時事問題の深層25

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相馬私局(小林) a private channel in soma-gun
小林勇一



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貨幣とは何なのか-冨と経済の問題
「お金の発想法」木村剛を読んで)1月6日-別ペ-ジにまとめて出しました。)

連続して読むとわかりやすいです。今時事問題の分類作業しています。



北海道白糠の羊牧場(新年のNHKの番組を見て)1月2日

相馬港で北朝鮮の船を検査 1月3日

スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)1月4日

黒竜江とロシア(モスクワ)からのアクセス1月9日

「お金の発想法」木村剛を読んで)1月9日

正月に配られる神社の「御札」の疑問1月10日

インタ-ネット的な情報空間のなかの24将棋1月13日

報道の自由はなぜ規制されるのか (NHKや公明議員の図書館規制)1月16日

愛国心より仕事の使命感1月17日

津川の冬1月20日(阿賀野川の水運の昔)

文を書く術はあるのか?(インタ-ネット時代は一億総ライタ-時代)(三瀬駅の記録)1月23日

江戸時代の見直し(NHKのクロ-ズアップ現代-地震で小千谷市の蔵の破壊の問題)1月26日



北海道白糠の羊牧場(NHKの番組を見て)

四五年前に中国旅行して船で帰ってきたとき会った青年には驚いた。一年間モンゴルのゲルで生活したという、冬は厳しいので体までその前に変わってしまうという、羊の脳味噌はうまいとか羊の牧場を開くんだとか言っていた。そして今日のNHKの番組でその人がでてきたのには驚いた。釧路の近くの白糠で本当に羊の牧場を開いていたのだ。すでに結婚して子供が三人もいる。その結婚した女性もその船にいたのである。番組では羊の毛とか肉を売っているのだがなかなかうまくいかない、それで他でも働いている。インタ-ネットでも出ていたが他でも羊の牧場を経営している人はいた。でも羊を食う習慣が日本にはまだないし売るのがむずかしいことや毛にしてもそれを加工する技術などが確立していない、それで京都の人がその羊の毛で加工したものをセ-タ-にしてくれたのを贈ってくれたと喜んでいた。結局羊でもなんでもそうだが農産物は外国の競争にされされから厳しい、羊の肉でも外国から入ってくる。毛でもいくらでも入ってくる。それに対抗するのは日本ではむずかしい。また羊に関しては歴史が浅いということもある。まだ人のやってないことだから羊をやりたいということもあった。

しかしその前途はなかなか厳しいのかもしれない、でも北海道の雄大なところで広々とした牧場で羊を飼う生活は健康的でいい、しかしかなりの重労働でもある。体はどちらも丈夫に見えた。それにしても幼児の時代から羊の出産に立ち会うというのも驚きだ。ああして見ていれば慣れるから仕事の跡継ぎにはいい、農業は一代ではやれない、三代やってやっと一人前に認められるとか自然が相手だからそうなる。林業だったらそれ以上である。木が育つのに五〇年かかるとするとすでに一代ではできない仕事なのだ。そこに農業の特殊性がある。完全に今売れるものだけ売るということができない、ある工業製品のように特化して開発してそれだけに生産を集中することができないのだ。だから非能率的にもなる。でもそれが自然を相手にした農業でありもしそうした一次産業に能率ばかり求めたら歪んだものになってしまう。そして国際情勢の変化で農産物が入ってこないこともありうる。だからといってすぐにまた土地を活用することはむずかしいから減反もやむをえない出費なのかもしれない、農業と工業、商業、都会の論理が合わないのだ。

モンゴルと北海道は相性がいいことは確かである。北海道は本州とはまた別な世界である。釧路の方になるととくにそうである。流氷を見に行ったこともあった。あの流氷はアム-ル川の真水と塩水が交わるところでできる。それとともにオジロワシとか人も移動したのだ。

 
彼らはオホ−ツク沿海で漁労・狩猟・海獣猟を生業にしながら、古くからアム−ル川河口や沿海州に居住したツング−ス系の人々と接触していたばかりではなく、北海道アイヌとも往来していた。その結果、北海道のアイヌは縄文土器文化圏にありながらも、前回に記述したように、オホ−ツク文化や靺鞨文化の色濃い生活を築きあげていた。

 網走にあるモヨロ貝塚には時間がなく立ち寄れなかったが、そこにはツング−ス系の諸民族に起源をもつ銀製や錫製、あるいは銅製の鐸や首飾り・耳飾り・帯飾り、鉄製の鉄斧や鉄鉾などのほか、ガラス玉や軟玉の管玉・環状石などの靺鞨文化の遺品が出土している。明らかにそれはニブフやウイルタのオホ−ツク文化と大陸の靺鞨文化の交流を示し、それが北海道アイヌに及んでいたことを語っている。


(流氷の町)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm

潮流とか自然の分布とかと文化は不思議に一致していた。例えはクマゲラは青森にいて北海道にもいる。鹿島町のマルハシャリンバイも南限の地となっている。それでみちのくの真野の草原の・・・・万葉集の歌が大和朝廷の最初に手の届いた南限の地域として奈良に知られた。植物の分布とか文化の分布は重なるのである。ヤマザクラとオオヤマザクラの分布もそうである。青森は氷河期に北海道つながりその氷河期の時期に移動したともとられている。そしてここで不思議なのは靺鞨文化と書いてあることだ。粛慎靺鞨とかも存在した。

壺の碑(つぼのいしぶみ)には、次の文が刻まれている:
■多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国三千里


靺鞨国とはどこなのか未だ疑問である。蝦夷というのはなんらかでそうした北方の異民族が交じっていたのだ。昔の交流は海流とか自然の流れにそって行われたから当然自然を知らないとわからないのである。アム-ル川の上流はモンゴルに通じている。川の流れにそった移動があっても当然なのだ。蝦夷錦とか北方との交易もあり北との関係も深いのである。アイヌとかこれはいろいろ複雑になるのでここでは書かないが青森はさいはての地、異界の地として存在しつづけた。化外の地として存在しつづけた。青森は青杜であり青は墓であるらしいから墓の杜ともなる。去靺鞨国三千里を南から三千里ではなくきたから三千里だと指摘するのも北方文化の跡があったからである。平泉ではアザラシの皮が北方から仕入れて交易品として売っていた。北方とのつながりが見逃されているのだ。面白かったのは漂流物にロシア語が書いてあったのだが管江真澄はそれをオランダ語と見たのである。オランダ語しかわからなかったからそうなったのだ。




711年上野国多胡郡が設置されたことを記念した作られた石碑という。江戸時代から碑文についての研究がなされており、特に2行目の「郡成給羊」の「羊」が何を指しているのか諸説が別れる。中国にも紹介され、地元では「羊さま」と呼ばれ崇められたこの石碑は、終戦直後に国外持ち出しをおそれて埋められたという逸話がある。

羊を飼うということは日本では羊の姓になる人である。羊はまだ日本ではなじまないものであることは古代と変わりないのだ。ともかく新年にその健闘を祈ろう。



相馬港で北朝鮮の船を検査

福島県の相馬港で北朝鮮籍の貨物船「ワン・クン・サン号」(2705トン)が、13日に 行われた国の立ち入り検査で整備不良を指摘され、再検査まで約1週間にわたって
 出港停止処分を受けていたことが20日、分かった。

 船は北朝鮮向けにチップ化した古タイヤを積んでいるとみられ、14日の出港を予定 していたが、運輸局は欠陥を是正するよう「技術基準適合命令」を出し、出港を差し止めた。19日に行われた再検査では改善が見られたため、出港を許可、20日午後に、北朝鮮に向け出港する予定。

 北朝鮮など外国船籍の船が日本沿岸で相次いで座礁するなどのトラブルが続いている ため、政府は今月上旬、安全性を欠く外国船の入港拒否などができるよう法制化の
 検討に入っている。


 http://www.sankei.co.jp/news/030220/0220sha048.htm

このニュ-ス見逃していた。産経新聞だけに出たのか福島民報にでていたのか地元でもわからないことがあるし見逃していることがある。相馬港まできていたのは驚いた。相馬港に船がどのくらい出入りしているのか結構来ているものだろうか、火力発電所もあり工業団地もある。前に中国人が日本海の港につくはずが相馬港に入ってしまった。それで待っている人がなく「東京はどこ」とか食堂に入って聞いてあやしがられ通報されてつかまったのにも驚いた。北朝鮮の船は結構日本全国に入ってきているのだろう。拉致というのもここでは関係ないように思うが北朝鮮の船はここまで来ていたのには驚いた。北朝鮮の身近さを感じた。韓国の江華に行ったときそこの案内のガイドの老人が仙台の軍事学校の出身で仙台のことを言っていた。そこを出ることは名誉になるとかこれも意外と身近なのに驚いた。古代では□□白人という姓の木簡が泉郡衙跡から発見された。これは高麗出身らしいが朝鮮半島は日本には身近なのだ。船は古代からそうだが交流があるのだ。

火力発電所、相馬港というのはそれなりにここでは経済的重きをなしているのか、やはり港があるということは経済的な効果があるのか、ただ小名浜辺りでもあまり船の入港は少ないとか何か方策を探しているみたいだ。福島県では相馬港と小名浜港だけが外国の船が入ってくる。

江戸(嘉永・安政) 北湊又は原釜港と称され、塩、藩租米の積出港として交易が盛んにおこなわれていた
昭和35年 地方港湾となり、「相馬港」と銘名
昭和50年12月 相馬港港湾計画が決定
昭和50年 外国船(スラブヤンカ2,210G/tソ連)初入港
昭和53年4月 輸入木材特定港に指定
昭和55年 背後相馬中核工業団地が電源地帯工業団地として整備決定
昭和56年4月 エネルギー港湾として整備決定
昭和56年 運輸省第二港湾建設局小名浜港湾事務所相馬港分室(現相馬港事務所)開設 昭和63年6月 国際貿易港として関税法の開港指定
平成2年 相馬共同火力発電 新地発電所1号機建設に着手
平成3年 2号ふ頭30,000トン岸壁(-12m)建設に着手
平成5年3月 エネルギー港湾整備完了
平成6年 相馬共同火力発電 新地発電所1号機運営開始
平成7年4月 2号ふ頭30,000トン岸壁1バース(-12.0m)供用開始
平成7年 相馬共同火力発電 新地発電所2号機建設に着手
港湾計画(改訂)が港湾審議会第156回計画部会において審議決定
平成8年3月 相馬港釣桟橋完成
平成8年 3号ふ頭30,000トン岸壁(-12m)建設着手
平成11年4月 植物防疫法の輸入植物指定港となる


江戸時代に船がきていたのか、石巻から出た船などここによったのか、この辺はわからない、原釜港と言っていたし相馬市とか相馬港はあとからできたのだ。相馬藩があってなぜ相馬市にならなかったのかそれぞれが村としてあったからだろう。合併して相馬氏となった。その前は中村町だった。原釜と松川浦が先にあった。原釜はいかにも釜とあるから釜で塩を塩釜のように作っていて二本松とかにも塩の道を通じて運んだ。相馬はそもそも行方郡の方をさして言っていた。古代に行方郡と宇多郡があり二つに分かれていて相馬氏は原町市の大田神社に入ってきた、その前に小高に城がありそこを基点として大田に来たのだから相馬の地域はもともと行方郡の地域にあり今の相馬は宇田中村であり城ができても中村城と呼ばれていたのだ。

原釜港と請戸港で南部藩の岩泉の商家と鉄の取引があった。南部鉄瓶があるように鉄は岩手県でとれた。帰りの荷物は米と瀬戸物でそこには大堀焼き(相馬焼き)などがあった。この鉄は宮古から船で運ばれた。相馬と宮古の鉄による交流があったのだ。他に下北半島の田名部には仙台船が行き来して仙台屋という屋号の商家を残した。そのなかで相馬焼きなどが流通したのかいまいちはっきりしない、「歴史としての相馬」岩本由輝著に書いてあったのだが仙台船とか下北半島との交流はわからない、ともかく相馬にもそれなりの海を通じての交通があった。岩泉は宮古からさらに奥であり山の中である。ただあそこから鉄がとれていたので交流があったのだ。この鉄は主に山中郷、飯館や二本松や三春に運ばれた。そこで薪が豊富であり鍛冶屋もかなりいた。山木屋とか塩の道になっているところが塩だけではない鉄も運ばれた基幹の道路だったのである。

今回の事件は北朝鮮を身近に感じた事件だった。今世界は狭くなっている。朝鮮半島は常に身近な存在だったのである。



スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)

陸奥国府を襲った貞観年津波(じょうがん)
 3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録に、 次の注目すべき災害の発生が記されています。「陸奥国地大震動。流光如晝隠映。 頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。 城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海嘯哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。 泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不辧其涯俟矣。原野道路。惣為滄溟。 乗船不湟。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」
 内容は、光を伴った鳴動と共に大地震が起き、 次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し、 1000名を越す犠牲者が出た、と解読されます。



この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数pの砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。

貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。 相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです


津波被害はくりかえす
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html


東北にもこんな巨大津波の記録があった。これは歴史上最大規模の津波だった。当時は海が今の陸地より深く入り込んでいた。それでも相当な距離を津波が押し寄せてきたのだ。海近くにいる人は夢に必ず海の波が押し寄せてくる夢をみる。すべてが海になりなにかにつかまっていたり海の中にとりのこされる押し流される夢をみる。それが津波なのだ。

わが町(亘理)に「三十三間堂遺跡」というのがあります。小高い山地に整然と並んだ礎石群があり、当時は多賀城に陸奥国府が置かれ要所に郡衙(グンガ)と呼ばれる出先機関があったようです。その中でも最大規模のものだったようです。敷地は10万坪以上の広大さで、礎石群から数百メートル離れた雑木林に政務を司どった正殿の柱穴などがあって確定されたということです。礎石群の用途はそこに倉庫が建っており、税として集めた米倉だったというのです

現在は陸地であるにもかかわらず、「島」という地名がたくさんあります。愛島、笠島、小豆島などなど、これらはかつては海岸線が奥地まで侵入していた時代の名残を示すものだと思っています。近くの貝塚を見るたびにこんなことを考えてしまいます

亘理に住んでいる人の日記に書いてあった。亘理から逢熊駅にとまるとそこの小高い丘に確かに「三十三間堂遺跡」と案内板があった。国府の多賀城が津波に見舞われたからその教訓から高い所に郡衙を作ったのか、それはわからないにしても確かに島という地名はかつてはそこは島だった可能性がある。海が深くは入り込んでいたからだ。その入江のような所に島が浮かんでいた。そういう光景は日本には多かった。大坂湾も古代には八十島が浮かんでいた。日本は島が多い国なのだ。それにしても相馬にもこの大津波が押し寄せてきたことには驚きだ。最近やたら地震がつづいているので不安になる。こんな千年に一回とかいう大津波を警戒することはむずかしい。それでも日本地震国だからこうした記録が残っているのだ。これは丁度大和政権が多賀城を築き蝦夷を征服しようとする最中であったからその様子が伝えられ記録に残った。そうでなければ文書としては残らず伝説になったかもしれない、国というのは歴史を災害でも記録するという役目があったのだ。今回のスマトラ大津波についてはツナミということばさえわからない世界だった。ツナミは世界の言葉になっているごとく日本から生まれた言葉なのだ。津波もまた身近なものだった。

今回の悲劇は千年に一度くらい起こる災害には対処しようがないことだった。それでも日本では地震が多いから警戒体制が整っている。この警戒システムができていたらあれほどの被害にはならなかった。いくらかの時間の余裕が津波が来るまであるからだ。チリ地震は地球の裏側からきたのだから驚いた。地球はやっぱりつながっている。とにかく去年は災害つづきでありその最後があの巨大津波だった。日本でも死亡者が実際は何百人になる、その数は1000人という人もいるし、500人というひともいるが数十人ではないことは確かだったが正月でもあり報道されなかった。インドネシアはイスラム国なのだからビンラデンとかテロなどやめてイスラム国を支援すべきだというのもわかる。それ以上にアメリカも戦争などやめて国際的に協力する体制が必要だ。宗教は関係なく人道支援すべである。内村鑑三も言っていた宗教や宗派にこだわるのではなくこういう場合は人道の立場から協力すべきだと。人道支援で世界は協力すべきであり戦争している場合ではない、むしろこういう場合こそ軍隊が役に立つ、自衛隊も本当はイラクではなくこの災害地に回したら水の供給などで役に立つのだ。今は何もせず閉じ込められているだけではないか、これも人類に対する神の警告だったかもしれない、戦争などして金や労力を使わないでこの大災害に国際的に協力しろということだったかもしれない、津波も明らかにこの科学時代に防げた部分があり人災の面があったのだ。まあ、津波もノアの方舟のように警告しても予言しても通じないことがある。こうした研究している人は予言者のようになってしまう、千年単位の研究となると現実離れしてくる。でも日本では地震が絶えずあり津波も身近に常にあるからあのような大被害にはならなかった。


津波伝説
●元前373年の冬の夜、古代ギリシャの都市・ヘリケは、大地震と津波の猛威に襲われて消滅したといわれる。古代の書物に、海に呑み込まれた都市として書かれたヘリケは、何世紀にもわたって世界中の考古学者たちを魅了してきた。海に消えた伝説のアトランティス大陸を思わせる、幻の都市・ヘリケ。その幻が、現実のものとしてついに、私たちの前に姿を現そうとしている

●サントリニ島の大噴火に代表される火山活動が、当時の地中海・中東世界を大きく変えてしまったことは恐らく事実であろう。直接失われた人命も多かったと思われるが、むしろ、津波が交易諸都市を壊滅させた。

●神功皇后の 征討軍の大船団は、大挙して新羅へと向かった。

 魚たちもみな征討軍に味方し、船をかついで先導した。
 風は絶えず順風で、波は常に朝鮮半島に向かって流れていた。

 そのため、新羅では津波、高波になった。
 国の半分まで、水浸しになってしまった。
 新羅の国王は恐れおののいて降伏した

八丈島の島民の祖先は、大洪水をただ一人生き残った丹那という女性である、という伝説があります。昔大津波が襲って、島民全てが流されたときに、彼女だけが舟の櫓につかまって波間をさまよい、助かったのだそうです。彼女は妊娠をしていました。やがて玉のような男の子を産み、そのわが子との間に子孫を増やしていったのだそうです。それが島民の祖先になったという話です。八丈島には今も丹那のお墓と伝えられるものが何箇所かありす

念仏橋

 八幡より笠神へ砂押川を渡る橋が「念仏橋」で、「お菊橋」とも呼ばれている。
 大代村の『書出』では、昔この橋は「みたらせ橋」と呼ばれていたが津波のためたびたび橋が落ち、通行に難儀していたが、享保年間に老婆たちが10年間念仏修行をして願い、橋を架けることができた。それで念仏橋と呼ばれたという。『
多賀城町誌

耳切天王様と避難山(金田一地区)十二曲坂(二戸)

 大昔、神様たちが金田一の付近一帯を海産物が取れるように海にしようと相談しましたが、ひとりの神様がこれに反対し山に登りました。 海にする為の工事の槌音は山の頂上まで響き、その音に耐えかねた神様は自分の耳を切り落としてしまいました。 ところが海が完成して間もないある日、大津波におそわれ、山の頂上にいた神様以外は皆おぼれてしまいます。 そして海は消え再び原野が現れました。 これ以来、山を「避難山」、神様を「耳切天王様」と名づけ、農業と養蚕の守護神として祀ったということです。

●ところが、応長元年(1311) 5月18日、突如大津波に襲われて
長浜千軒(横浜)は一夜にして海中へ呑込まれた、という伝承がある。
 辛うじて難をのがれた漁民たちは、それぞれ安住の地を求め各地に集落をつくった。一山越えて柴町に移った者、また或る者達は富岡や氷取沢などに住み着き、洲崎町もその時の移住がはじまりだという。遠く房総の富津方面に漂着した者もいたらしい。そのためか移住した地には、小山・斎田・森田・宍倉等の姓が共通して多いといわれる。

海岸にあった石が内陸に運びあげられたものを「津波石」というが、明和の八重山津波による沖縄八重山諸島の津波石の調査が行われている。



これらの伝説で神功皇后では津波は日本ではすでにおそれられていた。韓国までその恐れられた津波が襲うというのも日本がすでに津波国だったからである。八丈島とか八重山とか島の多い国では被害が大きかった。今回もそうである。プ-ケット島とかモルジブの島は小さい島であり文字通り島が海にのまれる恐怖が常に存在した。それでそうした伝説も生まれやすい、多賀城の念仏橋では橋が度々津波で流されたとういのは本当だろう。二戸の「避難山」とは文字通り津波で避難した山であった。横浜の長浜千軒はなんとなく事実を示している。移住した人々が伝えたのだろう。伝説もなんらか事実を伝え後の人に教訓となるべきものだろう。



黒竜江とロシア(モスクワ)からのアクセス

冬場になると、黒竜江(アムール川)は全面凍結し、川の上を自由に往来できるようになる。また、その氷がオホーツク海を通り、北海道に流氷となって流れ着く。

ハバロフスクまで中ロ国境を流れてきた黒竜江(アムール川)は、ハバロフスクで北上してきた烏蘇里江(ウスリー川)と合流し、その後980km、ロシア領を流れ、サハリン(樺太)北部のタタール(間宮)海峡で長い旅を終える。黒竜江(アムール川)と烏蘇里江(ウスリー川)の合流地点にあたるハバロフスク付近は、川幅が急に広くなり、中州も形成されているために、いったいどこが本流で、どの方向に走っているのか、どこがロシアで中国なのか、さっぱりわからなくなる。どうでもいいことなのだが、海の国境しかない日本人には気になるところだ。

松花江に出る。松花江は、黒竜江に注ぐ第一の支流で、昔はスンガリとも呼ばれていた。この付近でよく遊んでいたという、Kさんは懐かしそうに松花江を眺め「川の流れは昔と変わらないが、それでも水量が減っているなあ。」という。それは子供の目と大人の目で見た景色の違いかどうかは、確かめるすべはない。戦争末期には、ソ連軍の船が、黒竜江から松花江を経て、駆け上ってきたという。

http://www.ne.jp/asahi/overland/japan/

私のホ-ムペ-ジにアクセスがあったので珍しかったのがロシアのモスクワと今日きた黒竜江だった。Heilongjiang とありこれを翻訳のペ-ジに出してわかった。黒竜江とはアム-ル川のことだった。黒い竜のような川というからそれらしい。つまりここでも河が歴史を作っていることがわかる。河が国境となり道となり戦争でも河にそって攻撃がある。日本ではこうした長大な河を理解できない、この黒竜江(アム-ル)河からの流氷がオホ-ツクに流れつく、これは雄大な自然のドラマである。黒竜江の首都はハルピン(瀋陽)でありそこが満州国の首都でもあり日本人街もあった。今でもロシア正教会があるのはロシア人も住んだ。つまり満州はロシアと中国と朝鮮とのせめぎ合う交差する場所だったのだ。中国に行ったときその瀋陽から来た日本人の商売している社長の通訳にあった。内モンゴルであった学生も満州出身者だった。満州は日本との縁で日本に親しみをもち日本語を学ぶ人が多いらしい。中国とかロシアを理解するのはむずかしい。満州国のヌルハチは一時宋に攻め込んで支配した。この北方は理解しにくい、蝦夷というのをどうも中国では異民族として恐れていて日本の蝦夷についてしきりに聞いていた。

唐へ行った遣唐使の記述(659)に

皇帝「蝦夷は幾種類あるのか」
使者「三種類あります、大和王権の版図から遠いものは都加留(つかる)、次はアラ蝦夷(アラエビス)、近いものは熟(ニギ)蝦夷です。ここに連れてきたのは熟蝦夷です。年ごとに、大和朝廷に入朝して貢献しています。」
皇帝「蝦夷の国には五穀はあるか」
使者「ありません、彼られは肉を食べています」
皇帝「蝦夷の国には家屋があるか」
使者「ありません、深山の中で樹の下に住んでいます


ここでツカルは津軽である。アイヌ語でツカルとはこちら側を意味する、向こう側からわたって向こう側に本拠があるからこちら側となった。市町村合併の名前でも秋田みなみとか名古屋北とか中心地からの方角地名が多い、南相馬とここが決まったのもそうである。こちら側とかあちら側とかも地名になりやすいのだ。五穀があるかと聞いているのは唐では異民族を強く意識していた。五穀を食うのか肉を食うのかは大事な文化の違いだったのだ。蝦夷の地域は中国側、今の満州辺りも蝦夷の地域だから蝦夷とは中国でも異民族として認識されていた。だから蝦夷の中にアイヌもいたのでありそのほかいろいろな部族というか異民族が交じっていた。粛慎(みせはし)蝦夷とか渡り島の蝦夷とか蝦夷は多様な民族の混成部隊だったのだ。

この蝦夷は満州とかの領域に住んでいる蝦夷でもあったのだ。だから秀吉の扇の世界地図には日本の東北も蝦夷だが満州辺りも蝦夷(地図)となっているのだ。事実靺鞨とかが蝦夷には北方の異民族が交じっていたことは確かである。この蝦夷とか北方の歴史は史書にも残されないでわかりにくい、その象徴が一三湊だった。幻のように消えてしまったみちのく最大の交易港である。そのことが青森を何か神秘的なものにしている。

別に私のホ-ムペ-ジにアクセスしているからといって何か特別交流があるわけではないが外国は面白いのでipを調べている。中国もロシアもともかくインタ-ネットでつながるのだ。ただではこのアクセスした人から何か情報を得るわけでもないしわからない、もし相手のホ-ムペ-ジの日記とか読めれば面白い。ただ外国はわかりにくい、外国人と対話すれば面白いがそこまでできない、日本人の情報を集めて編集するのが精一杯である。インタ-ネットの情報は連鎖的にキ−ワ−ドでつながる情報である。だから情報を自分なりに編集して組み立てる必要がでてくるのだ。そこが今までの情報とは違うのだ。ただ私がこれだけ書いているように情報の世界がかなり拡大化したことは確かである。情報が知識が世界大に網の目のように蜘蛛の巣のようにつながっていくことは世界を自分なりに理解するのことにもなるのだ。多少世界を旅行したのでそれもかなり役立った。やはり実地に歩いた人の情報は本からとかテレビからとか得る情報とは違ったものがある。周恩来の命で唯一の日本人墓があるということを知って田中首相と周恩来のときは日中関係も良好であった。その後人が変わり時代が変わり日中関係はゆがめられていった。



オホ-ツク文化圏はアム-ル河沿いにできていることがわかる。
大陸では河の役目が大きいのだが日本ではこれがわかりにくいのだ。


黒水岸 三首禄一

黒竜江水流千里
波浪濤濤 欲呑東升日
忽然鴎散鷺飛尽
汽笛如吼江輪馳
一綫劃開萬里土
江南江北 中蘇両国地
只恨難断無形綫
使我目及身不及
我是詩
我是詩
詩是我
詩書作干糧
跋渉
歳月
路上

http://www.741.jp/kouza01/kou-01C34.htm


逸見猶吉詩集

黒竜江のほとりにて

アムールは凍てり
寂としていまは声なき暗緑の底なり
とほくオノン インゴダの源流はしらず
なにものかげしさのきはみ澱み
止むに止まれぬ感情の牢として黙だせるなり
まこと止むに止まれぬ切なさは
一望の山河いつさいに蔵せり
この日凛烈冬のさなか
ひかり微塵となり
風沈み
滲みとほる天の青さのみわが全身に打ちかかる
ああ指呼の間の彼の枯れたる屋根屋根に
なんぞわがいただける雲のゆかざる
歴史の絶えざる転移のままに
愴然と大河のいとなみ過ぎ来たり
アムールはいま足下に凍てつけり
大いなる
さらに大いなる解氷の時は来れ
我が韃靼の海に春近からん




中国黒竜江省ハルビン市の女性(44)が、ドイツの高級車BMWを運転して
 農民ら13人を死傷させた人身事故が、貧富の格差と政治腐敗でくすぶる国民の
 不満に火を</A>付け、新年早々、中国メディアを巻き込んだ騒動に発展している。
 単純な交通事故として執行猶予付きの軽い判決を受けたことで騒ぎは拡大。
 「女性は省政府幹部の親族」「殺人事件だ」などと、特権階級への激しい攻撃が
 インターネット上を飛び交い、中国政府も事故の再調査に乗り出さざるを得なくなっ
た。





お金の発想法」木村剛を読んで

この人はテレビにもでてくるから有名な経済学者だった。私も経済学部の出であるが大学ではほとんど勉強していないから経済学自体わからない、先生が「株にだけは絶対手を出すな」とか言っていたのも不思議である。株は専門家でもわからないのだ。でも資本主義の経済の基本は株にある、投資にある。それが資本主義を育てんだから株や投資をやるべきだと言っている。資本主義社会の仕組みが株式会社だとするとその思想とか目指すものを理解すべきだというのはわかる。資本主義社会が何なのか理解していない人が多いから貯蓄ばかりで株式投資をしないのだとなる。資本主義社会の起こりが何なのか一つは船で海洋に貿易に乗り出したときはじまった。船はそもそも危険でありそこでみんなで危険を分担して投資した、そうすれば損してもかまわないからだ。そしてこの投資というのは投資された方はその借金を返す必要がない仕組みなのだ。実際船が沈んだからといって投資した人は結局あきらめる他ないのだ。その代わり船が無事帰ってくれば莫大なもうけがをえることができるのだ。株は何十倍にもなることがあるがゼロになってしまうこともある。それが株式投資の資本主義社会でありそもそもいくら貯金してもそうした利益を生み出す企業家なりがいないと利子もつかないのだ。だから損してでもそうしたもうけを生む企業家を産み出す仕組みが資本主義なのだという解説はわかりやすい、沖縄のことでも説明したが船は沈んだり作るのにも金がかかる。一方で船をもつと貿易で利益をあげることができる。それで船をもてない人達が地元で農協のような・・・・のである。

この本で金は奇跡だ、奇跡だとしきりに言っているのも不思議である。貨幣は本当に不思議なものである。それはわかる、でも貨幣は必然的に生まれたものでもあった。物々交換だといちいち魚欲しいから大根もっていって交換しようとかしても相手は大根は今いらないよとなれば魚もえられない、自分の欲しいものを得るために一日市場をさまよってるほかなくなる。これが貨幣があれば楽である。貨幣はコミニュティが先にあって成り立ったというのは本当である。小さなコミニュティ、村を考えても互いに便利に必要なものを交換するために貨幣は必然的に作り出された。地域貨幣が最初の貨幣だろう。貨幣はだから万能でもない、最初は貨幣は飾り的なものとしてただ使用もしないのに集められたりした。貝が貨幣になったのもそれを貨幣とするより集めることにあった。何か特別それで得られるというものではなかった。最初国と国との貿易などなかった。だから今のような大規模な貿易はないから国と国の貿易は贈答貿易であり貨幣がこれほど価値あるものでもなかったポランニ-のいうように互いに友好を計ることが第一であり贈答貿易だったのだ。だからそこから莫大な利益を生むということはなかった。

そして閉鎖された村社会では貨幣のやりとりする商売はタブ-だったのだ。だから神社とか無縁の場所を作り商売させた。よそ者をそこに入れた。神社というと縁結びの神とかであるが無縁の場所として神社が選ばれたというのも不思議である。最初の商売が神社と関係していたためでもある。濃厚な血縁と地縁で結ばれている閉鎖社会に無縁な場所を作らねばならなかったのだ。だからそもそも貨幣が広く流通し信頼されたものになるのは簡単にはならなかった。こんなに世界的になることはありえないことだった。それは狭い範囲でしか流通しないものだったのだ。

次に貨幣は単なる紙でありデ-タ-でありそれはなんでもいい、相手が信用して受けとってくれるものなら貨幣になる。貨幣は信用でありそれを形にしたものにすぎない、信用となるものは別にありそれは人間自身であったり技術力や軍事力だったりともかく信頼おけるものが貨幣を信頼あるものとする。アメリカのドルが世界の貨幣となっているのは世界の人がアメリカ嫌いな国、イスラム国家でもドルが欲しいのはアメリカが超大国でありアメリカが世界を牛耳ることができるということを知っているし反発してもそれを認めざるをえないからドルが世界の貨幣として信頼され流通するのである。逆に貨幣はそうしたバックにある信頼すべきものが信頼されなくなるときもろくも崩れ紙屑になってしまう。日本が軍事中発行した軍票とかもただの紙切れになったしそういうことはよくあることなのだ。だから日本の円もいつなんどき紙切れになってしまうかもしれない、戦前に夫が工場で事故で死んで一生その金で暮らせるとされたのに戦争になり残ったのはその金で買ったわずかの土地だけだった。金は紙切れになってしまったのだ。時代の激変で貨幣はそうなりやすいのだ。ただ貨幣が何なのかこれをわかることはものすごくむずかしいから結局、奇跡だとか不思議だとかなってしまう。それほど貨幣の力が世界に及んでしまったからである。庶民は「金が力だ」ということを身をもって知っているからいろいろ理屈を言っても金を第一に考える習慣がついてしまったのである。

この本で一番面白かったのは石の貨幣というのも貨幣であり、それは流通しなくても威信財として島民の間では信用するものだった。石の貨幣でももっていれば裕福だと思っていたのだ。それは貨幣でも同じである。銀行に金をあづけていれば金があるから安心だ、財産が有ると信用している。結局それも石の貨幣と変わりない、あるときヤップ島のその石の貨幣(フェヘ)にドイツ政府が×のしるしをつけて政府所有にした。ドイツの金のマルクを島民が信用して使わなかったからである。これが効果をあらわして島民達はマルクを得るために働いた。この×じるしをつけて石の貨幣が無効にされたように今使っている日本の円もあるとき政府が無効だと言えば紙切れになってしまうのだ。今借金が700兆円があるとかなるといつそうなるかもしれない、日本の円も信用がなくなれば暴落して紙切れになってしまう。それは現実にロシアとか前にはドイツとかアルゼンチンで起こった。インフレで百倍とかになり金の価値は暴落したのだ。いづれにしろ金は謎であることは変わりない、それほど社会は計りかねない複雑なものとなり金の力が増したともいえる。偽札がでているが本物の金もいつ偽札になるかもしれないというのも本当である。信用がなければ貨幣はみな偽札になってしまう、もし黄金でできていればその黄金自体に価値はあったが今の紙幣にはないのである。紙幣は紙切れにすぎないのでありそれはデ-タ-でもいいという、インタ-ネットでデ-タ-として金を機能させようとして失敗しているのは金として大勢の人が認めないためだという、それもそうである。金には大きな石であり黄金であれ、銀であれ威信をもたせさせたいというのも人間の心理だからだ。いづれにしろ価値は常に変動しているから貨幣の価値も変動するのである。

貨幣とは何なのか-冨と経済の問題

このペ-ジに今まで書いた貨幣の問題などをまとめました。この文ものせました。



正月に配られる神社の「御札」の疑問


私は自治会の班長をしています。
先日自治会長が三重県のI神宮の御札10枚(800円)を市報と一緒に持って来て班員に売れというのです。近くの宮司に頼まれたとのことでした。
昔から班長が班員に順番に売りつけていたのです。
班員はほしくもないのに断りきれずに買っていました。
私の考えでは自治会は行政の末端を補完する組織であり地区住民全員が加盟している公的なものであると思います。
したがって自治会の組織を使って班長が特定の神社の御札を売ってまわるのは憲法20条に抵触すると思うので自治会長に御札は戻しました。
自治会という末端組織に憲法とはいささか大上段に振りかぶったようではありますが班員に事の経緯を説明するために解釈についてお聞かせください。


自治会行事と宗教行事等の関係でよく問題となることがあります。
憲法で信教の自由は保障されていますので、強制的に自治会用務に取り込むことはできないことです。
仮に自治会構成員のすべてが氏子であれば自治会で取り組むことも自治会員の便宜を図ることからいえばありえることだと思います。
自治会行事を負担に思う人が増えている昨今、宗教行事に関わらず、自治会行事(用務)について、自治会内でよく話し合っておく必要があると思います。
それによって、神社関係については別組織で対応するとか、といった方法が出てくると思います。いずれにしても、この機会にきちんと整理された方が良いと思います。



昨夜は火伏(ひぶせ)祭りだった。若者が裸になって一軒一軒水をかける、これは火事のないようにするための祭りである。今回問題にしたのは「御札」が隣組があり組長によって配られていることである。これもなんか変だとは思っていた、やはり同じように疑問に思っている人がいた。組長がくるから強制的に配られる感じになる。そこには信仰の違う人もかなりいる。その人たちはどうしているのか、そもそも神社だとか神道とかが何なのかはっきりしない、これは宗教ではないという人もいるし習慣的につづいている行事のようなものだとか何かわからないのだ。日本人はそもそも明確に宗教の定義をしていない、だから宗教に関して混乱するのだ。神道と仏教が一体になったりするのもそうである。何を一体神として祀っていいのかわからないからあらゆるものを神として祀ることになる。八百万の神を祀ることになる。その中でも先祖崇拝は一番わかりやすいから先祖崇拝になった。ホトケとはフトキであり死者をよりつかせる木の枝だった日本古来の宗教だったのが次に位牌信仰になった。仏教と先祖崇拝は何の関係もない、むしろ先祖崇拝を否定するようになるのが本来の宗教である。またこのことはこの世が肉なるものから成りたつとき一番むずかしいことなのだ。それは結婚からはじまる。結婚によって二人だけの幸せを願い追及することから子供が生まれ家族ができる、その家族の幸せをまた我が家族の永続を願うことが先祖崇拝に通じているのだ。だから簡単に否定できないというより肉の欲が否定できないと同じようにこの世が肉の世になっているのだ。

この御札であり戒名であれなんらかの信仰に通じている、縁起がいいとか神社から御札をもらう、そんなことは信仰とは宗教とは関係ないともなる。そんなにむずかしく考える必要はないともなる。それが普通の日本人である。だから8千万の人が初詣に行った。その中には他に宗教をもっている人も参加している。ではそこのいかなる神に祈ってくるのかというとはっきりしないのだ。日本人の宗教は自然宗教だから太陽であれ山であれ自然の万物に祈るとなる。それが神道だともなる。清らかな自然でみそぎする、心を清めて新しい年を迎える。ただそれだけの意味にすぎないともなる。そこに明確な神などは存在しない、宗教は自由だから何を拝もうとかまわないとなる。こういう自然宗教は一神教の世界では拒否されている。木を神としたり特定の動物を神としたりすることも偶像崇拝になる。形あるものを拝むなという戒めが最初の厳しい戒めとなったのがユダヤ教だった。神とは存在しても眼に見えないのである。眼に見えたら必ず神でも穢される。神であり人として現れた主キリストが十字架についたのも神が肉なるこの世に現れたら必然的にそうなるということである。人間がどうして神なんだとなるからだ。この点でキリスト教とイスラム教は一神教だから一致している。ただイスラム教からするとキリストも一人の予言者にすぎずそれを拝むことは偶像だとしているから争いがあるのだ。自然宗教というが自然は神ではない、今回のような大津波のような災いも自然はもたらす、自然はある意味で非情なのである。神が何かと言ったらそれは聖書からでた神が
人間が神と認識でる実体であり、その証拠が神であり人である主キリストとなる。それ以外神が何なのかという答えはないのである。

ここで問題なのは隣組の組長が「御札」を配るということは法律的にできないことである。強制的に配られるている感じになる。隣組の組長がやることは行政的な橋渡しであり広報を配ることなどである。ただ祭りは伝統行事なのだから「寄付」として募集することはかまわないが「御札」というのは宗教に関係しているから強制できない、それがNHKの受信料のように御札が配られ徴収されることは問題がある。でもこれは強制ではなく事前に御札が必要かどうか聞いて配っている。でも不思議なのは組長に神社から「御札」を配ることを一面強制されている。そんな権限は神社にないはずである。そこが戦前の体制と同じであり旧弊なものが以前として残っていることなのだ。

鹿島神社ではそこで「火伏祭り」が行われたり祭りが催されているからその祭りの金として使われる、祭りとしたら寄付とした方がいい、鹿島神社といっても「氏子」でもない、この鹿島神社はそもそも武甕槌(たけみかづち)の神を祀ったものであり大和王権の軍事の神だった。だから大和王権の支配した地域に鹿島神がいたるところにある。戦争の時、この神は武の神だから再び武の神になっていたのかもしれない、その後土地の神、豊作の神などに変わった。ではなぜこれが問題にするかというとそれが戦前の戦争と結びつくからである。

出征兵士には婦人たちが神社の「お守り」だとか「千人針」という白い布に針で刺繍した腹巻状のものを作り送ったものである。の頃から例の「大政翼賛会」が次第に行政の補助機関へと変化し、町内会、隣組といった末端組織を掌握し、食料や生活必需品の配給制度などを通じて国民生活のすみずみまで行政が監視管理する翼賛会体制ができあがり、戦前のファシズム国家はここに完成することになった。それを象徴するものとして学校には「奉安殿」という4坪ほどの御影石で堅固に造られた建物があった。ここには天照大神や天皇が「現人神」として祭られていた。何かの祭典や行事の際にはこの中に収められている勅語が校長により奉読された。

http://www.toshima.ne.jp/~esashi/war1.htm

この戦前の体制がひきつがれてまだ「御札」を強制的に配っているのだ。神道や神社でも宗教は権力と結びついたとき常に利用され危険なものとなる。権力と結びつかない宗教は比較的害がない、地蔵に祈るとか何かそこには庶民の無力なものへの愛情としてある。権力と結びついたとき各地の神社は政府の権力によって管理され戦争に動員する行政的役目をになったのである。創価なども他の団体も神道の戦争協力を今批判しているがそもそも宗教団体自体今や巨大な権力団体なのだ。創価はすでに権力と一体化ししている。そして権力奪取を目指しているのだから矛盾している。政教分離というとき創価そのものが戦前と同じように巨大権力化しているのだ。神道とか天皇もまた政教分離にふれる靖国神社も政教分離が問題になるのはあの戦争そのものが政教一致の戦争だったからである。本当に戦争で死んだ人が望んで行ったとは限らない、全国民が戦争体制の中で神社の氏子に組み入れられ強制的に戦争に参加させられたという側面もある。そして強制的に靖国に祀られたという側面もある。逆に靖国に祀られるなら満足だと言って死地におもむいた人もいた。でもそれは全部がそうではなかったことは確かである。

国体問題をめぐってはさまざまな人間のタイプがあったわけだが、積極的にこの波にのって少しも疑問を感じないタイプ、それは天皇制下の官僚を中心とする大組織に組み込まれていた人間、これが今やバランスを破って最大の多数になった。次には腹の中では不承認であっても表に出さず、功利的にそれを利用しようとしたタイプ、それからまったくの偽装であって腹の中では「不逞」の気持ちを抱いていたタイプ等、そこで重要なことは、偽装にしても黙殺にしても、自分はそんなに狂信的なものとは縁がないと思っていた人々も、何度となく表面的な言葉を口に出しているうちに、一種の催眠状態に陥っていたという事実で、これは非常に大切なことである。とにかく少しでも疑わしいところがあるとすぐに「排除」の手が伸びてくる

我が青春に悔いあり
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/shigayoko.html

戦争に参加した人も一様ではない、天皇制下の官僚を中心とする大組織に組み込まれていた人間-これが隣組の戦時下に果たした役割であった。ただ隣組がすべて悪いとはいえない、相互扶助が最初の目的だった。これは創価と不思議とにているのだ。とにかく少しでも疑わしいところがあるとすぐに「排除」の手が伸びてくる。まさに創価もちょっとでもこれ宗教としてはおかしいんじゃないかと批判することすらできない、NHKだろうがマスコミは完全におさえられている。戦時中の大政翼賛会ができあがっているからだ。だから作家でも第三文明とかに文を書いて知らずとりこまれているのだ。そこにキリスト教の作家もいるし他の宗教の作家も書いているから大政翼賛会なのである。創価の目的としていることも権力奪取とすると政治で権力を持ち強制しようとする、功利的に利用するために政治家と将来の権力的地位につくとか利用している人、カルトにどっぷりの人(自分)そこには信じられないほど様々な人々をのみこんであれだけの怪物化、巨大化したのである。戦争中もまた同じだったのだ。だからすべて常に人間を一様に見ることはできないのである。

小泉首相は総理大臣になるまで、神道政治連盟国会議員懇談会の副会長でした。
神道政治連盟国会議員懇談会とは、「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」などを綱領に掲げる神道政治連盟を支援する国会議員のグループです。神道政治連盟は、彼の派閥の親分の森総理が神の国発言の挨拶をしたグループです。

http://members.at.infoseek.co.jp/YaYa/yasukuni.htm

自民党と神道関係、神社とは関係が深い、天皇を頂点とする日本では政権政党はそうなりやすい、ここにも政教一致がなお存在している。それが創価と一体となっていることも日本の不思議である。なぜなら創価の御本尊には伊勢の神が仏の神より下に書いてあるというだけで不敬罪にされた。神道から迫害もあったのだ。いづれにしろ宗教が権力とかかわるとゆがめられる、災いとなる。日本人は宗教でもなんでもあいまいなのだ。対立したくないという小さな村の平和を保ちたいというのはわかるがこういう大事なことをあいまいにしていると大きな災いをもたらすことにもなる。天皇とは何なのかとか神道とは何なのか、戦争についてもどうして起こったかもその理由もわからない、政教分離とは何なのか、すべてあいまいにしている。それはまたあいまいなままおかしな方向に導かれることにもなる。神道にしろ創価にしろまたファシズムに導かれる危険性が常にひそんでいる。そのファナテックな狂信に導くのが役目をになうのが宗教なのである。



詳しくは連続して読むには時事問題-宗教の部へ(ここにいままでのをまとめてあります)



インタ-ネット的な情報空間のなかの24将棋

新年の駒打つひびき有段者

戻しつつソフトと将棋夜長かな



インタ-ネットと将棋が何か関係あるのかというと意外と深い関係があった。そもそもコンピュタ-の最初はゲ-ムだった。ゲ-ムはれっきとしたコンピュタ-だったのだ。ゲ-ムから始まったからゲ-ムと深い関係があるのだ。通信の24将棋とういのは将棋は江戸時代からあったにしろ将棋そのものは変わらないにしてもこれもかなり違ったものである。

●早指しが基本(スピ-ド性)
●匿名性
●記録性(recording system)
●24時間参加可能
●24時間閲覧、リアルタイム観戦機能


これらの機能はインタ-ネット的一つの情報環境とマッチしている。通信では一回ミスするのでずっとやっていなかった。それでも最高段位の対戦を毎日のように見ていたという不思議である。将棋は見るだけでもむずかしいからわからない、それでも何か白熱する戦いがそれなりにわかる。一つのそれが娯楽となった。そもそもスポ-ツであれ芸術さえも実は見る側と見せる側、プロとアマとに分かれる。例えば剣術にしても強豪同士の一騎討ちは見ているだけでその迫力がわかる。道場でも剣道でも柔道でも有段者の戦いは見るだけで興奮する。将棋もやはり理解するのはむずかしくても同じである。だからプロ棋士がかなりの数いるのだ。これはインタ-ネットの掲示板でプロ的な人や鋭い議論のレスの応酬をしているのを読んでいるのとにている。今や2ちゃんねるでもどこでも発言するより読むだけの人が多いのだ。発言することはかえってむずかしいから読むのは気楽でありそれが無駄かというとそうでもない、何かヒントを得るものがあり私のように自分のホ-ムペ-ジに引用して編集して書いたりしている。つまり今や10人発言していたらその百倍の人が2ちゃんねるなどでは読むだけの人となっているからかえってプロ的な発言を望んでいる。つまらないゴミの発言はいらないとなる。インタ-ネットの掲示板でも発言する人と読む人、見る人に分かれてしまったのだ。

この通信の将棋は子供のころのように人の家とか縁側で対面的にのんびりさしているのとはあまりに違うし今やそんな時間的余裕はなくなった。その頃は将棋を通じてコミニケ-ションを計るという役目があったが通信将棋は確かにチャットできるからわずかにコミニケ-ションもできるのだが将棋そのものもを追及し楽しむためのものである。だからソフトとやるのとたいして変わらないという面もでてくる。相手が人間でない、コンピュタ-でもかまわないとなる。ではこれがつまらないかとなるとそうでもないのだ。何回も前に戻して勝つまでやれるのだ。そうしても勝つには大変な労力がかかることがわかった。それだけソフトは段クラスであり絶対弱いのは勝てない、一回勝負では絶対勝てないが巻き戻しのように前に戻してやり直し何回もやっているとやっと勝つのである。だからかえって面白いのだ。醍醐味がないかといったらそうでもない、一手で勝敗が分かれる大熱戦になるのだ。今どき対面的に将棋をさすことはよほど暇でないとできないし相手が段クラスの人など普通いないのだ。特に田舎にはいない、それがいつも文句も言わず相手にしてくれるのだ。

時代とともに娯楽も変わる。新年の行事もほとんどすたれてしまったことはわびしい。羽根つきもないし凧上げもない、日本の伝統的正月風景が消えたのはわびしい。今年の年賀の絵にした「
山路来て向かう城下や凧の数 大祇 」「七重の丘の奥なる村や羽子の音 中村草田男」といった風景が日本から消えたことはさみしい。正月という雰囲気がもはや喪失した。これはかつて農耕、稲作と深く結びついていた行事だったから自然と深くかかわる世界だったからそれがこれほど工業化した結果でもあった。そしてテレビもメデアにも変化があった。テレビで新年の番組を見るのが楽しみだったが今年は時代劇もないしいい番組がほとんどなかった。おそらく娯楽もゲ-ムとかビデオを借りて楽しんでいる時代なのだろう。通信将棋を見て楽しんでいるように娯楽も変わってしまったのだ。

通信の将棋はこれも極めてインタ-ネット的なものだったのだ。対戦した相手が気になりその棋譜が記録されているので見たりする。インタ-ネットでも相手のことが気になりどんなキ-ワ-ドでくるのかとか調べたり誰が読んでいるのかなどipを調べたりする。私のホ-ムペ-ジの場合、キ-ワ-ドを調べると面白かった。実は掲示板をまだ置いていないのでこのキ-ワ-ドが私のホ-ムペ-ジの反応だったのだ。それをみるといかにみんなキ-ワ-ドで懸命に探そうとしているかわかった。どういうわけか100とか200の検索結果のとき、私のホ-ムペ-ジにひっかかりやすくそれでアクセスがふえたのかもしれない、私の場合時事問題で過去の方がいつも読まれているのである。普通日記形式だったら今の時点にアクセスがあるはずだが過去に書いたものに常時アクセスがある。結局私のホ-ムペ-ジはテ-マが多いからキ-ワ-ドでひっかかりやすいということがあったのだ。ともかく24将棋は明らかにインタ-ネット的な情報空間の一つの世界だった。将棋は同じ将棋でもその内容がメデアが違うとこれだけ違ってしまうという見本だったのだ。

インタ-ネットの将棋



報道の自由はなぜ規制されるのか

 
佐藤公明党区議の質問は、(1)区立図書館には、創価学会を批判した本がこれほどある(2)図書の選定は、だれがどのようにおこなっているのか(3)図書館の職員の適切な人事異動をしていただきたい――というもの。

創価学会を批判する本がおいてあるからといって、議員が権力を使って図書館など公共の場から排除せよとか、図書館職員の人事異動まで要求することは、全くの筋違いだ。政治的な力を借りた暴力だと思う。政治に携わる人が、権力者の立場から出版物に圧力を加えることに、怒りを感じる


http://www2.odn.ne.jp/~cbp91480/freelib.html

NHKの報道が政府によって規制されたという、天皇の戦争責任にふれたとかタブ-にふれたからか、日本にとってタブ-は天皇とか創価とか他にもあるのだ。創価などをどこも批判しない、新聞社でも批判しない、なんらかの抗議がくるし損になるからだ。公共の図書館すら議員が新潮社とか文春の週刊誌を置くななど圧力がかけれれる。自分の本もちょっとだけ創価のことを書いただけで鹿島町のしょぼい図書館とかに置けなかった。あれは明らかに法律違反なのだ。だけど何も言うこともできない、出版も書店などもそうである。そこには明らかに規制があるのだ。言論の自由など大きな権力をもっているものにはあっても個人とかにはない、出版社であれ新聞社であれテレビ局であれそこは組織であり団体であり個人が言いたいことを全部のせるわけではない、デスクとか編集者によって決められるのである。

今回の問題の深層は何なのか、NHK自体にも問題はある。NHK自体巨大な権力なのだ。マスコミ自体巨大な権力である。報道するものも公正ではありえない、NHKが報道すれば何百万人の人が見るし影響力がある。NHKに取り上げられただけですでに大きな宣伝力となり社会に力を示すことができるのだ。ではNHKで公正に様々な人の意見や立場を反映するかといったら反映しない、それはどこでもできないのだ。それではなぜNHKが問題になるのか、それは一律に国民から受信料をとっている公共的役割のためである。でも公共的なものでも公正ではありえない、個人でも団体でも報道でも思想でもかたよるのである。NHKはだから中国寄りだとか必ず批判があるのだ。NHKは公共的なものだとしてもそこには報道は公正ではありえない、そもそも報道にしても何が大事なのか何を放送するのかという時点で選択があり編集があり放送局の意図が働いているのだ。

テリ-なんとかがテレビで青色発光の発明について報酬がたりなすぎるという、松井とかのスポ-ツ選手にくらべると少な過ぎるという、そういうだけでたいしてた根拠もないのにそれが正しいように思わせる。それがマスコミなのだ。常にその根拠は明確でないしその根拠を理路整然と言うことはむずかしい。ただ大声でテレビに目立つ格好ででてきて言うときそれが正しいとされるように広がるのだ。ここにマスコミの危険が常にあるのだ。ある作家は出版社で収入を保証してくれて取材費を自由に使わせてくれるなら満足だとその苦しい台所事情と比べて報酬は十分だという人もいる。それもまた参考になるかどうかわからないにしてもテレビなどとくに何か目立った格好で大声で言う人が有利になる。すでにそこに出ただけで権利を獲得しているのだ。活字になるとその根拠とか理屈を述べるからまた違ったものとなる。メデアによって報道は違ってくるのだ。NHKが問題になるのはその影響力が大きいためである。新聞社でもテレビ局でも創価の批判しないのは茶の間にまで入っているテレビで批判されるとまずいからである。NHKは一面報道を公正にするにはチエックされてもしかたがないのだ。何故なら報道により一方的に有利にしてしまうからである。何を問題として取り上げるかどうかでもすでにそこには意図があり編集があり洗脳もある。報道の自由というときそもそも報道の自由をもっているのはマスコミという巨大な権力しかなかった。一個人など報道することも何することもできないから何も言うことなどできなかったのだ。

天皇問題にしても結局タブ-化して大政翼賛会化していった。朝鮮人慰安婦問題にしたらしいがそれが何なのか詳しくわからないにしても例えば「大東亜共栄圏」を目指し植民地解放の正義の戦いだとしきりにいう、そう純粋に思って戦った人達もいる。でも個々人とかにすれば異民族の女性を征服して自由にできるとか支配者になり権力を持ち他国を牛耳ることができる。古代から戦争にはそうした人間の欲望とか野望とか支配力とか征服力とかが常にありその極端な例が略奪が許されていたことである。その時人間のよう欲望がむきだにされた。女性は奪われ弱いものは奴隷にされた。今でも遊牧民の結婚が略奪して花嫁を奪う風習が残されている。戦争がやたら正義とかそうした美名のもとに美化されるようになったのは国民国家になってからである。日本人にしたって軍刀をぶらさげて東南アジアでもどこでも威張っていたのだ。現代でも経済力があるから貧乏な国に買春にゆく、そこで若い女性をはべらせふんぞりかえっていた。それは日本人だけではないから日本人だけを責めることはできない、経済発展に寄与するとか「大東亜共栄圏」とか美名のもとで強いものが弱いものを支配するという快感が性の場合、買春という形で極端に表れるのだ。ここの人間の欲望とか野獣性が戦争では露骨に表れる。戦争そのものがそういうものであるときこれを美化するのは疑問なのである。

結局報道というのも必ず巨大な権力にとりこまれてゆくのだ。巨大な権力によって報道は操作され規制される。権力を持っているものが報道の自由はあっても権力のないものには報道の自由も何か言う権利すらないのだ。だから弱者は大きな権力を持つ団体に入りそこで自分の主張を言うほかないのだ。宗教団体の公明党議員がなぜそもそも議員になっているのか、それはこのように権力に直接にらみをきかせ統制するためである。そもそも総体革命とかいっているのは権力の要所について実権をにぎれと指導しているのだから政教一致もなにない、権力奪取を常に目指してきた団体なのである。議員はまさにそのために最大の権力だから必要なのである。宗教で罰あたるとか脅しをかけ次に公権力で規制しとりしまる。天皇というのもまたその精神的権威として利用された。創価自体が神道側から規制された。権力と結びついた宗教思想はすべてそうなるのだ。これはどこでも同じである。共産国家ではこの逆の現象が起こり粛清につぐ粛清で大量の人間が虐殺されたから常に報道は権力を持つものによって規制されるし公正でありえないのだ。

善根とは寺や仏像を建立したり仏や僧への供養や写経などを行う仏教的な善行をいいます。このようなことは貴族や裕福な人にしか行えません。そのため地蔵は善根が積めない民衆から信仰されました。このようなことから、昔の人は地獄へ落ちることを恐れ、現世とあの世をつなぐ墓地に、具体的に6つの地蔵に表して石仏を建立し、救済されることを祈りました。

地蔵信仰というのはこういう由来が歴史があったのだ。寺というのは本来権力者のものであり庶民はかかわることができなかった。平安時代までは貴族仏教だった。それから親鸞とか日蓮とかがでてきて庶民にも広まった。ヨ-ロッパでもキリスト教の聖書には鍵がかけられて庶民には読めなかったのだ。ルタ-の改革派庶民でも聖書を読めるようにしたことからはじまった。宗教も特権階級のものであり宗教とは常に地獄に落ちるとか恐れさすものとして存在した。最後はだから免罪符などを売り商売にもなった。免罪符を売る僧侶の方が地獄に落ちてゆく身だったのだ。ダンテの地獄編を読めばわかる。僧侶とか権力的地位にあり地獄に落ちるなどと言っているものは来世は確実に地獄である。今の宗教関係者にはほとんどあてはまるし地獄行きである。寺では武家の立派な墓が残っている菩提寺になっている。江戸時代に寺は武家によって優遇されていて神社はないがしろにされていた。それが廃仏毀釈の原因であった。神社側の復讐だったというのも奇妙である。宗教も常に権力側にとりこまれ利用されるし宗教者も権力側にとりいるのが歴史だったのだ。一方この庶民のように地獄を恐れて地蔵にたよっているような庶民は地獄になど行くかないのだ。六地蔵というのは必ず村の入り口にありこういう庶民の切ない願いがあったのである。

宗教であれ報道であれ権力をもったとき特権化してゆがめられるのだ。地蔵にしか願いを託すことができない庶民の事情があったのである。新興宗教団体も最初は地蔵信仰の要素があったのである。しかし今権力を持っているのは誰なのか?民主主義社会においては結局大衆であり大衆が権力を作っている。一部の政治家や権力者ではない、大衆の容認なくては権力は維持できないからだ。だから地蔵に祈るような庶民は弱い立場になはない、だから庶民と言っても民主主義社会では庶民というものを昔の無力な庶民とは見なせない、そこになお無知になりやすいにしても大衆が庶民が権力行使しているのだ。戦争にしてもやはり一部の軍部だけだが遂行したと言えないのはそのためである。それなりに民主的な環境はあったからだ。だから今は特定の権力者批判より大衆批判にもなるのである。

大政翼賛会化

昭和15年に町内会や村の会をもとにして、全国民を動員できるように組織化したもの。のちに、政府の方針を国民に伝える機関に変わった。さらに隣組(となりぐみ)や少年団・青年団・壮年団・婦人会・産業報告会などの様々な団体を組み込み「聖戦」の勝利めざして国民を根こそぎ動員する機構となった。




愛国心より仕事の使命感

「いつも自分を磨いておけ。あなたは世界を見るための窓なのだ。」バ-ナ-ドショ-


愛国心には何か常に自国の権益の拡大化とかがかかわってくる。愛国心は実際は自国の利益は自分の利益でもあるから誰でももっているのだ。尖閣諸島に石油が埋蔵されているのを中国にとられれば日本の利益がそこなうから愛国心から抗議する、それはあくまでも国益にかかわるからである。正当な国益として主張すべきであるが使命感とは違う、太平洋戦争はどうしても強制的愛国心だった。本当に使命感に「大東亜共栄圏」とか「植民地解放」とかの使命感で戦地に行ったのではない、赤紙一枚来て「戦場に行ってくれ、日本のためだ、祖国のためだ、郷里のためだ、家族のためだ、・・・・」で無理やり戦地に行かされた人も多いのだ。特攻隊もそうである。愛国心も使命感と一致していた時代は明治維新のときあった。その時は愛国=使命感になっていた。例えばその頃のエリ-ト、指導者の意識はモラルは非常に高かった。日本を西欧列強に追いつくために必死だったのだ。それは吉田松陰からそうでありすべてが政治から宗教から芸術から教育から医学から実業から科学からなんでも創始者にならざるをえなかったのだ。だからエリ-トはすべて愛国心をもっていたし使命感も強かった。

例えばイギリスに留学して英語ができないと自殺した留学生もいた。それほど英語を学ぶことさえ必死だったのだ。今や留学は遊びである。莫大な金をかけても遊びなのだ。だから対外の金持ちの子供は今や必ず留学しているのだ。金ない人でも働きながらでもり留学できる時代である。それでも何も身につかないで帰ってくる人も多い、それでも責められることもないのである。ところが明治時代はすべて国費留学生であり大変な期待と責任をもたされていたし自ずから使命感も自発的なものとして湧いてきたのである。使命感は時代によっても違うし個々によっても違うのであり簡単には見つけられない、おそらく60年間生きて使命感を見つけられない人もいる。それほど自分に適した仕事が何かわからないというのが人間なのである。すでに死にかかってこれが俺の仕事だ、使命感がここにあると発見する人もいるのだ。使命感とは何か仕事をする内に発見されるのである。マルトンでスパルタにペルシャとの戦争の勝利の報を伝えようとした兵士はそのとき自らに使命感をとっさに感じたのだ。そのとき彼は無我夢中でただそれを知らせるためにだけ使命感に燃えて走ったのだ。そしてそれを果たしたとき命つきて死んだのである。これは突如彼は使命感を与えられたのだ。つまり使命感には個々に違うし他者から推し量れないものも多い、でも使命感に突如目覚めるということもあるのだ。

歴史をふりかえればそこには様々な使命感がありそれを遂行した人間が歴史に残っているのだろう。また歴史に残らない使命感に生きた人々もいたのである。偉人ばかりが使命感をもって生きたとは限らない、使命感は仕事する中に生まれてくることは確かである。科学の真理を追及している科学者はガリレオのように聖書に反していても地球は太陽の回りを回っているという科学的真理を伝えることを使命と感じたのであえて主張しつづけたのである。それもまた仕事する内に使命感が湧きだしたのである。そうしたことはいくらでも人間の歴史にはある。日常的な平凡な仕事にもそうした使命感を見いだす人はいるはずである。前提として人間は崇高な使命感を持つべきでありその崇高な使命感のために殉じるというのが人間の価値なのである。これは欲望にだけ生きる動物と根本的に違う人間的なところなのだ。それがなければ人間は人間ではない、野獣である。愛国心を言う人にはこうした野獣性の人が結構多いのだ。弱小の国を征服して野獣のように支配しようとする野望がある。つまりそういうところに崇高な使命感はありえない、戦争で力でそうした使命感を達成することはありえないのだ。今は愛国心より人類的使命感の方が上である。愛国心は狭い考え方になったのだ。

医者として人種や国に関係なく尽くすとか科学の真理を伝えるとかそうした普遍的な使命感が大事になっている。そのこと自体が国に尽くしているのである。ノ-ベル賞もらえばそれは国の力を高めているのだ。「義は国を高くする」とか言うように義と言ったときそこには人類の普遍的な価値のために尽くした人も入るのである。人は崇高な使命のために生きるのでありそれが何なのか人によって国によってみな違うし使命感は時代の変革の中で突如生まれ与えられるいうこともある。使命感もまた一様ではないのだ。「神の義と国をまず求めなさい」というときこの使命感の大事さを最初に言ったのである。そうでないと人間は野獣に脱してしまうのだ。すべてが金儲けだけを目的として商業化するとき欲望追及の野獣社会となっている。まさに現代がそうなのである。文明という名の野獣欲望社会が現代なのである。今明治時代のように戦前のように愛国心を言っても通じない国際社会なのだ。だから世界でも愛国心をあまり言うと何か浮いた時代逆行の感じになってしまう。

だから愛国心より仕事の使命感の方が普遍的であり大事であり崇高なものがあるのだ。結局今私の使命感は何か、それは言論でもって知識でもって何が正邪があるのか、何が間違い何が正しいのか明確に言論で示すことである。それをこのインタ-ネットの世界で書いていて発見したのである。それは自分だけではない、様々な知識も経験もインタ-ネットからとり入れて書いたのだ。インタ-ネットが開け自分の仕事がここに生まれたのだ。マスコミとか出版の世界からは完全に排除されたがここに自分の使命感を達成するべき仕事が生まれたのである。そしてその仕事の使命感の自覚をうながされたのだ。商業出版やマスコミではできないものをここに見いだしたのである。商業出版やマスコミには崇高な使命感は制約され疎外される。出版社にしてもテレビ局にしても常に視聴者とか商業的に成功せねばならぬとかなりそれは常に崇高な使命感をうながすところではない、「俺たちは大勢の人にみてもらい、もうけることが第一だ、だからその戦略をねり、大衆にまずくだらいものでも売り込むんだよ・・・作品など二の次だよ・・・俺たちにはそうした宣伝力もっている・・・・俺たちが宣伝すれば大衆は簡単に操作される・・・」こうして今までの商業主義のメデアは公平でありえない、そこに崇高な使命感をもった人はいない、書店とかもそうである。本の中味などわからない、ただ流れてくるものを物ののように処理するだけである。そこにはただ利益をうめばいいというだけのものしかないのである。週刊誌でもテレビでも二つのものに仕えている、一方で大勢の読者を獲得するためにゴシップ的なものやエログロなものを出す、報道とかジャ-ナリズムもこうした二つのものをに仕えることはできないのだ。崇高な使命感を追及するものとあわないからだ。一方で批判しても説得力がなくなるのだ。宗教でも聖と俗を一色たくにするからおかしくなる。聖なるものを追及すらものは俗なるものと離れねばならない、それが全く同一次元で語られ追及されているのである。

崇高な使命感とはそれに殉じるほどのものだから例え収入がなくても収入は他に求めてもそれを成そうとするほどの価値あるものなのだ。そういうところからもはや芸術だろうが報道だろうが学術だろうがいいものは生まれてこない、崇高な使命感があるところに必然的にいいものが生まれてくるのだ。それは理想であり現実は甘くないというがそういう理想に殉じる、また殉じたいというのが人間である所以なのだ。それがなければ人間は野獣になってしまう、現実に野獣欲望社会となっているのはそのためではないか、いづれにしろ今愛国心と過去のものとなりつつある。先に人類的使命感がありそのあとに愛国心があり国も救われるのである。愛国心は過去へのノスタルジアであり戦争世代が何か過去をなつかしみそれで現代の問題が解決するように錯覚しているというのも本当かもしれない。もちろん人はいいにしろ悪いにしろ過去から学ばねばならない、過去があり現在があるからだ。でも過去の愛国心今の愛国心はまた違ってくる。同じ愛国心でも時代が変わると違ってくるのだ。同じ言葉でも別な価値を産み出さねばならないのが人類の歴史なのであ
る。

「医の世に生活するは人のためのみ、己がためにあらずといふことをその業の本旨と
す。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希うべし」緒方洪庵

高き使命に生きよ 神の国をめざして・・・・・・



新発田(しばた)⇒津川⇒会津の冬の旅

青春18切符でこれで三回目である。こまぎれに利用してかなりとくした。短い距離を行くとこれは損になる。短い距離は金を払った方が得である。帰りは人身事故がありダイヤが乱れ大変だった。電車はダイヤが組まれているからそれが狂うと大変なことになる。二番線で待っていると駅員が指定したのに向かい側のホ-ムに仙台行きと表示したのが来たのでみんなあわてて移動したのだそれにつられて移動したら実際はその電車にはのれなかったのだ。集団行動はあういうことがよくある。みんなが動くとそれにつられて動いてしまうのだ。そのときあわてているし不安になるから大勢の方についていってしまうのだ。それはともかく今回の旅は仙山線から新床に行き余目をまわり新発田の方にでて新発田に泊まった。新発田には城があった。六万石くらいで相馬藩くらいだったのか、この石高もおおよそのことでありこれで国力を決めることはできないのだ。ここはアヤメ城と言われたのは湿地帯であり蒲原平野の湿地帯を開発した出先のような城だったからだ。菖蒲は湿地帯にたくさん咲いている。浮舟城というのも湿地帯に浮かんでいるような城に見えたからである。

新発田という名前自体いかにもここから開拓したという名前でふさわしいのだ。ここで面白いのは駅の近くに足軽長屋が残っていたことである。茅葺きの一棟の家に暮らしていた。かなり狭い所である。そしてこれは城のあるところからかなり離れているのだ。下級武士とか足軽は城が中心とするとかなり離れた所に居住していた場合が多いのだ。その暮らしもつつましいことがあの長屋を見たら実感した。江戸時代は厳然とした身分差があったのだ。途中に豊浦に蒲原平野の湿地帯を開拓した豪農の市島邸屋敷跡というのがあったがよれなかった。これも見物である。あのような豪農がいたというのも驚きである。あれは下級武士とか足軽などよりずっと上であり豪農ともなると凄いものだと思った。そこは一つの大きな会社と同じである。


そしてこれら外部に接する所の入口には土堤を築き木戸を置く。又岩村川を挿んで町人街と武士街の両方に木戸な置く。その他要所々々に木戸を置き、町人街には商人の自身番を代官支配の下に番をさせ、人の出入を監視させ、武士街の方は勿論武士で番をさせる。そして出入を厳重にした。又町尻の要所に足軽長屋を置き外部に対する警備とした。
 又寺院の配置にも意を用い、町人街の下町尻土堤外れには祥雲寺、上町外れ木戸傍に清楽寺、武士街の西外れに妙法寺、その他新屋敷外れに白山社、上町外れの弁天社、町人街の南に浄光寺や若宮社等も監視所としてよい位置である。乗政寺も北部の要地にある。町人街を一条としたのも、岩村城一の門から丁度一直線上に監視が出来、蟻の子も見逃さぬようになつている。こうした軍事的防備的意義も巧みに用いられている


岩村城下町http://choushi.iwamura.org/chapter016.htm

城下町は防衛を主眼にして作られた。木戸という地名も各地にあるしやたら通行がとめられるていた。城のはずれに足軽長屋が置かれたのも防衛上からだった。そのつづきに寺町がありこれも防衛上としてまとめて寺が配置された。町人中心の町作りではなく城中心の侍中心の町作りだった。

次に津川によった。津川というと非常にここは景色が変わっているし日本ではめずらしい川の景色がある。麒麟山というのは麒麟ににているから名付けられた。しかしこれも不思議なのは誰が名付けたのか、中国の桂林ににているから名づけたという、麒麟という山の名自体非常にめずらしい、そもそもこの山の中で麒麟というのがどういう動物なのか知っていただろうか?そう考えるとこれは外部のものが名付けたのか?というのはここは堺から砂糖がまた赤穂の塩などが北前船などで新潟まで運ばれ津川まできた。そこから人もここに来たのか、そして知識の豊富な外国にも通じている人が名付けたのだろうか、ここにふさわしい名前でもあった。新潟は船の出入りで栄えた。文人の頻繁な出入りもあった。

当時食塩4万俵につきおよそ240両の仲金が徴収されたと云われている。このほか商習慣による問屋口銭が取られたので会津藩ではこの仲金と口銭を免れるために、種々の手段を講ずるに至った。

一万両とか新潟の港を利用するのに払っていたとすると塩の商いがいかに盛んだったかわかる。これは会津藩では相当な出費となった。つまり港を持つということはこれだけ経済的に有利なことになるのだ。港をもたない山国の藩は逆に相当な損になる。

現在の貴州省晴隆県) で作られた砂糖が章川から砂糖船で密かに、堺港に運ばれた。この砂糖は、三盆白 (三品自)、上白、太白 であったといわれている。、堺へ上がった砂糖は、京都、奈良の禁裏や寺院に献上品として納められた 。禁裏や寺院に献上されたものの一部が菓子司に流れ、月並 (朝生,浅生) や茶の子などの和菓子を発展させた。また、1589年に伏見から堺へ進出した駿河屋 (鶴屋善左衛門) によって、蒸し羊羹、煉羊羹が改良された。この駿河屋は、“みだれ髪“ や “君死にたまふことなかれ”と日露戦争当時歌った与謝野晶子の生家でもある。なお、羊羹のあずき色は、羊の肝臓 (羊肝) の色に似せたといわれている

ここに不思議な因縁が語られていたからだ。羊というのは明治でもめずらしいから何か新しいものとしてとり入れたのかもしれない、砂糖はそもそも最初は薬として利用されたほど貴重だったのだ。津川には砂糖屋という屋号もあった、定宿として商家が軒を並べていた。その昔の屋号を記した手拭いを買ったがなくしてしまった。173軒も商家があり商売を許されていた。番所もありここに塩蔵があり塩の商いが冨を生んだ。雁木というのもあるのも日本海側から入ってきた文化なのか、会津ではないみたいだからだ。阿賀野川の船運は奥に入ると流れが急になり船が利用できず荷をおろして馬に積みかえ運びまた船にのせて運んだから会津からはあまり米などは運ぶ量はすくなく塩とかを運んだ川の道だった。越後から会津の出稼ぎ者の四〇人が遭難死したのもこの川だった。交通には常にこうい困難と悲劇がある。便利になっても交通事故や飛行機の事故などかならずあるのだ。その川の道を通じて栄いたのが塩川だった。塩とつくから塩の道の港でもあったのだ。また地塩もとれていた。塩が山にも存在したのだ。ここは米沢街道とも通じて喜多方より前に栄いていたのだ。川があり交通の要所になり栄えることがよくあることなのだ。

不思議なのは大内宿だった。大内宿から阿賀野川に通じる街道が山の中にあった。方角的に違っていたのでここに通じる道とは思っていなかった。なかなか地理は近くてもわかりにくいものなのだ。電車とかの旅だとレ-ルが道になるのでわかりにくくなるのだ。歩いた道はわからなくなるのだ。大内村が宿場町としてそっくりの残されたのは山国の会津の奥深さを物語っている。山深く街道がありそれが遮断されて山の中に取り残されたよなってしまったのだ。歴史とか旅をするときある村とかを孤立したものと見るのではなく道としてつながってみるというのが歴史を生きたものとして見ることになる。道は動脈であり道を通じて村々はつながるからだ。いづれにしろ会津も相当な山国の広さがあり新潟も広さを感じた。会津と新潟は密接な関係がありむしろ浜通りより新潟の方が会津は身近なのである。確かに浜通りからも東部塩として入ったがやはり遠過ぎた。会津と新潟は阿賀野川と結ばれ日本海と通じて堺や大阪や京都ととも結ばれていたのだ。太平洋は阿武隈川から船で米が運ばれていたが日本海のように北前船は通らないので頻繁な交流はなかったのである。

阿賀野川の昔をたどる

津川に軒を並べし商家かな
中に砂糖屋あり砂糖は貴重なれ
堺より日本海通じ運ばれぬ
赤穂の塩ももはるばるとここにつく
中国の桂林ににしと誰が名づく
麒麟山の名の良きや
大船場による船あまた栄いけり

阿賀野川会津の奥に入りて
流れは急にせばまる狭間
船は留められ馬に運びぬ
川に陸に人夫の苦労やまじ
越後より出稼ぎの四〇人
遭難せしはあわれかな
塩川も昔の栄えし河港
米沢街道にも通じけり

30万石会津の国も豊かなれ
会津漆器の技磨かれて
舟の荷に遠く大坂、京へ
砂糖も山国深く運ばれぬ
川を通じて会津の文化も
川沿いに伝えられけり

津川に定宿の商家軒並べ
新潟めざし舟は行かむや
新潟に七二橋と往来しげき
かなた堺や大坂や京や
文人墨客もここに集い
海と川を通じて結ばれぬ

蒲原の平野を拓き新発田かな
その境、津川は昔の古戦場
雪踏みいりて残されし
石垣残る山中の城の跡なり
武士のせめぎあいの証かな
ここは福島になり新潟になりぬ
その歴史今につづきの境なり

山深く昔の街道こそあれや
いつしか忘れられ草おおい
茅葺きの大内宿のあわれかな
山中に取り残されて歴史を留む
会津の歴史織りなす山の道
その道たどり偲ぶ昔や
石仏一つの路傍に昔を語りぬ
旅人よ、ここに声をひそめて
昔の人の声を耳を澄まして聞け
人の歩みし道そなつかしかも





文を書く術はあるのか?(インタ-ネット時代は一億総ライタ-時代)(三瀬駅の記録)

インタ-ネットはホ-ムペ-ジは基本的には文章である。今までは文章は確かに多少は書いていたが人によませるようなものを書いていた人はほんの一部である。また一部しか許されない世界であった。だから文を書くということがわからないのが大方である。私にしたってまず確かに詩とかは書いていたけどまとまったものは書いていない、古代史を書いたがこれも編集がうまくいかず失敗だった。つまり素人で文章を書くということは大変なことである。ましてや本を一冊書くことは容易ではないしほとんど不可能であった。出版社と編集してはじめて本になりうるものだった。だから一般の人にとって今までは常にニュ-スでも知識でも一方的に与えられるものであり自ら何かを書くということはなかったのだ。そうした場を与えられていたのは一部のプロでありそれも商業的に成り立つ人々の世界であった。文章にして残すということは特権階級、権力者のものだったのだ。だから結局一般の人は何か書いて残すということはまれだった。だから常民の歴史が口碑の中にあり書いたものにないと柳田国男がって常民の言い伝えを聞いてまわり民俗学を創始したのはそのためである。書いたものとしてではなく言い伝えられたものが民衆の歴史の記録だったのだ。

歴史は要するに一番簡単なことは記録したということである。大事件であれ何であれ記録したことを言い伝えたのだ。だから文章を書くというとき記録が大事なのだ。記録することが文章を書く一歩なのだ。記録するということはむずかしいことではない、でも結構マメな人でないと記録することもしない、またあることに興味がなければ記録もしない、旅に出ても食い物に興味あるものは食い物のことだけを話し他のことは記録しないのだ。記録すること自体すでに取捨選択があるのだ。誰もなんでも記録するということはないのだ。その人により同じ場所に行っても記録することは違う、ええ、この人こんなところを見ていたのかと写真を見たりして感心する。同じ場所でも必ず違ったものを見ていることがよくあるのだ。

多くの人が旅のことを書いても何か欠落している。それは最初から何かに興味を持っていないからである。人間は興味がなかったら記録もしない、また今の時代意外と記録することは結構手間暇かかることだからしていない、ただデジカメがでてきて記録はしやすくなった。旅に出るといろいろなものが一度に入ってくるからある印象に残るものしか記録していないし記憶にも残らない、電車の旅だとやたら駅名が気になる、記憶に残る。これが車だとそうした駅名とか地名はあまり関心がなくなる。旅に出た場合、何かつまらないちょっとしたことでも新鮮であり記録しておく価値がある。何故ならあとで忘れてしまって思い出せなくなっているからだ。これが外国の場合は字が読めない場合が多いのだから何の記憶もなくなっている人が多いのではないか、自分は一体どこの場所に行ったのさえわからなくなることがある。外国旅行でアメリカで汽車に乗っても途中の駅名はほとんど覚えていない、プリンス(prince)とかフラッグスタッフ(flagstaff)とかは覚えていた。外国になると忘れやすいからそうなる。旅は結構忙しいから何かを丹念に記録すること自体されていないのだ。その一つの原因があまりにも滞在する時間が短すぎるから記録も記憶にも残らなくなる。長い時間いればそれだけ記録もできるし記憶に残る率が高くなるのだ。

例として今回旅しておりた鶴岡市の三瀬という無人駅である。ここは何もないところだったがまず「
三瀬」という地名を記憶した。これは一番先に記憶に残
る。

 
三瀬地区は、藤倉から流れる水無川・中山から流れる隆矢川・西川の三つの川(瀬)が一つとなる地域ということで名付けられたと言われています

次に「
気比神社」というのがあった。これは前に敦賀に行って知っていたからここにも移動したことを直感した。神社も人の移動とともに移動する。

次に記録したのが「
琴岩古跡」という札であった。インタ-ネットで調べると

当館の名称「琴平荘」は現在の香川県、琴平山(象頭山)の中腹に鎮まる
讃岐・金刀比羅宮(さぬき・ことひらぐう) に由来します。

http://www8.plala.or.jp/konpira/kesiki.htm

これもはるばる瀬戸内海から移動した神である。それからここがかつて栄えた宿場町だった。

ただ宿場町として栄えた一方、大名などが通るたびに人足や馬などの調達に苦労しました。 また年貢の取り立てにも非常に苦労し、大庄屋と呼ばれる村の指導者は藩と村民との板ばさみで自殺する者もいました。

 元文3年(1738)から大庄屋となった相馬又兵衛は藩の文書には公金を使い込み斬罪されたと書かれてありますが、村人の間では村の困窮をみかねて税を取り立てなかったために罪を問われ、切腹して果てたと言われています。


http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/koho/2004/0801/hito/

こういうことは時代劇でよくあるから事実として各地にあった。それから駅の案内板に笠取峠の由来が書いてあった。ここを義経や芭蕉が通った。日本海からの風で笠がとられる、飛ばされるから名がついた。自転車でもしょっちゅう帽子が飛ばされる、笠もとばされやすいのだ。このたまたまおりた三瀬にしてもすでにこれだけのものが「記録」からほりだされる。インタ-ネットでキ−ワ−ドでつないでゆくとでてきた。ここから想像力ある人はいろいろなことを書けるのだ。例えば旅人が笠取峠をこえてきてこの宿場町にくる。

「いや-、あの山の上は風が強くてさ、笠をとばされてしまったよ」
「ああ、風が強いであそこではみんな笠がとばされやす」
「あの山の上でよ、笠とばされたよ、ここは風が強い」
「ああ、ここは風が強いからみんな笠がとばされやす」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あそこは笠取峠ということだな」
「笠取峠だよ」


こんなふうにして名づけられたのかもしれない、三瀬に関して記録からこんなうふうに書けることができる。書くということはまず記録からはじまるのだ。そしてともかくなんでもいいから書いてみると書けるようになるのだ。書くというときあまりかまえて長い文章をうまい文章を書こうとしない方が良い、その点インタ-ネットは別に失敗したっていいからいくらでも書けるからいいのだ。その日のあったことを記録することから書くのもいいのだ。それを積み重ねると書く力がついてくるのだ。書くということも一つの訓練なことがわかる。作家だけが書くものではなくなった時代なのだ。作家の文章は洗練されているが一般の人はそんなに洗練される必要がない、つまり気楽に記録したものから書いてみることである。そこにその人独自の文章が物語が語られるようになる。その一歩が記録することでありとにかく一日の日記でも旅立ったらそのよった場所ごとに何があるか記録してみることが大事である。旅立ったらある場所ごとに書いてみると記録すると書きやすいこれがすでに一日の行程を全部書くとかなるとむずかしくなる。二三日分を書くとなるとさらにむずかしくなる。今回短歌俳句で場所ごとに区切って書いてような書き方が書きやすいことだったのだ。ともかく書くことが一般化したから書くコツを知る必要がでてきたのだ。書くということが庶民のものになったことを自覚する時代になったのだ。






江戸時代の見直し(NHKのクロ-ズアップ現代-地震で小千谷市の蔵の破壊の問題)

昨日のNHKのクロ-ズアップ現代は興味深いものがあった。今回の新潟地震で蔵が壊され蔵に保存されていたし江戸時代などの資料類や道具や絵画書画類など貴重なものが整理され売られるということでその保存が問題になった。特に小千谷市は被害が大きかった。ここは小千谷市縮みの織物で知られていて江戸時代に栄えて古い骨董類が残されていた。蒲原平野は新しく開拓された所である。今回よった新発田もそうであった。浮舟城とう菖蒲(あやめ)城というのそこが湿地帯だったからだ。湿地帯に浮かぶ城からイメ-ジされ名付けられたのだ。

慶長三(1598)年加州(加賀國)より 当城(新発田)へ お入りになられる時、お供し、同五(1600)年三月越後國が不穏な状態であるあいだ、領内の中之島郷は新発田城より然程遠く要害の地であり、大新田の坂井へ隠密りにまかり出て前線を守るというもくろみがあって、同年六月正八郎は手の者を召し連れ同所を押さえるために出張しましたこと(三代  浅野次五右衛門の由緒)

加賀から新発田に移動した武士がいた。蒲原郡は大きな未開の開拓地としてあったのだ。会津は万葉の歌にも残っているし大古墳から三角神獣鏡などが発見されているから古代から知られた古い土地である。新潟県は新しい地域、開拓されるべき地域だった。新潟の起こりが新しい潟なのはまさにあそこが広い潟になっていた。だから古津とか新津とかやたら津のつく名が多い。今とは全然違った景観だった。その潟が埋め立てられたのだ。日本にはこの潟がいたるところにあったのだ。そこは港になるに良い土地だったのである。

それから宮城県の古い蔵が公開になった。そこに古い刀が何本もあった。それでなるほどと思った。有力な農家や商家にも「苗字帯刀」が許された。その刀が現実に見たので歴史を実感したのだ。幕府の巡検使もここによっている。江戸時代の百姓には姓がなかったというのは真実ではないらしい、姓はもっていたがただ公に名乗らないだけだった。だから明治になってみんな姓を名乗るようになったがこれでたらめでなく今までもっていた姓を公にしたにすぎないという、となるとその姓はでたらめにつけたのではない、それなりの由緒と歴史的継続があることになる。

苗字帯刀というと江戸時代の武士階級の特権、というふうに教科書では教えている。ここから庶民は苗字が無かったんだ、刀を持てなかったんだと思われがちだが、本当は少し違っている。この場合の「苗字」というのは、公の場や公文書で名乗る権利のこと。武士以外の身分の者でも先祖代々の苗字を持っているものは多く、私文書など他の場面では苗字を使っていた。また有力な村役人(名主・庄屋など)や大商人には武士と同等の苗字を名乗る権利が与えられていた。そして「帯刀」。武士以外が刀そのものを持てなかったのではなく、規制があったのは長さに関すること。脇差や長脇差(は規制されたこともある)は許されており、買うお金さえあれば多くの人が持っていた。旅に出る時は護身用の必携品でもあった。越後のちりめん問屋一行が持っていてもおかしくはなかったのである。

江戸時代については明治で時代が断絶しているので非常に偏見が多いのだ。江戸時代が何か否定的にとらえられる、暗黒時代としてとらえられる。それも一面そうなのだがそれだけではない、経済的にはむしろ活気があったという側面もあるのだ。というのは地方の産業があったことである。小千谷縮みとかだけでなくその地方の織物がいたるところで生産されていた。それから鉱山の開発が各地で行われていた。特に東北には多かった。佐渡の金山はその一つの象徴であった。今東北とか地方で独自に生産したブランド品を出すのに苦しんでいるが当時はブランド品も資源も地方にあったのである。だから山でさえ活気ある場所になっていたのだ。それが誤解しているのだ。そしてなぜかやたら遊女が多いのは遠くから来た商人とか船乗りとか山師(鉱山関係の仕事)とかそういう人達が村の外部から入ってくる移動する人々が一面多かったためである。芭蕉があった遊女でも日本海には船で行き交う船乗りや商人が多いから遊女が必要になったしまた街道筋でも旅人が行き交うから遊女が多くなる、一面遊女はそうした交通が頻繁で外部の人が入ってくるからそれを相手にする遊女がふえるとなる。遊女というのも暗黒面なのだが反面はそれだけ人や物の流通が頻繁になっていた証拠である。だから遊女の文化までできるようになったのだ。

矢作(岡崎市の遊女)

こよひまた誰と枕を川島のゆうなみちとり羽ぬれて鳴く

ゆうなみちとり・・・というのが何か遊女の哀感なのか、夕べになると客がくるからであ。港や街道の人の行き来の繁華なところには必ず遊女が一つの景色となっていた。これはただ今の売春婦とかとは違う、江戸時代はやはり同じ売春婦でも違うのだ。何か情緒ある売春婦になっている。だから俳句や短歌によまれたし絵にもなったのである。これは甘い見方ともなるかもしれんが今の金だけで肉体を物ののように買うのとは違う何かがあったことは確かである。外国の貧しい地域が買春地帯になっているのも外部の人の出入りが多いところにふえてくるのだ。でも今中高年などのアジア少女買春などは何かそうした人間的なものがない、金の差で経済的格差を利用して人間を物ののように扱う非情な世界になっている。だからそこには人間的情緒が情の世界が抹殺されているのだ。

いづれにしろ江戸時代を知ることは実は世界を知ることにきづいた。江戸時代は世界を縮小したミクロ化した見本だった。一つの世界の小宇宙となっていた。だから江戸時代をわかると今の世界と通じたところがあり世界もわかるという不思議である。江戸時代と今の世界を重ねると共通な面がかなりあるのだ。江戸時代の中に人間の普遍的なものがあったのだ。だから江戸時代を見直し江戸時代を知る必要がでてきたのである。

一方、ヨーロッパ諸国は植民地での初等教育を軽視し、一部富裕層のエリートだけに
高等教育を受けさせ、統治の要員として使った。インドのガンジーも、英国の大学に留学したエリートだった。オランダもインドネシアを約三百年にわたって統治したが、インドネシア人の教育には無関心だった。そうした初等教育に遅れた国が、独立後の経済発展に遅れている。アフリカ諸国が独立後の発展が遅れた最大の原因も同様だ。


日本はすでに寺子屋で私塾で教育が庶民の間で盛んであり識字率が高かった。日本はその土台に庶民への教育に力を入れたから西欧化が早くできたのである。なぜ山の中まで大学という地名が多いのか?これはやはり大学というのを教えた人学んだ人がいたためとしか考えられないのだ。江戸時代にすでにその基礎ができていたから西欧化を一早くアジアで成すことができたのだ。江戸時代という暗黒面があったとしても歴史の蓄積があり明治維新があったのである。

インタ-ネットはどうしてもなぜか引用が多くなるし長くなる。それは結局個々に編集作業するからである。編集になるとどうしても引用が多くなるのだ。だからあまりにも引用を短くしろなどと注文されるとインタ-ネットはいかされない、誰かの文章とつなぎあわせたりすることが多くなるのだ。でもつなぐことによって結ぶことによって知識は相乗効果をうみ活かされているのだ。だから知識は情報は出版社とかマスコミとかに独占されると生きてこないからみんなも損することになるのだ。引用の問題は単に事実言ったものはその人の創作ではないから著作権があるとは限らないことである。ともかくあまりに著作権を主張されるインタ-ネットでは書くのがむずかしくなる。とにかくインタ-ネットは引用が多くなるからだ。それが単なるコピ-となってしまうのも問題なのである。それでもインタ-ネットは知識の共有がしやすいメデアであるからこの著作権をあまりに主張されると活かされないのである。例えはなんかわからないけど上の文は誰が書いたものかわからない、よくわからないペ-ジだけのところにでていたのである。ペ-ジとつながり誰が書いたかわかりにくいのがあるのだ。あとから探してurlにつなげたりめんどうになるのだ。まだ著作権に関して文句きていないからおそらくわからないのだろう。私のもどこかに引用されてもわからない、それもインタ-ネットの問題である。