小林勇一

時事問題の深層21

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黄金に呪われた星
相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一

私の研究メモ


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馬券売り場でイメ-ジ悪くした飯館村 10月8日

共通の歴史の発見(磐田市を語るホ-ムペ-ジ)
10月10日

(郷土史研究に向いているインタ-ネット)


熊が里にでてきて人を襲う(自然の調和を乱した文明)
(TBS-動物異変を見て)10月11日


自然に復讐される文明、呪われた文明の最後
(熊が里に出て人を襲う-つづき) 10月12日


自殺肯定論者の問題 10月13日

自殺を考える 10月15日

日本人の国境意識の希薄さ 10月18日

熊騒動の原因 10月20日

全体と部分の問題(見えない全体) 10月22日

文化が交わり育むには長い時間が必要 10月23

災害つづきの不安 10月25日

武器にまつわる話(京都から遠かった長岡-会津藩の悲劇)10月26日


馬券売り場でイメ-ジ悪くした飯館村


飯館村は高原の村である。かなり標高があるから自転車ではきつい。ここは標高高く寒いから昔から冷害が多かった。つい最近も冷害で米がとれなかった。日本はどんなところでも米を作りそこで住みつくようになった。飯館は山でも広いから田になるところがあった。今はとり入れの時で稲架(はざ)がたてられていた。いい松がありそれも三叉の松でそこからの景色が良かったのでデジカメでとった。そこははじめて行ったところだったみたいだ。広いから隈なく行っていなかったのだ。そこに一つの石の玉を置いて「ひもろぎ」の里とあった。これはなんのことかわからなかった。



神籬-ひもろぎ-とは神が降臨する神座(かみくら)の事です

の意味でありなぜこんなむずかしい名を村おこしにしたのか、ここの産物は飯館牛とあとは石くらいになるからだろう。石を売り出していることは確かである。石の彫刻や石に俳句を彫る事業などもしている。石はそもそも古い信仰であり縄文時代からあったみたいだ。ただ単に石だけを祀っているところがある。下北で町中で見たのがそうだった。町中にあったということだがこれは村の中に古くからあったものだろう。下北らしいといえば下北らしい辺境の趣きがまだ残っていたとなる。この石については司馬遼太郎氏が「北のまほろば」で書いている。

田名部では一のつく日に市がたつ、町の真ん中に、三丈ほどの大きな生木が押し立てられる、「市神」だという、市神は全国にあるが奥州に多い、普通は丸い自然石をすえる。依代である。そこに神が天から天降って市に繁盛をもたらす、これににたものにモンゴルにある。オボといい石を積んだり枯れ木を束にして立てたり粗末ながらも神聖な場所で,時を定めて草原のあちこちから人馬が集まり市がたち祭りが催される。

そこがもともと原っぱのようなものだったが石が置かれて祀られ市がたち町に発展した。オボというのは単なる草原という何もない世界に石を積み上げた目印であった。非常に単純な発想から生まれたのだ。これと共通性があるとすると陸奥にそれもその果てにそんな文化が伝えられ残ったとなる。

これはイメ-ジとして村おこしとして飯館村に合っているのだが馬券売り場と大きく看板がでていたのはこの村にそぐわない、イメ-ジがあれでそこなわれる。山里に来て山らしい雰囲気を味わいたいのにでかでかと「馬券売り場」の宣伝があるとなんか情緒がそがれる。鹿島町でもそうだった。競輪の車券売り場、サテライトができたのだ。これは国道沿いにできた。これもイメ-ジを悪くした。反対運動があったが結局経済優先でだめだった。飯館もだめだった。それ以上に結局こういう所に娯楽を求めている町の人や村の人がいるからギャンブルをしたい人がいるからこういうものができるのではないか、そうした要望があるからそれに答えて作られる。現実毎日パチンコ通いの人もいるしギャンブルはなくならない、そういう人達が要求するからギャンブル場ができる。いくら反対してもそういう人達が多いから反対してもいつもだめになるのだ。とにかくいイメ-ジが悪くなると損である。滋賀県の雄琴について書いたがもともとあそこはその名のごとく非常に由緒あるいかにも京に近い由緒ある伝説から生まれた名だったのだ。今では雄琴とというと男の遊び場として知れ渡った最もイメ-ジが汚された場所となってしまった。飯館村もすべてではないにしろ馬券売り場の飯館村かとまではならないにしてもそれだけでイメ-ジがそこなわれるのである。

それにしても飯館村の小宮に村立の小学校があった。その門といい入り口に古い碑が並んでいてこの奥に小学校があるのか、いかにも飯館村らしい小学校だと思った。この碑も明治時代のものであり飯館にも結構開拓に入ってきた人達がいた。必ずしも古くからいた人達ではない、飯館自体は縄文時代からの遺跡があり古いことは確かである。塩の道も通じていたしその石碑は古かった。飯館は今原町市中心のひばりの市と合併するかどうかでもめている。飯館は原町市とは地理的にも離れているし高原の里ととして独自の世界がある。どちらかというと川俣の方が近いし阿武隈高原で一体感がある。いづれにしろこの合併問題はいろいろとむずかしい。前も飯樋との合併でかなりもめたらしい、理由はわからないがまたそのくりかえしである。昔は境というのが大事でありそれで堺田とか境松とか境に関していろいろ残されている。綱引きという行事はまさに村と村の綱引き、勢力争いであり勝った方が豊作になるというのは本当に利害が対立して争いとなりそれが祭り化したのだろう。でも今はどうしても広域な町作りが必要になっている。自動車で遠くに行けるから役所が遠くでも困らないし買い物も困らないのだ。だからあまり日常生活に支障をきたすようなことはないのだ。ただ経済問題がネックとなるだけである。税金が高くなるとか村から発注された公共事業がなくなるとか業者の問題とかがある。ひもろぎの里は新しく作られたものであれそれなりにイメ-ジを作るのでいいが馬券売り場はイメ-ジを悪くしたことは確かである。


飯館の秋(写真はここで)(俳句短歌紀行)



共通の歴史の発見(磐田市を語るホ-ムペ-ジ)
(
郷土史研究に向いているインタ-ネット)

自然石の碑が建っている。「坂上田村麻呂上陸地点 」と書かれていた。 この地は今では太平洋の海岸まで4km以上ある。4km先の海岸まで平安時代に太平洋の入り江があって海上を舟で渡ったことは想像できない。だが磐田市には海だったことを示す地名が残っている。「今の浦」の地名は坂上田村 麻呂の平安時代(西暦800年頃)は海であったことを地名で表している。石碑の東方1kmに今の浦があって、磐田市民会館と多くの商店・大型スーパーの町になった。

長田忠致が野間で源義朝を入浴中におそい殺害した。義朝の首を平清盛の許に届け恩賞として壱岐守に任ぜられた。田舎役人から一躍壱岐国(いきのくに)の国守に大栄転したのである。

「悪事千里を走る」とか、壱岐の国へも義朝殺害の風評がひろがった。国守の座にたえられず、故郷野間に戻ってしまった。

源頼朝が成人して平家を討ち、滅亡させる。右近衛大将に任ぜられた頼朝は野間大坊・大御堂寺に詣で父義朝の大法要を営み、ここに於いて長田忠致・景致父子を捕らえて板磔(いたはりつけ)の処刑をした。長田一族は野間をのがれて各地に隠れた。


なぜこの磐田市に注目したのか、別にここを探そうとしたのではなかった。たまたま沓掛とか草鞋に興味がでて探していたらこのサイトが見つかった。これも偶然である。ここに注目したのは鹿島町との歴史の共通性があったからだ。郷土史の部で書いたがかつて真野の入江があり海だった。海はかなり陸の奥まで入りこんでいた。坂上田村麻呂上陸地点というのも蝦夷征服の伝説である。今の浦は確かに海だったのだ。こういうことが日本の海沿いには多い。海が後退して陸地になっているのだ。ここに国府が置かれて国分寺が建てられた大和朝廷にとって重要な地点だった。秋鹿氏は、室町時代末期にその初代・左京亮朝治が出雲国秋鹿郡から羽鳥庄貴平郷と中泉郷の地頭となり来遠したとありそれでここに秋鹿(あいか)という地名が残った。こういうことはよくある。地名は移動するのだ。この秋鹿氏は明治維新でその屋敷跡が遊廓に貸したというのも時代の流れだった。遊廓は各地にあった。明治維新の時、武士はいろいろと変遷を強いられたのだ。商売人になったり北海道の開拓民になったりと大変な変革を迫られたのである。

もう一つ長田忠致が功名のために殺害した。そしてそのあと恐れて逃れた。これは
岩松氏の伝説と同じだった。これも鎌倉から一緒にここに来た岩松氏を家臣が殺害してその恐れから名字まで変えたのだ。その一族の子孫が残っているから間違いない、この人はこの長田家に婿養子に入って長田氏に興味をもったのだ。こうして歴史は同じことが土地が変わってもあることなのだ。なぜなのか、つまり人間の本性は時代が変わっても変わらない、これは世界的にも歴史の共通性がある。裏切りとか功名心とか人間の欲望が変わらないからこうした事件が起きる。源義朝が平家に殺されても源氏の勢力はなお各地にありそれが後に源頼朝が鎌倉で決起することになった。源氏の勢力は一時的に衰退したが各地に根を張って存在したから盛り返すことができた。そして復讐を果たしたのだ。勢力が変われば制裁が行われる、それにしても先の見通しがなかった。平家の興隆が一時的なものであることを見抜けなかったのだ。源氏の勢力は大きな勢力だったから簡単に滅亡するものでなかったのだ。

●日露戦争犠牲者の墓一つ

もう一つここで注目したのが日露戦争で死んだ親戚の話である。

 父の実家の入り口に貧しかった農家に不似合いな石碑が建っている。

 表面は

 
明治三十七八年戦役第二軍第三師団
 歩兵第十八聯隊所属従軍三十八年

 故陸軍歩兵一等卒勳八等〇野〇治之墓

 三月奉天付近会戦與八月罹病帰郷
 明治三十九年二月二十日死亡


クロ-の好奇心

これは当時の国威高揚のために国から報償として金一封が与えられそれでこの立派な墓をたてらしいと説明がある。西欧列強に対して富国強兵の時代で貧しい小作農が戦争にかりだされて死んだのだ。これはアメリカでも最前線で戦うのは黒人とか新しい移民が多い、他に地方の人々が生活を向上させるために軍隊に入る、軍隊はそうした底辺のものを吸収する場でもあった。アメリカは豊かであるがやはり戦争に行くものはこうした底辺層が犠牲になることが多いのだ。アメリカにはそうした人達が多いということも確かである。貧富の差が激しいからだ。ブッシュが兵役をうまく逃れたとかいうのも何かそういうことができる力があったのかもしれない、つまり人間の歴史には世界的に見てもその本性から同じことがあるのだ。戦争はやはりこうした貧しい人達がいると戦争にかりだされやすいのではないか、戦争が上へ昇るための就職の場になってしまう。イラクのような危険な地帯に仕事のために行き残酷に殺されているのになお行っている。それはアメリカで負債をかかえている人などが金のためにトラックの運転者とかに志願してなっている。これも世界的ににたようなことがある証拠である。

インタ-ネットにはこうした庶民の記録を残すのに向いている。家族の歴史なども残すのに向いている。こうしたものは書店には売りにくいしまた調べるだって大変である。でもやはり貴重な一つの庶民の歴史として残す必要があるのだ。インタ-ネットは郷土史研究に向いている。でも郷土史そのものがまだ出していない、図書館にあるがこれは調べようもないのだ。そんな暇のある人はいない、旅をして図書館に行って調べることができなかった。時間がないからだ。こうしたものはインタ-ネットに出すべきなのだ。公共的なものだし歴史の記録として公共性があるし後の人に残す必要があるだ。こういうのにはインタ-ネットでもアクセスが少ないし無駄なようにも思える。しかし意外と貴重な記録なのである。なかなかその場に行ってもこうしたものはわかりにくいからだ。インタ-ネットの弱点はこうした記録も発見しにくいことである。これは磐田市 歴史などとキ-ワ-ドで入れてもでてこない、全然違った所から偶然に発見したからだ。それも日記の中のほんの一部から発見したのである。

墓碑一つ埋もれてあわれ虫の声

こうした墓碑は無数にあり埋もれてわからない、しかし誰かが語れば活きてくる。ただインタ-ネットでは偶然にしか見つからないのが弱点である。

参考にしたサイト

語る60才以上

http://www.infosakyu.ne.jp/~kkii/index.html

クロ-の部

引用はどこまでいいのか?(評論の自由の問題)

引用が長くなったがいちいち連絡して許可をとっていたらなかなか評論したりすることがむずかしくなると書いていた人がいた。
つまり俺の文をお前のホ-ムペ-ジにはのせるなと言われるかもしれないからだ。お前のホ-ムペ-ジには賛同しないとか言われたら引用もできなくなる。そうしたら評論とかその他言論活動がかなり制限されてしまうからだ。



熊が里にでてきて人を襲う(自然の調和を乱した文明)
(TBS-動物異変を見て)



熊や猿が里にでて畑をあらし柿などを食っている。過疎化で人間が下草などかっていた人間の領域を示す緩衝地帯が熊にわからなくなり森と思っていたところから突然里に飛び出してくる。過疎化が動物にも自然にも影響してくる。過疎化が自然の秩序まで壊すというのはなぜなのか、自然は自然放任なのが自然であり老子の言う無為、無用が本来の役割だという思想がある。これは古代の中国的大陸的大局観の思想だろう。日本の自然と人間の関係は大陸的なもとは違う、長年の間に自然との微妙な調和を図ってきた文化である。まさにculture(耕す)ものだった。狭い国土でいかに人々がより良く暮らしてゆくかを育んできた歴史だったのだ。だから自然放任というおおざっぱな自然観ではない、狭い土地をいかに活かしてゆくかという世界観が培われた。それが神道になった。神ながらの道とは日本人はこの狭い国土を活かす道だったのだ。

産霊「ムスヒ」とは「結び」であり、さまざまなものを結びつけて、そこから生命や活力を産み出していく力である

私のホ-ムペ-ジのURLを結び(musubu)としたがこれはもともとムスヒだった。日本人は生み出すことと結ぶことを一つのことと考えていた。いろいろなもの力を結びつけることが文化の基底にあった。村の社は生産する、ムスヒの中心で人々を結ぶものだった。今でもトヨタとか名だたる会社に社が祀られて近代的な自動車のムスヒを行っている。汚れは故障や不良品をださないことだというのも意外なところで日本人の伝統が働いている。日本人で労働が重んじられるのは天皇まで稲刈りするのは協同が古代から行われていたためである。ムスヒは結ぶ(musubu)だったのだ。働くことが人々を結びつけることになっていたからだ。日本人の特性として同じ土地に住んでいることとともに働くことが強い絆となる。血縁とかより同じ土地に住むこととともに働くこと同じ釜の飯を食うことが連帯を作り出したのだ。だから日本人の姓は必ず土地からでていて土地が名字の発生源であり連帯を示すものとなっている。

万葉集に詠われた「霊(たま)あはば 相ねむものを小山田の 猪田禁(も)るごと母守らすも」は、イノシシの番をするのと同様に母の見張りが厳しくて、思うように夜恋人に会いに行けないことを嘆いている歌です。イノシシにはかなり悩まされた歴史がある。猪垣でイノシシの田畑への侵入を防ぐという方法は自然に優しいというより方法がなかったためだろう。鉄砲があれば撃ち殺していた。事実次のような例があった。

 
「生類憐れみの令」を発令した徳川五代将軍・綱吉の治世のころに、猪垣が大規模に用いられた記録が残っています。対馬では、そのころ全島にわたってイノシシとシカがおびただしく生息し、田畑を荒らし回っていたといわれています。ただでさえ耕作地の少ない島に住む農民の困窮は、はなはだしかったといいます。

 元禄13年(1700年)に、当時の奉行であった陶山納庵は幕府の禁令に背き、「猪鹿追詰(しししかおいつめ)」を断行しました。これは、全島をいくつかの地域にわけて猪垣で囲み、1年に1地域づつ12月から翌年の2月までの農閑期に、人海戦術でイノシシとシカを撲滅していくせん滅作戦でした。全土で700平方キロの島という隔離された条件下で、開始以来9年にしてイノシシ8万頭が捕殺され、ここに対馬のイノシシは全滅しました。この功によって後世「対馬聖人」とたたえられ、現在でも対馬の歴史にその名を残しています。


猪垣(ししがき):歴史と民俗

http://hitohaku.jp/news/docs/hm17-3.html

この事実には驚いた。当時は自然保護とかの思想などない、対馬のような耕地の少ない所では動物の被害は大きかった。でも全滅させたのは今になれば自然の生態系の破壊でありイノシシや鹿がいない島となったことはやはり何か欠けた島になってしまった。ツシマヤマネコがまだ生存する島にしては残念だ。ツシマヤマネコは農作物を荒らさないから生き残った。

ともかく最近災害が多いのは地球温暖化は高度の文明化から二酸化炭素の増加から起こり台風の異常な発生もその温暖化から起きている。やはり文明が自然を狂わしてその復讐を受けている。驚いたのは2ちゃんねるで台風がこんなにくるのは団塊の世代のせいだという若者がいた。それほど憎まれていること愕然とする。江戸時代火山が爆発したとき外国人が原因だというとにている。錦絵に外国人が噴火させるように描かれていた。

それからペットの犬が遺伝性の病気で突然死ぬというのを問題にしていたがそのブリ-ドする繁殖を都会のカラオケのビルで即席に作り不動産屋がしていた。金儲けのために犬がビルの中で繁殖のためにだけ飼われている悲惨さである。犬のことなど何にも考慮していない、ただ金のために犬がまさに奴隷にされている。文明社会は常にこういう無慈悲なことをする。昔は動物を食ったとしてもそこには動物を動物らしく生命あるものとしてあつかう文化があったがそんなもの微塵もない、不動産屋が動物を扱うこと自体おかしいのだ。文明というのが自然に不調和をもたらしそれが人間にはねかえってきていることは確かである。



自然に復讐される文明、呪われた文明の最後
(熊が里に出て人を襲う-つづき)

イノシシに襲われていたために収穫が芳しくなかったのに、敵がいないから 収益アップ。焼畑を行うとき、イノシシが畑に入ってこないように柵を作るのですが、イノシシの攻撃に耐えられるような太さになるまで、栽培したあと十分な休閑期間を取っていた んです。イノシシが居ないので、休閑期間を短縮。すると、耕作期間が長くなり、地力の低下で収量ダウン、森が減ったので、雨が降ると洪水、土砂崩れ等々、イノシシが居なくなってから20年後には、最悪の事態に命に危機が。
イノシシに恨みをかった対馬の聖人

ノシシにも何らかの自然の中で役目があったのだ。そもそも八万頭もいてそれを全部殺したということ自体異常なことである。なんらか直感的に自然の生態系を壊すとか生物に対する恐れのようなものを持つはずだからだ。この話でわかるのは人間あまり効率を求めると害になることなのだ。生産できるならできるだけ生産すればいいというのは何か自然のサイクルに反することだった。自然を酷使することだったのだ。自然では動物でも植物でも自然全体をになうものでありある種を絶滅させることは人間の一方的な欲望の追及の結果である。アメリカでもリョコウバトが絶滅した。

アメリカで起こった有名な絶滅物語はリョコウバト(passenger pigeon)が主役である。19世紀の初頭には、何百万羽ものリョコウバトが一斉に北へ渡って行くために、空が暗くなるほどだったという。それほど大量にいたので、西部開拓のために西へ向かう開拓者にとっては尽きることのない食料源だった。1850年代になって西部に向かう鉄道敷設が始まると、鉄道敷設の工事現場で食料となるとともに、鉄道を利用して東部の町へ運べるようになり、鳩狩を専門にする人も多数にのぼった。1880年には、個体数は元に戻れない点にまで減少してしまった。捕獲して個体数を回復しようとする試みが行なわれたが、成功しなかった。最後の一羽がシンシナチー動物園で死んだのは1914年のことだった。

アメリカの横断の鉄道建設には中国人労働者がかなり過酷な労働の犠牲になり死んだ。文明が建設されるところに自然も犠牲になるし人間も犠牲になる。文明とは欲望の拡大なのだ


1849年、カリフオルニアでのいわゆる“ゴールドラッシュ”により、アメリカ人が西部を目指す思いは頂点に達した。東と西とを鉄道で結ぶことは、まさにアメリカの夢と言えるものとなった。「大陸横断鉄運」−世界の鉄道史に刻まれるこの偉大な事業のスタートは、南北戦争真っ只中の1862年、時の大統積エイブラハム・リンカーンによって認可された。西部からは中国の移民を中核とする労働者に敷設されてきたセントラルパシフィック鉄道が、東部からはアイルランド系移民を中核とする労働者に敷設されてきたユニオンパシフィック鉄道とが、それぞれに接近。そして1869年5用10日、この二つの鉄道は、ユタ州グレートソルトレイク北方の砂漠フロモントリーポイントで歴史的な接合を果たした。
双方の鉄路を最後に連結した犬釘は“GOLDEN SPIKE”呼ばれ、文字どおり真金製の特別のものだった。そこには次のような文が刻印されている。「この鉄道が世界の二つの大洋を連結するごとく、我が国(UNITED)の団結(UNION)を永続させたまえ」。この事業を認可したリンカーン大統領はすでに4年前に暗殺され、この記念すベき偉大な日を知ることはなかった。

ゴ-ルドラッシュというのもまさに人間の欲望を刺激する最たるものである。この狂気のようなゴ-ルドラッシュがリョコウバトを絶滅させたのだ。インカなど黄金の国だとかヨ-ロッパの列強にその黄金の冨が収奪された、黄金だけならいいが人間まで大量殺戮された。日本も黄金の国だとかジパングなどと伝えられたからヨ-ロッパの列強の食い物にされる危険性があった。文明は自然を壊す、今文明の過度の発展に地球自体限界にきている。特に中国は大問題である。中国が経済的にさらに発展するとものすごいエネルギ-が必要でありそれが自然破壊をもたらし公害を近隣に及ぼす、影響が世界的になる。対馬の例のように効率ばかりを追及することが自然にとっては負担となる。文明はその強力な技術によって自然に無造作に入り込み破壊する。それが世界的に巨大化したから地球温暖化とか世界的な環境悪化の深刻な問題となる。結局これも人間の欲望の肥大化の結果である。資本主義はそれを加速させた。人間の欲望は際限のないものでありエイズにしても欲望が肥大化した現代のグロ-バル経済文明が生み出したものである。文明は自然破壊だけでなく戦争も巨大化させ破壊は凄まじいものとなったのだ。文明が技術が発展して大量殺戮が行われた。そして今や核戦争の最終戦に人類は脅えている。これも欲望を無制限に拡大化肥大化させる文明に原因があったのだ。

その武具は青銅制、家も青銅制造り、そして青銅器で仕事した
そして彼らはお互い同士の手にかかって滅ぶ

今や鉄の種族の時代なのだ、昼は労働と悲惨のやむことなく、また夜にも滅亡におびやかされている
(仕事と日々)

青銅器とか鉄とかが文明を作ったのだがこれが人間を幸福にしたわけではない、呪いともなった。労働は一層過酷となり自然の収奪は激しくなり戦争は苛烈さを極め原子爆弾が落とされ核戦争で人類が滅びてゆく、そういう恐怖が現実になっていることは決して文明が人間に幸福をもたらすものではない、文明は人間の際限のない欲望の拡大化肥大化でありそれは神の眼からみても許されるものではない、だから文明がこのまま肥大化すれば自らの矛盾で滅ぶ運命にあるのだ。ノアが方舟を作ったとき人間の罪ははなはだしかったとはいうときその罪とは人間の欲望がはなはだしかったとなる。だから大洪水という自然災害が起きた。現代の文明にも今そうした異常気象とか自然災害がふりかかってくる。それは人間の歯止めのきかない欲望の拡大化肥大化の結果なのである。現代の宗教とはこの欲望肥大化の文明の中に組織化されとりこまれたものでありシャカの時代とかキリストの時代の宗教ではない、わずかにインドで家族もすべてを捨てて裸で暮らしているとか三年間口をきかない修行者とかあういうのが宗教であり組織化して集団化したものは確実に欲望追及の文明の一翼をになうもので文明の欲望の肥大化を促進させているのである。つまりご利益宗教になってしまっている、創価などでもわかる、際限のない欲望追及、ご利益追及の鬼となっていることでもわかる。上野霄里氏の言うように組織化、集団化することは文明化の中に組み入れられることでありそこには聖なるものを追及した宗教心の一かけらもないのである。だからこの文明から宗教というと何か異様なものが奇形化したものが怪物化して生まれ世を席巻する危険性が常にあるのだ。文明はその矛盾と歯止めのない欲望の追及の果てに自壊することは確かである。

我々は知っている
すべての生命は、一つの生命の織物であることを
これを編んだのは我々ではなく、我々は一本の織糸に過ぎないことを生命の織り物に対して行なったことは自分自身に降りかかってくることを

  
1854年 シアトル酉長がアメリカ大統領に苑てた手紙



自殺肯定論者の問題

自殺を肯定する思想や人々にもそれなりの論理はある。人間は自殺するのもしないのも自由でありその自由には自殺も入っている、人間は死んだら無に帰するだけであり罰とか罪もないとか無神論者の言い分はそれなりにあるしそれも思想であり論理である。ただこうした人々は本当にそんなこと真剣に悩んでいないし考えもしないのだ。ドストフェスキ-が殺人とかを肯定する小説を書いたが人間は神を否定したら人間でなくなると結論した。あれほどに悩んで殺人とか自殺を考えた人は今まで自殺した人や殺人を犯した人にいない、非常に単純な理由から自殺したり殺人しているのだ。この世がいやに何たとか、苦しいからこの世とおさらばだとくらいで自殺している。悩みに悩んだり苦しみ苦しんで自殺しているのではない、非常に短絡的な思考で自殺しているのだ。だから自殺に死ぬわりには重みがないのだ。自殺する前にでは本当に死ぬくらい苦しんだり悩んだりそれを解決しようとしているかといったらしていない、安易な自殺なのである。

人間が何でも自由だ、自殺も、殺人も自由だと確かになる。でも本当にドストフェスキ-のような悩みに悩んで自殺したり殺人を考える人はいない、殺人でも気に食わない、腹が立ったから非常に短絡なものが多い、そういう人は殺人を犯しても罪の自覚も起こらない、現代とは思想性が欠如した時代なのだ。ロシア的なのかもしれないがあんなに延々と考え悩む能力に驚く、日本人にそんな人は少ない、だから宗教に関してもほとんど考えない、ただナミアブダブツとかナンミョウホウレンゲキョウですべて終わっている。それは結局ハイルヒットラ-でも同じなのだ。現実そうなっているのだ。戦争しなさい、人を殺しなさい、ナンミョウホウレンゲキョウでもなんら疑問すら感じないだろう。天皇陛下万歳でも一面そうだった。集団的組織的に行動すると人は悩まない、行動しやすい、自殺もそうなのかもしれない、集団で自殺に突っ走ることができる。神が存在しないとしたら人間は人間でありえないと言ったのはそこに無神論者でもつきつめてた結果そうなったということでありそれには耐えられないとなったのだ。人間は獣か怪物か何か悪魔かそんなものになってしまうという恐怖である。

人間は人間だけではない、神があり人間が造られたのであり人間にすべての自由はない、命は神から与えられたものとすると人間は神の御意にかなうべく生きることが生きる理由である。この世界は神が造ったものであり神の栄光を顕したものである。神が存在するということは人間の死後がわからないにしても神が存在するのだから神を恐れねばならない、神は全能であり「死後裁きにあう」というときそれはあるのだ。ないとしたら殺人しようが何しようが人間の自由だとなる。恐るべき犯罪を犯した人間がいて改悛もしない、罪も悔い改めず死んでゆく人間も多い、ではそれらの罪はどうなるのかやはりその罪は死後裁きにあう、しかしその裁きが何かわからない、誰が善人か悪人かこの世のだけではわからないからだ。この世の善人が実際は悪人かもしれない、これは神の判断によるのだ。いづれにしろ人間に良心がなかったら一片の良心もなかったらこれはまさに人間じゃなくなくなる。その人はやはり死後に本当に獣になっている。良心があるから人間でありえるとするとそれがなくなったら獣となるのだから恐るべきことである。いづれにしろ人間では判断しえないことがあるのだ。

自殺は神から与えられた命を自分のものとして殺す行為だからやはり罪なのである。一種の殺人なのだ。他者を殺すことも罪だが自分も殺すことも罪である。人間が生まれてきたということは何らか神の許しがあり生まれてきた。それは悪人ですら神の許しがあり存在させられている。悪人も必要だからこの世に存在させられている。サタンも神の許可があり存在させられている。悪というのも善を知るために悪が存在させられているようにすべては神によって存在させられている。だから人間にあらゆる自由はない、誰一人自分の命は自分のものですらない、すべての生命は互いに活かされ存在であり連結している。自然は食い食われつも一つの命の環のなかにある。

「この世に自分なんか存在しなくてもしてもどうってことない、そんなことどうでもいいことよ、一人死のうが誰も関心も示さない、三万人も毎年死んでいる、しかしその一人一人については何も語られない、新聞にものらない・・・・」これも確かにそうである。なぜ死んだのか本当は知るべきだろう。ただ自殺は社会にとっていむべきものとして隠したいことも確かである。だから実際は統計以上の人が確実に自殺している。自殺より戦争の方が害がある、公然と殺人が奨励されのが戦争であり自殺の方が害がないともなる。なぜそんなに自殺を責めるのか戦争で人を殺すやつらを責めろというのもわかる。自殺より戦争の方が迷惑だというのもわかる。これも理屈を言えばそれなら戦争に行くのが嫌なら自殺しろとなるが実際は戦争になると戦争がいやだから自殺する人は少ない、なんか覚悟が決まるからだろう、戦争で必死に戦っている人は自殺もしないだろう。だから自殺したい人は戦場に行かせた方がいいというのは一理ある。そこでは皮肉なことに必死になって生きようとするからだ。

現代の自殺は軽い自殺なのだ。のっぴきならぬものでもてい、ああ、人生いやになったわ、死んでみようかくらいの自殺としか思えない、特に若者はそうである。中高年と若者の自殺はかなり違っている。若者の自殺はやはり中高年より深酷度が低いし軽い気持ちでやっている。だから死んでも重みがないのだ。自殺の原因はやはり希望がないということもある。こんな世の中に生きたくないということもある。それも甘えだろう。いい世の中なんかいつの世にもなかった。でも過去の人の方が明日食うものがないとかぎりぎりのところで生きているしどうしても今の若者の自殺は甘えであり深酷さが欠けているし過去の人に対しても死者に対しても失礼なのである。戦争のことを言うが特攻隊であれ病気であれ生きたい生きたいと死んで言った人の方が多いのだ。そういう人達からした何で死ぬのかとなる。やはり自殺にしても人間は今の時点だけでなく過去の人々の歴史を考慮する必要があるのだ。つまり人間の命は現時点だけの命としてまた自分だけの命として考えるとおかしくなる。だから先祖を大事にするというのは一理はある。これは偶像崇拝であるが命のつながりを認識する点では必要なのだ。つまり人間は歴史の中で生きるものだということが常に考慮する必要があるのだ。先祖がいない人が人間でなくなるし歴史がない人間は人間ではない、過去がない人間は人間でなくなるのと同じである。自らが何物かさえわからなくなるからだ。ともかく浅薄な思想性の薄弱な自殺である。深酷さも低いからその衝撃のわりには共感も得られないのである。むしろ批判が多いのだ、若い者すら批判が多いのである。



自殺を考える

自殺を考えると自殺そのもののやはり歴史が問題になる。人間は古代には自殺していたのか、原始人は自殺するのかという問題である。おそらく自殺そのものがなかったかもしれない、その理由は30才くらいで早く死んでいたから自殺を考える余裕もなかった。自殺が多くなったのはやはり近代が始まってから明治からだろう。江戸時代も借金苦とか病気とか男女関係であった。心中は有名であるが

江戸時代の中期には、心中が大流行になる。もっともこの時代の心中は、廓で遊女とのものがほとんどである。しかも、不美人や売れない遊女が、客を道連れにしての心中が多かったという。

江戸は単身赴任の都市であり男性は性の捌け口を遊廓に求めた。七人一人が遊女だったというほど女性の就職先になっていたのだ。これは江戸という特殊な事情からそうなったのであり今とは時代が違うから今の基準で考えるとおかしくなる。それにしても不美人や売れない遊女というけど今でも女性が自殺するのは男性関係が多い、男に捨てられたとか相手にされないとか自殺サイトで男性への不満を延々と書いている。そういう女性たちが男を道連れに心中する。今回のネット自殺もそうだった。34才の女性が募集して自殺を決行した。ただ違うのは江戸時代は殺人でも自殺でもなんでも動機がはっきりしている。人の行動ははっきり見える世界だった。心中でも情が厚くなり深い関係になり自殺した。ネット自殺は全然見知らぬものが集まり自殺するという自殺目的にだけ集まった人達なのである。自殺は一人より何人かでやるのがやりやすいためである。

ただ自殺にはいろいろな動機がある。近代になり人間は非常に精神的ストレスが高まった。江戸時代から明治になったときも精神的にストレスが高まり自殺する人がふえた。それは借金とか女性関係だけでなく精神の不安が増大したのだ。夏目漱石が近代的自我の確立のために苦悩したように芥川が漠然とした不安をいい自殺したように精神的ストレス、不安から自殺する人が確実にふえた。昨今の事情として就職難も大きな原因である。仕事がない就職しないということは将来の不安が大きくなる。無業者50万人フリ-タ-何百万人という時代は一見自由な豊かな時代だからかもしれないがやはり定職をもち仕事に励んでいればそうした自殺への衝動は起こりにくい、ただ自殺にはいろいろある。若者と中高年は全然違う、中高年はやはりほとんど病気とか経営がおもわしくないとか経済問題である。

私も、従業員を抱える事業者です。
こん回の不況は、ただ事では有りません。
バブル崩壊後、大蔵省をマスコミがたたきすぎた。また、バブルも、マスコミがあおりすぎた。橋本と宮沢は良く平気で生きていられますね?不思議です。
彼らの為に、政治家、マスコミなど含め、何人が自殺を出し、なん家族が路頭に迷っているのでしょうか。これから、もっとすごくなりますよ。確信しております。
私も、会社が、あと1年ぐらいは持つと思うので、自分の生命保険で、少しでも従業員を守りたいと真剣に考えております。一度は、見つかってしまい生き延びてしまいました。つぎは、身元のわかるように、完全に実行します。


経営者はこんなに従業員を心配しているのか、感心したし生命保険にまで頼り従業員のためにするというのは犠牲的でもある、こういうところは若者の利己的な自殺とは全然違っていた。城主が家来を助けるために切腹するのとにているのかこういうことは上にたってみないとわからないだろう。上に立つことはモラルがどうしても必要になってくるのだ。

若者は特に20〜24才は自殺の衝動が一番起こりやすい、ほとんどの人が自殺の誘惑にかられる、一種のハシカのようなものである。事実この年代に一番自殺が多い。この年齢を乗り切ると比較的自殺する割合はへるのだ。私もこの頃深酷ではないにしても自殺したい思ったからだ。

自殺していいのか悪いのかというとき自殺にもいろいろあることなのだ。切腹は自殺だから日本人は自殺が多いんだとかいうが切腹は自殺ではない、責任をとるためのものである。何か責められるときがあるとき切腹する。侍は今のような民主主義でないから高いモラルが要求された。上に立つものは民衆から選ばれたものでないから自らが諫めなければ諫めるものがいないから切腹という厳しい責任のとりかたをしたのであり今は上に立つものは自らなっているのではない、民衆から選ばれてなっているのだからその責任は選んだ方にあるのだ。切腹はだから自殺とはいえない、自殺と言えない自殺もあった。自殺といっても動機がいろいろだということである。

自殺で問題なのは
自殺する人-自殺で失敗した人-自殺で身内を失った人-自殺に関係する人がいる。自殺で失敗した人はその後遺症が深酷である。自殺はすべて簡単に成功してわけではなく失敗例も多いし脳などがやられて廃人同然になった人もいる。非常に危険なものなのだ。次に残された身内の人も自殺した人より大変だと言っている。残された人は非常に深酷である。なぜなら自殺はその家系に黒い汚点を残す、自殺した家系からは自殺者がでやすい、これは本当である。そういう因縁がまとわりつく、また自殺した場所にも悪い因縁がまとわりつく、自殺霊が漂い自殺に誘い込むのだ。だから皆野町はイメ-ジを悪くしてさらに自殺の名所となるといろいろ悪い因縁をそこに残したことになる。つまり自殺にもいろいろある、やむなく自殺を肯定しえざるものもある。しかし一般的に自殺はあとあと回りに悪い因縁を残すから極力さけるべきものなのだ。自殺は20〜24をすぎ30以上くらいになると自殺者は確実にへる。年齢的問題がかなり大きいのだ。中高年の自殺は時代を反映したものでありこれはまた別物である。これは経済的問題が解決するとへることは確かである。



自殺で問題なのはやはり自殺のハシカにかかる20〜24才の問題が一番問題視されるのだ。この頃精神的不安定になりやすく視野が狭くなる。歴史とか親とか先祖のこととか長い歴史から考えることもない、非常に今という短い時間のなかで自分だけを考え苦しい苦しいと自己中心主義になっている。不思議なのは死者は生きたい生きたいという声に満ち満ちている。病気で若死にしたものや戦争で若くして死んだものや様々な人が生きたい生きたいと地の底から叫んでいる。一方生きている人は死にたい死にたいと叫んでいる。これも人間の皮肉である。生きていることは実は死者の分も生きることなのである。死者生きられなかったことを成しえなかったことを生きている人が代わりに成すことなのだ。死者というのをあまり考えないが生を考えるときやはり死者のことを考える必要があるのだ。死者がそんなに生きたいと思っているのに生者がそんなに死にたいとするのは死者に対する冒涜なのである。人間は生きている人だけでなく死んだ人、歴史を考えるとき大きな視野とか生の豊かさが生まれる。だから今という時間だけを考えて生きることは非常に視野が狭くなり生きることの意味も価値も見いだせなくなるのだ。



世田谷区の女性は 整形手術を繰り返し、最近は目の整形手術で「失敗した」と話していたことも  わかった。県警は、自殺の動機につながる重要な証言とみている


女性二人が自殺した原因は一人は容姿を気にしていたらしいからこれも江戸時代の遊女とにている。遊女は男性を道連れにしたが女性と一緒だった。やはり人間悩むことは同じなのがある。こういうのは比較的わかりやすい、今の時代動機がわからないのが多いから困るのだ。




日本人の国境意識の希薄さ(尖閣諸島の問題)

今回の中国の尖閣諸島に中国がガスを採掘するための調査のボ-リングを建てたことに日本人が抗議しているが日本そのもの抗議が弱いのと関心があまりないのはなぜか、これは明らかに日本人の国境意識の無さによるのだ。海に囲まれているから日本人は国境を意識できない、海は国境にならない、中国は万里の長城を作ったのはいかに国境意識があるかという証拠である。国境は自らあのような莫大な労力で作られるものであり守られるものと歴史的に骨の髄からわかっている。国境があって国が守られるのである。その意識のずれが大きいのだ。日本は海に囲まれているから国境を意識できない、日本は一つの宇宙に浮かんだ独立の島のようになっているのだ。この特殊な環境が地政が日本人を作ってきた。こういう環境だからこそ鎖国という発想もあった。他の国ではありえないからだ。陸続きでは鎖国できない、必ず異民族が侵入してくるのだ。

日本人は日本最南端とか最西端とか最北端とかが好きである。そこには必ず碑が建てられている。これも日本という海に囲まれた風土だから当然なのである。日本が一つの島、宇宙に浮かぶ島だとすると海でさえぎられその果て陸地があっても別世界になってしまう、だから日本人は外国に対してものすごく恐怖を感じたり外国に対して特別な感情を抱く、最近海外旅行が盛んになり多少外国慣れしてきたが以前として外国は海があるため何か必ず海で遮断されてその向こうの別世界になる。だから自分のように最近外国に行ったりする人は外国は大変な経験をしたことになる。日本が庶民クラスで外国に大量に行ったのはここ20年くらいではないか、その歴史は浅いのだ。外国がわからないということは例えばアメリカについてもほとんどどんな国かもわからなかった。アメリカの土地を実際に踏んだ人もアメリカを肌で知る人も極端に少なかった。アメリカの大きさや力を知る人も少なかった。情報が極端に少なかった。それが一因で無謀な戦争をしかけた。これも陸続きでないから国が海で閉鎖されているからそうなる。モンゴルが海をわたって責めてきてもそんなに危機感がなかったのも海があったからなのだ。日本では異民族が大量に侵入して踏みにじられたことがない、大陸では必ず無惨に異民族が侵入して踏みにじられて負けたものは奴隷にされているのだ。

国境というと与那国島が国境の島として売り出しているがそれもピンとこないのだ。島には国境線がひかれているわけでもないし明確に国境として意識できない、どこに国境があるのかわからないのだ。もし陸続きで国境があれば歴史的にも死守するだろう。朝鮮半島では中国と国境を接してそれなりに国境を死守して小国でも維持されてきた。今の北朝鮮の国境は高句麗時代に隋が攻めてきて死守されたものであることもそれを証明している。日本ではそういう歴史的経験もないのだ。自然の海という境界で自然に守られているという感覚になっている。だから中国に国境を侵犯されてもさほど関心がない、懸命に守ろうともしないのだ。日本の現時点の国力の問題もあるがそれだけではない、日本人には国境意識が希薄であり国は海で守られるという地理的感覚が根強くあるのだ。日本はシマというときここは俺のシマだというときなんか小さな本当に島をシマを守るのが国境意識だったのかもしれない、大きな国を国土を守るという意識に欠けていることは確かである。



時事問題を整理して

国境意識-インタ-ネット情報学(時事問題11
)

を読み返してなるほどと思った。あの指摘が面白い指摘であった。


東西の国境はいつもさまよっている

  東西の国境はいつもさまよっている
  東にいったり 西にいったり
  今はどこかはっきり分からない
  ガウガメラか ウラル山中か 自分のなかなのか
  だから耳、目、鼻孔、手、足、肺、睾丸
  あるいは卵巣の片方はこっち、もう一つはあっちだ
  心臓だけ、心臓だけはいつも片方にある
  西側にいて、北の方を眺めていると、
  東側にいて、南の方を眺めていると、
  口をひらくにも、肩入れするにも困惑するのだ
  どっちにするか、あるいは両方か
   
  (『カプリンスキー詩集』経田佑介訳レアリテの会発行2000円)


この詩では国境が自分の肉体が二つに分断されるように意識している。国境というのがこれだけ身近なのである。日本人は国境は海であり肉体の一部が国境の向こうの別な国ににあるようには意識しない、大陸では絶えず国境を意識して暮らしているのだ。この相違は大きいのだ。日本人は国境で悩んだり々苦しんだりすることがほとんどない民族なのである。



Border Ballad a poem by Sir Walter Scott

国境に向かって進撃せよ
鹿の棲むスコットランドの谷間から丘から
スコットランドの栄光のために
伝統の帽子に旗をかかげ、我が同胞よ
国境に集結して進撃せよ

Arch, march, Ettrick and Teviotdale,
Why the deil dinna ye march forward in order!
March, march, Eskdale and Liddesdale,
All the Blue Bonnets are bound for the Border.
Many a banner spread,
Flutters above your head,
Many a crest that is famous in story.
Mount and make ready then,
Sons of the mountain glen,
Fight for the Queen and our old Scottish glory.

Come from the hills where your hirsels are grazing,
Come from the glen of the buck and the roe;
Come to the crag where the beacon is blazing,
Come with the buckler, the lance, and the bow.
Trumpets are sounding,
War-steeds are bounding,
Stand to your arms, then, and march in good order;
England shall many a day
Tell of the bloody fray,
When the Blue Bonnets came over the Border.

これも国境に向かって進軍する様が生き生きと表現されている。この英語はなんとなく直感的にわかりやすい、リズミカルでもある。これはスコットランドとするとイギリス国内の国境なのだろう。イギリスも島国だが国境意識があった。というのはイギリス自体ウェ-ルズ、スコットランド、イングランドと三つに分かれた国の連合国だからである。だから境界が常に意識されていたのだ。いづれにしろ境界は歴史的に刻印されたドラマの場所だったのである。



熊騒動の原因


スズメバチの天敵はクマ。何せ巣ごとバリバリ食うらしいからな
さて、クマが絶滅したら、天敵のいなくなったスズメバチの大発生が 予想されるが(日本の自然界ではスズメバチを抑えられる動物は他にいない) その場合、どんな被害が考えられるのか?


 私たちにとって熊の冬眠は不思議ですが、熊は冬眠に入る前の晩秋に栗やどんぐりを食べると云われます。熊は冬眠中の防寒や腹もちや栄養補給のために多くの脂肪を蓄積する必要があります。栗やどんぐりは優れた脂肪層をつくるとのことです。そう云えば煮つめても煮つめても赤身が固くならない特別な味覚の脂肪層を持つ「猪肉」も猪が栗やどんぐりを好むのかも知れないと想像します。いつだったか栗林の猪は美味しいんだと聞かされたことがあります。丹波篠山に日本一の名声のある「猪肉」と「栗」が同居しているのは偶然ではないように思える

素晴らしい丹波の栗


熊が人間を襲うことで問題になっているがそもそも今や人間は熊について根本的に知らないし自然についても知らない、熊を知ろうとすれば実は熊だけではない、その熊の棲む山や森全体の生き物がかかわっているのだ。熊は特に生態系の頂点にいるからそうなる。熊が存在していることはまだ自然が全体的に生きている証拠である。今回の事件は台風とか気象の異常で食料のどんぐりや栗が食えなくなったからだという。ええ、熊がどんぐり食っていたのかというのも知らない人が多い、私も知らなかったのである。熊はいろんなものを食う雑食性である。キノコも食っている、熊が食うキノコがありまた熊苺などもある。山や森には熊の食料になるものがそれなりにある。自然保護団体が熊の食料になるドングリなどを全国から集めて山にまこうという計画があり今では集まりすぎて中止した。ある人は熊は木になっているドングリしか食わないとか地にまいたドングリはネズミが食うのでネズミがふえるだけだとう言う人もいる。つまりこうした混乱は自然のことがわからなくなっているから起こることなのだ。第一産業から糧を得ていた時代は狩猟、採集時代は自然のことを良く知っていたからこういう問題は起こらない、熊祭りというのも熊と人間が共生してゆく祭りでありそれはアイヌが長い伝統の中で形作られた文化である。現代はそうした文化が破壊された時代なのだ。だから突然熊が人里に現れ人を襲うとなると混乱するのだ。

自然は昔は狼がいてこれは大神らしいから神であった。熊も鹿も神とされる時期があった。そういっても人間は強いからこれらを食料としていたのだ。でもそこには今のような全然無関係なものではなくむしろ狩猟が生活の糧だから単に食料とするだけでない生き物との交わりの祭りが生まれたのである。森で生活するものは熊でもイノシシでも鹿でもいなくなると困るからとりつくすことなどない、漁業でもそうである。鯨をとって生活ししているインドネシアの村でもそうだった。一年に何回かくる鯨をひたすら待つ、一方近代的鯨漁はとりつくしてしまう乱暴なもので禁止されたのだ。森で暮らすものは山菜でもなんでもとりつくすということはしない、それをすれば生活できなくなるからだ。だから狩猟、採集時代は自然破壊はない、縄文人はドングリを食っていたことも不思議である。縄文人が食っていたものと熊が食っていたものはほぼ同じである。農業は焼き畑であれ稲作であれ自然破壊が起きた。だからイノシシに畑を襲われるから万葉時代から猪垣が作られた。人間は狩猟採集から農業時代になると動物が邪魔になり敵対するものまでになったのだ。そこで動物を保護する思想、仏教などが生まれ狩猟が禁止された。生類憐れみの令さえ万葉時代にあったのだ。これは縄文時代の狩猟採集時代から農耕時代の移り変わりで起こったことである。狩猟をしなければ動物を殺さなければ生きていけない人達にとってそれは受け入れられないものだった。現実は以前として狩猟は行われていた。

人間の生活は第一次産業、狩猟採集から次の農耕を第二次産業とするとここまでは自然のサイクルで生きていた。自然の中で生きる生活だった。だからまだ熊でも動物とも調和する生きかたがあった。熊との棲み分けもできていた。ところが山村が過疎化して自然の一部と化して暮らしていた人間の生活がなくなると山や森が手入れがなく荒廃した。それが人間と熊の棲み分けをできなくする一因でもあった。これは日本の山村だけに起こったことではない、グロ-バリズムの世界経済の結果起きたことなのだ。これはアフリカであろうがどんな奥地までグロ-バリズムの経済は浸透したのだ。だからコヒ-だったらコヒ-という商品作物しか作らずそれが不調に終わると値段が下がると自給自足的な経済がなくなり飢えてしまうという結果にもるなる。すべてが世界経済に左右されているのだ。例えばゴ-ルドラッシュ時代に西部に押しかけた人々が空を埋めつくすように飛んでいたリョコウバトを食料としてとりまくった結果絶滅した。これは人間の狂気のような黄金への欲望の結果、リョコウバトは絶滅させられたのだ。まさにこれが現代のグロ-バリズム経済の発端であり象徴でありそれが世界的に狂気のように拡大化したのだ。資源がとりつくされ動物もその住処を追われ絶滅してゆくのだ。それは人間にもはねかえってくる。

これまでの農業は文化である。文字通りその土地を耕すCULTUREである。でも文明やグロ-バリズム経済は文化ではない、世界の資源を効率的にとりつくすという暴力的なものである。地域地域での自然のサイクルに生きるのとは違う、世界経済の中でとれるものはとりそれを売るという経済である。だからどこでも日本人が好きなマグロでもタコでも不足してくるのだ。思うにその土地土地でとれるもので生活するのが自然の理にかなったものだった。バナナなど本当に食う必要があるのか、外国の果物を食うのは贅沢ではないか、日本でとれる、ミカンやリンゴや柿や他にもいろいろありそれで十分な気がする。日本の土地に根付いたものは日本で耕すCULTUREになった。それは食料というだけではない、文化なのである。柿の種類が千種類あり地域地域の名のついたものが無数にあることでもそれだけ品種改良が行われた証拠である。
(柿の話)

とにかく自然は微妙な自然のバランスの上に成り立っている。人間が操作してもそれが自然にとって熊にとっていいこととは限らない、天敵の狼がいなくなり鹿がふえたり北限の下北の猿が保護したらふえすぎて畑を荒らして困っているとかそうした自然のバランスがかえって自然保護の名のもとに乱してしまうというのも皮肉である。人間が操作すると自然は乱れるというのは老子の言う通りである。無為自然の思想であるがでも日本の自然は微妙に自然と調和した世界を作ってきた。第二の自然の世界を狭い国土の中に作ってきた。だから今でも森が世界で一番多く熊がこれほど文明が発達した社会にいることは世界でも不思議なことである。それは日本が山が多いこともあるが自然と調和する世界を作ってきた歴史があるからだ。和をもっと尊ぶべしとは自然との調和も言っていたのである。



工業化とかグロ-バリズムは自然から分離したものであり
そこに断絶があり世界的な文化の破壊になっている
工業化、都市化、グロ-バリズムは自然の定め、掟などから
人間のル-ル、効率化とか合理性の追及となる
それは人間側の都合で自然を歪めてしまったのだ



全体と部分の問題(見えない全体)

いろいろな問題を考えるときどうしても全体と部分、社会と個人という問題につきあたる。今回の熊騒動でもそうだった。自然は熊だけではない、熊というのは自然のサイクルの一部である。自然は全体に存在意義があり全体の中で活かされているのだ。だからドングリを集めて山にまけとか人間側の保護するというのはかえって身勝手になる。つまり自然は全体に機能しているのでありそれが熊という一部に人為的介入することは自然のサイクルを乱すことになるのだ。

オオカミの数が減れば、それだけシカの数が増えるはずだから、オオカミが全滅すればそれこそハンターの天国になるぞ、と思っていた」(レオポルド『野生のうたが聞こえる』)とレオポルド自身回想している。その結果、シカは一時大量に増えた。だが、今度はシカは餌を食い尽くして餓死を始めたのだ。そして、シカはオオカミがたくさんいたころよりも減ってしまったのである。

シカでも熊でも猿でも一時的にふやすことは自然のバランスを壊すことなのだ。人間は個々の部分はわかりやすいし目につくからなんとか助けようとする。しかし自然全体に目を向ける人は少ない、木を見て森を見になる。全体とは大きなものである。それは人間の視界を越えている、神の目が必要になるから見えないのである。森全体を見ているのは機能させているのは神である。これは大きな力であり人間の力を越えている神秘である。地球全体を見渡せる人がいないように全体は神秘なのである。それは造り主のみ知りえることである。全体というとき例えば京都の町屋保存などでも景観が問題になるとき全体の昔ながらの景観を維持させることに意義がある。一軒だけぽつんと残されても意味がないのだ。でも今の時代に全体の景観を残すことはむずかしい。一軒一軒の町屋住まいの人は近代的家にしたいのである。個々の家はそのために全体の景観保護のために犠牲的になることが要求される。
ヨ-ロッパで街全体の景観が保存されるのはパブリックという公共という市民社会が歴史的に存在したからだ。市役所とかまるで中世の城のようなものもあり歴史的伝統がそこに息づいているのだ。civilzationのcivilは都市であり市民でありそもそも公共のものをになうという意味だった。それがcivilzation(文明)なのだがそれぞれのエゴの追及になっていないから文明が実は野蛮になっているのだ。野蛮なる制限なき欲望の追及がグロ-バル化になった。

全体というとき民主主義も数が多いことで決めるとなるとその大勢によって決められたことにより犠牲にされる人がでてくる。交通事故なんかそうである。社会は全体は自動車社会を維持したい、それがなくなれば不便になるとか景気が悪くなるとか自動車社会は例え一万人死んでも全体的合意の社会でから犠牲者はしかたないとなる。これは戦争でも同じである。戦争は悪いものでもみんなの合意でやるのだから犠牲者がでてもしかたないとなる。交通戦争も戦争でありそうなのだ。全体のために犠牲になる人は必ずいる。民主主義も多数決で決まる。多数決で決まったものには従わざるをえない、それが間違いでも従わざるをえない、今回の飯館選挙で合併の反対の村長が当選した。これは経済的に苦しくてもそのリスクを負って村民が独自の村作りをすることに決まったのだからその方向で努力することになる。それが苦しくても反対だった人もそう努力する他ないのだ。その責任はそう決めた村民にあり村長にある分けてはないのだ。ただ民主主義で大事なことは情報開示であり言論の自由があることなのだ。それがなければ正しい判断ができなくなるからだ。

ただ自然は人間の社会とは違う、人間を越えた神の力により智恵により成り立つものだから投票で決めるわけにはいかない、その全権は神にあるのだ。人間に関してもその全権は神にある。人間にはない、神が人間を滅ぼすとしたら人間がいくら反対してもだめである。多数の嘆願書をもっていってもだめである。そのとき神の言われたことは一〇人でも義人がいれば助けるということだった。多数ではない、少数の人こそ救ったのである。ともかく人間は全体が見えにくい、グロ-バル化経済でも全体は地球全体を考慮する国はない、公害を出しても中国でもアメリカでも自分の国はエネルギ-を使ってもいいと考える。それがその国の要求であり無視できないからだ。国のエゴがあり国のエゴを脱するのもむずかしいのだ。その国のエゴがその国では全体の意志となっているからだ。グロ-バル化というときまさに全体を考えることなのだが全体の利益とか考えて行動しているものはいない、企業は企業の利益追及であり国は国の利益追及であり個々人はそれぞれの欲望の追及なのである。自然は神の智恵により全体を調和させるが人間は地球全体を調和的発展に導くことができないのだ。「神の見えざる手に導かれて」というグロ-バル市場経済化は極端な貧富の差や環境破壊や様々な弊害をもたらしたのだ。

われ(我)の意味

万葉集に「われ」はわれるから来た歌がある。われは割れるからきたとすると人間の我の意識は全体から割れた、われなのだ。全体から分離したの我であり我々はいうとき(割れ割れ、破れ、破れ)であり割れたもの同士がどうして結びつくが問題になる。自然というものエデンの園ではこの割れた、分離した意識はない、全体のなかにつつまれていた。エデンの園を追放されたとき、バベルの塔が神の怒りで崩れたとき人々は常に分離して意識が通じなくなった。神から分かれた割れたからそもそも人間は調和しないのである。



文化が交わり育むには長い時間が必要

グロ-バル化がなぜこんなに問題になるのか、それは急速な技術の進歩のために世界が混乱したためである。世界の文化の交流は非常に長い時間をかけて行われた。宗教でもそれが普及するのには長い時間がかかっている。仏教でもこれがインドからアフガニスタンを回り西域に中国に到達して韓国から日本へと何百年もかかっている。日本まで到達するのに非常に長い時間がかかっている。その長い時間の中で仏教はその土地なりに変質していった。だから仏教は東南アジアの仏教と中国の仏教と韓国の仏教は違っている。その土地に文化にマッチしたものに変質したのである。そもそも異質なものが交わる文化が融合するには非常に長い時間がかかる。技術をとり入れるより長い時間がかかる。日本でも山彦と海彦が交わり融合するのには長い時間がかかった。その長い間に祭りが共同化していった。それは悠長な時間が与えられていたからできたのである。

現代の問題はそうした融合するための時間がない、飛行機などの交通の発達がそうした土地土地の文化など無視して異質なものが突如入り込んできたのだ。船だったらまだいい、これもヨ-ロッパから日本に行き来するのに一年かかるとかとんでもない長い時間を要した。戦前までもヨ-ロッパには船で行く他なく一カ月もかかった。こういうふうに離れていて交通もむずかしいとなるとその土地土地の文化は破壊しにくい、インカの悲劇は馬というものを知らなかった。馬に恐怖したり鉄砲の威力などでほんの一握りの荒くれ男たちによって征服されてしまったのだ。異質な文明が遭遇するときそういう悲劇が起きる。特に技術的差が大きいとそうなりやすいのだ。現代のグロ-バル化の問題は技術の発達であまりにも急速に交わりすぎたことなのだ。過去の文化や文明の交わりかたはかなり時間をかけたものだった。ロ-マ帝国でも300年くらいかけているからだ。そうした長い時間の中で作られたのである。そうした時間がなく今やその百倍くらいの速さで交わっているのが現代のなのだ。

自然はもっと信じられないような時間をかけてそれぞれの種がそれぞれの土地に適合している。不毛の島に生物が棲むようになったのは、それは人間が登場するよりはるか昔にはじまり・・・・・風に乗り、潮の流れに漂い、あるいは丸太や木の枝と一緒に流されて、植物や動物は遠い大陸から島へやってきた・・・自然の流儀はきわめて慎重でゆるやかで島に生物がす棲みつくまで数千年、数万年の年月を要するだろう・・・・(失われた森-レイチェル-カ-ソン)

人間でも最初の日本に来た人達も長い年月をかけて人種が混交してこの土地に適合していったのだ。縄文時代が一万年とかとてつもない時間の流れがそこにあった。今の時代はエネルギ-の消費でも凄まじいものでありだからこそここ二百年くらいで石油でも地下資源は枯渇する。急速な技術の進歩がそうするのである。ここ二百年くらいで何か地球の貯えたエネルギ-が消費されて枯渇するというほど凄まじい消費社会なのだ。そのあとにくるものは地球が文明に使い果たされた荒野かもしれない、現実砂漠化が進行しているし人間は棲めなくなるほど荒廃するかもしれない恐怖があるのだ。自然とかかわるものは結局長い時間が必要である。木を育てるにも50年とか農家は三代つづかないと農家として認められないというのは農家の仕事が自然とかかわるからそうなる。商業とか一代もつづかない20年くらいで終わったり工業もサイクルが短い、自然とかかわる仕事は長い時間が必要でありそれが文化を育む。

ともかく性急にすることは歴史的時間にしても自然の時間でもそこに無理があり破綻する。アメリカは性急であり自国の浅い文化の押しつけでありその手段がいつも戦争、暴力になっている。一方ヨ-ロッパとイスラム圏は歴史的長い時間で争いがあっても折り合いをつけてきたからそれなりに相手の文化を尊重するということがある。アメリカにはそういう歴史的時間がないのだ。リョコウバトを絶滅させたようにバッファロ-が絶滅寸前までなったように暴力的で性急なのである。インドとか中国はそれなりの悠久の歴史があるから何か平和的にそれなりに他国と折り合いをつけてゆく文化はあった。ともかく現代は「時は金なり」というごとく時間まで管理されて人間は窮々として余裕がないのだ。結局そこにはインスタント的文化しか生まれない、何か中世のような何代にもわたり大聖堂を作るようなことはない、即席に作り即席に破壊してゆく、モラトリア時代というが全く人間というものは成長に時間がかかる。肉体的生殖的には人間は経験積まなくても教えられなくても動物と同じように成長する。でも精神的な面になると何か理解すること自体とんでもない長い時間がかかる。知識なんかも膨大なものであり何かを理解すること自体相当な時間がかかる。外国なんか知るとなると一回くらい旅行したくらいでわからないしそのあともいろいろ調べたり想像したりしてほんの一部がその人なりわかる。なぜなら外国には外国なりの長い歴史的時間がそこに流れているからわかりにくいのである。読書なんかも中味のある本となると一生読んでいないとわからないようなものがかなりあるのだ。まあ、自分のような才能ないものでも時間をかけるとわかることがあるのだ。大器晩成というのは実際は才能ないものでも時間をかければそれなりのものになるという意味であったのだ。どんな才能ないものでもある一つのことを調べていれば必ず他の人よりぬきんでたものになることは確かだからだ。ともかく現代の性急な交わりはそれぞれの文化を育むのではなく破壊になったりして混乱したのである。自然の長い時間から見れば人間は確かに文明によって栄えたのだがその文明によって逆に衰退を早めたという皮肉がある。その成功を早めたものがかえって仇となり衰退させたのである。つまり性急さが人間の文明の寿命を縮めたのである。



災害つづきの不安

 山古志村にある小松倉集落に隣の広神村と結ぶ全長約900mの手堀りのトンネルがある。その昔、広神村に行くために峠越えの山道を約4qも歩かなければならず、特に積雪が4mを越える冬期間には命懸けだったという。
 そんな危険な峠越えから安全な通行を確保し、また、地域間格差の是正を願いに昭和8年から16年の歳月をかけ、地元住民がつるはしとスコップの手作業でこのトンネルを掘り抜いたのである。


http://www.chiiki.pref.niigata.jp/dukuri/torikumi.asp?id=18

あの辺の飯山線を春に青春18切符で行ったことがあった。まだ雪に埋もれていた。あそこは田中角栄の出身地であり強引にあそこに公共事業をもってきて村をうるおし熱狂的な支持を受けた。ロッ-キ-ドの全日空の汚職事件のときも地元の人は支持して当選した。その裏の事情としてこうした全く山に閉ざされた村の事情にあったのだ。トンネルもない、トンネルを作るのは容易でなかった。なんとか村の人が手堀りでトンネルを作ったのだ。近くに小国などもあるがこの小国はたいがいかなり山深いところの山に閉ざされた土地に多い。青森の温川(めるかわ)温泉という一軒家の温泉宿に行ったときトンネルをくぐり小国にまわった。なんかトンネルをくぐって隠された村に行くような不思議な感覚だった。こんなところにトンネルの向こうに雪に埋もれて村があったことの不思議である。山古志村もこの村とにているのだろう。田中角栄はあのような山国では英雄だった。だからその支持は変わらないしその娘が議員になっても変わらなかった。それほど田中角栄への支持は大きなものだったのだ。その裏の事情としてこういう辺鄙な閉ざされた世界がありこうした所にはここに暮らしている人しかわからない苦労がある。

現実これから雪になりもうここには当分棲めないと言っている。墓までとっぷり雪に埋もれて長い時期を過ごす世界はなかなか経験してみないとわからないだろう。今ではトンネルもあり車をみんなもっているから雪国でもそんなに困らない生活だったろう。しかし一旦道路が寸断されると車も通用しない、山は孤立してしまうということがわかった。ヘリコプタ-でやっと救出された人がいた。いづれにしろ昔はああした山の中でどうして暮らしていたのか自給自足で暮らしていた。でも便利な文明の暮らしは一旦破壊されるとそこで何もできなくなる。特に交通が遮断されると何もできなくなるのだ。ここで改めて道路の重要性を認識した。文明の代表者である自動車は非常に便利なものだが一旦破壊されると手足をもがれたようになってしまう。それに頼りきっているからだ。

それにしても天変地異がこんなに次々に起こってくのはなぜだろう。天災は人災という側面もある。江戸の火事は今なら技術的に防げた。戦後まもなくのような大災害が技術的に防止されている。ただ神戸地震はどぎもをぬかれた。見ているだけでショックだった。たちまち燃えて人間が骨になってしまった。その焼けたばかりの熱い骨をもってマスコミが報道したことにショックだった。なぜあんな大災害になったのか、今回もそれ以上に一時強い地震だった。ここにも何回も余震のゆれがあったから近いことがわかった。でも今のところ神戸地震とは比べものにならない、
ただ山は今地盤がゆるくなっている。雑木林でなく杉など人工林であり地盤が水をふくむと崩れやすくなっている。楢の木だったらしっかり根をおろしているから地盤はしっかりしてくる。これも一つの人災的側面はある。

それにしてもなぜこんなに天変地異が起きるのか、公明が国土交通大臣になった。不思議なのは公明の仇敵である白川氏の地盤でありまた田中真紀子の地盤でもある。何かここに因縁めいたものがあるのか、人事と天変地異が関係あるのか、こうした天変地異が起こるのは政治が悪いから政権交代しろという民主党の議員までいて物議をかもしだした。天罰なのか仏罰なのか、社会党の村山政権のとき神戸地震が起こり次に公明と合体した自民党のとき災害がつづいている。自民党が弱体したとき災害が起こるのか、その因果関係はわからないが確かに災害が人事を左右したことがあった。飢饉のとき犠牲になった女性や太陽の日差しが弱るという恐怖をいだき少女の心臓をえぐりとり神に捧げたインカも今からすると信じられないことだが天候などに対する民衆の恐怖は今より格段に大きかったのだ。地震はいろいろ説明してはても結局その原因も予知もままならぬ。だから不安は一層ましてくるし人事にも歴史にも影響するのである。これを期に政変につながらないとも限らないのだ。創価の人達はこういうことにやけにこだわる。人心が不安になりそれが政変につながるのだ。現実小泉政権の福運は強運は尽きつつある予兆である。余りにもいろいろな問題が噴出してもはや政権をにないない、限界点に達していることは確かなのだから。

地震も悪いことばかりではない

一方日本の土壌や地盤・地層は、いくもの不安定なプレートに乗っかり、常に変動し活動してやむことがない。すなわち世界でもっとも新しく不安定で、しかもリニューアルさ続けている「エヴァーグリーンな国」なのである。

縄文が日本を救う
http://www.urban.ne.jp/home/jyoumonj/help/help0306.html

地震によってキノコが多く出てとれるとか、温泉が新しく湧いたとかあり地震にも何か効用がある。日本が火山国なのだがそれが日本の山々を若々しくする、リフレッシュする、一時的には災害でも新たに山が隆起して新自然が生まれる。山の生活を見直すべきだという意見もあり日本は大和(山戸)であり山を尊ぶ、山の信仰に生きた歴史がある。縄文人も山に生きた、会津や今回の山古志も山また山の世界である。日本ほど確かに海に囲まれているのだが実際は山からその生活がはじまった。山が最初の生活の根拠地だったとことを見直すことが必要な時代になったのかもしれない、地震は地を刷新する、地を変革して新たにするという役割があるとするとこれをマイナスとしてとらえるだけでなくこの地震を契機に新たなものを生み出すということもありうるのかもしれない、自然は災害でもあるがまた恵みももたらすのである。



武器にまつわる話(京都から遠かった長岡-会津藩の悲劇)

今回のイラク戦争の発端は大量破壊兵器があるからということであったが実際はなかった。これはアメリカの言いがかりだった。ただ武器は密接に戦争と関係している。戦争の歴史は武器の歴史だし歴史は武器の優劣で決まってきた。その武器の歴史でインタ-ネットで発見した。

「アメリカ建国史」によると:
「1865年つまり慶応元年、米国内の南北戦争が終了すると、北軍は押収した南軍の武器弾薬が密売商人の手によってインデアン居住区域に流れ込み、アパッチ族始め各地で反乱事件が勃発するのに手を焼き、慶応二年にアーノルド・ジョンソン大統領はこれを国外へ払い下げ輸出する断固たる政策を採った。そこでこの夥しい南軍の銃器が東は上海、西はポートサイドに野天同様に山積される状態を呈した」

ということでこの二束三文の米国払い下げの上海の南軍の銃を長州や薩州に売りつけて儲けた元凶が、長崎グラバー邸で有名な英人のグラバーだ。そしてもう一人の人物がその英国が1815年のウイーン会議で占領したケープ地帯から追われ、トランスバール共和国に移ったオランダ人、エドワード・スネルという男。かれは反英精神に凝り固まっており、「南阿の恨みを日本で」と考えたのか、ポートサイド方面に積んであったアメリカ南軍の銃器を薩長とは反対に幕府に売った。

双方にアメリカ南軍の廃銃が行き渡り、それまでは徳川家だけが独占輸入していた火薬もグラバーやスネルの両方にによって入ってきたから、ここに日本列島も南北戦争を始めた結果が戊辰戦争だという。アメリカが南北戦争をしなかったら、日本列島はその廃物利用の銃器を押しつけられることもなく、従って幕末戦争の惨禍はなかったかもしれないのだ。

スネルの肩入れ空しく、幕府方についた東北列藩は敗れたが、スネルはその責任をとって維新後、会津藩の数人を引き連れ、1869(明治2)年2月、汽船チャイナ号でサンフランシスコへ入港。当時のアメリカ大統領グラントからカリフォルニア州エルドラド郡に六百エーカーの土地を払い下げさせ、日本人最古の入植地「ワカマツ・コロニー」を建設した。茶の栽培と養蚕を目的としたが、資金不足、病の流行などのため挫折。スネルは資金を調達するといって会津藩の人々を残して日本へ戻ったのだが、そのまま行方知れず。一行の中におけいという少女が、子守役としていたが、1871(明治4)年、十九才で病死。同地に墓碑が建てられたという。


遅れた貧しい国は古くなった武器を売りつけられることが多い。ソビエト連邦が強大なときは武器製造が盛んでありソビエト連邦が崩壊してもソビエト製の古い武器が輸出されていた。恐ろしいのはソビエトには核兵器くらいしか売るものがないとか核兵器を使うかもしれんから核の学者を技術者をアメリカで採用してくれとか脅されたことである。北朝鮮は今でも核兵器で脅して利を得ようとしている。戦国時代に信長がポルトガルから入った鉄砲を利用して優位にたったように鉄砲の威力は絶大だった。武田の騎馬軍との戦いでも威力を発揮して勝利した。明治維新の時代、動乱の時代でありそこには様々なドラマがあった。その一つが会津の悲劇だったのだ。地震があった長岡藩も幕府に抵抗した。かなりの抵抗できたのはガットリング銃を使ったからだ。

具体的に小泉首の演説のなかから、「米百俵」のエピソードを題材にする。あのエピソードはあくまで結果であって、戊辰戦争当時、長岡藩が官軍と戦うため、連射できるガットリング銃など、軍備に金をつぎ込んだことを忘れている。だから、長岡藩は戦いに敗れたあと、悲惨な状況を迎えたのである。


ガットリング銃で抵抗した筆頭家老の河井継之助会津の只見の塩沢で死んだ。長岡藩と会津藩は連盟で官軍と戦ったが敗れた。あの動乱の時代にまつわる歴史は様々ある。会津藩士が一番ひどいめにあった。武器が売り込まれその武器の犠牲になるのは内戦を起こす人達である。もうかるのは外国の武器商人になる。これはアフガニスタンなどでも起こったことである。戦争の原因の一つが武器にあるのだ。「剣を持つものは剣にて滅ぶ」というときまさに人類の歴史は武器製造の歴史でもあった。武器により殺戮は苛烈さをますのだ。その最大の悲劇が広島の原爆だった。地震で長岡のことなどインタ-ネットで調べていたら武器のことや会津藩の悲惨な一抹の歴史を発見した。サンフランシスコまで行っていたのは驚きである。サンフランシスコがゴ-ルドラッシュになり西部から荒くれ男が鉄道を通じて押し寄せてきた。(ユタ州プロモントリーで西からと東からの鉄道が結ばれた結節点であり それがGolden Spikeというのは最後の枕木を固定した金色の犬釘その記念のレ-ルがある。)そういうさなかに会津からわたってきた一人の少女がいて死んだということも驚きである。その少女の墓も残されていた。こうした少女まで動乱にまきこまれたのだ。

ともかく会津とか新潟の長岡とか山古志村となるとずっと京都とからは離れた奥地である。これを実感したのは青春18切符で会津から飯山線-飯田線 を行ったときだった。会津-長岡はどっぷりと雪にうもれていたが徐々に消えて豊橋にでてたときは花盛りの春だった。途中に長篠の戦場跡という駅がありそこで武田の騎馬軍と織田信長の鉄砲隊が戦ったところだった。それは本当に電車でもかなり遠い、飯山線も飯田線も今は一両のワンマンカ-のようになっている。一日何本しか通らないのだ。ここをずっ-と乗り継いで行ったときやはり遠かった。この遠さがやはり旅には必要である。新幹線のように早ければ歴史はわからなくなる。武田軍にとっても京都が遠いからこそ織田信長に阻まれたのであり地理的要因が非常に大きいのだ。尾張は海に望み京都に近い地の利によって勝利が約束されていたのだ。武田や長岡藩や会津はあまりにも京都から遠すぎたのだ。それが一番の敗因だったのである。当時はこの距離によって阻まれており連絡もままならないしそれが遅れをとったのである。

春の日に長篠城に下り来ぬ山国の将の夢ここに破れぬ

信長に打ち砕かれぬ長篠や春の日下る三河の国に




飯山線→飯田線→豊橋まで(鉄道の旅)