上野の公園の一つ |
5月26日 | 池の名前三つ(地名談義)(藤の池) | ||||
5月6日 | 仙台編(夏たちぬ仙台)(まとめて一ペ-ジにする) | ||||
4月30日 | 暮春松山散策--遍路の魅力とまとめ四国紀行編をはじめる | ||||
4月6日 | 四国の地名俳句短歌の旅(市町村合併問題) | ||||
2005-3-4 | 大坂-交野-近江(志賀の都)の歴史の解読2005-3-4(4ペ-ジ) |
||||
2005-2-19 | 蕪村の句の不思議(邯鄲の市に鰒(ふく)見る朝の雪の解読) | ||||
2005-2-11 | 凧揚げの歴史(俳句などから) | ||||
2005-1-22 | 青春18切符冬の旅(山形-新潟-会津)(全俳句短歌) | ||||
2005-1-20 | 新発田(しばた)⇒津川⇒会津の冬の旅(時事25) | ||||
2005-1-17 |
鉄道の旅の部(鉄道俳句の旅)(俳句の部の方に移動しました) | ||||
2005-1-12 | 桜前線の俳句短歌(3ペ-ジ)(みちのくの桜と明石の桜)新しく一ペ-ジ加え直す( | ||||
2005-1-2 | 江戸時代の正月俳句 | ||||
2005-1-1 | おちこち(短歌紀行文集)(明治) 大和田建樹を読んで | ||||
2004-12-25 | 青春18切符で雪の青森へ(全俳句短歌と写真) | ||||
存続あやうい栗原電鉄(末枯の野を行く一両の電車) 鉄道の旅の部へ | |||||
パリの秋(東駅より) | |||||
トランジットで岩沼→柴田→仙台へ(俳句短歌エッセイ) | |||||
阿武隈の魅力は道にある2004-11-12 | |||||
川俣から東和へ秋の俳句と写真 | |||||
柿の話(俳句エッセイ) | |||||
飯館の秋(俳句短歌紀行) | |||||
失われた馬との生活(俳句エッセイ) | |||||
月山の花の写真と俳句 | |||||
阿賀野川の津川駅写真と俳句 | |||||
フラワ-長井線で白鷹町へ(俳句、短歌、写真の部) | |||||
冬の旅の記録へ(青森へ | |||||
大江戸春の絵巻の詩 | |||||
江戸の生活感覚の俳句 (1) |
|||||
蕪村の俳句から江戸時代を偲ぶ(生活感覚の俳句2) | |||||
江戸時代の魅力 1月30日(評論と鑑賞) | |||||
秋の阿武隈高原から二本松へ(俳句短歌−詩−写真集) | |||||
三春まで(春の阿武隈を行く)2004-3月(1) | |||||
三春の春(2) |
<<前のページ | 次のページ>>
2005年5月28日(土) 初夏の晴れた一日
夏菊や一路遠くへ走りさる
応援の太鼓ひびくや夏の山
老鶯にかぼちゃの花や田舎道
老鶯や身近に自然今日も鳴く
many blooming chrysanthemumes in summer
someones have runned away in the distance
今日は晴れたから気持ちよかった。なんか今年は天気悪い、自転車で軽快にゆっくり走ったから気持ちいい、原町市で野球の試合があり応援団の太鼓がひびいていた。夏の山が映えている。老鶯も鳴いてかぼちゃの花が咲いた。身近に自然があるからいい、最近遠くには行っていない、でも身近に自然がこの辺はまだあるから気持ちいいのだ。夏はやはり遠くに行きたくなるが梅雨になるとだめなのだ。
2005年5月27日(金) 藤の花と池
古池に隠れて家や藤の花
牛蛙鳴く声太し夏の昼
牛蛙水底沈む夏の沼
藤垂れぬ影なす道を歩みきて池にひそけく息づく命
藤の花は今頃咲いているのだから春の季語ではなく夏の季語にふさわしい。春にしか使いないのはおかしい。季語は南を中心に作られたから実際は一カ月くらい北と南ではずれがあるのだ。それが問題なのだ。明らかに藤の花は初夏の季語なのだ。池に藤が咲いていたので写真をとり「地名談義」で池を調べた結果をのせた。
2005年5月26日(木) 芍薬
芍薬の蕾ふくらみ燕かな
写真もいろいろな角度からとって作らないと見映えしない、デジカメとパソコンでそれができる。芸術はまさにartだ。技術によってできるようになるのがある。ただとっただけでは芸術にならないのだ。
2005年5月25日(水) 夏富士
夏富士や美と大尽くし天を衝く
夏富士の姿凛々しく新なり
夏富士や北斎の筆致神の業
万年を美と真(まこと)を尽くす夏の富士
夏に河口湖で見た富士を思い出して作った。時々思い出して作るのもいいのだがやはり写生だからその場で作ったのが一番いいのだ。ただ富士山となるとなかなかかえっていいのができないかもしれない、北斎のような天才でないと富士山を描いたり詩にすること自体むずかしくなる。それだけ富士山は神が顕した美を示しているからだ。富士山についてはやはり富士山をいつも見てる人がいい句を作っている。インタ-ネットだと富士山というキ-ワ-ドで俳句を並べてみるとそれなりに富士山の世界が生まれてくる。季語ごとに集めるとか富士山について集めるとかに向いているのだ。なかなか旅しないと題材が限られてきて俳句も毎日作れない、まだ四国の旅の整理もできていないし発表もしていない、四国の旅はかなりの量ができたので整理がまだできないのである。
2005年5月23日(月) 北ヘ向かうライダ-
夏菊やライダ-しきり北へ行く
many blooming chrysanthemumes in summer
a lot of riders go on to the north
六号線を北へ向かって行くライダ-がふえた。ライダ-がなぜ詩になるのか、それはそこにまだ人間が風を受けて走っているからだ。人間がともかく見えるのだ。ところが車になると人間は見えない、人間が走っているのではない、メカが走っているだけなのだ。だから車は詩にならないのだ。夏はやはり北に向かう、北海道に向かう、なぜ北海道に十回も行ったかというと梅雨の時期に梅雨のないのが北海道だからだった。ともかく夏は北に向かって行くのが気持ちいいとなる。
2005年5月22日(日) 延齢草
延齢草名知らぬ花や石に苔
俳句は写生である。これはただありのままにそこにあるものを言っただけだがそれでも俳句なのだ。この取り合わせが面白い、興があるのだ。この白いのは一人静かか二人静かかとも思ったが葉が違うのだ。だから名も知らぬとした。あとはエビネランである。俳句はともかく何回も言っているように写生が基本であるから意外と簡単と言えば簡単だし誰にでもできるとなる。ここにはほんとんど作ったものがないからだ。短いから何か作るとだめなのである。
夏菊の写真見たら見た感じとは全然違っていた。写真の方が良かったので加えた。写真はどういうふうに映っているかわからない、だからいろんろ角度からとっておく必要がある。あとで見ると意外なものにとれているのだ。これは全く現物では見えないものだった。写真の眼が優れているということがある。
2005年5月21日(土) 夏の鳥
道一つ開けて山に夏の鳥
夏菊の道よそおいて走るかな
幾度も燕かすめて赤き薔薇
今日ひさしぶりで自転車で走った。パソコンにはりついていると体によくない、電磁波とかの影響があるから外の空気にふれることが必要だ。体調おかしくしたのそのせいかもしれない、今日の一首一句も停滞気味だ。外に出ればそれなりにできるのだが家にこもりきりでは題材がないのでだめだ。中高年になると批評に向いてくる。経験があるから批評に向いてくるから批評に力を入れたいのだがなかなか時事問題に力を入れたりしているからいろいろやるのがめんどうになる。人間なんでもやることはできない、まあ、一カ月に一回くらいのぞく人はいるかもしれないが今のままだとちょっと一カ月分にしてもものたりないとなる。
山にまた新しい道が作られ夏の鳥がさえづっていた。しかしその道も本当に必要なのかどうかわからない、車の通る量が少ないからだ。だからこの道路はかなり無駄であることは確かである。
2005年5月17日(火) タンポポの綿毛
タンポポの綿毛あまたや空地かな
この辺は空地が多い、空地がいつまでもある住宅地なのだ。だからまだ家がたてこむ都会とは違い余裕がある。その空地にたんぽぽがの綿毛がいっぱい、これもまもなくみんな飛んでしまうだろ。
2005年5月15日(日) 雷鳴
雷鳴や時代の変わる兆しかな
急に雷が鳴ってびっくりした。どうも最近反日とか脱線事故、北挑戦の核とかイラクでもそうだし創価関係の事件も起きている。何かこれは時代の変わり目なのだ。常に時代は変わってゆく、雷鳴が鳴ったということは夏が来たということか、どうもあまり最近は句ができない、仙台にでかけたりするとき句ができる。家にいただけではやはりなかなか材料がともしいから書きつづけるのがむずかしい。
2005年5月14日(土) 白菖蒲
雨しとと白菖蒲ぬれ町中の道の静かに今日も行くかな
なんか梅雨みたくなった。菖蒲と雨はあっている。このところこの今日の一首一句書いていなかった。ここのアクセスは一日一人も来ていない。前はもっときていた。まあ、今回はかなり休んだ。これはでも続くだろう。なかなか自分一人だけではホ-ムペ-ジは魅力あるものにできないし見てもらえないことがある。他のホ-ムペ-ジでも自分の場合ほとんど見ていない、たまたまキ-ワ-ドで何かを探しているとき見るのである。私のホ-ムペ-ジもなんか常時来ている人は少ない、毎日のように更新しているところに来ていないからだ。ただあとからキ-ワ-ドで探す人が多いのだ。
2005年5月6日(金) 白椿と牡丹
白椿牡丹の間に我のあり
白椿牡丹の間に暇(いとま)あり
今年も十輪ほど牡丹がさいた。白椿もさいた。人間こうして花の間にあればいいがそうはいかない、人間に交じることは汚れにまじることなのだ。
まあ、暇(いとま)は花の間ですごすのいい、それがさいわいだ。