冬の日にワ−ズワ−スを読む 小林勇一作

冬の月照らすや山の田一反

今はただ風の吹く音山眠る


山には何もないがそれでも田一反がある。それが糧であった。冬の月が照らして今は冬ごもり。その田一反あることそれは山の暮らしにとって欠かせぬもの、その生活の重みが今とは違う。その田一反を冬の月が照らしている。そこに山の暮らしがある。貧しいのは貧しいのだが都会の雑踏の騒音の汚れた浪費の世界よりかえってその貧しさが貴重に見える。余りもはや都会の雑踏は歩きたくない、たいがい年取ればそうなるのが普通である。もちろん都会で暮らした人には都会の良さがあるしいいものがあるのだろう。しかし都会の真ん中に暮らす人の気持ちは理解できない、田一反あり本当は人間はそれで足りるのかもしれない、これ以上買うものはいらなくなった。ごみごみした都会も歩きたくない、自分は性格的にすでに20歳で50才に見えるくらい老成していたのだ。今になって自分らしくなった。自分の本領を発揮できるようになったのかもしれない、青春はわたわたとあっと言うまに過ぎる。おそらく老年こそむしろ生の真実が見える、自然がてらうこともなく素直に心に入ってくる。青春も青春らしく生きる必要があるが落ち着いた老年もまたいい、長い冬をスト−ブに薪をくべながらぽかぽかとあたたまる、コ−ヒ−を飲み過去を回想して本を読み、またネットで情報を探る。そこは静寂極まりない山小屋だったらいいだろう。

それが理想だ。自動車の音など聞こえない、森閑とした森の中である。ここで瞑想にふけり静に回想してものを書く、それならいいものが書ける。もうごみごみした都会など歩く必要がない、欲に追われて落ち着かない人の顔見たくない、ケバケバしい若者や女性もいやだ。あれも文明によってゆがめられた姿なのだろう。そこに沈黙の岩があればいい、山の上の夫婦岩に冬の日が暮れる。それは年老いた夫婦の落ち着いた姿だ。自然のない所に安らぎはない、都会は人間を卑小化し猥雑化して商品化して本来の人間の尊厳はそこにはない、マスコミであれ出版であれコマ−シャリズム、市場化の中で人間は商品化されつまらぬ人間が売り出される。大衆はその宣伝にのせられつまらぬものをつかまされるのだが価値などわからないからそうなるのだ。文明は人間をその機械力、科学力、物質力でゆがめてしまった。人間の本来の生はそこにはない、文明とはおさらばしたい、文明を改革はできない、文明を去るか文明が破壊されるしか解決方法ない、つまり未曽有の文明の破壊が現代の戦争となりその終末を迎えるのだ。文明を改良することはもはやできぬ。さらなる機械化、便利化はかえって人間性を失い住みにくくするのだ。上野霄里氏の言うように文明の拒絶が今や人間を本来の人間に戻すことなのだ。

迷える足のほか踏みしことなき
人住まぬ谷間や奥深き山中を
いと古き代より汚れを知らぬ地域を
思いのままにさまよいる自由こそは
定命もてるかよわき人間にとり
いかばかり神聖なものぞ!


  森の聖域(自作)

風と光に織りなされ影なす処
そこに人の踏み入るまれに
清らかな流れの音に小鳥の声
花はつつみ隠され咲きぬ
誰か愛でしやその花は知られじ
そこに馥郁と匂いは流れぬ
世の穢れは知らじ森の中
風と光に織りなされ影なす処
時にけたたましく鳥の荒き羽ばたき
鳴く声の鋭く森にひびきわたれり
束の間静寂を破りて去りにき
その他にここに踏み入る人もなしも
石一つここに黙して時を刻まず
神はその上に安らかに休みぬ
風と光に織りなされ影なす処
そこは聖域として休み場としてあれ
人の手はそこに加えるべからじ
神のそなえしもののつつがなくあるべし

まことにそういう場所がかつてあった。その山陰に自分はさまよったのだ。それは神聖な道だった。しかしそこも自動車の道になり失われた。こんなにどこも自動車の道にすることは自然破壊でもあった。切迫した必要に迫られてできたものではない、公共事業の故に作られ自然破壊された道なのだ。こういう人の手に入らないような処に覆われているときその生も豊かであるし神聖さが保たれる。森は神聖であり太古の神秘をいだき花はその奥深くつつしみ隠され咲くのだ。

いとひなびたる無学者どものうちに
古くより伝わりし同情にくみし

味気なき理知の繰り言を見聞きするよりも
むしろ鄙の伝えに従わん


これは柳田国男の民俗学の分野である。昔の暮らしは今からすると遅れたものとされるが必ずしもそうではないのだ。自然と調和して一つの村はカムイコタンなのだ。神の村なのだ。村は神が作ったから自然を壊さないし調和している。そこでの祭りは現代のよう商業化していない、すべて神聖なる業になる。労働もそうだし芸能もすべて神に捧げる奉納するものとなる。今日のような商業化して金をもうけるために売り出そうとするようなものはそこにはないのだ。神に奉納することが芸術の起源である。音楽もそうだしすべてそうなるのだ。スポ−ツであれ芸能であれ現代はそれが商品化することなのだ。ただ見てるだけではスポ−ツなんか面白くない、見せるスポ−ツ、商業化したスポ−ツはまさにこれこそ気晴らしである。村の中で石を持ち上げる力比べの方がずっと意味あるものだったのだ。力石とかの地名が残るのはそれは村の中で一人前になるために成された。村の行事として村の一員になるための欠かせぬ行事であり生活と密接に結びついていたのだ。鄙の伝え、昔話でもそれは村にとって欠かせぬ意味あるものだったのだ。現代の文明化はこうした村を過疎化してそうした伝統も喪失させたのである。

かくあくまでも分割に分割を重ね
一切の尊厳を破壊しさり
ねじけたる試みになお飽くことをしらず


これが文明の姿。いらないものを作り自然を破壊したのも愚の骨頂だ。働かないやつをなじるが自然を破壊したことこそ無駄だったのだ。そこに一つの石として黙っていた方が自然にとっては有効だった。人間は文明は無駄を作ることだった。膨大な無駄とゴミの山を作ることでもあった。文明それは余りにも制限なく自然に進入するだけでなく根こそぎ破壊したのだ。おそらくこれは何も自然だけではない、人間もゴミのように燃やした、人間をゴミにしたのも文明だった。何千万の人間が簡単に殺戮された時代だったのだ。それに比べルと江戸時代は別に中国を恐れることもなく朝鮮半島と融和的であり300年の平和つづいた。なぜ欧米化してこんなにむごい戦争になったのか、それは恩恵と思われた科学文明が殺戮兵器となった悲劇なのだ。科学はおそるべき兵器となり平和をもたらさなかったのだ。欧米の科学文明は必ずしもいいものばかりではなかった。だからすべて欧米に従う文明は恐るべき戦争で殺戮がおこる。劣化ウラン弾とかアメリカは平気で使っている。つまり今や何らか欧米科学文明に歯止めをかけ別な文明を志向せねばならぬのだ。そういう時代にきた。過去の反省からそういう時代が志向されている。それは東洋文明となるが新しい東洋的キリスト教文明ともなる。そういうものが望まれているのだ。

もどる

評論と鑑賞目次へ