四国紀行編2(小林勇一)

暮春松山散策(俳句短歌紀行)

松山には三日ほどいたが三日曇っていた。曇っていたが松山市は情緒ある街だと思った。情緒ある街は市電がある街である。路面電車の効用は何なのか?これは電車のスピ-ドが遅いから時間がゆっくり進んでいる感じになる。それが人間の心に反映される。自動車はスピ-ドが早いから感覚的に時間が早くすぎるのを感じる。だからめまぐるしく行き来する自動車を見ていると落ち着かなくなるのだ。路面電車のスピ-ドは人間的なのである。

ギ-ゴトンゴトンギ-ギ-
うら寂びた昔の町に
電車がゆっくりと入ってゆく
二つの昔の碑がしるしとあり
木屋町とあるもあわれ
一輪の椿散りてかそけき
今日春の日曇り我は一人たたずむ
ギ-ギ-ゴトンゴトンギ-ギ-
木屋町-萱町-古町--
昔を思い出すかのように
市電は少ない客を乗せてゆく
旅人の我もこの街の昔を偲ぶ

木屋町に常夜灯残りたる旅人たずね春の日暮れぬ

木屋町の界隈静か一輪の落椿かな常夜燈による

松山市電-木屋町のビデオへ

この市電の車体といいこの走りかたといい市電は古い街になじみ人間的なのである。路面電車のある街はたいがい観光にはいい街である。松山市は観光に恵まれている。ただここも昔を偲ぶものがないとつまらなくなるだろう。石手寺なども古いし遍路橋とかもあり歴史を偲ぶのにはいい街である。正岡子規の写生俳句の発祥地ということも魅力あるものにしている。「春や昔一五万石の昔かな」が名句なのはこの句が松山市だけでなく四国全体をも象徴した句だからである。つまり四国は四国を統一するような大きな藩は生まれなかった。それは山国でもあり平地が少ないという地形的な制限にもよった。東北では60万石の伊達藩が生まれたのはそれなりに平地があったからである。一五万石にまでしかなれない栄えを象徴しているからこの句は名句なのである。こういうふうに歴史的に象徴した句を作ることは実際むずかしいのだ。

旅ではその街の昔と今を知ってはじめて意味ある旅になる。この昔を知らないとただ今という視点からしか街を見れないからつまらなくなる。だからどうしても昔を知る想像力が今必要なのだ。

正岡子規句碑. 『牛行くや 毘沙門坂に 秋の暮』

この句が城の麓にあった。この城の麓を牛が行く姿があった。これは今では考えられないことである。路面電車は時間の感覚を遅くすると言ったが牛はさらに遅くする。牛の歩む感覚が時間の感覚になるのだ。歩く感覚もそうである。歩いて到達できる距離が時間の感覚なのである。まず今牛自体を見ることさえできない、牛というのは生活から消失した。だから高村光太郎の「牛」という詩も実感あるものとして理解できないのだ。江戸時代の時間感覚は牛の歩む時間感覚だったのだ。ともかくここに牛の歩む姿があったということを想像する。そうすると昔が多少よみがえり昔の町の姿もそこから見えてくるものがある。正岡子規は武家の出であり侍だった。城は身近でありその城の麓を牛を行くのを見ていたのだ。牛というの人間の生活から消失したとき牛というものがもっていた人間に与える影響力も失ったのだ。それはただ牛が畑を耕すとか荷を運ぶという実用面だけではない、精神的な面でもっている牛の影響力が失ったのである。子供に牛のように忍耐強くあれと言ってもそもそも牛を見たこともないとすると牛については何もわからないから頭で想像するだけのものとなってしまうのである。肉牛として飼われている牛は牛とは言えない、畑で働き荷を運ぶ牛が本当の牛だったのだ。機械でも牛ではないが路面電車はそうした精神的な作用を人間に与えている、知らずに与えている。感化とは強制しても与えられない、知らずに与えているのは本当の感化でありそれは一個人とかでは無理であり環境の影響が大きいのである。現代の文明の環境はまさに人間を非人間的にしているのはそのためである。これは教育したって改善できないし一個人の努力でもどうにもならないのである。現代に必要なものはさらなるスピ-ド化とか効率化ではない、それは今回の悲惨な脱線事故とか様々な文明の問題を生むだけである。人間的な時間を取り戻すことなのだ。

小川未明の童話の「眠い町」の話は面白い。魔法の砂をまくと都会の忙しい雑踏が眠ったようになってしまう。汽車の線路にまくと電車のレ-ルが錆び付いたり人をひき殺そうとした自動車がとまったり騒がしい工夫が眠りについたりと眠い町になってしまうのだ。このころからすでに様々な文明化によって都会がこの作家の目にも騒々しいものに感じていたのだ。それでも今とは比べ物にならないくらいの都会である。まず一分一秒刻みのダイヤなど考えられないのだ。まだまだ鉄道は牧歌的な時代であった。

伊予鉄道唱歌に

旅は日切の地蔵尊 願かけて乗る汽車は

名残り残れど松山に 帰りて城の西北を
古町木屋町打ち過ぎて、行けば道後の温泉場


願かける地蔵尊というのは汽車の安全を祈ったのかともかく汽車自体沿線の風景と溶け込んだものだった。路面電車は街ととけこんでいたように汽車もそうだったのだ。スピ-ドがかなり遅かったからそうなったのである。いづれにしろこの超過密化した騒音化した都会には魔法の砂でもまかなければ人間的でありえないのだ。それは今回の事故のように恐ろしいものに向かって突っ走っていたのである。

ともかく歴史とか詩とか俳句ですらその場密接に結びついているから必ずその場に立ってみるといい、そうしてはじめて詩でも俳句でも歴史でもそこからリアルに浮かんでくるものが必ずあるのだ。そこに春の雨にぬれた石が一つ置いてあったのもよかった。

春の雨謂われを語り石一つ

雨しとと毘沙門坂や春の暮

春曇る今日も巡りし市電かな

木屋町に柳青める雨しとと市電の行ける音のひびけり

城の下牛行く坂と雨しとと石一つおく春の夕暮

みちのくゆ離れて幾夜松山に旅の日数や春の夜ふけぬ



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