時事問題の深層33-2006
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相馬発信-小林勇一
これまで家族の認知症のことでプログで書いてきました。これまでの記録は記事はプログで読んでください
「今日の一句一首プログ」
WHAT'NEW





福島県の不祥事(水谷建設関係にパリポッタ−の翻訳家−松岡さんの脱税)7月27日

英霊をカミとすることは納得できない(靖国分祀問題)8月15日

南相馬市原町区にできるショピングセンタ-の是非(老人からの視点)8月22日

変わらぬ世界こそ癒しの場−景観の破壊の深刻(八沢浦の不思議)9月1日

認知症はボケは神による人類への刑罰か  9月2日

前田建設のかかわり(福島県の根の深いゼネコン談合疑惑)9月8日

原発利権で前田建設から出版社へのリベ−ト3億円9月12日

終わり悪ければすべて悪し(福島県の佐藤知事が辞任9月28日

地方の国際化(なぜポ−ランドに娘がいると・・)10月10日

新米の時期に過去をふりかえる−東北の川の重要性(鉄道がない前の交通)10月12日

江戸時代は本当に貧しかったのか?(現代との比較)10月12日

深刻な高齢化社会の弊害−老人駆除(竹本善次)を読んで10月19日

小泉首相がなぜ大衆に支持されたのか?10月23日

福島県知事選挙と南相馬市議会選挙で考えたこと11月15日

介護福祉士という新しい職業11月16日

冬の日の飯館村をめぐりて(なぜ老子の無為自然が実行されないのか?)11月18日



福島県の不祥事(水谷建設関係にパリポッタ−の翻訳家−松岡さんの脱税)


この時期、竹内氏は出身地の福島県内で出していた雑誌『財界ふくしま』で、4ヶ月続けて東京電力の原発について批判記事を掲載。困った東電側は、東京都千代田区内幸町の「行研」事務所を訪ね、3000万円を持参。結果、連載は中途半端なうちに終わったという。

情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)
http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2005/02/post_13.html

最近、福島県関係で水谷建設で佐藤知事が疑われたのもやむをえないだろう。実弟がかかわっていた会社だったからだ。
情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)のプログが解説していた。
不思議に思うのは福島県でだしている月刊誌などで飯が食えるのかとなる。広告料にしてもそんなにもらえるのか?出版はそれなりに金がかかるからもうけることが大変に思える。だからゆすりのようなことをしないと食えないことをこのことは物語っているのではないか?出版は個人などではもちろんできないし大がかりな装置が必要なのだ。おおがかりだからこそ出版に言論の自由などない、巨大な団体の後ろ楯がなければそもそも出版などできない、大手出版社はそうしして市場を独占できて宣伝で話題作りしてつまらない三文小説でも大衆に売ることができたのである。そして出版は例えば創価の批判したら書店にはもはや置いてもらえない、政府と一体化した巨大権力団体は簡単におさえることができるからだ。つまりマスコミは悪の追求を本当はできない、それは創価関係の不祥事は全く出ないことでもわかる。NHKもできないのだからその闇は放置されいいことしか書かれないのである。福島民報自体、聖教新聞をすっているだから全く信じられない新聞社なのである。


世界的ベストセラー「ハリー・ポッター」シリーズの日本語訳で知られる翻訳家の松岡佑子さん(62)が同シリーズの翻訳料収入をめぐり、東京国税局から04年分までの3年間で35億円を超える申告漏れを指摘されたことが分かった。松岡さんはスイスに居住しているとして日本で申告していなかったが、実際には生活の本拠が日本にあり、申告が必要と認定されたとみられる。追徴税額は過少申告加算税を含め7億円を超える模様だ。

http://www.pottermania.jp/info/interviewprogram/interview_traductrice_020221.htm

この人は同じ高校の出身者だったから驚きだ。故郷に呼ばれ錦を飾った人である。こんなに出版でももうかるものがあるとは驚きだ。
出版界やマスコミは真実を追求したり言論の自由などないのだ。すべては巨大な出版社とかににぎられている。そもそもト−ハンとか流通を一手ににぎる会社は検閲のために作られた会社だったのである。書店は中央から流れるベストセラ−をおくことにより辛うじて生活費をかせいでいた。書店は教養の場所とかではない、書店なんか誰でも何の志もなくてもできるのだ。本に関心もない人でもただこれが売れる本だよ、これを一番目立つところに山積みしておけ、売れない本なんか何の価値もない、金儲けが第一であり売れない屑本なんか置くなよとなる。場所をとるだけで無駄だとなる。それでも本屋は本が唯一の情報源だったときはそれなりに教養の場所としして機能せざるをえなかったのだ。本でしか情報すら入手できない時代が長かったのだ。新聞からテレビと情報は変わっていったがテレビもまた巨大な一方通行の情報世界だった。だからマスコミは政治でも大きな力をもったのである。

マスコミが話題にするだけでその記事だけが注目される。他の小さな記事は注目されなくなる。慈善活動にしても幼児の心臓移植のために一億円寄付金が集まったとかものすごい効果あるのだがそれは作られた慈善であり他に必要なところは宣伝されない。特殊な話題性のあるものだけが作られて報道されすごい宣伝効果をもたらすのである。実際この松岡さんも慈善活動家として鳥越氏と対談しているのだ。


http://www.pottermania.jp/info/interviewprogram/interview_traductrice_020221.htm

テレビにでてくる、マスコミで有名になる人は何かうさん臭いのである。それをあとおしするものはコマ−シャリズムにのせらるために過剰に作られるのだ。大衆なんか馬鹿にするのが簡単だよ、煽動するのは簡単だよ、ヒトラ−的に洗脳するのは簡単だよ、やつらは何にも考えないからこっちでなんでも作って見せてやればのせられるんだよとなる。いづれにしろ一方通行の報道はインタ−ネット時代で終わった。弱者でもその影響微々たるものでも報道に参加できることは大きい変化なのだ。個々人の報道でももう少し注目を浴びると百万人が見るのと百人がみる差が縮まるといいのだ。今自分のプログは百人とするとその注目度は余りにも小さいしその差が大きすぎるのだ。本が売れないとか本とかテレビとかの一方通行の報道は終わりつつあるのだ。もし自分でもインタ−ネットがなかったら全部自分という存在さえ社会から葬られて終わりだった。自分は今や本は読めなくなったこともあるが有名になった本は読まないとかそういう自衛策が必要なのだ。肝心なものは情報でも今や出版界やマスコミの報道から得られない、自力で情報を分析する調査する力を持つほかない時代になったのである。



 英霊をカミとすることは納得できない(靖国分祀問題)

靖国の分祀問題は私が語ってきた西山家の墓についてだがこの中には確かに西山家に連なる人々が埋まっている。でもその個々人をとってみるとみんな違った事情で死んでいる。−−−家の墓とあればそこには実は犯罪人さえ埋まっていることもある。女性なら姑とは一緒に入りたくないとか実際にそれを実行している人もいる。でも西山家に連なる人はそこに入っている人を一緒に慰霊するのだ。靖国神社もまたそうである。そこに葬られている人は明治維新に功績があった人であり敵対した人は葬られていない、これは女性の争いとは違ったものでもともかく一つの墓に一緒に入りたくない、入れられないということで共通しているのだ。実際西山家が山田家と分離したのはそうし事情もあった。姑と嫁の争いがあり姑に追い出されたとか延々と恨みを憎しみをもっていたために分離した一面もあった。靖国も靖国に入れさせたくないという遺族がいても不思議ではない、戦争で死んだといっても東条秀樹とか無名の一兵卒は自ずから違っている。それだけの高い志があったのではなくただみんなが戦争にゆく、戦争に行かねば家族が回りから責められし逆らうことができないとか戦争にゆく事情も違っていた。

「靖国で会おう」という合言葉とともに死んで行ったというがみんながそうであったのか?死んで護国の神になるから死ぬことに納得した。これはキリスト教やイスラム教の殉教ににている。でもすべてが殉教にはなっていない、島原の乱は野心をもった浪人がまた一旗あげようと集まったのであり宗教が利用されたと歴史の認識が変わった。戦争の原因は様々な世俗的なものがある。経済制裁が一因だったこともあるしやむをえざる戦争だったというとき別に天皇のための聖戦とする必要もなかった。そうならあくまでも経済が破綻するから経済の破綻をくい止めるための戦争だったとなる。

イスラム原理主義の自爆でもキリスト教原理主義の聖戦でもその死がみんな殉教になるわけではないし神によみされるわけでもないのだ。それは全く無謀なカルト的死でもありうる。死を覚悟して犠牲になるのだからといってすべてが崇高なもの殉教にはならないのだ。歴史的に宗教的純粋な殉教というのは極めて少ないのである。殉教というときその捧げる対象が本当に最高の存在、神であらねばならない、神だったからこそ殉教できる。主−キリストは神だったから殉教できたのである。ただこの殉教も本当は極めてまれだし戦争による殉教というのはほとんどなかったのではないか?

天皇は人間宣言したのだから神ではない、その神ではない人間に一命を捧げたことはどうなるのか?だから三島由紀夫は天皇が人間を宣言したことに怒り自決したのである。天皇自ら英霊を裏切ったとなるからだ。天皇は神であらねば英霊も浮かばれないとなるからだ。日本では死んだ人はみんな神(カミ)になるという習慣があるからこれは日本の習慣であり他の国にはわからないというのも納得できない、死んだ人はみんな神だとしたら犯罪人も死んだらカミになる。死んだ人はホトケにはなる。しかしホトケはまたカミとは違ったものである。日本ではカミになる人は特別優れた功績あるヒトが神に祀られた。すべてがカミとなるわけではなかったのだ。カミとなる人はまれなる人間だったのである。英霊は何か死んだらカミになるというより国家神道と結びついている国家護持としての宗教でありこれは政教分離にも違反するとなる。政府高官が一国の首相が一民間の宗教団体の祭祀に政府を代表してお参りすることは政教分離に違反しているのだ。創価が政教分離していない政教一致として権力奪取を目指すから危険なように英霊を宗教として国が祭り上げるのは危険なのである。これは慰霊とは何か別なものなのである。創価と同じように国家権力と結びついた政教一致の憲法違反なのである。今の自公政権の不思議はどちらも政教分離に反していることなのだ。創価を創始した牧口氏が獄死したのは政教一致の国家権力に逆らったからだとある。そういう歴史をもっているのに靖国を是認して政権党になっていることも納得できないのである。結局創価は権力に追随するものだから牧口氏のように信念を貫くことはしない、ただ権力あるものに追随して甘い汁を吸うだけとなるからどうでもいいのかもしれない、損得の方が大事だとなる。

靖国には西郷隆盛など西南戦争で新政府に逆らった者は祀られていない、でも西郷隆盛は一時は明治維新の功績者だった。明治維新を成し遂げた指導者だったのだ。東条秀樹は祀られて西郷隆盛が祀られないのも片手落ちである。その基準がどこにあるのかも明確でないのだ。会津藩士も逆賊とされて祀られていないので不満がある。つまり靖国は全国民の戦没者を祀るものではない、明治にすでに偏ったものとして作られたものだった。全国民を慰霊するものではなかった。日本には敵味方塚などもあり何であれ戦い死んだものをともに慰霊するという習慣があった。そういう日本的情もない偏った神社なのである。

そもそも国家神道は本来の神道と関係なく靖国もまた明治の時に偏った戦勝記念者を祀る神社となったのだ。天皇に殉じた、御国のために殉じた、・・・・そうしたことはあとで美化された面もあった。実際は奴隷のように強制的に赤紙一枚で招集されたとしかの意識をもっていない人もいたのである。戦死者の霊を一つにすること自体無理なのだ。だからこそ西山家が分裂したように二つになり三つに分裂、分祀されてゆくことは止めることはできない、後世の人はさらに冷静に歴史を分析してみるからますます靖国の英霊信仰は失われてゆく、戦争は結局「人殺し」だと戦争に従事した今は認知症になった人さえ言っているしいい戦争、正しい戦争などないというのも真実である。人殺しをした人をそもそもカミと祀ること自体ありえない、世界的に見てありえない・・・ただ戦争にも背景がありいろいろな事情があったから犠牲になった人への慰霊は必要だが神として拝礼して敬うということがどうしても納得できないのである。

参考
姓が変わる(分祀することの意味)さくらのプログへ
http://musubu.sblo.jp/article/1110208.html



南相馬市原町区にできるショピングセンタ-の是非(老人からの視点)

この是非を語るには老人の視点が欠かせないことなのだ。都会でも近くのス−パ−がショピングセンタ-ができてつぶれバスで通ったりと車のない老人は不便を強いられている。ス−パ−ができて商店街がさびれショピングセンタ-ができてス−パ−までつぶれるというのだから商業は常に変化してゆく宿命にあることはわかる。何がこうして次々に変化をもたらすのか?これは車社会のためである。車をもっていれば距離、空間の制限を受けなくなる。20キロくらいは距離にもならない、交通の発達は空間の制限を破る。もう一つ金で空間も買いるのだ。飛行機が発明されて利用されても何十年前は航空賃が50万もしてはなかなか広まらなかったのだ格安航空券の時代になり海外旅行が庶民化した。空間も金で買いるのだ。時間さえもある程度は金で買える、単純労働とか嫌な労働も金があればすることはないのだ。現代がなぜこれほど金が重要なものとなるか、それは空間と時間さえ買いるという時代だからだ。空間を買うには車が必需品である。車は空間、距離の制約を破るから必要なのである。現代は近隣とかが一番希薄な関係になる。バンコクまでなら航空賃も安いからタイで避暑だとか外国が隣のようになっている人も珍しくないのだ。タイの方に詳しいのである。

では老人の視点からみると社会はどう見えるのか?これは老人になってみないとわからないとなるが実は老人にならなくても車のない人は老人と同じ立場に置かれていることがわかった。そのことは買い物していればわかる。原町区まで6、7キロと近いのだが自転車だとやはりそれなりに遠いから買い物をするには遠すぎるのだ。自転車と車ではその距離感覚はまるで違うのだ。だからどうしても最近介護とか自分も医者に行くにも隣の市とかに行こうとすると不便になりバイクくらい必要だと感じるようになった。これがさらに自転車にも乗れない老人とかになると80以上の足が弱った老人になるとすぐ隣にス−パ−なり店屋がないと買い物も自分ではできない障害者のうようになってしまうのだ。最近は認知症の家族をかかえているので買い物も結構大変だと思った。近くに惣菜屋がありそれでかなりオカズのたしになっている。オカズは自分でほとんど作っていないからだ。車もない押し車でやっと歩くことしている老人は近くのス−パ−が頼りでそれがなくなったら困るとショピングセンタ-に反対してつぶれたス−パ−を再建したりしている。結局現代とは車社会であり車に席巻された時代だった。車のない人間は老人でなくても社会的には弱者であり障害者と同じになってしまうのだ。車はあまりにも便利すぎる道具だからこれを手放せなくなる。その便利さは社会に歪みをもたらした。

社会は弱者のために作られていない、障害者用のトイレとか盲人用の歩道とかがあるが車のない弱者は全く考慮されていないし切り捨てられている。車ももてばいいじゃないかで終わりである。ところがこれから高齢化社会になると車にも乗れないとか車があっても車も使えない年になる。運転が危険になるからだ。山村の過疎地では車なしでは本当に生活もできなくなり老人は施設に入るほかないとまでなっているのだ。これから認知症も地域でふえてくる。認知症になったら近隣が本当に大事になる。認知症は5分前の自分がしたことを忘れたりする、記憶できない病気だから家庭では生活できないから施設に入れればいいとなるが数がふえてくるから全部施設で引き受けることはできなくなるし介護でもそうだが自宅介護を政府ではすすめている。買い物でも近隣の付き合いでも軽ければ回りの親切な見守りがあれば地域でも家庭でもなんとか生活できる。でも生活範囲が家の回りだけの極めて狭い範囲になってしまうのだ。そこに見守る人とか親しい人とかいる必要がある。

枯木一本標しとあれな変わらずに

なじみ親しんだ近くの枯木一本が徴しとなり目印しとなる。そして変わりすぎてしまった環境には適応できない、日頃からなじんだものが認知症の人にとっては頼りなのだ。つまりショピングセンタ-はこれからの高齢化社会にはそぐわないものなのだ。それをすすめると団塊の世代の大量退職、超高齢化社会になりそんなものあっても利用できないかえって不便になったとか近くの便利なス−パ−、店屋をなくしたとか反発される。そういう先を見越すことも大事である。もちろん新しいものには新しいもきの良さがあるし便利さもある。それを追求するのが進歩だから避けられるないというのも社会だった。汽車ができて馬車屋が反対したが無駄だったし蚕の桑に蒸気機関車の煙がかかって被害を受けるとか汽車の線路をひくことに反対して損した町もあった。車社会、IT社会もそうである。進歩とは常に古いものを壊す一面がある。しかし高齢化社会になるときショピングセンタ-は害を及ぼすことがかなり大きいから問題なのだ。高齢化からみる社会のあり方は一面人間的なものを回復する作業でもある。スロ−ライフとか別な価値観の追求であり江戸時代の人間的なものの回復にもつながる。技術を一方的にすすめる事は必ずしも人間を幸福にはしない、技術を社会的、自然環境的に制御する時代に入っているのが現代なのである。



変わらない世界こそ癒しの場−景観の破壊の深刻(八沢浦の不思議)

●変わらなかった八沢浦

山田貞策は、1869年岐阜県養老町の代々庄屋を勤めた大農家に生まれます。農事改良振興に尽力し、1898年に出崎栄太郎に水車式蒸気機関排水機を開発させます。この排水機を利用して、1906年〜1928年まで、福島県相馬郡八沢浦で干拓事業を実施します。荒地を美田とし、耕地面積350haの耕作地を作り出し多量の農業生産物の収穫ができるようにしました。1935年に山田神社が磯ノ上公園に建立されましたが、現在では八沢浦干拓事務所脇に遍座してます。


八沢浦に来ていつも感じることはしんみりとしてくることなのだ。それがなぜなのかわからなかったがここが人家も風景も明治に干拓された時以来風景が全く変わっていないことにあったのだ。干拓されて田になる前はここは入江でありこれも美しい場所だった。この入江から田になったことはこれは大変な景観の変化でありまるで違った景観となってしまった。その時の景観を知っている人には余りの変化に狼狽したに違いない、その時経済優先であり江戸時代から新田開発が優先されたから仕方ないことだった。この新田開発でも貴重な景観が失われたのだ。象潟(きさがた)も潟(かた)に島が点々と浮かぶ夢のような景観があった。日本海には潟(かた)が多かった。新潟と名のつくのもそのためである。船で島によることが奥の細道に書かれているから船で遊覧する名所だったのだ。今は全部田になってしまっているのだ。昔の夢のような景観は失われて二度と再現できないのだ。景観は大きな全体だからほとんど再現は不可能である。京都辺りの町屋にしても一軒二軒ぽつんぽつんと保存しても意味がないのだ。全体の通りとして景観の持つ意味があるからだ。町屋の前には圧迫するような巨大なビルが建っていたりと昔の景観を保存することは都会の方がむずかしいしほとんど不可能である。そして自然の景観も再現することは不可能であることが深刻なのである。

●鹿島区の景観の変化も激しかった

一体ここ五十年で景観が変化したか、信じられない変化が日本中であった。この南相馬市の鹿島区でも同じである。海岸には火力発電所ができて風景は一変した。この風景の変化は一番大きかった。かつてのもの寂びた海岸線の風景は喪失した。それから六号線ができたり真野川の河川改修で川の風景も一変した。その時だった、墓地まで移転したりと墓地もかなり各地で移転しているのだ。墓地も死者の霊を安んじる所も現世の変化をまねがれえないのがこの世である。そして次に変化したのが日本中で新住宅地のために土地を改良したことである。この変化も大きすぎた。例えば鹿島区の前の下町はここも前住んでいた面影は全くなくなった。ここには前は国道があり古い橋があった。その時舗装もされていないから埃りがたって汚れていた。野馬追いの行列もここを通りあの頃は頻繁に自動車がここを通ったのだ。その車の数を子供の時数えていたのを覚えている。私の家は店屋だったので国道沿いにあった小さな町でも繁華な通りだったとなる。それから近くに堀があり川から水が流れてそこで洗濯していたというから全くこれも信じられない、ここは新住宅地になったから当時の面影を伝えるものは何もなくなってしまったのだ。この変化も大きすぎた。これは過去の記憶を失われたと同じである。何かしら当時を思い浮かべるものがなくなったからである。これはここだけではない全国的に起こったことである。
他の地域も小池でも新住宅地として開発されたから変わってしまった。栃窪とか 橲原(じさばら)は比較的変わらないがそれでも真野川の上流に真野ダムができたことはこれも大きな変化だった。上流の景観は失われたし大倉村がダムに沈んだことも余りに大きな変化だった。橲原(じさばら)の一部が産業廃棄物が埋められたのも変化した一つである。そこからはやはり汚染した水が流れ出すことがありえる。変化という時一軒でも新しい家が建てばそれはかなりの変化なのだ。橲原(じさばら)の立目石のすぐ近くに新しい家が二軒ほどたったからそれで景観違ったものとなっているのだ。つまりどんな田舎の奥地でも景観は一軒家が建つだけでも変わるのだから変わっているのだ。そして何よりも大きな変化は常磐自動車道である。これはすでに橲原(じさばら)から栃窪と貫く道路ができつつある。古い山神の碑とか草に埋もれて栃窪の入り口となっていたがその上を高速道路が走るようになる。この変化も巨大な変化なのだ。景観もこれによって大きくそこなわれる。確かに経済的効果が大きいから誰も反対などしない、火力発電所の時もそうだったし八沢浦の国道沿いに競輪場の売り場ができたときは青少年に悪いとか反対運動があったがこれも形だけのものであったのだろう。ただこれは国道沿いなのでそれほど八沢浦の景観には影響しなかったのが救いだった。

●景観の変化は人心をも荒廃させる

そもそも景観が失われることには人間は鈍感である。自分の土地とか家の狭い範囲なら関心を持つが景観というと自然であれ町全体であれ関心をはらうことはむずかしいからだ。人間は美しい景観を歴史的景観を残そうといっても経済原則や便利追求で動いているのだ。自動車が景観を壊し騒音を出し排気ガスをだし空気を汚して交通事故の悲惨があるから自動車を減らそうなどというと誰も相手にしない、正気でないとなる。人間の弱点は目前の利益が直接関係することには関心をもっても大きな景観など何も利益をもたらさないから関心がないのである。だから日本中から美しい景観は消えていったのである。すべてが経済優先だからだ。あらゆるものが経済優先であり商業主義に席巻されたのが現代だった。芸術も本当に良質なものを作るよりも宣伝で売れることが優先された。文学賞などもほとんど中味より宣伝で一時的にセンセ−ショナルに売れればいいのである。こうして日本人が追求してしきた伝統的価値ある良きものは根こそぎ失われてきた。一見新奇なものこれが新しいものだというときそこに実際は新しいものなどない場合がある。維新とは古いものに復古することであり古いものに帰り新しいものを作ることなのだ。新しいものは古いものの再発見から生まれるのである。 ルネサンスとは古いもの古代のロ−マとかがあったから生まれた文化の再興を意味していたのだ。今や古いものの価値を見直すときが本当に来たのだ。すべて新しいものがいいわけではない、新しいものは今や人心を荒廃させる、危険なものとさえなっている。その一つがショピングセンタ−問題でもあった。

●変わらぬ世界の追求がこれからの課題

私のプログの「古池や蛙飛び込む水の音」の意味するもの・・・・で書いたように「古 庭 に 鶯 啼 きぬ 日もすがら」蕪村と同じように江戸時代の古池古庭の世界に戻るべきなのだ。古庭がつまらない、新しさがないからつまらないというかもしれないがむしろその変わらない古庭に深い味わいある世界を発見する。今や変わらない世界、景観こそ神秘的であり癒しの世界となっている。変わりすぎた世界は精神に異常までもたらしている。鬱病が風邪と同じように蔓延しているのもそうだし人心の荒廃も関係しているから実際はこれは何も一部の文学的問題でもないのだ。マスコミというのも新奇なもの事件ばかり追い続けて放送してそれに国民が注視していることも異常なことである。実際は青少年の犯罪は減っているのにこの世が犯罪者だらけのような錯覚を生んでいる。隣の人がみんな性犯罪者のように見られ犯罪者にされるというのも誇張ではない、自分も独身だから訴えられて刑務所にまで入れられる所だった。だから今では子供ともかかわることもできなくなっているのだ。これは明らかマスコミの影響なのだ。一般的には普通の人が多いのにこの世はエキセントリックな異常者で埋めつくされていると錯覚してしまうのである。変わりすぎた進歩の世界を追求することは人間の精神まで不安定にし破壊するまでになっているのだ。もう新しいものは必要ない、経済優先の日本改造を進めると人心は荒廃し子殺し親殺しから認知症の大量生産まで関係してくる深刻な問題となっている。

年になれば懐古趣味になるから老人の言うことは偏るとかなるがしかし若者の間にも懐古趣味が広がっているのもこの異常な変化を本能的に異様に感じるからそうなる。もっとまともな世界があるのではないかとなり懐古趣味になるのだ。そししてこれからの高齢化社会で問題なのが認知症のボケの大量生産である。この影響も自ら受難者になったように大変な社会問題になる。なぜ長寿社会は認知症をボケを大量に生産するのか?これは当然長生きするからそうなるとなるがではこれに対処するにはどうしたらいいのかとなるとほとんど医者でも答えがない、何の原因かわからないからだ。でも明らかに社会的に環境因子が問題だとすると治療にも影響する。認知症の対処にはなじみの環境を変えないことが一番大事だというとき余りにも変わりすぎた環境は認知症を悪化させたりまた認知症を生む原因になっているかもしれないという深刻な社会的問題となっているのだ。認知症には複雑な要因がからんでいて環境因子が問題となるとそれもありうるのである。そして昔の変わらない景観とか環境は認知症の人にとってもこれから老人になる人にとっても一番いい癒しになるのだ。これから求められる世界は変化ではない、変化しない世界こそ新鮮でありくめと尽くせぬ味あい深いものがそこからくみ取れるものとなる。それが八沢浦の変わらない世界の不思議さから実感したのである。

参考
八沢浦の晩夏(今日の一句一首−プログへ)



認知症、ボケは神による人類への刑罰か?

●人間の災難は神からの罰


人間が受ける災難には神の罰ということが根本的問題としてある。なぜなら人間が死という最大の災難を持つようになったのは食べてはならない知恵の実を食べたからでありその刑罰として死が人間の中に入ってきた。「罪の値死なり」とあるごとく死とは人間が犯した罪の結果だったしそれ以外なぜ死が人間にあるのか説明しようがないのだ。エデンの園でアダムとエバには死はなかったのである。聖書の中に記されたものは確かに人類に対しての神の罰としての歴史が記されている。ソドムとゴムラが神によって滅ぼされたのは明らかに神への冒涜であり性の乱れの結果である。そんなことは作り話だというが聖書はすべて事実を基にしているから確実にあったことをふまえて記されたものである。性の乱れといえばエイズというのもそうである。これも同性愛とか何か性の乱れに原因しているしその結果としての罰ともとれる。

人類は決してこの世に天国を作ることはできない、人類はいづれ確実に滅亡する、滅びるのが運命なのだ。それは神が定めたことでありまねがれることはできない、この世が求めるものはアダムが知恵の実を食べてから変わっていない、欲望の追求であり自らの力と知恵を頼むものでありそれがバベルの塔のように崩壊する、文明もバベルの塔でありいづれ崩壊する。では人類は何で滅びるのかというとき自然災害や惑星の衝突や細菌説とか核戦争とかいろいろ言われる。その有力な一つとして認知症、ボケが人類を滅ぼす原因に加わったことは間違いない、なぜならこの病気は原因もわからないし地球上で8千万くらいがなるというし日本では向こう三軒両隣で一人はなるというからその数の多さが恐怖なのである。

●人間の無能化、無権力化も神からの罰

この病気にじかに接してこれが余りにも謎めいていることなのだ。かつてこのような病気があったのか?そんな報告も伝説も神話も残っていない、全く新種のウィルスのようなものなのだろうか?ペストではヨ−ロッパの三分の一が死んだからこれも恐怖だった。この原因は今ではわかっている。しかし認知症の原因は不明である。これでわかったことはこれが単なる個々人の病気ではない人類に対する罰としての病気の要素がある。個々の事情もあるが人類全般に対する罰としての病気かもしれないのだ。なぜなら知恵の実を食べた結果、死ぬようになったというのは知能と関係して神から刑罰が与えられた。認知症もボケも極めて知能と関係しているからだ。もちろんこれは老化が原因だからそんな深刻な問題とも違うということも言えるがそれにしても銀行に例えば一億あっても下ろすこともできない、こんなことがありうるのか?銀行に金があっても金があるんだよといっても理解できない、こんな知能の低下、無能化、無力化はなんのためなんだろうと衝撃が大きいのである。人類はこうして脳が無能化されて滅亡することも考えられることを実際に接してそれもありうることと実感したのである。人間は自らの知恵とか能力を頼りにして文明を築いてきたのだ。それが全能の神によって無力化される無能化される、これもありうるのだ。

彼は権勢を賜ったことにより、諸民、諸族、諸国語の者がみな、彼の前におののき恐れました。彼は自分のものを欲するものを生かし、自分の欲するものをあげ、自分の欲するものを下しました。しかし彼は心に高ぶり、かたくなになり、傲慢にふるまったので王位から退けられ、その光栄は奪われ、追われて世の人と離れ、その思いは獣野のようになりその住まいはロバとともにあり牛のように草を食い、・・・・・・ダニエル5-18

王は答えて言うのであった,「この大いなるバビロンは,わたしが自分の偉力の強さをもって王家のために,またわたしの威光の尊厳のために築いたものではないか」。ダニエル4−30

ネブガデネザルの運命が人類の運命ともなりうる。認知症にはこんなだいそれたこととは関係ないというのもいえる。これは王という絶大な権力をもった人への刑罰だったが小さな個々人にもこれとにたことが起きるのが老齢化による無力化、無能化、無権力化なのだ。リア王でも領土を持ち権力を持っていたときは子供に対しても上に立ち命令することができたが権力が奪われると狂気にいたってしまった。規模は違うにしてもこれと同じことが老齢化とか特に認知症になると起きているのだ。社長であろうが知識人であろうが大統領だった人もなるのが認知症とかアルツハイマ−である。この最大の特徴は無能化、無権力化されることなのだ。これは家庭でも同じなのだ。嫁と姑の熾烈な争いも家庭をめぐっての権力争いでもあるからだ。家庭という小さな世界でもこうした権力争いは起きている。その罰としてネブガデネザルの運命と同じような結果になっている人もいる。

●ネブガデネザルと同じことが認知症にも起きる

こうしただいそれた罰ではないにしろ我が家でも権力をもっていた強いものが無能化されてしまったということがある。自分の思うように家をきりもりしていた人が全くできなくなりいじめていた命令していた弱い人におびえるようになったのだ。ネブガデネザルの話は作られたものではない、事実としてあったことを基にしている。自分のことを自分の思うままにできなくなってしまった。これは認知症の人と同じである。人間の老齢化とか認知症の問題はどんなに頭がいいとか健康であったとか金があったとか地位があったとか言ってもそれが無能化、無権力化される。そこでリア王のような狂気にいたる。認知症の重度になるとそうした狂気が現実となっているからだ。認知症は単なる脳の障害というのではなく神からの人類に対する刑罰という側面もある問題なのだ。だから簡単に薬とか科学でも直らない病気のような気がする。そこが余りにもこの病気が謎めいたものとしてある原因なのかもしれないのだ。科学的な追求だけでは解決しえないものがあることは確かなのである。

認知症は権力のある優秀な人がなると衝撃が大きいのだ。実際にそうした人が多数認知症になり無惨な無能人間化される衝撃なのだ。簡単な金の勘定や何よりも銀行に金があってもその金を自分の思い通りにならないという不思議である。これが最大の無権力化になるからだ。社会的に有能であり家庭でも一家を切り盛りしていた女性が認知症になるとやはり家庭内で全く無権力か無能化してしまう。簡単なかたづけもできない、例えば野菜や果物を冷凍室に入れて腐れてしまうとかこういうことが日常的に起きる、どうしてそうするのかというとどうしても置いてしまうんだという、脳が整理できないから脳が正常に働かなくなるからそうなる。余りにも簡単なことができないということが衝撃なのである。でも大人の会話はできるというのも謎なのだ。これまで経験した経験知のようなものは残っていて世間話が通じるのだ。一般的に大人の世間話の方がむずかしいはずだが最も簡単なことが銀行のことなどがわからなくなることが不思議なのだ。脳の中がどうなっているか全く不思議だとなる。何もわからない人ではない、大人の心をもった人であり大人としてのこれまで生きてきた知恵はもっているのだ。だから痴呆で何もわからないから普通の人のように接することができないとはならない、やはりこれまで長い人生を生きてきた人として接する、人として尊重されることが必要であり認知症の人もそうされたいと思っているしそう接してくれれば気分もよくなり症状も改善される。今までもっていた大人として人間としての役割を自覚して自尊心が満たされるということもあるからだ。

参考
認知症(老人問題)研究日記(プログ)
http://musubu.sblo.jp/category/90693.html



前田建設のかかわり(福島県の根の深いゼネコン談合疑惑)

ipの逆探知をまた余裕がでたのではじめた。そこに前田建設がでてきたので興味をもった。自分の時事問題の深層−福島県の不祥事にアクセスした。私は別に前田建設のことは書いていないし詳しくは知らないがインタ−ネット時代の情報探索に興味がありどれくらい関連がわかるかインタ−ネットで調べられるか試みをしたのである。

木戸ダムの受注に関しても当初本命とされた大林組から突然前田建設に変わったことは何がしかの圧力があったことは否定できないだろう。ダム工事の積算等は時間と金がかかるので本命と目される業者が変更になることはまず考えられないのである。またそこには水谷建設が下請けで入っていたことから某設備会社社長〜ゼネコン〜水谷建設の少なくとも3者がトライアングルを組んでいたことは想像に難くない。


http://blog.goo.ne.jp/sakuragaokanogen/e/597d0ca29c04a222d13f63d38a21b4b9

この人は建設に詳しいのか?前田建設は談合の一員に入り受注を成功させたのだろう。この問題の根の深さは福島県の議員とかゼネコン、建設会社がほとんど関係していることなのだ。

既に談合逮捕された福島県最大の地場ゼネコン「佐藤工業」の営業統括部長、八巻恵一容疑者(47)を含めた同社幹部らが、多数の国会議員に政治献金してきたことも判明している。
分かっただけでも、衆院では自民党の佐藤剛男・衆院内閣委員長(比例東北)、根本匠・元内閣府副大臣(福島2区)ら。参院では、沓掛哲男・防災担当相(石川県)、脇雅史・参院国土交通委理事(比例)、
太田豊秋(相馬)・元農水副大臣(福島)。民主党の佐藤雄平・元党副幹事長(福島)らである。
根本議員は、安倍晋三・官房長官「盟友」の一人として、新政権での初入閣が期待されていたが「この一件でどうかな」(永田町筋)と、疑問符が付いたようだ。佐藤知事の二女を伴侶としている民主党衆院議員の玄葉光一郎・党幹事長代理は、今のところ、佐藤工業などからの政治献金が確認されていない模様である。


http://www.asahi.com/national/update/0905/TKY200609050277.html

このようにゼネコンはあまりにも広範囲に政治家からそれにかかわる利権構造として構築されていて暴力団までがそこに組み入れられている。公共事業とゼネコン会社の一体化は構造的なもので変わらなかったのと佐藤栄佐久の20年もに及び知事が変わらなかったことが利権構造を温存したのである。ともかくこの衝撃は余りにも身近なことだった。近くの建設会社の同級生が逮捕されたときも驚いた。建設関係は何らかこうした構造の中に組み入れられていてそうしなければ仕事をやっていけないシステムになっていたのである。それは福島県の知事を頂点としてシステム化していた。

それにしても太田豊秋など名前がでるとここで働いていた人は近くに結構いたり身近に関係している人が非常に多いから福島県で話題にしない人はいないだろう。福島民報でなぜこれを取り上げ追求しないかとプログに書いている人もいた。福島民報はあてにならない、創価の聖教新聞を刷っているしもちろんゼネコンの福島県政界との利権構造の中にも入っているから余り追求しないのである。河北新報はそれなりに書いているみたいだし図がわかりやすい、でもプログに新聞の図をのせていいのか疑問だ。新聞社とか出版社は著作権についてうるさいからだ。

http://ameblo.jp/fooling/entry-10016203767.html

準大手ゼネコンの前田建設工業(本社・東京)が、富士山ろくの青木ヶ原樹海に「マジンガーZ」の格納庫建設を請け負った!? 遊び心あふれる夢の事業に、社員たちが取り組んだ報告がこの本だ。

 1970年代に放送されたアニメ番組で、主人公が操縦する巨大ロボットがマジンガーZ。汚水処理場に隠された地下格納庫から、雄々しく現れる場面が見ものだった


http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20041221bk01.htm

アニメとしして一般の人からもこれは好感をもたれたらしい。これは幻冬舎から出している。出版社であれ新聞社であれマスコミであれこれらは公的機関ではない、一私企業なのである。だから報道にかたよりがあるし経営に不利なことは書かない、宣伝を出す会社の悪口も書けないのだ。新聞とかテレビとかマスコミ、出版にしろ必ず背後に団体、会社などのバックアップがあるのだ。だから創価とかトヨタとか何か巨悪になると記事も書けない、批判もできない、その圧力は巨大なものとなり不祥事も闇にほうむられる。トヨタとなればこれも多くの人が関係しているから地元の新聞でもトヨタの不祥事を書くことはない、巨大な権力は闇の中にあり闇が支配する。これは今だけの問題ではない、この世のそのものが闇の支配下にあるのだ。なぜ日本で無謀な戦争が起こったのか、その原因も探求しても闇の中にある。結局巨悪は隠されるのだ。天皇に責任が及ぶとなればみな沈黙するし暴力にもなる。だから戦争の真実は未だに闇の中にあり誰もわからない、それはおそらくあと百年とかたたないと真実は明るみに出されないのだ。今回の問題もそれとにている、でも知事は辞任せざるをえないし知事が変われば多少は刷新されるのかもしれない、いづれにしろ権力は腐敗するから長く権力の座にあるべきではないことがこれでもわかる。いづれにしろ少しでも利権にかかわれば公正な報道などできない、これまでの報道は金がかかりすぎるから公平な報道などできない、インタ−ネットで新しい報道がプログなどで試みられているが山岡プログとか有料になって一年で9千円となると金はらって読む人がどれくらいいるのか?でも金をもらわないと調査などできないから苦しいとなる。出すコストは無料でも調査費などその他プロとなれば金がかかるのだ。これを読者が負担していけるのか?これは自分がどうするかという問題でもあった。

いづれにしろ公正な報道となるとどことも利権とかかわらないことが必要になるが人間なんらか利権の中で生きているからそうならないことは不可能に近い、だから団体はマスコミも一団体だから利益会社だから利権とかかわるから不利になることは書けないのだ。
ただこのインタ−ネットでは報道すること自体が無料だとするとコストがかからないから個人でも可能だとなるがそさでも個人でも必ずなんらかの利権とかかわっているのだ。だから公正な報道がいかに困難なものか自分でも報道したり批評したりしてわかったのである。

参考

福島県の不祥事(水谷建設関係にパリポッタ−の翻訳家−松岡さんの脱税)


http://society3.2ch.net/test/read.cgi/mayor/1153261815/(2ちゃんねる)



>田舎新聞の社長は地域の財界の人間だよ

福島民報は半分が広告で官報だというのも本当だ。聖教新聞もすっているし宣伝で食っているだけだ。宣伝読むためにとっているんじゃないよ、財界ふくしまの会長がフィクサ−とか暴力団関係とかであった。マスコミとか出版は資金がないと成り立たないからこうなるんだよ、だからインタ−ネットは無料なのだから新たなメデアでの報道追求が必要なんだ、そういう有料プログもでている、今はその変わり目で新聞は将来は消滅してしまうよ、後ろ楯になる、資金の提供者が問題なんだから記者自身がプログで発信することはその後ろ楯が必要なくなるから公平と独立を保つことができるようになる。

前田建設工業の二人逮捕(横浜港に尿排出)

二人は「下請け会社がやったこと容疑を否認」(福島民友−9月10日)

下請け会社は責任をかぶせるのに都合いいものなのだ。下請けは仕事もらうんだから弱い立場からそうなる。前田建設はイメ−ジダウンしたな、会社の姿勢が社員ももでてくることあるからな・・・・・



今日来たチラシの政経塾発行の「地方行政」に南相馬市鹿島区の

4大事業可決の毒饅頭は一個50万

この見出しで後藤建設のことを批判していた。

大部分の市民がいらないという大型公共事業を押し進め、市民に負担増を強いてゆくというのは本当だろう。市民のための公共事業ではなく土建業者のためとそれに群がる政治家のための事業となってしまう。鹿島区の「野球場」のわきを良く通るが一年間で何度しか使わない、プロの2軍の試合をやったりしたが人が集まらないから最近はやっていないのだろう。これは市民が必要だから作っているのではない、土建業者のためとそこに群がる利権者のためだとなる。それでもそこで仕事になればそこに働き口ができればいいともなる。

相馬市にもやたら大きな橋ができたのにはびっくりした。すぐ近くの鹿島区の真野橋も実に立派で大きい、歩道の方が車道より広いのだ。そんな立派な橋が必要かとなると疑問になる。ともかく公共事業は利権の巣窟になるから常に陰でのやりとりとか不透明な部分が生まれてくる。そこで甘い汁を吸おうと群がるのだ。地方は未だに公共事業に頼ることが多かったが産業の転換を強いられている。これが地方ではむずかしいから今までの公共事業の利権構造が温存されていたのである。





原発利権で前田建設から出版社へのリベ−ト3億円?

http://antikimchi.seesaa.net/article/22281769.html

この残土処理事業を巡っては、水谷建設が、原発用地の取得に影響力を持つ人物が役員を務めていた東京都港区の建設会社や、千代田区の出版社に対し、計3億円余りのリベートを支払っていたとして名古屋国税局に所得隠しを指摘されている

東京都港区の建設会社や、千代田区の出版社

「日安建設」を設立した白川司郎氏と「行政問題研究所」の竹内陽一氏と何故書かないのでしょうかね?

「財界ふくしま」の社長が竹内氏だったとなると前田建設が請け負った額が60億とか竹内氏がもらったリベ−トが3億円とかなるのもわかる。原発も巨大な利権を生むからこうなってしまうのか、公共事業は巨大な利権だからその利権を目当てに集まるものがでてくる。出版は大きな力を持つからゆすりにも使えることがわかるしマスコミが力をもつのもわかる。一カ月一回くらいの地方での雑誌の出版では金になるとは思えないからだ。出版には別な収入源が必要なことがわかる。金のかかる報道や出版、政治でも宗教でも何でもあまりにも金がかかりすぎるのが腐敗の元になるのだ。

出版は金と権力がないとできないところてんだよ、だから必ず背後に権力団体がバックアップしないとできない、一般の人はこうした出版の言論に参加することはできないよ、
曽根綾子が第3文明社に書いていたり玄侑宗久も「財界ふくしま」に書いたり本を出したりしている。曽根綾子の場合はちょっとひどすぎる、第3文明社は創価の直属宣伝の雑誌だよ、それもカトリックなのに書いている、ともかく出版社とか新聞社とかテレビは力を持っていたがこれらはどうししても権力を金がないと出せないものだから不公平になっているんだよ、言論といってもこうした出版社を媒介にするほか本の世界にはかかわることができないんだよ、

書店でもインタ−ネットのように発言する場ではないし団体の権威が権力がないものは相手にしない、だから自費出版の本を置いてくださいといったて邪魔になると相手にもされないんだよ、でも出版社もいかにも不正を追及するように見えて背後では脅しのようなことをしないとやっていけない実情がある、出版には金がかかるからこうなるんだよ・・・・その人物の意見思想を重んじるよりメデアが権力をもっている、第3文明社や「財界ふくしま」他の雑誌でも新潮社でもなんでも出版社が力をもっていてその名のあるところに認められたから作家も権威をもつということがあり出版社から排除されたものは本の世界からは出れない仕組みよなっているんだよ

NHKに出るとたちまちそれが権威のごとく認められ有名人になってしまう、これはどうしてなのか?その出演者よりNHKという媒体がメデアに出るとたちまち何百万人もの人に伝えることができるからなんだよ、マスコミの力はその伝える力にあった、常に何百万人も見ていることがどれほど影響力あるか、それはインタ−ネットやってみればわかるんだよ、マスコミは情報を独占して情報を操作して大衆をリ−ドすることに快感を覚えるんだよ、でもテレビでもサラ金とかパチンコとかいろいろ宣伝をしているから金をもらっているからその悪口は書けない、利権がかかわると批判できなくなる。トヨタとかも批判はできない、もちろん福島民報なんかも聖教新聞をすっているんだから政治的にでも公正を追求できない、なんらか利権とかかわると公正でありえないんだよ

森田氏もモラルをしきりに追求するのだが談合を容認している、談合は必要なんだというのもわからない、それなりの主張はあるんだがこの人も講演で地方にゆきその経済的衰退を地方の人から言われるから公共事業推進派となる。どうしても利権とかかわるからそうなる。もちろん地方の活性化は必要なことは確かだがでは談合まで許すのかとなるとそれは法律違反になってしまう、そこにはいろいろ言い分があってもそこまで法律を無視するようなことまで言っていいのかという疑問をもつのである。ともかく公正な報道には利権とかかわらないことなのだ。その点インタ−ネットは無料で報道できることが最大の強みなのである。弱点は影響力がないとなるがそれなりの影響力もインタ−ネットにかかわる人が飛躍的に増大したからでてくる。それが有料のプログで不正を告発、記者自身とか作家が書いているプログなんだよ、これからはこういうところに読者が視聴者が金をはらっていくことになるのか、ただまだ情報は無料だという感覚がある、テレビなどで情報の無料化になれてしまったことに問題がある、そうした意識の改革ができてくれば公正な報道もできるようになるのかもしれない、その過度期なことは確かなようだ

ともかくNHKであれマスコミであれその権威を疑ってみる必要がある、権威化がメデアによって行われていることを注意するべきなんだよ




終わり悪ければすべて悪し(福島県の佐藤知事が辞任)

「終わり良ければすべて良し」という格言からすると、「終わり悪ければすべて悪し」という ことになる。

人間の終わりはつくづくわからないしむずかしい、福島県の佐藤知事もそうだった。これまでの評価は陰ではとやかく言われていたみたいだが評価のいい知事だった。18年も知事を勤めて全国にも有名な知事で全国知事会の副会長もしていた。しかし最後につまづいたというより今までささやかれていた隠されていたことが暴露されたというのが正しいのかもしれない、18年の長さがそうさせたというのは本当だろう。権力は絶対に腐敗するというのは世界共通の真理である。中国は政権が変わらないから腐敗の温床になる、賄賂は中国社会の悪弊であったが共産主義政権は権力を持つ者が変わらないのだから腐敗するのだ。民主主義政権は政権が変わることにより権力の腐敗を一時的にでも一掃させてやり直す仕組みなのだ。

土木部長であれ天下り先の建設事務所であれ腐敗がシステム化していたのだ。そもそも談合は悪いという意識すらないしなぜこれほど騒ぐかわからないという当事者もいるから談合は悪いと思わない建設業界の日本的システムがある限り変わらない、でもそれはそれなりに言い分があったとしてしもそこには実弟がかかわり賄賂のシステムができていたのだから談合をそれなりに正当化できるとしてもこれはあまりにも露骨な長期政権の権力腐敗の結果なのだ。

木村守江(きむらもりえ、1900年4月6日 - 1996年11月3日)は日本の政治家。元福島県知事。
旧制磐城中学(現・福島県立磐城高等学校)、慶応義塾大学医学部を経て開業医となる。 衆議院議員や参議院議員を経て、昭和38年に福島県知事となり、以来4期連続当選。 しかし、昭和51年に汚職のため逮捕され、知事を辞職した


歴史は繰り返すというけどこれも本当だ。人間の悪も輪廻のように延々とつづいている。これは人間の業なのだろう。この時も大騒ぎしたけど全く同じ結果になった。権力者は権力を公正に保つこと自体不可能に近いかもしれない、権力を持った者はすでに奢りにより利権者になり腐敗するのだ。権力の魔力がそうさせるのだから権力者が清廉潔白にありうること自体不可能に近いのだ。この世の権力を得ること自体サタンに魂を売るからこそ得られるというのも納得がいく。地方では議員になる人は建設業界が非常に多い、南相馬市相馬市区域でも建設業界であり参議院議員になった人も建設業界なのである。地方は建設業界が票田だったように建設業界が選挙も仕切ってきたのである。しかし公共事業が縮小されて苦しくなり仕事が回ってこないとどうにもならないと弱みを握られることから談合のシステムに入らざるをえないことになる。それもいちがいに責められないともなる。政治評論家の森田氏が談合は悪くないというのも何かそこに深い事情があるからだろう。地方の経済の衰退をまざまざと見せられて訴えられるからそうなる。

ともかく人間公正であることはどこの世界でも一番困難なことである。マスコミも全く会社や宗教団体やその他利権団体の宣伝のために金とりのためにあるように腐敗している。佐藤知事のことなどこれまでいかがわしいことがあっても称賛しかしてこなかったのだろう。新聞に宣伝をのせなかったから批判したとか「財界ふくしま」も原発で3億もらったとかゆすりたかりしている。それはそもそも出版やテレビ新聞でも報道には金がかかたすぎることが原因なのだ。インタ−ネットのように無料だったらそうはならないからだ。人間公正であることは神のような立場に立つことでもある。これは最高にむずかしい。なんらか利権と関係してくるし例えば一人友達を持つだけでもその友達の味方になり公正な記事を書けなくなるかもしれないのだ。報道が公正であることは最高に困難なことなのである。だからマスコミには全く期待できないのだ。

いづれにしろ人間は最後が悪いとすべて悪いとなってしまうから損である。佐藤知事の評価もこれまではあれほど評価が良かったのに悪者としてのイメ−ジしかなくなってしまうのだ。前の木村守江知事もそうだったのだ。悪者にされて終わってしまった。あと二年の任期でそうなったことは大損だった。人間も最後認知症になるとあれは馬鹿になって終わった、死んだという評価しかなくなる場合がありこれが認知症になるボケることの怖さなのだ。最後が悪いとすべて悪しとなる・・・最後まで人間は油断できないし最後まで人間はどう展開するか全くわからない、そういう怖さを自ら味わったから特に今回のことでもそう思ったのである。



公共工事は、本当は予定価格の七割でできる
。ところが、それを八―九割で受注して(下請けに回して)分け合っている。健全ではないよね。ほかの産業は5%の利益を出すのにすごい努力をしているのに。

 問題は選挙だ。とにかく金がかかる。議員は別に仕事があるからまだしも、(兼職ができない)町長は選挙でかかる三千万円をどうつもり(調達)する? 後援会の中心はだれか。土建業者ですよ。


http://www.kobe-np.co.jp/news_now/dangou-033.html


水谷建設の攻略キーワード

http://www.rondan.co.jp/html/mail/0607/060711-3.html



地方の国際化(なぜポ−ランドに娘がいると・・)

仙台の電車のなかに乗り合わせた70くらいの女性が初体面の女性といろいろ話していた。相当話好きな女性である。なんでも娘がポ−ランドの日本人学校に勤めていて三年目になりその女性の所に訪ねて行ったという、ついでにフランスとかパリとかを回った話しをしていた。外国の日本人学校は志願して試験に受かれば行けるそうだ。これで誰しも思うことはなぜポ−ランドなのかということなのだ。

東海ゴム工業株式会社(本社:愛知県小牧市)は、1929年に設立された自動車・産業用ゴム部品の製造メ−カ−です。1999年にポ−ランドのWolbromに新工場TRI Polandを設立し、過去12年間にわたる防振ゴム・ホ−スなどの自動車用部品製造の経験をいかし、フランス、イギリス、トルコのトヨタ工場、ホンダのイギリス工場、いすゞのポ−ランド工場に部品を提供しています。ポ−ランド工場の従業員約100名、生産品の約90%は海外へ輸出されます。

TRIポ−ランドは、仕入先がアジア、生産がポ−ランド、流通センタ−はフランスとイギリスと、地理的に拡散した環境でビジネスを行っていました。だからこそ、自動車業界の標準であるEDIFACTやODETTEへの対応はもちろん、サプライチェ−ン全体を結び、効率化を図るスケ−ラブルで柔軟性の高いビジネスアプリケ−ションが求められていました。さらに、スタ−トから生産性を確保するために、ポ−ランド新工場の立ち上げと同時に新システムが稼動することが絶対条件でした。

http://www.ifsworld.com/jp/customers/tokai_rubber.asp?pp=True

ポ−ランドなどというと日本とは縁がない関係ないと思っていてもこうして日本の自動車関係の会社が進出すればそこに日本人学校ができるのだ。今は東欧が伝統的に優秀な労働力があるということでそれも安い賃金で使えるということで注目されているのだ。地方でもいやおうなく国際化している。必ず外国人も一団となっている。最近若い女性の一団がわが町を中国語をしゃべって歩いているのによく出会う。前は浪江の津島で東京に連れていってと夫を鉈できりつけた中国人女性がいたことには驚いた。津島はかなり山奥だから都会に出たくなった。国際化とは特別な知識人と関係なく田舎の山奥まで国際化の波が押し寄せているのだ。だから国際化とは特別な選ばれた人だけがかかわる時代ではない、庶民がいやおうなく嫁不足だ労働力の低賃金化のためにグロ−バル化している。これは日本だけではない世界中でグロ−バル化しているのだ。

なぜアルジェリアに行っていた人がいたのかわからなかったが石油がとれるから危険なアルジェリアまで仕事に行っていた人と出会ったのも驚きだった。京都とか大都会では国際化というより仕事そのものがグロ−バルであり外国ぬきでは仕事はできなくなっている。モンゴルに一年も羊を飼うためにゲル暮らししたという青年にも驚いた。そんな経験をしている人はごろごろいるのが現代である。留学も地方でもすでに少ないにしても行っているから珍しくない、留学となると地方でした人は数えるほどしかいなかった。今は地方でも少ないにしても珍しくなくいる。そして仕事も全国化し国際化している。ログハウスを作っている親戚の会社では沖縄から注文が来たが断ったという。仕事の範囲が広くて疲れると嘆いていた。全国規模にならないと仕事にならないのだ。そういう全国化、グロ−バル化のなかで一方地域通貨などの試みが行われるのは地域の衰退のためである。

その女性は70として90何才かの親が寝たきりで介護しているという。この年で親が生きていてありがたいといっていたが認知症のようにそんなに苦労かけないから余裕あるからかもしれない、老々介護もまた現代では普通になった。地方で地域通貨というときこれは福祉関係では必要だからだ。福祉ではグロ−バル化はマイナスに働く、どうも福祉の仕事は他の物作りとか効率を良くして利益第一主義な仕事とはかなり違った性質のものである。これを利益優先だけでやると問題がでてくる。福祉が金になると今までの企業が入ってくるとそこに問題が生まれる。福祉とは働く(はたらく)が端(はた)を楽にするという日本人の労働観などがあっている。誰かが介護などで苦しんで忙しいから近くの回りの人が少しでも楽にしてやろうというような働き方があっているのだ。福祉というのは今までの企業のような考えでやるとうまくいかない、利益をあげるのが悪だというのではなく福祉の仕事自体が性質が違うために起こっているのだ
。「福祉 なぜ給料が安い」というキ-ワ-ドで私のプログに来る人が多い。福祉で働くにしても給料第一主義になるのはやむをえない、でもそれが何か福祉にはあっていない、地域通貨の趣旨も目的も福祉とは一致する。賃金、金銭だけには換算できない経済の仕組みを作ろうとしている。ともかく今日電車で隣り合った女性の話は現代を象徴するものだったのだ。



新米の時期に過去をふりかえる−東北の川の重要性(鉄道がない前の交通)

九月七日、野蒜築港工事の一部、野蒜運河の入口を見、野蒜の土木局出張所へ行き黒沢政徳局員から築港に関する詳細な説明をきき、原敬は左の如くかなり長い感想をのべている。

思うに往時奥州と称せし今の磐城、岩代および三陸の地は、その大形を挙げれば阿武隈川と北上川の流域に沿いたる国なりというも可なり
こんな空気の中で、たまたま東北および九州地方に凶作が起り、北陸地方には比較的低廉な米穀があったにもかかわらず、輸送機関がないため、かかる急迫した事態になっても、みすみす救済することができなかった


http://www.kurikomanosato.jp/00x-50om-kaihatu-14.htm

本サイトのホ−ムペ−ジで川について考察した。旅が仕事だったから交通に興味をもった。鉄道に興味をもったのもそのためである。ここで注目したのが阿武隈川と北上川の流域に沿いたる国なり・・・という川の重要性である。今川をこのように認識する人はない、川はただ水が流れている水の通路にすぎない、川はしかしこの頃交通路として認識されていた。交通は生死にもかかわるものだった。交通の発達がないから今では簡単な米の輸送さえできなかったのだ。

今日新米を買ったけど

新米の坂田は早し最上川 蕪村

馬渡す舟にこぼるゝや今年米 几菫


米は東北でも江戸時代は商品作物になっていた。米は江戸に運ばれたのだ。米だけ作って米が凶作になり飢饉になって餓死した。これが交通が発達していたらならなかった。地域的に得意な作物を作ればいいし運ぶのも簡単になったからだ。だから米でもただの普通の米では売れないうまい米でないと売れないとなった。

交通は歴史を見るのに大事な視点である。鉄道がないと世界がどう見えるのか?海や川が大きな交通路として見えたのである。川が文明を作ったというとき、川が確かにナイルのように水を供給する面もあったが交通路であったことも大きかったのだ。中国はまさに川の文明だった。その川は余りにもスケ−ルが大きすぎるのだ。

川は結ぶ

はるかな地平線の果て
長大な川が運河が結ぶ
国境はどこにあるのか
いちめんの菜の花
川を行き来する荷を積んだ舟
川が人と人を結ぶ
川自体に国境はない
海に国境がないように
ヨ−ロッパでは川沿いに
商人のハンザ同盟ができた
父なる川、母なる川
ナイル川にユ−フラテス川
川沿いに文明は発達した


シベリアのアム−ル川となるとこれまた川が生活の主役である。川にそってロシア人の冒険家、ハバロフスクがやってきた。シベリアの民話に大支流のじいさんとかを読んだら川の流域に部族が住んでいてその部族同士が争っている話である。ということは川の流域沿いに部族が統一されるようになる。川が地政学的にいかに大きな役割があったかである。シ−ザ−がルビコン川を越えたということは世界的歴史の瞬間だった。地理を知らないと歴史はわからないのだ。ただこの地理も中国にしても余りにも壮大で一個人の理解をこえているから世界の歴史を理解することはむずかしいのだ。

参考


失われた川の文明


http://musubu.jp/jijimondai14.htm#river



江戸時代は本当に貧しかったのか?(現代との比較)

江戸は世界最大の都市、平均寿命も70歳で今と変わりません、江戸は完全な村社会で、長屋の家主とかみんなで与太郎をたべさしたり、年寄り子供の面倒をみた、ですから相当いい社会生態系だったのです。隣が餓死していても平気なんてことはない。それが、維新で世界観が変わり、すき焼きだの、バター、だの高カロリーと肉など食ったこともないのに、肉をくって、高血圧になる、心臓が悪くなる、糖尿になる。江戸時代は、江戸はおコメを精米して食べていたので、脚気になった、それが江戸だけ田舎は玄米で食べた。維新とともに、富国強兵で、東北では餓死者が続出、女工哀史で結核で若い子が死亡、これでは平均寿命が延びる訳ない、現在の78歳が、けして人の長生き寿命ではないのです。

http://www.storyhouse.net/story.htm

文明の発達は新しい病気を生むのではないか。脚気というのは江戸という繁栄した最先端の文明の都会で起きてきた病気である。田舎の生活ではかえって起きなかった病気なのだ。これは江戸患いというように江戸にいるとなる病気だったのである。明らかに文明が病気を作る。エイズも文明が関係して作られた病気ではないか?性の乱れとか文明人のゆがんだ欲望が原因かもしれないのだ。文明は様々な贅沢を求めるがその贅沢が病気に通じていたのだ。糖尿病がそうである。太りすぎの心臓病もそうである。こうした病気の増加は脚気と同じだったのである。栄養の偏りと取りすぎの結果だからだ。つまり昔あったことは今も必ずあるということなのだ。

会津新聞(昭和十六年八月十二日)に載った文章の一部を転戦しておこう―、
「村人の食事を見ると、朝は粟に少量の米を入れ芋や菜を混入、昼は蕎麦粉へ餅草の葉又は山牛蒡(ごぼう)の葉や芋を混ぜてゴッタ煮とし、晩も同様といったもので魚や肉等の贅沢品は年に数える程で、冬は蕎麦粉に大根葉や餅草、山牛蒡の葉の干したのを混ぜて用い副食物は味噌汁、豆であるが、此村の健康は十二分に保たれ壮丁の合格率は県下一である云々」

http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-44nz-01-hinoemata.htm

これも不思議じゃないか? 此村の健康は十二分に保たれ壮丁の合格率は県下一である云々・・・檜枝岐というと秘境であり飢餓のために餓死があったとか過去にはいいイメ-ジがない、あんな秘境でもそれなりに栄養がたりていたとなる。ただこうした秘境は交通が不便だから天候の異変とか豪雪とかなると凶作になるともろい、それで人口が半減したりしている。そういう異変がなければそれなりに足りた生活をしてしいたのである。現代と過去の大きな違いは交通にあったのだ。なぜ現代が地域がかかって疎遠な場所になっているのか、金だけが価値基準になっているのか、これは交通の発達と関係していた。自動車社会とも関係していた。近くで経済が循環するより近くで食を満たすより遠くから入ってくるものが多いからだ。別に地域で過去のような天候異変があってもどこから中国からでも食料は入ってくる時代である。金さえあれば飢えることはないのだ。地元に食い物がなければ金さえあれば他所に行けばいいとなるだけなのだ。地域の人に頼らなくてもいいとなる。問題は金さえあればどこでもいいとなる。地域通貨を考えたのもこうした社会への抵抗があった。余りにも交通が発達した結果として逆に地域の連帯はなくなり地域の人間は助け合わないとなる。どうしても金中心の社会になるのが現代である。江戸時代にあった相互扶助社会は交通の発達と関係していた。狭い範囲で生活しなければならないから近くでの相互扶助社会は自然にできていた。老人になると近くの店が大事になると同じである。

江戸時代の人々は、金銭抜きに”お互いに何かをあずけ合っていた”のではないかと思う。もし、そこにお金の介在があったら、それは雇用関係であり、”あずけ合う”関係とは言えない。

「日本人の顔には、幸福感があふれていたと書いています。冗談好きでよく笑った。親切で陽気な国民にみえた」子どもの「天国」で、女性ものびやかであったという。上下関係も親密なものに映った。封建社会の暗い印象とはかけ離れていた。


つまり文明の発達がが人間を幸福にするというのは幻想だったのだ。豊かさと同時に必ず不幸が作られていたのだ。介護の問題でも在宅介護だったら近くが大事になるがその近くの相互扶助社会はない、金中心の社会であり金としての雇用関係になる。だから「福祉 給料 なぜ安い」福祉に就職する人でもまずは賃金をみるのである。ところが介護については賃金だけの雇用関係ではうまくいかないから現代の文明は逆にマイナスになり対応できないのである。時代というのはいつの時代でもその時代のいい点と悪い点が生まれる。絶対的にいい時代というのはないのだ。現代は繁栄の絶頂期にあっても人々の表情は暗いし江戸時代の人の方が幸せな表情をしていたという外国人の報告もそれを物語っている。人間の幸不幸は時代によって決められないのだ。結局人間の幸不幸は相対的なものであり絶対的なものはないのだ。いい面が生まれと悪い面が必然的に生まれる。苦あれば楽ありであり絶対的楽は存在しないのである。医療の発達は確かに様々な楽をもたらしているのだが延命治療とか代理母とか子供もできない人も作れるのだがそれもまた不幸を生むはじまりだった。いろいろな禍根をあとに残すから簡単に科学の発達はいいといえないし科学の発達自体がすべ人間を幸福にするものではなかったのである。

失われた川の文明

http://musubu.jp/jijimondai14.htm#river




   
 深刻な高齢化社会の弊害−老人駆除(竹本善次)を読んで

●自然の法則に反する高齢化社会 (老人は個々に弱者でも全体では強者)


どうわけかこの記事がかなり読まれている。どんな記事が読まれかわかるのがプログである。ここにどこからかリンクされたから読まれているのか、このところアクセス数が多少ふえているのかも、外国からのスパムもへっているからふえているのは確かなようだが解析がわからないから本当の所はわからない、でもインタ−ネットはどうしてしもアクセスがパロメ-タ-になるのははやむをえない、有名な所では一日一万とか一〇万とかなるとテレビ、マスコミとは変わりなくなっているのだ。それも一人でやっていることは驚異である。もし一人でもそれだけの情報を出せばできるのがインタ−ネットなのだ。

もののあわれについて(人間は老齢化してみんな敗者になる)・・・この記事が今まででは一番読まれている。原因は何なのか?どこかにリンクされているためかもしれない、リンクされないとそんなに読まれないのがインタ−ネットだからだ。どうしても自分も老人の一員になるというとき高齢化社会が大きなテ-マになる。人間は90まで生きるような高齢化社会を人類史上でも経験していないのだ。少子高齢化も経験していない、動物界のように多産であった。子供が死ぬリスクが多いから多産だった。兄弟が多いのも普通だった。80くらいの女性だとたいがい子供をなくしているのが普通である。生まれた子供の何割かは確実に死んでいる。墓誌を見ると一才とかで死んだ童子の名前が記されている。そして80になってもその死んだ子供のことを母親は思っているのは母親の愛の強さなのだろう。自然界-動物界の法則と人間界の法則は同じだった。子供が死ぬ確率が多いから多産であったのだ。そして高齢化社会はなく若い者中心の社会だった。それは自然界と同じであり種の保存には適していたのである。

しかし高齢化社会は自然の法則に反している社会なのだ。弱いものがあわれまれるべきだというときそれは個々の人間であればそうである。だが弱いものが大勢になると弱いものでなくなるのだ。どんなものでも数は力なのだ。弱いものも数が多ければ力であり社会総体的には強いものになるのだ。選挙でもそうだし老人の悪口を言えないのは老人が多いし老人がまだ権力をもっているからあからさまに老人を批判すると政治家も当選できなくなるとか怖がる。これは創価やその他、様々な利権団体の意向をくみとらないと政治家は票がもらえないと同じである。老人は個々人は弱いものとしてあわれむべきものとしても社会全体では老人は強いものなのだ。どこの団体でも俺たちの仲間は組員は何百万いるんだと脅せば社会はその人たちをあからさまに悪く言えなくなる。だから団塊の世代は数が多いからまだ現役で力をもっているしやめても金をもっているしとあからさまには悪く言えず2ちゃんねるとかで鬱憤晴らしているだけだとなる。

自然界でも何か強い種なのかわかりにくいのだ。ライオンとかトラとか鷲は一番強いもののように見える。でもこれらは少数であり絶滅の危機にひんしている。種からすれば弱いものなのだ。強いものはやはり数の多いものなのだ。シマウマをライオンが食っているからライオンが強いと思うがシマウマや鹿の類は繁殖力が強いし草を食って生きるからむしろ種を維持するには強いとなる。生物全体では数の多いものが強いのであり少数のものは弱いのである。人間でも個々に弱いものでも多数になれば強いものとなる。ここが矛盾している。老人はかわいそうだから保護すべきだとかなるとその全体の数の多さから若い者が犠牲になる、社会が弱体化するとなる。だから老人は駆逐されるべきだとも笑い事でなくなっているのが高齢化社会の現実である。これから介護される人が500万とか社会自体が介護社会になってしまうよな恐怖が現実となる。認知症も300万人とかなるとその負担を誰が払うのかとなると社会保障では少子高齢化社会では負担するものがいないとなる。団塊の世代は高度成長の時代は人手不足で数が多いほど良かったし社会に貢献できたのである。ところがそれが高齢化社会になるとマイナスに働くようになったのだ。この世の中プラスに働くことがマイナスに働く、日本は島国で資源がなくても狭いから苦しいとなるがその島国でも土地の活用を密にして工夫したり島国でもそのマイナス点をプラスにしてきたのだ。マイナスがプラスになりプラスがマイナスになるのが人間世界なのである。

●蓮台野に行けは成り立たない

蓮台野→デンデラ野で共同生活して自然死を待っていたという遠野物語にあることを引用しているが、これも現代では成り立たない。そこは村落共同体が残っていたからそういうこともできた。確かにそこでは自然死を待つとすると病気になっても医者にかからず死んでゆくとすると医療費も介護費用もかからないことになるから若者の負担にはならない、老人を施設に入れると膨大な費用、今や国を滅ぼすような天文学的費用がかかるのだ。国で金を出すとなると公務員でも公共事業でも莫大な費用がかかる。国だから取れるだけ取ればいいとか節約するとか経済的観念が麻痺してくるのだ。だから医療費でも福祉関係でもどこかで制限しない限りもうやっていけないことで減らしている。では蓮台野に行けと言ってもこれもそうした村落共同体からはかけ離れている。地域でも村でも昔のような感覚で見ることはできない、全地球がアフリカの果てまでグロ−バル化した社会になっているのだ。だからアフリカの果てまで行っても一ド−ラ−くれと子供が言うのはそれだけ全世界で一ドルが通じていることなのだ。金がそれだけ特にドルが世界中のどこでも通用するということなのだ。金の価値がこれほど高くなった時代はない、物々交換のようなアフリカでもドルの価値は高いし金があればどこにでも住めるようになったともなる。

交通の発達もまたグロ−バル化した原因である。交通が発達すると一地域の狭い経済圏から脱することができる。金さえあれば別に一地域に頼る必要はないのだ。物は地球の反対側からでもいつでも入ってくるから金さえあれば飢える心配はないのだ。飢餓があったのは交通不便で他から食料を運べなかったからである。狭い範囲で生きざるをえなかったからである。
地域で自助努力で老人は助け合うべきだといってもそういう村落共同体はなくなった。蓮台野では村で生活した老人が老人同士助け合ったことは確かである。それは生活の継続として無理なくそうなったのである。現代ではそうした地域社会はない、田舎でも隣が何をしているかわからないことも多いし言葉も交わしたこともない人も多い、むしろ隣近所より会社とかが生活の場となっているのは都会と変わりないのである。だから困ったら隣近所の人が助けるということはないからヘルパ−を頼むことになるのだ。そして金でやれることは金で頼んだ方がいい、ただより高いものはないというようにいろいろ助けともらうとあとで要求されることも多くなる。そしてその要求は断れなくなる。それが創価とか他の団体でも政党でも応援してくれとなったらこれも断れなくなるから簡単に助けてもらうのもできないと実感した。無料で助けてもらうことはあとが怖いとまでなるのだ。実際アルツハイマ−になった家族を助けることで頼った家族がその人を神のようにまでして後悔したことをプログで書いている。めんどうみるのはいいがそこに不純なものが入ってくる。かえって金が必要だというのも一理あることは確かである。金がすべて悪いものとは否定できない、無料の援助はかえって大変高価なものになることもありうる。ただより高いものはないとういことなのだ。ともかく現代では蓮台野に老人を追いやり老人は老人だけで過ごせといってもそんな社会はすでにないから成り立たないのだ。

景気が良くなり介護で働く若者がいない、介護ができなくなり在日フィリピン人を介護として採用しているというのもそのためである。介護自体汚い仕事をしなければならないのに給料が安いとなると人は集まらない、みんなマザ−テレサとは違うからだ。医療とか介護に金をかけるのは半分は明らかに無駄である。老人の病気は不定愁訴とかなんか気分的なものが多い、そのために医者に行っていたら薬は山ほど与えられ全然利用していない、公共事業と同じように福祉は半分は無駄金なのである。自助努力とか近隣の助けとか余った人員を活用するとかで軽度の場合はできる。車が運転できないからちょっと病院まで連れていってとなってもタクシ−だと隣の市まで2500円とか高いし往復だと5000円になるとしたらこういうところで協力してもらいたいとなっても現実は誰もしてくれないのである。タクシ−に頼めばいいとなってしまうから金が必要になってくるのだ。そうしたちょっととした自助努力もできないからヘルパ−を頼むために金が必要だとなりこれが国がかかわれば人件費が高いから大変な支出となってしまうのだ。

●高齢化社会の最大の恐怖は認知症(ボケ)になることだ

高齢化社会の問題は経済的問題も深刻だがそれ以上に深刻なのが認知症、ボケになる老人が300万人とかになる方が大きな問題である。それと同時に老人になって生きがいを喪失することである。団塊の世代の退職は会社をやめることは継続されてきた人生が切断され役割が喪失してしまう。これは大問題である。会社では社会のなかで生きるのだから刺激もあるし役割もあるし生きがいもある。これがやめたら地域で生きがいを役割を持つにもそうした場はないのだ。家庭でも生きがい役割がなくなると認知症にボケになりやすいしまた治療として主婦としての役割をもたせる作業療法などが有効なことは確かである。ボケる前にも後にも人間は役割をもち家事でもなんでも仕事していることが大事であり人間は食うためにだけでなく最後まで働いていることが必要なのだ。働くとはwork outとかあり機能するとか作用するとかの意味もあるから働くとは家庭でも地域でも社会でもなんらかその社会に機能して作用していく、それが人間なのだ。ただグロ−バル化のなかで地域も昔のような地域ではない、昔のような村の生産共同体のようなものはないのだ。実際はグロ−バル化のなかで農家さえ働いている。グロ−バル化のなかで物の価値も決まってくる。一地域とか生まれた土地にだけ固執する生き方はなくなっている。経済は広域化とさらにグロ−バル化のなかで動いている。グロ−バル化の影響は全世界に及んでおりこれは余りにも深刻であり隅々まで影響している。

老人の問題はまた年金で保証されるからいいというがアメリカの老人だけのコロニ−のサンシティは地獄だったというのはそこには全く生きがいが喪失した世界だったからだ。食うこと寝ることは保証されても生きがいがないと人間は墓場のような世界になってしまう。そこで一番生き生きしていたのはホ−ムレスだったというのも皮肉である。ホ−ムレスだけが明日の糧をえるために懸命に生きていたとなる皮肉がある。HGウエルズが「タイムマシン」で未来を予測して人間が無気力化していた地獄を描いた、悪と戦う気力もなくただ食料だけを与えられた無気力人間になっていたのだ。それと同じようなことがサンシティに起こっていたのである。経済的問題と同時に高齢化社会は精神的な問題でも深刻なものをかかえるのだ。




小泉首相がなぜ大衆に支持されたのか?

認知症の狂気のメカニズムをプログで自ら対処した実例から解明してきた。この認知症の心のメカニズムは日常的現実の世界でも普通に起こっていることに気づいたのだ。認知症の狂気は極端な物忘れは日常世界にはないにしてもそこから派生する問題には同じようなものが現象として起こっている。ということは認知症の狂気は正常な人間の狂気とも通じていることになり特殊な例外的な物とは言えないことがわかったのである。

例えば中国で反日の運動があった時、感情的に嫌悪感をもっている日本人にその鬱憤が向けられたのだ。日本人は隣であり身近であり一番、感情的に鬱憤を怒りを向ける対象として向いていたのである。認知症のようにそもそも自分がしたことなのだが自分はなんの落度もないと思っているから日本人が悪い、犯人だとなり感情の爆発が集団的に起こった。あの戦争は中国人にも非があった面がありその後の中国人の行動もチベットで見られるように民族の暴力的弾圧をししているのだ。こうして憎悪の対象を感情的に操作するとナチスのようにユダヤ人がすべて悪いとなった。認知症とナチスとか集団行動(ファシズム、カルト)の行動化は類似性があったのだ。フランス革命でも極端な殺戮になったのは煽情的感情的になったからである。日本の鬼畜米英とか北朝鮮の鬼日本人とかも同じ現象である。人間を指導するのは冷静な合理的な判断ではない、感情に訴えることなのだ。これが低俗な大衆を導くには一番いいから今でも政治に有効に働くのだ。感情的なものは宗教でありカルトにもなる。これは別にカルトでもなくアメリカの反テロでも中国でも政治家はみんな感情に訴えることで大衆を導くことは変わりなかったのである。

小泉首相がなぜ大衆の支持をあれだけ得ることができたのか?これも感情的に大衆に訴えたからである。そのきっかけは田中真紀子の低俗の感情的な煽りである。政治のむずかしいことは大衆は敬遠するが面白い漫談にすると耳を傾ける。民主主義とは数なのだから数は力なのだからなんでもいいから数を獲得するために力をそそぐことが権力を手中にすることなのだ。そのために低俗なものにわかりやすいことに白黒を明確にするのものに人間の感情に訴えることが大事なのだ。小泉首相は守旧派とか選挙では刺客を送るとか郵政民営化でも反対派と賛成派に分けて糾弾した。何か反対するものは悪者に見えたし明確だからわかりやすかったのである。大衆を導くことをわかりやすいことが第一なのだ。だから宗教もナミアブダブツでもナンミョウホウレンゲキョウでもそれを唱えていればご利益がある願いかなえるとなればそれが政治でもなんでもいいのである。大衆とは低俗なものであり低俗なものにしか共鳴しないものである。だから政教分離などいくらいっても創価には利き目がない、上から独占禁止法のように法律を行使しないかぎりできない、それが自民党と一体となっていれば政権党なのだからもはや法律も無力だとなっている。

結局この世とは低俗なものでありこの低俗さからは誰も逃れることはできない、世界は低俗化して人間は塵となり土に帰るとなる。宗教もただただ俗化してもそれを止めることはできない大衆の低俗化の大きな力なのだ。テレビ番組が低俗化するのも低俗なことを求める大衆がいるためである。この世がなぜ今も未来も改革できないのか?それは常に低俗化の力が大きく低俗なものが支配的だからだ。ソクラテスとかシャカとか全く別格の存在であり大衆民主主義ではそんなものは必要ない、百円あげるから一票入れてねというのが効力がある。大衆化のなかで民主主義自体機能しないのだ。小泉首相がヒットラ−だというのも一理あったのだ。手振り身振りが大げさでありワンフレ−ズのコメントもそうである。これも大衆にはわかりやすい、ヒットラ−の手法だったのである。政治のむずかしいことは言わないで大衆うけするのが成功したのだ。これにメデアがのっかりあれだけの支持を得たのだから低俗なものこそこの世の力であることはいつの時代も変わりないことがわかる。戦国時代なら武力と人間の総力戦になりその戦いからエリ−トとしして強いものが侍となり武士道というモラルが作られてきた。しかし大衆民主主義からはそうしたモラルは生まれない、ただ低俗なものが勝利する世界だからだ。民主主義はエリ−トを作らないし数なのだから低俗化にひたすら向かう、決して高邁なモラルを作ることもそうした人を作ることもないのだ。政治はそもそも利益分配が基本にあるから低俗なものの要素があり大衆民主主義がそれに拍車をかけたのである。こういう傾向はシュペングラ−とかニ−チェとかキケルゴ−ルとか日本では上野霄里氏により何度も指摘されてきた。民主主義とは本来の目的とは異なりただ大衆の低俗化でありそこにモラルはない数のみが力の世界となり世界は教育でも人心でもひたすら荒廃してゆく運命にあったのである。

参考
認知症の感情の働き(物忘れから→狂気→暴力へ)(プログへ)

http://musubu.sblo.jp/article/1504390.html



福島県知事選挙と南相馬市議会選挙で考えたこと

● 人物
● 地域
● 党派


今回の選挙で感じたことは磐城からでた女性の知事候補が浜通りでは佐藤雄平氏より票をとった。その分析が浜通りから知事を出したいということであった。そういうこともあったのかと思った。やはり地域に無関心だから仕事にかかわっていないから自分の場合は考慮しなかった。ただ施設は博物館でも図書館でも浜通りには誘致されないことはわかっていた。やはり浜通りから知事がでれば施設の誘致などが有利になるから磐城からでた女性候補を浜通りでは押した。これは地域性が強くでた票の結果だった。広域の選挙になると人物や地域より党派性が強くでる。というのはどんな人物などわかりにくいからだ。逮捕された佐藤知事は品行方正な人物であり悪いことをきかない良心的な知事だとされていたし私もそう思っていたのだ。それが実際は全然違っていたことでもわかるように政治は人物だというけど人物は今の時代はわかりにくいのだ。人物がわかるのは江戸時代とか明治時代までだろう。そのときは人物が人物を選んだからだ。これは見込みがあるとか人間が人間を洞察して人間を選んだ。これならわかる、教育も対人教育が多かったのだ。ペ−パ−テストでは人間はわからないからだ。今は人物はどこでも関係ない、政治も宣伝力とか権力関係で決まる、マスコミの力が大きくでっちあげられる、やらせで作られるのだ。ほとんどの人物がマスコミとか宣伝によって作られた虚像を信じているのだ。演技する人が人気を集め国政まで左右する、小泉首相がそうだった。今になって郵政民営化に反対した議員を復党させるとか言っているのもそのためである。ハデな演技でしかなかったのである。

今回の選挙は今までとはかなり違っていた。南相馬市となってはじめての選挙で小高区と鹿島区は6人だったが700票とった人は当選した。でも原町区では1200票以上とらないと当選しなかった。ここでは一票の格差があることがわかった。この次の選挙では南相馬市全体となるとまたかなりの票の上積みをしないと当選できなくなる。広域になると組織票をもっている共産、公明とかは有利になる。党派性が強くでてくる。そして広域になると政策が判断の基準になる。人物について知ることはむずかしいからだ。党派性は最も強くでているのは共産と公明である。公明は自民党より党派姓があり自民党より自民党に入れていた。自民党の支持者は今回は民主党にも入れたが公明党は自民党に命令通りにほとんど入れた。公明、創価は上の命令に忠実に従う、それは宗教と政治が一体化しているから逆らうことはできない、仏のご利益があるということになると票を入れないと罰があたるまでとなるからそうなる。ともかく選挙区が広くなればなるほど党派性が強くでるし組織をもっているものが有利である。党派>地域>人物となる。

福島県を考えると浜通り−中通り−会津と三つに別れているが広すぎるのである。浜通りは阿武隈山脈でさえぎられ地理的にも分断されている。会津になると東京に行くより遠いから一体感をもつことがむずかしいのだ。交通でも不便であり福島県であっても浜通りは何か便宜を受けることが少ないのだ。むずかしい病気は小さな市の病院では治療できないので福島市の大学病院に送られる。白血病になった人がそうだった。福島市に行くとなるとかなり不便なのである。相馬となると仙台の方が便利である。交通の便がいいからだ。常磐線で結ばれているからである。でも磐城の方になると仙台より20分くらい遠くなるから疎遠になる。20分の差はかなり大きいのである。電車も原町発−仙台行きはかなりでているが磐城行きは少なくなる。相馬地域は磐城とも遠いが仙台の方には勤めている人も多いから仙台は身近なのである。ただ古代から岩城国が磐城太田駅があるのも磐城の影響が大きかったし福島県になる前に浜通りは磐前(いわさき)国としてあった。地理的に歴史的にそうなった。
地域的一体感は歴史とか地勢から作られる。福島県は地理的に地勢的に分断されているから一体感がもてないのだ。

今回の選挙は自民の佐藤知事の不祥事があったので批判票が入って投票率があがったのも勝因だった。公明などの組織票は10パ−セント投票率が上がればさほど影響がなくなる。投票率が上がると地滑り的に民主が勝利するトレンドになる。自民や民主は党派といっても必ずしも強固ではない、共産、公明は完全に党派性が前面に出る。人物とか地域とも関係なく党派性が強く排他的になる。人物といっても党派の内部で判断されるのでありなかなか外部からはその人物評価はできない、北朝鮮のように金正日があがめられるように偶像崇拝が池田大作氏に行われている。党派は地域的な利権を誘導するにしても党派が優先される。党派は全国的だから地域より党派なのである。自民、民主派党派といってもいろいろな利権を考慮せねばならない、国民政党になると一派だけを重んじることができないからだ。また自民、民主は共産、公明のようなイデオロギ−政党ではない、イデオロギ−政党は教条主義であり全体主義になる。イラクでは党派の争いが地獄を生んでいる。スンニン派とシ−ア派さらにシ−ア派内の殺戮まで起こって手がつけられなくなっている。これは宗教政党だとなりやすい、政治だと妥協があるが宗教には妥協がないからだ。イスラムとは一神教だから一つにまとまるのかと思ったらばらばらだった。結局宗教がばらばらにしているというのも皮肉だった。政治が妥協の産物だというとき宗教にはそれがないから政治と宗教は分離すべきだというのがヨ−ロッパの歴史で学んだことだったのだ。

ともかく今回の福島県で起きた一連の事件ではいろいろ考えさせられることが多かった。談合は必要だとかそれにも一理あるのだが佐藤知事の場合は私利私欲だった。自分の弟とか家族とか自分の会社のために私利私欲のために使っていたからあまりにも露骨だった。最低でも私利私欲がないことが政治家には求められる。悪いとしても自分だけに使うのは許されないのだ。そして佐藤知事の横暴を許したのはマスコミとか監視役になる回りの人たちだった。すべてが権力に追随されるだけしかないものとなっていた。新聞でも雑誌でも市町村とかの利権にかかわっているから公正な追求ができないのである。不正を追求する雑誌が原子力発電関係で脅して巨額の金をもらっていたとかもあり地方議会では毒まんじゅうが議員に配られたとかすべてが利権で汚れるのが政治の世界なのだ。いや社会そのものが利権で動いているのだから利権から逃れられる人はいなとなる。党派に属さない人は結局何の利益もえられないようにまた派閥に属さないと会社にも社会でもいる場所するなくなるように利権から離れることは最高にむずかしいから公正な報道を追求できないのである。



介護福祉士という新しい職業

私自身が認知症の介護をして介護福祉士の職業に興味をもった。なぜなら家庭で介護する人はみんな介護福祉士をすることになるからだ。施設で介護しているか家庭で介護しているかの違いだけである。そもそも介護福祉士という仕事はなかったのだ。医者とか看護婦がいたとすると看護婦が介護福祉士の役を半分していた。医者は医療の技術を担当する人であり看護婦はその補助をする人である。介護は家族がやっていたのであり介護福祉士という職業はなかったのだ。つまり時代が変わると新しい職業が生まれるのだ。時代によって職業は常に変わってゆくのである。インタ−ネットが生まれて通信関係の商売が生まれたように時代は常に新しい職業を作る。介護の需要が増大したから介護関係の仕事がふえてきたのだ。大卒の人がなるというのもそのためである。介護は嫁とか家族がそれも女性におしつけられてきたのである。介護は究極の家事だというと家事の延長として介護があったのだ。だから介護で金をもらうという職業化することはなかったのだ。医者の仕事は技術的なものでありそこに愛とかが必ずしも必要ではない、患部を切り取る技術であり、臓器移植の時代になれば臓器を移植する高い技術が求められ現実それで問題になった。江戸時代は医は仁なり現代は科学万能時代だから医は技なりである。コンピュタ−から機械装置に囲まれて医療を行っているからだ。最近感心したのは放射線で肺ガンの患部を消したことには驚いた。あんなことできるのかと奇跡のように思えた。私の父も肺ガンで死んだから特にそう思ったしガンも直る時代になったのかと思った。つまり現代では医者に期待しているのはこうした技術的なことなのだ。

介護福祉士は看護士のように医療すらできない、資格がないから一段と劣った職業にみられるし現実、職に就けない若者を安上がりに使っているとなるから一面はそうなっている。これも介護福祉士とはそもそも職業として成り立つように社会に認知されていないからなのだ。家族でやっていたことでありこれが職業として成り立つ高度な技術とはみなされていないからだ。医者になるには大変な知識と労力が必要である。だから医者には誰もなれないことがわかっている。介護士は職にあぶれた何の専門知識ない人でもできる、雇われる、当座の穴埋めとしても雇われる。つまりパ-トタイムの仕事とたいして変わらない、誰にでもできるものだからそんなふうにして雇われている。だから給料も安くやめる人が多いとなる。一家を維持する給料をもらえないし食うのにも困っていた若者をテレビで放送していた。ガンを放射線で直す医者と介護士を比べたとき雲泥の差があるのだ。ガンを直す放射線技師や腎臓を移植する医者は神のごとく敬われるが介護士は下働きにすぎないとなる。これは建物の設計士とその下で働く、大工とか、掃除する人、単に補助する人とかいろいろある。ここにも職業のランクがある。大工は技術者であり高いし鳶職は一段と上にみられ給料も三倍くらいになる。職業の上下関係はどこにでもあり技術の難易度によって決まってくるのである。

介護福祉士に私が興味をもったのは自ら認知症の家族を介護することになったことが原因であるが介護は医者でなくてもできるものだという発見であった。むずかしい技術は必要ではない介護はパ-トタイムで雇われているようにそれなりにできるものだとなる。しかし介護は医者のように技術的な仕事ではない、そこには奥深いその人間、人生全体にかかわる仕事だという側面があったのだ。それが認知症の人に接するとき特にそうだったのである。体だけの介護ではない、認知症の人となると精神的な補佐が必要になる。話し相手とかしなければならないとなるといろいろ経験とか知識も必要になってくるのだ。認知症の人でも長い年月を生きてきた人だからそれに合わせることは容易ではない、農家の人だったら必ず農作業の仕事のことを言うしそれに話を合わせることができるのは実際に農作業を経験した人となる。戦争の話しもするし戦争のことも知らねばならないとか知識人だった人は知的な会話を望むとある。認知症でも過去に体験したことは忘れないのである。英会話を望む人もいるとか千差万別の人がいるのだ。こうなると相当な能力がないと話に付き合うことができないとなる。まず一人では無理であり様々なその人に対応した人が必要になってくる。ただオムツとりかえるとか入浴させるとか身体の世話ではない、精神的な世話をするとなるとこれは大学卒の知識も役立つし農家の人に合わせるには農家出の人がいいとなる。こう考えると認知症の介護には実に多様な人材が必要でありただ機械的作業をするパ-トタイムの仕事ではないとなる。

医学とは高度な科学であり素人はかかわれない世界と思っていた。でも介護となると家庭で多くの人がかかわるからよそ事ではない、日常として介護をする社会となる。その介護でも認知症の介護は肉体だけではない、精神的ケアが大きな要素をしめるようになるからそこにはかなりの高度な能力、タレント性が必要とされているのだ。現実に認知症の人をうまく誘導する天才的な人が施設にいる、あの人のまねはできないとか言われる人がいるからそういう人は認知症の介護について特別なタレント、能力がある人であり専門性をもった人であるから貴重だとなる。介護士という職業はこのようにまだ専門家されていない、医者から看護士の下働きのような位置づけにしかない、でもこれもその中から専門家が生まれるのかもしれない、その人はやはりかなりの能力を身につけた人になる。医療の技術ではない、何かやはり人間的な能力なのである。つまり大学卒の能力も必要だけど幅広い実地の経験した人も必要なのである。何にも能力がない人がやれるものではないから介護福祉士でも専門的な人とさらにその下で補佐する人もできくるかもしれない、介護福祉士はまだ発展途上の新しい職業なのである。

(参考)
大卒なのに介護福祉士

http://society3.2ch.net/test/read.cgi/welfare/1105956695/



冬の日の飯館村をめぐりて(なぜ老子の無為自然が実行されないのか?)

ゴルフ場はつくりません!
 飯館村では、「快適環境づくり条例」を制定したり、ゴルフ場の建設の凍結を宣言するなど、 環境保全を意識した取り組みを行っています。特別な景観名所はありませんが、 素朴な農村環境やふるさと的田園風景が残っており、これが最大の資源となっています。 しかしながら、人口の減少によって空き家や廃屋が目立つようになったり、 特産品の御影石の採石跡も増えてきたりするなど、景観については取り組むべき問題もあります。

http://www.kouryu.or.jp/green/1996/06/index.html

飯館村は確かに特徴がない、歴史的遺産もない、飯館牛というのが産物として売り物にしているくらいだ。塩の道の碑というのがところどころに忘れられたようにあるくらいだ。景色も特別変わっていいとはいえない、大きな高い山もない、川俣からは安達太良が見えるから違っている。川俣の方になると坂がきつくなるのも違っていた。飯館は急な坂はなかった。
飯館は自然的に目ぼしいものがない、渓流がないこともものたりないとなる。あいのさわにしてもキャンプ場とホテルができたが溜池にすぎないのだ。自然景観にも恵まれていない、では飯館が全く魅力ないのかと言ったらそうでもないのだ。浜通りから行くと八木沢峠を通るからかなり高い高地になり別世界に来た感じになるのだ。今回自転車で走ってもやはり気持ちいいものだった。稲の刈られたあとの静寂が心にしみた。その時詩にしたのが「人あれな・・」だった。淋しいから人があってほしいなと思う詩だったのだ。人があってほしいなという自然こそ人間に荒らされていない自然な姿なのである。そこでの人間の営みは自然と調和して自然を乱ししていないのだ。全面に自然があり人はひかえめにある。人は自然を乱さないのである。人はそこに何を求めるのか?私は冬の日のさす静かな道を一人行き心安らいだ。

しかし人間はその付け加えるべきものでないものを自然に付け加える。モトクロスの道としてバイクを走らせる。バイクは騒音もたらす、静寂の道は破られる。そこに都会の騒音が入ってくる。馬券場もできたからそれもふさわしくないものとして付け加えられる。飯館は確かになにもないといえばなにもない、では何が必要なのだろうか?必要でないものがそこに持ち込まれる。私が三叉の松からながめた稲架の風景も今日見たらその松が切られていた。貴重な景色は失われてもう戻らなくなった。つまり何もない、何も変化しない景観こそが貴重なものだった。新しい物を付け加えるとき何かが必ず失われているのだ。現代は車、バイクの時代だからしょうがないにしてもバイクの騒音の道になるのがふさわしいのだろうか?おそらく常磐高速道ができたら都会からライダ−とか車が押し寄せるかもしれない、その時静粛な村は乱される、でも人が来れば経済的にはうるおうだろう。大きなレストランが一軒閉鎖されていたから廃屋もふえているというから山村はどこも過疎化する。だがその代償として本来の村の良さは失われる。これはどこでもそうだからしかたがないといえばそうである。経済の力はあまりにも大きすぎるからだ。常磐高速道に反対する人は一人もいないからだ。

何もない、しかしなんと点々と山間にある家は落ち着く、心安らぐ風景なのだろうか、その道は樹々に影なして気持ちがいい、牛がのどかに鳴いて古い村のたたずまいが残っている。一軒一軒が絵になる風景なのだ。このように画家とか詩人とか芸術家が見るだけの村はありえない、それは生きる深刻さ欠けるということもあるのは確かである。でも人間の営みとは本来平凡であり変わったものではない、変わったものを求めるとき自然は乱され不必要な物が付け加えられる。それが馬券場でありモトクロスでありゴルフ場でありパチンコ場であり本来不必要なものが生活の糧となり自然は乱されるのである。いかに老子の言う無為自然が成さずして成るということが人間に実行できないのか?石のように人はありえないのか、それが文明を作り出したのだ。人間にとって美しいとは心安らぐとはどういうことなのか?大都会のなかに美があり心安らぐ場があるのか?山村の家々は一軒一軒離れてなんと落ち着いて自然のなかに調和して配置されていることだろう。密集した都会の家から見ればこれほどの贅沢はない、小さな町ですら密集しているから家と家の間がこんなに離れていることはうらやましいとなるのだ。

自分の住んでいる場所がいかにすばらしいか、人はわからない、何もないというが何もないことがすばらしいということがわからない、これが人間なのだ。都会の醜悪はどうして作られたのか?そこは人間の住む場所なのか?この山村こそ人本来の間の棲み家なのだ。もちろん医者の問題や福祉の問題、経済、教育の問題と不利なことはいくらでもある。山村にはもはや車がないと住めないからきれいごとだけではすまない、それは改善されるべきものである。だからといって不必要な物を付け加える外部からもたらすことはするべきではない。なぜ自然に美があるのか?不必要なものを付け加えないからである。冬の枯木の静粛な美がそうであり神が作りしままの自然のままにあるからこそ美があるのだ。そこに人間が不必要な物を付け加えると自然の美はそこなわれるのだ。ゴルフ場を作らないということはいいことである。ゴルフなどなぜやっているのか、なぜそんなものに金を使うのか、別な福祉とかに金を使ってほしいとなる。介護とか福祉の方が意味ある、価値ある仕事なのである。苦しんでいる人たちを何であれ助けることは意味あることなのだ。ゴルフなどやっているならそうした人たちにも目を向けるべきだとなる。自由社会は強制できないが自分もそうだったからあまり強くは言えないが自らが苦しい立場になって切実にそう思うようになったのだ。

冬の日に巣箱一つの加えらる

付け加えられるべきものは巣箱一つがふさわしかった。付け加えるべきものは自然にマッチしたものなのだ。



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