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 |
 |
標葉郷
(大熊・双葉・浪江町)
標葉郷出陣式 |
小高郷(小高町)
小高郷出陣式・火祭り・野馬懸 |
中ノ郷 (原町市)
雲雀が原/宵乗・競馬・旗取 |
北郷 (鹿島町)
総大将お出迎え・口上 |
宇多郷
(相馬市・新地町)
出陣式・総大将ご出陣 |
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市町村合併の名前(南相馬には不満が・・・・・)
原町市、小高町、鹿島町、飯館町は合併して「南相馬」になるのか、これが募集して一番多かった。相馬を中心にしてその南だから南相馬になる。喜多方の良かったのは北方(ほっぽう)という味気ない名が喜多方という当て字にしてイメ-ジが良くなったことである。喜び多い市というのは好字である。縁起悪い名はあまりつけたくない、白石の子捨川は縁起が悪いから名前を変えるべきだと論争が起こっているがヤマトタケルの蝦夷征服で土地の娘に生ませた子をその娘が川に捨てたからその名が残っている。これも生々しい歴史を想起させる地名でありこれを縁起が悪いからと簡単に変えることができるのか問題である。歴史の証しのように地名に記されているからだ。征服された蝦夷の怨念がそこに宿っているのかもしれない、そうした名を簡単に変えるのも問題である。それは単なる伝説といえばそれまでだがそれなりに地名が残っていることはその土地の人が言い伝えたことは土地の人の思いがそこに宿っている。土地の人がそうした仕打ちに同情したから残っている。今でもそうしたことを日本はフィリピンとかで問題になった。日本人の子供ができたがそのまま帰ってしまった日本人の男性の問題である。フィリピンの女性でも日本人の子供を捨てた女性がいるかもしれない、歴史は同じことをくりかえしている。人間の業というものなのかギリシャのオリンピックでもすでに不正をして八百長で競技に勝った人がいてそれをたしなめるための記念の像が残っているというから常に人間は同じことをくりかえしてきた。オリンピックでは今回インドネシアが放映権が高くて買いず報道できないというから商業主義とグロ−バリ-ゼ-ションで貧乏な国弱い国はおきざりにされる例がここにもある。
ただ喜多方に「さいわい橋」という名がありなんかその名だけでもここにはさいわいがあるのかと思うのが人間である。だから一時幸福駅の切符を買うことがブ-ムになった。人間はイメ-ジが意外と大事なのだ。さいわいがなくてもさいわいとあるとなんかさいわいがあるようにな思えるから不思議である。名付けることはだからむずかしいのだ。
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いろいろな名前の募集があったなかで「南相馬」が一番多かったのはなぜか?これは平凡な名前である。相馬があるからその南だから南相馬となる。でも南相馬となると相馬市に付属した市のようになり新しく合併した市の名にしては平凡すぎはしないか、相馬郡の中で二つに分かれたのだから分かりやすいことは確かである。行方市(なめかた)というのも結構あった。古代の郡であり行方市はちょうど鹿島町、原町市、小高市の領域であり今の相馬市は宇多郡であった。もともとは鹿島町の浮田国造が相馬郡の領域でありそれが行方郡と宇多郡に別れたのだ。だから行方市となると古代の元の状態に戻った名前となるから歴史的には行方市も悪いものではない、しかしこれはなじみがない、他の人にとっても行方市って何だろうとなる。野馬追いは知っていても行方市の由来をたずねるのは古代史マニアくらいになるから問題である。陸奥真野の草原の万葉集に関して名づけ方もあった。真野市とかあったがこれは一票しかない、相馬草原市というのもそうかもしれない、私が前に書いたので相馬原市とか野馬原市とかもあったが一票くらいしかなかった。ただ同じ発想した人がいたことである。真野を入れるとすると真野を馬野として馬野原市というのも一案である。野馬原市はあったが馬野原市はなかった。野馬追いをイメ-ジさせるなら馬を入れる必要がある。他に野馬追いが行われる雲雀が原をイメ-ジしてひばり市とか雲雀が原市とかもあった。なかなか市町村の名付けかたはむずかしい。
というのはこれは勝手に名付けられない、いろいろな問題がでてくるからだ。南相馬が無難だからこれに決まるのか投票で名前も決まってしまうのか、これが民主主義なのか、それにししてもちょっと平凡であり相馬に帰属した市ということで不満が残るだろう。新相馬市とかもあったがこれも新相馬が新しくて相馬市は古い感じになり相馬市から反発があるかもしれない、ともかく南相馬というのは余りにも平凡であり新しい合併した市としては主体性欠けている。何か新しい市作りに励むんだという点でインパクトがない斬新性がない、余りにも無難な平凡な名付けかたなのである。ではそれ以外適当なものがあるのかというとなかなかないから困るのだ。
いづれにしろ20年間で人件費などを376億も節約できるというから合併の効果は大きいのだろう。今も議員が町に20人以上いるのは大変な出費であり必要ない、これが4、5人になるからその点はいい、ただリストラがあるから安定した就職先がなくなることは地方にとっては問題である。ある島では公務員しか就職先がないというところもある。公務員は地方の安定した経済の核を成していたのである。これは公共事業と同じで無駄な出費だから削られる。公務員も安泰な時代は終わりつつある。相馬郡と飯館のような山もあり海もあるからそれなりに変化にはとんでいる。ただ海は鹿島町の海が石だらけの海になり海開きすらできなかった。海で磯もないから磯遊びもできない、海の魅力が欠けている。ただ鹿島町の松原はかなりいい松原なのだ。これは意外と評価されていない、松原がいい所は少ないからだ。ただ全体的に火力発電所などができて景観は悪くなった。むしろ山の方が自然が損なわれず魅力があるかもしれない、阿武隈高原は起伏にとんで広い、でもここも温泉がないなど観光的には魅力が欠ける。いづれにしろ「南相馬」という名は納得いかない人が多いのではないか、その代わりとなるとまたむずかしい。それにしても来年辺りまでに合併が行われるというのは早すぎる。もっとあとのことと思ったからだ。政府で急がせているからだろう。急速に変えられてしまうから現代は困るのだ。民意が熟さないうちにどんどん変えられてしまうのは問題だが財政が圧迫しているから政府で急がせている。それほど財政が一番の問題なのだろう。
すこと間違いないのだ。
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新市名は雲雀野市
原町市中心の合併問題で名前は雲雀野市に決まった。雲雀が原で野馬追いの神旗争奪戦が行われるからだ。原町という名前はそもそもあの原っぱから来たのかもしれない、なんらか大きな原があったのだ。地名でも単に原というのが古代からあった。九州では原はバルで韓国系の名前らしい。原町という名前は全国的に多い。雲雀野という名も大きな市とか町ではないが小さい区域の名では多い。ひばりが丘などとなると新興住宅地に多いかもしれない、だから歴史ある場所というより新しい市のように思えるかもしれない、相馬市があるから南相馬というのがダントツで応募したら多かった。だから南相馬になると思っていた。雲雀野市という応募は十数名しかなくこれが市側で採用するとは思っていなかった。そして現実これに不満だという人もでてきた。南相馬の方がいい、相馬があるからその方がいいという声もでてきた、そもそも決めるのが早すぎるという意見も多い、実際本当に予算をもらうために急いでいる。雲雀野市で本当にいいのかどうか良く検討されずに決まってしまったのだ。まず雲雀野市となると相馬はイメ-ジされないから雲雀野市はどこにあるんだとなる。それが一番の問題である。イメ-ジとしては悪くはない、ただ歴史的なものが欠如しているから何かそぐわないとなる。これが全く新しい都市なら問題はなかった。歴史ある都市では歴史を考慮せねばならぬのだ。南相馬でもやはり不満があったろう。どう名付けても不満はでてくる。相馬野というのもどうであろうか、相馬野の馬野は陸奥の真野の萱原の真野なのだ。これもまたしかし受け入れがたいものがあるだろう。地名はそもそも実際は味気ないものが多い。実用的につけられたものが多いからだ。ともかく雲雀野市と決まった以上はそれで始める他ないのかもしれない、雲雀野市となると校歌など作るのには作りやすいかもしれない、でもどうしてもこれになじめない人はかなりいるだろう。意外とこの名前の作用は大きいのである。それもこれから長く使うとなるから問題なのだ。
太平洋の 白波よせて 雲雀野市
相馬流れ山の歌に 粛々と野馬追いの列
夏雲湧きて 馬集い どよめく
伝家の旗や 武者駆け上る 雲雀が原
桜井の古墳 大なり 泉廃寺跡
陸奥の真野の草原 古代を偲ぶ
阿武隈の山脈望む ゆかしき地
ここに育む 友の絆の 強きかも
二宮尊徳 仕法の地 松質実に
たゆまず 学に農事に励むべし
秋風さやか 実りはここに六万石
新たな市(マチ) 雲雀野市に 栄いあれ
南相馬より雲雀野市となるとこのように詩とか校歌とか市歌とかは作りやすくなることは確かである。
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飯館村が合併しないのはなぜ
市町村合併でわかったことは小泉首相の構造改革が身近なものになったことである。構造改革は無駄なもの、弱者切り捨てであり勝ち組と負け組をはっきりさせることでありアメリカ型の弱肉強食の世界にすることである。社会の階層化がすでに進んでいる。教育費が減らされるし金のあるものは高度な教育が受けられるが金のないものは教育費が削減された貧弱な公教育しか受けられなくなる。地域でもいいところと悪いところがはっきりする。なぜこんなに市町村合併を急いでいるのか、政府が飴として金を与えるからだ。それを欲しくて急がさせられている。構造改革は地域のリストラでもあった。会社のリストラから地域のリストラになる。確かに地方には公共事業のような無駄が多かった。我が町でもなんで野球場を作ったりするのかあれもほとんど使わない公共事業だし土建屋に仕事を与えるものだった。高速道路も仕事をくれとゼネコンが要求しているのは事実である。過疎化した山村では道作りとかが唯一の現金収入の場だったりする。それが問題にしても構造改革は地方にとって必ずしもいいことではないことはいえる。議員なんかへるのはいいにしても飯館村には小さな支所くらいしかおけず
ましてや新市になれば、将来旧飯舘村から市会議員がいなくなる可能性だってあります。分権分散なんていってみたところで「ない袖はふれない」のです。国の交付税だって国の懐具合で変わるんです。分権分散を条例化するとか何とかいってみたところで、そんなことは何の保証にもなりません。ましてや先の任意協議会で合意していた旧市町村の「予算制定権」が、今度のひばりの市では「予算枠」に変っています。これはただの文字の変更ではないのです。ここに分権分散の骨抜きの姿がみえるでしょう。
小さくともいい、自分たちで意志決定できることが大切なのです。
(飯館村の掲示板より)
合併は単純に考えると大きな市と一緒になった方が財政的にも楽だと素人的には思う。それだけではない、小さな村として独立国として村を保ちたいという要望もある。財政的問題だけではないのがあった。原町市と小高町、鹿島町は鉄道でつながり経済圏も一体である。合併することに抵抗ないし実質仕事でも原町市中心になっているのだ。私も自転車で毎日のように原町市に行っているし自転車でも簡単に行けるのだ。ところが飯館となると自転車で行くと一日がかりになる。凄い急な坂を越えねばならないのだ。これで飯館にはなかなか行けなくて困っている。今の時代山村で暮らすには自動車ないと暮らせない、医者もいないしバスの便は悪いし使い物にならないからだ。
飯館は地理的にそもそも隔絶された場所で高原で寒いから冷害でも苦しんだ。ただその地理的に隔絶されたことがかえってチェチェンのように独立を維持したい、独自の村作りをしたいという要望になっている。これも地理的なものがそうさせるのだろうか。私は地形的に地理的に風土から世界を考えることに興味があるからそういえばこれは世界的に共通な現象なのかと思った。とにかく飯館は広いし緑は豊かである。家々が点々と森に隠されてある。道に誘われるようにたどってゆくと森の中に隠されて思いがけなく家がある。そういう点阿武隈高原は浜通りでも鉄道沿いの街とは違い別世界なのである。だからそこには別な山の高原の緑豊かな村としての魅力があるのだ。つまり飯館は地形的に地理的に別世界だから経済的には苦しくても自立的村作りをしたいというのもわかる。それはチェチェンが山国で独立国でありたいスイスが独立国として維持するというのとにているのか、一つの山国に独立の自治の旗をかかげたいのか、それはそれなりに理解できる。そういう要望も合併問題にはある例であった。そもそも昔から村の境というのは重要な意味がありもめていたのである。綱引きなどの祭りは違った村のものが争い勝った方が豊作になるというのは隣の村の人々が交流する祭りだったのだ。隣の村とは争うこともあったがやがて協力するようになった名残りである。昔は境界が重要な意味をもっていたのだ。
でも飯館牛とか有名だがそれだけで財政的には苦しいし自立できない、でも貧しくても飯館村の人が望むなら合併しなくてもいいのか、また合併協議会に入ったからこれから村長選挙まで持ち越され決められる。やはり財政的には苦しいから合併するのだろうか、ともかくこの合併問題は全国的に結構深刻な問題となっているのだ。名付けかたでもいろいろもめている。小泉首相の構造改革は合併とかを口実にして地方を切り捨てる面もあったのだ。
そこで都会と地方の対立が深まったり、また階層化で富めるものと貧乏層との対立が深まりそこに外国からの移民が入ってきて治安も悪くなり和を重んじる国が乱れの国になってしまう恐怖がある。現実一部ではそうなっている。ナイジェリア人が強盗で東京で逮捕されたのは驚いた。アルジェリアに石油をとれて日本人が行っているのは知っていたがナイジェリアと関連しているのかと思ったらかなり離れていた。アフリカの地図で見たら小さい所だは錯覚した。実際はアフリカ大陸自体大きいからこの国も大きな国だった。人口も世界9位とか大きな国だったのだ。ともかく日本の和が乱れることは経済的にも文化的にもいいことではないのだ。
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馬券売り場でイメ-ジ悪くした飯館村
飯館村は高原の村である。かなり標高があるから自転車ではきつい。ここは標高高く寒いから昔から冷害が多かった。つい最近も冷害で米がとれなかった。日本はどんなところでも米を作りそこで住みつくようになった。飯館は山でも広いから田になるところがあった。今はとり入れの時で稲架(はざ)がたてられていた。いい松がありそれも三叉の松でそこからの景色が良かったのでデジカメでとった。そこははじめて行ったところだったみたいだ。広いから隈なく行っていなかったのだ。そこに一つの石の玉を置いて「ひもろぎ」の里とあった。これはなんのことかわからなかった。
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神籬-ひもろぎ-とは神が降臨する神座(かみくら)の事です
の意味でありなぜこんなむずかしい名を村おこしにしたのか、ここの産物は飯館牛とあとは石くらいになるからだろう。石を売り出していることは確かである。石の彫刻や石に俳句を彫る事業などもしている。石はそもそも古い信仰であり縄文時代からあったみたいだ。ただ単に石だけを祀っているところがある。下北で町中で見たのがそうだった。町中にあったということだがこれは村の中に古くからあったものだろう。下北らしいといえば下北らしい辺境の趣きがまだ残っていたとなる。この石については司馬遼太郎氏が「北のまほろば」で書いている。
田名部では一のつく日に市がたつ、町の真ん中に、三丈ほどの大きな生木が押し立てられる、「市神」だという、市神は全国にあるが奥州に多い、普通は丸い自然石をすえる。依代である。そこに神が天から天降って市に繁盛をもたらす、これににたものにモンゴルにある。オボといい石を積んだり枯れ木を束にして立てたり粗末ながらも神聖な場所で,時を定めて草原のあちこちから人馬が集まり市がたち祭りが催される。
そこがもともと原っぱのようなものだったが石が置かれて祀られ市がたち町に発展した。オボというのは単なる草原という何もない世界に石を積み上げた目印であった。非常に単純な発想から生まれたのだ。これと共通性があるとすると陸奥にそれもその果てにそんな文化が伝えられ残ったとなる。
これはイメ-ジとして村おこしとして飯館村に合っているのだが馬券売り場と大きく看板がでていたのはこの村にそぐわない、イメ-ジがあれでそこなわれる。山里に来て山らしい雰囲気を味わいたいのにでかでかと「馬券売り場」の宣伝があるとなんか情緒がそがれる。鹿島町でもそうだった。競輪の車券売り場、サテライトができたのだ。これは国道沿いにできた。これもイメ-ジを悪くした。反対運動があったが結局経済優先でだめだった。飯館もだめだった。それ以上に結局こういう所に娯楽を求めている町の人や村の人がいるからギャンブルをしたい人がいるからこういうものができるのではないか、そうした要望があるからそれに答えて作られる。現実毎日パチンコ通いの人もいるしギャンブルはなくならない、そういう人達が要求するからギャンブル場ができる。いくら反対してもそういう人達が多いから反対してもいつもだめになるのだ。とにかくいイメ-ジが悪くなると損である。滋賀県の雄琴について書いたがもともとあそこはその名のごとく非常に由緒あるいかにも京に近い由緒ある伝説から生まれた名だったのだ。今では雄琴とというと男の遊び場として知れ渡った最もイメ-ジが汚された場所となってしまった。飯館村もすべてではないにしろ馬券売り場の飯館村かとまではならないにしてもそれだけでイメ-ジがそこなわれるのである。
それにしても飯館村の小宮に村立の小学校があった。その門といい入り口に古い碑が並んでいてこの奥に小学校があるのか、いかにも飯館村らしい小学校だと思った。この碑も明治時代のものであり飯館にも結構開拓に入ってきた人達がいた。必ずしも古くからいた人達ではない、飯館自体は縄文時代からの遺跡があり古いことは確かである。塩の道も通じていたしその石碑は古かった。飯館は今原町市中心のひばりの市と合併するかどうかでもめている。飯館は原町市とは地理的にも離れているし高原の里ととして独自の世界がある。どちらかというと川俣の方が近いし阿武隈高原で一体感がある。いづれにしろこの合併問題はいろいろとむずかしい。前も飯樋との合併でかなりもめたらしい、理由はわからないがまたそのくりかえしである。昔は境というのが大事でありそれで堺田とか境松とか境に関していろいろ残されている。綱引きという行事はまさに村と村の綱引き、勢力争いであり勝った方が豊作になるというのは本当に利害が対立して争いとなりそれが祭り化したのだろう。でも今はどうしても広域な町作りが必要になっている。自動車で遠くに行けるから役所が遠くでも困らないし買い物も困らないのだ。だからあまり日常生活に支障をきたすようなことはないのだ。ただ経済問題がネックとなるだけである。税金が高くなるとか村から発注された公共事業がなくなるとか業者の問題とかがある。ひもろぎの里は新しく作られたものであれそれなりにイメ-ジを作るのでいいが馬券売り場はイメ-ジを悪くしたことは確かである。
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飯館の秋(写真はここで)(俳句短歌紀行)
二宮尊徳は相馬に来ていなかった
史実では相馬に来たこともない江戸時代の農政家、二宮尊徳(1787〜1856年)の「生家跡」が、大手地図会社発行の同県原町市の市街地図などに誤記されていることが分かった。尊徳は神奈川県小田原市が生誕地だが、原町市にゆかりの石碑などがあることから、誤解されてきたらしい。地図会社は「次回の発行時に訂正する」と恐縮し、同市のJR原ノ町駅前の周辺案内図は6日、「二宮尊徳ゆかりの地」に訂正された。(毎日新聞)
相馬中村藩士、富田高慶の縁で、明治以降尊徳の妻子が現在の原町市石神に移り住んだのですね。ここで暮らした尊徳の息子尊行、孫尊親も尊徳の思想を受け継ぎ、とくに二宮尊親は北海道に渡って開拓事業をおこなった「偉人」なので、ここに「二宮先生宅址」という石碑があるのは、当然すぎるほど当然なのです。
郷土への愛着は、その歴史への愛着でもあります。それは自然で健全な感覚です。しかし困ったことに、地元以外では誰も知らない誰の誰兵衛が活躍したなどという史実では、ひとは満足しないのです。どうしても、他地方の人も含めて誰もが知っている有名な歴史上の人物が、ここに足跡を残したという類の話の方が好まれるのです。あるいは「日本最古の○○」などというのも、日本中の人に通ずる話だからこそ好まれるのです。ここに人が「悪気はなくても」歴史を偽造してしまう動機が存在します。
http://koshipa.net/archives/000143.html
二宮尊徳のことは相馬では良くでてくる。だから二宮尊徳が相馬生まれだとと錯覚している人がいるかもしれない、それが地図にまで記されることになったのか、そもそも歴史に捏造はつきものである。石器を勝手に土に埋めてそこが日本最古の石器時代の場所だとなり町起こしになった。テレビで一つの石器の片割れが仙台の方で発見されてもう一つが山形の方で発見された、それがぴったりとあった。石器人は山形と仙台を行き来ししていた証拠です。それをテレビで映してなるほどそんなことがあるのかと思って感心していた。何万年かしらないがそんなことありえようがない話だった。まんまんとだまされたというか人間の盲点をついたのである。二宮尊徳といっても今やどういう事実があったのか簡単にはわからない、地元の人でもわからないのだ。特にその人が書き残したものが少ないと事跡だけだとわかりにくい、それが本当にあったことなのかどうかを証明すること自体むずかしくなる。事実であっても誇張されて語られたりして何が真実だかわからなくなる。誇張さされて語り継がれたのが神話や伝説なのだ。人に話するとき大げさに語れば受けやすい、武勇伝なんかそうである。神話や伝説も事実を基にしていることは確かだがその事実がどういうものだったかは各自の判断にゆだねられる。事実が何であったかそれぞれよみとる他ないのだ。
平家落人の里というのも無数にある。これも辺鄙な山里で何か俺たちの村はそうした高貴な流れの血を受け継いだ人が先祖なのだという願望がそうさせた。ありもしないことが強い願望となりそれが現実のように語り継がれるということも歴史である。庶民の願望がそういう話を生む、シンデラ伝説とか一寸法師とかラオスのモン族とかでも孤児が王様の牛を世話してその牛や馬が王様におじきをしたので王様に認められ王様の娘の婿にされたとか、これも何か王様に仕える悲しさがある。牛や馬まで王様におじぎすることはないからである。そこまで王様に従順に仕えることを教えるためのものでもあったのだろう。結局それらは貧しい生活のなかでその物語がそれを語ることによりカルタシスとなる。ありえないことなのだがその願望の夢を語ることによりカルタシスになるのだ。そこにまた物語の意味があるのだ。物語が歴史(hi-story)ということは物語にはいろいろな効用があったのだ。一寸法師は辺鄙な山里から都に出て成功したいという願望の物語でありそういう願望が山里には大きいからそういう物語が好まれるのである。その話は次の代に伝えられまた創作され変わってゆく、いろいろ尾ひれがついて元の話とは全く別なようなものにもなってしまう。願望が歴史になるのは日本の太平洋戦争でもその凄惨な事実より美化したい、それに参加した人は願望として戦争を美化したくなる。事実より願望の方が肯定される、神話や伝説が作られる。ナチスで七〇〇万も死んだのは嘘であり実際は何十万単位だと今言う人がいる。第一700万の人間をどうして殺すのかガス室でもその死体の処理だけでも不可能だというのもそうかなと思う。数字もかなり誇張されるのだ。南京虐殺の事件もそうである。
宗教でも捏造が頻繁に行われている。信心で病気が治ったとか宣伝するけどあれも捏造が多い、人間が詐欺にかかりやすいのは病気の人は病気が直したいとか貧乏の人は金持ちになりたいとか美人と結婚したいとかそうした願望が強いから捏造がありだまされるのである。そもそも石器を捏造した人そのものがここに石器が発見されたらな・・という強い願望が自ら捏造を作り出した原因なのだ。戦争というのも戦争の悲惨さを言わず戦争で達成されるもの、願望があるから戦争も肯定される。人々の強い願望が戦争になったという側面も見逃せないのである。戦争によって運が開ける、事態が解決するという願望が戦争になる。ドイツでも不景気となり人々は不景気や失業から脱出したいためにナチスの呼びかけに応じた。魚心あれば水心である。人々の念というのは怖いものである。中国でも日本憎しという反日の念を作りだすことができる。韓国でもそうである。そうした過度の怨念を作り出されることは危険である。組織や団体は宗教でも怨念の念で一致する。他者を攻撃するのは怨念で一致するからである。国でもそうである。
いづれにしろ史実では相馬に来たこともない江戸時代の農政家、二宮尊徳なのだがええ、これだけ語られている二宮尊徳が相馬に実地に来ていなかったということを知っている人は地元でも少ない、そういう自分もそうだった。二宮仕法の農家が残っているから実地に来て指導していたと思っていたのだ。その弟子の高田高慶という人が二宮尊徳の所に弟子入りして学びその教えを広めたのである。こういう基本的な事実さえ知らない人が多い、地元でもそうだとしたら他から来た人はさらにわからない、基本的な事実、史実をおさえることがやはり歴史研究の一歩である。
墓になぜ興味があるかというと一行でもそれが事実であり一人の人間の事実の記録だからそこに重みがある。事実だということが歴史では驚きとなる。そんな事実があったのかということが驚きになるのだ。だから歴史の小説とかドラマは誇張されたり脚色されすぎて歴史研究には向いていないのだ。そこでは事実でないものを本当だと思っている人が多い、それは歴史の誤った観念を植えつけることになり危険なのである。これも捏造されたものが本当だと信じてしまう人を多数作り出していることなのだ。拉致被害者でも実際は死んだとしてしもその証拠がない限り生きていることを信じたいからおそらくいつまでもどこかで生きているということになる。それが伝説にもなる。そこには確かに事実より人々の願望が働いている。その願望も当時の人々の生活の反映なのだから歴史ではあるがやはり事実を基にして歴史がある。聖書はまさに事実を基にしたものであり他の歴史書とは違っている。神話とも違う、事実の記録でありそこに重みがあるのだ。一人一人の人物は確かに存在したのだ。アダムすら実在の人物なのである。だから一番古い人類の歴史書だとなる。日本の古代からの歴代の天皇が存在したのかどうかでもめているのもまさにそんな遠い過去になると実在しているかどうかが問題になるのだ。実在をしないものを実在するように信じていることも普通にあることなのだ。
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市町村合併の名前の混乱
(ひばりの市は反対で投票で相馬郡-原町市の合併の名前を決める)
例えば東京の大田区は「大森」と「蒲田」の合成ですし、4月に長野県に誕生した「東御市」は「東部町」と「北御牧村」から一文字ずつとっています。国分寺と立川のあいだにできた「国立」なんてのもあった。
そうか、国立も合成地名だったか、飯館も大館と飯曽村が合併した合成地名だったから驚きだよ、合成地名はかなり多い。相馬も小高-原町市-鹿島町が合併するのに名前でもめたよ、
例えば東京の大田区は「大森」と「蒲田」の合成ですし、4月に長野県に誕生した「東御市」は「東部町」と「北御牧村」から一文字ずつとっています。国分寺と立川のあいだにできた「国立」なんてのもあった。
大田区もそうだったのか、てっきり大田は元からあった地名だと思ったよ、大田という地名は多いからな
2004年10月に鳥取県に誕生した「湯梨浜(ゆりはま)町」は、三つの町村が合併して出来ました。それぞれの町のセールスポイントである、「温泉=湯」「二十世紀梨=梨」「日本海の砂浜=浜」を組み合わせて「湯梨浜」になったのだそう。
これもややこしい合成地名だな、観光宣伝のためにはいいみたいだけどちょっと作りすぎな感じもするよ
合成地名じゃないけど、過去に福島県で、5市4町5村という大きな規模で合併して「いわき市」が誕生したとき、その名前は「以和貴」であり「和をもってとうとしとなす」だ、と言ったそうです。
ひばりの市は雲雀が原で神旗争奪戦がおこなわれるのでひばりの市に決めたけど相馬を残すべきだと取り消しになって投票で決める、鹿島の人は相馬からの行列を鹿島で迎えるので相馬を残したいとか野馬追いに参加する人が主張した。
存続派は「地域の歴史を大事にしたい」「名前に愛着がある」、廃止派は「ムラ意識を排して新市の一体感をつくる」「住所表記が長くなり、面倒だ」などと主張した。廃止した場合、現在「字勝連」がない勝連町は「地名が消える」こともあり、蔵當真徳町長は合併協の席上、「『勝連』だけは残してほしい」と訴えた。
地域の歴史を大事にしたいとなるとここは相馬をどうしても入れないとだめになる、相馬は知られているけど「ひばりの市」では知られないから致命的だったんだよ、新興住宅地か団地の名と勘違いする人もでてくる、知名度がないとだめなんだよな、白神市は能代市が反対して御破算に・・・能代は古い地名だから愛着あるのわかるよ・・・知床市にすると爆弾しかけるともめていた・・・・名前はやっかいだよ、地名をあんまり変えるのはよくないよ、前の歴史的地名がわからなくなるから
歴史のある町村を廃して新しい名前の市をつくってどうするのだろうと心を痛めている。古川市,鳴子町,岩出山町,涌谷町,松山町,南郷町,小牛田町,三本木町,鹿島台町・・いずれもそれぞれの歴史を持っているではないか。これを補助金のためとかなんたらで葬り去る権利は誰にもない。
これも古い地名だから変えるといろいろ困るよ、小牛田神という石碑が相馬に少ないけどある、福島には多い、小牛田には山神様の信仰でお参りに農民が行ったらしいよ・・・それが変わるとなんか歴史が失われるだろう・・・古川、鳴子、岩出山などもなじんだ名前だからな
大きくて有名な町があり、そこに吸収されるのであれば、名前に関しては問題ありません。でも、二つ以上の町が対等に結ばれるとき、新しい名前が必要になります
そうだな、相馬市に吸収されれば問題はなかったな
美幌の名前を捨ててまで合併したいとは思わない
美幌はなんかいい感じの名前だしな、それもわかるよ 美瑛もそうだよ
10月に山口県を旅したとき、徳山駅で降りたら見慣れない地名が・・・。市町村合併によって「周南市」となっていた。
合併の是非は知らず、こんな味も素っ気もない名前をよく付けたものだ。周南(周防の南部)というのは、一地方の名前で、福井県で言えば嶺北・嶺南のようなもの。
こういうのは公募によって選ぶ場合が多いが、応募数の多いものを安易に採用するとこうなる。
この種のことは、多数決が一番、というものでもなさそうです。
新興住宅地で、緑ヶ丘とか希望が丘とか、そういうのもどうかと思います。
松の木が三本あったから「三本松」というような、シンプルだけど親しみやすい名前が滅亡していくのが悲しいです。
南相馬もそうだよ、投票で決める前に決まっているよ、この名前は一番多くアンケ-トで出たんだから・・・他にもいろいろあった、私が想像したのも全部出ていたよ、
北名古屋市とは、またベタな名前ですね。
よほど知的創造力のない人が考えたに違いない。
安易にただ方角をつけただけの名前はやめてほしい。
そう思うな、南相馬は味気ないよ、
では何がいいんだ、なんとハガキに書いたんだ
相馬原だよ 相馬と原町の合成地名だな、これも味気ないけど、原は雲雀が原でもあるよ
これもアンケ-トで何票かあったけどここは南相馬で決まりだよ、相馬の南ということでなんか相馬が中心で附属した感じにはなるな、相馬藩の城は相馬にあったからしかたないのか、地名はやはり歴史によって決められるのが多いな、南相馬は相馬市が親分で子分みたいになるな、人口的には多くなるんだから納得いかない人も多くなるだろう
うらやましいのは、いい名前は筑紫野市だよ、ここのホ-ムペ-ジは絵巻物風にして芸術的だよ、一見の価値あり、ここは万葉から古代の地名から生きている、いい名前だよ・・・・紫という漢字を当て字にしたのもよかったな・・・・詩的だよ・・
地名は美的センスだけではつけられない、やはり歴史が大事なのかな・・・
全国でこれだけ地名が変わるのも問題だよ、私はよく旅したけどその旅した駅の名が町の名が変わっていてショックだった、なくなってショックだった、一瞬その町が消えてしまったかと思ったよ、つまりそれだけ歳月がすぎて変わってしまったことに愕然としたんだよ、地名はあまり変わると困るものなんだよ
消えた駅名-楢原
私が書いた名は相馬原だったけどこれもしかたなく書いた、実際投票だとみ南相馬に決まっている。
こういう名づけかたが無難なのか、武南が武蔵の南だということなど他の人はわからない、最悪の名前よりはいいか、相馬はわかるから
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新市名が南相馬に投票で決まったが・・・・・・
ここは南相馬市に決まったけどハガキで投票したは40パ-セントにみたなかった。次に多いのが原町市でありひばりの市だった。つまり原町市とかひばりの市と投票した人々は元の原町市に愛着があり独自性を保ちたいからであろう。南相馬となるとどうしても相馬が中心であり相馬の附属都市として脇役の都市としてあるようになる。でも実際は原町市の方が人口は多いし相馬市が中心というわけではない、歴史的には相馬に城があったから中心になる。南相馬市になるとますます相馬が中心的都市に外部からも思われる。喜多方に行ったとき相馬で神旗争奪戦をやればいい、相馬野馬追いなんだからと言うのも一理あるし現実これからはそう思われる。雲雀が原で神旗争奪戦が行われることを来た人は知っているが来ない人は知らない、原町に来ても雲雀が原という名前は知られていないのである。そこが致命的だったのだ。
どこでも有名になった名前を優先的に考える。合掌作りで有名な白川郷は高山市と合併しない、観光収入が多くなったから自立できるのである。平泉は一関との合併でもめている。平泉は知られているから平泉がいいとなるが一関は反対である。一関が大きな都市なのに平泉町が中心になるのに反対となる。平泉の方がわかりやすいし観光は一関ではなく平泉に行くからでも一関より外から見ると平泉がいいとなる。十和田湖に行ったが南十和田湖という駅が花輪線にあった。そこが十和田湖に行くのに便利かと思いそこにおりたらそこには泊まる宿もなかったのだ。鹿角にはあったらしい、実際は大湯という所が温泉町でそこが中心地だったのだ。でも十和田湖が有名だから十和田という名前でそうなっているのだ。観光では名前が有名なことが大事になりその名前中心になることがこれでよくわかる。鹿角とか大湯を知っている人は少ないのである。今は観光が重要になるからどうしても外からの名付けかたがブランド名にしたいのだ。でもそもそも地名は外から観光のために名付けられたことはない、その土地の歴史的必然から名付けられた。相馬市は中村町だった。中村が中心にありそうなった。小さな村や字が町の名となる場合がある。
1954 (昭和29年) 中村町・大野村・飯豊村・山上村・玉野村・八幡村・日立木
村・磯辺村がひとつになって相馬市ができる
1961 (昭和36年) 常磐線中村駅を相馬駅という名前にかえる 相馬港の工事
が始まる
なぜ中村というのが記憶に残っていたかというと駅の名前が中村となっていたから子供のころでも記憶に残っていたのだ。この場合の合併は相馬となったのはなんら名前でも問題なかった。鹿島町は鹿島村が中心になり合併して鹿島町になった。時代をさかのぼればのぼるほど小さな地域が村が行政の区域となっていた。その村には庄屋とか肝入りとかがいて藩との橋渡し行政官のようになっていた。寺も戸籍簿係のようになっていた。五人組とかもあり江戸時代の村は緊密な農村共同体を形成していた。だから部落ごとに春の祭りの獅子舞とか踊りが違っていた。部落ごとにそうした独自の踊りや文化を作ってきて部落同士が競い合っていた。地域があったとしてもさらに小地域がありそこには他の部落とはない別なものを作ろうとしていた。だから合併するとまずそうした地域の部落の文化がなくなり一様化されることがありうる。中村町でも大野村でも山上村でも日立木でもそれは一つの強固なまとまりある存在だった。だから最初にその部落に愛着があったのだ。部落ごとに若者宿とか子供や若者のも祭りに参加していた。それは部落ごとにあったのである。
合併とは文明が発達すると必然的に起こってくることである。それを示しているのが経済のグロ-バル化である。江戸時代の経済は自給自足に毛のはえたような経済であり現代のような世界を相手にする経済ではない、小さな地域での自給自足の経済が基本である。米や畑でとれるものが経済の基盤である。自治体の合併は政府主導で経済的効率化を目指して進められたものである。経済的効率追求だけでは合併はむずかしい面があった。その一つが名前の変更であったのだ。名前にはそれなりに歴史と重みがあったのである。一つの視点として合併をすすめる要因はグロ-バル化の要因が交通の発達にあった。自動車社会化すると活動範囲が広範囲になる。遠くが近くなる。遠くが不便でなくなる。足が電車やバスだと合併にも影響する。役所が遠くなって不便になるとか主な施設が中心市に集中するとか問題になる。今でも車のないものは不便を強いられている。原町市の病院に行くとタクシ-で2500円もとられるとかなる。病人はどうしてもタクシ-を利用せざるをえなくなるときがあるからだ。こうして交通の便が意外といろいろな問題に影響しているのだ。自動車社会でなかったら合併はむずかしかった。電車で行くにしても結構不便だし金もかかるしバスは役に立たないとなると困るから反対する人が多かったはずである。飯館村が合併から離脱した理由が今一つわからないが交通が不便だというのもあったかもしれない、小高-原町-鹿島はほとんど地理的には一体化しているからだ。合併は名前だけでなくいろいろ経済への影響が大きいことは確かなようだ。
ただ、その頃の日本は例外なく少子・高齢化が進行し、
また、都市部といえどもゆるやかな人口減少が始まっているでしょう。
現在は隆盛を誇っている大型商業施設が、そのときも健在かどうかの保証はありません。
生活圏拡大の最大要因だったクルマ社会でさえ、衰退していくかも知れないのです
クルマ社会が衰退するなど今思いもよらない、でも実際これはわからない、その一つとして路面電車が都会で復活しているのもクルマではかえって渋滞して都会では能率的でないことに気づいたからである。これほどのクルマ社会になっているのがこのままつづくかどうかわからないという指摘はなかなか今の時点ではできないね
ここに書かれているようなメリーランド州の人口3000人の町に住んでいます。
日本であればとっくに合併していると思うのですが、3000人というおかげで
みんな自分の町だという意識が高いです。こういう意識っていうのはすごく大切だと思います
数字には出てこない部分なのですが。町には郵便局もありません。
隣の町と共同です。合併しなくても合理化できるところは合理化しているようです。
町がこのくらいの大きさだと、町の警察も殆どのことを把握していておかげで犯罪もありません。
日本でどんどん合併が進んで慣れ親しんだ名前が地図からも人の意識からも
消えていくのは残念です。久しぶりに日本地図を見たらなんか別の国みたいに見えました。
西東京?南アルプス?さいたま?四国中央?
いったいどうなってしまうのでしょう。
しばらく日本地図は見たくない気分です。
反対派の発言ってベクトルが未来に向かってないんだよね。
現状維持を好むっていうか、むしろ「昭和の大合併の時には・・・」
ということを持ち出して過去の視点で論じている。彼らの発言を
見ていると、既出だが市町村分割ブームを期待しているように感じる。
30年先、50年先を見据えた産業・経済・文化・教育・・・の新創造を、
合併による旧体制打破で生まれ変わるのを機会に進められることは
これからの日本にとっては重要である。
南相馬だとそうなるな、ひばりの市だと市歌を作ってみたように何か新しいものを目指す雰囲気がでるんだよな、南相馬だと相馬の歴史は残るが何か古いままで新しい街を作るという意気込みはでてこないね
アメリカ人のようなフロンティア精神に乏しく、むしろ「寄らば大樹の蔭」の事大意識のほうが強い。役所・役場がなくなったというだけで、イメージダウンは避けられない。
もっと悲惨なのは旧市町村の周辺地区である。こういう地区には、住民生活にプラスになるような施設は一切できない。逆に、いわゆる迷惑施設の第一の候補地にされる
地方では役所や役場というと何も目立つものがないと中心になってしまうな、都会と違って役場とかのしめる位置が大きいんだよ
l(市町村合併が政治を堕落させた) http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkack406/gappei.htm
まあ、なんか南相馬は無難でもやはりなじめない、歴史を重んじればそうなるのだが全く新しい合併した街の名としては平凡すぎるんだよ、相馬だけが目立つようになる、かといってひばりの市でもだめだったしな、いづれにしろ新しい合併の独自性は名前から得られない、名前がすべてではないが名前の影響も大きいな、ひばりの市に栄いあれが南相馬に栄いあれとなるがこれは結局相馬市に栄いあれとなってしまうんだよ、相馬市が得するということなんだよ・・・・
合併で変わる名前の疑問(相馬藩と宮古と岩泉に関係あり)
沖縄県の宮古5市町村が新市名称を「宮古市」と決め、「元祖」の岩手県宮古市で波紋が広がっているそう。「何の説明もなく、困惑しており、極めて遺憾だ」とか。
同じ名前というのもまぎらわしくなる。そもそもミヤコとつく地名は大和(ヤマト)などと同じで多くなる。そもそもひばりの市がだめだったのは団地や新興住宅地に雲雀が丘などが多いからまぎらわしいからだめだったのだ。宮古というのは字が同じになるとまぎらわしい。宮古は関係ないと思っていたが原釜港と請戸港で南部藩の岩泉の商家と鉄の取引があった。南部鉄瓶があるように鉄は岩手県でとれた。帰りの荷物は米と瀬戸物でそこには大堀焼き(相馬焼き)などがあった。この鉄は宮古から船で運ばれた。相馬と宮古の鉄による交流があったのだ。他に下北半島の田名部には仙台船が行き来して仙台屋という屋号の商家を残した。そのなかで相馬焼きなどが流通したのかいまいちはっきりしない、「歴史としての相馬」岩本由輝著に書いてあったのだが仙台船とか下北半島との交流はわからない、ともかく相馬にもそれなりの海を通じての交通があった。岩泉は宮古からさらに奥であり山の中である。ただあそこから鉄がとれていたので交流があったのだ。
この鉄は主に山中郷、飯館や二本松や三春に運ばれた。そこで薪が豊富であり鍛冶屋もかなりいた。山木屋とか塩の道になっているところが塩だけではない鉄も運ばれた基幹の道路だったのである。(塩の道の歴史))江戸時代に船がきていたのか、石巻から出た船などここによったのか、この辺はわからない、原釜港と言っていたし相馬市とか相馬港はあとからできたのだ。相馬藩があってなぜ相馬市にならなかったのかそれぞれが村としてあったからだろう。合併して相馬氏となった。その前は中村町だった。原釜と松川浦が先にあった。原釜はいかにも釜とあるから釜で塩を塩釜のように作っていて二本松とかにも塩の道を通じて運んだ。相馬はそもそも行方郡の方をさして言っていた。古代に行方郡と宇多郡があり二つに分かれていて相馬氏は原町市の大田神社に入ってきた、その前に小高に城がありそこを基点として大田に来たのだから相馬の地域はもともと行方郡の地域にあり今の相馬は宇田中村であり城ができても中村城と呼ばれていたのだ。
だから岩本氏によると相馬と言われた地域はもともと原町市をふくむ相馬郡だったのである。今の相馬氏が移って作った馬陵城(中村城)は伊達市の領域だった。伊達市が一時的に支配していてそこに相馬氏が進出したのだ。そこで「花は相馬に、実は伊達に」という境界争いがあったのだ。伊達氏がもともと中村の地域に入っていたからである。旗巻峠(ここに写真あり)などと丸森にあるのも伊達氏が相馬と争い旗をまいて逃げたとか相馬氏と伊達氏は今の相馬の地域で覇権争いをしていた。
◎丸森城跡(宮城県丸森町)
丸森城は、伊達稙宗が築城し、子晴宗と争った天文の乱後の天文17年(1548)にここに隠居した。その後、この城は元亀元年(1570)に相馬氏に奪われたが、天正12年(1584)に稙宗の孫輝宗が相馬氏配下の大河内外記より奪還しました。
◎金山城跡(宮城県丸森町)
標高117メートルの独立山地を利用して造られた山城で永禄年間に相馬の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城されたといわれています。1576(天正4)年以降は伊達家と相馬家との間で激しい戦いが繰り返され1583(天正12)年になってようやく伊達家の領有が確定し、その家臣中島宗求が城主となった。
ここは伊達氏と相馬氏が交互に城主となっていたのだ。これを考えると旗巻き峠が歴史的に裏付けられる。地名は何か謂われがありつけられているのだ。だからその地名を変えると歴史がわからなくなるからまずいのだ。地名は歴史を残している、それも千年前とか化石のように古いのが多いのだ。地名は長く残る。その地名をやたら変えるのはよくないのだ。歴史的に相馬郡とされた地域こそ相馬の基となった地域だったのだ。ただ城ができれば今度はそこが中心になる。
今の相馬郡はもともと最初は相馬氏が治めた地域であり次に前の中村町に進出して伊達氏を追い払い城を建てたのである。新相馬市という名付けた人がいたがこれもおかしいのだ。実は古相馬だったのである。新相馬は今の中村町のあったところであった。古町というものも全国に多い、新しい町ができると前の町は古町になるのだ。これは山の中でも多い、それだけ町というのは変遷しやすいのである。今街の通りがみなさびれてしまったことは古町になったのである。ともかく名前はまず歴史を考慮しないとまずいことがこれでもわかる。私の場合、全国を旅行してこの地名にやたらこだわるようになった。「岩泉」とか「宮古」という名はあの土地にぴったりなのだ。というのは岩泉はまさにそうじゃないか、岩と泉の地(龍泉洞)がある名にぴったりだし宮古という名もあの辺では都と言えば宮古でありそれは海に通じて相馬まで鉄が運ばれていた外に通じる出口だったのである。三陸海岸は岩の断崖に閉ざされている。だから海への出口が外界への道となっていたのだ。いづれにしろ相馬港にしてももともと原釜だった。釜となると塩作りしていたという歴史を思い浮かべる。何かしら歴史的謂われを感じる。
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この地図でわかるように磐城国は古代からありその後磐城を結城が支配した。宇田の方までも勢力をのばした。そこに相馬氏が入ってきた。結城氏と相馬氏が争い伊達氏が仲介に入ったりして伊達氏が勢力をのばして北郷(元鹿島町)の田中城を伊達氏がせめた。田中城の墓は今でも残っている。相馬氏の興亡はかなり大藩に囲まれて厳しいものだった。その中で生き残ったのはやはり相馬野馬追いなどが残るよう武の力があった。野馬追いなどの軍事訓練があった。北郷という地域の歴史的特性は伊達氏と相馬氏のせめぎ合いの狭間にありまた相馬氏が城を築いたら実際は北郷から南郷になっていた。相馬氏を中心に考えると南郷であり南相馬となる。しかし歴史的経過としてはそうでもやはり原町市は原町市で独自に発展してきたのである。原町市が中心になるのだからその独自性を打ち出せないことはやはり新しい歴史を作るものとしては不満だから相馬市の次に原町市でありその次にひばりの市が入り伯仲したことはわかるのである。
相馬港の歴史
江戸(嘉永・安政) 北湊又は原釜港と称され、塩、藩租米の積出港として交易が盛んにおこなわれていた
昭和35年 地方港湾となり、「相馬港」と銘名
昭和50年12月 相馬港港湾計画が決定
昭和50年 外国船(スラブヤンカ2,210G/tソ連)初入港
昭和53年4月 輸入木材特定港に指定
昭和55年 背後相馬中核工業団地が電源地帯工業団地として整備決定
昭和56年4月 エネルギー港湾として整備決定
昭和56年 運輸省第二港湾建設局小名浜港湾事務所相馬港分室(現相馬港事務所)開設
昭和63年6月 国際貿易港として関税法の開港指定
平成2年 相馬共同火力発電 新地発電所1号機建設に着手
平成3年 2号ふ頭30,000トン岸壁(-12m)建設に着手
平成5年3月 エネルギー港湾整備完了
平成6年 相馬共同火力発電 新地発電所1号機運営開始
平成7年4月 2号ふ頭30,000トン岸壁1バース(-12.0m)供用開始
平成7年 相馬共同火力発電 新地発電所2号機建設に着手
港湾計画(改訂)が港湾審議会第156回計画部会において審議決定
平成8年3月 相馬港釣桟橋完成
平成8年 3号ふ頭30,000トン岸壁(-12m)建設着手
平成11年4月 植物防疫法の輸入植物指定港となる
北、南など方向地名は多いが・・・(南相馬の名前でいいのか)
ここは南相馬市と決まったのか、南とか北とかついた地名は全国でも世界でも多い。単に喜多(北)町というのもあった。北町では味気ないから好字を選んだのだ。南とかつくのも多い。他でも秋田みなみ市とか薩摩みなみ市とかまだ決まらないがそういう方角地名になるのはわかりやすいからだろう。南あわじというのも募集したら一番多かったのはわかりやすいからである。大きな都市が中心にあるときはそうなりやすいのだ。
実際、日本は上記のようなことを奈良、平安時代に国策として行ってきた。当時の日本にとっての先進国は中国であった。中国の地名にならい地名を漢字二文字としたり、地名の語源を無視して意味の良い漢字に変えたりした。
「武蔵」をどうして「むさし」と読むかはこの古代の二字化、好字化政策に由来を知ることが出来る。武蔵はもともと牟邪志(むざし)、牟佐之などと書かれていた。そこで好字化として「むざ」の部分に勇ましそうな字を当てた。しかし二字化も両立させなければならないので「し」は省略してしまったらしい。
遠江(とおとうみ)や近江(おうみ)も元は「遠淡海(とおつあふみ)」と「近淡海(ちかつあふみ)」であったのを二字化政策で短くしてしまった。遠淡海とは都から遠いところにある湖ということで浜名湖を指し、近淡海は近い湖ということで琵琶湖を指す。それぞれの湖がある国ということで国名になっていた。
「和泉(いずみ)」は元は「泉」だったが、これも二字化政策で「和」の字を入れてしまった。
外国に阿(おもね)る日本の姿勢は太古から変えられない様なので、日本地名の外来語化は時間の問題のような気もする。
漢字が日本語に入ってきて本来土着の地名は漢字化された。北海道の地名はアイヌ語の音を基にしているのでオシャマンベを長万部としたりいろいろわけわからない当て字にした。もともと音が基本だった。
ケとキは同一だということを地名散策に書いたが「ケ、ケ」というのは今でも言っているからこれは日本語の古い音だった。それは東北地方の方言として残ったが考えてみるとそれはもともとの縄文時代の言葉の音なのか、それとも日本の上代語の音が東北に残されたのか、つまり沖縄と青森に辺境には日本語の古語が残されたように東北にも残されてそれが方言とされるがもともと日本語の古い言葉の音だったともなる。地名を変えることはすでに古代に行われ日本固有の文化の破壊があったのだ。でも実用的には「とおとうみ」とか「とおつあふみ」は言いにくいから実用的でなかった。世界で一番長い地名とか自慢しているけどそれは実用にあわないから無理である。言葉も絶えず変化してゆくのだ。
それにしても単に北町とか南郷とか北郷とかの村の名が多かった。それはその地域ではわかるが大きな地域になるとわからない、どこを中心にして南なのか北なのかわからない、ただ大きな市を中心にするとわかりやすくなる。南相馬であれ相馬南であれ相馬市を中心として南なのだ。ただ南相馬と相馬南では感じがちがう。南相馬となると二つの相馬がある感じになる。相馬南となると大きな相馬の中の南にある一小地域にみられる。それにしても北町ではわかりにくいから喜多町にしたというのもこれも芸がないといえばない、好字ではあるがいわれがわからない、ただ
喜多方の場合もそうである。会津の北方だから好字で喜多方とした。会津の北なので北方(ホッポウ)と言っていた。ただ会津は武家の町であり明治になって新しく北に開けた街であり商業が発達して蔵が多く立つようになった。会津若松は旧弊な武士が残り新しいことを起こすことがむずかしかった。そこで北というだけでない喜多方としたことにはそれなりの意味があったのだ。でもこれを北と思う人は少ない、当て字はそもそも本来の意味を隠してしまうからである。
ともかく方向を地名にするのは多い、宮崎の日南市は
その際、青島、鵜戸、都井海岸という事で当時投票しようかという事になったのですが、あまりに長い名前なので日向(宮崎県)の南の海岸と言う事で日南海岸と言う名を作った
日向(ひゅうが」というのは古い地名だが日南市は方角をつけただけの陳腐なものとなっている。単に南郷とか北郷とつけるのは狭い範囲ではわかっているからいいがそれが全国に知らせるとなるとわかりにくいから大きな都市名から北とか南となる。岩手の南部藩はこれは南部氏が治めたからであり方角ではない、これもまぎらわしいものだった。南相馬でも相馬が中心にして南の市だとなるから相馬が中心に思われる。でも人口は南相馬の方が大きいから他とは事情が多少違ってくる。他では南アルプス市とか白神市とか知床市とかあまりに観光を意識して旧来の歴史的地名を無くすのは無謀である。相馬は歴史的地名だからいいとしてやはり方角だけだと平凡だとなるがそれに代わるものがあるかとなるとそれがでてこないから困るのだ。相馬ひばりの市とういのもこれも何かわかりにくい、境港(さかいみなと)市とか長いのもある。でも前にも言ったがひばりの市自体が知名度がないしどこかの団地なのか住宅地なのかとなる。
ただ相馬の次に何か独自のものが必要となるとひばりの市も悪くないのか、でもで長くなるとまずいとなると相馬というのにこだわると結局、独自の市名は出しにくいのではないか?折衷にするにしてもむずかしい。相馬の南に興る街として
相馬興南市などというのも考えられるがこれも字がむずかしいしそもそも相馬郡は古相馬だったのだから今の相馬の基を成した古い地域だったのだからあわないとなる。中国に同じ名があるのもこれもまずいとなる。
相馬新南市というのもどうか、これもわかりにくいか、他でも単に新南市と応募で名付けている。新とついているから多少は新しい気分になるかもしれない、ともかくでも南相馬だけではものたりない、そこにもう一工夫何か斬新なものが欲しいことはみんな思っているのではないか、ともかくこの名前の命名はむずかしい、平凡な名前が多くなっているのでもわかる。
相馬新南市の詩
太平洋の 白波よせて 相馬新南市
相馬流れ山の歌に 粛々と野馬追いの列
夏雲湧きて 馬集い どよめく
伝家の旗や 武者駆け上る 雲雀が原
桜井の古墳 大なり 泉廃寺跡
陸奥の真野の草原 古代を偲ぶ
阿武隈の山脈望む ゆかしき地
ここに育む 友の絆の 強きかも
二宮尊徳 仕法の地 松質実に
たゆまず 学に農工に励むべし
秋風さやか ともに実りは豊かに
新たな市(マチ) 相馬新南市に 栄いあれ
前の詩を変えてみたが新といれると何か新しい気分にはなる。
南相馬の方角地名は事務的すぎて嫌だ
相馬郡目次へ
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地名を変えることは大きな変化だ(こんなに合併で名前を変えていいのか)
鉄道の旅は長いから私は自然と鉄道ファンになっていた。鉄道ポッポからポッポ屋とか鉄道一家の映画をやっていたが鉄道には愛着があるからしんみりとしてよかった。最後は鉄道で柩が運ばれたというのも何か印象的だ。というのは自動車の騒音は嫌いなのだが鉄道の走る音も何か命の通う鼓動のように伝わり興奮するのだ。それほど鉄道というものには鉄道員でもなく歴史があり愛着をもつようになったのだ。車両などにはあまり興味がないが駅名に興味をもち地名に興味をもったのが学問のはじまりだった。駅名でも地名でもかなり奥深いものがあるのだ。地名や駅名はイメ-ジを作っているからだ。
相馬駅枯木一本古りにけり
相馬駅というときなにか古い感じがしないか、でも相馬藩はあったが駅の名前は戦後できたのだから、古いわけではない、中村駅だったのだ。でも相馬というと古い感じになり原町となるとそんな感じがしない、今度新しい市になる、南相馬というとこれもかえって古い感じになる、新しい市なのだが何か前からあったような古い感じになる。それが名前の不思議である。原町市枯木一本古りにけりに・・・・とは枯木があってもならない、原町市の方が鉄道の駅としては発展していたし原町まで急行がきて相馬まで行かないのもあった。原町止まりの急行があり原町は上野からのタ-ミナルになっていたので車庫とかもあったのだ。また原町市と無線塔というのがなぜかあっている。南相馬になると何かあわないのも不思議だ。こういうことは結構全国でふえてくるのではないか、今回旅した津川という駅の名も合併で変わってしまうのか?これも困ったものである。
そもそも原町とか相馬の名の起こりは浜街道の宿場町からきているのだ。原町宿がありそれが鉄道になり原町駅になったのだ。駅とは馬屋(うまや)のことだから鉄道になってもそうなる。原町市の起こりは相馬野馬追いという祭りより宿場町の意識から生まれたのかもしれない、相馬野馬追いが観光となったのは戦後でありそれまでは地域の行事、祭りであった。だから他から遠くからそんなに見にくる人はいなかったし全国でも祭りとはそんなに必ずしも遠くからはこない、地域の伝統行事だった。常磐炭鉱の石炭が東京にエネルギ-源としして供給されたように原町市もやはり常磐線により発展した。原町市の人口が相馬市より一万人ほど多いことがそれを物語っている。城がなかったから街も作りやすかったのか相馬は城下町だから碁盤の目の細い路地があり新しい街を作りにくかった。これは会津でもそうである。むしろ城より離れた喜多方、会津の北方が明治維新のとき新興地として商売が盛んになり開けたのである。鉄道がその一つの役目をになったことは確かである。国鉄一家とか鉄道時代があったからだ。
南相馬となると昔の古い世界に逆戻りしたような感じになるのも不思議である。たかが名前にすぎないのだけれど「南相馬」とアナウンスで放送されるとき「南相馬」に来たかもう原町ではないのかとなる。相馬郡があったのだからこれは別に悪い名前ではないが何か原町になじんだものにはちょっとなれるまでとまどうかもしれないし全国的にこの名前の変更は大きな問題なのである。元からの名前をなくしてほしくないという住民も多いのである。磐城大田というのがあり古代、磐城国だったとすると南相馬ときてここから相馬だという境界意識は生まれる。実際は浪江まで標葉郷として相馬野馬追いに参加するのだから浪江から相馬の国に入る。何かこうした境界意識を持つことは旅を面白いものにする。江戸時代は不便だったかがちょっととした外国に行く気分になる。またそれほど他国に行くことは容易でなかった時代なのである。地名が変わると意識も変わるという不思議があるのだ。だから歌枕の旅というのがあり芭蕉も歌枕にそって旅したのである。現代はそうした境界意識が希薄であり旅の面白さがなくなったのだ。外国旅行が国境をこえることが醍醐味のように国境は大きな歴史的意味をもっていたのだ。
地元の人
・・・・・・
「次は南相馬、南相馬」
「相馬に帰ってきたか、原町はなくなったな、これも時代の変わりだ、ここはもともと相馬郡だったから、別な世界に来たわけじゃないさ」
・・・・・・・・・・・・・・
旅の人
「磐城大田、次は南相馬・・・・磐城から相馬になったのか」
「南相馬から次は鹿島だ、鹿島は南相馬か、次は日立木、相馬だからな、どっちにしろ相馬だよ」
「南相馬と相馬はどこが違うんだよ、相馬は中心で南相馬はその中心から南だよ」
「相馬といえば相馬が中心だから相馬にまずおりるよな」
「そういうことになるね、南相馬は通りすぎてまずは相馬におりよう、旅はまず大きな中心地に行かないとわからんからな」
名前が変わると別な世界に来たかと一瞬錯覚する、それが会津線の楢原が会津下郷駅になったことである。楢原に一回泊まったから余計にそうした過去の旅が楢原という名前に旅人ですら愛着をもつようになっていたのである。( 消えた駅名-楢原)
童話 -幽霊列車にのって帰ってきた男
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大きい名前のイメ-ジ力(市町村合併で変わる名前のこだわり)
の
は良き名なり遠く来たりて夏の日暮れぬ
喜多方というの名は喜多町もあるからそこから名付けられたのだろうか、それにしてもこれは本当に好字だった。人間がなぜ名前が大事なのか、名前に影響されるのかということがある。単にこれは会津の北というのにすぎなかった。それが喜多方としたことにより全然違ったイメ-ジになってしまったのだ。そこに幸い橋があるというのも実にあっているのだ。喜多方-幸い橋は一つのセットととして存在するのである。これが別な名前だったら北会津となったらこうした歌もできないのだ。「北会津幸い橋は・・・・」こうなるとなにかぴったりしないのである。ここに問題点として単に会津の北でしかない感じになる。ところがこれが喜多方となるとそこは新しい喜多方という独自の街として認識する不思議である。相馬があり南相馬となるとその独自性は消える、原町の方が独自の市として存在する。原町-無線塔もあっていたのである。無線塔はそれなりに原町の象徴でもあったのだ。南相馬-無線塔はあわないのである。ただ無線塔自体全国的に注目すべきものになるものではないだろう。ただ原町があり無線塔があったことは確かである。それが南相馬になるとかつてあったものがなにかあわなくなる。名前を変えると各地でこういうことがおきてくる。
笠懸、大間々両町と勢多・東村の臨時議会が21日それぞれ開かれ、2町1村が合併して「みどり市」となる廃置分合(合併)議案をいずれも、賛成多数で可決した。
みどり市とかの名前もあまりいいとは思えない、緑豊かにというのも平凡すぎはしないか、歴史的意味合いもなにもないのだ。こうして歴史的重みもない名前にするのはまた問題である。ひばりの市がもんだいがあったがこれはそれなりに独自の街として意識されたのである。だからひばりの市の詩が作れた。南相馬となると結局相馬市の歌と同じであり別の歌を作ることはむずかしくなる。ともかく日本の地名は複雑多岐であり世界で一番面白いのではないか、その複雑な地形や歴史を反映しているから多様であり魅力があるのだ。
うちの実家は、山口県の平生町というところにあります。18年間住んで、31年間慣れ親しんだ町名です。役所とかを統合して合理化を図る、という趣旨には納得やけど、名前が変わるのは、どうも納得できません。
寂しいですよね・・・めっちゃくちゃ。
名前が変わっても生活自体は変わらないのですが、やはり地名って愛着があるのでなんとなく割り切れない気持ちです。
北条市も合併なんですかっっ!!
…知りませんでした…
私の実家は東宇和郡から西予市になりました。
町の名前はそのまま残ったけど、やっぱり寂しいですよね。
合併で得たお金で箱物ができたりして、なんだかな〜…と思ってしまいます。
東宇和郡、町の一つ一つがとっても個性的だったから、一つにまとめるのとっても大変だったようですね。どの町がくっつくか結構試行錯誤だったような・・・。
いずれにせよ、慣れ親しんだ名前がなくなるのってかなしいですよね〜(泣)
なおにいの実家も…。なんだかさみしいね〜
中国地方でもごっそり町名が変わってきているよ。こういうときって、地方や田舎の町や村はちょっと損だね〜。
やっはりなれ親しんだ名前というのはちょうど子供の名前と同じだよ、子供から呼ばれていた名前には誰でも愛着がある、それが変えられたら誰でも本能的に拒否する。そういうものが地名にあったのだ。新しくなるならなるでその名前が長くつづくからまた問題だ。その名前を使いつづけるようになるんだから。
「出身は」
「みどり市」
「それはどこの団地かい」
「ええ、群馬県ですけど」
「そんな市あったのかい」
「合併で変わってんですよ」
「ああ、そういうことか」
・・・・・・・・
「どこの出身かい」
「南相馬市です」
「ああ、野馬追いの相馬市か」
「いや、南相馬市です」
「相馬も南相馬も同じだよ、相馬といえば野馬追いだ、南相馬も相馬だよ
相馬が中心で野馬追いがあるんだよ、南相馬は相馬なんだよ」
「・・・・・・・・・・」
いづれにしろこんなふうになることはまちがいない、遠い所では名前で決められてしまう、それが名前の怖さであり名前の持つイメ-ジ力の怖さなのである。名前によってイメ-ジが決められということもあるのだ。だから名前はやはり工夫する必要があるのだ。
結構臨時に作った「市町村合併」の名前の問題について書いたけどやはりこれも旅で地名にこだわるようになったからである。私の場合、地名から短歌とか俳句を作ることが多かったからだ。だからどうしても地名にこだわるようになったのだ。
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地名の安易な変更は問題だ
●さいたま市は埼玉(さきたま)だった
たとえば、埼玉県の浦和市、大宮市、与野市が2001年に合併して「さいたま市」となった。「さいたま」と平仮名を採用したのは、市名から受ける感じを、やさしく、柔らかくする意味があったというが、平仮名は表音文字であるので、その内容を的確に知ることができない。「さいたま」は「さきたま」を音便化したものであるが、平仮名の表記では、その経緯が分からない。さきたまは埼玉であって、その中心であった行田あたりまでは古代には東京湾が深く入り込み、また利根川や元荒川の流路にもあたっていた。万葉集には「埼玉の津に居る船の風をいたみ網は絶ゆとも言な絶えそね」とある。したがって、埼は入江や港に突き出した場所で、岬をさす。玉は魂で、岬を守る神のことである。それが埼玉郡の総社で式内社の行田市にある前玉(さきたま)神社である。
http://www.npo-fuudo.or.jp/sinpo3/sinpo-3-tanigawa.htm(地名と地域作り)
埼玉県(さいたま)は(さきたま)でありさいたまではなかった。ここに前玉(さきたま)神社があることを知らなかった。万葉集は一番古い地名がある。陸奥の真野の草原は草野姫と関係あるのだろうか、桜田山の山つづきの寺内に草野姫神社があるといことはこの前玉神社と共通している。つまり萱原(かやはら)なびいていたとかではなくある場所をさしていた。ともかくその場所は草野姫神社があったところになる。そこに金銅双魚佩が発見された古墳がある。草原が草原(かやはら)としてもそれがどこの場所かといったら草野姫神社があるところになる。
香川県には「東かがわ市」も誕生する予定。合併する香川県引田町、白鳥町、大内町、は県の東端の三町にしかすぎないのに、これでは香川県の東半分のかなり広範囲な市町村が一緒になると混同されかねない。
市町村合併問題の地名は確かに文化歴史の破壊になる。南相馬はかがわ市とは違うし歴史的謂われもあるしそもそも相馬郡があり南相馬になったのだからそんなに違和感はない、ただ原町市がひばりの市とか原町市と投票した人をあわせると南相馬と伯仲したように原町市が中心になるときやはり原町市の人は不満になる。もう一つ新しい街となるのだから新しいものが必要だともなる。しかしここでは相馬にこだわればふさわしい名前は相馬とつけばあとは相馬新南などとしてみてもいい名前は浮かんでこない、相馬となればそれ以上の名前はでてこない、せいぜい南とか方角をつけるくらいしかなくなる。相馬は相馬に限定され相馬市の脇役、付随したものとし名前からは決められてしまうのだ。相馬野馬追いにこだわればどうしてもそうなる。鹿島町はいづれにしろ前は北郷であったようにまた南郷でもいいのかもしれない、しかし原町市は中心都市であり人口が多いのだから困るのだ。
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赤い部分の原町市を強調すると独自の名前が必要になる。
●方角地名は平凡
仙台駅東側のR45と旧仙石線に挟まれたあたりは、
再開発事業完了後、新しい町名に変わってしまうらしい。
詳しいことわかんないから一概には言えないけど、
多分「駅東○丁目」みたい名前にするんだろうな。
「鉄砲町」とか「二十人町」等々、江戸時代以来の由緒ある町名潰して。
仙台市民は誰も文句言わないの?
そうかい、仙台に何度行ってもそんな地名あったと知らなかった。あの辺は青葉城からかなり離れているから足軽などが住んだ地域なのか、新発田駅の近くに足軽長屋があったからな
あさって東京都田無市・保谷市の両市で、
合併の賛否を問う住民投票が行われる。
あわせて新市名を5つの候補の中から選ばせるという。
「西東京」 (事大主義的)
「北多摩」 (今ある多摩市の北?)
「ひばり」 (事情を知らない人が見ると???知っていてもやはりヘン。
幼稚園の名前じゃあるまいし。)
「みどり野」「けやき野」 (イメージ先行。抽象的地名の典型。)
投票結果が楽しみ。
相馬はやはり南相馬で決定か、ひばりの市は団地や幼稚園の名前みたいになるか
そこがな・・・・群馬県の一部でみどり市となるのもな、なぜかなにしているのか、わかりやすいからかかなにすると重みがなくなる、どこかのテ-マパ-クみたいになる、桐生はよかった、桐と関係あるのか、これは古いのが残った
徳山市・下松市・新南陽市・熊毛町・鹿野町の新市名は次の27の候補のうちから
5つに絞られることになった。
1.3市2町のうち、いずれかの市町の名称
徳山市
2.3市2町のいずれかの名称
とくやま市 周防徳山市 新徳山市 周南徳山市
3.地域の地理的なイメ−ジができる名称
東山口市 周南市 新周南市 瀬戸内市 西京市 都濃市 周防市
4.地域の歴史、文化、特性等を表す名称
みなと市 周防毛利市 サルビア市 毛利市 みどり市 維新市 大空市
5.地域住民の理想や願いにちなんだ名称
みらい市 きらら市 キララ市 のぞみ市 平成市 新生市 黄金市 来夢市
周南市というのは周防の周の南であり周南になった。さらに新しくなるから新をつけたのだ。新相馬南とかつけるのとにている。地名は長くなるといいにくくなるから極めて限定されるからなかなかいい名をつけることがむずかしいのだ。ここでは相馬をいれればあとは方角くらいしかつけようがない、相馬にこだわればそうなる。南相馬くらいになるが相馬ひばりの市としたごとく四字にすればなにか新しいイメ-ジがだせるかもしれない、ただ原町市自体は平凡などこにでもある名であった。それでも長い間なじんでいたからなかなか変えることがむずかしくなる。これは人の名前と同じである。結婚して姓が変わるの嫌い元の姓のままにしたいというのとにているのだ。
●地名は歴史を語る
いづれにしろ日本の地名は複雑でありいろいろなものがふくんでいる。地名が歌枕になりやすいのだ。地名からイメ-ジされることが多いのである。
古町の温泉あわれ旅路来てともに入りし秋の夕暮
自転車で旅して土地の人と入った会津の温泉だった。
福島県南会津郡伊南村古町太子堂という住所である。古町という地名は多い、それに対して新町もある。あんな山の奥でも古町があった。どんなところでも新旧はある。歴史には必ず新旧がある。新しいものがあり古いものがあってバランスがとれる。今日も六号線の旧道を原町に行ったが松が一本また一本とある。
旧道にまた松一本に松一本標しとあれな冬深まりぬ
古いものも標し(しるし)としてある。古いものがあり偲びまた新しいものがある。古い地名もだから残すべきなのである。
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詩-さいわい橋にたたずみて・・・・・
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さいわい橋にたたずみて
喜多方のさいわい橋とは良き名かな
それは花が咲いているような名
旅人は蜂のようにさそわれて
遠くから来たりてたたずむ
山国の清らかな流れのひびき
古い土蔵が落ち着いて
祖父や親のように根づいている
街はずれにどっしりとカボチャが実り
花が咲いて広々としている
さいわい橋にたたずみ
そこにほのかな花の香りや
いいしれぬ遠き国の香りや
そっとそこを去ってゆく
旅人はまた来たりてそっと
そこにたたずんでいたい
故郷は遠くにありて思うもの
幸いも遠くにありて思うもの
幸いは山のかなたにありぬ
何事のなけれどそこにたたずみ
我は幸いをえしや知らじ
しばしの間たたずみて去りぬ