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小林勇一(著作権者)
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なごみの里、平和(やわらぎ)の郷(さと)を求める時代1月4日
長町から仙台へ歩きで発見した歴史1月13日
パソコンのトラブル(ウィルスに汚染されパソコンが使えなくなる→サポ−トで混乱)3月24日
なごみの里、平和(やわらぎ)の郷(さと)を求める時代
(2006年のトレンドは国風文化の見直し)
和は和「なごみ」とも和らぐ「やわらぐ」とも読めるように、日本の物は、
人の心を和ませてくれる、力があるのかもしれません。
●なごみの里
ちょうど通りかかったところになごみの里ととなっていた。なごみの里とはいいなと一瞬思った。そこは余り人も通らない所である。それで考えたのが大和言葉である。平和を願うというときの平和は明治以降作られた言葉である。peaceを平和と訳した。平らかに和するとなるがこの言葉は日本人は良く理解していない、平和というとき「やわらぐ」とか「なごみ」であった。この言葉の方が日本人としてわかりやすいのである。言葉はある意味で民族の血肉である。理屈ではなく血肉的に理解している。マザ-タングとか母国語というのもそのためである。やわらぐ、なごみ、の反対が荒らかであり荒れる心である。それは平和な心の状態ではない、明治維新から西欧化は高度成長時代は荒らかな時代であった。凄まじい変化がおしよせてきた。そこで三回もの世界大戦があり多大な犠牲が払われた。やわらぎ、なごみの時代でない、それに比べ江戸時代の三百年はやわらぎ、なごみの時代だったのだ。一月は睦月(むつむ)だからむつむであり人がむつみ、なごやかになる月なのである。松の内、松飾り、しめ飾り、お供え餅は農耕、稲作と密接に関係してできた行事である。正月を祝うのは極めて農耕民族の祭りである。なごむとかむつむとかも村落的牧歌的言葉のような気がする。なごむとはみんなで輪になりなごむ、むつむという感じてあり村落的な生活を起源にしているのだ。今の時代、そういうものが喪失したというとき、そういう社会が喪失したということである。そもそも社会自体、社に集うだから極めて村落的社会から来ているのだ。現代のグロ−バル化した社会とは全然違った世界での和むであったのだ。ただ伝統というのには深い意義がありこれが継承されないと人心は荒廃してしまう。民主主義などといっても簡単に理解されなかったようにむしろ伝統的なものは理屈なしで理解される血肉なようなものだからである。行事を行うなかで無意識に大事なものが継承される効力があるから大事なのである。食べ物に感謝することが正月にはあり豊作を祈ることもあり一年の無事を祈ることもあり日本人は魚と稲作を農耕を中心とした世界に綿々とと生きてきた。だから七草とかもそうであり植物を食い植物に感謝することが祭りの意義としてあるのだ。
家数軒なごみの里と枯木かな
●ハ-ドからソフトへ
やわらぐはやわらかだからソフトになる。ハ-ドとソフトがあるがパソコンの機械そのものはハ-ドである。それを応用するのがソフトである。ハ-ドは建物とか高速道路とかもハ-ドになる。明治維新から百年以上は凄まじいハ-ドの時代だったのだ。文明のハ-ドを取り入れる時代でありソフトではない、ハ-ドは設備でありソフトは設備を応用して生きる智恵を働かすことである。これからの時代は設備はほとんど整備されたし道路などもはや過剰であり無駄が多い、それは自然破壊までなっているのだ。今人々は凄まじいハ-ドの世界に席巻されて疲れたのである。それで精神を病む人が多くなるし様々なハ-ドによる弊害がでてきた。今文明国ではやわらぎ、なごみの世界に移らねばならないのだ。だからなぜ国風文化とかのキ−ワ−ドで来る人が多いかわかる。国風文化とはやわらぎ、なごみの世界である。大和言葉にやわらぎ、なごみの世界があった。それは言葉だけではない、日本に本来そうした大和言葉からくる独特の宇宙観自然観があったのである。それが神道であり神道は国家神道ととは違うのである。天皇の役割は戦争中のような軍神にされることではなかった。昭和天皇自らも私の神は平和の神であると言って人間宣言した。天皇はまた大嘗祭をする祭主でありそれは米の実りを米に感謝する行事を行う司祭だった。米と不可分に結びついていたのが天皇だったのである。現代は過剰にあらゆるものを食っているが食べ物に感謝する、いただきますと言って感謝する気持ちがなくなった。正月のお節料理などは海の幸、山の幸に感謝する行事だったのだろう。今ややたらがつがつ食うだけの肉食獣になっている。古代からの日本人が受け継いできた古代からの智恵を失った。それは天皇の行う行事は平和的なやわらぎ、なごみをもたらすものだったのだ。これからまちがいなく国風文化の時代である。だから大和言葉を見直す人とかそういう時代の傾向が各所に見られるようになっている。
●柔和なる人とはやわらぐ、なごみの人?
柔和なる人が地を受け継ぐだろうというときこれもやわらぐことが平和を象徴しているのだ。日本人の世界観とキリスト教の世界観にも共通性はあるのだ。もちろん仏教の世界観とも通じるものがある。平和をもたらすものとはやわらぎをなごみをもたらすものである。これは言葉でも漢字は硬いものを示すにいいがやわらいだものなごむものを示すときは大和言葉が適しているのである。大和言葉には日本人の文化のエッセンスがあるから言葉は民族の血肉なのである。日本人は本来はやわらぐ、なごみを重んじる人々だった。それは縄文時代以来の伝統なのだ。大陸はどうしても武の人になりやすい、国境を接するから絶えず動乱にまきこまれ武の人、たえまない戦いを避けられないのだ。だからこそ万里長城をつくらざるをえなかったのだ。町は壁で囲み常に敵の侵入から防がねばならなかった。それが市民の起源なのである。日本人は海が防壁となり自ずからやわらぎとなごみの世界を作りえた。これからの高齢化社会はやわらぎ、なごみを求める世界でありその模範は江戸時代にあるのであり明治維新なと志士が活躍したような荒らかな時代ではないのだ。インタ-ネットでも今やハ-ドは整ったからソフトの時代である。知識をどう応用して智恵に結びつけるかが大事になっている。インタ-ネットの応用は実際今度プログをやってみたがこれもまた新しい世界だからわからなかった。インタ-ネットの応用の世界は非常に広いのである。それは国際的でありあるときはオックスフォ-ドの大学の図書館の中に入り中世の写本を参考にしていたりとかアクセスにしても世界からきている。だから日本の文化を紹介するペ-ジを作る必要がでてくる。インタ-ネットの世界は道路を作るとか建物を作るとかのハ-ドの世界ではない、ソフトの世界だからわかりにくいのである。
●玉せせり祭り(福岡県博多市)を見て
テレビで見た玉せせり祭りというのは面白い。玉をとりあいせせりあい海側と陸側が玉の奪い合いをする。海側がとれば豊漁となり陸側はとれば豊作となる。これは海幸と山幸の神話のテ-マとにている。日本に非常に多くの祭りがある。祭りの国なのだ。祭りは何か海に住む人間とか山に住む人間とかの争いだったのがやがて祭りとして残った。凧あげでも境界を争った村同士の争いが凧あげになった。綱引きでも村同士の争いが祭り化したのである。祭りとは村同士はなごむ、和合するために生まれたのだ。天皇を祭るのも日本人がなごむ、和合するために天皇が生まれたのである。そこに天皇の意義があったのだ。天皇は玉(ぎょく)と明治維新のとき言われた。玉せせり祭りも玉をとった方が支配権をにぎる。その玉とは天皇なのである。天皇とはそういう日本人の伝統から生まれたのである。韓国であったフランス人には驚いた。日本の祭りを見て一年とか旅していた。世界を旅していた。民宿に泊まって旅していたというから良くそんなことできるものかと思った。日本の祭りに注目したことは
日本の文化を知ることになったことはまちがいない、祭りは一年くらいいないと出会いないんだから大変である。そんな旅を外国ではできそうにないのでこんな人もいるのかと驚いたのである。では日本の祭りについてという研究をフランス語で出すとしたらこれはかなりむずかしくなるのだ。文化の理解は言葉の障害とかで本当にむずかしいのである。
福岡は韓国とも近く中国人との貿易も行われた海に開けて栄えた国であり邪馬台国が九州にあったというのも最初に海外と接した国だからである。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/hakatahatu/shonin/ha_sh_03032901.htm
白梅や墨芳しき鴻臚館 与謝蕪村
この句は書類は墨で毛筆で記したからそれが鮮やかであり印象に残るものとなる。パソコンとかの字とは違う、そこでは事務まで新鮮な人間的な世界として芸術のように表現されていた。単なる数字の羅列ではない、貿易も商業も人間味豊かな活動ととして活きていたのである。博多は古代から世界に開けた港だった。玉せせり祭りから情報が博多へ海外へと視点を移すのもインタ-ネット的情報の展開なのである。これからも日本国内の国風文化と海外への唐風洋風文化との混交はつづくが国風文化の見直しがさらなる課題となるのがこれからの日本である。だからこそ伝統の見直しが大事になってくるのだ。新たな価値の見直し、ルネサンス(再生)が必要になってくるのだ。2006ルネサンスはまたつづきますので今年もよろしく
人当たり和やかになる三が日
長町から仙台へ歩きで発見した歴史
長町からハンディバイクで仙台の街に入るようになってから仙台の街が別なもののように見えるようになった。大きな原因は橋を渡ることにわった。広瀬川の橋を渡り仙台の街に入るからより広瀬川を意識するものとなったのだ。長町から入るとここは仙台藩ができてからできた宿場町だったから古いとはいえないとある。仙台藩ができて整備されたのである。その前は単なる村に過ぎなかった。それでもこの長町から仙台へ入るとかなり違ったものとして仙台を意識するうになる。脇を新幹線が走っているが鉄道で来てはわからない昔の歴史の道をたどることになる。仙台の街は広瀬川で特徴つけられる。青葉城恋歌などでもそうであった。江戸時代でも最初にこの広瀬川に出合う、広瀬川をわたると仙台の城下町に入ることになるのだ。ところがこの広瀬川は青葉城に入るときもう一度広瀬川を渡ることになる。つまり川によって二度区切られているのだ。そしてなぜ青葉城があのような懸崖の要害となっているのか?それは戦国時代の名残りであり防御のためにあんな高いところに城を作ったのである。戦国時代の城は山城が多い。それは一重に防御のためなのだ。やがて戦乱の時代が終ると平城になってゆく。ここでも川は昔は必ず境の役目があり各地で境川があるように区切られる。川は自然の堀になるのだ。それは大陸では河が大きいからライン川でもドナウ川でも境界となる。ロ−マとゲルマンもラインが境界となったしロ−マがラインを越えて進むとき、木の橋をかけることが重要な仕事であったことがわかる。仙台藩も最初に橋をわたるとそこは五十人町とか三百人町とかの足軽町でありそこで敵を防ぐ役目として置かれていた。最近話題の姉歯横町とあるのは姉歯新左衛門という武士の家があったからだ。ここに足しげく足軽などが出入りしていたからそうなったのだろう。本陣はあの高い青葉城だったのだ。防御的に広瀬川が大きな役目を果たしていたのだ
出羽国の東山道で異色なのは一部に「水駅」が設けられていたことである。河を街道の一部として利用するために河川に陸路の馬家と同一の機能をもつものとして船を配置した駅のことである。最上川の佐芸駅に駅馬のほかに駅馬に相当する船が十隻配置されていた。(みちのく街道史 渡辺信夫)
古代に阿武隈川を海より遡った地点に古代の遺跡が発掘されて古代の官人が船で阿武隈川を遡ったとか川は交通に使われていたのだ。
また歴史をふりかえると古墳のある場所は海に近い場所と小高い場所にあるのが多いのではないか?相馬だと原町の桜井古墳はもともと海に接近してあった。一方金銅双魚佩が発見された鹿島町の古墳は一段と小高い場所にあった。そもそも奈良時代辺りは海が深く入り込んでいたのだ。東北最大級の名取の雷神山古墳もそうである。
現在は陸地であるにもかかわらず、「島」という地名がたくさんあります。愛島、笠島、小豆島などなど、これらはかつては海岸線が奥地まで侵入していた時代の名残を示すものだと思っています。近くの貝塚を見るたびにこんなことを考えてしまいます。
「三十三間堂の郡衙跡」というのも小高い岡にある。あの小高い岡からみると広い平坦地が海までつづいているがかなり海が入りこんでいたのである。古代の多賀城跡もそうである。そこが生活の本拠地であり縄文時代から小高い丘に住んでいた人達がいた。平坦地は日本は湿地帯で住みにくかった。田畑にしたのは弥生時代以降であり遅いのである。それまでは海岸で貝をとったり山で木の実を拾い動物を狩猟して生活していたからだ。遠見塚古墳というのもかなり海に近い場所にあるのもそのためかもしれない、縄文時代の生活の場がそのまま受け継がれて古墳が作られたとも考えられる。奈良でも山辺の道というように山際に大きな古墳が並んでいる。一方で仁徳陵のように海に面して日本最大の古墳が作られたのとにている。日本人はもともと海彦、山彦、海の幸、山の幸の世界であり平坦な米作りの場所は弥生時代以降に技術力で作った人工的景観なのである。だから古事記にはそうした海の神話と山の神話が入り交じるのである。海に住む人達と山に住む人達の交わりが最初の神話なのである。日本の神話の時代には米作りは余りでてこないのだ。平地といっても広大な大陸的平野はなく山の狭間の平地とか小高い丘の平地なのである。平という地名はまさにそうした狭い平らなところであり大きな平野ではないのだ。
ともかく歴史を知るには昔の道をゆく事と地理の研究がかかせない、地理がわかれば歴史の半分以上は頭ではなく体でわかる。今まで鉄道で電車で仙台に入っていたからこの年までわからなかった。鉄道にそって行く限りいつまでたってもその土地の歴史は実感としてわからないのだ。自動車社会とか鉄道社会とかが歴史を過去のものにしてしまったのだ。過去と歴史を連続したものとして実感としてわかるにはこうした昔の街道を歩くとか自転車で行くとか何かそうした苦労を再体験しないとわからなくなっている。今回の例がその最たるものである。ただ長町から仙台へ自転車で来ただけでまるっきり違ったもの、歴史の道を発見したのである。江戸時代の再生、国風文化の再生(ルネサンス)というとき、こうした土地に密着した歴史を知らないとできないものである。そこが現代では盲点となりうすっぺらな歴史認識しかできなくなっているのだ。仙台から江戸までの距離を歩くのと新幹線で二時間でくる世界はまるで違ったものである。江戸まで歩いた旅は生活は街道が連続して宿場宿場が重要な役目を担い活きていたのである。道を歩くとその道沿いのものも連続したものとして存在することがわかる。長町を自転車で行くと必ず通りの店を見る、長町にこんな店があるのかとなる。店は見せるからきているから街は人が歩き見る事によって活きてくるのである。今年もこうした郷土史の掘り起こし作業もしてゆく。これは常に新しい発見なのだ。今も発見する事ではない、昔は常に新たに発見されてゆく作業なのである。だからこそ歴史は過去であるが新たな発見があるのだ。無尽蔵の宝であり発見の新鮮な経験が歴史の勉強なのである。この勉強だけは尽きることがないのだ。これが今や世界まで広がってしまったから実地にその歴史の場を踏めるのだからその探求は限りないとなる。未来よりその範囲は広く深いのである。未来はむしろ今や限られた領域であり宇宙とか人間の住んでいない場所になってしまった。しかし歴史の探求は未だ発見されていない、新鮮なもので満ちているのだ。そんなものすべて発見されたではないかというが初めて知ったものにはそうではない、その人にとっては新しい発見の旅なのである。
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サクラで今日の一句一首のプログ(俳句短歌などでの説明)
パソコンのトラブル(ウィルスに汚染されパソコンが使えなくなる→サポ−トで混乱)
DREAMSYS
●スパイバスタ−(ウィルスが入りウィルスソフトが自動でインスト−ル?)
パソコンにスパイウェア-とかウィルスとか入りかなり悩まされた。一部の重要なソフトが破壊されて閲覧できなくなった。しょっちゅう電源が止まり利用できなくなっていた。サクラのプログも機能的に使えなくなってしまった。このスパイウェア-とかウィルスをなんとかしようとしてスパイバスタ-なか4千5百円で買ったがスパイウェア-ではなく今度はウィルスだとかウィルスのソフトを買いとか電話で相談したら言われた。なんだこれはスパイウェア-とかウィルスがでてきたからまるでそれにきくワクチンを販売してもうける会社なのか?実際にたいした効力もなかったのである。なぜか外国の同じウィルスを阻止するソフトが自動的にインスト-ルされている不思議である。これは何度消してもインスト-ルされる。これもなんなのだろうか?スパイウェア-に汚染された同時にこのスパイウェア-を阻止するソフト(ALFACLEANER)が自動的にインスト-ルされたのだ。ウィルスがしかけられそれを種に金儲けになる会社もいる。このウィルスの被害は甚大なものらしい。インタ-ネットの弱点がここにあることがわかった。使うことさえいやになったからだ。ともかく今年は災難の始まりの年だったのか?次から次と災難に見舞われている。このソフトの会社は電話で相談をうけつけているからサ−ビスはいいがソフトは金払っても使えないものが多いのだ。今回は緊急なのでしょうがなかった。結局パソコンを初期化しないかぎり使えなくなったのだ。それで新しいパソコンを買った。
それから新しいパソコンにして設定し直すのが大変だった。どこのサポ−トもサポ−トする人自体、自分の会社のことすら知らないで電話でサポ−トしているからパソコンは教えられても自力の努力が必要とされるものにいまだになっている。
●さくらのレンタルサ−バ−
ここが一番でたらめだった!コントロ−ルパネルから会員としてログインするパスワ−ドとホ−ムペ−ジにアクセスするパスワ−ドは違っていたのである。それが二人は同じだと言っていた。パソコンの電話のサポ−トは人によって違った説明をししているのが多いしわからないで説明しているのも多いのだ。この二つのパスワ−ドが同じだというから何十回も試すはめになったのである。その原因がウィルスソフトにあるとかパソコン自体にあるとか簡単なことがめんどうなことにならざるをえなかった。ここで一言この二つのパスワ−ドは違っていてホ−ムペ−ジなどにファイルを送るサ−バ−のパスワ−ドは違っている、再発行されないと使えないと言ってくれればこんなめんどうなことにはならなかった。メ−ルで一時間後に再発行されたのである。これはDREAMSYSのパソコンが悪いのではなかった。ただこんな簡単なことがサポ−トできないことがパソコンサポ−トは一人だけに聞いてはわからない、最低で三人くらいに聞かないとわからないようになっているのだ。これが最初のつまづきだったのである。
これはさくらだけではないパソコン自体のサポ−トがむずかしいからいちがいに責めるわけにはいかない、さくらには安くてサ−ビスがいいから満足している、サポ−トも電話でしてくれるのだから悪くはない、ただどこでもサポ−トは人によって違ってくる。知ってる人と知らない人の差が大きいのだ。
会員メニュ−とかコントロ−ルパネルから入るパスワ−ドと
FTPのホ−ムペ−ジなどをアップするサ−バ−のパスワ−ドは同じだと
このパスワ−ドはさくらからメ−ルで新しいパスワ−ドを発行する
こんな基本的なことを教えていないのか?
●キャノンのデジタルカメラのサポ−ト
DREAMSYSのパソコンでデジタルカメラのソフトのディスクが全くインスト−ルできなかった。それでしかたなくファイルを古いパソコンから移してそのファイルからインスト−ルを試みたがそれができなかった。それでサポ−トに電話で聞いたらファイルからできない、ディスクからしかできないと言われた。一瞬これはディスクからしかできないソフトなのかと思った。というのはキャノンでそういうふうに作っていたソフトでディスクからしかできないと思ってしまった。キャノンの案内の人がいうのだから間違いないと思ったのだ。そしてこれも三人目くらいで移動したファイルからもインスト−ルすることができたのである。10くらいあるフォルダのある一つからすべてがインスト−ルできるようになっていたのだ。ここでファイルからはできないと言われたときこれはキャノンの会社に雇われる人が言っているのだから本当にできないかと思ってしまった。これはサポ−トにしては教育すらされていない、ただアルバイトのようなものを安く雇って人件費をうかしているのかもしれない、サポ−トには地から入れていないのだ。こうした基本的なことがわからなくてサポ−トをしているのは責任体制がサポ−トにはないとなる。一瞬「ディスク以外からはインスト−ルできません」と断定されるとキャノンの会社の人が言うのだから間違いないと思ってしまう。わからなければわかる人に聞けばいいのだが「できません」となると本当にできないと思ってしまう。何かを訪ねられて「できるか」「できないか」イエスかノ−かは大事である。この場合、ディスクからしかできないと言われれば本当にできないと思ってしまいギブアップになるからだ。ディスクでも中身のフアイルがパソコンに落とせればそのファイルは他のパソコンにも移動して基本的には使える。ということはソフトもコピ−されやすいのがパソコンであることがわかる。
「できない」とは簡単に言うな、キャノンに雇われた人が言えば信用するから 何か方法があるかもしれませんが私はわかりませんとか他の人に聞いてみますとか言うべき
まあ、DREAMSYSのパソコンはこれだけの機能があり10万で買って基本的なものは一応やれるようになったからそれほど不備があるのではないらしい。メ-カ-品でないとできないものかといろいろかんぐったがそうでもなかった。パソコンがトラブルの時、意外と簡単なことがわからず設定しないで問題がおきている。今回もそうだった。