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(小林勇一)
Page 1 2 3 4 5(プログ−大阪の桜)
はるばると稚内に来て寒き雨ふりて濡れにし桜のあわれ
日本では桜は沖縄から稚内まで入れると半年間咲いている。それほど南から北への幅がある。この稚内の桜に驚いたのは1ヶ月かけて苫小牧から自転車で稚内に辿り着いたためである。実際5度だったから冬なのだ。その桜が雨に濡れて咲いている。桜のイメージは時代により人により違う。最初桜は農耕と密接に関係していたらしい。
桜 「さくら」の語源として、サはサガミ(田神)のサで穀物の意、クラは神の憑りつく所の意のクラ(座)の意で、すなわちサクラは穀霊の憑りつく神座であるとする説がある(桜井満説)
種まきす知らずば桃の花に聞け半ば咲きするおりがよきなり(会津農書)
忘れずに御田母神に桜咲く
何故この田の神に桜を植えたのか農耕の目安としてだったかもしれない。
桜が美として鑑賞されるようになったのは奈良時代になってからであるが万葉集には梅の花の歌が多いし貴族が花見をすることはなく梅の方が賞でられていた。遠の朝廷、大宰府での貴族の宴も桜ではなく梅の宴だった。梅は中国から入って来たものであり日本にはなかったものなのだ。平安時代になると桜は宮中でも左近の橘右近の桜として定着した。西行により桜は日本人に欠かせない花となった。この頃から桜は散るということで死と結びつく花ともなってゆく傾向があった。それ故辞世の歌に一番合うものとなった。桜は深山幽谷に咲く山桜のイメージではなく人の世界と世俗と馴染んだものなのだ。「さまざまの事を思い出す桜かな 芭蕉」これは戦争で散った若い人を戦友を思い出すものともなるから現代にも通じている。桜は街中に咲いていても似合うのだ。桜はまた外に広がる。桜前線のように日本中に広がり咲いてゆく。
娘子(をとめ)らが 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)遊士(みやびを)の 蘰(かづら)のためと
敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の 匂ひはもあなに 1429
この頃の国のはたてはどの辺なのかこの歌の場合、奈良からそう遠くない、遊士(みやびを)の蘰(かづら)のためにというのは傲慢な気がする。おそらく民衆の間ではその頃まだ桜は種まき桜というように農耕の目安としての花であり遊士(みやびを)の風流の花ではない。防人の歌には桜はないからである。
庭に立ち麻を刈り干し重慕(しきしぬ)ふ東女(あづまをみな)を忘れたまふな 0521
こうした光景がネパールの山の上の部落や中国の雲南地方に以前として残っているのは驚きである。インドでは原始から古代から現代まで渾然一体となっている。ビーダマで遊んでいる子供もいれば白黒だがテレビゲームをしている子供もいる。そして牛が王様のごとく悠々と歩いている。ネパールでは身なりは粗末なものに感じたが万葉時代とそう変わらないのつまりこの民衆の歌と同じ光景だった。農作業に従事している若者や乙女が多いのである。外から見れば活気あるように見えるのだ.御田母神というのは一地方の農耕の神である。しかしここに社会の原点があった。商業、工業が発展してもその原点はここにあり農業の下支え無くして国の発展もないし都すら存在しないし遊士(みやびを)という存在もありえないのだ。東女(あづまをみな)を忘れたまふなというのはそうした下からの都の土台となったものからの一つの抗議の歌でもあった。これと同じように御田母神を忘れるなとも言える。それは大地からの声かもしれない。ここが現代では見落とされている。都会のものもこの御田母神と関係無いとは言えないのだ。米はここから供給されているのだから。工業、商業だけでなく社会全体の視点から社会を構築する必要があるのだ。インタ−ネットはこうした地方の声も反映させる機会となる。全国的に発信することが不可能だったからだ。本のほとんどは中央からくるものだったのだから。
東北で桜の歌で有名になったのは西行の歌である。ただ橘は茨城県である常陸(ひたち)まで植えられた。橘も日本書紀に記されるごとく外国からもたらされ天皇に献上されたものである。
橘の下吹く風のかぐはしき筑波(つくは)の山を恋ひずあらめかも 4371
防人の歌に橘の花も出ているのは桜より橘が民衆にも普及していた。桜より橘の方が親しまれていたのだ。
桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなべ 4361
その当時難波すら遠いし桜の歌が橘より普及していないのだから国のはたては遠い所ではないが桜というのが国のはたてまで咲いて広がる意識はあった。この歌はすでに難波に都が置かれた。都が開かれて桜花が映える。人事と自然が一致して行く。
聞きもせじ束稲山の桜花吉野の外にかかるべしとは−−西行
平泉が都のごとく栄えていたことの驚きも比喩されている歌であった。平安時代になって桜は賞でられるようになったのだ。桜はこのように国に広がり咲いてゆくという感覚はすでにあったのだ。
遠山と海を望みて桜かな
人繁く東海道の夕桜
桜は山にも海にも映えるものであり城に映えて花は桜木、人は武士となっていった。桜は日本全国に広がり咲いてゆく。東海道は日本では今も一番往来盛んな所で夕桜でもなにか華やかな趣が歴史的に加味される。外国旅行ではそうした歴史的ポエジェーがわからないのでいい詩ができていない。晩秋に咲いていた赤い薔薇にそれを感じたように外国人が桜によせる日本人の思いを知ることはむずかしいだろう。とにかく桜は正に今や本当の国のはたての稚内まで咲くのである。
桜のイメージ(桜と死)
桜は死のイメージと密接に結びついている。何故そうなのかというと桜はすぐに散ってしまう。華やかに咲いたかと思うと跡形もなく散ってしまう。それは潔さにも通じ武士の象徴する花ともなりまた日本人の美意識となった。桜は実に魅惑的な不思議な花である。ヨ−ロッパを象徴する花が薔薇である。薔薇にはこうしたイメージはない。この薔薇で感じたのは晩秋の薔薇であった。そのなんともいえぬ赤い薔薇はヨ−ロッパを象徴していた。花というのが歴史とか国の文化かを象徴する場合がある。韓国がむくげであり中国が牡丹であるが中国はむしろあの明るい連翹ではなかろうか、というのは中国人の女性でも中国は物をはっきり言うし中国語のひびきはめりはりがはっきりした英語にも似ているのだ。文法も似ているし中国人が英語の上達が早いのはそうした共通性があるためのように思えるのだ。大陸は色が曖昧ではない原色を好む。これはモンゴルや草原の民の騎馬民族とか砂漠の民の絨毯もそうでありその後裔の韓国もそうである。チマ・チョゴリでも原色で明るいのだ。日本では余り赤一色とかではなく複合の色や和紙のように微妙な色合いを好む。曖昧な色を好むように思える。
とにかく桜には死のイメージがつきまとっている。一時本当に華やかに夢のように咲いたかと思うと跡形もなく散っている。人生もまたこの桜のように思えることがあるからこの桜に日本人の美意識は養われたのだ。若くして死んだ人に例えられるのは当然でもあった。北畑顕家は花将軍と呼ばれ20歳くらいで南北朝の戦いで死んだ。
顕家の像に朝散る桜かな
この像は霊山にある。
清流に山の桜もはや散りぬ命短く散るも良しかも
桜にはこうして潔く散ることも勧められるように日本人の死生観を形成した。桜そのように本当に美しいのだ。そうして純粋な若き命が散ってゆく。その象徴として誠にふさわしいのだ。老醜をさらして生きるのは好まれない。三島由紀夫はそのために死んだ。思想的死ではなく老醜に耐えられず美しく桜のように散ってゆきたかったのだ。つまりそれほどこの桜は魅惑的な日本を象徴する花なのだ。
渡辺淳一小説の一節
「桜の樹の下には屍体が埋められている」
「ほんまですか」
淳子は怖を怖わと、目の前の桜の根元へ視線を移す。
「屍体を埋めると、桜がようさくようになるのですか」
「人の血や肉を、養分としてすいとるのかもしれない」
「桜がですか」
これは梶井基次郎の「桜の樹の下には」が元になっている。
桜で錯覚していることは万葉の時代でも平安時代でも桜は山桜であり今のソメイヨシノではない、吉野の桜も元はソメイヨシノではなかったことである。山桜とソメイヨシノの風情ははかなり違ったものである。山桜は山の中に咲くのにふさわしい桜なのだ.ソメイヨシノは街の中や城や人間の中に咲くのにふさわしいのだ。山桜は深山幽谷に咲くにふさわしい凛とした美をもっている。
足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで1212
桜花今ぞ盛りと人は言へど我れは寂しも君としあらねば1407
世間も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも1459
春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも1870
妹が名に懸けたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに3787
春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも(3786)
万葉時代の桜は山桜でありソメイヨシノではない。確かにそこに死のイメージはない。ただやはり早く散るということで無常感や恋の儚さみたいなものをイメージしていた。そもそも日本にあったのは山桜だったということは意識せねばならない。というのは今イメージしているのはソメイヨシノだからだ。万葉集を理解するには当時のありのままの様子を再現する想像する必要がある。統計をとると萩の歌が一番多い。萩は原生林の植物ではなく自然を破壊したあとに成立する松林などに多いというから万葉時代にすでに自然破壊されていた。次に多いのが梅であり桜はそれほど多くない。梅は中国の江南地方から入ってきたものだし橘も日本書記に伝えられる南方からもたらされたものである。最初桜より異国の花がもてはやされたのだ。御所の右近の桜の前は梅が植えられていた。左近の橘といい菊も中国から渡来したものでこれが天皇の紋となっている。
日本古来と思っているものが外来のものであることが多いのだ。日本人はいかに外来のものを尊重したかわかる。邪馬台国で鏡が好物として魏の国から送られたのだがこれを神宝のように尊びおそらくこれをまねてあとで日本人が作り各地の有力豪族に贈ったのだ。この鏡は会津の古墳からも発見されている。100枚以上発見されているからだ。外来の文化を吸収し真似るのに日本人はいかに貪欲かわかる。日本は外国から入って来たものを神宝のようにして尊びそれとそっくりのものを作る努力をしてきたなだ。それは今も変わりないのだ。歴史的に独自のものを作り出すということに欠けていることは否めないのだ。世界に通用する独自の発明は少ないのだ。その外国文化への志向が強いのは日本が島国で閉ざされていた国で物としてしか外国文化が入ってこなかったからだ。大陸では人も文化も陸続きで連続して入って来たのである。桜は日本古来のものだがその本当の美はまだ意識化されていなかったし死のイメージは武士の時代、江戸時代に意識化されたものだある。武士は常に死と向かいあっていたため「武士道は死ぬことと見つけたり 葉隠」とか常に死を意識していた故桜が死とむすびついたのである。確かに武士は潔く死ぬことが奨励されたように軍国主義時代も若者に死が奨励されたとは言える。山桜とソメイヨシノは同じ桜でもかなり違ったものなのだ。
峠越え行く人まれに山桜映えて美し月の光りぬ
これに比べ枝垂れ桜は艶かしく桜のような純粋性に欠けている
色濃くも枝垂桜に築地塀人の影より春の日暮れぬ
優艶に枝垂れ桜や京の街五条の通り消えし女かも
数十本枝垂れ桜や京の庭
桜の性質は非常に淡白であり生に執着しないことなのだ。ということはそれ故にこの世のものに汚されていない若者に例えられるのだ。「人の血や肉を、養分としてすいとるのかもしれない」これは実にリアルな表現である。本当にそう思えるほど桜は余りにあやしく一時夢のようにこの世のものとは思えず咲いて散るのである。
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桜の花について(インタ−ネット引用)
お寺の境内に爛漫と咲き誇る桜の木が所狭しと植えられているといった風景は余り見かけないような気がします。皆無とは言えないでしょうがあったとしてもかなり稀なのではないかと思います。
桜には表面的な評価とは別に、その裏側にかなりマイナスの面があり、それもかなり恐ろしい意味が秘められています。桜の木は人の血を吸って成長するという言い伝えがあるからです。
★日本の国の花は菊の花であって桜の花ではない、という事が一つです。
★その昔、切腹の多くは桜の木の根元で行われた事実。
★あだ討ちの場は大抵が桜の木の下でやられた、という事実。
★軍隊のシンボル---それは、その散り際が鮮やかだ、という事で桜の花とされたが、生を否定し死を礼讃する--それが本当の意味でした。
★首吊りは桜の枝を利用するのが最適とされていました。
★屍体はその多くが桜の木の根元に埋められた。---そのため「血染めの桜」の名所は各所に存在します。
英霊の桜
今年また花の季節のめぐりきて
時に浮かびぬ戦友の顔その英霊や
夢なれや夢にはあらじ
誠なる人の命の重さや
国のためにと死せし故
まつられし御魂そここに
しかし一時花ははや散りにき
戦友の顔も悲しく消えぬ
今なおに定め得ざるその英霊の
ここに問いつつ花は散りにき
正に今は英霊の花となって靖国神社を飾る花となっている。確かに未だに歴史的にその価値を定めることはむずかしい。でも桜の季節になるとそこに死んだ人の霊が顕れて散ると同時に消えてゆく。それは多くの若者の霊であるのだ。桜は死と密接に結びついているのだ。花吹雪のように若い命は戦場に消えたからだ。
戦いに果てにし子ゆえに身にしみてことしの桜あわれ散りゆく 釈迢空
日本人と桜はこれからも時代が変わっても歌われ続ける。それほど桜は魅力的な花なのだ。
ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎのもちづきのころ
日本人はこのように桜を最後に見て死にたいと思うのだ。死に際して最後に見たい花が桜なのだ。そのほかの花ではありえないのだ。桜が魂をあの世に運んでゆくのだ。これは西行だけではない、日本人が全員そう思っているから感銘するのだ。桜はそれほど日本人を語り日本人と一体となった花なのだ。
桜の句
(自作)
大阪城我も交じりて花吹雪
(京都)
桂川枝垂れ桜に屋形船
尼僧の守る祇王寺花の夕
苔庭に散る花かそか嵯峨野かな
(吉野)
花に染む吉野に誰や五輪塔
南朝の吉野に滅ぶ花と月
(奈良)
一品の抹茶茶碗や夕桜
鐘鳴りて旅人帰る夕桜
塔古りて奈良去りゆくや夕桜
古や落花やまざる奈良の茶屋
夢殿に太子休らふ花の影
夢殿や花散る後の余韻かな
潮流の音戸に早し初桜
虚子
山門も伽藍も花の雲の上
遅桜なおもたづねて奥の宮
(遅桜や牛なく里に石一つ)(自作)
幹太く大いなるかな家桜
やや暑く八重の桜の日陰よし
花ちりて木間の寺と成にけり{蕪村}
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桜の短歌
嵯峨野路に花散りあわれ夕暮れてみ庭に残る落椿かな(自作)
暮ると明くと君に仕うる九重の八重さく花の陰をしぞ思ふ(古今著聞集)
参考にした本
日本には桜の文化が様々な形である.桜をデザインして日本の旗にしようと提案する人もいる。しかしインタ−ネットで桜のことを探してもまとまったものを探せない、確かに一部はあったが桜に関してはかなりの知識が蓄積されている。短歌にしろ俳句にしろ伝説や物語の類にしても多い。しかしそれらを一まとめにして検索することはできない。インタ−ネットに多いのは桜の咲いている現場の情報である。「桜と日本人」小川和祐という人の本の方が桜に関してのまとまった情報が得られるた。桜に関してこの人は詳しい。何冊か桜の本を出している。桜に関してずっと調べていれば誰でも詳しくなる。何かしらそれぞれの人は詳しい情報をもっているものなのだ。インタ−ネットの弱点はこうした本に蓄積された内容の濃い情報が少ないことなのだ。本がテキスト化されインタ−ネットに流通すると凄い情報の幅ができる。個人で買う本は限られているからだ.コンピュタ−は検索することはとくえなのだがその検索すべきものがそろっていないと検索してもいいものが出てこないのだ.検索していちいち本を買うことはできないから困るのだ.電子本500円以下ならなんとか買って集めることができるかもしれない。例えば俳句のテキスト化されたものに検索で桜といれると桜についての俳句や短歌がかなりの数で集められ便利なのだ.小川和祐という人が桜をテーマにしてホ−ムペ−ジを作れば古典からのリンクやその他そこで桜に関しての濃密な情報を閲覧できる.そうした専門家の情報が極めて少ないことがインタ−ネットが思った以上にいいものが見つからないという不満になっている。本の著作権がきれる50年後にはインタ−ネットの世界が全然違うものになる。
本が自由に引用できるようになるからだ・最近インタ−ネットで思うことはインタ−ネットは自分のような孤立した人間でも文化の共同作業をしている。巨大な知の百科辞典作りのようなものに自ずと参加している。インタ−ネットには個々バラバラなのだが一つにするものももっているのである。桜に関しての膨大な情報が一つのホ−ムペ−ジで検索されるものを作る必要がある。
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