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時事問題分類

宗教問題(小林勇一)
(追加した文あります)

(これは時事問題の深層に出したものからテ-マごとにまとめました
このテ-マにあったものを随時追加してゆきます)

時事問題の深層の全目次



・・・このペ-ジの目次・・・・・

法の華福永氏の逮捕

創価の闇社会の闇

福島民報社の疑問

政治と宗教(神への恐れ)(1)

政治と宗教(神への恐れ)(2)

靖国神社参拝の是非

根深い日本人の宗教意識

織田無道が逮捕された

現代の三つ災厄 創価学会

創価のシンパの知識人

政治家は名聞名利の世界

カルト宗教からの脱出のむずかしさ

教会の牧師がセクハラで裁判に

宗教のもたらす混乱の恐怖

教養の衰退からカルトへ

戒名檀家とは何なんだ

創価学会員の控訴棄却判決 日蓮正宗本堂解体訴訟

正月に配られる「御札」の疑問

自己責任の社会(なぜカルト教団にだまされるのか)4月9日

報道の自由はなぜ規制されるのか

政教分離の定義のむずかしさ(創価は憲法違反)4月29日

民主主義の基本は独占の禁止(宗教団体-創価にも独占禁止法の適用を)5月3日

創価にからんだニュ-スの真相は(JRの電車事故にみずほ銀行の創価学会員の14億詐欺事件)

靖国神社も政教分離に違反するのか?5月26日

全体主義化する国家の危機 (報道されない石巻市議会議員の焼身自殺事件)6月14日

戦争を論理的に反省する(英霊とは何なのか?)6月17日

人権擁護法案にメ-ルで抗議 6月19日

本物の宗教は荘厳な文化を創造する

法の華 福永法源に12年の刑(自由社会のリスク)7月19日

カルトととは一体何なのか?7月22日

カルトに頼らぬ自立的思索を深めよう(糖尿病の少女が宗教団体で死亡)7月24日

大組織に操作されるマスコミ報道など
(福島民報で創価学会(聖教新聞社)との協力を堂々と宣伝)12月2日

2006−9−17
オウムの松本智津夫被告は正常なのか異常なのか?

2006−10−13
守護霊とは何か?

2007-1-20
認知症 病識 治療できない−カルト、ファシズム−自覚できない病気?1−20
弱者、病者、障害者への愛は純粋な愛が要求される(介護で考えたこと)7月2日
イラクの破壊されたモスクと創価の危険性(政教分離なき世界の恐怖)7月9日

2009-1-17

死者を愛しつづけることができるのか?
わたしたちは愛においていかに死者を憶うか(キケルゴ-ルを読む) (時事問題の深層39)


1-31


臨終の相にこだわる疑問



大組織に操作されるマスコミ報道など

(福島民報で創価学会(聖教新聞社)との協力を堂々と宣伝)


法の華の福永氏逮捕

福永法源の本は何冊か読んだ、言っていることは悪いことではない、貧乏でも心が億万長者であればいいという主旨でありそれは批判されるべきではない、問題は本当に自らがみんなが現実に億万長者になろうとしたことである、宗教は貧乏であれ金持ちであれ心の修養であり心を治めることにある、それが現実に億の金を持つということになるとそれを実践するとなるとこの世ではサタンに魂を売らない限り実現しない,この世の力と権力はサタンのものなのだ、どうしてか神はこの世の力はサタンに譲り渡している、故にサタンにひざまづかない限りこの世で力をえることはできない、政治であれ経済であれ報道、マスコミであれサタンのものなのだ、何故にあのように急速に大伽藍やら金を集めに成功したのかサタンに魂を売ったからサタンがそうさせてくれたのだ、サタンの力の恐るべきものがここに遺憾なく発揮された、彼が本を出版できたのも金集めに成功したのもサタンの力によっていたのだ、この世の権力を求める時、サタンは協力するのである、なぜならこの世はこの世の力をみな求めているからだ、創価学会であれカトリックであれ巨大な宗教団体はサタンにのっとられたしサタンのものになったのだ、宗教すら容易にサタンの手中のものとなる、宗教は本来この世で力を得ることはできない、無権力なる時、純粋に宗教的になる、何故なら人は権力を常に求めているから大伽藍やら人数やら土地の所有のいかんやら家の大きさやら金に目がくらまさられ心の平静や浄化を求めることの反対方向にその目が向いてしまい宗教どころではない、この世の欲望のために振り回されるだけになってしまう、権力は最小限におさえ宗教を心の平静を願うものは一軒のあばら家に棲むことがにあっている、しかしその時一冊の本も出す力もなく一人であれば誰も見向きもしないことになる、しかしこれが宗教的なことであり何百万の人間が集まる時すでにそこはサタンなる偶像をを祭り上げる集会になっているのだ。
それにしても警察があそこまでもこんなに早い時期に宗教に介入するとは思わなかった、宗教団体はあれほど極端でなくとも同じようなことをしてをりそれが警察が介入するとなると反対する人もあるだろうし問題視する団体も出てくる、宗教弾圧だとこれまでうるさいほど言っていたしそれに守られていたのだからこれには宗教団体もやりすぎだとか恐れを感じるものも出てきているはずである。大小があっても宗教団体は詐欺という点で共通しているからだ。

カルトに頼らぬ自立的思索を深めよう(糖尿病の少女が宗教団体で死亡)







  
創価学会の闇社会の闇

幹部の集まる会合で「お前らなぜここにいるんだ、権力奪取!権力奪取!のためだ」こうして幹部の会合で叫んでいる団体とは何なのだろう。三国志を読ませては権力奪取の実践しようとする、頭の中が毎日権力奪取しかないという団体は何なのだろう。創価学会の怖さはすでに社会の枢要な地位に会員を配置して権力を我が物にしようとしていることです。役所であれマスコミであれ法曹会であれ権力を掌握するために配置されているのである。今ふりかえると幹部として一番耳にしたことが「権力奪取」「掌握」という言葉でした。これが宗教なのだからあいた口がふさからないしこれを支持する人の数の多さには驚きです

創価学会の闇は社会そのものの闇です。暴力団がなくならないように社会の闇も消えることがない,暴力団を膿む闇創価学会うむ闇そのものが問題です。それは社会そのものだからこの闇はあまりに深い、今や創価学会を批判することは社会そのものを敵に回すことになるから批判できないのである。題目をあげてノイロ−ゼが直った、病気が直ったと婦人がいい、それが政治に結びつく一票を公明党に投票することになることはをかしい。理性的に考えれば病気が直るのは医者の治療で直ったり心持で直ったりすることもある。宗教で百万回題目を必死に唱えて直ることもある。でもそれがどうして政治と結びつき一票と結びつくのかわからない、しかし創価学会が婦人部が大きな力を持っているように女性は理性的に考えることができない、宗教と政治が一体になっていることへの疑問もないのである。ここに女性が力を持つことの危険性があった。

ともかく何か御利益があればいいだけの宗教である、それはしかし結局ほとんどの宗教団体がそうだから創価学会だけを批判することも間違っている。ただ露骨に権力を奪取し支配しようとすることが許せないのである。私を折伏した人も家が傾き創価学会に入り市会議員になりそれでその弟は大学に入ることができた、それは功徳だ功徳だとそればかり言っていた。御利益がすべてなのだ。ところが創価学会は社会の縮図だからご利益ばかりはない、交通事故で死ぬものや突然病気で死ぬもの破産するもの犯罪を犯すもの社会と同じようにあれだけの数がいれば起こるしそれは信心となんの関係もない、創価学会をやめると不幸になるというがやめなくても不幸な人も多いのである。最近の商店街の衰退や中高年のリストラとか社会の変化で苦しい目にあっている人の中にも創価学会員はいる。でもそれは別に信心がたりないとか信仰とはなんの関係もない、病気になるのもみんななるのである。

創価学会員だけが倒産しないとか病気にならないとかにはならない、それをどうして信仰と結びつけるのかわからない、私は創価学会をやめて天国に行ける約束を得た。そのためだけではないにしろなぜ医者だとか弁護士だとか官僚だとか一般の常識人が下々で働く人たちがあらゆるものを権力奪取の目的に向かわせる団体の一員として協力しるのかわからないのである。これも人間の社会の闇だからいかんともしがたい、池田大作を批判したとてどうにもならない,その欲望といい権力欲といいみんな池田大作と同じなのだから。池田大作はヒットラ−と同じであり大衆によって作られた虚像である。池田大作は存在しなくてもいい、やはり大衆、マスコミにより祭り上げる架空の存在でもいいのである。実際池田大作がいかなる人物なのかなどわかりえようがないのだ。勝手に都合いいように聖人君子に作り上げられているのだ。大衆を相手にするところではヤラセも日常的に行われている。ありもしない架空の作られた情報が本当のことのように流されているのだ。テレビでも写真でもそういうことが作り上げられそれが本当に思えてしまうのだ。美化されたものには何か作られた意図的なものがあり真実とは違う面があることを考慮せねばならぬ。それを受ける方ではその情報の真意を知りえようがないからそれをうのみにしてしまうのである。

先生はどうだこうだとまるで神様のように幹部が言うのも権力者に対してのへつらいごますりでありそうすれば組織での地位が保たれ利益があるからである。これはオウムさえそうだったし共産党支配のロシアであれ中国でも同じだった。人間のすること過去も今も世界中で同じだということである。結局人間の欲というのが変わらないからだ。手変え品を変え詐欺も続いていると同じである。そして巧妙に美化され演技され作られた虚像をマスコミ社会では大衆は信じるのである。創価学会もまた巨大なマスコミであり個人など相手にしていない、数がすべてだからマスコミと同じなのだ。何が真実なのかなどわかりえようがない、聖教新聞などもいいことばかり書いているがその実際はわからない、ただかつて戦争が美化されたように美化されるのである。信仰による青年の友情とかなんとかきれいごとならべているがその実は権力奪取を目指せと幹部の会では堂々と毎日激を飛ばしているのだ、わからないことは学生部にしても幹部にしてもみんなそれを聞いて疑問に感じないことなのだ。ということは真面目に信仰や宗教のことを考えている人は皆無だということになる。ただなんかしらないのだが罰だとか地獄だとか池田大作すら恐れていることは確かである。ただ罰だと地獄だというのも自分の都合いいように利用しているだけでありなんの根拠もないのである。本当に恐れているならあんなことをやっていられないからである。仏の最大の誹謗者が彼らなのだから・・・・・

それにしても学生部たるものが池田の親衛隊ナチスの親衛隊だったとは余りにもこの団体の社会の闇に愕然とする。それに疑問を感じない青年とは一体なんであったのだろうか。この世がサタンの支配することの紛れもない事実がここにあった。青年の純粋さのひとかけらも入る余地のない暗黒の世界だった。゛これにくらべて特攻隊などはお国のためにと死んでいった。そこには私心はなかった。権力欲など毛頭なかった。ただ犠牲心がありそれがあの悲惨な戦争という中で一瞬の美しい光芒を放ったのだ。

創価学会にはそんなもの微塵もないのだ。平和だとか正義だとか叫んでもただ求めているのは権力だけなのだ。そこから何一つ宗教的な悔悛だとか美の創造だとか生まれない、生まれようがないのだ。求めているのは権力と欲だけなのだから。戦争で死んだ人たちの方が間違っていたにしろ自己犠牲があったかもしれない、なぜなら彼らは苦しみのたうちまわり死んだのだから。御利益しか求めない人間はそこまでしないだろう。強制されたにしても創価学会よりはましだった、そこは余りにも醜悪なものでその醜悪なものを崇拝ししている人たちももわからないがやはり同じように醜悪にならざるをえないし醜悪なのだ。毎日権力奪取と叫んで集まる会合がどうして宗教と関係あるのかそれに気づかない人たち、大衆というもの自体の不信が自分にはあり得たいの知れない大衆というものがまたファシズムをうみ創価学会を作っているのだ。

だからその闇は余りにも深く創価学会というサタンの魔殿も容易には消えない、創価学会とは社会そのものなのだから。現実に公明党はある時は自民党に反対していた。その時は地獄に落ちるとか息まいていたが自民党と今度はくっついた。それではなぜ地獄に落ちるなどというのだろうか。創価学会やめた人は地獄に落ちるという。政治だったらある時は自民党に票を入れることもあるし民主党に入れることもある。それだからといって地獄に落ちるとかそんなことは誰も言わないのである。裏切り者とかは言うかもしれないが世俗のことに宗教を持ち出しそれで物事を判断するとおかしなことになるのだ。ともかく地獄に落ちるなどと言うことは神か絶対者しか仏かしか口にできることではない、誰も来世のことや誰が善人で悪人なのかなど普通の人間には知りえようがないのだから。来世ではそのことが明らかにされ逆に大衆は愕然とするかもしれない、自分たちは崇拝していたものがサタンだったということに・・・・・大衆もまた罪なきものではなく罰せられるのだ
民主主義では言論は自由だしそういうことを言う人はいたのに耳を傾けない考えもしないということは許されないのである。江戸時代とは違うのだから。いづれにしろ宗教はやっかいなものでやめることは簡単にできない、一旦団体の宗教組織に束縛されたらやめることは容易ではない、それ故に30年前とほとんと支持する人の数に変動がないのかもしれない・・・・・

    
水澄むや理性のさえて世を見なむ


福島民報新聞の疑問


時事通信社は創価学会の弁護士が入り創価学会系にくなっていることを批判している記事をインタ−ネットでみかけた。9月16日今日の福島民報に池田大作の少年の心の闇がどうのこうのと教育について一文を特別扱いしてのせている。福島民報も創価学会に買収されているふしがある。創価学会では金があるからマスコミ対策として広告をだす,それがマスコミでは大きな収入源となるからそういう要求が断れないのである。大新聞社の一部もすでに買収されているし知識人もとりこまれてゆく、福島民友にも同じように広告が大々的にのせられているからマスコミは経営するために金がかかるから結局大きな団体には弱いのである。創価学会は組織体としてまとまりがあるから不買運動や抗議されると怖いからマスコミは批判しない、でも一体福島民報にしろ新聞社とは誰のものなのだろうか、自分も一部とっているから多少その紙面についても言う権利があるのではないか。もし公平を期すなら他の宗教団体の長も特別扱いで発言させるべきだろう。いつれにしろ一部くらいとっている個人など抗議しても相手にされないだろう。マスコミは常に大勢が相手の商売であり一部くらい不買運動したって痛くもかゆくもないのである。

これは今の出版活動やテレビであれあてはまるのだ。やはり金がかかる営利活動が自由を拘束し大きなものに言いなりになるのである。言論はそうあってはならない、民主主義の問題は大勢を大事にし少数者が損することである。このところの我が近辺の住宅工事でも20軒くらいは何千万の金が与えられ新しい家を建てたが二三軒は金がなくなったから家自体を移動してくれという。(家を引っ張ることができる)、自分の家も回りがみんな高くなり低くなってしまい水が低いところに流れるようになって心配である。しかし損したのは数軒でありあとは新しい家を建ててもらったのだから文句は言わない、少数のものだけが損して馬鹿をみることになったのだ。少数者は抗議しようにも抗議もできないのである。数だけを優先する世界は必然的に不公平を生むのだ。インタ−ネットが金がかからず意見を述べることができることは力のない個人も大きなものに対抗できるということでメディアの報道面での革命となってゆくのかもしれない、しかしその力はまだまだではあると思うが・・・そういう力を秘めていることは確かなのかもしれない

創価学会問題のサイトで毎日が一番近く朝日新聞から読売と財政的に結びついているとあった
テレビ局も聖教新聞の広告を出しているからその急所を握られている
権力掌握が目的なのだから豊富な資金はあらゆる権力買収に使われる
善男善女が考える世界とは全然違った世の中の現実である
マスコミは意外と金に弱いし大きな権力に弱いからマスコミはとにかく権力ある方につくようになる



政治と宗教(神への怖れ)(1)

人間は様々な怖れと戦わかねばならなかった。最初人間は非力だから自然を恐れ敬った。日食になった時太陽が隠れ太陽がなくなるという恐怖におびえた。インカでは太陽を死なせないために子供を生贄に捧げた.いかに自然に対して恐怖を抱いていたかわかる。人は恐怖のために神に祈った。西洋ではそうした自然の恐怖を自然を解明するために科学が発達した。自然を怖がるだけでなく恐怖の実体を冷静に見つめ恐怖に立ち向かったといえる。宗教は祈るだけでその恐怖の実体が何であるかということは追求せず神のすることとして神にすがり祈るだけだった.では宗教と自然をどう考えるかと言うと以前としてこの世界は神が創りたもうたものだから神に全権がある。自然は自然の原理でそれ自体働くものでそこに神がいないというのが無神論であるが、これを創造した神は唯一の神は存在し神はある明確に意図をもってこの世と人間を創造した。人間は自然を山や樹や岩を神としたがその自然を創造した神は存在しその創造主こそ崇めらるべき者なのだ。自然は神の語らぬ聖なる言葉である。

 この神が宗教が人間社会に入ると複雑になった。日本の最初の王が邪馬台国のヒメ子で巫女であった。なんらか自然と通じ自然の怖れを和らげさせるものだったかもしれぬ。それ故神聖なるものとされた。そうした司祭が王となり民を治めるものとなった。日本の天皇は以前として権力を持つ王ではなく聖なる司祭なのである。ここがヨ−ロッパの王とは違うところである。明治から昭和へと人間が現人神とされたのもこうした歴史的経過があってのことである。つまり日本の王は聖なるものへの恐れでありヨ−ロッパや中国など他の国はほとんど権力を持つものへの怖れに変わった。ヨ−ロッパの場合カトリックの歴史はこの聖なるものをもって権威として権力化した。この聖なるものと俗としての王の権力の争いがヨ−ロッパの歴史でもあった。そこから政教分離の制度が生まれた。カトリックは罰だとか地獄だとかで民の心を縛り免罪符など出して商売したりして腐敗したのである。

 創価学会の構造もこれと同じなのだ。聖なるもの宗教を利用して民を恐れさせると同時に権力で民を恐れさせる。しかし現代では宗教より科学が宗教の役割を果たしており宗教だけで力を得ることはむずかしい。そこで権力を掌握して民を恐れさせることが効果的になる。創価学会の人は仏を恐れる気持ちはあるのかもしれない。外部のものにはないから権力で恐れさせ民を押さえつけることに力を注ぐことになる。日蓮聖人というが日蓮は一人で時の政治家を怖れさせた予言者であり何百万人で圧力をかけるものとはかけ離れた存在である。いずれにしろ創価学会や宗教団体は聖なるものを極端に卑しめてしまったのだ。聖なる権威ではなくその権威はすべて俗の権力からきている。だからあの御本尊とか題目とか唱えても外部の人は何ら恐れない、事実自分も紙くずとして捨てて燃やしてもそこに怖れは全然なかった。むしろ権力的に司法であれ政治であれ経済であれこの世の力を行使される方が怖い。公明党が大臣となり官僚を睥睨する。宗教が公権力として存在することに疑問を感じないこと自体わからないことなのだ。現実もし創価学会に逆らうものは左遷されたり言論を弾圧されたりすることになる。マスコミはそうなっている。罰をあてるのである。罰を当てる力を持つことが怖いのである。これはすでに神や仏に対する恐れではない。権力を行使できるものへの恐怖である。

では聖なるもの神仏に対する怖れは何に由来するのか、神が人間にとって恐るべきものは何に由来するのかということである。それは数による権力とか経済とか軍事力とかではない。地獄に落ちるという時、それは何故なのかという時ただその言葉に恐れるだけなのだ.それは人間の悪を罰する、罪を罰することが神にできる、人間が裁かれるということである。その神の聖なる権威はこの世の権力としての権威とは違う。その数を誇り権力をもってこの世を支配するものとは違う。人間は様々な怖れがある。死の怖れは最大の恐れである.しかしもともと人間には死はなかった。罪故に死ぬようになった。罪の値は死であった。さすればその罪こそ恐るべきものなのだが人は権力を求め権力で人を支配しようとするのだ。いずれにしろ創価学会のようなもの聖と権力とが一体になったら最悪である。聖と俗の権力が一体となり粛清される。聖なる天皇が批判できないように池田大作が国民に君臨したら誰も批判できない、池田大作は創価学会の聖なるもの象徴だから国会喚問を阻止するために自民党と合体したのだ。彼は権力のためには誰とでも結ぶ娼婦でもある。こうして創価学会は聖と俗の秩序や聖を俗と混同することなど社会を混乱させた元凶であった。白川議員が反創価学会として活動する。それの反創価学会の宗教勢力であれ政治勢力が加担する。それもおかしなことなのだ。宗教が政治に翻弄されているのだ。これも政治と宗教が創価学会により混同させられてしまったためである。宗教は本来どっちの勢力に加担するというものでもないのだ。公共事業にも賛成することも反対することもある。だから自分は反創価学会の勢力とも一線を画す。それは宗教とは関係ないのである。政教分離といってもそれが法律的にもなんら効力をもっていない、数が多ければ何でも通るのが民主主義なのか、その前に正しい法の施行、数によらない原理原則、正しい法の守護、施行がないとすると数ですべてが通る暗黒の世になる.法も宗教に由来し神聖なものでもあるのだ。



政治と宗教(2)


人間が自己を神格化して、それまでのすべての神に優越するものと見るようになったのは、文明が完成されてからのことである。

自然の崇拝を人間に勝利をもたらした集団的な人力への崇拝の下位においた。

ある特定のイデオロギーがたとえ全面的に悪いものでないにしてもそれを望まぬ大多数に対して力ずくで押しつけられるということは悪だと認めねばならぬ。
トインビー
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人間が何故自然を恐れたかというと自然を知らないということであった。人間は自然を知る、解明するために努力を積み重ねてきた。日食は周期的に起こるもので太陽が永遠になくなるものでもないしエジプトでは周期的に洪水があったがその水は肥沃な土地を作りピラミッドを建てるほどの生産力を持つにいたった。様々な知らないことに人はおびえる。雷におびえ地震におびえる。雷は科学的に解明されたので昔の人のようにおびえることはないが地震はまだ解明されないのでおびえる。病気について細菌について医学が進歩し解明されると病気を怖れる必要がなくなる。人間は知らないことには恐怖がつきまとう。人間は徐々に自然に対して知識を深め生きる知恵を生み出してきた.そして自然より人間の作ったものが強大で巨大なものとなっていった。

皇(おほきみ)は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ 4260

大王は神にしませば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都と成しつ 4261


日本でもすでに人間の力、技術力の方を驚異的なものとして見るようになっていた。その前は自然の力と人間が同一化される傾向があった。

皇(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかつち)の上(へ)に廬(いほ)りせるかも 0235

天皇が自然の驚異と同一化されている。こういうことは科学的ではないというが日本が天皇にそうした特別の力があるものとして神として戦争をしたことは否めない事実だし神の国発言が問題になるのも遠い過去の問題でないことを物語っている.日本が中国や他の国とは違う神の国だということが無謀な戦争に突入した原因でもあった.神の国であれば人間の力や様々な戦力の分析など必要なくただ神に祈れば勝つことになる。イスラエルも神の国であるがそれは旧約で終わりキリスト以後は個人的なものに神の国は以降したのである。ここに宗教と政治権力が一体となる危険性が常にあったのだ。ナチスにもゲルマン民族、アーリア人種が優秀だから支配すべきだとい論理があった。オウムも仏の国を実現するには他者を殺してもいいという理屈になるしそれを実行した。オウムの行動は異常なことではなくナチスであれ日本神国戦争であれ大規模に行われてきたことなのだ。神国であれ仏国土であれ共産国であれ同じではないか。一つのイデオロギーに人間を統制することで同じなのである。

 国家は原始時代には存在しない、部族の段階に留まり国家は存在しない。アイヌは人という意味でありモンゴルももともと人という意味で国家は存在しなかった。技術が進歩して国家が形成され文明が作られると人間が神となる。国家の王が神格化される。それは遠い古代の話ではない。共産主義国家では宗教は否定されたというがその指導者は神格化された。指導者が死んだ時まるで神のように遺体は安置され崇拝された。そもそも政事(まつりごと)は死者を祭るからきているので死者を祭り権威を得ることが政の初めだったのだ。人間は時代が変わっても同じようなことをするのである。科学的、合理的、武力だけではなくなんらかのその上の神聖な力を必要とする。それがデーモンに由来するものデモーニィシュなものとなる。これがあなどれないのは社会が混乱するとき科学的、合理的、民主的などといういかにも現代人の信仰していた理性など簡単に踏みにじられたからである。
 
それがヒットラーであり現人神信仰であり最近ではオウムであった。一般の人が何度も疑問に思ったことは何故大学を出た技術者である優秀な若い人があんなことになったのかという疑問である.オウムというのも現代を象徴した事件でヒットラーにも通じる極めて現代的な矛盾をまざまざと見せ付けたからである.創価学会もそうしたものと同じである。非合理的なもの誤ったデーモン的信仰に社会が席巻されデーモンの神を拝まされることになる。着々とそうしたものが社会に浸透し社会を支配してゆく。隣も職場でも創価学会員は普通の市民として存在しいたるところにおり創価学会を批判することはタブーとなる。それらはオウムのように隔離されず社会を支配してゆくようになる。この世の権威はサタンのものだということは変わらないのだ.下の方では政教分離などむずかしいことはどうでもいい、選挙に勝てば御利益があるというのがわかりやすくていいのだ。マスコミも完全に支配されているし公的なものも支配されている。書店もそうだしそうした場には一見自由があると思ったがマスコミ支配であり権力を持つものが支配する所だった。現実にそれと戦っている人がインタ−ネット上でかなりいたのである。出版界とかマスコミに言論の自由などない。あるのは権力をもつものが押さえるという事実である。それに抵抗したのが2チャンネルとかであるがインタ−ネットが多少そうした既成の権力に抵抗する技術を提供したことは確かである。

そもそも政治と宗教は不可分に結びついていた。政(まつりごと)が政治であったからだ。イスラムでは以前として祭政一致であり宗教者が権力をもっている。イスラムで怖いと思ったのは娼婦が宗教的に排除されるべきだと過激派によって殺されたことである。これは非常に危険な怖いことである。ナチスのようにユダヤ人やその他異物、異種なるものが排除される。粛清されるのである。娼婦にしても全部一様でないしそうした排除の思想は危険である。イスラム原理主義は理想を求めるが故に過激になる。キリスト教や仏教では内面を重視するもので社会そのものを変えてしまうというものはなかった。仏教も入ってきた最初は奈良の大仏のように国家守護の神ともなったが鎌倉時代に民衆の宗教となった。創価学会でも共産主義でもそこには常に全体主義の排除の思想がある。社会そのものに俗界に深くかかわり仏国土だとか平等の共産主義だとか全体主義にしようとすることが危険なのである。その失敗がカンボジアでありロシアであり文化大革命の狂乱であった。出世とは俗世間から出ることであったが創価学会は俗世間で権力を持ち俗世間を支配することなのだ。

 宗教はまた政治に利用されてきた.島原の乱も武士が民衆のキリシタンを利用して幕府を倒そうとしたもので純粋な信仰の迫害ではなかったことが最近明らかになった。秀吉がキリシタンを恐れたのはスペインやポルトガルの持っていた武力の支配であった。実際は信仰とこうした武力は切り離されるものなのだがキリシタンの背後には強大な武力をもった国家がありそれを意識されたのが不幸だった。宗教が権力をもてばそうなる。信長もそのために一向宗を撲滅しようとした。第一草庵にいる一人の僧だったら誰も恐れもしないし見向きもしない。実際自分などそうである。権力として現われたから敵対したのである。創価学会にしても一時は権力に保護されてもまた攻撃の対象ともなる。権力側に逆らえばそうなるからなんとか権力に小判鮫のようにくっつくのである。公明党の議員が民主党がまた政教分離で攻撃しているとか批判しているがそもそも宗教がこのように政治化したのは創価学会のためである。宗教が政治の綱引きの場とされている。だからそういう場に入ると政治闘争、権力闘争にまきこまれてしまうのだ.無責任なことは自分たちが作り出したことを他者のせいにしていることである。神崎氏が靖国公式参拝が政教分離に違反するというのもいかに馬鹿にした話かわかる。理論的に全く正反対のことを主張しても恥じることもないのだ。政教分離など口にする資格などないのだが平然としている。

 創価学会には議論など通じる世界ではない、マキャベリズムの徹底した大衆支配がすべてだからだ。権力さえ取ればすべて通じると思っているからそれを目的に活動する。どうして法華経と三国志が結びつくのか、これはオウムにもいえたことだから創価学会だけではない現象である。現代は思想の混乱におちいり安いのだ。武士道は確固とした同じ価値観の社会に根ずいたものである。明治維新が何故成功したのか、江戸城の無血開城が西郷隆盛と勝海舟の談判で実行されたのか、どちらも武士で同じ価値観の世界で生きていたものだから通じ合うことができた。現代ではそうした強固な同一の価値観のない世界であるから様々な価値観や思想で混乱する。先進国七ケ国はキリスト教国で共通の価値観を歴史的に形成したことで対立しつもわかりあえるところがあるが日本はそうでないので異物化され排除されるものをもっているのだ。とにかく公明党は時と場合によってはコウモリのように立場も意見も変えるからその政策も一貫しないし全く信用できないのである.小泉首相が政治に信頼を取り戻す必要があるとう時公明党と結んでいたらやたらいろいろ口はさまれ信頼も失う。自自公政権が信頼されない一因もそこにある。公明党と手を切らない限り信頼は得られない。

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カイロ20日時事】イラン北東部にあるイスラム教シーア派の聖地マシャドで、売春婦など特定の女性を狙ったとみられる殺人事件が相次ぎ、地元住民を震かんさせている。被害者は全員、スカーフで首を絞められるなど、殺害の手口が酷似。捜査当局は「社会の浄化」を主張する過激な宗教グループによる連続殺人の疑いがあるとみて捜査している。 

[時事通信社 2001年 4月21日 08:53 ]
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池田大作はトインビーと対談している、それを自慢にして宣伝もしていた、ファシズムというのは無節制であり権力取るためには手段を選ばないことなのだ.アンネフランク展だとか人権だ自然保護だ知識人芸能人からなんでもとりこんでゆく。資金が豊富だからなんでもやれるのだ。トインビーすらだまされることは知識人もあまりあてにならないことを示している.

          創価学会による知識人の支配

そしてインターネットの日記というのも不思議である。

当時祖母は創価学会に入会していて、かなりの金額をお布施にしてしまったと、後に伯母たちは言っていた。その頃大学生で、多くの若者たちと同じように学生運動にはまっていた父は、創価学会が学生運動に反対しているという理由で仕送りを止められ、学費と生活費のため、朝一でゴミ収集のバイト、それから学校へ行き、夜は工事現場の仕事をしたと言う。」

これも不思議である。池田大作は全学連をまねてヘルメットかぶって学生部を動員した。自分も馬鹿だから参加した。池田大作のヘルメットかぶった写真があるのだ。あれは藤原弘達を批判する集会だった。創価学会は権力とるためにその時々の時流にのる。全学連が世間の注目を集めればそうするし新進党の時もそうだしサッカーが盛んになればそれも利用する。権力に反抗することは絶対ない。そのポーズをとってもあくまでも権力をとることが目的なのである。毎日権力奪取と絶叫していたのだし今も変わらない。とにかく個々の読むことの不思議がインターネットにはある。そもそも個々の日記を読むことなど今までありえなかったのだ。これが何を意味しているのかわからない。何気なく書いていることが何かの影響を及ぼすことになる場合もある。少数でも他人の日記を読んでいる人はいるし公開している人は読んでもらいたくて公開しているのだからある程度利用されても他者に批評されてもしょうがないのだ。公開することに何か意味があると思い公開しているとされても仕方がないのだ。インターネットがすでに実社会のなかに普及して現実社会となりつつあるという自覚が必要になっているのかもしれない。匿名が多いにしてもかなりの他者がかかわる世界になっているのだ。




 靖国神社参拝の是非(政教分離問題)

今回の靖国神社の首相その他大臣の参拝で政教分離が問題になった。靖国神社そのものが国民にはどういうものなのかわからないのだ。靖国神社が宗教施設なので外国人はお参りに行けない。ではどういう宗教施設なのかというと国家神道により天皇に命を捧げた人を祭る施設となる。その歴史は明治維新の時、官軍として戦った人を祭ったことが起こりである。だから賊軍とされた会津の人が同じように祭ってくれとインタ−ネットで言っていたのもなるほどと思った。賊軍にされた人の恨みは今でも残っているのだ。西郷隆盛は官軍として戦ったが後に賊軍となったためには祭られていない。靖国神社は天皇のために戦った人を祭ったのが起こりであった。そもそも明治維新が徳川の政権から天皇の政権に戻す革命でもあったのだ。そこで排仏棄釈とか仏教の弾圧があった。国家神道には信教の自由を保証していなかった。内村鑑三が天皇に礼しなかったということで不敬罪で要職から追放され非国民とされたのも天皇には絶対服従が要求されたためである。ある意味で神であるから礼拝が強要される。

天皇が絶対であるとすると他の神は認められないことになるのだ。戦後政教分離の法律が適用されて靖国神社は一宗教法人となった。政教分離で国家が管理できなくなったのだ。一宗教法人の施設に国家の首相が官僚が大臣が参拝することは政教分離の法律に違反する可能性がある。例えば創価学会の議員が多数になり多数の大臣が日蓮宗にお参りするとなるとこれも強力な示威行動になるしそもそも創価学会の施設は宗教施設である。会館では題目をあげ選挙活動にも利用される。他の人は宗教が違うのだから利用できない。それと同じように靖国神社も宗教施設だからその神を奉じるものが祭られるのである。そこに大きな問題があり政教分離に違反する面がでてくる。君臨すれど統治せずという天皇であっても国家神道の宗祖である天皇を全国民の頂点にいただくとうことも政教分離に違反するかもしれない。昭和天皇が靖国神社にお参りしなくなったのも不自然なことである。何故なら天皇のために死んだ、その本人がお参りしないことは矛盾そのものだからだ。それこそ不敬なことではなかろうか。戦死者の御霊を安んじるのは天皇であったからだ。戦犯が祭られているから参拝すべきではないというが彼らも天皇のために死んだのであるから祭られたのである。戦争責任を追及したら天皇そのものが罰せられることになる。だからタブーとなっているし戦犯の問題も同じように分祀できないのである。

戦争の是非はともかく天皇と一体となって存在した日本が起こした戦争は宗教戦争でもあったのだ。イスラムでは聖戦となれば死んだら天国に行くということで望んで死んでゆくことになる。イラク・イラン戦争がそうだった。わからないことは同じイスラム教の戦いだったことだである。死んだら神になるといって靖国神社で合おうといって死んでいったものは信仰的行為としての戦いに身を殉じたのだから外国がどう言っても神として祭られるのである。矛盾であろうが信仰団体の場合、池田大作のために麻原のために宗祖のために身を捧げることがある。日本国家がその時天皇を神とした宗教戦争だったという一面は否定できない。カルト国家状態になっていたのである。だからその過ちを指摘するとき戦略がなかったとかアメリカにはめられたとかいろいろなことを言うが宗教戦争と化したこと宗教そのものの過ちがあった。創価学会が政教分離をたてに靖国神社参拝を批判することなどできない、彼らこそ日本を宗教による戦前のようなカルト国家にしようとしているからだ。国家と宗教が一体となった政教分離の問題が天皇問題にもあったことになる。とにかくそうした様々な矛盾を集約したのが靖国神社なので複雑なのである。

政教分離の問題の難しさはヨ−ロッパのような宗教による悲惨な過ちを経験していないからだ。一千年以上も世俗の権力とカトリックの権力との熾烈な争いを経験していない、それはヨ−ロッパの歴史そのものだったのだ。つまり法というのはそうした歴史的必然から生まれたのであり偶然に生まれたものではない、血みどろの闘争を経て生まれたものである。それが日本にはないから理解できない大事なものとして認識できないのである。もちろんヨ−ロッパにしてもナチスが生まれたごとくその法を生み出した文明国でもそうなのだから現代の文明社会も法など簡単に踏みにじられしまたカルト国家になる。なぜ法より間違った宗教であれ世を容易に支配してしまう力があるのか民主主義もそれを助長するものとなるのかここに人間が人間を統制できないかんともしがたいもの人間がいくら法を整備しても悪魔的なものに踏みにじらてしまうものがあるということなのだ。

この世が本当に法でもって世界も治められるなら平和がくる、世界になると国際法なども力が強いものが正義であり無法地帯になってしまうのだ。法の前には宗教があり宗教が法律だった。だからキリスト教徒でないものインカの民は果たして人間であるかどうかが真面目に論議されたのだ。異教徒は人間でないとすると人権もなにもない人間として扱われないことになるのだ。日本にも天皇をいただく日本教徒が優秀でその他は劣等だという意識があった。特に東南アジアではそうだった。土人と言っていたりしていたからである。そこに差別があった。アメリカが日本に原爆を落としたのも差別が一つの要因だった。何故ならヨ−ロッパには原爆は落とさない、何故ならヨ−ロッパはアメリカの祖先の国だからだ。アジアにあんなことができたのは人種差別があったことは確かである。宗教はそれを助長するのだ。宗教団体の人達はなんであれ俺たちは選ばれた人間で外部のものは支配されるべきものとなるのだ。フランス革命でも宗教に関係なく人間は平等で自由だと宣言したのも宗教の重荷から解放されたという宗教に縛られたヨ−ロッパの歴史から生まれたのである。政教分離もそうであった、余りにも宗教というのが良きにしろ悪しきにしろ歴史に刻印したのがヨ−ロッパだったのだ。




根が深い、日本人の宗教意識 (靖国問題の根の深さ)

日本人は無宗教なのかと良く言われる。日本人は無宗教でない、日本人の家に行けば必ず仏壇があり位牌が飾っている。新興宗教に入っているものであれば南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の曼陀羅を拝んでいる。日蓮宗系統ですでに一千万以上いる。その他日本では宗教団体に属している人が多いのだ。日本人が無宗教という時、仏壇と神棚を家に飾っている人を無宗教だと言っているのだ。でもそれは明らかに歴史的民族的に受け継がれた宗教なのだ。日本人はまだ土俗的信仰を受け継いでいるのだ。土俗的信仰とは何かというとその土地と先祖とか家とか村とかが一体となった宗教である。いたるところにある小さな社がそれである。日本人を形成したものは村的社会でありる。そこで培われたものが日本人の深層意識として残っている。会社がまさに社に会するというごとく会社のビルの屋上に社を祀っている。そもそも日本人の宗教は複雑な過程を経て形成された故なかなか変えられないものである。それが果たして全部否定できるものはどうか悪いものかわからないからである。その一つの象徴として靖国問題がある。日本では死んだ人はみなホトケになる。神様になるという死者を極端に敬う思想がある。

現実家庭で拝んでいるのも先祖の霊である。位牌も死者の魂を木に移したものとされるからだ。でも生前はどうかというとその親が聖人君子でもないしはっつあん、くまさんにすぎないのである。中には悪いことした人や大きな罪を背負って死んだ人も多い。大方は何らかの罪を持ったまま死んだのである。はっつきり言って生前に悔い改め救われないものは死後も救われない。その人たちが全部死んだからといって神様、ホトケになることはないのである。そんなら宗教そのものもいらないし求道も必要ない。死ねばみんな神様になるのだから生前に一切の努力は必要ないのである。死者を神様とか仏様として一様に拝むことはやはり偶像崇拝になる。ところがお前は死者を敬わないのか、死者に御霊に対して失礼だとなるのが日本人なのだ。だから靖国問題の根が深い、そこには歴史的に培われた日本人の宗教があるからなのだ。

そもそも無宗教の人はいない、死んだときその厳粛な場に何らかそこに介在する人が必要になる。単なる物ののように死者を葬るわけにいかないからだ。そこで日本人は檀家制度としての葬式宗教を維持してきたので僧侶に寺にその死者の霊を供養する、祭ることをゆだねたのである。寺とか僧侶は宗教というより死者を祀るものとして権威をもったのである。人が死ぬことは人間の最も厳粛な場に立ち会うことになる。無宗教として物ののように葬ることはできない、そこで死者を葬る専門家が必要になったのだ。人間はわからないときみな専門家にゆだねるのだ。今や医者は神様といわれるごとく患者は自分の体のことはわからない、だから医者に全部まかせる、お前は医学のことがわかるのか、お前は何もわからない、医者に全部まかせるべきだとなる、法律についてもお前はむずかしい法律がわかるのか、みんな法律家、弁護士にまかせるほかないのだ、裁判すら弁護士なしの自己弁護など許されていないとなる。僧侶も死者に対する専門家なのだ。戒名を授け死者を葬る専門家なのである。死者に対しては科学外の領域であり誰もわからない世界なのだ。実際だれもあの世に行った人がどうなっているかなどわかりようがない、すべて誰が言おうと憶測なのである。そんな権威を持っている人など一人もいないのである。まさに神のみぞ知るである。僧侶さえも全くわからないのだ。死者を供養することと死者を拝み神のごとく仏様にすることと混同しているのだ。

靖国問題でも死者を供養することと死者を神に祀ることで問題が起きている。供養するなら国立墓地を作り宗教に関係なく供養する。ところが靖国神社は宗教施設であり明らかに礼拝の対象なのだ。誰でも日本人は死者に対して供養する心を持っている。しかしこれが神として礼拝することと一体化しているのだ。先祖を敬うとか死者を供養することは人間の心情として否定されるべきではない、ところがそれが宗教化、神として祀られ礼拝を強要されることは問題があるのだ。小泉首相であれ何故靖国に参拝して死者を供養していけないのかというとき神を礼拝するということではなく供養するという意味で言っているのでありそれが何故許されないのかとなる。供養することt拝むこと神として拝む行為の混同から起きているのだ。靖国問題の根が深いのは日本人の宗教心と深く結びついているからでありそれは容易に変えることのできないものになる。仏壇を取り去り位牌を焼くということが大変なことのように日本人の個々人の意識の中にその根があるから問題は解決しなのである。死者と化したものに対する畏れが宗教の基でもあったし死の問題が宗教の最大問題であったからだ。死の問題を解決するために宗教が生まれたのだ。死者を極端に敬うというのも死者に対する畏れからであった。死者を敬い供養することは悪いことではないし実際今では子すら親を敬わず先祖敬うことを忘れている時代、先祖を思い先祖を考えることは悪いことではない、むしろ奨励されることなのだ。ただ敬い供養することと神として礼拝することは違うのである。実際先祖は単に死んだ人であり神という特別なものではない、神というのは誰でもなりうるものではない、特別のものだからである。

この土俗的な歴史的先祖崇拝に対して鎌倉時代に生まれた、日蓮宗であれ、真宗であれ、禅宗であれこれは現代にも通じる宗教であり宗教に関してはすでにヨーロッパより先進国だったことに驚くのである。現代にそれが正しく適用されていないが今日個人の宗教として違和感なく受け入れれるものなのだ。禅宗にしても全くの偶像崇拝の拒否なことには驚くのである。仏教が偶像崇拝と思っている西洋人やイスラムの人がいるが全然日本では違ったものであったのだ。一方一向宗や日蓮宗は権力集団化して政治化して信長など世俗の権力者と戦うことになった。一向宗や日蓮宗は今でも集団化しているようにナンミョウホウレンゲキョウでもナミアブダブツでも現代では誤ればハイル、ヒットラーになる危険性が常に潜んでいるのだ。集団化は政治化であり必然的に権力とかかわり政治的に働きかけ権力的支配を目指す。上野霄里氏の言うようにほとんど集団化した宗教は権力宗教でありこれを厳しく弾劾したのである。その点禅宗は極めて個人的なのだ。そこが現代でも違和感なく受け入れられるものなのだ。

しかし日本では先祖崇拝の土俗信仰が根底にあり日蓮宗でも真宗でもそういうもの容認して成り立っている。それほどイエとか先祖とか土俗信仰は根強いものなのだ。天皇というのも古来のそうした日本人の宗教に基づいているからつまり天皇は日本人の先祖崇拝の総元締めであり祭祀として権威を持っているのだ。天皇というのを否定できないのは日本人の宗教心と底で結びついているからである。では天皇を否定すべきかというと天皇を否定することは誰もしていない、日蓮も伊勢にお参りしているし内村鑑三も王は敬うべしと言っていた。神として礼拝することを拒否したのであり敬ってはいたのである。歴代の世俗の権力者で天皇を否定した人はいないのである。敬うことと礼拝することがここでも日本人は混同しているのだ。キリスト者でも手島郁郎という人は神道の祭祀者のようになっていたことも不思議である。あの人については実にわかりにくいのだ。日本人で天皇を敬わない人はいなかった。天皇には敬うべき何かがあったのである。ただ敬うことと神として礼拝することの混同から過ちが生まれたのだ。現人神(アラヒトカミ)となった時、神として礼拝した時、誤った方向に国民を導く結果となったのだ。やはりこれも偶像崇拝の結果の過ちだった。宗教の要が偶像崇拝にあったことは確かである。




織田無道が逮捕された(宗教のいかがわしさ)



自由の霊をもって私を支えてください 詩篇51−12

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます
(ロ−マ人の手紙15)



織田無道が逮捕された。テレビではでなパフォ−マンスをしていた。除霊とかを派手にやっていた。あれで有名になり高額な金を払った人がかなりいたのだろう。テレビは一種の見せ物なのである。客集めにあういう派手な人を呼ぶのである。マスコミやテレビは真面目に何かを追求するものは排斥される。視聴率をとることが最優先課題だからだ。出版にしても営利事業であることから離れることができない。元がかかるし回収して利益をあげねばならない。しかし文化事業は営利となじまないのである。宗教も営利とはなじまない。売れない本しかおかないとしたら多くの良書は駆逐される。現実そうなっているのだ。出版や書店は公平な言論の場ではないのだ。その点NHKは実に恵まれている。膨大な受信料が努力もせず入ってくる。自動的に入ってくるからだ。だから良質な番組作りもできるのである。マスコミやテレビはメデアの性質上あういう派手な見せ物が常に必要としているのだ。そこに落とし穴があるのだ。しかしNMHもこれからは受信料を強制的にとるのはできなくなるかもしれない。なぜなら一人一人が放送局になる時代金を払うのは番組に払うのであり設備にはらわなくていいからだ。個々の番組を選んで金を払う時代になる。

では徐霊とは何のことなのか、悪い霊がついているとか言うのはどういうことなのか、これは実際ものすごくやっかいな問題である。カルトとといいこの問題につきているかもしれない。そんなもの迷信だという人がいるがそんな簡単なものじゃない。宗教団体に入っている人は間違いなくこの霊が支配されているのだ。奴隷の霊が与えられているだ。彼らは実際生活では奴隷ではないにしても霊的には奴隷なのである。しかしこの霊的奴隷から脱することはものすごくむずかしい。自分の力では不可能ほどむずかしい。だから宗教団体ぬけることはものすごくむずかしいのだ。奴隷の霊によって呪縛されるからだ。これから脱するには聖霊を受けねばならぬ。しかしこれもまた最高にむずかしいことであり自分の力ではできないことである。しかしこれから脱することは他人にできないのだ。牧師とかいろんな宗教者を訪ねてもまた奴隷の霊を受けることになるのだ。師を求め師に頼っても奴隷の霊からぬけることはできない。牧師であれ師であれ奴隷の霊を与えるものになってしまう。自由の霊が与えられることが大事なのだ。それはじかに神から与えられないかぎり不可能なのだ。そこにこの問題の解決不可能なほどのむずかしさがあるのだ。科学でも解決しない、科学すら迷信におちいる。この世のことなど科学で解明できないことがいくらでもあるからだ。

何か不幸があるとそれは悪い霊のせいだといわれるとそう信じる人は必ずでてくる。なぜか合理的に説明できないことがこの世には多いからだ。病気でもすべての原因がわかり治療できるわけでもないしこの世のことだってどのように変わってゆくのかもわからないのが現実なのだ。それで人は神にも仏にもあらゆるものに頼るのである。その頼る先がどこでもいい、数が多いなら力強いと思う人もいる。頼るのは神ではなくこの世の力になるのだ。創価学会という政治力、権力を持つ団体なら文字通り御利益があると思い入る。他にもとにかく人間は容易に頼り自ら奴隷化してゆく。宗教団体に入っている人はみんな奴隷の霊が与えられているのだ。そこでは地獄に落ちるとか罰があたるとか乱発するようになり呪縛されるのだ。それを言っているのが罪にまみれた強欲な自らが間違いなく地獄に落ちる人間が言っているのだ。宗教を敵を呪うためにも使われる。入っていない無宗教の人も奴隷の霊に支配されている。キケルゴ−ルの言うように単独者のみが自由の霊を与えられている。上野霄里氏のような天才の独立覇気の人のまねは普通の人にはできない。ニ−チエのように狂気になる危険性もある。皮肉なことは徐霊するものが奴隷の霊を与えるものなのだ。なぜなら人間に頼っているからである。師にあったら師を殺しという禅の教えを実践せねばならぬ。師を殺すといことは師に追従しないことなのだ。師というのもやはりエゴであり弟子を自分の配下にし支配しようとするのだ。これは自ら弟子を持たないと言っていた上野霄里氏でも同じだった。師となる人の誘惑は弟子を大勢持ちそれが権力につながることなのだ。親鸞が一人も弟子をもたないと言った時、弟子の自主性を尊重したのである。しかしこれもその弟子たちは組織化し権力化したのである。

今回の逮捕は墓地、霊園の経営で宗教法人格を取得したいということで起こった。創価学会でも墓苑経営を一手に請け負い莫大な利益をあげることになる。なぜならその数が膨大だからその収入も莫大になる。一山が創価学会員の墓になるくらいでありそれで地元の人が反対してしいる。山まで占領されてしまうのだ。それはみんな奴隷の墓の記念碑なのだ。後世にはっきりと証明される奴隷の墓群である。自由人の墓ではない。現代の宗教は文明化した世俗化した宗教であり宗教を利用して世俗的利益を得ようとするものが多いのだ。僧侶だって葬式でもうける葬式屋とたいして変わらないのだ。墓苑でもうけ政治でご利益あづかり葬式で生計をまかなう。これが現代の宗教である。宗教というと何かすでに世俗の垢にまみれた汚い不純なものとして嫌惡する人が多い。それは宗教人そのものが信用できなくなっている。宗教というだけですでに何かうさん臭い不純なものをイメ−ジするようになっている。ああ、宗教か創価学会かオ−ムかお光様か・・・・そうした宗教団体をイメ−ジする。もちろん何か訳のわからない経文をあげている坊主もそうである。あんな経文など聞きたくない。意味などないのである。花だけを捧げた方が供養になる。花は汚れがないからだ。宗教人がかかわると死者をも汚すのだ。宗教というと利権利益団体であり宗教法人を取得するのも税金逃れで自分たちの利益を守るということが先にあるのだ。

いづれにしろ自然の花であれ木であれ石であれそれらに接するとき人間は浄化される。宗教と名のつくだけでそれは世俗の垢にまみれた裏には暴力団でもからんでいるのか汚い何かどす黒いものを感じてしまうのだ。だから宗教団体に近づくべきではない。99%うさんくさいのだ。奴隷の宗教である。その点自然は嘘偽りのない天真の姿を保っているから自然から学ぶ方が宗教的になるのだ。それに宗教そのものが実践することがむずかしいから偽善的になる。この世にどっぷりつかったものが宗教を説いているから矛盾してくる。宗教に関係なく俺は実際は自分の欲望を満たしたいだけだといえば正直なのである。実際はそうなのに慈悲だ、愛だと語るとき黒なのに白といいふくめるほど矛盾してくるのだ。これは自分だけではないみんなもそうなのだ。宗教が忌み嫌われるのも当然なのだ。実際宗教でもなんでもないからだ。では宗教とはなんなんだというと死の克服であり来世の希望でありこの世のことではない。なぜ死が入ってきたかというと死の値は罪であると言ったときまさに罪の克服なくして罪の回復はないということは神の子、キリストを信じる意外救いはないといことである。

参考にした本

キケルゴ−ル「水平化の世界」
上野霄里 「誹謗と瞑想」

(引用)
(社会を構成している無様な小道具の一つに成り下がっている宗教は
 もはや神を表現する機関でもなんでもない)
「誹謗と瞑想」




創価学会禍

創価学会のことについてはマスコミではでてこない、ところが現実生活で創価学会とかかわらない人間はいない、家族であれ親戚であれ会社であれ役所であれどこにでも何割かいるのだ。当然そこで創価学会員とは何だと話題にならざるをえないのだ。それがマスコミにはでないが個々の関係ではいろいろ悩んでいる人も多数いるのである。自分も昔にしても深くかかわってしまったから問題にせざるをないのだ。これらの個々の声を否定する、黙殺することはできない話である。それほど創価学会は社会に深くかかわる社会の手足のようになっている。創価学会なしの社会はありえないほどになっているのだ。それを問題にすることをさけることはできないのだ。タブ−にすることもできないのだ。インターネットになぜこんなに創価学会を批判することがでているのだろうと創価学会員自体が訝っているのはマスコミに出せないからその捌け口としてインターネットにでているのである。創価学会で個々にかかわっている人が無数にいるからだ。反感を持つ人も無数にいる。それが権力で抑えられているからインターネットにでてきているのだ。拉致家族の人が創価学会員で祈っていたというのも象徴的に示している。何かあると創価学会とかかわりがあるのだ。創価学会禍に巻き込まれない人はいないのだ。それほど問題なのにマスコミでは一言も報道しないのである。自民党と一体化していることも異常なことなのだがそれを本格的に問題する政治家も少ないのである。

わしの娘は創価学会員と結婚したら相手の親に
強制的に学会に入れられ苦労しとった。
よくわしにも愚痴をこぼしておった。
娘は若くして病気で死んでしまったが、葬式も学会にしきられた。
そして墓も創価学会の墓にいれられた。
わしはあれほど学会を嫌っていた娘が学会の墓にいれられて
不憫でならんのじゃ。
孫までも未来部とかいうものにいれられて学会に参加させられておる。
孫もわしになきついてくるから、わしも相手の親に文句をいうのじゃが
孫の幸せのためだといってとりあわん。
娘も創価学会の墓にいたくないと何度も夢にでてきた。
わしは学会を絶対にゆるさん。
だからコピーしに遠征してくるぞい。
誰か協力を頼んだぞ。

2ちゃんねるにでていたものだがこの発言も生々しいのだ。墓に入れられたことを恨んでいる人間もいたのだ。こんなことは新聞にもテレビにも雑誌にもでてこない、つまりこうした個々人の不満やら恨みやら叫びやらがインターネットにでているのだ。日記の中にもそうした声で満ち満ちている。医療やらパソコンの不満やらが噴出しているのがインターネットなのだ。こういう個々の声に耳を傾けることが無駄かというとそうでもないのだ。なかなかそれぞれに具体的にかかわった人の生の声は聞けない、だがインターネットではそうした生の声が聞ける。それが匿名で信憑性に欠けていることも確かだしすべては信用できない、でもその人が経験しなければ書けないことが多くあるのだ。ただ人を有名人を批評するとなると匿名だとまずい。批判することは責任がともなうのだ。人物批評にしてもむずかしいのは奇妙な話だかその人以上にその人について知らないと批評などできないのだ。

その本人が知っている以上にその本人について知らなければならないほどその人に熟知しなければならないのだ。そんなこと簡単にできるはずがないのだ。ここに人物批評のむずかしさがあるのだ。あの人は・・・・だ、とか一言ですまされるような人などいない、その背景やら生い立ちやら発言やら作品やらすべてを熟知してなんとかおぼろげな批評が成り立つのである。ところがインターネットにはあいつは・・・だとかあれは何様だ・・・・こうした有名人に対する一方的な浅薄な批判が多すぎることなのだ。やっかみとか反感だけのである。批判は自由にしても匿名だと説得力もないし批判が批判になっていないのだ。

正直な話池田大作がいかなる人物なのか本当の所はわからない、ベ−ルにつつまれているし聞いた話から判断することになる。池田大作の本当の姿は誰もわからない、それは作られた人物像なのである。支持者には神様のように作り上げられる存在であり反対者には悪魔にもみえるのだ。小泉首相の人物についてもわからない、現代はメディア通してしか知ることができないからそれはメディアによって作り上げられた像なのである。メディアがこれほど力を持つのもそのためなのだ。人物像より政策から判断した方が判断を誤らないかもしれない。政策についてははっきりするからである。メディアの力でヒットラ−は大衆を支配したのである。メディアにでないものはその存在はないと同じだというのは本当である。マスメディアにとりあげられたものはそれは大きな存在となるのだ。でも取り上げられないものは存在さえしないことになるのだ。インターネットは読まれるのがとんでもなく大変だがこうした存在させられないものが微々たるものでも存在する場を得たことも確かである。それは地方の小さな問題でも知られる存在させられるということもあるし忘れられた地方の歴史も注目されることもありうるいことである。



創価のシンパの知識人

 福島民報に創価の宣伝がよくでる。池田大作の文までだしていた。なんらか裏で深い関係がある。宣伝費がもらえるためでもある。今回の第三文明の広告で驚いたことは曽根綾子が文をのせていたことである。曽根綾子というと相当な有名人だし原稿料をかせぐほど困るわけがない、なんかの財団の会長にもなっている。ではなぜ創価の潮ではなく第三文明という創価の機関紙そのものに文をのせたのかわからない。創価のシンパが書く雑誌だからだ。他に堀田力が文をのせている。これはどこにでもしゃしゃりでてくる。なんか慈善の運動をしているらしい。NHKにもでてくる。創価から応援してもらえるからあんな創価のシンパの雑誌にまで書き原稿料をもらう。いかに創価に言論界が支配されているかの見本である。曽根綾子はカトリックでもあるがキリスト教関係も創価と一体になっているのが多いのだ。創価は巨大な組織力どんなとこにも入ってくる。不思議なことはアフガンの医者で有名な中村哲氏も創価の応援を受けているとか創価の文化人支配は徹底している。へたに慈善団体も党派化するとなると信用できないことになる。言論界は創価にほぼ支配している。創価に異議を唱えるものは排除されるのだ。

第一新聞もそうだしNHKも中枢に創価が食い込んで支配していると言うからNHKも公正な報道機関でないし真実を伝えないのだ。つくづくマスコミはもはや信用できる機関ではない、完全に巨大な権力に操作された真実の報道をしない所である。NHKすらそうなのだからどうにもならない、出版社であれ書店であれそこも真実の報道はされない、創価に異議を唱えるものは排除されるのだ。創価の批判して本までだしている人が民主党の議員が創価にどう対抗していいか聞きに言ったらありとあらゆる抵抗があると教えたらあきらめて帰ったという。議員すらこれなのだ。これほど執拗な抵抗が成されるのだ。特に自民党が味方になっている今は余計にそうなる。いづれにしろ堀田とか曽根綾子がこれらが全くの偽善者だということがわかった。創価のような闇の勢力の援助を受けて発言するべきではない、マスコミ自体がいかに巨大な権力に操作されたものかわかる。そこから真実は報道されない、皮肉なことは創価に対抗できるのは共産党しかないのだ。それで僧侶が共産党の集会で創価を批判する演説をしていたのだ。ここまで異常な状態を生んでいるのは創価の圧力の強さである。NHKを支配し、五大新聞を支配し、主な雑誌を支配し書店を支配しているのが創価なのだ。秋田書店などというと地方出版では有名で大きいがこれも一時期創価の協力で成り立っていた。これほどあらゆる報道機関は創価に援助されたりしているから批判はできないのだ。

ただ最近インタ−ネットで創価を批判がかなりでている。それも実際に創価の批判の本を出している実名の人が発言しているのだ。だからこれは迫力がある。匿名ではいくら批判しても迫力がない、無責任になるからだ。実名で批判すれば責任がともなうから迫力がでてくる。古川利明氏もインタ−ネットで発言していた。迫害されるから自分は独身で戦っているというのにも驚いた。それほど創価の圧力は怖いものなのだ。このファシズム団体と自民党が一体となっていることが全くわからない、あれほど創価と対立した党が政権をとるためになんでもするのかということである。自民党そのものがある時社会党とも組んだことに驚いた。これも政権だけは維持するためにそうした。自民党は政権維持のためにとんなこともするのだ。よくよく考えてみると田中真紀子も一見自分が小泉を首相にしたといっていたが実は自民党に踊らされていたピエロだった。田中真紀子をだしにして政権維持をねらったのだ。これで自民党の人気も回復したからである。国民はテレビばっかりみているからのせられるのである。自民党は全く政権維持のためには惡魔でも手を結ぶ、もちろん政治の世界はそもそも権力興亡の世界は悪魔と手を結ばないと得られないから当たり前のことであるかもしれない、それにしても自民党は余りにも摂生がなさすぎる。マスコミも全くあてにならない、インタ−ネットでマスコミを批判するのは当たり前である。マスコミで出せないからインタ−ネットに反動としてでてきているのだ。創価を批判するものは書店などに普通は置けないのだ。そもそもマスコミや権力を握る政治家を信じる、権力者を信じることこそ間違いである。彼らはあくまでも監視すべき対象であり信じるものではないのだ。その監視するジャ−ナリズムがマスコミも全く信用できないからこれからはインタ−ネットとかで市民が監視してゆくシステムを作るべきである。

とにかく創価にかかわった人は無数にいる。それらの人の反応がでてきても当然なのである。それが全くマスコミではおさえられているからインタ−ネットにでてくるのだ。インタ−ネットは個々人の体験が語られることが多い、そこではまた当然創価のことも語られる。なぜなら職場であれ近所であれ親戚であれ学校であれ日常的にかかわっているからである。それが抑えられるのはおかしいのだ。自分のスタンスとしては創価を批判しても反創価としての政治団体には加わらない、宗教は政治運動でないのだ。反創価であっても反創価の政治団体に入れば政治化してしまうのだ。ともかくこれからはマスコミだけでは真実はわからない、インタ−ネットは読むのが調べるのが大変だがマスコミに対抗するものとして真の民主主義の実現のための武器になるのだ。マスコミに対抗するには新聞をとらないことややはり創価に批判する人も多いのだからそういう無組織の人も声をあげないと変わらない、それとNHKなどは受信料をとっているのだからそうした批判の声も取り上げるべきなのだ。遂にそれに対抗するには受信料を払わないとか新聞をとらないとかなんらかの抵抗が必要になる。現実創価や他の団体はそうしているからだ。結局民主主義社会も個々人ではなんの力も発揮できない、党派化、団体化しないと圧力をかけられない、それで無党派層は弱いのである。創価批判で議員に立候補した議員が落選したことでもわかる。個々人は不満があってもそれがばらばらだから力にならないのだ。だから僧侶が共産党とスクラムを組むような考えられない状態になっているのだ。
いちばんいいのは、共産党系の組合に相談すること。学会が絡んでたら燃えるよ、共産党は。あとで赤旗取れとか言われても、やんわり断ればいいこと。身内に警察官がいるから、とかね。

これは2ちゃんねるで職場が創価で固められた、上司が創価で職場をやめさせられたとかのスレに書いてあった。共産党だけが頼りだという異常な状態である。でも誰も共産党にだけは頼りたくないという人も多いのだ。こうなるとまさに社会生活すらままならなくなる。現実そうなっている人もいることの証明である。最終的には創価が天下をとったら創価に逆らう奴は粛清か牢獄行きである。北朝鮮と同じである。報道機関がそうなっていることはそこまで行かなくてもにたものになっているのだ。




参考

フォ−ラム21
古川利明のホームページ
国民新聞
久本福子のホームページ

週刊文春」 2002/09/19号

 『創価学会にアタマの上がらない新聞社はここだ!』
 「聖教新聞」「公明新聞」印刷会社全リスト入手

http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data_b/bunsyun20020919-s.html



政治は名聞名利の世界

政治は大勢の人に支持されねばならない、となるとどうしても日蓮の言った名聞名利になる。これはなんの意味か、名が聞こえる、名前が広く知られる人が有利なのだ。その人がいかなる人か問わない、名前が知られるからそれだけで利になる。名前だけが拡大化された人である。その一番いい例が芸能人である。これこそ名前だけが拡大化した人なのだ。名前は知られるからである。この名聞名利に拍車をかけたのがマスコミとメデアである。お茶の間に常にテレビがありそこに出てくるだけで名聞の世界になり利を得るのである。だから政治家はそうした名前だけで人を選ぶことがある。あれはテレビにもよくでて有名だから票を得るだろうとなる。
経歴詐称問題もそうだった。アメリカの大学を三つも並べそしてテニスのプロというだけで外見だけで判断される。これも現代なのだ。田中真紀子もそうである。小泉首相そうであった。マスコミによってスタ-になり選ばれるのだ。メデアによって拡大化され作られ人物が現代には多いのだ。マスコミが名聞名利を得る世界なのだ。一方人の選びかたとしては創価とか共産ではたまに外部から人気者を出したりするがその党で活動していなとなれない、浮動票とは関係ないのである。だから外部ではあの人は何をやってきた人なのだろうとなる。あまり経歴も問題にならないのだ。その組織内でも信頼の方が大事なのである。だからあまり学歴なんか関係ないのである。むしろ学歴なくても議員になれるよというのが売りなのだ。そうなれば俺も中卒だけど議員になれると活動するからである。

ただ池田大作は全くの名聞名利の人である。名前だけが拡大化された人である。中味は問われずともかく何百万人もの代表ということで名前だけが拡大化したのだ。そして自分も外国から博士号だ、・・・勲章だとそうしたものばかり追及している完全に名聞名利の人である。彼にも学歴とか何かそうした学問的なものにかなりのコンプレックスがある。だからトインビ-だとかなんとか一流の学者と対談して俺は対等なのだと見せびらかすのである。何も学問などなくても宗教者になれる。ありのままを言えば告白すればそれなりに訴えるものがあるのだ。俺はこういうことで苦しんできた、こういう悪いこともしたとかありのまま言える人はすごいことである。親鸞が千人殺してみろとそして懺悔しろということがどれだけすごいことかわかる。

上野霄里氏の凄さはただありのままに自分を語ったからである。自分のことをただ良く見せようとする人が多いがありのままの自分を語るだけでインパクトがあるのだ。実際はみんな外見だけをつくろいいい人になりすぎるのだ。この当たり前のことをせず法華経がどうだこうだと経文を唱えても何の意味もないしむしろそうした自分のことをやましいことを隠すためにごまかすために唱えているのだ。いや宗教者の場合学問よりそっちの方が大事である。お前ら俺たち責めたら罰あたるぞとか宗教が脅しの道具にも使われるから始末が悪い。だから無学な女性がその一生の苦労を訴えて宗祖になったのもいるしそれの方が宗教に向いている。池田大作は劣等感のゆえにいろいろ飾りつけるのだ。それなりに独学で勉強したことは認める。苦労人であることも確かである。でも宗教で大事なことは正直なこととかの徳が大事であり学問ではないのだ。アッシジのフランシスが学問を否定したりするのもそのためだったし学問は宗教の障害にもなる。宗教はかえって正直な単純な人に向いている。新約聖書にしても二三日で要旨がわかるものなのだ。むずかしい学問なんか必要ないのである。

池田大作は全くの虚飾の人なのだ。だから彼の詩でも言うこともやたらきれいごとが多くなる。美辞麗句で埋めつくされる。そこに赤裸々な内面の告白がないのである。正直に告白することが懺悔なのである。その人を崇めている人々も結局虚飾を名聞名利を追及している。だからすべてが俺は政治家になって世間に力をみせつけてやるとか権力志向しかない人々の団体になってしまっているのだ。つまり創価の人々は小池田大作なのである。当然理想の人がそうなのだからそうなる。政教分離は法律違反ですよと説いても創価の人は宗教弾圧だと騒ぎ理解しない、それが何のことかわからないからである。ヨ-ロッパの歴史・・・と言っても無駄である。ならばどうするのかというと権力で法律を実行させる他ないのだ。それもできない、なぜなら自民党がそれを認め助成する党になってしまったからだ。こうしたら外からいくら政教分離が法律違反だとしてもなんの効力もないし創価の人もそんなこと誰も思わなくなる。現実そうなっているのだ。法律が絶対のようでもこのように簡単に曲げられてしまうのだ。日本も中国のこと批判するが法治国家にもなっていないのだ。民主主義の前に法律が実行されるのが民主主義のはずである。でもその法律がどうしてできたのかということが問題になる。それは歴史の戦いの中で作られたのだ。それには多大な犠牲があった。それがロ-マカトリック教会との戦いから生まれた。そこで血で血を争う戦いがあり勝ち取られたのが政教分離だったのだ。

そういう歴史の上に成り立つから意味があるが日本ではそういう歴史がないから民主主義が与えられたものだから重みがないのである。民主主義が民が主であるとするとその民は自主的な法律もわきまえて判断できる人たちである。そういう人が主になればいいがその理想は達成されることないから民主主義は愚民主義になり終わる。民主主義は民のレベルによって決まるからである。アフリカがそのいい例である。部族主義であり政治的に未熟だからあんな悲惨な結果になっているのだ。イスラムも未だに部族の長だとかが権力を持っているのでは民主主義は成り立たない、その部族同士が殺し合いしているから宗教だけの争いではない、民主主義の理想を実行するのがいかにむずかしいかを見せつけている。民主主義は自由だというがその自由はいろんな権利をむきだしにすることになる。するとそれは殺し合いになり終始がつかなくなるのだ。政治とは制約するもの、互いに制限する法を作るものだというのは確かである。部族の力がむきだしになれば争いが起こるから互いに権力を制限する法を決める。権力の配分を平等に決める。自由といっても常にその自由には制限が必要なのだ。

創価で宗教心とか徳を追及していると思っているがそういうものはゼロである。信じられないかもしれないが自分が活動したことはただただ選挙の一票を得るための活動である。宗教心とか徳とかそうした精神的なものは完全に除外して一票とるために人を集めることしかないのである。政治団体だから課税すべきだというのは本当である。会館だってあれは選挙のためにも使われるとするとそうなるのだ。創価はとにかく会員をふやすこと自体が目的だからどんな人でも入れる。法華経などというむずかしいものとは何の関係もないのだ。あれを実行できる人は一人もいない、それほどむずかしいものなのだ。創価と戦時中の人々とはにているかもしれない、あういうふうに上の人の命令に従うだけの人々だから利用するにはいいのである。

こういう人はまたマスコミでは多いのだ。週刊誌であれ雑誌であれテレビであれマスコミだけに左右されることは危険である。彼らもまた偏った団体であり団体の意志があってやっているのである。マスコミは民間団体であり公共の団体ではない、中国の悪口は絶対言わないとか制限していることはかなりあるのだ。だから何を報道しようが自由となる。だから別にNHK見たくない人は受信料を払わなくてもいいのである。かえって宣伝もされなくても今ではインタ-ネットにそれなりに主張できる人はでているのだ。ただ現代のマスコミとか出版とかの仕組みの中で出れないのである。例えばインタ-ネットで見ると雑誌の数の多いことに驚く、無数の機関紙がでているがこれは書店に並ばない、少数派の雑誌は並ばないのだ。これでも書店など極めて限られた大きな団体の占有する場所であり少数者の雑誌など置かないのである。書店は大きな団体の発行する雑誌の宣伝の場所でもあるのだ。インタ-ネットを見ればそれが明確になる。とにかく政治家も名聞名利の世界になりやすいのだ。作家や芸術家なら一応その人の作品を見たりして判断するが政治家は何をやる人なのか、何に実績があるのかなと明確にわからないから経歴などが必要だし名聞名利が必要なのである。名前だけにふりまわされる人間が多いのがマスメデアの時代なのである。現代で一番めだっているのが司会者である。司会者はただ紹介する人なのだがその紹介する人の方が主役になっているのだ。なぜならマスメデアに出ただけどその人は名聞名利を得て力を得るからである。



カルト宗教からの脱出のむずかしさ

(ある女性からのメ−ル)

>私の両親・祖父母と創価学会です。
>日本では宗教の自由が認められているのに
>私は創価学会になぜか入っています。
>昨年、結婚したこともあり
>やめられないものかと思っています。
>小林さんはどうやってやめられたのですか

自分に直接メ−ルなど来たことがなかったのでメ−ルは10日に一回くらいしかメ−ルをチェックしていなかった。女性も変なメ−ルがまぎれる場合があり見ない場合があった。
情報不足で答えられない面がありますが私は家族は創価学会員でもなかったからそういう点ではやめるのは自分がやめたいと思った時やめたしなんの問題もなかったですがどうしてもそのあと精神的には苦しくなります
罰当たるとか地獄に落ちるとかそういう恐怖におちいる人もいるでしょう
自分の場合は全然なかったです、なぜかというと創価学会は宗教とは何の関係もありません、宗教を脅しにつかって政治権力をつまり池田大作が北朝鮮の金正日のような将軍様になり日本を支配することです、自分は宗教を救いを求めて入ったのでありこれは宗教とはなんの関係もないとわかったからやめました。
親が信仰していると確かにやめるのはむずかしいでしょう。でも結婚したら親から自立することだしあなたがやめたいという強い意志があればやめられるんじゃないですか、親の人生と子の人生は別でしょう、実際創価学会の二世の人は自分で選んで信仰しているのではない、創価に入っているのではない、あなた自身が選びあなたの人生を作っていくことですよね、それを親がしているからと親のせいにしたりいろいろ他人のせいにするのはおかしくありませんか?最後にはつくづくすべて自分の責任ですよ、創価がおかしいやめたい、私の人生は私が選び築くのだという意志が大事ですよね、創価という団体は何十年後かは知らないけど消えていますよ、自立することが大事です。

50才にもなったらもう責任は全部自分にあるからあの時やめればよかったとかなんとか言えないですよ、宗教の問題はむずかしいから答えにくいです。創価の問題もそこにあるんです。単純に政治団体だったら消費税に反対したり経済を良くする政策を実行しろとかそれならわかりやすいんですが常に背後には宗教がからんでくる。自民党と一時は仏罰だと言って池田大作が戦っていましたでしょう?これも普通に常識があればおかしいなと思うわけです。今は自民党とべったりで仏罰はどうしたんでしょうか?つまり普通の常識をもっていればわかることおかしいと思うことはまかり通っていることの不思議なんですよ、創価の人って自分では今では理解できないです。宗教とはなんの関係もないからです。そういうことに疑問を持つのが普通であり疑問をもたない多数の人がわからないんです。おそらくあなたがどういうわけでやめたいと思ったかわかりませんが普通の常識をもっていたらそうなるのが普通です。

「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。
(新約聖書)

この奴隷の霊とは常に先祖霊がついている、先祖がたたるとか、罰が当たるとか地獄に落ちるとかの脅しで利用されるのです。奴隷にされるのです。創価学会員をみてみなさい、交通事故になる人、リストラになる人、病気で無惨に突然死ぬ人、数限りない不幸を目にしているでしょう、あれだけ数がいれば社会に起こる不幸は同じように創価学会員にも例外なく起こるんです。商店街が衰退してこれは福運がなかった、題目あげれば回復すると思うことも変です、ス−パ−ができたから自動車社会になったからであり宗教とは関係ないがなんか宗教となんでもむすびつけることがおかしいんです。

確かに偽りの宗教から脱することはすごくむずかしいです。自分にしても実際助けることができないです。つまり他人に頼るとまた奴隷の霊を受けることになるからめんどうなんです。実際宗教団体をつぎつきに変わり移り入っている人がいる。これでは同じ結果になるからです。とにかく宗教がからむとなにが真実だかわからなくなる。福永法源が逮捕されたがあの人の本を読んだら金を投げ出す人がいても不思議でないほど説得力があるのだ。つまりサタンはこの世の正義さえ簡単に装うことができるのだ。戦争さえ宗教によって正当化されるのだ。現実に宗教団体に入っている人は自分達だけが正義であり正しい救われるとか信じている人が多い。カルトからの脱出のむずかしさは「出エジプト」と同じようにむずかしい。紅海を割るほどの奇跡も必要なほどむずかしいのだ。一度奴隷の霊を与えられたものは簡単にぬけだせない、創価学会員の幹部さえ何か仏罰とか恐れている。つまりやはり自らも奴隷の霊の恐怖におびえているのだ。

私はいかなる団体にも属していないしどの団体の味方でもない、キリスト教に入れとかそういうことも要求しない、それはそれぞれ自分で選ぶことである。また誰に対しても何かを金を布施しろとか本を買ってくれとか一切要求しない、インタ−ネットは金がかからないからそれができるメデアなのだ。これが自らメディアを持つ強さなのだ。金がかからず独立できるメデアなのだ。権力が必要でない個のメデアなのだ。これが今までになかったことである。ここに今までにない世界が開かれる可能性がある。何らか社会化して社会を変える武器ともなるのだ。マスコミ世界とは違った世界が開かれる可能性である。宗教には金とか権力はかかわるべきではない、社会的に成功すること、事業に成功したり失敗したりはするがそれもこの浮世のまさに浮き沈みであり宗教とは関係ないのだ。この宗教はもうからないからやめたというのは宗教ではないのだ。いづれにしろ権力と関係しない時純粋に宗教的になるのだ。権力とはいろいろある。金もそうだし団体化することも権力である。一人より二人になったらそれも権力である。二人でも団体化すれば権力なのだ。だからキケルゴ−ルの単独者が無権力だとなる。友を持つということも派閥を作ることになるのだ。無権力であり単独者であることは最高にむずかしいのだ。上野霄里氏だって実行できなかった。友すらもてない厳しさがあるのだ。ただ無権力の人、単独の誰にも頼らない人が公正になれることは確かである。何かの団体に属していればその団体の利益が優先されるからだ。そして人間は団体に属していな人などいない、だから単独者は不可能に近いほどむずかしい存在である。



教会の牧師がセクハラで裁判に


熊本市の教会で、セクハラと牧師を提訴。
 兵庫県尼崎市に住む二十代の女性が、勤務していた熊本市の教会で上司五 十代の男性牧師からセクハラ(性的嫌がらせ) を受けたとして、牧師に慰 謝料など千百万円の損害賠償を求める訴えを二十三日、神戸地裁尼崎支部に 起こした。
 訴状によると、女性は教会に赴任直後の一九九八年三月、会合に出席中牧 師から「抜け出してよい所へ行こう」などと言われ、車でホテル街に連れて 行かれその後も「キスや抱擁はあいさつ」などと体を触られたりした。
 女性は今年二月に退職したが、精神的苦痛から一時体調を崩し「キリスト
教信仰を伝える教育主事になる夢が牧師によって砕かれた」としている。
 これに対して、訴えられた牧師は「女性を激励する際肩をたたくなどした
ことはあったが、故意に体を触るなどのセクハラ行為は一切ないなどとうそ
ぶいている。


今日朝日テレビの朝のワイドショ−で熊本教会の牧師がセクハラで教会員の女性から訴えら裁判にまでなったことを言っていた。この牧師はかなり権力をもっていてそういうことをした。教会の職務に採用する権限をもっていた。だからやめさせることもできるし自分勝手に採用することもできる。それでこういう強制的セクハラもすることができる。どんな人間でも権力を持つとその権力を悪いことに行使するから権力をもたせてはならないのだが悪い人間が必ず権力を持つようになるのだ。だからこの世はいつまでたってもよくならない、宗教そのものがカトリックの歴史のように権力を持った結果堕落した。第一宗教が権力を持つこと自体ありえないのだ。主キリストは家すらないホ−ムレスであり全く何の権力もなかった。宗教が権力を持った時点でそれはもはや宗教ではない、世俗的権力宗教となったのだ。

不思議なことはこうした権力を持った偽りの宗教者がもっとも宗教に引き入れることが熱心だということなのだ。これは党員とか会員をふやし勢力を拡大しようとするのであり本来の宗教とは違う。こうした人々は常にこの世に害悪を与えるものなのだがこれをとめることはできないのだ。人間が存在してからそれは変わらずこういう人間はいるしおそらくこの世が滅びぬかぎり存在しつづける。それがこの世なのだ。だから一見この世が大きく変わったように見えても人間そのものは以前として変わっていない、その欲も罪も同じように繰り返して輪廻してとまらないのだ。ただ悪が形を変えてこの世にのさばるのだ。

人間というのは善を行おうとして行えない、悪を行う方がずっと多い。むしろ善を行おうとするのではなく悪や罪から離れることの方がずっとむずかしい。この世にかかわること自体すでになんらか知らずに悪にそまる。この世の活動自体、経済活動でも利益中心主義となり悪になりやすいのだ。だから職業は業であるとインドでは考えた。職業にたずさわることを拒否して無一文の修行僧になった。これがやはり宗教の原点なのだ。宗教自体この世の欲の道具になってしまうからだ。

この世の力は圧倒的に強い。この世の欲はこの世が滅びない限りなくならないものである。人間が毎日祈っていることがすべてこの世の欲のためであり宗教団体に入っている人もほとんどこの世の欲のために祈っているのだ。商売となんら変わりないのだ。「拝んだらもうかりまっせ」と毎日すすめているのが宗教である。創価だけではない、他の宗教団体でも同じである。インターネットの創価の体験談でそれを得として語っているから奇妙である。競馬の騎手が拝んで勝つようになったとか一流の会社に拝んで就職できたとか得として書いている。最近は必ず商売している店に「幸福の科学」の本がおいてある。あれも執拗に成功するためにはどうするかの宗教だからやはりご利益宗教なのだ。宗教を求める人も欲のための宗教が多いのだ。でも反面失敗した人もかなりいる。そしたらその人はいくら拝んでも功徳がないとなる。宗教とは今やすべて世俗的成功のためにあるのだ。創価の場合は権力奪取を目的にしているから堂々と露骨にこの世の権力を我がものとしようとしている。それが世間に公認されているのだから自民党が補佐してやらせているのだから不可解なのだ。いづれにしろ欲に汚れた人間が宗教に導き欲のために宗教に入る。変な話だが人間の欲がある限り宗教はありつづける。もし人間の欲がなくなれば宗教もすすめる人もいなくなり自然と宗教が身についているともなるのだ。人間の欲を糧にして宗教が存在しつづけるというのも奇妙である。

「決して人々に害を加えない人、ああ、そういう人が一人でもいるならその人は必然的にどんな大きな善を行うことになるだろう」
ルソ−(エミ−ル)

このことが簡単なようで一番むずかしいのだ。善を行おうとして人は善を正義を行うことはできない、かえって悪を行うようになるのだ。自分の場合もそうだったから今では社会にかかわらず人に害を加えないように隠者になってしまったのだ。だから善を行おうとするものは善を行う必要はない、自らをつつしみ罪を犯さない、他人に害を加えないという心がけの方が大事である。必ず自らの欲によってセクハラであり何であれ害を加えるのが人間なのだ。人間は宗教によっても正義の名のもとにもどれだけ殺戮してきたか、20世紀の大量殺戮戦争がそうだった。むしろ封建時代の戦争は正義とか言わない、地域間の勢力争いであるからわかりやすいのだ。20世紀の国家同士の戦争は正義を唱えるからわかりにくくなるのだ。

正義とは関係なく自分達のの勢力拡大が戦争の目的であることは古代も今も変わらないのだ。勢力拡大とは権力の拡大である。権益の拡大につながるから国は拡大化、大帝国化を目指す、それはアメリカでも中国でも日本でも同じだった。その極端な歴史が黒人の奴隷である。弱いものは戦争によって奴隷にされた。スラブ民族とあるがスラブとはスレ−ブ(slave)であり奴隷のことだったのだ。ただ奴隷が今のスラブ地域から大量に連れてきたのでその人達をスレ−ブと言ったのであり自らつけた民族名ではない。奴隷にした他者がつけた名である。大陸では奴隷が常に存在したし奴隷なしでなりたたない社会だったのだ。征服されれば奴隷にされるのだ。今でも日本人が欧米人が金の力で貧乏な国で女性を性の奴隷にしているのも結局人間はそもそも変わらない、形を変えて同じことをしているのだ。中国でも金持ちはタイに集団で買春に行っているとか北朝鮮から脱北した女性が性の奴隷にされているというのも本当だろう。中国だって日本を批判しているが力あるものが弱いものを食い物にするのはどこでも同じである。つまり人間の欲は変わらないしその罪も繰り返しなのである。



宗教のもたらす混乱の恐怖


【カイロ3日共同】サウジアラビアからの報道によると、同国西部メッカ郊外で1日起きた巡礼者の圧死事故での死者は2日までに計251人に達した。
 同国当局者によると、身元が判明した193人のうち、インドネシアの巡礼者が最も多く54人、次いでパキスタンの36人、エジプトの13人など計22の国籍に及んだ。
 事故は、悪魔を象徴する石柱への石投げ儀式が行われていた通路に巡礼者が殺到、重なり合って倒れて起きた。サウジアラビア当局によると、同様の事故が同じ場所で2日にも起きたが、死者は出なかった。(共同通信)



この悪魔の石柱に石を投げたとあるがここには「U.S.A」と書いてあったという。これを2ちゃんねるでも誰かが「U.S.A」と書いてあるんじゃないかと書き込みがあったのだ。こうした意外と何気ないことでも鋭い指摘が2ちゃんねるにあるのだ。これは一種冗談で言ったのかもしれないがそれが本当だったとなる。このニュ-スの前に言っていたことが重要である。話し合う中でアイデアや予想が生まれるのだ。こういうこと今までのメデアにはない、普通の人があれはもしかしたらこうじゃないかなど誰もとりあげないからだ。しかしそうした普通の人の言うことがまともだったりするのだ。専門家だけが正しいとは限らないのだ。かえって専門家がでてくると専門用語やらなにやらで煙にまき「お前らにはこのむずかしいことはわからないんだよ」となる。考古学の捏造問題で自分も不思議だった。宮城県と山形県の石器は実は一つのものでその片割れを合わせてみたら一致していた。何万年前の原始時代でもこんなに遠くの人と交流あったんだねと感心した。これも手品のような話だと思って私も感心したし信じていた。それは専門家が嘘を言うと思えなかったからだ。それは専門家をもだましていたと言う不思議である。これは別に石器を二つ割りそれを合わせればいいわけだから簡単にごまかすことができる。これの盲点は余りにも古いことだから嘘ついても実証できないことだった。だからみんな信じたのだと思う。それにしても今ふりかえればそんなぴったり一致する石器を発見することは何億分の一とかの確率しかありえないし実際はありえない話だったということが専門家ならわかったはずである。話としては面白いがそんなものが発見されること自体ありえない話だったのだ。

このイスラム教の巡礼に関しては詳しい情報はわからない、ただこれはかなり重要なことである。宗教の場が政治の場となっている。イスラム教にはやはアメリカに反感をもっている人がかなりいてそれが宗教的場に持ち込まれた。イスラム教はそもそも政教一致なのだ。誰かが2ちゃんねるで「U.S.A」と書いてあるんじゃないかなと言ったのはそういう予想がつくことであった。そもそもイスラム教のことがわからない人が多い。悪魔の石だとかこれはまるで中世の世界、魔女裁判のような世界である。そんなものに石をぶつけてどうなるというんだ。まあ、アメリカへの腹いせなるわかるがこれが宗教の場にもちこまれることの危険性である。江戸時代にも奇々怪々な話があり藤岡屋日記というのには8才の子供が子供を生んでその親が不幸な死にかたをしてそのたたりがあるから餅を屋根に供えるとふせげると餅の利用量がふえた。これはその時もち米があまりそれを売るために噂を広めたというのが真意らしい。つまり祟りがあるから餅買いとか煽動されたことにもなる。今でも悪い先祖の霊がついているからとか壺をうりつけたりするものがいる。この世には科学的には証明できない不可解なものがありそれが間違った信仰になる。この世の中人の弱みにつけこむ商売は今でもあるから時代が変わっても人間のやることは同じである。中世の世界が魔女裁判などを生んだ奇怪さはこうした人間界に起きる不可解なことに由来している。キリスト教でいう悪魔はサタンは心の罪を誘惑するものでありまた罪に陥れるとかの意味でありある人が魔女だとか悪魔だとかではない、人そのものに魔女も悪魔もいないのである。人が悪魔に導かれても人そのものが悪魔というわけではない。また石が悪魔になったり木が悪魔になったりすることもないのだ。だからどうしてもイスラム教には中世的段階の遅れたイメ-ジを抱くのである。悪魔というとき誰かを魔女にしてその財産を没収して自分のものにしようとした人がいた。この人こそ悪魔だったのだ。

イスラムはやはり欧米社会からみると近代化されていない、それが政治的混乱を生み出している。イラクではスニン派とシ-ア派がいる。シ-ア派が60パ-セントもいる。そのシ-ア派が選挙で有利だから選挙で決めるべきだとなる。するとどうなるか、シ-ア派が実権を握り権力はシ-ア派のものになる。そしてシ-ア派はイラン寄りだからイランよりの政策になる。なぜスニン派のフセインがあんな圧政になったのかというと少数派だったからだ。それとフセインを前はアメリカが支持していたのだ。シ-ア派はイランだったからだ。イラクの混乱は政教分離していなことなのだ。スニン派とシ-ア派という二大勢力は宗教団体である。政教分離していないということはシ-ア派が実権を握ればシ-ア派の人が優先的に実益を得ることになる。イスラムでは宗教と実益、権力が結びついている。宗教は欧米では心の内面の問題に限定したがイスラムではそうした改革はなく政治と宗教は一体なのだ。だから民主主義はありえない、アイルランドでもカトリックとプロテスタントが争った。それもアイルランドのもともとの住民はカトリックでありイングランドはプロテスタントだから両者の宗教争いというより権力争いになった。就職がプロテヒタントに有利にされるとか不満になった。イラクでもそうなのだ。就職などでシ-ア派が選挙で勝つのはわかっているから有利になる。少数派のスニン派は不満になり争いになる。宗教に関係なくイラクが選挙で国の政策を決めるのならこうはならない、選挙では創価が必ず公明党に入れるようにシ-ア派は百パ-セントシ-ア派に入れるのだ。シ-ア派でもシ-ア派でない候補に入れれば別だが宗教ではそういうことはない、信仰=政治であり政治は権力と実益と結びつくから権力争いになる。宗教の争いはどっちも妥協しないからフセインのように独裁になるのだ。

これはイラクのことではない、日本だって創価は明らかにそうした団体である。権力と実益の政治と一体化したものでありだから反権力となる野党の政治団体から攻撃される。それは別に宗教批判ではないが宗教を日蓮さまを批判するやつは地獄に落ちると仏敵だ、仏罰だとなってしまう。自民党が敵だったとき悪魔の石には「自民党」と書かれ石をぶつけていた。呪いもかけていた。常に仏に祈るからである。選挙のとき祈りつつ票をとりにいく団体だからだ。今度は民主党が悪魔の石にされる。ちょっとでも創価を批判するのは仏敵となり呪いの祈りの護摩がたかれるのだ。最近イラク派兵を内部から批判したのは多少民主的になった兆候はあるがそれも全体から見て微々たるものだろう。宗教は一面人を盲目にしてしまうのだ。神のため十字軍のように狂気のように戦争したことがあった。宗教の悪しき利用やその混乱があった。日本の戦争も宗教戦争だったから冷静な判断ができなくなっていた。神風が吹くとなれば神の力によって勝つとなればどんな不利な状況でも戦うことになるのだ。神が仏が負けるということがない、間違っているということはないからだ。全員死ぬまで戦うほかないのだ。つまり宗教の最終目的は殉教になるからだ。実際今回死んだ人も殉教したから良かったとたいして問題にもならないのだ。宗教と世俗を分離すること自体非常にむずかしいからその混交が常に起こってくる。宗教的行為でないものも宗教的行為にされる。原爆が落とされたあと天皇が戦争をやめると言ったから現人神(アラヒトカミ)が国民の前に宣言して戦争は終わった。そうでなければ最後まで日本民族が全滅するまで戦争することもありえたのだ。宗教はまた利用される。太平洋戦争でもその神を天皇を利用したのは誰なのか、戦争を遂行したいものたちだった。天皇自身にそんな意志はなかったが天皇を利用して戦争遂行したい人たちであった。それが誰であったかわからない、国民全部がそうだったかもしれないからだ。人間は必ずしも権力だけでは力を得られない、それでその権威づけのために宗教を利用するのだ。神の力を授かったといえば権力の上にさらな力を得たことになるからだ。でもこの世の力はサタンに与えられたというときこの二つは実際共有できない。この世の力を得たいならサタンにひざまづかねばならない、それを拒否したものはこの世の力は得られないのだ。
この世と神の国には別であり二つに仕えることはできないのだ。でもこの世にいる限りこの世の力とあらゆるものが結びついてくる。だから宗教でも経済とも政治とも公共事業ともあらゆるものと結びついてくる。現実この宗教にご利益がないとなれば離れる人もでてくる。ただ宗教の怖さはいったん入ったら簡単には出られない、地獄に落ちるだと罰あたるとかなり経済的打算だけではすまない、そこが単にご利益だけ求めるのとは違ってくる宗教の怖さである。

ともかくそういう団体と一体化している自民党はそうした危険をかかえこんでいる。やはりイスラム社会も政教分離が必要でありそれが近代化であり王族支配からなどの脱却が必要なのだ。アメリカにテロをする不満はわかるがまず自分の国の内部の問題が解決していないのだ。中国はやはり内部で自分の国で全部ではないにしろ改革したからあそこまで経済成長できたのである。イスラム社会には政教分離していないことが一番の問題なのだ。ただわからないのは同じイスラム教なのにスニン派とかシ-ア派とか憎み合うのかということである。これも部族同士の争いとかが根底にあり必ずしも宗教だけではない、根っこに人間が争うときは権力が実益が関係している。実際自衛隊利権で部族同士がいがみあいになった。それで部族長の一人がオランダ軍に逮捕された。フセインが消えたら無数の部族が跋扈し始めた。人道援助というがそうした利権の抗争のなかに巻きこまれる。いづれにしろ政教分離していないことは民主化しようとしたって選挙自体、選挙にならないのだ。すでにやるまえに票決しているからだ。では政教分離しろといったってそれもできない、外部から民主化しようとしても内部からできなかったら民主化はできない、アフリカであれどこであれ遅れた国が民主化できないのは内部からできる力がないからである。日本の場合は内部から欧米化したから民主化できたのだ。人間個人でも外部から確かに励ますことはできる、ここを飛んで向こうの岸に行けとは言えるが実際飛ぶのはその本人でありその本人が勇気を持って飛ばない限り飛ぶことはできない、本人が勇気をだして飛んでこそ本当の力がその人についたことになる。人生もそうなのだ。他者が励ますことはできても本人が飛ばない限りどうにもならない、他人に励まされても飛ぶのはその人個人である。

創価をやめたいとか宗教団体を脱出することはものすごくむずかしくなる。カルトからの脱出で苦しんでいる人を見ればわかる。地獄に落ちるとかなんとかかんとかこうした洗脳からなかなか脱しきれなくなる。だから宗教団体に入り安住し同じ奴隷となってしまうのである。
人は安易に他人に頼り団体に頼りすぎるのだ。もちろん自分もその弱い一人だから頼ることは悪いことではない、何かに頼らなければ生きていけない、しかし人生を決断したりその方向を決めるのは他人ではない、団体でもない、その個人が決断する他ない、そこに神の導きがある。神が導くとしてもその本人が決断しない限り導くことはない、神もなんでもしてくれるわけではない、人間個人の意志とか決断があってそれに神の導きが加わるのである。個人にしても国にしても外からいくらうながしても内部から改革できなかったら自立も民主化もできないのだ。だからイラクの民主化の道は厳しい。そういう素地ができていないからだ。現代の宗教はキケルゴ-ルのいうように昔の宗教とは違う。昔は何かの宗教団体に属することは迫害を受けることだからそれ自体、信仰の証明するようなものだった。モ-ゼとかその他一人の予言者についてゆくことが信仰だったのだ。現代は一人一人が予言者でありモ-ゼになるほかない、ある宗教団体からカルト団体から脱することが出エジプトなのだ。個々人が決断して神が導くとなる。集団組織化したらそこはすでにエジプトになっているのだ。

だから今の信仰は非常にかえってむずかしい。普通の弱い一人一人に出エジプトや自立の信仰が求められるからだ。これもまた極少数しかできないとすると結局この世は集団組織化の奴隷状態がつづく社会となる。ただでは学問がなければ自立できないとかそういうことではない、せいぜい偶像崇拝してはいけないというくらい知っていればいいのである。自分自身明らかに弱い人間だからただ頼る他なかった。だから天才たる師を神にする、偶像崇拝になったのだ。信仰は必ずこの偶像崇拝に陥れるのだ。信仰の一番の戒めが「汝自己のために何の偶像をも彫むべからず又上は天にある者下は地にある者 ならびに地の下の水の中にある者の何の形状をも作るべからず。(旧約聖書・出エジプト記 20:4)」であったことでもわかる。イスラム教も同じなことはこれが一番大事な戒めなのだ。これはキリスト教会に入ったって同じである。牧師がいたとする、それが偶像化して頼りとするとなるとやはり偶像崇拝化しているのだ。洗礼を受けるのもそうである。それはただ形式的なことにすぎない、自立しなければ神の力が働くことはないのだ。自分で危険でも飛んでみないかぎりそもそもその人に力がつくはずがない、だから他者がいくら勧めてもそれはきっかけであり本当はその本人の意志とか勇気とかの方が大きな力を発するのだ。その代わりは他人にはできない、他人に任せたらその人の人生はない、ただ他人の言うままになる。それが組織化集団化になる。



教養の衰退からカルトへ

現代の学問は実用一点ばりである。理系の時代であり文系は役に立たない遊びだという感覚が強い。大学では文系は大学に入っても勉強していないから遊んでいるからそう言われてもしかたない、文系がこのようにでは低く見られていたのかとなるとそうではない、文系の教養が基礎であり理系的なものは脇役的存在だった。現代は理系が科学が肥大化して文系的教養を圧倒してしまったのだ。中国でも官吏になるには詩を作ることが求められた。詩を作れることが官吏のたしなみでありそれ以上に詩を作れないような官吏は資格が与えられなかったのだ。中国の漢詩と日本の詩は性格的にかなり違う。中国では政治的であり日本は感覚的感情的なものとなり風流となった。しかし中国では詩というのは志、思想を表現するものだった。だから詩の役割は大きかった。なぜこれまで日本でも文系の時代だったかというと明治時代を見ればわかる、明治時代に一番漢詩の興隆があったのだ。江戸時代ではなく明治時代にそうなったのはやはり江戸時代の蓄積があり明治に華開いたのである。漱石や正岡子規でも漢詩でやりとりしているし漢詩が挨拶代わりになるほど漢詩ができたのだ。だから相当な教養が江戸時代を通じて積まれていたのだ。明治時代は科学技術が怒濤のごとく入ってきた時代だったがそれでもやはりその基礎は文系の教養だった。

現代の学問は極端な専門家であた専門バカを生む。しかし現実はこの専門家が実用的だから社会では専門家を重宝する。法律でもある分野に詳しい人間や科学でも眼だったら眼に詳しい人間が実用的になる。経済だったら株に詳しいとか何かある特定の分野に詳しい人が社会にとって役に立つとなる。そもそも才能は材からきており一部を切り取って役に立てるという意味があり全体を役に立たせるということでないから人間にとって才能とはゆがめられた一面があったのだ。学問とか哲学とかは総合的なことであり哲学の一分野として様々な学問が派生した。数学もギリシャではピタゴラスのように宗教だった。哲学だった。宗教は総合的なことを宗(むね)なることを目指していた。だから釈迦は医学についても説いている。ギリシャというのは学問の創始者だったから学問とは何か考えるのには参考になる。学問とはもともと哲学だった。哲学とは総合的学問のことである。現代に一番欠けているのはこの哲学であり宗教である。総合的視点がもてないし総合的人間の欠落である。総合的全体的人間が社会にとっては何も役に立たない不可解な人間になっている。上野霄里氏の原生人間とかそれは何かわからない奇異なもの、アウトサイダ-化する。英語できる、通訳ができる、ああ、あれは英語できるから役に立つ社会から見られる。医学でもあれは耳や眼の医者だ鼻の医者だとか体の一部に通じているものとして見られ有能だとなる。人間の体全体をみるひとはもはや存在しない、そういう医者はいない、かえってそういう医者は無能な医者にみえる。耳であれ眼であれ一部に通じた医者は有能なものとして認識できるが全体をみる医者は存在しない、そんな医者は社会でも認めていないのだ。ただ病気は人間にとって昔から最大の問題でもあったからそれをいやすために信仰も分業化していた。


心配事・悩み (釘抜地蔵)

お寺にある大きなくぎ抜きで心の悩みを抜いてもらうとよいでしょう

歯痛に (ぬりこべ地蔵尊)
ぬりこべ地蔵尊は病気を塗り込めます。とりわけ歯痛に効き目があります。

神経痛、腰痛 (善峰寺)
藥師如來様のご利益は、病気平癒・長寿・健康、出世祈願です。

頭痛 (三十三間堂)
本尊の霊力でご祈祷した法水を、霊木とされる柳の枝で参拝者に灌いで祈願します。

目の病気 (柳谷観音)
境内にある岩穴からしたたる水は、独鈷水(おこうずい)と呼ばれ
眼病治療の霊薬として信仰されていて、参拝者の多くの方が持ち帰ります。 

耳の病気 (大原来迎院)
耳の病気でお困りの方はこちらまで。ここは、平安時代のはじめ、
声明(しょうみょう)の修練道場として建立したのがその起こりとされています。 

不老長寿 (源光庵)
不老長寿を願うならば、霊芝から作られた観世音菩薩がお待ちしてます。



このように祈る地蔵さんや観音様や寺や神社も分業化していた。分業化すると祈ることもはっきりしているのだから祈り安いとなる。こうした地蔵山が小さな村に集まっていた所もある。医者にかかることもできないからその小さな村のなかでそれぞれの地蔵さんに祈るほかなかった。今ではそれぞれの専門の医者に行くようになった。

分業化することは宿命的なものである。効率、能率を追及するとそうならざるをえない。でもそれによって全体の総合的な人間は失われる。では結果的に文明化は何をもたらしたか、分裂をもたらした。総合的視点の欠如からバランスの欠如から社会全体を総合的に見れない分裂をもたらした。人間疎外ともなるし原生人間の迫害ともなる。オ-ムは理系が多く一流大学をでていた。そして世間の人がみんな言っていた。「なぜあんな優秀な頭のいい青年があんなことを起こしたのか」つまり理系と文系のバランスが崩れ総合的視点、教養が喪失していたからこそ起きたことなのだ。あれも現代を象徴する事件だしナチスもそうだったし創価もそうである。文系的教養が失われ現代は知は知たりえずカルト化しやすいのだ。カルトとは現代文明特有の問題として現実化したものである。デカンション、デカンションとあとは寝て暮らすというとき大学生は実用的なものだけでなく哲学、思想を追及するのが青春だという意識があったのだ。それも社会で認めていたからあの当時だったらオ-ムのようなカルト青年は生まれていない、科学が異様に肥大化して理系万能の世界もかなり危ういものなのだ。ただこれは今や世界に共通した文明そのもの問題だから簡単には解決できない、解決不可能なくらいむずかしいのだ。

おそらく自分が創価に入ったころから学生運動のゲバ学生が生まれた頃からそうした矛盾に飲み込まれようになった。思想すること哲学することよりゲバ棒を持って暴れることがかっこいいとなりまた創価でも集団化して社会を権力を我が物にすることこそ具体的に思想性がなくても行動に走ることが快感になったのだ。だからその根底になっている思想性が貧弱でありカルトになっているのだ。ロボット化されてしまうのである。一票をとるために毎日幽霊会員を回っていた自分も創価のカルトのロボットだった。かなり知性的な知識人も創価のカルトにのみこまれてゆくのもそのためである。現代とは集団化したところはなんらかカルト化していることは間違いない、まず上野霄里氏のような強烈な自立志向思想は天才でなければできない、強烈な意志が必要だからだ。現代では総合的全体的人間は社会から見えない、存在しないのだ。だから総合的人間になろうとするとみんなアウトサイダ-化しているのだ。社会から離脱して全体性を目指すほかなくなっているのだ。そういう人はしかし社会から見えないし存在しないのである。



戒名、檀家制度とは何なんだ

日本の宗教界は全く宗教じゃない、檀家宗教は葬式宗教だ、それも死者とだけ関係してくる、死者でると葬儀があり仕事になる。金になる。戒名は位によって違うとか、そんなこと身内が死んで悲しんでいるとき言えることなのか、そもそも仏教は何かわからない、日本人の宗教は異常なほど先祖崇拝である。毎日位牌を拝んでいる。それに僧侶が付随している。しかし位牌が意味がないとは言えない、死者を大事にする、先祖を大事にするということを否定することはできない、なぜなら家に先祖を祀るものも何もない家族がいる。その人は歴史的継続がなくなっている。親さえ存在しなくなっている、現実に交通事故で親が突然死んだ親戚の女性は親の墓参りも一回もしていないし親が誰かさえわからなくなっているかもしれない、親かいたのかさえわからないという状態、それは歴史の継続が消失するから問題である。大きな空白がそこに生まれている。親があって子がある。日本の綿々として日本人が苦労して作ってきたものだから先祖を尊ぶことは大事である。それを全部に否定することはできない、それは悪いことではない、でもその先祖が親が神ではない、普通の人間であったし中には罪深い人間もいたし生前は普通の人間だった。それが死んだからといって神になるのか?死んだらみんな神になるのか?死者ならすべて崇拝するといのうは何かおかしい。死んだからといって罪はすべて解消するのか?罪やあらゆるものが御破算になるのか、この世で悔い改めずやはり自らの罪を知らず死んで行ったものはやはりあの世でも悔い改めていないし反省もしていない、罪のままに存在する。この世では罪のことや何が悪いか良いかなど諭す人もいるし本もたくさんある。

しかし死んだらその機会を失う、永遠にその機会を失うという恐怖がある。人生がやり直しができないという厳粛さと同じである。過ちと罪の人生を送ったものはそのままあの世に行きあの世で死んで改悛したり真人間になったり突然清らかな人間になるわけではない、現世の魂の状態がそのままあの世に運ばれる。妬みや恨みを持つものや欲にまみれた人生を送ったものはやはり同じようにそうした場所に行くのであり死んだからといって神になるわけではないのだ。だから靖国神社に祀られた人々を神として敬うのは間違っている。戦争は人を殺すことでありそれが何の理由であれ神に祀られることはありえない、だからといって中国人に責められることではない、日本人が日本人の同胞として死者を供養することは悪いことではない、しかしその死者を全部神として祀り礼拝することは間違っている。欧米や中東では一神教であり神というものが数学の定理のように明確であり偶像を崇拝しないということで一致している。先祖も崇拝しない、その点で宗教については先祖崇拝とかの原始信仰的なものにはならない、日本人は死者というものが何かわからないから死者に対する恐れから先祖崇拝になった。これは今でも部族社会では強力な先祖崇拝があるのだ。だけどその親や先祖がみんな崇拝されるような人間だったのか神だったのかとなると全然違うのだ。みんな凡夫にすぎないのだ。

そもそも先祖崇拝の根は何かといったら男女の生殖作用からでてきた、肉からでてきたものである。「私たち二人の幸せ、私たちの子供、私たち家族の永続、繁栄、幸福を願う」男女の愛から生殖を根にしているから肉を根にしているからこれを否定することはむずかしいのだ。恋愛より自分たちの家族の幸福より神に従い全体の幸福を願うことが神の御意にかなうことですよということは全くこの世とは相反した世界観だからだ。
生殖は本能でありこの本能を否定することは不可能に近いのだからこれを厳しくしたら信者などいなくなるのだ。だから宗教団体では恋愛はエゴだなど絶対に言わないかえって煩悩即菩提とかあらゆる煩悩の肯定というより促進されることをしている。だからこそ熱狂しているのだ。そこに親鸞のような悩みなど微塵もない、煩悩が強いことはエネルギ-があることでありいいことなのだ。ただ自分にわからないのは庶民とはこんなに平民とはこんなことまでわからないのか、疑問に思わないのかというのがわからない、いくらなんでもこれだけあからさまだったら気付いてもいい、これが宗教なのかということに疑問を持つはずだからだ。妻帯しないとか肉食しないとかそういう掟が僧侶には課されていたからだ。そういうのが信仰者の模範としてあったから宗教ってこんなに利欲を追及するものかという疑問が庶民にもあっていいはずなのだがその点全く不可解である。中世の民衆の方が宗教が何であるか知っていた。本当に弥陀への救いを求めていたのだ。だからこういう能力においては現代は低下している。


今日もまた一人近くで死んだ。そこで葬式とかうるさくなる。でも今の葬式は簡単である。葬儀屋に頼みあとは火葬場に持っていけば灰になる。ただ死者の処理をどうしていいかわからないから僧侶に頼んだりいろいろ悩む人がいる。その例として都会でかえって檀家に入る人が多いというのは親や自分の死後の処理に悩む人が多くなっているからだろう。その人たちは別に宗教を追及してこなかった。ただ世俗の仕事に追われていつのまにか死を迎えることになり何か宗教を必要としたから宗教がわからないから頼むのである。でもその人たちがみんな仏教徒でもなんでもないのだ。仏教のことなど何にも知らないのである。ただ死ぬとなるとやはり一番厳粛なことでありどう処理していいかわからない、だから便宜的に檀家に入って葬式を頼むとなる。普通だったら何かしら信仰をもっていたら頼むはずがないからだ。戒名なんかもらったって罪が消えるわけでもないし救われるわけでもないし極楽に行くわけでもない、そんなもの死後に神仏も受け入れない、ただの木に過ぎないから燃やしてしまうだろう。死後にはなんらか神仏による裁き、精算がある。それをまねがれることはできない、戒名を授けたくらいで
それをまねがれることはできない、生前のことが問い正される。罪や馬鹿げた過ちもカルトの過ちも正されて愕然とする。それを後悔しても誰も助けてはくれない、それは生前で自分で悟り行動するほかない、他者がしてくれるわけではない、それが過ちだと悟り決然と自分で行動しない限り誰も助けてくれない、他人に頼るのはすべて団体に他人にあずけてしまうことはできない、創価をやめたから次は幸福の科学がいいか、キリスト教でもいいかとかなんか安易に宗教を渡り歩く人がいるがこれもいかに宗教を真剣に考えていないかの証拠である。これは同じことの繰り返しなのだ。信仰とは神とか仏に頼ることでない、この世の勢力にひたすら頼ることが信仰になっている。つまり自立した信仰を持っている人などいないない、だからかえって上野霄里氏のような人は信仰なくても指針になるのだ。

だから宗教団体に入っている人は神仏に頼っているのではない、みんな仲間がいる、仲間が助けてくれる、大勢いるから安心だ、みんなで拝めば力がでるとか集団の力に頼る。だからある宗教団体をやめた人はまた別な宗教団体に入っているのが多い。そもそも自立性がない人達だからこっちがだめになったからあっちに入るかくらいの考えしかないからだ。
父母に会ったら父母を殺し、師に会ったら師を殺し、釈迦に会ったら釈迦を殺せ
これを実行することでありこれはかなり厳しいことである。先祖崇拝を断ち切ることがいかに困難かそれはやはり人間の本性に根ざしたものだからだ。つまり偶像崇拝を拒否することは非常に困難なことなのだ。いづれにしろ法華経であれキリスト教であれ何であれこれを実行しえた人は数えるくらいしかいない、それほど困難なものである。だから現実全く宗教とはかけ離れた世俗化したまるっきり宗教とは正反対のものが世にはこびり世を席巻しているのもそのためである。本物の信仰者がこの世に受け入れられることなどありえない、この世の人によって都合いいものだからこそ世をおおうほど偽りの信仰者によって満たされているし偽予言者を祭り上げるのである。サタンをまつりあげているのがこの世でありこれは変わっていないのだ。本物の信仰者、予言者がみんな殉教したり迫害したのもそのためである。上野霄里氏などもニ-チェなども現代文明を告発したからこそどこにも入れられることのできないアウトサイダ-化したのである。




創価学会員の控訴棄却判決 日蓮正宗本堂解体訴訟


日蓮正宗総本山の大石寺(静岡県富士宮市)が、信徒の寄付金で建立した
 「正本堂」を解体したことをめぐり、寄付をした元信徒で創価学会の会員ら
 計324人が「精神的苦痛を受けた」として、大石寺と阿部日顕法主を相手に
 約2億6000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が8日、東京高裁で
 あった。宮崎公男裁判長は、請求を棄却した一審・静岡地裁判決を支持し、
 学会員側の控訴を棄却した。



学会は新興宗教ではなく、700年来の伝統を持つ、と言うのが売りだった。
だから、大石寺の権威が欲しかった。
発足以来、信徒団体であり、本尊は大石寺の板曼陀羅だった。
この大御本尊に帰依しないと幸福になれないと言う教義でずっと来たから、
学会は宗門から離れる事が出来なかった


昭和47年の正本堂完成時に池田氏は、「ローマの廃墟、アンコールワットの遺跡等は、いかに壮麗を誇るとも、2千年にしてくずれた姿なのである。世界平和の根本道場たる正本堂は、末法万年、いな、尽未来際まで不滅」と、正本堂は万年にわたって不滅であると豪語していた。


新幹線の新富士駅はなぁ、
大石寺と草加がくついていた頃に、大石寺に行くためだけに無理やり今
の位置に決められたんだぞ、在来線ともつながんないのに。おかげでも
のすごい不便で利用価値のない駅になっちゃってる。
当時、無理やり決めたヤシは責任とれよな。



学生時代このお山に7回も行ったんだから馬鹿げている。あえて自分の馬鹿をさらしているのは後世のためにと恥さらしてまで書いているのだ。誰かの参考になると思い書いている。老人には老人の勤めがある。それは過去を告白し懺悔することである。正直に告白すればそれが罪滅ぼしになるし償いになる。善行も何もできなくても自分の罪や過ちを告白してそれを後世の人に参考にさせるのである。インタ-ネットはこうした個々の告白とかに向いているのだ。だから個々の歴史の記録としてそれなりに意味あるものなのだ。(我々は自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう-哀歌3-40)戦争でもやたら植民地解放の正義の戦争だったとか美化するのは良くない、戦争の暗黒面を赤裸々に告白があれば納得するものがある。それが例え悪としても過ちとしても正直に語れば罪滅ぼしになるのだ。創価というのはこれから壮大な過ちとして糾弾されるときがくる。今は権力を持っているからそれも時の政権と一体となっているから誰も批判はしない、でも北朝鮮であれ太平洋戦争であれ文化大革命であれそうした過ちは必ずあとで総括され糾弾される。ソビエトのレ-ニンさえ糾弾されその像は倒された。

この壮大な過ちに導いたのは何なのか、それはいろいろな要因があり社会の側にもあり一概にはいえない、社会的に底辺層へそれなりのご利益を提供して社会的要求があってこれだけのものとなったともいえる。始めの内は小規模な時は都会の相互扶助団体としてそれほど害がなかった。池田大作は折伏の鬼だったとか伝説を作り上げているが彼は一人も折伏などしていないという説もある。むしろ戸田会長のもとで借金取りに奔走してしいたらしい、というのはその当時の写真がありそれを見たらヤクザのような人と一団になり映っていた。一番嫌なことをさせられたと本人が言っているのだから間違いない、苦労人であったことは確かなのだ。そうした下から這い上がろうとするために権力に執着するようになった。金で苦労した人は金の亡者になることがよくある。宗教はそうした欲から解放させるものだが宗教は逆に怨念の宗教ともなりうる。人はいろいろなことを祈る、その祈りも百人百様であり決して相手の幸福だけを祈るようなものではない、たいがい祈りはエゴになっているのだ。自分の欲望を達成させるための祈りでありだからこそ人がそこに集まるのだ。

それにしても創価は社会経済生活に相当な影響を与えた。汽車の駅まで創価の都合で決められたのだ。あのとき国鉄でも相当にもうかった。経済的効果が大きいからそうなった。数が多いし金で社会を動かせるからそうなる。それも鉄道史の一駒であった。本山と争ったときはバスの運転手が自殺までした。なぜこれほどまで憎み合うのか?これは学生運動の内ゲバともにている。セクト争いが激しくなり今でも殺人が起きている。どっちが正しいというよりどっちもどっちである。その醜い争いを見たら創価の人もうんざりするし嫌になるはずだがそれでもカルトから脱することができない、まともにやっていればこれっておかしいな、宗教なのかなと自然に疑問を感じてしまう、あまりにも宗教というイメ-ジからかけ離れているのが創価だからだ。私の場合はだみ声で幹部の集まりで「お前ら、ここで何で集まっているんだ、創価の目的はなんだ、権力奪取だぞ、これだけははっきりしておくぞ」ここまで言っていて何にも疑問に感じない幹部達とは何なのだろうと根本的に疑問に思った。幹部になれば権力奪取が至上命令として公然と豪語されるのだ。

学会も同様で、客席である末端組織はキレイだけど、学会中枢は汚い

末端はキレイというのではなく無知なのである。無知だからだまされるのだ。まただまされるのを良しとする人や積極的に学会の力を利用しようとする人も多いのだ。

しかし一方で御義口伝講義とかとんでもない分厚いむずかしい教義を学生部だけに池田大作が講義しているというのも奇妙である。そんな重い本を持ち歩き一方で毎日幽霊会員を回り一票を確保するためにただ費やされたのが自分だった。創価とはこうしたとんでもない支離滅裂な矛盾した宗教団体なのである。こんなものに洗脳される人々は何なのか、知性の一片もない人達なのかと思ってしまうしナチスも席巻したように人間なんかこんなものなかとも思う、ヒットラ-が同じことでも百回どなっていれば通じるようになるとか人間の理性にではなく愚かさ訴えて支配したように大衆を支配するためにはその方が効果的であることを証明したのだ。ただ宗教はこのように悪用するのに便利な道具でもあるのだ。やめれば罰あたるとか不幸になるとかそういうものが馬鹿にしても意外ときくのは人間の盲点をついているからである。文明という知性や理性をたよる大層なものも一皮むけばなんともその中味はロボットとして機能する自主性のない機械的回路になっている。文明とは人間の知能を尽くして作ったものでも信じられない愚かさに満ちたものだった。何が愚かで利口なのか全くわからないのがこの世である。

自分の目に自ら智恵ある者とする人を、あなたは見るか、彼よりかえって愚かな人に望みがある(箴言10-26-12)

人間は神の導きなくして智恵あるもの利口にはなれないのだ。なぜなら本当の智恵は神にあり人間にはないからだ。文明というのも結局人間の最高の愚かさを示すものだったということがそれを如実に示している。自ら智恵あるものとして作ったこの文明も結局混乱とカオスであり大殺戮となった。文明に神の智恵は宿らないのだ。本当の智恵は神より与えられる。自らを智恵あるものとした科学が迷妄に陥ってゆくのもそうだし文明社会も統制のない混乱とカオスに陥ってゆくのもそのためである。文明と結託した宗教もただ混乱とカオスのうちにバベルの塔のように崩壊する。何が賢いのか賢くないのか大局的にみるとわからない、最近の自然破壊も人間の智恵によって生み出された文明が神の智恵によってコントロ-ルされている世界を乱すからそうなる。

いづれにしろ板曼陀羅にしても正本堂にしても大がかりな装置が宗教には必要だしそうした大がかりな装置に人はだまされる。板曼陀羅なんかも何なのかわからなくても大きいからありがたみがあるご利益があると自然に思うのが人間なのである。現代の宗教は何かすべておかしい、歪んでいる。戒名で金をとっているの坊主もそうである。あれはそもそも仏教となんの関係もないものである。宗教の一つの効用は人を支配する道具になることである。これはカトリックの時代からそうである。カトリックで政治と一体化して強力な支配体制を作り上げた。俗世の中に深く入り込んで宗教と政治が一体化したからルタ-の宗教革命があったのだ。人間を支配するためにはどうしても権威が必要である。その権威が武力とか金とかだけではたりない、精神的権威がどうしても必要なのだ。だから神の権威を借りて権威を作ることになるのだ。宗教は今やこれで信者を獲得して政治勢力化して権力奪取を目指したり戒名商売と化したりとにかく宗教者は最も社会では無用な害となる存在になっている。魂の救済をすべきものが魂を一番ゆがめるものになっているから奇妙である。それも宗教のむずかしさはどうしても盲従する人達がいるからである。キリスト教であれ仏教であれ信仰的に独立することがむずかしいからカルトから脱することがむずかしいから以前として勢力を保っている。

ただインタ-ネット時代になったら個々の体験を書く人がふえてきた。創価をやめた人の発言には感心する。若者が堂々と御本尊を焼くのを写真で見せたりやめた人の方になんか偉いものを感じる。こいつやるなと感心するのだ。宗教は他人に頼るとだめである。これはいつまでたっても集団からぬけられないし自立できない、自ら御本尊焼くなり偶像に頼らない強い意志が必要でありそれは他人ではできない、自ら決意して行動するとき道が開けるからだ。その行動するのは本人であり他人はただその決意をうながすことができても実際行動するのは本人にしかできないし本人が勇気を出して行動してこそ意味があることなのだ。結局人生はみんな自己責任である。他人から棚からぼた餅のように幸運や祝福がやってくることはない、その人自ら勝ち取らねばならない、ヤコブは長子のエサウの祝福を欺き奪った。長子権は神の定めたものであり変えられない、しかしそれすら安泰ではなく油断していると奪われるのだ。神はそのヤコブをとがめず愛したのである。他人に頼るものは一生他人にたより集団に便り自らの人生をロボットと化して終わる。自らロボットであったことさえ知らずにあの世に行く人もいる。それも自己責任であり他人にはどうすることもできない、ただその責任はとらされる。真実は明らかにされる。今目覚めないものは来世でも目覚めない、闇の世界に落ちてゆくことは間違いない、死んで目覚めるということ神になるということなどありえないのだ。

創価駆け込み寺http://www.medianetjapan.com/10/meeting/soka/guid.htm

ここのホ-ムペ-ジは創価をやめる人にはかなり参考になる。仏教一人信仰を目指した人がいたという不思議である。つまり創価の中に真面目に宗教を求めていた人がいたのである。考えて見れば宗教団体だから宗教を求めるのは当然なわけだからそういう人がいるのは当たり前である。しかしそんな人には出会わなかった。すべて毎日が選挙のためであり政治活動がすべてなのが創価であった。だから創価をやめた人に感心する人がいる。それはインタ-ネットがでてきてそういう人達がいたことがわかったのである。普通こういう人達は発言すらできなかったのだ。だから「創価をやめた人」ということでインタ-ネットで企画すると面白いものができるし参考になるものができる。というのはすでに創価をやめた人が千万人いるとか最低でも百万人はいる。それほど出入りが多いということである。だからそれに関してもの話題も多いのだが表にはでなかったのである。赤裸々な体験談がインタ-ネットで語られるようになったのだ。ただやめるにしても別な宗教団体に入ると元のままである。この人はそうした他者にたよるのではない独立の信仰の方法をといている好感がもてるのだ。


正月に配られる神社の「御札」の疑問


私は自治会の班長をしています。
先日自治会長が三重県のI神宮の御札10枚(800円)を市報と一緒に持って来て班員に売れというのです。近くの宮司に頼まれたとのことでした。
昔から班長が班員に順番に売りつけていたのです。
班員はほしくもないのに断りきれずに買っていました。
私の考えでは自治会は行政の末端を補完する組織であり地区住民全員が加盟している公的なものであると思います。
したがって自治会の組織を使って班長が特定の神社の御札を売ってまわるのは憲法20条に抵触すると思うので自治会長に御札は戻しました。
自治会という末端組織に憲法とはいささか大上段に振りかぶったようではありますが班員に事の経緯を説明するために解釈についてお聞かせください。


自治会行事と宗教行事等の関係でよく問題となることがあります。
憲法で信教の自由は保障されていますので、強制的に自治会用務に取り込むことはできないことです。
仮に自治会構成員のすべてが氏子であれば自治会で取り組むことも自治会員の便宜を図ることからいえばありえることだと思います。
自治会行事を負担に思う人が増えている昨今、宗教行事に関わらず、自治会行事(用務)について、自治会内でよく話し合っておく必要があると思います。
それによって、神社関係については別組織で対応するとか、といった方法が出てくると思います。いずれにしても、この機会にきちんと整理された方が良いと思います。



昨夜は火伏(ひぶせ)祭りだった。若者が裸になって一軒一軒水をかける、これは火事のないようにするための祭りである。今回問題にしたのは「御札」が隣組があり組長によって配られていることである。これもなんか変だとは思っていた、やはり同じように疑問に思っている人がいた。組長がくるから強制的に配られる感じになる。そこには信仰の違う人もかなりいる。その人たちはどうしているのか、そもそも神社だとか神道とかが何なのかはっきりしない、これは宗教ではないという人もいるし習慣的につづいている行事のようなものだとか何かわからないのだ。日本人はそもそも明確に宗教の定義をしていない、だから宗教に関して混乱するのだ。神道と仏教が一体になったりするのもそうである。何を一体神として祀っていいのかわからないからあらゆるものを神として祀ることになる。八百万の神を祀ることになる。その中でも先祖崇拝は一番わかりやすいから先祖崇拝になった。ホトケとはフトキであり死者をよりつかせる木の枝だった日本古来の宗教だったのが次に位牌信仰になった。仏教と先祖崇拝は何の関係もない、むしろ先祖崇拝を否定するようになるのが本来の宗教である。またこのことはこの世が肉なるものから成りたつとき一番むずかしいことなのだ。それは結婚からはじまる。結婚によって二人だけの幸せを願い追及することから子供が生まれ家族ができる、その家族の幸せをまた我が家族の永続を願うことが先祖崇拝に通じているのだ。だから簡単に否定できないというより肉の欲が否定できないと同じようにこの世が肉の世になっているのだ。

この御札であり戒名であれなんらかの信仰に通じている、縁起がいいとか神社から御札をもらう、そんなことは信仰とは宗教とは関係ないともなる。そんなにむずかしく考える必要はないともなる。それが普通の日本人である。だから8千万の人が初詣に行った。その中には他に宗教をもっている人も参加している。ではそこのいかなる神に祈ってくるのかというとはっきりしないのだ。日本人の宗教は自然宗教だから太陽であれ山であれ自然の万物に祈るとなる。それが神道だともなる。清らかな自然でみそぎする、心を清めて新しい年を迎える。ただそれだけの意味にすぎないともなる。そこに明確な神などは存在しない、宗教は自由だから何を拝もうとかまわないとなる。こういう自然宗教は一神教の世界では拒否されている。木を神としたり特定の動物を神としたりすることも偶像崇拝になる。形あるものを拝むなという戒めが最初の厳しい戒めとなったのがユダヤ教だった。神とは存在しても眼に見えないのである。眼に見えたら必ず神でも穢される。神であり人として現れた主キリストが十字架についたのも神が肉なるこの世に現れたら必然的にそうなるということである。人間がどうして神なんだとなるからだ。この点でキリスト教とイスラム教は一神教だから一致している。ただイスラム教からするとキリストも一人の予言者にすぎずそれを拝むことは偶像だとしているから争いがあるのだ。自然宗教というが自然は神ではない、今回のような大津波のような災いも自然はもたらす、自然はある意味で非情なのである。神が何かと言ったらそれは聖書からでた神が
人間が神と認識でる実体であり、その証拠が神であり人である主キリストとなる。それ以外神が何なのかという答えはないのである。

ここで問題なのは隣組の組長が「御札」を配るということは法律的にできないことである。強制的に配られるている感じになる。隣組の組長がやることは行政的な橋渡しであり広報を配ることなどである。ただ祭りは伝統行事なのだから「寄付」として募集することはかまわないが「御札」というのは宗教に関係しているから強制できない、それがNHKの受信料のように御札が配られ徴収されることは問題がある。でもこれは強制ではなく事前に御札が必要かどうか聞いて配っている。でも不思議なのは組長に神社から「御札」を配ることを一面強制されている。そんな権限は神社にないはずである。そこが戦前の体制と同じであり旧弊なものが以前として残っていることなのだ。

鹿島神社ではそこで「火伏祭り」が行われたり祭りが催されているからその祭りの金として使われる、祭りとしたら寄付とした方がいい、鹿島神社といっても「氏子」でもない、この鹿島神社はそもそも武甕槌(たけみかづち)の神を祀ったものであり大和王権の軍事の神だった。だから大和王権の支配した地域に鹿島神がいたるところにある。戦争の時、この神は武の神だから再び武の神になっていたのかもしれない、その後土地の神、豊作の神などに変わった。ではなぜこれが問題にするかというとそれが戦前の戦争と結びつくからである。

出征兵士には婦人たちが神社の「お守り」だとか「千人針」という白い布に針で刺繍した腹巻状のものを作り送ったものである。の頃から例の「大政翼賛会」が次第に行政の補助機関へと変化し、町内会、隣組といった末端組織を掌握し、食料や生活必需品の配給制度などを通じて国民生活のすみずみまで行政が監視管理する翼賛会体制ができあがり、戦前のファシズム国家はここに完成することになった。それを象徴するものとして学校には「奉安殿」という4坪ほどの御影石で堅固に造られた建物があった。ここには天照大神や天皇が「現人神」として祭られていた。何かの祭典や行事の際にはこの中に収められている勅語が校長により奉読された。

http://www.toshima.ne.jp/~esashi/war1.htm

この戦前の体制がひきつがれてまだ「御札」を強制的に配っているのだ。神道や神社でも宗教は権力と結びついたとき常に利用され危険なものとなる。権力と結びつかない宗教は比較的害がない、地蔵に祈るとか何かそこには庶民の無力なものへの愛情としてある。権力と結びついたとき各地の神社は政府の権力によって管理され戦争に動員する行政的役目をになったのである。創価なども他の団体も神道の戦争協力を今批判しているがそもそも宗教団体自体今や巨大な権力団体なのだ。創価はすでに権力と一体化ししている。そして権力奪取を目指しているのだから矛盾している。政教分離というとき創価そのものが戦前と同じように巨大権力化しているのだ。神道とか天皇もまた政教分離にふれる靖国神社も政教分離が問題になるのはあの戦争そのものが政教一致の戦争だったからである。本当に戦争で死んだ人が望んで行ったとは限らない、全国民が戦争体制の中で神社の氏子に組み入れられ強制的に戦争に参加させられたという側面もある。そして強制的に靖国に祀られたという側面もある。逆に靖国に祀られるなら満足だと言って死地におもむいた人もいた。でもそれは全部がそうではなかったことは確かである。

国体問題をめぐってはさまざまな人間のタイプがあったわけだが、積極的にこの波にのって少しも疑問を感じないタイプ、それは天皇制下の官僚を中心とする大組織に組み込まれていた人間、これが今やバランスを破って最大の多数になった。次には腹の中では不承認であっても表に出さず、功利的にそれを利用しようとしたタイプ、それからまったくの偽装であって腹の中では「不逞」の気持ちを抱いていたタイプ等、そこで重要なことは、偽装にしても黙殺にしても、自分はそんなに狂信的なものとは縁がないと思っていた人々も、何度となく表面的な言葉を口に出しているうちに、一種の催眠状態に陥っていたという事実で、これは非常に大切なことである。とにかく少しでも疑わしいところがあるとすぐに「排除」の手が伸びてくる

我が青春に悔いあり
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/shigayoko.html

戦争に参加した人も一様ではない、天皇制下の官僚を中心とする大組織に組み込まれていた人間-これが隣組の戦時下に果たした役割であった。ただ隣組がすべて悪いとはいえない、相互扶助が最初の目的だった。これは創価と不思議とにているのだ。とにかく少しでも疑わしいところがあるとすぐに「排除」の手が伸びてくる。まさに創価もちょっとでもこれ宗教としてはおかしいんじゃないかと批判することすらできない、NHKだろうがマスコミは完全におさえられている。戦時中の大政翼賛会ができあがっているからだ。だから作家でも第三文明とかに文を書いて知らずとりこまれているのだ。そこにキリスト教の作家もいるし他の宗教の作家も書いているから大政翼賛会なのである。創価の目的としていることも権力奪取とすると政治で権力を持ち強制しようとする、功利的に利用するために政治家と将来の権力的地位につくとか利用している人、カルトにどっぷりの人(自分)そこには信じられないほど様々な人々をのみこんであれだけの怪物化、巨大化したのである。戦争中もまた同じだったのだ。だからすべて常に人間を一様に見ることはできないのである。

小泉首相は総理大臣になるまで、神道政治連盟国会議員懇談会の副会長でした。
神道政治連盟国会議員懇談会とは、「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」などを綱領に掲げる神道政治連盟を支援する国会議員のグループです。神道政治連盟は、彼の派閥の親分の森総理が神の国発言の挨拶をしたグループです。

http://members.at.infoseek.co.jp/YaYa/yasukuni.htm

自民党と神道関係、神社とは関係が深い、天皇を頂点とする日本では政権政党はそうなりやすい、ここにも政教一致がなお存在している。それが創価と一体となっていることも日本の不思議である。なぜなら創価の御本尊には伊勢の神が仏の神より下に書いてあるというだけで不敬罪にされた。神道から迫害もあったのだ。いづれにしろ宗教が権力とかかわるとゆがめられる、災いとなる。日本人は宗教でもなんでもあいまいなのだ。対立したくないという小さな村の平和を保ちたいというのはわかるがこういう大事なことをあいまいにしていると大きな災いをもたらすことにもなる。天皇とは何なのかとか神道とは何なのか、戦争についてもどうして起こったかもその理由もわからない、政教分離とは何なのか、すべてあいまいにしている。それはまたあいまいなままおかしな方向に導かれることにもなる。神道にしろ創価にしろまたファシズムに導かれる危険性が常にひそんでいる。そのファナテックな狂信に導くのが役目をになうのが宗教なのである。


自己責任の社会(カルト教団になぜだまさるのか)

京都府八幡市の宗教法人聖神中央教会代表で主管牧師の金保容疑者(61)が少女の信者に乱暴したとされる事件で、元信者らの被害者の会は8日、「性的暴行は14年前から始まり、被害者は30人近くに上る可能性もある」と明らかにした

今回のカルト教団の問題は一見牧師だけに主催者だけに責任があるように見えるが現代社会は極端なほど自由社会になっている。インタ-ネットでも自由が加速されている。人間が自由を求めることは本性でありこれを否定することはできないのだ。自由の最たるものが移動の自由であり言論の自由である。これはおさえようとしてもおさえることができないのだ。結局江戸時代の封建制が崩壊したのも人間の自由な活動をおさえる仕組みになっていたからである。その最たるものが移動の自由がなかったからこそ御伊勢参りとか四国の遍路とか各地の遍路の旅があった。最後にええじゃないかの熱狂のように伊勢参りに殺到した。それは明治維新への底辺の庶民のエネルギ-が移動を旅を通して爆発したのである。

しかし一方で自由は様々な悪も自由によって解放される皮肉がある。移動の自由は外国人の犯罪の増加やテロになった。戦前はある程度宗教も規制されていたから極端なカルト団体は出にくかった。この宗教も自由となり今度はカルト団体が世間を席巻するまでになった。宗教が何なのかわからないものがその動機は様々だがともかく団体に入り問題を解決しようとする。それも自己責任になるのが現代である。自由社会はだまされるのもだまされる方も悪いという責任が問われるのだ。オレオレ詐欺でもそうである。これもなぜそんなことにだまされるのかとなる。そんなものにだまされる方も悪いとなる。

カルト教団にだまされるのはこれは実際かなり手がこんでいてものすごく複雑だからわかりにくいからだまされる方を非難するのも酷となるし自分自身がそうだったからあまり強くも言えないがしかし結果的には自己責任にされてしまうのが現代なのだ。どうしたらカルト教団を見分けるのか?

●教祖とかを極端に祭り上げる(教祖誕生祭)

これは明らかに偶像崇拝である。幸福の科学もこういうことをやっている。前は一般の人も主催者の本を読んでいた。団体に関係なく個々人が個々に勉強し学ぶなら問題ないのである。

●会員を執拗に増やそうとする

なぜこんなに会員を増やそうとするのかそれはこの世の勢力として世間に示すためである。その最たるものが創価である。首相さいも池田大作に頭を下げさせる力ももつのだ。別に信仰的なものがなくても数がふえることは民主主義社会では権力を得ることになる。一票としてカウントされる。信仰を広めるためではない、数を集めれば金も集まるし社会に様々な影響を与えることができるのだ。

●ユ-トピア建設、理想社会の建設 社会改革を訴える

この世に仏国土とか天国とかユ-トピアなど絶対にできない、その最たる過ちがマルクス主義者だった。平等の実現を目指した結果、ソビエトでもカンボジアでも中国でも膨大な人間が粛清された。それは地獄への道だった。皮肉なことは中国ではほんの一部のものが莫大な冨を得る不平等社会になっている。ここに人間社会のバラドックスがある。

カルト教団に属する人は全く自分で考えることをしない、盲目的に主催者に従うだけになる。神の祝福を受けるために子供がサタンに人身御供に出される。宗教の名をかりたサタンだった。一部の人は疑問を感じていたから一時的に代表をやめさせられていた。創価でも相当の人が政治活動と宗教活動が一体化していることに疑問を感じているのだ。でもなぜかそれに歯止めがかからないしこの世の力を権力をえるために宗教は利用されているのだ。

ともかく自由社会には自由なのだから何もしていいのだがその責任はリスクは自分で負いとなる。ここから先は危険ですと書いてある。でもそれでも行きたい人は自己責任ですとなる。欧米ではそうなっている。自由であっても警告はしてもその人があえてしたいなら自由に行動していいが責任は自分でとれとなる。だから自由社会にとって大事なのは情報の公開であり言論の自由である。それがないなら判断することもできないのだから言論の自由は一番大事なのである。しかしこれは創価批判ができないように言論の自由などないし言論は今まで電波を独占していた6局くらいのマスコミに支配されていたのだ。だから創価などはマスコミさえ支配すれば批判をおさえられるとなり莫大な金を使い広告をだしたりしておさえるのである。では創価を批判している週刊誌などが公正かといったらそうではない、文春でもアゴン宗とかをいつでも宣伝している。そこから金が入ってくる。つまり一方で創価を批判していて他の宗教団体から金が入っているのだ。これも今までの報道には大変な金がかかるからそうなるのだ。それだけの影響力を持てたからそうなるのである。

一方インタ-ネットは言論の自由を促進する、自由を促進するものだがこれもまだ過渡期である。一般の人はまだ言論の自由が何かわからない、だから差別語とか著作権とかいろいろな問題に精通していない、言論が鍛えられていない、自分も自由に書いたりしたことがないから失敗している。それで2ちゃんねるのようなものは自由な言論とは何か、発言することには責任がともなうとかそうしたことを鍛える場として完全匿名で行われている面がある。つまり言論はかなり鍛えられないとわからない、それなりの言論人になるには結構な修行が必要なのだ。それが全然ない人が発言するから問題がおきてくる。ただ影響力が極端に少ないから見逃されているのだ。ともかく自由社会とは自己責任社会であり様々な問題を知らないとかもいえなくなるから情報に無関心でいられないし絶えず勉強を強いられる世界なのである。何か災いをこうむっても自己責任だとされる社会なのである



報道の自由はなぜ規制されるのか

 
佐藤公明党区議の質問は、(1)区立図書館には、創価学会を批判した本がこれほどある(2)図書の選定は、だれがどのようにおこなっているのか(3)図書館の職員の適切な人事異動をしていただきたい――というもの。

創価学会を批判する本がおいてあるからといって、議員が権力を使って図書館など公共の場から排除せよとか、図書館職員の人事異動まで要求することは、全くの筋違いだ。政治的な力を借りた暴力だと思う。政治に携わる人が、権力者の立場から出版物に圧力を加えることに、怒りを感じる


http://www2.odn.ne.jp/~cbp91480/freelib.html

NHKの報道が政府によって規制されたという、天皇の戦争責任にふれたとかタブ-にふれたからか、日本にとってタブ-は天皇とか創価とか他にもあるのだ。創価などをどこも批判しない、新聞社でも批判しない、なんらかの抗議がくるし損になるからだ。公共の図書館すら議員が新潮社とか文春の週刊誌を置くななど圧力がかけれれる。自分の本もちょっとだけ創価のことを書いただけで鹿島町のしょぼい図書館とかに置けなかった。あれは明らかに法律違反なのだ。だけど何も言うこともできない、出版も書店などもそうである。そこには明らかに規制があるのだ。言論の自由など大きな権力をもっているものにはあっても個人とかにはない、出版社であれ新聞社であれテレビ局であれそこは組織であり団体であり個人が言いたいことを全部のせるわけではない、デスクとか編集者によって決められるのである。

今回の問題の深層は何なのか、NHK自体にも問題はある。NHK自体巨大な権力なのだ。マスコミ自体巨大な権力である。報道するものも公正ではありえない、NHKが報道すれば何百万人の人が見るし影響力がある。NHKに取り上げられただけですでに大きな宣伝力となり社会に力を示すことができるのだ。ではNHKで公正に様々な人の意見や立場を反映するかといったら反映しない、それはどこでもできないのだ。それではなぜNHKが問題になるのか、それは一律に国民から受信料をとっている公共的役割のためである。でも公共的なものでも公正ではありえない、個人でも団体でも報道でも思想でもかたよるのである。NHKはだから中国寄りだとか必ず批判があるのだ。NHKは公共的なものだとしてもそこには報道は公正ではありえない、そもそも報道にしても何が大事なのか何を放送するのかという時点で選択があり編集があり放送局の意図が働いているのだ。

テリ-なんとかがテレビで青色発光の発明について報酬がたりなすぎるという、松井とかのスポ-ツ選手にくらべると少な過ぎるという、そういうだけでたいしてた根拠もないのにそれが正しいように思わせる。それがマスコミなのだ。常にその根拠は明確でないしその根拠を理路整然と言うことはむずかしい。ただ大声でテレビに目立つ格好ででてきて言うときそれが正しいとされるように広がるのだ。ここにマスコミの危険が常にあるのだ。ある作家は出版社で収入を保証してくれて取材費を自由に使わせてくれるなら満足だとその苦しい台所事情と比べて報酬は十分だという人もいる。それもまた参考になるかどうかわからないにしてもテレビなどとくに何か目立った格好で大声で言う人が有利になる。すでにそこに出ただけで権利を獲得しているのだ。活字になるとその根拠とか理屈を述べるからまた違ったものとなる。メデアによって報道は違ってくるのだ。NHKが問題になるのはその影響力が大きいためである。新聞社でもテレビ局でも創価の批判しないのは茶の間にまで入っているテレビで批判されるとまずいからである。NHKは一面報道を公正にするにはチエックされてもしかたがないのだ。何故なら報道により一方的に有利にしてしまうからである。何を問題として取り上げるかどうかでもすでにそこには意図があり編集があり洗脳もある。報道の自由というときそもそも報道の自由をもっているのはマスコミという巨大な権力しかなかった。一個人など報道することも何することもできないから何も言うことなどできなかったのだ。

天皇問題にしても結局タブ-化して大政翼賛会化していった。朝鮮人慰安婦問題にしたらしいがそれが何なのか詳しくわからないにしても例えば「大東亜共栄圏」を目指し植民地解放の正義の戦いだとしきりにいう、そう純粋に思って戦った人達もいる。でも個々人とかにすれば異民族の女性を征服して自由にできるとか支配者になり権力を持ち他国を牛耳ることができる。古代から戦争にはそうした人間の欲望とか野望とか支配力とか征服力とかが常にありその極端な例が略奪が許されていたことである。その時人間のよう欲望がむきだにされた。女性は奪われ弱いものは奴隷にされた。今でも遊牧民の結婚が略奪して花嫁を奪う風習が残されている。戦争がやたら正義とかそうした美名のもとに美化されるようになったのは国民国家になってからである。日本人にしたって軍刀をぶらさげて東南アジアでもどこでも威張っていたのだ。現代でも経済力があるから貧乏な国に買春にゆく、そこで若い女性をはべらせふんぞりかえっていた。それは日本人だけではないから日本人だけを責めることはできない、経済発展に寄与するとか「大東亜共栄圏」とか美名のもとで強いものが弱いものを支配するという快感が性の場合、買春という形で極端に表れるのだ。ここの人間の欲望とか野獣性が戦争では露骨に表れる。戦争そのものがそういうものであるときこれを美化するのは疑問なのである。

結局報道というのも必ず巨大な権力にとりこまれてゆくのだ。巨大な権力によって報道は操作され規制される。権力を持っているものが報道の自由はあっても権力のないものには報道の自由も何か言う権利すらないのだ。だから弱者は大きな権力を持つ団体に入りそこで自分の主張を言うほかないのだ。宗教団体の公明党議員がなぜそもそも議員になっているのか、それはこのように権力に直接にらみをきかせ統制するためである。そもそも総体革命とかいっているのは権力の要所について実権をにぎれと指導しているのだから政教一致もなにない、権力奪取を常に目指してきた団体なのである。議員はまさにそのために最大の権力だから必要なのである。宗教で罰あたるとか脅しをかけ次に公権力で規制しとりしまる。天皇というのもまたその精神的権威として利用された。創価自体が神道側から規制された。権力と結びついた宗教思想はすべてそうなるのだ。これはどこでも同じである。共産国家ではこの逆の現象が起こり粛清につぐ粛清で大量の人間が虐殺されたから常に報道は権力を持つものによって規制されるし公正でありえないのだ。

善根とは寺や仏像を建立したり仏や僧への供養や写経などを行う仏教的な善行をいいます。このようなことは貴族や裕福な人にしか行えません。そのため地蔵は善根が積めない民衆から信仰されました。このようなことから、昔の人は地獄へ落ちることを恐れ、現世とあの世をつなぐ墓地に、具体的に6つの地蔵に表して石仏を建立し、救済されることを祈りました。

地蔵信仰というのはこういう由来が歴史があったのだ。寺というのは本来権力者のものであり庶民はかかわることができなかった。平安時代までは貴族仏教だった。それから親鸞とか日蓮とかがでてきて庶民にも広まった。ヨ-ロッパでもキリスト教の聖書には鍵がかけられて庶民には読めなかったのだ。ルタ-の改革派庶民でも聖書を読めるようにしたことからはじまった。宗教も特権階級のものであり宗教とは常に地獄に落ちるとか恐れさすものとして存在した。最後はだから免罪符などを売り商売にもなった。免罪符を売る僧侶の方が地獄に落ちてゆく身だったのだ。ダンテの地獄編を読めばわかる。僧侶とか権力的地位にあり地獄に落ちるなどと言っているものは来世は確実に地獄である。今の宗教関係者にはほとんどあてはまるし地獄行きである。寺では武家の立派な墓が残っている菩提寺になっている。江戸時代に寺は武家によって優遇されていて神社はないがしろにされていた。それが廃仏毀釈の原因であった。神社側の復讐だったというのも奇妙である。宗教も常に権力側にとりこまれ利用されるし宗教者も権力側にとりいるのが歴史だったのだ。一方この庶民のように地獄を恐れて地蔵にたよっているような庶民は地獄になど行くかないのだ。六地蔵というのは必ず村の入り口にありこういう庶民の切ない願いがあったのである。

宗教であれ報道であれ権力をもったとき特権化してゆがめられるのだ。地蔵にしか願いを託すことができない庶民の事情があったのである。新興宗教団体も最初は地蔵信仰の要素があったのである。しかし今権力を持っているのは誰なのか?民主主義社会においては結局大衆であり大衆が権力を作っている。一部の政治家や権力者ではない、大衆の容認なくては権力は維持できないからだ。だから地蔵に祈るような庶民は弱い立場になはない、だから庶民と言っても民主主義社会では庶民というものを昔の無力な庶民とは見なせない、そこになお無知になりやすいにしても大衆が庶民が権力行使しているのだ。戦争にしてもやはり一部の軍部だけだが遂行したと言えないのはそのためである。それなりに民主的な環境はあったからだ。だから今は特定の権力者批判より大衆批判にもなるのである。

大政翼賛会化

昭和15年に町内会や村の会をもとにして、全国民を動員できるように組織化したもの。のちに、政府の方針を国民に伝える機関に変わった。さらに隣組(となりぐみ)や少年団・青年団・壮年団・婦人会・産業報告会などの様々な団体を組み込み「聖戦」の勝利めざして国民を根こそぎ動員する機構となった。



政教分離の定義のむずかしさ(創価は憲法違反)


●政治と宗教の分離ではなく一宗教団体との分離

まず、宗教団体が政治活動をすることは表現の自由(21条)および宗教的行為の自由(20条)のより保障されている。

他方、宗教団体が「政治上の権力」を行使することは20条一項後段
により禁止されている。そして、この「政治上の権力」とは課税権とか
裁判権といった国が独占すべき統治的権力を指すのである。
ドイツなどでは、宗教団体が課税権を持つ例があるし、そもそも近代国家が中間団体を打ち破ったという沿革による規定なのだ。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/1091/jinken.htm

外国の宗教分離とは、国家が特定の1教団と結合して、
公権力を利用して1教派を支援したり、励ますのを禁ずるだけである。
「国政」と「教会」の分離をいうのである。

日本国憲法における「政教分離」は米国から直接の影響を受けているが、政教分離は英語ではSeparation of Church and State(教会と国家の分離)であって、Separation of Religion and State(宗教と国家の分離)ではない。米国の事情に即して言い換えれば、それは特定教会・教派と国家の分離であって、キリスト教と国家の分離ではないのである。 すなわち、国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者を就職・参政権などで優遇することは憲法違反であるが、宗教が政治に関与することは何ら問題ではない。


言葉の定義が大事だというのは日本の言葉自体、ヨ-ロッパの言葉を翻訳するときその意味がわからず漢字にしたからである。religionを宗教ではなく最初は宗派と訳していた。日本にはおそらく宗派あっても宗教という観念はなかった。宗教というとき日蓮宗とか念仏宗とかを意識した。言葉を明確に定義しないと議論はできないし憲法問題も議論できない、政教分離について書いてきたが法律的にかなり難解なものであることを自分自身理解した。政教分離という言葉は政治と宗教の分離と錯覚していた。言葉がそうなっているから最初のイメ-ジでそうなってしまう。言葉のイメ-ジ力の大きさがそうさせていたのだ。政教分離は政治と宗教の分離のことではなかった。アメリカ大統領が聖書に手を置いて就任式を行うのは政教分離に違反しないのかとか教会に行くのも政教分離に違反しないのとかいろいろある。大統領になる人が信仰をもつことが信教の自由で許されているから大統領でも信教の自由はある。政教分離というとき宗教はもともと教会でありカトリック教会が政治権力をもっていたからその教会との分離であり宗教との分離ではない、カトリックという強大な具体的な団体が政治権力をもっていたからその権力を政治から分離したのである。ドイツにキリスト教民主同盟があるがこれはある特定のキリスト教団体、教会の政党ではない、名称がキリスト教というだけである特定の教会のことではない、キリスト教は欧米では広く普及しているのだから違和感がないのである。

創価学会の問題は公明党は創価学会の出先機関であり創価学会の一部門が公明党であり創価学会が選挙のときは会員を総動員して仏法の戦いとしての選挙をする。その総指揮官が会長の池田大作である。創価学会という一宗教団体が選挙を総力で押し進め議員を送り込み国からの特権を得ている。実際大臣までになり全国からの陳情を受けている。大臣は強力な権限を持っている。中国の友好を政策としている公明党は中国人へのビサを緩和したり予算もとるし様々な特権をすでに国家権力から得ているのだ。「
国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者を就職・参政権などで優遇することは憲法違反である」つまり一宗教団体が現実に国から特権を得ているのだ。議員は立法権や課税権などにも関与できる。自分の宗教団体に有利なように法律にまで関与できるのだ。創価学会と公明党は別だというが実際は創価学会の一部門が公明党であり創価学会の会長の池田大作の命令が絶対であり創価学会に支配される。

●選挙は仏法の一番大事な戦い

選挙は仏法の宿命転換の戦いとするとき、具体的にどういうことかというと私を折伏した人は家が傾き家の人が創価に入り議員にまでなった人がいる。それで大学まで入れたとか家の生活自体を創価の活動でまかなうことができるようになった。これはまさに宿命転換である。創価様様になる。これは一番わかりやすい例としても多くは選挙活動は仏法の戦いでありこれに参加するものは病気が直るとか商売繁盛するとか様々な御利益を獲得するまた現実の生活を変える戦いでもある。将来的には社会の枢要な地位に一宗教団体の会員がつくと信じている。つまり信仰と社会の様々な利権追及の一致があるのだ。だから何よりも選挙が一番重要な戦いでありすべての活動はそこに向けられているのだ。数を集めることが至上命令なのである。しかし現実創価には幽霊会員が二三百万人くらいる。名簿だけの存在でありほとんど活動していない、これを座談会に集めて一票に結びつけるのが幹部の仕事である。だから創価には確かにいろいろな人々がいろいろな目論見で集まってくる。その動機も千差万別である。権力の野心もないカルトにはまっている人もいる。選挙の戦いが仏法の戦いとは何の関係もなのだがそう信じ込ませるのがカルトである。政治的野心、権力志向、経済的御利益、病気回復・・カルト・・・・こうした様々な動機でそれが選挙という具体的な目標に向かって活動する。選挙というのは具体的であり社会にじかに影響するからわかりやすいからそこに戦い目標となっているのだ。何票とったかがその成果でありそれによってすべて幹部の昇進があり評価がある。それで選挙に熱心なのである。

●憲法は国家の土台、憲法違反は国の乱れを生む

では民主党はどうなんだ、立正佼成会とかの援助を受けたりしているのではないか、これも憲法違反になるのか、でも立正佼成会自体では議員を送り出して国から特権を受けるようなことはしていない、創価学会は具体的に国家権力の奪取を目的として具体的に選挙であれ報道であれあらゆる面で活動しているのだ。選挙は国政を国の権力にかかわるから最大の仏法の戦いとなるのだ。地方選挙でもそうである。一宗教団体が国からの特権を得るために日々活動しているのか創価なのである。都議会では警察の予算まで介入しているから創価問題に警察は介入することを躊躇するとまでなる。大臣にまでなっていることはすでに一宗教団体が権力的にいかに有利な立場に威圧的な立場になっているからわかる。陳情に行ってそこに公明の大臣がいることは心理的にも大きな威圧感がある。公共事業の道路が許可されるかされないかとかなりその利益享受の面から今度は公明党を支持することになりその延長として創価に入るとご利益があるとなり会員になる人もでてくる。一方でそうした権力的な場で事業を許可されないものは恨んだりして反創価になったりするかもしれない、いづれにしろ政教分離というのは言葉の定義すら明確にできていなかったのだ。それほど宗教と政治の問題はむずかしいから一般的には政教分離ってなんだとなってしまうのだ。もちろん婦人部などに政教分離がどうのこうのと言ったって皆目無関心である。ご利益があればいいし宗教は自由だとなる。ただこれは明らかに国家の土台を成す憲法問題でありこれをないがしろにして民主政治、法治国家にはなりえない、自民党はこの点全く法にもでたらめなその時々の権力を維持することを目的とした団体であり肝心の要の憲法すら無視する政党でありこの点民主党は政教分離の憲法を基に創価公明党を正そうとしていることは好感がもてる。


中国や北朝鮮の共産党一党支配が創価の目的

結社、団体の組織化の自由はあっても宗教団体の場合は一宗教団体が国家権力の特権を受けることはできない、その他政治団体、組合、党派は政治権力を得ることができるが一党独裁は禁止される。


★民主党:「憲法提言」骨子案判明 「政教分離」厳格化盛る

 
民主党憲法調査会(枝野幸男会長)の憲法提言の素案となる「骨子案」が22日わかった。
宗教団体と政党の間の政教分離規定の厳格化や、議会オンブズマン創設などの
国会機能強化を盛り込んだ。



民主主義の基本は独占の禁止(宗教団体-創価にも独占禁止法の適用を)

自由経済の基本法である独占禁止法の目的は、企業が公正で自由な競争を行うことを促進することにより、一般消費者の利益を確保しようとしている法律です。

私的独占というのは、事業者が単独で、あるいは他の事業者と結合するなどして、人為的に事業者の事業活動を排除したり、支配することによって、市場において価格や数量などを左右することができる力、つまり市場支配力を形成したり、既に有する市場支配力を行使することをいいます(2条5項)

●権力の分散を計る

ここで独占禁止法を問題にしたのは民主主義というのは選挙する権利とかだけではない、様々な前提となるものがある。三権分立もそうである。言論の自由もそうだしこの独占禁止法というのもそうである。そもそも民主主義社会に我々は住んでいる。しかしこの民主主義を理解している人は少ない、自分自身もそうである。民主主義の根底になっている思想がそもそもあるのかとなると例えばマルクス主義とかと比べるとかえってわかりにくいのだ。民主主義とか自由主義となると絶えず自由が強調される。移動の自由であれ言論の自由であれ何か制限されると自由が強調される。では自由が保証されねばならないのはなぜなのか、自由は人間の活動を活発にさせるためにある。封建時代のように移動の自由がなかったら商業そのものもが発達しにくい、言論の自由がなかったら互いに自由にものも言えないのだから様々な思想が発達しない。その骨格にある思想は何なのか、経済的活動でもあらゆる活動で独占をはばむというのが民主主義の根底にある。三権分立も権力を三分割したのだから一つの権力が肥大化しない、独占しないということなのだ。司法は行政の上にたち公務員や議員を監視する権限をもつとか権力を互いに監視するシステムを作る。これは明らかに権力を独占させない思想である。

● 独占を打ち破ることが民主主義の歴史

権力の分散は政治だけではない、経済でも報道でもあらゆる分野で必要なのだ。そもそも権力の集中、独占からファシズムとかが生まれた。それで財閥は解体されたのだ。一つの企業がコンツエルンを組んで経済を独占した結果、社会を支配して戦争にもなったということがある。これは報道でもそうである。電波が6局にしか許可せずテレビのチャンネルを独占してマスコミの力を強大化した。出版でも大手出版社が市場を支配してしまう構図があった。出版社は作者より上にあり権限があってインタ-ネット上に学術論文を出すなと学者が言われ出せなくなっている。出版社が本にして出してくれないと困るからそうなる。商業出版はまた売れるもの大衆好みのものが優先されるという差別があった。金にならなくても何かを訴えたい人はいる。そもそも報道の原点は金がほしいからではなく何かを訴えたい人がいることなのだ。それは何も現代ではなく人間の歴史がはじまった時から人間は訴えるものだった。歌とはうったえるからきた。万葉集には庶民の歌もありその不満をのせているのも一つの過去からの報道だったのだ。人が何か訴えたくても今まではもしマスコミに取り上げられなければそれは社会に存在させられなかったのだ。出版というのもこれも庶民が訴えるものとしては余りにも商業主義であり一部の有名人をのぞいては閉ざされた世界だったのだ。このマスコミの独占があったからインタ-ネットがでてきたのである。インタ-ネットにより報道や出版の自由を拡大化したのだ。民主主義とは独占との戦いであった。独占的権力の戦いが民主主義の歴史である。ファシズムとはあらゆる面でも独占だったのだ。政治も経済も報道も一党独裁により独占されたのである。独占のあるところに民主主義はないのだ。

●創価などの宗教団体の独占の禁止を

宗教団体の独占は禁止されていない、しかし創価は一宗教団体では巨大化して国家権力をも動かすほどになり宗教団体の独占化になった。宗教団体も他にいろいろあるが突出して巨大化したのだ。そして権力に介入しているから独占状態になり有利になる。戦前は宗教団体に何らか規制がありこんなに一団体が巨大化することはなかった。この巨大化はあまりにも異常である。民主主義の権力の分散化に反するのだ。信教の自由はあるからある程度団体化することは許される。しかし宗教の団体化には限度がある。国家権力をも揺るがすものとなると大問題である。信教の自由はあるとしても一宗教団体が巨大化してそれが国家権力までに食い入り特権を与えることは憲法違反なのである。宗教団体ですら実際は独占禁止法が適用されるのではないか?課税されない一宗教団体が国から特権を得て大臣をその団体の一員から出すことは憲法違反なのだ。創価という一宗教団体の権益を追及するものだからだ。そもそも宗教が巨大団体化して権力を追及して国家をのっとることを目的としていること自体異常である。なぜなら宗教は心の問題を重点にしているとき、国家の権力をとることを目的にしたその思想自体が民主主義国家では許されないのだ。政教分離というのは政治と宗教の分離ではなく具体的な宗教団体との分離なのである。その宗教団体は権力を独占するとどうなるのか?他の宗教弾圧や言論の弾圧・・・・様々な民主主義に反する独占の故に戦前のような天皇を神とした他の思想や宗教を弾圧するものになるからだ。

実際は創価の創始者の牧口常三郎は政府に弾圧されて獄死したとか創価自体そうした歴史をもっているのだ。御本尊に日本の神の名が仏の下に書いてあるとかで弾圧された。ここに政府による国家権力の宗教独占があり戦争の悲劇があったのだ。神道というのはよくわからないが日本の古代から宗教による権力争いがあったのだ。仏教が入ってきたときも古来の神道派と争いがあり蘇我氏が仏教を擁護し勝った。明治維新でも神道が台頭して仏教派が廃仏毀釈になった。これも歴史の繰り返しであり歴史は繰り返すである。宗教が権力にかかわると思想や他の宗教の弾圧とか言論の自由が規制されるのである。ともかく民主主義そのものが何なのか、選挙する権利というだけではない、多数ですべてが決まるというのではなくその前提とするもの言論の自由とか政教分離とか法の尊重とかそういう前提を守れないとすると民主主義自体成り立たないのだ。ただ単に多数ですべてが決まるとなれば一党独裁になり一団体にすべての権力だ集中してしまいファシズムになってしまうのだ。だから経済だけではないあらゆる面で宗教でも報道でも独占は禁止なのである。




創価にからんだニュ-スの真相は(JRの電車事故にみずほ銀行の創価学会員の14億詐欺事件)

●国土交通省と政府の責任隠し?


今回のJRの場合
最終的にその批判が監督庁の国土交通省に向かう可能性が高く
北側大臣が引責辞任する可能性すらある。
もし北側が辞めれば、それまでの自民政権の大臣選出の慣例上
同じ党・同じ派閥からというのはありえない。
おそらく自民からの選出となる。
そうなれば公明党の連立への力は一気に弱くなり
公明・創価組織そのものの弱体化もありうる。
少なくとも大臣がマスコミや国会で矢面に立たされるのは確実だった
それは避けたかった…ってところだろ。
だからJR批判をするマスコミを批判し、
あまつさえ被害者をプロ市民とまで批判した。


今回久しぶりで2ちゃんねるに熱中した。ずっと読むだけだったがJRの事故とありいろいろ知りたくて読んでいた。2ちゃんねるでポ-リング、宴会、ええじゃないかという書き込みが連続してありええと一瞬これって何なのだろうといぶかったがそれが堂々と言えるのもネットかと思っていた。でもそれでもそうした書き込みがつづくと人間は影響される。そういう意見もあるしそれも一理あるのかなと思ってしまう。それは結局JRを批判するとその矛先が国土交通省に行きひいては創価の北側大臣が辞任させられるようになると自民党の政権にも痛手になるから工作員が入ってきた。自分自身も日頃マスコミはこころよく思っていなかったのでマスコミもたたかれるのも当然かと思った。マスコミたたきが工作だとは思えなかった。そこで悪者になったのがヒゲの記者なのだ。これの口汚い信じられない追及、お見舞いに行って陰でベロ出していたんだろうとかいうのが特に取り上げられこのヒゲ記者一人が悪者にされたのだ。これはわかりやすいから一斉にマスコミは傲慢だとなった。自分もそう思ったのだ。しかしこの集中的書き込みには工作員が働いていた。ボ-リング、宴会ええじゃないかとまでは言うことさえはばかられるのに堂々と次々に書き込みがあったことである。ヒゲ記者が問題にしてもあまりにも露骨な書き込みだった。これの意図はやはり国土交通省に及び公明と自民の連携にヒビが入り政権が危うくなる危機感がそうした工作員が働く要因になったのか、錯綜しているからわかりにくいが確かに国土交通省についての批判があまりない、マスコミさえあまりしていないのだ。国土交通省への批判が抑えられてしまったとなるのか?ここは奇々怪々のところがあった。

次に今度はみずほ銀行の元創価学会員の14億円の詐欺事件のニュ-スが飛び込んできた。これはビッグニュ-スだった。これもNHKでアナウンサ-が原稿読みはじめたところであわてて中止させられた。上からの命令なのか、一時は放送したのだから混乱したのだろう。朝日とNHKは報道していないが他は池田大作の動画まで出したから珍しいと思った。地方新聞でも結構でていた。福島民報は出していない、ここは聖教新聞を刷っているから出さないのだろう。今回はでも大新聞でも出したから比較的出した方だろう。この真相はまだわかりにくいがかなりの裏があり創価現役の組織的犯罪だったことは間違いない、創価は莫大な金を銀行に預金してあるから銀行と関係が深い、三菱銀行は有名である。ではみずほと創価とは関係あるのかと調べてみたら

●創価の中国進出はなぜ

みずほコ-ポレ-ト銀行(中国拠点)


人材派遣会社  上海創価コンサルティング有限公司


http://www.mizuhocbk.com.cn/jp/link/


ところでこの【上海創価】って会社。
ここまで来ても創価学会とは関係ないと言う声が全くでない。
と言うことは、やっぱり関係あると言うことだ。
と言うことは、創業者の「孫立平」は、学会員だと言うことだ。
でなければ【上海創価】と言う社名に対し、SGIが黙っているわけがない。
布教が禁止されている国内で、人材派遣会社と称して
その社標に宗教団体名をそのまま使用する・・・・
これはどう考えても正当な宗教団体のする布教活動とは言い難い。
「ここに来れば、いい仕事紹介するあるよ!日本からきた企業いっぱいあるよ」
カルトの成せる技である。


中国に来る日本人留学生に創価学会員家庭の子弟が多すぎる!
みんな知っていて誰も話題にしないんですか?
これは2ch系デマじゃないですよ。
短期留学よりは高校卒業してすぐやってくる子や、上海現地にある高校国際部に多いです

中国大陸にあそこまで入れ込む理由が全然分からない。コンサルティング会社だか人材紹介会社も現地にあるし。あれは創価系の中小零細が使うのかな


http://66.102.7.104/search?q=cache:I6F-NtMlCrcJ:www.shanghai.or.jp/
yorozu/view.php3%3Fd%3D3%26id%3D40167+%E4%B8%AD%E5%9B%BD+%E4%B8%8A%E6%B5%B7+%E5%89%B5%E4%BE%A1&hl=ja&lr=lang_ja

中国・上海杉達学院から
創立者 池田大作先生に名誉教授称号。


このソ-スは若い純真な高校生が書いているのだから信憑性が高いのだ。創価というのはなぜ中国に肩入れするのか、これは在日関係が多くいて韓国では創価のものが反日運動に加わっていたとか問題になったように創価とは宗教だけではない政治として活動する団体であり海外でも絶えず政治活動をしているのだ。そもそも池田大作は宗教家というよりは政治家なのである。政治家になれないから宗教を利用して政治家になっているのだ。だから政治に熱心なのである。これは明らかに中国に創価の勢力拡大をねらって幹部の指導があり創価の若者がその布石のために送られているのだ。


そしてリンクをたどり

■政党政治の自殺 (衆議院議員・平沢勝栄『諸君!』0302

http://members.at.infoseek.co.jp/netplane/soka-sikisya.html

ここに 


創価学会員として組織の利益を優先するのか、それとも中央省庁の一員としての任務を優先するのか、が重要なポイントです。国家のためではなく、自らの信仰を優先させて池田大作名誉会長のためにポストを利用することがあってはならないからです。外務省の中には創価学会員の組織"大鳳会"が存在します。この大鳳会のメンバーが「広布のお役に立ちたい」といったレポートを池田氏に送っていたことも明らかになっています。

 私が警視庁に勤めていたころ、創価学会に関係した事件の捜査をしていると、どうしても情報が洩れてしまうということを何度も経験しました。現場の捜査員のなかに創価学会員がいて、そこから漏洩していたのでしょう。この場合は政策決定や重要な判断には影響しませんが、末端の情報はすべて洩れてしまうわけです。ましてや学会員が重要な決断をするポストにいれば、判断が歪められてしまう可能性が大いにあるのです。これは検察官や裁判官でも危険性があります。

田中外相が就任してから、創価学会の池田大作名誉会長が1度も海外訪問をしなかったといわれていることです。池田氏はいままでに50カ国以上を訪問したほど、「外交好き」で知られています。その名誉会長がまったく海外に出かけなかったとすれば、それはなぜでしょうか。
 池田氏が海外を訪問するとき、外務省は国会議員や皇族の方々にするのと同様のVIP待遇をしています。たとえば通常であれば入管で手続きをしなければなりませんが、池田氏はノーチェックです。氏は一私人ですから、その待遇に何ら法的根拠はありませんが、外務省がそのように配慮してきたのです。
 こうした悪しき慣例が行なわれていることが、あの暴れ馬のような田中外相の知るところとなり、マスコミに暴露され、騒ぎになることを恐れたのかもしれません。その結果、池田名誉会長の外遊がなかったのではないかと私は考えています



田中真紀子も外務省に入って創価の勢力に歯止めをかけたということがあったのかとわかりそうした功績もあったのかとこの記事でわかった。創価は総体革命というのを言っている。これは社会の枢要な地位について社会を支配しろということである。それは司法であろうが警察官であろうが教育者であろうが行政官であろうがそこに創価のものが入ってくると実質的に社会を支配することになるのだ。それにしてもこういう命令に従って天下取りに加わっている人達のことがわからないのである。それが宗教なのか、社会を権力でもって支配することが宗教なのかとなる。

ただ現代の民主主義は団体の民主主義であり団体が利権化する民主主義だから団体は暴力団のようなゆすり、たかりになるから恐れられる。団体はなかなか批判できないのだ。それで大坂の組合員が専従役員となり市役所の仕事を全くせず労働組合の仕事をして多額の給料をもらっていたのには驚いた。あからさまな税金泥棒だった。民主主義が民が主であると述べたときこれはあくまでも個々の民でありこうした暴力団なみの団体を言ってのではない、団体は宗教団体だろうが労働組合だろうがその団体の利権だけを追及する暴力団的なものさえなっている。だからそこには誰も批判できない、口出しできないタブ-となる。アンタッチャブルなマフィアの世界になっている異常さが団体にはあるのだ。

国家の最高権力にあるものはもはや一団体を利することではない、国民全体の利益を計るのが仕事である。創価の人はいつも信心していると飛行機事故にも交通事故にもあわないとか本気で言っている。自分たちの団体だけは利益になる助かるということなのだ。そんなこと大臣になったら通用しない、全国民のために安全を計り全国民の利益を計るのが勤めとなる。この調整はむずかしいにしても今回は国土交通省は全国民の安全を計る立場にあったことは確かであり創価のものも俺たちだけは交通事故に遭わないとか事故に合わないとかは言えないのである。これは幸福の科学の会員は事故にあわなかったとか言っているから団体とは自分たちの利益ばかりを計るようになるから問題なのだ。天皇陛下になぜ姓がないかというと姓は平とか源氏とかある一族団体に属するものになるから国民を代表する天皇には姓がないのである。つまり全国民の利益のための祈る人だからそうなるのだ。公共的な立場にある人は特に最高権力者になれば全国民のための利益を計ることが仕事なのであり一団体の代表でなくなることを肝に命じるべきである。創価のためだけでなく全国民のために安全を祈り計るのが仕事なのである。

この一連の情報のリンクでわかることはテレビだけではわからないニュ-スの解読である。インタ-ネットで便利なのは一連のものをリンクでたどることができる。そこに相互に連関したものとして構成することができる。そうするとニュ-スを深く読めるのだ。ただこれはかなり時間と労力が必要だから一般の人はできないのである。今回のみずほの創価の詐欺についてもニュ-スだけでは真相はわからないからプロ記者による解明が必要になってくる。ともかくインタ-ネットで情報が拡大したのだがこれを読みこなすのは大変だともなる。2ちゃんねるにしてしも長時間はりついていないとよくのみこめないからだ。ただそこからは今までのマスコミから得られない情報を得られるがこれも自分なりの分析が必死だから骨がおれるし何か真実を知ることは大変なことだということを知ったのである。



犯人の川村は創価大の第一期生で、国交省の北側と同期。
当時創価大は、学会エリートの養成を目的として設立された


これも不思議な因縁だ、今問題になった北側大臣とこの詐欺事件は創価大同期だった

ここに詐欺事件のことが詳しく書かれていた。墓苑事業をめぐる暴力団なみの利権争いがあった。

http://toshiaki.exblog.jp/m2005-05-01/



靖国神社も政教分離に違反するのか?

●民主主義は定数の基礎の上に成り立つ

(首長は主権者の単なる役人として、主権者は彼らを受託者として権力を主権者の名において行使しているわけであり主催者はこの権力をいつでも好きなときに制限し、変更し、取り戻すことができる。)(社会契約論ルソ-)

y
=ax(変数-定数)

民主主義=a(三権分立+政教分離+法治主義・・言論の自由、選挙)

a(変数)=神道、仏教、イスラム教、キリスト教、・・・・・

民主主義というのはそもそも何なのか?主義だからマルクス主義なのか、何かを主張するものなのか?民主主義とは何らかの主義ではない、民主主義というのは実際は言葉だけで実質がないのだ。だから創価では仏法民主主義と言っているし神道民主主義もあったし極端な話が共産民主主義もありうるのだ。なんでもその前に民主主義とつけることができる便利なものなのだ。民主主義とは何かを理解するのには変数となるものではなく定数となるもの変わらない基盤としているものを理解する必要があるのだ。制度として固定したものの上に民主主義が成り立つのだ。それが(三権分立+政教分離+法治主義・・言論の自由、選挙)などである。ここは定数だから変わらないのである。まずこの定数が確立していない所には民主主義と名付けても名前だけであり民主主義はない、日本にも村の寄り合いの話し合いが民主主義だったというのもいる。それは寄り合い民主主義になる。しかし制度的にこの定数が確立していないと民主主義はありえないのだ。だからこの変わらない定数が崩れると民主主義は喪失する。一党独裁とかファシズムになる。しかし選挙でもしある一党が圧倒的多数になればそれも可能となるのだ。ナチスは最初暴力的革命を目指したが失敗したので民主主義の選挙で政権を獲得してファシズムになった。だからファシズムを選ぶのも民主主義だとなる。ところが民主主義では一党独裁は一団体が権力を独占することは禁止される。独占禁止法は別に経済だけでなく政治にも必要なのである。

●結社の自由はあるが一団体の独占は禁止


様々な団体、労働組合であれ宗教団体は結社の自由があるのだからそれらは変数として存在が許されている。しかし民主主義は(三権分立+政教分離+法治主義・・言論の自由、選挙)を定数としているからこれに違反するのは民主主義そのものが成り立たなくなる。創価は一宗教団体とすると政教分離という定数の法に明らかに違反しているのだ。一宗教団体が国から特権をすでに得ているからだ。宗教は自由だというとき民主主義の基盤、定数が確立していてこそである。中国などには共産党一党独裁だから民主主義の定数が確立していない、だから民主主義はないのだ。政権は交代しないし交代は暴力による他ないからだ。靖国神社問題にしてもこれも政教分離から考えると違反しているかもしれない、一宗教が国の宗教となることができるのかという問題である。天皇とは何なのかということ自体あいまいでありそこから一面宗教戦争の様相を呈したのである。結社の自由はあるがある団体が極端に巨大化することはそれが国権に関与して国権を左右するとなると特に宗教の場合が禁止されねばならない、それは歴史の戒めとして決められたことなのである。だからおそらく神道団体というのは存在してもいい、それが国権とかかわっていることは国権の中枢に存在することは問題がある。神道というのも宗教の一派なのではないか?例えは古代では神道派の物部氏と仏教派の蘇我氏が争って神道派が敗れて仏教が聖徳太子により国の宗教になったように神道もその時、一私的な宗教となり団体となったのではないか、そいうこともありえたのである。ただ聖徳太子は仏教を国教としたからこれも民主主義からすると政教一致だとなる。これは今の時代から古代とか中世にあてはめることは無理である。

靖国神社が一宗教団体であり国の宗教施設とした勘違いがありここは再検討なので消しました。靖国神社についてはむずかしいので再検討して書きます



全体主義化する国家の危機
(報道されない石巻市議会議員の焼身自殺事件)



 昨日午後石巻市の北上川河川敷で石巻市議会議員と見られる身元不明の焼死体が見つかった。昨日午後3時前、石巻市福地舘下の北上川河川敷に焼死体があると市民から警察に通報があった。遺体近くにはポリタンクがあり、50メートル程離れた堤防に軽トラックが放置されていた。車は石巻市議会議員で合併直前まで旧河南町議会議長を務めた三浦総吉さん(63)の所有で、三浦さんは行方が分からなくなっていて、一昨日家族から警察に捜索願いが出されていた。三浦さんは自殺した可能性が高く警察で身元の確認を急いでいる。


http://d.hatena.ne.jp/plummet/20050613/p5

ここに事件の経過が書かれている

●重大事件が報道されない恐怖

この事件の詳細はまだ不明である。日本テレビで「公明に反対する市会議員」とあったので驚いた。その後2ちゃんねるで東村山事件の自殺と同じ手口ではないか、創価が関係しているのではないかと議論になった。東村山事件は余りにも警察官が創価の会員だったとか余りにも辻褄があいすぎた。だから今でも疑い家族が追及している。今回の事件もすぐに警察が自殺だと断定したこともふにおちない、検死のあとで自殺と断定されるのでありかけつけてすぐに自殺にするのは何か指令があったのか不自然なのである。近くで自殺した人は近くの医者の計らいで自殺にはならなかった。医者にはそうした権限がある。ところがこの検死する医者も実際は警察とか団体にとりこまれていて簡単に他殺でも自殺にもできる。この辺の手続きは警察にまかせられているとすると他殺が実際は自殺にされるのも簡単だとなる。創価などを批判するホ-ムペ-ジで謎の不明な死がいくつもありそれらに加担する団体があったというがちょっと度はずれたもので疑っていたがなんか今回の事件でそれもまんざら嘘ともいえないのかという恐怖を覚えた。一番恐怖だったのはこれがマスコミで報道さえされなかったということである。だから国民はこの事件があることさえわからないとなる。貴乃花の相続問題など国民的問題ではない、これは非常に大きな政治国家の基盤をゆるがす大きな問題である。何故ならもし創価とか巨大組織が警察とグルになり簡単に他殺が自殺として闇にほうむられればもはやこの社会は全体主義社会であり民主主義社会ではない、創価ファシズム社会になりつつあるのだ。自民党政権と一体となっているのだからますますそうである。

●日本は全体主義国家である

日本がそんな全体主義社会なのか、ありえないと国民は思っている。しかしこうした重大事件が報道もされない、そんなもの誰も知らないとなるとまさに北朝鮮の全体主義国家と同じである。つくづく人間の社会は変わらない、民主主義国家であることの方がむずかしいのだ。戦争のことはあれは特別に例外的に起こったと思っているがそうではないのだ。必然的に起こるものなのだ。全体主義国家になる方が人間の社会では可能性が大きいのだ。人間の社会はどうしても組織化、団体化の世界になる。するとその組織、団体の意向にそわないものは闇に消される。暴力団とか大企業とかでもそうしたことは行われる。今回の事件も合併による事業で利権争いがありそれで市長が辞任したりといろいろもめつづけていた。利害の対立が原因で他殺であり自殺であれ起きた事件である。これは普通にあることだからわかる。そこに組織がかかわり組織の力で闇に消される。まさにそうなるとこの社会が暗黒社会だったということに愕然とする。民主主義社会はそんなことありえない社会と思っていたからだ。警察がからむとなるとそうなる。その背後に大きな団体、組織があり警察すら手を出せないとなる。これこそ暗黒社会である。これは全体主義国家の北朝鮮でも中国でもイラクのフセインの時も行われていた。全体主義国家では相当数の反対者は闇に消される。この闇の組織とか団体に抵抗する力は持てないからやり放題になる。


●この世を支配するのはサタン(暗黒の主)

これがめずらしいかと言えば何度もこうしたことを人間は繰り返してきた。戦前の戦争のときもそうでありそこに何百万の人間が犠牲にされた。そして60年たってそのときの横暴な軍部のことを告発しているが当時は全くできなかった。こうした巨大組織の犯罪は現時点ではあばくことができない、その巨大組織が弱まると追及がはじまる。なんといっても時の政権の中枢をになっているのだから追及できなくなる。そして国民はこの全体主義国家の犯罪すらしらない、マスコミは国家の重大事を報道しない、知ることすらできない、日本はもはや創価や自民の全体主義国家になっているのだ。創価に反対するものは闇に消される。自民党は知らんぷりである。つくづく人間の社会は変わらない、この社会を支配するのは暗黒をつかさどるサタンである。なぜそうなるのか?人間そのものの闇から巨大な闇が作り出される。人間の闇とは何か?それは貧乏だとか憎しみだとか怨念だとか心の負のエネルギ-が不満などが堆積するとそれが巨大な闇となり社会を支配する。カルトはまた現代文明から起きたものである。文明は人間の存在感を希薄にして孤立化させるからカルト化しやすいのだ。組織とか団体にいると偽りでも一体感をもてるのが人間でありそれでナチスのようにファシズム化しやすい構造になっているのだ。

ナチスも不景気で社会不安になったとき台頭した。時の政権が闇の世界を支配する組織と一体化していること自体すでに全体主義国家なのである。国民にその危機意識が欠けている。そしていつのまにか日本も全体主義国家になっている。反対者は警察もからんで闇に消される。自分も闇に消されるのか、そこまで考えなかったがそれもありうる。しかし自分は自分の使命を果たして死んでゆくほかない、結果は50年後にしかわからない、常に今の時代の真実はわからない、しかし50年後に真実は必ずあばかれる、そして死後に裁きは必ずある。もしないとしたら余りにも不公平ではないか、悪人はこの世は極楽だった、犯罪者でも神にまで祭り上げられる世界であった。しかし来世は容赦ない神の裁きがまっている。それでこそ公平な世界である。この世にある間、義人は苦しみ世からうとまれ抹殺もされる。しかし来世は神の栄光に欲するのだ。この世で栄華を見た悪人は来世で呵責のない裁きと責めがあるのだ。それで辻褄が合う、公平な世界となるのだ。


人権擁護法でネットの言論がつぶされる

人権擁護団体という名の差別利権団体等が推薦する2万人もの委員で構成される人権擁護委員がを下部組織に持つ人権委員会が(2005/3/22訂正)、裁判所の令状もなしに拒否できない資料押収とか立ち入り検査とかするっつーのはヤバ過ぎ。警察だって捜査令状無いと出来ないようなことを、訳の分からん連中に無条件に与える、しかもほぼどうにでも拡大解釈して何時でも何処でも誰にでも出権限発動できるような状態で。こんな憲兵だかゲシュタポだか分かんない組織が、特定団体の利益の為に出来上がる可能性が大。

http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/200503071448.html

今回の石巻の市議会議員の焼身自殺がマスコミに報道されないとかもはや重大なことが報道されないとなると全体主義国家である。今でも自分などどこにも報道したり訴えたりする場所がなかった。辛うじてネットで訴えることができた一人である。だからこういう法案で庶民の言論がもし封じられるならもはや全体主義国家になる。創価など大組織にとっては都合のいいものなのだろう。でもなぜ民主の岡田代表が賛成なのかわからない、賛成と反対に自民党内でも別れている。自民党の阿部氏などは反対している。不思議なのは公明と民主は政策的に一致することが多いことである。自民党とは対立することがかなりある。政治が政策というとき政策で考えるとありえないことである。政策で与党と野党が明確に色分けされると国民にもわかりやすいのだ。政策が違うものが権力に固執するために一緒になっていることはますます政治をわかりにくくさせいるのだ。だから自民も民主も再編成が必要なのである。



戦争を論理的に反省すべし(英霊とはな何なのか)

●情的な日本人


日本人は情の世界に生きる、論理の世界にうとい、知に働けば角がたつ・・・というのはやはり西洋がギリシャのロゴスからはじまったとき、ロゴスは言の葉ではない、ロジックであり論理なのだ。日本人は論理的思考に欠けているのだ。戦争とかもすべて情緒的に反省するし言葉も情緒的なものが多いのだ。論理がないいうことは日本の社会には論理が通じない社会になる。義理と人情というとき義理が論理となるが義理は欧米のいう論理ではない、強制的に従わせるものである。論理は不満があっても公平なものとして従うものである。欧米の民主主義も論理によって組み立てられているのだ。数学の公式のように定理のように社会自体が組み建てられている。戦争のことに関しても論理的に考えないし反省もしない、人間の結びつきが情的であり論理的に結びつかないのだ。

貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
見事散りましょ国のため


桜のように潔く散ることに美学があるがでは何のために戦い死ぬのかというその目的を論理的に考えることはない、理屈を言う人間は日本では嫌われる。同じ釜の飯を食うとか同期がことさら重んじられる。国のためとあっても国のために何でもしていいとういわけではないのだが何のために国のために死ぬのかが明確ではないのだ。靖国神社の問題も情的に解釈する。死んだら日本ではみんなカミになるとか英霊になるとかそれで終わってしまっている。しかし英霊とすることは英とは秀でた霊であり特別な立派な霊となる。これが中国や韓国からすると批判の的になる。それが戦争を肯定したものと見られるからだ。戦争を賛美して日本では中国人を殺した人間がカミとなっている。これは許せないとなる。戦争の原因を論理的に解明していないのだ。経済が困窮したからでもいいし石油がとめられたからだとか何か戦争に追いやられたなら追いやられた原因が明確でない、戦争が何かはっきりした原因もなく突発的に起こってしまったようになっている。つまり我々日本人はかくかくしかじかで中国と戦争になりアメリカと戦争になり東南アジアに進出するという論理的な説明がないのである。論理的に共有するものが共同するものがないのだ。桜のように散るのが死ぬのが美しいというだけでは世界に通用しないのである。

●論理的に戦争を反省する

唯一欧米からの植民地解放戦争だったというのがあとから付け加えた論理なのだ。これも戦争終わってから戦争の合理化のために論理化したものであり説得力にかく、結局日本は明確な論理も戦略もない暴発的なアジア拡張戦争に陥ったというふうに今から見ると見えてしまう。海軍と陸軍が離反して指揮系統も一つでなかったというのもそのためである。天皇の現人神としてたてたこともさらに神風的な論理のない戦争となった。宗教がかかわるとどうしても論理がなくなる。神がかりの戦争となる。神がかりには論理は不必要である。創価も仏がかりだから論理は必要ないのだ。元がモンゴル軍が攻めてきたとき、確かに神風が吹いて勝った。ところがこれも今になると合理的に説明されている。最初モンゴル軍の武器とか集団戦法に度肝をぬかれた経験をしたので二度目はその裏をかくために船に奇襲をかけたりと負けた経験から論理的に勝つための戦略と戦術を練ったのである。次にも大軍が攻めてきたがこれも宋の大船団が一カ月到着するのが遅れたのだ。そしてそのとき台風シ-ズンになっていたのだ。それで台風で船が沈没したのでありこれも幸運だった。一カ月早く到着していればどうなったかわからなかった。モンゴルは情報として台風のことを知らなかったのは落度であった。神風が仏の力で勝つというとき論理的合理的に戦うということがありえなくなるから危険である。人間はまず合理的論理的人間的努力のあとに神の加護が加わるのだ。努力なくして天才もなかったのだからただ神風に頼ることは危険なのである。

モンゴル(敗因) 宋の船団の遅れ 台風の無知
日本(勝因) 敗戦から学ぶ 台風の幸運
アメリカ(勝因) 圧倒的戦力 情報の優位 士気は高い 指揮系統は一つ
日本(敗因) 戦力の圧倒的不足 敵の情報不足 神頼みの無計画 指揮系統の分裂

日本の太平洋戦争は敵を知らないことが敗因の大きな要因だった。モンゴルは台風のことを考慮していないことが敗因の大きな要因でもあった。台風の時期に攻めてくるべきではなかった。当時の船は今の船とは違い波に弱い船だからだ。太平洋戦争の敗因も日本が余りにもアメリカのことを知らなすぎたのだ。アメリカがどれだけ大きな国なのか、技術力がある国だったのかもわからなかった。今から合理的にふりかえれば戦争の敗因ははっきりしてくる。アメリカを詳しく知れば戦争はしなかったはずである。それを日本は神の国だから勝つということは大きな誤りだった。士気も日本人は低かったのだ。上官と下士官は王と奴隷のような関係で連帯感はなかった。今ふりかえると様々な敗因の要素が浮き彫りにされているのだ。

●政治と宗教の一体化と危険

ともかく創価と今の自民党は戦争時の大政翼賛会はにているのだ。

大政翼賛会が成立するや、体制に迎合する形で(「バスに乗りおくれるな」と)、まず社会大衆党が、ついで政友会、民政党が解党して大政翼賛会の傘下に入り、日本の政党歴史は終焉するところとなる。42(昭和17)年には産業報国会・大日本婦人会や部落会・町内会などの地方組織が組み入れられ、上意下達の国民生活統制機関として、また侵略戦争を鼓舞(こぶー励まして勢いづけること。奮い立たすこと)する国民運動推進機関としての役割を果たすのである。

神がかりも仏がかりも同じものである。国家神道というとき国家の神道であり本来の神道とは違う、国体、国家維持のための神道であるから権力と一体化する宗教でありこれは創価と同じではないか、英霊を神格化する国家神道を基にする自民と創価が一体になっていることの不思議である。ただ神も仏も絶対なものであるときどちらかが下にされたとき迫害が起こる。戦争中日本の古来の神が創価の御本尊では仏の下に書かれていたということで弾圧されていたことでもわかる。宗教も権力の力関係で優劣が決められ逆らうものは弾圧される。宗教は情的なもので結びつく、論理的に結びつく共同体ではない、日本は神の国であるというとき論理を越えたことであり他の国から見ればなんで日本だけが神の国なのか、そんなことは許されない、非合理的だ論理でないと批判されるのだ。神の国はそもそもこの世にはないものである。それは来世にあるのでありこの世では実現しない、だからこの世は世俗的論理的な国の関係を結ぶ他ないのである。ヨ-ロッパではカトリック支配が1500年とかつづいた歴史がありその上で宗教から政治が分離したのは政教分離が作られたのである。宗教が政治にかかわることは論理性が失われるからそうなった。科学も宗教からの離脱であり宗教批判になった。宗教の本来の目的は個々の人間の心の問題であり政治とか社会改革、外的な改革にはないのである。戦死者の霊は供養すべきでも国家の守護霊のようにするのは英霊として神格化するのはそこからまた同じ戦争の道を踏むことにもなる。戦争というものも論理的に解釈すべきであり英霊として祀って終わりとなるのは外国からも納得されないのだ。

●霊とか魂は非常にやっかいな存在

霊とか魂とか何なのかというときこれはものすごくやっかいなことである。英霊というのは靖国に祀っているがそういう物があるのかといったら実体はないが靖国という神社はあってもそこに骨すらないのである。でも魂はそこにあるとなる。でも霊とか魂がないのかというとそれが人間社会に左右しないのかとなると左右する。最近見たバイキングの映画(魔王復活)がそうだった。ノルウェ-のボ-デン神(先祖霊)にとりつかれた王家の兄弟の弟が兄と連合して敵を倒すのだがボ-デン神にとりつかれている弟は危険なので父親が殺すことを命じたのだ。ボ-デン神にとりつかれた弟は戦いに強力な力を発揮するのだ。でもそこには危険性があった。だから分離して殺すことにしたのだ。これは何を意味しているのか、これは神道でも創価でも神や仏を頼りにすることはある意味で論理的、非合理的なことでも力を発揮する。その霊は善的な霊ではない、悪霊であり荒御霊でありデ-モンである。それでもそうした霊も戦いとかには力を発揮するから人は祈るのである。マルスの神にロ-マ人が祈ったように人間は論理的合理的なものだけでは支えることができないのだ。それが人間社会にも作用してナチスとかファシズム社会が生まれたのである。

天皇の神がかりの戦争もそうであった。それはある時強力な力を発揮して戦いを勝ちに導くことはあってもそのあとやはり危険なものとなる。戦争ともなると生死をかけたものとなるととても合理的科学的なものだけでは戦えないからどうしても人は神に祈る。それはキリスト教徒でもイスラム教でも日本教でも同じだった。このボ-デン神に祈って日々今も戦っているのが創価でありでも一面これは選挙に戦いに強いから自民と一体となったのだ。このデ-モン的カルト団体と一体となり政権を維持している自民はこの映画とにていたのだ。つまり仏の加護であり英霊であれこれは一つの非合理的非論理的な信仰の基となるし非常に危険な霊でもあるのだ。英霊が再び軍神の霊となり日本人を戦争に導くかもしれないという恐怖を感じないだろうか?いづれにしろ靖国問題であれ創価の問題はまさにこうした神がかり仏がかりの問題でありこれは非常に危険な側面をもっていることを認識する必要がある。宗教というのはみんな平和に導くものではない、マルスの神として戦争に導くことも常にあったのだ。
昭和天皇が言っていた。「神道の神は戦争の神ではない、平和の神だ」と昭和天皇自身も戦争に導いた自らの過ちを常に反省していたのである。つまりマルスの神を礼拝していたのが戦時中だったのだ。

●魂は荒御霊から和御霊(にぎみたま)へ

 死後直後の荒々しい魂は肉体から離れ山麓をさ迷います。その為か、山中に居ると背筋の凍るような気配を感じたりします。又、山は凶暴でズル賢い獣が暗躍する地で、とても人には管理することが出来ない別世界だったわけです。
 そして更に年月を重ねることによって、魂は山の麓から徐々に高みに上っていって最終的には山の頂上へと至り、魂は荒御霊から和御霊(にぎみたま)へと性格は移行し、更に稲作の豊穣と山の麓に住む子孫一族の繁栄を願う「祖霊神」へと変身していきます。これを山上昇神説と言います。

http://64.233.167.104/search?q=cache:VGAx_az_ZfMJ:www2.nkansai.ne.jp/org/houunji/raisekan/raisekan_05.htm+%E8%8D%92%E5%BE%A1%E9%9C%8A&hl=ja

日本人の信仰でも魂はいろいろあり死んだ人の魂は最初は荒御霊でありそれを鎮める和御霊にするのが信仰である。戦争や事故などで死んだ不幸な人々は祟るもの荒御霊となるから鎮めねばならない、権力争いで不業の死をとげた人なども菅原道真のように神にして祀っているのは呪いとなり災いを及ぼすのを鎮めるためである。戦争で不業の死だからむしろ英霊とか秀でた霊として祀るのは果たして霊と魂を科学的に分類できるのかどうかわからないにしても簡単なものではない、英霊とすることには何か危険がないのか、そういうことさえ考えねばならぬ。和御霊(にぎみたま)となるべく祀らねばならないのであり戦争の英雄のような単純な英霊としていいのか?つまり英霊とは英雄の霊のことである。英雄になることは歴史でも誰でもなれることではないしまれである。英雄というと個人的な特別優れた人を英雄にしている。常人ではまねできないことをした人である。英霊とは英雄崇拝的なものがあるのだ。そこまで崇められる存在なのかということである。英霊という言葉自体にそうした意味があり問題なのである。そうしたことまで靖国の問題は複雑であるから簡単に時の首相がお参りすることは確かに供養したいことは国民同意でもまだまだ靖国神社とは何なのかさえわからない人が多いのだからもっと理解を深めないかぎり慎むべきものかもしれないのだ。神道によって祀るにしたって神道そのものがわからない人が普通であり国民的同意がそこにあるわけでもない、英霊と簡単に言うけど英霊そものものが何なのかわからないというのが現実なのである。
 

参考

ザ・バァイキング(魔王復活)(映画)



人権擁護法案にメ-ルで抗議



この日本に、厳然として存在する社会矛盾・不公正な現実、それらを固守して恥じる事のないいくつもの集団や思想。
不思議な事に、いわゆるコンピュータネットワーク、インターネットによる個人同士の声なき声が重なり合うまで、これらの現実は全く現実として捉えられず、人々の目から隠されてきたように思います。


人権擁護法案反対は何なのか良くわからなかったがインタ-ネットとと関係あった。2ちゃんねるなどの行き過ぎた言論の規制だった。確かに行き過ぎがあってもこれはインタ-ネットの言論そのものへの規制へとつながるその動機も創価とか他の組織団体のためのものである。今の民主主義は余りにも組織団体のためになりすぎている。組織団体に属しない人も相当数いるのだがこれらの声は反映しにくい、政治家もこれらの声を取り上げない、というのは具体的な票とかに結びつかないからだ。政治家の生命は選挙にあり選挙が生殺与奪権を持つとなるとどうしても組織団体の意向に従わざるをえない、そこをついてくるのが創価である。選挙で応援されないと当選できないとなると従わざるをえず自民は公明の言いなりになる。民主主義は組織団体の意向ばかり尊重するとゆがめられる。組織団体に属さないものは正しい主張しても無視されるのだ。組織団体は何をしてもいいとなり警察と手を組んで犯罪までできるようになってしまう恐怖がある。

ともかく人権擁護法案反対のために政治家三人に抗議のメ-ルを送った。これも今回効果があるかどうかわからないがインタ-ネットでも政治活動できるしできやすくすることが必要だ。そうすると組織に属さない個々人の声も政治に反映されることになる。組織に属さない人の声も無視されなくなるのだ。インタ-ネットはその武器になるのだ。リアルタイムで宣伝できる、放送し連絡できる。盛んにインタ-ネットで人権擁護法案反対を呼びかけ集会もそれなりに盛況みたいだったからインタ-ネットの呼びかけも力を発揮したかもしれない、ただ自分としては政治活動は表だってしたくない、どうしても党派に組み入れられるから政治活動を嫌がる人はインタ-ネットで発言する人にもかなりいる。インタ-ネットでは党派化されることが嫌いな人がもともと多かったのだ。政治活動も組織で活動する人だけでなく個々人にも軽く参加させるようなシステムが必要である。団体とか組織に入らないと政治活動ができないければ今までのように政治には無関心にならざるをえないし組織団体の意向にそったものとなる。メ-ルを送ったりその時々インタ-ネットの掲示板で発言したりするのは楽だしそれでも政治参加で多少効果あるとなるとそれなりに政治に興味を持ち参加型の民主主義になる。インタ-ネットの言論は民主主義を促進するのだ。

国会で審議されている法案などにもほとんどの人は関心がない、でもインタ-ネットで論議したりしていると関心を持つのである。今回の法案はインタ-ネットでの自由な言論が制限される、2ちゃんねるがつぶされるとかで多少危機感をいだき具体的なメ-ルの抗議とか一部集会にも参加をうながした。地方では集会に参加できなかったがメ-ルで抗議した人もかなりでてきた。ここに参加型の民主主義がインタ-ネットに実行された。インタ-ネットはリアルタイムで呼びかけるのに向いているから功を奏することがある。どこで集会あるのかもどこに訴えていいのかわからないのも今までの世界だった。インタ-ネット上から呼びかければそれなりの数が集まることがある。今や3千万人がブロ-ドバンドに接続しているとなると呼びかければかなりの効果がある時代になっている。インタ-ネットがマスコミ一辺倒の組織団体一辺倒の時代を変えるかもしれない、そういう一歩でもありうる。だからメ-ルで抗議したのである。


桜ちゃんねるで人権擁護法案の議論

桜ちゃんねるで人権擁護法案のこと詳しく説明していた。なぜこのような理不尽なものが法案として成立しようとしていたのか?在日や外国人や創価公明の意図が見え見えである。あいつは人権を侵害していると密告されるとたちまち強権的にとりしまり何も言えなくなる。三権分立意外の別な権力が憲兵のように生まれてくるという恐怖である。こういう法案がメデアで報道されずに実行されようとしたこと自体、今のマスコミ報道がすでに国民にとって一番大事なことすら報道されない自由な報道の機能を失っているのだ。創価に反対できるメデアがすでにないことが如実に証明している。ささいなことで因縁つけられ社会から抹殺される危険な法案だった。共産党すら反対している法案だった。こういう民主主義の根幹をゆるがす問題が議論すら告知すらされないというのがそれをすでに如実に物語っているのだ。私は右の団体とかにも左の団体にも属していない、でも今回だけは言論問題だったので自分に直接関係あると感じたのでメ-ルで抗議したのであり集会にも参加さえしたくなった。インタ-ネットの発言すら検閲されとりしまり警察権力だけではない第4の権力、憲兵のようなもので取り締まれるという外国ではありえない中国や北朝鮮と同じ社会になるという危険な法案だった。それが国民に良く知らされずに議論もなく通されるようとしたことは民主主義社会とは思えないことだった。マスコミはネットを良く思わないからネットをつぶして自分たちだけが報道する権利を持つというのも許されないことである。そんなことのために報道すらしないのは余りにも自分たちの利益ばかり考えて社会全体のことを考えないことにマスコミへの不信がつのった。マスコミでは国民にとって重大なことが報道されないことがある。これこそ言論の自由を根幹とする民主主義の危機だったのだ。

時事問題28にも出したがこのペ-ジが10人くらい毎日アクセスあるのでこっちに移した。

佐藤剛男氏(福島一区)は自分の選挙区の人で人権擁護法案に推進派だった。



本物の宗教は荘厳な文化を創造する(日本の宗教の歴史をふりかえる)



●権力と宗教の興隆の関係


宗教と権力は歴史的にも密接な関係があった。最初の邪馬台国自体の首長の卑弥呼は鬼道をもって治めるとあるからこれは宗教であり祭政一致である。古代には物部氏の神道側と新しく入った仏教を取り入れる蘇我氏が争った。これもかなり熾烈な争いであり犠牲が出たし遺恨を残した。歴史の一側面として宗教があった。宗教も権力の推移とともに興隆というか勢力拡大化があった。

しかし過去の歴史を見ると江戸時代の檀家仏教をのぞいてそれぞれに歴史的に意味あるものであった。奈良時代の奈良の大仏を作ったのは蝦夷征服などで日本統一を成したとき蝦夷などが犠牲になったからその鎮護のためにまた日本統一の象徴として大仏が作られたのだ。奈良の大仏は日本統一の象徴である。平安時代の貴族仏教は文化的色彩が強いがそれなりにおおらかさの文化を作った。それは東北にまで及んでいるし小高の磨崖仏(まがい)が平安仏教の所産であり今も残っている。おおらかな線と沈黙の仏像である。その他建築物にしてもいろいろ残していることは衆知のことである。

鎌倉は鎌倉武士という骨太の仏教文化を残した。このとき日蓮や親鸞、道元が本当の日本の仏教にしたのだ。ただ日蓮だけは国家仏教的なものをもちだしたから前近代的であった。親鸞とか禅宗の道元などにしても極めて個人的であり現代に通じていることに驚くしヨ-ロッパの宗教革命より先んじていたのだ。その後戦国時代になり一時キリスト教が入り信長が仏教の信徒団体と対立する過程で擁護して普及しかかったが島原の乱で危険視されて弾圧して檀家制度の仏教にした。キリシタンをそれほどおそれたのは何か?島原の乱は宗教的なものより政治的反乱だったからだ。浪人化した侍が戦国時代の最後徳川政権に反抗した戦いだったのだ。そこにキリシタンがまきこまれたのだ。だからキリスト教は日本に何らかの文化を残さなかった。はかなく消えてしまったのである。徳川時代に檀家制度化した仏教で死んでこの時寺が優遇されたとか神社側は遺恨をもった。そして明治維新となり国家神道となり神道側が廃仏毀釈などで弾圧した。

国家神道は旧来の神道とは違う、日本国家を支える権力的宗教である。だからこれは太平洋戦争の危険な思想的バックボ-ンとなり戦争に負けると今度は国家神道は批判され新興宗教の興隆となった。それででてきた代表が創価である。最初は勝共連合の共産主義打倒のために作られたのが基らしい、創価は最初から政治的意図が強いし日蓮とか親鸞とかの創始者宗教ではない、政治的宗教だったのである。戦後生まれたカルト宗教は宗教ではない、戦後の空白時期に生まれ科学文明化、都市化の中で精神的支えをコミニュティを求めたのであり強烈な過去の求道精神は微塵もないのである。求道精神があったのは鎌倉仏教までであり江戸時代の檀家仏教で死んだのである。

●本物の宗教は荘厳な文化を作る


宗教が生きている時は荘厳な文化(美術、建築)を作ることでわかる。宗教の精神が文化を作るのである。古代の鎮護仏教でも奈良の大仏はただ大きいだけではない、そこには精神の刻印がある。精神を具現化したのが仏像なのだ。これは偶像崇拝になるがしかしまぎれのない文化の創造があったのだ。平安時代の貴族仏教でさえ文化を作って後世に残している。鎌倉仏教も庶民の宗教化したがこれも文化を残している。ただ庶民化の弊害は安易化でありただ題目を念仏を唱えればいいでとなりこれも世俗化していった。親鸞の妻帯は当時、僧侶が妻帯しないという世界で意味があったが今はない、時代時代に意味が変わるし過去の歴史と同じことしても意味があるわけではない、僧侶として妻帯したことは凄まじい批判される時代だったのである。鎌倉仏教は仏像を作らない偶像拒否の時代であった。曼陀羅一枚拝むだけの宗教だからアラ-の神や偶像拒否の宗教で今日の世界宗教に通じていたのである。

ともかく過去の歴史をふりかえると明らかに宗教が興隆するときは荘厳な文化を残している。これは中国でも韓半島でも同じである。中国の仏教彫刻や仏塔には力強いものがある。シンプルであり芯が一本通った大陸的文化を創造した。宗教が文化を創造するときその宗教が歴史的に本物であることを証明している。江戸時代には3百年もつづいたのに仏教の文化的遺産はほとんどない、残ったのは殿様や武士の菩提寺としての寺であり庶民は一段下に置かれた。いまでも寺ではその殿様の墓守となっている。金沢の寺町でもやたら立派な大きな墓が寺の内にある。遺産といえばそれだけだとなる。鎌倉武士は日蓮とか親鸞とか特に禅宗に帰依する信仰をもっていた。

しかし江戸時代の侍は武士道に生きたのであり仏教は檀家制度としての仏教であり戸籍係でしかなかったのだ。役所の一つが寺だったのだ。精神的支柱は武士道であり明治維新も精神として残ったのは武士道でありこれは内村鑑三などのキリスト教に受け継がれたのだ。武士道は明らかに日本人の宗教ともいえるものであった。明治維新はそうした過去の遺産があったから成すことができた。ただ国家神道を取り入れたことは太平洋戦争に導くものであり近代化にはそぐわないものだったのだ。武士は精神的エトスとして武士道をもっていたが国家神道は天皇崇拝は庶民はもっていなかった。地域の氏神信仰はあっても江戸時代に天皇崇拝信仰は消失していたのだ。江戸時代は見ざる聞かざる言わざるの世界でありそんな世界で自主的な自由民主主義を取り入れることはかなりの困難があったのだ。支配階級にしても天皇をもってくることは支配体制を作るのに便利だったのである。国家神道は本来の神道とは別物だったのだ。

●戦後の宗教はカルト

戦争に負けて雨後の竹の子のようにでてきた新興宗教はほとんどカルト宗教であり病理的宗教ともいえる。過度な科学文明の中でオ-ムのように異様なものとなった。オ-ムには理系の優秀な人達がいた。それがサリンを製造していた。つまり高度な科学と宗教の異様な合体化のなかの混乱から生まれた現代文明特有の問題を提示したのだ。これが奇異なのもかというと現代文明も核兵器とかを保有しており科学というものを制御できない、突出した科学がいつ何時暴発するかわからない恐怖にさらされている。過去の宗教はその技術でもって荘厳な文化を創造してその遺産を残した。

しかし現代文明は文化を残さない、不毛の精神なき世界である。宗教はカルトとなり原理主義となりテロとなり平和な力強い文化を創造するより危険なものとなった。それはイスラムでもキリスト教原理主義でも仏教でもカルト宗教に席巻されてしまったのだ。大きな一つの原因は現代文明は自然から大地から遊離した人工的文明でありそれが故に過去の歴史のような文化を創造しえないのである。確かに技術的に科学的には最高度の文明なのだが精神が魂が入っていない文明なのだ。ピラミッドでもあれは宗教的建造物でありほとんど過去の文化は宗教的なものである。ただ便利的なもの機能的なものを追及したのではなく精神的なものを追及したのである。だから古代の文化から再生(ルネサンス)がありえたのだ。現代文明は物質的科学的な遺産を残しても精神的遺産は残さない、文化的遺産は現代文明にはない、だからルネサンス(再生)として残すものはないのだ。創価とかのカルト宗教は宗教の歴史的意味は皆無である、むしろ異様なオ-ムのような文明の落とし子であるカルト宗教として回顧されてなんら歴史的には評価されず消失する。歴史的に意味持つかどうかは最低でも百年単位で見ないとわからないが人間は百年も生きないからその時代に生きてもその時代が何であったかを知ることは容易ではないのだ。



法の華 福永法源に12年の刑(自由社会のリスク)

●カルトは新しい言葉


私のペ-ジの時事問題の宗教の部がアクセスが多い、グ-グルのランクでも上位に出やすい。なぜこのキ−ワ−ドが来たかというと裁判で詐欺罪で12年の刑が言い渡された。これはかなり重い罪である。そもそもカルトととは何なのか、非常にむずかしいしカルトというのは近代化とともに生まれたものである。明治以前とか中世にはありえないものだったのだ。カルトとファシズム、ナチスなどはにたものである。何度も言っているようにこれは現代文明特有のものとして出てきたものである。カルトの意味がフランス語でセクトとすると一宗派を意味している。一般的な感じのカルトととは違うことでもわかる。カルトとという言葉の意味自体はセクト(宗派)ではないものとして使われている。言葉の意味が変わったのである。同じ言葉でも時代によって意味が変わることがあるのだ。神道でも近代化以後は国家神道でありそれは本来の神道ではない、宗教にしても明治にreligionという言葉は宗派と訳されていた。宗教という言葉なかったのだ。宗教というと念仏集とか日蓮宗とか禅宗とかいう具体的な宗派のことで宗教という言葉はなかったのである。だからカルトという言葉も新しい言葉でありセクトの意味ではなくなっている。カルトとは何かというと定義もできないほどむずかしい。集団的洗脳による人心掌握術で悪意的に指導者が宗教を利用するとかなるがこれも一面的見方なのだ。ファシズムと同根であり現代的特有の狂気的一体感を求める熱狂であるとかなる。

●創造がないカルト

このカルトとはとにかく宗教の歴史をふりかえるで書いたように宗教ではない、なぜなら本来の宗教は堅実であり大地に根ざした荘厳な文化を創造したからである。カルト団体にはまず創造がない、マスゲ-ムになる。マスゲ-ムは全く一人一人がロボットととなることなのだ。創価の文化祭にでたが穴の中ら信号を見るだけの完全なロボットなることなのだ。現代文明の問題として人と人とが密接につながりをもち得ない、個々がアトム化する、それで一体感を求めるときカルトやファシズムになる。それを促進させるのがメデアなのだ。メデアの力が現代文明で羅針盤のようになったのはテレビだったら一千万人が茶の間で釘づけになって見ているというそれは実は異様な光景だったのだ。インタ-ネットで発信してみればわかる、せいぜい10人とか100人だったら多いと感じる世界である。その差は余りにも大きすぎたのだ。メデアによって洗脳される、一体感を持つ、メデアによってファシズム化される。それはナチスがそうだった。それもラジオの時代でさえそうだったのだからメデアがいかに力を持つか現代文明とメデアは切り離せず存在している。だから常にメデアが問題になるのだ。

●触らぬ神にたたりなし

日本のことわざにも「触らぬ神にたたりなし」とある。こんなことわざがあることでも古人も宗教の危険性を知っていた。「触らぬ神にたたりなし」とは例えば創価でも対立する本山とかでも互いにののしりあい、そして本山派(日顕派)にしても創価の人がいろんな事故にあったとか不幸は本山派から離脱して結果だとかあたかもたがいに呪詛している。宗教が呪詛のために呪いのために使われているのだ。つまらない喧嘩でも宗教はおまえは罰あたるとか地獄に落ちるとか簡単に言うようになるのだ。そして相手が不幸になることを宗教故に信仰故に喜ぶのである。宗教は本来そんなことあり得ないことである。「触らぬ神にたたりなし」というというとき、宗教に触らなければ罰あたるとか地獄に落ちるとかはないが一旦宗教にふれると罰あたるとか地獄に落ちるとかのたたりが身にふりかかるのだ。これは何も指導者がそうでないのかというと池田大作でも幹部でも祟りをおそれているのだ。宗教はそういうものをもっているから当然そうなるのだ。宗教を便利な道具、ハサミとかのように考えて入る人がいる。

●信心がたりないがキッカケ(少年の両親の惨殺事件)

創価の三代の信心の熱心な15歳の少年の両親の惨殺事件は「信心がたりない」というのがキッカケだったとある。この親は電器店を経営していたがつぶれた。こんなことはどこでもある、それが信心とは関係ないが宗教の場合、信仰と全部むすびつける、だから親自体信心がたりなかたからだと思い、信心、信心と狂気のように言っていたのかもしれない、それが子供にのあてつけとなり、「オマエは信心が足りない」と責めるようになった。それに反抗したというのも一つの要因であった。そもそもそんな事件が起こること自体平和をもたらす宗教からかけ離れているからだ。本来宗教はそんなものではない、宗教には怖い側面があるから俗人が普通の人が簡単にふりまわすものではないというものがあった。だから宗教に本格的にかかわるものと在家仏教とに分けたのである。自由社会になった結果、宗教も自由に誰でも使用するというかそこに危険が生まれたのだ。自由社会は何でも自由であるがその自由には危険もある。宗教が自由社会になった結果、何の制限もなくその最低限の戒めも何もなくただ宗教を利用する。すべてが在家仏教、俗世宗教となりその復讐を受けている。「触らぬ神にたたりなし」であるが容易に触り試し利用することの復讐を受けているのだ。

●自由社会のリスク

自由社会は何でも自由だとそれぞれが主張する社会である。何かしら自由を制限することがむずかしいのだ。言論の自由でも移動の自由でも宗教の選択でも何かしら制限することは反対がある。しかし自由ということには必ず責任がともなうことなのだがその責任のことは自由社会では良く教えていないのだ。つまり自己責任社会が自由社会なのである。自由ではあるがあなたが責任をもつんですよとなる。宗教もそうである。どんな宗教に入るのも自由ですがあなたの責任ですよとなる。だから自由社会では情報公開とか言論の自由が必須である。自己責任にしても情報が開示されていなければ判断しようがないからだ。それで株でも商品を買うにしてもだまされるわけである。創価に対しもいろいろな見方があるがほとんど批判することができない、創価に関しては言論の自由がないとしたら誰も正しい判断ができないのである。自由だということは悪への自由も増大するのだ。移動の自由は犯罪の自由を増すことでもある。宗教に関してもカルト団体が自由に活動できる自由でもあるのだ。それがナチスのように遂に社会全体をとりこんで支配してしまうという恐怖の自由でもある。

●万人に与えられるのは奴隷と恐怖の霊である


そもそも宗教の発生がモ-ゼの十戒のように・・・・するなという戒めから始まった。宗教はすべて自由になるというより自由な欲望を制限する戒めから発生したとき現代の自由社会とは全く制限とか戒めのない危険度の高い社会である。性の自由もあくことなく求めている。それがエイズとなってやっと放胆な性も怖いと自覚される。宗教でもそうである。これも安易に入ってみたいがやめるとなると罰だとか地獄に落ちるだとか怖いものだと認識する。無制限の自由は怖いものだとか自由には責任がともなうものだとか自由社会を維持するには情報開示が必要だとかそうした前提なき自由社会であることは怖い結果生む自覚が必要なのだ。いづれにしろ福永法源が詐欺罪で12年の刑を受けたことはある意味で画期的なことかもしれない、カルトは罰することが本来むずかしい。カルトを制限することは宗教の自由を奪うのかとか大騒ぎになるからだ。でも創価などは全く宗教の範囲を逸脱した異常なものだから社会を狂わせてしまうものなのだ。それが制限できないとしたら人間にとって自由社会も実際は恐怖社会を作るものだとなる。

●人間に完全な自由はありえない

自由の霊を与えて下さいと聖書にあるが実際はほとんど奴隷の霊を受けている、自由というのは簡単に万人には与えられない、むしろカルトであれファシズムであれ奴隷の霊、恐怖の支配の霊が与えられるのだ。現代自由文明社会はナチスとか共産主義の横暴とか創価とかその他のカルトでそれが証明されているからだ。人間の無制限の自由を求める社会はむしろ恐ろしい世界に向かっているのだ。その世界的な罰として神の警告として与えられたのがエイズであり地球温暖化とか原子爆弾とかなのだ。科学もまたどんなことでもしていいということではない、そこには制限が必要なことことを示したのである。人間に完全な自由などもち得ない、全権が神にあるのだから神に従わなければいかなる自由も得られない、神を否定した結果、ニ-チェのように狂気にいたるものやドストフエスキ-のように人間ならざるものにな恐怖にいたったことでもわかる。

人間が自由だというとき宗教の安易な利用による危険性も法律的にも意識されねばならないしやはり宗教の本来の範囲を逸脱すれば厳しい刑も課せられることも必要なのである。宗教の場合、それが非常にむずかしいのだ。最低限でも一宗教団体が国をのっとることを目的とした宗教団体の横暴も放置されるようではそもそも政教分離などの法律も有名無実でありなんの効力もないものだからもはやカルト、ファシズムをとめることはできない、結果としてその災厄をこうむるのは国民全部になる。それも国民の責任だったからどうにもならないとなる、戦争で何百万人死んだのも国民の責任だったようにどうにもならないとなるのだ。皮肉なことに余りにも自由な社会は自由のない社会を作ることである。共産主義が中国のように一部の富めるものを作ったようにこれも皮肉である。人間の自由といっても制限された自由しかありえないことを再確認すべきである。



カルトととは一体何なのか?

●カルトでも組織化集団化されると社会は公認する


カルトととは何か、盛んに言うけどカルトそのものがわかっている人は少ないのだ。これはカルトにどっぷりとひたり活動した人のみ実感として知っているのだ。自分自身は創価カルトに完全にはまって活動していたからわかるのだ。宗教は過去は集団的なものでありそれなりに迫害されたりしたから集団でも意味あるものだし相互補助団体として機能していた。その集団に属していることは迫害されるから集団に属すること自体信仰の証しになったというのがキケルゴ-ルの現代の批判で言っている。しかし現代のすべての組織化、集団化は全然違う、組織化、集団化は社会に対して要求することが多いしその組織集団はれっきとした権力を持っている。むしろ創価のように組織のないものや弱小の個々を迫害するものなのだ。日蓮が他者を攻撃したときは彼は一人の予言者だから組織も集団もない、その一人が迫害されたのである。組織、集団化したのはそのあとである。上野霄里勝利氏の言うように組織集団化自体すでに宗教とは関係ない、社会権力化したものとなりむしろ共産主義者や労働組合と似ているのだ。ただ罰あたるとか地獄に落ちると宗教的に脅すことで組織をひきしめる集団を維持することがカルト特有のやり方なのである。本来の信仰心とは全然違ったものである。だから集団的組織化したものはすべてカルトという分類に入るということがありうる。

●集団化した宗教には宗教法人の特権が与えられる

個々の心の問題ではない、集団的に社会にかかわるものはカルトの部類に入る。自分自身も創価で活動していたときは法華経が広まり日本が仏国土になると思って活動していたのだ。今でもそう思って活動しているのがカルトである。日蓮宗とか念仏宗は今やカルトになりやすい、非常に簡単でありただ唱えればいいとなるからだ。その点禅宗は理屈があり禅問答とかありこれは哲学だから個々に考える力を与えるしあまり社会的変革を目指さない、だから禅僧は雲水とか俳人とかそうした個々の放浪の詩人を生んだりする。日蓮宗と念仏宗は社会化しやすいのだ。上野霄里勝利氏の言うようにそもそも宗教は非社会的要素が大きいのである。組織化集団化すればそれは社会化したことであり不思議なことだがその組織社会化によって社会に受け入れられる、認められる、社会に公認されるのだ。カルトも社会に公認されるというのが奇異かもしれんが創価ほど社会に受け入れられている団体はないではないか?大臣にもなり大坂では議長にもなっている。社会というのは個人の信仰者は認めない、ところが役所でもどこでも十人でも集まり抗議すればこれは社会的勢力と感じて対応してくれるのだ。個人は何の力も社会的勢力とならないから完全に無視されるのである。組織化集団化した宗教は宗教法人の特権が得られ無税にもなる。社会で宗教として公認され特権を得ることができるのだ。その宗教がカルトであれ何であれ集団化組織化したものは社会に公認され宗教の分を逸脱しても社会はそれを認めるのである。創価がなぜ宗教という分を越えて政治権力まで手中にするまでかかわっていても以前として宗教法人の特権を得ている。それは明らかにカルトなのだが別にカルト法などないしカルト法で宗教でないから宗教法人の特権を剥奪するとか命令できないのだ。集団化した宗教の危険性を社会は放置している。

●セクト(宗派)の増大はカルトの増大につながる

今回の少女が糖尿病で苦しんである新興宗教の団体に所属したというのもカルトかとなる。これはまだ創価のように社会変革を目指したものではないし小規模だから単なる個人的な創始者の薬の詐欺だとなる。カルトとというときこれがフランス語でセクトであるというときこれも一つのセクト(宗派)である。健康食品の薬で癒すという信仰で癒すというセクトである。現代はこのセクトが無数に増えてくる。セクトが余りに増えてくることは混乱をもたらすのだ。そのセクトにはいかがわしいものが多いからだ。だからカトリックでは警戒するのである。異端が無数に増殖してゆく、その異端も本来の異端であればカトリックから異端とされて火あぶりにされたような異端であればいいがそういう高次元の異端ではないのだ。キリストも元はといえばユダヤ教の異端であったからだ。しかし現代のセクトはカルトになる異端なのである。上野霄里勝利氏という人も異端であるが個人的異端であるからカルトとは全然違う、ただ彼を教祖として祭り上げるととなり組織化し集団化すればカルトになってゆくが彼自身の思想にはそうした集団化へのあくことなき徹底的攻撃だから集団化はありえないのだ。

●社会自体がカルト化しているからカルトを脱するのは最も困難

ではカルトと言えば宗教は全部カルトじゃないか、カトリックであれ、イスラム教であれ仏教であれ神道であれ宗教は何かしらカルトの要素があるんじゃないかとなる。確かに集団的になると宗教はカルトになりやすい、カルトとは他者によって洗脳されることである。他者が絶対的力を持つことになる。その絶対者が教祖様が全権がありそれにすべてを託すことがカルトなのだ。だからキケルゴ-ルのいう単独者の信仰が本当の信仰だともなる。しかしこの単独者は社会にとっては存在しないと同じである。社会にとって存在するのは集団化した組織化した宗教しかないのである。だからキケルゴ-ルは教会を批判したのはそこが集団化したやはり一つのカルト的状態を作り出しているからだ。洗礼をしたり神の名において牧師が権威を持つことはやはりその牧師に託すことになるからカルト的になるのだ。

何度も言っている「自由の霊を与えて下さい」というときこれは直接神から受けるものであり牧師とか仲介にしたらその牧師が教祖となり力を持つからカルト団体になりやすい、霊的権威を持つから危険なのである。そして奴隷の霊を与えられることになる。神の子とするのは神でありイエス・キリストしかない、その他に師を持ってはならないと聖書に書いてある。それにしても不思議なのはこの世に真の信仰者は一人もいないとなる。なぜならすべての人がなんらかの団体に属しているしそれはカルト的なものである。そして団体化しない宗教はこの世に存在しないし認められていないのである。このようにいかにカルトを否定することの方がとんでもなくむずかしいことかわかる。カルトであることが一般的でありカルトは社会に容認されて堂々と手をふって布教もできるから会員もふやせるようになっているのだ。結局この社会自体がカルト社会なのである。それは特定の宗教団体だけではない、社会自体がカルト化した社会なのである。だからカルト化から脱する方がどれだけむずかしいかわかる。



カルトに頼らぬ自立的思索を深めよう(糖尿病の少女が宗教団体で死亡)

岐阜県恵那市の自然食品研究所「次世紀ファーム研究所」(堀洋八郎代表)で中学1年の女子生徒(12)=神奈川県三浦郡=が死亡した問題で、東京都は21日、女子生徒が食べていた健康食品の販売会社「万貴」(江戸川区)を薬事法に基づき立ち入り検査した


●宗教と科学はそもそも一つ

科学はそもそも原始的には呪術からはじまった、ともかく何かに祈る他なかった。それから祈るだけでは効き目がないと薬草などいろいろ工夫して薬を作った 。それが科学の始まりだった。宗教も科学も同じ根っこから始まった。 いかに人間の病気や苦痛をやわらげるかとから始まった。釈迦でも医学に熱心だったし主キリストもそうであった。宗教はそうならざるをえなかったのだ。この二つが一緒になっているのも不思議ではない。以前として医学も薬も万能ではないからやっぱり呪術でも諸々の神にでも祈るほかない、科学者も宗教を頼っている。それは科学者も万能者じゃないからだ。宗教でも科学に頼るし科学抜きでは現代ではありえないのだ。科学が宗教にまでなっているし科学もカルトになるのだ。これは今回少女が糖尿病の死んだ。真光元を薬として売っていた宗教団体の問題もそうだった。その中での2ちゃんねるでのレスを編集してみた。


おれは、どうしても、この母親が悪い。
(って言うとすぐに擁護だと思い込んで叩く香具師いるのが鬱陶しいが)
「長い闘病生活で疲れてるんだから仕方ない」みたいなレスもあるようだけどまだたったの3年じゃん?
誰かが「介護」と書いてたけど、介護なんて物でもない。一人で何でも出来る注射だって娘が自分で打ってるわけだし、そりゃいろいろ生きる上で制約はあるけど
こんな怪しいものに頼るほど大変なわけじゃない。
何よりも、インシュリン打つことをやめた(やめても良いらしいよ、みたいなことを多分母親は娘に言った)のが命取りで、一番悪い。
母親はインシュリンを嫌がってるのかもしれないけど、インシュリンだって、
昔はなかったんだ、その為に死んでしまう人も多かった、そういうインシュリンの歴史も知ろうとせず、インシュリンの有難さも感じ取らないで、浅はかにも娘の命を握りつぶしてしまった。
この母親は医師から何を聞いて、何を学んできたのか?
女の子だからと将来の結婚のことでも心配してたのかもしれないけど
結婚してる人はたくさんたくさんいる。出産だって出来る。
そういう、他の同病者と触れ合ったりする機会は、今ではたくさんあるし
要は、インシュリンを打ちながら頑張って生き続けることが大事なんだよ。
もう発病してから3年経ってるんだから、母親は娘の為にも落ち着いて覚悟を決め、娘を前向きに応援してやってほしかった。
同病者は皆そう思ってるよ。

「都は、女子生徒が食べた健康食品「真光元」に医薬品成分が含まれていないか調べる。」とのことだけど、この成分のせいで死んだとは思えない。
死因はあくまでインシュリンを打たなかったことによる「糖尿病性昏睡」だよ。きっと苦しかったに違いない、気持ち悪かったに違いない、頭が朦朧としていたに違いない、本当にに可哀想で可哀想で仕方ない。


この人の発言は科学的な側面から追及している。この人は医者なのかもしれない、医者としての見方があり発言もある。冷静なインシュリンの知識がなかったのである。これまで確実になった糖尿病の知識は素人でもわかる。治療も確立しているからそれに頼るのは怪しい真光元などに頼るのは問題なのである。

「効果がある」って言う物は、全て詐欺だと思う。
現在日本では、柔道整体やウジ虫でさえ医療行為として認められています。
ようは、病気に対して効果があれば何でも医療行為として認められるわけです真光元も、ホリモンが言うような効果があれば、保険の適用される医薬品
として、すぐにでも登録されるはず。
そうなれば、日本中の病気の人は手軽にその薬を使うことができ、その劇的な効果は世界中に知れ渡り、真光元の世界展開も夢ではないはず。
それをしない理由は、ひとつしか無いでしょう。


「丹薬」が7世紀の唐代に流行したが、愛用した歴代皇帝は早死にしたという原因は、「丹薬」の飲み過ぎといわれる。では、その「丹薬」とは・・・・。「丹薬」とは、ひ素・硫化水銀を成分とする「丹沙」より作られる。
漢代のミイラからは、正常値に比べ約100倍もの多量の水銀が検出されている
水銀中毒による死と推定されている。何故か?古代には血液の中に魂が宿ると信じられており、「丹薬」の主剤である「丹沙」が血液と同じ赤い色であり、この色の薬を飲めば魂の力も強くなると信じられていたのだ。


この話は人間は今も昔も基本的に変わらないことである。

●人の心にづかづか入るカルト団体の無礼


カルトと本物の信仰は違うでしょ。
本物の信仰は人間なんか崇めない。(教祖とか)
変な物も売らない。
病気は神が与えた物のわけだから、本当に神を信じているなら
病気も受け入れられる。


しかし不治の病をそのまま受け入れる人間ってのはそうそう存在しないという現実。


>病気は神が与えた物のわけだから、本当に神を信じているなら
>病気も受け入れられる。

そこまで悟れれば言うことないよ、
実際病気になるとどんな人でもそうはいかないよ
人間は弱いということだな

病気を神に感謝する人はほとんどいないだろう
直ったら感謝するだろうけど・・・・・・
その心構えさえもっている人は少ない

言うはやさし行うはかたし・・・・・

あなたがそれを実行すれば人の模範です


神様は乗り越えられない試練を与えないという言葉を軽軽しく使うやつは
甘いとしかいいようがない


「自分」の病だったらまだしもそれは可能かもしれない。
でもそれが自分の子供だったら。愛は盲目とも言うしねぇ。


まりさ、不治の病とかにかかると本人の苦しみを分け合うものはなくなる
どうしてこんな病にかかって死んでゆかなきゃならんだとなる
オマエラにこの苦しみがわかるかとなる

そういう他者がなかなか同情するのもむずかしいのに
ずかずか宗教団体が信心とか薬とか効能をやたら宣伝して売り込んでくる
それに藁をすがる思いでたよる

不治の病にかかったような人をそもそも簡単に同情したり何かできないよ
その人自身が必死で耐えるほかない世界だよ
苦しみも簡単に同情したり分かち合うことができない
安易な解決方法がないのに簡単に直るとかそういうことを信じること自体間違っているよ


●個々の苦しみは安易に他人や団体に頼っても解決しない


この論議から洞察されるのは人間は苦しくてもそれは個々人がその苦しみを担うことであり簡単に他人は負いないという自覚が必要なことである。簡単に宗教団体や教祖様とかに頼るだけでは解決しない、この世の問題に安易な解決方法はない、また他人がそこにづかづか入ってゆくこともできないのだ。そうした深刻な苦しみや悩みを当人さえ解決できないとき他人もその苦しみを簡単にとりさることをできないことを知るべきである。そうした苦しみは団体に入ったからといって簡単に解決しない、団体や科学がすべての特効薬ではない、やはり個々に冷静に科学的な処理も考える。思慮深くなることである。神に頼るとしてもそれは教祖とか団体ではない、個々に神に頼る信仰はありうるのだ。ヨブの三重苦の苦しみに誰も同情できなかったように人間にその人が追わされた苦しみ運命がありこれは他人がどうすることもできない面がある。その苦しみを背負って生きるのも神から与えられた運命だとは受け入れるとしたらその人はまさに宗教的な人であり模範となる人である。

宗教団体の教祖は他人に同情などしていない、今回の事件でもそうである。教祖様として崇められ偽の博士号をとり中国ではVIPの待遇をされていた。同情するのは自分の栄誉栄華のためなのだ。池田大作なんかも信者に全然同情などしていない、自分の名誉栄華がすべてなのだ。だから同じようなことをしているのだ。カルトから脱するにはこうした自立的な思考を深めることなのだ。安易に団体や教祖様にすべてを託すことがカルト団体を繁栄させているのだ。そういう自立的な人が増えてくれば自ずからカルト団体は抑えられてくるのである。そういうカルトに頼るのは本人の自立性の無さとか思慮の無さが原因しているのだ。ただここに書いているような人達が社会に多いならこうはならないのだ。

2ちゃんねるはマジレスがない、真面目な議論がしにくい所だが一部でもこうして編集すると物事をどう見るかの深い思索につながるものがあるのだ。明らかにこういう真面目な人が目的をもって掲示板をやれば思索を深めるのにはインタ-ネットタ-の利用は向いている。いろんな多様な立場の人が入ってくるからだ。ただインタ-ネット情報学で書いたように若者中心なこととただ他人をつるし上げるような世界ではそれは不満のはけ口、便所の落書きにしかならないのである。だから真面目な掲示板を作り人間が自立して賢くなる思慮深くなる場を作る必要がある。そのための掲示板を設置しようかと思っているが今の所なかなかむずかしい。限定的に選ばれた人で掲示板で対話を深めるというのも一つの手だがそうすると人は集まらない、真面目なものには人が集まらないし発言されないという問題がある。その辺がこれからの自分のホ-ムペ-ジの問題でもある。



大組織に操作されるマスコミ報道など
(福島民報で創価学会(聖教新聞社)との協力を堂々と宣伝)

●聖教新聞の印刷30周年祝う(福島民報)


この記事を見ると創価と福島民報は聖教新聞刷っているのだから単に広告を出す程度の利益関係ではない、創価と福島民報社は共同で仕事を行う会社だとさえいえる。広告するものと広告されるものは一体なのである。インタ-ネットで一円でももらってもそうなのである。広告を出しているものを批判などできない、ましてや聖教新聞を刷って多額の金をもらっていればもっとそうである。福島民報と創価は共同会社とさえいえる。そしたら創価の批判は絶対できないし創価のいいことばかり宣伝することになる。それでは報道の公平が保たれるのか保ちようがないのだ。報道というのは公共的使命があるというがマスコミはNHKでさえそれを果たしていない、中国、韓国よりだとか創価を批判しないことでは同じである。福島民報にしても一報道機関であり営利事業なのだから利益をあげるためには広告、宣伝なしではやっていけないというのはわかる。新聞はこれまでそうした一個人ではできないような力をもっていた。つまり広報の役目もあり新聞を見ないと福島県の行政的なことがどうなっているのかなどもわからない面があった。でも今やインタ-ネットでそうしたことは公表されるし官邸からも放送される時代になった。警察であれ行政府であれもともと国民に知らせる義務がある。それが番記者とかマスコミを通してしか報道されないことがマスコミが第二の権力あるものとして国民を操作することになってしまったのである。創価に反発している人はかなりいる。なぜ福島民報ではそんなことをしているのかと疑問になる人は購読者には割合は少なくてもいるのだ。聖教新聞を民報で刷っていることを自らの紙面で宣伝しているのだから堂々と密接な協力関係にあることを公言している。これに読者が金を払っている購読者が疑問をもたない反発しない、抗議しないことはおかしなことである。

●マスコミ支配の曲がり角

結局こうしたマスコミに巨大な組織に抗議するにはNHKのように受信料を払わないということが有効な手段であることがわかった。それしか方法がないのである。いくら不満があっても同じように受信料をはらい新聞を金を払い講読していればそれに気づかないしなんとも思わないからだ。NHKではこんなに受信料不払いが減ってはやっていけないとなって変革を迫られたのだ。新聞もまた講読するものが減ってゆけばなぜだろうとかその原因を探り改革するようになるかもしれない、新聞はまだ公共的な報道の役割をにない宅配システムで報道力があるからそれを感じないのかもしれない、しかしインタ-ネットの無料放送でそれが変わってゆく過度期にきている。十年後とかには新聞自体どうなっているかわからない、今は老人は毎日見ているのでやむなくとっているが老人がいなくなれば私はとらないと決めている。サンケイ新聞の一カ月三百円のネット版を見ているから新聞自体必要ないのだ。地元のニュ-スが問題になることは確かだが十年後には地元のニュ-スでもネットから入るようなシステムはできあがっているし警察や行政がじかに報道する時代がきている。だから新聞は必要でなくなるのだ。こう考えると新聞にはもはや将来性はないのだ。今の時点はなんとか広告とか聖教新聞などを刷って経営しているが将来はそれだけではやっていけない、新聞を購読する絶対数が確実に減ってゆくからだ。報道というのにもモラルとか使命感とかかなり要求されるが今の商業主義一辺倒の報道ではそれができないのだ。ところがインタ-ネットではほとんど放送すること自体は無料に近いのだから誰でも放送することができる。交通事故のことでも近くだったから自分の方がホ-ムペ-ジで詳しく説明して写真入りで報道できたのだ。個々人が記者となり報道できるのがインタ-ネットなのである。

●今までのメデアの権威にだまされる国民

今までの報道は知識などの伝達にしても新聞-テレビ-出版などは権威あるものとして報道、知識の世界を支配してきた。池田大作氏が新聞は歴史を記すというといことで新聞を重んじて新聞社支配に乗り出した。情報の知識の伝達するメデア(媒体)であるものがその報道する装置とか設備とかを独占していたが故にそうなったのだ。例えば東北でも始まったデジタル放送も実は実際は今までの六局の独占であり報道の独占はなんら変わっていないからこれにのせられても何ら目新しいものがでてこない、画質が良くなるとかデジタル化して便利になるものはあるにしても報道自体は今までの六局の延長であり変わらないからこれにのせられているのも報道に力をもっている今の6局体制の結果だということなのだ。これは自民党との協力でそうしたという人もいる。自民党にとっても大組織にとっても今のマスコミ体制は都合がいいと変わってしまった。マスコミが6局の報道体制を維持した方が政権に有利だということで維持することになった。マスコミには公共的報道の使命とか言っても自分たち報道の権力を独占するという意図が大きいのである。自分たちの力で大衆を操作する権力をもっていたいからその力を手放したくないからそうなる。出版にしたって本にすると社会的権威が得られるから様々な意図が働いている。ガンの薬の宣伝のアグリスクの史輝出版が逮捕されたようにまた今回の総合経営研究所の内田とかいう人も本を出していたのだ。本が書店にならぶには組織のバックがあり社会的権威を得させるためとなると本にも人はだまされるのである。情報はメデア(媒体)通してフィルタ-がかけられ操作されている。操作されたものしかでて来ないようにしているのだ。だから今や報道はインタ-ネットがでてきて戦国時代になった。インタ-ネットで真実を知った読者の反発で巨大なマスコミを蹴落とされる、弱小の一メデアになりさがることがありえる時代なのだ。公正な報道自体、金がかかればできないがインタ-ネットのようにほとんど無料だとするとかえって個々人が公正な報道ができるのだ。

(阿修羅の投稿)

小泉圧勝の謎、地上波デジタル導入と政府プロパガンダの全国浸透の怪
http://www3.creative.co.jp/bbs/mess.cgi?p=7871

本はあなたをメジャ-にする
http://www.keieido.net/publish-mag.html




オウムの松本智津夫被告は正常なのか異常なのか?

●異常と正常が区別できるのか?

オウムの松本智津夫被告は精神鑑定する必要があると無罪を主張したようだが死刑が確定した。そもそも異常と正常をどうして見極めるのか?何が異常で正常なのか?これもむずかしいのだ。認知症の人とと身近にかかわって認知症ほど不思議な変な病気がないと思ったからだ。これが全くどこまでが異常で正常なのかわからない、極端に忘れる、その忘れたことを全く覚えていないので例えば昨日梨が知人から送られてきたがそのことを今日忘れていてなぜ教えておかなかったのだと怒る。この病気の特徴は自分で忘れていてその自覚がないから他者を責めるのが特徴なのだ。他に銀行や計算のことがわからなくなるがではまるっきり異常なのか人間として通じない人なのかというと今のところは違っている。自分も病気になっいるのでしきりに心配して病院に早く行ってこい、早く行けばよくなる、薬をもらえば良くなるとか普通の人が心配すると同じように心配しているし言っていることはまともなのである。大人として話は通じることが多々ある。それがなんとも不思議なのである。自分が忘れやすくなったとか自分の頭がおかしくなったことも時々自覚はしている。だから外部の人がちょっと話してもどこがおかしいのかわからないときがあるのだ。どこが異常で正常なのかそれを明確にできないのである。

松本智津夫被告は異常なのか、人間として通じなくなったのか?テレビの取材ではそうみたいだ。でもそもそも異常と正常は何なのか?例えば罪を犯す、殺人を犯したり様々な罪を犯すのは人間として普通である。しかしその罪を自覚できない、自分が悪いことをしたことを自覚できない、その人は異常なのだろうか?そういう人はいくらでもいる。オレは悪いことをした、本当に悪いことをしたと自覚できる人は正常でありある意味で優れた人ではないか?親鸞が百人殺せと言ったのは人間の罪深さを自覚しろということなのだ。その罪深さを自覚したとき救いに目覚めるのである。だから百人殺してもその罪深さに目覚める人は正常であり人間としてむしろ優れた人ではないか?だから優れた宗教家は自分自身は何の罪も犯していないのに一番の罪人だと言っているのだ。では松本智津夫被告のような人は罪の自覚があるのか ?これもないとなると罪を自覚させること自体むずかしいのだ。お前はこういう悪いことをしたから反省して謝罪しろとか言うのもむずかしい。重大な罪を犯しても罪を犯したことを自覚しない人の方が多いのである。福島県の談合事件でも張本人は全く反省もしていないし福島県ではむしろ地元に仕事をもたらす必要な有能な人間とされていた。これも何が罪なのかなぜ談合が法律に違反して罰せられねばならないのか、法律こそ間違っているといいう主張なのである。

●正常な社会に異常、狂気が居すわる

そして異常というのは狂気は正常の中に居すわっている。宗教団体というのはほとんどカルトである。カルトとは何なのか、正常と異常の見極めがつかないということなのだ。例えば創価をカルトだとか異常だとか狂気のファシズム団体だと言った時、その言ったものこそ異常として社会から排除される。創価は政府もNHKもマスコミを公然と認められた正気の宗教を追求する団体とされているのだ。オウムもカルトだったけど創価も社会に公認されたカルトなのだ。社会に公認されたカルトは正気の団体であるからそれを批判するのは異常だとなり精神病院に収容されたり現実に共産主義団体では北朝鮮などではそうなっている。カルトとかファシズムは異常が社会の中で正常化されて公認されることである。天皇制の戦争もカルト的なものがあった。天皇は現人神(あらひとがみ)でありこれを否定することは異常であり憲兵が思想を取り締まったのである。

認知症とかかわって奇妙なのは妄想化することである。ありえないことを執拗に言い張るしそれを否定できないのだ。天皇を神とすること大東亜共栄圏とかもひとつの妄想だった。そんなことできないとか言っても妄想化するとそれを否定できないし否定するものは異常だとみられる。認知症では夫が浮気したことなどを根にもって女がいるなどと妄想化して執拗に責めるしそれが極端になると暴力になるのだ。そんなことはないと言っても通じないのである。こうした妄想にとりつかれた人間はいくらでもいる。最近死んだ女性も娘が実の娘でないので疑心暗鬼になり血のつながる親戚とあっていてこっちには会いに来てくれないとか妄想に陥って娘を責めつづけていたのである。ともかく妄想は社会で普通にあることなのだ。カルトと妄想である。オ−ムも妄想なのだがそれが実現すると信じる。会員も信じている。大勢が信じれば妄想も真実味を帯びてくる。これだけの人間が信じているのだから間違いないという数の多さが確信を与える。創価も数が多いからその数の故にカルトでも創価が世界まで会員をふやし仏国土が実現するなど信じる人もふえるのだ。現実外国の会員はその道具に使われるのだ。

●カルトを助長するもの

オウム事件が現代を象徴する事件だった。そこに医者もいたし弁護士もいたし科学者もいた。そういう優秀な人がいることで信じた人もいた。宗教を信じるより現代の神は科学者であり医者であり弁護士など実際に効能をもたらすもの現世利益を与えるものが神なのだ。政治家も現世利益を与えるから頼られる神にもなる。なんらか頼られる者は神にされる。若年性アルツハイマ−で頼った人が神のようにされた。ところがその神はその家族を食い物にする神だったとプログでその怒りをぶちまけている人がいる。何か頼るもの偶像化し神になりやすいのである。それは自分自身も劣った弱い人間だから集団に頼り天才に頼る他なかった。それは偶像崇拝だったのだ。とにかく集団宗教には宗教的要素はなくたいがいカルトなのである。集団はまた権力追求だから力の追求であり宗教本来追求したもの人をあわれむというとき集団ではなりえない、あわれな困った人がいたときあくまでも集団の一員に加え勢力拡大、権力拡大のために会員にするためにあわれむのであり本当に哀れみなど集団にはない、その会長もただこの世の力を得たいためにこの世で勢力拡大してこの世で崇められたいためにあわれむような演出をする、現実創価の池田氏が老人に親切だという芝居をしたときそれはまさに作られたものだった。いかにもあわれみ深い人間だと演出して信じさせるのである。鉄火面の非情な人間でも装うことは大衆の前では簡単である。

カルトを増長させるのはまたマスコミである。マスコミの力は宣伝力にある。メデアは媒介するという意味であり媒介するだけのものにすぎないのだが例えばインタ−ネットなどは本当にすべて平等に情報を媒介するものにすぎない、しかしマスコミは媒介させるだけではない、マスコミに出演すれば大きな力をもつ、何百万人がテレビで見ているとなるとテレビに出ただけで有名人となるから政治の宣伝でも抜群の力を発揮するのだ。インタ−ネットでは百人に知られるのがものすごく大変なことであるがたちまち何百万人に知られることの差はあまりにも大きすぎるのだ。マスコミに選ばれたものが力を持つのでありその本人がどんな人物かよりマスコミに選ばれる、マスコミに選ばれ出演させられることの方が大事である。生殺与奪の権限はマスコミにありマスコミによって実際はその人物は大きくされる。マスコミに取り上げられないのは何の力も得ることができないとなる。しかしマスコミは宣伝で成り立つから権力あるものには弱い、創価であれ最初オウムさえ怖がって批判しなかったのである。トヨタやサラ金業界なども宣伝を出しているから批判できないのである。マスコミという装置は巨大であり資金がかかるからその資金を提供してもらわないとやっていけないからそうなる。「財界ふくしま」でも原発関係で3億円のリベ−トをもらっていたとか何らか資金が必要だからそうなってしまうのだ。マスコミによって作り出される妄想も強力でありこれも現代社会が妄想をカルトを作り出すに大きな役目を担っている。

参考

認知症(老人問題研究日記)へ(プログへ)



守護霊とは何か


守護霊とは何かとなるとこれまた霊なととつくとむずかしいから拒絶感を覚える人がいるのもわかる。あなりには先祖の悪い霊がついていますよとかだまされて御布施を要求される人が現実にいるからだ。ではそもそも守護霊とは何かというとき別に霊というのではなくそれは明らかに人間のことなのだ。例えば親と子があるとすれば親は常に子を心配で見守っている。親が現実的に守護する人でありそれは子供が親から離れているときも心配しているし影で見守っているのだ。だからそれは親から離れたとき守護霊となっていると解釈すればわかりやすいのだ。

それから認知症になった人は直前のことすら忘れるから不安になる病気である。あったと思ったものがなくなるから誰かがもっていったとか盗んだとかなる。まるっきり忘れることから妄想になりやすいのだ。だから絶えずそばにいてなくしたものがあるよとか安心させる人が必要になってくる。すると四六時中付き添っていないと不安だとなるから困るのだ。認知症の人には守護霊が必要になってくる。それは霊というのではなくもともと具体的な人間のことであり人間が見守っているから離れていても霊となってまでその人を見守る、安全に導くとなるのだ。それは目に見えない愛の力だともなる。離れていても愛の力は働くとなる。

見守り付き添うというと人間は守護霊に守られているとか言うがこれはあながち嘘ではないのだ、なぜなら自分自身何回か死に目にあっているし事故で死んでいたかもしれない、それが助かったのはなぜか?守護霊が見えないのだが影のようにつきそって安全に導いてくれた。そうとしか考えられないのだ。では不幸にも事故などで死んだ人は守護霊がついていなかったのかというとそれはわからないにしてもあるかもしれない、悪い守護霊がつくということもあるのだ。むしろ悪い守護霊がつく方が多いかもしれない、その原因があらゆることに頼る人、特に女性は男性に頼るように悪い霊がつきやすい、神社めぐりとかあらゆる仏、神様に頼っている人が日本には多いのだ。ご利益をうけるために神を選ばずそうしている。宗教団体にはいる人もそうである。どんな宗教団体でもそこは悪い守護霊がつかせることになるのだ。本人はかえって確信していい守護霊に見守られしいると信じている。

日本人は宗教の梯子みたいなことを平気でやっているのだ。助ける人が創価まで入っていたとしたらショックだ。創価に入ったりすると確実にかえって悪い守護霊をとりつかせることになるのだ。公明党を強く支持したり政治にまで関与してくる。病気の平癒を祈るならいいが政治と宗教が一体化するのだ。宗教団体に入ると具体的に仲間もいるし助け合うこともあるから頼りやすいとなる。しかしこの頼るということは危険なのである。そして宗教は一面怖いものなのだ。創価とか他の宗教団体でもカルトでありそこからやめたいといってもものすごくむずかしくなるからだ。やめたら罰あたるとか地獄に落ちるとか簡単にはやめられない、そうした相談をもちかけられたが私でもどうにもならない、その責任はその本人になることを覚悟しなければならない、だから安易に宗教団体に入り頼ることは危険なのだがなにかお恵みがご利益がある、病気を直してくれるとかで入ってしまう。しかし一旦入ったら自分自身の責任でありその責任は自分でとらねばならなくなる。他人に相談しても宗教の場合、どうにもならない場合がある。だからカルトからぬけることは命懸けにさえなる。それでも余りにも簡単に入ってしまう日本人の宗教への安易な態度がそうさせている。この害は周囲にも及ぶから周囲もまきこむから怖いのである。

いづれにしろ介護とかなると病人の守護霊みたくならざるをえなくなる。特にアルツハイマ−とか認知症はそうである。心が脳が病んでいるからその代わりを付き添う人がせざるをえなくなるのだ。守護霊は自分に与えられるものではなく本人自身が他者の守護霊になることなのだ。親が子の守護霊になることは極自然なことだからだ。ただ先祖が守護霊になるのかとなるとそれはわからない、守護霊は他人でもなりうる、ある人を深く思っていて愛情がある人なら守護霊になる。しかしこの世には悪い人、悪い霊となり導く人が多いのである。これだけ宗教団体が多いということが如実に証明しているのだ。団体が守護霊になることはありえない、利益団体となることはあっても守護霊とはマンツ−マンではないか、親が子へと守護霊となるように誰かが誰かを見守るというのが守護霊だから団体と化した所にはそういうものはなくなる。団体になると個々人は無視され団体の営利だけを追求するようになるからだ。守護霊というと私的なものであり個々人にそれぞれの守護霊があるのだ。親と子はそれぞれみんな個々に別々だからである。

ともかく介護は介護する人が守護霊化してしまう。それは具体的なものとしてそうならざるをえない、相手をたえず見守っていないければならない立場に置かれるからだ。

魔がさすとか魔が入ってくるというけどさ
創価でもこんなことよくいうけど
他の宗教団体でも人間の弱みにつけこむんだよ
どうしてこんなに悪いことばかりつづくのだろう
そんなとき魔が入ってくるので注意!
悪い先祖の霊がついていますとかね
宗教団体の餌食になるんだよ!
この世に不幸の起こらない所はない
数が多ければそれに比例して不幸も多い
事故でも倒産でも病気でも死でもみんなに平等に起きるんだよ



認知症 病識 治療できない−カルト、ファシズム−自覚できない病気?

これはプログにきたキ-ワ-ドだけど前にも書いたけど認知症とか精神病とかは病識をもたせることがむずかしい。普通体の病気になったら胃が悪い、腸が悪い、心臓が悪いからその部分を直さねばならないと本人も思っている。病気だと思うから医者にみてもらい自らもその病気を知り直そうとするのだ。病気とは普通はそういうものである。しかし認知症とか精神病はそうならない、自分の病気を自覚できない、自分がどういう病気なのか自覚できない、あなたは記憶できない病気で直前のこともまるっきり忘れるのは病気だから治療せねばならないとか言っても私は病気なんかではない、私は馬鹿にはなっていない、特に認知症の病的な部分は完全に記憶できない、忘れるからあなたが忘れたというとき私は忘れない、知らないとなりそれが激怒して暴力になってしまうことである。忘れたということを自覚できないのだ。人間が自らを馬鹿だとか愚かだとか自覚できる人間は馬鹿でもないし愚かでもない、罪の問題でも自ら犯した罪を自覚して悔いる人は優れた人であり改悛できる人である。一方でまるっきり犯罪を犯しても悔いない人もいる。罪を罪として自覚できない人もいる。そういう人は宗教的改悛もありえない、そういう人は人格的にどうなっているのか?殺人を犯しても罪として自覚できない、自覚させようとしても自覚できないとなるとこれは人間として異常であり病気だとなる。精神障害者なのかもしれないとなる。

カルトにはまった経験からするとカルト団体に入っている人は自分がカルト団体に入ってその宗教団体はカルトなのだと言ってもカルトそのものの意味もわからない、他にも罪の自覚となると議員とかその他談合がなぜ罪になるのかとか法律問題でもある。そうした大きな問題になるとそれがなぜ罪になるのかル−ル違反になるのかわかりにくいからだ。そこで巨額の利益を受けても罪の意識もない、一方で100円盗んでつかまってもいやおうなく罰せられ罪の意識をもたされるのだ。ここに人間社会の大きな不公正がある。濡れてで粟の巨利を得るものと下働きで延々と働いても貧乏な人がでてくるのがこの社会である。何であれ自分が馬鹿だ悪いことをしたこれは罪なことをしたとか迷惑をかけたとかそうした自覚ある人は正常であり悪いという認識をもっているから矯正できるのだ。一方認知症であれ精神病者はそうした自分が忘れること、自分がしたことの善悪を判断できないから病気であり責任もとりえないとなる。その責任をとるのは誰かとなるとそれを見守る家族とか施設の監視が行き届かないとかなる。最近起きた子供を高架橋から道路に落とした事件もそうである。これら精神的障害者は本人よりそれを監視する保護者が責任を問われることになる。それでもこの人は実刑を受けていたからそれなりに責任は問われて刑務所に入っていたのである。

認知症の人が病識を自らがどういう病気なのか病識をもっていればそれは治療しやすい、それができないから苦労しているのだ。もし自らが直前のことも記憶できない、忘れる病気だということを自覚するなら病識をもつなら病気じゃないともなる。根本的には病識をもてないことが病気なのが認知症とか精神の病なのである。認知症は明らかに記憶する海馬とかの器質障害がある。そこから前頭葉とかに影響して知能が低下する。認知症の場合、自分は馬鹿になったんだよな、わからなくなった、「頭がいっぱい」で他人の話しがのみこめないということなどちょっと自分の頭がおかしくなったことを言うことかありそいういうときいい傾向だとなる。最悪なのは自分が忘れたのにそれを隠したとか盗んだとか妄想化して暴力になった時である。年賀状なくしたときわしづかみにしてもっていったと自分を責めて自分の部屋を探させろとか強い剣幕で迫った。前に悪いときは暴力になったのだ。だからちょっとでも「自分はどこか変なんだよな、自分は変ではないか」とか言っているときはいい傾向なのである。それは少しでも自分が普通ではない異常だと病気だと自覚しているからである。

いづれにしろ自分が愚かだとか馬鹿だとか病気だとか忘れるとか自覚していれば病気ではないのだ。個人的にも社会的にもこの馬鹿さ愚かさが病的なカルト、ファシズムが自覚できないからナチスのような惨事になった。ナチス、カルトは社会的な病理現象でありこれは社会で自覚できないから社会自体がその病気にまきこまれ病気が正常として人々を導くまでになったのではないか?狂信的であることはまさに自らの病気を自覚しないから起こったことなのである。私は絶対に忘れないとか私は何もしていないとか自分のしたことをまるっきり忘れても自覚がないから狂信的になり相手を責める、暴力にもなってしまうのがこの病気なのである。これは確かに個人的なものであるがこれが社会的になると社会的病理現象として社会をまきこみ狂気の世界へ人々を導き惨事となった。社会、集団の狂気は正気であり誰もとめることもできない、狂気が正気とされ社会全部をまきこみとめることができない恐怖がカルトであり、ファシズムだったのだ。この狂気の集団が創価のように権力をもつからもはやとめることはできない、マスコミでも政府でも従うようになる。これは共産主義革命でも起こったことである。一つの思想に全体化するとき同じことが起こったのである。事実ソビエトでも北朝鮮でも反政府活動者は精神病棟入りとなっている。その収容所で洗脳治療が行われる。狂気のものとして強制治療されたのである。お前は俺たちと同じ思想をもて信仰をもて同じ仲間として協力せよ、しないなら手術とか薬をのませるとかまでになった。一番怖いのはこの社会的狂気であった。これはもはや異常性の自覚も何もできない、病識はありえない、病気ではないと狂信的になっているから誰も説得もできない、それをするものは逆に精神病棟に強制的に入れられるのである。上野霄里氏やヘンリ−ミラ−やニ−チェなどアウトサイダ−からみれば文明そのものが病気なのである。文明自体が混沌(カオス)であり巨大な自らを病気と自覚しえない病原体だからそこから派生してカルトやファシズムも必然的に生まれたのである。文明自体が病気だとするとこれを快癒させる方法がないから文明自体が破壊され滅びてはじめて正常なものが生まれる回復するともなるから文明自体の病気は根本的に直すことができないから致命的なのである。



弱者、病者、障害者への愛は純粋な愛が要求される(介護で考えたこと)

●本能的な愛(母性愛から虚栄の愛へ)

「愛」と言ってもこれはいろいろありすぎるのだ。親子愛から夫婦愛から、兄弟愛から同胞愛から恋愛からいろいろある。暴力団とか悪い仲間でも愛がありうる。仲間内の愛がありうる。人を愛するというとき何を・・・愛するのかが問題になる。親が子を育てるとき本能的な母性愛がでてきて愛する。また赤ん坊や子供はそもそも愛されるようにできているから可愛いから愛するのは神がそういうふうにしたからである。無力であっても子供は守られるようにしたのである。親と子の愛は最初は母性愛として本能的に愛する、これは人間だけにあるのではない、動物にもあるのだからそれを特別なものとして誇れるものでもないだろう。子供のためには親はなんでもするんだよと言うことは動物だって必死で子供を守ることがあるからだ。しかし長じて子供の親の愛は変貌する。純粋に子供を愛すから自分の子供は他の子供とは違う、特別頭がいいとか他の子供と比べてできのいい子だと自慢するために子供を自分の虚栄のために愛するようになる。受験戦争も子供がそうした親の見栄の競争の道具になったりする。親子の愛は純粋なものから不純なものとなってゆく。恋愛にしても相手の美や男だったらその持っている収入やら美男子だとか才能があるとかが愛の対象になる。愛といってもその持っているものを愛しているのであり純粋な愛とは違う。打算的なものがあるとすると純粋な愛ではない、本当に純粋な愛というのは何なのか?それは親子の愛でも夫婦愛でも家族愛でも本当に愛がありうるのか?意外と家族の中にも愛がなくてただ一緒にいるだけの同居人のような家族も多くなっているのが昨今ではないか?

●純粋な愛(障害者への愛)

愛を考えるとき障害児をもった親は本当の愛を要求されていた。障害児を人に自慢もできないからだ。それは隠すべきもの触れられたくないものになってしまうからだ。それでも親はその子を愛す。それこそ本当の愛だとなる。障害児への愛は何か世話する本人にとって見返りがないのである。純粋な愛を注がざるをえない立場にたたされる。だからそれが嫌になってしまう親もいるだろう。この事情は介護とにていたのだ。特に認知症などは知的障害児を世話するのとにていた。こんなバカをなんでオレが世話しなければならないんだと自問自答するようになるからだ。認知症でなくても脳梗塞などになった夫婦のどっちにしろこれから10年も介護だとなると自分にはできないと殺してしまった人がいたし現に介護殺人というのは次々に起きてきている。これも本人の正直な気持ちがでてきたのでありいちがいに責められない問題である。あまりにも過酷だからそれを課せられたものを無慈悲だとか責められないものがある。純粋な愛というときこれは実際はめったにないものである。親子愛でも夫婦愛でも家族愛でもやはり介護とか相手が知的障害になったりしたり見捨てる人が多い。「明日への記憶」の映画も夫婦愛をテ−マにしたもので夫婦愛を貫くものとして演出させられた。夫が知的障害者になったとき妻は愛すことができるのか?アルツハイマ−を夫にもった妻は夫を愛せるのか?離婚したいという人がでてきて当然である。妻が愛した人はバリバリに仕事のできる、社会的にも地位のある、金もとってくる人でありアルツハイマ−になったらそんなメリットは何もなくなるからだ。そういう人を愛することはなみたいていのことではできない。ただこういう時、本当の愛が試されている、愛が要求されるているともいえるのだ。

●弱者、病者、障害者への愛は純粋な愛が要求される

自分自身で認知症で知的障害者をもって「愛」というものを考えるようになった。人が人を愛するというとき何を愛するのか?その人自身を愛するよりその人のもっている付随しているもの、美貌や金や才能や地位や権力を愛している。それに反して無能な無力な何も得られない障害者を愛することはない、しかし老人になると特に認知症になると無能な無力なものとなるから人はそうした知的障害を愛することはない、それでも金をもっているから金をくれるからしょうがいないとかむしろ老人は金の方をあてにされやすい、それは親子でも普通にあることなのだ。人は何ももっていないもの金も美貌も才能も権力もないものは愛さない、障害者には特に認知症のような知的障害者になると余計そうなる。何かそこから得られるものがないから愛せないのである。だからこそ純粋な愛としてそういう弱者への愛が主−キリストや宗教によって唱えられた。そこに愛の純粋性が保たれるからである。権者や金持ちや華やかなものではない、そういう障害者とか劣った、世の中から忌避されるようなものへの愛は純粋な愛がありえたからである。だから福祉とか介護とか病気の治療とかこういう弱者を相手にするものには医は仁術というように福祉の思想が必要だったし宗教的なものが必要となる世界だったのである。

●宗教団体が求めるのは権力であり愛も慈悲もない

ただ宗教団体はこうしたかわいそうな人の弱みにつけこんで自分たちの勢力を増大して利権と権力を得ようとするから純粋な愛は全くないし愛の作用が全く働かない、だから宗教団体には愛の慈悲の奇跡は何一つ起こらない、ただそうしたかわいそうな人を利用するだけであり自分たちは権力を欲しいのである。世界から勲章を集めたり政治利権を動かすものとなりたいのである。だからそこには宗教が追求した愛とか慈悲は全くないのである。つまり純粋な愛を追求することはそれだけむずかしいことをこれは証明しているのだ。愛というのはみなエゴとなり偽善的になりやすいのである。愛はまた組織的に働くことはない、組織的に働くとき宗教団体のように権力としての宗教になっているのである。本質的に愛というのは己をエゴを消すことなのである。人間はあらゆることにエゴが自我がでてくる。愛はその反対だから実行することは最も困難なものとなっているのだ。そもそも愛が隠れたところに働くとしたら愛だ慈悲だとか大騒ぎして毎日唱えて宣伝しているようなところに愛は生まれないのである。だから本当の愛をこの世で見つけるのは至難だとなるのだ。だから愛は積極的に愛を実践するというのもむずかしいものなのだ。愛は隠れた消極的に実行するとき純粋な愛が自ずと生まれるかもしれない、愛だ愛だ慈悲だと世間に向かって騒いでいるときすでに愛はないエゴしかない世界になっているのだ。
愛は隠れた所、目立たぬもの、卑いもの、小さきものに宿る。大集団で集団を誇示するような所には宿らない、そこはただ権力追求しかないのだ。そこで確かにご利益を得ることはあっても本来宗教が追求した愛とか慈悲などはゼロであり宗教とは全く正反対の世界である。



イラクの破壊されたモスクと創価の危険性(政教分離なき世界の恐怖)

●モスクが宗派争いで破壊は創価にもあった

NHKでやっていたけどイラクの神聖なモスクが破壊されている。イラクのスンニン派とシ−ア派の殺し合いは凄惨を極めている。日本ではなかなか宗教の争いは一般的に理解しにくい、でも同じことが日本でもあったとなると理解しやすくなる。創価の正本堂も本山派(僧侶)によって壊された のである。これは大成建設が作ったものでありそれなりに立派なもので池田大作もほめちぎっていたのだ。それが本山派(僧侶)によってあえなく破壊されてしまった。爆破とか殺戮ではないが壊されたことには変わりない、なぜ宗教は熾烈な争いがあるのか?イギリスでもカトリックとプロテスタントの争いがアイルランドであった。何度も爆弾テロがあり死者を出していた。共通しているのは権力争いが宗教のために手のつけられないような苛烈なものになる。ヨ−ロッパではカトリックとプロテスタンとの熾烈な争いがつづいた。それは実際生活で宗教が利権と権力と密接に結びついていたからである。イギリスのプロテスタントは就職に有利で社会のいい地位をしめているとかの反発がアイルランドのカトリック側にあった。つまり宗教の争いの裏にも権力、利権の争いがあるのだ。イラクでもスンニン派が権力の中枢にあったがアメリカの支配でスンニン派は追われシ−アが台頭してきて手のつけられない争いとなった。どっちも宗教的正義から争わねばならないとか互いが殺し合い憎しみだけが増大して歯止めがなくなっている。

●宗教争いのアレルギ−が政教分離の法律を作った

ヨ−ロッパではカトリックは政治と一体となり社会を支配してきたから宗教に対する反発が大きいのである。宗教アレルギ−になっている。そこから政教分離の法律ができてくる必然性があったのだ。イラクでも創価でも宗教セクトの争いを見ていると宗教がカルト化して争いになると手がつけられなくなる。狂信的になり争いがとめるものがなくなっている。イラクはなんのことはない宗教争いの地獄を作り出しているから皮肉である。イスラムはそもそも政治と一体化していたからこうなりやすかったのだ。憎しみ露骨にかりたててそれが宗教的信念からだと公然と言っている。宗教はセクト化すると団体化すると狂信的集団と化して制御がきかなくなるから政教分離の法律がヨ−ロッパで制定された径路がある。つまり民主主義には政教分離も必ず必要なものとして組み入れられていたのである。それがないと悲惨な結果になることを歴史的に学習したからである。イスラム世界ではその点遅れているのだ。スンニン派とシ−ア派の争いはスンニン派の聖者が殺されたことから1200年前から始まるとするから相当な歴史があったことにも驚く、それほど長い怨念がスンニン派とシ−ア派には積もり積もっていたという驚きである。創価と本山派(僧侶)との争いも熾烈でありどちらも地獄に落ちるとか呪いあっているのだ。そこにも利権争いがある。結婚式は教会ではなく市の施設で行いたいとあるのも意外なのである。教会アレルギ−が歴史的に作られてきたのである。日本だって天皇アレルギ−が今度の戦争で歴史的に作られてきたからいくら天皇のことを尊皇思想を吹聴しても天皇アレルギ−はもはや消えることがないのだ。歴史的に天皇は宗教的に力を失ったのである。共産主義思想も理想をこの世に実現しようとしたところでカンボジアでも中国でも思想闘争で何千万人死んだとか悲惨な結果を生んだ。マルクスの思想の教条化が悲劇を生んだ。それは一種の宗教になっていた。宗教には妥協がなく異端者は処刑される、粛清される。政治は妥協の産物でありこの世に天国は実現しないのだ。個々の心の問題として
「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:21心に平和があれば天国はそこにある・・・というのが宗教であり社会全体を理想国家とすることが悲惨な大量殺戮を生んだのである。共産主義でも結果的に権力を握るものが堕落して腐敗する。そもそも権力を得るために戦った人だから当然そうなったのである。つまり社会を改革しても天国はもたらされないというのが宗教である。個々人の心が神ににてくればそのときすでに天国が実現しているというのが宗教である。社会改革がすべて悪いというのではなく宗教そのものは個々人の心を問題にしている。

シーア派のアスカリ・モスク(黄金のモスク)が爆破された。多くのシーア派はスンニ派過激派組織によるものと考え、報復を行ったりして、政局は一気に混乱を強めた。かつてフセイン時代に石油など利権を独占していたスンニ派が、今ではシーア派と比べて少数派に陥り、発言力が極めて低下しているのは、下に書いた通りである。それで済む筈がないと思っていた
http://www.geocities.jp/tubu1982/daily/03.3.23_iraq.html

ここにも石油の利権がかかわっていた。そしてこの両派の争いはイスラム圏全域に拡大するこの恐怖である。背後にイランとかサウジアラビアがかかわっているからだ。

●創価は今度の選挙で打撃が大きい

創価公明は政治と一体化しているから政治に影響されやすい、政治の影響で命取りになる。別に自民の失敗を創価公明がかぶる必要はないのだが政治と一体化しているから政治の影響をもろにうける。一方で創価は完全な政教一致だから当然だともなる。拠点では題目をあげ池田大作会長が陣頭指揮して票とりにゆく、選挙は仏法の戦いであり勝利しなければ罰があたる、地獄に落ちる戦いだから必死である。これが極端になるとイラクのスンニン派とシ−ア派のようにもなる。創価にとって権力を失うことはシ−ア派に殺されるという同じ恐怖となる。権力をもっていればおさえつけられるが権力を失えば仏敵に責められ他の宗派に責められ地獄に落とされるとかの恐怖になるから権力維持するために選挙に全力をそそぐのである。そして幹部は公然と権力掌握、権力掌握と叫んでいる。その最たるものが政治権力だとすると自民と組んで権力の拡大を計る。しかし今回は自民が劣勢になったからその影響をもろに受ける。自民ももろとも地獄に落とされる恐怖になるのだ。だから今回の選挙で負けるとすると自民と手を切った方がいいとかでてくるかもしれないが今や創価は自民と手を切れない、一連託生であり地獄まで道連れになってしまったのだ。それも政治と一体化、権力の野望の故に作られた団体だからしょうがないとなる。

●創価の選挙活動は政教分離−政経分離に違反

なぜ今になると選挙のときの拠点が大成建設の社員の家だったのか?大成建設と創価は密接な関係があった。それは正本堂を建設したのは大成建設だったからだ。それで公明党の応援に大成建設の社員が組織的に応援させられていたのも事実である。今は創価の墓苑事業に大成建設がかかわっていて問題になった。創価は数が多いしビジネスの対象にもなる。銀行にも莫大な金が預金できるから三菱銀行などは創価の言うなりだとかなる。池田代作会長の指導で社会の第一人者になれとは権力ある地位につき社会を支配しろということである。上司が創価だったら部下に一票入れてくれとか商売で創価のものに世話になっていれば断れないとか書いている人もいる。そもそもなぜ国土交通省の大臣に公明がなっていることも問われないのも不思議なのだ。これは自民と一体化しているから批判できなくなっているためである。一時自民が敵対したときは池田会長が国会喚問だとまでなっていたのにまるっきり変わってしまった。だから今度の選挙は政教一致の公明と自民に打撃を与える好機なのである。やはり宗教というのは狂信的になり危険なことがイラクでまざまざとみせつけられたし歴史的にも凄惨なものを残したからこそ政教分離が必要となったのだ。