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ヨ−ロッパの旅の経過(アムステルダム・ドイツ・スイス・パリ)小林勇一



今回はKLM、オランダ航空でアムステルダム着、パリ出で11万であった。マレ−シア航空だと8万だったが帰りが10日ほど遅くなりちょっと長いと想い3万高かったがオランダ航空にした。実際は10日ほど延びてもよかった。工事が終わらず帰っても困った状態になった。オ−プンチケットは今帰りの予約がむずかしいので困る。アムステルダムは3日いたが霧の日が多く寒かった。海に近いせいか霧が多いところらしい。アムステルダムやドイツは思った以上寒い国だった。北海道くらいの寒い国である。オランダはやはり物価は一番安かった。3000円くらいのところに泊まれたからよかった。アムステルダムは運河がめぐらされた街である。いかにも古い街で蔦紅葉がびっしりと這っている家があったりそれが似合っていた。でもアイネフランクの家を探したがわからずじまいだった。

一人旅の弱点は肝心な所を見ずに終わってしまうことがかなりあることである。タクシ−が高いので使えないのがつらい。アムステルダムを歩いて気づいたことは自転車道路が街中に広くとってありかなりのスピ−ドでつっぱしてくる。自転車を優先させる街作りがあった。自転車頑丈であるが古いものが多かった。荷物をのせるので頑丈なのにしているのかもしれない。ヨ−ロッパは自転車の歴史が古い、すでにレオナルド・ダビンチが木で今でも通用するような自転車の模型を考案していたのである。ルネサンスの時期にすでにヨ−ロッパ文明は今日の文明の先取り、プロトタイプを作っていたのである。オランダは今回アムステルダムだけで終わりだった。

 途中ケルンに行く車窓から古い風車を見た。いかにも古そうな風車でそれは村の中で使われ生きてきた風車で風格があった。風車という時私は観光的な風車しか見ていないので実際に役立ってきた風車というのがわからなかった。しかしちらっと見ただけだったが村の中に村の長のごとく重鎮のごとく風車は古りてあったのだ。日本には風車がないからわからないがヨ−ロッパの風車は水車のように必要かくべからずのものだった。平坦な地が多く風が吹き使用しやすいということがあったのかもしれない。オランダはやはり夏行った方がチュ−リップなど見られるので気持ちいいだろう。


 晩秋や風車の古りて村一つ

ケルンについてあの塔は高かった。螺旋の階段を延々と上った。なぜあんなに高い塔を建てたのか、それはやはり天への志向があったのだ。キリスト教にとって神の国は天にあるから塔も天空に伸びるのだ。本当にあの螺旋の階段は地上を離脱して天に上る感がした。キリスト教の命題はこの地上からの離脱なのである。そしてヨ−ロッパの塔は画一的ではないみなそれぞれに個性ある塔なのだ。塔とういのが目標となり街の中心となり空間をひきしめる作用をしているのだ。これは中国でも同じだった。大陸的文化の共通性がそこにある。城壁で囲む、塔を建てる、門がある、川の交通が盛んであることなど共通性がある。川というのが常に穏やかに流れ運河のごとなってをり川は重要な経済の流通役を果たした。

ライン川にそってあんなに城があるのも川にそってあることが経済的にも戦略的にもいい場所だったためだろう。しかし今回残念なことはケルンから上る観光の船が故障でのれなかったことである。これは残念だった。というのはライン川はドイツの父なる川でありこの川を行けないことはドイツを理解するのに肝心な所を欠くことになったからだ。それにしてもドイツには中世の城が多い、地名もブルグとつく地名が本当に多い、ブルガリアなどという国の名も城からきてをりいかにヨ−ロッパに城が多いかわかる。日本も城が多いのだがそれ以上に城が多く城によって細分化されたヨ−ロッパがあることがわかる。それが未だに小さな国となって残っている。ルクセンブルグとかリヒテンシュタインとか中世の領主の国が残っているのだ。



その2 (マインツから・・・・紋章のことなど)

今度はマインツまで行きそこからライン川を下ろうとしたが観光の船は終わっていた。観光でない船は出ていたがめんどうなのでやめた。ライン川はやはり船で行かないとだめだった。ライン川はドイツの動脈であっしこの川はオランダのロッテルダムまで続いていた。ロッテルダムは今でも世界でも有数の港湾都市なのだ。スイスのユ−スホステルでまた奇妙な中高年と出会った。自分もその一人なのかもしれないが二年間かけてバイクで世界を回るのだという、バイクはロッテルダムにつくらしく待っているという。しかし英語も中学生以下だし海外経験もほとんどない人なので余りにも無謀すぎる計画でとても実行できるとは思えない、今時確かに海外でこうした中高年の人が必ずいる時代になった。サンダル履きで67歳の足の悪い人が中国旅行に来たのだから驚く、そういう自分も最初の海外旅行が中国だったのだ。何にも知らないで行ってひどい目にあった。

 マインツという所もいい所だったがグ−テンベルグ博物館は休館になっていたしついていなかった。川は広々としてあの河畔は気持ちがいい。日本には河畔というのが実際はない、ヨ−ロッパでは河畔の風景は常に絵になる風景なのだ。マインツで印象に残ったのバラの花だった。バラはヨ−ロッパを象徴する花なのだ。教会のバラ窓といいバラ戦争とかバラにまつわる話はいくらでもある。それで感じたことは落葉するなかの古びた石畳を歩み咲いていた晩秋のもの寂びた赤いバラが何かヨ−ロッパを象徴するように心にしみたのである。日本ではどちらかというと秋であれば菊とかが象徴する花であるがヨ−ロッパでは常にバラなのだ。菊もいたるところに花屋にも野にも菊は咲いていたのだがヨ−ロッパでおそらく菊を名にしている人はいないかロ−ズを名にしているは非常に多いから日本の桜と同じようなものである。花と言えば日本では俳句でも短歌でも桜のことでありヨ−ロッパで花といえばロ−ズである。

 バラ戦争はヨ−ク家とランカスタ−家のイングランドでの貴族の戦争だった。白バラと赤いバラを紋章としたからその名が起った。この紋章は中世から領主が増えてから増加した。始めは騎士の槍試合や戦場で盾てコ−トについた目印が始まりである。日本の場合旗になる。相馬野馬追いの旗は歴史の保存だしヨ−ロッパでも祭りには盛んに紋章入りの旗をふるから似た祭りである。例えば領主が互いに結婚した場合、それぞれの紋章をとり入れたりさらに複雑になって365個にも分割した紋章までできたという。これは当時の封建国家の細分化された城の多さとも比例している。ヨ−ロッパの場合は常にイギリスという国に留まらずフランスであれドイツであれ遠くスイスであれオ−ストリアであれ王様も結婚するのである。

日本にも非常に紋というのが多いのだがヨ−ロッパのように余りそうした紋章が合体するということは少ないように思う。ヨ−ロッパではどうしても合体しなければならぬ事情があった。つまり互いに連携していかないと自分の身が守れないという事情である。国内だけでなく外国の援助を必要とする事情があった。日本では合体するというより家が代わり別なものになってゆく、名字は両家が合体したものがあるが家紋は見かけないのはヨ−ロッパとは国の事情が違っていたためだろう。

 とにかく歴史に興味持つことは教科書的年代記だけでなく卑近な所から趣味的な所からでもどこからでもその人の興味によって歴史は生きたものとなる。紋章や貨幣にしてもそれは立派な歴史の証拠なのである。歴史とはその個々人に浮かぶ過去でありそれぞれの立場によって地域てちがう。ヨ−ロッパはそういう点で非常に複雑なのだが何にでもは歴史があり興味が尽きない所でもある。ヨ−ロッパで特徴的なのはギルド(組合)も多く市も多くそれらも紋章を持つようになった。大学ももともとは組合(univercity)の意味だったのだ。北海道の学校でオオバナエンレイソウを紋章にしているがこれも地域的特徴を知る上で面白い。マインツについての話が紋章の話になってしまったが一つの目的、旅の目的をもし紋章にしたらそれなりに収穫のある面白いものとなるかもしれない、ただこれは暇な人でないとできない。


オックスフォ-ド大学

これはイギリスでとった写真だが城の中に旗が飾ってあったが一つにフランスの百合の花の紋章の旗があった。イギリスはライオンである。八分割の盾にもライオンと百合の花がありフランスとイギリスが深く結ばれていたことがわかる。もう一つの門はオックスフォ−ドのおそらくクラブの門でここにも様々の紋で飾られていた。ヨ−ロッパでは大学だけでなく地域でもクラブ活動が盛んなのである。KINGS ARMSとは王の紋章でありここはパブだと思うがいかにもイキリスらしい。すでに自転車クラブもあった。たれはパリで買ったメダルである。これで思うことは王室が庶民のクラブ活動にも理解を示していて王室と庶民は必ずしもかけ離れた存在ではなく近世には近づいていた。今のイギリスに象徴されるような開かれた王室になっていた。日本の天皇には確かに神格化するまだ特別なものとして扱うものがあった。菊の紋章は警察のような所でしか使われないもので日本の天皇はヨ−ロッパの王室とは違う、ヨ−ロッパの王室は実際の力を財を持っていたが日本の天皇は特別な神聖なものとして力はもっていなかったのだが神聖さの象徴でありそれをないがしろにできないものだった。聖なるものとしての象徴でありこれを犯すことのできないものとして上に建てたのである。
 

春寒し石に王家の紋古りぬ


イギリスは春寒しといっても春でも寒いからこの季語があてはまるどうかわからないが確かにヨ−ロッパでも俳句は四季があれば俳句的に表現できることは確かである。俳句は極限の短い中に多くのものを示唆するものでそれに対する説明、解釈は読者にまかされるから深く読むということが必要になってくる。「夏草や兵どもが夢の跡」という時、その背後には藤原三代の栄華の夢の跡でありその歴史を知らないとこの句の深さも理解できない。俳句は短いのだが外国人にはなかなか理解しにくいものかもしれない、いろいろ説明しないで象徴的に世界を物事を凝集することでその背景を知らないと理解が深まらないのだ。紋章の句にしてももし紋章にまつわる歴史がわかればその読みも深くなり興味あるものとなるが知らないとつまらない句になってしまうのである。とにかく俳句という日本独特の洗練された文化は外国という場でやはり一つの光を放つのかもしれない、日本的な感覚で見て創造するからそれは外国の詩とは違った新鮮なものとなるかもしれない。季語は日本の風土の中で作られ
洗練されてきたものなのだ。


これはドイツのザクセン州と
ザクセン=アンハルト州であるが二つの州が合体していることがよくわかる