飯館の道(小林勇一)



飯館の春1

飯館の春2

飯館の秋のあわれ(田作り米に執着した日本人)



飯館の春1

2002年3月1日

風受けて自転車走る冬の鳥

my running bicycle against winds
on flight of a bird in winter


山陰に残れる雪の厚きかな春まだ遠し飯館の村

今日の一句一首より

今年は春が遠い。ここ三カ月寒くて遠くに出なかった。昨日は一日寝ていたし体調不良になった。やはり外に出ないとだめだ。今日は晴れたので上萱を栃窪から自転車で登って飯館のいつもの山陰の道を回って帰ってきた。飯館はかなり標高が高い、今年は氷点下14度になったことがあった。だから冷害で米もとれないことがある。雪はそれほど残っていなかった。でも山の陰になっているところには雪が残っていた。一番高い所に達したら雪の大きな嶺が見えた。おそらく吾妻山だろう。初めて見た。雲一つのない冬晴れだった。まだここは冬である。蔵王は角度が違うしあそこから見えるのは吾妻山である。あの道を今日行ったのは自分一人だった。一台の車も通らなかった。雪が残っているので通りにくいからかもしれない。とにかく爽快になった。その山で携帯のコンロでコ−ヒ−をわかし飲んだらうまかった。冬でも雪の上を歩いたり風の音を聞いたりすると気持ちいい。

ただこれまでは寒くてだめだった。なんとか耐えられる気温にはなった。わざわざ金だしてスキ−など行く必要がない。スキ−ができないからいうのではなく冬は冬の靜けさを楽しむのがいいのだ。スキ−場はがら空きだと言っていたし若い人でもBGMがうるさいと2ちゃんねるで言っていた。会津の針生部落でも静かな山の部落だったがスキ−場にしてがんがんBGMを鳴らすようになった。そこで地元の人がスキ−場を手伝っていた。でもスキ−場が福島県でも何ケ所かだめになったのは当然である。若者は少なくなるし若者は金がない、中高年向きの落ち着いた冬を楽しむ施設がいいのだ。暖炉とかであたたまりゆっくりしたいのである。日本人は何かせかせかしてゆっくり楽しむ余裕がないのだ。スキ−がいいからとみんなスキ−場にしたのは今になれば失敗だった。自分はスキ−場がある所には行きたくない、うるさいのだ。スキ−場のない所に行った方がいい。三月だが今年はまだ冬を楽しめるようだ。風を受けて自転車が走る、そこで一句できるのだ。これが自動車だと風を感じないからできないのだ。冷たい風も自然の現象であり自動車はこれを遮断するから俳句もできないのである。俳句も自然を感じるからできる。冷たい風も今頃ならそれなりに耐えられるし気持ちいいものなのである。

残雪の山の道

山の上に消残る雪
サクサクと踏みつ
樹々に鳴る風の清しも
山のかなたに望む
厚き雪覆う嶺
一声小鳥のひびきて
わたり飛ぶかな
山陰に消残る雪
ただ獣の足跡や
ここ行く人のなしも
山々は忍耐の沈黙
千年万年動ぜじ
世は知らじ世は知らじ
ただ悠久の時を刻む
春を待ちつつ
その春は来るべし
山々はひそまりぬ



かなたに望む雪の嶺





ここに二軒あった家が今は一軒しかない
橋の名は「共栄橋」である
これは開拓に入った家であり
歴史は新しい。阿武隈には結構多いみたいだ。
残念なことに二軒だけの家だがともに栄えることはなかった。


共栄橋

昔ここに共に栄えむと
開拓に入りし家二軒
「共栄橋」とここに名づけぬ
今その一軒の家は廃屋となる
秋の夕日さしてあわれ
山深く淋しき処かな
釣鐘草にソバナの花
ここにうなだれ咲きしも
二つの石の黙して
この道を行く人まれに
山陰ひそかに暮れぬ




飯館の春2

春風の山々に吹きそよぎ
峠越えて行けばあわれも
飯館の村は高きにありぬ
家々は山陰に隠され点々と
ここに昔の塩の道は通じぬ
その貧しき昔こそ思へ
助の観音の山に残りぬ
ここに飢饉のありとあわれ
頭の欠けし地蔵残りぬ
高地は寒く冷害のあり
悲しかもの言わずも
その地蔵に春日のさして
我がたたずみ去りぬ
飯館の山陰の流れの岸辺
今年もカタクリにキクザキイチゲ
かそけくもともに咲きぬも
山里の暮らしやいかに
山々静かに花美しく
森につつまれ咲きぬ
白々と山の木蓮ここに咲かなむ
春の日影のさす夕べの山路
帰りに山の清水を飲みて帰りぬ



時事問題15へ(共栄橋)について



飯館の秋のあわれ(田作り米に執着した日本人)



飯館の奥こそあわれ
三叉の松の立ちけり
稲架たてて夫婦のまた
そこにありしな
昔冷害で苦しむ高原の寒さ
飢餓で死すと碑もあれ
虫の音かそか我は去りしも


三叉の松や古りにき飯樋に稲架(はざ)をたてにし夫婦見ゆるも

飯館は山中郷で相馬に属していたが山中郷はなくなった。飯館はかなり標高が高い高原地帯なのだ。だからここで米を作ることは容易でなかったし冷害もあって飢餓で死んだ人もいてその供養の碑が建てられている。なかなか住むには厳しいところだった。ここの風景でこの稲架(はざ)を立っているところは山中でも広々としていた。山でもこんなに広いところがあるのかと思った。日本人はとにかくいたるところを田にしてしいる。山でもそうであり思わぬところが田になっている。阿武隈山中でも小川が流れていて板橋がありそこに細道が山の中に通じている。その道をたどると何があると思うと普通畑と思うがあるのは田なのである。日本人は田を作り米を糧にして生きてきた民族なことがわかる。またそういうところは隠田(かくした)にふさわしいのだ。だから平家の落人が逃れてきて住んだとか伝説が生まれる。

自転車で山形の方を旅したとき案内板があってここは何だろうと上って行ったらそこは小さな城の跡だった。土手だけが残っていた出城のようなものがあった。その山の上も平であり田になっていたのだ。こんな山の上に田があるというのが意外なのだ。田はこうして山の中に隠されているのが多いのである。平(たいら)という地名が多いがこれは山国の日本で平なところが特別貴重でありそこは畑としてより田にすることで貴重な場所だから平とつく地名が多かったのである。山国だからこそ平のもつ意味が大きいのだ。これが大陸だったらどこまでも平なのだから平と意識する必要すらない、平であることが当たり前だからだ。なぜこれほどまでに日本は山の中の狭い土地に米作りしてきたのか、米が食いたいということにつきる。米がそれほど食いたいということは米が日常的に食えないもので普通は粟や稗や雑穀が主食だったのだ。米はハレの日の食物で主食は畑作だった。餅でも正月だけに食うハレの食物だった。だから高い山の上まで神の田とか田にしようとしていた。田にする平な土地が少ない米を作る場所を求めて山の奥や高い所まで求めて行ったことが伝説となった。

http://www.pref.akita.jp/fpd/bunka/tasiro.htm

田代(たしろ)とは田にするのにふさわしい場所のことであり山頂の湿原が神の田に見えたというのも頭から田のことが離れられない、すべてを田と結びつける農民の心情があったのだ。

また餓鬼の田(がきのた)というものがある、弥陀ケ原に点在する無数の池である。立山飢餓道に落ちた餓鬼が餓えをしのぐため田植えをするが、秋になっても実ることがない。

これも日本人がいかに田を作ること米を作ることに執念をもやしてきたかを語っている。田を米を作ることが妄想化している。あの世までも地獄に行っても田を作り米を作りしているのだ。それは飢えへの恐怖でもあった。認知症になった老人が寝る布団で田植えの動作をしていたというのも認知症は昔の経験が現実となっているから昔が活きているからそうなる。飢えへの恐怖など現代では考えられなくなっているが昔は常に強迫観念のようにあったのだ。

「会津農書」(1685)に菜大根や蕪(かぶ)の多作をすすめ、それに加えて女郎花(おみなえし)、ふき、あざみ、はこべ、わらび、ささげの葉、里芋の茎などを乾燥して貯蔵し穀類にまぜて食べることを奨励した

こういうことは実際に聞いた話しとしていろいろなものをまぜて食うのは戦後もつづいていた。あざみまで食えるのかとなる食料になっていたのだ。

そもそも日本の国の始まりが県(あがた−上田)にあったということが大きな意味がある。日本で野というのは傾斜地の意味であり日本は山国だから傾斜地が多い、まずこの傾斜地に平な地を作り田んぼにしたのである。棚田というのは段々にして平にして田を作ってゆく、畑にしても段々畑となると傾斜地である野を平にして畑にすることである。平にすることは均す(ならす)ことであり奈良はこの均すから来た地名であるとしている。大きく均した所が奈良になった。均すということは建物を建てるにも不可欠でありこれは文明の始まりだったのである。日本には平な所は確かにあったのだがそこはたいがい湿地帯になっていた。この湿地帯を田にすることの方が容易でなかったのだ。ヨ−ロッパ辺りでも最初は平地より丘の上に住んでいた。平地はばい菌とか虫の害で住めなかったのだ。今広く田になっている所はあとからの新田開発で田にされたのである。八沢浦なども明治に干拓されて田にされたのだしそういう地域は明治になっても多かった。田にすることが日本の国を豊かにするということがつづいていたのだ。

ささげたる 歌によりてぞ しられける 縣(あがた)の末の 民のこころも

(明治天皇)

「栃木国民体育大会」
 とちの木の生ふる野山に若人は あがたのほまれをになひてきそふ
(昭和天皇)

荒金(あらがね)の岩手の県(あがた)

   稗貫の水上(みなかみ)はるか (岩手県立大迫高等学校校歌)


アガタとしたとき単なる県ではない古代にさかのぼるアガタになっているのだ

この米への執着は沖縄でもそうだった。沖縄の人が言っていた。内地の米はうまいんだよな、オカズなしでも食えるとか沖縄では安い米を買って食っている。田にする土地がないから米作りには適していないからだ。

島の水不足問題
http://musubu.jp/jijimondai10.htm#shima

飯館のこの場所は飯館の奥深さを感じた。飯館は山でもその土地はかなり広い、山国の広さというのは山にさえぎられているからわからないのだ。平坦な土地なら広いとすぐわかるけど山国はそうした広さがわかりにくい、でも阿武隈山高原でもかなり広い土地なのである。ともかくなぜこれほど田を作ること米を食うことにこだわってきたのか?これは明治以降もつづいた。北海道が田の面積では一番広いというのも意外だった。日本人は米作りに向かない東北にも古代から米作りを奨励した。米作りが国作りだったことは天皇の祭儀が豊作を祈る大嘗祭であることでもわかる。東北では米は米作りに向いていないのに無理やり商品作物として米が作られた。それで飢饉になった。多様な食物を作っていないから米がとれないと売ることもできず飢えることになった。これは世界の遅れた国で商品作物のコ−ヒ−ばかり作って他の食物を作らないのと同じである。商品化とはその土地ににあったものとはならない、自然の摂理に反することにもなる。食料というのはその土地と切り離せずあるからそうなる。東北では寒冷地なのだから寒冷地にふさわしい食物を作ることが自然だったのである。

参考

農民の厳しい生活体験の告白