青春18切符冬の旅(山形-新潟-会津)1月20-
(小林勇一)
相馬駅枯木一本古りにけり
出勤の人も老いけり冬芒
出勤の人や枯木の五六本
通勤の人やレ-ルに朝の霜
朝早くでかけることはないから朝早く出かけると見えるものが違ってくる。通勤の人に交じり鉄道にのることである。相馬駅というのは何か古い感じがするから枯木があっていた。名前からイメ-ジすることが人間は多いのだ。
詳しくは市町村合併のペ-ジへ
●山寺
朝清し雪に水音対面石
山寺の古き旅館や重き雪
山寺には何回も行っているから新鮮味がない、今回は途中下車して対面石の脇の食堂によった。下を川になっているから場所がいい、場所がいいところは場所代がとられてもしかたない気がする。旅館はやはり日本の文化なのだ。だから日本的情緒が旅館にはある。コンクリ-トのホテルは泊まりやすいが情緒はない、ただ外国に何か百年とか古いホテルがあり日本とは違っていた。そこには情緒があるのだ。
根雪見て鴉の仲間や今日も暮る
山形から新床に行くと雪が厚くなり雪国らしくなる。その雪は根雪でありそこに鴉が群れている。その鴉はいつもとけない雪をずっと春まで一緒にみている。だから北国の鴉は何か違う、雪国の一つの景色となっている。雪国は一つの別な世界を作っているのだ。
●最上川沿い
寒々とまた流れに出会う最上かな
新床から余目に行くと最上川が流れている。雪の中を寒々と流れていた。蛇行して流れる、そこで電車からその曲がった流れが見えたり見えなくなったりする。
雪うもるは羽前波は無人駅
ここに何軒か家が雪に埋もれてあった。こんなところに電車がとまる。うぜんうなみという名前だけが心に残る。
●鶴岡市三瀬駅
冬の暮昔の宿場や三瀬かな
気比神社三瀬に残し冬の暮
冬の暮笠取峠の案内板
海鳴りや巌に社冬鴎
三瀬という無人駅に途中下車した。電車の旅でも途中下車しないとつまらない、電車にのってばかりいると疲れるのだ。ただあとの電車が今やなかなかこないから途中下車がしにくい、ここで一時間くらいあとにくるとわかったので途中下車した。全然知らない場所だった。昔の宿場町とか気比神社とか笠取峠とかあった。なんにもない所でも旅では必ず何かを発見するものだ。というのははじめての場所だからである。はじめて見る場所はどんな場所でも何か見るべきもの語るべきものがあるのだ。笠取峠の名の由来は面白い、というのは自転車などで旅すると必ず風で帽子が飛ばされるからなるほどと思ったのだ。これが車だとそういうことがないからこの意味がわからないということがある。気比神社というのは敦賀がもとでこっちに移動した。日本海文化は日本海沿いに移動している。三瀬の名は川がここに三つ流れているからか、川の名のついた地名が日本海には多いのだ。
●粟島
海岸の冬田のせまく浪ひびく
冬深む粟島見つつ帰るかな
粟島を布屋の駅に見て冬の旅
日本海波浪やまじや冬鴎
粟島がくっきりと車窓から見えた。珍しく晴れていて寒くなかった。布屋の意味は何だろうか。布屋で布を売っていたところなのか、向こうに粟島が見えてる。島がある風景はいいものだ。
誰か棲むや沖に粟島浪ひびき車窓を見つつ冬の日暮れぬ
●新発田
新年にまた一国の広々と雪野開けて電車行くかな
蒲原平野が開けていた。ここを開いたのが新発田城とか豪農の市島氏なとであった。新潟の国へと入ったのだ。
一棟に足軽長屋やしばたなる街を訪ねて冬の日去りぬ
足軽長屋というのが確かに良く残ったものである。一棟であり茅葺きでありかなり狭い所に住んでいた。あれを見ただけで貧しい足軽の生活が実感としてわかる。城からもかなり離れているのだ。ここで何を語りどのうような生活があったのか思いば不思議である。当時の生活はどうだったのか、何を食って何が楽しみで何が不満だったのかとかいろいろあの長屋を見ていると考えるが想像力不足でわからない、ただあの長屋が残っていることは貴重である。
冬晴れや新津に線の交わりぬ
会津の方雪の嶺望みて新津かな
新津の駅は立派になった。ここで四つくらい線が交わるから新津は鉄道の街でもある。ここからの見晴らしはよかった。
●津川
足跡の雪に踏み入り津川かな
雪踏みて残る山城悲話一つ
津川で途中下車した。二時間あったが意外と時間はその辺を歩いているうち過ぎてしまった。あそこは実に風光明媚なところである。ただ往時のにぎわいを語るものはない、それはもはや想像の世界にしかない、雪がおおい船がついたという船着場が雪にとざされている。しかしそれにしてしも百軒以上もの商家が軒を並べていたことは信じられない、それほどの人の出入りが物の出入りがあったのだ。それがぱったりと途絶えてしまいすでに百年も過ぎてしまったのである。つまりここは想像上でしか当時を偲べない所になった。だから昔を知るには想像となるべき資料が必要なのだ。それがインタ-ネットだけからではたりなかった。ただ山の城についての伝説は残っていて紹介されていた。「狐の嫁入り」屋敷というのは何なのかわからないがそれなりに面白い企画であることは確かである。ただ何か伝説や歴史的根拠があるのかとなるとわかちないが山深いからにあっていることはいえる。
●喜多方
蔵の中喫茶店かな喜多方の通りの雪を踏みて帰りぬ
蔵の中喫茶店に話し喜多方にともに住みにし冬の日暮れぬ
喜多方の広々として十字路や四方の雪の嶺映えて光りぬ
喜多方がなぜ気に入ったかというと都会の十字路だったらうるさくてごみごみしているからいい感じがしない、しかし喜多方の場合、大きなビルがないので広々としている。それで雪の嶺を四方に望める、だから気持ちがいいのだ。これでわかることは都会というのはビルがたつと景色がさえぎられ光をさえぎるから暗くなるのだ。会津でさえビルが結構あるから暗く感じるのだ。ビルが景観を壊すのである。都会といえばビルなしではありえない、文明そのものが自然を壊してきた。喜多方のいいところは大きな田舎町であることなのだ。なぜ江戸時代が貧しいとしても景観的には浮世絵のように美しいかというと別に美しく工夫して美しいのではない、自然がそのままとり入れられていた。自然の中にまさに自然に映えるようになっていたから美しかったのだ。「月天心貧しき町を通りけり
蕪村」というときその家並みは低く月こそが天心に映えて目印しとなっていたのである。江戸すら美しかったのはそのためである。高いビルは景観をだいなしにしたのだ。喜多方はだから大地とつながり田舎的でどっしりとした蔵がそちこちにあり落ち着いている。都会的ではない街なのである。蔵の喫茶店というのもそれなりに趣がある。蔵の中は何か独特の雰囲気があるのだ。蔵の中で話すということが何か違った感じを受けた。蔵には何か違った音響効果があるみたいだ。話す声が蔵にこもったようにひびいている。喜多方の魅力は田舎的なことであり都会的ではないことなのだ。会津でさえ駅前にビルがあるから何か風情が壊されるのである。
雪の路地帰る子供や蔵の街
喜多方を去るや雪野に夕日かな
雪野来て会津の城や夕日映ゆ
めずらしく晴れていて雪野に夕日がさしていた。めったに晴れず暗い日がつづくのだが今回は晴れていたので感じかたが違っていた。明るい気分になっていたのだ。
新発田(しばた)⇒津川⇒会津の冬の旅(歴史解説)
喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)