正月俳句小林勇一
腰照らす元旦里の眠りかな 鳴雪
正月気分はなくなった。第一モチが食いたくない、モチは腹にたまる。食い物がない時代はモチがよかったがいまはだめだ。最近やたら昔の本を読んだり想像することが面白い。正月気分がなくなったから昔の正月を想像する他ないのだ。これも一人の百姓が正月にゆっくり休める姿をしめしている。のんびりした風情が百姓の姿である。これまで相当に働きづめだったがこの日は腰をのばしゆっくりしているのだ。そして眠ったような里がある。なぜこれがいいのかというと本当に働いた百姓の姿が生きているからである。今だったら本当の百姓はいない、毎日身をこなにして働く百姓はまれである。勤め人をやり百姓やっている人が多いのだ。この村は百姓だけの村であり正月だけは百姓は村ごと休んでいるのだ。そうした社会全体の中にいる百姓であり今の百姓とは違うのである。
蕉門の俳句
子供にはまず総領や蔵開き 蔦 雫
蔵が生きていた時代、新年に蔵開きが行われた。今は蔵には何が入っているのか、蔵自体日常的に使っていないから蔵が生きていないのだ。何か用のなくなったものが入っているような感じがする。物であれ建物であれそれが使用価値がなくなったときそれがどんな立派なものでも価値がなくなる。使われることに意味があるのだ。それが例えば金にならなくても使われるものには意味がある。現実図書館などでもインタ-ネット化して使われなくなれば意味がなくなる。ただ使われない本を貯蔵したって意味がないのだ。意外とそういうことを気づいていない、この句集なども国立デジタル図書館で発見して読んで解説しているのである。デジタル化してネット化すると知識が生きてくることは間違いない、本として貯蔵したって使われなければ意味がないのだ。使うことにより物は価値がでてくる。
初市や雪にこぎくる若菜舟 嵐蘭
刀さす供も連れたしけさの春 正秀
山一つ越えて見にゆく初芝居
これも山一つ越えるという不便さが芝居の価値を高めている。町に行く価値を高めている。山からなかなかでれないからその山を越え芝居見るというのはテレビ見るのとは違い大きな刺激となる。その芝居をみて帰る山路も何か違うのである。毎日のようにテレビを娯楽にしているのが何か空虚になった。それは便利なのだが便利すぎて何かものたりなくなっている、価値がなくなっているのだ。それが飯坂の温泉辺りで吉本を読んで劇場で漫才のようなもをやるようになった。ただこれも時代的にあわないからどうなるのか、ただ生演奏とか生で見るのは全然違った価値があるのだ。芝居とは結構盛んだった時代があったのだ。紙芝居というのも芝居の一種だったのだ。そうした人間的なものが喪失した。ただ車だけが常に行きかうがそこに人が見えない、街の通りも新年でも歩かないのである。ということは街の通り自体死んでしまっている。車の道路は混雑しても人の歩く街は死んでしまったのである。
他にも正月俳句でいいのは江戸時代とか明治時代にある。それをもっと集めれば面白いのだがなかなかめんどうでできない、デジタル図書館は本そのものをコピ-したから読みづらいのである。ともかく正月気分がなくなるのもさみしい、それはとりもなおさず日本的なものがなくなっている精神の貧しさにつながっている。
松の内腰おちつける暇なしや
新幹線ですでに都会へ帰る人が映されていた。何か今や時間にみんな追われている。それも世界が相手だから今度は津波だとか常に世界的なものとして動かされるからさらに時間に追われる時代なのだ。時間の流れ方が違いすぎる。正月とか小正月とか正月は実際は長いのだがもはやそういうことはない、急速に時間がながれてゆく、それは現代なのだ。でもこの現代の異常性を知るには過去を知る必要があることにきづいた。そ過去と比べるとそれがよくわかるのだ。昔の俳句は今の時間の流れではないし決して作れないものであることに価値があるのだ。
国立デジタル図書館
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=41002332&VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0
あらたまの年の緒長く・・・・(正月の歌と意味)
http://www.musubu.jp/jijimondai34.html#arata