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小林勇一
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薪(たきぎ)がになった経済学(2) 1月29日
(薪(たきぎ)のとりすぎの自然破壊)
学問は「なぜ」からはじまる「なぜ卵も食えなかったか?」1月30日
再び津川町について語る2月1日
インタ-ネットで変わる著作権の問題2月2日 (インタ-ネット情報学へ)
太平洋市で名前が決まる-市町村合併名前の疑問 (2月3日(市町村合併問題へ)
京都今昔あれこれ2月7日
失われた日本の橋の情緒(人が見えない現代) 2月8日
石鰈から考える文明の問題(資源は枯渇する )2月15日
北畠氏と熊沢天皇騒動(阿武隈の古い歴史の因縁 ) 2月19日
会津の怨念の疑問 2月22日
私のホ-ムペ-ジに来たキ−ワ−ドから世相を見る2月23日
薪(たきぎ)がになった経済学(2 )(インタ-ネット論文)
(1)部はあとまわしになります
●薪(たきぎ)のとりすぎの自然破壊
16世紀初頭のフランスの森林面積は国土の35%ありましたが,16世紀末に460ヵ所もの製鉄所ができたため,17世紀央には25%に減少し,木材価格は上昇し続け,17世紀後半にルイ14世は森林の伐採制限の勅令を出しました。しかし冶金業は成長したため乱伐は続き,フランス革命の起こった18世紀末の森林面積はさらに減りました。
18世紀初のロシア地方には海水を煮詰める製塩工場が1200ヵ所もあったため,周辺の林は伐り尽くされ,300kmも離れた森を伐採する事態になったとされます。
イギリスはエネルギー危機になった。ヨーロッパ大陸よりも森の少なかったイギリスの製鉄業は,薪や炭を求めて移動し,16世紀には全国的にエネルギー不足となり,政府は森林伐採を禁止し,植林計画を始めましたが成果は出ませんでした。森林枯渇はヨーロッパ大陸にも起こり,19世紀後半にはアメリカでも生じました。17世紀末の日本,徳川綱吉の元禄時代の光熱エネルギーは薪炭が主力で,森林が減り続けたことを反省して伐採制限を行ない,伐採後30年は手つかずにして再生林として保護しました。
薪炭エネルギーの不足から森林の少なかったイギリスでは,木材価格が上昇し始めたため,他国よりも真剣に他のエネルギーを探さざるを得なくなりました。
http://oilresearch.jogmec.go.jp/papers/2003/200311/0311tanaka.pdf
丹波地方の場合、まず森が伐採されてハゲ山になり、その後災害防止のためにマツだけは残すようになってマツ林が形成されたんだ。
しかもほかの雑木は薪(たきぎ)として、土を肥沃にする落ち葉は肥料として収奪されたりして、乾燥して栄養分の少ない土壌が維持されたんだ。
このような劣悪で、マツやマツタケにとっては競争相手の少ない都合のいい環境が思いもかけず形成して維持された結果、明治時代以降マツタケが増え始めて、一大産地になってしまったんだ。
つまり、人間による大規模で恒常的な自然破壊がマツタケを増やしてきたんだね。現在では、生活様式の変化から雑木などの収奪は必要なくなってきて、山は本来の自然な姿、つまりマツもマツタケもなくなる方向へ動いているんだ。
http://www.phoenix-c.or.jp/~daichi-m/yamaneko/vol.80.txt
エチオピアとケニアの難民キャンプおよび、その周辺地域での自然環境問題、多数の難民がこの地域に到着して以来、自然破壊が深刻な状況になっている。現在キャンプがある地域は、かつてサバンナでありながらも木々に囲まれていたという。ところが、難民の流入による急激な人口増加で、調理用の燃料の薪(たきぎ)、住まいをつくる素材としての木の需要が著しく高まり、樹木の伐採が急速に進んだ。現在、キャンプとその周辺地域はまさに砂漠のような状態で、そこに樹木が存在したとは想像もできない。旱魃(かんばつ)も深刻化している。雨は周期的に降るものの、地元住民によると、雨水を留める役割をもっていた樹木がなくなったため、雨水は鉄砲水と化し、住居や農作物を押し流すなど大きな被害を生じているという。
●ネパ-ルの問題
ネパ−ルでは女性の地位が低く、女性に対して幼い頃から重労働が課せられています。
母親とその娘は険しい山へ燃料となる薪(たきぎ)拾いや、水くみなどの重労働をしいられます。ダウリ−制度のために女の子だけが働き、男の子は学校へ行くことが許されています。女子は嫁ぐときに持参金が必要になり、その家庭ではその制度(ダウリ−)がかなりの負担となるので、重い病気になっても病院に連れていかないこともあるよです。
産まれた子供のうち10人に2人以上が40歳を超えられず、大人の2人に1人以上が読み書きができず、10人に2人は水がなく、5歳児以下の半分は栄養失調で、国民の半分が自国政府の基準でも貧困ライン以下の極貧層だということである。このうち、水に関しては、本報告の報告者の実感では、歩いて生活に必要な水を汲みに行かねばならないというものまで含めれば、実際の数字は80%くらいにまで跳ね上がるのではないかと思われる
ネパ-ルには一回行ったので関心をもった。カルカッタから行ったのだがカルカッタではネパ-ルの出稼ぎ者がいた。インドにかなりの数の出稼ぎ者がいる。ネパ-ルのポカラでも父親が出稼ぎでいないという少年にあった。出稼ぎが仕事の人が多い。そこで親が死んで住む家がなく居候している若者がトレッキングで案内すると言っていた。インドの金は大きいというのでインドの金をくれてやった。卵すらまともに生産できずインドから買っているらしい。あそこでは観光客が多いのでかなり裕福になった人達がいる。途中立派な家を見たからだ。その他現金収入は少ない、何しろ山だけの世界だから驚いた。あんな山では交通も遮断され経済が発展するとは思えなかった。上り下りするだけで大変である。裸足で歩いていた人がいたのにも驚いた。原始生活があるという驚きである。ただ日本も戦前は普通の家庭では卵も食っていない、病気のときくらいしか食っていない、卵は高価でありまだ今のように商品化されていない、農家は自給自足であり売るために 作っていない、卵が一般的になったのは遅いのである。
子供は正直だから、強いものと美味しいものにあこがれる。
だから、私が育った世代は「巨人・大鵬・玉子焼き」だった。
付け加えればプロレスの力道山もヒーローだった。
なぜここに玉子焼きがでてくるのか、これも玉子焼きが子供の好物であり玉子焼き食えるようになった喜びが現れている。それまで卵自体高価で卵は市場にでまっていなかった。私の家では店屋だったから子供のころ自転車で卵買いに農家に行かされた。その卵が道が悪く必ずがたがたするので壊れるのである。ヌカを入れておくのだが壊れるのだ。なんかしらないけど子供のとき一番働いていたというのも奇妙である。これは後進国の子供とにていた。その頃の橋は木の橋でぐらぐらしたり道さえ満足でなかったのだ。でもこうした経験は貴重だった。
ネパ-ルの燃料は薪である。この薪をとりすぎて森の破壊がおきている。石油にすればいいと思うが高くて買いないのだ。石油は後進国では高いものなのだ。観光客がくると余計に薪を使うから森の破壊に通じる。ネパ-ルにはジャングルがあり犀までいたが相当に森は破壊されているのかもしれない、ネパ-ルはこうした最貧国だから山岳ゲリラなどが出没して政情不安になるのもわかる。その理由は貧しさである。この貧しさの解消は容易でない、インドや中国よりも容易でない、そもそもあのような山岳地帯でどうして豊かになれるのか観光くらいしか現金収入にはならない、子供時代から水くみとか薪(たきぎ)とりが仕事である。日本でも戦前まではそれとにていた生活をしていた面はあった。ただたいがい尋常小学校まではでていた。学校に行けない子はいなかった。教育は充実していた。ただ中卒くらいですぐに糸とりとか働いていた。親のために働いていた、働かせられていた。古代から親孝行が奨励されたのは親のめんどうを見るのは子供だったからである。子供が労働力として必要だったのである。
ただそうした中でヒマラヤの崇高な山々をみて暮らしている心はどういうものになるのか、不思議である。私は海外旅行は年齢的にはおそすぎたから現実を直視して何かしようとするのも苦しい、そもそも海外に行くこと自体苦しかった。ただ海外援助とかは現実を直視すること真実の姿を知ることからはじまる。それにはともかく現地に観光でもいいから一度行ってみることである。それから知識を重ねることである。正確な知識も大事なのである。知識を広めることは様々なことでその国の実情もしるし文化や人間にも親しみを感じてゆく方法なのである。
これは薪(たきぎ)がになった経済学の(2)部になるが最初にできたので先にだした。(1)部はまだ書けていないので次になる。インタ-ネットその都度ともかく書いたら出すのがいい、あとからまとめて出そうとすると出せなくなったりする。ともかく毎日書いて草稿のようなものでも出してまたあとで付け足したり編集したりするのがいい、一冊の本を書き上げようとしたらついに死ぬまで書けなくなることは間違いない、だから本の敷居は高過ぎるのが問題なのだ。
学問は「なぜ」からはじまる
(なぜ卵も食えなかったのか?)
文章を書く上で大事なのは「なぜ」という疑問を発することにある。宗教団体とか組織化したところでは「なぜ」ということが禁句である。上の言う人に従うことであり「なぜ」は言ってはならないのだ。ソクラテスの対話編では「なぜ」が大事でありそこからみんなで議論して対話してゆく、それが民主主義の起こりだ。対話がないところに何故という疑問を発することができないところに民主主義はないのだ。この何故ということはあらゆる人がもっているのだ。その何故には答えがなければならない、「なぜ人は死ぬのですか?」この重い疑問にも答えがある。「死の値は罪にある」と聖書にあるときそれ以外なぜ人が死ぬのかという答えはない、つまり罪がなければ人は死ななかった。罪が入ってきたから人は死ぬようになったのだ。そういう一番むずかしいものでなくても常に人は何故ということから学問ははじまる。学問とは学ぶ(まねる)であり問は問うであり何故と問うことが学問なのだ。それは各自何故ということに常につきあたる。それがつまらないことでもそうなのだ。今回の問題でも戦前に「なぜ卵を食うことがなかったのか?」このなぜに簡単なようで答えられないのだ。
「ええ、卵食っていなかった、どうして」
「卵は贅沢だから病気のときくらいしか食っていない」
「卵なかったのか、卵はあったはずだけどな」
「農家にはあったから農家の人は食っていたよ、ただ売らなかっただけだろよ」
「そもそも日本人は卵食っていたのか?」
「江戸時代の文献にすでに卵も焼いて食っていたとあるが一般的ではない」
「ニワトリって古代からいたから卵を生んでいた、その卵を捨てるわけはないからなんらか食っていたよ」
「卵をごはんにかけて食うのは日本人だけらしいよ」
「生だとバイ菌が入ることあるから外人は生では食わないよ」
「日本人は刺し身のように生で食う習慣があったからそうなったのか」
「今になると卵すら食えない食事って考えられないんだよ」
「でもさ、子供のとき玉子焼きが好物になってはじめて玉子焼きを食うことが一般化したんだよ、だから「巨人・大鵬・玉子焼き」というのが当時もてはやされた。玉子焼きはやっとその頃みんなが食えるようになったんだから卵はそれまでは贅沢品だった」
卵は当時農家でも自家用には食っていても商品としては売りだししていなかった。農家自体自給自足的農業であり今日のように商品生産はしていない、それでも放し飼いでニワトリはどこにでもいたし卵は必ず生んでいた。店がはじまった頃、卵を集めることが容易でなかった。卵を買いに行ったのはまず町の方の店屋である。農家から卵を売り出したということはなく店屋で売るものを求めて農家に卵を買い集めるようになったのだ。それで子供の頃私も自転車で卵を買いに行かせられたのだ。卵は箱につめ糠をいれる、それでも必ず何個か壊れていた。道が悪いのと自転車もいい自転車ではなかった。そして橋も土橋でありヤハな橋だったのだ。だからぐらぐらゆれていたのである。卵は今のようにパックではない、バラ売りだった。一個一個売っていたのだ。バラ売りとか計り売りであり袋は新聞で母が毎日作っていた。それがインドの貧しいバラックのようにな店でもインドの新聞で袋作っていたのである。やはり最初は同じだと思った。インドとか遅れた国に行くと日本の昔が再現されるので興味深いものだった。当時は資本などない三文店屋でも商売が成り立ったのだ。駄菓子屋のようなものでも商売は成り立ったのである。高度成長期に向かう時代だから物がない時代だから物さえあれば売れ始めたのだ。卵もなかったが卵を農家から集めれば売れるようになった。買う余裕がでてきたといえる。
それからニワトリの役目はニワトリの糞が肥料になっていた、馬の糞もそうでありそのために動物を飼っていたこともあった。
米糠や麦の麹や大根の葉を食べるニワトリは糞によって田畑の土をこやす
米の余り物としての糠でも捨てられる大根の葉でもそれが今度はニワトリが食べて糞も肥料になり役に立つ、人間の糞も貴重な肥料になっていた。それが自然のサイクルの中で生きていたものの自然に身についた智恵である。ニワトリは今のように工場の檻の中にはいない、まさに庭の鳥であり庭を歩き回っていたのがニワトリなのである。それが自然な姿である。卵の生産が工業化されたとき人間も同じように工場という檻のなかでロボットのように働かされるようになった。それがナチスのガス室送りともなった。動物のこうした扱いまた必ず人間にもなされることなのだ。それが文明化でありニワトリにしたことは人間にも成されるのだ。
ネパ-ルで卵も食えないかとと驚いたが日本も卵も食えない貧しい国だったのである。ただ卵がないからすぐにインドから輸入するというのもやはり現代だからである。あんな山の中でも外国から物は入ってくる。金さえあれば買えるということがある。ネパ-ルで出稼ぎが多いこと書いたが日本だってその当時働く場所を求めていた。それが満州だとかブラジルだとか海外に移住が奨励されていたことでもわかる。日本では卵すら食えなかったから外国で農業を始めようと移住したのである。出稼ぎ者を多くだす国や地域は貧しいのだ。フィリピンもそうだし日本でも青森がそうである。
では、農村から絶えず産み出される、さしあたり不要だが、万一に備えて必要な余剰人員は、どのようなゴミ箱に捨てられたのか。答えは都市である。江戸時代の人口増加抑制が、主として堕胎や子返しによって行われていたと考えている人には、当時の農村を、ほとんど労働者の出入りがない閉鎖的なコミュニティと想定している人が多いが、これは偏見だ。現在の住民基本台帳に相当する宗門人別改帳を調べてみると、半数以上の子供が出稼ぎ奉公に出ており、しかも奉公先の大半は、江戸や大坂をはじめとする都市であることに気が付く。
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0120.htm
私の父は阿武隈の山の方で生まれて育った。そして酒屋に丁稚奉公に出された。字は書くことができた。筆で書いていた。字はどこで覚えたのか、学校には行っていたのか、行かなくても誰かに教えられて覚えたのだろう。字を読み書きできず人に頼んでいた女性もいた。明治生まれの人でもそういう人はいた。次男三男は丁稚奉公とかともかく家から出る他なかったのだ。出稼ぎに出るほかなかったのだ。江戸時代もそうであり戦前もそういう人が多かったのだ。いづれにしろミソをちびりちびり食って酒を飲んでいた。その酒もバラ売りの酒を近くの酒屋かさ樽からだした酒を買っていたのだ。そして病気になり言った言葉が「刺し身食えるようになったが、病気で食いたくない・・・」という言葉だった。刺し身などめったに食えなかったのだ。それが食えるようになったとき病気になり食えなくなったという言葉に重みがある。それほど刺し身とか卵すら食えないで死んでいった人が多いのである。食い物の恨みは大きいというがやはり食えない時代が戦前から戦後10年くらいまでつづいていたのだ。今のような飽食の時代とはかけ離れた世界だったのだ。「食いたい、食いたい」という何か餓鬼の世界が日本でも戦前までつづいていたのである。戦前と江戸時代の生活はにていたのである。樽とか桶屋と籠屋とか石屋とかいたしそれが町の風景だった。こうした生活はインドとか遅れた国では今でも見られるものなのだ。
ともかく満州などがすすめられたのだがそれが戦争のきっかけを作ったのである。卵がなんだ、それが世界の状勢に歴史に関係あるのかととなるが実際卵から歴史がわかるということもあるのだ。「卵が食えなかった」ということが今になると驚きなのだ。それが江戸時代のことを考えるといたるところにそうした疑問がうまれてくる。豊かな時代の今と江戸時代があまりにかけはなれているから想像すらできなくなっているのだ。
再び津川について語る
●津川で川を想う
津川に途中下車で二時間ばかりよった。長いと思ったがすぐにすぎた。川沿いの公園の雪に埋もれた所を歩いた。雪は固く深くのめった。ここは江戸時代に船運で栄えたのだがそれが途絶えてから久しい、遠い世界の話になった。でもここは何か情緒があり景色が変化に富んでいる。夏にここに来た。川岸に合歓の花が咲きそこにアカゲラを発見した。土手には何かの花が咲いていた。川沿いに家が並び建っているが江戸時代もあういう景色だったのだろう。ヨ-ロッパでは河岸の景色は古くからあった。河が生活の場であった。川の役目は水を供給することと、交通とそれから川は国境になることが多かった。水争いで白根町では川をはさんで村が争いそれが凧上げ合戦になった。水がなければ生活できないから最初の文明は大きな川岸に発生した。川の水を利用して灌漑して大規模な農業が行われた。大陸の川は長大であり川が文明を作ったということが実感する。しかし日本の川にはそうしたものを感じにくい、ただこの阿賀野川は運河のように見えるし船の運航には良かった。ただこの津川から新潟に行く方面は水量も豊富で船の行くのに向いていた。会津の方は急流もあり馬で運んだり船で運んだりとめんどうだった。川はどうしても途中急流や浅瀬にぶつかるから船を曳くということが必要になった。これは中国の黄河辺りでもそういう場所があり船を曳いていたのだ。川沿いの村で船を曳くことが仕事になっていた所もある。船引(ふなひき)の地名があるがこれが何かわからないが船を曳く仕事は大きな仕事だったのだ。エザベラバ-ドも舟でここを上って津川から新潟の方に行った。そこで肥料、人糞の船のことを書いているがやはり過去の現実とはそこには必ず嫌なものもありそれがこの人糞の匂いだったのである。それほど人糞が肥料として船で運ばれていた証拠でもあったのだ。
●津川のトンネル
津川で印象に残ったのはあとでわかったのだがトンネルだった。鹿瀬に通じる歩道もない狭いトンネルだった。このトンネルはかなり古い、ここで二人が死んだ、両側から掘り進めて行くとき連絡できず事故が起きた。そのとき無線がなく連絡できなかった。無線のない時代だから古いのだ。原町のコンクリ-トの無線塔も当時は最新式のもので関東大震災を一早く伝えたとあり無線はその当時驚くべき技術だったのだ。最近土星のサタンの惑星の一つから無線で画像を送ってきたのには驚いた。気の遠くなるような所から無線で送られてきたのだ。無線の力は今でも驚異の技術である。携帯も無線だから無線の時代が現代である。なぜこのトンネルが大事かというとやはり日本は山にさえぎられることが多いのだ。だから交通が不便になる。日本ではだからトンネルが多い、道でも汽車でも常にトンネルを掘らねばならなくなる。だからトンネルの技術が発達したのも日本の地形にあった。境(さかい)とは坂でさえぎられるから生まれた言葉である。峠は手向であり峠の神に手向して古代の人は越えて行った。峠を越えると別な世界になっていたのだ。峠という字自体も国字なのも日本が山が多いからそうなったのだ。
ちはやふる神の御坂に幣まつり斎(いほ)ふ命は父母のため
信濃坂にて 万葉集巻二○防人の歌
手向(たむけ)⇒とうげ になった。その証拠としてその坂から祭祀跡が発見された。勾玉とか石製の飾り物などが発見された。峠で人は祈り峠を越えて行ったのだ。この峠から自動車社会になりトンネル時代となった。トンネルはそれまで手掘りで何十年もかけて掘ったとか容易に作れるものでなかった。交通を良くするには日本ではトンネルが欠かせなかったのだ。船運⇒汽車⇒自動車という交通の移り変わりのなかで津川から鹿瀬に通じるトンネルは重要な役目をになったのである。
山古志村の手堀りのトンネル
●津川の城の伝説
麒麟山の上に津川城があり、城の石垣がけわしく、狐も通れないというので 狐戻し城といわれていました。昔、津川城の殿様が病気になり、医者がいろいろ手当をしましたが、なかなか
よくなりません。そこで、山の麓の温泉の湯を汲んで湯治をすることになり、
温泉の湯を運ぶ役を、美しい小姓の蔦丸(つたまる)に命じました。
蔦丸は毎日、山も麓から、山の上のお城まで、せっせとお湯をはこびました。
殿様は湯治のおかげで、病気がだんだんよくなりました。
ある日のことです。蔦丸はお湯を汲みに来るお鶴という娘に会いました。
お鶴 も母の病気を治すために毎日、お湯を汲んでいたのです。
二人は仲良くなり恋仲になりました。そのため蔦丸の帰りがおくれがちとなり
人々のうわさになりました。これを知った重臣たちは怒って蔦丸を頂上近くの
石牢に閉じこめてしまいました。
伝説にもいろいろあるがこの伝説はリアリティがある。民話とか伝説にはたわいもないものがかなりある。事実に根ざしてリアリティがあるものがやはりそれも民衆が伝えようとしたものであり歴史なのだ。この城がかなり急峻な麒麟山の上にあること、それがいかにも山国の伝説にあっている。山深く暮らすものが毎日温泉の湯をその急峻な城へ湯を運んでいた。今もそこには温泉がある。山深い中で城の侍に使役されたその土地の民衆の怨念の物語を語り伝えたのかもしれない、歴史としてはこの民衆が伝えた物語の方が大事である。それは語り継がれ残されるべきものである。なぜそれを感じたかというとあの固い根雪を踏んでその足跡が深く雪にのめりこみ残された。こんな山奥で温泉の湯を急峻な山の城に毎日運んでいた若者がいた。それにリアリティを感じたのだ。つまりその山の城まで湯を苦労して湯を運ぶ若者の姿がそこにはっきりと浮かんだのである。落葉を踏み雪を踏み湯を運ぶ若者の姿をリアルに感じたのだ。その土地にきてはじめてリアリティを感じることがある。民話は本来その土地と密接に結びついて生まれたのだ。狐の嫁入りというのはちょっと作り過ぎていやな面があった。それなりの伝説があるにしてもあまりに作りすぎるとかえって現実実がなくなりまるで映画村に来たようになる。その一つが妻籠と馬籠でありそこは昔を残すにしても映画のセットのようにしてしまいかえって現実味がなくなってしまったいう皮肉がある。昔を偲ぶということはそういう大がかりな見せ物ににあわない、昔は道端の地蔵とか朽ち果てるような石碑とか古い証文とか発掘された陶器の破片とか何かかえって目立たないものにありそこから本当の過去が浮かんでくる。津川は日本三大河港として魅力ある所であった。地形がかなり複雑だからそれも魅力の一つであった。
津川なる根雪の固き町古りぬ
津川について (一)
京都今昔あれこれ
これは私の町内の地蔵盆
提灯には子供の名前が書かれてあります
最近子供が少なくなり地蔵盆ではなく、婆さん盆と悪口がきかれます。前は土曜、日曜と二日間行われていましたが、手伝う人(比較的若い人)も少なくなり、負担が大変な為、一日になってしまいました
この話の面白さは地蔵盆というのは江戸時代とか子供が死ぬのが多かった。墓誌を見ると一歳とかで死んだ児童がかなり必ず記されている。また童子の墓というのもかな多い。間引きされたりした子供もかなりいた。今では後進国では子供が多く生まれまた幼児の死亡率が高いのである。これは少子化時代逆の減少になってしまった。地蔵と子供も何か深い関係があった。
ここの正式な名前は「曼殊院門跡」。門跡というのは皇室一門の方々が住職であったことを意味するらしいです。曼殊院は天台宗のお寺で、宗祖最澄が比叡山に創建されたのが始まりで、文明年間(1469〜1487年)に伏見宮貞常親王の子、慈運大僧正が入室され以降門跡になりました。さすが京都、お寺と皇室のコラボレーションという歴史があったのですね。
嵯峨野の菊の紋のあった寺は檀林皇后の寺 であった。天皇とゆかりのものが多いのが京都であるのは当たり前だが江戸時代は不遇だった、短冊などを売って糊口をしのいでいたか、天皇も江戸時代は不遇だった、不思議なことは天皇に連なる神社関係が不遇だったからその明治維新になり天皇が持ち上げられると廃仏毀釈の激烈な闘争となった、これは神社の恨みだったとか、千葉の鋸山の日本寺にある大仏のある羅漢像の首がはねられたりとか全国的に仏像の破壊が行われた、
(五百羅漢は岩窟に安置し1153体を数えるが、明治初年の廃仏毀釈により多くは首なし像である。)
明治維新政府の宗教政策、神仏分離令(廃仏毀釈)ほど日本人の精神や文化を切り裂いてしまった事はありません。神仏分離とは、神道を我が国の宗教とするという名目の宗教政策でした。本来は、お寺と神社を分けることが大義名分でしたが、実際には仏教弾圧でした。日本中で取り返しのつかない悲劇が一部の国学者や神職の指導のもとに行われたのです。あの奈良の興福寺という屈指の大寺も、あっという間に叩き壊され、今は国宝となっている五重塔もわずか五円で叩き売られましたが、解体するのに三十円かかるとの事で壊されずに残ったのです。
僧侶への恨みって結構あるんだよね、カトリックに対する恨みは千年の積年の恨みで宗教革命が起きたんだよ、その原因は宗教でも権力を持つと庶民を虐げる方に回るからだよ、権力を持った宗教はもはや宗教じゃないね、だから地蔵なんかは権力がないから庶民に親しまれてきたんだよ、京都じゃ意外と僧侶が嫌われているらしいね、これも僧侶にふさわしくない贅沢とかしていたりするからだろう。
来れば分かるけど、今の京都は「抜け殻・箱庭」だよ。
どうしても移転できない宗教建造物とそれに付随する坊主だけが残ってて、文化人
・文化・技術は明治維新のときにみんな東京に出て行ってる。宗教にしたって、
こんな信仰心の薄い国では単なる観光地に過ぎないだろう。「白足袋に逆らうな」的利
権構造だけが東京に行ってくれなかったけどね
白足袋に逆らうな・・・・高層、家元、花街衆、御所はん…。
行政や司法の権力ではない、第3の権力が「白足袋を
履いた人々」だそうな そんな言葉あったんだね
京都は職人の街でもあった、
ここで東北からの紅花などが加工されたり製品にされたんだよ、それがなくなるとやはり観光だけでは昔だけでは魅力がなくなるかもしれんね
最近,京都の立派立派な名庭園やお屋敷,料亭などが次々に売りに出されている。
それは,日本建築の粋を尽くし、贅を凝らし匠の技に裏打ちされて造られた数々である。日本にまだ財閥というものがあり,個人の大富豪が存在し得た時代の内外の上客をもてなすための迎賓館や別荘であり,さぞかし,にぎやかな又優美で厳かな宴が張られたことであろう。
その後,銀行や証券会社の所有や、料亭へと代わっていった。今や,いよいよ持ちこたえられなくなってきたのだろう。それが、万が一、建売り住宅として細分されたり,マンションになってゆくのは、どうも忍びない。
もう、そこから利潤を生まないものや,投資利回りの低いものは、市場主義の時代、無用の長物として消えてゆくしかないのだろうか。
一方でこういうこともあるのか、普通寺に庭があるんだがそうした庭も売られているのか?京都は庭が売り物だからね、庭がなくなったら京都じゃないだろう、時代の波は京都にもおしよせるから京都も変わらざるをえないね
平清盛が少年兵たち(紅衛兵みたいなものか)を私設警察として用い、 平家の悪口を言う人間を摘発しては、六波羅の邸内で折檻・拷問にかけたりしたもので、
対抗勢力からも庶民からも、六波羅の名が恨まれ怖れられた。
そのせいか、平家滅亡とともに戦火にあい、本堂以外は失われている
京都にはいろんな人の怨念、怨霊が残っているね、菅原道真もそうだが権力闘争の場だったからね、でもそうした歴史が物語が何か未だに感じられるのが京都の面白さだね、東京は江戸時代があってもそうした歴史がビルとかで埋まり全く消失してしまったからね、歴史を偲べないことは歴史が断続することなんだよ、京都はそうした歴史を感じるものが未だ街全体に保存されているから魅力あるんだよ、牛若丸で五条の大橋に現れ、鞍馬山はまだその雰囲気を残しているからね
ところで話は飛ぶが近江の多賀大社は昔は伊勢よりにぎわった、全国にも多賀神社が多いんだよ、
お伊勢七たび 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り
ここにずいぶん昔に行ったんだよ、近江鉄道に乗って行ったんだよ
伊勢ならず多賀大社にも行きし我その日は遠し冬に偲びぬ
多賀大社まで行く人は少ないよ、京都にも何回も行ったがやはりこうした謂われを歴史を知らないとつまらないんだよ、何事にも今昔がある、多賀大社というのは伊勢より親しいものでにぎわった時代があった、それが昔になり熊野詣でも昔となり、伊勢が江戸時代に最盛期を迎え今につづいている。信仰にも盛衰があるんだよ、まあ、あの辺は歴史の宝庫だし京都でも語れば語りつくせない物語と話があるんだよ、昔だけでなく今の話もあるんだよ、今年の冬は東北も寒い、いろいろの地方の話も面白い、
九州経済調査協会がまとめた九州・沖縄地区の転出入超過状況
(転入者と転出者の差)によると2003年は1万1510人の転出超過となった。
1万人を超える転出超過は3年連続。自動車や半導体関連の工場が多く、
雇用吸収力のあるとされる九州だが、生産ラインの自動化などが進み、
人口の流出に歯止めがかからなかった。
九州が転出者が多くなったのは経済が衰退しているのは韓国とか中国とかに九州を飛び越えてビジネスが移動してしまうからだというのも国際化時代のあおりだね、逆に韓国とか中国と近いからビジネスとか観光で商売を見いだした人もいる、九州とか青森や北海道は東京から離れすぎているから経済の不況がひびく、
昨日のNHKのフリ-タ-の問題でかったことはフリ-タ-は今や労働者が企業で調整するためにフリ-タ-にされていることがわかったよ、多様化した消費者のニ-ズに答えるためにその都度雇ったり現場を変えたりいろいろ企業の都合のいいようにフリ-タ-が集められる、その請け負い会社が急成長巨大化しているのちは驚いたよ、結婚して夫婦となった人が生活できないとか36歳でフリ-タ-になってしまった人はあわれだった。これらの人は働きたいのに働けない人だった。フリ-タ-は将来家庭をもって生活できるのかね、これも問題だが少子化で団塊の世代が退職すると消費が少なくなりさらに日本の経済に追い打ちがかかる、これも大問題だ・・・
幼児が突然の暴漢に殺されたりやはりこうした不安定な人々は社会にとって害をなしくるから問題だしそれを受け入れる社会がないと犯罪はますますふえるね・・・・ここは相馬の工業団地に工場たてて500人採用とかあるからまだいい方なのかね、東京には近いからね、浜通りは新幹線通らないから今だと東京まで3時間半でも遠い感じになった、東京には行ってもつまらない、やはり旅はロ-カル線でゆっくりだよ、また3月に青春18切符で旅して見るかね
子供の地蔵盆がばあさん盆になったことこれが一番面白かったな、ネットサ-フィンもこうしていろいろ寄せ集めて編集すると面白いんだよ、現代の問題が反映される、これがばらばらだと意味が成さないんだよ、今回はいちいちリンクするのめんどうだからリンク先を入れなかった、でもこうした話がはたして著作権とか全部あるとも思えないんだよね、ただの雑談だし著作権とか言うのとは違う感じがするんだよ、俳句とか短歌は短くても著作権あるけどこうした短い雑談にもあるんだろうかね、文句がくれば取り消すけど・・・・
失われた日本の橋の情緒(人が見えなくなった時代)
海運橋-徳富蘆花(自然と人生)
余は東京日本橋区国立銀行に近き海運橋を渡らむとして、ふと橋爪の共同便所のかたわらに四六五六の身なりいやしき婦人、髪はぼうぼうと乱れ、浅黄木綿の単衣(ひとえ)は古びてかたちんばの下駄をはき、二才ばかりの娘を背負い、五才ばかりの男児の手を引き、うつむき立てり、巡査ありて何事かを尋ねつつあり。たちまち、婦人はらはらと涙ながしぬ・・・・
昔はよく人の着ているものとか様子をこまかく観察している。作家だからそうだというのではなく人の姿が目立ち人目をとめる。橋は人の行き合い出会う場所だった。だから橋から川へ身投げする人をとめたりといろいろあったのだ。なぜ昔のことを知らねばならないかというと今や人の姿が見えない時代なのだ。どこに人がいるのかというと車の中にいるからだ。ある山の湖でキャンプしようとしたらそこには人はいない、突然車に乗っていた人がでてきてびっくりした。車で泊まり歩く人だった。車だと車の中にいるからそこに人がいるかかさえわからないのだ。車は一つの移動する家だからだ。車の中に人がいるということはわからない、姿が見えないのである。これをなぜ問題にしたかというと今のホ-ムレス半分は実は車を家にして生活しているのだ。今回幼児を刃物で無惨に殺害した福島県出身の人もそうだった。廃車の中で生活していたのだ。だから外からホ-ムレスとも気づかなかった。声をかける人もいなかった。車は人を見えなくさせてしまうのだ。これは警察でもわからないことが多いのだ。車で逃げたりするととりしまりが簡単にはできない、人が見えなくなるのである。現代は乞食などもいない、乞食は一応人間としてあわれさをむき出しにしてし見えていたのである。ずうずうしい乞食もいたがともかく乞食という見える人間としての存在があったのだ。今はこうした乞食であれ何か問題ある人でも社会から日常の生活から見えない場合が多いのだ。またそういう人を余裕をもって見ている時間さえないのだ。みんな時間に追われているからだ。
新幹線を受験に間に合わないからと郡山に三分間とめたというのもそうである。これでいろいろ議論があった。三分間遅れて仕事の契約とれなかったらどうするんだとか、三分間を争って仕事しているのかとも思った。新幹線なら一分刻みで時間調整しているから停めることは実際むずかしいものだった。郡山を通過するのはこの一便だけだったのも不運である。福島県人だったら郡山にはとまらない電車も新幹線もないと思っているからだ。それがこれだけがとまらなかったのだ。ともかく時間に追われているのが現代である。そして人は自動車洪水とか人ごみやビルなどに隠され見えないのである。それで突然不満が鬱積したものが通り魔となって襲ってくるのも現代的犯罪なのだろう。こんなことは昔はありえなかったことだからだ。そこにどんな人がいてもゆっくり観察する時間すらないし問いかける時間もないのである。スタスタスタと通り過ぎてゆくだけである。人が見えないから同情することもないのだ。何もできなくてもまずその人がどういう人なのか見えなければ同情しようもないのである。ホ-ムレスの場合は一応見えるが車の中にいると見えないのである。職務質問するのも自転車だとか歩いているとかしているとされやすいが車の中に寝泊まりしている人は警察でも見えないからしない、そこが盲点となっているのだ。
京都のことを語ったが京都に必要なのは昔の時間の中にあることなのだ。そこだけが昔のゆるやかな時間が流れている。そういう別のゆったりとした時間の流れにひたれるような空間が今必要なのだ。そのゆるやかな時間の中で活きてくるものがある。自然もそうだがそこに一体となった建築やその他のものも活きてくるのだ。現代の時間がなぜこれほどせわしく感じるのかなぜこれほどみんな忙しいのか、こんなに忙しくする必要があるのか、これほど時間の奴隷になっていいのか、そういう考えは甘いよ、一分一秒争うのが現代の熾烈な経済戦争だともなるがそれが人間の本来の情を奪い、突然暴漢が襲ってくるのも現代なのだ。まず現代は時間の感覚を正常に人間的感覚に戻さないと人間の心は疲弊してこうした犯罪もとまらない、教育でもなんでもじっくりと醸成する力が土台に喪失した。それはとりもなおさず社会が歪むことなのだ。新幹線の中では「停めるべきか停めざるべきか」悩んでいる暇もないし相手をじっくり観察する暇も考える暇もなくなったのが現代なのだ。江戸時代の五〇年は実際は今に比べると短いとなるがその時間の感覚が違うから長かったのである。現代はたとえ百年生きても数字的には長くても実際は短く感じる。めまぐるしく変わるから短く感じるのだ。機械が一日休みなく働いているように人間も休みなく働かせられる。冬は大地も休む、人間には休みはない、そして人間は文明に時間さえ奪われ消耗されるのだ。
今日は外は雪である。でも春の淡雪なのかつもらない、それで昔の橋を想像すると、欄干に雪がつもる。
欄干に積もれる雪の寂けさや今日わたりゆく人は誰かな
日本の橋とは木であり極めて情緒的なものである。浮世絵のなんともいえぬ情緒があったのが日本の橋だった。それが今は全くない、ガ-ガ-車が通りすぎ橋にもたれてもの想いにふけるような場所でもないし人が落ち合う橋でもない。ただ通りすぎてゆく場所でしかないのだ。橋は向こう岸にわたるまで歩けばそれなりに時間がかかるからそこに人間的な情がそそがれる。しかし車ではそれは全くない、ただ通過する点にすぎなくなってしまうのだ。
石鰈から考える文明の問題(資源は枯渇する)
それから石鰈が二枚に、舌平目の小さなのが一枚。|車鰕《くるまえぴ》が二匹、お負けで、二百五十文だてえますから、三百置いて来たら、|喫驚《ぴつくり》しておりましたよ」
「じゃア丸で只の様なもんだ」
嬶さんは口を出して。
「あれまア、二百で沢山だよ、百文余計で御座いますよ」
「一貫でも、二貫でも、江戸じゃア高いと云われないよ。何しろこのピンピンしているところを、お娯さんどうにかして貰えないだろうか」
江見水蔭「悪因縁の怨」-青空文庫
石鰈はここの浜から売りにくるが一匹2千円とか馬鹿高い、それでも買う人がいるのか、定期的に売りにくる女性がいる。高くても売れるから買う人がいる。しかしほとんどは東京に運ばれてさらに高く売られている。それで青森でマグロの大間でマグロ一本釣れれば二百万だというテレビのドキュメントは面白かった。日本近海のマグロは特別であり高く売れるのだ。それでも二百万でも一年に一回もとれない、せめて一回でもとれればとかと苦しんでいる漁民がいた。その子供は跡はつがず東京の運送屋で働いていた。魚をとるレ-ダ-をとりつけたりいろいろしているがマグロはなかなかとれない、そもそもマグロは日本近海では極端に少なくなったのだ。近海でとれる魚の量は決まっている。ハタハタがとれなくて困り秋田の漁港では一年間休業した。ニシンもとれなくなって北海道の漁港も寂れた。魚が高いから今はタンパク質は肉でとっている。そしてどうも最近食った石鰈は石鰈のような気がしなかった。普通の安い鰈のような味だった。これはここ二三回であった。石鰈は冬の時期にうまいから正月にはこの辺では食う家庭が多いはずだった。一年に何度しか食わないのが普通である。それが最近ひんぱんに食っていたからおかしいなと思った。そんなにとれるはずがないと思ったのだ。沿岸漁業の資源は限られているから高くなるのだ。松川浦でも売っているのは安い鰈であり松川浦でとれたものではなく中国人がとったものをここまで運んで売っている。そんなに観光客に大量に安く魚は供給できないのだ。越前蟹がここでとった蟹を越前蟹として富山辺りで売っているようにそうした越前蟹でもそんなに観光客全部に回るほどとれないのである。
それでこの小説の話をインタ-ネットで検索してでてきてええ、石鰈が安かったのかと江戸でも安く買いたのかと思った。これは小説だから根拠がないのかもしれないが石鰈がなぜでてきたのか不思議だが意外とこうした魚は安く手に入ったのかもしれない、江戸湾で結構活きのいい魚がとれていた。とれたばかりの魚ならたいだいうまい、安い鰈でもうまいのだ。バタバタとして活きている鰈ならたいがいうまい、近くだとそういうものが手に入る。冷凍にしたのはどうしても味がおちるのだ。これをなぜ話題にしたかというと昔の方が魚に関してはいいものが食えたのだ。鮎にしても鰻にしてもそうである。自然のものを食っていた。それも私の場合は父が直接川からとってきて食っていたから知っているのだ。今では自然の鮎をここ何年間食っていない、鮎はもう味がなくなってしまった。熊野川で鮎を一匹500円で塩焼きにして河原で売っていて観光客が次々に買っていたがなんか味がないなと思ったら養殖の鮎だった。こういうことが今は多いのだ、第一観光客全部にそんなに自然の鮎は用意できないのだ。だから岩魚でも今は全部養殖である。自然のものを食うということは今や贅沢なのである。それを江戸時代にはしていたことになるから食に関しては鮎とか自然のものを食えたということは贅沢だったとなる。
これを話題にしたのは資源というのは魚であれ限られたものでありその近辺の人が食えるくらいのものしかはれなかったのだ。それが高く売れるもの商品となったのは現代であり売る為にとるというのも現代である。だから常に過剰にとりすぎるし商品作物だけの栽培は世界経済にも歪みをもたらしたのである。資源はいつの時代にも不足していた。そして資源は取りつくされるのが早いのだ。東北は鉱物資源-銅などがかなりとれて山はにぎわっていた。それも今やみんなとりつくされ山は空っぽになってしまった。その跡が観光になったりしているだけである。鉱物資源などはいち早く枯渇しやすい。それだけでなく薪なども無尽蔵にあるわけではなく江戸時代も薪不足だったというのも意外である。
城下近くの山は大きな木はすべて切られ藩用の材木まで不足する始末だった。藩では無許可で木をきることを禁じた。罰金と入牢の刑と(罰金は妻子を売らせてもきっととりあげるべき)とした。さらに農民の家作りさえ五六年停止した。(ちょっといい歴史-会津-野口信一)
信じられない話だが会津という山国でさえ木が不足したというほど木が使われた。レバノン杉も船の材料として使われ消失した。鬼(き)無山とか毛無山とかは木のない山のことで木というのはそれほど需要がありはげ山になってしまったのも多かったのだ。イギリスでも工業化で木が燃料として使われまた石炭も使われ枯渇して森は消えた。文明とは膨大なエネルギ-が必要であった。鉄を作る為にも燃料は木だったので膨大な木が必要としたのだ。中国ももと大きな森があったのだが早くから文明化したから森がなくなったのである。木さえ資源は限られたものであり放置しているとみんなはげ山になってしまうのである。資源は限られたものであり石油も枯渇するのが早いしそのときのことを今考えねばならなくなっている。二十世紀は信じられない百万倍とかのエネルギ-を消費する文明だった。夜まで明かりを使うだけで膨大なエネルギ-を使っているのだ。江戸時代は八時頃寝て四時に起きていた。だからエネルギ-の消費は最小限で澄んだのである。朝廷というとき朝早く参じるから朝廷であり日月とともに生活していたから自然のリズムとともに全体も生きていたのだ。だから「月天心貧しき町を通りけり」というのは貧しいのだが常に天心に日月がある生活が江戸時代だったのである。江戸時代のリサイクル縮小型社会が世界の模範となるというのもそのためである。
ろうそくの油 にはいわしやさんまの油を使っていましたが、けむりが多くてたいへんでした。 ろうそく1本で6時間ともせました。でも、ろうそく1本2,800円もしたので、庶民は簡単に買えませんでした。ろうそくのしずくを買い集める。江戸時代、ろうそくはたいへん貴重な物だったから、燃えた後に残るしずくも貴重な物だった。
蝋燭の雫を集める商売があったほど貴重だったというのだから考えられない節約の世界なのだ。蝋燭や油は信じられないほど貴重なものだったのだ。逆に現代の浪費はこれに比べるとすさまじいものがあるのだ。このしっペ返しは必ずくる。自然はそんなに人間に無尽蔵の冨を与えないのだ。それが次の世紀の課題なのである。
中国東北部の遼寧省阜新市にある孫家湾炭坑で14日午後、ガス爆発事故があり、15日までに203人の死亡が確認された。28人が救出されたが、13人が行方不明となっている。国営新華社通信が伝えた。中国では経済成長に伴うエネルギー不足を背景に無理な炭坑採掘が続き、昨年1年間だけで3600件以上の炭鉱事故が発生、6000人以上が犠牲となった。今回は近年でも最大級の惨事となった 。
北畠氏と熊沢天皇騒動(阿武隈の古い歴史の因縁)
今回の地方史の発見は北畠氏の盛衰であった。なぜ北畠氏に興味を持ったかというと霊山には南朝方の城がありそれが滅ぼされたとき炎上したときわが町に落ちのびた人が現実に歴史的に存在して子孫になっていることだった。そしてもう一つ都路村というのが北畠氏と関係して天皇ゆかりのものとして落ち延びて都路村となったのかもしれないという歴史的因縁であった。
946年1月18日、南朝の子孫と名乗る熊沢寛道が自分こそが正統な天皇であると主張しているということが、米軍系の新聞「Stars
and Stripes」で紹介されました。
明治の初め、東北巡幸した明治天皇は、かつて南朝の拠点だった福島・霊山(りょうぜん)を遥拝し、親房らをまつる霊山神社を建立させます。
同じころ、伊勢北畠家(親房の三男・顕能が初代)の子孫が「かつて南朝に仕えたので華族にしてほしい」と申請しますが、明治帝は認めませんでした。そこで村上源氏の直系の久我(くが)家の男子に北畠姓をつがせ、男爵にして「北畠をまつれ」と霊山神社の初代宮司にします。
訴えによれば、熊沢氏は南朝の最後の天皇である後亀山天皇の孫にあたる
熊野宮信雅王の子孫であり、同家は代々自分の家こそが本来の天皇の正統であるとして「即位」をしてきたということでした。実際、寛道氏の父である熊沢大然氏も明治時代に、こちらが正統だという訴えを起こしています。
1951年には熊沢寛道は東京地方裁判所に自分の正統性を認めるよう裁判を起こしますが、天皇は裁判権に服さないとして門前払いを受けました。その後は彼は特に大きく報道されることもなく1966年死去しています。
戦後の天皇がアメリカに負けたとき権威が失墜してアメリカ側の画策もありアメリカによって報道された。その後昭和天皇は各地を回り以前として国民を励ましそれが受け入れられたので熊沢天皇は忘れられた存在になった。しかしこの時やはり昭和天皇が存続するかどうか危機にあったのだ。だからこそ第二の天皇が歴史的因縁で都路村の隣の葛尾村からもでてきたのである。ここは私の親の出身地でもあった。そしてこの北畠氏の本籍の地は三重県にあった。そこで北畠は大きな勢力を持ち南北朝時代に活躍したのだ。この時全国に様々な天皇が自分こそ天皇家を継ぐものだと主張した。
伊藤天皇:南朝皇統の自天王の末裔と名乗る。自天王は、後亀山天皇の四代目にあたる皇孫。
葛尾天皇:南朝の長慶天皇の直系を自称(福島県・双葉郡葛尾村)
工藤天皇:明治天皇の曾孫を自称(長野県・上田市)
熊沢天皇:割愛
酒本天皇:南朝の後亀山天皇の後裔と自称(岡山県)
佐渡天皇:順徳天皇の末裔と自称(新潟・佐渡島)
佐藤天皇:高倉天皇第一皇子の直系と自称(岡山県)
外村天皇:後醍醐天皇の末流を自称(名古屋市)
竹山天皇:大覚寺統天皇家の末裔を自称(浜松市)
長浜天皇:安徳天皇の末裔を自称(鹿児島県・硫黄島)
三浦天皇:南朝の長慶天皇の直系を自称(愛知・豊川市)
熊沢天皇は名古屋の雑貨商だった。
北畠氏館跡で見つかった「城館としては最古の石垣」 が地中探査で全長80メートル になることが判明した。11月から発掘調査が始まる。
http://www.ztv.ne.jp/web/misugimura/kyuseki/saiko.html
北畠氏はこうした古い歴史をもった一族であった。山形の山寺の近くにも北畠氏を祀る神社があった。東北にはゆかりの一族なのだ。しかし余り知られていないし注目されていない、歴史の地層が下になっているからそうなる。歴史の化石というわけではないがやはりなじみがないのだ。ただそうした歴史もあるとき亡霊のようによみがえってくることがある。それが熊沢天皇だった。
そしてもう一つ注目したのが
この間、時代は戦国の世と移り変わり、永禄12年(1569)に至って織田信長が大挙して伊勢の国に侵攻、これを迎え撃ったのが剣聖塚原卜伝から一の太刀を伝授された剣豪大名として名高い北畠具教でした。文武に秀でた武将と評された具教は、大河内城に主力を集め、5万ともいわれる織田軍を相手に一ヶ月余にわたって激戦を繰り広げました。しかし、圧倒的な織田軍の前に、信長の実子茶箋丸(ちゃせんまる)(後の織田信雄)を北畠家の養子として家督を継がせることを条件とした和議に応じざるを得ず、ついに織田の軍門に下るところとなります。そして、天正4年(1576)、信長の謀略により、旧家臣の襲撃を受け、具教は49歳で自刃して果てることとなり、ここに名族北畠氏は名実ともに滅亡します。
古戦場ともいうべき大河内城跡、阿坂城跡がそうした北畠氏の栄枯盛衰を物語るかのように、今もひっそりとしたたたずまいをみせています。
信長は大筒を船に乗せて伊勢の北畠氏の居城を
海上から砲撃し鎌倉以来の名門を近代戦術で滅亡させます。
ここに信長がでてきたことでそうか信長に北畠氏は滅ぼされた。
これはやはり信長という時代の先端を行く武将に古来の武家が滅びてゆく姿を目の当たりにした。武田の騎馬軍団も鉄砲隊に滅ぼされた。その末裔が相馬藩にて流れてきたりしている。そもそも塚原卜伝などという伝説上の剣豪がでてくること自体相当な古い歴史を物語っている。いづれにしろ北畠氏は古い歴史の地層に埋没してしまった。でも都路村 (市町村合併問題)でも書いたように阿武隈との古い歴史の因縁を語るのが北畠氏であったので注目したのである。
そもそも天皇正統制がどこにあるのか、血筋を受け継ぐのが天皇なのかこれも女系天皇になると明瞭でなくなってくるし三種の神器があるわけでもない、古い宮家の復活などもとりざたされているが南北朝時代も天皇の正統制で争われた。天皇問題もやはり現代では一つの曲がり角にきているのかもしれない、実際は神武天皇さえ架空の存在だとか不明であっても国にはそうした権威となるものが必要なのである。日本では日本の国の淵源を基を天皇に求めている。だから天皇が欠かせないのである。天皇がなくなるこは日本人のアイデンティティも喪失するから無くせないのである。
会津の怨念の疑問
会津藩は階級制度に厳しく、上級武士は下級武士・郷士を奴隷のようにこき使ったし
、ましてや百姓農民は過酷な税で幕末も苦しんでいた。
それが、今になってあたかも自分たちが会津の侍の子孫であったかのように「長州憎し」とかやってるけど、そもそもほとんどの現在の会津人が百姓や下級武士の子孫じゃん。
ましてや上級武士の多くが、斗南藩としての移封や明治になってから警官となって
東京などの各地へ散っていったことを考えれば、「長州が憎い」上級武士の子孫は
ごく少数しか会津にいない。
まあ、自分の祖先が足軽や百姓と認めたくないだけなんだろうけどね。
その警官が、抜刀隊となって田原坂へ行ったんだよね。
士気は非常に高かったらしい。
会津はこの怨念を売り物にしていないだろうか?会津の人がみんなこんなに怨念をもっているのだろうか?これは作られた怨念ではないか、具体的に私の祖父がひどいめにあったとか歴史的過去になればなくなる。誰からか聞いた話になるとそうした生々しい怨念は伝わらない、これは韓国とか中国とかにもいえる。すでに過去の歴史だから誰かに聞いた話でありそれが教育により過剰な日本への恨みが作られている。それは政治的なものとして利用もされる。ただ会津というとなぜか私の母方の祖父が警察官であり会津藩士と縁のあった人かもしれない、その頃の警察官はかなり威張っていた。刀をもっていた。その刀を親戚の芝居やっている人にくれたという。刀をもっていたことは武士の出だったかもしれぬ。もう一つは警官をやめてから機織りの会社を経営した時、喜多方からきていた女性を妾にしたことである。ここにも会津との縁が多少あった。機織りというのはその当時の主要産業だからそうなった。その後倒産して家は没落して悲惨の歴史をたどる。歴史はやはり身近にありそその家族の歴史が一番興味を持つのだ。
ただ日本は武士の子孫と町民とかが階級制で分かれていた。そして武士のなかでも下級武士は町屋の外に住まわされて城の回りに住んだ上級武士とはかなりの格差がありそれが明治維新につながった。上級武士は明治維新の志士になる人はまれだった。地位が上だと人間はそうなりやすい。日本の歴史の特徴は市民がブルジャ-が存在しなかったことだろう。ブルジャ-とは語源は城砦(burgus)である城のことだから日本では侍になるがヨ-ロッパでは城の城壁内に住んで守る人が戦士がブルジャ-なのである。だからこのウオ-ルというのには大きな歴史的意味がある。ロ-マでもその後の歴史でも城壁というのは大きな役割があった。それは中国でも同じである。なぜ万里長城などを作ったのかというとやはり国自体を城壁で囲み敵から防御する守るという感覚は大陸として共通している。城壁のなかに住むものは日本のような侍とは違う、同じ戦士としての市民なのである。だから強固な一体感がある。城壁を破り侵入して街が破壊されたら住民も死ぬことになるし奴隷にされる。だから常に城壁は生命を守るものとして大きな意味をもっていたのだ。ヨ-ロッパにはそもそも市民だけの都市が存在して壁で囲んでいた。ドイツにはそうした中世の街がそっくり残っている。そして市民を救った市長の伝説などが語り継がれているのだ。堺のような街がかなりあったのだ。だからヨ-ロッパでは古い市庁舎がまるで日本の城のように街の象徴として残って今でもそこで現実に役所となり働く場なのである。
ところが日本では城壁というのはない、市民というのも存在しないというのは支配する侍の住む城と町人や農民は別なのである。だから戦国時代でも農民は戦争自体にはあまり関係しない、どっちが勝っても領主が変わりそれに従属して税金をとられるだけだとなる。そして天守閣があり戦いに負けたものは天守閣で切腹して自殺して戦争は終わりになる。日本でも会社の社長がよく自殺するのも城主が死ねば責任をとったことになりそれで問題は終わりになるという社会的暗黙の了解があるのうもしれない、城主が死ねばそれ以上は責めないということである。
明治維新の時、東北も戦禍にまきこまれたが必ずしも東北の民衆は幕府側についていない、その原因は東北にはそもそも中間層、富裕な商人階級が育たなかった。階級差別が大きかったというのは上は侍であり下は貧しい農民しかいなかったのだ。だから明治維新になった方が東北の民衆にとっては発展することになったと宮本常一が指摘している。侍がいて下は貧農がほとんどだった。ところが西では大坂など商人の世界があり豪商もいたし農民も武士に伍するようになっていた。階級差がなくなっていたのだ。これらの人が明治維新に財政的にも加担したのである。豪商が血書になったりすでに藩は豪商の借金で首が回らなくなったとか経済的には商人が優位になっていたのだ。東北ではそれがないから侍だけが戦ったのである。明治維新に反対したのは大名であり民衆ではなかった。つまり会津でも会津全体の悲劇のように語られているが本当のところは町民はかえって明治維新を歓迎してさえいた面があった。それが会津では武士の古い世界ができあがっていて新しい街作りができず会津の北方(ほっぽう)である喜多方が商人の街として発展して蔵が多くたったということがそれを示している。
会津の悲劇があんなに誇張して語られるのはそれは会津人が全部そうだとは思えない、第一みんなが武士の子孫でもないからだ。ここの相馬野馬追いにしてもこれは侍であったものだけが出られる侍の祭りであってその他の人はネブタ祭りとか違い出れないのである。だから二階から野馬追い行列を見ていたら無礼ものとなり手打ちにならないまでも禁止されていたというのも侍の示威行進の一面があった。侍の祭りであり一般町人の祭りではないのだ。だから町人は今でも単に参勤交代を見るように行列を見るだけの存在なのである。膝まついて礼をしないまでも野馬追いは侍の祭りであり代々家に伝わった鎧や旗を身につけて出られるのは侍の出のものだけなのである。だから神輿を担ぐ市民がみんな参加する祭りとは違うから普通の祭りとは違う文化財保護の祭りともなっているのだ。
私のホ-ムペ-ジに来たキ−ワ−ドから世相を見る
宗教 解決 努力
これは創価問題とか宗教問題を解決したい人である。何を解決したいのかわからないが・・・宗教に悩んでいる人は多い・・・現代とはまたカルト宗教の時代なのだ
創価学会 成り立っている
創価関係はどうしてもくる。これは自分も深くかかわったからどうにもならない、これに沈黙するわけにはいかないのだ。
禅の教え 無一物
こういう人本当に宗教に関心をもっている求道者なのか、宗教を真剣に求めている人は少ない、宗教問題に関心があっても信仰を求めている人は少ない、信仰について語るにはかなりの真剣さが必要になるからむずかしい。ただ宗教の基本は偶像崇拝の拒否であるからこれくらいは知っておく必要がある。禅に関心があるのは禅は不立文字とか偶像拒否があることなのだ。やはり仏教でも偶像拒否というのがテ-マになっていたのである。
二宮尊徳 宗教問題
二宮尊徳が相馬郡と関係深いのだがいまいちわかりにくい、残したもの、本などに書いたものがわずかでありわからないことがと多すぎるのだ。
二宮尊親
これは二宮尊徳の孫だった。
アフリカ 貧困 増大 キリスト教徒
貧困問題にキリスト教がどう対処するかの問題なのか
石川啄木 東海の小島 日本海
東海と日本海の関係を知りたかったのか、東海ということで日本にとらわれない世界的見方として東海と言ったのだろう
自然破壊 ケニア
どこでも自然破壊はテ-マになる。ケニアでも起きているのだろう。
江戸時代 箪笥預金
今の時代貯金しても利子がつかないから箪笥預金している人も多いからはたして江戸時代はどうだったのか知りたいので調べている・・・
自転車 俳句
これには驚いた、自転車と俳句を結びつける普通は思いつかない、自転車に乗り俳句を作ることが自分にぴったりだったことである。トラジットにのって小旅行したペ-ジにマッチした。
相馬藩 司馬遼太郎 石巻
相馬藩とかなると相馬の歴史について書いているの少ない、インタ-ネットには専門的なものを書いている人は少ないから相馬と入れるとヒットされやすい、専門的なものは本にありインタ-ネットには詳しいのは出ていないのだ。
貨幣 支配 問題
今の時代、貨幣に興味をもつというか、貨幣が金がすべてだとなっているから金そのものに興味をもつ人が多いのだ。地域貨幣などもそうである。貨幣自体今や解明不可能な不思議なものとなっているから余計興味をもつのだ。
セントレア空港 節約
セントレアは結構節約して作ったらしい、セントレアという名前はしゃれていて良かった、これ市町村合併の名前の問題で書いたけどセントレアというキ−ワ−ドだから入ってくる
ライブドア ホ−ペ−ジ
ライブドアの株の買い占め問題もわかりにくい、フジテレビの従業員が合併させられてライブドアの配下になり給料が半分になるという解釈は面白い、株が買い占められのっとられるとそうなるのか、戦国時代のよう国取り合戦のようになるのか、ライブドアの社長が会社を国をのっとり支配してしまうことになるのか、それが株なのだろうか、株の世界はわかりにくい、この株の資金は外資がだしているのだから外資にのっとられることにもなるのか、株の世界はやはり経済戦争なのだろう。これも今の問題だった。ただライブドアなんかあるのさえわからなかったからずいぶん名前を売ったからやはりテレビにでると宣伝効果が大きいのだ。インタ-ネットでは一度に何百万の人が見るなどありえないからだ。楽天は知っていてもライブドアは知らなかったのだ。たまたま買ったオペラはライブドアで売っていたのだ。
新聞紙で袋
これも結構書いてあった、一番多かったのは新聞の袋を果物にかけるものとして使っていたことだ。新聞紙は今中国で買うので買い取りに来る業者がいる、新聞紙自体今やかなり貴重なものである。その中味の記事より貴重になるかもしれないという奇妙さである。
川俣町
川俣町は阿武隈歴史の道で書いた
無線塔 原ノ町
無線塔というのも関心あるからでてくる。これは土地の人しか関心がない、一般的にインタ-ネットは全国とつながっているから地域の情報でも全国の人が読んでいるのだ。地域のことを書いても半分以上は全国の人が読んでいる。
俳句 正月の
これは俳句の部でまだ季節的に正月に関心が残っているからだろう。
山桜
桜の季節になったから今度は桜の短歌、紀行文とか読まれことになる。季節によって読まれるのも変わってくる。
国風文化 写真
国風文化とか唐風文化というのも結構ある、こういうことに関心あるのも時代なのか
江戸時代 俳句 というのもある。ただこういうのを自分のホ-ムペ-ジで書いているからヒットするともなる。
ワ-ズワ-ス
ワ-ズワ-スも時々でてくる、これに関心ある人は詩に関心がある、ただ不思議なのはワ-ズワ-スについて詳しいことは知ることがインタ-ネットではできない、ワ-ズワ-スに書いたものは古本とか本にしかないと思う、こうした専門分野はインタ-ネットでは極めて少ないのだ。だから何かワ-ズワ-スについて詳しく知ることはできないはずである。そもそもワ-ズワ-スについての批評とか論文とか内容あるものを書くこと自体非常にむずかしいからだ。これは俳句などでもいえる、詩そのものがむずかしいからそれについて詳しく知ることはむずかしい、でも多くの人が何かあると思って調べている、自分も調べてはいるが専門的なものはなかなかない、それは過去にあるのだが本にしかない、インタ-ネットではワ-ズワ-スについて知るのは極めてまれだし結局古本とか本の紹介だけになってしまう。
津島 買い物 浪江
津島から浪江まで買い物は車があっても遠い、あそこで中国人の妻が夫をナタで襲う事件があったのでショックだった。買い物も不便だと困る
高速バス 通り道 盛岡 バス
高速バスが話題になるのもわかる、高速バスの方が宮古から盛岡だと一時間おきにあるのは驚いた、あれでは電車は一日二三回でがらあきだったから利用されない、存続さえあやぶまれる。宮古から盛岡まで通る道は岩泉とか汽車とは違って江戸時代の街道沿いを行くのかもしれない・・・
グロ−バル化
これは今の問題で必ず一人くらいきている、自殺なども必ず来ている
地方産業 (寒い)
これも笑った、地方産業も今大きな問題なのだ。実際寒いというのは本当である。
藍場川 汚れ
萩の藍場川が汚れているのか、きれいな小川だと思っていたが・・・これは江戸時代もゴミがなげられて汚されると溝付き屋敷に管理させたという・・・江戸時代の人もゴミの処理に困っていたのである。
雄琴 エイズ
これはエイズを心配している、あそこはそういう場所だからだ、エイズに不安な人がふえている証拠だ
浅井隆 損した
これは笑った。この浅井隆の本についてちょっと書いたのでこれも結構くる、実際にのせられて損した人かもしれない・・・・・
テレビの力
これもテレビを疑問視する人がふえてきたからだろう
さかいみなと 知名度 長い
境港市は鳥取県にあるが長いということが問題なことは確かである。長くなると覚えづらい、相馬中央市とか相馬中郷(なかごう)とか相馬ひばりの市は長くなるのが問題だった。
南相馬市 住所
南相馬は今の問題の焦点だからかなりある。
三春 合併 歴史 明治
三春も都路村関係で書いた。ここも田村市となるのか、三春とはいい名だった。桜、梅、桃が一緒に咲くから三春だという、確かにあそこは一度に春がきて山の中が三色にそまる。
ひらがな地名 みどり市
ひらがな地名が何か威厳がない、軽いのりになる。漫画的にもなる。わかりやすいのだか名前にもなんか威厳がほしいんだよ、ひばりの市というのもわかりやすいのにしたのだがもう一つ地名の重みが感じられないのだ。さいたま市なんかもそうである。小学生にもわかるにしても精神年齢まで小学生的になってしまう。漢字だとやはり何か漢詩的であり威厳がでてくるんだよな
山武郡 合併問題
これは太平洋市手問題になったところだ、やっぱり全国から名前について反対のメ-ルがきてとりやめになった、市町村合併問題の特別企画ペ-ジはアクセスが結構ある、というのは今の問題だからみんな関心があるからだ。ここでわかることは地域の情報、狭い点の情報が今インタ-ネットにだされている、その点の情報と広域的な全国の市町村合併問題がインタ-ネットで情報として議論しやすい、つながるということでこれは極めてインタ-ネット的な情報のやりとりに向いていたことに気づいた。だから自分なりに編集できたのである。これは実は世界までつながる問題でもあった。世界の地名ともリンクして考えることができるからだ。セントレアという名前も外国語なのだから外国の地名も参照する必要がでてきているのだ。つまり狭い地域が全国とつながり世界ともつながるというインタ-ネット的展開利用の仕方が現れたということなのだ。
キ−ワ−ドは世相の反映であった。それについて時事問題などで書いていたからこうしたキ−ワ−ドがヒットしたのだ。ただインタ-ネットでは自分が書いたものと関係ないものでも入ってくる、ペ-ジの一部分の文章と何か関連あると入ってくる、それが関係ないようで関係あったりする、自分の場合もキ−ワ−ドで調べるからあれこんなものがでていたのかと興味がでて別なものを読んでいるのだ。そしてこのキ−ワ−ドの逆をたどって調べたりもしている。誰かが入れたキ−ワ−ドから逆にその関連したものを読んだりしているのである。いづれにしろインタ-ネットがキ−ワ−ド中心に読むようになっているから今までにない情報の世界になっている。だからキ−ワ−ドを入れても常に何か別なものがでてくるのだがそれはやはり関連あるものにもなっいるという今までにない情報世界を作りだしているのである。これらのキ−ワ−ドはほんの一部であり毎日のようにキ−ワ−ドは変わり探している。キ−ワ−ドからしかインタ-ネットでは探しえないからだ。