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私の研究メモ

2005年2月11日(金)
北越雪譜の縮みの話


市場とてちぢみの市あるはまえにいえる堀ノ内十日町小千谷市塩沢の四カ所也。初市は里言にすだれあきという。雪囲いのの簾の明くをいふ也。四月の初めにあり。堀ノ内よりはじむ、次に小千谷市、次に十日町、次に塩沢、いづれ三日つづ間をおきてあり。年により一定ならず外に市場なし。十日町に三都呉服問屋の定宿ありて縮みをここに買う。

・・・・大やうは穀相場に同じうして事は前後す、年凶すれば穀は上がり縮みは下がる。年豊かなれば縮みは上がり穀は下がる。豊凶の万物にかかる事此の一をもって知るべし。されば万民豊年をいのらざらめや(北越雪譜)鈴木牧之

これは雪国的な話である。雪囲いの簾をとると市が開かれる。場所を変えるのはある一カ所に集まれないからだ。近くで市が開かれればそこに行く、商人も場所を移動して市を開く、今のように車で行くわけにいかないから市は近くで開かれた時そこに行くのだ。十日町に定宿があることはここは大きな町だからだ。

江戸時代の経済はやはり穀物、米中心であり米がとれれば縮みを買う人もふえ、縮みの値段が上がるがとれないと縮みを買う人はへり値段はさがる、今だったらかえって買う人がふえれば物は安くなる、買う人がへれば物は高くなる、豊作貧乏というのも現代特有のものであり江戸時代は米がとれればみんな豊かになり高い縮みでも買うことができたのである。

ここは半年以上も書いていなかったが今回ここにふさわしいので書いた。

2004年5月31日(月)
労働の実感

今は飯食わなくなったんやのう。
昔の山林作業では、五合入る弁当が当たり前だったが。
後川船を上流まで曳く人は、一日一升食ってたがなあ

この発言の驚きは実際に船を引いて経験のある人がいたことである。
土方弁当とか今の倍もある大きな弁当だった。
「船引」という地名が多いが船を引いて生活していた人がかなりいた。
川の交通として船が使われていたからだ。農家の人が手間賃稼ぎにやっていたのだ。これは短い発言なのだがここに体験の重みがある。こんな人本当にいかのかという驚きだった。ただこれはレスもないし誰かその後はわからない、
もしもっとこの人のことが聞ければ実感として船引の地名の意味がわかるのだ。インタ-ネットはこういう体験談がでている、これが貴重なのである。
ただこれもなかなかわからないから困るのだ。2ちゃんねるは読みやすいからさ-と読んでいる。でもこうした年配の人の体験談はほとんどでてこない、これが問題なのだ。

2004年5月10日(月)
白石 黒石 赤石



鍋島勝茂公(当時杵島郡白石の領主)の四男直弘公が陶土の豊富なこの地に移られ、地名を白石とされた。その当時西松浦郡大川内の藤崎百十(初代佐藤百十)は白石藩藩主鍋島直高公の招きで御用窯として磁器を焼いていた。百十は地元にある土を原料として種々研究に没頭し天草陶石と地元の「五穀さん」という白い砂混じりの土を混入して白磁に似た「白 焼」を創り出した

此寺の辺(ワタリ)に石灰木石(イシワタ)あり、石麪(せきめん)(6)あり、また黒蝋石(コクラフセキ)といふもの多し。黒蝋石(コクラフセキ)あるをもて此あたりを黒石ノ荘とよべり。また山内(サムナイ)といふ処に出たり、妙見山黒石寺とて修験寺あり。

明石の地名の由来としても有名な赤石(あかいし)のモニュメントがあります。昔のいろいろな文書のなかに「大きな赤い石」があったという記述があります

2004年5月2日(日)
筑紫の人(蕪村の句より)


ゆく春や筑紫の人と別れけり 蕪村

これは芭蕉の「行く春を近江の人と惜しみける 」を模して作った。蕪村には芭蕉と同じ題で作ったのが結構あるのだ。


江戸時代の面白さは地域性が生きていたことである。藩ごとに特色があり関所を通らなければ入れないからちょっとした外国だったのだ。だから筑紫の人となると遠いからめったに合うことはできないから心に残るしその出会いは貴重なものであった。今はそんなこと感じない、常に日本中の人が入り交じっているからどこの人かなどあまり意識しない、ただなまりなどがあるとこの人東北だとか関西だとかなるだけで特別みちのくの人と別れようが沖縄の人と別れようが余りそれが特別だとは思わない、沖縄だろうが九州だろうがいつでも簡単に行けるからである。外国さえ国内より簡単に行けるのだ。そしたら出会いとか別れはなくなるのである。

2004年4月23日(金)
江戸時代に自然保護

江戸時代、いくら風光明媚でも
海岸線に旅館を建てることは許されなかった。
海岸線には松の木より低い御茶屋だけが許され
景観が守られていた。

江戸時代にこれだけ自然に配慮していたことの不思議である。江戸時代の景観は本当に美しかった。江戸ですら美しかった。なぜ日本がこんなに景観を無造作に破壊してしまったのかわからない、破壊した景観は元にもどらないのだ。これは大損失だった。景観全体を見る視点に欠けていたのかもしれない、都市計画が日本にないように景観全体を価値あるものと見る思想が存在しなかったのである。だからこのことは不思議である。いろいろインタ-ネットからメモしているが断片的になってそれが何を意味しているのかわからないものが多くなる。断片をつなぎはりあわせ考察すると一つの意味あるものとなる。
これは「紙」にメモしてあった。この「紙」というのは使いやすいのだがインタ-ネットのペ-ジをそっくりとりこむことができた。これをまた一年以上知らずに使っていた。ソフトはこういうことが多いのだ。ソフトは誰かに使い方を習うと楽になる。一年とか二年あとでわかるのでは効率的ではないからだ。

2004年4月13日(火)
見過ごされる地域の歴史



下北半島の湊に運ばれたものに相馬焼きがあった。多くの陶器が運ばれたが日本海まわりであり仙台からは少ない、船は石巻からでていたがそれも非常に少ない、太平洋は荒いから航海に向いていなかったが仙台の伊達藩を通じてもたらされたのだろう。伊達藩は大藩だから南部、津軽へも経済的な交流を拡大していた。蝦夷にも野心があった。江戸から函館へ向かう函館奉行の村垣淡路守の日記に仙台藩の陶器師の乾也が村垣に会ったとかありとなどあり仙台藩を通じて函館まで陶器がもたらされた記録はある。そうすると下北にも仙台藩を通じてもたらされたことが推測されるのである。

相馬藩と仙台藩の交流はどうなっていたのかこれなどもわからない、これはたまたま日本歴史という専門の雑誌をたまたま買っていたのでわかったのだ。ともかく自分には本集める趣味がありそれでいろんな本を買い集めていたのだ。それをつれづれに見ていたらたまたまこんなことが書いてあったのである。

相馬焼きをテ-マにしてこうした物の流れを調べるのも面白いかもしれない、相馬焼きは古いから益子の方にも陶工が教えに行った。こういう歴史は相馬焼きに携わる人が調べるのに向いている。代々の墓があったりそれなりの資料も残っているかもしれない、郷土史は意外とわかりにくい、資料が残っていないのと調べるのも大変だからだ。しかし旅行したときそれがわかる、ほとんど回りの歴史的なものがわからないのだ。鳥取砂丘のすぐ近くに「服部神社」と地図にあった。これは渡来系の人が機織りを教えた所なのか、それとも奈良からきた人たちが技術を伝えたのかわからないが東北には機織り神社のようなのはあるが服部神社はほとんどない、こうしたその点にある歴史が旅では見過ごされているのだ。頭にあるのは出雲神社だけだった。そういう大きな目印となるものしか見ないしわからないのだ。ところがこうした小さい神社のなかに実は歴史が隠されているのだ。自然の美もそうだが歴史も自ら発見しないかぎり見えないのである。この世の中すべて自分に見る目がなかったら何も見えないのだ。だから意外とインタ-ネットのバ-チャルな旅が詳細な地図がでていたりして歴史がわかったりするから自分も書いたのである。

2004年4月9日(金)
万葉集はまず暗記せよ

この世の大事な本はまずわからなくても記憶しておくことが大事である。聖書でもそうである。論語でも素読を何百回もしたとか、わからなくても子供のときから暗記させたのだ。これは正しい方法である。わからなくても大事なものは暗記することがあとで役に立つ。本には知識にはまずわからないことが理解できないことが実に多いのだ。わからないからといってそのままにしていたら永遠にわからずしまいである。万葉集なんかも実にわかりにくいし数も多いから理解できない、でもその歌を暗記して覚えておくとあとで役に立つことがあるのだ。今回相馬郡の部で鹿島町の土地の新旧で書いたものがそうだった。この意味もよくわからなかったのだ。万葉集には恋の歌が多すぎる。これであまり自分にはなじめなかったのだ。でもそこには古代をしる重要なてがかりがある。それを知るのはかなりむずかしい、でもわからなくてもそれを何回も読んで知っていたから、あれはこういう意味だったかとわかることがあるのだ。学問には意外と暗記が大事なのである。何かのときにその暗記したものが浮かんでくることがある。もし暗記していなかったら浮かんでもこないのだ。若いときはその意味がわからないことが非常に多いがあとで晩年にわかることが多いのだ。だから無駄のようでも重要なもの聖書とか万葉集などは何度も読んで暗記しておくとあとで役に立つのである。


アメリカのロッキ-山脈で見た黒いリス

2004年4月6日(火)
恭仁京(くに)の跡

大伴家持の紀女郎(きのいらつめ)に報(こた)へ贈れる歌1首大伴家持が青春時代を過ごした 瓶原(みかの)原 恭仁京「くにきゅう」跡       

ひさかたの 雨の降る日を たた独り 山辺にをれば いぶせかりけり     

家持、恭仁の宮仕えの閑暇の所在なさを訴える歌

http://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/newpage%204-769.html

インタ-ネットはバ-チャル旅行ができる。想像だからリアルでなくなるがそれなりに写真がでているからいいのだ。写真はプロ並の写真がいくらでもでている。万葉集関係では特に多い。

恭仁京「くにきゅう」跡 というがこんな所に都がおかれたことの不思議である。これについてはよくわからないが確かに礎石のようなものが残っているから宮があった。それにしてもこういうところでも都になるのだろうか?
ここで大伴家持が10首も歌を作っているのだからそれなりに跡を記した所なのである。こういう所にはなかなか行きにくい、奈良から平安京という距離も電車で行くとわからなくなる。その途中がわからなくなるのだ。万葉集を知るには確かに地元の人が有利である。

恭仁京「くにきゅう」の跡とありしな一時の都にあれや春の日暮れぬ

想像で歌を作るのはよくないのだが写真を見ると想像できるのだ。

山里の雨にぬれたる恭仁京の跡としのびぬ春の夕暮

いづれにしろ万葉集から想像されることは日本の歴史にとって大きい。その全貌はわかりえようがないのだ。

この研究メモははじめたばかりだがこうしたことをちょっとメモするにはいい、ホ-ムペ-ジの基本は日記でありメモなのだ。メモなど書いても誰も読む人などいなかったのだ。ところがメモ的に書くということは書く方にとっては便利なのである。メモくらいでも誰か読んでくれる役に立つとなると書きやすいのだ。ホ-ムペ-ジは出す方にとって便利このうえないものなのだ。日々こうしてメモとして書きあとでまとまったものにまとめることができる。バ-チャル旅行はかなり有益である。

2004年4月4日(日)
青森は墓の山の霊場


青森のアオは墓という意味だという。青いの色ではない、墓だとすると墓がある森となる。森はまた森ではない、モリはもともと山という意味だったともある。つまり青森とは墓のある山になるのだ。それがなぜそうなったのか不明である。
不思議なのは「あおによし」奈良の都・・・とありアオが奈良にかかる枕詞になっている。もしアオが墓だとすると墓によし奈良の都となってしまい、すこぶる縁起の悪いものになる。ではどういうわけなのか、古代は葬送は山で行われ山が墓だったのだ。墓とは山のことであり墓と山は一体である。

うつそみの人なる我や
 明日よりは
 二上山を弟世と我が見む
 (巻二、一六五)

 この歌は「大津皇子の屍を葛械の二上山に移し葬る時大伯皇女の哀傷して作らす歌」という詞書のある、あまりにも有名なうたです

アオが墓だとするとそこは山であり山は死んだ人を葬っているのだから神聖な場所にもなりこの歌のように人格化する。山と人間が一体化する。とするとあおによしとは山のことであり山がよしということになる。それは奈良をかこむ青垣山のことを言っているのだ。

大和は国のまほろば  
たたなづく青垣山ごもれる
大和しうるはし

このアオも必ずしも青を言っているのだろうか、これは二上山の連なりにあり先祖が葬られている墓がある、山のことではないか、この歌の意味は先祖が葬られている青垣山の墓の山々に見守られている大和はうるわしいとなる。アオは色ではない、青という色の認識は古代には希薄だったかもしれないのだ。赤ははっきりしているが青はわからない、つまり漢字をあてるから日本でもその意味が常にわからなくなる、地名もそうである。

仰ぐ(あおぐ)、
アオムキになるは色ではなく死んだ人はアオムケにする、死者となんらか関係ある言葉がアオなのかもしれない。

青森で面白かったのは日本の古文の言葉が残っていたことである。これは沖縄でもそうであった。辺境にはかえって古いものが残されるのである。青森はただアオが墓だとすると墓にふさわしい辺境だった。恐山とかもあり死者の眠る霊場だった。それで北海道とは全然違った意識をもった。北海道は新開地だからそういう霊場などという古い意識は生まれない、青森は日本の辺境の墓がある、霊場だったのだ。

2004年4月2日(金)
藍場川

薫風の旧家を繋ぐ藍場川

萩の旅で藍場川をちょっと見て知った。藍とは染め物と関係して藍だと思った。ここは人工的に作られた水路で舟まで利用していたとは思わなかった。細い川だったからだ。このサイトにはこの川が家に引き込まれ利用されていた旧家が写真ででていた。こうした発見はインタ-ネットならではである。川というテ-マで俳句の情報を集める、川に関していろいろ集めると川について書けるようになる。川というのが生活と切り離せずあったということが忘れられてしまったのだ。この句のよさは薫風に変えて秋の日とか夏の日とか何を入れても句になる。この藍場川にそって生活があり自然もありそれが詩になっている。萩は維新の街というより古いものが残っていることで魅力があった。川があのように実際に利用されていたのである。洗い場であり染め物でも利用した。染め物を洗うにはきれいな水が必要だった。だから江戸でも蛍が飛ぶほど新宿辺りでもきれいな水が流れ更紗の染め物に使われていた。パリのセ-ヌでも洗濯が行われていた。絵が残っていた。大勢の女性が洗濯していたのである。川は生活の場であったのだ。この俳句はここにあったが誰が作ったのかわからない、名前がでていない、他のサイトにもいい俳句があってそれに説明があった。ところがインタ-ネットの不思議は10項目あったら一つとか20項目あったら一つとかしか自分が探しているものがない、でも一つくらいあるということの不思議である。これをここで書くのは著作権でどうなるのかわからないが俳句紀行のところにあったので参照

俳人類
http://www.haiku.jp/haijinrui/top_fram.htm

2004年4月1日(木)
地名の研究(柳田国男)

強戸、郷戸、神戸、顔戸は川処(カワド、ゴ-ト)とでも書けばよいのだろう。
これは大きな川ではなく水汲み場であり渡し舟とか徒歩(かちわたり)場で交通の要所であった

郷戸という地名は会津の只見線にあった。汽車で旅行すると駅名だけが不思議と記憶される。あとは忘れていることが多いのだ。水汲み場であれ川は昔から重要な生活の場だったから地名化した。川の役割は大きかったのである。どこにも昔は村に水くみ場があり生活の中心になっていたのだ。