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小林勇一
1 大坂発展の歴史(万葉集から)
2 交野市の歴史的地名の解読
3 交野の春風(詩)
4 近江の地理から歴史を解く
大坂発展の歴史(万葉集から)
●県(あがた)が最初の国
最初からなぜ日本の中心でなく大和盆地の飛鳥が先になったのかというと飛鳥から水田を造り始めたからだ。大阪は難波江であり八十島であり大きな入江であり葦原の入江であり水田に適していなかったのだ。まずなんらかの生産力がないと貯えがないと国は興らない、飛鳥で水田を米を作り始めて国力がついてきて飛鳥から藤原宮-平城宮-平安宮と発展した。大阪はそれまで国の政治の中心になっていない、なぜなら古代は政治中心の世界であり商業というのがまだ発展していなかった。農業中心の世界だった。
皇(おほきみ)は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ 4260
大王は神にしませば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都と成しつ 4261
だから盆地の平野で稲作が行われた。この歌の意味は平地を馬を放牧している平地を沼を田にするには神のような力を持つ天皇にできることだということでありそれほど大変な土木作業だったのだ。最初は平地ではなく山の方に田があったのだ。稲作にはいい水が必要なのだ。だから県(あがた)で天水を利用して水田が作られた。そして県主(あがたぬし)というようにその山を中心にして生活があった。県(あがた)は上田(あがた)であり山際にあったのだ。
「県〔あがた〕」は、大和にあった大王〔おおきみ〕家の直轄地である「大和六県〔やまとのむつのあがた〕」(=「曾布〔そふ〕県・山辺〔やまのべ〕県・磯城〔しき〕県・十市〔とおち〕県・高市〔たけち〕県・葛城〔かずらき〕県」)の他、「河内県」「吉備県」「筑紫県」など、西日本に多く見られ、朝廷の直轄的性格が強いようです。
西日本には近畿辺りにはこの県とつくのが多い、県主(あがたぬし)という名も多い。最初は県が主要な勢力をもっていた人たちである。私の所でも山に近いところは水がいいので米がうまいが海に近い方はまずいのだ。そして浮田国造という最初の屯倉が山の方にあったらしい。山の方が中心であり山際に生活の拠点があった。古代の奈良でも山辺の道には錚々たる巨大豪族の王の古墳が並んでいる。平地の真ん中ではなく山際の古墳が古いし三輪山のように山そのものを御神体とするような信仰があるのも山の方が重要であったのだ。だから大和ととなった。大和は山戸であり山の入り口である。そこが一番重要な場所だったのだ。そこには縄文人が古くから住んでいたのだ。そこに海に通じているアマ族が入ってきた。。縄文人はもともと山で暮らしてをりそれが海から技術をもってきた稲作技術などをもってきた渡来人と交わったのだろう。
1287 青みづら依網(よさみ)の原に人も逢はぬかも石(いは)走る淡海県(あふみあがた)の物語せむ
ここになぜ髪形が枕詞になっているのか?おそらく今でも中国の奥山では変わった髪形の部族が住んでいる。古代は部族ごとに髪形や体型や顔まで違っていた。今は均質化しているが土地が変われば様々に変わっているのが普通なのである。着るものも江戸時代までその土地で作りみんな違ったように変わっていた。それが文化なのだ。ここは原であるからアガタ(上田)ではない、石は岩だから山の方を流れる水だから山の上の田なのか、ともかく淡海県(あふみあがた)というとき元の国は県(アガタ)(上田)から発していてそう呼んだのである
県居(あがたゐ)の茅生(ちふ)の露原かき分けて月見に来つる都人かも(賀茂真淵)
江戸時代にもアガタという言葉が生きていたことの不思議である。それほどアガタというのには日本の風景として存在したのだ。山には棚田がありそこが暮らしの場として存在しつづけたのである。
樋口清之氏の(逆日本史3)に関東平野のような平たい土地は水田に向いていない、水田の一枚一枚に高低差がつけにくく水を流すのがむずかしいからであり高低差がある棚田のような所が水田に向いている。だから渡来人は飛鳥を最初の地として選んだ。また日本の平坦な地は最初釧路湿原のような湿地帯だったのだ。だからこの湿地帯を水田にするのは大変だった。ここに蛇やら蟹やら虫やらうじゃうじゃいて田にすることが大変だからこうした平地を田にすることはあとの時代になった。ヨ-ロッパでも最初の村落は丘の上とかにあるというの平地は虫とかが多く湿地帯になっているとすみずらいのである。バイ菌もそこから発生する。
●大坂は葦の海だった
0238 大宮の内まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あこ)調(ととの)ふる海人の呼び声
(志貴皇子)
葦辺(あしへ)ゆく鴨の羽交(はがひ)に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ(万1-64)
ここに難波の宮があったがこれは一時的なものとしてあった小規模な離宮のようであった。この歌のように港らしいものはなく漁村であり葦の海であった。淋しい荒寥としているがゆえにこうした歌もできた。
0928 押し照る 難波の国は 葦垣の 古りにし里と
人皆の 思ひ安みて 連れもなく ありし間に
続麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木柱 太高敷きて
食(を)す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味經(あぢふ)の原に
物部(もののふ)の 八十伴雄(やそとものを)は 廬りして 都と成れり 旅にはあれど
古代には大坂は奈良へ物資を運ぶ港は船の通路であり日本の国力が充実して商業が広く行われるようになってから大阪は日本の物資を集める中心になったのだ。古代までは大阪はであり通路でしかすぎなかった。平安京になってもまだ大阪自体は栄えていない、信長や秀吉になり本格的に栄えるようになった。秀吉のときその基礎が築かれ発展の一途をたどった。壮大な安土桃山文化が栄えた。文化というのは興隆すると高いものを建物でも建てる。ヨ-ロッパでもドイツのケルンの塔のように天まで届くような塔を建てる。日本でも天守閣は信長の安土城でもそうだし大阪城でも今の城よりかなり大きく天守閣も高かったのだ。江戸時代でも浮世絵には北斎の絵のように富士を中心として視覚的に高さの表現があり構図で人の目をとらえる。大阪がそれ以後日本の経済の中心だった。江戸に移っても酒でも織物でもなんでも大阪から来るものは上がりものであり江戸から来るもの下り物となっている。江戸の商人はみんな大阪から来た。江戸は大阪の出張所だったのだ。京都の伝統的な手工業があり加工業がありそれを運ぶのが大阪商人で消費地は江戸だった。
●川が古代の交通路
京都は手工業と公家の町である。山形県の村山郡で摘み取られた紅花は餅状にして出して運んだのが大阪の廻船問屋と紅商人でこれを京都にもっていって加工した。京都の紅屋が加工に一番優れていた。生産地は山形の田舎で積み出し港が酒田などになり運んだのは大阪商人であり加工したのが京都人である。この紅花は高価なもので「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われた。作るのにも手間がかかる。帰りに京都の物産を積んで商人は栄えた。山形の村山市や宮城県の村田町では京都から雛人形がもたらされ飾るのが行事になった。
雛古りぬ京を偲べる昔かな(自作)
芭蕉が「行未は誰がふれん紅の花」これは芭蕉が山形の奥深い所まで行って一体これはどこに行き誰が使うんだろうかと思った。当時情報がないから不思議に思ったのだ。インタ-ネットもないから旅をしてもその場でわからないことが多いのだ。今でも外国に行くと説明がないと皆目見当もつかないことが多いのだ。日本でも淀川のことなど知らないことがあり一部引用して交野市について書いたがあそこはインタ-ネットにもっと詳しくでていて感心した。あの当時は最上川を下り酒田に出て船で敦賀に行き琵琶湖を経由して京都についた。
『垂仁紀』をみてみよう。ここでは、崇神天皇の時代に、大加羅国の人「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと、以下、ツヌガアラシト)
が「越」の「けひ」の浦に到着し、「角鹿」の地名の云われとなったという記述がある。
この角は鹿の角でありこれが後に王冠に変わった。この角の王冠は最初はシャ-マンが呪術師がかぶったのだ。鹿をまねてかぶった。牛の角と言っている人もあるが鹿の角を模したのである。角は力の象徴として王冠に変換したのだ。これの原型は「伽耶」(かや)にあり吉備の伽耶郷は日本海から来た渡来人関係の人々が定着した。瀬戸内海からではなく古代は日本海行路の方が日本に来やすかったのだ。出雲が大きな国だったのも新羅とかと直接交流があったからである。このつのがのあらしとはアメノヒボコとなり日本に大きな足跡を記した。これの渡来人は銅を精錬する人たちであったらしい、この王冠は継体天皇の出た越前で発達した、つまりこの王冠だけは大和より越前の方から発達してきたということは「伽耶」などの韓国の影響が大きかったことの証拠である。継体天皇が進出して宮を置いた場所が交野の樟葉宮だったこともその位置が歴史を如実に示している。大和には入れず難波にも入れずその前で留まっているからだ。だから歴史は地理なのである。
韓国(からくに)に近き敦賀の港かな社の古りて秋の日暮れぬ(自作)
王冠の詩について(晩秋伽耶国)
韓国と日本海側は地理的に瀬戸内海回りより近いから古代は日本海との交流があった。渤海との交流もそうである。これも昔の交通路が見落とされているから身近に感じない、日本海を通じて大陸との交流は自然なこととしてあったのだ。
大津が栄えたのも琵琶湖が交通路だったからである。敦賀は古代から重要な港、文化の入り国になっていた。大坂回りのものもあった。なぜ山形県が紅花の山地になったのか土がいいからとかではなく最上川という川がありそれで酒田まで運ぶのに便利だったからとあり最初に道ありき、交通路があるからそれに則って商売が盛んになる。最初に交通の確保が大事なのである。京紅師というのが今も京都に一人いるという。
梅雨くらし紅の仕上げの金を刷く 宮田兆子
京都はまた外国からもいろいろなものが入ってきた。南蛮文化のとき、絨毯とか外国製品も入ってきた。それが祇園祭に使われている。
十六、七世紀ペルシャのイスファハンで織られた絹の絨毯が伝えられている。これと同系のものは長刀鉾にもあるが、「ポロネーズ」絨毯と呼ばれるように、ポーランド向けに織られたもので、それが大航海時代の船に乗せられて、東洋の小さな島国日本まで運ばれていた
大阪が栄えたのは地理的な要所で必然的に栄えたのだ。ここで京都と大阪を結んだのが淀川であり枚方市などもその船の通り道で栄えた。この川が交通路として利用されていたことが忘れられている。京都も高瀬川が街中を流れてをり木津川と結び物資の流通があった。北上川でもあれも長い川なのだが柳の御所が船着き場で中国の陶磁器が運ばれていた。日本の川は大陸のように大きな川でないので舟の運行がむずかしいが古代から川も舟が利用されていたのだ。交通はまず自然に則って発達する。川が道であり砂漠も海も道となった。これが汽車や飛行機やその他の発達でわからなくなったのだ。大坂では古代から堀が作られていた。運河は作られなかったが堀は作られていたのだ。
宮の北の効原(のはら)を堀りて、南の水(かわ)をひきて西の海に入る、よりてその水(かわ)を名づけて堀江という(日本書紀)
1143 さ夜更けて堀江榜ぐなる松浦船(まつらぶね)楫の音(と)高し水脈速みかも
336 防人の堀江榜ぎ出(づ)る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ
4461 堀江より水脈さかのぼる楫の音(と)の間なくそ奈良ば恋しかりける
船の種類にもいろいろあった。真熊野の船というのもあった。 ここから防人が筑紫に船出した。ここまで来ると奈良が近いから心高鳴り故郷の奈良を目指したのだ。この奈良まで船で行っていたのだ。
推古16(608)、小野妹子たちは裴世清(はいせいせい)を団長とする12人の使節団を伴って、筑紫に帰着した。煬帝の関心を我が国に向けさせるという所期の目的が達成できただけではない。送迎使まで連れて帰国するとは法外な結果である。だが、使節の受け入れ準備が整っていなかった。一行を難波津で飾船を仕立てて歓迎したのは、6月15日、飾り馬を仕立てて海柘榴市に迎えたのは8月3日である。隋使たちは10日間海柘榴市の迎賓館で旅の疲れを癒したのち、8月12日国書と進物を献上するために、海柘榴市から小墾田宮に向かった
紫草は灰さすものぞ海柘榴市の八十のちまたにあえる子や誰
今では川自体が死んでいるからわからない、水量が多かったのか今の川とは違い大きかったのだろう。もう一つは引き船ということも行われていたのか、日本では船を引っ張り上るということが行われていた。だから船引という地名も残る。しかしこれは大きな船と思えるのでそんなことがありえたのか不思議である。ただ川というのは交通路だったことは間違いない、なぜなら北海道開拓に向かった人が船で渡ったとあるのは湿地帯でぬかるみ歩くこともできなかったとあるからだ。古代には道は整備されておらず簡単には歩けなかったのだ。だから川が交通路になることは想像がつくのである。なぜ川とか港ととか船にこだわるのかというと文明は交通とともに発達し広がったからである。ロ-マ帝国が最初に整備したのも石畳の道であった。そして大航海時代が一番それを物語っている。例えばなぜオランダという国があるのか?なぜあのような小さな国が一時期、世界を股にして活躍できたのか、やはりまずライン川がありその海への出口として物資の集散する場所となりそれから海への港となり海運業が発展して商業が発展して文化が発展して一つの国となった。フランスとかドイツとかの大きな平野を有する国とは違いオランダはベネチアのように港の国家だった。それができたのはライン川と海に面する立地条件からでありこれは大阪ともにているわけである。
淀川がラインではないがそれなりに結構大きな川で船の行き来があったのだ。大阪が独立してオランダになったとしても不思議ではないのだ。それが堺市であった。歴史は本質的には地政学である。地理を知らなければわからない、地理は歴史の運命を作る。イスラエルが世界の中心なのは神が定めたかであり歴史は地理によってあらかじめ神によって決められているのである。司馬遼太郎が「オランダ紀行」を書いたのは大阪人としての共感からかもしれない、商人は実証主義、合理主義になるからオランダとにている。ワリカンはDutch Accountと英語で言い有名である。堺市や倉敷市が商人の自治組織があった。京都にもあった。商業が盛んになるところはヨ-ロッパのハンザ同盟のような商人の自治組織ができる。近畿は奈良は古代の王権であり京都は公家文化、職人文化があり大坂近辺は商人文化の街となった。そうなりえたのは地理的条件がよかったからである。唐(韓)の文化の入り口であったからだ。
この淀川の近くに住んでいたのが蕪村であり
春風や堤長うして家遠し 蕪村
この句を作ったがこの堤は当時としては長い堤である、悠々と流れる淀川の長い堤でありこの堤を強調したかった。田舎の堤とは違いここは特に長い堤であったのだ。当時の風景を思い浮かべないと俳句でも漢詩でも鑑賞できない、今の風景と余りにも変わりすぎたのだ。淀川沿いは本当に美しいまた光景でありまたその中に営まれた船の行き来も実にのどかな風景だった。なぜこれほど過去の回顧に熱心かというと当時のいいもいわれぬ人間と自然が調和して営まれていた生活があったからだ。淀川を船が行き来する光景だけでもなんとも気持ちいいものである。隅田川も上り下りの船人が・・・というようにたくさんの船が行き来していたのだ。自然に則って生活があることはそれはいいもいわれぬ美しさを自然との調和を作りだしたのである。文明はそうした自然との調和を寸断して分断してしまった。昔の風景は絵にしか残っていないということ残った資料しかから昔を偲べないからインタ-ネットのバ-チャルトリップの方が昔を偲べるという奇妙な結果になっているのだ。
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