
アメリカの教授が言った言葉である。インターネットは無数の部分の情報なのだ。決して全体は見えない、ただ部分と部分がクモの巣のように結びつき意味を形成することがある。いずれにしろ意味を与えるのは機械ではありえないし人間こそ意味を与えるものであり最終的には神のみが最大の価値を意味を与える力を持っている。なぜなら神の子とできるのは神しかいないからだ。
インターネットは表現のメデアだ(一億総ライター時代6)
インターネットの特徴は何かというと参加型であり表現のメデアなのだ。メデアというとテレビや新聞、雑誌、本などいろいろあるがどちらかというとマスコミ主導型でありそうしたメデアが持つものが表現にたずさわってきた。表現に苦心したのは作家もしているがそれと同時に出版社や編集者も表現のために一緒に苦心したのだ。自分の場合そうした表現の場から除外されていたからわからなかったがインターネットとはたゆまぬ表現を要求される場なのだ。そのことは更新のないホームページは過去にアクセスがどれだけあっても死んだホームページになるのだ。
絶えず新規の表現が要求されるメデアがインターネットなのだ。それは技術的にもそうである。どうしたら効果的に訴えるかということで開発がなされているからだ。表現というと一般人には縁のないものだった。しかしインターネット時代は表現が大事である。PRESENTAISHONが大事である。presentには現在という意味があるから現在に直結した表現が常に強いられているのだ。私の今日の一句一歌のようなものや日々の日記をインターネットでみんな書いていることでわかる。日々の変化、現在を書きつづけているのだ。
表現というと個人的にこんなに写真を使ってヴイジュアルに表現することはなかった。まず個人的楽しみとして他者に公開する機会はなかった。あるとすればマスコミの目にとまる必要があったのだ。カメラを持ちビデオカメラを持ってもそれで公開することを前提にしていなかった。写真でも公開できたのは印刷して本にできたのはプロだけである。第一本を写真にするとものすごい高価なものになる。自費出版ではカラー写真が一枚のせて10万だとかいっていた。地方の雑誌でも白黒の写真しかのせていないことでもわかる。インターネットでは一万枚のせてもただなくらいでありほとんど制限がないのだ。デジカメは現在をとらえるので現在と直結する、リアルタイムの表現に欠かせない道具となっている。一億総ライター時代は個々の表現の時代でありやはり大衆的ルネサンスが起こっているのだ。誰も表現に参加できるからだ。テレビとか新聞とか雑誌や出版などマスコミは参加するメデアではなかった。
一方的にそのメデアを所有する権力の上に一方的に情報を与えるものだった。あるものはその世界からは完全にシャットアウトされていたのだ。インターネットの多様性を見ればそのことがわかる。インターネットは個々人が表現に直結している場である。つまりいつもテレビのように放送する私局にいるのだ。その聴衆は数人であっても放送していることには変わりないのだ。過去ではなく現在を放送しているという経験はマスコミにしかなかったのだ。ブロードバンドになったら本当にすべての人がテレビ局になりうるのだ。公開の表現に直結しているということが画期的なのだ。
その一例が「松吉」という植木職人の苦労話だった。石をおろす時の恐怖の経験を語っていたがそれが実況中継のような感じがしたのだ。自らの仕事を実況中継していたのだ。地方や職場やその場その場からの実況中継なのである。私の御田母神(おたもがみ)について書いたがあそこには新しい社が作られた。でもダイユー8ができてどうなるのか稲を作る神から商売繁盛の神になってしまうのか、それでも外は稲が実りはじめたからまだ都会のように土地の神としてそぐわないもではない。このような個人の生活の場からの発信や一地方から発信することはありえなかったのだ。つまり大きな面の情報でなく点の情報なのだ。個人は点であり点と点を結ぶのがインターネットなのだ。地方の新聞にしてもほとんど中央の新聞と内容が変わりない。地方には地方のニュースが無数にあるのだ。しかしこの無数の点がどのように結びつくのかただ混乱状態で終わるのかわからない。つまり無数の点の分散で終わることもありえる。インターネットがマスコミの機能とは白と黒くらい違う面があるのだ。個々人が発信できるメデアだということが根本的な相違である。個人的には一般的にはカメラでもビデオカメラでも記録しておくということでありこれを表現して公開するためには使っていなかったのである。公開するとなると表現力が大事になるのだ。だからインターネットは大衆的ルネサンスである。マスコミのように上から一方的に与えらるだけでなく意見も言えるとなると発言することの責任も感じるようになるしどう効果的に表現するかということが絶えず念頭から離れないのである。
新聞は世界の古地図である
情報洪水ネットワーク社会のなかで
欠落しているものが多い
インターネット社会は思わず
未踏の地が浮かび上がり
詳細な点の情報をを示す
そして点と点を結び合う
新聞の情報は継ぎ接ぎだらけ
インターネット社会の羅針盤にはなれない
老人の暇つぶしでその役目を終える
確かにインターネットは現代社会は情報過多でインターネットは実は空っぽの洞窟だとか否定的に解釈する人もある。技術には二つの側面がある。原子の解明は一方で原子爆弾になり一方で原子力発電になった。汽車が発明された時わざわざ街の中に駅を建てることをせず郊外に建てさせたり蚕の盛んな所では蒸気機関車の煙が害になるということで通らせない田舎の町もあったのだ。自動車社会もいい面と悪い面をもたらした。どんな技術にもそういういい面と悪い面をもたらすのだ。そもそもソクラテスの時代には文章を書くことまで否定されたのだ。直接話すことが文化の時代であり書くことは否定された。
プラトン自身が『パイドロス』の中で,ソクラテスをして,「現実には精神のなかにしかありえないものを,精神のそとにうちたてようとする点で,書くことは非人間的である」,「書くことは記憶を破壊し[……],外的な手段にたよるために,精神を弱める」,「書かれたテキストは何も応答しない」,「書かれたものは,人間どうしのやりとりのコンテクストから離れ,非現実的,非自然的な世界のなかで受け身にとどまっている」等々と言わしめているということであり,
古代の情報伝達は口頭でありそれで語り歌う吟遊詩人などが生まれたのだ。日本においても芸能がそうであり全国に伝承が語り歌われ伝えられた。人間そのものがメデアとなり文化を伝えたのである。それは宗教者でも同じであった。歩いて伝道したのである。それで全国的共通の文化も形成されたのだ。義経伝説もその一つである。インターネット時代の情報環境は劇的であり誰もまだこれが何であるかわからないからインターネットそのものについての議論がたえないのである。つまりこれがどういう社会を作るのか誰もわからないのだ。だからインターネットについての本が多数でるし自分も50冊もインターネットそのものについての本を買って何回も読んでいるのだ。インターネットそのものが悪いものではなくやはり人間の利用の仕方によるのである。確かにスピード時代である。自動車であれ汽車であれ飛行機であれさらに電波であれかつてないスピードでものすごい量の情報が行き交っている。それを制限しようにも制限はできないのだ。
山里は万歳遅し梅の花(芭蕉)
こういう時代もあった。万歳が来るのが楽しみだった。私の子供の頃まで万歳は来ていたのだ。芸能はまた直接人に触れて見るものだったのだ。そういう人はまた情報の伝達者として重宝されたのだ。情報が極端に少ない時代だったからだ。この時代とは余りにも違う環境でありどう対処していいか混乱するのは当然である。
川俣ー蒸気機関車
1884年(明治17)6月、東京〜高崎間開通する。1886年(明治19)3月、宇都宮〜白河間工事開始する。最初は阿武隈川に沿って、宮城県に達する計画であったが、信夫郡・伊達郡の桑園がSLのばい煙で全滅するとの農民の反対で、やもなく路線を変更し、貝田経由で白石川筋になった。
ゆくゆくは阿武隈山地を越えて、太平洋の常磐線浪江駅と結ぶ予定であった。もし農民の桑園の全滅や茅葺屋根の火事への恐れという誤解がなければ、川俣線の早期建設も可能であったし
織田無道が逮捕された(宗教のいかがわしさ)
自由の霊をもって私を支えてください 詩篇51−12
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます
(ロ−マ人の手紙15)
織田無道が逮捕された。テレビではでなパフォ−マンスをしていた。除霊とかを派手にやっていた。あれで有名になり高額な金を払った人がかなりいたのだろう。テレビは一種の見せ物なのである。客集めにあういう派手な人を呼ぶのである。マスコミやテレビは真面目に何かを追求するものは排斥される。視聴率をとることが最優先課題だからだ。出版にしても営利事業であることから離れることができない。元がかかるし回収して利益をあげねばならない。しかし文化事業は営利となじまないのである。宗教も営利とはなじまない。売れない本しかおかないとしたら多くの良書は駆逐される。現実そうなっているのだ。出版や書店は公平な言論の場ではないのだ。その点NHKは実に恵まれている。膨大な受信料が努力もせず入ってくる。自動的に入ってくるからだ。だから良質な番組作りもできるのである。マスコミやテレビはメデアの性質上あういう派手な見せ物が常に必要としているのだ。そこに落とし穴があるのだ。しかしNMHもこれからは受信料を強制的にとるのはできなくなるかもしれない。なぜなら一人一人が放送局になる時代金を払うのは番組に払うのであり設備にはらわなくていいからだ。個々の番組を選んで金を払う時代になる。
では徐霊とは何のことなのか、悪い霊がついているとか言うのはどういうことなのか、これは実際ものすごくやっかいな問題である。カルトとといいこの問題につきているかもしれない。そんなもの迷信だという人がいるがそんな簡単なものじゃない。宗教団体に入っている人は間違いなくこの霊が支配されているのだ。奴隷の霊が与えられているだ。彼らは実際生活では奴隷ではないにしても霊的には奴隷なのである。しかしこの霊的奴隷から脱することはものすごくむずかしい。自分の力では不可能ほどむずかしい。だから宗教団体ぬけることはものすごくむずかしいのだ。奴隷の霊によって呪縛されるからだ。これから脱するには聖霊を受けねばならぬ。しかしこれもまた最高にむずかしいことであり自分の力ではできないことである。しかしこれから脱することは他人にできないのだ。牧師とかいろんな宗教者を訪ねてもまた奴隷の霊を受けることになるのだ。師を求め師に頼っても奴隷の霊からぬけることはできない。牧師であれ師であれ奴隷の霊を与えるものになってしまう。自由の霊が与えられることが大事なのだ。それはじかに神から与えられないかぎり不可能なのだ。そこにこの問題の解決不可能なほどのむずかしさがあるのだ。科学でも解決しない、科学すら迷信におちいる。この世のことなど科学で解明できないことがいくらでもあるからだ。
何か不幸があるとそれは悪い霊のせいだといわれるとそう信じる人は必ずでてくる。なぜか合理的に説明できないことがこの世には多いからだ。病気でもすべての原因がわかり治療できるわけでもないしこの世のことだってどのように変わってゆくのかもわからないのが現実なのだ。それで人は神にも仏にもあらゆるものに頼るのである。その頼る先がどこでもいい、数が多いなら力強いと思う人もいる。頼るのは神ではなくこの世の力になるのだ。創価学会という政治力、権力を持つ団体なら文字通り御利益があると思い入る。他にもとにかく人間は容易に頼り自ら奴隷化してゆく。宗教団体に入っている人はみんな奴隷の霊が与えられているのだ。そこでは地獄に落ちるとか罰があたるとか乱発するようになり呪縛されるのだ。それを言っているのが罪にまみれた強欲な自らが間違いなく地獄に落ちる人間が言っているのだ。宗教を敵を呪うためにも使われる。入っていない無宗教の人も奴隷の霊に支配されている。キケルゴ−ルの言うように単独者のみが自由の霊を与えられている。上野霄里氏のような天才の独立覇気の人のまねは普通の人にはできない。ニ−チエのように狂気になる危険性もある。皮肉なことは徐霊するものが奴隷の霊を与えるものなのだ。なぜなら人間に頼っているからである。師にあったら師を殺しという禅の教えを実践せねばならぬ。師を殺すといことは師に追従しないことなのだ。師というのもやはりエゴであり弟子を自分の配下にし支配しようとするのだ。これは自ら弟子を持たないと言っていた上野霄里氏でも同じだった。師となる人の誘惑は弟子を大勢持ちそれが権力につながることなのだ。親鸞が一人も弟子をもたないと言った時、弟子の自主性を尊重したのである。しかしこれもその弟子たちは組織化し権力化したのである。
今回の逮捕は墓地、霊園の経営で宗教法人格を取得したいということで起こった。創価学会でも墓苑経営を一手に請け負い莫大な利益をあげることになる。なぜならその数が膨大だからその収入も莫大になる。一山が創価学会員の墓になるくらいでありそれで地元の人が反対してしいる。山まで占領されてしまうのだ。それはみんな奴隷の墓の記念碑なのだ。後世にはっきりと証明される奴隷の墓群である。自由人の墓ではない。現代の宗教は文明化した世俗化した宗教であり宗教を利用して世俗的利益を得ようとするものが多いのだ。僧侶だって葬式でもうける葬式屋とたいして変わらないのだ。墓苑でもうけ政治でご利益あづかり葬式で生計をまかなう。これが現代の宗教である。宗教というと何かすでに世俗の垢にまみれた汚い不純なものとして嫌惡する人が多い。それは宗教人そのものが信用できなくなっている。宗教というだけですでに何かうさん臭い不純なものをイメ−ジするようになっている。ああ、宗教か創価学会かオ−ムかお光様か・・・・そうした宗教団体をイメ−ジする。もちろん何か訳のわからない経文をあげている坊主もそうである。あんな経文など聞きたくない。意味などないのである。花だけを捧げた方が供養になる。花は汚れがないからだ。宗教人がかかわると死者をも汚すのだ。宗教というと利権利益団体であり宗教法人を取得するのも税金逃れで自分たちの利益を守るということが先にあるのだ。
いづれにしろ自然の花であれ木であれ石であれそれらに接するとき人間は浄化される。宗教と名のつくだけでそれは世俗の垢にまみれた裏には暴力団でもからんでいるのか汚い何かどす黒いものを感じてしまうのだ。だから宗教団体に近づくべきではない。99%うさんくさいのだ。奴隷の宗教である。その点自然は嘘偽りのない天真の姿を保っているから自然から学ぶ方が宗教的になるのだ。それに宗教そのものが実践することがむずかしいから偽善的になる。この世にどっぷりつかったものが宗教を説いているから矛盾してくる。宗教に関係なく俺は実際は自分の欲望を満たしたいだけだといえば正直なのである。実際はそうなのに慈悲だ、愛だと語るとき黒なのに白といいふくめるほど矛盾してくるのだ。これは自分だけではないみんなもそうなのだ。宗教が忌み嫌われるのも当然なのだ。実際宗教でもなんでもないからだ。では宗教とはなんなんだというと死の克服であり来世の希望でありこの世のことではない。なぜ死が入ってきたかというと死の値は罪であると言ったときまさに罪の克服なくして罪の回復はないということは神の子、キリストを信じる意外救いはないといことである。
キケルゴ−ル「水平化の世界」
上野霄里 「誹謗と瞑想」
(社会を構成している無様な小道具の一つに成り下がっている宗教は
もはや神を表現する機関でもなんでもない) 「誹謗と瞑想」
北朝鮮の衝撃的犯罪の告白
今回の北朝鮮の小泉首相の訪問は衝撃的な死亡の報告があった。これは確かに悲劇でありそれを踏まえて国交正常化が優先された。家族は納得がいかないが国益が優先された。8人の死亡は悲劇だがそれよりも国と国の関係は大きい故優先されたのだ。こういうことはよくある。国家のための戦争で家族はいくらでも犠牲にされた。国家からすると家族より国家が優先されることになる。国家とは非情なものであり国家のために多くの命が失われたのだ。国家のために日本でも何百万人も死んだのだ。国家のために犠牲にされたのだ。家族より国家の意志が優先されたのだ。8人の死の重みより国家の利益が優先される。国家が会社だとすると会社とうい組織の方が優先される。個人より全体が優先される。今回の拉致された人の死亡は悲劇であった。悲劇として認識される。何故なら全然拉致されるものに非がないからだ。突然一方的に連れ去られてしまったのだ。明白に何の非もないのに連れ去られ挙げ句の果てにはどうして死んだのかわからないが悲劇的に死んだのである。家族がこれでは納得しないのはわかるのである。
この事件は明白に悲劇、理不尽として認識される。しかし一方で日本の戦争の犠牲者は悪者にされるのか。日本に非がある。日本は侵略戦争した、他国に迷惑をかけた。他国の人を理不尽に殺したということで他国から責められるから彼らの死は悲劇ではない。家族にしてみれば国家のために犠牲になったのだから靖国神社に国家によって祀られるのが当然となるのだ。何も悪いことはしていないというのが家族の気持ちなのだ。では何故今回のような悲劇として認識されないのか、日本人でもあの戦争は日本側に非があると思う人も多いからである。もちろん非がないと主張する人々も多い。しかしそこにはそれを主張しきれない無理がある。それが悲劇とはならないものとなっている。もしこちらに非がなければ悲劇として語られその悲劇は歴史的に重みのもったものとして語り継がれるはずである。忠臣蔵のように語り継がれる。キリストの十字架のように語り継がれる。キリストには全く何の非もないのに十字架につけられたのだ。だから悲劇なのである。人間社会には全く理不尽な悲劇が多々ある。罪もないの冤罪で死んだ人もかなりいる。他にも理不尽なこと悲劇的なことあるのだ。
とにかく今回北朝鮮が自らの犯罪を告白したことは驚きだった。余程追い詰められた結果だ。北朝鮮があそこまで譲歩したことは告白したことは向こうも切羽詰まっていて真剣であったことがわかる。犯罪は犯罪としてそこは考慮せねばならぬ。家族にしては納得いかないにしても国交正常化は進められる。しかし拉致して死んだ人々は悲劇として語り継がれる必要があるし北朝鮮にしてもこれを隠蔽することなく自らの犯罪を認識しそれがなぜ起こったのか反省してもらわねばならぬ。軍部の一部が勝手にやったことだというならかつての日本と同じではないか。今の軍事政権は解体せねばならぬ。何故なら中国でも日本の戦争は一部の軍部がやったとしている。北朝鮮も軍部に問題があるとしたらその軍部の責任が問われる。そうした反省が本当にあるのだろうかという疑問である。北朝鮮には国民の意志は存在せず軍部が国家であり戦争体制であれば日本は敵であるからあそこまでできる。
日本でも今食料や原子力など組織的犯罪的行為があった。その時組織は責任を逃れるために隠蔽工作に走った。大きな組織は自らを維持するために犯罪を隠蔽する。警察でもそうだったからそれは大きな組織がもっている宿命である。大きな組織の悪は悪にならない。巨悪は悪にならない。大きな組織の悪は権力を持っている故に罰することがむずかしくなる。大きな組織をチェックすることはむずかしいのだ。それ故ナチスであれ大きな組織が暴走するときもはや誰も止めることもできなかったのだ。組織とか団体が善や正義を実行するということはありえない、それらは利益や権益のために行動する。それは宗教団体でも同じである。宗教と権力は分離せねばならない、それは歴史の教訓であった。組織とか団体は権力維持機構なのだから互いに監視する必要があり三権分立ができたのである。そうしなければ組織の悪はチエックできないのだ。北朝鮮の犯罪も国家がすることだから誰も罰することができなかった。北朝鮮は軍事国家であり戦時体制が継続された普通の国ではなかった。相手は強大な権力を持っていたからどうすることもできなかったのである。
その犯罪を表にだしたのはアメリカというさらに大きな権力であった。しかしそのアメリカという世界一の強大な国家も正義を実行するわけでないから世界の問題のむずかしさがここにあるのだ。だから正義は実行されず踏みにじられ理不尽な悲劇は常に存在するしその悲劇故にこの世があるといっても過言ではないのだ。そういう悲劇は歴史上いつもあった。予言者はほとんど悲劇の内に死んだ。この世で力を持つものはサタンであり正義を実行するものではないからだ。しかし遂に悪は隠蔽しつづけることはできず白日のもとにさらされる日もくるということである。また悲劇の故に平和が実現されることもありうる。アメリカのテロにしても悲劇であるが平和と結びつくことにも転換できる。キリストの十字架がなければ悲劇がなければ歴史に刻印されなかったように悲劇が幸福な終末より人間に訴えるのは悲劇の方か人間的に大きな意味を持っているからである。
反省が強いられるグローバリゼーション
グローバリゼーションが世界に混乱をもたらしたことは確かである。アメリカ資本主義の経済原則だけで多様な世界を一つにすることは無理だったのだ。イスラム社会にはイスラム社会が築いてきた長い歴史の文化と伝統の上に社会が構成されている。それがアメリカによる一方的な文化の押しつけなどは反発をかうしテロの原因にもなったのだ。イスラム社会が広範囲な世界を築いたのは経済原則だけではない、そこには宗教を基礎にして社会を調和させた結びつけた何かがあったのだ。経済原則だけで社会は成り立たない。この資本主義の経済原則は世界に深刻な様々な問題をもたらした。コ−ヒ−だけを商品作物だけを栽培させられたことが後進国の飢餓を作り出した。コ−ヒ−だけということは自分たちの日々の食料となる畑すらなくなっていたのだ。人間社会は非常に複雑であり古代から人間は調和して互いに平和に暮らすには長い時間がかかった。海で暮らすものと山で暮らすものが調和するにはいろいろな過程がり時間をかけて交流し調和する暮らしを作ってきた。神話の山彦、海彦の物語もそうした歴史を物語っている。
インドネシアのある島では鯨をとることで生活している。その鯨がとれるように山で暮らす人に祈ってもらう。これも奇妙だがそこには先住民の山で暮らした人との交流のためにそうなった。鯨をとる人たちはあとから入ってきたからだ。それで鯨がとれたら山で暮らす人に鯨の肉をもってきてくれるのである。山の神にオコゼが捧げられるというのもにている。それは山の人と海の人との交流を物語っている。それもかなり長い時間をかけてそうした文化が作られたのだ。そうした伝統的社会をグローバリゼーションは根こそぎ破壊したのだ。そのやり方が急速であり余りにも力ある文明社会がアメリカなどが一方的におしつけたのである。当然そこに大きな歪みが世界的規模で起きたのは当然だった。
例えは食生活だってハンバ−グとかコカコ−ラなどすべての風土に合うものではないし必要ないものである。なんか羊の肉の臭みなど消すのにコカコ−ラが飲みたくなった。肉食に必要なのがコカコ−ラなのかもしれない。米を食う所には必ずしも合っていない。人間の社会もそれぞれの風土にあった生活を長い時間をかけて作ってきたのだ。日本の社会にしたって縄文時代からそうした食生活を作ってきた。これを変えることはよくないことは確かである。外国ではハンバ−グなどしかたなく食っているが日本では食わない、他に食うものがあるし食う必要がないからだ。いろいろな種にしても多様な環境に適合して生きてきた結果それぞれの美や個性を作り出してきたのだ。人間も多様な環境のなかでそれぞれに適合して生きてきたのだから食生活からしてグローバリゼーション化するのは間違っていたのだ。
グローバリゼーションの問題は急速な技術の進歩にもあった。ヨ−ロッバからアジアに来るのに一年もかかったということはその交流は遅いしゆっくり時間をかけて異文化の交流が行われることになる。それが飛行機やら通信交通の発達ですさまじい速さで交わるようになった。情報にしても一気に文明も知らない僻地まで押し寄せる。徐々にではない突然文明の最先端の文化が入ってくるのだ。これは何らか混乱をもたらさるをえないのだ。生物はそんな適合力がないのだ。そんなに早く進化できないのだ。一万年かわからないが進化の過程にそれくらいかかっているのだろう。魚から足がはえて爬虫類から陸を歩く動物になるまで気の遠くなるような時間を経ている。しかし現代は魚から一気に陸を走る動物に変化させられるほどの速さだったのだ。それが世界的紛争をもたらしたのだ。
技術力が突出して人間はそれに適合できず歪みをもたらした。
その技術力は自然の悠長なリズムとはあまりにかけ離れたものであった。戦争の今までになかった犠牲はまさにこの突出した人間では制御できないにような技術力の結果であった。人間はもはや技術を制御できなくなっていた。技術は科学は怪物化していたのだ。それが原子爆弾であった。ヨ−ロッバやアメリカは科学と技術力で世界を支配できるという思想があった。人間社会はもっと複雑であり科学と技術力では支配できない。そこには時間をかけて調和させる知恵が必要だった。それを無視して一気に世界が一つになるような錯覚を作りだしたのだ。技術は錯覚を作りだすのだ。テレビでもインターネットでも錯覚を作り出す。現実でないものが幻想が現実と思いこむ。技術はそうした錯覚を作りだすのだ。世界が一つではありえない、様々な価値観のなかで環境に適合しそれぞれの生活を作ってきたのだ。世界を経済原則のみのグローバリゼーションという価値観ではない、多様な価値観の世界を見直す反省が迫られたのが現代のグローバリゼーションの世界だった。世界が一つになるというのは技術とかアメリカの支配によるもので幻想だったのである。
はずされた看板
(存在感のない電子空間)
現代の問題それは存在感の喪失なのだ。今日の一句一歌の秋の蝉で書いたように人間という万物の霊長たる人間の存在感の喪失なのだ。シュペングラ−の「西洋の没落」でも人間はもはや数としてしか存在しないとか言葉は都会の商業化により本来もっていた日本で言えば言霊とか言葉のもっていた神秘性は失われ記号化する。言葉は詩の化石だとエマ−ソンが言ったような言葉の図り難い神秘性は失われてしまった。ピカ−トの言うように騒音語となってしまった。言葉であれ何であれ文明人の共通の言葉は貨幣に変換するとか人間の存在は都会文明の中で巨大な組織の一つの歯車でしかない。宗教団体であれ文明の中では組織化したものしか存在しないのだ。なんらか存在感をもたせようとしたらこの世からはずされたアウトサイダ−になるのである。では人間の本来もっていた存在感とは何なのか、それは古代文明ではもっていたのである。偶像として否定されるがおびただしい人間の像が刻まれている。それは英雄の像かもしれない、神の像かもしれないがやはり人間の存在感を示すものだった。今の時代人間の像など誰も刻まない、マスコミであれ社会であれ組織の砂粒のような一員と化したものだけで本来の人間の存在感はない。その代償として政治家とか芸能人が偶像化しているのかもしれない。
しかしそれらは古代の重厚な人間像とは違う、何か精神の中味のない広告塔なのである。コマ−シャル的存在なのだ。今でも後進国には長老とかその土地と一体となった風格のある存在感のある人間が存在する。でも文明人はそういう人たちと遭遇してもその人が土地と一体となっている精神的人間の重みは理解できない、常に金ですべてを図ってしまうのだ。そこが文明人の傲慢さでありグローバリゼーションの世界の歪みでもあった。文明人は金とか組織とか技術でしか権力でしか存在感を示しいないのだ。その最たるものがアメリカでありその反発の一因としてテロが生まれた。それは人間としての本当の意味ある価値ある存在感なのかどうか疑問である。インドの行者のように無一物でも存在感のある人はいる。権力的存在感はそれが消えた時虚しいもとなりうる。東京のような物凄い存在も何か意味ある存在として感じない、砂漠のような広がりに見える。人間もその中ですて砂粒のような存在になっている。それらが消えたとき何かが意味あるものとして浮かんでくるのか疑問である。
はずされし看板一つ秋の風
いつも通る六号線に広告の看板があった。毎日通っていたが広告などうっとおしくて見なかったし何が書いてあるかもわからなかったのだ。今日みたらその看板ははずされていた。そしてあれここに何の広告の看板あったのかと初めて思ったのである。これも奇妙なことである。無くなってみて初めて気づいたのだ。こういうことって人生にはある。いつもいる人間はうっとおしく嫌なものだがある日死んでいる。死んで初めて
その存在にあわれとかいとおしみを感じる。死んで初めて無くなって初めてその存在に気づく、ここに店があったなあれ今日来てみたらない、無くなって初めてその存在に気づく。この広告の看板は何かを主張していた。何を宣伝していたのかさえわからなかった。無くなってみて一体何があったのだろうと考えさせられたのだ。
巨大な虚ろなもの
巨大なビル、自動車の喧騒,がなりたてる宣伝
ネオンの激しい点滅、新聞、テレビの宣伝
執拗に自己主張し存在を訴える
それらはうとましく目をそむけ耳を閉ざした
あまりにも図々しくうるさいのだ
しかしある時それらはみんな消えていた
それらが消えたのもわからなかった
そんなにも主張しこの世を占拠していたものが
ある日突然消えた時不思議なことに
それらがあったということさえ気づかなかった
一本の電信柱がコンクリ−トのブロックの破片が
鉄骨の一部が風にさらされ一本折れ曲がり残る
秋風が吹きそこに何も残っていない
そして存在の哀愁を語っている
それらが消えて無くなった時初めて
その存在に気づかさせられた皮肉
現代文明の実は儚いことをそれは示していた
これはとにかく物として存在したからその物の存在が無くなった時、気づいた。石に刻まれた文字でも木に刻まれた文字でもそれは石とか木という存在感があって主張している。本もそうなのだ。本という紙の存在感の上に文字が記され存在を示している。ところがインターネットの電子空間ではこうした物としての存在感がないのだ。無数のホームページの一つや二つ消えても物として存在していたわけでもないから消える無くなるという哀愁感すらないのだ。電気信号として消えるだけなのである。
水に記録したのか
空気に記録したのか
それは一瞬にして消え
記録は呼び出せない
そしてその人の存在の証拠もない
なにか幽霊のように
水に記録の文字の断片が浮かび上がり
またはかなく消えて水は透明である
例えば本なら物として存在しているから不用になってもそれを裁断して燃やしたりすることは一抹の哀愁感がある。せっかく苦労して作ったのにということもある。しかし電子空間ではそういうこともない、消えるのは一瞬で何の苦労もなく消えるのである。跡形もなく消えるのである。石に記す、紙に記すとは記憶を残したいという人間のこだわりがある。しかし本として本屋に置くことや石に刻み残すことは金もかかるし普通はできないことである。出版社であれ書店であれくだらない本を売れる本を置く一方で本というもの自体流通させることは極めて制限されたものなのだ。その場から除外された人はインターネットにでているように無数に存在するのだ。とにかく物として残したいそのこだわりが電子空間では通用しない。その代わり本と違って紙に記すのとは違って誰でもが容易に発言できるのだ。なぜインターネットやコンピュタ−についての議論が盛んなのかというと人間が経験していないことが起こっているから議論がつきないのである。
インターネットの将棋
パソコンの歴史は新しい。ここ十年もたっていないのだ。ニフティでパソコンでやっていた人が理系の人が多いことでもわかる。パソコン自体開発中のものでありとんでもなくめんどうなものであり金の余裕のあるマニアしかやっていなかったのだ。ニフティ自体がそうだったのだ。インターネットで爆発的に拡大してニフティのフォ−ラムは衰退した。自分はパソコンも全然知らなかったしたまたま富士通の和−プロに通信機能がついていたので始めたのである。なぜレスという対話方法が生まれたかというと通信というのは始め個人のパソコン同士を結んだ無線のようなものであり相手に無線がとどいたかどうか確認するために必ず応答するレスポンスが必要になったのだ。それでレス文化がコンピュタ−のマニアの間でうまれたのだ。それをしていたのはごくごくマニアの一部にすぎなかったのである。文書で話すること自体今までしたことのないことでありこれを理解することはむずかしかった。コンピュタ−の理解と共にそうした新しい文化に対処することがむずかしかった。つまりマクル−ハンがメデアがメッセ−ジであるというときパソコン自体が今までと違うメッセ−ジを発することになったのだ。パソコンを使いこなすこともむずかしいかったがさらにパソコンという道具を通じて生まれた新しい文化に対処することがむずかしかったのだ。バソコンを道具にしてインターネットの規模が爆発的に拡大したが依然としてこれは使いこなすものがむずかしいしそのパソコンを知る以上にインターネットをどう使いこなすか応用編がまだ模索中なのである。通信の将棋というのも常時接続になりやってみたがこれも新しい経験だった。
昨日はドイツ人と将棋をやった。英語で挨拶した。将棋はチェスよりむずかしい。将棋は複雑だから外国人が強くなることはむずかしい。14級が精一杯かもしれん。自分もなかなか上に上がれない。通信将棋はかえってレベルが高い。全国の人が集まっているからだ。将棋と大陸の中国の将棋やチェスの違いは駒を一度とったら使いない、捨てることになる。日本は駒をとってはいかしまた捨ててと複雑である。ゲ−ムにも文化がありそれが反映しているのだ。日本人は駒を捨てない、相手が敵でもまた活かす、人材のリサイクルがあるのかもしれない。大陸は敵をやっつけたら捨ててゆくという非情の世界なのか、厳しい世界を反映しているかもしれない。チェスの特徴は王様に王女様、城の塔のようなものが駒になっている。
日本でも城は重要だが城という建物より人間が重要とされたのかヨ−ロッバでは城そのもの建物が常に社会にとって大事である。市というのが城壁に囲まれ市そのものが城だからだ。中国でも万里長城があるごとく国自体が城化、要塞化するのだ。それは常に外敵が攻めてくるからである。それからBISHOP司教が大きな駒になっている。これもヨ−ロッバの社会を反映したものだ。王様と王女様が一対になっているのはヨ−ロッバではレディファ−ストとか男女同権の社会が形成されていたのか、今でもパ−ティは夫婦同伴であり社会的に夫婦を社会の生活に社交に組み入れるようになっている。独身はだから入りづらい。このチェスはシルクロ−ドの敦煌で外国人と日本人がしていた。なんかあそこは国際的でありチェスしているのがあっていた。立葵が咲き外は砂漠である。エキゾシズムのある場所なのだ。つまりシルクロ−ドを通じて文化が入ってきたところだから雰囲気が合っていたのである。
チェスをさす外国人と立葵
将棋はなかなか強くなれない、疲れる。勝負事だから負けたくないとなるからあまり深入りはしない方がいい。通信の将棋ってどうなのかと思いやってみた。ゲ−ムは通信に向いているしやみつきになる可能性が高い。チェスのゲ−ムも外国のサイトでできる。気軽に外国人と遊べることは通信の醍醐味である。インターネットの世界はいろいろな応用が可能でありゲ−ムがインターネットに向いていることがわかった。将棋24の会員はインターネットの普及とともにうなぎのぼりになって伸びている。あれだけアクセス数かあると広告は有効である。何回かクリックしたからだ。ゲ−ムはその場にとどまることが多くなるからさらに有効なのである。このようにインターネットでは長くいること何回も同じ場所に行くことが極めて少ないのだ。将棋というゲ−ムの世界にこれだけ人が集まることはインターネットの世界では極めて少ない。個人のホームページは数人くらいしかこないからだ。人が集まることはそこが熱気をおびている。将棋に関していろいろ話がはずみ将棋の知らなかったことがわかってくる。自分は小学生の時やったあとは全然将棋をやっていなかった。だから実際将棋については忘れていたし将棋そのものについてわからなかったのである。しかし通信の将棋はよくできているなと感心した。観戦もできるし棋譜は記録されているし将棋を上達させるものかそろっているのである。相手には24時間ことかくことはない、実際一日中いる人がいた。ブロ−ドバンドで韓国がゲ−ムが一番盛んになったというのもわかるのである。ゲ−ムの魅力はブロ−ドバンドになったら飛躍的に増加する可能性がある。ただそれは今までのものとはかなり違ったものになるかもしれない。人間相手ということが違うからだ。それも全国国際レベルになるからだ。ゲ−ムを通じての国際交流になりうる。将棋を学ぶことはやはりそれぞれの国の文化を学ぶことでもある。
英語ができなくても何らか交流が生まれる可能性がでてくる。ゲ−ムというとこれは教育にも活かされる有望な分野である。数学でも語学でもゲ−ム感覚で勉強できるようになりうるのだ。もちろんゲ−ムというと知的は発達にとって悪いとか問題がある。事実ゲ−ムのなかには格闘技のようになんか知的でないものがあるし問題があることは確かなのだ。異常にのめり込む場合もあり知的に退化させる道具にもなりうるのだ。
将棋というのにも様々な歴史があり将棋を通じた人間模様も面白いものなのだ。伝説では将棋をしに遠くに出かけて行ってさしていた人の家がその間に火事になり燃えてしまったとかあり将棋というのはゲ−ムは人を夢中にさせる故問題が起きる。ギャンブルもそうである。また昔は強い人とやるには遠くに行かねばならなかったのだ。昔は人の出会いは一期一会というのは本当に交通が不便だからそうなったのである。今ではそういうことはないのだ。会う気ならいつでも会いるからだ。将棋にまつわる物語がある。将棋は常に昔から大きな娯楽の地位をしめていたのである。将棋やゲ−ムを通じてインターネットを知るというのもいいかもしれない。他のもの俳句を通してインターネットを知るとか一部匿名で投票するシステムをソフトで作った人がいて面白いと思った。ただ俳句とかでも実際インターネットだけでやるとなるとむずかしい面がある。その他のものでも学芸分野ではいろいろめんどうだし対話する人は極端に限られているからむずかしい。将棋のようなものは年齢差や男女差とかも関係なく将棋を通じてインターネットを楽しむということができる。そういう点インターネットに向いているなと思ったのだ。ただ将棋もあまりやりすぎるとよくない。またなかなか強くなれないのでやる気が無くなる人も多いかもしれん。というのは通信の将棋はかなりレベルが高く強くなるのが大変だからだ。実際一番多いのは二段とかであり初心者クラスは10分の1もないということは強くなった人が長く楽しむものだということがわかる。趣味自体そういうものでり即席にできるものはないのだ。自分の場合将棋と同時にこの世界はその通信というメデアによるゲ−ムや将棋に興味を持つようになるのだ。将棋をやるという興味もあるのだが通信による将棋がどうなるのかという興味である。
実際奇妙な話だが将棋のソフトを使い勝つ方法があるとか常にコンピュタ−には裏技と技術的問題がつきまとっているのだ。だからどうしてもいろんな分野で個人情報が盗まれたり技術的に不正を防ぐことができないのだ。つまりマクルハ−ンのように「メデアはメッセ−ジ」でありインターネットでやる将棋はやはりかなり違ったものである。どちらかというとスピ−ドが要求される。のんびり縁側でさすという世界ではない。人間味がないといえはないかもしれないが腕は上達しやすいことは確かである。そもそも隣近所があって縁側というのがあった。今や田舎でも隣近所との交流は希薄になり縁側もなくなり死語になりつつあるのだ。
二本松の王様と将棋盤をかたどった墓
歩が水入れと花さしになっている
非道が非道を生む危険
(北朝鮮拉致事件の犯罪の酷さ)
神は義なる裁き人、
日ごとに憤りを起こされる神である
もし人が悔い改めねば
神はその剣をとぎ
・・・・・・・・
その害毒は自分の頭に帰り、
その強暴は自分の頭に下る
詩篇7−10
今回の北朝鮮の拉致事件は余りの酷さに北朝鮮という全体主義国家の非道さを浮き彫りにしたことである。暴力団国家と何ら変わりないのだ。
象徴的なのが横田めぐみさんの拉致だった。いたけない少女が突然に魔の手により連れ去られ自殺して死んだという衝撃的報告であった。最も酷いことが横田めぐみさんによって浮き彫りにされたのだ。その憤りは何も日本人だからではない、人間に対する犯罪として天も怒る、神も怒るというそうした人間に対する非道の行為に対する怒りだったのである。人間に対する非道への怒りだった。しかしこのことは今まで在日の人や韓国の人が日本人を非道として責めてきたことなのである。日本人は許されない、我々をあのように非道な扱いをしたと責めてきたことなのだ。日本人はそう言われた時、口をつぐみ黙すほかなかったのである。
しかし今は逆の立場になり日本人に対する非道に対して責める立場にたった。アメリカのテロにしてもこんな非道なことがあるのかという怒りがアフガニスタンの空爆となった。しかしアフガニスタンのアルカイダと関係ない人が3000人くらい死んだのだ。これもアフガニスタンの人にとってアメリカなんと非道なことをするのかと怒っているのだ。北朝鮮の人はこういうことは日本人がかつて俺たちにやってきたことだ、そんなに騒ぐ必要はないという意識もあるのだ。そもそも非道とは何か
人間の道に背くことである。人間がしてはならないことなのだ。人間が何人に対してもしてはならないことなのだ。それは個人と個人の関係ならわかるが法律で罰せられるがこれが国家間になると戦争になるのだ。
人を殺すなというが戦争になれば千人殺した人は英雄になるのだ。英雄として迎えられるのだ。
人間の非道はさらなる非道を生む。余りに酷いこと人の道に反することをするものは天罰が下ると見るより天罰を下さずにはおかないというのが人間なのだ。だから非道がさらなる非道を生む。パ−ルハ−バ−を忘れるな、日本人はなんてひどい事をするんだ、鬼畜に劣るとかなりそれが原子爆弾という絶対にしてはならない事まで是認することになった。今回の拉致事件ほど非道をあからさまにしたことはないしそこまで行った北朝鮮がいかに追い詰められているか判明した。北朝鮮は自らの非道をあからさまにしわびる他ない立場に追い込まれたのだ。北朝鮮は普通の国ではない、戦時体制であり戦争ということはそこに異常なことも起こるのが普通だとなる。普通の平和的に暮らしている日本人からすると考えられないことをする。それを浮き彫りにしたのが今回の拉致事件だった。その餌食となったのが今回は日本人だった。
では日本人は北朝鮮に対してどう対処すればいいのか、小泉首相の判断は間違っていたのか、早急だったのか、拉致事件をどう解決すればいいのか、対処がなまぬるいう過激派がありやはり国交正常化を優先すべきだという人もいる。そもそもあのようなガチガチの軍事ファシズム体制国家と国交を結ぶことは危険だとかいろいろな意見が錯綜する。言えることは非道を責めすぎて自らが非道にならないことである。確かに肉親を殺された人の気持ちはわからないし決して許すことができないことは確かである。自分自身すらそうだし甘いことは確かである。その現実は余りに重すぎて他人のとやかく言うことではないとなる。実際その痛みを自分のものとすることはできないのが現実でありアメリカのテロにしても他人事になる。むしろ武力が解決するのだというのが今までの歴史だった。
しかし非道が非道を生み紛争が収まらないのも人間の世界なのだ。北朝鮮は今回は自ら犯した非道は隠すこともできない、日本人か罰する前に天が神が罰するというほどにその犯罪を浮き彫りにしてしまったのだ。彼らはもはや偽ることができない、衝撃的だが真実を言うほかないほど追い詰められている。横田めぐみさんが自殺したということが
そのことを象徴的に言っている。これだけでもその犯罪の恐るべきことを露にしたのだ。では彼らにその犯罪の深刻な反省があるのかというと軍事政権ではありえないのだ。軍事政権が崩壊しない限り自ら犯した犯罪行為のことすらわからないのだ。そこにファシズム国家の恐ろしさがある。誰もとがめ諭すものもいない、独裁者が支配し国民はそこに存在しないのだ。そういう国と国交正常化することがそもそも可能なのかというと疑問なのである。彼らを交渉相手とすることに早急さがあったとは言える。
北朝鮮は拉致した日本人の墓がなくなったというのは余りにもひどい。
彼らは拉致された人のために供養のために将来的には墓を作らねばならないのだ。懺悔のための墓を造る必要があるのだ。こういうことは多くの日本人がアジアの戦場で死んでその遺骨が捨てられて拾われもしない
のと違いその非道の故に堂々と言えるのである。人間の道に背く非道なものとは対等につきあいないということが言えるのである。それで初めて北朝鮮は拉致したことを悔いているということを認知するのである。
おそらく逆な意味で中国人や韓国人は日本人はあのような非道を我々にしたと怒っているから日本人の遺骨など拾い供養する墓であり塔など建てないのである。今回の拉致事件はこのように明確に人間に対する非道として認識できるものなのだ。国家と国家の間では何が非道であるか実際認識できなくなる。戦争のことが未だにわからないのはそのためなのである。日本人がいくら非道なことをした言っても今回の事件のようにピンとこないのである。具体的に見えないのである。そういう非道があったのかということも霧の中になってしまった、藪の中になってしまっているのだ。いづれにしろ国家とかの犯罪になると非道が非道でなくなるのである。実際北朝鮮では拉致した人は英雄として迎えられていたことでもわかる。ここに国家自体が犯罪的要素があるということがわかるのだ。国家の解体が世界平和を作るというのも確かであるがしかしそれは不可能なのだ。
神は義なる裁き人、
日ごとに憤りを起こされる神である
もし人が悔い改めねば
神はその剣をとぎ
・・・・・・・・
その害毒は自分の頭に帰り、
その強暴は自分の頭に下る
詩篇7−10
・・・・・・・・・
その害毒は金正日に帰り
その強暴は金正日に下る
実際今回は明確にこうなっているのだ。
アメリカのグローバリゼーションの疑問
インターネットから情報を取り出し自分のものとすることは実に手間のかかることである。マスコミなら本なら雑誌ならそれなりの情報がパッケ−ジ化されて読者に提供されている。一番楽なのはテレビである。これはまるで子守歌のように与えられインターネットのように検索で探す必要もない、その代わり全く受け身の世界、洗脳される世界になってしまう。インターネットというのは情報があっても無数に分散されている。そこから一つの脈絡ある思考を生み出すのは容易ではない。実に手間暇のかかる代物なのだ。アメリカという国がいかなる国か理解することにしても非常にむずかしい。ビルトッテンというアメリカを嫌惡する京都に住んでいる人の意見は面白い。日本にはアメリカを礼賛する人が多い。竹村健一はその筆頭である。アメリカを手本にすることだと何回もテレビで言っている。彼と小泉首相は連絡を取り合う中というのは小泉首相もアメリカにそって政策をすすめることがわかる。竹中平蔵も弱者切り捨てのアメリカ型社会を目指している。アメリカという国がいかなる国なのか自分には住んだこともないし何か言えるには経験がたりなすぎる。ではアメリカという国を浮き彫りにする方法があるのか、インターネットにでているのかとなる。
一つの目安として
「アメリカの最上位1%の家庭は、平均90億円の資産を持ち、全国民の資産の40.1%を保有している。逆に下位20%の家庭の純資産は、平均マイナス80万円強(すなわち借金)、 次の20%はたかだか104万円、合計しても、40%の人口で国民全体の0.5%の資産しか持っていない」
アメリカという国はみんな金持ちだと思っている。しかし実際はホ−ムレスも多いしこれだけの格差ある社会だということである。階級社会なのだ。ヨ−ロッバも階級社会だからこそ平等を主張するマルクスが生まれたのである。この数字はビルトッテン氏の主張の裏付けをとる情報である。
アメリカでは英語が話されていると思うとスペイン語をしゃべる人が非常に多くなっている。アメリカは出稼ぎ者の国でもある。半分くらいは他国から出稼ぎに来た人たちのでありエスタブリシュメントは極端に少ないのである。アメリカの国の方向を決めるのは数はパ−セントしかいない金持ちだというのはこの数字が如実に物語っている。なぜあれほどイラクを攻撃しようとするのか、それは多数の庶民階級の意志ではない、しかしなぜそうした数パ−セントの金持ちの意志が反映され命を賭ける戦争にアメリカ人は熱心なのかという疑問なのである。金持ちの資産を増やすためなのか、金持ちの投機のためなのか、石油の利権のためなのか今回のイラク攻撃をしかけるのは世界からみても度がはずれたものがある。アメリカと一体化することはアメリカ国民と一体化するのではなくアメリカの極少数の金持ちと一体化することになる。パウエル長官が穏健派なのは黒人の代表でもあるからだ。黒人は貧しい人が多いから戦争には積極的ではない、戦争で得することはないのだ。戦争で得するのは金持ちなのか、そこに日本人がアメリカ礼賛者になることの疑問がある。
竹村健一氏は明らかにそうしたアメリカの手先というかアメリカの主張を通すために送られた人、アメリカのプロパガンダのようにさえ思えてしまうのだ。だからそこにはユダヤ人陰謀説とかいろいろな憶測がでてくる。余りにもイラクをたたかねばならぬということが先走っているのだ。ビルトッテン氏の言うようにアメリカがそんなにいい国ではない。彼から見ると日本の方がいい国でありアメリカをまねることは愚かなことであるというのはそうなのかもしれない。日本は常に外にあるもの外国にあるものがいいと思って来た国である。七福神も宝船にのって外国からやってくる外国の神様である。インドの弁天様や中国の仙人であり外国によって富がもたらされるのが島国の日本なのだ。そういう地理にあり歴史がそうして形成された国だからだ。日本は常に外からくるものがいいものに見えるのである。しかし現実は外からは外国から悪いものも入ってくるのだ。アメリカの金持ちのための利権主義、強権主義の世界制覇というものは是認しがたいのだ。グローバリゼーションというもアメリカのためのグローバリゼーションだったのである。世界の果てまで今やド−ラ−ド−ラ−という声に満ちている。エジプトでは子供がロバにのり写真とらせるから1ドルくれと要求してくる。ドルは砂漠の果ての町だろうがジャングルのなかの部族民だろうが通用するのである。正にアメリカの支配こそグローバリゼーションだったのである。このグローバリゼーションに中国はのったが取り残された国々がイスラム諸国に多かったのである。その反発があのテロだったのだ。アメリカの国内すら実際は不平等社会なのに世界は極端に貧乏な国が多くグローバリゼーションなど成り立たない、むしろ貧乏な国には搾取されるばかりだというのが実感でもあったのだ。アメリカの手法は弱者切り捨てなのだ。もちろん平等を目指した社会主義でも豊かにはならなかった。ではアメリカが理想の国かといったら実際は階級社会であり貧富の差の激しい不平等社会なのだ。
アメリカのもう一つの側面は巨大な度はずれたテクノロ−ジ信奉の国だということである。そのスケ−ルは宇宙まで支配しようとする映画に如実に現れている。宇宙はテクノロ−ジで支配できる。地球もテクノロ−ジ−で支配できる。そのテクノロ−ジ−は広大なアメリカの国に適したように巨大なスケ−ルのものなのだ。日本人には想像も及ばないスケ−ルのものなのだ。日本では技術といっても小さな国土に調和したスケ−ルの小さなものである。アメリカのようなとてつもない国ではテクノロ−ジ−も宇宙まで拡大してゆくSF的スケ−ルになるしそれが地球の環境を破壊することにもなる。戦争にしても湾岸戦争がそうだったようにテクノロ−ジ−の実験場のようにもなっていた。原子爆弾を日本に落としたのもテクノロ−ジ−の実験場に日本がされたことでもわかる。日本であれ中国であれ、インドであれイスラム諸国であれこのアメリカの巨大なテクノロ−ジ−を受け入れることには拒否反応がある。それは映画のように人間離れしたヒュ−マンサイズを超えた異様なものを感じるからである。その巨大なテクノロ−ジ−が地球破壊戦争、汚染にも通じる不安である。原子爆弾がまさにそれなのだ。アメリカはまたエイリアンの国なのだ。地球外から得体の知れないものが侵入してくる。アメリカ自体が正に世界からエイリアンの集まる国なのだ。突然隣にチベット教の信者が引っ越してきたりとかいつのまにかイスラム社会がアメリカ国内を占拠してしまうような異文化の人間が集まる国でもあった。エイリアンの恐怖におびえている国でもある。今回のテロもそうしたエイリアンの侵入による恐怖が現実化したものであった。
●少数の金持ち社会(弱肉強食の世界)
●テクノロ−ジ−信奉の社会
●エイリアンの国(異文化混合の国)
●世界制覇の国
つまり日本のような島国で形成されたアイディティとはかなり違ったものでありそのスケ−ルからして理解できないものなのだ。だからグローバリゼーションとはアメリカのグローバリゼーションであり世界のすべてに適用されるものではないのだ。日本人は村社会の相互扶助の社会でありアメリカ的競争社会(弱肉強食の世界)に合わないのである。アメリカ自体世界の移民によって形成された国でありエイリアンが集まってできた国なのである。村社会で和を保つというのとは余りにもスケ−ルの違う世界なのだ。そこでは世界の民族のレ−スにもなっている。資本主義というのも海外に出る船に共同出資することから起こったように冒険への投機であり蓄積、貯蓄を重んじる農耕社会とは異質なものである。度はずれた一攫千金を実現しようとする社会である。こうしたものと日本人は合わせることはむずかしい。日本は村の相互扶助社会がベ−スでありそれでいいのかもしれない、経済的には衰退するがアメリカ的スケ−ルの国ではないから相互扶助社会にもどり貧しくなってもそうした社会の方がいい面もある。貧しい人ほど助け合うということもある。アメリカは弱者を切り捨てしてもかまわない社会なのだ。というのは弱者は移民だったり黒人だったり一部の支配層とは隔絶された意識を持っているからである。日本は国自体が小さいからそういう弱者切り捨てを残酷にできないのである。それがまた人間として健全ともいえる。
「隣り合う病人あわれ虫の声」確かにこの句のように経済的には衰退するが互いに近隣が助け合うという昔の村社会も住みいい社会かもしれない、アメリカ的社会と日本は根本的に違うし相容れないという認識が必要なのである。アメリカ的弱者切り捨ての経済政策が日本に合わないし、とてつもない金持ちを作り出す社会も合わない、巨大テクノロ−ジ−社会も日本の風土や社会に合わないのだ。だからすべてをアメリカ流にすること自体無理な社会だということを認識すべきである。
現代の三つの災厄(交通事故、医療事故、創価学会)
墓とは何かといったらそれもいろいろ意味がある。墓とは死者の存在感を示すものである。墓は死者を偲ぶ場所である。なぜ墓に興味を持つかというとそこが死者の最後の場所であり死者を語る場所になっているからだ。死者には墓にはいろいろな話があるはずだが忘却されるのが多い。墓の墓、無縁となった墓を集めて供養しているのが多いのだ。これからますますそうした墓がふえてくるから困っているのだ。墓は簡単に捨てることもできないからだ。祟りがあるとか墓には人間の霊を祀る所だから捨てるわけにもいかないのだ。
「墓地の環境破壊は、原子力廃棄物以上に永遠であることを、考えておくべきである。原子力廃棄物で一万年、産業廃棄物で五〇年は復元にかかる、とされているが、墓地は地球の存続する限り、無限に破壊し続けることになる。なぜなら、墓地は一切宅地の転用が不可能である。そのため山林に戻したり、田畑にしたり、宅地やその他の開発をしようにも、永久に元に戻せないのである。」
これは創価学会を批判している「自由の砦」というホームページにでていた。こんなこともあるのかと思った。墓とはこういうふうにやっかいなものなのである。創価学会はいろんな面で問題になるのである。なにしろ数が多いからだ。職場であれ地域社会であれ家族であれ創価学会員と関係しない人はいない、ものすごい社会的勢力であり影響力があるのだ。だからいつのまにか自分も入っていたのである。自分の場合は純粋に宗教的動機だった。現代で交通事故、医療事故、創価学会・・この三つと関係しない人はいないのだ。自分の兄も交通事故で死んだし、医療事故なら子供のとき足に注射されたのが失敗して今ではその傷口が大きく拡大してしまってとれない。親戚でも手術してガ−ゼを入れたままにしてあったのだ。それで一年もたってからわかったとったとかとんでもない医療事故が頻繁におきている。家族や親戚に必ずいるのだ。4万人が毎年医療事故で死んでいるというのも本当なのかもしれない。交通事故と同じように医療事故も多いのだ。それから創価学会も現代の災厄なのだ。これが社会にはこびり社会の一部と化してしまっていることなのだ。自民党がこれと一体となっているのだからこれももはや批判できないのだ。医療事故も追求できないと同じである。創価学会とは社会なのであり創価学会を批判することは社会生活すらままならなくなる。どこにでも創価学会員はいるし監視しているともいえる。NTTの個人情報が創価学会員同士のいざこざからもれた事件もそうだった。創価学会員は福祉であれ教育であれ役所であれ警察であれどこにでもいるし批判的なものを監視することができるし排除することもできる。検察官にも池田大作に忠誠を誓って犯罪行為を犯した人がいた。北朝鮮のように池田大作様の命令に從うことは犯罪でも英雄的行為になるから怖い。個人情報漏洩の危険はまさに人間は中立の人はいないからだ。ホームページをおく所だって管理している人が見ることができるし気に食わないからと勝手に消されたり書き換えられたりするかもしれない。コンピュタ−が管理するのではなく人間が管理するのであり将棋にしても人間に勝つソフトを作るのは人間である。コンピュタ−に自立的意志などないしあくまでも人間の命令を聞くだけの道具なのである。いづれにしろ現代はこの三つの災厄から逃れられる人はいないのだ。
この三つの災厄はなかなかへらせないことである。社会構造的にそうなっているのか減らすことができないのだ。創価学会員はやめる人もものすごい数である。一日百人退会しているとかやめる人も多いのだ。ただ一票獲得のためだから数だけが問題だからやめる人も多いわけである。それでも依然として勢力を保っていることの不思議である。やはり北朝鮮のようにマインドコントロ−ルの怖さである。これがなかなか溶けないのだろう。自由な日本でさえ内部にファシズム団体が政府と一体になっているのだから北朝鮮に拉致した人が20年もいたら確実に北朝鮮の人になっている。というのは回りに北朝鮮を批判するものがいないし相対的に見る手段がないのだから当然である。そういう恐怖を味わっている人はかなりいる。シベリアに抑留された人が思想教育を受けた共産主義者になったりするのもそのためである。こうした思想教育は閉鎖された状態で大きな効果を発する。正常な判断力を失ってしまうのだ。オウムが信者を隔離して洗脳したこともそのためであった。批判能力がなくなってしまうのだ。自由な社会でもそうだとすると北朝鮮に20年いたらそうした北朝鮮に対する批判能力が無くなってしまう。北朝鮮では露骨に日本軍の悪行を大々的に映画などで見せられ思想教育がされる。日本はとんでもない悪い人たちだということが過剰に植えつけられるのだ。これは在日の人なども加担して過剰に主張されている面があるのだ。そうすると日本人は悔悟の念にさいなまされる。そして自分たちの主張を通すこともできるのである。あういう閉鎖的場所で回りが全部北朝鮮の意向にそう人たちと20年も暮らしたら北朝鮮の意向にそう人になっていることは確かである。
だから創価学会はマスコミを権力で持って操作してしいるという福本久子の「文化ファシズム」という本は誇大的なだけではない、確かに出版関係やらテレビ、新聞やマスコミは抑えられてしまったのだ。ファシズムが隠微な権力操作で進行しているともいえる。すべて創価学会でやれるわけがないが創価学会員は書店だろうが役所だろうがどこにでも一割はいるのである。その人たちが監視者になる、密告者になり批判を封じ込めることができるのだ。それも公然と社会の中に根を張っている人たちでありもはや排除などできない、排除されるのは批判者なのである。
創価学会の目的は何なのかというと「権力奪取」である。毎日の会員の獲得であれなんであれその目的は「権力奪取」なのである。ええ、宗教団体そんなことありますかというがこれはもうすでに公然たる事実である。いたるところに権力を奪取するために人員が配置されるのである。
政治に公然と進出し議員を増やす、それは政権をとることなのだ。政教分離など関係ないのである。権力を奪取すればそんなことは問題なくなるからだ。自民党と一体だということはもう万全の体制ができたということである。いづれにしろこの三つの災厄から逃れられることはできない。人生の途上で必ず出会うのがこの三つの災厄である。この災厄はへることがない、交通事故も減らせないし医療事故も減らせない、創価学会もへらない、これはもはや社会全体の構造が生み出す災厄であるから減らすことができないのだ。ナチスを生み出したのも文明そのものが原因だったという分析もあるごとく社会構造が生み出すものだから矯正できない、この三つの災厄で命取りになるものが跡をたたないのである。
宗教は命までとらないというが魂がとられるのだ。つまり上の命令を聞くだけのロボットとされるのだ。これの方が怖いともいえる。北朝鮮を批判するが日本の内部にも北朝鮮が公然と存在し日本を覆ってしまうことも十分にありえるのだ。
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