時事問題の深層
2002/1−
6月
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相馬私局(小林)
a private channel in soma-gun
(近況報告ー日記)小林勇一 感想はこちらへ



冬の日の郵便受け箱(一億総ライタ−の時代)
1月8日
インタ−ネット読書の不思議 1月26日
正直者は馬鹿をみる」外務省問題の深層1月29
アルカイダは忍者か 
2月9日
バス路線廃止で失うもの 2月19日

寄木神社のこと
(鯨が打ち上げられたニュ−ス)
2月27日
聖なる領域  (ニュ−カレドニア事件の謎) 5月8日
英語が共通語の意味 5月18日



冬の日の郵便受け箱(一億総ライタ−の時代)

冬の静かな日郵便受け箱に日がさしている。庭に小松が一本、郵便受けは手紙を待っている。

 
冬日さし郵便受けに松一本

これはどこにもありふれた光景である。ところが私の家には去年この辺が住宅地に改造されて私の家も作り直したので郵便受け箱を置いたのだ。この郵便受け箱は昔はなく郵便屋は「郵便です」と入ってきて人に手渡していたのだ。郵便配達していた人の体験談を読んだがこれも面白かった。村の内には同姓同名のものがいてまちがいて配達したとか確かにこの町でもある部落は同じ姓の人が多い。一族が派生したためだろう。こうしたものを今まではあまり読まないのだがインタ−ネットではいたるところそうした自分の体験談を語る人がいるのだ。それが新鮮でありなるほどそれなりにそれぞれの仕事には苦労があるものだと教えられるのである。

こういうことはなかなか本では読まない、また買ってまで読もうとしなかったのだ。無料で読めるということがインタ−ネットのメリットなのだ。正直無料でないとつまりそこから一歩買って読むとなるとなぜか手がひける。無料ですませばすませるからである。インタ−ネットには無料で間に合うだけの情報がある。だからあえて買ってまでよむとなると読まなくなる。インタ−ネットで読まれるのには無料でないとむずかしい面がある。数が多いから読まれること自体大変でありそれをさらに金まで払うとなると抵抗があり結局読みたくても無料の情報でまにあわせることになりがちである。

 なぜこんな日々の平凡なことを書く気になったかというと電子メ−ルの時代と手紙の時代の違いを感じたからだ。郵便とは人がそれなりに区分けしたり人の手が加わり運ばれてきている。また紙に書かれたものは物だから物を愛すということもある。書物愛というのも物という対象であるからだ。物が運ばれてくる。その物を待っているのだ。では電子メ−ルは物ではない、非常に無機質的であり物として運ばれてくるものではない。瞬間的にきて瞬間的に消える、今までの世界では形容しがたい世界なのだ。本とか紙に書かれたものに慣れ親しんできた世界とはかなり違った世界なので戸惑うことが多いのだ。本は一面物であり物だからこそ物としての存在感を示している。書かれたものも物として存在する。つまりデジタルの世界と違い簡単に消せないのである。物であるからこれを倉庫に置いても残るしこれを完全に消すとなると燃やす他ないのだがそれでも本は物だから燃やされることに抵抗する。灰となっても以前として灰は物なのだ。ファシズムで社会を統制するために本を全部焼いてしまう映画があった。報道統制して一方的な情報だけを伝えるためである。

ところが本はどこかに隠されていたし物として残されていた。焼くにしても本は物として抵抗していたのである。そこが電子のメデアと違う。本は物だから手触りとか飾っておくとか書物愛にもなる。しかし新聞ようなものは結構紙の無駄使いだから資源の保護のためにも新聞類は電子化した方がいいみたいだ。本屋とか出版社はなくなっても本自体は残るというのはデジタル化しても物として触れられるものとして残したいという人はいるから本は石碑のように貴重なものは保存されるかもしれない。文章でも本にすると何か存在感、威厳がでてくるが電子の世界では何か非常に軽いものになってしまうのだ。内容があってもそうなってしまうのである。ただ本を持つには個人では限界がある。情報の利用として非効率的である。

いづれにしろこの電子メデアの世界は実はここ五六年のことでありいろいろなことをどう整備していいかわからない世界なのだ。著作権を監視する会社までできたことや様々なことのル−ルが確立されていないからそうしたものが生まれてきている。でもインタ−ネットの世界にはマスコミにはない抑えられていた発言がでている。俳句でも俳句雑誌にはのらないような批判がいたる所にみられるのだ。結社への批判やら虚子などの痛烈なこきおろしや雑誌にはのせられない批判がでているのだ。これも電子メデアで気軽に出せるからだ。昨日はホ−ムレスの文芸誌をインタ−ネットで読んだし郵便配達と炭焼きで暮らしていた人の体験談を読んだり介護にたずさわる人のアドバイスも有益であった。

インタ−ネットはこうした今までなかなか聞けなかった庶民の体験談が面白いとういよりためになるのだ。こういうのは本買ってまで読まないものだからだ。しかしそこにも庶民の暮らしが反映されているのだからその声に耳を傾けるべきものなのだ。例えばホ−ムレス側からの声というのは社会になかなかでない。ホ−ムレスも社会で排除するべきものなのか許容すべきものなのか社会には常にそうした底辺のものやアウトロ−的なものは存在したから完全に排除できないし社会の一要素として人間として許容すべきものなのだろう。その数が増えると問題であり限界がある。上野には前はイラン人とか外国人もたむろしていたし外国人がまぎれこむのも昨今の時世である。

 
ホ−ムレス上野にうろつき年の暮

 人様々上野のベンチや年の暮

 上野駅会いつ別れつ師走かな

 彰義隊無念残すや年明けぬ

 上野の花散りにしあともホ−ムレス

田舎とは違い都会には多様な人間が交わる人間模様がある。上野に大晦日の鐘がなる。それは雑多な人間の暮らしにひびいたのである。彰義隊があそこで反乱を起こし薩長軍に制圧されたので西郷隆盛の像が上野にあるのかもしれない。とにかく今や一億総ライタ−になってしまった。だから書くということが大事になった。書くことは別に文章がうまい文学者のものではない、経験したことを正直に書くと訴えるものがあるのだ。ただしゃべるのではないから記録を掘り起こしてどういうことを経験してきたのかわかりやすいようにその真実を書くことは必要である。まだそうして書くことになれていない人がいるしだから書くことになれた人に今までは話してそれを本に出していた人が多かった。つくづくいろんな経験している人がこの世にはいるのだ。東北の田舎者にとって二十代でシベリア回りでフランスに行きそこで何年か暮らしアルジェリアで石油採掘関係の仕事にたずさわるとかとも韓国旅行で知り合い世話になったのだがその体験なども何かまだ練られて人に読めるように語られていないのだ。

私の家族にもシンガポ−ルで4年間従軍看護婦として辛酸をなめたものがいて毎日のようにその経験をしゃべるのだが聞く方の側にたつとそれだけの経験だから一冊の本にもなるようなものなのだがよく記録を掘り起こし順序立ててその経験がうまく語られていないのだ。これは自分の経験、子供の頃の経験を書こうとしているがこれも今では家も変わり思い出す物がなくなっているから記録を呼びだしもう一度遺跡を発掘しては発掘された欠けた陶器などをつなぎ合わせて復元するような根気のいる仕事が要求されるのだ。書くことは記憶が大事なのだ。旅も忘れるから何らか記録を残す必要がある。書いたものでも写真でもそれで記憶を蘇らせ書くのである。意外と旅で大事なものは記録なのである。これをみんなが体験を書く時代になってもしていないから貴重な体験がうまく他人に伝えられていないように思える。

 −−
記憶の断片−−−

記憶は失われる
活動写真屋、映画館、炭屋という屋号
靴屋、時計屋、キャンディ屋、カフェ−
キャンディ−屋は青田の中を旗をひるがえし
キャンディ−を売りに自転車で
店屋では卵は農家からじかに買い
その頃ニワトリは放し飼い
店では新聞紙で袋を作り
バラ売りのお菓子など入れる
確かにそこは賑わった路地の通り
今は忘れられた通り
古町という地名は多い
そこはかつて栄えた町だ
種屋という屋号は残る
その女主人も死んだ
トタン屋、綿入れ、物差し、キセル、女給・・
トタン屋根の家に炭小屋に鉄砲風呂
言葉も過去の歴史の産物
すべては遠い過去になる
壊れたや茶碗の破片
それは忘れられ土に眠る
その破片に一つの文字
しかしそれが何を語るのか
千年数百年前の遺物
90になる白髪の腰の曲がった老婆
その人の語る昔よりはるかに古い
エジプトのピラミッドの王の墓
神聖文字は記録の保存
しかしそれらも忘却の砂に沈む
「我は偉大なる王なり、王なり、王なり」
それも虚しい、砂に沈んだ
人間の一生は余りに短い
身近のものもかなり死んでしまった
それ故短い一代では語れない
彼は百年を生きた
王は大帝国に君臨した
それも虚しい
平民も王も塵にすぎなかった
王を称賛するものは誰−もいない
王の服従者もみんな消えた
その王宮の台座のみ虚しく残る
その栄光は忘れられ砂に埋もれた
たがだか百年は一抹の夢だった
まさしく夢を見ていたにすぎない
現代の騒々しい喧騒の渦
それも忘却の中の一時の抵抗
誰も時に抗うことはできぬ
歴史に学ぶのはそれ故
不変の人間の真実
長々と故郷の枯の道
在に家の五六軒
みちのくの枯野に北風がうなる

昔の店屋は菓子でもバラ売りで私の母は毎日新聞紙で袋作っていた。これがインドのバラックのような店でやはり袋を新聞紙で作り渡された。それを記念にもってきた。ス−パ−とは違い昔になればなるほど人間臭いものだった。つまり機械文明から遠く人間の血が通っていたのである。一様ではない人間模様があったのだ。
とにかくこれから体験した本人が語ることの方が訴えるものがでてくる。北見市の開拓の苦労などもなるほどなと思うものがあった。旅行で行った北海道の留辺蕊の駅逓にも泊まった人がいた。並大抵の苦労ではなかった。例えば自転車で雨に打たれてははるか遠い淋しい牧舎の小さな村に朽ちるように駅逓があった。それをみて感慨深いものがあった。手紙は馬車ではるばる運ばれてきたから貴重だったのだ。その頃電話などもない、馬車で運ばれる手紙が唯一の連絡する命綱でもあったのだ。おそらく郵便局というのはどこの辺鄙な村にもあるようにこれまでは不可欠なものだったのだ。しかし今は民営化もやむをえない選択である。

  
とある駅逓

雨に打たれ風に吹かれて
はるばると旅人来たりぬ
古りし牧舎のぽつりぽつりと淋し
牛は大地にうなだれて
東北海道の昔の駅逓あわれ
夏なれどスト−ブたくほど寒し
熱き便りはここに届くや
昔を如実に物語るかも
駅(うまや)というその名のいわれ
昔をここに忍ぶべし
一小村の夏の日暮れぬ



関連したもの

過去になった郵便



インタ−ネット読書の不思議

インタ−ネットを利用することはここ五六年である。インタ−ネットを利用すること自体全く新しい次元の世界に入ったことなのだ。今までのメデアである本であれ新聞であれテレビであれ雑誌であれそれらと似ている面もあるがかなり違うしその利用方法も定まっていないし活用されてもいない。インタ−ネットを読むということはそれをどうよむのか各人によって違うのだがともかく不思議なことのだ。本一冊はそれなりのテ−マにまとめられて一貫したものだし一人の個人のものをまとまって読む。インタ−ネットはそうした一人の人間の本を読むのとも違う。何故なら必ずリンクをたどり関連したものを同時に読んでゆく。関連したペ−ジだけを読む場合もあり一人の個人の本を読むのとは違う。インタ−ネットが一冊の巨大な本だというのはそのことなのだろう。しかし考えてみると薔薇について知りたければ様々な角度から調べる必要がある。薔薇の原産地はどこだとか薔薇にまつわる歴史や文学があり詩もあり日本では俳句もある。つまり薔薇というテ−マで多角的視野で薔薇を知る必要があるのだ。それはインタ−ネットではある程度調べられる。インタ−ネットのリンクの機能は関連したものを結びつける。本には個々の本として独立しているがインタ−ネットはペ−ジにリンクがはられたり文章の中にも他人のペ−ジのリンクがはることもできる。一冊の本だとするとそういう読み方もインタ−ネットでは不自然ではないのだ。

例えば
「晩菊」というテ−マで検索を試みるとまず晩菊の俳句がいくつか探すことができた。それなりに面白いものだった。能登の老人が作っているホ−ムペ−ジであった。ホ−ムペ−ジの特徴は地域性がでることなのだ。薔薇でもそうだが晩菊というキ−ワ−ドから広がる世界が探求される。個々のテ−マ別に探すとそれなりにまとまったものが集まる。乳神というのが広い範囲にあったことは驚きだった。いかに乳を出すことが女性の心配であったことがわかる。「郷倉」というのも全国的にあり実際にその倉が残っている村もあり村の共同倉庫のように使われたり学校として使われたり村の共同体の要のような役目があったから地名化した。つまり「郷倉」というのは一地域のみにあるものではなく江戸時代に全国的に飢饉の備えのために作られたことがわかった。

またインタ−ネットの不思議は偶然に思わぬものがでてくることなのだ。
飯盛女の年季奉公の証文は偶然に発見して利用した。とにかく何かまとまったものを書くとなるとそれなりの資料が必要となる故に本は読まなくても資料として買いためる必要があったのだ。だから作家は図書館のよう書斎を必要としたし本をどれだけもつかで書くものにも差がついたのである。それから有名な作家でも詩人でもその人の全集を全部隈なく読む人は非常に少ない。インタ−ネット的読書とはそうした有名人でも作家でも例えば意外にも短歌とか俳句を残している。そういうものは余り読まれていないし知らないのである。それを詳しく調べのせている人がいた。著作権がきれている人なのでそうできたのだ。有名な作家でもそうだとすると膨大な利用されない作品が埋もれてしまっているのだ。全集を買うとなると容易でないしまた読むことも容易でないからだ。とにかくインタ−ネットの読書と従来の読書とはかなり違うのである。これまた新しい時代の感覚が要求されることになるのだ。 インタ−ネットの情報は本のように個々独立したばらばらのものではない、関連をリンクで追求するものであり一冊の本だとするとリンクできない、関連づけられないものは不便なものになる。本を買って読めとなるとインタ−ネットからは分離したものとして読むことになるからインタ−ネット的読書としては生かされないことになる。

さて「晩菊」をテ−マにして探したらでてきたのがこの詩だった。

庭の千草も 虫の音も

枯れてさびしく なりにけり

ああ白菊 ああ白菊

ひとりおくれて 咲きにけり



この白菊は晩菊として連想した。アイルランドは豊かな土地ではない、アイルランドはケネディを出した所だがジャガイモ飢饉でアメリカに移住したように痩せた不毛の土地でありその民謡も哀調を帯びたもので親しまれている。そもそもイギリス自体土地は肥えていないし寒いし自然に恵まれた所ではない。料理も貧弱である。ではなぜそんな国が世界を支配するまでになったのか。寒い痩せた土地はかえって人間を勤勉にし効率化を計るために工業化した。南のような一年に三度も米がとれたり果物が豊富な所では人はのんびりしてなまけものになるのである。文明は自然条件の厳しい北から生まれたのだ。日本も山が多く土地が狭いから効率化するため勤勉になり工業化に向いていたともいえる。それでも日本はイギリスやヨ−ロッパより米もとれるし魚もとれるから恵まれていたのだ。だから自給自足の鎖国ができたのである。ヨ−ロッパは恵まれていないから恵まれた南なのアジアに胡椒だとか豊かな産物を求めてはるばる危険を冒してやってきたともいえる。

ともかくインタ−ネットの読書は引用したりリンクすることが便利でありそれらを結びつけることで自ずと豊かになる世界だから今までの出版社とかが力をもって仕切る世界や本だけの世界からの脱却が必要なのである。本の世界とは次元が違う世界に入っているからだ。著作権などいろいろ問題あるにしてもインタ−ネットを今までのメデアの感覚でやっていると生かされないことは確かである。つまり自分は直接対話もしていないし孤立的に書いているのだがそういう自分でも何らかの共同作業の中で書いているという感覚がインタ−ネットには生じる。インタ−ネット自体がそうした結びつけるという機能が備わっているためだと思う。それが今までのメデアと違うからこの結びつけるということを前提にして関わらないとうまくインタ−ネットは利用されない。それが既成のメデアに従事するものが戸惑うことであり積極的に参加できない要因になっている。


検索はテ−マをしぼる、キ−ワ−ドをしぼるといい。デレクトリ−がいいというけどある目的をしぼった場合はだめである。
今回の
「晩菊」「ホ−ムレス」「上野駅」「郷蔵」「乳神」「飯盛女」・・・こういった特殊なキ−ワ−ドは意外とそれなりなものがでてくる。上野駅では上野の歴史を紹介する所があった。飯盛女では墓のある所まで紹介されていた。薔薇とか俳句では数が多くなる。特に俳句となるといつもでるのはきまってくる。上位にくるのがきまっているからだめなのだ。俳句とか短歌の結社がインタ−ネットでもやっている。ところがインタ−ネットにはそうした結社を越えるものがあるのだ。個人的なホ−ムペ−ジは別に結社に属しているわけでないからだ。既成のものとインタ−ネット的な利用方法が
違うということがわからないのでそうなっているのだ。今までの世界をインタ−ネットにもちこんでも有効活用できないことは確かである。いろいろ違う面としてインタ−ネットはかえって脇役とか特殊なものに濃密な情報がある。まさにキ−ワ−トが探すポイントなのだ。短歌とか詩とか小説とか歴史とか一般的なものではうまく探せない。特殊なキ−ワ−ドはそれなりのものがヒットする。

 乳神について(時事問題3−インタ−ネットの広がりの意味)




「正直者は馬鹿をみる」外務省問題の深層

「わたしはわらべをたてて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。」
イザヤ3−4

「正直者は馬鹿をみる」というのはいつの世でもそうであった。「長いものには巻かれろ」とかそれは世の中の常だった。それは長い間庶民の実感だった。この世で正直であること自体大変なことなのだ。田中真紀子大臣が今回正直に言っただけでありどうしても次官とか鈴木氏は嘘を言っている。真実を隠している。これは外からみても明らかなのだ。雪印でも平気でごまかしていた。ではなぜそうなるのか。外務省は議員から利権を受ける、予算をとってもらうとか得する面があるからだ。利権で利益で人間が結びつくと会社にとっても不正でももうける方が大事になる。社会は熾烈な競争でありかえって会社によってそのプレッシャ−は凄まじいものだから正直に仕事するものはかえって評価されないしうとまれる場合がある。

人間社会、正直者が馬鹿をみるが常であり正直者はこの社会に存在しがたいとなる。正直なことは実際大変なことなのだ。電子ジャ−ナルの時代、自己を正直に語ればどんな人でも訴えるものがでてくる。ではその人生を正直に語れる人が本当にいるのかといったらほとんどいない、何かしら自分でもうしろめたいものがありそれを全部語ることはまさに罪の告白であり懺悔になる。だから通り一遍のきれいごとですましているからそれは嘘であり白々しいのだ。戦争を経験したものが人を殺したり殺される世界がどういうものか本当のことは誰も語らない。アジアの正義だとか植民地解放だとかそうした戦争の美化はどうしても信じられないのだ。実際の社会は青年が夢みるほど単純なものではない。この社会の底辺であれとこであれどろどろしたものがあるのだ。

オウムにはみな驚いたが宗教団体などもどろどろしたものの塊りなのだ。自分たちの権力維持に必死になっていた。自分の地位を守るためには殺人もいとわなかったのだ。創価学会がなぜあれほどの力をもつのかまさにこの社会の底辺であれどろどろしたものを飲み込む怪物だからだ。あらゆる人間の無差別のごったまぜである。それは社会そのものである。とんでもない犯罪を犯す人もいて驚くことはない。社会には常に存在するのだからそれは500万人もいたら当たり前のことである。もしそういう人がいないとしたらまさに奇跡でありそういうことがいること自体正常な世界であり500万人の人間に聖人のようなことを要求すること自体不可能でありそんなこといちいち気にしていない。何故ならみさかいなく一票のために数を増やすことが目的なのだから多少の悪や犯罪など目をつぶるしどうでもいいのである。創価学会を批判する人がいる。インタ−ネットではそういう掲示板をもうけて匿名で批判しているがこれまた同じレベルの人間でありつまりその欲望も心も汚れたうさん臭い人間が批判している。同じ社会のレベルの人間が批判しても批判にならない。だからあんなところで批判しても無力である。罪ある人間がその罪を訴えてもどうにもならん、創価学会員より下劣な人さえ多いのだ。その下劣さでは変わりないのだ。

人間が理想をめざすが個々人がこの社会で正直であること、嘘つかないことこれだけでも守れないとしたらその団体の美化もありえない。個人でもむずかしいことが団体になったからといって多数になったからといって実行されるわけがない。その多数は正直でありえないし真実を実行するわけもないのだ。共産主義国家であれ仏国土であれイスラム原理国家であれそれらがなぜ陰惨な結果に終わるのか、それはとりもなおさず個々人が権力欲の権化でありその個々人が天下を権力をとればまた熾烈な権力争いになる。つまりすでにそんな理想の国家などできようはずがないのだ。泥棒が正義を唱えて権力をとっても権力の分け前争いで四分五裂になる。常に集団の理想主義の偽善がそこにあるのだ。

常に社会は利とか力が優先されその圧力のもとで正直であることは一番むずかしい。だから文学者でもなくても正直に自分のことを語ればそれは訴えるのである。それは文章がうまいとかへたとかの以前の問題だからだ。親鸞とか偉いというがただ自分を正直にその罪を語り懺悔しただけなのだ。その簡単なことができるかできないかが聖者とか平凡人の分けているのではないか。ソクラテスが偉かったのかただ正直に訴えただけであり偉人と言われる人が普通の人とは違うんだというのもおかしい。知識や学問などなくても良心があり良心に従っただけなのだがそういう人はこの世で死刑とかこの世から追放される。今たたえている偉いという人は特別な人ではない、人間として当たり前の良心に従った人であった。キリストさえそういう点で普通の人からかけ離れた人ではない。上野霄里氏も天才ではあるがそういう点では変わりない人だった。個人として正直に発言しただけであり何か特別なこと言ったわけでもなかったのだ。彼も正直な発言すらゆるささないこの社会が曲がっていると言ったが社会の方が多数の大衆が根本的に曲がってをり歪んでいるのだ。

 そういう簡単なことすら実行できない世の中はサタンの世なのである。だからある時知識もなにもない庶民が正直に言ったことが大きな反響を呼ぶことがある。法律家とか医者とか政治家とか権威あるものの前でも正直に言ったことがかえって力を持つことがある。子供が「王様は裸だ」と言った。大人たちは王の権力が怖くてそれが言えなかったのだ。この世の中裸の王様になっている人はいくらでもある。池田大作であれ最近ではダイエ−の中内氏であれ鈴木氏であれ一旦権力を持つと誰も権力が怖いから裸だとはいえない。池田大作氏の不思議は日々権力のことしか考えない権力欲の権化なのだ。彼の近くにあればあるほどわかるし活動すれば権力をえることが唯一の目的であることがわかる。

ではなぜ彼が祭り上げられるのかまさに創価学会員が権力志向だからである。私自身なぜこんなに権力のことを考えるようになったかとういと創価学会員だったからだ。そこで活動することすべて権力と結びつくことになるからだ。マスコミであれ政治家であれ会社であれ役所であれ裸の王様のあとに従うのだ。これが民主主義の現代でも変わらない。サタンが支配しているのがこの世なのだ。この世はサタンのものであることは変わりないのだ。
「わたしはわらべをたてて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。」イザヤ3−4、これは何を言っているのか。賢い人も知識ある人も何もいらない、権力を望まぬ欲のない赤子が公平だということである。
こうして権力に翻弄され被害を受けるのは誰かというとその社員であり国民だということになる。国民といってもその国民自体が権力志向なのだからそうなるのである。結局自業自得だともいえる。国民もまたサタンのものなのだ。国民というと格好いいけど権力に従うことでは変わりないのだ。むしろ国民は悪の権力者側につくのだ。

たえず権力あるものは権力でもって隠すことができるしそれが高慢になるのだ。今回の外務省の問題も嘘でとりつくろうとしているのだがそれができないということなのだ。だからたいがい権力を持つもの力がある方が悪に傾きやすい。権力は腐敗するとか絶対的権力は絶対的に腐敗するというのは歴史で何度も示されてきたからだ。だから三権分立はその権力を絶対化しないために監視するためのものなのだ。権力を志向する人間はどんな思想的美化をしようと権力を手中にしたいという、権力でもって上に立ちたい力をふるいたいということがあり悪に傾くのである。宗教団体でもいかなる団体でも権力志向なのだ。田中真紀子大臣は自民党の派閥とかいいろな利権や権力にはタッチしていないからあっけらかんに正直に言ったのだ。ところが小泉首相なども官邸側も橋本派などいろいろな力関係を考慮すると明確に処断できなくなったのだ。権力のバランスの方が大事になるからだ。

団体自体、二人以上で徒党を組むこと自体数でもって力を得ようとすることなのだから。百人でも徒党を組むば政治勢力となりどこでもマスコミであろうが役所であろうが商店であろうが動かすことができるのだ。一人が訴えたところでそれが真実でも無視される。「長いものに巻かれろ」「正直者は馬鹿をみる」世界だから人は権力を得るために汲々として権力のためには良心も売るしサタンの配下に喜んで下ることになる。人の団体の国家も宗教団体も会社という団体も悪に傾くのはそのためである。ではNGOや国連などはどうなのかというと国連も常にアメリカとか大きな権力に左右されるから公平にはなりえない、NGOにしても様々なエゴがあるかもしれない。本当の善意だけで運営されるのかというといろいろな思惑があるかもしれない。その辺はわからない。自分が寄付したのは国連関係でありNGOではなかった。NGOは政府からも金をもらっていることは外務省の委託職員のようものなのか。私の寄付は国連関係ではなくNGOにするべきなのか、つまり政府から自立的に活動できるNGOに寄付した方がいいのかとなる。NGOとは何なのか一般的の人はよくからないのだ。善意だけでは仕事としてはやれないからだ。全くのポランティア活動とは違うものであう。とにかく人間は何であれ団体化した時は権力志向になるということである。


  
     
 アルカイダは忍者か

アメリカではアルカイダとタリバンの捕虜を区別するという。アルカイダはテロリストでタリバン兵は一応アフガニスタンの国民という判断で国際法の捕虜の待遇をするという。一方アルカイダは捕虜の待遇も受け入れられない、国に属していないからだ。無国籍でありアルカイダは国をもたないし国と国が国際法に従うとするとアルカイダは法律上は法律の適用すら受けられない。人道的見地からの保護は要求される。一体今回のテロの意味するものはこのボ−ダレス社会特有のものだったことがこれでもわかるしいかに複雑な世界になっているか証明した。現代の問題は常に国を越えた所で問題が起きるのだ。いろんな国の人がボ−ダレスに交わるからである。そのなかで国際法はあってなきがごときものであり処理しきれないのだ。昨日NHKで放送した浪江の津島の中国人妻の失踪者のことや地球の裏側でチリの女性が大金を日本人の役人からもらっていた事件など絶えずボ−ダレス社会での犯罪なのだ。麻薬の流入がとめられないのもそうであり国際的犯罪に対処できないのだ。中国でDVDの特許権を日本に払わずアメリカに売り日本の企業が窮地にたたされていることなどいろん所でポ−ダレス社会の問題がおきるのだ。

アルカイダのテロリストはそうしたポ−ダレス社会の象徴的事件だった。テロリストはいつの世にもいた。テロリストは忍者ではないかとも思った。テロリストは背後に闇の権力者がいてその命令で暗殺などを請け負う。自らは秘密を守るために命を消す。忍者は極めて非情な世界に生きる、過酷な仕事である。こんな仕事を引き受けるのは余程の事情がないとしないだろう。一命を影の権力者のために犠牲にするのだから。アルカイダはこうしたテロリストなのか。アメリカの処遇はそう考えているのかもしれない。テロリストはイラクやイランや影の権力者から送られた忍者なのかもしれない。だから本元のイラクやイランをテロ支援国家として批判するにいたった。ただ違うのはアルカイダはタリバンと連携して広域的イスラム圏を作るという思想的大義があった。だからアフガニスタンではすでに一つの国家の中のもう一つの国家のようになっていた。それは忍者のような隠れた小規模なものではなく大きな公然たる集団になっていたのだ。

 国家だけが大きな権力とはいえない。宗教も大きな力を持ち国家をこえることもある。アフリカの新興宗教のイスラム教団は国家より力を持ち国を越えていることがNHKのアフリカ特集でやっていた。アルカイダには国家を越えたイスラム国家作りがあったのだからイスラム圏から多くの若者が結集したのだ。カトリックもバチカンに政府を持ち国家内の国家になっている。オウムでも創価学会でも国家をこえた権力集団を目指していた。ただ国家間をベ−スとして条約や法律を適用することが慣例であるこれまでの社会では処理しきれない問題になった。いづれにしろこれだけボ−ダレスの世界が狭くなる社会では国際法の整備がかかせないのだ。それがインタ−ネットであれいろんな場で起きているのだ。アメリカスタンダ−ドのグロ−バリゼ−ションに反発するのがいても当然である。結局武力のみが決めるのであり弱いものは損をする。世界は決して公平ではありえないからだ。

でもアルカイダは何なのかというとわかりにくい、確かに隠密のような行動もしていた。スリ−パ−と言ってその国の人になりきりある日突然テロを結構する。ナイロビのアメリカ大使館爆破の犯人はそうだった。現地の女性は結婚して現地に溶け入り暮らしていた。隠密も土地の人と同化して暮らしていた。忍者とか隠密なのかというとそうでもない。アルカイダ自体大きな勢力と化していてイスラム原理主義国家を作るために結集した人達だった。チェチェンやウルグアイやパキスタンやアルジェリアとか各地から集まりイスラム原理主義国家を作ることだった。ということはイラクとかイランとかからアメリカに打撃を与える忍者的なものとは違う。すでに公然とアルカイダという集団がイスラム原理主義の国家をイスラム圏に作ることが目的だった。これにはロシアであれ中国であれイスラムの内部でもサウジなどは王制が倒されるということで恐れていたのだ。敵は忍者ようなテロリストではなく公然とアメリカに宣戦布告した集団だったかもしれぬ。それなりにパレスチナ問題とかイスラムの連帯を訴えている宗教的戦いともみれる。忍者とか暴力団の殺し屋は金が目的でそうした思想的宗教的背景はもたないからだ。

とにかくテロリストは法の適用も受けられないことは厳しいことである。法が適用されないことは守るものがいない。煮ても焼かれても人権は保証されない。自爆テロとはそうした自暴自棄的な絶望的な抵抗でもあった。例えば徳川家康を倒すにしても余りにも強大であり一忍者のテロリストには手に負えないもので自爆テロがその最後の手段になると同じである。ではそこまでさせるのはその動機は何なのか背後にいるイラクとかイランなのか。イラクは十分にその動機はあるから疑われてもしょうがないだろう。やられっぱなしではいないからだ。暗殺のテロリストの忍者を送り出すことはありえるからだ。法が及ばない所は無法地帯であり誰も安全は保証できない。しかし法が適用されるのにはそれを適用できる警察機構とか権力をもたないとできないのである。実際はその権力を世界的警察機構をもっているのはアメリカだからアメリカの法に従う他ないというのが現実なのだ。


【米】拘束タリバン兵にジュネーブ条約適用
アルカイダには適用せず

http://www.worldtimes.co.jp/



 
バス路線廃止で失うもの

NHKで磐城の一部のバスが廃止されることでなんとか住民の足を確保するために交渉する人がいた。ス−パ−もなく歩いて30分とか自動車がないと買い物もできないところなのだ。タクシ−会社に頼んだが高いのでだめになった。結婚式場を運営している会社がバスをもっているので利用できないかと交渉中であった。バスは確かに何人ものっていない。経営的には成り立たないし不便である。病人をかかえている自分の家でもタクシ−で隣の市まで四五キロなのだが頼むと2500円である。これは高すぎる。バス廃止で困るのは自動車にのれない老人である。タクシ−は高すぎるのだ。旅行してもタクシ−は使えない。バスも使えないから不便である。バスがなくなるといろいろ困る人がでてくる。ただそれが少数だから切り捨てられることになる。高速道路や新幹線ができて遠くに行くのには便利だが近くが不便になるのも矛盾である。道路が整備されてもそれを利用できない地元の人も損である。


我が家に、小学5年になった娘がいます。(下に妹2人)
ここは、相馬郡の町はずれで、学校へはバス(路線バス)でいきます。
4年生までは、町が、バス代を負担してくれるのですが、5年生からは自己負担となり、片道250〜270円を払う事になり、1ヶ月約“1万円”にもなります。
それで、ほとんど・・(と言っても3〜4人ですが)9キロの山道を、自転車で通うのです。(約1時間かかる)
帰りも金管部で遅くなるのと、“さる”“いのしし”などの動物もいるので、自転車で通わせるのは、少し危険が伴います。送り迎えをすればよいのでしょうが、勤めているので毎日となると大変です。
同じ町内の、他の小学校では、年間1万円位の負担で済んでいるのに、ここの地域はなぜ高いのでしょう?



結構困る人がいるのである。高速道路が本当に必要なのかどうか、地元の弱者の足を奪ってかえって遠くとの交通を便利にするというのもおかしい。技術の進歩とか社会の発展とかは必ずどこかに歪みをもたらす。すべてがいいようには働かない。 自動車は人に親和的でなくやさしいものではない。毎年1万人近く死んでゆく交通事故の被害者がそれを示しているのだ。それはあまりにもむごいものなのだがれてしまい鈍感になってしまっている。人一人を殺すことは殺人なのだがその意識は極めて低いのである。罪悪感すらもたないものもいる。また社会風潮がそうしているのだ。自動車は環境にも人にもやさしくないのだ。

市電とかバスは地域により密着している。バス停の標識が例えば豪倉でも地域の歴史を伝えようとしてそこにあるような気がする。何故ならあそこにバス停の標識がなかったら豪倉という地名に気づかなかったしそこに何があったかも注意することもなかったからである。つまりバスが廃止されることは生活路線の廃止だけでなく歴史や文化も消すことにもなるのだ。豪倉という地名は確かに土地の人にも意識さなくなる可能性があるからだ。実は過度な自動車社会は地域の歴史とか文化も破壊したのでありバス路線が廃止されることで失うものは生活の不便さだけでなく歴史も文化も失われることなのだ。商店街の衰退もそうであり地名の数字化とか古い地名の廃止問題もそうだった。

地名は歴史を伝えるものでありそれが生活の中に生きていることが大事であった。地名は常に生活の中で意識されるものだからである。自分が地名に興味を持ったのは汽車の旅で一番意識されたのが駅名でありつまり地名だったからである。旅をするとは芭蕉の時から枕詞とか地名を便りにして旅をしていたのである。豪倉(郷倉)は各地にあり村の相互扶助の場だったのだ。それが意識されなくなることは歴史や文化も失うことになるのだ。歴史や文化も教科書だけや本だけでなく日々の暮らしの中で意識されないとそれは死んだものになる。そもそも歴史や文化は博物館の中に骨董品のように保存するものではない。日々の暮らしの中に生きたものとして意識される必要があるのだ。


山口県阿東町の一集落に「囲穀制度」というのがあった。集落十一戸が一定の量のモミ(後には玄米)を集会所の共有倉に貯蔵し、不作年や戸どもが多くて食糧に不足をきたした時には、一定の利子をつけて借りることができるという制度であった。大正三年の三戸の人が約九石返納したという記録があるから、それ以前からあった制度だろう。こうした地域社会の互助の仕組みは、郷倉とか社倉という名で各地にあったが、各種の共済制度のもとに姿を消していき、同時に地域社会の中でも人を頼らず、金だけを頼りにする生き方が主流になり始めた。






地域の解読

過疎化の農村の研究者
http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~ogawa/decode.html




   
寄木神社のこと
鯨が打ち上げられたニュ−スより)

 最近鯨が打ち寄せられて驚かせた。今回は小さいが百頭にもなる。死んだ鯨は食ってもいいという。それは昔から食べていたからであり鯨を食う習慣があったからである。そもそも日本は周りが全部海であり海の幸なくして生きていけない民族であった。海岸には昔からいろんなものが打ち上げられたのだ。生きた魚も大量に打ち上げられ労苦なく糧を得ることが結構多かったというのは自然が荒らされていない時は近海でも魚が豊富だったためだろう。魚だけではなく日本人の起源そのものが南の方から海流にのって意図せずして流れてきた打ち寄せられた人々が住み着いたことは容易に想像される。海女(あま)という言葉はあとで天にあてられたのでありアマは海に由来しているからだ。日本の神話も海と密接に結びつきその国生み神話は淡路島か佐渡島まであるということは舟でたどり着いた人々が住み着いたためであろう。色濃い南方文化の伝承がそこには自ずと反映されるのだ。「名も知らぬ 遠き島より 椰子の実一つ・・・」というのは極めて日本文化に根ざしたものなのだ。椰子の実だけでなく日本人も南の島から流れ着いたから共感するのである。

 とにかく海岸にはいろんなのが流れ寄る所なのだ。それが生活の糧にもなっていた。相馬の海岸近くにある寄木神社は流木などが浜に打ち上げられてそれを薪(たきぎ)などに利用した。それがありがたいということで神社として祀った。「
多くの沖の小島では各自自らの神山をかかえながらそれにはつつしんで斧?を入れず、家を建てるにも竃の火を燃やすにも、もっぱら大小の寄木をあてにしていた時代が長くつづいた。」柳田国男全集1
実際北海道の利尻山の望む海岸に流木が延々と打ち上げられていた。あの光景は圧巻だった。オホ−ツクの方ではロシアの船から流れ着いた樽などもあった。海からはいろいろなものが流れ着いてくる。そもそも日本人自体が中国から東南アジアからも流れ着いてきたのである。だから「遠き島より 椰子の実一つ・・・」は日本を象徴する詩となったのである。

 最近鯨の保護に対して欧米人がうるさいがアメリカ人も石油がない時は鯨の油をとるため盛んに鯨をとっていたのだ。ペリ−の黒船は鯨をとるために寄港地を燃料を補給する港を日本に要求したのである。「白鯨」という小説もアメリカ人が鯨を盛んにとったことからうまれたのだ。それを鯨は人間に近いから殺すべきではない。鯨をとる必要がなくなったから鯨を保護せねばならないとか自分の都合のいいように解釈するのがアメリカなのだ。グロバ−ルスタンダ−ドとはアメリカスタンダ−ドであり各国の歴史や伝統を無視したものなのだ。それで急速な経済のグロ−バリゼ−ション−化は世界に歪みをもたらしたのだ。強いものだけがますます強くなり弱いものはますます弱くさせられる。弱肉強食の容赦ないゲ−ムがグロ−バリゼ−ション化でありその勝敗はアメリカが勝つように最初から仕組まれていたのだ。今回のテロはそうしたアメリカへの反発だったことは否めない。なぜ鯨を食ってはならず牛や豚は食っていいのかという合理的な説明はできないのである。肉食はしていけないというインド的菜食主義が一番理にあっているのだ。自分自身も魚は食っているが肉はほとんど食っていない。しかし魚は今や種類も少なく高価なものだから贅沢なのである。

 西欧人は本質的に肉食人であり性が荒い、好戦的である。競争を好み熾烈な戦いの中に生きることをDNAに受け継いでいる。一方アジアは特にインドから中国の南は元来気候的にも恵まれ果物や米が豊富にとれる所であり性質が温和である。砂漠地帯の遊牧民はやはりあのような狂気的なテロを起こすように性が荒い。動物を家畜を馬を相手にしているからだ。それ故にアジアの恵まれた国は欧米に征服されたともいえる。日本人元来性は温和なのだ。ではなぜあんな野蛮な戦争をしたのかというと欧米人に対抗するために本来の温和な性質が歪められて好戦的になってしまったのだ。20世紀の大混乱をもたらしたもの大殺戮をもたらしたのは欧米の文明であり欧米の思想や文化に原因があったことは確かである。ナチズムやマルクス主義や資本主義も同一のコインの裏表の関係にありその根は欧米文明にあったのだ。ではキリスト教も欧米文明だからキリスト教もそうなのかというとそうではない。キリスト教が自然を破壊したとか大殺戮をもたらすわけではないのだ。物質的欲望がそうさせたのである。文明を維持するために石油が必要だから石油をめぐって戦争が起こるのだ。

 そもそも宗教はインドの修行者のように内面の探求に向くものでありキリストもこの点同じなのだが欧米文明は宗教も経済活動、事業になったのである。とにかく貧しい時代であれば海に寄るものは神の恵みとなり鯨でも食ったしそれは責められるべきものではなかった。未だに猿を食っている部族の人もいた。猿は人間に近いしインドでも日本でも神にも成っている動物であるが食うものがない所ではやむをえないのである。仏教が入ってきてから狩猟するものが改心して鹿などを殺し食べるのをやめたとあるがおそらく米などがとれるようになり肉食しなくても生きられるようになったからである。アダムがエデンの園、森にいた時は果物だけを食っていた。これが人間の理想であろう。肉食は忌むべきものなのだ。南国には果物が豊富だから楽園なのである。いづれにしろ欧米文明のグロ−バリゼ−ションは各地の文化や歴史を破壊するからすべていいものではない。各地の歴史や伝統に基づいて外国の文化も受け入れるべきなのだ。日本の宗教にしてもインドの仏教とは違う日本的仏教に親鸞や日蓮がしたごとくそれが正しい道なのだ。キリスト教も内村鑑三が日本的キリスト教であるべきだと外国の宣教師を排斥したのはそのためである。日本では中国の宦官制度など取り入れなかったのは正しかったしイスラムでも酒を禁止していることは悪いことではないのだ。


 狂牛病も起こるべくして起こった。共食いさせていたのである。これは自然の摂理に反するものでそれが病気を生んだのだ。エイズもおそらく自然そのもののなかにあったものではなく人為的に作られたものではないか。自然に反する性の歪みから生れたのかもしれないのだ。なぜ文明が発達するとともに新たな細菌が生れてくるのか不思議だからだ。エデンの園でアダムが神の命に逆らった故に罪が入りこみ死ぬようになったように人間はどんなに文明を科学を発達させてもこの原罪をぬぐいされない。病気があり死があり科学は確かにこれと戦うのだがまた新たな細菌が生れてきて戦いを強いられる。人間に罪が入ってきてから人間はどんなにしてもこの呪いから脱することができないのだ。どんなに科学が発達しても防ぎようがないのだ。原子爆弾であれ交通事故であれ都会生活であれ文明はすべて祝福されたものとはならないのだ。薬が毒なように必ず毒が含まれているのだ。

 文明自体が神によって良しとされるものではないバベルの塔だから崩壊する運命にある。文明とは結局エデンの園を追放されたアダムが科学など人為力でそれを補おうとしたものでありそれは結局無力に終わるのである。とにかく鯨でもかえって昔の部族の人間は自然の摂理のもとに生きていた。インドネシアでは機械で銛を打ち込む捕鯨船を導入したが鯨をとりすぎて鯨がとれなくなって昔の素朴な鯨取りにもどった。このように文明は自然を破壊し自然の資源を根こそぎとりつくしてしまうような無謀さをもっているのだ。そして油だけとって肉を捨てるようなむだなことはしない。まさに骨の髄まで食い尽くすのである。鯨もそれ故成仏するのだ。どうせ殺すなら生かすように殺してくれと動物さえ望むのだ。20世紀の大殺戮の原因はいろいろ言われるが文明そのものにあったことは間違いない。未曽有の忌まわしい戦慄すべき殺戮、暴走、自然の破壊は文明自体にあった。田中正造の足尾銅山の汚染の問題も実は国の富国強兵という対外的に戦争に備えるためにあったのであり人間に文明を促進させるためにあんなことが起こったのだ。兵器を作るために利用されたからである。人間のあくなき欲望のために自然もだいなしにされるのである。

  
誰が訪うや寄木神社の冬の暮


サロベツの海岸


   
聖なる領域


 ニュ−カレドニアの日本人殺害は何にが原因なのかわからない。神聖な領域に踏み込んだためとか言っているがそういう原因もあるかもしれない。突然世界は未開の地域もグロ−バル化してしまったのだ。原始時代と同じような暮らしをしていたものが突然観光の島になってしまいわけのわからない国から人がやってくる。そこには互いに意志を通じ合わせる時間も何もない、あるのは金だけなのだ。金を払いば何でもできるという傲慢になる。そこに住んでいる住民のプライドや歴史や伝統は無視される。異文化が交わるということは時間をかけて行われたのだ。それがグロバ−ル化はその時間と距離を飛び越えて行われる。とにかく神聖な場所というのはやはりそこが特別な雰囲気がある。それが祖先を祀った所だとか何か侵しがたい神が住んでいるような場所である。それは神秘的な森にもあるし山にも海にもあるのだ。

今の人は美として感じているが古代の人は恐れとして敬いそこは侵してならない場所となったのだ。これはアイヌも神のすむ場所として神聖化したのだ。北海道のまだ人手の入らない沼は本当に神秘的でおかしがたいものがあった。自然にそういうものを感じるのは当然である。日本人はなぜ鏡を神宝とまでしたのか、一つの原因はそれは澄んだ水のように映すためである。それは自分のもっている悪の部分、罪も映されるというので鏡は特に恐れられたのだ。人間とは誰も常にその心がみられたくないというやましい心をもっているからだ。神が心を見ているという時、まさにその心が映される見られるという恐怖のためであった。

 私の近くの今回殺人事件があった所もそうした神聖な場所に近かった。あそこには前は大きな道もなく森におおわれていた。今でもあそこは神秘的なもの自然のおかしがたい静謐が常に保たれている所なのだ。だからそこには道も作ってもらいたくなかった。自動車が通ればその神聖さは破壊される。とにかく文明はそうした世界中の自然を無造作に破壊しすぎた。罪とはつつむであり人間は罪を犯しても汚れない自然の美しさにその罪もつつまれる、おおわれるという意識があった。水に禊ぎすれば汚れも落とせると思った。しかし罪は実際は深刻なる故に動物を殺して身代わりにしなければその罪は清められないという考えは遊牧民にあった。罪を農耕民より深刻にとらえることになった。とにかく神聖な領域は人間にとってというより神の命として存在すべきでありそこは犯してはならないのだ。それを全部に要求することは無理としてもそんな神聖な場所などこの世にないと思う文明人の感覚や傲慢は原始人よりその感性や直感力で劣っているのだ。精神的には人間は文明がいくら発達しても低下していること多々あるのだ。

今回の真野ダムへの死体の投棄やニュ−カレドニアの殺人事件はまだ原因がわからぬにしてもそういうことを感じさせるものだった。世界の奥地までも観光化しているのだ。ネバ−ルで犀のいるジャングルに行った意外と簡単に行けたので驚いたのだ。そこで感じたことはすぐ近くに人間の町があり人間の住んでいる町がゴミゴミして貧弱に思えたのだ。すぐ近くにあるから汚物も流れてくる。人間がすむと自然はそれだけで汚されるのである。その点自然はすべて神の意により調和していて美しいのだ。犀は実に堂々としていたし鮮やかな鳥が恍惚として鳴いていた。あういうところに一人でも行ける時代というのも恵まれたことである。世界観光化の時代であるがそこにも落とし穴はあるのかもしれない。今回の事件は何か原因はわからないがそういうものの一つかもしれない。

地の一部を聖なる地所として主にささげよ、その長さは二万5千キュビト、幅は二万キュビトでその区域はすべて聖なる地である。そのうち聖所に属するもは縦横5百キュビトずつであってそれは四角である。(エゼキル、45−1)

これは二万五千キロであったが5百になったのだからそもそもそも原始時代は広い範囲が聖なる場所として確保されたが時がたつにつれてその範囲が狭められてしまったのだ。この間に余りにも差がありすぎるからだ現実も昔は広大な森が聖なる場所としてあった。そのくらいの広さが必要だった。というのは森でも広さが必要でありその広い中に様々な生物が生育できる。さらにその中の一部が最も聖なる場所だった。それが鎮守の杜として残されている。そこが最後の聖なる場となった。ますますこの神の聖なる場は狭められている。


最新のニュ−スでは犯人の二人は神聖な場所に踏み入ったから殺して神に捧げたという。しかしその犯人は麻薬中毒で前にも観光客の耳を切り落としたという。何でもその神聖な場所では観光客が麻薬を売っていたという。そうだとするとそこはすでに観光客であれ地元の人であれ汚れた場所になっていたといえる。ただこの裏の事情はニュ−スだけからはわかりにくい。どうも神聖な場所を汚したという地元の人間が麻薬中毒で汚れていたのでは神聖な場所を守るためとは言えない。神聖な場所は神聖な人がいて守れるからだ。いづれにしろ事件の背景は常に錯綜して複雑であり一つの動機でもないからわかりにくいのだ。それも遠い行ったこともない島となると判断できないのである。ただグロ−バル化のなかで島のような閉鎖された伝統的社会から一気にグロ−バル化の世界に組み入れられることは精神的にストレスが高くなる。ただ
この事件の深層は不明である。現地に行って取材でもしない限りわからないだろう。

インタ−ネットではここには村社会が残っていてそこは危ないとあった。神聖な領域というものもあるとあった。私は麻薬は外部からもたらされたものかと思ったが地元の朝鮮朝顔ににたダチュラとかの脳をマヒさせるものだったらしいとかニュ−スで言っていた。そんなものが昔から使われていたのか謎である。村社会があり昔からの神聖な場所が他にあることは確かだった。ただ今回の事件はそれとは全然関係ない


  
  
英語が共通語の意味

NHKの韓国特集で新日鉄と韓国の鉄鋼会社で昔は日本語で教えていたが今は共同事業で英語だという。明洞(ミョンドン)の一番目立つ観光案内所で日本語で聞いたらここは英語だと若い人が言う。英語を使う人がそんなにいるとは思わなかったのでがっかりしたのだ。それで日本人の案内する観光案内所に行った。韓国語でもない、日本語でもない、英語であることが対等なのだ。韓国の観光の名所に日本語の案内表示がないと一緒に旅行した友が怒っていたがなるほどそういうことかと思った。実際に日本人が大勢来る所にも日本語を表記したくない韓国人の歴史的感情が根強くあるのだ。

弱小民族の言葉が差別され支配する国の言語にされたことはよくあることだった。言葉というのは国の優劣と深く関係している。技術でも教えるものが優位に立ち教えるものの言葉を使わされるのである。中国では中高年の人が技術を教えているので日本語で教えているのだ。韓国と日本語が英語で話すというのは何か今象徴的であった。在日の人がアメリカ国籍をもちたいのはこの心境とにているのだ。中国であれ韓国であれ優位にたてばその国の言葉が普及するのであり言葉自体がむずかしいとかやさしいとかは関係ないのである。つまり日本人よ、韓国は日本語は必要ない、英語なんだよ、もう対等なんだ。そういう時代になったのである。韓国が日本語までに嫌悪感をもっているのは強圧的に日本語を使わされたという意識である。日本人は漢字を使っていてもこれはこちらから取り入れたもので押しつけられたものではないのだ。とにかく中国でも、韓国でもこれから日本の地位はかなり低くなってくる。

何故なら中国でも、韓国でも戦争で下位にたったことがものすごく悔しい思いをしているのだ。その反発は戦争の罪悪を問うより大きいのだ。日本ごときに命令され学ぶことが耐えられないものだったのだ。だから日本に謝罪とか今回の北朝鮮の亡命問題の中国の強気があるのだ。「おい、ここは日本語ではない、英語だよ、俺は在日ではない、アメリカ人だよ、世界は英語だよ、英語を覚えろ、世界を支配しているのはアメリカなんだよ・・・・」在日がアメリカ国籍とりたいことがこういうことでもあったのだ。イスラムの西洋に対する反発もかつては我々が教えていた、我々が優位にたっていたのに今やその下位にたっているということが耐えられないのだ。この人間的感情はおさえることができない。人間とは国であれ個人であれ自尊心をもっていてそれが歴史を動かしてきたというのも真理である。マルクスでも上にたつ支配する階級に対する憎悪をかきたてるということで人を動かしたのである。この憎悪が先でありそのあとにこむずかしい理論を
正当化する理論を作りだしたのだ。「金持ちよ、貧乏人にも富を分けろ、」ということを正当化する理論を作ったのだ。
人間の悪は実に巧妙に正当化されるのである。国家の場合は特にそうである。アメリカの原爆投下のいい訳もそうである。どんなに正当化しようとその罪は人類滅亡の日まで消えることはないし呪いとなる。

戦争の謝罪問題も経済や技術や軍事力などで優位にたてば自ずと中国であれ韓国であれ気持ちがはれる。その例が英語で対等に話すということなのだ。確かにエスペラントならそうした国の優劣とか歴史的経緯とか関係なく話せるからいいとなるがこれが普及するかどうかはエスペラントについては全然わからないので意見を言うことはできない。でも確かに言葉が優秀とかでなく国の優劣関係があることは否定できないのだ。アラビア語は先進国の言葉だったかアラビア語を覚えようとする人は少ない、アラビア語がなんとなく下位の言葉にすら思えるのはヨ−ロッパ文明が優位にたったからである。日本語がむずかしいというが日本が経済であれ、技術であれ、文化であれ優位にたてば世界中の人が日本語を覚えようとするから日本人は世界を楽に旅できるようになる。明治時代に医学はドイツ語を工業は英語をとかその国優れたものを学ぶためにその国の言葉も学ぶのである。どこかの小国の言葉を部族の言葉を普通の人は覚えようとしない、何の得にもならないからだ。

明治時代に国費留学生が英語が覚えられず自殺したという。これほど英語を覚えるのに必死だったのは英語そのものよりも英語を通して学ぶもの西欧の文化、文明があったからだ。明治時代の偉大さはここにあったのだ。西欧に追いつくためとにかく国挙げて必死だったということである。その後日本は西欧文明を翻訳しその言葉をアジアに輸出した。韓国であれ中国であれ確かに戦争で被害があったにしろ西欧の植民地にされていたという事実を忘れてはならない。韓国も明治維新という強烈な改革はできない李朝体制だったから西欧列強に植民地化されていたことは確かなのだ。もちろん文化を伝えた兄貴分の国と自負するから日本に支配されるということは耐えられないことだった。それが日本語や日本の文化にさえ嫌悪を感じるようになった。ここが台湾とは事情が違うのである。
相馬私局(小林)

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