2001/9-2001/12

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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
(近況報告ー日記)
小林勇一 感想はこちらへ

中近東の詩(砂漠の詩)(参考)

テロの背後にあるもの
アフガニスタンの悲惨な状況1
中世世界の残存(イスラムの挑戦)
敵は一体誰なのか(アメリカのテロの背景)9月21日
地獄の使者(グローバリゼイションの光と影)9月23日
不平等の自由(震え上がった自由の女神)9月26日
自由社会のジレンマ 10月2日
ネットワークの時代(イスラムの反逆)10月5日
日本の危険 (日本はアメリカの傀儡政権)10月10日
宗教の対立なのか 10月11日
人間を無視するグローバリゼーション 10月18日
根強い封建制 12月14日
一年を振り返る 12月30日
俳句でふりかえるこの一年 12月30日



   テロの背後にあるもの

今回のアメリカに対するテロの意味は何なのか、ラデン氏が犯人だといわれがソ連がアフガニスタンに進攻した時、アメリカはラデン氏とともにソ連と戦ったのだ。イラクとイランと戦った時もイラクにアメリカは武器を供給し応援したのだ。大国のエゴや身勝手や驕りの結果、小国はふりまわされているのだ。アフリカであれ中東であれアジアであれ南米であれアメリカやヨ−ロッパに分断され仕切られてそれが紛争の種となっているのだ。イスラエル自体イギリスとかアメリカによって作られた国なのだ。宗教対立のことを言うけど欧米がかかわる前イスラム圏のなかでユダヤ教もキリスト教も共存していたのだ。実際の対立構造は米ソの冷戦の時と同じように大国のエゴと驕りによって勢力争いで小国が踏みにじられことに対する不満なのだ。ベトナムもカンボジアもアメリカによる、大国のエゴの勢力争いの犠牲の面があった。イランによるホメイニの革命はイランにアメリカがいた時、イランに旅行した日本人が言っていたが8000人くらいの娼婦がいたという。それにイスラムの宗教国家が反発したのだ。イスラムは性に対してアジアはとは違う意識を持っているのだ。

底辺にアメリカに対する経済第一主義の不満があるのだ。これは日本に対してもあるのだ。経済格差で踏みにじられた国々の不満が大きいのだ。宗教はそうした経済的不満に火をつけるのだ。サウジアラビアにイスラムの聖地がありそこがアメリカの軍が入り汚したというのも一理ある。アメリカは他国にずかずか入って踏みにじってきた。ベトナムでもそうだし日本にたいしてもそうなのだ。いずれにしろテロとかゲリラは防ぎようない、ベトナムもゲリラに負けたのだから、世界を戦場とするゲリラ戦を防ぎようがない。それにしてもアメリカは核兵器やらミサエルや外部に対して万全の備えをしていた。しかし内部からの攻撃には弱かった、アメリカは世界の人を受け入れて発展してきた。しかし内部から撹乱されると弱かった。内部からの攻撃には弱い、トロイの木馬も敵の内部に入った時、もろくも崩れた。巨人の体も一匹の虫が内部に入っただけでさすがの巨人も倒れる可能性があるのだ。

では日本がどうすればいいのかというと日本が余りにも石油とかアメリカに対して物を売るとか相手の国を経済を利するものとしてしか行動していない。商人国家になりすぎているのではないか、そこに外交哲学も理念もないのである。中東を旅行して中東びいきになる人が多い。日本人に好意を持っている人が多い。アメリカが全部正しいわけでないのだからアメリカ一辺倒になるのは危険なのである。アメリカは本土が攻撃されたことがないから他国が攻撃される痛みがわからないというのもテレビに議論で聞いていて一理あると思った。確かに日本は自分で立つ気力をアメリカに負けてから失ってしまった。経済的に利すればいいとなってしまった。もの凄く功利的利口な国家になったのだ。でも利だけで利を動機として動くことは世界から反発される。アメリカにすべて追随するのが危険なのはアメリカが正義の国ではない、正義を言っても正義のために戦うとは限らないといことである。とにかくアメリカに対する不満は世界の底辺国にうずまいているのだ。それが常にテロとなり噴出するからテロがなくならないのだ。

もう一つマスコミ日本の問題としてパレスチナ人が700人も死んでいる戦争状態にあるのに報道も少ないし真剣に自分たちの問題として考えることないのである。パレスチナ人にすれば大変なことでありやりきれないことなのだ。日本がどうかかわるかむずかしい。触らぬ神にたたりなしで関わらずいるのがいいことは確かだが今の世界嫌がおうでも鎖国などできないし世界とかかわらざるをえないのだ。日本人でも世界のどこともかかわらざるを得なくなっているのだ。今回実際日本人が犠牲になったことでもわかる。日本人もどこで被害に合うかわからない、イスラエルではイスラエルの旗を燃やしていた人に間違われて頭をこずかれた。旅行していてもエジプトでも旅行者が被害にあったように国際問題、政治問題とかかわらざるえないのだ。


 参考のリンク
           
  アメリカが育てたイスラム過激派      西欧文明とイスラム文明
    正義という不正義       アラブアフガンとオサマ・ビン・ラディン
                 

  

  アフガニスタンの悲惨な状況1


アフガンの状況はベトナムと比べてみるとその戦力は劣る女性は戦力にならない、奴隷と同じでありベトナムとは全然違う、ベトナムでは女性も兵士として共に戦った、それからアフガンでは餓死者も年間百万単位ででているという食料不足である。難民も400万でている。いずれにしろこの国の実情はほとんど報道されていないからわからないのだ。子供もほとんど親をなくして失意の状態にある。
ベトナムではタピオカとかの野生のイモが南国なのでいくらでもとれたマレーシアで戦った人が言うには余りにも成長が早いので大きくなるの見ていろといわれたそうだ、見ているまに大きくなるということだ。稲刈りする隣で田植えをしていた。民衆は女性はすでに難民化している、ベトナムでは民衆は生活してベトコンをかくまい助けたのだ。タリバンはイスラムからの助けも得られない、孤立している。

ただ危険な兆候としてナイジェリアでイスラム教徒ととキリスト教徒の争いがあり100人くらい死んだ、これはイスラムとキリスト教側の全面戦争になる危険性をはらんでいる。このニュースは大きなニュースだがマスコミではながされていない。オサマ・ビン・ラデンと似ているとインド系アメリカ人が誤って殺された。イスラム教やアラブ人が無差別に暴行されたりしている。これに反発してイスラムの義勇兵がアフガンに集まると危険である。しかし食料やロジステック、後方支援がないとしたら戦えない、ベトナムとは違い補給路を断たれたら弱い、地形的には有利だが国境線を封鎖して補給路を断つ戦略をアメリカは考えているがこれは有効だろう。そのためには回りの国の協力が必要だ。とにかくアフガニスタンは一つの国かどうかもわからない、各国が入りこんで四部五列した国なのだ。こうした国がベトナムのように戦えるのか疑問だしまたアメリカにしても未知の山岳地帯に入りこんでどうなるのか予測がつかない不安にかられているだろう。

こういう状況にあるアフガニスタンが一体戦えるのか、むしろ平和への道を歩みだしたのにこんな悲惨な内部の状況では内部から崩壊するようにもみえる。とにかくアフガニスタンだけでは戦えない、戦うとしたら世界同時テロの拡散である。それは日本にも及びつつある。日本はどうすればいいのか、アメリカの尻馬にのり行動を一体化するのは危険である。何らかの仲裁役が望まれる。というのはアフガニスタンは困窮した国であり戦争になればますます困窮するし難民は増大し近隣国の大きな負担となり日本にもその責任がまわってくる。


  ナイジェリアで宗教対立が激化、数百人死亡か

  アジアウェーブ 戦乱の大地アフガニスタン

  ソ連介入後のアフガニスタン内戦

これは簡単な現代アフガニスタン史として基礎として読むのにわかりやすい


  
    
中世世界の残存(イスラムの挑戦)

アラブ人の手は万人に敵対してきたし、万人の手はアラブ人に敵対してきた

田中宇氏のアフガニスタンの侍という記事は面白い。まるで江戸時代の侍の世界がタイムカプセルのようにして残されている。教育も侍と同じで厳しいし近代的法律などもなく報復は自らの手でやらねばならない。仇討ちの世界がまだ残っていたのだ。男らしさとか「「ジハード」はまた、天国に行く近道でもある。ジハードの最中に戦死したら、以前にいろいろ悪いことをした罪深い人間でも、直行で天国に行けることになっている。」という思想は桜が散るように命を惜しまず潔いのを美徳とする侍の思想とにている。遊牧民はもともと部族意識が強く一族の団結に生きるというのも中世から古代の生活が色濃くあの険しい山中に残存した。遊牧民的特質として共通項がある。

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男系の一族意識の強固さ

アジアでは母系社会であり姓が女のごとく男は誰なのかもわからぬ。婿入り婚であり日本でも天照大御神が女性のごとく天皇の祖先は女性だった。アフガニスタンとパキスタンにまたがり
強力な部族が存在し支配的な立場にある。アフガニスタンとパキスタンは結びつきが強いのだ。「タリバンという衣装をまとったパシュトゥーンのナショナリズムの影に怯えることになるのはパキスタンかも知れない。」
タリバンはパシュトゥーン族が中核であることも注意、内戦は部族闘争の面もある。モンゴル族も存在しているが排除され難民化している。
パシュトゥーン人38%、タジク人25%、ハザラ人19%、ウズベク人6% 。概してアフガンに関する統計にはばらつきが大きく、統計によってはパシュトゥーン人が50%を超える、としているものもある。パシュトゥーン人は前述のようにパキスタンとの共通点を多く持ち、タジク人はイラン系、ハザラ人はモンゴル系、ウズベク人はトルコ系、とそれぞれに民族的に異なる

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砂漠が生活の基盤(一神教)

砂漠というのは日本にはないのでわかりにくいのだが砂漠自体が宗教的な礼拝と浄化の場所なのだ。何故なら皮肉なことに何もないということが砂だけの静粛な場は神の棲みたもう場に適していたのだ。常に都会は腐敗の場所だったからだ。砂漠の持っている意味は何もないということであり人間の手によって汚されない場だということである。だからイスラム教というのが砂漠地帯を中心に温存されたともいえる。砂漠というのが中世世界をイスラム世界を温存したことは確かだ。つまり砂漠自体極めて禁欲的な不浄を嫌う場なのだ。砂漠と岩の世界はまた一神教として共通の場であった。

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略奪の正当化

略奪が正当化されるのも泥棒が正当化されるのも理解できないものだが砂漠のような厳しい世界に生きる者は勇敢な行為として奨励された。またそれが生活に不可欠なものとなっていた。略奪婚であるのもそうせざるをえない生活があったのだろう。つまり豊かなものからは奪ってもいいのだという遊牧民の慣わしがあったのだ。遠方の客を歓待するのも遊牧民には情報の収集とか厳しい生活環境から必然的に生まれた習慣である。
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他にも農耕民にはない遊牧民的特質はありこれらを理解しないとイスラム世界を理解できないのだ。つまりタリバンとは何なんだ、イスラム原理主義とは何なんだということが理解できない。タリバンとは神学生の意味でありイスラム原理主義はまさにイスラムの原点に戻る、より厳格なイスラムの教えに回帰するという運動なのだ。今回のテロの背景にはイスラムの中世的価値観と近代的価値観の衝突の結果でもある。イスラエルでの対立もあるが共産主義と自由社会の対立として冷戦があったようにイスラム復古の中世的価値観との衝突も大きな要素なのだ。アメリカや日本など先進国に富が集中するのはイスラムに反する。だからその富を奪っても良いとなるし資本主義的自由社会の物質優先の価値観を否定する行動をとることにもなる。中世的社会からの挑戦なのだ。天皇崇拝による日本の戦争も日本が古代的中世的価値観にあり近代国家と対立したためともとれる。現代でも政教一致を唱え公然と中世的価値観に戻す宗教団体があり日本だって逆戻りすることもまたありえる。ナチスでも近代文明の矛盾が集約されて生まれたともいえるし近代合理主義文明も必ずしも強固なものではないのだ。

ジハードとかの信仰も中世的な信仰が残存しているためである。タリバンで特異なことは難民として育った若者がタリバンとなっている。親も内戦で無くしたような人が純粋培養されてタリバンの戦士となっている。これはルーマニアで孤児を集めて大統領が精鋭部隊を養成したのとにている。自分たちのアイデンテティを築く国家も家族もない所で育った人達である。こういう人達はタリバンの価値観の中で純粋培養されて他の価値観の世界を知らず極端化するのだ。
とにかく近代化とはヨ−ロッパの社会は宗教からの科学の分離、政教分離やら王制から国民主権とか宗教の中世世界からの脱皮の闘争を経て近代世界が成立したのだ。ところがイスラム世界は中世が残存したまま現代に到りそれがグローバリゼーションの大波に洗われイスラム世界は近代化できず取り残された。トルコなどは政教分離して近代国家にしてナトーの一員になった。しかしアフリカも含めイスラム世界は近代世界の論理が通じない世界として残されたのだ。中世の政教一致の価値観の世界である。不遜かもしれないがこれは近代社会のアンチテーゼとして文明否定として無視できない価値観を示して面白いと思ったのである。

でもあんなテロができたのも世界を自由に行き来できる自由社会だからできたことなのだ。欧米の自由社会の恩恵にあずかってできたことなのだ。何故ならこのテロによりこれからは非常に交通とか通信とか宗教でも制約される。江戸時代やまさに中世世界へ逆戻りするかもしれないからだ。アメリカ内で一千万のイスラム教がいたり様々な自由を許す世界であったからこそあんなテロができたのである。もし思想的な問題に限れば歴史は逆戻りできない、イスラムの中世世界に帰ることはできないのだ。欧米世界が様々な不公平をもたらしたことも確かである。でも人々が自由に行き来して世界の経済を活発化することはイスラムでありみんな一致する望む世界である。ただそこに解決せねばならぬ問題は山ずみである。それが先進国に課せられていてアメリカはそれを果たしていなかったことはいえるのだ。

   
 アフガニスタンの侍



   アフガニスタンの悲惨な状況(2)

中国に追われるチベット人の難民がネパールやインドに中国からの独立を模索するイスラムの人々、中央アジアは民族間の抗争で日本人も人質や学者が死んだ、アフガニスタンは文明の十字路、象徴的な場所だった。麻薬、難民、原爆実験、旱魃の餓死、部族間闘争、過酷な女性迫害、そこに介入する天然ガスの利権をねらうロシアにイギリスにアメリカ、日本など貪欲な大国、こんな最悪の環境からバーミアンの仏像の破壊、アメリカへのテロが生まれたのか、パキスタンもアフガニスタンもこんなところにアメリカが入って行ったらますます混乱は深まり収拾がつかなくな
る、


     
パキスタン:アフガニスタン難民への迫害と警察の蛮行
http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2001/06/010607.htm

パキスタンに住むハザーラの女性たち
厳しい「女性隔離」社会に生きるアフガニスタン難民女性の現状(クエッタ


モンゴル族の迫害
http://www.hurights.or.jp/newsletter/J_NL/J_NL_19/No.19_7_00055.htm

タリバンの過酷な女性迫害

パキスタン辺境の悲惨




   
 敵は一体誰なのか(アメリカのテロの背景)

今回のテロ事件の背景なになのか、複雑に入り組んでいる。カスバのような迷路に踏み込む感じだ。この紛争の始りはソ連から分離して独立する中央アジアのイスラムの国々あった。他から見てチェチェンでもトルクメニスタンでも、ウズベキスタン、タジキスタン、キリギスタン、と他に中国になっているウイグル族などがイスラムであり分離独立運動がある。歴史的にイスラムというアイデンティテイがあった。この地域にイスラム原理主義の義勇軍がソ連のアフガニスタンを契機にして入りこんできた。その一人にオサマ・ビン・ラディンがいたのである。ではこれらの小国が成り立つアイデンティテイはイスラムだけかといえばその前にウズベク族、タジキ族、キリギス族とか民族が存在した。つまり国の起こりは民族にある。

ここは民族のモザイクのようになっているのだ。トルコのイスタンブールにアフガニスタンから来た商人が来ていた。その人が日本人とそっくりだったのだ。おそらくモンゴルが一時ここも支配してモンゴル人が残ったから日本人とにている人がいる。チベットにもモンゴル人は残った。今問題になっているパキスタンのクエッタにはアフガニスタンからきたモンゴル人がいて差別されているというのも民族の興亡の激しさを示している。この辺の地理とか人種とか歴史はわかりにくいがシルクロードで栄えた歴史がありトルコは茶をチヤイと言うごとくつながりがあるしモンゴル語とトルコ語も共通点がある。イスタンブールの絨毯売る日本人がこの辺はトルコ語を知っているとある程度通じると言っていたから共通性があるのだ。イスラムには遊牧民としての文化の共通性があるのだ。国境という観念が希薄なこと、遊牧民は自由に移動するからだ。国境を超えてアフガニスタンにイスラム原理主義の人々が集まるのもそうした国境にとらわれない文化があるためだろう。

アフガニスタンの問題の根はソ連のアフガニスタンの進攻にあった。これに対抗したのがパキスタンでありアメリカであったのだ。その後ソ連が引き上げてからはアフガニスタンは内乱状態になりタリバンをパキスタンが応援してタリバンがアフガニスタンの90%を支配するようになった。そもそもタリバンは神学生の意味でありアフガニスタンの難民を受け入れたパキスタンが神学生として教育して育てたものなのだ。アメリカもパキスタンもかつての友を敵にするハメになっているのだ。冷戦の時ソ連に共産主義に対抗するために共同して戦ったのである。冷戦構造が壊れた時あとに残ったのは民族独立運動とイスラム原理主義の台頭である。この問題の複雑さは誰が一体アメリカの敵なのかということである。不思議にロシアも中国もチェチェンでウイグルでイスラム原理主義の台頭とテロに手を焼いているから大国はイスラム原理主義のテロには反対なのだ。

とすればアメリカにしてもやりやすいはずなのだがそうはいかないのはイスラム原理主義というイスラム全般に及ぶところが戦いの相手となるとそれを根絶することはむずかしい。イスラム原理主義の過激派がテロをするのだがイスラム原理主義にはすでに過激な思想があり欧米的な価値観を排除するものがあるのだ。イスラム原理主義の価値観、共産主義の価値観、自由民主の価値観、この思想を押し付ける戦いになると譲ることができないから妥協のない戦いとなる。でも結局共産主義が残ったのは中国だけでありこれもかなりゆるめられたものとして残りベトナム戦争にしても実際は民族自決の闘争であったし外国人の支配に対して戦ったのだ。

アフガニスタンの闘争の一面は外国人の支配を許さないという民族独立の闘争でありこの内訳はパシュトーン人による支配ということがある。そのパシュトーン人人はタリバンでありそのタリバンにイスラム原理主義が入り欧米や西側に対抗するテロをまき込んだのだ。もしタリバンがアフガニスタンの闘争を民族独立闘争に限定すればアメリカを敵にするようなことはなかったのである。共産主義がそうだったようにイスラム原理主義の信仰や思想闘争になると広がりが大きくなるから敵も世界的になるのだ。ここにこの問題の複雑さあるのだ。テロをした人々はチェチェン人がいたとかエジプトにアルジリア人とかイスラム圏全部に及んでいるからだ。その中からテロが生まれているのだからこの解決は長くかかるとブッシュ大統領自身が言っているのだ。

今回の事件はアメリカのみならず世界にとってあまりにショックだった。ではこのテロを簡単に根絶できるかというとこのように背景が複雑であり誰が敵なのかということが明確化できないのでむずかしいのだ。西部の無法者を捕まえるような簡単なものではないのだ。アメリカが怒るのはわかるのだが今ままで延べた複雑な国の事情やイスラム原理主義との信仰的戦いになる危険性があるのだ。共産主義の戦いと同じようにやっかいなものになるのだ。アフガニスタンにしても民族独立の国益だけを計るものなら今回の問題にまき込まれずにすんだのである。近代国家は世俗国家であり厳格な宗教国家とは相容れない、政教分離であり政教一致のイスラムが過激になるのは政治問題、経済問題でも宗教問題になるのは政教分離でないからだ。近代国家では悪の行為は法律で罰せられるのだがイスラムでは宗教が法であり聖職者が裁判官であれ聖職者に罰せられるのだ。聖職者が世俗にも権力を行使できるのだ。

タリバンの異常な行動、買い物に来てちらっと顔見せただけでタリバンの兵士に殺されたというのもそうした政教一致からくるのだ。創価学会にしても宗教だから批判できないように政教一致の政治は恐ろしいものとなるのだ。政教分離が近代国家の基本的な前提だということを日本人は真剣に考えないのである。イスラム原理主義の過激派がオウムのようになりいないともいえない。いずれにしろアフガニスタンは世界最悪の地獄であったことに驚いた。攻撃する建物も破壊されつくされ草も動物も水もない何もない世界で麻薬だけ生産している、大国のエゴの結果でもあったしそのとばっちりがアメリカにいったのかもしれない、確かにアメリカは天皇民族主義と戦いナチスと戦い、共産主義と戦い、一面勝ったといえる、しかし今回の敵はそうした明確に対立するものがない、イスラムが全部、イスラム原理主義でもないしイスラム原理主義が全部テロを起こす過激派でもないからだ。この問題の難しさは敵を特定化できないからアメリカが勝手に敵を作り出して敵をふくらませるという恐ろしい結果にもなりかねないのだ。実際大規模の軍事行動も疑問だしそうなりつつあるのだ。攻撃する方も非常に危険でありそれに一方的に追随する日本も危険をまねがれないのだ。


         
  地獄の使者(グローバリゼイションの光と影)

今回の事件は誰がなんの目的でやったのか謎が多い。その結果はあまりに重大なのでサリン事件のように誰かを犯人にすぐにして罰を与えたい、それでA氏が怪しいとなり警察は失敗した。こういうことは人間に良くあることである。個人的にも犯人でないものを犯人扱いする。自分もそれでとんでもない失敗した。またこのために無実の人がぬれ衣を着せられることもある。ネロはローマに放火しておいてその責任をキリスト教になすりつけた。誰かをスケープゴートにする、とにかく怒りに血が上った人を鎮めるには誰かを犯人にしたい気持ちを押さえることができない。そこでどうしてもそうした悲劇が起こるのだ。だから証拠主義とかの法律が整備されたのだ。

では何を目的としたテロなのか、経済的な富の象徴のビルと国防省や議会が狙われたことは政治的なもの経済的なもの軍事的なものつまりアメリカの世界を牛耳る覇権への挑戦だったことは確かである。それに不満を持つ人が多いからだ。アメリカの権威の失墜を狙ったのだ。その政治的反勢力として先鋭化しているのがイスラム原理主義であるし各地で過激なテロを繰り返している。ではイスラム原理主義とは何かというとイスラムの原点に帰るという復古運動だからそれは現代文明、欧米が基準の文明を否定する面がある。イスラムでは今でも酒は飲まないとか女性は顔みせないとか欧米とは違う価値観に生きている。それが極端になるとタリバンのようにテレビも見せないということになる。文明そのものの価値を否定することになる。それは何もイスラムだけではない文明的価値観の社会を否定する人はいる。

現実に文明を否定して自動車に乗らないとかテレビを見ない中世のような禁欲生活をしているキリスト教団体もいる。だけどそういう人達はあんなテロを起こさない、文明を破壊するまではしない。イスラム原理主義者が世界の人に女性は肌を見せるなとか音楽やテレビを禁止すると強制することはできない。そういう文明否定者ではなくアメリカの覇権に対するテロであった。その象徴が経済のセンターのビルであり国防省だった。もし文明そのものに対して敵対するとなると機械に職を奪われたと言って機械を壊した人や汽車が馬車を無用にしたとして汽車を破壊するようになる。文明の技術そのものに対して攻撃することになる。飛行機をテロの道具に使ったが飛行機を世界で運用する文明に反対してテロを行ったわけではないのだ。自動社会に反対するなら自動車を作る会社にテロをくわえることになる。自分も文明に疑問を持つものだからそういうテロの動機は持っている。とにかく結果的に飛行機が使いずらくなったから飛行機社会に打撃を与えてしまった。飛行機を世界的に安全に使いなくなることはグローバリゼイションを推進することに反対するものにはその目的にかなったことである。ではグローバリゼイションのものが関係していたかとなるとこれも不充分である。自爆テロまでしていないからだ。国防省や議会まで破壊することにはつながらない。自爆という行為はイスラム原理主義の過激派がすることでその他の人はそこまではやらないだろう。

とにかくこれだけの犯罪を誰がやったのか犯人が見つからないから迷宮入りにすることはできない。ネロのためにキリスト教徒が犠牲になったようにイスラム教徒の血をみることも要求される。激しい憎悪をどこに向けていいかわからないからだ。オサマ・ビン・ラデンはそれゆえ大変な悪玉にされているのだ。アメリカ人の憎悪を一人に向けさせることはわかりやすくていいからだ。魔女狩り的な側面もでてくる。何かの不満や憎悪を魔女を仕立ててその鬱憤を晴らすことになる。そこで浮かび出たのがタリバンというアフガニスタンの奥深い山岳にこもるゲリラである。

かつてモンゴルは西洋人にタタール地獄の使者と恐れられた。実際アフガニスタンの惨状は平和な豊かな暮しをする西側世界には地獄であった。あんな餓え死ぬ子供や地雷で両足のない女性まで映されたのには驚いた。国民の多数が難民化している中で一方は戦いに明け暮れている。殺し合いに明け暮れている。戦国時代というのも理解しかねるのだ。不毛の地のなかで餓え女性は虐げられ子供は死んでゆく。まさに現代のグローバリゼイションの影の部分が対照的にまるで地の底の地獄がこの世界に浮かび出たようにその無惨な姿を現したのだ。それと同じように反映の絶頂にあるニューヨークも無惨な姿となった。結局こうした現代の矛盾が象徴的に現われた事件だったかもしれぬ。犯人が特定できないというのは文明のグローバリゼイションの矛盾からきているからかもしれない。世界ではアフガニスタンのことなど忘れていた。自分も知らなかったのである。とにかくこの世の地獄から地獄の使者がやってきたことは言えるのだ。

世界が一つだというときその地獄もまた一つなのである。世界の分身であり自分の分身なのだ。明らかにアフガニスタンの地獄を闇を作ったものはアメリカにも一因があったからだしおそらくそれに追随する日本にもないといえないのである.。何事光と影があり人は光の部分だけに生きることはできないのである。必ず影からの逆襲がやってくる。それが今回の事件の深層かもしれない。グローバリゼイションはこの光と影をかえって際だたす矛盾を剥き出しにしてしまう面があるのだ。持てる者強いものには弱いものを踏みにじることがグローバリゼイションになってしまうのだ。確かに売るものがないから麻薬を作る、女性は体を売らねばならぬ。何もないものにすれば麻薬を売って何が悪いともなる。イギリスは中国に売るものがなくて麻薬を押し売りした。そういう論理も成りたつのである。グローバリゼイションはそういう貧しいものに対して麻薬を作りを強制する面があるともいえる。グローバリゼイションの商品経済は売るべき商品を作り出さねばならない運命を課しているからだ。グローバリゼイションは後進国に環境破壊とか様々な負担も強いたのだ。
アフガニスタンの子供の死者の衝撃の埋葬の写真が見られる
(アフガニスタン12)
       妖精現実


                   
       不平等の自由(震え上がった自由の女神)
    
 今回のアメリカのテロでは自由の女神も震え上がった。アメリカとは人間とは自由を求めその自由を実現した国がアメリカだったからだ。アメリカに暮らした訳でないから実感ないけどアメリカは宗教であれ人種であれ世界のありとあらゆるものが集まりその自由を許した世界なのだ。日本では信じられないほど異質なものが混在した世界なのだ。またそれを許した世界でもある。シーク教徒もいればチベット教徒もいればモルモン教徒もいる。こうした人々を一つにまとめる理念は何かというととにかく異質性を許容し自由であることなのだ。法がそれを保証するのだ。権力が宗教や思想や個人的自由に関するものになるべく関わらないことに法的に決めている。職業選択の自由、移動の自由、報道の自由、・・・・・様々な自由を認める。今回のテロはこうした自由社会であったからこそあんなだいそれたテロも実行できた。国を越えて自由に行き来できる、金さえあれば飛行機にも自由に乗り移動できる。どこの国の人でも飛行機の運転も習うことができる。これほどの自由があったからこそあんなテロができたのだ。

ではこういう自由が当たり前であったかというとそうではない。江戸時代をみればわかる。関所だらけであり旅すること自体大変なことだった。「入り鉄砲、出女」であり江戸時代あれ中世であれ他国から攻められることが最大の恐怖であり市は城壁で囲まれていたし城下町も不便でも防衛のために道は狭くわざと曲げて敵を入りずらくするためにつくられていたのだ。民衆は見ざる聞かざる言わざるで言論の自由も皆無であり裁判はお上がきめるものでお上からのお情けの判決をありがたく受けることでなんら弁護士を通じて文句を言うことすらできなかった。我々が今享受している自由などなかったのだ。もちろんこの自由は技術の発展とともに拡大した。外国に簡単に行けるのも飛行機が発明されたからである。今回のテロはこうした自由社会を壊すほどの恐るべきものだった。何故なら現実いろいろと自由が制限されるかもしれないからだ。飛行機に乗ることが恐怖であることは移動の自由がかなり制限されてしまう。

歴史的にも宗教の自由というけどキリスト教とイスラム教が一国にあるという社会は最近の社会なのだ。キリスト教でもカトリックとプロテスタントが混在することもありえなかった。何故ならカトリックとの血みどろの戦いからプロテスタントが生まれたからだ。今でもアイルランドでは血なまぐさい宗教のテロがカトリックとプロテスタントで続いている。こうした宗教的争いもまた宗教が世俗の権力に関わることを禁止した政教分離も実は様々な宗教や思想の自由を保証するために生まれたものなのだ。その自由を得るためには大変な血が流されたのだ。日本にはそうした法律ができた歴史がないからそうした自由を得るために血を流した歴史がないから政教分離の法律でもほとんど関心ないのだ。他にも法律の重みを理解してないのだ。戦争で苦しんだから二度と戦争したくない不戦の法律はそれなりに重みがあるのは歴史的経験からできたためである。押し付けられたとしても二度と戦争はしたくないという国民の総意がそこにはあったのだ。

では今回の事件の意味するものは何なのかというと彼等にとってこうした先進国の自由は否定してもかまわない、そんな自由などいらないということもいえるのかもしれない、というのはこの自由も力と富のないものには無縁だからだ。自由は力あるものが自由を得るのだ。戦争に負け奴隷にされたものには自由がなかった。黒人は奴隷として連れてこられアメリカでも自由がなかった。これはグローバリゼーションの世界でも富と力のないものには自由はないのだ。先進国は自由に外国に旅行できる。女も買うことができる。ところが後進国は金がないのでできないのだ。旅行する自由があっても金がないからできないのだ。現代は国にかかわらず金さえあれば自由はえられるのだ。オサマ・ビン・ラデンも金があったからアメリカに抵抗できたのだ。金でほとんどのものが買えるのが現代の自由社会なのだ。

テレビ局でも新聞社でも金でそんなに高くなく買えるらしい、だから簡単に宗教団体に買収される。権力とは現代では金であり個人でも金があると大概の自由は得られるのだ。そうした切実なことがアフガニスタンで起こっている。パキスタンに難民が入るためには金を警察に払わねばならない。こんな生きるか死ぬかの時も金しだい、地獄の沙汰も金しだいなのだ。金のないものは自由もないのだ。むしろ自由は制限されたもの不自由なものに感じる。だから自由社会のことなど考えずあんなことをしたのかもしれない。サタンがキリストに私に従うならこの世の与えると言ったのもこの世はサタンのものでありサタンがこの世の王なのだ。アメリカも他と変わらぬ力と富に頼るサタンの国である。政治がサタンと結ぶことだというときどこの国でも権力を握るものはサタンと手を結んでいるのだ。そうしなければ権力は得られないようになっているからだ。

力あるものが他国を自由にできるが力ないものはそれに理不尽でも従う他ないとするとその不満がテロになる。自由は先進国には与えられたが貧乏な国には与えられなかった。そこに今回の事件の一つの簡単には解決できない根があったのだ。テロが簡単になくならないのは正にこうした人間間に不平等がなくならないからだ。それを力あるものが力で押さえようとしてもできないのだ。アメリカの危険はここにあるのだ。何故なら力を行使できるからだ。しかしそれがまた反発をくらいテロは防止できなくなる。ではどうすればいいのかというとアメリカも力に頼るだけの世界支配を見直す必要がある。先進国もそうである。またテロを起す側にも問題がある。何故貧乏かというと貧乏な国は特にイスラム圏は自ら努力しないで先進国をうらみそのせいにばかりしているからだ。アジアは欧米に追いつくために必死で努力したから良くなってきたのだ。

とにかくグローバリゼイションはかえって世界に不平等をもたらしたのだ。中国でも海岸地域は経済のグローバリゼイションで発展したがその他は取り残されている。中央アジアに近いウイグル族などは中国からの独立を望んでいる。アフガニスタンの北部同盟にはウイグル族のゲリラが捕虜になっていた。経済の格差は国を分裂させることにもなる。イスラム圏には経済の不平等を是正しようとする共産主義的な運動もその根底にあるのだ。イスラム圏につき中国から分裂する。日本から経済的にみると中国の沿岸部と朝鮮半島と東南アジアを一つの連合体とする構想は考えられる。中国が一つの統一体として維持することが難しいからだ。いずれにしろ自由の女神も震え上がった真っ青になた事件だった。その打撃は余りに大きかった。



      自由社会のジレンマ

今回のアメリカのテロは余りにも衝撃的でありこれは一体何なんだ、理解に苦しむ人が多い。それも当然なのだ。現代の高度に発達した文明の事件の特徴は一つの原因からは解明できない。一個人の犯罪でも一つの原因から起こすことはない、複合的原因で起こってくる。複合汚染である。金の欲望、性の欲望、単に目立ちたいということ、大きな事をしてみたいとか、集団に認められたいとか・・・・一つの犯罪の陰には様々な要因がある。その心を知り得るのは神しかない、個人でもそうなら現代のような複雑な社会で起こる大きな事件もその原因も複雑怪奇なのだ。オウムの事件がそうだった。ナチスも現代文明という複雑な社会から生まれたもので未だに原因はわからないのだ。では今回の事件は何なんだ、原因は何なんだとなるとやはり原因は一つではない、これほどの世界的事件となるとその原因は世界的であり解明するのは大変なことになる。オウムとにているのは宗教がかかわり現代の科学がかかわり大事故となったことはいえる。でもこれはオウムよりむずかしい問題である。


イスラム原理主義のテロの拡大

@イスラム教→イスラム原理教→イスラム原理自爆教
A冷戦構造の崩壊、反米ーパレスチナ問題、湾岸戦争後遺症・・・
B民族独立運動
C貧困、差別、・・・・・

こうした動機が考えられることでオウムは共感を持つものがいなかったが世界的に共感を広げる危険性があるのも事実である。民間人を巻き沿いにした自爆テロは人類史上ないような非道なものだったがその複合的原因を考えると共感する人がイスラム圏に多い。つまりABCは理解できるからだ。冷戦構造が崩壊して各地で民族の争いが起きた。アフリカでは部族の争いが起きて凄惨な殺戮が起きた。民族独立運動がチェチェンで今も争われているし中国ではウイグル族も争いを起こしている。アフガニスタンもパキスタンとアメリカの後押しでソ連と戦いソ連を駆逐した。その後今度は内戦で民族同士が争うことになる。歴史的にあの辺はチムール帝国、モンゴル帝国、インドのムガル帝国とかに属してアフガニスタンが一つの国になった歴史は浅い、この帝国の領土に組み入れられるてもその帝国が去ればまた民族だけは残るのだ。なぜタジキ族、キリギス族、ウズベク族、ウイグル族・・・とか民族は残りまた国家を作る。今はアフガニスタン内でパシュートン族を中心にしたタリバンとタジク人とかモンゴル人のハザラ人とかが争っている。これは民族の争いである。アフガニスタン内で民族統一戦争があるのだ。

もう一つ問題をを複雑にしたのが@なのだ。イスラム原理主義の過激派がアフガニスタンに集結したことである。そこにオサマ・ビン・ラデンが入りどうも外来者の方が指導権を握るようになったのだ。それが大きな今回の問題の根となった。イスラム原理主義の過激派は狂信的でありアルジエリアでも凄惨な殺戮を行った。20万人も死んだというから異常であった。これはイスラムカルト的な狂信なのだ。信仰であれ思想であれそれが極端化すると狂信となる。この人間の狂信は恐ろしいものだった。共産主義国家だ、仏国土だ、イスラム、神の国の実現だ、この妄想にとりつかれた人間は信じられないこともするものである。自分も創価学会カルトでそうなったから今でも日本でも十分にその狂気が社会を覆ってしまうことはありうるしその準備は基盤は整っているのだ。あの自爆テロはそうした狂気である。狂気からしか成し得ないからだ。人間社会はそうした信仰的思想的狂気集団を排除できないのである。何故ならそうした狂気的カルト団体が社会にどこでも容認され存在するのはいろいろ問題をかかえた人がそこに入り狂気を実行するのだ。パレスチナ関係の自爆団は日本の特攻隊のように追い詰められた方法のない自爆だから他の自爆とは違うことはいえる。しかしアメリカの自爆は後先も考えない理にかなわない自爆である。何故ならそこにいたのはアメリカ人だけではない世界の人でありアメリカは驚いたことにアフガニスタン人が20万人もいたのだ。そういうどこの国でも人種でも受け入れる自由の国でありそこにはアラブ人やイスラム教徒も900万人もいるのだ。それら同胞の人も傷つけ殺したのだから狂気としかいいようがない。しかしこの数がさらに増えるとアメリカ社会自体変容させてしまうかもしれない。イスラムは集団的、同一的、宗教共同体を目指すから個人性を重んじるキリスト教とは異質だからその異質性が問われ信教の自由が制限されるかもしれない。イスラムは社会変革に積極的にかかわる正教一致だからだ。本質的に民主主義の自由国家とは相容れないものだからだ。

とにかく様々な要因が重なり今回の事件は起きたことは確かである。現代のグローバリゼイションが起こした事件でもあった。これが狂気としてかたずけられないのは現代の世界の矛盾から生まれたものでオウムのような異常事件としてかたずけられない共感を呼ぶものがあったためである。イスラム原理主義は世界各地で民族独立と連動した運動で世界的広がり連帯関係にあるからそこからのテロとするとこのテロを根絶することはむずかしいのだ。これはイスラム教とキリスト教の対立でもない、カルトは仏教でもイスラムでもキリスト教でもあるし武器をもって戦った団体もあるのだ。カルトは狂気でありこれに権力や武器を持たせたら通り魔や狂気の殺人にもなる。信仰には麻薬やLSDのような作用があるのかもしれない、自爆に進むことに他人を省みない自己陶酔的作用があるのかもしれない。自由社会の問題はこういう理解しかねる狂信団体も日常のなかに抱え込むことであり自由社会の正常を異常にしてしまうことなのだ。自由だからこそそういうものも受け入れざるをえないのだ。自由社会は常にそうしたものも自由の権利のもとに育成しているのだ。自由社会がいつのまにかにカルト団体にのっとられるても不思議ではない、何故なら自由だからだ。危険なものを排除しようとすればオウムであれなんであれ信教の自由だ、言論の自由だ、ゲイの自由だ、不倫男女交際の自由だ、とにかく自由の過剰、野放しの自由さえ感じる。それを制限しようとすると大変な騒ぎになるのだ。しかし今回の事件は自由社会にも恐るべきリスクが隠されていてそれがあらわにされたのだ。国外も国内もない世界だから余計にやっかいである。あんな険峻な中世の戦国時代の世界に邪悪なテロはひそみ育まれ世界に発信することができるのだからグローバリゼイションの中でテロを防ぐのは至難である。

今回のテロの排除がむずかしいのはテロを排除するためにアメリカの強大な軍事力を行使するとテロにはテロでありテロの連鎖でテロはなくならない、実はアメリカこそ世界最大のテロ国家とも言えるのだ。そのテロに屈服されたものは恨みを残しまたテロを起すのだ。オサマ・ビン・ラデンを殺してもテロはなくならない、おそらく戦争を武器を人間からなくすことができないようにテロもなくすことはできない、今回のアメリカのアフガニスタンの攻撃もテロを根絶することはできない、またソ連が攻めてきてアフガニスタンを荒らしたようようにアメリカに対する恨みが憎しみがその大地に残されるのだ。その傷痕は消えずまたテロはその荒廃した国土から育ち起こるのだ。テロが一挙にそうした強大な軍事力で解決するなら楽である。結局イラクに勝っても実際の問題は何も解決していないようにテロをテロでは解決しない、確かに軍事力は制御力にはなるが問題の根本的解決にはならないのだ。地道な目立たぬ地を耕すような努力が問題解決につながる。それはテロを起こす方にしろテロで押さえようとするものにしろ同じなのである。


 耐え難き悲しみに耐えたるあとに

この非道、残酷は何故か知らじ
その暴虐、その無謀、狂気は何故ぞ
一瞬にして6000人の命を奪う
ただ茫然自失として佇むのみ
その悲しみはぬぐいがたし
ニューヨークを死の影が覆う
その怒りは煮えたぎるマグマとなり
敵なるサタンに向い爆発する
一転して敵地を見ればそこも無惨
大旱魃に長年の戦乱に飢えたる大量の難民
その敵に向い押し寄せてくる
ロシアに国土は踏みにじられて
地雷に足をなくす子供
その置き土産は地雷なり
アメリカはかつての友なりしを
その友の送るミサエルは今度はアメリカに向かう
イラクもかつてのアメリカの友
武器は売られ蓄えられまたアメリカに向かう
武器そのものが災いならじや
アフガニスタンはアメリカの敵たるや
その国は疲弊しその民は飢え苦しむ
アメリカは正義の国なりと
原子爆弾を落とし裁きを与える
ベトナムになお爆弾の痕生々し
そして不敵に逆らうイラクに爆弾の雨
アメリカは強者故に裁きを与える
人なれ国なれ裁くべからじ
裁くは神のなすことなり
その耐えがたき悲しみに耐えたる時に
世界の同情はアメリカに集まり
神の哀れみもそこに注がれ
テロの魔の手も神によりそがれむ
また強者のアメリカの裁きを実行すれば
そこに憎しみは残り深まり
またテロがアメリカに向けられる
眼には眼を、歯には歯を
そこに解決の道は平和はこない
その耐えがたき悲しみに耐えたる時
テロの無謀も収まらん
暴力は暴力を生み、憎しみは憎しみを生む
その悪の連鎖は断ち切れぬ
主、キリストの十字架に祈るべきにあらじや
その時その無謀に流せし涙は無駄にならじ
世界の人々の分け隔てなく集う
平和の鳩の憩う都とならん
その耐えがたき悲しみに耐えたる故に
戦争の悲惨さを自らの国で知り
ヒロシマの悲劇にも同情の及び
ニューヨークは再び世界の自由の都とならむ


関連しているもの

自由を求める人間(時事問題2)





   ネットワークの時代(イスラムの反逆)

人間の歴史の見方として言葉を持つとか道具を作るものとかに規定することがある。人間の非常に重要な要素としてネットワークを作るということがある。ギリシャが栄えた要素として海に乗り出し地中海に植民都市を作り貿易のネットワークを作ったことにあった。一方川をネットワークにして栄えた国がある。ヨ−ロッパや中国である。ライン川はを通じて貿易がありあのケルンの大聖堂がその収入で作られた。蘇州も運河で栄えた。アジアではシルクロードを通じて貿易のネットワークを作ったことがその道筋を栄えさせた要因だった。絹の貿易や西域から良馬が入ることで始皇帝の兵馬俑の軍団が形成され中国の最初の国家がつくられた。当時の馬は現代の自動車と同じだった。馬という強力な武器なくして統一は不可能だった。モンゴル帝国が広大な地を支配できたのも馬のおかげでありそのモンゴル領域内で経済のネットワークも作られたのだ。世界最初に紙幣を発行したのはモンゴルでありマルコポーロが旅できたのもモンゴル領内で自由に通行できる皇帝から手形のようなものパスポートをもらったかある。あれだけの広い範囲で紙幣が流通していたことは一つの経済圏を形成していたのだ。経済のネットワークができていたのだ。判子の全盛時代だったのもその頃である。今も中国で売り物が判子なのである。ローマに次ぐネットワークができていた。エジプト、ローマ、モンゴルは陸のネットワークで栄えたのだ。

このネットワークのなかに日本もシルクロードを通じて組み入れられていたのだ。このネットワークを通じて宗教も入り国造りの土台となった。ローマというネットワークがなかったらキリスト教も普及しなかったろうというようにローマのネットワークの上にキリスト教ものっかり急速に普及したのだ。仏教もシルクロードを通じ入ってきた。イスラムというのも一つのネットワークであり商人が貿易で世界に広がりイスラム教が広がったのである。イスラムネットワークで栄えたのだ。しかしエジプト、ローマ、モンゴルは陸の面のネットワークであり領土の支配が不可欠だった。広大な領土の支配には大変な労力が必要とされた。そして陸のネットワークは歴史上ですべて衰退したのだ。それに変わったのが海のネットワークである。オランダのような小国が栄えたのも港だけを確保して海を通じたネットワークを作ったからである。長崎の出島もそのネットワークの中に組み入れられていたのだ。ポルトガル、スパイン、イギリスと栄えたのは海のネットワーク故である。ロシア、中国、イスラム圏はこの海のネットワーク作りができなかったのだ。この陸のネットワークに重なるのが社会主義の運動であった。ロシアであり中央アジアやシリアやイラクそして中国だったのだ。イスラムと社会主義は相性がいいのだ。何故なら自由より平等を重んじるからだ。またマルクス主義は資本を土地に見出して土地にこだわる面があった。だから土地の共有制の共産社会を推し進めたが失敗した。工業化にも失敗した。陸からの発想に終始していたのだ。七つの海を制覇したイギリスは海のネットワークで世界を制覇したのだ。

イスラム社会が栄えたのは砂漠とかが陸の海でありラクダが陸の船というように交通には適していた。バグダットとかが交通の要所でありバビロンの時代から貿易が行われていた。契約が重んじられたのも砂漠の商人からでありそれは聖書に反映されたのだ。モハメッドも商人だった。砂漠には明確な境界はない、今でもベトウイン族などは国に関係なく遠くからきて行き来しているという。オサマ・ビン・ラデンが客人だから渡せない、それほどに客人を大事にするのは砂漠では土地より人のネットワークが大事なのだ。アフガニスタンは砂漠は一部で山岳民族だが砂漠のイスラムの文化圏に入っていた。ホームは家という建物ではない、家族のいるところ、客人をもてなす人のいる所がホームなのだ。これは遊牧民から生まれた言葉なのだ。砂漠のネットワークの特徴は土地にあまりこだわらない。遊牧民は移動する民だから土地にこだわらない。土地を所有する観念が薄いのだ。何にこだわるかといえば一族である。氏族に忠誠を誓うのだ。属地主義ではなく属人主義なのだ。これが砂漠の文化の特徴である。アフガニスタンとはアフガニが部族でスタンが国ということは氏族に部族に忠誠を誓うことでありそういう伝統が未だに残ったのだ。どの氏族に属するかが大事でありどこの土地に属するかではない、日本はどこの土地に村に属するかが大事でありその姓も必ずルーツをたどるとどこかの土地の地名なのだ。この農業を土地を土台にしたエジプトや中国は悠久の文明を作った。一方遊牧民はネットワークをつくる、世界を結びつける、世界の交流を促進する役割を果たしたのだ。

では現代のネットワークとは何か、国とか土地の結びつきが薄くなり多国籍企業とかボーダレスに交通とか通信で結ばれる時代である。その交通の発達は著しいのだ。大航海時代の船で一年もかかるようなものとは雲泥の違いなのだ。電話であり電波のテレビでありインタ−ネットの時代であり飛行機の時代なのだ。これがボーダレスの時代を促進したのだ。物を運ぶネットワークであり知のネットワークでもある。ネットワークを持たないものは競争に勝てない、セブンエレブンの成功はそこにあったのだ。ネットワークに入らないと商売も成り立たないのだ。歴史的に土地を持たないユダヤ人が世界の金融業をにぎりイスラエルの後ろ盾になるのも土地をもたないことがかえって世界に力をふるうことができたのだ。今回のアメリカのテロすら国際的ネットワークをこの世界的ボーダレスの時代でひそかに築いていたからあんなことができたのである。つまりボーダレスの時代、悪のネットワークも作られやすい、犯罪の国際ネットワークが作り安いのだ。麻薬もそうした国際ネットワークを通じて流れてくらからとめることができないのだ。

今回のアメリカのテロはこのボーダレスのネットワークを止めるくらいの強烈なものだった。オサマ・ビン・ラデンはインタ−ネットも使いこの国際ネットワークの中でテロを計画して実行できたのだ。アフガニスタンはかつて文明の十字路と言われた要衝の地であった。バーミヤンの仏像など破壊されたがアレキサンダーもここに来たということで確かに地理的にアジアの真中なのだ。対照的なことは今はアフガニスタンは世界から取り残された陸の孤島と化していたことにある。その陸の孤島の山岳地帯の洞窟にこもり最新の情報機器を使い国際テロネットワークは作られていたのだ。イスラム原理主義ネットワークが世界を変えるかどうかわからないが現代の自由社会の負のネットワークでありヨ−ロッハ、ロシア、中国、日本・・・が共同するとなるとつぶされることになる。歴史を変えることはできないだろう。イスラムネットワークが主導権をにぎることはないだろう。社会主義がイスラムが平等を主張して豊かになれず私的権利とか所有を重んじた資本主義が豊かになったのは人間性に根ざしたためなのか、社会主義やイスラムは経済を抑制するものがあったのだ。つまり個性を伸ばす才能を伸ばす欧米教育がリーダーシップをとり平等をみんな同じでアラーの神に拝跪するイスラムがリーダーシップをとれなかった。なぜイスラム圏ではノーベル賞とか科学の発見や発明がないのか、こういう点でも中世世界が残存したまま今日に到っているようにヨ−ロッパの歴史観に立つものには見えてしまうのだ。王制が実質支配しているのもイスラム圏だけなのだ。とにかく日本人も今や欧米の価値観の中で生活を作ってきたからそう見えるとも言える。いずれにしろ政教一致の体制にはなじめないと思う。自由社会にも問題はあるがイスラムがそれに変わる力があるとは思えないのだ。

海を制するものは世界を制する 時事3




日本の危険
 (日本はアメリカの傀儡政権)

外国人と同盟を結んだからである。
彼らの国には金銀が満ち、その財宝は限りない。
また彼らの国には馬が満ち、その戦車も限りない。
また彼らの国には偶像が満ち、
彼らはその手のわざを拝み、その指で作ったものを拝む。
こうして人はかがめられ、人々は低くされる。


               イザヤ2

この外国人とはアメリカなのではないか?手の技とはハイテクであり技術崇拝である。金銀は経済力であり戦車は軍事力である。アメリカは頼りになるがまた呪いにもなる。諸刃の剣なのである。これは日本にも言えるのかもしれない。まさに日本もアメリカを頼りとするものでありそれはまた危ういものともなる。イラクはアメリカと一時同盟関係にあり正にそれが仇となり今度はアメリカと戦うことになる。アフガニスタンのタリバン政権もラディンもアメリカの後押しでソ連と戦ったのだ。結局強大な国アメリカに頼り翻弄されているのだ。その点アメリカを頼りにしない国の方が今は安全である。イスラムの怒りは正にアメリカの力の支配によりかがめられ低くされたものの怒りでありこれは世界に貧富の差を生んだものへの怒りと共通する。アメリカと節度なく一体となることは危険である。金があっても技術があっても戦争に勝てないことがベトナムで証明された。力がすべてではないのだ。明らかに日本はアメリカの力に引きずられてゆくから危険も増してゆく。アメリカはいつ日本の同盟関係を破棄するかわからないのだ。現実にその時の情勢でイラクもアフガニスタンも味方となり敵となっているからだ。

後方支援の問題も基地を提供するだけですでに後方支援だし日本はアメリカと一体でありすでにアメリカの敵は日本の敵でありテロの標的である。基地を提供していること自体アメリカと一体であり自衛隊を派遣しようがしまいが同じなのだ。日本はアメリカと運命を共にすることになるのだ。アメリカであれ欧米の作った文明は確かに偶像に満ちているからイスラムの世界から見るとその物質的な文明自体が嫌悪すべきもの破壊するべきものに映るのかもしれない。あの非道なテロはそうした手の技、技術崇拝を人間の狂気で破壊した恐るべきものだった。実際は人間の狂気の意志が成したもので飛行機とはいえ人間の道具でありどうにでもできるものであった。そういう人間の恐ろしさをまざまざと見せつけたのだ。戦争というのも技術とか物量だけで決まるわけではないことがベトナムで証明された。圧倒的な物量、技術、金を持っているアメリカが勝てなかったのだ。今回の戦争も圧倒的にアメリカが物量、技術では有利だが勝敗はどちらに傾くのかわからない面があるしアフガニスタンが安定するのかどうかもわからないのだ。オサマ・ビン・ラデンを殺してもそれでテロを防ぐことができるのかわからないのである。

ともかくアメリカが強いからと一体になり進むことは危険である。日本もイラクとかアフガニスタンになりかねないのだ。アメリカはあくまでも自分の国を守ることを優先するから日本はその国際情勢の変化の中で捨てられることは十分にありえるのだ。中国との信頼関係を築いておかないとまずいことはたしかである。どう見ても日本はアメリカの傀儡政権なのだ。田中首相が日中国交回復をした時ロッキード事件が起きたのはアメリカが反対であり操作されていたのだ。傀儡政権ということはアメリカという後ろ盾がなくなった時他国に攻められるのだ。一方ベトナムのような国は独立を保っていたから大国に拠りかからないので安全なのである。他国から見ると日本はアメリカ故に守られていたのであり自国で守っていたとは見られていないからである。故に他国から狙われるのである。アメリカの傀儡政権になり次は中国の傀儡政権にされるかもしれないのだ。兄弟がいて兄貴が怖いからいじめないが兄貴がいないとワルに狙われいじめられることになる。何であれ自ら独立していないものは危険である。ベトナムはあらゆる外国勢力と戦い追い払ったから誰も手を出すものはいないのである。日本はアメリカという後ろ盾がなくなると自ら独立してやってきたわけでないから危険な状態になるのである。

彼らは同盟を結ぶけれども、わが霊によってではない、
罪に罪を加えるためだ
彼らはわが言葉を求めず、エジプトへ下っていって、
パロの保護にたより、エジプトの陰に隠れようとする。
それゆえ、パロの保護はかえってあなたがたの恥となり、
エジプトの陰に隠れることはあなたがたのはずかしめとなる。


イザヤ30−1

このエジプトはアメリカなのだ。平和ボケでアメリカに頼るだけで安全は確保できない時がくる。国の危機がくるかもしれない。そういう時代の変化が来ているのだ。



        宗教の対立なのか

今回のアメリカのテロをオサマ・ビン・ラデン側はイスラムとキリスト教の戦いにもちこみたい、現実に十字架の刻まれた人の模型を銃で撃つ訓練をしていた。あれをみても他者の宗教を認めない狂信団体であることがわかる。バーミヤンの石仏を破壊したのもオサマ・ビン・ラデンなどの外部から入ってきたテロリストのように思える。タリバンは外部のものの方が力が強くなっていたのだ。まずアフガニスタンの統一が先なのだがテロリストに引きずられキリスト教やアメリカを敵にすることになった。対立軸としては西側から見れば民主とか自由に対するイスラムの狂信という図式になるのだがテロリストから見るとイスラムとキリスト教の対立になるのだ。政教一致の団体は創価学会やオウムにしても仏罰だ、地獄行きだ、仏法の勝利だ、アラーの勝利だ、アラーの思し召しだ、聖戦だ、仏戦だ、・・・・必ず世俗のことをすべて宗教に結びつけるのだ。それが極端化すると死に物狂いの自爆にもなるのだ。実際オウムは仏の命令でサリンをまいたし創価学会は死に物狂いで一票をとる仏戦をしてくる。すべて信仰に結びつけ信仰の戦いになってしまうのだ。近代は世俗と宗教の分離して民主と自由を基本にしたのだ。イスラムはすべて宗教が法になるがヨーロッパではすでに世俗の法があった。ローマ法がそれでありその点イスラムとはかなり違う歴史を持っているのだ。

イスラム原理主義はキリスト教と対立しているのではなく民主と自由社会と対立しているのだ。その対立が先鋭化したのはグローバリゼーションのなかで貧困やその他自由社会が身近なものとしてつきつけられたためである。十字軍が聖地を奪還する戦争も狂気だったがそれはその時代ヨーロッパの方が文化も遅れ貧しかったのである。十字軍の結果、東方の技術や学問や富がヨーロッパに流入したのだ。ギリシャの学問もアラビア語に訳されてヨーロッパに紹介されたのである。今この逆の現象が起きているのだがイスラムは以前として中世でありいろいろな面で格差が大きすぎるのだ。ともかく西洋の歴史の上に立つものとイスラムの歴史の上に立つものとの文明の衝突があることは確かである。イスラム教が世界で増えているのは生活の中で共同体志向が強く精神が安定するためのように思う。仲間がいる助け合う仲間がいる、一なる神に同列の拝するということは精神の安定を得るのだ。これは日本であれ宗教団体に入る人が以前として多いのはイスラムと同じ傾向があるのだ。つまり極端な現代の物質文明と精神が平衡を保つことは大変なことなのだ。いずれにしろ自由社会は一面迷宮であり混沌でありこの中で自我を確立すること自体とんでもない困難なことである。ニーチェのように狂気に到るか、キケルゴールのようにとんでもない重荷を負わせられることになる。上野霄里氏のように世間と隔絶して原生林のなかに棲んで初めて自己をとりもどせる。それほど現代文明は複雑怪奇な迷路であり宗教団体に入り自我の安定を図るというのも自然な成り行きといえるほど現代文明の自由と民主社会にしてもそれを負えるほどの人はまれなのだ。イスラムは生まれた時からそういう点では個人としての重荷を精神的には負う必要がないから楽だし精神的には安定することになる。

この事件が宗教的対立とするとアブラハムの正妻から生まれた恩寵の子、イサクと奴隷の女に生ませたイシュマエルの対立がある。イシュマエルはアラブ人の祖先なのだ。アラブ人はそれ故に世界のすべてに敵対するという聖書の因縁の結果ともいえる。アラブ人はそういう宿命の子なのか、4000年ものその因縁がパレスチナの地で再現されているのか、確かにアラブ人は神に祝福されないものの血統でありその刻印を押されたものなのかもしれない。宗教に関係しないものは聖書の恐るべき予言や御言葉の力を知らないのである。神に祝福されないものと祝福されたものは厳然と区別される。その宿命の差は大きいのだ。カインは野菜を神に献げアベルは羊を献げカインの献げものは神に受け入れられずアベルの献げものは受け入れられた。これがカインがアベルを殺す原因となり人類最初の殺人者となった。その殺人の原因は宗教が原因であり宗教戦争であったといえる。財産ではない神に受け入れられるか祝福されるかが第一であり神に受け入れざるもの祝福されざるものはそれを認めることができず殺すまでに到るということである。では何故そうした差別を神はするのかそれは神の成すこと故に人間には答えることができないのである。

次にヤコブがエサウから長子の特権と父親からの祝福を奪った。祝福が財産より大事なものだったのだ。祝福されざるものは呪われた子になり災いをもたらすのだ。ダビデは神に祝福されイスラエルの王となるべきものだったがサウルは祝福されざるもの故にダビデに敵対しつづけて遂には無惨に死んだ。宗教対立があるとすればキリストについた西側は祝福を受け継ぐものでありアラブ人は祝福されずキリストを神としない呪われた子になる。それ故に対立はやまないといえる。キリストを神としないものは栄がないともいえる。聖書では日本人の好きな中立という立場はない。祝福されるかされざるかイエスかノーかである。アメリカがなぜ
GOD BLESS AMERICA 
を合唱したのはキリストよ、アメリカを祝福したまいという懇願であった。アメリカは常に武力に頼るものだったがあの破壊を前に茫然として一時期ではあるが神にすがったのである。聖書の言葉は事実の歴史はそれだけ何よりも重いのである。何故なら神の言葉であり神の命令は誰も逆らうことはできないのだ。イスラムはキリスとを一予言者にすぎないとしている点で大きな信仰の相違がありそこが相容れないのである。

パレスチナには確かにそうした深い歴史的争いの根があるが今回の事件はむしろ民主と自由社会の対立の結果であろう。事件の結果として一番影響を受けたのは自由な人や物の交流、流通であったからだ。貧富の差を露骨にしたグローバリゼイションに対する反感などであった。西側は確かに物質的であり純粋な宗教心からするとアレルギーを起こす拒絶するものがあることは確かである。イランの都市に8000人もの娼婦がいてアメリカ人に媚を売るのをみていたら耐えられないだろう。そういうことにアメリカ人や西側、日本人も無頓着でありそれが傲慢に見えてイスラム側が反発したことはわかるのである。経済的格差でグローバリゼイションは相手が同じ心をもった人間ということを忘れ経済的なもの金だけで人間をみてしまう、格付けしてしまう。これは資本主義社会の冷徹な一面なのだ。現実近代自由社会は経済、金、財(マモン)崇拝に陥って愛は冷え切ってしまったのだから必ずしもイスラムの価値観を全面的に否定することはできないわけである。持てるもの金持ちと貧乏人は調和しない。インドではそれでカースト制を作り分けて暮すようにしたのだ。いずれにしろイスラムにつきつけられたものはまた西側の問題でもあったのだ。経済をすべてに優先して解決することは人間の場合むずかしいということである。人間は動物のように餌を与えればいいというものではないからである。後進国の援助も自立のための手助けでありいつまでも援助では相手が乞食化するだけで望むことではないのだ。グローバリゼイションはそうした人間の心情を余りにも無頓着に踏みにじってきた面があったのだ。その反発を持てるものは感じないが踏みにじられたものは忘れないし恨みとして残るのである。


やはり極端な貧乏がこの問題の底にある
職のない若者が80%でイスラム原理主義者が金をくれて集めているという


イスラム原理主義の挑戦を受けるロシア
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/news7.htm



  人間を無視するグローバリゼーション

人間のアイデンティティの形成の核となるのは部族なのであろう。部族は親族の拡大したものであり地域と密接に結びついたものである。それが一つのトーテムを持ち結合するからこれは強固な結合になる。部族が原始的なら氏族は部族より発展したものになる。源氏一族に平家一族とかである。ローマでも元老院を形成したのは有力な氏族であり氏族連合であった。世界史的にこれは共通である。アフリカでの凄惨な部族同士の殺戮は反面部族同士の固い結合が逆に争いの原因となっている。アフガニスタンの争いの原因はこの部族間の争いである。パシュトーンを主力とした民族とタジク族とかハザラ族とかが主導権を巡り争う戦国時代である。この問題の深層には時代を逆戻りした争いがあるのだ。パシュトーン族の王が一時アフガニスタンを治めたのもわかるのである。このパシュトーン族はパキスタンにも16%もいてパキスタンからの独立しかねないという。民族のアイデンティティからするとパシュトーン族の独立国家の方が安定することになる。パキスタンの国の成り立ち自体その基盤は弱い、インドの一部であったのが宗教の違いでイギリスにより分離させられ作られたのだ。中東自体欧米により国境が線引きさせられたのが多いのだ。クエートなどは石油の利権のためにあんな小さな国が国家としてあること自体不自然だし欧米の圧力で作られた国家なのだ。国家とはいえない欧米の出先国家といえる。これらの国の不安定さはそこに由来している。ただここは古来聖書の時代から凄まじい民族国家の興亡の場だったのだ。

聖書の歴史をからみるとイラクの独裁政権はネブカデネザル王になるかもしれない、彼はイスラエルの民を連れてきて自らを神にして拝ませようとした。それを拒否して火に入れられたり獅子に食わせられようとしたがエホバは奇跡により助けたとある。時代が変わってもネブカデネザル王のような人間は出てくるのだ。ナチスもそうかもしれないしそれは歴史の形を変えた悪夢の再現であり歴史は繰り返す、人間の業の輪廻といえる。アフガニスタンその他民族独立運動としてテロ組織がある。チェチェン、ウイグル、バスクとかがあり手を焼いている。民族のアイデンティティによる闘争である。アフガニスタンの問題はこの民族のアイデンティティが最初にあり次ぎに外部の影響として宗教があるのだ。とにかく民族のアイデンティティは現代にも根強く残る人間の基本的な一体感だからこれを否定できるのか、テロの問題は別にして正当な権利として主張しそれを国際社会で認めざるをえない面がある。しかしそれをロシアや中国は認められないからテロにアメリカと協力してもアメリカとは別な意図で協力していることになるから複雑なのだ。

イスラムであれ欧米であれ親族を血のつながりを大事にする。ヨーロッパでも財産相続は血のつながりが第一である。日本の特質として養子制度があり商家でも自分の息子が無能だと血のつながりのない有能な番頭に家を継がせる。侍でも養子をもらうことが多かった。ヨーロッパの貴族にはそういうことはないのである。つまり能力主義であり地域で結び合う村も親族、一族の結びつきより村のなかでともに働く協力関係が日本では大事なのだ。同じ釜の飯を食うことが大事なのであり親戚でも離れてしまうと疎遠になるのだ。会社人間というのも同じ釜の飯を食うということで結びつきが強くなった日本的なものなのだ。終身雇用制も同じ釜の飯を食う終生村の仲間としてともに協力して生きるという結びつきなのだ。アメリカなどは会社より家族であり中国でも家族やそれの拡大した一族などのつながりが優先される。中国の徳目で一番大事なのは親孝行の考なのである。日本は考より忠なのである。仕える殿様に忠が第一であり考より優先せねばならぬ。忠君愛国であり天皇に忠という徳が優先された。能力主義、村の地域共同体、忠君愛国が日本的特質である。実はこういう社会的特質が明治維新を近代化を成功させた一因かもしれない。というのはこのことが資本主義にマッチしていて日本の経済的発展もありえた

国を考えるときアメリカと中国はにている。どちらも世界一であるという誇りがありしかし国を信用していない、国は利用すべきもので利用されるものではない。軍隊も日本のように上に忠実ではなく監視する兵を置いて戦わせた。日本は忠君愛国であり上に忠実で特攻隊のようなことは中国ではしない。それはアメリカでもにているのだ。中国では権力者は賄賂をとり物品を貢がせる権利を得ることなのだ。日本の商売する人がまずすることは共産党の幹部に贈り物をすることであり賄賂をあげることなのだ。それは当然のように要求してくるのである。アメリカの民主主義とは逆に法律で権力を持ったものを監視する制度でありどちらも権力をもったものを信用しないということでは同じなのだ。国と一体化するということでは日本の方が結束力が強いとなるがそれは反面上に立つものが判断を間違うと国民も犠牲になる。太平洋戦争がそうであった。また均質的結束で大陸的な個性的巨大な人間は出ないということである。いい面と悪い面は必ずどんなものにもあるのだ。

人間は部族や血族などの紐帯から離れないと実は経済の発展はない、つまり経済は物の売り買いは極めてドライなものであり親族関係や一族関係や村的人間関係を破るものだからだ。商売が起こったのが砂漠からだったというのもドライなことになるのか、まず契約ということ自体、商売から起こった極めてドライなことなのだ。日本人にはこの契約ということが非常に理解しにくい。契り(ちぎり)とは血と関係しているから男女が結びつく血族関係を言ったもので砂漠の商売関係から生まれた契約とは全然違ったものである。商売とは血族でもない、部族でもない、村の内でもない、遠くからくる全く見知らぬ人との交わりなのだ。そこで売買されるのは物であるからドライなやり取りになる。聖書で神と契約するとは血とも地域の土地とも関係ない、物の売買を基にした行為なのである。契約とは血族とか部族とか村とかの地域から離れる行為でもあったのだ。神との契約には商売が貿易が必要だったのだ。陸つづきであることは商売、貿易が自然に広範囲に起こったのだ。だから貿易というのは現代の市場で行われるものと違っていて非常に人間関係を大事にしたもので売買する物より見知らぬ人間同士の交際のための貿易であった。

貿易は贈答であり人間関係を円満にするものであったから貝が鉄器の道具とかと交換される。等価交換ではない、互いの贈り物だった。貝が貨幣や財となるのはそれが南のめずらしい物としてそうなったのである。物が第一でなく物は従属的なものに過ぎない、現代のようなもの中心の物によって相手を踏みにじることはないものだった。これはK.ポランニーの人間の経済で言っていることである。南のめずらしい貝と日本のハイテクの製品が等価で贈り物として交換される世界であった。中国が覇権を握っていた時は朝貢であり中国への服属の標として国の物産を貢ぐ、中国では今でも日本は日本のハイテクを中国に貢がねばならぬと思っているのだ。そこに対等の貿易を考えていないのだ。このようにそもそも対等な対価の経済は古来存在しなかったのだ。グローバリゼーションは一見世界が対等に市場化していい面ばかり強調されたが後進国にとっては侮辱的なことだったのだ。

アフガニスタンは部族社会であり中世だというときまた後進国とグローバリゼーションの中で交わるとき技術力や経済力が圧倒してしまい相手の人間性を全く無視して相手の社会を急激に破壊してしまい踏みにじることがありこれがアメリカや先進国への反発となっていることは確かなのだ。何もこれは先進国と後進国の関係だけなく物が優先される時商売が優先される世界では人間性はどこでも商品としてしか見られずふみにじられるのである。本を本屋にもっていき邪魔になるから置けないとか言われた。そう言われた本人の人間性、尊厳は全く踏みにじられるのだ。こういうことは金が優先される社会ではいくらでも様々な形で起こっている。つまり金がすべてだというのが現実だからだ。人間のあらゆるものが金で計られてしまうのだ。

とにかく金と権力がサタンがこの世を支配しているというのはこの世の現実だがそれが先進国と後進国となると剥き出しになりヨーロッパでは黒人を奴隷としてまで売買されることになったのだ。つまり弱いものは常に馬鹿見る世界なのだ。今回のアメリカに対するテロも狂気ではあったがそういう憤懣があんなとんでもない行動になったのかもしれない。現実またアメリカは全然関係ないアフガニスタンの人を殺しているからだ。こうした理不尽がつづく限りテロはなくならいのだ。地球は非常に狭くなっているのだけど実際は貧富の差とか様々なもの宗教やら慣習といったものの差が剥き出しになり対立することにもなったのだ。アフガニスタンはシルクロードの要衝から今や陸の孤島とと化していたのだ。コロンブスにより海へと拡大して行った世界から取り残されて陸の孤島と化したかつての貿易の要衝の場に返ってくる歴史が逆回りしてきたのだ。それと同時にイスラエルが建国されたということが歴史的に大きな意味をもっている。聖書の時代が再現されることでもあるからだ。アフガニスタンの騒動を契機にして歴史が変わるかもしれないのだ。



   根強い封建制(アフガニスタン問題の深層)


アフガニスタンの問題の複雑さは何であったのか、アフガニとは部族のことでありまさに様々な部族の国だった。部族同志が争うアフリカでも部族同志が凄惨な殺し合いを行った。アフガニスタンは戦国時代の群雄割拠であり封建時代にあったのだ。タリバンが敗北する過程で次々と土地の領主なのか何かわからないが司令官が武装蜂起する。なぜすぐに武器をもった兵士になれるのかも不思議である。侍として刀を使い訓練していないものが農民や商人がすぐに兵隊になれないのが普通である。アフガニスタンとは外から見ると軍隊蟻のような兵隊国家にに見えてしまうのだ。アフガニスタンに統一し国家などなかったのだ。だから外部のアルカイダなる外人部隊にのっとられたのである。その外人部隊と一体になったタリバンが崩壊するとまた地域を支配する江戸時代の藩のようなものが出てきて支配圏を取り戻し縄張りを守ろうとする。そうした地域的支配圏によって分立しているのは封建時代である。地域の利益が優先するからだ。ヨ−ロッパの旅行でスイスからドイツにゆく時、ボーデン湖にそって汽車でドイツに直接行けると思ったらそこがちょっとオーストリア領土を通り車掌がきてヨ−ロッパパスを見せたのだがオーストリアが入っていなかったのでオーストリアの分の汽車賃とられた。奇妙な気分だった。ヨ−ロッパの領土は細分化されているのはこれも封建制の名残りである。リヒテンシュタイン王国とか相馬藩のようなものがヨ−ロッパには歴史の遺物としてのこっているのだ。そこでは別な国になり税金もまた別にとられる。この土地と結びついた封建性がいかに根強いかギリシャの民主主義すらデモクラシーすらデモスとは地域の地方の意味だった。民主主義のルーツは地域の利益を計ることであり地域と一体化したものであった。地域の利害を調整するのが民主主義のルーツだった。

スイスからドイツに行く汽車はちょっとだけオーストリアを通る

これは何も古代だけではない現代も公共事業がやめられないのは議員が地域の利権を代表するからやめられないのである。中国も10くらいの軍区に分かれ軍閥が支配している。中国も封建性だったのだ。日本も強力な統一国家になっていたからアジアへアメリカと戦争になったというが実は大陸で関東軍が暴走したように中央の権力が強いものではないから抑えられなかった。日本もこの封建制からの離脱は太平洋戦争までできていなかった。明治維新がいかに大変なものだったかその混乱は凄まじいものだったが日本的知恵と歴史の知恵で例えば天皇でもって一体感をもたせるなどして統一をはかったのだ。その後薩長の藩閥政治になたのも北部同盟とにているわけだ。そもそも国民などと言うものはいないしそんな自覚をもてるはずがないからだ。もう一つ明治維新から何故日本が国力もないのに外国と戦争したかというと外国と敵対化させることで国の統一を促進した。それはイラクでも北朝鮮でも弱い国ほど外国に目を向けさせて統一を組織の引き締め図る。弱いものほど吠えるということになる。明治維新後の日本もまたそうであったのだ。封建時代からの離脱がいかに困難なものかわかる。アフガニスタンも信長や家康のような人がでないから外国の勢力にのっとられ外国によって治められる他なくなってくるのだ。

 人間は誰も利益と直結しないものに忠誠を誓わない、封建制とはその土地とそこを支配するものに忠誠を誓うのだ。アフガニスタンと同じだった。なぜ忠誠を誓うかというとその地域から税金をとり利権を配分されるからである。自民党は正に地方に公共事業を配分して建設業者を票田として権力を維持してきたのである。封建制が何故根強いよいかというと人間の本能にいや生物の生命維持と同じだからだ。縄張りの維持や種の保存のための本能的な営みだからだ。アメリカにも自由平等というけどそれは理想論であり実際は人種差別があるし様々な利権団体もあり一ニ割に利権が集中する仕組みになっている。あとは移民の下働きとかが多いのである。世界になるとアメリカのいうグローバリゼイションなどはアメリカスタンダードのことでありアメリカに富が集中するシステムでしかないのだ。だから不満はなくならないしテロの土壌は戦争に勝っても残りアメリカはこれからも安眠はできないのである。

イスラム原理主義とか共産主義でも創価学会の仏教ファシズムもそうした不満者を集め権力を倒し自分たちが権力を得ることであり正義とか慈悲とか愛とは社会運動組織化したとき関係ないのである。もちろん馬鹿な単純な若者は純粋に主義主張を実現するために行動する場合がある。しかしその指導者は権力を求めているのだ。タリバンのオマル氏も豪勢な家に住んでいたしビン・ラデンから幹部は高級車を支給されていた。カトリックは国家の中の国家のようになり強大な権力を持つようになり王権からの封建国家の利害と衝突し宗教戦争となった。いかに封建的なものが人間の生物の本能に根ざすが故に否定できないかわかる。結局アルカイダもイスラム原理主義でイスラム圏をまきこもうとしてもイスラム自体特にアフガニスタンは部族国家であり江戸時代、戦国時代だったのだ。アルカイダ自体その群雄割拠の争いの中に巻き込まれ閉鎖された洞窟に閉じ込められて最後を迎えたのである。

 

中世の日々

いくつもの市と市とは敵対し
城壁といくつもの塔のいかめしく
歩哨の兵は今日も油断なく見張り
修道院も襲撃より守る要塞の一つ
ゲルマンの未開の森は黒々と
その行く手をさえぎりわだかまり
千枝なす原始の森の影の濃く
狼、妖精、盗賊の人知れぬ住処なれ
ケルトのドルドイ僧の祈る洞穴もあれ
鎧、兜に身を固め騎士は行く
領主の誓いも新たに従者は幾人
城の中貴婦人の窓により見つむ
あの方は竜を退治したと騎士と噂の・・
その凛々しき騎士の丘上り来るを
その艶やかな衣装を見せんと・・・
重々しい城の門は今彼のために開かれぬ
その日々の城の生活は糸つむぎ、機織り・・・
その閉ざされた森に市と市
その中に流れる川穏やかに幾重にも
川には船が静かに荷を運ぶ
しかし城をいくつも川沿いに見下ろし
通行税をとりたてる塔のありしも
その中に農民に酷税で苦しめし領主の伝説
まことに城はまた厳しき税を課する所
かく川は市と市とを結びしも
森は黒々と市と市とを陸の孤島とし
商人も武装して一団となりて物を運びぬ
その運ばれし異国の宝物は貴重なれ
代々の家宝となりて受け継がれしもあり
荒々しき性の人々跋扈し襲い来る
市はたちまち踏みにじられ略奪され
痛切な女性の悲鳴は城内に満ちて
宝物と食料と奪い去られて無惨なり
キリストの教えはまだ人々を感化せじ
修道僧に習うものありとはいえ
市民を守るものなし自衛のみ有効なり
職人のギルドも武装し立ち向かう他なし
城壁の外の耕地に農民は歩哨の兵に見守られ
一度敵の来たらばすぐに豚もろともに城の中へ
豚すらもたえず怯えて暮らすもあわれ
どんよりとドイツの空は曇り霧流れて
魔法をかけられ眠り姫はその眠りを深くし
城の扉は固く閉ざされて起きるあたわじ
罪人は陰鬱な塔に長く閉じ込められ
冬の日は長く森は深々と黒々と眠りにつきぬ


このように豚さえも城壁の外では安全ではない、これが中世でありアフガニスタンもこの中世だったのだ。この中世にハイテク軍団の宇宙人のようなアメリカが攻めてきたのである。ここに大きな時代のズレがあったのだ。
その他イスラム社会が江戸時代ともにているのは4人まで妻をもっていいとか殿様は必ず側室をもったし大奥がハーレムとかになるし女性差別も女人禁制の山が各地にありその禁を破った女性の伝説など各地にあり女人禁制は女性は不浄なものという差別があった。イスラム社会が江戸時代と宗教に関係なくにている。仏教であれキリスト教であれ女性を差別しない。宗教的禁忌なら日本にもあったのであるから江戸時代とアフガニスタンやイスラム社会を比較すると相似しているのだ。イスラム社会がすべて宗教により見るのは間違いである。宗教自体にはそうした見方はない。江戸時代のような封建的社会の体質に由来しているのだ。


参考にしたホ−ムペ−ジ

週刊アカシック

http://plaza12.mbn.or.jp/~SatoshiSasaki/index.html


中国の限界を読む

 
  一年を振り返る

今年は事件の年だった。アフガニスタンの悲惨さに目をおおった。地雷で両足ない女性や子供の姿は悲惨だった。あんな悲惨な世界があったことがわからなかった。アメリカも悲惨であったがまだ回復する経済力は十分にある。アフガニスタンの方が悲惨で皮肉なことにアフガニスタンに目を向けさせる結果になった。いまだにアメリカが空爆をやめないのには納得がいかない。3000人の犠牲は大きい。しかしアメリカはどれだけの人をこれまで殺してきたか、アメリカをうらむ人は世界中で多いしその恨みが無くならない限りテロを防ぐことはできない。安全は保証されない。キリストは右の頬を打たれたら左の頬をさしだせ、憎む人を愛せと言った。アメリカはどうか右の頬を打たれたらそのお返しは死ぬまでも叩き返す、それがキリスト教の国だろうか。ではイスラム原理主義もその恨みを暴力に訴えて問題が解決するのか、むしろ石油で潤う一部の王制の特権階級への不満がイスラム原理主義の根底にあるようにその内部にこそ問題がありそれを外部に転化しても問題は解決しない。アフガニスタンにしても封建的縄張り争いが国を疲弊させたのであり内部の問題が解決されていないからあんな悲惨な混乱になったのだ。
 それに比べ何故明治維新が常に偉大なものとして回想されるのか。あの混乱のなかでとにかく国の統一と革命を成し遂げたことである。五稜郭という映画を見たが徳川幕府への義から最後まで薩長軍に抵抗したのだがその義はもはや一藩に留まるものではなくっていた。会津という藩に忠誠を誓う戦うことでもない国の存亡にかかわる時だったのだ。国が滅びるかという時一藩への忠誠、義は成り立たなくなる。義は国の義へと大きな義へとシフトする時だったのだ。最後に西郷隆盛も藩への忠義のために反乱を起こしたのも国の義と藩の義が対立したのだ。日本では国の義は天皇への忠となったのだ。アフガニスタンではアフガニスタンという国の義となる忠となるものがいないのだ。国王にもその吸引力がなかったのである。それだけの歴史的伝統的力がなかったのである。

あなたのうちに王はいないのか
あなたの相談相手は絶えはて
産婦のように激しい痛みがあなたを捕らえたのか(ミカ4−9)


確かに天皇というのにも問題があったし災いになった。でも明治維新の大混乱の時、天皇がいなかったらどうなったのだろうか。(あなたのうちに王はいないのか)これがいかに痛切な叫びとなったか。アフガニスタンの混乱を見ればわかるのだ。

義とは何かとなるとむずかしい。そもそも義の戦争があるのか、アジアの大義とういう戦争が成り立つものなのかというとアジアでは通用しなかったとなるとそんな大きな義の戦争だったとは思えないのだ。だからそこには明治維新のような人間像が浮かんでこない、新撰組ですら誠を尽くしたものとして今称賛されるものがある。とにかく時代の混乱の中で必死に生きた人達だからである。必死になることはそれだけの熱情をそそぐことは理屈以前の問題なのだ。ふりかえって現代はそうした必死になるものの対象がないことである。ただただ利を求め利に明け暮れる経済人間になってしまったのだ。その経済がだめになったとき日本に何が残るのかそこは大都会の歓楽街の荒野ではなかろうか?経済だけを利だけを追い求めた虚しい跡ではなかろうか。大衆浪費社会の夢の跡ではないか。ギリシャ人は美を求めたか美が後世に残った。ヘブライ人、ユダヤ人はひたすら義を求めたから義の宗教が残った。ロ−マ人は政治の民として法を残した。日本人は何を残すのか、技術者として電気製品を自動車を残し終わるのだろうか。

 あきないする民はみな滅ぼされ
 銀を量るものはみな断たれる(ゼパニヤ1−2)

これはアメリカにもあてはまるのではないか。経済だけがすべての問題とし金によって量りにかけているのがアメリカであり日本ではないか。そしてそこに安全はありえるのか。

 災いなるかな、
 災いの手をまねがれるために高い所に巣を構えようと
 おのが 家のために不義の利をとるものよ     
                     (ハバク2−9)


アメリカがどんなに安全を計ろうとしてもできない。どんな軍事力をしても安全はないということを今回の事件は示していないか。不義の利をとるものではないにしろイスラム世界では貧乏な国からするとそうみえるしそう思っている人も多いということでる。結局安全は神に守られるか主キリストのように右の頬を打たれたら左の頬をさしだし憎むもの愛すということをしなければ安全はないのだ。確かにこれが実行するとなると不可能に近い。しかしアメリカは常にその逆を行っている。日本がそのあとに考えもなくくっついていっても日本の安全もない。今回の自衛隊派遣には疑問に思っている反対の人が多かったのではないか。なぜいまだに空爆をつづけさらに戦線を拡大するのか。それで果たしてテロをなくせるのかというとかえって逆効果になる面がある。いづれにしろ今回の事件は大きな歴史的事件となったいろいろな教訓を含むものだったのだ。正に生きた歴史を見たのである。

人間の恨みもつきぬ年の暮

人間の悲しさつきぬ年の暮



俳句でふりかえるこの一年

今年はテロとアフガニスタン問題で終わった。個人的には天候が悪く家に閉じ籠もりホ−ムペ−ジの制作に励んだ。自分の身の回りでは家族に病気もなくまあまあだった。ただ回りの環境が家が立て込み前の家がなくなり自動車の音がじがにひびくようになりいやになった。ベランダを高い金で作っても何にもならなかった。そこに出ても自動車が走り音がうるさく気分転換にならなくなったのだ。前は家もなく自動車の音も聞こえずいい環境だった。将来的にここは移りたい。

馬追いの今年来らず町変わる

馬追いは必ずきて鳴いた。それが今年は来ないしその鳴き声も聞かなかった。家が立て込み畑や空き地がなくなったからだ。これも淋しいことだ。人間は自然の中に溶け込むように暮らすのがいいのだ。自然はなぜこのように美しいのかそれは動物でも植物でも森や山や川や海にマッチして生きているからだ。都会の烏がなぜあのように異常に繁殖し人間を襲うまでに凶暴になったのか。それは都会という非自然の異常な環境で動物まで変貌したのだ。それは自然の中の本来の烏ではない。烏はそんなに人間に害を及ばさない。過剰のゴミの排出やその他不自然な環境が自然のバランスを崩し異常な烏を生み出したのだ。つまり人間が異常な烏を生み出したのだ。地球温暖化もそうでありこれはアフガニスタンに雪を溶かし水不足を生み飢餓を作り出した。自然のバランスを崩すとどこかにその皺寄せがくる。

寒烏見守り送る山の道

ここに本来の烏の姿がある。じっと危害も加えず人の行くのを見つめている。その淋しい山道にマッチして調和して存在する。人間は自然のバランスを崩してきた。自動車も多すぎる。ちょっと言いすぎかもしれんがは人命は尊いにしてもあのニュ−ヨ−クのビルがそんなに惜しいものなのか、あれが美しいものなのか、それが疑問なのだ。世界の金を集め世界の経済を牛耳るシンボルだったというのも一面言える憎悪の対象にもなった。経済が世界をドルが世界を支配することの反発は世界にあるのだ。いづれにしろ日本も確かに不況は深刻だが今までの生活を見直す時ではないのか。インタ−ネットで江戸時代 年の暮と入れたら飯盛り女に売られる年季奉公に出される文書を読んだ。


奉 公 人 請 状 之 事

一  幕府直轄地で松本藩が御預所の塩尻宿の七蔵は、年々の不作のため、御上納金に差詰って、難儀しているので、
    妹の「 と よ 」を貴殿に頼みまして、今年(当亥年)の十二月より、来たる寅年の暮まで(中年)三年季として「飯盛女」
    としての奉公に差し出します。身代金としての、「金子四両」の内の二両を請取り致しまして、(残る)二両は、年季明け
    のときに下されることに、定めた(約束した)ことは、確かです。
     衣喰(衣食)に関しては、御家なみにしてください。
    この奉公人については、外より難しい(六ケ敷)ことを言う者はありません。 万が一にも難しいことを言う者があった
    ときには、我らがどこまでも出かけて、必ず(急度)埒明けいたします。
     自然として、無奉公により(あなたの)御気に入らないときには、どこへでも、いやしい奉公に差し出されても、
    (私は)一言の異議ももうしません。且つまた、結婚するとのお互いの(私的な)約束をしたならば、どれほどの
    (代償)を請求されましても、(私は)一言の異議ももうしません。
     もし、(奉公人に)欠点があったときには、その不足した日々の数を、先延ばしして勤めさせます。
一  宗旨は代々西福寺の旦那に紛れありません。そして、御法度の宗門ではありません。
     このように、頓死・頓病(おもいがけない死亡や病気)、不慮の怪我によって果たとしても、(私は)一言の異議も
    もうしません。
      後日のために、「人請手形」を記します。

   安 永 八 (1779) 年 亥 十 二 月
                                 塩 尻 宿
                                    屋 主   七  蔵  (印)
                                    請 人  令 治 郎  (印)
                                    同 断

          洗 馬 宿
              新 右 衛 門 殿


江戸時代の俳句を読むと次のようなものがあった。
  
  実に泣く傾城もあり年の暮 横井世有

 首くくる繩切れもなし年の暮  蕪村

  盗人に逢うた夜もあり年の暮(芭蕉


いかにここには切実なものがあったかわかる。江戸時代の貧乏は今では考えられないほど切実であったのだ。アフガニスタンもそうであるが貧困に苦しむ人が世界にはまだ多いのだ。インタ−ネットを読んでいるとどういうわけか山梨県の秋山村のホ−ムペ−ジに行った。そこには郷倉というのが未だに残っていて写真もでている。これは原町にも郷倉という地名のバス停がありもともと郷倉が立っていた場所であろう。郷倉とは飢饉に備えて村で食料を貯蔵しておく所であった。それは全国の村々にあったのだ。

郷倉の名のみ残りて冬の暮

インタ−ネットは地域の情報を出すのに便利である。それがこうしてネットワ−クのように結ばれる。今年の最後に江戸時代のことをふりかえったのは現在の不況より江戸時代の貧乏は深刻でありまだまだ食うや食わずの人々が世界におりアフガニスタンの悲惨さに比べればまだ日本は恵まれているしほどほどの生活で満足するのも自然の理ではいかと思ったのである。歴史は娯楽のドラマではない、厳粛な事実であり鹿島町の岩松氏の悲劇も明かに事実であり未だにその事実の重みが尾を引いている。最近インタ−ネットでみた原町の人のホ−ムペ−ジに白河藩から脱走した百姓の家族が追ってきた役人に飯館で全員惨殺された。その事実の証拠が発見された。これほど藩による百姓の束縛は強かったのだ。つまりこうした事実こそが歴史でありドラマは歴史の脚色でありドラマばかりみていると歴史の真実が重みがわからなくなる。とにかくも今年も終わった。

インタ−ネット様々の思い年の暮

来年もインタ−ネットの世界は広がる。ただ常時接続にならないと自分の場合広がらないので残念である。インタ−ネットは時間がかかる。インタ−ネットはいろいろな知識とか地域、個人を融合させるものなのだ。マスコミの世界とはかなり違うのでまだ活用されていないしその未来も未知なものが多いのだ。

 曇りなき月の光りて年終わる 

確かに人間界相変わらず曇り闇の世であった。しかし月は我が心は曇りなく罪に汚れずありたい。我が心が罪に悪に曇れば決してその自然の美はその心に反映しないのだ。世はいつも闇の世であり悪の世であったのだ。サタンの国であった。だからこそその中でいかに正しく清らかに生きるかが問われるてきたのだ。この世が滅びない限り新しい世はこないことも確かなのだ。つまりこの世は人の努力では決して改善されない、それは5千年の歴史が証明している。神によってしか新しい国はこないのだ。人の努力になる文明はバベルの塔のようにあっけなく崩壊するのだ。そこに永遠はない、人間の世それは無常だ。常ないことである今日あるものは明日はない、人も環境も常に変わってゆく。それがすべての人の定めである。

相馬私局(小林)


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