時事問題で書いた市町村合併問題をまとめました。
(小林勇一)
このペ-ジは市町村合併の名前の問題をテ-マにしたペ-ジです
川俣の歴史と詩情(川俣は山影の町)(これも地名の考察です)2005-11-5
相馬郡総目次へ
相馬郡関係
市町村合併で変わる名前
市町村合併の名前(南相馬には不満が・・・・・)
新市名は雲雀野市(ひばりの市)
飯館村が合併しないのは何故
馬券売り場でイメ-ジ悪くした飯館村
二宮尊徳は相馬に来ていなかった
市町村合併の名前の混乱
(ひばりの市は反対で投票で相馬郡-原町市の合併の名前を決める)12月21日
新市名が南相馬市に決まったが・・・・・・・12月29日
合併で変わる名前の疑問(相馬藩と宮古と岩泉に関係あり)2005-1-5
北、南など方向地名は多いが・・・(南相馬の名前でいいのか)2005-1-8
南相馬の方角地名は事務的すぎて嫌だ2005-7-1
飯館は合成地名だった!(多い合成地名)
相馬藩(市)と中村藩(市)の相違は何なのか?3月1日
地名の古さ(中世には鹿島町と飯館村は千倉庄内にあった)3月2日
115年つづいた都路村が合併で消失2月12日
北畠氏と熊沢天皇騒動(阿武隈にも古い歴史の因縁)(都路村の続編)2月19日
町名など名前の変遷は歴史そのもの(双葉の新山−長塚駅の由来)2006-9-10
飯館の秋のあわれ(田作り米に執着した日本人(飯館の道へ)−平−アガタ−神の田など −2006−9−20
浪江町の川の名の由来 2006−11−27(プログへ)
なぜ南相馬市になって違和感がつづくのか?(広域地名化は文化の破壊)2007−3−3
地名を変えることは大きな変化だ(こんなに合併で名前を変えていいのか)2005-1-20
大きい名前のイメ-ジ力2005-1-24
地名の安易な変更は問題だ2005-1-27
喜多方のさいわい橋の詩 2005-1-28
漢字とカナの相違も大きい 1月30日
太平洋市で決まる-地名は勝手につけていいのか? 2月2日
広域的な地名の違和感(歴史を無視した名付けかたは問題)2月16日
セントレア騒動の顛末は・・・(相馬中央市、相馬中郷市はどうか・・・)2月20日
琉球の意味とさつま市の波紋2月25日
セントレア(中心)志向の歴史(中村は中心の村だった)2月28日
奥州市は東北全体をさすから問題だ 3月3日
歴史を無視した地名の問題(小牛田が美里でいいのか)3月6日
鉄道ができて文化の破壊、地名の破壊が起きた3月10日
(常磐線湯本の湯長谷は湯長屋か)
さはこの湯の由来は(湯本)・・・(地名への愛着の喪失はなぜ)3月11日
記憶になかった江刺市の発見 3月16日
丸森と角田市が合併して阿武隈市も問題だ
(角丸市は冗談か)3月16日
香川の意味、地名はその土地を豊かにする3月17日
四国地名の旅(やっぱり四国中央市は味気ない)4月6日
観音寺の詩(愛媛県)(観音寺はどうしても観音様をイメ-ジする)2005-4-12
地名は悲惨な歴史を記す(碑に残らなかった遍路の無念)4月19日
貞光町からはば山(端山)へ(地名は最初は音からはじまった)4月20日
姓と地名の伝播(宇和島藩は伊達藩が移る)4月22日
音戸は隠渡(おんど)だった-加古川は鹿子(水手-かこ)5月3日
牡鹿半島の地名5月24日
市町村合併名前-イメ-ジダウン2005-8-9
残念な消えた馬頭町の名前(会津高田町も美里町に)2005-10-18
姉歯の姓の由来は?2005-12-8
企業イメ−ジで(ひばり野市がいい)市町村が決められるのか?(市町村合併後の再考)2007−5−11
会津の方角の不明(広い地域では方角地名が大事だった)2007-6-7
地名は実益からつけられた2007-9-22
常磐線−太子堂駅−新駅名と昔2007−9−26
飯館村が残った理由(地形的境界と歴史的境界)10-12
グロ−バル化広域化は地名も破壊する(常磐線の新しい駅−太子堂の是非)10-22
真土な土のつく地名(地名分類)10−27
明治−大正−昭和−元号の町村名は消える運命に 11-16
木のつく地名(宮城県仙台市宮城野区銀杏町)11−22
相馬市日下石地域の方角地名2008−1−8
橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語(プログへ)3月21日
飯館の大倉の名の由来は鎌倉の大倉郷から?5月3日
麦のつく地名の背景(麦と田は併存していた)5月23日
都路(みやこじ)山都 宮古 みやこ町 都田・・・・みやことつく地名の謎8月1日(相馬郷土史研究プログへ)
相馬市の発展の歴史的順序(方角地名が地名の基本)2008-12-12日
原町の名の起こり(地名も合併しても歴史的継承が必要)2008-12-13
2009
市のつく地名(古市の古さ)2009-1-28
市町村合併で変わる名前(野馬追の日)
そもそも町の名とか村の名は歴史的に変わってきた。意外なものまで合併した名前が多いのだ。長野県の楢川村も奈良井と贄川という村が合併してできたから楢川とした。これはもともとあった村だと思ったが違っていた。奈良は楢になっていた。これは味気ないものであるし問題がある。楢川村はさらに塩尻市と合併するとどうなるのか、楢川村は消えてしまうだろう。合併論議が盛んだが小さな町や村の名は消えるかもしれない、合成地名が多いのは二つの国が統合されるからそうなる。
(地名散策)
景行27年紀に「日高見国」とあり、祝詞(六月晦大祓など)にも「大倭日高見国を安国と定め」
日本自体倭と蝦夷の国、日高見国と合併したからこういう呼び名も古くあったのだ。日本はもともと日高見国だったのだ。地名や町でも村でも名前は一番歴史を語る。だから名前は大事なのだ。名は体を現すである。実際古代になれば名前しか残っていないのが多い。歴代の天皇でもなんともややこしい長たらしい名前しか残っていない、でもその名前こそ歴史を解きあかすものなのだ。人間は死んで名を残すというのは本当である。動物には名前はないし歴史もない、猫はみんな猫であり犬はみんな犬である。ただ馬は優れた馬は名前を後世に伝説として名前を残した。聖書でも残っているのは名前だけの人がいてその名前が何かを意味していて大事なのである。人間の場合名前は歴史であり名前から歴史をたどる。相馬藩の殿様の名前には
初代
相馬利胤(としたね)
二代
相馬義胤(よしたね)
三代
相馬忠胤(ただたね)
四代
相馬貞胤(さだたね)
五代
相馬昌胤(まさたね)
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一三代まで胤というのがついている。胤は歴史の継続を示している。相馬市というのはしかし前は中村市だった。中村神社があり中村市だったのだ。中村神社と相馬神社があり中村神社は地域の神を祭るもので相馬神社は相馬氏一族を祀るものであった。中村の由来は古代にさかのぼり宇多郡の中村郷からきている。ここは古代では行方郡でありそれが宇多郡と行方郡に別れた。その宇多郡が相馬市になった。鹿島町は北郷となっているがなぜ北郷なのか?これは相馬市が中心になっていればそうならない、相馬から南だから南郷となる。北郷となっているのはもともと原町市の大田神社に相馬氏が移りそこを本拠としたから鹿島町はその大田から北だから北郷となった。大田の前は小高に相馬氏の城はあり小高が一番古く野馬懸という野生の馬を追う神事が残っているのもそのためであり野馬土手、馬を逃がさない石垣も残っている。歴史的順序としてはそうなっている。ところが今回の合併で名前を応募したら「南相馬」という名前がでていた。相馬の南だから南相馬市となる。
これも歴史的順序としてはおかしなものである。北郷という名前は残っていて今度南相馬となるのはおかしい。歴史的順序としてそぐわない。位置的にはそうなるが歴史的順序としてそぐわないのだ。やはり命名には歴史を知る必要があるのだ。ただ合成化した地名は歴史を無視しているのが多い。飯館が大館が基であり館があったことは確かだからそれなりに歴史を残しているのか、しかし歴史が全然わからなくなっているのも多いのだ。そこに合成地名の問題がある。「行方市(なめかた)」にしろというのもあるがこれも今ではあまりなじみがない、歴史的にはそうなのだが今ではなじみがないのだ。地元の人にとってもなじみがない、原町市という名自体なじみがあってもこれがどうして名付けられたのか良くわからない、原町という名はどこにでもあるからだ。ともかく名前には歴史を考慮しないとまずい、だから南相馬は歴史を無視するからまずいのだ。合成地名だと「相馬原市」となる、相馬市と原町市を入れたものだが相馬市と合併するのでないから合併地名としては合わないがこれも一つの提案となる。なぜ原をつけたかというと原町の羽山横穴古墳の装飾古墳が川が描かれ狩猟が描かれている。原町は広い狩りをする原だった。鹿も描かれていたからだ。もう一つ不思議なのは渦巻きの紋が二つ結合するように描かれている。あれは新しく入って来たものと元からいた在地の勢力との合体図なのである。合併地名ならぬ氏族の合体図かもしれないのだ。原には陸奥真野草原の原も入っている。草原は萱原ではないと私の説だが原というのにはこの意味もある。ともかく原町は広い原があった。野馬原市などもいいかもしれない、原がついていれば地名の継続があることは確かである。
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この表のように北郷、中の郷、山中郷(飯館)もあった。旗印も決まっていた。
羽山横穴
http://homepage2.nifty.com/qtvr/qtvrscenes/hayama_bc/hayama.html
これはドイツのザクセン州とザクセン=アンハルト州であるが二つの州が合体していることがよくわかる
今年も野馬追いの季節がきたが最近は余り興奮しない、やはり野馬追いは地元の人が全部参加する祭りではない、武家の出の人だけが行列に参加できるから全体が盛り上がらない、文化財として保存の対象であり今に生きているとは言えない、これと似た祭りにイタリアの旗祭りがあった。「世界うるるん紀行」でやっていた。旗をいろいろに操り投げる中世の祭りである。ヨ-ロッパにも城があり騎士がいて様々な紋様の旗があったからにているのだ。それは国と国の結合を示す旗もあった。野馬追の旗も多彩である。そこには武田家の旗や仙台藩の紋の旗やいろいろある。なぜ武田家の旗があるかというとやはり相馬藩にもいろんな藩の出の人が入ってきたからだろう。近くの人がその武田藩の出の人だった。武田藩は戦国時代、信長に敗れて家康にも仕えるようになったり流散したのだ。それも長い歴史を物語っているのだろう。この日だけは馬の日である。馬は忘れられてしまった。朝から馬がいなないたので驚く、町中に馬のいななきを聞くのはこの日だけである。馬が生活のなかで生きていた時代も遠いから馬というものが何なのかさえわからなくなっている。馬は人間と共に長い歴史をともにしたものだがそれがわすれらてしまったのだ。馬が朝からいなないてその馬の時代を思い起こさせた。今日は雲雀が原で神旗争奪戦のハイライトである。
野馬追の朝いななくや暴れ馬
のうぜんや野馬追の旗延々と
野馬追や馬いななきて出番かな
標葉郷
(大熊・双葉・浪江町)
標葉郷出陣式小高郷(小高町)
小高郷出陣式・火祭り・野馬懸中ノ郷 (原町市)
雲雀が原/宵乗・競馬・旗取北郷 (鹿島町)
総大将お出迎え・口上宇多郷
(相馬市・新地町)
出陣式・総大将ご出陣
市町村合併の名前(南相馬には不満が・・・・・)
原町市、小高町、鹿島町、飯館町は合併して「南相馬」になるのか、これが募集して一番多かった。相馬を中心にしてその南だから南相馬になる。喜多方の良かったのは北方(ほっぽう)という味気ない名が喜多方という当て字にしてイメ-ジが良くなったことである。喜び多い市というのは好字である。縁起悪い名はあまりつけたくない、白石の子捨川は縁起が悪いから名前を変えるべきだと論争が起こっているがヤマトタケルの蝦夷征服で土地の娘に生ませた子をその娘が川に捨てたからその名が残っている。これも生々しい歴史を想起させる地名でありこれを縁起が悪いからと簡単に変えることができるのか問題である。歴史の証しのように地名に記されているからだ。征服された蝦夷の怨念がそこに宿っているのかもしれない、そうした名を簡単に変えるのも問題である。それは単なる伝説といえばそれまでだがそれなりに地名が残っていることはその土地の人が言い伝えたことは土地の人の思いがそこに宿っている。土地の人がそうした仕打ちに同情したから残っている。今でもそうしたことを日本はフィリピンとかで問題になった。日本人の子供ができたがそのまま帰ってしまった日本人の男性の問題である。フィリピンの女性でも日本人の子供を捨てた女性がいるかもしれない、歴史は同じことをくりかえしている。人間の業というものなのかギリシャのオリンピックでもすでに不正をして八百長で競技に勝った人がいてそれをたしなめるための記念の像が残っているというから常に人間は同じことをくりかえしてきた。オリンピックでは今回インドネシアが放映権が高くて買いず報道できないというから商業主義とグロ−バリ-ゼ-ションで貧乏な国弱い国はおきざりにされる例がここにもある。
ただ喜多方に「さいわい橋」という名がありなんかその名だけでもここにはさいわいがあるのかと思うのが人間である。だから一時幸福駅の切符を買うことがブ-ムになった。人間はイメ-ジが意外と大事なのだ。さいわいがなくてもさいわいとあるとなんかさいわいがあるようにな思えるから不思議である。名付けることはだからむずかしいのだ。
いろいろな名前の募集があったなかで「南相馬」が一番多かったのはなぜか?これは平凡な名前である。相馬があるからその南だから南相馬となる。でも南相馬となると相馬市に付属した市のようになり新しく合併した市の名にしては平凡すぎはしないか、相馬郡の中で二つに分かれたのだから分かりやすいことは確かである。行方市(なめかた)というのも結構あった。古代の郡であり行方市はちょうど鹿島町、原町市、小高市の領域であり今の相馬市は宇多郡であった。もともとは鹿島町の浮田国造が相馬郡の領域でありそれが行方郡と宇多郡に別れたのだ。だから行方市となると古代の元の状態に戻った名前となるから歴史的には行方市も悪いものではない、しかしこれはなじみがない、他の人にとっても行方市って何だろうとなる。野馬追いは知っていても行方市の由来をたずねるのは古代史マニアくらいになるから問題である。陸奥真野の草原の万葉集に関して名づけ方もあった。真野市とかあったがこれは一票しかない、相馬草原市というのもそうかもしれない、私が前に書いたので相馬原市とか野馬原市とかもあったが一票くらいしかなかった。ただ同じ発想した人がいたことである。真野を入れるとすると真野を馬野として馬野原市というのも一案である。野馬原市はあったが馬野原市はなかった。野馬追いをイメ-ジさせるなら馬を入れる必要がある。他に野馬追いが行われる雲雀が原をイメ-ジしてひばり市とか雲雀が原市とかもあった。なかなか市町村の名付けかたはむずかしい。
というのはこれは勝手に名付けられない、いろいろな問題がでてくるからだ。南相馬が無難だからこれに決まるのか投票で名前も決まってしまうのか、これが民主主義なのか、それにししてもちょっと平凡であり相馬に帰属した市ということで不満が残るだろう。新相馬市とかもあったがこれも新相馬が新しくて相馬市は古い感じになり相馬市から反発があるかもしれない、ともかく南相馬というのは余りにも平凡であり新しい合併した市としては主体性欠けている。何か新しい市作りに励むんだという点でインパクトがない斬新性がない、余りにも無難な平凡な名付けかたなのである。ではそれ以外適当なものがあるのかというとなかなかないから困るのだ。
いづれにしろ20年間で人件費などを376億も節約できるというから合併の効果は大きいのだろう。今も議員が町に20人以上いるのは大変な出費であり必要ない、これが4、5人になるからその点はいい、ただリストラがあるから安定した就職先がなくなることは地方にとっては問題である。ある島では公務員しか就職先がないというところもある。公務員は地方の安定した経済の核を成していたのである。これは公共事業と同じで無駄な出費だから削られる。公務員も安泰な時代は終わりつつある。相馬郡と飯館のような山もあり海もあるからそれなりに変化にはとんでいる。ただ海は鹿島町の海が石だらけの海になり海開きすらできなかった。海で磯もないから磯遊びもできない、海の魅力が欠けている。ただ鹿島町の松原はかなりいい松原なのだ。これは意外と評価されていない、松原がいい所は少ないからだ。ただ全体的に火力発電所などができて景観は悪くなった。むしろ山の方が自然が損なわれず魅力があるかもしれない、阿武隈高原は起伏にとんで広い、でもここも温泉がないなど観光的には魅力が欠ける。いづれにしろ「南相馬」という名は納得いかない人が多いのではないか、その代わりとなるとまたむずかしい。それにしても来年辺りまでに合併が行われるというのは早すぎる。もっとあとのことと思ったからだ。政府で急がせているからだろう。急速に変えられてしまうから現代は困るのだ。民意が熟さないうちにどんどん変えられてしまうのは問題だが財政が圧迫しているから政府で急がせている。それほど財政が一番の問題なのだろう。
すこと間違いないのだ。
新市名は雲雀野市
原町市中心の合併問題で名前は雲雀野市に決まった。雲雀が原で野馬追いの神旗争奪戦が行われるからだ。原町という名前はそもそもあの原っぱから来たのかもしれない、なんらか大きな原があったのだ。地名でも単に原というのが古代からあった。九州では原はバルで韓国系の名前らしい。原町という名前は全国的に多い。雲雀野という名も大きな市とか町ではないが小さい区域の名では多い。ひばりが丘などとなると新興住宅地に多いかもしれない、だから歴史ある場所というより新しい市のように思えるかもしれない、相馬市があるから南相馬というのがダントツで応募したら多かった。だから南相馬になると思っていた。雲雀野市という応募は十数名しかなくこれが市側で採用するとは思っていなかった。そして現実これに不満だという人もでてきた。南相馬の方がいい、相馬があるからその方がいいという声もでてきた、そもそも決めるのが早すぎるという意見も多い、実際本当に予算をもらうために急いでいる。雲雀野市で本当にいいのかどうか良く検討されずに決まってしまったのだ。まず雲雀野市となると相馬はイメ-ジされないから雲雀野市はどこにあるんだとなる。それが一番の問題である。イメ-ジとしては悪くはない、ただ歴史的なものが欠如しているから何かそぐわないとなる。これが全く新しい都市なら問題はなかった。歴史ある都市では歴史を考慮せねばならぬのだ。南相馬でもやはり不満があったろう。どう名付けても不満はでてくる。相馬野というのもどうであろうか、相馬野の馬野は陸奥の真野の萱原の真野なのだ。これもまたしかし受け入れがたいものがあるだろう。地名はそもそも実際は味気ないものが多い。実用的につけられたものが多いからだ。ともかく雲雀野市と決まった以上はそれで始める他ないのかもしれない、雲雀野市となると校歌など作るのには作りやすいかもしれない、でもどうしてもこれになじめない人はかなりいるだろう。意外とこの名前の作用は大きいのである。それもこれから長く使うとなるから問題なのだ。
太平洋の 白波よせて 雲雀野市
相馬流れ山の歌に 粛々と野馬追いの列
夏雲湧きて 馬集い どよめく
伝家の旗や 武者駆け上る 雲雀が原
桜井の古墳 大なり 泉廃寺跡
陸奥の真野の草原 古代を偲ぶ
阿武隈の山脈望む ゆかしき地
ここに育む 友の絆の 強きかも
二宮尊徳 仕法の地 松質実に
たゆまず 学に農事に励むべし
秋風さやか 実りはここに六万石
新たな市(マチ) 雲雀野市に 栄いあれ
南相馬より雲雀野市となるとこのように詩とか校歌とか市歌とかは作りやすくなることは確かである。
飯館村が合併しないのはなぜ
市町村合併でわかったことは小泉首相の構造改革が身近なものになったことである。構造改革は無駄なもの、弱者切り捨てであり勝ち組と負け組をはっきりさせることでありアメリカ型の弱肉強食の世界にすることである。社会の階層化がすでに進んでいる。教育費が減らされるし金のあるものは高度な教育が受けられるが金のないものは教育費が削減された貧弱な公教育しか受けられなくなる。地域でもいいところと悪いところがはっきりする。なぜこんなに市町村合併を急いでいるのか、政府が飴として金を与えるからだ。それを欲しくて急がさせられている。構造改革は地域のリストラでもあった。会社のリストラから地域のリストラになる。確かに地方には公共事業のような無駄が多かった。我が町でもなんで野球場を作ったりするのかあれもほとんど使わない公共事業だし土建屋に仕事を与えるものだった。高速道路も仕事をくれとゼネコンが要求しているのは事実である。過疎化した山村では道作りとかが唯一の現金収入の場だったりする。それが問題にしても構造改革は地方にとって必ずしもいいことではないことはいえる。議員なんかへるのはいいにしても飯館村には小さな支所くらいしかおけず
ましてや新市になれば、将来旧飯舘村から市会議員がいなくなる可能性だってあります。分権分散なんていってみたところで「ない袖はふれない」のです。国の交付税だって国の懐具合で変わるんです。分権分散を条例化するとか何とかいってみたところで、そんなことは何の保証にもなりません。ましてや先の任意協議会で合意していた旧市町村の「予算制定権」が、今度のひばりの市では「予算枠」に変っています。これはただの文字の変更ではないのです。ここに分権分散の骨抜きの姿がみえるでしょう。
小さくともいい、自分たちで意志決定できることが大切なのです。
(飯館村の掲示板より)
合併は単純に考えると大きな市と一緒になった方が財政的にも楽だと素人的には思う。それだけではない、小さな村として独立国として村を保ちたいという要望もある。財政的問題だけではないのがあった。原町市と小高町、鹿島町は鉄道でつながり経済圏も一体である。合併することに抵抗ないし実質仕事でも原町市中心になっているのだ。私も自転車で毎日のように原町市に行っているし自転車でも簡単に行けるのだ。ところが飯館となると自転車で行くと一日がかりになる。凄い急な坂を越えねばならないのだ。これで飯館にはなかなか行けなくて困っている。今の時代山村で暮らすには自動車ないと暮らせない、医者もいないしバスの便は悪いし使い物にならないからだ。
飯館は地理的にそもそも隔絶された場所で高原で寒いから冷害でも苦しんだ。ただその地理的に隔絶されたことがかえってチェチェンのように独立を維持したい、独自の村作りをしたいという要望になっている。これも地理的なものがそうさせるのだろうか。私は地形的に地理的に風土から世界を考えることに興味があるからそういえばこれは世界的に共通な現象なのかと思った。とにかく飯館は広いし緑は豊かである。家々が点々と森に隠されてある。道に誘われるようにたどってゆくと森の中に隠されて思いがけなく家がある。そういう点阿武隈高原は浜通りでも鉄道沿いの街とは違い別世界なのである。だからそこには別な山の高原の緑豊かな村としての魅力があるのだ。つまり飯館は地形的に地理的に別世界だから経済的には苦しくても自立的村作りをしたいというのもわかる。それはチェチェンが山国で独立国でありたいスイスが独立国として維持するというのとにているのか、一つの山国に独立の自治の旗をかかげたいのか、それはそれなりに理解できる。そういう要望も合併問題にはある例であった。そもそも昔から村の境というのは重要な意味がありもめていたのである。綱引きなどの祭りは違った村のものが争い勝った方が豊作になるというのは隣の村の人々が交流する祭りだったのだ。隣の村とは争うこともあったがやがて協力するようになった名残りである。昔は境界が重要な意味をもっていたのだ。
でも飯館牛とか有名だがそれだけで財政的には苦しいし自立できない、でも貧しくても飯館村の人が望むなら合併しなくてもいいのか、また合併協議会に入ったからこれから村長選挙まで持ち越され決められる。やはり財政的には苦しいから合併するのだろうか、ともかくこの合併問題は全国的に結構深刻な問題となっているのだ。名付けかたでもいろいろもめている。小泉首相の構造改革は合併とかを口実にして地方を切り捨てる面もあったのだ。 そこで都会と地方の対立が深まったり、また階層化で富めるものと貧乏層との対立が深まりそこに外国からの移民が入ってきて治安も悪くなり和を重んじる国が乱れの国になってしまう恐怖がある。現実一部ではそうなっている。ナイジェリア人が強盗で東京で逮捕されたのは驚いた。アルジェリアに石油をとれて日本人が行っているのは知っていたがナイジェリアと関連しているのかと思ったらかなり離れていた。アフリカの地図で見たら小さい所だは錯覚した。実際はアフリカ大陸自体大きいからこの国も大きな国だった。人口も世界9位とか大きな国だったのだ。ともかく日本の和が乱れることは経済的にも文化的にもいいことではないのだ。
馬券売り場でイメ-ジ悪くした飯館村
飯館村は高原の村である。かなり標高があるから自転車ではきつい。ここは標高高く寒いから昔から冷害が多かった。つい最近も冷害で米がとれなかった。日本はどんなところでも米を作りそこで住みつくようになった。飯館は山でも広いから田になるところがあった。今はとり入れの時で稲架(はざ)がたてられていた。いい松がありそれも三叉の松でそこからの景色が良かったのでデジカメでとった。そこははじめて行ったところだったみたいだ。広いから隈なく行っていなかったのだ。そこに一つの石の玉を置いて「ひもろぎ」の里とあった。これはなんのことかわからなかった。
神籬-ひもろぎ-とは神が降臨する神座(かみくら)の事です
の意味でありなぜこんなむずかしい名を村おこしにしたのか、ここの産物は飯館牛とあとは石くらいになるからだろう。石を売り出していることは確かである。石の彫刻や石に俳句を彫る事業などもしている。石はそもそも古い信仰であり縄文時代からあったみたいだ。ただ単に石だけを祀っているところがある。下北で町中で見たのがそうだった。町中にあったということだがこれは村の中に古くからあったものだろう。下北らしいといえば下北らしい辺境の趣きがまだ残っていたとなる。この石については司馬遼太郎氏が「北のまほろば」で書いている。
田名部では一のつく日に市がたつ、町の真ん中に、三丈ほどの大きな生木が押し立てられる、「市神」だという、市神は全国にあるが奥州に多い、普通は丸い自然石をすえる。依代である。そこに神が天から天降って市に繁盛をもたらす、これににたものにモンゴルにある。オボといい石を積んだり枯れ木を束にして立てたり粗末ながらも神聖な場所で,時を定めて草原のあちこちから人馬が集まり市がたち祭りが催される。
そこがもともと原っぱのようなものだったが石が置かれて祀られ市がたち町に発展した。オボというのは単なる草原という何もない世界に石を積み上げた目印であった。非常に単純な発想から生まれたのだ。これと共通性があるとすると陸奥にそれもその果てにそんな文化が伝えられ残ったとなる。
これはイメ-ジとして村おこしとして飯館村に合っているのだが馬券売り場と大きく看板がでていたのはこの村にそぐわない、イメ-ジがあれでそこなわれる。山里に来て山らしい雰囲気を味わいたいのにでかでかと「馬券売り場」の宣伝があるとなんか情緒がそがれる。鹿島町でもそうだった。競輪の車券売り場、サテライトができたのだ。これは国道沿いにできた。これもイメ-ジを悪くした。反対運動があったが結局経済優先でだめだった。飯館もだめだった。それ以上に結局こういう所に娯楽を求めている町の人や村の人がいるからギャンブルをしたい人がいるからこういうものができるのではないか、そうした要望があるからそれに答えて作られる。現実毎日パチンコ通いの人もいるしギャンブルはなくならない、そういう人達が要求するからギャンブル場ができる。いくら反対してもそういう人達が多いから反対してもいつもだめになるのだ。とにかくいイメ-ジが悪くなると損である。滋賀県の雄琴について書いたがもともとあそこはその名のごとく非常に由緒あるいかにも京に近い由緒ある伝説から生まれた名だったのだ。今では雄琴とというと男の遊び場として知れ渡った最もイメ-ジが汚された場所となってしまった。飯館村もすべてではないにしろ馬券売り場の飯館村かとまではならないにしてもそれだけでイメ-ジがそこなわれるのである。
それにしても飯館村の小宮に村立の小学校があった。その門といい入り口に古い碑が並んでいてこの奥に小学校があるのか、いかにも飯館村らしい小学校だと思った。この碑も明治時代のものであり飯館にも結構開拓に入ってきた人達がいた。必ずしも古くからいた人達ではない、飯館自体は縄文時代からの遺跡があり古いことは確かである。塩の道も通じていたしその石碑は古かった。飯館は今原町市中心のひばりの市と合併するかどうかでもめている。飯館は原町市とは地理的にも離れているし高原の里ととして独自の世界がある。どちらかというと川俣の方が近いし阿武隈高原で一体感がある。いづれにしろこの合併問題はいろいろとむずかしい。前も飯樋との合併でかなりもめたらしい、理由はわからないがまたそのくりかえしである。昔は境というのが大事でありそれで堺田とか境松とか境に関していろいろ残されている。綱引きという行事はまさに村と村の綱引き、勢力争いであり勝った方が豊作になるというのは本当に利害が対立して争いとなりそれが祭り化したのだろう。でも今はどうしても広域な町作りが必要になっている。自動車で遠くに行けるから役所が遠くでも困らないし買い物も困らないのだ。だからあまり日常生活に支障をきたすようなことはないのだ。ただ経済問題がネックとなるだけである。税金が高くなるとか村から発注された公共事業がなくなるとか業者の問題とかがある。ひもろぎの里は新しく作られたものであれそれなりにイメ-ジを作るのでいいが馬券売り場はイメ-ジを悪くしたことは確かである。
飯館の秋(写真はここで)(俳句短歌紀行)
二宮尊徳は相馬に来ていなかった
史実では相馬に来たこともない江戸時代の農政家、二宮尊徳(1787〜1856年)の「生家跡」が、大手地図会社発行の同県原町市の市街地図などに誤記されていることが分かった。尊徳は神奈川県小田原市が生誕地だが、原町市にゆかりの石碑などがあることから、誤解されてきたらしい。地図会社は「次回の発行時に訂正する」と恐縮し、同市のJR原ノ町駅前の周辺案内図は6日、「二宮尊徳ゆかりの地」に訂正された。(毎日新聞)
相馬中村藩士、富田高慶の縁で、明治以降尊徳の妻子が現在の原町市石神に移り住んだのですね。ここで暮らした尊徳の息子尊行、孫尊親も尊徳の思想を受け継ぎ、とくに二宮尊親は北海道に渡って開拓事業をおこなった「偉人」なので、ここに「二宮先生宅址」という石碑があるのは、当然すぎるほど当然なのです。
郷土への愛着は、その歴史への愛着でもあります。それは自然で健全な感覚です。しかし困ったことに、地元以外では誰も知らない誰の誰兵衛が活躍したなどという史実では、ひとは満足しないのです。どうしても、他地方の人も含めて誰もが知っている有名な歴史上の人物が、ここに足跡を残したという類の話の方が好まれるのです。あるいは「日本最古の○○」などというのも、日本中の人に通ずる話だからこそ好まれるのです。ここに人が「悪気はなくても」歴史を偽造してしまう動機が存在します。
http://koshipa.net/archives/000143.html
二宮尊徳のことは相馬では良くでてくる。だから二宮尊徳が相馬生まれだとと錯覚している人がいるかもしれない、それが地図にまで記されることになったのか、そもそも歴史に捏造はつきものである。石器を勝手に土に埋めてそこが日本最古の石器時代の場所だとなり町起こしになった。テレビで一つの石器の片割れが仙台の方で発見されてもう一つが山形の方で発見された、それがぴったりとあった。石器人は山形と仙台を行き来ししていた証拠です。それをテレビで映してなるほどそんなことがあるのかと思って感心していた。何万年かしらないがそんなことありえようがない話だった。まんまんとだまされたというか人間の盲点をついたのである。二宮尊徳といっても今やどういう事実があったのか簡単にはわからない、地元の人でもわからないのだ。特にその人が書き残したものが少ないと事跡だけだとわかりにくい、それが本当にあったことなのかどうかを証明すること自体むずかしくなる。事実であっても誇張されて語られたりして何が真実だかわからなくなる。誇張さされて語り継がれたのが神話や伝説なのだ。人に話するとき大げさに語れば受けやすい、武勇伝なんかそうである。神話や伝説も事実を基にしていることは確かだがその事実がどういうものだったかは各自の判断にゆだねられる。事実が何であったかそれぞれよみとる他ないのだ。
平家落人の里というのも無数にある。これも辺鄙な山里で何か俺たちの村はそうした高貴な流れの血を受け継いだ人が先祖なのだという願望がそうさせた。ありもしないことが強い願望となりそれが現実のように語り継がれるということも歴史である。庶民の願望がそういう話を生む、シンデラ伝説とか一寸法師とかラオスのモン族とかでも孤児が王様の牛を世話してその牛や馬が王様におじきをしたので王様に認められ王様の娘の婿にされたとか、これも何か王様に仕える悲しさがある。牛や馬まで王様におじぎすることはないからである。そこまで王様に従順に仕えることを教えるためのものでもあったのだろう。結局それらは貧しい生活のなかでその物語がそれを語ることによりカルタシスとなる。ありえないことなのだがその願望の夢を語ることによりカルタシスになるのだ。そこにまた物語の意味があるのだ。物語が歴史(hi-story)ということは物語にはいろいろな効用があったのだ。一寸法師は辺鄙な山里から都に出て成功したいという願望の物語でありそういう願望が山里には大きいからそういう物語が好まれるのである。その話は次の代に伝えられまた創作され変わってゆく、いろいろ尾ひれがついて元の話とは全く別なようなものにもなってしまう。願望が歴史になるのは日本の太平洋戦争でもその凄惨な事実より美化したい、それに参加した人は願望として戦争を美化したくなる。事実より願望の方が肯定される、神話や伝説が作られる。ナチスで七〇〇万も死んだのは嘘であり実際は何十万単位だと今言う人がいる。第一700万の人間をどうして殺すのかガス室でもその死体の処理だけでも不可能だというのもそうかなと思う。数字もかなり誇張されるのだ。南京虐殺の事件もそうである。
宗教でも捏造が頻繁に行われている。信心で病気が治ったとか宣伝するけどあれも捏造が多い、人間が詐欺にかかりやすいのは病気の人は病気が直したいとか貧乏の人は金持ちになりたいとか美人と結婚したいとかそうした願望が強いから捏造がありだまされるのである。そもそも石器を捏造した人そのものがここに石器が発見されたらな・・という強い願望が自ら捏造を作り出した原因なのだ。戦争というのも戦争の悲惨さを言わず戦争で達成されるもの、願望があるから戦争も肯定される。人々の強い願望が戦争になったという側面も見逃せないのである。戦争によって運が開ける、事態が解決するという願望が戦争になる。ドイツでも不景気となり人々は不景気や失業から脱出したいためにナチスの呼びかけに応じた。魚心あれば水心である。人々の念というのは怖いものである。中国でも日本憎しという反日の念を作りだすことができる。韓国でもそうである。そうした過度の怨念を作り出されることは危険である。組織や団体は宗教でも怨念の念で一致する。他者を攻撃するのは怨念で一致するからである。国でもそうである。
いづれにしろ史実では相馬に来たこともない江戸時代の農政家、二宮尊徳なのだがええ、これだけ語られている二宮尊徳が相馬に実地に来ていなかったということを知っている人は地元でも少ない、そういう自分もそうだった。二宮仕法の農家が残っているから実地に来て指導していたと思っていたのだ。その弟子の高田高慶という人が二宮尊徳の所に弟子入りして学びその教えを広めたのである。こういう基本的な事実さえ知らない人が多い、地元でもそうだとしたら他から来た人はさらにわからない、基本的な事実、史実をおさえることがやはり歴史研究の一歩である。
墓になぜ興味があるかというと一行でもそれが事実であり一人の人間の事実の記録だからそこに重みがある。事実だということが歴史では驚きとなる。そんな事実があったのかということが驚きになるのだ。だから歴史の小説とかドラマは誇張されたり脚色されすぎて歴史研究には向いていないのだ。そこでは事実でないものを本当だと思っている人が多い、それは歴史の誤った観念を植えつけることになり危険なのである。これも捏造されたものが本当だと信じてしまう人を多数作り出していることなのだ。拉致被害者でも実際は死んだとしてしもその証拠がない限り生きていることを信じたいからおそらくいつまでもどこかで生きているということになる。それが伝説にもなる。そこには確かに事実より人々の願望が働いている。その願望も当時の人々の生活の反映なのだから歴史ではあるがやはり事実を基にして歴史がある。聖書はまさに事実を基にしたものであり他の歴史書とは違っている。神話とも違う、事実の記録でありそこに重みがあるのだ。一人一人の人物は確かに存在したのだ。アダムすら実在の人物なのである。だから一番古い人類の歴史書だとなる。日本の古代からの歴代の天皇が存在したのかどうかでもめているのもまさにそんな遠い過去になると実在しているかどうかが問題になるのだ。実在をしないものを実在するように信じていることも普通にあることなのだ。
市町村合併の名前の混乱
(ひばりの市は反対で投票で相馬郡-原町市の合併の名前を決める)
例えば東京の大田区は「大森」と「蒲田」の合成ですし、4月に長野県に誕生した「東御市」は「東部町」と「北御牧村」から一文字ずつとっています。国分寺と立川のあいだにできた「国立」なんてのもあった。
そうか、国立も合成地名だったか、飯館も大館と飯曽村が合併した合成地名だったから驚きだよ、合成地名はかなり多い。相馬も小高-原町市-鹿島町が合併するのに名前でもめたよ、
例えば東京の大田区は「大森」と「蒲田」の合成ですし、4月に長野県に誕生した「東御市」は「東部町」と「北御牧村」から一文字ずつとっています。国分寺と立川のあいだにできた「国立」なんてのもあった。
大田区もそうだったのか、てっきり大田は元からあった地名だと思ったよ、大田という地名は多いからな
2004年10月に鳥取県に誕生した「湯梨浜(ゆりはま)町」は、三つの町村が合併して出来ました。それぞれの町のセールスポイントである、「温泉=湯」「二十世紀梨=梨」「日本海の砂浜=浜」を組み合わせて「湯梨浜」になったのだそう。
これもややこしい合成地名だな、観光宣伝のためにはいいみたいだけどちょっと作りすぎな感じもするよ
合成地名じゃないけど、過去に福島県で、5市4町5村という大きな規模で合併して「いわき市」が誕生したとき、その名前は「以和貴」であり「和をもってとうとしとなす」だ、と言ったそうです。
ひばりの市は雲雀が原で神旗争奪戦がおこなわれるのでひばりの市に決めたけど相馬を残すべきだと取り消しになって投票で決める、鹿島の人は相馬からの行列を鹿島で迎えるので相馬を残したいとか野馬追いに参加する人が主張した。
存続派は「地域の歴史を大事にしたい」「名前に愛着がある」、廃止派は「ムラ意識を排して新市の一体感をつくる」「住所表記が長くなり、面倒だ」などと主張した。廃止した場合、現在「字勝連」がない勝連町は「地名が消える」こともあり、蔵當真徳町長は合併協の席上、「『勝連』だけは残してほしい」と訴えた。
地域の歴史を大事にしたいとなるとここは相馬をどうしても入れないとだめになる、相馬は知られているけど「ひばりの市」では知られないから致命的だったんだよ、新興住宅地か団地の名と勘違いする人もでてくる、知名度がないとだめなんだよな、白神市は能代市が反対して御破算に・・・能代は古い地名だから愛着あるのわかるよ・・・知床市にすると爆弾しかけるともめていた・・・・名前はやっかいだよ、地名をあんまり変えるのはよくないよ、前の歴史的地名がわからなくなるから
歴史のある町村を廃して新しい名前の市をつくってどうするのだろうと心を痛めている。古川市,鳴子町,岩出山町,涌谷町,松山町,南郷町,小牛田町,三本木町,鹿島台町・・いずれもそれぞれの歴史を持っているではないか。これを補助金のためとかなんたらで葬り去る権利は誰にもない。
これも古い地名だから変えるといろいろ困るよ、小牛田神という石碑が相馬に少ないけどある、福島には多い、小牛田には山神様の信仰でお参りに農民が行ったらしいよ・・・それが変わるとなんか歴史が失われるだろう・・・古川、鳴子、岩出山などもなじんだ名前だからな
大きくて有名な町があり、そこに吸収されるのであれば、名前に関しては問題ありません。でも、二つ以上の町が対等に結ばれるとき、新しい名前が必要になります
そうだな、相馬市に吸収されれば問題はなかったな
美幌の名前を捨ててまで合併したいとは思わない
美幌はなんかいい感じの名前だしな、それもわかるよ 美瑛もそうだよ
10月に山口県を旅したとき、徳山駅で降りたら見慣れない地名が・・・。市町村合併によって「周南市」となっていた。
合併の是非は知らず、こんな味も素っ気もない名前をよく付けたものだ。周南(周防の南部)というのは、一地方の名前で、福井県で言えば嶺北・嶺南のようなもの。
こういうのは公募によって選ぶ場合が多いが、応募数の多いものを安易に採用するとこうなる。
この種のことは、多数決が一番、というものでもなさそうです。
新興住宅地で、緑ヶ丘とか希望が丘とか、そういうのもどうかと思います。
松の木が三本あったから「三本松」というような、シンプルだけど親しみやすい名前が滅亡していくのが悲しいです。
南相馬もそうだよ、投票で決める前に決まっているよ、この名前は一番多くアンケ-トで出たんだから・・・他にもいろいろあった、私が想像したのも全部出ていたよ、
北名古屋市とは、またベタな名前ですね。
よほど知的創造力のない人が考えたに違いない。
安易にただ方角をつけただけの名前はやめてほしい。
そう思うな、南相馬は味気ないよ、
では何がいいんだ、なんとハガキに書いたんだ
相馬原だよ 相馬と原町の合成地名だな、これも味気ないけど、原は雲雀が原でもあるよ これもアンケ-トで何票かあったけどここは南相馬で決まりだよ、相馬の南ということでなんか相馬が中心で附属した感じにはなるな、相馬藩の城は相馬にあったからしかたないのか、地名はやはり歴史によって決められるのが多いな、南相馬は相馬市が親分で子分みたいになるな、人口的には多くなるんだから納得いかない人も多くなるだろう
うらやましいのは、いい名前は筑紫野市だよ、ここのホ-ムペ-ジは絵巻物風にして芸術的だよ、一見の価値あり、ここは万葉から古代の地名から生きている、いい名前だよ・・・・紫という漢字を当て字にしたのもよかったな・・・・詩的だよ・・
地名は美的センスだけではつけられない、やはり歴史が大事なのかな・・・
全国でこれだけ地名が変わるのも問題だよ、私はよく旅したけどその旅した駅の名が町の名が変わっていてショックだった、なくなってショックだった、一瞬その町が消えてしまったかと思ったよ、つまりそれだけ歳月がすぎて変わってしまったことに愕然としたんだよ、地名はあまり変わると困るものなんだよ
消えた駅名-楢原
私が書いた名は相馬原だったけどこれもしかたなく書いた、実際投票だとみ南相馬に決まっている。こういう名づけかたが無難なのか、武南が武蔵の南だということなど他の人はわからない、最悪の名前よりはいいか、相馬はわかるから
新市名が南相馬に投票で決まったが・・・・・・
ここは南相馬市に決まったけどハガキで投票したは40パ-セントにみたなかった。次に多いのが原町市でありひばりの市だった。つまり原町市とかひばりの市と投票した人々は元の原町市に愛着があり独自性を保ちたいからであろう。南相馬となるとどうしても相馬が中心であり相馬の附属都市として脇役の都市としてあるようになる。でも実際は原町市の方が人口は多いし相馬市が中心というわけではない、歴史的には相馬に城があったから中心になる。南相馬市になるとますます相馬が中心的都市に外部からも思われる。喜多方に行ったとき相馬で神旗争奪戦をやればいい、相馬野馬追いなんだからと言うのも一理あるし現実これからはそう思われる。雲雀が原で神旗争奪戦が行われることを来た人は知っているが来ない人は知らない、原町に来ても雲雀が原という名前は知られていないのである。そこが致命的だったのだ。
どこでも有名になった名前を優先的に考える。合掌作りで有名な白川郷は高山市と合併しない、観光収入が多くなったから自立できるのである。平泉は一関との合併でもめている。平泉は知られているから平泉がいいとなるが一関は反対である。一関が大きな都市なのに平泉町が中心になるのに反対となる。平泉の方がわかりやすいし観光は一関ではなく平泉に行くからでも一関より外から見ると平泉がいいとなる。十和田湖に行ったが南十和田湖という駅が花輪線にあった。そこが十和田湖に行くのに便利かと思いそこにおりたらそこには泊まる宿もなかったのだ。鹿角にはあったらしい、実際は大湯という所が温泉町でそこが中心地だったのだ。でも十和田湖が有名だから十和田という名前でそうなっているのだ。観光では名前が有名なことが大事になりその名前中心になることがこれでよくわかる。鹿角とか大湯を知っている人は少ないのである。今は観光が重要になるからどうしても外からの名付けかたがブランド名にしたいのだ。でもそもそも地名は外から観光のために名付けられたことはない、その土地の歴史的必然から名付けられた。相馬市は中村町だった。中村が中心にありそうなった。小さな村や字が町の名となる場合がある。
1954 (昭和29年) 中村町・大野村・飯豊村・山上村・玉野村・八幡村・日立木 村・磯辺村がひとつになって相馬市ができる
1961 (昭和36年) 常磐線中村駅を相馬駅という名前にかえる 相馬港の工事 が始まる
なぜ中村というのが記憶に残っていたかというと駅の名前が中村となっていたから子供のころでも記憶に残っていたのだ。この場合の合併は相馬となったのはなんら名前でも問題なかった。鹿島町は鹿島村が中心になり合併して鹿島町になった。時代をさかのぼればのぼるほど小さな地域が村が行政の区域となっていた。その村には庄屋とか肝入りとかがいて藩との橋渡し行政官のようになっていた。寺も戸籍簿係のようになっていた。五人組とかもあり江戸時代の村は緊密な農村共同体を形成していた。だから部落ごとに春の祭りの獅子舞とか踊りが違っていた。部落ごとにそうした独自の踊りや文化を作ってきて部落同士が競い合っていた。地域があったとしてもさらに小地域がありそこには他の部落とはない別なものを作ろうとしていた。だから合併するとまずそうした地域の部落の文化がなくなり一様化されることがありうる。中村町でも大野村でも山上村でも日立木でもそれは一つの強固なまとまりある存在だった。だから最初にその部落に愛着があったのだ。部落ごとに若者宿とか子供や若者のも祭りに参加していた。それは部落ごとにあったのである。
合併とは文明が発達すると必然的に起こってくることである。それを示しているのが経済のグロ-バル化である。江戸時代の経済は自給自足に毛のはえたような経済であり現代のような世界を相手にする経済ではない、小さな地域での自給自足の経済が基本である。米や畑でとれるものが経済の基盤である。自治体の合併は政府主導で経済的効率化を目指して進められたものである。経済的効率追求だけでは合併はむずかしい面があった。その一つが名前の変更であったのだ。名前にはそれなりに歴史と重みがあったのである。一つの視点として合併をすすめる要因はグロ-バル化の要因が交通の発達にあった。自動車社会化すると活動範囲が広範囲になる。遠くが近くなる。遠くが不便でなくなる。足が電車やバスだと合併にも影響する。役所が遠くなって不便になるとか主な施設が中心市に集中するとか問題になる。今でも車のないものは不便を強いられている。原町市の病院に行くとタクシ-で2500円もとられるとかなる。病人はどうしてもタクシ-を利用せざるをえなくなるときがあるからだ。こうして交通の便が意外といろいろな問題に影響しているのだ。自動車社会でなかったら合併はむずかしかった。電車で行くにしても結構不便だし金もかかるしバスは役に立たないとなると困るから反対する人が多かったはずである。飯館村が合併から離脱した理由が今一つわからないが交通が不便だというのもあったかもしれない、小高-原町-鹿島はほとんど地理的には一体化しているからだ。合併は名前だけでなくいろいろ経済への影響が大きいことは確かなようだ。
ただ、その頃の日本は例外なく少子・高齢化が進行し、
また、都市部といえどもゆるやかな人口減少が始まっているでしょう。
現在は隆盛を誇っている大型商業施設が、そのときも健在かどうかの保証はありません。
生活圏拡大の最大要因だったクルマ社会でさえ、衰退していくかも知れないのです
クルマ社会が衰退するなど今思いもよらない、でも実際これはわからない、その一つとして路面電車が都会で復活しているのもクルマではかえって渋滞して都会では能率的でないことに気づいたからである。これほどのクルマ社会になっているのがこのままつづくかどうかわからないという指摘はなかなか今の時点ではできないね
ここに書かれているようなメリーランド州の人口3000人の町に住んでいます。
日本であればとっくに合併していると思うのですが、3000人というおかげで
みんな自分の町だという意識が高いです。こういう意識っていうのはすごく大切だと思います
数字には出てこない部分なのですが。町には郵便局もありません。
隣の町と共同です。合併しなくても合理化できるところは合理化しているようです。
町がこのくらいの大きさだと、町の警察も殆どのことを把握していておかげで犯罪もありません。
日本でどんどん合併が進んで慣れ親しんだ名前が地図からも人の意識からも
消えていくのは残念です。久しぶりに日本地図を見たらなんか別の国みたいに見えました。
西東京?南アルプス?さいたま?四国中央?
いったいどうなってしまうのでしょう。
しばらく日本地図は見たくない気分です。
反対派の発言ってベクトルが未来に向かってないんだよね。
現状維持を好むっていうか、むしろ「昭和の大合併の時には・・・」
ということを持ち出して過去の視点で論じている。彼らの発言を
見ていると、既出だが市町村分割ブームを期待しているように感じる。
30年先、50年先を見据えた産業・経済・文化・教育・・・の新創造を、
合併による旧体制打破で生まれ変わるのを機会に進められることは
これからの日本にとっては重要である。
南相馬だとそうなるな、ひばりの市だと市歌を作ってみたように何か新しいものを目指す雰囲気がでるんだよな、南相馬だと相馬の歴史は残るが何か古いままで新しい街を作るという意気込みはでてこないね
アメリカ人のようなフロンティア精神に乏しく、むしろ「寄らば大樹の蔭」の事大意識のほうが強い。役所・役場がなくなったというだけで、イメージダウンは避けられない。 もっと悲惨なのは旧市町村の周辺地区である。こういう地区には、住民生活にプラスになるような施設は一切できない。逆に、いわゆる迷惑施設の第一の候補地にされる
地方では役所や役場というと何も目立つものがないと中心になってしまうな、都会と違って役場とかのしめる位置が大きいんだよ
l(市町村合併が政治を堕落させた) http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkack406/gappei.htm
まあ、なんか南相馬は無難でもやはりなじめない、歴史を重んじればそうなるのだが全く新しい合併した街の名としては平凡すぎるんだよ、相馬だけが目立つようになる、かといってひばりの市でもだめだったしな、いづれにしろ新しい合併の独自性は名前から得られない、名前がすべてではないが名前の影響も大きいな、ひばりの市に栄いあれが南相馬に栄いあれとなるがこれは結局相馬市に栄いあれとなってしまうんだよ、相馬市が得するということなんだよ・・・・
合併で変わる名前の疑問(相馬藩と宮古と岩泉に関係あり)
沖縄県の宮古5市町村が新市名称を「宮古市」と決め、「元祖」の岩手県宮古市で波紋が広がっているそう。「何の説明もなく、困惑しており、極めて遺憾だ」とか。
同じ名前というのもまぎらわしくなる。そもそもミヤコとつく地名は大和(ヤマト)などと同じで多くなる。そもそもひばりの市がだめだったのは団地や新興住宅地に雲雀が丘などが多いからまぎらわしいからだめだったのだ。宮古というのは字が同じになるとまぎらわしい。宮古は関係ないと思っていたが原釜港と請戸港で南部藩の岩泉の商家と鉄の取引があった。南部鉄瓶があるように鉄は岩手県でとれた。帰りの荷物は米と瀬戸物でそこには大堀焼き(相馬焼き)などがあった。この鉄は宮古から船で運ばれた。相馬と宮古の鉄による交流があったのだ。他に下北半島の田名部には仙台船が行き来して仙台屋という屋号の商家を残した。そのなかで相馬焼きなどが流通したのかいまいちはっきりしない、「歴史としての相馬」岩本由輝著に書いてあったのだが仙台船とか下北半島との交流はわからない、ともかく相馬にもそれなりの海を通じての交通があった。岩泉は宮古からさらに奥であり山の中である。ただあそこから鉄がとれていたので交流があったのだ。
この鉄は主に山中郷、飯館や二本松や三春に運ばれた。そこで薪が豊富であり鍛冶屋もかなりいた。山木屋とか塩の道になっているところが塩だけではない鉄も運ばれた基幹の道路だったのである。(塩の道の歴史))江戸時代に船がきていたのか、石巻から出た船などここによったのか、この辺はわからない、原釜港と言っていたし相馬市とか相馬港はあとからできたのだ。相馬藩があってなぜ相馬市にならなかったのかそれぞれが村としてあったからだろう。合併して相馬氏となった。その前は中村町だった。原釜と松川浦が先にあった。原釜はいかにも釜とあるから釜で塩を塩釜のように作っていて二本松とかにも塩の道を通じて運んだ。相馬はそもそも行方郡の方をさして言っていた。古代に行方郡と宇多郡があり二つに分かれていて相馬氏は原町市の大田神社に入ってきた、その前に小高に城がありそこを基点として大田に来たのだから相馬の地域はもともと行方郡の地域にあり今の相馬は宇田中村であり城ができても中村城と呼ばれていたのだ。
だから岩本氏によると相馬と言われた地域はもともと原町市をふくむ相馬郡だったのである。今の相馬氏が移って作った馬陵城(中村城)は伊達市の領域だった。伊達市が一時的に支配していてそこに相馬氏が進出したのだ。そこで「花は相馬に、実は伊達に」という境界争いがあったのだ。伊達氏がもともと中村の地域に入っていたからである。旗巻峠(ここに写真あり)などと丸森にあるのも伊達氏が相馬と争い旗をまいて逃げたとか相馬氏と伊達氏は今の相馬の地域で覇権争いをしていた。
◎丸森城跡(宮城県丸森町)
丸森城は、伊達稙宗が築城し、子晴宗と争った天文の乱後の天文17年(1548)にここに隠居した。その後、この城は元亀元年(1570)に相馬氏に奪われたが、天正12年(1584)に稙宗の孫輝宗が相馬氏配下の大河内外記より奪還しました。
◎金山城跡(宮城県丸森町)
標高117メートルの独立山地を利用して造られた山城で永禄年間に相馬の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城されたといわれています。1576(天正4)年以降は伊達家と相馬家との間で激しい戦いが繰り返され1583(天正12)年になってようやく伊達家の領有が確定し、その家臣中島宗求が城主となった。
ここは伊達氏と相馬氏が交互に城主となっていたのだ。これを考えると旗巻き峠が歴史的に裏付けられる。地名は何か謂われがありつけられているのだ。だからその地名を変えると歴史がわからなくなるからまずいのだ。地名は歴史を残している、それも千年前とか化石のように古いのが多いのだ。地名は長く残る。その地名をやたら変えるのはよくないのだ。歴史的に相馬郡とされた地域こそ相馬の基となった地域だったのだ。ただ城ができれば今度はそこが中心になる。
今の相馬郡はもともと最初は相馬氏が治めた地域であり次に前の中村町に進出して伊達氏を追い払い城を建てたのである。新相馬市という名付けた人がいたがこれもおかしいのだ。実は古相馬だったのである。新相馬は今の中村町のあったところであった。古町というものも全国に多い、新しい町ができると前の町は古町になるのだ。これは山の中でも多い、それだけ町というのは変遷しやすいのである。今街の通りがみなさびれてしまったことは古町になったのである。ともかく名前はまず歴史を考慮しないとまずいことがこれでもわかる。私の場合、全国を旅行してこの地名にやたらこだわるようになった。「岩泉」とか「宮古」という名はあの土地にぴったりなのだ。というのは岩泉はまさにそうじゃないか、岩と泉の地(龍泉洞)がある名にぴったりだし宮古という名もあの辺では都と言えば宮古でありそれは海に通じて相馬まで鉄が運ばれていた外に通じる出口だったのである。三陸海岸は岩の断崖に閉ざされている。だから海への出口が外界への道となっていたのだ。いづれにしろ相馬港にしてももともと原釜だった。釜となると塩作りしていたという歴史を思い浮かべる。何かしら歴史的謂われを感じる。
この地図でわかるように磐城国は古代からありその後磐城を結城が支配した。宇田の方までも勢力をのばした。そこに相馬氏が入ってきた。結城氏と相馬氏が争い伊達氏が仲介に入ったりして伊達氏が勢力をのばして北郷(元鹿島町)の田中城を伊達氏がせめた。田中城の墓は今でも残っている。相馬氏の興亡はかなり大藩に囲まれて厳しいものだった。その中で生き残ったのはやはり相馬野馬追いなどが残るよう武の力があった。野馬追いなどの軍事訓練があった。北郷という地域の歴史的特性は伊達氏と相馬氏のせめぎ合いの狭間にありまた相馬氏が城を築いたら実際は北郷から南郷になっていた。相馬氏を中心に考えると南郷であり南相馬となる。しかし歴史的経過としてはそうでもやはり原町市は原町市で独自に発展してきたのである。原町市が中心になるのだからその独自性を打ち出せないことはやはり新しい歴史を作るものとしては不満だから相馬市の次に原町市でありその次にひばりの市が入り伯仲したことはわかるのである。
相馬港の歴史
江戸(嘉永・安政) 北湊又は原釜港と称され、塩、藩租米の積出港として交易が盛んにおこなわれていた
昭和35年 地方港湾となり、「相馬港」と銘名
昭和50年12月 相馬港港湾計画が決定
昭和50年 外国船(スラブヤンカ2,210G/tソ連)初入港
昭和53年4月 輸入木材特定港に指定
昭和55年 背後相馬中核工業団地が電源地帯工業団地として整備決定
昭和56年4月 エネルギー港湾として整備決定
昭和56年 運輸省第二港湾建設局小名浜港湾事務所相馬港分室(現相馬港事務所)開設 昭和63年6月 国際貿易港として関税法の開港指定
平成2年 相馬共同火力発電 新地発電所1号機建設に着手
平成3年 2号ふ頭30,000トン岸壁(-12m)建設に着手
平成5年3月 エネルギー港湾整備完了
平成6年 相馬共同火力発電 新地発電所1号機運営開始
平成7年4月 2号ふ頭30,000トン岸壁1バース(-12.0m)供用開始
平成7年 相馬共同火力発電 新地発電所2号機建設に着手
港湾計画(改訂)が港湾審議会第156回計画部会において審議決定
平成8年3月 相馬港釣桟橋完成
平成8年 3号ふ頭30,000トン岸壁(-12m)建設着手
平成11年4月 植物防疫法の輸入植物指定港となる
北、南など方向地名は多いが・・・(南相馬の名前でいいのか)
ここは南相馬市と決まったのか、南とか北とかついた地名は全国でも世界でも多い。単に喜多(北)町というのもあった。北町では味気ないから好字を選んだのだ。南とかつくのも多い。他でも秋田みなみ市とか薩摩みなみ市とかまだ決まらないがそういう方角地名になるのはわかりやすいからだろう。南あわじというのも募集したら一番多かったのはわかりやすいからである。大きな都市が中心にあるときはそうなりやすいのだ。
実際、日本は上記のようなことを奈良、平安時代に国策として行ってきた。当時の日本にとっての先進国は中国であった。中国の地名にならい地名を漢字二文字としたり、地名の語源を無視して意味の良い漢字に変えたりした。
「武蔵」をどうして「むさし」と読むかはこの古代の二字化、好字化政策に由来を知ることが出来る。武蔵はもともと牟邪志(むざし)、牟佐之などと書かれていた。そこで好字化として「むざ」の部分に勇ましそうな字を当てた。しかし二字化も両立させなければならないので「し」は省略してしまったらしい。
遠江(とおとうみ)や近江(おうみ)も元は「遠淡海(とおつあふみ)」と「近淡海(ちかつあふみ)」であったのを二字化政策で短くしてしまった。遠淡海とは都から遠いところにある湖ということで浜名湖を指し、近淡海は近い湖ということで琵琶湖を指す。それぞれの湖がある国ということで国名になっていた。
「和泉(いずみ)」は元は「泉」だったが、これも二字化政策で「和」の字を入れてしまった。
外国に阿(おもね)る日本の姿勢は太古から変えられない様なので、日本地名の外来語化は時間の問題のような気もする。
漢字が日本語に入ってきて本来土着の地名は漢字化された。北海道の地名はアイヌ語の音を基にしているのでオシャマンベを長万部としたりいろいろわけわからない当て字にした。もともと音が基本だった。ケとキは同一だということを地名散策に書いたが「ケ、ケ」というのは今でも言っているからこれは日本語の古い音だった。それは東北地方の方言として残ったが考えてみるとそれはもともとの縄文時代の言葉の音なのか、それとも日本の上代語の音が東北に残されたのか、つまり沖縄と青森に辺境には日本語の古語が残されたように東北にも残されてそれが方言とされるがもともと日本語の古い言葉の音だったともなる。地名を変えることはすでに古代に行われ日本固有の文化の破壊があったのだ。でも実用的には「とおとうみ」とか「とおつあふみ」は言いにくいから実用的でなかった。世界で一番長い地名とか自慢しているけどそれは実用にあわないから無理である。言葉も絶えず変化してゆくのだ。
それにしても単に北町とか南郷とか北郷とかの村の名が多かった。それはその地域ではわかるが大きな地域になるとわからない、どこを中心にして南なのか北なのかわからない、ただ大きな市を中心にするとわかりやすくなる。南相馬であれ相馬南であれ相馬市を中心として南なのだ。ただ南相馬と相馬南では感じがちがう。南相馬となると二つの相馬がある感じになる。相馬南となると大きな相馬の中の南にある一小地域にみられる。それにしても北町ではわかりにくいから喜多町にしたというのもこれも芸がないといえばない、好字ではあるがいわれがわからない、ただ喜多方の場合もそうである。会津の北方だから好字で喜多方とした。会津の北なので北方(ホッポウ)と言っていた。ただ会津は武家の町であり明治になって新しく北に開けた街であり商業が発達して蔵が多く立つようになった。会津若松は旧弊な武士が残り新しいことを起こすことがむずかしかった。そこで北というだけでない喜多方としたことにはそれなりの意味があったのだ。でもこれを北と思う人は少ない、当て字はそもそも本来の意味を隠してしまうからである。
ともかく方向を地名にするのは多い、宮崎の日南市は
その際、青島、鵜戸、都井海岸という事で当時投票しようかという事になったのですが、あまりに長い名前なので日向(宮崎県)の南の海岸と言う事で日南海岸と言う名を作った
日向(ひゅうが」というのは古い地名だが日南市は方角をつけただけの陳腐なものとなっている。単に南郷とか北郷とつけるのは狭い範囲ではわかっているからいいがそれが全国に知らせるとなるとわかりにくいから大きな都市名から北とか南となる。岩手の南部藩はこれは南部氏が治めたからであり方角ではない、これもまぎらわしいものだった。南相馬でも相馬が中心にして南の市だとなるから相馬が中心に思われる。でも人口は南相馬の方が大きいから他とは事情が多少違ってくる。他では南アルプス市とか白神市とか知床市とかあまりに観光を意識して旧来の歴史的地名を無くすのは無謀である。相馬は歴史的地名だからいいとしてやはり方角だけだと平凡だとなるがそれに代わるものがあるかとなるとそれがでてこないから困るのだ。相馬ひばりの市とういのもこれも何かわかりにくい、境港(さかいみなと)市とか長いのもある。でも前にも言ったがひばりの市自体が知名度がないしどこかの団地なのか住宅地なのかとなる。
ただ相馬の次に何か独自のものが必要となるとひばりの市も悪くないのか、でもで長くなるとまずいとなると相馬というのにこだわると結局、独自の市名は出しにくいのではないか?折衷にするにしてもむずかしい。相馬の南に興る街として相馬興南市などというのも考えられるがこれも字がむずかしいしそもそも相馬郡は古相馬だったのだから今の相馬の基を成した古い地域だったのだからあわないとなる。中国に同じ名があるのもこれもまずいとなる。相馬新南市というのもどうか、これもわかりにくいか、他でも単に新南市と応募で名付けている。新とついているから多少は新しい気分になるかもしれない、ともかくでも南相馬だけではものたりない、そこにもう一工夫何か斬新なものが欲しいことはみんな思っているのではないか、ともかくこの名前の命名はむずかしい、平凡な名前が多くなっているのでもわかる。
相馬新南市の詩
太平洋の 白波よせて 相馬新南市
相馬流れ山の歌に 粛々と野馬追いの列
夏雲湧きて 馬集い どよめく
伝家の旗や 武者駆け上る 雲雀が原
桜井の古墳 大なり 泉廃寺跡
陸奥の真野の草原 古代を偲ぶ
阿武隈の山脈望む ゆかしき地
ここに育む 友の絆の 強きかも
二宮尊徳 仕法の地 松質実に
たゆまず 学に農工に励むべし
秋風さやか ともに実りは豊かに
新たな市(マチ) 相馬新南市に 栄いあれ
前の詩を変えてみたが新といれると何か新しい気分にはなる。
南相馬の方角地名は事務的すぎて嫌だ
相馬郡目次へ
地名を変えることは大きな変化だ(こんなに合併で名前を変えていいのか)
鉄道の旅は長いから私は自然と鉄道ファンになっていた。鉄道ポッポからポッポ屋とか鉄道一家の映画をやっていたが鉄道には愛着があるからしんみりとしてよかった。最後は鉄道で柩が運ばれたというのも何か印象的だ。というのは自動車の騒音は嫌いなのだが鉄道の走る音も何か命の通う鼓動のように伝わり興奮するのだ。それほど鉄道というものには鉄道員でもなく歴史があり愛着をもつようになったのだ。車両などにはあまり興味がないが駅名に興味をもち地名に興味をもったのが学問のはじまりだった。駅名でも地名でもかなり奥深いものがあるのだ。地名や駅名はイメ-ジを作っているからだ。
相馬駅枯木一本古りにけり
相馬駅というときなにか古い感じがしないか、でも相馬藩はあったが駅の名前は戦後できたのだから、古いわけではない、中村駅だったのだ。でも相馬というと古い感じになり原町となるとそんな感じがしない、今度新しい市になる、南相馬というとこれもかえって古い感じになる、新しい市なのだが何か前からあったような古い感じになる。それが名前の不思議である。原町市枯木一本古りにけりに・・・・とは枯木があってもならない、原町市の方が鉄道の駅としては発展していたし原町まで急行がきて相馬まで行かないのもあった。原町止まりの急行があり原町は上野からのタ-ミナルになっていたので車庫とかもあったのだ。また原町市と無線塔というのがなぜかあっている。南相馬になると何かあわないのも不思議だ。こういうことは結構全国でふえてくるのではないか、今回旅した津川という駅の名も合併で変わってしまうのか?これも困ったものである。
そもそも原町とか相馬の名の起こりは浜街道の宿場町からきているのだ。原町宿がありそれが鉄道になり原町駅になったのだ。駅とは馬屋(うまや)のことだから鉄道になってもそうなる。原町市の起こりは相馬野馬追いという祭りより宿場町の意識から生まれたのかもしれない、相馬野馬追いが観光となったのは戦後でありそれまでは地域の行事、祭りであった。だから他から遠くからそんなに見にくる人はいなかったし全国でも祭りとはそんなに必ずしも遠くからはこない、地域の伝統行事だった。常磐炭鉱の石炭が東京にエネルギ-源としして供給されたように原町市もやはり常磐線により発展した。原町市の人口が相馬市より一万人ほど多いことがそれを物語っている。城がなかったから街も作りやすかったのか相馬は城下町だから碁盤の目の細い路地があり新しい街を作りにくかった。これは会津でもそうである。むしろ城より離れた喜多方、会津の北方が明治維新のとき新興地として商売が盛んになり開けたのである。鉄道がその一つの役目をになったことは確かである。国鉄一家とか鉄道時代があったからだ。
南相馬となると昔の古い世界に逆戻りしたような感じになるのも不思議である。たかが名前にすぎないのだけれど「南相馬」とアナウンスで放送されるとき「南相馬」に来たかもう原町ではないのかとなる。相馬郡があったのだからこれは別に悪い名前ではないが何か原町になじんだものにはちょっとなれるまでとまどうかもしれないし全国的にこの名前の変更は大きな問題なのである。元からの名前をなくしてほしくないという住民も多いのである。磐城大田というのがあり古代、磐城国だったとすると南相馬ときてここから相馬だという境界意識は生まれる。実際は浪江まで標葉郷として相馬野馬追いに参加するのだから浪江から相馬の国に入る。何かこうした境界意識を持つことは旅を面白いものにする。江戸時代は不便だったかがちょっととした外国に行く気分になる。またそれほど他国に行くことは容易でなかった時代なのである。地名が変わると意識も変わるという不思議があるのだ。だから歌枕の旅というのがあり芭蕉も歌枕にそって旅したのである。現代はそうした境界意識が希薄であり旅の面白さがなくなったのだ。外国旅行が国境をこえることが醍醐味のように国境は大きな歴史的意味をもっていたのだ。
地元の人
・・・・・・
「次は南相馬、南相馬」
「相馬に帰ってきたか、原町はなくなったな、これも時代の変わりだ、ここはもともと相馬郡だったから、別な世界に来たわけじゃないさ」
・・・・・・・・・・・・・・
旅の人
「磐城大田、次は南相馬・・・・磐城から相馬になったのか」
「南相馬から次は鹿島だ、鹿島は南相馬か、次は日立木、相馬だからな、どっちにしろ相馬だよ」
「南相馬と相馬はどこが違うんだよ、相馬は中心で南相馬はその中心から南だよ」
「相馬といえば相馬が中心だから相馬にまずおりるよな」
「そういうことになるね、南相馬は通りすぎてまずは相馬におりよう、旅はまず大きな中心地に行かないとわからんからな」
名前が変わると別な世界に来たかと一瞬錯覚する、それが会津線の楢原が会津下郷駅になったことである。楢原に一回泊まったから余計にそうした過去の旅が楢原という名前に旅人ですら愛着をもつようになっていたのである。( 消えた駅名-楢原)
童話 -幽霊列車にのって帰ってきた男
大きい名前のイメ-ジ力(市町村合併で変わる名前のこだわり)
のは良き名なり遠く来たりて夏の日暮れぬ
喜多方というの名は喜多町もあるからそこから名付けられたのだろうか、それにしてもこれは本当に好字だった。人間がなぜ名前が大事なのか、名前に影響されるのかということがある。単にこれは会津の北というのにすぎなかった。それが喜多方としたことにより全然違ったイメ-ジになってしまったのだ。そこに幸い橋があるというのも実にあっているのだ。喜多方-幸い橋は一つのセットととして存在するのである。これが別な名前だったら北会津となったらこうした歌もできないのだ。「北会津幸い橋は・・・・」こうなるとなにかぴったりしないのである。ここに問題点として単に会津の北でしかない感じになる。ところがこれが喜多方となるとそこは新しい喜多方という独自の街として認識する不思議である。相馬があり南相馬となるとその独自性は消える、原町の方が独自の市として存在する。原町-無線塔もあっていたのである。無線塔はそれなりに原町の象徴でもあったのだ。南相馬-無線塔はあわないのである。ただ無線塔自体全国的に注目すべきものになるものではないだろう。ただ原町があり無線塔があったことは確かである。それが南相馬になるとかつてあったものがなにかあわなくなる。名前を変えると各地でこういうことがおきてくる。
笠懸、大間々両町と勢多・東村の臨時議会が21日それぞれ開かれ、2町1村が合併して「みどり市」となる廃置分合(合併)議案をいずれも、賛成多数で可決した。
みどり市とかの名前もあまりいいとは思えない、緑豊かにというのも平凡すぎはしないか、歴史的意味合いもなにもないのだ。こうして歴史的重みもない名前にするのはまた問題である。ひばりの市がもんだいがあったがこれはそれなりに独自の街として意識されたのである。だからひばりの市の詩が作れた。南相馬となると結局相馬市の歌と同じであり別の歌を作ることはむずかしくなる。ともかく日本の地名は複雑多岐であり世界で一番面白いのではないか、その複雑な地形や歴史を反映しているから多様であり魅力があるのだ。
うちの実家は、山口県の平生町というところにあります。18年間住んで、31年間慣れ親しんだ町名です。役所とかを統合して合理化を図る、という趣旨には納得やけど、名前が変わるのは、どうも納得できません。
寂しいですよね・・・めっちゃくちゃ。
名前が変わっても生活自体は変わらないのですが、やはり地名って愛着があるのでなんとなく割り切れない気持ちです。
北条市も合併なんですかっっ!!
…知りませんでした…
私の実家は東宇和郡から西予市になりました。
町の名前はそのまま残ったけど、やっぱり寂しいですよね。
合併で得たお金で箱物ができたりして、なんだかな〜…と思ってしまいます。
東宇和郡、町の一つ一つがとっても個性的だったから、一つにまとめるのとっても大変だったようですね。どの町がくっつくか結構試行錯誤だったような・・・。
いずれにせよ、慣れ親しんだ名前がなくなるのってかなしいですよね〜(泣)
なおにいの実家も…。なんだかさみしいね〜
中国地方でもごっそり町名が変わってきているよ。こういうときって、地方や田舎の町や村はちょっと損だね〜。
やっはりなれ親しんだ名前というのはちょうど子供の名前と同じだよ、子供から呼ばれていた名前には誰でも愛着がある、それが変えられたら誰でも本能的に拒否する。そういうものが地名にあったのだ。新しくなるならなるでその名前が長くつづくからまた問題だ。その名前を使いつづけるようになるんだから。
「出身は」
「みどり市」
「それはどこの団地かい」
「ええ、群馬県ですけど」
「そんな市あったのかい」
「合併で変わってんですよ」
「ああ、そういうことか」
・・・・・・・・
「どこの出身かい」
「南相馬市です」
「ああ、野馬追いの相馬市か」
「いや、南相馬市です」
「相馬も南相馬も同じだよ、相馬といえば野馬追いだ、南相馬も相馬だよ
相馬が中心で野馬追いがあるんだよ、南相馬は相馬なんだよ」
「・・・・・・・・・・」
いづれにしろこんなふうになることはまちがいない、遠い所では名前で決められてしまう、それが名前の怖さであり名前の持つイメ-ジ力の怖さなのである。名前によってイメ-ジが決められということもあるのだ。だから名前はやはり工夫する必要があるのだ。
結構臨時に作った「市町村合併」の名前の問題について書いたけどやはりこれも旅で地名にこだわるようになったからである。私の場合、地名から短歌とか俳句を作ることが多かったからだ。だからどうしても地名にこだわるようになったのだ。
地名の安易な変更は問題だ
●さいたま市は埼玉(さきたま)だった
たとえば、埼玉県の浦和市、大宮市、与野市が2001年に合併して「さいたま市」となった。「さいたま」と平仮名を採用したのは、市名から受ける感じを、やさしく、柔らかくする意味があったというが、平仮名は表音文字であるので、その内容を的確に知ることができない。「さいたま」は「さきたま」を音便化したものであるが、平仮名の表記では、その経緯が分からない。さきたまは埼玉であって、その中心であった行田あたりまでは古代には東京湾が深く入り込み、また利根川や元荒川の流路にもあたっていた。万葉集には「埼玉の津に居る船の風をいたみ網は絶ゆとも言な絶えそね」とある。したがって、埼は入江や港に突き出した場所で、岬をさす。玉は魂で、岬を守る神のことである。それが埼玉郡の総社で式内社の行田市にある前玉(さきたま)神社である。
http://www.npo-fuudo.or.jp/sinpo3/sinpo-3-tanigawa.htm(地名と地域作り)
埼玉県(さいたま)は(さきたま)でありさいたまではなかった。ここに前玉(さきたま)神社があることを知らなかった。万葉集は一番古い地名がある。陸奥の真野の草原は草野姫と関係あるのだろうか、桜田山の山つづきの寺内に草野姫神社があるといことはこの前玉神社と共通している。つまり萱原(かやはら)なびいていたとかではなくある場所をさしていた。ともかくその場所は草野姫神社があったところになる。そこに金銅双魚佩が発見された古墳がある。草原が草原(かやはら)としてもそれがどこの場所かといったら草野姫神社があるところになる。
香川県には「東かがわ市」も誕生する予定。合併する香川県引田町、白鳥町、大内町、は県の東端の三町にしかすぎないのに、これでは香川県の東半分のかなり広範囲な市町村が一緒になると混同されかねない。
市町村合併問題の地名は確かに文化歴史の破壊になる。南相馬はかがわ市とは違うし歴史的謂われもあるしそもそも相馬郡があり南相馬になったのだからそんなに違和感はない、ただ原町市がひばりの市とか原町市と投票した人をあわせると南相馬と伯仲したように原町市が中心になるときやはり原町市の人は不満になる。もう一つ新しい街となるのだから新しいものが必要だともなる。しかしここでは相馬にこだわればふさわしい名前は相馬とつけばあとは相馬新南などとしてみてもいい名前は浮かんでこない、相馬となればそれ以上の名前はでてこない、せいぜい南とか方角をつけるくらいしかなくなる。相馬は相馬に限定され相馬市の脇役、付随したものとし名前からは決められてしまうのだ。相馬野馬追いにこだわればどうしてもそうなる。鹿島町はいづれにしろ前は北郷であったようにまた南郷でもいいのかもしれない、しかし原町市は中心都市であり人口が多いのだから困るのだ。
赤い部分の原町市を強調すると独自の名前が必要になる。
●方角地名は平凡
仙台駅東側のR45と旧仙石線に挟まれたあたりは、
再開発事業完了後、新しい町名に変わってしまうらしい。
詳しいことわかんないから一概には言えないけど、
多分「駅東○丁目」みたい名前にするんだろうな。
「鉄砲町」とか「二十人町」等々、江戸時代以来の由緒ある町名潰して。
仙台市民は誰も文句言わないの?
そうかい、仙台に何度行ってもそんな地名あったと知らなかった。あの辺は青葉城からかなり離れているから足軽などが住んだ地域なのか、新発田駅の近くに足軽長屋があったからな
あさって東京都田無市・保谷市の両市で、
合併の賛否を問う住民投票が行われる。
あわせて新市名を5つの候補の中から選ばせるという。
「西東京」 (事大主義的)
「北多摩」 (今ある多摩市の北?)
「ひばり」 (事情を知らない人が見ると???知っていてもやはりヘン。
幼稚園の名前じゃあるまいし。)
「みどり野」「けやき野」 (イメージ先行。抽象的地名の典型。)
投票結果が楽しみ。
相馬はやはり南相馬で決定か、ひばりの市は団地や幼稚園の名前みたいになるか
そこがな・・・・群馬県の一部でみどり市となるのもな、なぜかなにしているのか、わかりやすいからかかなにすると重みがなくなる、どこかのテ-マパ-クみたいになる、桐生はよかった、桐と関係あるのか、これは古いのが残った
徳山市・下松市・新南陽市・熊毛町・鹿野町の新市名は次の27の候補のうちから
5つに絞られることになった。
1.3市2町のうち、いずれかの市町の名称
徳山市
2.3市2町のいずれかの名称
とくやま市 周防徳山市 新徳山市 周南徳山市
3.地域の地理的なイメ−ジができる名称
東山口市 周南市 新周南市 瀬戸内市 西京市 都濃市 周防市
4.地域の歴史、文化、特性等を表す名称
みなと市 周防毛利市 サルビア市 毛利市 みどり市 維新市 大空市
5.地域住民の理想や願いにちなんだ名称
みらい市 きらら市 キララ市 のぞみ市 平成市 新生市 黄金市 来夢市
周南市というのは周防の周の南であり周南になった。さらに新しくなるから新をつけたのだ。新相馬南とかつけるのとにている。地名は長くなるといいにくくなるから極めて限定されるからなかなかいい名をつけることがむずかしいのだ。ここでは相馬をいれればあとは方角くらいしかつけようがない、相馬にこだわればそうなる。南相馬くらいになるが相馬ひばりの市としたごとく四字にすればなにか新しいイメ-ジがだせるかもしれない、ただ原町市自体は平凡などこにでもある名であった。それでも長い間なじんでいたからなかなか変えることがむずかしくなる。これは人の名前と同じである。結婚して姓が変わるの嫌い元の姓のままにしたいというのとにているのだ。
●地名は歴史を語る
いづれにしろ日本の地名は複雑でありいろいろなものがふくんでいる。地名が歌枕になりやすいのだ。地名からイメ-ジされることが多いのである。
古町の温泉あわれ旅路来てともに入りし秋の夕暮
自転車で旅して土地の人と入った会津の温泉だった。
福島県南会津郡伊南村古町太子堂という住所である。古町という地名は多い、それに対して新町もある。あんな山の奥でも古町があった。どんなところでも新旧はある。歴史には必ず新旧がある。新しいものがあり古いものがあってバランスがとれる。今日も六号線の旧道を原町に行ったが松が一本また一本とある。
旧道にまた松一本に松一本標しとあれな冬深まりぬ
古いものも標し(しるし)としてある。古いものがあり偲びまた新しいものがある。古い地名もだから残すべきなのである。
詩-さいわい橋にたたずみて・・・・・
さいわい橋にたたずみて
喜多方のさいわい橋とは良き名かな
それは花が咲いているような名
旅人は蜂のようにさそわれて
遠くから来たりてたたずむ
山国の清らかな流れのひびき
古い土蔵が落ち着いて
祖父や親のように根づいている
街はずれにどっしりとカボチャが実り
花が咲いて広々としている
さいわい橋にたたずみ
そこにほのかな花の香りや
いいしれぬ遠き国の香りや
そっとそこを去ってゆく
旅人はまた来たりてそっと
そこにたたずんでいたい
故郷は遠くにありて思うもの
幸いも遠くにありて思うもの
幸いは山のかなたにありぬ
何事のなけれどそこにたたずみ
我は幸いをえしや知らじ
しばしの間たたずみて去りぬ
いづれにしろ遠い国は何もなくても魅力ある場所なのだ。旅によった所はどんな平凡なところでもなにかしらある。その中で地名が印象にまず残るからいい地名は得なのである。もちろん歴史があるから勝手に地名はつけられないが地名には魔力があるのだ。それが名とか地名のもっている不思議な力なのだ。
国立は国分寺があった国分と立川市が 合成した地名である。国立市はその中間にあり電車の駅となっている。国立市はなにかそれでも謂われあると思った。ここにはよることがないし地名だけ聞いて去るところが多いが地名はいつまでも心に残っていることが多いのだ。つまり地名だけしか知らず旅では去る場所も多いから地名だけが印象になるだけの土地が多いから地名が大事なのである。
雪の富士見て帰るかな国立へ紅梅咲きて新宿に行く
これも地名が印象に残り地名でたどる思い出した旅なのである。
漢字とカナの相違も大きい
●相馬は馬と関係なかった
日本の言葉は奈良時代に漢字が入ってきたときものすごく混乱した。それまで日本には字がなかった。音として言葉はあっても字はなかった。そこに漢字が入ってきてその音を漢字で表現したのだ。だから日本の地名はそのとき日本語の音の当て字になった。それは今の北海道のアイヌ語の地名とにたようなものになった。日本語の本来あった言葉の当て字が漢字の地名なのである。相馬じたいソウマでありこれも当て字なのだ。ソウマは何か焼き畑の地名らしい、馬とは何の関係もない、でも馬とあるから野馬追いと関係した名だと思うようになる。こういうことは日本語の本来あった地名を漢字にしたときいくらでもあったのだ。漢字はもともと絵ににている。英語のような表音文字ではない、だからイメ-ジ力にとんでいる。
喜多方というとき喜び多いとイメ-ジしてしまう、これも好字にしていい面はあったのだが悪い面として歴史的なものがわからなくなったことである。北方でもわかりにくいがどこからみて北になるのか、それは会津から見て北に発展した町だから北方となった。それはやはり歴史的位置関係が示していたのである。喜多方になったときその歴史的位置関係はわからなくなった。だから最初鹿島町が北郷だったのは中心が原町市の太田にあったからそこから北にあったから北郷となった。その後中村市に城を作って治めたから今度は歴史的位置関係として南相馬となってもおかしくないとなる。でも相馬氏が治めたからその氏をとって市町村の名前とするとは限らない、比較的それは少ない、日本では人名地名は少ない、相馬と名付けたのはここに馬がついているからということが大きいのだ。野馬追いが有名だから馬とついていれば野馬追いをイメ-ジするからである。歴史的位置関係からすれば南相馬でもかまわないが原町市は相馬市より人口が一万くらい多いということは原町市は独自に発展した街でもありそこに新しい独自性を出そうとすると相馬市とは違った名前が必要となる。それが原町市とひばりの市をあわせると南相馬市と伯仲した原因であった。
●漢字とカナの問題(1)
ともかく日本の地名は漢字が入ってきたとともかく本来の意味は失われたのだ。東北の言葉で今も使っている。(食)くえ-kue⇒ke(け)になった。くえがケになったのだ。「ケ」という言葉は今でも使っているがもとは食え(kue)だった。この言葉はもともと東北地方にあり縄文語に通じていた言葉である。(ケとキは同一だということを地名散策)言葉の歴史は古いから日本語は外来語も多く入ってきたが縄文時代に使っていた言葉も日本語を形成していたのだ。何故ならケが毛となり毛馬内とか大毛内とか毛無山とか毛とつく地名が多い、これはケというのが日本語の基本的言葉だったからである。日本語では海も湖もウミだった。湖を見て海(うみ)のように広いとなりウミとなったのは自然である。ところが大陸では海と湖は別なものとして認識していた。というより大陸の湖は海から離れていたからそれは別個のものとして認識した。日本は海と湖は接近しているから海と湖は同じもものとして認識した。地名には様々な地理的背景とか歴史的背景があり名付けられている。そこに地名のむずかしさがあるのだ。
ひらがな地名にするのは簡単でいいのだがひらがな地名にはイメ-ジ力がなくなる。ソウマとしたら馬がないから野馬追いはイメ-ジできない、外国の英語のアルファベットの地名はイメ-ジ力にともしいのだ。デンバ-のbroomfieldなどからアクセスがあった。これは花野となるからそれなりに日本とにている面はあるが漢字から比べるとイメ-ジ力にともしいのである。漢字とかな表現ではかなりの差がでてくる。感覚的かなり違ったものになる。漢字だけの中国語を読んでいると疲れる、何か漢人の顔のように四角張ってくるのだ。ところがそこにカナが入るとやわらいでくる、女性のようにやさしくなるというのも不思議である。カナは女性が発明したというのも納得がいく、漢字は漢文は男性的になるのだ。カナを発明したことで日本語はやさしさ、女性的なものを表現できたのである。中国は感じだから融通性に欠けているし表現も硬直化した感じを与える。漢字だけの世界はやはり文化的に何か欠けている、日本語の方がかなやカタカナが入るのでハイブリッド化して優れた表現力豊かなものになっているのだ。カナには日本の小川の流よのようなものを感じるのだ。大陸は平面的であり直角的、幾何学的になる、それが漢字にも反映されているのだ。
●漢字とカナの問題(2)
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもかえせ
父を返せ 母を返せ
年寄りを返せ
子供を返せ
峠三吉の「原爆詩集」の表現が日本語と漢字では違ってくると指摘した人がいる。
漢字だとスロ-ガン的になるというのは本当である。シュプレヒコ-ルみたくなる。これも言葉の表現の不思議である。だから詩になると言葉が違うとまるっきり違ったものにさえなる。だから詩は翻訳できないとなる。地名は地形的とか歴史とかを伝えるものであり継承が必要なものであるから簡単に今風のものにすることもできない、セントレア市とか南アルプス市なんかにしたのも最悪である。ひばりの市もわかりやすくしたのだがこれもどこの団地の名なのかなどとなる。ともかくなぜ相馬という名にこだわるのかそれは野馬追いにこだわるから相馬なのである。でも相馬という名はここ30年くらいに変わったものでありそれまでは相馬はなかった。相馬流山市というのはあるがここでは相馬ではなかった。相馬にこだわるのは野馬追いのためである。つまり野馬追い中心の街作りがその主眼点にある。それ以外のものは考慮されなくなることでもある。ひばりの市自体、雲雀が原で野馬追いが行われるから名付けられたから同じである。つまり相馬では相馬という野馬追いというものから離れられないから相馬にこだわり相馬がなければだめだとなるのだ。相馬にこだわるかぎりそれ以外の名前をつけることはできなくなるのだ。
「太平洋市」で決まる、地名は勝手につけていいのか?
山武郡の成東、松尾、山武町と蓮沼村の四町村が進める合併協議で、新市の名称を「太平洋市」とする方針が固まったことが二十八日、分かった。
平凡な名前を付けるよりは、奇抜な名前を
つけた方がマスコミが報道してくれるし、
新しい市のPRになる。平凡な名前をつけ
ても、余り報道してくれない。
まあ、伝統のある名前にしなくて、太平洋市
とかパシフィック市にしたからといって、
特に市民に害がある訳じゃないしな。
それから、今はどちらかといえば伝統的というか
古くさい名前を付けるのをどこも嫌ってるから、
もし古くさいそういう名前を付けたときに、逆に
文句が出るんだろうな。「もっと斬新な名前に
しろ!せっかく合併したのに目立たないだろ!!」
ってな。
太平洋にごく一部が接しているだけで「太平洋市」を名乗ることが
許されるなら、都道府県名と市名の重複はいくらでもあるし、東京都
に一部が接している所沢市や飯能市、松戸市が「東京市」を名乗ることを
拒否できなくなるぞ。さあ、早い者勝ちだよ!!
>松戸、市川、浦安、秩父、飯能、入間、所沢、新座、和光、戸田、鳩ヶ谷、草加、八潮、三郷
太平洋を一人じめすんなよ
太平洋はみんなのもんじゃ
太平洋を一地域で名乗るのは禁止だ
太平洋はアメリカまで通じているから
アメリカからも文句がくるぞ
今日よりは日本洋と名をかへむ御国のものそ太平洋は(尾上柴舟)
九九里浜ならいいが太平洋市と勝手に名付けていいのか、太平洋となれば太平洋に面する地域は太平洋と名乗る権利がある。千葉県の一部が太平洋となのればまるで太平洋が自分たちの街のものの用地なってしまう感じになる。地名を最初につけるのはそこを最初に発見した人とかそこに最初に住んでいた人達の権利である。占有権となるのか、地名をつけることは領有するということでもある。北方四島が日本のものだというのは日本人が最初に住み日本の地名を名付けたからである。だから日本だと主張できる。太平洋市となると日本が太平洋を日本洋と名付けたと同じようなものを感じる。これはアメリカからも文句がくるかもしれない、同じ太平洋市というものがあるかもしれない、太洋市というのはある。これは太平洋ではなく大きな海という意味であるからアメリカにもOcean cityが現実にある。名前は市町村によって自由に名付けていいとなるのか、名付けることを禁止する法律はないとなるのか?でも日本海を東海にしろと韓国から国際法廷に訴えたようにこの太平洋市も問題である。太平洋市と最初につけると他の人は太平洋市とつけにくい、同じになってしまうからである。そこだけが太平洋を代表する地域のようになってしまうのだ。
相馬でも名前ではもめたが南相馬で投票で決まりらしい、これは歴史の継承なのと相馬野馬追いにこだわるかぎりこれしかなくなる。選択の余地がなくなるのだ。新しい名前は本州のように歴史あるところではなかなかむずかしい。これが北海道だと美瑛とか美幌とか斬新な詩的な名前がつけやいしイメ-ジとして記憶される。北海道らしい地名である。本州ではこうした新しい詩的な地名はつけにくい、歴史があるからどうしても歴史の継承が優先される。この太平洋市は日本国民から見て反発する人がでてくるのではないか、日本海市とか名付ける所もでてくるのか、新潟県に日本国山とあるがこれはそれなりに由来があるのか、古い時代に名付けられたものだから何かの謂われがあるのだろう。何か謂われがある場合は仕方がないが何も謂われもなくただ目立つからとか宣伝のためとか地名を名付けていいのか、地名は外部から名付けられたものと内部の人、地域の人が名付けたものがある。どちらもやはり共同のものとして認知されて定着したものだろう。ここにきて勝手に名前をつけていいのか疑問だ。どうしても太平洋市はあわないのだ。九九里ならばその一地域であるが太平洋市となると太平洋全部になってしまうからだ。太平洋の一地域名なら太平洋に面していてもいいが太平洋となると一地域名としてふさわしくないしこれが外部から見ても許されるものだろうかという疑問である。日本海を東海としろと韓国から裁判にまで訴えられたようまた宮古市が同じように宮古市とするとまぎらわしいからとクレ-ムがついたようにこれも問題である。同じ地名があるとまぎらわしいことは確かである。飯館は実際は飯樋と大館が合併して飯館になった合併地名である。ただ館というものが残ったからここに館があったとは想像する。大館は秋田県にもあるからまぎらわしくなったことは確かである。太平洋は戦時中日本洋と名付けるようにかなり問題がある。
115年つづいた都路村が合併で田村市に
都路村役場企画課 福島県田村郡都路村 大字古道字本町
原町に都路村のトラックの来てありしかも冬の日の暮る
都路村は都路と古道という地名で記憶されていた。山の中になぜ都路なのかということが第一に記憶される。地名からまず記憶される。特にこの地名は誰でもなぜこんな山の中が都路なのだとなるから余計にそうである。古道というのも何か古い感じになる。この古道を中心にして都路村の中心地があった。役場もある。古道というからには新しい道ができて古道となったのだ。古町があり新町があると同じである。地名が変わることこれは大きな変化なのだ。歴史的変化といわないまでも今まであったものが消えるということでやはり大きな時代の変化をともなうことになる。例えばこれも大分前に作った短歌だがこの原町がなくなり南相馬となり都路村がなくなり田村市となる、トラックのバックナンバ-も田村市となる。これを記憶していたのはトラックに都路村と書いてあったからだ。都路村からのトラックがここに来ているのかとその名前から記憶していたのである。他の村や町だったら記憶していない、都路村とは名前が特殊だからそれによって記憶される村だったのである。名前は意外と人の記憶に影響するのである。
この都路村の由来は何なのか、「この付近に菊の御紋章を今なお家紋にしている家があります、宗方家と名乗っています」と「山村を歩く」(岡田喜秋著)で書いてある。南朝は陸奥国府(宮城県多賀城)を開き北畠顕家を陸奥守に任じた。鎌倉幕府の後裔である関東の武士団と東北の武士団の勢力を牽制するために天皇から派遣されたものであった。
北畠親房やその息子の顕家は戦いで20歳で死んだ。阿武隈山地にはその南朝の落ち武者伝説がある。葛尾や都路に菊の紋章の墓がひっそりとしてある。その霊山城が消失したとき鹿島町真野逃れてきたのがの桑折五郎元家であった。元家は顕家の姫をともなって落ち延びた。真野にすでに館をもっていたのでそこを頼りに落ち延びたのだが北朝の勢力が周囲に迫っていて落ち延びることが容易でないために旅芸人の姿に身をやつして玉野から卒塔婆峠に入り栃窪にでて真野に入ってきた。その時落ち延びた姿が踊りとなって伝わっている。それは中世の装束であり非常に変わっているのだ。杓(ひしゃく)廻し、子供懐抱(おとだき)、山伏、獅子、笊下冠(ざるしたかむり)、道心坊、座頭、笛吹、弓持ちなどである。これらはに実際存在したものが残ったのである。卒塔婆峠は中世の時から道としてあった。今ある真野川は流れていたが佐須の方に行く道はなかった。この南北朝の興亡の中で都路村というのが名前だけ残されたのだ。都の人が通った道ということで名付けられたのであり都へ通じる道というものではなかった。
この都路村がなくなるというときそれはこうした秘められた歴史の消失にもなるから困るのだ。今回の市町村合併では各地でこういう問題が起きているのだ。
山陰は都路村や冬の暮l
山越えた向こうは都路村だとなるとなにか言葉だけでも都があるような錯覚をするから不思議である。前の喜多方のさいわい橋もそうだった。都路村は明らかに歴史的謂われがあるものとして名付けられていたのだ。だからこれがなくなることは歴史の消失にもなるから問題なのである。
霊山神社 北畠顕家の像
広域的な地名の違和感(歴史を無視した名付けかたは問題)
「上越」にいたっては、それのみだと新潟県上越地方、上越市、新潟県と群馬県の併称にもなる。武蔵野市、多摩市、相模原市、むつ市、上越市、加賀市、備前市、さぬき市、筑紫野市、沖縄市....など
北九州は、九州の北部を示す地域(福岡・佐賀・長崎)で、中九州・南九州と対をなす言葉であり、 九州全体で違和感は長く続いた。
これがために、全国高等学校軟式野球選手権大会・北九州大会は、のちに北部九州大会と名称変更し、代表チームは 北九州代表から北部九州代表に変更となった。
1963年、知多郡横須賀町と上野町の合併にあたって公募し、東海市を決定した。
しかし、東海地区(愛知・岐阜・三重・静岡)を代表する市とはなりえず、県内では東海といえず「東海市」と 市をつけなければならないことから、いまだに違和感おおいにもたれている。
(三河ナンバーの私としては、道路標識で「↑東海」とでると、違和感をいまだに感じております)
全国的に、「さぬき市」「飛騨市」「魚沼市」と、由緒ある広域地名が市町村合併の荒波にさらされ、その本来の姿での存立が危ぶまれていることは、看過し難い風潮です。これらの由来となった地名は、紛れもなく広域地名(国名、旧郡名)であって、それは地域の共有財産です。私は、特に「飛騨市」「魚沼市」については、なんとかもう一度再考できないものかと思っています。これらの地名には、ブランドという付加価値がともなっていますので、そのブランドの定義に混乱が生じることが懸念されます。地域経済にとっては大きな問題であることは否定できません。
「四国中央市」「北四国市」「東えひめ市」「東愛媛市」「愛東市」は、漠然とした広域、あるいは四国での位置を指す言葉を新たに創作したものですが、1自治体が名乗るにふさわしいかどうか、充分考える必要があると思います。すでに東予市、伊予市もあることとの兼ね合いもあるでしょう。
「瀬戸内市」 も同様に、「瀬戸内」という広汎な地域を指す地名のなかに、 この市の個性が埋没してしまう可能性は否定できません。
「四国中央市」は、交通の要衝であるという地域のアピールポイントを表わしたものでしょうが、高松市や松山市がどのような反応を示すでしょうか。気になるところです。
http://www.glin.jp/arc/arc.cgi?N=32(落書き帳)
日本人の地名がなぜこれほど興味の対象になるのか、それは日本人の生活がその土地と深く結びついていたからである。日本人の姓の起こりはほとんど土地の名、地名からでている。変わった姓だなと思って調べると必ず地名としてある。日本人はそもそも狭い地域で相互扶助のなかで生きてきた。土地が狭いので土地が大事だった。だから村落共同体が社(やしろ)を中心にして生活してきた歴史がある。小さな社がありその回りに家を作り共同して暮らしてきた。だから小さな狭い地域名が無数にありそれが苗字、姓となったのだ。血縁より地縁共同社会になったのは日本の狭い土地で暮らすためにそうなったのである。一方遊牧民、モンゴルとか中国でも信じられない広い領土に住んでいる。そういうところでは人の移動も激しい、モンゴルなどになると移動することが生活だから小さな一地域にこだわることはない、だからそこで問題になるのはハラカラ、ウカラ(族)であり一族が大事になる。それは血縁であり姓を同じくするものなのだ。これは中国でも韓国でも同じなのである。日本だけが地域共同体であり地域が姓となる、地縁共同体である。
だから一族が姓が地名となることはまれである。確かに千葉県が千葉氏とか相馬が相馬氏から名づけられたことはあるが相馬氏がこの地域に来たときも地名は相馬とはなっていないし今の城があったところさえ相馬城とは言っていない、中村という一地域名が城の名になったり地名はもともとあった小さな地域名なのである。日本が小さな地域名にこだわるのは小さな地域名が生活の場だったからである。モンゴルとか中国とかのような信じられない広さの中で暮らすのとは余りに違っていたのである。だから日本人には広域的感覚がともしい、広さの認識に欠けているのだ。広く大きく考えることは苦手である。小さな村意識の中で生きてきたからである。今そこで問題になっているのが地名が町村合併でどうしても広域的になることである。白神市とか知床市とか東近江とか極端なのはセントレアとか太平洋市とかなる。それは何を意味しているかというと現代の生活が広域的になったためである。国際的になってしまったことでもある。
セントレアとなればここがセンタ-か中央かと外国から来た人は思うかもしれない、外部を意識して広域的になるから今までにない名付けかたになる。今や田舎でも隣のことはわからない、何をして生活しているかもわからない、経済は広域化して物でも地球の裏側から運ばれてきている。だから小さな地域にこだわる意識は希薄になる。たとえば外国人だと中国人だと日本だと東京くらいしか知らない、日本だと東京であり東京がすぐ行けるように錯覚している。浪江の津島辺りでち中国人の妻が「東京に行きたい」でナタで夫を襲ったというのにも驚いた。あの辺は何回も行っているからだ。塩浸(しおひたし)などという塩の道があったところである。松川浦に密航した船からおりてきた中国人が食堂に入り(東京どこ)とたずねてあやしまれつかまった。日本というと東京なのである。外国から見たらこうした広い地域の見方しかでてこない、細部には無感覚になるのだ。ただ広域的な地名となると今まで歴史的に育んできた日本人の村の特徴が消えるのである。都路村という名もいい名であったがこうした一地域名が消えるとその村の特徴も消えてしまうことにならから問題なのだ。
6号線を能代と書かれたトラックが北に向かって走り去った。能代となると遠いなと一瞬思った。ここまで何を運んできているのかとか能代は雪が深いなとか思ったが一瞬能代という地名だけが頭をよぎりその車は去って行った。昔だったら必ず街道を通って行っても会話があり何を運んでいるのかとか何しに来たのとか能代ってどんなところだとか必ず会話がありそこで物を運ぶだけではない人間的な交流が必ずあったのである。それが今は全くなく通りすぎて行くだけだから無関心になりただ車の騒音だけの無味乾燥な社会になっているのだ。この能代(のしろ)もヌシロであり古代からの地名で古いのである。
658 斉明4 4 越国守阿倍比羅夫、船軍を率いて蝦夷を征討。齶田(あぎた)(秋田)・渟代(能代)(ぬしろ)の蝦夷、降伏。齶田の蝦夷恩荷(おが)を能代・津軽2郡の郡領に定める。
秋田は齶田(あぎた)であり秋の田とはなんの関係もない当て字である。漢字はどうしても視覚的になり文字からイメ-ジしてしまうのだ。相馬は馬とは関係ないのに当て字で馬となっているから相馬というと野馬追いをイメ-ジするようになるのだ。ともかく能代とあれば古代からのいわれある地だからそのイメ-ジをする。しかしこれが白神となるとそのイメ-ジはなくなるから合併に反対になったというのもわかるのである。能代という一地域名が白神となったときそもそも白神は山であり森であり人も住んでいない地域だった。神の棲む山だから神が住んでいた。そこを古代から人の住んでいた地名を広域的に外部の人が知っているからと白神市にしてしまうのは何か無理がある。これは知床市とか太平洋市などにも通じるのだ。余りに広域的な地名にするのは問題なのである。
飯館は合成地名だった!(多い合成地名)
飯館が合成地名だとは思わなかった。図のように複雑な過程で合成された地名だった。これは古くからの地名だと思っていた。古い館がありそれで村の名にした。屋形、館とつく地名は村の中心となる庄屋とか館があったからつけられた。ただ新館とあったのだから館があったことは確かである。新しい館というのがその基であり、その前の飯とはなんの意味もないものだった。月館は月とは関係ない、つきはツク築(つく)であり館を築いた所だろう。築館も実際にある。新しい館とはそこに新たに館を作りそこを中心に村ができあがっていった。この合成地名が多い。これは江戸時代から明治時代になるとき行政の単位が変わり名前を変えざるをえなかった。町村の合併のためにそうなった。この命名の仕方は機械的というか数学的というか本来のその土地にあったものを基本にするのではなくただ便宜的につなぎあわせただけである。つまりabc def と名前があったらadというその地名の一部を取り出してくっつけたのだ。それにしても石橋村とはどこなのか石橋があったからであろう。石橋は石の橋が珍しいからそれが名となった。二枚橋はこれは川をわたるのに二枚の板など渡して作る粗末な橋でありこれも名前としては多い。地名となるにはそこが何か生活上重要な役目、村の人にとってかかせないものであったからだろう。橋を渡るのも東京に一つ橋があるごとく一つの橋、丸太を渡す橋が一本あったからというのも信じられない、橋とういうのは生活上不可欠でありそこが何か生活のポイントととなるから名前がついた。
ともかく合成地名が多い。長野県の楢川村も奈良井と贄川という村が合併してできたから楢川とした。これはもともとあった村だと思ったが違っていた。奈良は楢になっていた。これは味気ないものであるし問題がある。楢川村はさらに塩尻市と合併するとどうなるのか、楢川村は消えてしまうだろう。合併論議が盛んだが小さな町や村の名は消えるかもしれない、これも合併の一つの問題である。地名もやはり歴史が基礎にありそれを変更すると歴史が残らない、歪められるということがある。福島県というのもこれも歴史的に作られたというより人工的に無理やり作ったから何か不自然なのである。江戸時代から明治になったときここで様々な変更がありそれが現代までつづいているのだ。地名の変更が問題なのは楢原の駅名が消えたショックで(時事問題)で書いたがそこが別な世界になった、今まであった世界が消えたというショックを感じるからだ。つまり地名はそれほど日常生活で大事なものなのである。地名からその土地を喚起する、呼び起こすのだ。その土地の地名が消えることはだからその土地そのものが消えたような錯覚におちいるのである。
消えた駅名(楢原)のショック
北畠氏と熊沢天皇騒動(阿武隈の古い歴史の因縁)
今回の地方史の発見は北畠氏の盛衰であった。なぜ北畠氏に興味を持ったかというと霊山には南朝方の城がありそれが滅ぼされたとき炎上したときわが町に落ちのびた人が現実に歴史的に存在して子孫になっていることだった。そしてもう一つ都路村というのが北畠氏と関係して天皇ゆかりのものとして落ち延びて都路村となったのかもしれないという歴史的因縁であった。
946年1月18日、南朝の子孫と名乗る熊沢寛道が自分こそが正統な天皇であると主張しているということが、米軍系の新聞「Stars and Stripes」で紹介されました。
明治の初め、東北巡幸した明治天皇は、かつて南朝の拠点だった福島・霊山(りょうぜん)を遥拝し、親房らをまつる霊山神社を建立させます。
同じころ、伊勢北畠家(親房の三男・顕能が初代)の子孫が「かつて南朝に仕えたので華族にしてほしい」と申請しますが、明治帝は認めませんでした。そこで村上源氏の直系の久我(くが)家の男子に北畠姓をつがせ、男爵にして「北畠をまつれ」と霊山神社の初代宮司にします。
訴えによれば、熊沢氏は南朝の最後の天皇である後亀山天皇の孫にあたる
熊野宮信雅王の子孫であり、同家は代々自分の家こそが本来の天皇の正統であるとして「即位」をしてきたということでした。実際、寛道氏の父である熊沢大然氏も明治時代に、こちらが正統だという訴えを起こしています。
1951年には熊沢寛道は東京地方裁判所に自分の正統性を認めるよう裁判を起こしますが、天皇は裁判権に服さないとして門前払いを受けました。その後は彼は特に大きく報道されることもなく1966年死去しています。
戦後の天皇がアメリカに負けたとき権威が失墜してアメリカ側の画策もありアメリカによって報道された。その後昭和天皇は各地を回り以前として国民を励ましそれが受け入れられたので熊沢天皇は忘れられた存在になった。しかしこの時やはり昭和天皇が存続するかどうか危機にあったのだ。だからこそ第二の天皇が歴史的因縁で都路村の隣の葛尾村からもでてきたのである。ここは私の親の出身地でもあった。そしてこの北畠氏の本籍の地は三重県にあった。そこで北畠は大きな勢力を持ち南北朝時代に活躍したのだ。この時全国に様々な天皇が自分こそ天皇家を継ぐものだと主張した。
伊藤天皇:南朝皇統の自天王の末裔と名乗る。自天王は、後亀山天皇の四代目にあたる皇孫。
葛尾天皇:南朝の長慶天皇の直系を自称(福島県・双葉郡葛尾村)
工藤天皇:明治天皇の曾孫を自称(長野県・上田市)
熊沢天皇:割愛
酒本天皇:南朝の後亀山天皇の後裔と自称(岡山県)
佐渡天皇:順徳天皇の末裔と自称(新潟・佐渡島)
佐藤天皇:高倉天皇第一皇子の直系と自称(岡山県)
外村天皇:後醍醐天皇の末流を自称(名古屋市)
竹山天皇:大覚寺統天皇家の末裔を自称(浜松市)
長浜天皇:安徳天皇の末裔を自称(鹿児島県・硫黄島)
三浦天皇:南朝の長慶天皇の直系を自称(愛知・豊川市)
熊沢天皇は名古屋の雑貨商だった。
北畠氏館跡で見つかった「城館としては最古の石垣」が地中探査で全長80メートル になることが判明した。11月から発掘調査が始まる。
http://www.ztv.ne.jp/web/misugimura/kyuseki/saiko.html
北畠氏はこうした古い歴史をもった一族であった。山形の山寺の近くにも北畠氏を祀る神社があった。東北にはゆかりの一族なのだ。しかし余り知られていないし注目されていない、歴史の地層が下になっているからそうなる。歴史の化石というわけではないがやはりなじみがないのだ。ただそうした歴史もあるとき亡霊のようによみがえってくることがある。それが熊沢天皇だった。
そしてもう一つ注目したのが
この間、時代は戦国の世と移り変わり、永禄12年(1569)に至って織田信長が大挙して伊勢の国に侵攻、これを迎え撃ったのが剣聖塚原卜伝から一の太刀を伝授された剣豪大名として名高い北畠具教でした。文武に秀でた武将と評された具教は、大河内城に主力を集め、5万ともいわれる織田軍を相手に一ヶ月余にわたって激戦を繰り広げました。しかし、圧倒的な織田軍の前に、信長の実子茶箋丸(ちゃせんまる)(後の織田信雄)を北畠家の養子として家督を継がせることを条件とした和議に応じざるを得ず、ついに織田の軍門に下るところとなります。そして、天正4年(1576)、信長の謀略により、旧家臣の襲撃を受け、具教は49歳で自刃して果てることとなり、ここに名族北畠氏は名実ともに滅亡します。
古戦場ともいうべき大河内城跡、阿坂城跡がそうした北畠氏の栄枯盛衰を物語るかのように、今もひっそりとしたたたずまいをみせています。
信長は大筒を船に乗せて伊勢の北畠氏の居城を
海上から砲撃し鎌倉以来の名門を近代戦術で滅亡させます。
ここに信長がでてきたことでそうか信長に北畠氏は滅ぼされた。信長は大筒を船に乗せて伊勢の北畠氏の居城を海上から砲撃し鎌倉以来の名門を近代戦術で滅亡させます。
これはやはり信長という時代の先端を行く武将に古来の武家が滅びてゆく姿を目の当たりにした。武田の騎馬軍団も鉄砲隊に滅ぼされた。その末裔が相馬藩にて流れてきたりしている。そもそも塚原卜伝などという伝説上の剣豪がでてくること自体相当な古い歴史を物語っている。いづれにしろ北畠氏は古い歴史の地層に埋没してしまった。でも都路村(市町村合併問題)でも書いたように阿武隈との古い歴史の因縁を語るのが北畠氏であったので注目したのである。 そもそも天皇正統制がどこにあるのか、血筋を受け継ぐのが天皇なのかこれも女系天皇になると明瞭でなくなってくるし三種の神器があるわけでもない、古い宮家の復活などもとりざたされているが南北朝時代も天皇の正統制で争われた。天皇問題もやはり現代では一つの曲がり角にきているのかもしれない、実際は神武天皇さえ架空の存在だとか不明であっても国にはそうした権威となるものが必要なのである。日本では日本の国の淵源を基を天皇に求めている。だから天皇が欠かせないのである。天皇がなくなるこは日本人のアイデンティティも喪失するから無くせないのである。
セントレア騒動の顛末は・・・(相馬中央市、相馬中郷市はどうか・・・)
セントレア、南セントレア、中央アルプス市、四国中央市、・・・・・
セントレアというのは日本の中央ということか、外国の人にもわかりやすいわな
四国中央は四国の中央なのか、他はどうなるんだ、四国はずれ市なんかだれもつけないわな
中央アルプス市というのはなんだ、南アルプス市とかに対抗した名前か
そういうえば、南相馬ももとは原町市は中の郷となっていた、つまり中心の郷という意味だ、それが相馬に城が建てられ相馬が相馬市となった、これもまだ戦後のことでありもともとは相馬ではなく中村だった
どうだい、南相馬だと相馬の脇役みたいになるから相馬中央市もいいんじゃないか、相馬中郷(なかのごう)市というのも前は中郷だったんだから無理ではない、歴史的継続があるんだよ
それよりよ、青森県に日本中央碑というのがあるの知っているかい、日本(ひのもと)中央碑と書いてある、これは江戸時代にはなく地中に埋もれていたらしいな、まあ、偽物だというが、中央にするとなんかそこが国の中心みたく見られるから得になるわな、四国中央は別に四国中央じゃないけどな・・・・・
人間というものはさ、誰でも個人でも中心になりたいんだよ、脇役ではいやだ、主役になりたい、これは国でも地域でも同じだよ、中国といえば中華だよ、中華とは世界の中心という意味だ、世界の中心たる国に日本のようなちっぽけな国が臣下の礼をとらないのはけしからんとなるのさ、人間の歴史は世界の中心になるべく戦ったのさ、ペルシャしかりロ-マしかりモンゴルしかりヒットラ-のナチスしかり、そして日本もアジアの中心を夢みたのが太平洋戦争だったんだよ、・・・・・・
昨日話した北畠氏の系統なのか葛尾村(かつろう)の葛尾天皇もさ、都路村も実はここは日本の都だという意識からつけられたかもしれんよ、南朝の中心の城が霊山にあったんだからこれは歴史的根拠があるんだよ
北畠氏が作った最古の城の石垣が発掘されたことも 大きなニュ-スだよ、ホメロスのトロイだ、シュリ-マンのトロイの城の発掘だ、神話は本物だった・・・・・
セントレア空港ができて知多半島の端が南セントレアとしたことは騒動だった。取り消されたらしいがこれもセントレア空港にあやかりたかったのだ。中央でありたい中心でありたいというのは古代から日本中央碑とかあるようにまた葛尾村から葛尾天皇がでたようにその人間の変わらない意識からきている。その中央覇権争いが戦争になっていた。今は名前だけの争いだからいいけどそのために血なまぐさい戦いをつづけてきたのが人間なのだ。ともかく中央と名付けるとそこが中央のように錯覚する人がいる。南相馬だと明らかに中央は相馬市であり損なのである。だから相馬中央市とか相馬中郷市とかつけるのも一案なのである。中郷市とはもともとあったから偽物でもないし歴史的根拠があるからこじつけでない、中とつくことで相馬市に従属する感じ多少薄らぐのである。
相馬中央(中郷)市の詩
太平洋の 白波よせて 相馬中央(中郷)市
相馬流れ山の歌に 粛々と野馬追いの列
夏雲湧きて 馬集い どよめく
伝家の旗や 武者駆け上る 雲雀が原
桜井の古墳 大なり 泉廃寺跡
陸奥の真野の草原 古代を偲ぶ
阿武隈の山脈望む ゆかしき地
ここに育む 友の絆の 強きかも
二宮尊徳 仕法の地 松質実に
たゆまず 学に農工に励むべし
秋風さやか ともに実りは豊かに
新たな市(マチ) 相馬中央(中郷)市に 栄いあれ
セントレア空港
太平洋の 朝日眩しく セントレア
南より北より 西より東より
明日へ向かい 飛び来て 飛び立つ
海の青さに 映えし プレイン
夏の日ざしに 名古屋城 金の鯱
信長の城こそ 映えて栄いけり
京都に近く 東京にも セントレア
翼は目指す 海外への雄飛の心
世界に誇る トヨタや 日本の技の要
朝日の昇り 飛び立つ 万国のプレイン
万国を つなぐ空港 セントレア
未来はここに 育ぐくまれむ
セントレアはそれなりにいい名だった。詩になりやすいのとわかりやすいことである。新しい中央だという意識がここに生まれたのだ。名前によって不思議と新しい意識が生まれることがある。新しい市の名も古いもの歴史の継承が必要なのだが合併と新しいものには新しい名が必要になるのだ。だから南相馬となるとなんかただ古いものであり新しいものがない、そしてただ相馬の南という相馬の附属の市のようになり不満が残るのである。
琉球の意味とさつま市の波紋
●琉球は中国人が名付けた「流通」の意味
「琉球」と「沖縄」という2つの呼称のうち、人々が自称するのは「沖縄(うちなー)」である。その語源は「沖合にある漁場(なわ)」という意味だそうで、これは昔、九州南部の人々が漁場を求めて沖合の沖縄に渡ってきたことを示している、と首里城の案内人から聞いた。(首里城は琉球王国の首都)
一方「琉球」は、中国が命名したものだ。語源は「流通」からきているという。つまり、中国としては沖縄を、中華帝国の貿易担当として任命する意味を込めて「琉球」と呼んだのではないか、と首里城の案内人は言っていた。
オキナワの語源が沖の縄(なわ)であった。縄張りとかあり沖の自分が縄張りにしている漁場ということなのか、漁業中心の世界から生まれた言葉である。それぞれの漁場をもっていたのか、漁師にとって漁場は大事であるから名付けられた。ここで注意すべきは中国で命名したのが琉球でありこれは流通する意味として中国が名づけた。ここで中国が名付けたから歴史的に中国の領土だと中国側が主張してくくかもしれない、命名はその国に属することを意味しているのだ。
●さつま市の波紋
サツマイモのことを薩摩ではリュウキュウイモと呼んだ。1609年、薩摩藩主島津家久は3000人の兵で琉球に攻め込み、以来江戸時代を通じて薩摩は琉球王国を支配した。実際薩摩の国中に広がるのは、1705年に前田利右衛門が琉球から持ち込んだのがきっかけである。琉球ではサツマイモのことをカライモというが、カラは唐であり、すなわち中国のことである。琉球は明との貿易で繁栄し、特に福建へは頻繁に琉球からの船が出入りしていたようである。1605年、野国総管(のぐにそうかん)という人物が、中国でサツマイモの栽培法を学び、琉球に持ち込んだと言われているが、その後、総管から栽培法を学んだ儀間真常(ぎましんじょう)が琉球中に広めた。
薩摩というのは確かにこの字を書ける人は少ない、なぜこのようなむずかしい当て字にしたのかわからない、サツマといえばサツマイモでありサツマアゲなのだ。このサツマアゲも実際は琉球から入ってきた。
@北山易美著「さつま漁村風土記」の中に
・弘化3年頃に島津藩主斉彬の時代に琉球文化との交流があった。
・魚肉のすり身を澱粉とまぜて揚げたチキアーゲなるものがあった
・鹿児島語化してチケアゲ、ツケアゲとなった
という説が書かれており、これが琉球伝来説の発祥と言われております
オランダを知るインタ-ネット案内でも書いたがドイツ語がオランダ語を通して日本に入ってきたように中国(唐)のものは沖縄経由で薩摩藩に入ってきた。カライモ→リュウキュウイモ→サツマイモとなったのだ。今でも赤い色の変わったサツマイモを沖縄で作っていてこれが結構うまいのである。沖縄で土壌が豊かではないがあの赤いサツマイモは沖縄にあっていたのである。ちなみにサツマイモの産地が今芋焼酎で脚光をあびているのもこき焼酎のル-ツも沖縄だという人がいるから薩摩は沖縄と結びつきが強いのである。
さつま市がさつまいも市だ、さつまあげ市だとか連想してしまうのはひらがなが威厳がないからだ。漢字にするとイメ-ジ力があり相馬は誰だって馬をイメ-ジするがこれは別に馬とは関係ない当て字だったのである。韓国のハングルは民衆に読みやすいように字を作り覚えさせたことに功績があったのだが字にイメ-ジ力がない、漢字にはイメ-ジ力がある。韓国の地図でも漢字で書いているとわかりやすいしその場所のイメ-ジもわくのである。ハングル語ではイメ-ジが全然湧いてこないのだ。ひらがなも同じでありイメ-ジがわいてこない、ひばりの市というのも一応ひばりをイメ-ジするが軽いものとなりすぎて威厳がなくだめだったのだ。英語もアルファベットもイメ-ジ力がない、漢字だけが今や世界で表象文字として絵文字的なものとしてイメ-ジ力あるものとなっている。ただ漢字自体中国で簡略化したようにむずかしくて覚えるのが大変だから効率的ではない、そこが問題なのである。だから漢字を簡略化したものとひらがなを結びつけるのは効率的になる。中国の漢字だけの文を読んでいると頭が痛くなるからだ。
いづれにしろさつま市となるとサツマイモとかサツマアゲをイメ-ジする人がふえてくることは確かである。JAPANが漆だったように漆器として有名だったように中国が絹の国、セリカと呼ばれたようにシルクロ-ドどもあったようにキプロスが銅のとれるたところだからヨ-ロッパではキプロスは銅のことを意味するようになったようにその土地の産物が国の名になることはわかるがさつま市は露骨にサツマイモ市やさつまあげ市になってしまいかねないのが問題なのだ。
セントレア(中心)志向の歴史(中村は中心の村だった)
文化は継続性であるが、技術は変化を司る。
技術はいつのときも文化の危機を創り出す
――S・ブカットマン(ニューヨーク大学教授
●歴史的継続
●地理的妥当性(方角)
●新しさ、独立性
●合併の地域の継続性(合成地名)
地名はだいだいこの四つの成分からなる。この四つの条件を十分に満たすのは不可能である。相馬は歴史的継続性として名付けられたが実際は相馬という地名はなかった。中村藩が先であとに相馬藩がでてくる。地名は小地域が地名であったのだ。村の名が江戸時代まで小さな地域中心に営まれていたから小さな地域が地名の基である。中村とあると村の中心の意味だった。本郷というのも中心という意味である。相馬という地名はなく中村があり中村城になっていた。江戸時代までの村は農民の共同体として歴史的に形成されたものを藩で行政区画としてまとめた。近代の村は上からの要求で合併を強制されたりするから不自然になる。廃藩置県もかなり無理して県が作られたからそのときももめたのである。福島県がなぜ福島県になったのかこれもかなり歴史を無視したものであった。だから福島県は最初は会津と中通りと浜通りの磐城国に分かれていたのだ。この三つが一緒になったことも無理があったのだ。
南相馬に不満があるのは相馬の南となれば外から見れば中心は相馬市になってしまうからだ。南仙台とかはかえって仙台という中心地から南にできた新興地だからあっているのだ。南相馬の場合は相馬市が仙台市のように城下町から大きくなっているならば問題がない。でも相馬市より原町市の方が人口が多く発展したから南相馬となると抵抗がでてくる。セントレア空港という大きな空港ができればその大きな中心にあやかって南セントレアがいいとなるのもそれなりに一理あったのだ。でもこれは南仙台とか名付けるのとは全然違っていた。セントレア空港からは離れているしセントレア自体できたばかりだから歴史的継続もない、注目させようとしたのは良かったがあまりにもセントレア空港にあやかりたいという知名度を得たいというので非難されて取り消しになった。つまり現代は外部を観光などで外を意識する、外部から注目をあびたいということで本来の地名の歴史的継続がないがしろにされる。
太平洋市も極端に広域的地名として批判され取消しになった。つまり太洋市とか太平市なら問題がなかった。それは固有地名である太平洋のことではないからだ。太平洋のなかに島があってそれを太平洋島とは名付けない、それではその島を確認することもむずかしい、太平洋のなかにあってもそれぞれの違った固有の名前が必要なのだ。現代はどうしてもグロ-バル化で中心志向が強くなりすぎた。中心からはずれると経済的にも取り残されたような感じになってしまうのだ。そもそも明治時代になり過度な中央集権になりすぎたのだ。最初なぜあんなに鉄道を通すことに日本全国で反対したのが不思議である。鉄道を通すことが全国で反対したから鉄道の駅は街の中心地から城が中心地だったとするとたいがいはずれにある。新潟の新発田(しばた)市も城からかなり離れたところにありそこに足軽長屋があった。仙台も今の駅のある所は青葉城があったところからはかなり離れていてそこに二十人町とかがある。
二十人町は、かつて城下町時代に鉄砲足軽が配された鉄砲町と時を同じくして割り出された町で、鉄砲足軽のなかでも特に武功のあった二十人衆に割り当てられたことが、この名前の由来です。北接する鉄砲町とともに、大町から名掛丁を経て陸前浜街道へと続く主要な街路に位置していることから、古くから街村的な成長を見せていたようである。
http://www.chiikibun.com/sendai/09-higashiguchi/higashiguchi.html
城の中心に城主を囲んで譜代の上級武士が居住してその回りに町屋があってその外郭に下級武士、足軽などが住まわされていた。新しい文明の鉄道はそうした城の中心の外郭にできてそこが逆に町の中心地として発展するようになったのだ。明治維新が下級武士や豪商などが加担して成し遂げられたごとく明治の時代は鉄道が大きな役目を果たしてそれが城の中心地からはずれたところに駅が置かれたというのも
新興勢力が新文明の鉄道により開けたということと通じていたのだ。
鉄道が嫌われたのは尋常ではない、その証拠が岩手県の江刺市は鉄道そのものを通すことに反対したのだ。だから鉄道は今も通っていないから鉄道で旅するものにとっては江刺というのが記憶にないしわからなかった。それで新幹線が通ったら名前だけでも入れてくれと水沢江刺市駅となったのである。これで確かに江刺とアナウンスされるから江刺の近くを通ることは記憶されるのである。時代により中心になるのは変わる。中村は最初は中心の村の意味だった。鉄道により駅を中心にした街作りになり航空時代になると空港が街の中心、国の中心、セントレアになるというのも時代なのである。
最初の警句のように地名は文化であり継続性がある、伝承されるべきものである。ところが汽車であれ自動車であれ飛行機であれこれは文化を歴史を破壊することにもなる。だから鉄道にあれほど反対したのである。南セントレアには全く歴史の継続性がない、セントレア空港の名前は全く新しくできたものだからあっていたが南セントレアにはそれがなかった。いづれにしろ交通の社会の影響は計り知れない、江戸時代の北前船から鉄道⇒自動車⇒飛行機・・・社会がこの技術の変化でまるっきり変わってしまったものになった。今回の合併問題の地名も歴史的文化の継承としての地名と技術の変化の間で問題が起きたのである。
相馬藩(市)と中村藩(市)の相違は何なのか?
版籍奉還から廃藩置県
国名 陸奥 弘前藩 黒石藩 斗南藩 陸中国 盛岡藩 陸前国 仙台藩 磐城国 白石藩 仙台県 中村藩 中村県 平県 磐城平藩 磐城平県 湯長谷藩(ゆながや) 湯長谷県(湯本) 泉藩 泉県 三春藩 三春県 守山藩(郡山) 棚倉藩 棚倉県 岩代国 二本松藩 二本松県 二本松県 福島県 福島県 白河県 白河県 若松県 若松県 若松県
版籍奉還から廃藩置県がありそのとき区割りと名前が決められた。青森県の下北に陸奥とあるのは陸奥国になっていたからである。それからなぜ浜街道が陸前浜街道というのか?それは仙台が陸前の中にありその延長上にあるから陸前浜街道なのである。しかし実際は相馬からは磐城国になっていて相馬は磐城国中村藩になっていた。磐城太田というのもその名残りである。ここは磐城国だったのだ。湯本は湯長谷(ゆながや)となっていた。湯長屋の意味かもしれん、湯治に使う長屋のような建物を意味していた。不思議なのは何故福島県になったのか?表を見る限り平県-二本松県-若松県しかない、福島県は大きな領域として存在しない、ここには何か隠された歴史があり福島県になった。県庁所在地を福島市に置いたから福島県になった。福島県になる必然性はここになかったのだ。
相馬藩というのも中村藩はあるが相馬藩といっていない、中村の地を支配したから中村藩としてあった。相馬氏が支配しても中村藩だった。相馬というのはこの一体を呼ぶ地名となっていない、相馬は地名化していないのだ。相馬氏はあってもそれが必ずしも相馬藩となっていないし中村藩であり中村という地域を領するものとして城があった。ただ中村藩という呼び名も明治以降の版籍奉還の時に言われたのであり藩というのは明治以降に言われたものだということも知らなかった。
中村藩主の相馬市の起こりは非常に古く、『相馬系図』によれば相馬小次郎平将門を祖とし、下総(南関東)を本拠としていた。将門から12代目に当る相馬師常は、同族の千葉氏より出て相馬氏を継ぎ、奥州相馬の初代となった。
毛利家中とか島津家中と呼ばれていて、長州藩だの薩摩藩だのとは呼ばれなかったわけでしょう?
正式には藩の所在地で呼ぶんでしょ。
長州藩は萩藩、薩摩藩は鹿児島藩、尾張藩は名古屋藩っていう風に。
いや、江戸時代には「藩」って呼称自体がほとんど使われなかった
んでしょう?
むしろ非公式の場でこそ、○○家中としか呼ばれなかったんじゃないのか?
そうらしい、仙台家中松原新左衛門と申者之鎗持とか文書にある
江戸初期には、武士は大名個人の家臣であるという考えで通っていたので、○○家中という言い方をしていたが、時代が下ってくるにつれて、藩は大名の所有物ではなく、法人のようなものであるという考えが浸透し、幕末ごろには武士自身も「○○藩士の某でござる」と名乗るようになっていたそうな。
名は領主が居住する城または陣屋のあった地名で呼ぶのが正式。
だから、松前藩と言うのは間違いで、正しくは福山藩(明治元年から館藩)。
南部藩→盛岡藩、伊達藩→仙台藩、相馬藩→中村藩が正しい。
ただし、久保田藩は明治4年に正式に秋田藩と改称している。
知藩事というのは政府(天皇)の任命する地方官であって,かつてのような領地・領民を支配するお殿様=領主ではないのです。知藩事の地位を世襲することは前提となってはいて,いくつかの藩では廃藩置県までの2年の間に代替わりがありましたが,その任免の権限は天皇が握っていました。実際,明治4年7月(廃藩置県の直前)には藩内で起きた偽札事件の責任を問われて黒田長知が福岡藩知事を罷免され,かわって有栖川宮熾仁(たるひと)親王が知藩事に任命されています。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huhanken.htm
江戸の相馬藩邸は相馬の家中のものとなっていたのだろう。中村藩とは使っていなかった。相馬藩士と名乗っていたのか?江戸で通じたのは相馬氏家中のものであり中村藩ではなかった。中村藩というのは明治以降に言われた。明治維新の性格はここに明確に現れている。古代の天皇の国に日本は逆戻りしたのである。知事の任命権が天皇にあったというからその権限が大きいものだった。
公武合体の狙いで将軍徳川家茂と政略結婚した皇女・和宮(かずのみや) が当初婚約していた相手である有栖川宮熾仁(たるひと)が挙げられる。この人はその後戊辰戦争で東征軍大総督として関東まで出向いて江戸城明け渡しにも立会い、明治になってからも特に軍関係の要職を歴任し、西南戦争やら日清戦争にも関与して明治28年(1895)に亡くなっている。
盛岡藩(維新時は白石藩と改称)最後の藩主甲斐守利恭は廃藩置県によりこの敷地を手放し、2,3の手を経て明治29年有栖川熾仁親王の邸宅になる。この間、明治4年(廃藩置県)から29年の事はわからないが明治初期麻布は、大名屋敷跡地でお茶、桑の栽培や酪農、放牧が奨励されていたらしい(桑茶令)ので、ここで行われていてもおかしくはない。(後年、これらの事業は失敗し、撤退しているが維新後膨大な数の大名屋敷が主を失い荒れ地となったので、行政側も苦慮したらしい。)
天皇の宮家がここで現実に武家に代わり土地を取得したように大きな権力を得ることになっていた。象徴だけではない宮家は武家の代わりとして権力を持つようになったのだ。だから宮家は自ら先頭に立ち江戸幕府と戦ったのである。
一般的に氏姓を地名にすることは日本ではまれである。伊達藩でも仙台になったし南部藩は南部氏が治めていたが盛岡になった。たいがい氏姓ではなくその元あった地名を市の名前にしているのだ。ではなぜ相馬が相馬氏の氏姓の方にこだわるようになったのかこれは一重に相馬野馬追いという祭りがありこれが外に宣伝するのにいいからである。相馬氏となったのは戦後10年後くらいでありその前は中村市だった。野馬追いという祭りがあるから相馬氏にこだわり町の名前になったのだ。それはどういうことかというと相馬では未だに形だけでも江戸時代の侍支配を残したことになる。現実相馬氏の子孫が生きていてその子孫の子供の相馬という姓の若者が大将として東京から迎えられる。殿様がまだ相馬では相馬野馬追いのために生きているのである。
こういうことは他ではなくなっている。野馬追いという祭り中心の街作りになるからそうなる。セントレアが国際空港として脚光をあびれば南セントレアとつけたようにこれも有名なものにあやかりたいからそうなったのだ。いづれにしろ中村市とか原町市となればその地元の住民主体の街を意識する。相馬市となると相馬一族が意識される。相馬氏の子孫、武家の子孫の街という意識が強くなるのだ。これは例えば北海道の伊達町亘理の伊達家が移住して作った町である。これは明らかに伊達家の子孫が住んで作られた町だからそうなってもすべての住民にとって違和感はない、でも相馬市というのは相馬氏がここに来る前にすでにここに住んでいた人達がいた。全部が相馬氏の武家の子孫ではないのだ。だからたいがい日本では氏姓をその土地の名前にすることはまれなのである。ここは相馬野馬追いのためにあえて相馬氏の子孫の町としているのだ。
地名の古さ(中世に鹿島町と飯館は千倉庄内にあった)
地名は土地の化石とか言うように非常に古い。だから歴史の証しになる。だからいつの時代にその地名が使われるようになったかが大事になる。岩本由輝氏の研究で相馬市は最初は宇田中村であった。伊達氏とかの領地になっていて相馬氏の領地になるのはあとだった。最初は小高に城を築き原町市の太田を根拠地とした。原町は中心の中郷であり北にあった鹿島町は北郷となったのだ。歴史はセントレアではないが中心地が大事なのだ。ただ中心地は常に移動する。日本の都も飛鳥-奈良-京都-鎌倉-江戸・・・と常に移動してきた。相馬の場合も下総(しもおさ)相馬からの相馬氏が移動してきた。だからここの相馬とか相馬流山市と混同されやすいのだ。現実に陸奥相馬と最も古い文書は間違いだった、下総相馬のことだったというのもその一例である。同じ相馬だから混同してしまうのだ。北相馬とかもあり今でも相馬市は混同しやすいが全国的には相馬野馬追いで知名度があり陸奥相馬の方が知られるということになる。でも古いのは下総相馬である。そこが相馬のル-ツになっている。
鹿島町でも最初は相馬氏が支配したのではない、岩松氏である。岩松氏は家臣の反逆にあい子供まで殺された悲劇を伝説に残している。
茨城県の野木崎(のぎざき)(守谷町)下総国相馬御厨のうち。
ここが鎌倉幕府に安堵され相馬氏の主な領地となった。
『奥相志』において「将軍足利家の傍統岩松蔵人頭義政(足利蔵人義兼の嫡男遠江守太郎義純の嫡子岩松蔵人時兼五世の孫也)は、応永十三年(一四〇七)千倉荘に封ぜられ、鎌倉より舟行して奥州へ下る」とある
その後相馬能胤氏の側女が岩松経兼の母であったため岩松氏に相伝されたとあるから相馬氏と岩松氏は本来深い関係があって行方郡の地に来ているのだ。その他に千倉庄がありこれも相馬能胤氏の娘トヨ御前にゆずられている。それで千倉とか御前内(ごぜんのうち)という地名が残っているがこれはその当時のものでかなり古いものである。
相馬憲胤譲状に陸奥国行方郡福岡村、矢河原村、小池村、南草野小宮在家とあり小池村、小宮とありこれは現に今も存在している。草野小宮という地名も今の飯館の草野にあり小宮小学校がある。福岡村とか矢河原村は今はない、地名はまた移動する場合があるから注意する必要がある。千倉という地名は千葉県にもある。つまり飯館村は最初は新館村であった。これが最初の飯館の地名でありその新館はおそらく相馬氏関係のものが建てたのであろうか、館はヤカタではなくタテであり楯であり鎌倉時代に建てられた堀をめぐらした城のような役目を果たしたとあり東北には多い、となると鎌倉時代にすでに新館というのが飯館にあったのかもしれない。
飯館は川俣に近いから川俣の方、の関係が歴史的に進出したと考えられるが実際は相馬氏が早いとなる。川俣までは小手姫姫伝説が濃厚にあるが飯館にはない、飯館できれているのだ。だから飯館は相馬藩の山中郷としてあるように歴史的には川俣ではなく相馬藩内に早くからあり合併するにしても相馬と合併するのが歴史的妥当性がある。飯館は鹿島町の地域と一体化されていた。千倉庄は飯館の草野まで及んでいた。1227年相馬能胤譲状案(正木文書)に「行方郡内 千倉庄加比草野定」とありこれを娘トヨに譲るとあるから千倉庄とは飯館の草野まで及んでいたのであり鹿島町の領域と飯館は千倉庄として一つのものとしてあったのだ。千倉庄と宇多庄がありここでも歴史的に相馬市の地域と鹿島町原町市小高町の地域は行方郡と宇多郡とに分かれた時から違っていた。最初は行方郡でありそれが中央からの大伴氏の進出で二つに分かれたのである。鹿島町の千倉が庄園の本拠地だとすると浮田国造⇒行方郡⇒真野郷⇒千倉庄と鹿島町が真野川が流れ中心地の役割を果たしていたのだ。
こうなると鹿島町の議員が飯館に合併を求めて合併推進派の村長を押したのも歴史的経過を言えば多少説得力があったのかもしれない、つまり飯館は中世には鹿島町と飯館村は千倉庄として一つだったから一つになってもおかしくないとなる。ともかく合併にはこうした歴史的経過をふまえて論議する必要がありかっこういいからと勝手に名前をつけたりするのは問題なのである。
奥州市は東北全体をさすから問題だ
新市名称検討小委員会が選考した「みちのく市」「奥州市」「水沢市」「北平泉市」「胆沢城市」の5候補について、高橋会長以外の委員40人(欠席1人)による無記名投票の結果、奥州市21票、水沢市9票、みちのく市4票、胆沢城市4票、北平泉市2票となった。
1回目の投票で3分の2(27票)以上を獲得した名称がなかったため、上位2点で決選投票。奥州市29票、水沢市11票で奥州市が3分の2以上を得た。
反対だ!ちなみに2位は水沢市。これは人口的に多いからだけ。個人的に胆沢市とかでよかったと思う。あとニュースで街のおじさんはアテルイ市がよかったっていってた。奥州市よりいい。奥州ってうちら辺だけが名乗っていいのか?!広すぎ!もっと範囲を狭めろ!はい、やりなおし!
私は水沢市民の一人です、合併で奥州市となるそうですがこれは青森県から福島県まで含む広大な地域だから大きすぎる名前と思っていた。これは水沢市以外の奥州、東北に住んでいる人なら誰でも考えることです、やはり「水沢市」に住んでいるから水沢市にしたいのが人情です。
そもそもこの奥州という呼称がいつ起こったのか、古代は陸奥(むつ)であった。ムツという言葉が何を意味しているのかわからないけどそれに陸奥をあてたのだから必ずしも漢字の意味とムツは一致していないしまるっきり関係ないともなる。どうして奥州という呼称が使いはじめたのかその辺がはっきりしないのである。奥州藤原市とか奥州管領とか奥州探題とか奥州を支配するもの奥州がつけられた。
支倉常長は 奥州王 伊達政宗の親書を 副王に手渡す。 奥州王とは なにを意味するのか ? 伊達政宗が幕府から 独立しようとしていたと意見はここからでる。 実質的には日本の国王である将軍の親書は手渡さなかったのか?
伊達政宗が奥州王と名乗るように奥州は東北という広い範囲を国とする王となる。奥州藤原市は最初の奥州王に近かった。中国でも州という区分があった。
●中国
唐になると、全土を10の「道」という行政区画に分 けられる。その下に「州」・「府」、その下に「県」が 設置される。唐時期の「州」は、それまでの「郡」を改 めたもので、例えば、「南海郡」は「広州」に改められ ている。現在の中国の地名に、「広州」「杭州」「蘇州」 「蘭州」といった、「州」と名前が付く地名が多く見ら れる
●古代
畿七道という区分もあった。「畿内」は、 山城国、大和国など5国で五畿、その他に、「東海道」 「東山道」「北陸道」「山陽道」「山陰道」「南海道」 「西海道」の七道の区分である。
●江戸時代
江戸時代には五畿七道とは別に、純粋な道として、五街道が整 備された。(東海道、中仙道、日光道、奥州道、甲州街 道)また、江戸時代には、播磨国を播州と呼ぶなど、 「州」という言葉も使われていたようである。
東北はもともとみちのくでありこれはみちのおくがつまったものだから道の奥として認識されていてそれで奥州となった。実際は道の奥州なのである。出羽は「出端」(いでは)であり中央から見た道の奥であり出てゆく広い領域が奥州だった。道州制はまさに道と州からなる。道によって区画され認識される国の形なのである。道が通じていなければ未知の世界であり支配者にとっては知り得ようもないのだから道が通じたところが国として認識した。これはロ-マの道が通じたところがロ-マ領内と認識したのとにている。
●奥六郡の奥
奥六郡(おくろくぐん)とは現在の岩手県岩手郡、志和郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡を指します。
延暦23(804)年には磐井(いわい)・江刺(えさし)・胆沢の「胆沢三郡」が成立したものと考えられます。大同3(808)年には陸奥国鎮守府が国府多賀城から移され、「鎮守府胆沢城」が成立します。
弘仁2(811)年には和我(わが)・縫(ひえぬい)・斯波(しわ)の「志波三郡」が立郡され、ここに鎮守府の支配領域「律令期の六郡」が確定しました。
跡呂井(アトルイ)アトルイという地名が残っている。坂上田村麻呂ら大和朝廷軍に抵抗した蝦夷の指導者「アテルイ」である。ここで大和朝廷軍と激しい戦いが行われた。志波城の南方10キロ、現在の矢巾町に徳丹城(とくたんじょう)はアイヌ語のコタンに通じている。一部でもアイヌ語が残っているとするとアイヌが交じっていたことも確かとなるが蝦夷はアイヌだけではない、大和朝廷に反抗する人達全部をさしていてその中にアイヌもいたのかもしれない、北海道のアイヌが蝦夷とならないことも確かである。
歴史をふりかえると奥州市となる処は蝦夷征服の最後の興亡の地だから奥州市とういのも外部からとやかく言われなくてもいいとなる。しかしこの奥州市というのも太平洋市とか北九州市とか同じで外部のものから見れば納得がいかないものがある。広域地名には問題がある。国名として陸奥とあれば表のように青森でありそこに陸奥とあっても許される。岩代町は岩代国があったからついた。北九州市は実際に北九州という広い範囲の市として生まれた。それ以上に九州市としたと同じなのだ。それはまだ狭い範囲であるが奥州市というのは東北全体のことである。奥州とついていれば奥州相馬とかも奥州であった。奥州とつけたときそこにすでに東北全体をさしていて奥州の中心が奥州市という錯覚をもたらす。奥州とあり奥州市となっていればそこが奥州、東北全体を支配した中心地のようになってしまう。地名は一地域の名にするのが普通である。白神市とか知床市より奥州となると広いのだ。日本という国名があり日本市などと誰もつけない、岩代とか陸奥とか県内だったらありえるが奥州市となると東北全体であり東北全体に影響するのだ。文献には必ず東北全体が奥州となっているからこの奥州市はまぎらわしくなる。奥州水沢市とかであれば問題ないのだ。『寛延奇談』寛保2年(1742)巻1に収められている「奥州会津細田村之百姓義経之御判物所持之事」である。奥州・・・の次に国名-村名がくるので奥州市となるとまぎらわしくなるのだ。
地名をつけることは占有すること、縄張りを宣言することでもある。ここは自分たちの土地だということを宣言することである。奥州市と名付ければ奥州、東北全体をさしているから東北全体が名前だけにしても領有されるような錯覚をうむのだ。韓国が日本海をそこは日本の海でないから東海にしろというように勝手に東北全体をさす奥州市と名乗るのはおかしい。奥州要(かなめ)市とか奥州江刺市とかであれば問題はない、奥州の一部として存在すると見るからだ。みちのく市というのもやはりみちのくは東北全体をさすのだからそぐわない、何か合併は名前にしても良く議論もせず急いで決めている。
水沢市民の匿名発言
私は水沢市民の一人です、合併で奥州市となるそうですがこれは青森県から福島県まで含む広大な地域だから大きすぎる名前と思っていた。これは水沢市以外の奥州、東北に住んでいる人なら誰でも考えることです、やはり「水沢市」に住んでいるから水沢市にしたいのが人情です。
名前としては北奥州市とかなら多少許せるのかもしれない、何故なら岩手県以北は北奥州であり南は宮城県と福島県でここは南奥州と歴史的に別れているからだ。北九州市より北奥州市となると何か歴史的なものを感じるからいいともなる。
歴史を無視した地名の問題(小牛田が美里でいいのか)
小牛田町・南郷町合併協議会は5日、第5回協議会を南郷町で開き、合併後の新町名を「美里町」
山神社(小牛田町)
小高い丘さえもない平坦な小牛田町に山の神様がいる。もともと山の神は、秋の収穫が終わると山にこもるが、春には田に降りて豊作、安産の神になる。だから大崎平野のまん中に鎮産していても不思議ではない。 山神社の縁起は古い。平安末期から数えて850年余の歴史を持ち、県内外の主に善女たちの信仰を集める。大抵の人は「やまじんじゃ」と読み、町の案内書には「さんじんじゃ」とある。小山田家30代目の現宮司によると、「やまのかみしゃ」が正しい。
昔は小牛田と言えば蒸気機関車の基地で、機関車トーマスに出てくるような汽車を回転させ方向転換する装置があって、わくわくしたものです。
山神神社は、小牛田から古川へ向かう幹線道路沿いの、こんもりとした杜の中にあります。
結構あちこちにあるのですね。そこも宮城の小牛田山からの勧請だそうです。
そういえば、白石インターの直ぐそばの苅田峰神社の入り口でも見たことがあります。
どうも小牛田山は神社の入り口にある傾向があります。
お産で鳥居をくぐれない女性のために入り口にあるのでしょうか?
すると、信夫山の小牛田山も比較的山の麓にあった可能性が高いですよね。
ひょっとしたら、もともと信夫山にあった山神様が、「山神と言えば小牛田だ」ということで、後から小牛田山が付けられたなんてことはないでしょうか・・・・
小牛田と南郷町が合併して「美里町」になるのも納得いかない、小牛田は路線が交差する所だから鉄道の旅では駅におりたりする。この小牛田は福島県でも私の町にも必ず小牛田神という石碑がある。なぜ小牛田なのかこれもよくわからない、小牛田と山神はセットになっているらしい。山神という碑はどこにでもある。その本山が小牛田になるのか?小牛田というとどうしてもその碑を思い浮かべる。小牛田神への信仰があったのだ。田の神はもともと山の神の信仰であった。山の神が実りをもたらすものだという信仰も不思議だが昔の人は一見科学的でないものでも実は自然の中で働くものだから自然の中で生きる智恵を身につけていた。いつ種をまく時期を桜の花咲く時期で知ったから種蒔き桜とか名付けたり自然を生活の中で知って応用していた。それが習俗とか文化として伝えられてきた。自然というのは山と平地と海岸と海とかすべけを別個のものとして分離しては存在しない、地球の生態は一つのものとして存在するし一つとして機能するようになっている。山と平地が別個のものではなく山の森に水が貯えられ山から水が流れ平地をうるおす、稲作と水は密接な関係にありだからアガタ(上田)が山の上の田が最初に稲作が行われたところでありそこが県(あがた)となった。最初の国は上田(アガタ)-県にできたのだ。だから山の神が日本では基にあるようになった。
これはインドネシアのある漁村では鯨をとったら山に住んでいる人にとれた鯨をもって分けるのである。海の民はあとから来た民であり山に住んでいる人は先住民でありそして鯨をとれるように山の神に祈るのだ。これも山で鯨をとれるわけではないが山の神に鯨をとれるように祈るということがある。それとにていて山の神が平地の神であっても不思議ではない、稲作では共通の神となりうるのだ。つまり自然の智恵を自ずから身につけていてそれが信仰になったともいえる。こうした自然にのっとった生態系を乱さない生活が文明によって破壊された結果、自然を分断して考えるようになったりする。文明人は賢い進んでいるというが逆に自然の智恵から離れ文明優先の社会は様々な歪みももたらしたのだ。今の文明は非常に歪になっているのはそうした過去の自然の中に生きていた智恵の喪失があるからだ。
ここで問題なのは小牛田というそうした謂われある名前が消えてしまうことである。小牛田といえばどうしても小牛田の古い碑を思い浮かべる。湯殿というのもそうである。湯殿の碑と東北とは欠かせない歴史が刻まれている。湯殿には湯治に行った農民の歴史がある。今必要なのは余りにも文明化し欧米化した社会を過去から問い直し再認識する必要がでてきたことなのだ。だから私が江戸時代に回帰するというのも国風文化への回帰現象も自分だけのことではない、日本人が今それを感じているからそうなっているのだ。
いづれにしろ「美里町」と美をつけただけで何の意味もない、茨城県にこの逆の里美村とかあるがこれも同じような名付けかたである。美浜町とかもそうである。美だけつけるだけで名前の重みがない、もちろん名付けかたは歴史を考慮するとかなりむずかしいからなんともいえないが余りにも歴史を無視した簡便な名前が多すぎる。美里町となったら小牛田という歴史の名は全く思い浮かべないし完全に消えてしまうのである。
鹿島町八沢浦
和歌山県などにも美里町があるぞ!同じ名前はまぎらわしいぞ
鉄道ができて文化の破壊、地名の破壊が起きた
(常磐線湯本の湯長谷は湯長屋か)
●明治以降の鉄道が歴史の継承を寸断
明治に鉄道ができたことは大きな変化だった。江戸時代までは徒歩か馬で旅していた。そして関所があったから境界を常に意識した旅であり容易に旅はできなかった。パスポ-トの手形をもらいようやく関所を越えることができた。江戸時代は生活は厳しく管理されていた。長屋にも木戸があり木戸番までいて出入りがチェックされていた。いたるところに木戸があったのだ。常磐線に木戸駅があるのはそのためである。鉄道が足となったとき歴史とかその土地すら意識できなくなった。例えば峠は手向(たむけ-とうげ)からきている。
八十氏人の手向する 恐の坂に幣奉り・・・・・
八十氏人とは多くの人々がその坂を越える時は手向けして幣奉りしたのである。峠とか境界とかを常に意識するのが旅立ったのだ。それが鉄道になった時、境界の意識が喪失した。勿来の関であれ白河関であれ今であれば電車であれ車であれ一気に過ぎてゆくから意識しないのだ。ということは何なのか歴史を意識しなくなった。その土地の持つ霊力というか地霊というか別な土地に行く恐の坂はなくなったのだ。科学技術は歴史を文化を破壊するのだ。
文化は継続性であるが、技術は変化を司る。
技術はいつのときも文化の危機を創り出す
――S・ブカットマン(ニューヨーク大学教授)
江戸時代から明治時代になりそこで文化の継承の大亀裂が生じてしまった。それは鉄道が大地を疾走して大地を寸断してしまったのだ。これは廃藩置県のときの合併でもそうである。今まではあった文化の継承としての地名の破壊だった。これはさらに飛行機時代になりセントレア空港とか南セントレアと名付けられたのもさらなる文化の破壊となる。かつて道は稠密に大地の上に連続して存在していた。それが鉄道により車により飛行機によりその連続性は破壊されたのだ。だから市町村合併の名前にしてもいいかげんな歴史を無視した名前やらかな文字の名やら横文字やらわけのわからない命名のしかたになる。それはとりもなおさず明治以降の鉄道施工によることが影響しているのだ。
●常磐線の起こりと湯長谷(湯長屋)の意味
そもそもこの常磐線の起こりは常磐炭鉱から起きたのだ。東京にエネルギ-源となる石炭を運ぶことが汽車の大きな役割だった。だから常磐線になっている。その後炭鉱はなくなりそのあとにハワイアンなどの娯楽施設が作られた。江戸時代は磐城には湯本があり湯長谷藩があった。
湯長谷藩は、平藩から分かれてできた。江戸時代中期に平藩主だった内藤家の忠興(ただおき)が、三男政亮(まさすけ)に領内の開墾した新田を分け与えた。1670年(寛文10年)のこと。7年後には居城が完成し、城下町を整えた。といっても規模は1万石の小藩で、居城も陣屋程度だったという。
こういう小藩があったのも江戸時代である。阿武隈山中の小浜藩もそうである。ここでなぜ湯長谷という名なのか?これは湯長屋ではないか、湯本があり湯長屋、湯+長屋があった、湯治場があった場所ではないか、とすると湯長谷(湯長屋)となると何かそこに昔を偲ばれるものがでてくる。湯長谷(湯長屋)でゆったりしたいなとかなる。最近湯治形式の宿がでてきた。中高年が多くなるから秘湯ブ-ムとか湯治のような形式の旅もいいとなる。ここで問題なのは三宅島はもとは焼島と言っていた。今日昼のおもいきりテレビで火山灰で焼き物を益子の陶工が作った。その名前が御焼であった。本来この島は御焼島の方がふさわしい名だったのだ。漢字の当て字にはかなりこういうのがある。埋川や埋沢を梅川や梅沢にした。実際は埋めた所だが
変えてしまった。だから元の状態がわからなくなってしまった。合成地名もそうである。元の状態がわからなくなる。
福島県いわき市常磐上湯長谷町山ノ神前・・・という地名にも昔が偲ばれるのだ。なぜ今私がこんなに昔の回帰を望むのだろうか?それはそもそも現代の過度な文明化が自然環境を破壊しただけでなく人間の心まで破壊したからである。だからこそ先祖帰りが必要になっている。過去と結びついた時、歴史との連続性を感じた時に心は安らぐのだ。余りにも鉄道や車や飛行機の技術の発達で歴史が稠密な点として存在した歴史が見失われてしまったのだ。情報もまたマスコミ中心であり地域の情報など細かい情報は無視されてきた。インタ-ネット時代になり逆にそうした地方の点の情報歴史を再発見する、結びつけることができるようになった。ルネサンスとは明治維新でも古いものに帰り先祖帰りして改めるという意味である。新しいことは古いことに一旦帰り改めることなのだ。技術は古いものを簡単に破壊してしまうが文化を破壊する、しかし精神は文化は継承に意味がある。継承なくして文化の再創造(ルネサンス)はありえないのだ。国風文化というキ−ワ−ドで探す人も多くなったのもやはりそうした風潮が強まっているからである。
湯本のさはこの湯の由来は・・・(地名への愛着の喪失はなぜ)
「あかずして 別るる人の 住む里は さはこの見ゆる 山のあなたか」
997年捨遺和歌集
●これは湯の岳ともいい、湯本とか磐城を象徴する山だった。ここいわき市湯本は《佐波古 さはこ》、福島市飯坂は《鯖湖 さばこ》、宮城県鳴子は《沢子 さわこ》の御湯(みゆ)と云う。
●神社の西方にいわき湯本のシンボル湯の岳(598m)がある。徳一は湯岳山腹に湯岳観音堂を建て、そこに《戒》《定》《慧》三学の箱を石に納めた。 1mばかりの方形の石が三つあったのである。そこには三箱石(さはこいし)と書いてあった。あの三学を納めたという謂れのある石である。だからこのやまを三箱(さはこ)山ともいうのである
●その前に既にこの山は狭鉾山(さほこやま 頂上が鋭く切り立った山)そしてそ の狭鉾山は佐麻久(さまく)嶺からきているとのことである。
あかずしてとはあきないで別れる人を偲んでいる。さはこの山のあなたのあなたが住んでいる所を・・・となるのはともかく昔は遠いからめったに二回逢うことはまれである。だから別れを惜しむのだ。「さはこ」の由来の謎である。サハコとにた地名がほかにもある。飯坂の《鯖湖 さばこ》はこれとにているのか?鳴子は沢子となると沢のことかもしれない、仏教に関連づけるとそれらしいがただ単に三つの石があったからそうあとからこじつけたのか、さはこの見ゆる山のかなたかとなるとサハコ(三函)のあるそのかなたの山になるのか謎である。無難なところは頂上が鋭く切り立った狭鉾山になるのか、これも近くにあっても知らなかった。何かしら古い所には歴史や謂われがあり地名も歴史を語る。ここでは湯長谷(湯長屋)でありサハコであった。
陸奥の さはこの御湯に 仮寝して 明日は勿来の 関を越えてん 西行
地名とはこのように常に旅のポイント、歌枕になっていたのだ。その歌枕を知らないと旅にならなかった。ともかく旅人はさはこの湯を目指していたのである。湯本温泉ではなく最初はさはこの湯だったのだ。その歴史を知らないと旅は大きなものが欠落する。そこに地名の大きな意味がある。それが今はたいがい見逃している。近くのものさえ地名に愛着を覚えていないのである。汽車の旅だとどうしてもそういう謂われある場所でも通りすぎてしまうしあかずしてながめる、別れを惜しむということがないのだ。車でもそうである。余りにも早く過ぎ去ってしまうのだ。自転車でさえ意外と早く過ぎ去ってしまうだけになる。歩いて旅した時代とはその感覚は余りに違いすぎるのだ。
いづれにしろ小牛田が美里にしたら完全な歴史の破壊であり歴史を偲ぶということ消失する。それも結局すでに地元の人ですら小牛田の由来さえ小牛田のもっている意味さえわからなくなり愛着もなくなっている。地名のもっている重みがなくなったのである。地名により形作られた共同意識も喪失した。鉄道とか自動車社会とか飛行機時代がそれに拍車をかけた。その土地々のもっていた個性そのものが無視されている。電車でも自動車でも思いにふける暇もなく過ぎ去ってゆくだけなのだ。
鈍行とか普通列車だとわずかに駅の名前を頭に残りそれで私の場合は地名に興味をもったのである。これが新幹線とか急行でも駅にとまらないから駅の名前さえ記憶に残らない、ここに歴史的地名や謂われある地名を無視する原因がある。
記憶になかった江刺市の発見
岩手県の江刺になぜ興味を持ったかというと鉄道の話からだった。江刺は鉄道をひくのを拒絶した。鉄道の線が入ること自体拒否したのである。当時鉄道はどこでも嫌われたが鉄道の駅をはずれにしたりしているが鉄道そのものをひくことを拒否した。そして今になって新幹線が通りせめて名前だけでも入れてくれということで新幹線の駅に水沢江刺駅となったのだ。
明治時代の話ですが、養蚕に害ありとして鉄道敷設を嫌った角田は、東北本線の白石経由決定を提灯行列で祝ったそうです。以後、交通の大動脈から外れた角田は都市発展の面で白石、大河原の後塵を拝しました。それは百年の大計の失敗例として今も地域の語り草になっています。1968年に角田市民待望の国鉄丸森線が開通して角田駅は開業しました。白石、大河原両駅開業から遅れること81年です。現在、国鉄丸森線は第三セクター阿武隈急行となっています。では、角田駅前の散策と参りましょう。
養蚕に関する地名は多い、ここは良くまとめられている。茨城県の養蚕の地名
日本の明治以後の歴史を鉄道史から回顧すると非常に興味深い、鉄道の旅が長いから自分にとってもこれは面白いなと思った。江刺というのがなぜ記憶にもなかったかというと鉄道の旅が大半だから鉄道が通らないところは記憶になかったのである。
そもそも江刺の意味は何なのか?
江刺(えさし)
(1) 胆沢郡の前方の意味の「イサキ」が転訛したもの
(2) エ(川)サシ(焼畑)
(3) エ(川)とサス(砂州)
(4) エ(餌)とサシ(差)で鷹狩りに使う鷹の餌をとる人の住んだ土地
(5) 「江狭(エサし)」で川の狭くなっているところ
(6) アイヌ語「エ・サ・ウシ・イ」で頭を前につけている出崎
北海道でエサシと言えばよく聞く地名です。「江差(えさし)追分」で有名な渡島半島西部の檜山江差と、北見のオホーツク海側にある北見枝幸が最も有名です。その他に室蘭にもエサシがあります。 語源としては「e-sa-us-i 頭・浜の方・に付いている・者」という意味で、山の先端が浜にせり出した形の岬を表したようです。
エサウシがエサシとなったのがもっともらしいがアイヌ語になる。アイヌ語から解明されるとなるとそこにアイヌの人が住んでいたとなるからこれは歴史的に重い意味を持つのだ。北海道のエサシは海に面した岬のような出崎が多い。これは地形的にあっているがここの江刺は内陸部だからあてはまらない、北上川に面した崎なのかよくわからないがエサシという地名はもともとここに古くからあって名付けられた、とすると地形的なものから名付けられたからアイヌ語になるのか謎である。
丸森と角田市が合併して阿武隈市も問題だ
(角丸市は冗談か)
丸森と角田が合併して角丸とか丸角とか名付ける応募があったとか、本当にそんな名前になるのか、漫画じゃないぞ、いいかげんにしろ!小学生なみだ。
あぶくま市 あぶくまし 419件
2 伊具市 いぐし 311件
3 阿武隈市 あぶくまし 166件
4 角丸市 かくまるし 75件
5 角田市 かくだし 64件
6 角森市 かくもりし 47件
7 仙南市 せんなんし 34件
8 田森市 たもりし 32件
9 森田市 もりたし 26件
10 みどり市
阿武隈市も広いからあわないよ、阿武隈を代表するようになるからだめだ。伊具市も古代だからなじみないしな、角森というのはこれも変だ、角ばった森かよ、角田市の角は角の形をした田であり丸森は丸い墓の意味とか古墳のことかも、あそこは意外と古い歴史があるから、丸森には塚のある森のことかもしれない、それなりに意味あるものだ。角田もこれも角の形をした田となる。あそこは山が少なく平地が多いからそれなりに土地ににあっているともいえる。丸森も角田も意味あるものなんだよ、合成地名は本来の意味を喪失させるからおかしなものになる。地名は数学の記号じゃないんだよ、仙南市というのは仙台の南だとなるからというのもわかる。仙台に通っている人も多い、でもちょっと遠いんだよ、宮城県伊達氏の領内だったことはわかる。仙台銭が通用した所でもあった。みどり市なんか他にもあったがこれも団地の名だし一番つまらん、そもそも土地にはそれぞれの歴史や風土があるから記号のように合成地名にすること自体無理なのだ。地名が土地の化石だというときまさにその土地の形を変えられないし合併できないんだよ、土地には固有の形がありその土地の上に人間の歴史が刻まれていったのだからAプラスBというわけにはいかない、まあ、自分の町の名前を残したいいうのもわかるが角丸も角森もひどすぎる。阿武隈市も納得いかない、これはやはり別な名前が必要だ、丸森には相馬藩の城も一時あった。伊達藩と相馬藩が交互に城主になり治めていたのだ。それだけにこれは自分の町のことではないにしろ問題だ。阿武隈は大きな領域であり阿武隈市だ奥州市だとか広域地名には他もかかわってくるから納得いかないよ、太平洋市はさすがにやめたくれたからよかった。阿武隈市もかなり問題だ。
角丸(△○)市のいわれ
狸の町の町長がいいました。
「おらの町の名は角△がついています、この△はどうしても残したいのです」
狐の町の町長がいいました。
「こちらは丸○がついているからこれも残したい」
それで鴉がかあかあ、あほあほと鳴いていいました。
「どちらも残すには角丸しかないよ、△○市でいいじゃないかい、あほあほ」
狸の町の町長も狐の町の町長もそれで納得しました。
「鴉はやっぱりかしこい、知恵者だ、かしこい、めだたい、めでたい・・・」
こうしてここが角丸△○市になりました。これが平成の大合併の一つの話し
、笑い話や子供の作った落語でした。平成は平和な時代、これもそんな平和な時代を象徴する日本全土をまきこんだ話でした。
香川の意味、地名はその土地を豊かにする
「香川」という名前は、「香の川」からきているといわれています。
むかし、香川の奥山に、樺川(樺河)というところがあり、その地に「樺の木」があって、 ここに流れる川の水に香りをうつして流れたことから、「香川」になった
樺とは桜の樹らしい、カバはカワだった。樹の皮はいろいろと利用されていた。樹の皮は貴重なものでありアイヌでも神様の着物をはぐ、神様から皮をいただくという感謝の気持ちで皮をはぎ、全部の皮ははがなかった。自然と密接なかかわりで生活した昔の人々は自然を敬うことが大きかったのだ。カンバとかシラカンバも樺のことであった。この樺にかかわる歴史はかなり古いのだ。香りを移したというより樺の木を生活に利用したゆえにこうした名がついた。木と川は密接な関係があった。香川は木川でもあったのだ。この名前の由来を知るだけでもまず想像力が刺激され旅を豊かにするのだ。だから旅には最低限の知識が必要なのだがこれがうまくいかないのである。インタ-ネットでちょっとした知識でも役に立ったようにそうしたものすらわからないことが多いのだ。
青海省玉樹蔵(チベット)族自治州の旧家に収蔵されていた西蔵仏教の経典が、専
門家の鑑定により千年以上昔の物であることが明らかになった。これらの経典は、牛皮・樺の木の皮・西蔵紙などに、金粉・銀粉・辰砂・墨などを用い、手書きで写されたもの。使用された西蔵紙には黒・藍・緑の3色がある。
ラテン語の“liber”(本)は、もともとは「樹木の内皮」を表す言葉だったといいます
中国の蔡倫(さいりん)という人が、木の皮・麻・ボロキレなどを石ウスでくだき、水に浮かべて紙をすいたということじゃ。
このように木の皮はかなり生活の役に立つものだった。
バ-チャルトリップで四国の光貞町について書いたが曲木(時事問題-郷土史)という地名がいかにも四国の奥山らしい地名である。曲輪などを作っていた。木を曲げるからそこからついた。もともと四国は山国であり木地師が多かったのだ。曲木とあればそこで生活した人の記憶が刻まれている場所なのだ。だから四国中央市となると歴史もなにもない、ただ俺らの市が四国の中央だというおしつけがある。ただ地名とこうした新しい名前は自治体名であり歴史がある地名とは違うという人もいる。それでも四国中央となると四国中央に来たのかと外から来た人は思うから不思議である。奥州市でもそうである。ここは奥州だったのか奥州の中心地だったのかとか阿武隈市だったら阿武隈の中心地なのかと錯覚してしまうのだ。奥州でも阿武隈でも広いからだ。
香川とは香る川なりとその奥に木の神さびていにしえ思ふ
香川県であれ四国であれ山が結構険しく重なっている。その深い谷間から春の風が吹いてきた。祖谷に行ったとき奥深い谷間から春の風が吹いてくるのに感動した。
落人の隠れし暮らし長きかな
祖谷に入り谷間の奥処や春の風
今吹きそよぐかな底つ岩にたぎつ水音
葛橋(かづら)ゆれてわたるも
見上げればそそる高嶺に残る白雪
この峡谷の奥のいまだ寒しも
香川ということからこうしてイメ-ジされる世界が広がるから地名というのはその名は大事なのである。地名を知ることは旅に欠かせないのである。
三原郡西淡町松帆古津路とあればここの場所が想像される。松帆とは瀬戸内海では松松原があり帆が見えたのだ。だから想像で俳句を作ってみたりもできる。
春なれや常に帆の見ゆ瀬戸の海
松帆は有名な場所でありひんぱんに実際船が行き来する処だったのだ。昔は帆の船だが今も船はひんぱんに行き来している。
四国地名の旅(やっぱり四国中央市は味気ない)
今回の四国の旅で地名が情緒的にいかに影響するかまた再認識した。四国中央市はそうした情緒が全然ない、無味乾燥なロ-マ字的名称である。役所のの機能的な局の名前のようなものである。地名には様々な要素がありそれが全くこれでは奪われてしまったのだ。
菜の花や阿波阿南の駅とまる
阿波阿南となるとなんとなく南国的ひびきになり菜の花があっていたのだ。
半家(はげ)を去るワンマンカ-や春寒し
半家(はげ)
予土線、高知県の幡多郡西土佐村にあります。漢字から分かるように、禿というのではないですが、由来は昔の平家の落人がこの地に辿り着き、「平家」を偽装して「半家」と呼んだというそうです。
木屋町に萱町古町市電行く春曇る日に三日ほど遊びぬ
松山は市電の情緒があり市電の街だった。そもそも坊ちゃん電車とか蒸気機関車が街中を走っていたのも童話みたいな世界だった。木屋町は材木を扱った場所であり
萱町はその辺が萱が繁っている場所だった。古町はもともとは町の中心地にあった。それが城の方に移動してさびれて古町になった。古町になっているところは非常に多いのだ。それほど町は変わりやすいのだ。それが証明しているのが現在の古い商店街が全部古町になっているのが如実に示している。
中村へ別れる道かな春寒し風のうなりてその道遠しも
中村市へ行く道が四万川ぞいを下ったらあった。やはり中村というのも古くからありそれなりに歴史があるから変えるのは良くないかもしれん。
海望み伊予(いよ)の春田を遍路行く
伊予は古い古代の国名であり最初に伊予があった。瀬戸内海沿いに国ができた。伊予の意味は出湯(いずる湯)らしい、道後の温泉は古代からありそれが国名となったのか?伊予という名のひびきもいいしこれには古代からの歴史の継承がありまだ四国には伊予というとときそこが他国とは違う独特の世界を感じたのだ。これは他では感じられなくなっている。古代の国名が生きていると感じるのは今やまれである。
春の昼釣り人一人伊予の浜
伊予の浜というとき何か穏やかな温和な海であり伊予というのがまだここでは生きている。
菜の花に菅笠の遍路道の辺の碑も古りにける伊予の国かな
観音寺観音様のやさしさのここに満つるや春の夕暮
観音寺遍路眠りぬ春の夜
観音寺の公園で遍路が公園で眠る、この遍路は実際は大変な遍路だった。その話を聞いてショックを受けた、今日食うものがないとか菜の花を食っているというのにも信じられない話だった。それでも観音寺というこの名前がいいのだ。観音様が現れるというか観音様の恵みがあるというかこの名前からイメ-ジされる。実際にその遍路に接待した。経文もあげる、本格的なホ-ムレス遍路だった。観音寺ではいい夢を見たかもしれない、観音寺というのには穏やかな平和な感じがするし実際に観音寺という場所や街は海に面して波も穏やかでそう感じる。ともかくこの観音寺という名前の影響はかなり大きい、遍路の寺として観音寺という名前は女神に逢うようなやさしい気分になるから不思議である。いろいろな寺の名前もその名前からその寺をイメ-ジしたのも不思議である。平等寺というと平等に救うとか分け隔てなく慈悲を与えるとかの意味であり寺の名にも意味があるのだ。信仰は関係なく私の場合、地名とか名前に興味を持った。名前には何か必ず意味があるのだ。⇒観音寺の詩へ
春の海松影静か唐子浜
唐子浜や唐子山の「からこ」。唐子山から今治城の建築のために藤堂高虎が国府城を壊して材料を運んだ後、山頂に松を植えました。それが瀬戸物の絵でよく見かける唐風の子供の頭に似ていたことからこの名前がついたそうです。
板野郡藍住町奥野にそ畑打つ人や菜の花咲きぬ
これも地名自体が詩になっているのだ。
穴吹きの駅こそあわれ夕桜塩江は遠しも旅人交じる
ここから塩江の山に入ってゆく所だった、穴吹きとは製鉄に関係したのか、ここは吉野川そいにありそれなりに町が点々とあるから山深い町ではなく人々が交わる場所である。
衝撃的なの光町のははばやま(すつこたにきた)端山(捨子谷北)であった。この捨子は本当に捨子なのか?すつこと呼んでいる。他にも同じ地名が岩手県などにある。捨子川は白石市にある。これは大和朝廷の蝦夷征服にまつわるものだがこれは山の人が本当に子を捨てる場所だったのかもしそうだとしたらそれなりに貴重な地名となる。そういうことが過去にあったという歴史の記憶の場所になる。あんまり記録させたくないものでもあるがやはり庶民の歴史でもそういうものは残すべきである。それはかなり重い歴史だからだ。
ともかく他にも四国は非常に多様な世界であり地名も多様である。四国は地形的にも文化的にも魅力ある場所であり未知の部分がまだまだありわからない、私の場合、四国や中国、九州はわかりにくい、ここはまた歴史があり日本の歴史を作ったところなのだ。西日本が最初に日本の国作りが行われた所であるからだ。
いづれにしろ四国中央市はこうした歴史やら地形やらいろいろな地名にまつわるものがはぶかれ機能的なものとしてだけ強調されるからこれは地名ではない、また別にそこが四国の中央でもない、だからこうした名前は意味がないのだ。
地名は悲惨な歴史を記す(碑に残らなかった遍路の無念)
無念なる人の思いは碑にならず地の底にも埋もれけるかな
遍路には謎が多い、遍路が死んで碑が立てられたのは金のもっている裕福な遍路だった。普通遍路は悲惨なものであった。乞食だったのだ。だから石を投げられたり邪魔者扱いであった。普通碑というものはなんらかの過去の証拠というか記念であるが記念にもされないものが数多くあるしそれは四国の辺土(へじ)に埋もれてしまったのだ。人間は墓でも記念となって残っていればまだいい方である。墓もない記録もない、記念もなく埋もれてしまった人達の数が多いのだ。不思議なのは記念に残っている遍路の道端の碑が恵まれているという不思議だった。碑に国名とか名前の残っているのは本当に恵まれた人達だったということはいかに遍路が悲惨なものかを物語っていたのだ。
地名というのもそうした一つの過去の歴史の記録の意味がある。地名に記された歴史はかなり古い、例えば四国には平家と源氏の争いの跡が点々とまるで平家の逃避行の跡のように残っている。そして源氏橋とか義経橋とかわたってゆくと確かに平家が源氏に追われてあの山深い祖谷に逃れて行ったことを実感したのだ。遍路にまつわるものも四国にはかなり地名化している。地名は明らかに過去の文書などにも碑にも残らない歴史を記すものなのだ。確かに白石市の子捨川というのはいい名ではないし好字にしたい、すでに古代から北は喜多と好字にされていて四国に古代の喜多郷がありそれを模して喜多方にしたらしい。でもやはり地名には文書とかに記されない重い歴史をになう、伝える役目もあった。それが消えることは大きな問題なのだ。
捨子谷(すつこたに)というのもそうである。ここにも明らかに子供捨てたということでその名がついたとしか考えられない、過去には間引きとか人減らしが実際かなり行われていた。そういう厳しい生活があった。奥深い山の中で暮らすとなるとやはりそこで暮らせるものは限られていたし町に出て働けるようになったものはまだ良かったとかということも成り立つ、女工哀史とかあるがともかく町で機織りでも働く場所があれば間引きされずにすんだ。そういう厳しい生活が山村にはありまた中国の出稼ぎ者などにも今もある。阿武隈の川俣の口太山(朽ちた)山も人が朽ちるという意味であり姥捨山だったのだ。姥捨山というのは実際は各地にあり必ずしも姥捨山とはなっていないのだ。遍路というのも実際はハンセンシ病など村にいられない人達が追いやられた姥捨山だったのだ。だからそこで行き倒れになり死んだ人が多いのだ。そういう重い歴史が遍路道にはある。今の遍路とは余りにも違う厳しい悲惨な遍路の末路がありそれは碑にもならず辺土の地の底に埋もれてしまったのだ。
貞光町からはば山(端山)へ(地名は最初音から始まった)
四国の光貞町というとこになぜ行ったのかというとインタ-ネットでたまたま調べていてでてきたので私のホ-ムペ-ジの郷土史に書いた。一度も行ったことがないけれど書いたのだ。そこで実際行った感想はやはり意外だった。想像上で書いたものとはかなり違っていた。ここが葉たばこで栄えてウダツで有名なことは確かだった。しかしそのウダツの町並みも何か余りにももの寂びていた。ウダツの瓦の屋根にはペンペン草が生えていたりなんかわびしすぎた。庄屋の家というのはそれなりに栄えを示していたのだろう。意外だったのはその細い町並みの道を山の方に行くと大変な急峻な山がそびえその細い道はその山の間をぬって剣山の方につづいていた。その高い山肌に点々と家があった。あのような高いところになぜ家があるのか、かなり不便な暮らしと思うが四国では昔からこうした高いところで暮らしていた。ヒマラヤの山岳民族のように思えた。ただ昔は山で木材とか葉たばことか炭焼きとか鉱山とか産業があったのだ。だから山に住みついたのである。
そこで出会ったのが捨子谷だった。そこを下ると昔の商店が一軒ありそれは大きな家で昔は結構品物もあり売れていた。今はがらんとして何もない、そこでコ-ヒ-を買おうとしたら70の老人がでてきた。そこに座り話した。その老人が言うにはこの前の道路を自動車が最初に走ったのは木炭車だったというのが面白かった。
共和国では、外貨不足で原油の輸入が激減しており、自動車の運行に必要なガソリンの供給も難しくなっているため、その打開策の一環として木炭車の利用を奨励しており、1998年1月の『労働新聞』は「咸鏡南道耀徳郡では木炭車での輸送を成功裏に保障している」と宣伝したことがある。
『石油で走る自動車よりも、薪焚いて走る木炭車』というのがあったが、すぐに混ぜ返すやつがいた。
『薪焚いて走る木炭車よりも、芋食って走る人力車』
自転車は、まさに、芋食って走る人力車である。排気ガスが出たとしても、環境汚染というほどにはならないだろう。
木炭車が現実に存在したし今も燃料がないと利用される。最近中国では日本に炭を輸出するのを禁止した。森林の破壊で環境破壊になるからだという、中国の森林破壊はすさまじい。黄土にすら大きな森林があったのに今は土しかない、これで日本の炭を作る山村が活気づくというのだ。いかに中国の影響が今経済面で大きいかわかる。
その老人が言うのにはここは昔(はば山村)と言っていた。それが貞光村になり今度の市町村合併でつるぎ町になった。剣山が象徴的な山だからそうなった。これも実は白神市とか名付けるのと同じである。観光的な側面を強調してそうなった。外からみるとわかりやすいのだが歴史的なものを考慮するともうひとつしっくりこないのだ。ここでハバ山が端山となっているのか、最初にハバ山とこの地方で言ったいたのに端山と漢字でなっている。端山という姓の人も結構多い、ハシ山ならわかるがはば山と言っているのだ。端をハバと読むのかそれともハバを端としたのかわからない、阻む(はばむ)から阻む山からはば山と言っていたのかその方がここにふさわしい。まさに阻む山だからだ。地名は最初漢字ではなく音でありそれに漢字をあてたのだ。その例が北海道のアイヌ語地名なのである。だから土地の人の方言や音が最初にありそれに漢字をあてたのだ。だから地名は本当はまず音が最初にありそのあとに漢字の地名があるのだがどうしても漢字化すると文書などに残りやすいからそっちが注目する。観音寺はかんのん寺でなくかんおん寺と言っているが外の人はかんのん寺と言ってしまう、他にもこういう音と漢字が一致しないことがかなりあるのだ。ともかくここからは自転車では行くのは坂が急で無理だと思った。
ここも結構古い歴史がありふでに古代にも都に知られていた。
阿波の忌部氏は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖神として祭り、麻や木綿(ゆう)を栽培し、その荒妙(あらたえ)を中央の忌部氏を通じて朝廷に献上していた。以来、この地一帯(定満谷)は木綿麻(ゆうま)の里とも呼ばれ、当地方における産業文化の中心地として発展してきた
木綿麻川があり確かに四国は奈良でも近いからすでに古代にも物流があり朝廷に献上されていたのだ。旅をしたとき土地の人となんでもちょっとしたことでも話すと意外な発見があるものなのだ。柳田国男でも宮本常一でも土地の人から聞き出すことが上手でありそこから民俗学を創始した。ただ旅だけでも土地の人とちょっとでも直接ふれることが旅を味わい深いものにする。ただ私の場合はそれが苦手なのでほとんど話しすることはまれだが旅をしたら土地の人とちょっとでもふれることは有益である。このさらに山の奥に猿飼という地名がありなるほど猿を飼う人がいたのかとそれもこんな山奥では不思議でないと思って興味深いものがあった。
ここの問題も過疎化であった。それも極端な過疎化である。七、八割くらい減ったという村を維持できないほどの過疎化であり老齢化してしまった村である。それが統計にも現れている。1900-2000年、最近ですら7千人の人口が6千人になっていたりこれが20年単位だとその倍以上になるからここの村の人口の減りかたは極端なのである。
同村は六十五歳以上の人口割合を示す高齢者率が50・1%と、県内最高。人口千四百一人(一月末現在)の半数を高齢者が占め、十五歳以下はわずか3%の四十三人。貞光、半田両町と三月一日に発足させる新自治体「つるぎ町」でも人口減を食い止めることは困難を極めそうだ。
http://www.topics.or.jp/Tokushu/shichouson/sinjititai/p2.html
この家の作りは相当古い、二階が低いし出窓もかなり古い作りだからでもここがぺんぺん草はえていてなんとも全体がさびれた感じになってしまっていた。
これは時事問題の郷土史の部に同じものを貞光町の連続して読めるようにおいた
姓と地名の伝播(宇和島藩は伊達藩が移る)
三春の田村一族は離散し、ある者は三春城主となった片倉小十郎景綱に召抱えられたり、会津蒲生家に仕えたものもあったが、後に伊予宇和島藩が創設されると田村家臣団の多くは召抱えられ四国へわたった。
宇和島藩が創設されたとき、伊達藩の古くからの家臣団を温存し、田村家中を派遣したものと思われる。現在、宇和島には田村郡の古い地名などが多く用いられ、田村の地から多くの人間が移ったことを物語っている。伊達政宗の長男(側室の子)秀宗が秀吉より授かった領地だ。
三春は伊達家の興亡で滅亡した。愛姫(めご姫)は伊達政宗に嫁いだのも政略結婚だった。それと伊達と争った相馬藩はかかわっていた。この戦国時代は人の流れは大きかった。戦争に負ければ侍は他の藩に流れたりするからだ。田母神十郎正堯とかいるのは田母神(たのも)というのはその動乱の中で移動した。田母神自体が移動して鹿島町のあのダイユ-8に移ったのかもしれない、人だけでなく神も移動するからだ。
宇和島はかなり東北の影響があった。しし踊りとかも伝播した。発音まで他とは違っているというのもその一つである。言葉まで影響することはやはり当主が伊達藩とそうなる。そこに地名も移動したとなると影響が大きかった。伊達政宗は一時、天下をねらっていた。東北ではまれな英傑だった。それが秀吉によりはばまれ、家康でつぶれた。その戦国時代の落とし子として秀吉に近づき秀吉にかわいがられた伊達政宗の側室の子が秀吉にあづけられそれが後に家康から宇和島藩を与えられた。その時伊達藩の一団が宇和島に入ったのだ。だから桑折という姓などが宇和島に残っている。伊達郡桑折町で相馬の隣なのだ。桑折という姓はこの辺ではなじみある姓なのだ。
そもそも苗字研究家の岸田良信氏によると日本人の上の名前に関して「名字」と書くのが通例であるが正確には「名字」はその土地の支配者……すなわち殿サマの上の名前の場合にのみ当てはまる。ようするに支配者がその支配する地名を「名乗った」がゆえに、名字であって、では苗字はというと、名字も含めた広義での日本人の上の名前全般を指すという。
つまり「名字」とはその土地の支配者、伊達藩とか相馬藩であり苗字とは苗をあてたようにその土地で働く地元の人達である。相馬氏は千葉県から移動した相馬氏が中村にきて相馬市になった。北海道の伊達氏もそうである。伊達一族が移動したからだ。「名字」と「苗字」は違うというのは地名としても混同する。第一「名字」自体が実際は「苗字」をもとにしていたからだ。どこかの村の土地の名が苗字の基でありそれが一族に発展すると平とか源氏とかになった。土地的結合から人的結合を現したのが名字なのだ。苗字は土地を基盤にした結合でありこれが日本では強かった。一方外国では大陸では遊牧民でも姓を中心にしてまとまる、一族の結合が中心である。それは韓国でも姓を重んじるし姓による差別もあり姓は血統は大事なのである。日本は血は地であり土地による村の共同体のつながりが大事であった。そこが大陸と文化の大きな相違なのである。
名字というとき今ではソニ-とか松下とかトヨタとか会社名、屋号とにている。だからトヨタ城下町とかなる。自動車生産で共同体が形成されているからだ。私は豊田(トヨタ)で働いているとなるとトヨタという姓を名乗りトヨタに属するものにもなる。名古屋といえば今やトヨタなのである。時代によって名字でも意味が変わるし地名も変わるのはやむをえない、今の時代は土地の結合は薄弱化している。第一次産業より商業や工業が優先される世界だからその土地土地のもっていた地名の意味も今では日常的な生活の中で使われないし意味がなくなる。しまなみ海道を車や自転車で行けば島はもはや島ではない陸つづきであり島のもっている情緒もなくなり島は船でしか行けないものではないからそこで港のもつ存在感もうすれる。古江とか過去の港となってしまう。それは時代の移り変わりでどうにもならないことである。
音戸は、隠渡(おんど)だった -加古川は鹿子(水手-かこ)
●音戸は、隠渡(おんど)だった
呉市の南端と倉橋島の間の細い海峡が音戸の瀬戸。干潮時には陸続きになるような浅瀬を平清盛が掘削を命じ、船の航行が可能になったと伝えられている。現在の瀬戸は昭和になってから国が開削したもので、幅70m、深さ5m。
平家がこの島に隠れて渡ったから、隠渡(おんど)というのだよね。
音戸は何の意味かと思ったら音とは関係ない、これは当て字であり隠渡(おんど)であった。地名として南隠渡があるから確かにそこが地名の発祥地だった。渡子などの地名を船で渡るという意味である。瀬戸内海は船で渡ることが多いのだからそういう地名が多いのはわかる。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=51322400&slidex=2000&slidey=800(地図)
音頭の瀬戸開削の時、警護の武士がいたことから警固屋の地名が残っている。また、警固屋は食料を集めた食小屋(こげや)であるともいわれる。瀬戸内海は水軍の歴史が古いから海にまつわる名前が多いのは当然である。地名からまず歴史を知るのが土地とか地形とかそこに様々なものが折り込まれているからわかりやすいのである牡鹿半島にある侍浜とあるがそもそもこの侍(さむらい)は
『広辞苑』は〔さうらふ・さぷらう・さぷらふ・さむらふ〕は侯(そうろう)と同詞、〔居り・あり〕の謙譲語・丁寧語。鎌倉時代男性はさうらふ(ソウロウ)、女性はさぶらふ(サブロウ)と使い分け、室町時代には女性語として、さむらふが用いられたとし、
すめろぎの神の御門を畏みとさもらふ時に逢へる君かも (2508)
津田の細江
風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つた)の細江に浦隠り居り945
これも海を起源としたものかもしれない、海でさむらふ人がいた。海の暮らしのなかで生まれ言葉だとすると平家は海と関係深いから最初に宮廷を守る侍になったのも平家なのである。
●加古川は鹿子(水手-かこ)
かつて加古川の付近に多くの船を漕ぐ水夫=水主(かこ)が住んでいたからというのが有力である。 ...
万葉集に
月読の 光を清み 夕なぎに 水手(かこ)の声呼び 浦み漕ぐかも
朝凪に 船出をせむと 船人も 水手(かこ)も声呼び
水手と船人は別になっている。水手とは漕ぎ手である。船人とは船に乗っている人になる。加古川にはこの水手の集団がいたのである。
名児の海を朝榜ぎ来れば海中(わたなか)に鹿子(かこ)ぞ鳴くなるあはれその水手(かこ)(作者不詳)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/nago01.html
これは天鹿児弓とか日本書紀にでているから舟の上より魚や海獣、鹿などを射る弓矢のことだった。海で狩りをするというのも奇妙だが山で狩りをするのと海で狩りをするのはにているのだ。鹿と鳥の文化史(平林章二)に詳しい。それが宇和島から浦伝いに自転車で来たら「狩浜」というのがあった。海で狩りするのかといぶかったがこれはこれを読めば簡単にわかるしなんら不自然なことはないのだ。宮城県の牡鹿半島の牡鹿もこの辺からの説話を元にして名付けられたみたいだ。伝説とか物語とかも伝播するしその基となっているのは南が多いのである。ともかくこのへんには海にまつわる地名などが無数にある。鹿児島も鹿をあてているから鹿児(鹿子)で水手(かこ)でありカコシマが鹿児島になったのだ。
船折とは船も折れてしまうほど,潮流の強い伯方,大島界隈.大島で,潮流体験ができると
呉(くれ)は中国の呉の国のことなのか暮れる方角にあるから呉(くれ)となったとある。この辺は渡来人が深く関係した地域である。その土地の状態をおおざっぱに見るには地名が一番便利なのだ。
牡鹿半島の地名
これは当時船の交通が盛んな証拠である。石巻港とかがかなり重要な港となっていたから江戸時代のつづきでもあった。何故なら江戸時代は仙台藩の米を石巻港から江戸へ出していたのだ。仙台藩の米は江戸にとってかかせないものだった。
牡鹿半島の明治14年から三菱汽船会社が定期船航路開設の寄港となり,更に共同運輸会社の汽船も寄港し荻浜港は整備された。明治22年東北線(道路)の開通により汽船の乗客も減少,大型化する船舶の寄港には不向きとなり乗客や便数は減少し,大正6年には定期船の寄港は廃止となった
荻浜は,歌人石川啄木が明治41年上京途中に荻浜港に立ち寄り,
「港町 とろろとなきて 輪を描く 鳶を壓せる 潮曇りかな」と詠んだ歌碑が羽山姫神社下に建立されている。
折浜・蛤浜・桃浦・月浦・侍浜・荻浜・小積浜の7つの集落からなる。地区を縦断する県道石巻鮎川線の道路整備も進み,風越トンネルの開通により交通の便も良くなった。
あんな小さなひなびた漁港にも船の便があったのだ。ここには一度行ったし裏山の羽山姫神社にも行った。春の終わりで桜が散って崩れかかったような石段に散っていた。今は侘しい所であり鯨取りで栄えた鮎川も寂れている。船の便があれば地方の港も生きていた。それは北前船の時代から続いていたのだ。今寂れている下北半島も北前船で北海道の物産や昆布や材木や関西からは陶器類が運ばれ栄えていたのだ。仙台の石巻から船で相馬の産物、相馬焼なども運ばれた。この時代まで船はかなり活きていた。海の道があったのだ。それと海軍が大きな力をもっていて海軍の話題、造船の仕事が日本の工業の中核にあった。海の時代だったのだ。この年東北で凶作になった。原因は何なのか良くわからないが調べればわかるだろう。荻浜の地名を見ると面白い。
蛤浜、月浦、侍浜、荻浜、小積浜・・・・いかに淋しげな名前で合っている。
侍浜(さむらいはま)という名付け方はかなり古い、というのはこれは「さもらひ)という言葉から来ている。風待ちの港だった。こういう小さな湊が日本には無数にあったのだ。湊ともいえない浦である。
945 風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つた)の細江に浦隠り居り
南相馬の方角地名は事務的すぎて嫌だ
●南相馬の方角地名は事務的すぎた
市町村合併の名前の問題で書いてきたけどどうしても新しい名前になじめないという人がでてきているのではないか、なんでこんな名前にしたんだとかかなりの数あるのではないか、「四国中央市 死体」こんなキ-ワ-ドで私のホ-ムペ-ジに来た人がいた。余程新しい名前になじめない人なのだろう。一般的に新しい名前にはそれがいい名前でもなじめない人が多くなる。慣れた名前の方がいいのだ。それはいい悪いというより長い間になじんでしまったからなのだ。原町市が南相馬市になるのは何か前にもその理由を述べたが現実に南相馬市として使うとなると本当にこれは嫌だとなる人がかなりでてきているのではないか?こんな名前になぜにしたとか言う人が他でもでてきているだろう。南相馬の問題は南という方角がつくだけでただのどこか中心地の南の地と意識されるしまた相馬市の付属品みたいになっているからだ。相馬は一つだとすっきりするからだ。だから方角地名は喜多方(北方)にしたのである。これなら単なる方角ではない感じになるし他の人も気づかないのである。これは古代から喜多郷とした地名があったのだから喜多方市の発明ではなく模倣だったのだ。
●地名を変えた違和感の強さ
ともかく今になると自分としては南相馬というのに嫌悪感を覚えた。それが機械的分類的なものとして名付けられたにすぎないからだ。相馬が有名だから相馬の隣だから南相馬にしたにすぎない、全くこの発想は誰でするし事務的機械的数字のような名付けかただった。もちろん地名は詩的美的発想では名付けられないし地形的な無味乾燥なのものが多いことは確かである。しかしそれなりに地名には歴史と重みがある。それ以上に地名は百年とか使っているとそれに愛着ができてしまって変えられる嫌だとなるのかもしれない、名前を変えられることはそれほど簡単な問題でなかったことである。南相馬もまた五〇年とか使っていればなじむのかもしれない、でもこの南相馬の問題は相馬が二つあり一つは単なる付属品みたいになってしまうことなのだ。鹿島町に住んでいると原町市と相馬市に買い物に行く人が多いのだ。原町へ行ってくるよと・・相馬に行って来るよでわかりやい、ところが南相馬となるとどうなるのか南相馬に行ってくるよとはいいにくくなる、やはり原町へ行ってくるよと同じように使うかもしれない、鹿島町中心に考えて見ても南相馬市という名前はなんかなじめない、嫌悪感さえ覚えたのである。こういうことは各地で起こっている。四国中央市なんかもそうであろう。四国中央でもないのに四国中央という無理した名前のつけかたは土台無理があったのだ。いづれにしろ方角がついた地名は重みがない独自性がないことがわかった。
●原町には街の雰囲気があった
夏菊や新しき店原町に
この句を作ったが原町だと合うが南相馬ではなあわなくなる。俳句作るのにも影響してくるのだ。四国中央市なんかも俳句とか短歌になりにくくくなる、他にもそういう新しい名前にはある。やはり今やなんでも新しくすることがいいことでも必ずしもないのだ。原町という名前には何か横文字的な感覚がある。HARAMACHIでもあう、もちろん原町という名はどこにでもあるのだ。田町というのも多い、これだとどうしても田を意識する。田があったところが町になったのである。いづれにしろ南相馬はあまりにも無難だったのだがあまりにも事務的であり数学的分類の無味乾燥な名付けかただったのである。ただこれだと多数決になると票が入りやすい、誰からも文句がつけられない無難なものとなった。しかし今になると南相馬市というのはただ方角だけのアイデアも新鮮味も何もないただ相馬の付属品としてしか意識されないもので嫌悪感さえ覚えてしまったのだ。
相馬というと相馬の古い歴史を意識するが原町は不思議にしない、原町はそういう新興地であり無線塔があったりして常磐線の基点にもなったのだからそういう新しい町だったのである。だから原町の方があっていたのである。ともかく新しい市町村名になじめない失敗したという人はかなりいることは確かである。でも一旦名前を変えたらあとは五〇年くらいは変えられないから名前変えることは大きな問題だったがあまり論議もせず変えてしまったことで大きな後悔をしている市町村がかなりある。
原町へ行くよというより結局、南(ミナミ)へ行くよとなる
南相馬へ行くよとはめんどうだし言いにくい、相馬は必要ないからだ
北、南など方向地名は多いが・・・(南相馬の名前でいいのか)
市町村合併名前-イメ-ジダウン
●ネ-ミングに左右される商品
私の市町村合併の名前の問題に来たキ−ワ−ドである。なぜ名前が問題になるのか、たかが名前じゃないかともなる。それは名前には言葉にはイメ-ジ力がある。イメ-ジさせる魔力があるためである。人間はイメ-ジを食ったり飲んだりすることも特徴の一つである。イメ-ジが食えるのかとかなるが実際ネ-ミングは意外とビジネス大事でありいろいろ考えて商品のネ-ミングをしている。ネ-ミングだけで商品が売れることもある。最近ペットボトルのミネルウオタ-水を買う人が多くなった。私も飲み水として買うようになった。その水にはいろんな土地の水がある。富士山の水となると富士山の水なのかと味はわからなくてもそのイメ-ジを飲んでいるのだ。実際は水商売は文字通り水商売で中味はわからない詐欺だといういう人もいる。水なら沸騰させて殺菌すればどこの水でも売れるのだ。だから中味はわからない、それでも人間は富士山の水とかアルプスの水とか名前に左右されてイメ-ジを飲んでいるのだ。昨今の真光元の薬など健康食品なども全くペテンなのだがそれでもそれにすがりその直るというイメ-ジ力にすがっているのだ。イメ-ジの力は人間にとって大きいのである。
●地名はその土地をイメ-ジさせる
地名もその土地をまずイメ-ジさせるからである。知らない土地に入った時、まず意識させられるのは地名なのである。特に漢字は一つの絵でありイメ-ジ力が強い、アルファベットは音標文字だからイメ-ジ力が弱い、それでも音からそれなりにイメ-ジしているから異質である。でも実際は音標文字が世界には多いから音のイメ-ジ力があるのだ。日本人はこの感覚はあまりない、漢字の世界だとどうしても視覚的にイメ-ジしてしまうのだ。だからひばりの市と雲雀野市ではイメ-ジが違ってくる。ひばりの市は軽い感じのありふれたものになって重みが感じられなくなる。埼玉もさいたま市となると玉という万葉集を基にした埼玉(さきたま)というイメ-ジ力が弱くなってくる。日本の地名は漢字のイメ-ジ力に左右されることが多いことがこれでもわかる。玉とあるたげで誰でも玉をイメ-ジする。相馬というのは別に馬と関係なく名付けられた地名である。ソウマの単なる当て字だったのが相馬であり馬とは何の関係もないのに相馬野馬追いがあるから相馬がいいとなったのだ。馬をイメ-ジするからそうなった。喜多方も単なる会津の北方(ほっぽう)と言われていた。これではまずいというので喜多方にしたのだ。この喜多は四国に喜多町とあり古代からあったからその発想はすでに古代人からあったのだ。二字の好字をもって地名とせよと役所から命令されたときそういう発想があったのだ。南相馬となれば美奈見市、美南市とか単なる字面のいいものにしてもいいわけである。現実にそういう市名もある。ただ地名は詩的なものとして詩人が名付けられたものはほとんどないのだ。実用的に名付けられたのだ。会津の北方というときそれ自体意味あることであった。それだけではあまりにも味気ないから北方→喜多方としたのだ。
●日本の地名は詩になりやすい
今回の市町村合併の騒動はやはりどうしたらその町なり市なりを際立たせてイメ-ジさせるかが問題になった。しかし地名は勝ってにつけるわけにはいかない問題でありそこがさらに混乱させた。広域地名は地名にそぐわない、地名はある地域をから発したのだから奥州市とかなると奥州全体を代表するようになる。太平洋市がひんしゅくをかったのもそのためである。とにかく四国中央市-死体とかキ-ワ-ドで来たように全国でイメ-ジダウンさせた地名がかなりある。四国中央市は別に中央でもないのに目立つためにつけたがかえってイメ-ジダウンだったのだ。地名自体あまり変えることは問題である。地名は実際化石のように古いのだから歴史を保存しているのだから余りひんぱんに変えることは歴史を喪失させることになるのだ。特に新興地の住宅地にはうすっぺらな百合丘とか緑が丘とかありふれたつまらない名前になる。ひばりの市と最初決まったと思ったがこれもひばりの市は団地とかにもあるから重みがなく反対されたのかもしれないしなじみもなかった。
夏の朝松陰町を旅人の静かに歩みその名思いぬ
函館に松陰町とあり松の陰になる町かとその名前が心に残るのだ。啄木の歌も地名を歌ったものでありそこに函館のエキゾシズムがあふれていて名歌となっているのだ。
函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花
函館、青柳町と地名が詩になっている。日本ほど地名が豊かな国はなく地名が詩になっているのだ。
みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを-笠女郎
ここの陸奥(みちのく)真野(まの)草原(かやはら)は実際は地名だった。草原は萱の原だとされたが地名だったのだ。三つも一つの短い歌の中に地名を入れていたのだ。それはなぜかというと古代ではその地名が知られることが支配領域-奈良の都に知られるものとなったからこそ地名が歌われた。地名を歌にしたのは一つの歴史的記録として意味があるものだったのだ。普通三つも地名を入れたら歌にならない、それでも歌になっているのはその真野という草原(かやはら)という土地が特別な意味を持っていたからだ。ここを拠点にしてさらに北への蝦夷征服の軍が進んで行ったからである。陸奥-真野-草原(かやはら)は重要な北方支配の拠点だったのだ。ウラジオストックにピュ-トル大帝湾とあるのもそうである。ウラジオストックとは東を制するの意味だった。そこにロシアの有名な皇帝の名前がついていたのである。だから草原は加耶(カヤ)の国とまではわからないにしても地名なのである。
残念な消えた馬頭町の名前
確かに、那珂川を挟んで隣り合っていた馬頭町と小川町が一緒になったのだから、「那珂川町」でいいのかも知れないが、「馬頭町」という名前のインパクトに比べれば、だいぶトーンダウンした感は否めない。おまけに、福岡県に全く同じ「那珂川町」があるというのだから、なにも好き好んで二番煎じに甘んじなくてもいいじゃないか、と思ってしまう。
もっとも、馬頭という地名の由来は定かではない。古くは武茂村(むもむら)だった。それが天正年間の1500年代後半に分かれて、馬頭村が生まれた。かつては馬の産地でもあり、馬頭観音を祀る馬頭院もあるから、やはり馬と縁の深い土地柄だったことは想像できる。
この馬頭町は私が実際に秋の日に那須高原を自転車で旅したとき疲れて行けなかった町だから心に残ったのである。その続きとしてまた行きたくなったのである。この名前の故に覚えていたのである。こういうことは前にも述べたが日本では良くあることなのだ。地名と旅は密接に結びついているのだ。
旅の辻
黒羽の城跡に那須野を望む
なお刈り入れの人をよそに見て
秋の山影心にしみぬれ
右は太田原
左は馬頭
真っ直ぐは太子へ
秋の日さして
道はここに分かれぬ
馬頭町に我が行くことなし
いつの日か馬頭町に行くことあれや
馬頭観世音の由来の町
その名のみ我が心に残りぬ
自転車で那須の原を行ったとき馬頭町で行けなかった。何かかなり遠い町に感じた。車だと簡単に行けるが自転車だと遠いのだ。電車の通らないところは車を持っていないものにとってはなかなか行けない所、不便な所なのだ。交通の便がよい所は遠くでも行ける近い所なのである。いづれにしろ馬頭町という名の町があるほど馬と密接に一体となり暮らした昔があったのだ。馬といえば野馬追いと馬頭町も馬に由来しているから関係あるといえる。ではなぜ簡単にこうした昔からの名前は消されていくのか?結局馬と一体になって暮らしていた生活が喪失したからである。馬に愛着を感じないというより馬自体生活の中で知っている人が少ない、子供すら知らない、相馬では相馬野馬追いがあるから多少馬に愛着を覚えている。南相馬市にしたのも馬が名前に入っているからなのだ。相馬では馬を一年に一回でも使うから馬がかろうじて生きているのである。馬に愛着をもっていたのは馬とともに暮らした人達である。それは草原の民の遊牧民のモンゴルとかである。それで馬に関する漢字がいろいろできることになる。
馭驍騎。
強き馬を御して騎る。
駐馬瑪覊驗驀,
馬を止める美しき轡 乗りこなす証、
駻驅騏。
暴れ駆ける青黒の馬。
馴駢駟,
馴れ並ぶ四頭だて、
驩駈驥,
喜び駆ける優れたる馬、
騙碼騅。
美しく青黒の馬に飛び騎る。
隲駭騾驢駝騁,
乗りて驚く騾馬驢馬駱駝の馳せるを
驫駒馳。
多くの馬が馳せる。
まさに馬を草原で常に見ているからこうした様々な馬に関する形容がでてきたのである。中国では今でも荷馬車などが利用されているし草原には羊を追うモンゴルの民が現実に生活している。まさにその空は果てし無く広く「天高く馬肥ゆる秋」というのはモンゴルの草原にこそぴったりの風景だったのである。
私の人生がまさに旅であったというときこういう地名がなくなったことは手足がもがれたように淋しいものとなる。それはまた営々と積み重ねられた人間の歴史、生活の記憶も失われるのだ。確かに馬頭町という名は住所には残るにしてもこの別れ道で馬頭町に行くとはならなくなるから私の残した詩は今やその時代の記憶となってしまった。こういう時代の移り変わりは常にあったことである。草履はいて旅していたのは明治とか大正でありそれは遠くない時代だったのだ。それが今では信じられない風景と化してしまったのだ。それでも沓掛峠とか橋とか地名には残っていて昔を偲ぶのである。地名からしか昔を偲べないということがいくらでもあるのだ。
福島県では会津高田町というのもなくなりつまらない美里町になった。これは小牛田も美里町になるらしいからなんとも発想が貧弱である。こんな名前はどこにでもありまぎらわしいのだ。高田町とはそれなりに謂われあるものだったろう。高田とは高いところにある田であり実際に私は自転車で旅してその高台の宿に泊まったことがあったのだ。高田とはそうした地形的なものから名付けられた。会津本郷も本郷は中心の村でありこれもそれなりの生活の中心地を示すもので意味あるものだった。つまり何かしら歴史を語っているのである。新鶴村もそうである。新しい村という意味があるのだろう。美里町はあまりにもありふれた名前だった。これは他にもあるから混同しやすいから余計に良くない、飯館村は一応合併せず独立の村として名前も残ったから良かったとなる。
大沼郡 会津高田町
大沼郡 会津本郷町
大沼郡 新鶴村
↓
「大沼郡 会津美里町」
ともかく市町村合併で失われた名前の問題も大きいのである。地名はれっきとした文化遺産なのに簡単に美里などと縁も謂われもないものにする感覚がわからないのである。極端かもしれないがそういう町には訪ねることすらしたくないという気持ちにもなる。それほど日本では地名のもっている意味は大きいのである。
社も古り会津高田の田に雨や昭和村への道さらに遠しも
姉歯の姓の由来は?
姉歯は珍しい名前としても注目の的になった。この姓も元は住んでいる地名からきたものである。姉とつく地名は各地にあるからだ。姉歯の橋がありこれは古歌で有名なことをはじめて知った。陸前高田市には行ったことがあり湾の美しい所であった。
“朽ちぬらん 姉歯の橋も あさなあさな 浦かぜ吹きて 寒き浜辺に”(能因)
岩手の湘南、陸前高田市で広田湾に注いでいる気仙沼に架かっている橋の名前である。
●アイヌ語説
実は、「兄」「姉」という言葉も、 onne (オンネ)というアイヌ語(縄文語)であると思われます。「兄」も「姉」も、二人(以上)いるうちの年が大きい方が「兄」であり「姉」です。onne (オンネ)→ anni ( アンニ)→ ani (アニ), onne (オンネ)→ anne (アンネ)→ ane (アネ)となったと考えられます。
また、オミナ、オムナ(老女)も、onne (オンネ・老いている)からだと思われます。
http://kyoto.cool.ne.jp/kanta727/menou2.htm
つまり姉と兄はもともと一つの言葉しかなかった。妹(いも)が恋人と妻と同じ意味だった古い言葉からきているのか、このアイヌ語の説明はアイヌ語めいているし説得力がある。
姉が崎とか姉川とか姉村とか姉屋とか姉とつく地名はある、地形的には姉川は細い川と説明している。とするとアネは細いという意味であり姉にむすびつくのか疑問である。オンネ・ト-とかアイヌ語年老いた湖とかは確かに老いたであるから間違いないが本州で姉とついた地名は別に年老いたとは関係ないのだ。年老いた川とか年老いた村とかなるとは思いないのだ。
●姉ケ崎から解読
姉ヶ崎 「あねさき」:地名、姉埼神社・・・
「あねがさき」:JR姉ヶ崎駅、姉崎藩(あねがさきはん:江戸時代)・・・
地名は「あねさき」が正しい。「あねがさき」は駅名を地名と誤ったもの。
姉埼神社の「姉埼」という字から「あんさい」という土地の人もいる(旧東海村に多い)。また、姉崎出身を「あんせん」「あんさき」とも云う人もいる。
あねさき ・昔、姉弟の神様がいて姉の神様が先にこの地に着いたので「あねさき」となった(言い伝え)。平安初期には『姉前』と記されていた。『前』→『埼』→『崎』に変化した。・地形学的には埴埼(はにさき:埴(ハニ)は赤土。埼は台地の先端のこと=赤土の露出した台地の先)が変化したものと考えられている
姉が崎は姉とは関係なくあそこの、あの崎とかいう意味でありなまったものだろう。とすると姉とはアノでありあそこの川とかあそこにある屋で姉屋とかあそこの姉の歯となる。歯とは端のことであり葉山というのが各地にあり信仰の小高い里の山だった。あそこの小高い山とかになる。
アイヌ語説 ×
姉と兄説 ×
アイヌ語地形説 (アネ-細い)×
アネはアノ、アソコ、→アネ-単に近くにあるものをさした地名
つまり意外と地名の解読はつまらない無味乾燥なものにいたるのが普通なのである。それにしても姉歯という人はその歌にあるような心境になっている。朽ちぬらん・・・という寒々しい心境である。ただ姉歯とか姉とついたのは全国各地にあるから別にめずらしいものではない、ハを歯としたから珍しく思われたのである。
町名など名前の変遷は歴史そのもの(双葉の新山−長塚駅の由来)
常磐線の福島県内の長塚駅は消えてなくなった。戦後10年後くらいまで双葉駅は長塚駅だった。なぜ長塚駅がわかったかというとここに自分の父親がここの酒屋に勤めていて鹿島町に移り酒屋を始めたからである。暖簾分けをしたわけである。そこには一年くらい住んでいたことがありそこのことを語ったからわかったのだ。長塚駅におりて酒屋に行ったのである。昔は長塚村と新山村があり双葉町はなかった。のちに新山村が新山町となったのだ。その酒屋の近くに銀行がありそこで子供だから遊んでいた話をした。銀行というのも当時ではめずらしいものだったのだ。ここでわかることは長塚村と新山村は江戸時代からあった古い村であり双葉町はそのあと合併した名前である。江戸時代からつづく村が古いから郷土史では古い方が大事でありそこを基点に歴史を考察する必要があるのだ。
新山城に関する記述があり、常磐線の東西にあったことや東の館跡には新山神社があることなどが書かれている。元弘元年(1331)に標葉(しねは)左衛門尉隆連が築城したと伝えられ、明応元年(1492)標葉清隆・隆成父子が相馬盛胤に滅ぼされるに及んで標葉郡は相馬氏の支配下に入った。慶長16年(1611)以降廃城になっている。鬼木橋を渡ると長塚宿だ。さっきの新山宿とこの長塚宿は、合宿で、月のうち前半は長岡宿、後半は新山宿が勤めていた。
氷川橋の先の十字路で旧道は右折する。ここを左折して、踏切を渡ると長塚陣屋跡がある。享保年間、相馬昌胤が領内の宇多、行方(なめかた)、標葉(しねは)の三郡を分けて七郷とし、一郷に一陣屋を設けて統治に当たらせた際に設置された。長塚陣屋は、29村を掌管した。陣屋跡の見取図が掲示されている
安政の大火以降の浪江宿の東を通り、請戸川の手前で左折して高野(こうや)宿(のちに浪江宿)に入っていた。浪江宿は、以前高野宿と呼ばれていたのが、度重なる大火により寛政10年(1789)に火伏せとして水にちなんだ「浪江宿」と改名した。
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/iwakisoumakaidou11tomiokanagatuka.htm
インタ−ネットを探してこのサイトに出会った。仙台から来てかなり丹念に調べているのには感心した。地元でもないのにこれだけ細かく関心を持つ人もいる。
左折してすぐ右に入って行くと常福寺がある。ここには戊辰の役で戦死した筑前藩士の墓と句碑がある。「的野」、「川庄」など福岡県に馴染みの名前があって懐しく、丁寧に合掌した
この人は福岡県出身なのか戊辰の役で死んだ官軍の人の墓が残っていることは知らなかった。中通りは二本松少年隊とかで有名で激烈な戦いがあったが浜通りにも規模は小さくても戦いがあったのである。
これで注目すべきは名前とか地名の変遷は歴史そのものなのだ。最近南相馬市が合併でできたように常に村とか町の名前は昔から変遷してきたのである。興味深いのは「浪江宿は、以前高野宿と呼ばれていたのが、度重なる大火により寛政10年(1789)に火伏せとして水にちなんだ「浪江宿」と改名した。」これが史実だとするといかに江戸時代は火事に悩まされたかわかる。江戸の大火は有名だが地方でも火事のために名前まで変えていたのだから火事は大きな災難だったのだ。鹿島区でも火伏祭りがあるが火を伏せるとあるから火を消すではなくなんとか火を止めるというのが当時の消防だった。延焼を防ぐことしか方法がなかったのである。ともかく市町村合併で地名のことを書いてきたが名前の変遷は歴史そのものであり注意が必要である。
なぜ南相馬市になって違和感がつづくのか?(広域地名化は文化の破壊)
●日本は山が国境になり坂が境となった
南相馬市になって何かしっくりしない、なじめないものを感じないか?無難な名づけ方で外から来ると南相馬市→相馬市・・・相馬市−南相馬市になるからわかりやすいことは確かである。南からきた人はここから南相馬であり相馬の領域に入るという感覚になる。相馬藩の領域に入るという意識をもつから外から見るとこの名前のつけ方は良かったのかもうれない、でもここに住んでいる人はまた違った感覚になる。外から見るのと内部からみる世界は違っている。外からの人は余り違和感はないだろう。でも長年住んでいる人には何か違和感がある。原町市として住んだ歴史は長いしまた小高町でも鹿島町でも長いからそうなるのだ。南相馬市というのが何か実感として身につかないのだ。これは日本の地理的特性と関係している。日本は山が多いし山にさえぎられて村落が点々とあった。だから山が自然の境界になっていた。坂(さか)から境(さかい)になった。日本は山が多く坂が多いからそうなった。峠も国字だから日本は実に峠の多い国なのだ。坂を境を峠を越えると別な国になっていたのだ。だから坂を上る、峠を越えるそのかなたには別な国があるような感覚になる。山のあなたに幸いがすむ・・・という感覚になる。だから旅するとき坂を上るときかなたにある世界、未知の世界に思いはせる旅になるのだ。
原町に行くときは必ず坂を上る、この坂は六号線ができてからはゆるい坂になった。前はもっときつい坂だった。日本には急な坂が多かったのである。例えば四国を旅してやはりここも山が多く坂が多かった。坂を越えて大洲にでたときそこが広々とした田んぼがあり川があり別世界にきた感じになった。こういうところが日本には多いのだ。鹿島区から原町区へ行くにも相馬市に行くにも一坂越えるとそこにまた広々と平野が広がっている。そこで他の街へ来たとなり新しい風を受けるのだ。これが飯館だと坂は峠でありそれも相当に高い峠だからまるで別世界に来た感覚になるのだ。だから飯館村は飯館村として南相馬市に入らずに残ったことは地理的独自性の所以でもあったのだ。小高−原町−鹿島は浜街道でつながりやすいが飯館ははるか山の上でつながりにくかったのである。地理的に隔絶されていて地理的一体感がもてなかったからいい飯館村として独自に残ったのは良かったかもしれないのだ。
●広域地名の違和感
広域地名の違和感はやはり地理的な制約を無視しているからだ。自然的境界としては山とか川とかがなりやすい、大陸では大きな川があるから川が自然的境界となっていた。ライン川はゲルマンとロ−マの境界である。ライン川を境にして別個の文化が民族が住んでいたのである。ライン川を挟んで歴史の興亡がくりかえされたのだ。シ−ザ−がルビコンかわを渡ったというときも境界の川をこえたとき歴史が作られたからである。大陸の川は大きい故に歴史を作ってきた川なのである。日本でも両国がそうである。下総国と上総国の国境にかけられた橋からそうなった。一方人工的境界線というのもある。砂漠とか平坦な地では人工的な境界が作られやすい、また他民族に支配されるは勝手に境界が作られる。イラクなど砂漠の国境は支配したヨ−ロッパ人に勝手に線引きがされたから不自然なのである。これはアメリカでもそうであり侵入してきたヨ−ロッパ人によって州は人工的に線引きされた。広域化された名前になったのである。古い歴史的に育まれたものがない国では自然的境界は余り意味を成さないことを示している。南相馬市でも広域地名化したから違和感が生じたのかもしれない、自然的歴史的に区切られたものを広域化地名化した結果、違和感が生まれた。それと長く親しんできた町名、市名の問題もあった。
●原町市の名には明治以降一早く近代化した歴史があった
原町市というと相馬市より先に近代文明を受けいれた先進地域なことがわかった。無線塔があり森林鉄道があり木材や石など資材を東京などに運ぶ交通の要所であり常磐線の基点ともなっていた。原町市は鉄道を中心に活気ある市だったのである。つまり原町市と相馬市の歴史はかなり違っていた。相馬市は相馬藩の城があったのだから城下町としての歴史の継続があった。しかし近代化したとき原町が中心となり活気ある市となっていた。だから人口も相馬市より増えたのである。そのシンボルが東洋一と言われた無線塔がいち早く建てられたことだった。群馬県の富岡製糸工場が世界遺産に推薦するようにすでに明治以降の近代化は歴史になっている。原町市も一早く近代化した街としての歴史があった。そこに原町市の歴史的意義があったが南相馬市になったとき江戸時代の相馬藩の世界に戻ってしまったのだ。そういう歴史的相違として原町市は相馬市とは違う名前となり生きていたから南相馬市となったとき何か前の江戸時代にも戻ったような感覚になってしまったのではないか?これは相馬野馬追いとかの祭りを宣伝するためとかには良かったのだが地元からすると何か違和感を覚えるのは明治以降の歴史が考慮されなかったからかもしれない、原町市と相馬市は明治以降は原町市が中心に発展したという経緯のためである。原町市は相馬藩という古い体制から近代化した市としての原町市だったからである。相馬市となると江戸時代からの相馬藩の継続を感じるが原町市にはそれがなかったが明治以降の近代化して発展した歴史をふくむ原町市というのがあったのである。
市町村合併は文化の破壊だったというとき地理的歴史的地名問題がありこれが地元から見るのと外からみるのではかなり違ったものになるからだ。今は観光を重点に外から見た地名をつけているのはやはり自然的歴史的地名の文化の破壊になっている。白神山地が有名だから白神市にするとか小牛田を美里にするとか文化を無視しているのは文化の破壊だったのだ。地名はそれだけ奥深いものであり簡単に変えるものではないものなのである。文化はそもそも簡単に変えることはできないからこそ文化なのだ。文化は言葉がそうなように継続されて使用されることに意味があるからだ。天皇でも代々続いているからこそ意味がある日本の文化の象徴になっているからだ。
特に原町はその地形上の有利から電波塔や製糸工場が建設されたり、戦時中は陸軍が兵士訓練の為の飛行場を造りと、電気に対する需要があった。戦後、パルプ業の発達と産業の地域拡散により大量の電気を使う機械産業が台頭を始める。
原町森林鉄道で運ばれた森林資源は、建材として都市部のエネルギー源として、またパルプ業の登場と共に資材として求められ、鉄道は次々と支線を開発し総延長を稼ぎ出してゆく。戦前・戦中・戦後と、それはまさに原町という地域が相双郡内で突出して伸びる要因である。国鉄原町駅はこの為に機関区があったのではないか?と思う程だ。原町森林鉄道は昭和30年代まで時代の寵児だったのだ。
http://dtm.fc2web.com/3.dtm/5.project-web/project-4/4.haramachi-sinrin-railway/hido_deta4haramachi-sin3.html
企業イメ−ジで(ひばり野市がいい)市町村が決められるのか?(市町村合併後の再考)
市外の企業から見た目。(ポイント、企業進出の場として魅力的がどうか)
行方市 …なんて読むのかわからん。読めない名前に支店を出して宣伝広告費をかけても効果はゼロ。
ひばり野市…響きがいい(耳に残る事なのでこれ大切)。明るい感じがする。南相馬のように語尾が下がらない。
イメージを大切にする企業は人の心に残るマーケティングに力を入れます。
俺も、ひばり野市がいいなぁ。新しく誕生する市にふさわしい新鮮な語感だと思う。
旧・原町市の雲雀が原から採られたちゃんとした名前だし
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「相馬」「いわき」は知っていてもなかなか「原町」知ってる人間ていなかった。
野馬追いの話しても、「相馬市でしょ?」っていう意見が多かった。
そういう経験はみんなにはないか??
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ひばり野市鹿島字烏崎 とか ひばり野市飯舘字草野とかになるでしょう
つまり旧名は何らかに形で残る筈 しかし原町はそうはならない
原町がひばり野になるのだから ひばり野市仲町とかになるので原町は残らないと言うわけ
http://tohoku.machibbs.net/1090687567.html
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行方氏は古代の地名でなじみがないから採用されないのは当然だった。企業イメ−ジでひばり野市がいいというのも市町村名に適応できるのか?ここに現代が企業社会になっている悪弊がででくる。グロ−バル化で世界が実は企業支配になっているのであり国すら企業によって動かされている。会社や企業は特別の特権がありあらゆることが許される社会になってしまった。社会を反対に読めば会社になる。社会=会社なんだよ、でも社会の意味は社に会すだから小さな地域の共同体が日本では社会だった、それは村の共同体だった。
雲雀野市−ひばり野市の弱点は前にも書いたが百合丘団地とひばり野団地とか何か歴史的なものがない名前にとられる。市町村名は歴史なしでは語られないから企業イメ−ジではつけられない、商品を売る会社じゃないんだよ、市町村は・・・また原町市は外部では知らないと言うのは本当であり相馬は知っているから相馬がいいというのもわかる。ただ地元からすると原町市は近代化して相馬市相馬郡内で一早く発展した街だったのだ。その象徴として無線塔があり森林鉄道があり丸三製糸工場があり原町駅が東京への基点の駅となっていたのだ。近代化の歴史として原町市があり原町市は相馬市とは違った近代化した街としてのイメ−ジなのだ。富岡製糸工場が世界遺産に登録しようとしているように近代化の歴史を刻んだ街としての原町市の名があった。豊田市と言えば誰も田んぼをイメ−ジしない、トヨタの自動車の街であり世界でも知られているから豊田市はむしろトヨタという横文字、カタカナがあっている企業街である。それも一つの近代−現代の歴史となっている。原町市は外部からは知られていない、原町も全国的にみれば相馬でしか通じない、でも観光とか企業イメ−ジとかだけで市町村名がつけられるものでもない、いづれにしろ南相馬市原町区となると近代化して発展した原町市のイメ−ジは消えた。損なのは小高区とか鹿島区とかと同列になってしまったことである。これも何か未だに違和感をいだかせるのだ。
市町村合併は一面歴史の文化の破壊だった。これは何も地名だけではないグロ−バル化が市町村合併にも影響しているのだ。そもそも日本の姓にその土地の地名をとったのが多いのはその土地が生産の基だから当然そうなったのだ。都から中央からきた官吏でも土着すればその土地の地名を姓にしたのである。今の企業は外部からくる技術であり外部からの資産でありその土地独自に生み出すものによらないから企業の力が強くなるから企業イメ−ジの名前がいいとか歴史ある市町村名まで語られることになる。それだけ会社人間であり地域意識とか国意識は希薄化してしまったのである。グロ−バル化は世界的企業化であり会社化であるから地域の文化も歴史も破壊されることになったのである。
江戸時代はこの逆だった。相馬藩だったら藩単位の自給自足的生産消費社会であった。それは全国でそうだった。だから小さな地域社会が世界となっていた。負の側面として考えれば資源の節約やリサイクルのために山林でも水でも厳しい制約社会だったのである。資源が限られているから資源を無駄にできない、等分にして村を維持するためにそうなった。それは各藩でそうなのだからいかに今からすれば窮屈だったかわかる。関所があり関所の外は外国と同じだったのである。それでもそういう狭い範囲で生活を自給自足しなければならないからその土地土地に耕す文化が生まれたのである。南相馬市相馬市となると昔のこの相馬藩に戻ったのである。駅名ではわからないが6号線でも南相馬市となり相馬市となるからちょうど相馬藩への関所を通るような感じになるのだ。近代化し発展した原町市のイメ−ジはないしもともと外部から知られていないのだから外部の人にとってはわかりやすい名となったのである。
http://tohoku.machibbs.net/1090687567.html
会津の方角の不明(広い地域では方角地名が大事だった。)
西会津へ分かるる道や秋の暮
これは只見線の塔寺駅で下りて西会津の方へ分かれる道がつづいていた。西会津というとどの辺だろうと見当つかなかった。現に西会津町というのがある。喜多方や山都の方である。前に喜多方は北方(ほっぽう)であったが味気ないということで喜多方にした。地名ではこういうふうに本来あった地名を変えることがあるので注意する必要がある。地名では新しい地名より元の地名が大事なのである。会津高田町が会津美里町となったが会津高田町の方がその土地の形状とマッチしていることがある。高い場所に田がある場所が高田だからもともと高田に田が作られ平地に広がっていったのである。小山田とかが万葉集の歌にもあるごとく多い地名であり田が作られた場所だった。方角地名は意外と大事であることが旅の経験からわかった。会津というと本当に方角がわからなくなるほど広い地域なのである。旅するとどこでも方角がわからなくなる。方角は中心地点から決められる。会津若松が中心だから喜多方は北方になったのだ。東山温泉があるがこれも会津からみて東だからである。西会津は新潟の方角にあるから西である。方角地名は旅の目安になる。西は日の沈む方角だからそういう感覚、淋しい感覚になる。東山は日の上る地帯である。京都でも東山はそうなる。相馬市は南相馬市と二つになったのは方角的には他から来た人にわかりやすくなったのだ。ただ相馬の場合は会津のように広くないから方角地名が適当だったかどうかは問題がある。なぜなら会津は広いから山々が無数に重なっているから方角を知ることが大事になるのだ。そして西会津というとき西会津という日の沈む淋しい地帯をイメ−ジするしそれにあっているのだ。琵琶湖でも湖東と湖西では趣がかなり違っている。湖東は東海道が通るので繁華なものをイメ−ジするし瀬田の唐橋とか大きな橋があった。湖西はかなり奥まった淋しい地域になるから方角地名でその土地を想像するから見当つけるから大事になる。
確かに会津に行ったらコンパスが必要である。方角の見当がつかなくなる。山も多いし余計にそうなのだ。どっちの方向に向かっているのかわからなくなる。塔寺でおりたときもそうだったし昭和村に自転車で入ったときもそうだった。それだけ会津は広いし山が多いからそうなる。鉄道路線も会津若松を基点に三本もでているから広いのである。磐越西線は確かに西会津の方に向かっているが北にも向かっている。喜多方に向かってそれから西に向かっているのだ。西は新潟から日本海なのである。南会津は東京方面に向かっている。でも南会津はあまりなじみがない、奥会津は一般的だがこれは方角はあまり関係ない、会津若松より奥まった地域を言うだけで方角は決まっていないからだ。猪苗代湖の湖南というと福良であるがここは白河や郡山にも近い、ここは昔の街道だが今は脇の道となってしまった。ここはそれだけにこちらには昔を偲べる昔の風情が残る道だった。福良にはには茅葺きの家が中心地の通りに何軒も残っていたのである。そこに菖蒲が咲いて淋しい町であった。南となると東京方面−江戸へ行く街道となる。秀吉もこの道を来たのである。郡山市湖南町福良字町浦83の1・・・ここは今は郡山に属している。仙台でも南仙台駅があり北仙台駅がある。その感じもやはり仙台からすぐ近くでもイメ−ジ的に南と北という感じになる。やはり南と北とかの与えるイメ−ジは南は温暖なイメ−ジになるから不思議である。方角地名は人間の頭の中で印象づけられるのだ。ただ南相馬市と相馬市は狭い地域だったから方角地名にはそれほど意味がなかった。会津のような広い地域だと方角地名はかなり意味あるものとなっていたのだ。相馬は将来的には一つの相馬市になるとか言う人がいるからその方がさらにわかりやすくなる。外から見れば南相馬も相馬も同じなのである。原町だったら区別していたが南相馬となれば同じ相馬に見られる。
東京も東の京であり日本全体で考えると西と東に分けている。その境界は関が原辺りなのである。会津だと西は新潟の方であるから方角感覚としてはぴんとこない、南と北には分けていない、北は北海道がそうである。南は沖縄をイメ−ジする。日本の方角は一様ではない、南京−北京もそうであるが北京はかなり風土的に南京とは違う、寒い厳しい遊牧民の風土である。南京はあたたかなイメ−ジがあり温和に栄えた国の感じになるし現実にそうだった。南船北馬であり川としての交通路が発達してそうなったのだ。中国ではこれはさらに広いから南と北はまるで違った風土となり生活そのものも違っていたとなる。大陸になると広いから方角が大事になり星座が目印しとなる。移動するには方角が大事であり特に北極星が大事なのである。相馬の妙見様とは北斗七星をさし星の神であり北極星を祀っていたのだ。これは朝鮮経由で日本に伝播した神である。砂漠地帯、遊牧民の地帯はみな星に三日月の旗となるのはそのためである。方角がそれほど大事だからである。方角が生死を決めるのである。砂漠を旅した日本人が方角を感でわかっていてその方向に行ったら水のある場所にでた。それで旅をした一団が救われたと報道していた。ここではいかに指導者が大事かわかる。指導者に従い水を得たからこそ命も救われたからである。その指導者は神にもなるということがわかる。方角が生死を決めるのが砂漠であり大陸の遊牧民の生活なのである。一カ所にへばりついている農耕民には方角はあまり大事ではないのだ。そこに遊牧民との生活感覚の相当な違いがある。私は旅をしてきたから旅をするものには方角が大事であり方角を絶えず気にすることになったのと同じなのである。
地名は実益からつけられた
真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川のおとのさやけさ
東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金ありと 奏(まう)し賜へれ
天皇(すめろき)の 御(み)代(よ)栄えむと 東(あづま)なる 陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く 大伴家持
渟名河(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも
あたらしき 君が 老ゆらく惜しも (巻13、3247)
人間がまず関心を持つものは実益である。外国だったら資源である。砂漠のような広漠とした何もない世界に関心をもたない、観光の時代になると確かに砂漠も面白いとなるが古代には観光するという余裕などない、切実に実益になるものを求めていた。シルトロ−ドというときシルク(絹)の運ばれる道として意義があった。人間が求めているのは実益となる物である。だから真金吹く吉備・・となれば鉄がとれる産地としての吉備であり陸奥の小田となるとそこは黄金がとれる場所としての陸奥の小田として辺境も有名な地になる。ヒスイも玉として特別だからその場所が重要となった。砂漠でも石油がとれればそこが実益として有名な地になる。キリギリスで誘拐された日本人がいたけどその人たちも鉱物資源を探していたのである。だからキリギリスという国の名を覚えることになる。地名にも確かにいろいろあるが鉱物資源、鉄に関する由来する地名が一番多いのは実益になるものとして鉄があったからだ。つまり茫漠とした砂漠とか萱だけがなびく何もとれない辺境の地に人は来ないし都の人も関心をもたない、ここは萱がいちめんになびいていて美し地だから草原だなどと最初に来た人はつけない、地名はそういう詩人が想像してつけたような地名はまれである。無味乾燥な地形とか目印として地名をつけているのだ。
私の住んでいる場所を例にとると地名が全然関係ないものに変わってしまった。前は下町として町の人は共通認識があった。下町があり上町があった。単にシモとかカミとかも言っていた。この単純な方向地名もここに住む人にとっては目安となるものだったのだ。なぜなら下町となると地形的に一低くなっている場所であり真野川が洪水になったとき私の家は一番低い場所にあったから一番被害を受けたのである。上は高いから被害が少なかった。上と下ではかなりの高低差があった。また下町というとき何かどこでも一般の庶民が住む場所であり上となるとお上とあるごとく身分の高い、金持ちが住む場所になる。上−下だけでもそれなりにそこに住む人にとっては地名として意味がある。だから市町村合併で美里などという安易な美称地名をつけたのは問題だった。地名は他と区別することにもあったしいろいろなものが歴史地名として重要なものもあり安易に変えるものではなかった。陸奥の真野の草原というのもこれは半分が地名である。それだけ古代では地名は重要だった。草原(かやはら)を萱がなびいているとかしたのはやむをえない面があったが万葉時代になると地名は今とは比べ物にならないほど重要だった。歌枕が実は鉱物資源の場所を示していたとかすべて実益に結びついていた。風流を求める旅は芭蕉からはじまったのであり西行の時代も風流ではない、何かの使者として大事を託されて平泉にやってきたのである。
砂漠でも何もない場所でも泉は最も大事だからイスラエルでは泉となる場所が点々と地名化していたことは古今東西同じである。地名変更ではその土地と何の関係もない地名に変えられることがあった。ここがそうであり他にもあった。その土地の地形や目印しとなるものが地名でありそれはその土地に住む人にとって必要不可欠なものとして地名があった。知らない場所に行ったらまず地名が気になるのもそのためである。単なる方角地名でもその土地に住む人にとってはそこがどういう場所であるかを示すものであり必要不可欠だったのだ。下となるとやはり低地が多く洪水で被害を受けやすい場所にあるとか自然地形でも災害を示唆する地名が各地にある。崖崩れになりやすい場所の地名もある。日向とか日影とかだけの地名でもそこが日当たりの良い場所とか日影になりやすい場所と想像できるのである。アイヌが川の入り口を頭として上流を尻としたのもそういう日常の生活感覚から地名を名づけたのである。川は常に頭から尻へと上ってゆくものだったからである。地名はそういう単純なものでもその土地に住む人にとっては生活の必要上名づけられたらか意味があった。だからその場所となんの関係もない美里ととか団地につけるような緑が丘とか旭が丘とか百合丘とか雲雀が丘といった美称地名は最悪の地名の名づけ方だったのである。
常磐線−太子堂駅−新駅名と昔
新しき駅に古き名初秋かな
The naming of the new station
is old origined one
in early autumn
昔と今を比べると人間の考え方や社会というのは根本的には変わっていないことがわかる。仙台を目的地とする常磐線であう隈駅ができ最近長町の隣に太子堂駅ができた。逢隈(あふくま)駅は阿武隈川由来としているからわかりやすい。でも太子堂は何か違和感を覚えたのだ。というのは長町付近は仙台駅から拡張して開発されている地域だから何か新しい住人が住み新しく開けてゆく地域として見ていた。現実に開発が進んでいる地域である。そこになぜ「太子堂」という他から見るとなじみのない駅名をつけたのがいぶかった。でも土地の人にとっては昔から親しいものでなじみあるものだった。聖徳太子を祀るのは全国的にある。
建築関係では、法隆寺を建立したことなどから職人の神様として信仰されており、大工や職人のつくる太子講が各地で今も続いている。世田谷の円泉寺にも古くから聖徳太子像を祀ってきた太子堂があり、周囲の地名の由来となっている。
法隆寺建立の時から太子様の信仰がはじまったというから実に古い。だから別に全国的ににあるものだから特別変わった神様でもないのだ。ここに仙台藩の職人が住んでいたのかともかく昔からあった太子堂を駅名にした。どっちかというと外部の人にとっては長町があり南長町というのがわかりやすかったかもしれない、それは相馬市とあり南相馬と合併した名づけ方と同じである。南仙台駅とか北仙台駅はそうである。太子堂というと何か一地域の祠の神様のような気がしたのである。市電とかならわかるしそういう駅名はかえって地域に密着して合っているし実際にそういう土地の小さな祠のようなものが駅名になっている。でも常磐線となると広域地域を結ぶものだから太子堂というのに違和感を覚えたのである。しかしこうして仙台を中心にして新駅ができたのは今にはじまったことではなかった。江戸時代から仙台は大きな藩だから新しい宿場が作られていたのだ。岩沼宿より三つ目の宿駅である長町宿は慶長十三年(1608)に設けられた新宿である。七北田宿、富谷宿、吉岡宿なども新しく設けられた宿である。仙台を中心にしてこの時も新しい宿場が設けられたのだ。新宿という江戸も江戸を中心にして新しい宿場だったから名づけられた。これは仙台を中心にして人口がふえて市街地が拡張してゆくとき新しい宿場と駅も必要になっていくのは今も昔も同じだったのである。
なぜ駅名にこだわるのかというと電車の旅では駅名だけが記憶に残る場合がある。景色は忘れても駅名は記憶に残り駅名からまた記憶をたどってゆく。通勤電車になれば必ず駅名はいやでも記憶させられるのだ。だから駅名から絶えずイメ−ジするようになるから駅名はその町の顔になってしまうのである。駅名でも町名でも歴史的な地名はそこから昔を偲ぶから大事である。もしそれが消されると昔の痕跡も消される。今回また長町から広瀬橋を渡り五十人町百人町に出てきた。そこでここに住んでいた足軽などを偲びつつ歩むことになった。青葉城からかなりの距離である。ここから相当離れて足軽達は住んでいたのである。ここから足軽達は伊達藩の大名行列に加わり江戸を往来して足軽まんじゅうを食って力をつけた。その足軽まんじゅうを白石で売っている。そこから足軽達の暮らしに思いをはせることができるのだ。もしこの地名が消失すると昔を偲ぶこともできなくなる。現代と昔は切断されたものではなく連続したものと結び付けるものなのだ。今だけの時を生きるだけでは人間の生は貧しくなる。現代は今だけに焦点をあてやすい、過去への歴史的視点を欠けるとものの見方が浅薄になる。人間の生は過去からの集積として現在を作っているからである。
初秋仙台を歩みて(五十人町百人町)-プログへ
http://musubu.sblo.jp/article/5602591.html
飯館村が残った理由(地形的境界と歴史的境界)
歴史的にも境界は大事である。国と国の境界は歴史的境界と自然地形的境界が一致しているとわかりやすい。大陸では河が大きいから河が境界になりやすい、その典型的なものがライン川だった。ライン川を境にロ−マ帝国の支配領域とゲルマンの領域が明確に分かれていたのだ。ここからはゲルマンの勢力が強力なためにロ−マは阻まれ逆にゲルマンがロ−マの支配領域に進攻してきたのだ。これは全く自然地形的境界と歴史的境界が一致していたからわかりやすいのだ。スペインとの境界もピレネ−山脈だからわかりやすい、山脈が境界になることも多い。イランとイラクの間にも山脈がある。平原だったら大帝国になりやすいが山脈があると分断されのだ。キエフは街中にドニエプル川が流れていて左岸と右岸では文化も違っている。ヨ−ロッパとロシアに文化的にも分かれる。街自体が川で分断されているから川が境界になる。
飯館村がなぜ南相馬市と合併せず独自の村として残ったのか?その理由の一つは自然地形的な問題があったのかもしれない、飯館は地形的には相馬藩になりにくい、阿武隈山地の高原地帯であり地形的に浜通りのように一体感がない。でも相馬藩の内に入っていたが南相馬市となっても合併せずに飯館村として残ったのである。ここにはやはり自然地形的な問題として一体感をもてないこともあったのかもしれない、むしろ川俣地域に一体感があった。小手森とあるのは機織りを伝えた小手姫の伝説が飯館まで伝わった。相馬までは伝わっていない、川俣の方と地理的には一体感があったのだ。飯館村は歴史的には相馬藩の山中郷となったが自然地形的には隔絶しているのだ。浜通りなら常磐線で交通でも地理でもすでに一体化している。飯館村は地形的には山に阻まれて一体になりにくい。だから独自の山の村として地理的には残った方が良かったのかもしれない、どこが境になるのか一つは自然地形的なものと歴史的な境界がありそこが大事な所であることは変わりない、その境を通じて興亡があったからである。「花は相馬に実は伊達に・・・」という境の桜のあるところもそうである。
安達太良山は川俣の水鏡神社の峠を越えると安達太良山が見える。飯館からは見えない、だから川俣は中通りに入り福島市までのバスの便が多くなる。昔から万葉集にも安達太良が歌われているから安達太良が見える地域が地理の目安となっていたのだ。安達太良山が見える所に来ると別な世界にに来たと感じる。安達太良山を通じて共有する感覚がある。だから安達太良を見える地域は昔から一体感があったのだ。
吾も休み農夫も休む道端に安達太良望む秋の夕暮
一方で蔵王がみちのくを二つに分けると斎藤茂吉が歌ったのには無理がある。
陸奥をふたわけざまに聳えたまふ 蔵王の山の雲の中にたつ
これはピレネ−山脈のような長いものではないし二つの国を分けるという感覚になりにくい、ただ実際に八沢浦から大きく見えたのだから福島県、山形県、宮城県と三国にわたって見えるからそれなりにあっているともいえる。いづれにしろ歴史と地理は一体であり地理がわかれば歴史の半分が理解できる。地の利、人の和、天の時とあるとき地の利が戦争でも勝敗の鍵を握っていたからだ。地の利がなければどんなに努力しても一国の首都にはなりえない、近畿が日本の中心になったのは地の利だったのである。
グロ−バル化広域化は地名も破壊する(常磐線の新しい駅−太子堂の是非)
グロ−バル化広域化はそもそも文化とは相容れない、必ず文化を破壊するのだ。文化はagriculture-culture(耕す)だからその土地を耕すからはじまっているのだから農業と深く関係していた。地名もその狭い耕す地域関係して最初は必要なものとしてつけられた。地名は多様だからすべてが狭い地域の生活圏から生まれたとは限らない、太子堂という常磐線の新しい駅はその由来は古いし全国的にある。太子町というのも茨城県にある。それは大工の聖徳太子の太子に由来して世界最古の木造建築の法隆寺を建てたことからはじまっていたから古いのだ。
仏法を知らずに、堂塔伽藍を論ずべからず
天神地祇を拝さずに、宮を口にすべからず
法隆寺大工は太子の本流たる誇りを心奥にもて
口伝としてこういう言い伝えは残されていることでも古いのである。これはヨ−ロッパでも石工のギルドのフリ−メ−ソンとにている面もあった。これはさらに国際的な組織だから日本の太子堂を祀るのとは違ってスケ−ルが大きい。日本の大工は太子堂でも広範囲なギルドを作ってはいないのだ。ヨ−ロッパとか中国でも大陸は陸続きであり常に職人でも商業でもグロ−バル化して発展してきたのである。
広域地名化は外からみる視点で名づけられる。太子堂でも南長町となった方が常磐線を利用するものはわかりやすいのだ。太子堂となるとその地域では昔からあったとしても広域化グロ−バル化するとわかりにくくなる。それで現代のような交通が急速に発達した世界ではどうしても外からの視点で地名も考えられる。それはとりもなおさず文化の破壊につながってくる。白神山地が外から知られているから観光にいいとなり白神市になるとか南アルプス市とか外からの視点で名づけられた。南相馬市も外からの視点でわかりやすいから名づけられた。地名というのもグロ−バル化は国際化であるが国内的に交通が発達して広域化すると必然的に地名にも影響し地名の破壊となり文化の破壊となったのである。車社会になり商店街が破壊されたのも文化が破壊されるのもそのためである。現代のグロ−バル化は外からの視点の方が大きく作用する。一地域でも農業の問題でもそうであり地名もそうだったのである。
仙台を考えるときやはり地理に着目しないとわからない、仙台駅が中心となるがその近くに足軽が寸だ五〇人、百人、二〇〇百人町とかあり相当数の足軽が住んでいた。伊達藩が六〇万石だからそれだけの足軽を必要とした。相馬藩は六万石だからそんな地名はありえなかったのである。ここは城からは遠く離れていた。この地名によってここに相当数の足軽が住んでいたことを意識する。それは現代ともつながっているのだ。たいがい城下町の中心地は城から離れた所にあり意外と城のある所は今では淋しい場所になっている。やはり庶民が生活する市がたつところから市が街が起こったのだから当然そうなってくる。街を作るのは武士ではなく庶民であり足軽町があるとしたらそれも庶民であり庶民が主役になってゆくのが必然だったのである。太子堂付近も古くからあり職人が住んで活気ある場所だったのだろう。地名でも昔住んだ人たちの声が聞こえるようだと昔と今が結び合うから文化がそこにあることになる。地名とはその土地の歴史を象徴したものでもあるからだ。
真土など土のつく地名(地名分類)
真土峠(まつちとうげ)【橋本市】
古来、大和と紀伊を結ぶ交通の要衝として栄えた峠。万葉集で「あさもよし紀人羨し亦打山行き来と見らむ紀人羨しも」(和歌山の人は羨ましいなあ。行きも帰りもこの素晴らしい真土山を見ることができるのだから)と称賛されるように、朝な夕な陽光に照らし出される山の端は得もいわれぬほど美しい。良質な土が取れることでも知られ、真土は「まはに(良い土)」が転じたものだといわれる。弘法大師が真土をこねて作ったという膏薬が、近年まで腫れ物の妙薬として売られていた。
「草木を植える土」として、真土(まつち)、野土(のつち)、忍土(しのぶつち)、赤土(あかつち)などの性質が解説されている。あとは、いもづる式に真土や野土、忍土を引いていけば、本全集に含まれる「土」や「土つくり」についての情報はほとんど調べることができる。
『会津農書』の記述は「田地位(=田の等級)」から始められています。まず、田の土の種類を「黄真土(きまつち)」、「黒真土」、「白真土」、「沙(砂)真土」、「野真土」、「徒真土」、「沙(砂)土」、「野土(のつち)」、「徒土(すつち)」の9種類に分類している
農業する人にとって土は大事である。実際に農業にたずさわらない人には土は同じ土にしか見えないのだ。しかし万葉集の時代から農業は土から始まったのだから土の大事さを肌で知っていた。それで亦打山−真土−真土町が地名として残った。ここでは地名だけを考察すると野土町とかあとに白土町とか黒土町とか地名化してある。これはもともと大きな町の意味ではなくマチは一区画の意味でありその一区画の地名が町の名になった。土の性質で地名で区別していたとなる。この地名に着目したのはキ-ワ-ドで検索して連想した結果だった。地名はそもそもあまりにも多様で分類できない、でも地名の分類は明らかに地名学として必要なのである。これは私だけではない共同研究になる。インタ−ネットもキ-ワ-ドから調べるから地名研究にはかなり役立つ、地名は詩人がつけたのではない、まさにその土と密接に結びついていた農民が名づけたものである。だから実用的なものでありその地名からその土地−土に根ざした生活に思いをはせることができるのである。
茶業が発達して茶壺がたりなくなり信楽の職人が関東へやってきて関東の土を見て歩き焼き物をはじめたのが笠間なのです。その笠間の職人が後に飯能へ移ってきます。それが飯能焼きになるのです。そして笠間にきた時に土の関係で相馬焼きの技術が取り入れられたのが益子焼きであり益子焼は新しいのです(宮本常一)
(相馬焼の歴史)
http://www.musubu.jp/somayakimono1.html
陶芸でも土が大事であり土に依拠しているのが陶芸である。だから良質の土を求めて移動している。お土産とはまさにその土地の土から成るものがお土産なのである。
これは外国でも同じであった。ワインは実に多様でありその土地と土と関係し気候とも関係してその味は作られる。だからワインには土地の名前がつけられているしまさにブレンドされた味だとなる。そこの土地でしかできないものであり味があるからだ。それがまさに文化なわけである。そしてそこには長い物語が秘められている。その物語も味のなかに含まれているのだ。人間はただがつがつ食うだけなら動物と同じである。料理にはいろいろな要素があり語り尽くせないものがある。その物語を聞きつ賞味する。それは腹を満たすだけではない、心をも満たすのである。豊かな時代は情報が付加価値として大事になる。物語もそんなもの味とは関係ないというが実際は器のデザインとかに感覚的に味にも影響する。飲み物はやはりガラスの方が涼しさを感じるのだ。地名にもその土地土地の長い物語が秘められているのだ。そんな研究は暇人のすることであり役に立たないというのは豊かな時代にはあてはまらない、インタ−ネットはやはり時代が知識、情報、物語などの付加価値を要求する時代となり現れたものである。物はあふれているし技術も最高度に進歩したがそれだけでは人間は満足しない、料理についても知識や情報を物語を付加価値として求めている。いづれにしろ地名学も一つの学問であるがこれはあまりにも広範囲なので一人ではできるものではない、共同研究になるのだ。
明治−大正−昭和−元号の町村名は消える運命に
なぜここに土佐大正駅−土佐昭和駅があったのか、旅では名前だけを記憶することがよくある。こういう名前は記憶しやすい、土佐大正駅だと思ったのは錯覚で土佐昭和駅だった。後ろが崖になっている無人駅だったからだ。インタ−ネットの写真でわかった。
一時を土佐昭和の駅にあり春もの淋しも日の暮れんかな
この町自体が陰気で淋し感じだった。土佐昭和駅の隣が土佐大正駅だった。昭和村というのが会津にあるから昭和という年号が過去のものだから昭和も一つの歴史になったことは確かである。昭和も短いが歴史である。大正は短くても母親の年代が大正なので身近に感じられるのだ。昭和は長いから一つのイメ−ジにすることはできない、天皇制の年号だと時代をイメ−ジするのにはいい面がある。数字的に一九五十年代とかより人間的になることは言えるが現代はグロ−バル化だからこれもあわないものとなっている。明治−大正−昭和と駅がつづいていたら面白いともなる。
会津の奥がなぜ昭和村なのかとなると開拓に入った地域だったのが多い。そこで何村にしようとしたとき昭和の世だから昭和にした。明治村があったが今はなくなったという、一時代を記念する、天皇の元号を村や町の名にすることは少ない、明治村とあればどうしても明治という時代を思い出すしそこに明治があるような錯覚になる。これが名前が地名がイメ−ジする力なのだ。最近本当に昭和三十年代村というのを作り観光村にしようとする試みが計画されている。そこでは実際に生活する人は住み作るから今までの江戸村などとは違うかもしれない、これも一時代を象徴するものとして町を作る。ただ昭和は戦争前と後ではかなり時代が変わってしまっているからイメ−ジするのがむずかしい。過去の元号でも江戸時代でも元号から時代をイメ−ジすることはむずかしい。「降る雪や明治は遠くなりにけり−草田男」というとき明治は明らかに日本史に記念すべき特別な時代だったのである。大正となると何か全然違ったイメ−ジになるのだ。大正モダンとか何か頽廃的な感じになる。昭和は戦争と高度成長がありこれを一つの時代としてイメ−ジすることには無理がある。一般的に元号は町や村の名前になっているのはまれである。やはり何かなじみがないためなのか?明治という村の名前も消えた。大正も昭和村も消えるかもしれない、つまり地名は時代を象徴するものではなく地理の目印となり地形的なものからつけられるのが多いからそうなる。時間ではなく空間的な地理の目印しとなるものだから年号や元号はにつかわしくないから消えてしまう。時代を保存することもできないこともある。明治以降の元号が地名化したのは特殊でありやはり時代がそうしたのであり地名も時代の影響を受けざるをえないのである。
滋賀県栗太郡大宝村(現・栗東市)(大宝:701〜704)
これなどあるがこの辺は歴史も古いから一部残ったのかもしれない、大同村というのも大同(800)に由来している。他にあるのか、あまりないようだから元号が地名化することは地名にあわないから残らないとなる。地形とかは千年たっても変わらないのが多い。でも時代は常に変わるから地名化しにくい、地名は千年単位でも残っているのが結構あるからだ。明治から百年のめまぐるしい変化のなかで記念すべき明治の地名も消えたことでもわかる。大正も昭和も早晩消えてしまうのだろうか?地名としての永続性に欠けているからそうなる。
木のつく地名(宮城県仙台市宮城野区銀杏町)
http://freett.com/watarubuu/0030.htm
銀杏町 楠木町 榎木町 欅町 大杉町 槻木町 栃木町 橘町 桜木町 梅木町 柿木町 柚木町 柳町 一本木町 二本木町 十三本木町
木のつく地名は多い、一番多いのは松のついた地名である。松はそれほど身近なものであった。木のついたあとに町とあるからそこが町とはならない、町は一区画の単位のマチなのだ。つまりそこに木がありそれが目印となり町の名前になった。白石市の白石は白石本郷村でありそのなかに白石町があった。村の中に町があるというのはめずらしくないのだ。そこに必ずしも町があったとはいえない、なぜ木が町の名前になるのか?それは木が人間の寿命より長いし小説でも樅の木が残ったとかいうように人間は消えても証人のように木は永続してその場に残っているのだ。人間の一代の寿命は短いのであるが木の寿命は長いからそれが地名化する。地名の寿命も人間一代よりはるかに長くつづくのが地名である。町のなかで大木のあるところは古い土地であり旧家であることが多い。古い木があるところは古い場所なのだ。そして郷土史研究では古い場所が一番大事な場所なのである。実際私の住んでいるところは住宅地になり住所も変わったし全部変わって昔のものが何も残らなくなった。ただ隣の柿の木と無花果の木だけが昔からあったものである。他は全部消えてしまったのだ。この木は子供のときからあったしその前からもあったのだ。この辺ではこの木が一番古いのである。このようにそれぞれの住んでいる所で何が一番古いのか探すと木が古いということがかなりある。古いものには価値があるのだ。
今回発見したのは仙台だから身近だった。これはインタ−ネットのプログの説明でわかった。宮城野原というと昔は宮城野の萩で有名だったがその面影は全くないから関心がなかった。これだけ変わると仙台でも昔のこはわからない、特に外部から来たものにはわかりにくい、場所もわかりにくいし実際に見ることもむずかしい。しかしここは相当歴史ある本当に古い場所だったのだ。
そして輪王寺の西端を北に向う道が、七北田街道である。実はこの道、いにしえの奥州街道(古街道)であり、別名「秀衡街道」と呼ばれていたのである。
ここを訪れた松尾芭蕉は、「日影ももらぬ松の林に入りて、ここを木ノ下といふとぞ」と記している。一面の赤松林だったのだろう。
木ノ下の北隣のなだらかな岡が、つつじが岡である。今は桜の名所・榴ヶ岡になっている。この地はその昔、「鞭楯(むちたて)」と呼ばれていた。源頼朝が奥州藤原氏を討つべく19万の大軍で遠征した際、藤原泰衡(やすひら)がこれを迎え撃つ為に陣を張った場所である。
木ノ下・榴ヶ岡から、宮城野原を通って陸奥国府・多賀城政庁(宮城県多賀城市)へと続く道は、「奥大道」と呼ばれていた。この道の途上に、一本の銀杏の木がある。推定樹齢は、1200年とも1300年とも言われている。 1200〜1300年前と言えば、奈良時代の聖武天皇の頃ではないか。その頃生まれた樹が、今も現役で生きているというのは、やはり驚きである。誰が呼んだか「宮城野の乳いちょう」。銀杏町の名も、むろんこの樹に由来している
相馬地域だと昔の街道をたどることができるが仙台は市が拡大しているしたどることがむずかしい。ただ平泉はそんなに遠くはないから身近なのである。仙台の次は平泉にゆくというのは今でもそうである。平泉の次は盛岡になるのが観光ル−トだからだ。仙台も歴史ある所なのだがそれをたどることは今や外部の者にはむずかしい。昔の道がつながらないからだ。分断されすぎているのだ。相馬ならなんとかつないで実地にゆくことができるが他はむずかしいのだ。でもこの銀杏町はこれだけ古いのだから銀杏町にふさわしいことを知ったのである。古宿とあるのもやはり古い宿場あったことの名残の地名なのだろうか、新宿は新しい宿場町であり街道が新たに整備され新宿もふえたのである。
平泉へ通じる道や奥大道銀杏残りて北風唸る
相馬市日下石地域の方角地名
●日下石地域の方角地名
南相馬市の鹿島区が北郷なのは最初に相馬市が原町区の太田に移り小高に城があった。その小高や原町区から見れば鹿島区は北郷なのである。方角地名は中心地からみての方角なのである。小さい一地域の地名でも方角地名はその村や部落の中心地から名づけられた。日下石から松川浦に出るところに柏崎があり中台、西台、西原、北向とあり表という地名がある。表は海に面した方角である。この地名はここに部落がありその中心地から見て名づけられた。部落には家が固まってありそこから見て方角地名が名づけられた。これは別に村でなくても有力な屋敷などがあれば城があればそこから方角地名がつけられる。小野町の近くも家が集まる部落の西と東で西畑と東畑となっているからこれはわかりやすい、一目見てわかる。南相馬市という地名は今度は相馬市から見て南となるから南相馬市になった。北郷→南相馬市になったのである。昔のように城があった相馬市を中心にして南相馬市にしたのである。これが現代にあったものなのかどうかは判定はむずかしい。なぜなら原町区は原町市として明治維新後近代化されて発展した地域であり相馬市より発展した地域となっていたからだ。歴史的に相馬市が古い場所でも明治維新後は原町市(区)の方が発展して東洋一の無線塔などが建てられた先進地域になっていたからだ。
●今の相馬の城のある中村は伊達との領土争いの最前線
鬼越館を築いたのは、相馬氏の家臣であった佐藤伊勢守好信である。佐藤氏は磯辺・日下石等6ヶ村を領し、もともとは海岸近くの磯辺館を居館としていた。しかしそこは波浪による浸食が激しくなってしまったため、永禄6年(1563)、鬼越館を築いて移り住んだ。『相馬氏家譜』には「伊勢好信、磯辺の館より立谷東山館を築いて住居」とある。この立谷東山館というのが、この城館のことであると思われる。
天正9年(1581)当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/soumasi.htm
500年前にやはり海岸が浸食されていた。今も海岸はかなり浸食されている。立谷はもともと立谷町とあるからこの土地の名前を姓にして土着した立谷氏が居住した一帯である。相馬家臣に立谷氏と日下石氏がいる。立谷東山館とあるのは立谷町から見て東の方にある館となるから立谷町地域が中心としてそう名づけられた。
伊達氏領に近い位置にある黒木城は、対伊達の要塞として順次整備されていったことだろう。現在見られる、堅固な二重堀といった構造は、そうした時代を背景に組み上げられていったものだと思う。
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/soumasi.htm
黒木城は最初、伊達氏に属していて後に相馬氏に属して伊達氏に対抗する城となった。相馬市地域は伊達氏と相馬氏が領土争いをした地域だった。
◎金山城跡(宮城県丸森町)
標高117メートルの独立山地を利用して造られた山城で永禄年間に相馬の家臣井戸川将監・藤橋紀伊が築城されたといわれています。1576(天正4)年以降は伊達家と相馬家との間で激しい戦いが繰り返され1583(天正12)年になってようやく伊達家の領有が確定し、その家臣中島宗求が城主となった
http://blog.goo.ne.jp/cocolopia/e/b6efface5cc694b287687e88f880e705
金山城は結構立派な城だった。侍屋敷まで麓にあったし石垣も残っていた。こうした伊達氏と相馬市の領土争いの熾烈な場所だったから後に城を小高から中村に移したのである。伊達から攻められる最前線に城を作ったのである。中村に城を造った時、鹿島区は北郷ではなく南郷になっていたが北郷のままになっていたのである。方角地名はどこが中心地域だったかをおさえる必要がある。喜多方は北方であり会津の北に明治維新後開けた町だったからだ。それは日下石のようなさらにその一部落でも中心がありそこは一軒の大きな草分けの家かもしれない、それでもその中心の家から方角地名がつけられていたことを発見したのである。
誰が偲ぶ鬼越館と立谷の東昔知られしを
飯館の大倉の名の由来は鎌倉の大倉郷から?
●鎌倉山の由来
鎌倉岳は標高669メートルあリ、古殿町の松川地区に群がる山々の中にひときわ高<、町の中心地を展望でき、我が町のシンボルとして親しみ深い山である。(展望所駒形神社は昭和49年再建立)
竹貫城主12代の内いずれの時期か不詳であるが、鎌倉より嫁いできた姫が,故郷恋しさに『私のしたわしい鎌倉はどちらの方にあるのだろう』と聞かれたので、前の山を指し[[この方が鎌倉である」と教えたところから鎌倉岳と名付けたという。
また、鎌倉見岳山は山岳仏教の山伏修験の行場霊場でもあった。
http://www.town.furudono.fukushima.jp/kamakura/index.html
福島県郡山市 鎌倉池(かまくらいけ)
福島県いわき市 鎌倉(かまくら)
福島県田村市 鎌倉岳(かまくらだけ)
福島県南会津郡 只見町 鎌倉山(かまくらやま)鎌倉沢(かまくらざわ)
福島県南会津郡 南会津町 鎌倉崎(かまくらざき)
福島県耶麻郡 猪苗代町 鎌倉山(かまくらやま)
福島県石川郡 古殿町 鎌倉岳(かまくらだけ
丸森町−鎌倉山(羽山) 標高340m 山頂に羽山神社を祀る信仰の山
鎌倉に由来する地名は福島県に多い、ただ鎌倉とあるから鎌倉と関係あるとはならない、会津の方の鎌倉は由来がよくわからない、古殿の鎌倉山の伝説は信憑性がある。「私のしたわしい鎌倉はどちらの方にあるのだろう」ということは鎌倉から移ってきた人達がいてそこを偲んでその名がつけられた。それはほぼまちがいない、単なる地形的なものも交じっているがここは鎌倉に由来している。丸森町にある鎌倉山の由来は定かではないがここに羽山神社が祀られていることは鎌倉−羽山が関係している、それが飯館の大倉の名の由来と関係しているかもしれない、何故なら大倉は羽山祭りで有名だったからだ。ただ羽山信仰はいたるところにあり大倉だけではないからいちがいには言えない、山岳信仰であり山伏とか関係していた。橲原村に山伏が住んでいたこともやはり村自体にも山伏が住んでいたのである。山伏に関する地名も多い、山伏峠とかもある。
●鎌倉から移住した南相馬市(鹿島区)の岩松氏関係の地名
室町時代に岩松義政は真野郷千倉庄七百町、山中二百町を与えられた。鎌倉より船で主従50余人をもって出立し途中烏の先導により鹿島区の海岸についた。この上陸地を烏崎といい、それから西に移りこの場所を御所になぞらい大内と称した。その後横手に移動して豪華な館を構え御所内とした。千倉庄ははじめ下総の相馬能胤(よしたね)の所領であったがその娘トヨは新田岩松時兼に嫁いだので新田岩松氏の所領となった。石神村の新田は岩松氏の代官が置かれたところで新田川はその時に名づけられた。トヨが住んだ所は今の鹿島区の町内に御前内(ごぜんのうち)として地名が残っている。
鹿島区内の主な地名は岩松氏に由来している。烏崎−大内−千倉−屋形(屋形)御前内・・・新田川・・・とかである。岩松氏は鎌倉以来のよしみで千倉庄を拝領したのであり鎌倉と密接に関係していた。そして地名は移動しやすい、もともとそこにあった地名かと思うと遠くから人の移動とともに地名も移動しているのである。トヨ御前は財産をもって岩松氏に嫁いだからその所領も御前内としてトヨが住んだのである。トヨは岩松氏に嫁いでも土地をもっていて土地の所有者であったからそうできたのである。武家同志の結婚は女性でも家が権力をもっていると嫁ぎ先でも対等の立場になり権力をもつことができたし簡単に離縁などはできない、土地付きでありその土地を失うことにもなるからだ。
ここでテ−マの真野ダムの底に沈んだ大倉の謎である。なぜ大倉という名がついたのか、大倉という地名はありふれてどこにでもある。
鎌倉幕府の開祖、源頼朝の邸宅の名称に関することです。 現在では、彼の屋敷跡は、鎌倉郡大倉郷にあったことから大倉幕府とか大倉御所と呼ばれています。
大倉というのはこの鎌倉の大倉御所からの移動ではないか?何故なら岩松氏が四天王という家来に殺されてその妻が逃れた伝説が残っているがそれが大倉とか山の方まで伝わっている。飯館の山の方に逃れてその途中で殺されたと考えられる。山中二百町は大倉や飯館までふくまれていた。飯館が最初新館と言われていたのはそこに岩松氏が新しい館を建てて支配したことに由来した名ともとれる。飯館は岩松氏時代から所領であった。その後も相馬氏の山中郷となって支配されていた。大倉という地名は確かに多いから地形から名づけられかもしれないからいちがいには言えない、地名の研究は地形的なものもあれば歴史的背景から名づけられるものも多いから広い知識が必要になってくる。その土地の歴史がわからなければ地名はそもそも解読できないのだ。各地に大倉館があり三春にあり宮城県に大倉村がある。大倉は鎌倉の御所となった大倉郷に由来している場合があるかもしれない、ここは鎌倉に住んだものにとっては最もなじみのある場所でありその名前を移住しした人たちが名づけても不思議ではない、そして現実に大倉−飯館は岩松氏の所領であったこともその因縁があり大倉と名づけられたのかもしれない、ただこれは飯館村史など読んでいないのでまだ検討の余地があり調べられれば変えることになるかもしれない、興味ある人は調べてみるとよい、鎌倉時代があり鎌倉から移動した地名も結構あるかもしれない、東北にはやはり多いかもしれないのだ。
丸森町−鎌倉山(羽山) 標高340m 山頂に羽山神社を祀る信仰の山・・・とあるのも大倉も羽山祭りで有名であるから同じ信仰であり大倉とにている。近くに共通したものがあることは何らかの因果関係があるともとれるのだ。
麦のつく地名の背景(麦と田は併存していた)
●米と麦は併存して作られていた
麦田、田麦、麦島、麦飯山、麦原、麦野、麦生田、・・・・(麦のつく地名)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/49512313.html
麦というのは日本でも麦畑があり米と同じようになじみのものだった。私の家のすぐ後ろは麦畑であり桑畑である。これは江戸時代からあった風景である。米と麦は併存していたのだ。ここのサイトでも麦田と田麦という地名が一番多いのだ。麦の歴史も古く麦は米と同じく栽培されていた。そして江戸時代から農民は米だけを食べていない、米だけを食べていたのは江戸でありそれで脚気になり死ぬ人もかなりいた。将軍まで脚気になって死んだり苦しんでいた。江戸患いは有名で国に帰れば直ったのである。私の子供の頃は麦飯であり必ず米に麦が入っていたから継続があった。麦が入っているとご飯がまずかったことは確かなのである。その後パンになったりして麦飯は消失した。米と麦は金と銀のようなものであった。税として収める時、米の値段に何でも換算された。
江戸時代は、年貢米を中心とする「米の経済」といわれながらも、遠野地方は寒冷地なために、麦・ヒエ・アワなどの雑穀中心の農業であった。しかし、年貢割り当ては、畑作業も米に換算してのとりたてであった
麦を本格的に食べはじめたのは江戸時代からになってからだから麦を意識しはじめたのは江戸時代だとなる。米はその前から意識化され地名化されやすかったが麦は地名化されにくい。田は地名化しても麦とつく地名はそれほど多くないのはそのためである。田麦という地名が多いがこれは実に理にかなっているのだ。田と麦は併存して作られていたからだ。
田麦俣集落は六十里越街道の要所で、江戸時代に湯殿山への参拝が盛んになると、宿場的性格を帯びた。昔の兜造り多層民家の内部は1階が主に家族の居住用、2階が下男たちの居住用と作業場・物置、3階が養蚕と作業用の「厨子」、さらにその上が物置用の「天井厨子」となっていた
http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/minka01.htm
ここは通ったことがあるので実感がある。田と麦を併存して栽培していたからこういう地名にもなる。俣は股であり別れ道のことである。ネパ-ルの奥地でも麦はどこでも栽培している。稲作もあるが麦の栽培の方が多いかしれない、あの風景は昔の日本だった。アジアにはまだ日本の昔の風景が残っていてなつかしかった。
蕎麦は寒冷地でもやせ地でもできます。しかも収穫までの日数が短い。
水田は江戸時代にはまだ1毛作(1年に1回収穫)で、畑は2毛作(冬場は麦などを作る)でした。
蕎(ソバ)の発祥地がブ-タンだとかいう時、高地でもとれからそうなった。蕎と麦はネパ-ルのような高地でもとれる。檜枝岐などは米はとれずソバが主食だった。寒冷地では米はとれないがソバはとれるのだ。米3分・麦4分 麦粥とかが一般的な農民の食事であり麦粥まであったのだ。麦の方を多く食べていたのである。麦味噌まであるから麦の用途もひすかったのである。
生麦生米生卵 (なまむぎ なまごめ なまたまご).
早口言葉で生麦が最初にでてきてその次に生米がでてくる。この二つは切り離せず一体のものとしてあったのだ。
●四大文明は麦が基で栄い衰退した
麦が常食化したのは江戸時代であり製粉の技術と関係していた。
17世紀(江戸時代)になって、やっと稲の裏作としての小麦栽培が全国的に広まっていきます。 製粉の歴史 日本では奈良時代から小麦を粉にして食材にするようになりましたが、 この時代は「石臼に入れた小麦を棒で突いて粉にする」という大変手間のかかる方法がとられました。平安時代(9世紀)に回転式のひき臼が伝来しますが、これが一般に普及したのは江戸時代になってからです。
江戸時代には小麦栽培も普及し、都市部においては水車による製粉業が成立。農村部にもひき臼が行き渡って、 ようやく小麦粉が食材として手軽に利用できるようになるのです
http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/A2003/Komugi_Japan.htm
麦が普及するのには製粉の技術が欠かせなかったのである。飯館に臼石とあるが麦をついた生活があってこの名がついたことは確かである。
いわゆる四大文明の本質的な構造は皆同じです。エジプト文明においても、インダス文明においても、われわれの隣の中国における黄河文明においても、基本的には麦類を主食とし、パンを食べていた。
エジプトでは3月から4月の収穫時に入ると、農民は、最初のひと束の麦を女神イシスの名前を唱えながら刈り取った
麦は乾燥地帯に適した食料であり米とはずいぶん違っている。米は大量の水が必要であり水の管理もむずかしい、手間もかかる。でも麦の栽培も水を必要としていて灌漑で水を供給していたが塩分化して文明を維持できなくなっていた。水はみな大河から供給したことは共通している。黄河の高原地帯もからからに乾いた所であった。稲作文明地帯と麦文明地帯に別れるが実際は米を作っている所は麦も作っていたのである。麦だけを作っている地帯は砂漠化したしまった傾向がある。米を作っていた地帯は文明が継続している。米を作っていた地帯は米だけを作るのではなく五穀を作ることができたのである。それが文明が継続した原因かもしれない、多様な食料に依存しているのが自然であり米だけに依存した江戸という大都会は文明が衰退した地域とにていて江戸患いがあったのだ。
●芭蕉の「麦」の句
甲斐の山中に立ち寄りて、
行く駒の麦に慰むやどりかな
(野ざらし紀行の旅中最後の句)長旅の最後に甲斐の山中に立ち寄って、
古来名馬を産するこの甲斐の国の山中では、旅行く馬もいたわられて麦のごちそうをたっぷり受けていたわられ満足している、そういう宿に泊まり心も慰められたとなる。麦は馬の飼料にもなっていた。麦は常に欠かせないものとしてあったのだ。ただ麦が常食化したのは江戸時代であり製粉の技術と関係していた。麦は日本の生活から離れてしまったから麦は身近なものでなくなった。でも旅をすればその土地から実感するものが必ずある。今は簡単に外国にいけるから日本で実感しなくても外国で昔を実感する旅ができる。そこに旅の効用がある。
丸森の山中にある四重麦(よえむぎ)とは何なのか?四重に重なる麦の畑のことなのか、麦と関係していることは確かだろう。地名はやはり奥深いものがありその土地をみる時欠かせないものである。
麦の値段があがる−米と麦が併存していた江戸時代(芭蕉の句から現代をみる)−時事問題(プログ)
相馬市の発展の歴史的順序(方角地名が地名の基本)
●「相馬半分、北郷一円」 の意味
方角地名はやはり地名では基本になる。でも注意しなければならないのは磁石の東西南北には必ずしもならない、方角地名はどこを中心にして方角が決められるかが大事になる。世界でも東と西があるけどオリエントというとき西から見て東なのであり東はアジアになる。でもインドや中国を中心にみたらアラブやイスラエルやトルコは西になるがヨ-ロッパから見たときは東になる。世界的にはトルコのジプラタル海峡を境に東の地域になるのだ。これは地理的領域だけで方角が決められてはいない、歴史的文化的領域として東と西があるのだ。そして東が先にあり西はあとに発展したのである。相馬地域も相馬氏が根拠としたのは最初は太田神社の太田であり次に小高城である。今の城のあるところはあとから相馬氏が勢力を伸ばしたところだった。
伊達氏の領地でありそれに今の磐城市の結城氏が領地争いをしていたのだ。今の相馬市の地域は「相馬半分、北郷一円」 とされている。相馬の半分は伊達氏に属していた。北郷一円が拡大化して相馬の半分が相馬市の領地に拡大化したのである。北郷は相馬氏が小高城に本拠地を置いたからその本拠地から北にあったから北郷になった。相馬氏の勢力は小高から拡大して前の中村で伊達氏や磐城の結城氏と熾烈な領地争いになった。中村の中心はもともと中野村であり中村とは一体であり間に宇田川があったがもともと川は城の近くを流れていたとすると城の南側だからどちらも南郷になっていたのだ。そのあと宇多川の流れがかわり二つの村になったと岩本氏は説明している。宇多川は五つも川の流れが変わっていたのも不思議である。川(カワ)は変(カワ)わるなのか、地名の方が自然の状態より古いことを物語っている。鹿島区の塩崎はあそこまで海が入り込んでいたからだというとき地名が化石のように古いことを示している。万葉集の地名は当時の自然を地形を知る手がかりともなる。
●北郷から中野村(中村)へ相馬氏の勢力の拡大
今の相馬市は先に伊達氏の領地でありそこに結城氏も加わり争いがあり徐々に相馬氏の領地になった。その間に鹿島区の岩松氏なども相馬氏に滅ぼされた。嘉禄三年(1227)12月の相馬胤謙状案(正木文書)に「行方郡内、千倉庄加比(北)草野定」と見える・・・」とありこれは岩松氏が先にこの地を治め後に相馬氏が治めたのである。相馬氏の勢力は北郷から中村の地域に拡大化した。まぎらわしいのは中村広重という人がきて中村の地名が生じたのではなく中村に土着した土豪となったから中村を名のったのである。地名が先にあり名字はその地名を基にしている。他に立谷 日下石(ニッケシ)とあるがこれも同じである。地位が先でありここに土着した人がその地名をとって名字にしたのである。つまりその土地を支配するものだからその土地の名を姓としたのである。ここが地名で間違いやすいのである。相馬藩がどのうよに歴史的に拡大化して領地化していったかその過程が大事なのである。中村に城が作られたとき南郷と北郷があった。南郷が中野村、立谷、日下石、磯部、柚木・・などがあり北郷には小野、岩子、飯淵、和田、小泉、新沼、原釜・・・などがあった。相馬市の発展経路はまず中野村があり次に岩子や原釜の方へ拡大した。宇多川沿いが干拓され田にされ松川浦の回りや海側は湿地帯でありあとから干拓されたのである。宇多川は五つも川の流れが変わったからその川に沿って田が作られた。梅川とあるのは梅は埋めるだった。川を埋めて田としていったのである。だから発展経路としてはまず北郷から中野村が中心となり前の宇多川(梅川)の下降にそい田が作られそのあと北郷地域-原釜の回りの湿地帯が田になっていったのである。
●原町は文字通り広大な原っぱが広がっていた地
原町というと他にも多い地名である。要するに原っぱが広がっている地帯だった。原町は雲雀が原とあるように野馬追いの旗取りが行われる祭場だったがそこは広大な野馬を放ち飼いする場所でもあった。だから野馬土手とかあり馬が逃げられないように土手を作ったりしていた。
陸前浜街道の新田橋辺りでも北側は長野であり南原田-東原-北原田-新田原-西原-・・・
さらに奥になると大原となっている。大原は京都にもあり奥地の原だからにている。
他に太田付近では畦原-篠原-北鳩原-とかあり単に原という地名もある。別に原という地名は多いのだからめずらしくないが原町はやはり原っぱがひろがっていたためともとれる。相馬市や南相馬市の鹿島区などより原の地名が多いのである。国土地理院の地図は郷土史には役立つ、地名をたどってゆくと昔の状態がわかることがある。地名の名付け方にも法則のようなものがあるからだ。地形的に見ても相馬市は松川浦など海に近く湿地帯が多かった。原と湿地帯は違っている。海に近いと湿地帯が多いのだ。原町は比較的海から離れ山側に原っぱが広がっていたのである。つまり何度も言うが歴史は地理が地形や地勢が基本にあるのだ。それに歴史的発展がある。まず地形や地理を知らないと歴史はわかりにくいのだ。そしてこの地理は路査しないと実感としてわからないから歴史は理解しにくい、その場所から思考しないと実感が湧いてこないのである。平泉にいるだけで歴史の思考は深まる。そこが一時みちのくの中心だったということがその土地から自ずと伝わってくるのである。
参考にした本--歴史としての相馬(岩本由輝)
原町の名の起こり(地名も合併しても歴史的継承が必要)
京都の北の方に「大原」というところがあり、地形が似ていることから、連想して「大原」という地名が付いたというものです。大原地区の北の方に荒西山がありますが、これも京都の嵐山を連想して付けられたという説もあります
http://www.town.kinko.lg.jp/ohara-es/oohara_monogatari/ooharamonogatari_1_2.htm
原町の名は雲雀が原があり放牧場であり馬を放し飼いにして野馬土手も築かれていた。その広大な原から原町となった。大原村が奥にあるが大原というと京都の大原は有名である。ここで地形がにているから名付けたとあるのは注意すべきである。地名の命名には地形が関係していることがかなりあるということだ。大原となると多い地名だがすべてが同じ地形とはいかなくても何らか共通性はあるのだ。南相馬市の原町区の大原は京都の大原とにていないともいえない。バスで行った時は一時間もかかったのだから相当山の奥地である。それに比べて原町区の大原は街から近い、でも車のない時代ならそれなりに結構遠い距離なのである。車の時代になるとどこでも近くなってしまうが馬車や徒歩が交通だとすると相当遠いしそんなに頻繁に行き来できないのだ。だから大原村はそれなりに遠いと見ておく必要があるのだ。
原町は陸前浜街道の原町宿から起こった。街道沿いに宿場ができて原町の街が形成されたのだ。不思議なのは原町村とあるがそこから野馬追いに出ているのは一つの家しかない、一つの旗しか記録にのっていない、たいがいいくつかの旗がのっていていくつもの家から野馬追いにでている。原町区だと一番大きい村、地区だと思っていたが原町村は一番小さい村でありあとから発展した村だった。ここに昔からの侍などは住んでいなかったのである。これが原町区の特徴だった。原町区の発展はだから中野村-中村から発展した相馬市とは相当違っている。街道沿いに宿場町が生まれ新しい家が街道沿いに増えた。原町村は新しい村だったのだ。原町は明治以降の近代化でも原ノ町駅が常磐線機関区となり森林鉄道や丸三製紙工場などができていち早く近代化した街と発展した歴史があった。相馬市より近代化した街として発展したのである。
鹿島区は鹿島神社が中心にあり名前もそこに由来している。中村はもともと中野村であり相馬市の前は中村市だった。原町市は原町村に由来しているのだがその村は一番小さく陸前浜街道沿いに人々があとから集まり町が形成された。中(野)村は古いが原町は新しいのである。
でももともと小さくても江戸時代に原町村はあった。しかし双葉はもともとなく明治以降に合併でできた名である。これは江戸時代からの継続がないのだ。やはり合併するときでも江戸時代から継続がないと歴史的な地名の継承は失われる。飯館が大館と飯樋の一字をとって合併の名前にしたのも歴史的継続としての名前は残ったとなる。美里とかなると江戸時代からの継承の名が消失してしまうからもはやそこから過去をたどることはできなくなるのだ。地位にもなんらかの歴史的継承が必要であり勝手に詩的な名前にしたりするのは問題なのである。南相馬市の合併の名でもいろいろもめたがこれも無難な名だったのか歴史的継承を第一義にしたからである。ただ南相馬となると相馬市の南であり逆に昔のように城のある相馬市が中心になった地名となった。他から見れば相馬市が中心でありその従属として南相馬があると見られてしまう。地名から外の人は判断することがあるからだ。
吾もたずぬ京の大原知られしもここにも大原冬のくれかな
距離的にはかなり差があるのだが地形的にはやはり大原村はにていた面があったのだ。
原町村からは野馬追いに一騎しかでていない、郷士は一家しかなかった。新しくきた人々が集まり町が形成されたのだ。
大原を回想して
市のつく地名(古市の古さ)
●古市の古さ
古市という地名はかつて市がたったから市となった。遊廓も市とあるからそこもにぎわうから市となった。古町は新しい町ができて古町となった。古市と古町は全国的に多い、でも不思議なのは福島県にしろ東北にしろ市とつく地名は少ない、四日市場というのが槻木にあったがその他見当たらない、ただ山形市には集中して市のつく名が残っている。その理由として紅花が売買されたからだとかいう。実際古市とつく地名は大阪や奈良など歴史の古い場所に多い。古市駅も一つだけある。日にちのついた市の地名は多いように見えても東北地方には少ない、やはりそれも東北が物産の流通が少なく大阪近辺は早くから物産の流通が多いせいなのだろう。万葉集時代から海柘榴市などあったのだから相当古い。海柘榴市と固有名詞化している。日市とか八日市とかではない、海柘榴市となっているのだからある日にちに人々が集まったのではない、そこでは日常的に市が開かれている場所だったのである。
奈良の古市古墳群とか市庭古墳とか古墳で有名な地域にも古市が残っているから物々交換の時代からそういう場所があった。市といってもそれが定期的に長く行われていないと地名化しないだろう。ある場所の目印や地形的なものや屋敷とか目印となるものは地名化しやすいが市がたったとしても長くつづかなければ地名化しないだろう。百年とかつづけば古市となったのだろうか、そうでなければそこで市が開かれても人々の記憶から消えてしまう。地形の目印でもないから消えてしまう。人々の賑わう場所も常に変動しているからだ。日本でまぎらわしいのは市(イチ)が市(し)に変化している。市(イチ)と市は違っている。ヨ-ロッパの市はcityであり日本の市(イチ)はマ-ケットである。二つは別なものであり日本では同一化している。市民というとき日本には市民はなく村民とか町衆となるが京都辺りには町衆がいたがこれは特別であり日本では村民である、タミである。
●万葉集の海柘榴市
海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(2963)
紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(3115)
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(3116)
ここではいかに見知らぬ人があっているかわかる。誰とあうのかあの人は誰なのだろうかと関心は人に集まっている。それだけ各地から見知らぬ人が集まったのである。古代では見知らぬ人と会う機会が少ない、だから今でも村に見知らぬ人がくれば関心をもったりじろじろ観察したりする。特に沖縄のような離島などではそうである。穴をあくほど見つめられるいうことがある。江戸時代でも余所者はそうした関心をもたれたからあまり悪いことはしにくい、監視しているからだ。しかし今はどうかまず人に関心をもたない、雑踏では名前など気にしないのだ。匿名の集団の中に流されるだけなのである。そういうことも古代から江戸時代でも異常なことなのかもしれない、だから明治時代にはそうした見知らぬ人が普通に交わるようになったから電車にのりあわせた見つめる見知らぬ人間を異様に感じたりしたのである。ともかく余所者は特別目立つ存在だったのだ。
矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば線鞋の 細底を買へ
さし履きて 上裳とり著て 宮路通はむ (催馬楽)
これは今の買い物とさして変わらない光景である。すでにいろいろ靴がありその中でどの靴がいいか選べる品揃いがある。仙台でも同じである。仙台まで行けば一応品揃いがある。 ここでは物々交換ではない、食料だけではない、かなり贅沢な市がたっていたのだ。
仙台の春
http://www.musubu.jp/sendaihirosekawa.htm
●市神の地名
当地の八日市場の祖神。『市神之本紀』によれば、推古天皇元年、聖徳太子四天王寺を造営し給ふ時、同郡白鹿山の東の麓において幾千万の瓦を造らせ難波津に運ばせたまふ。然るに太子かの山に渡らせられ新に瓦屋寺を営し、且つが八日市を開いたとあり、境内に聖徳太子像が鎮座している。
市神神社は市宮恵比須(えびす)神社とも称され、祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)、八日市場の祖神である。慶長十五年(1610年)に大江基房の「八日市場市神之本紀」によると、聖徳太子が八日市を開いたとあり、境内にりっぱな聖徳太子像がある。また、万葉最高の女流歌人額田王立像をおまつりするので、その銘碑がある。
神大市姫について
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/kamiooiti.html
交換するものは食料が主であった。やはり食料は命につながり食料が不足するから食料が第一となる。そのあとに豊かになるといろいろなものが交換されるようになる。いづれにしろ市のたつのは交通の要所が多かった。でもこの交通の要所は地域的に変動している。川が交通の川だったとき海柘榴市も要所となりえたがそれが途絶えるとやがて古市になってしまった。海でも船が交通の主役であったとき港が市になりやすい、船から鉄道になると交通の要所は鉄道の駅になり駅前通りができかつての街道の宿場町は古町になり今や駅前通りも古町になり車が交通の手段となると国道沿いとかショピングセンタ-が新しい市となってしまうのである。
仙台は鉄道が交差するところだから昔も今も交通の要所であり仙台は東北の中心地となっている。
延宝元年(1673)の記録によると、六斎市(ろくさいいち)が立っていたという。六斎市とは、1と6のつく日とか、2と7のつく日に市場が開かれるということで、月に6回市が立つことになる。
古市(奈良)
http://www.city.sasayama.hyogo.jp/timei/timei09.html
六斎市、辰市、市の名はいろいろある。辰は正月一日のこと、海の幸、山の幸があつまり市が開かれる。市は贈与、贈答経済であり今の商品経済ではない、互いにないものをたらないものを補う交換する助け合いを基本としてはじまった。市はハレの場であり人々が集い人間関係を結ぶことの方が重点でありモノはその媒介だったのが人間の経済なのである。だから市は正月にふさわしいテ-マだった。