小林勇一作

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時事問題14(2月15日〜)開始
キ−ワ−ド案内(キ−ワ−ド研究)


2004年3月31日 23:40:38アンケ-ト実験は失敗?

アンケ-ト実験はなんらかで失敗らしい。自分が答えたときはメ-ルできたが他の人が答えた時はエラ-だった。このアンケ-トもメ-ルアドレスがでてきたから個人情報がもれるのかもしれない、そもそもインタ-ネットの大きな欠陥が個人情報がもれるてしまうことなのだ。アンケ-トみたいなものも個人情報をとるためにしているサイトもある。私の場合は別にそういう意図はなかった。双方向的なものに利用したいと思った。余りにも私のサイトは一方的すぎたからである。インタ-ネットはホ-ムペ-ジにアクセスするだけで情報が残ったりパソコンに詳しい人はもっと巧妙に相手の情報を知りうるし勝手に自分のホ-ムペ-ジでも変えられたり攻撃されるかもしれない、私のサイトは一面ねらわれているかもしれない、思想とか宗教とか政治関係は危ない、だから全く匿名でやっているサイトが多い、でもそうなると信頼性がなくなる。情報の信頼性がなくなる。これほんとかいなとなる。掲示板でもこれほんとなのって疑わざるをえない、そこにインタ-ネットの一つの問題がある。相手が誰かわからないということはそこに果たして信頼ある交流ができるのかとなるとむずかしくなる。ただ私も常に他のサイトをまわり情報取得に励んでいるのだから何か得たい人は読むのは自由なのである。でもインタ-ネットで相手を信頼するということがむずかしいのだ。ただ情報取得だけならインタ-ネットは手間かかるにしても豊富になっている。何か探すときは書店や図書館より便利なのである。文章を書いていてもすべてが必要ではなくある部分が必要になってくる。不思議なのは日記でも10の項目があったとしてその一つくらいは必ず探していたものがあったりする。ただ無駄なものがいつでもかなりでてくる。情報は時事問題でも書いたが(つむぐ、つなぐ、織る(web)、重ねる、張り合わせる、・・・)という作業をするとそれらは一つの連関したものとして読めるものになるのだ。つまり情報の取得は本とは違う。本のある部分をとりだしつなぎ合わせるようなことが多くなるのだ。だから本一冊を読むのではなく何百冊の本の全文検索がインタ-ネットでは有効になるのだ。日記もまさにその中の自分の文章にマッチするものを探しているからである。
本の世界とは根本的に違うので情報環境変化への対処が必要になっているのだ。



2004年3月28日 2:43:09 団塊の世代が老人に

私が住んでいるみそら団地は、東武鉄道が造成した一戸建てオンリーの住宅地
です。高所得サラリーマンの居住地なのですが、いま軒並み定年を迎えています。
「ベッドタウン」に昼間行く先のない「元会社員」があふれているというのが、
地域の実態なのです。
居住者が「会社員」であった時代には上手く行っているように見えた「地域」
も、「元会社員」ばかりになると、「壊れている」実態が明るみに出てきます
(田中良太メルマガ)


都会と田舎はどう違うのか、前には東京の一部が建設ラッシュで景気いいと森田氏が書いていた。今度はなるほど高齢化社会の都会はこういう状況なのか、団塊の世代が定年になり大量に行き場のない人間がうろうろするようになる。そうなりつつある。田舎でも地域は壊れていることは同じである。ただ都会の方がそうした人間がふえるから目立つようになる。仕事がなくなった会社員は遊べないのか、マ-ジャンを老人が集まってやっていたのもその一つだろう。賭マ-ジャンではなく仲間作りのための遊びである。つまりこうした老人がふえてくるのだ。そういう徴候が現実化しているのだ。団塊の世代の動向は社会にかなり影響する。受験戦争の始まりが段階の世代だった。高校に入れないとか大騒ぎだった。自分は真面目だったから受験勉強して失敗した。受験勉強は学問ではない、暗記だけだった。八科目も受験科目があったのだ。とにかく高校がたりないということで高校に入れないということで必死だったのだ。それから自分は体調的にも精神的にも変調をきたしてしまったのだ。

大学に入ったらマスプロ授業で千人の講堂での授業で勉強に興味をなくす人がいて学生運動に走ったり自分のようにカルト団体に入ったりした。大学というのはただ席をおくだけの所であり勉強する場でなかったことの不思議である。理系は勉強していたのだろう。文系は全く勉強していない、大学とは自分でテ-マを見つけて勉強するところだという、そのために暇が与えられたというが実際はそんな高等な奴は一パ-セントもいない、あとはぶらぶらしして遊ぶだけだったのだ。せいぜいマ-ジャン覚えて終わりとかあとになんにも残らない生活だった。ただ理系の人と運動部の人は何か身についた。運動部もやめたから自分の場合はカルトで終わってしまった。今では大学にも行かず世界を放浪している学生いるがあれらの方が有益である。なんであれ世界を放浪するということなど世界をともかく経験することなどできなかったからだ。いづれにしろ人生は浪費が多すぎるのだ。半分は浪費で終わっている。それがわかるのは50すぎてからである。なんでこれっぽっちしかできなかったというのがすべての人の嘆きなのである。自分のような職にもつかない結婚もしないでやってきたものですらそうだとすると結婚に追われビジネスに追われた人間は何か知的成果をあげることはほとんどできないと思える。時間はまたたくまにすぎるからだ。

それにしても一カ月二回くらいし書いていないメルマガでもカンパしてくれる人がいるのか、やはりそれなりの記事を書けばカンパもあるのかもしれない、ただインタ-ネットは無償の方がいいという、基本的には無償でみんなが情報を共有しようとするのがインタ-ネットの思想だからである。今までの情報はマスコミとか出版社のためにのせてもらうとか提供するという受け身の情報しか出せなかったのである。情報は実際はマスコミがとりしきるものだったのだ。マスコミとか出版社のために作家があり作家が作られていた。
実際は作家のためにマスコミや出版社があるべきなのだ。マスコミや出版社はメデアにすぎないものなのに作家を支配していたのである。



2004年3月26日 22:38:29 アンケ-トの実験

アンケ-トをできるホ-ムペ-ジビルダ-を新しく買った。それで試しにやることにした。
チェックするだけだから簡単だし抵抗はないだろう。掲示板も前やってみたが発言がないのでやめたのとどうしても思想関係はアラシが入る。俳句とか短歌とか文学関係だけならいいが
自分のホ-ムペ-ジは創価も経験したから一つのテ-マになってしまっている。実際はこれはやりたくないのだ。でも自分の歴史の中に組み込まれてしまったからこれをさけることはできないのだ。戦争経験したものも戦争というものからその記憶から逃れることはできない、歴史の一部になってしまっているからだ。その経験から語らざるをえない、これを避けると偽ることになるのだ。過去は消せないと深刻な問題があるのだ。罪の深刻さはそれは消せない、犯したことは表面上は隠したり偽ることができるがその内面には刻印される。罪が刻印されるのだ。これはあまり考えないが恐るべきことである。カインは殺人罪を犯して刻印をおされた、それは終生消えることはなかったのだ。罪は取り除かれないという恐怖があるのだ。だから若い内簡単に罪を犯すとあとで後悔するしそれが重くのしかかる。人間というものは善行とか人のためになど何かをすることなどできない、積極的にそういうことはすべきではない,消極的であるべきだ。罪を犯さないということの方が大事なのだ。でも必ず人を罪を犯すのだ。具体的に人を殺すとか何かの行動をするだけではない、精神的にも罪を犯す、様々な悪徳を行うのが人間である。つまり口をつつしみ意を汚さないとか心を汚さないようにする方がもっともむずかしい。善行など全くする必要がない、それは精神的問題としてほとんど意味がない、身であり心であり罪を犯さないようにすることの方がむずかしいのだ。人間は何もしなくしてもいい、罪を犯さないならその人は十分に清らかな存在となり良いことがそこから自然と起こってくる。何か良きことは心の清い罪を犯さないことから起きてくるからである。だから正義とか慈善とか善行などする必要は全くない、若い内は特にそうであるしそれは実際できないのである。

自分のホ-ムペ-ジにどれくらいアクセスあるのかよくわからない、全部のアクセスログがとれない、時事問題には一番きているのかもしれない、ここはやはり一番力入れている。こういうふうな時事問題中心にして展開するのがどうしてもインタ-ネットに向いているのだ。その時事問題から宗教、哲学、文学へと掘り下げてゆく。このインタ-ネットは実際は様々な情報があっても編集とかさらに掘り下げることなどその人なりに考察をしないと生きてこないのだ。2ちゃんねるだっていい発言があっても一過性で生きてこないのである。他の発言でもばらばらで生きてこないのだ。編集すると情報生きてくる。相互に連関してまさ無限の織物(web)になってゆく。そこで著作権とかがいつも問題になるのだ。合成写真をやったがあれも創作なのだがかってに一部をぬきとってはりつけたりするのも違反になるかもしれない、そういうことがコピ-することが多くなるメデアなのだ。

まあ、このアンケ-トは何かもっと利用できるかもしれない、これも今回は実験である。



2004年3月25日 17:34:57 引用は創作である

引用はその人の独自の発見ではないか、自分で文章書いて発表してみてわかった。引用は自分の創作した作品と一体化することでありその人の発見したものである。引用は作者を新たなものとして命をふきかえす、だから作者が独自に引用したものはなるほどこんなふうに引用していたのかと感心するのが多い。引用はだから簡単にできない、創作的作業のできる人しか引用はできない、俳句を季語とか地域により分類して本を出している人がいるがあれは引用ではない、編集である。引用は自分の創作的文章の中にぴったりはめこむことなのだ。例えば

これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違ひなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとへば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換へられてゐるのであつた。」原民喜

これをたまたまインタ-ネットで見つけた。この文を時事問題14の(文明は人間の情を奪った)に引用した。自分が探求していたものとぴったりだったのだ。こうしてまるで一つの有機体の生命のように組み立てられるのが引用なのだ。他にも様々に自分の文章に引用するものがあった。それを書き加えればさらに充実したものとなる。ホ-ムペ-ジではそれが簡単にできるのだ。改訂が簡単なのである。インタ-ネットはまた引用しやすい、コピ−しやすい、だから引用も簡単だが実際引用はその人が個性的で創作的であるときできる。だからかえってむずかしいのだ。ホ-ムペ-ジ作っている人はこうした引用とか編集とか著作権とか出版社がやっていたことにやたらかかわってくるのだ。

他者の作品を自分の一部のようにできるのが引用である。引用は新たに別な作者によって生き返るのだ。ただ単にコピ−したりそのままを紹介しているのは引用ではない、ホ-ムペ-ジには過去の作者をコピ−しているだけのが多いのだ。芭蕉にしてもただその作品をのせているだけでありこれに新たな発見とか独自の考察をくわえている人は少ないのだ。作品を批評するのはかなり高度なことである。でも文章を書くということは才能有る無しにかかわらずまず書いてみることである。私も書いてみて意外と思いも寄らぬことを書いたりしている。自分の能力を越えて書いていることがあることに気づいた。それは何なのかつまり文章を書くということは自分一人で書いているのではない、そこには人類の英知というべきものが書くことにより働いてくる。おおげさかもしれないが書くということに自分一人の能力ではない、様々な要素がそこに働きかけてくるのである。だからこれは自分の文のここに入れればぴったりだったとかそうしたことがふえてくる。インタ-ネットがwebだというのはなるほどなと思った、蜘蛛の糸のように織るということを自然とするようになる。書くのではなく織るというのはまさにインタ-ネット的なのである


3月22日 Σ-bookは使えるのか

電子本

本が少ない● ●
ハ-ドが高い●

百冊の本が持ち運べる○
郷土の本を一部出す○
書店にダウンロ-ドする端末を置く○
外国に日本の本を持ち運べる○



このΣ-bookの可能性としてはやはりかなりあるのか、私の経験では今回の旅行でもインタ-ネットは旅行で使いにくい、しかし旅行中にその場にふさわしい情報があったら重宝する。その場を得た情報だから。例えば男鹿半島の写真を出して説明していたサイトは役立った。街のインタ-ネットでできた。一時間200円くらいのところだった。あれはめずらしい、あとは街でインタ-ネットやれるところが見つからなかった。今のノ-トパソコンはインタ-ネットに文章だけアップできるがその他かなりむずかしくできない、時間がかかるとかなり通信費が高額になる。役屋の松というのが一本残っている。それは狩猟のために秋田の殿様を迎えるための番所みたいなものだった。そんな松があったのかと役にたった。役にたつとは役屋なわけである。他に寒風山というのを調べて男鹿半島は紅葉しないという、風の関係で紅葉にならない、そうした気候条件がありあそこが寒風山というのを余計その場にふさわしいものと感じた。旅行したときその場の情報はいかに大事かである。こういうことは案内所でもどこでも教えてくれない、本屋でも時間がなかったり探しえないし本を買うと重くなるだめである。つまり書店にダウンロ-ドする端末があると郷土の本を持ち運びできることになる。旅行した先の歴史的説明などが手に入るとなると便利である。これはインタ-ネットでもできるが時間がかかりむずかしかったから本だとわかりやすいということがあり分量もあるからその場での情報が得られるかもしれない、外国に日本の本を持ち運べるというのもかなり便利である。外国では日本の本が読めないしインタ-ネットも日本語表示がないからかなり便利になる。例えばフランスのパリに行くならパリの情報を事前に百冊分入れたらかなり役立つ、外国は説明も何もないから重宝である。結局時間がありインタ-ネットがどこでもできればその場の情報も得やすくなるがそれができないから端末で情報をダウンロ-ドしたりとか電子化して持ち運ぶことを考える。情報はそもそも形がないものなのに本というのは持ち運びに不便であることは決定的な弱点だったのだ。まるで石を持ち歩くような重さだったからだ。端末から本をダウンロ-ドすると書店はいらない、喫茶店でも商店でもどこでも端末はおける、本という重いものを置く必要がなくなるからだ。情報環境の大変革時代に入っている。

これはまだまだ実験段階だから買うのは控えよう、実験段階で買って何回も失敗した、パソコン関係は使いないのが多いしすぐ変わったり別な便利なものが出る。他の会社も作っているらしいから一年後くらいに買った方がとくだ。そもそも買う本が少ないのだ。学術的なものなど詩にしても非常に少ないのである。これは古本にあり結構高いのだ。内容がいいものが出ないと普及しない、古本の中に相当な情報が蓄積されている。電子本ではほとん
どでてこないのだ。


3月19日 東京と地方

3月11日大阪へ行った。町中を車で走って感ずるのは東京との違いである。東京では新しい高層ビルがあたかも雨後の筍のように増えている。私が住んでいる港区白金台はこの数年間に風景が一変した。目黒通りは高層ビルラッシュ。品川も同じである。(森田氏のホ-ムペ-ジ)


東京がこの不景気でいいのか、大企業が集中しているからだろう。大企業が募集を増やしたのもそのためである。東京だけに集中して経済が活況化している。地方は衰退している。だから公共事業をふやせといっている。東北を旅したがそういうことがあるかもしれない、観光客は少なくなっている、ただ八戸まで新幹線が開業したから青森などは人が入ってきているのか、例えば八戸から十和田湖まではバスで2時間で青森より近いから行きやすい、新幹線効果とういのがあるかもしれない、一方新幹線からはずれたロ-カル線が廃線の一歩手前になっている。つまり東京一極集中でそこから新幹線のように高速で結ばれた所が観光でも人の出入りが多くなってくる。そこからはずれると人の出入りは少なくなる。確かに公共事業というと新潟の山の中にトンネルを作った田中首相は地元の人が感謝している。雪に埋もれた世界だと交通も閉ざされて孤立してしまうからだ。今回行った温川(ぬる)温泉の途中の小国がそうだった。これはかなり遠回りしてトンネルをくぐったその奥にあったのだ。こんなところに村があったことに驚きだった。ある意味で神秘的なものすら感じた。まさに隠れ里であった。こんなところに村があったのかという驚きである。雪に埋もれていたから余計に感じたのである。ビルの建設ラッシュが東京で起きているのも意外だった。

こうした自分の住んでいる地点の点の情報がインタ-ネットでは生きてくる。具体性を帯びてくるからだ。ビルがたつのもそんなにいいとも思えないが確かに地方では大きなビルは建っていないかもしれない、前には駅前などに建っていた。地方の問題は地場産業が公共事業が中心にしてしまった。江戸時代とか戦前の地場産業がないから公共事業に頼るよにうなり公共事業中心になってしまった。公共事業はでも地元から見ても無駄が多いのだ。近くの橋の立派なことには驚く、歩く場所が車道より広いくらいだしそこを歩く人は日に何人もいないくらいなのだ。それから野球場やら作ったがこれも不必要である。ほとんど使わないからである。その他会館みたいなものも作っている。道路も無駄なものが多い、地方の問題は公共事業しか頼るものがなくなっていたことである。公共事業に頼らない経済が必要なのである。ただ今やそれがないから地方の人々の要求がそこに集中するのだ。いづれにしろそれぞれの人の生活基盤の点の情報はわかりやすい、めんどうな理屈より訴えるものがある。オレの住んでいる回りはこんなんだよと書くだけでも意外と訴えるものがある。そんなところに住んでいる人もいるんだなとわかるからである。



2004-3月18日 文春の出版さしとめの是非


出版さしとめ事件にしてはその内容がゴシップでは低次元である。そもそも週刊誌が言論をになっているというのも言論界がおかしいのである。ヤホ-BBからもれた個人情報が創価の幹部だったということをのせたのは週刊誌と赤旗とかだけだった。公益性をになっていたのが週刊誌だけということ自体おかしい。週刊誌自体ゴシップで下世話なもので大衆をひきつけて売るだけを目的にしている。そういうものが重大なことをになって発表していることが異常なのである。今回のことは公益性の問題とかではない、つまらないことである。こんなことで司法もマスコミも騒いでいるのは低次元であり肝心なものは話題にならない、本当の公益性は重大なことはかえってないがしろにされている。マスコミや言論の問題は売れなければ書店に置けないとか目立つ所にも置けないのだ。そもそも本当の言論の自由はない、マスコミによる勝手の一方的な報道があっても他の人が言いたいことがあっても言えない、出版なんか大手の出版社によって支配されていてそこを通じてしか書店とかには回らない仕組みになっているのだ。

インタ-ネットでわかったことは無数の少数派の雑誌があったことである。そんなものも書店などには並ばない、週刊誌はコンビニとかいつも一番目立つ所におかれる。それも速報性があるから月刊雑誌よりインパクトがある。ゴシップ記事を売り物にするものが社会の公益性をになう言論だということがおかしいのだ。文春とかでも週刊誌なんかなくなったていいのである。そんなものは本当は隅の目立たない所にあるべきなのだ。それが公共の一番目立つ所にあることはおかしい。ではなぜ週刊誌を司法でも問題にするのか、週刊誌でもゴシップだけではない、エロだけではない、政治とか肝心な今の社会の問題の真実を報道することがあるからだ。では一方でゴシップとかエロとか下世話なものをだすかというと売れないと経営できないからである。読者も一方で下世話なものを要求し一方で社会の問題の真実を報道してもらいたいということもおかしい。言論の自由は民主主義は読者が国民が作っていくものである。マスコミでもないし司法でもない、国民の要求で作ってゆくものである。ゴシップ記事を要求する週刊誌だけが公益性をになっていること自体異常だ。

国民のための国民による言論の場が必要なのだ。それも結局国民のレベルしだいだからどうにもならない、政治も国民によって作られるのだからその国民が低レベルだったらゴシップ記事を要求してそれで面白がっているだけなら真実を追及するもの、不正と戦うジャ−ナリズムもでてこない、絶えずゴシップを売るための記事を出しつづけねばならない週刊誌はなくてもよい、あっても公益性をになうのでないから隠れた隅にあるべきなのだ。週刊誌が目立つのは公益性をになっている面があるし唯一創価を追及しているということなどがあり問題になる。もしそうでないなら週刊誌は必要ないしあんな目立つ所に置くべきでない、つまり言論の自由というけど今回のことはそうした重大な国民にかかわることではない、しかし重大な国民にかかわることが追及されなくなったりしたら問題なのである。週刊誌もそれをになっているから単なるゴシップとかエロだけではないものとして問題にしているのだ。


2004-3月4日 最近の二つの事件の深層

●感染判明の養鶏場で殺処分・京都府丹波町

●遺灰の金歯売りとばす(名古屋の火葬業務者)

鶏(にわとり)は庭にいるからニワトリだった。ニワトリは卵を生む工場で飼うようなことはなかった。庭の鳥として飼われていた。そしていつでも庭を歩き回り卵を生んでいた。それが鶏は工場の鳥となった。卵を生む機械にされてしまった。そして今回のように大量に殺戮される、処分される。これが人間と関係ないかというと関係あるのだ。動物に成されることは人間にもなされる。人間もこうした機械装置化したなかで大量にガス室で処分された。人間殺戮工場に送られたのだ。ピカ-トの言うようにナチスは現代文明故に起こったことであり文明という基盤から必然的に起きたと分析している。恐怖なのは人間もこの卵を生む鶏と同じように皮もはがれてカバンにされ金歯はぬきとられて売られた。そうした恐怖がまた起こりうることなのだ。人間的尺度を越えた文明の機械装置が流れ作業のように人間を物として処理するのである。

現代文明は常にそうした危機をはらんでいるのだ。文明環境の中では人間が人間でありえないという状態がつづいているのだ。ただ金歯をぬきとった火葬場の職員がいたということは人間はそういうことを平気でしてきた。戦国時代は死者から鎧などはぎ取って売っていたし珍しいことではないかもしれない、ナチスの場合それを大量に行ったから異様なものとなった。人間は生きているかぎりあらゆるものが欲望の対象となる、墓さえなるし死体さえなる、それは昔から同じことをしている。ただ現代文明の問題はそれが平然となされる、まるで機械の流れ作業のようになされる。人間が流れてきてそれを物のように処分することに平然としているということなのだ。人間的感覚が麻痺しているという恐怖である。その本人自身も知らずにやれるという異常な感覚に気づかないことなのだ。だから文明は病理的現象としてしカルトやオ-ムなどの異常なものを奇形が生み出されるのである。

ニワトリは庭で飼われるのが正常でありそれが人間的なものとする。工場で卵を生むニワトリを見て子供が育ったら愛情の一かけらも感じない、ただ単なる卵を生む機械にしか見えないしロボットの機械に接すると同じ感覚になってしまう。動物が死ぬということも死んだからかわいそうだという感覚すら身につかない。人間的感情さえなくなる。現代文明はいづれにしろ異様なものなのだ。その中でアウトサイダ-は正常になろうとして懸命になった人なのである。

異様な文明にたいして人間の本来の感覚を取り戻そうと悲痛な悲劇的な戦いをした人である。だから現代はアウトサイダ-がニ-チェや上野霄里氏とかが現代の英雄になるのである。これは現代ではかえって異様になっている。埒外の人間になっているが彼らこそ人間的でありたいといと全存在をさらけ出しかけたのである。現代はアウトサイダ-にならないと正常になれないという世界なのだ。文明から離れると本来の人間らしさがもどってくる。絶え間ない騒音社会だからその逆として絶え間なくそれに抵抗して沈黙の生活をつづけることも正常を維持することなのだ。絶えざる持続的沈黙が世界をおおってしまた騒音社会の中で必要になってくる。ある人に神の存在する絶え間ない古代のような沈黙が必要になっている。神が宿る沈黙が必要になっている。文明のやむことのない騒音の中で代償としてますます沈黙するものが必要になっている。沈黙に耳を傾けるものが必要になっているのだ。絶えざる文明の騒音から耳を閉ざすとき見えてくるものがある。またそうしなければもはや人間が培ってきた精神的なものは見えなくなっているのだ。




2004-3月1日 インタ-ネットは断片の情報が多い


3年間ホ-ムペ-ジ一方的に書きつづけたけどやはり系統的な主張をするには一冊の本になるくらい書かないとだめである。これを基にして一冊か二冊の本は書けるかもしれない、ネットはどうしても今の問題が中心になりやすい、でも今の問題は過去の歴史をさかのぼって明確になる。人間個人でも過去とのつながりで現在がある。過去は切り離しがたく結びついている。だから個々人の歴史も違っているし過去を見ないとわからないのだ。対話はなかったが対話するにもその人の断片的な主張では対話にならない、インタ-ネットは断片的なものが多すぎる。対話するにはそれなりの主張を持った人とするべきでありそうでないと断片的なものとして実のないものとなり終わる。つまりなんらか系統的に一冊の本に書くくらいの主張がない人とは対話できないのだ。断片的な対話になってもそれはその場限りの薄っぺらなものになってしまう。

どうしてもインタ-ネット日々の事件が話題になりやすいしそれで話がはずむ。でもなんか深く掘り下げたものは少ない、それを掘り下げて語れる人はどうしても専門家になるからいないというのはしかたないことなのか、本に書いている人にそれはある。インタ-ネットは断片の集まりであり断片の情報に追われる危険性がある。重厚な一冊の本とならない。ただ編集すればなるのだ俳句にしてもある季語から分類して批評したりするとかなり一冊の本のように読めるようになる。それがしにくいからやっていない、いい句にしても断片としてあると生きてこないのだ。これがインタ-ネットの問題である。そもそも現代そのものが断片化しているのだ。複雑な社会だから人間も部品化断片化してくる。するとどうしてもつながりを求める。結果的にそれがナチスとか宗教団体とかそうした団体の力が強くなってくる。そこで疑似的にでも連体を求める。一方ニ-チェとかキルケゴ-ルとか上野勝霄里氏などのように個人が巨大化するのは社会が断片化しているからそうした個人に一つの総合的全体を見るから個人が現代では巨大化する。そこに断片化した社会を補うようなものになっているからだ。総合的全体が存在しないから個人が全体を代表するようになる。自分のホ-ムペ-ジも断片ではない、全部が自分という人間の人格と切り離しがたくあり全体であるからすべてのペ-ジが有機的に結びついているから一ペ-ジだけよまれても自分を断片的なものとしして理解されるようになるから困るのだ。情報は確かに断片で結びついて一つの全体となりうる。でも本当の全体を有機的結合できるのは人間個人の人格なのである。この断片化することがインタ-ネットの問題であり総合的になりえない弱点なのだ。



2004-2月29日 3年間つづけたホ-ムペ-ジ

結局私のホ-ムペ-ジは相手の反応など関係なく自分を表現することに夢中で書き続けた。自分を表現するのに3年間くらいかかった。また文章を書くということやこれに編集などやリンクなどwebの独特の問題もありなかなかむずかしかった。自分がその個人がどんな人間なのか何を訴えたいのかそれを表現するには3年間くらいかかるのだ。一年くらいではできない、50にもなったらそれだけの表現するものはもっているのだ。ただ文章を書くということはやはり習熟しないとできない、編集作業も必要でありそれを書いていて訓練したことになる。自分にとってはアクセスはほとんど無視していた。つまり自分の表現に夢中になって書いていたのだ。誰も読まなくてもおそらく書いていた。表現することが第一であった。いかに的確に美的に表現できるかにあった。そもそもインタ-ネットは私的日記でありアクセスを増やすためのとも違う。その人のどうししても書いておきたい表現したいことを書くのである。今までなら私的日記など特別の作家くらいしか読まれないのだ。でも日記を書いていた人はいるのだ。私自身のこのホ-ムペ-ジの目的は売るためでもアクセスをあげるためでも有名になるためでもない、自分自身の信仰であり真、善、美の追及である。アクセスをふやしたり会員をつのることでもない、自らの過去の反省であり自らの信仰の真、善、美の追及であった

。時事問題の深層はやはり社会の悪の告発でもあったがなぜそうした悪が生まれる原因とか事件の深層は何なのかということを歴史的にふりかえり深く考察してどうしてそういうことが生まれるのか深く知ってもらいたいということであった。現代の文明の矛盾を混乱を別な視点(アウトサイダ-の眼)からみるとどうなるのかということを表現したのだ。こういうホ-ムペ-ジはそもそもアクセスはそんなにあがるはずがないのだ。学術的なものも実際探すのもむずかしいし商売の宣伝やら何やらに埋もれて肝心なものが出しにくい、検索はほとんどでたらめの世界だと言っている人がいる。何か探してもあまりにも無駄なものがですぎるのだ。必要ないいサイトはかえって目立たないというのは本当だろう。キ−ワ−ドで探してもこれもみつけにくい、それからヤホ-のカテゴリ-に登録されているからといっていいとは限らない、つまりこの世界はいいサイトでも見られることは極めてまれということがあるのだ。そもそもそういう世界でありここで目立つことはいいサイトでも至難である。2ちゃんねるとかは別として個人のホ-ムペ-ジはそうなる。ただ表現するのには実に便利なものでありこれほど簡単に発信できるからつづけたといえる。発信している感じすらないこともある。ただ誰も読まない私的日記をかきつづけているんじゃないかと思うこともあるのだ。これほど自由に表現できるから個人で表現できるから夢中でやったといえる。我ながら書きつづけたことでもわかる。ただひたすら自分を表現しつづけてきたのである。




2004-2月26日 ヤフ-の個人情報流出は創価の謀略部隊だった

ヤフー460万人データ流出事件の犯人は、池田大作創価学会の闇の謀略部隊だった。
 大新聞は流さないが、これは疑惑の宗教法人創価学会の腐敗した恥部を再び示した。
偉そうに清潔なフリをしてこの国の政治のキャスチングボートを握っているように振る舞っている
公明党の支持母体の暗部が突然明るみに出た一部始終。

http://gendai.net/contents.asp?c=010&id=6701


これは驚くべき事件だった。かなりの衝撃だ。今回の2ちゃんねるの創価板は面白かった。創価について内部告発があり自分もやっていたからわかるのだ。「創価が減っている」という板では不景気が影響してそうなっている。拝んでも会社が良くならない、だから創価も盛り上がらない、高度成長期ならみんなうまくいくから信仰も盛り上がる、ご利益があるということで活気がでる。これは逆だと思っていたから奇妙だった。つまり不景気とか苦しくなると神頼みで増えると思ったからである。今の経済不況が創価まで影響しているとは思わなかった。創価のものを雇うことも減っている。創価の人は創価や選挙で会社をないがしろにするから雇わない、会社にとっても今やメリットがなくなっている。これもやはり現在の不況がかなりどこも深刻なんだと思った。あとは御本尊を焼いた写真とか創価に関しての情報があからさまにでて面白かった。今回の事件はなぜ起こったのか、創価はそもそも権力奪取のためになんでもやる、手段を選ばない、池田大作自体が命令して謀略部隊を作っている、警察の予算をにぎっているのが公明党で警察も口だせないとか検察にも草といって謀略部隊を送りこんでいるのだ。そして政府の外交官にも創価の人が多く池田大作が外遊のときに働く、権力を掌握するためにありとあらゆることをする。こうした団体と手を組んで応援している自民党は全くわからないのだ。自民党がカルト団体のバックになっているという恐るべき現実である。これに危機感を抱かない国民も自民党も全くわからない、創価カルトにこの国がのっとられるということを応援していることが全くわからないことである。

創価についてはいろいろなことをいう人がいる。創価の人は近所にいるけど会社にいるけどいい人だよとかいろいろある。でも創価の目的は信仰ではない、権力奪取であるから謀略でもなんでもする、マスコミを支配に莫大な金を使い広告をだしている。あらゆるところに金をつぎこみ権力を掌握することなのだ。こんなこと創価の幹部ならみんな承知でやっているのだ。第一池田が日々命令していることなのだから。選挙も陣頭指揮でやっている、これになぜ法律も政府も無力化していることの恐ろしさである。創価を批判すると魔だ罰あたるとか地獄に行けとかオ-ムと同じなのに何一つできない恐怖である。自民党の責任はあまりにも重いのだ。国民もなぜこんな危険な団体を野放しにしてきたのか全くわからない、あまりにもあまく見すぎたのだ。創価はマスコミを書店を出版社を警察を外務省を検察まで支配しつつあるという事実を見逃していることなのだ。NHKすらそうだから創価の批判などしないのだ。NHKの重要な役職の人も創価だったというから恐るべきである。創価の人はいい人とかの問題ではない、宗教ではない、権力で持って権力がのっとられて権力で支配しようとしているのが創価であり宗教はその手段にすぎないのである。これは前から藤原弘達とかが口うるさく言っていたことである。宗教という隠れ蓑で権力奪取を図る団体なのである。そのためには手段を選ばない、幹部はみな謀略部隊なのである。



2004-2月22日 江戸の火事が防げなかったのはなぜ?

江戸時代の災難は火事だった。この火事は防ぎようがなかった。原因は家が全部木材だし燃えやすいもの、障子は紙だし、すべて燃えやすいから火を消すのは纏いを立てるのはこの家で火をとめるという意気込みで立てた。火を消すというより家を壊して延焼をくい止めることが先決だった。武家屋敷では防火壁を作っていた。蔵は防火壁の役割があった。江戸の三分の一くらい焼けたことが何度かある。この火事は日本の家が木材だったためである。この火事をくいとめるには燃えないもので家を造る。ヨ-ロッパのように石やレンガで作ることだった。そういう技術がなかったのだ。木の家は地震には強いが火には弱い。でもどうして防火壁のようなものを町の中に作らなかったのか、あれだけの火事を防ぐ術もなかったのか、町の中に大きな壁を作ることが必要だった。技術的にできなかった。つまり災害は文明が進歩すれば防げる。明治になってからレンガやコンクリ-トになり木材の家が減ったから大火事はへった。それでも地震のときは火事が一番怖いことが神戸の地震が証明した。よくよく考えると木の家で全部江戸のような大きな都市が作られていることは恐怖の光景である。一本のマッチで火をつけて落としたら風など吹いたらみるみる広がってゆく、つまり江戸の町はまさに災害を招くように作られていたのだ。また木で家を作る他なかったのだ。もし日本に石で家を作る技術がヨ-ロッパのように入ってきたら火事は防げた。結局これも鎖国したマイナス面になるのか、でもヨ-ロッパは当時遠いから石で家を作れるようになったかわからない、災害は文明が進歩すれば防げる。イランなどのレンガの家で地震で大被害受けたのも家さえ変えれば防げる。文明の進歩が災害を防ぐのだが一方で文明が災害をもたらすのである。交通事故がそうである。これは文明故の災害である。これの解決方法はないのか、江戸の火事から考えるとこれもさらなる文明の進歩意外解決する方法がないのだ。文明の新たな技術により交通事故をなくす方法を考える他ないのである。自動車あ減らすこともできないとしたらそうなるほかない。

ともかく災害とは人間が作るということがある。江戸のような大きな密集した木だけの家は火事にはもってこいの構造だったのだ。これを防ぐ技術が入ってこなかった。文明が進歩しなかったから防げなかったのだ。でも一方で文明が進歩して失ったものも多いのだ。江戸時代の浮世絵のような光景は全く消えてしまった。新宿で蛍狩りをして神田川で染め物を洗いとか信じられない自然の光景はすべて喪失してビルと自動車の洪水の醜い都市になったのである。石の文明は残るが木の文明は残りにくい、江戸に歴史がないのは日本に歴史が残らないのは木の家であり木は燃えたりしてなくなるからである。「江戸っ子は宵越しの金をもたない」というより石のように蓄財すること永続して保存することができなかったのである。そこに日本が歴史的に永続するものを持たない、すべてを水に流すとかそういう思考がある。いつみんな焼けてなくなってしまう、町すら全部なくなってしまうということはその日暮らしの方がいいとなる。余計なものを持たない方がいいとなる。あとに残るのは土地くらいであり土地の価値だけは変わらなかった。日本人はあることに火事で燃え上がるようにみんなで熱狂するのだがあとは焼け野原のように何もなくなり忘れてしまう。戦争のことなどもそうなのか、火事のように一過性で熱狂してあとは焼け野原となり新しくはじめる。そういう気質が江戸の火事のよう所から養われたかもしれない、永続する石の建築のようなものがないことはそうなるのである。


2004-2月20日 万葉集の引用を心がけよ


1316 河内女(かふちめ)の手染の糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思(も)へや

3427 筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥(みちのく)の
片依(かとり)処女(をとめ)の結ひし紐解く

3457 うち日さす宮の我が夫(せ)は
大和女(やまとめ)の膝枕(ま)くごとに吾(あ)を忘らすな


蕪村の句に河内女の句がでていたがやはり大坂は古い。万葉集にあった。難波は唐(韓)から機織りなどの技術をもってきた人が相当数入ってきた。河内女とはその時から機織る女性の代名詞のようになっていた。大原女とかはかなり遅くでてきた。片依(かとり)処女(をとめ)というのも今の磐城で歌われたものだから古い、これもカトリという土地の名の女性だろう。一般的に女性はオトメでありメは卑しい女性につくのか、遊女(うかれめ)とかそれでは大和女がヤマトとなっているのか?メとつくのは二つくらいしかなかった。メというのは采女(うねめ)でありこれは古いからそこから発生した。処女(おとめ)もメがつくから女性はもともとメであり男はオトコであり、オトだった。オトはオトウトでありメは女性で姉と弟のような関係だったかもしれぬ。オトタチバナヒメとか女性の前にオトがつくのは古代は必ずしも女性と男性が明確に別れていないためなのか、オトがオトナ(大人)とか基本にありオトという言葉が古代の人をさす共通語だった。いづれにしろオトウト(弟)オトメ(乙女、少女)とかは一団のものとして考えていた。アニ(あに)は全く別系統の分離した言葉だからだ。

万葉集は絶えず引用を心がけた方がいい、意外なものがでてくる。これは女で検索した。河内女とあると思っていなかったからだ。万葉集を読むには大変な古代の知識が必要でありこれも大変なのだ。意味がわからないのが非常に多いしそれを解読するのを読むのも大変なのである。ただ文学には不可欠であり引用を心がけて参照することが書くものに幅をもたせる。万葉集起源のものが一番古いし世界的にも万葉集は最も古い詩であり貴重なのである。でも万葉集はその背景を読むのがむずかしいから敬遠するのである。これも常識的にわかるだけで大変な時間がかかるのである。万葉集という日本人にとって基本的な知識すら身につけず時間を浪費している。外国の知識も膨大でありそれに力を傾けると今度は肝心の日本の古典すらわからないとしたら本末転倒になるのだ。何度も言うが学問は積み重ねであり簡単に理解できない、時間があり積み重ねしてゆけば万葉集も基本的レベルまではわかるかもしれない、その基本的レベルまで達しないで終わるのが多いのである。くだらないことに時間をとられ肝心なことが常になおざりにされているのが人生なのだ。つまり時間をくだらないことに浪費していれば絶対に肝心なことに時間が回らなくなり常識的教養さえ身につかず終わる。


評論鑑賞(蕪村の句から江戸時代を偲ぶ)


2004-2月19日 弱者が強者になる世界

熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が国立ハンセン病療養所
菊池恵楓園(同県合志町)の入所者の宿泊を拒否した問題で、熊本県は15日までに、
ホテル側に旅館業法違反があったとして、3日間の営業停止処分にする方針を固めた。

(ホテルは廃業した)

旅館業法違反、すなわち経営側から客を拒絶することは、周知のとおり
宿泊業においては日常茶飯事であって、それはこれまでの2ちゃんにおける
断られたひとや断っている業界人たちのレスによっても明らなのであって、
それを知らないものは業界側利用者側双方ともにいないわけです。もちろん、
重大な違反だとここで喚いている福祉マニアにしても知らない訳でもないでしょう。
ほんとに知らなければ、そりゃお子ちゃまだ。


事件が報道されて以来、抗議の電話は鳴り止まず、ファックスは紙を吐き続
けていたそうです。毎日ホテルの前には人権擁護団体の連中が詰め掛けて、抗

議のデモを続けていました。父はその対応に回され、真っ黒だった髪の毛が半
分ほど白髪になってしまいました。彼らの抗議は執拗で、粘着質で、人格を全
て否定するようなものだったそうです。事件前はとても明るかった父は、今で
は笑うことがほとんどなくなってしまいました。いつも疲れた、虚ろな目をし
ています。 
 父の次の仕事は決まっていません。東京に出稼ぎに行くか、漁船に乗ること
になるのか、いずれにせよ、僕ら一家はもう一つ屋根の下で暮らすことはない
でしょう。僕も3月で高校を中退することになりそうです。
 確かにハンセン氏病患者の方が歴史的に差別されたことに、同情はします。
 しかし、ホテルは他にもたくさんあるんです。宿泊拒否されたぐらいで、一
つのホテルを潰す権利が彼らにあるのでしょうか。差別された人は、そんなに
偉いんでしょうか。



自分の経験からするとホテルや旅館は誰が泊めるか泊めないか自由なのだ。現実上野のカプセルホテルではいったん中に入れてからお前は汚いからと出された。いったん部屋に入れる前ならいいが入れてからも出したのだ。登山したあとで汚れていたのだ。自転車で行けば泊まる所は断れることは普通である。それ向きでないのがあるからだ。でも普通は断れることはほとんどないし他でも泊まれる。そこは玄関がペンション風で清潔を売りにしている、他のカプセルホテルと違っていたのだ。他のカプセルホテルは日雇い労働者なんかも泊まっているから多少汚くても泊まれる。自分の汚かったのは登山したあとだったからだ。自転車とか登山すると汚れる。もちろん多少は自分に非はあるから泊まる前に断られるならいい、いったん入れた以上は許可されたと思うから契約が成立したのだからそのあと出て言ってくれというのはひどい。いづれにしろ宿泊を宿の都合で断ることは確かにいくらでもあるし別に問題ないのである。普通はたいがい他でも泊まれるし別に野宿だってかまわない、そんなに恨みにも思わない、ハンセン病患者の場合、そこで断られたら他で泊まれるかとなる問題がある。でもこういう時代だから泊めるホテルはあるしもし泊めるとなると他の人はいやがるかもしれんがいやがらない、差別しないホテルだとかで人気が上がったりする場合もある。つまり自由社会はそういうものなのである。

ところがこのハンセン氏病患者には創価とか人権団体とか様々な利権団体が後押ししている。これらは自分たちの勢力拡大のためにあらゆることをやる。一票のためなら地獄まで行っても投票所に連れてゆく、そういう団体である。坂口厚生大臣とかもあとおしになっていた。つまりハンセン病患者はこうした団体のあとおしがあるから強気になる。こうなると弱者の脅迫であり弱者は怖いものだとなる。現実そうした差別団体は暴力団のように恐れられている。これも豊かになった現代社会なのだ。日本のような豊かな社会では福祉社会になると弱者は弱者でなくなる。弱者の権利がありそれらが団体化すると脅迫団体にもなるのだ。現実泊めたくない人もホテルではこれからは断れない、廃業に追い込まれるからだ。民主主義社会は団体化する、圧力団体化するとなんでも通ることになる。、理不尽なことも通るのだ。数を多く集めることが正しいと錯覚する。そして民主主義社会の一番の弱者は個人なのである。一人で抗議しても誰も聞いてくれないし言う場所もなかった。だからインタ-ネットで言う場ができたので憂さ晴らししているのだ。自分の場合は恨みではない、ただ個人にも言いたいことがあり言う権利を認めろということなのだ。団体や組織だけの言い分を通すだけが民主主義でないからだ。個人の要求はあらゆるところで簡単に無視されるのである。



2004-2月15日 余りに短い人生(読まなかった本)

本は好きだからずいぶん読んだと思っていたが読んでいない、司馬遼太郎の「菜の花の沖」というのは面白い。ブックオフで文庫本で100円で安いから最近本を買っているのだ。本というのは安いと別に読まなくてもいいなと思い買うのである。積んどくでもいいと思うから買うのである。それにしても本は読むことが大変なのだ。せいぜい百冊くらいしか読めないだろう。読めないから何を読むかが大事になる。つまり無駄な本を読むとそれだけ浪費することになる。今の時代国際化の時代、膨大な知識の必要性に迫られているがもはやそれに追いつかないのだ。菜の花の沖というのをなぜ読んでいなかったのかわからない、司馬遼太郎の紀行文は読んでいたからである。でもこうしたことは相当ある。読むべき本のわずかしか読んでいない、これはなぜ読むべきかというと作家のエッセンスがここにあるからだ。どんな作家にも得意な分野がありエッセンスがある。それを読んでおくべきなのだがではどの作家がいいとなるとやはりそれなりの人の作品でないとだめである。それがなかなか現代ではわからない、同時代のものはわからないのである。今の人気作家のものは中味がなくても売れる場合がある。流行作家はコマ-シャリズムで売り出されそれで買ったりする。でもあとで何にも残らないのだ。

本というのは古典を読むだけで大変であり現代作家のものを読むとなるとまた大変である。読書もこれも相当な浪費である。つまらない本を読んで時間を浪費するのだ。私ほど結婚もせず仕事にもつかず暇だったのに本も読んだつもりでいたのに読んでいなかったのだ。本もそれほど読めないというショックである。人生は余りにも短い、人生とは浪費である。悪魔にたぶらかせられていつのまにかあっというまに人生は浪費して終わる。それは歴史的にもそうである。20世紀も戦争でとんでもない犠牲があった、命の浪費があったのだ。これも信じられない浪費であった。いかに命までも軽く浪費されるかを端的に示したものだった。なぜこうした無駄が起きるのか、人生が長いと思っている、時間があると思っているからだ。人生に与えられた時間は非常に短いということを気づかないのだ。気づいたときはみんな浦島太郎になっている。知的な仕事ができないのは能力がないためではない、時間がないためである。結婚に追われ仕事に追われ子育てに追われ様々な雑事に追われ肝心の自分の成すべき時間が奪われるのだ。金を得るためだけの仕事に大半をついやすものも多い、その仕事自体に価値があるのではないのだがそうならざるをえない人が多いのだ。人生はだから浪費を強いられる。カルト宗教にはまりそれで浪費するものもいる。なんらかの浪費が人生にはつきものである。サタンは人間を無駄なものについやさせる。サタンとは人生を虚しくついやさせるもの人生を無意味にするものである。実際そういうものにこの世は支配されているからこの世はサタンのものでありサタンに使われ意味なきものとして人生も費やされるのだ。


今も本を読んでいるが本が便利なのは速読に向いている。インタ-ネットは一冊の本として読むのはよみにくい、厚い本でも本は速読できる。今や速読しないと自分が書くことより読むことに費やされてしまう。今の時代知識は限りなくあり基本的な作家の本を読む他に自分の分野の本を読むことや世界全般の常識的知識だけで膨大なものなのだ。江戸時代だったら読む本は極めて限られていたのだ。だから速読が必要になっている。要点を読むのである。読書して知識がふえてくると何が要点かわかる。自分の興味のもっていることの要点をつかむのだ。私は船に関する交通などに興味がある。海に関係する興味があるからそこのところの要点を頭の中に即座にインプットしておく、これは頭の中に記憶させないとだめだ。メモしてもそのメモしたことを忘れるからである。例えばギリシャのアテネは穀物を外国の輸入に頼っていたがスパルタとプロポネス戦争のとき船が攻撃されて飢饉に陥ったとか食料を他国に頼ることの危険を示している。

本の効用はあの本のどのへんに書いてあったなと記録をまたよみがえらせてその本の引用をするからいいのだ。つまりだから本というのはやはり自分の記憶庫としして蔵書が必要になってくるのである。でもこれはかなり大量の蔵書が必要であり集めきれないのだ。資金もないし場所もない人が多い。だから電子化するといいのだがこれも今のところは電子本は少ない、今のところ両方でやる他ないのだ。


2004-2月14日 交野の不思議

最近交野市についてインタ-ネットの案内で知り実に不思議な歴史的場所であることを発見した。あそこが東北と関係ないかというとかなり関係あったのだ。アテルイが降伏して坂上田村麻呂が交野まで連れてきて天皇に助命を請うたが処刑された。なぜ交野だったのか不明であるが交野の不思議は物部一族と深く関係している場所であったことだ。磐船神社の「旧事日本紀」は古事記より古いとされている。磐船神社には物部一族の一団が船で上陸した地点であった。それが神話化したのだ。飛鳥が日本最初の都ではなく河内飛鳥というごとく最初の都が河内にありそれが飛鳥に移動した。そもそも日本最初の国が国号が日下⇒日の本から起こってとされるように物部氏が日本を建国したのである。蝦夷の首長ナガスネと婚姻関係を結び物部氏との連合国が日本だった。日本の原住民は蝦夷であり最初に交わったのが渡来人の物部である。
ものべの意味はモノでありモノとはまさにモノをたずさえて渡来した人々である。十種の神宝がそれである。技術者集団として渡来したのだ。この物部氏が蝦夷と連合を組んだのが最初の日本であった。この物部氏が中臣から藤原氏になった神武天皇をたてる人々に追いやられたのだ。蝦夷とは何かわからないというのはその中核に物部氏が存在してをりそれで蝦夷は強力な敵となったのである。蝦夷が日本を二分するような存在になったのは物部氏がその中核にいたからである。その後にも蘇我氏との仏教と古来の神道を守る戦いでも物部氏は敗れた。その証拠に日本の神社の起源になっているのは物部氏が実に多い、全国で物部氏由来のものがない所はない、必ず物部氏が痕跡を残しているのだ。日本がまず物部氏から起こったことは間違いない、アテルイは東北蝦夷の首長であるがあそこで処刑されたことは東北人として悔しいという感覚を持つ、一方物部氏も神武天皇に敗れた氏族でありその怨念はあるのだ。歴史的怨念は世界氏的にも日本史でもあるしつづいているのだ。



2004-2月10日 インタ-ネットと本

インタ-ネットの情報と本との違いにとまどうのはなぜか、インタ-ネットは全体が情報として調べることができる、それを参照してコピ-もできる。一方本は個々の一冊一冊でありいい一冊を買うために書店はある。ところが何か自分で創作的文章を書こうとすると必ず誰かのものを参照する、それが過去の人でも古典でもそうである。書店は一冊を読者に選ばせて買うことに焦点をあてている。ところがインタ-ネットは個々のホ-ムペ-ジもあるが情報をとにかく自由に見させてそれらを関連づけリンクしたりコピ-させたりする。だから情報が無料でないとしたら書店は個々の一冊一冊の本を売るのではなく書店自体が情報を全体として提供する場であり閲覧や参照やコピ-もできるようにするというのがインタ-ネット的情報の利用の仕方になる。だから入場料を時間制でとることになる。

個人で個々の一冊一冊から情報を集めることには限度がある。本を集めそれをテキスト化してその文章を検索させるというのがインタ-ネット的なのだ。一人の著作者に焦点をあてるのもあるが情報は多数のものから集めてそれをそれぞれ加工する、編集するということがある。それにはなるべく多くの調べることに関するものがあるといいのだ。すると深く理解できる。それを個々の本として買い集めそこから選び引用していたら本自体そんなに買いないからできないのである。有料化が必要としても今までの本の売りかたとか読み方ではインタ-ネットでは通用しないし不便なのだ。個々の人はカンパしてくれという記者や作家がいる。それなりのプロだから他の人とは違っていて読む。でも個々の一人一人に一カ月500円払うとすると一人だけではたりないから他にも払うことになる、すると情報に払う金がふえてくる。だから今のところインタ-ネットで本を売るように生活になることはむずかしいだろう。どういうふうに料金をとるかわからないのだ。

ただ本は今や高すぎる。書店でも地方ではたりなすぎる。調べるにはインタ-ネットの方がそれなりに情報が豊富になっている。今は本からインタ-ネット、電子メデアに移行する過渡期でありこれは当分つづくのだろう。本とインタ-ネットを比べると本は余りにもコストのかかる非能率がある。だから本の一部のものしか本は出せないし出したとしても出回らないのが非常に多いのだ。本の世界は出版はサブカルチャ-になると言っている人があるがそうならざるをえないのかも、本を一冊出すのに百万とか二百万かかるとする、インタ-ネットでは一万にもならない、この差が大きすぎるのだ。写真をいろいろ出しているがあういものを本に出したらすごい金のかかるものなる。書店や出版社は駆逐されるのかもしれない、インタ-ネットからみると余りにも無駄が多すぎる、それもとてつもない無駄をしている。返本とか信じられない無駄の世界である。そういうこと自体本の世界はインタ-ネットと比べると非能率なだけではすまされない資源の無駄使いになっている、批判されるべきものになる。インタ-ネットがでなかったらそういうことにも気づかないし批判されることもなかったかもしれない、でも今や馬鹿げたほどの無駄が本作りや流通にあることがインタ-ネットの比較で見られてしまうから本の世界は衰退してゆくのだろう。


2004-2月10日 天皇の重み

嵯峨御所や盆提灯も菊の紋 (飛騨桃子)

天皇(すめろぎ)の縁にゆかり京の古る菊の紋の寺我も入りにき

京都には天皇にまつわるものが多い。天皇が歴史として生きている都だった。
それが鎌倉や戦国時代を経て徳川三百年で東には天皇の影は薄くなったが歴史的に畏敬の対象として残った。家康も天皇を無視することはできなかった。勅使として待遇する江戸に呼ぶ儀式があった。天皇が明治維新で東京に移された。天皇は今でも象徴天皇として政治にかかわっている。靖国神社もその象徴である。天皇は形だけだ象徴だ、今の天皇は威厳がない、天皇は廃止しろだとかいろいろある。しかし未だに天皇はそれなりに重みがありある人は天皇こそ元首だという人もいる。戦後も天皇は政治的に政(まつりごと)に残ったのだ。単に儀式的存在でも天皇は残ったのが日本である。天皇は何も力ないというがやはり政治の場に残ったものであり江戸時代より重みある存在なのだ。江戸時代は食うにもこと欠いていたとか本当に文化的存在だった。歌の短冊など欠いて糊口をしのいでいたとか政治的にはほとんど役割がなかったのだ。だから政治の場は江戸にあり京都は文化を作る、手工業の場になっていた。天皇が明治維新によってその力を復興したし戦争中も天皇は現人神だった。戦後も象徴であるが江戸時代より天皇の重みはある。天皇は議会でも特別室があり開会を宣言する。それだけでも天皇には重みがある。天皇は日本人にとって欠かせないものなのだ。その是非はともかく天皇は象徴でも
重みがある存在なのだ。それを一番感じているのは京都人かもしれない、天皇が江戸に移り京都は政治的重みがなくなり実質的には天皇があったころの歴史を語る脱け殻ようになっていないか、天皇をめぐって常に京都では争いがあった。それは天皇を自らのものにして政権をとるためであった。天皇の奪い合いが京都で繰り広げられたのだ。京都はそうした権力闘争の生々しい場所だったのだ。生きている天皇が東京に移ったことで京都の重みも喪失したのである。
天皇は未だに重みある存在であったのだ。もう一度天皇を京都に移せばまたそれなりに京都は政治の場として重みをますかもしれない、ただ距離的に東京と離れているからできないのだ。
未だに天皇は日本にとって重みある存在である。



2004-2月7日 肉食の危険

最近なぜ鶏肉だ、ハクビジンだとかウィルスがでてくるのか、このウィルス自体わからないのだが、肉食は共食いの結果だという、自然にありえざることを人間が操作した結果、病気が発生した。牛の骨をまぜて飼料として食っていたのが原因である。こんどの鶏肉のウィルスもやはりやたら卵をうませるため、工場のような所で卵生ませる機械にしてしまったことが関係していないか、ブロイラ-というのもそうである。肉としてしか見られない動物の呪いかもしれん。賢治の「注文の多い料理店」である。これほどまでに動物を食うだけのものとして見ている、いかにうまく食うかしか考えない人間はやはり動物に復讐されるということもありうるのではないか、法華経には飢えた虎が子供を食うかもしれないと心痛めた人がその親の虎に自ら身を投げて肉として与えたとうい壮絶な話があり有名である。その人が生まれ変わりシャカになったのだという話である。インドには動物を神聖視して虫一匹殺さないベジタリアンがいるのには感心する。賢治もベジタリアンになろうとしていた。実際サツマイモだけ食っていた時期があった。肉を食うということになんらか抵抗があるのが同じ動物としては普通の本能的感覚である。鶏を絞め殺して食うことはいやがっても肉片になるとそうしたこともわからず食うのである。ベトナムではハノイの露天の市場で毎日この鶏をしめて殺して売っていた。そこを毎日通っていた。ベトナムではまだ日本のように鶏を工場化したりしていないかもしれない、昔のように放し飼いしているのかもしれない、なぜベトナムに十人も死んだのかわからない。

日本人が長生きなのはやはり魚介類が食の中心になったからではないか、つまり今九十歳とか長生きしている人は小食であり魚介類中心の食生活であった。それに戦後の豊かな食生活の結果長生きになっているのであり飽食の世代が長生きできるかどうかはわからない、小食の方がいいのだ。私は運動しないから老人食で十分である。肉は全然食っていない、タンパク質は魚からとっている。今は牡蠣などを食っている。これも運動しないからできるのだ。主、キリストも柔和なものが天国を継ぐといったのは神の子羊とか言われたのは獰猛な肉食動物は天国にはいない、草食動物はいるが肉食動物はいなくなっている。また肉食動物は草食動物より繁殖力が弱いから淘汰されるのは弱い草食動物ではなく肉食動物である。家畜であれ草食動物は残るが野生の肉食動物は淘汰され消えつつあるのだ。いづれにしろ弱肉強食や適者生存というのは自然界の法則ではない、これは欧米の文明感であるがインドには肉食とかを否定する思想があったことは不思議である。だからインド人は貧乏だけど温和な民族に見えるのだ。日本にはそもそも魏志倭人伝に牛、馬がいないとあり、魚介類が食の中心だった。縄文人は蛤などが主食だったのだ。そこが貝塚となった。肉を食うとやはりなんらか性質も温和でなくなるかもしれない、戦闘的になるかもしれない、食はやはり精神にも作用するのだ。食は文明の基であり食の乱れも人間を堕落させるしそうしバイ菌も発生させる。エイズも過度な性の放漫に対する
警告だし自然界からでてくるものはやはり人間に対する、悪に対する警告なのである。もちろん風土病、その土地特有の病気はあったがこれは今や世界中にたちまち拡散するから怖いのである。



2004-2月3日 ビデオの整理で発見

旅のビデオ整理していたら大坂城の大手門に風がそよぎ桜が吹き散っていた。
あの桜は豪華だった。桜が秀吉に招かれるように盛んに吹き入り散ってその大手門から
三々五々人が絶え間なく花見に訪れる。みんなみみっちく生きるのに精一杯なのにあれだけ豪華に生きたというのも悔いはないだろう。東北にはあういう人はいない、それほどに栄えたところがないのだ。これもビデオ見てたら風に花が散りその大手門に入るのが見えたから写真でなく動くものが見えたから思い出しあのときはあんなふうに桜が散っていたのだなと発見したのだ。人間の記憶は頼りにならない、だから本当は絶えず記録の確認をしていないとすぐに忘れてしまう。これでまた一首できた。

大坂城の大手門の広きかな風そよぎ入り花吹き散りぬ



2004-2月3日 福島市の自衛隊駐屯地のNHKの放送

NHKの福島駐屯地のイラク派遣の自衛隊を報道した。ずいぶん身近にいることに驚いた。イラクに行くのは北海道の部隊と思っていたのでこんなに身近にいるのかと改めてイラクの派兵が身近なものだと感じた。自衛隊員はなんでゆくかわからねえ、理由がわからねえと率直に言っていた。自衛隊にもすでに長く正式の自衛隊員もいましまだ訓練機関の予備兵みたいなものもいる。そんな若者が危険な地に派遣されるのに抵抗感じないのか?まあ、死んだら億の保証はつくから同じなのか、いづれにしろモチベ-ションが高められないというのは本音である。一体イラクで何のために戦うのかわからない、人道支援とういうのもごまかしである。結局アメリカの義理であり強制に従わねばならぬ。アメリカと歩調を合わせるためである。アメリカでは日本の軍隊を利用したいのだ。石油をアメリカは日本に供給させているというのもわからない、石油のための戦争かとなるし、現実どうしてイラクに行かねばならぬのかわからない、国民さえわからない人が多いのだ。北朝鮮だったら拉致被害者救出の大義があるがイラクにはないのだ。アメリカの世界戦略に組み入れられたことになる。日本がそこに正義とか世界史的意義とかそんなものを見いだして行くことはありえない、アメリカの義理からでありアメリカに逆らうことができないのである。それにしても小派遣に対して武運を祈るとか言っている作家もわからない、戦争を歓迎するのだろうか、軍隊が動くことに興奮する人もいるし自衛隊は危険な地に行くのが勤めだという人もいる。何人か死ぬことが国民すら望んでいるのかもしれない、アメリカの人身御供として望んでいるのかもしれぬ。自衛隊はそれくらいしかたないと望んでいるのかもしれない。

とにかく一般的に日本人が何かそうした戦争とか軍隊とかが出て行くことに拒否反応が強くなったのは太平洋戦争の結果である。あの戦争が今でももめているように私自身もその是非を論じることさえ嫌になっている。いづれにしろあの戦争は語りたくない、忌まわしいものとしてある。無惨でありそれについて美化することもできない、語りたくないのだ。一方で江戸時代は平和な時代だからそこに生きた平凡な人間についても知りたいとなった。戦争については調べたくもないし語りたくもないいまわしいものとしてある。だからなんであれ日本人は戦争そのもの戦争にかかわることがいやなのである。自衛隊が軍隊なのか何のかということが議論になるのも戦争アレルギ-になっているからであり戦争の負の部分の体験がしみついているからどうしてもそうなるのだ。これは健全な理屈無しの感情なのである。それはまた正常な感覚でもある。これはドイツにも共通している。戦争にこりごりしているからあういう態度になったのであり日本もまたドイツと同じで良かったのである。戦争のことに絶え間なく責められることにうんざりしているのだ。だから戦争的なことにかかわることがいやなのである。



2004-2月1日 旅の喪失-距離感の欠乏に追加のメモ

山里は雪こそふかくなりにけれとはでも年の暮れにけるかな(源頼家)

みやこだに雪ふりぬればしがらきの槇のそま山あとたえぬらむ(隆源法師)

この歌は自動車や交通機関のない歩く感覚の世界にいないとわからないものだった。山里に雪がふかく降ったらなかなか歩いては訪ねていけないのだ。距離の感覚でこの歌ができたのである。次の歌も都でさえ雪が降ったら余計にしがらきの里は遠くなりあとも絶えてしまうだろうという心細い歌である。今だったら自動車で行けばいつでも行けるのだ。自分の場合も自動車がないからこの作者と同じ気持ちになり同じような歌を作った。昔が雪に閉ざされるということがどういうことか汽車も自動車もない閉ざされた世界で自給自足しかないのである。今は雪に閉ざされた山の国などないのだ。現実今やスキ-に自動車で行くからだ。こうした距離感の喪失が何か逆に人間的なものを喪失させている。つまり人間が相手を思う心が喪失させている。いつでも会えるではないか、だから互いに思いやることさえなくなってしまう世界である。距離感の喪失がすべてに反映して過去がわからなくなっているのだ。古人の気持ちがわからなくなっている。その距離にしてもアフリカの奥地を思っているような時代なのである。そこだって飛行機で行けばこの歌に感じたほど遠く感じていないかもしれないのだ。距離感がないことは遠くに憧れることもなくなる。これがかえって精神の貧しさを生んでいるという現代の皮肉である。
このメモはまさにちょっと気づいたことメモするものであとで一つの文に完成する。こういうメモが簡単にできることがこのインタ-ネットの便利な点である。これはそのまま長い文にならないときもある。これが本とか雑誌の世界だったらそのまま埋もれて誰も読まなかったろう。
こうした日記とかメモを出せる面白さがインタ-ネットの日誌なのだ。そして今まで変えたものあとから追加したり変えたりまたリンクしたりといろいろ変化させられる。本のように固定しないのである。この文は距離感の喪失(評論と鑑賞)に追加されるべきものである


2004-1月31日 失われたものは江戸時代にあった

黄八丈が襖にかけてある
島の人丹念に織りたるものそ
末永く着るべきものなり


長火鉢の詩で書いたがなぜ今こんなことにこだわり始めたのかというと現代に失ったものが江戸時代にあったという発見である。江戸時代に地方色が豊かだったのはその土地にあるものでその土地の工夫で織物を作りその柄をも作っていたからそれぞれ独特なものとなっていた。その地方を鮮やかに浮かび上がらせるものを生産していたのだ。黄八丈というとこれは高級品だから庶民が着るのはあまりなかったらしい。ただ家に黄八丈があるということはその柄といいそれは必ず八丈島をイメ-ジする。それと同時にこれを作った人を偲ぶ、丹念に苦労して織ったものということをその作った人を思う。その物からは今のようにただ便利なものとしてだけでない、その土地やこれを作った人やいろいろなものをメッセ-ジとして受け取って使っていたのだ。今のものは地球の裏側から入って来たり誰が作ったものかもわからない、また大量生産であり誰が作ったかなど意識しないのだ。それが物は豊富なのだが精神的に豊かさが感じられないのだ。つまり今何か欠けているのは豊かなのだが欠けているなと思うものが実は江戸時代にあったのだ。それは未来にはない、かえって何か喪失したものが江戸時代にあったのだ。精神的豊かさというのは貧しいなかでもあったのである。

戦前までは職人は職人芸に励んでいた。職人気質などというものもあったがこれすら廃れている。鉄瓶とか刃物とか独自のものを作る人がいてその作ったものには作った人の名前が記されていたのだ。草履とか下駄とか様々なものに名前がついているものがあった。それはその人独自の工夫で作ったものである。そこに職人として工夫するもの、独自のものが作れたのだ。職人としての誇りも持つことができたのだ。今はそれがない、作る喜びがない、大量生産の同じ規格のものを消費するだけである。作る喜びがないということは生きがいもないのである。現代で生きがいある仕事を見つけることは大変なことである。だからフリ-タ-などが増えるのである。金をもらっても仕事が面白くないということがあるのだ。私などもそうだった。創造的仕事がない、だから仕事しなかったともいえる。青色発光ダイオ-ドを発明して200億円要求した人がいたが現代であういう人は例外である。発明自体昔の職人の発明とは違う。大変な設備とか大変な能力を必要とされる。昔は一般の職人でもその人独自のものを作っていたのだ。ものが豊かで幸福という反面、現代で満たされないものが渦巻いている。それが時々怒りとなり社会に爆発して犯罪ともなる。

江戸時代は一つの閉鎖社会ではあったがなんか有機的に結びつく連関した社会であった。それはもの作りがそれぞれ自前で作っていたということが原因である。確かに物は少ないし貧乏であるが社会が一つの織物のように有機的に関連して作られていた。だから落ち着いた社会になっていた。現代は常にばらばらな感じになる。物は豊富なのだがその物は自ら作り出したものでないから常に金で買う消費者でしかすぎない、そこで金ばかりが肥大化して重要性を帯びてくる。その結果、デイトレダ-のようなパソコンの中で数字だけを操ってまるでゲ-ムのようにして一日一千万もうけたとかそれで虚しくなって金をばらまいたという現代を象徴するような怪事件を起こしたのだ。江戸時代の風物が今と違うのは生産されるものがその土地で自前で作られるからそれぞれの土地で個性がでてくる、地方色豊かな時代だった。また家内工業だからそこは濃密な人間の小さな集団で作っていたから人間的でもあった。大工場で流れ作業で作っているのとは違う。それがだから常に自然ともマッチして風物誌として絵のような世界を生み出していたのだ。つまり手作りの世界がそこにありそれが日本の盆栽的な風景ともマッチして浮世絵のような独特の美しさを作り出していたのだ。つまり江戸時代は人間の手仕事やその他ヒュ-マンサイズのなかにあって自然とマッチしていた独特の小宇宙を作り美観を作り出していたのだ。すべてが美化されるものではない、常に時代の負の部分がある。でも皮肉なことに現代が喪失したものが江戸時代にあったのだ。こまやかな人情とか気配りとか繊細な美意識とかそういうものが江戸時代に洗練され育まれたのだ。それは織物とか様々な分野の工芸品などに結晶した。こうした現代が失ったものを江戸時代に見いだされることはやはり日本の歴史の層の厚さを作り現代をも豊かにする。現代に失ったものを取り戻せるものを見いだすことができるのだ。未来がさらなる工業の発展ばかり考える時代は終わった。それがあるとしても江戸時代のようにヒュ-マンサイズの自然と調和した技術が望まれているのだ。

片町に更紗(さらさ)染めるや春の風 蕪村

参考-江戸時代の魅力(漢詩などから)(評論と鑑賞)


2004-1月30日江戸時代は興味が尽きない

江戸中期の幕府老中田沼意次は、そのよごれぷりに腹を立てた庶民に、
    
田や沼や濁れる御世をあらためて清く澄ませ自河の水

と指弾されて追放された。
白河の水というのは掛け言葉であって、白河藩主松平定信をさす。
定信は庶民の輿望をになって田沼に代わるが政界浄化は成功したもののいっこうに景気はよくならない。庶民はまた落首を詠んだ。

    
  
白河のあまり清きに耐え濁れる元の田沼恋しき

こういうことって今も昔も変わりない、自民から民主に変わっても同じじゃいかとか政治は誰がやっても同じだとか江戸時代も同じだったのだ。ここに福島県の白河藩主の人が意外だった。あんまり福島県では政治で活躍していないから意外だった。

江戸時代の面白さは資料が豊富に残っていることだ。今まであまり注目しなかった。現代のニュ-スなんかばかりに注目していた。江戸時代は人間を知るには日本人を知るにはいい、そして今なくなったことが江戸時代にはあった。本当の旅があり様々なものがその土地で作られていたしそこは人間のドラマがあった。今にないものは未来に求めるのではなく江戸時代にあったのだ。我々の描く未来は今の延長上の未来ではない、過去にそのビジョンというか未来がある。そこはすべてヒュ-マンサイズの人間味豊かな世界だからだ。誰もこれ以上の自動車をビルを道路を必要としているだろうか、そうじゃない、ヒュ-マンサイズの人情味豊かな世界を望んでいる。それが江戸時代なのである。人情が養われるのは長屋のような所でありヒュ-マンサイズの場所なのだ。

現代から非常に人間がみえにくい、例えばデ-トレ-ダ-が一日で一千万もうけたけど人もいないから虚しくなって金をばらまいたというのも実に不思議な現代の怪である。パソコン自体が現代の怪の最たるものである。なぜ人も介さないでそれだけの金を得られたのか不思議である。何もこれは一個人の問題ではない、為替の差額で莫大な金をもうけたりしたのがアメリカだった。金融関係はそうである。実体のない経済で金融で動かされているのが世界が攪乱されるのが現代なのだ。それは全くこのデイトレ-ダ-と同じである。これは現代を象徴する事件だったのだ。あるときそのもうけた金が何なのかわからなくなり金をばらまくというのも何か現代を象徴していないか、もし貧乏な後進国にばらまいたらそれで貧乏人もうるおい助かるから有益なことになる。現代は人間の見えない世界で生活がくりひろげられている。だからドラマがないのだ。江戸時代には丹念に調べれば一人一人にドラマがある。どこの生まれでどういうことからそんな事件を起こしたとか何かそこに人間的な因果関係が明確になる。現代のようなわけのわからない奇怪なオ-ムのようなカルトとかそんな事件はないのだ。江戸時代があるということこれは日本にとってかなりの遺産である。歴史は何も遺跡が残っていないから何もないとかではない、そこに生きた人間の資料が豊富であればまた再現できるのだ。江戸時代はその資料が豊富なのである。瑣末なことまで調べれば豊富なのである。だからその日常も再現できるのである。



2004-1月28日 編集権がインタ-ネットで重要になる


編集権という考え方は出版社からでてきたものである。一冊の本や雑誌には編集権がある。個々の著作者の文をそのままのせるだけではない、いろいろ配置などを考えてだすからだ。特に川とか城とか何かをテ-マにして雑誌をだす場合は編集権がかなりのウエイトをしめる。今なぜ編集権に注目したかというと自分自身がインタ-ネットでホ-ムペ-ジ出して書いてみると明らかに絶えず偏執的作業していることに気づいたのだ。つまりインタ-ネットでリンクしてゆくことは出版では編集である。あるテ-マに関してリンクしてゆくことは編集なのである。雑誌という空間は一冊一冊になるがインタ-ネットでは無限のリンクをwebを蜘蛛の糸のように結びつけるのだ。ただ出版社の場合、編集する場合に著作者に許可をもらって編集していたのだ。リンクの場合は無断でリンクすることが多い。インタ-ネットでもこれだけ情報があることはどうしても編集が重要になる。いろんなところから情報を集めそれを編集すると一つの独自の世界が生まれるのだ。そこにはその人の思い入れがあり独創性も編集の中に出てくるのである。ただ集めて配列するだけでない、何かが生まれてくる。遊女というテ-マもこれだけで実に広い分野である。これを知りうるだけで編集するだけで大変だろう。「松江と常夜灯」で書いたようにあれも引用が8割りくらいになったからあれは創作というより編集権があったといえる。

今やインタ-ネットでは個々の日記でも参考にして編集すればそれなりのものができる。かえってこの人はこういうことに注目して編集したのだなと引用された日記を書いた人も編集されたものを読んで注目されることになるのだ。俳句などもある一つのテ-マで分類したりそれに感想やら批評を加えるとそれは編集になり一つのまた新たな創造なのである。批評は明らかに創造である。その悪い点、いい点を発見することはやはり創造なのである。インタ-ネットでは気軽にこれがいいとか悪いとか書けるのだ。だから編集が重要になってくるのだ。出版の世界は編集されるかもしれないが編集に参加することは出版社にいなければできないのだ。だから出版社が編集権や俺の所から出したのは他に出すなとかいろいろな特権をもっていたのである。書店は一個人が本を置いてくれといったって置かない、だから邪魔になるだけだと簡単にかたずけられる。出版社からのものしか置かないのだ。それも大きな出版社のものが主要に置くものになる。要するに出版社によって本は配布されるのであり一般の人や個人はかかわることのできない世界である。だから出版社は権力を持っていたのだ。俺たちの許可がなければ出すこともできないし編集するのは我々であり我々の力なくして著作者は何もできないという権力を持っていたのだ。出版社もテレビ局のようすでにメデアは持つ存在でありそれ故に力を持っていたのである。新聞社もそうである。発表するメデアでありメデアが権力だったのだ。ニフティなんかでもあの頃発表する場がないからあそこに集中した。だから権力を持つにいたりここで発表したもの、発言した著作権はニフティに帰属するとまで言っていたのだ。これもメデアが権力を持ったためである。メデアは歴(れっき)とした権力なのだ。宣伝費が収入だとするとメデアを持っているからなのだ。新聞社だって巨大メデアだった。新聞を一軒一軒配ること自体メデアの役割を果たしていたのだ。それだけのコストを欠けてメデアを維持しているからだ。

インタ-ネットの凄さはテレビ局にも出版社にも新聞社にも個人でなれることなのだ。これはやってみればすごいことである。だからホ-ムペ-ジ初めてから毎日出すために忙しくなった。何かを利用して編集して出す必要が出てくるからだ。編集することが出版社のように仕事になるのである。下の図のように浅井隆の本が2ちゃんねるで批評されたがこれなどもまず新聞とか雑誌のメデアに出されなければ批評はできなかったが読者が今や直接批評しいる。その批評した読者が今度はまたその読者を探している。本の読者のリンクをたどっているのだ。だから自分もキ−ワ−ドできたリンクから2ちゃんねるの浅井隆の批判を読んだのである。



2004-1月23日 わからない著作権

黒沢明監督の映画のパクリだと息子がNHKを訴えたが著作権ほどわかりにくいものはない、今回私が書いたものも引用が多いし文章そのものものには著作権があったとは思えない。ただ編集権あった。遊女ということについて編集したことにはあったが著作権があったかどうかわからない、自分の作った俳句、短歌と絵にはあった。ところがこの絵も常夜灯というのは写真を拝借して合成したのだ。こういうことがパソコンではホ-ムペ-ジでは簡単にできるのだ。これを禁止されると表現がかなり制限される。そもそも文章にしても誰かが思いついたことのバリ-エ-ションかもしれない、ちょっと変えてその人が加筆したようなものがかなりある。その原典がわからない場合、その人が創作したよう思うのである。

このインタ-ネットの時代明らかに遊女ということに関していろいろ引用したりリンクするとそれなりに遊女の世界が浮かび上がってくる。これがばらばらだと分散しているから読めないのだ。誰かが遊女ということに関して編集すればリンクししていけばそれを読み安くなる。遊女に関することは実に多いからだ。インタ-ネットでは「遊女」というキ−ワ−ドから知識の世界が広がって行くのだ。他にもキ−ワ−ドから知識が広がって行く。それをリンクししてつなぎ合わせてゆくとそれだけで一つの知識の体系ができあがってくるのだ。だから最近電子パピレスとかがリンク中ででてくる、するとこれは簡単に読めるなと思い、その関連したものを読みたくて買ったりする、この電子本を買ったのはインタ-ネットのリンクの結果である。自分がキ−ワ−ドで調べたいことをリンクをたどりその本があることが気づき買ったのである。これは本屋とか図書館でこんな探しかたはできない、こんな探しかたや読み方はしないのである。インタ-ネットでは知識が連鎖的にリンクしてゆくことが今までとは違うのだ。だから一冊の個々の独立した本というよりキ−ワ−ドのリンクだから本のペ-ジにリンクして知識が化学反応のように分子が結びつくように結びついて新しい知識の輪をつくってゆく。これが今までの知識の世界と根本的に違う。だから今までのように出版社が作者の著作権を独占して商売にするやり方はあっていないのだ。もちろんもはや書店に流通する本や知識は最小限の知識にすらなっていない、知識の環境が情報の環境が変わったから電子パピレスのようなものの方が買いやすいのだ。

それを一番示しているのが郷土誌関係である。これに関する本は膨大なものがある。しかしこれはその土地だけで発行したものだから普通の人は読まない、だから買う人も限られているからその町などで発行していた。しかしこれは学問的には必要とする人がいる。自分が引用した北海道開拓史のものなどがそうだし他にも郷土誌は必要だがこの本を買うことは大変だし全部読むことはできない、これがもし本でなくインタ-ネットでデ-タ-ベ-ス化したら読まれる割合は大きくなる。誰かがキ−ワ−ドで探してくるからだ。本に出ていてもも高いし読まないのである。郷土誌関係は政府とかで著作権などを買いデ-タ-ベ-ス化されると便利なのだ。明治大正の小説から昔の風物をよむで書いたように読書の仕方がインタ-ネットでは違ってきているのだ。キ−ワ−ドから頼ってよむなど今までなかったのだ。自分は小説の内容よりも風物に興味があったからあういう読み方をしたのである。


2004-1月23日 ビデオの整理にてごずる

今回富士通の店から直接買ったパソコンはマルチドライブだったし中に入っていたのは松下製のDVD-RAMじある。ソフトもそうである。しかし松下のDVD-RAMで記録したものをパソコンで呼び出せないのが多い。これは何回もやったから間違いがない、全部ではないが呼び出せないものがかなりある。前もビデオカ-ドをパソコンに入れてビデオの編集をやろうとしてパソコンが壊れた。このビデオ編集は実際は大変な負担をパソコンにかけるのだ。だから多少ビデオに関してはできなくてもあきらめている。ビデオ編集ならやはりソニ-の専用のものがいいかもしれない、なんかうまくいかない、これもソフトを使いこなすのが大変だし、整理すること自体大変だった。部分を切り取りするのだが時間がかかるのだ。いやこれは大変である。ビデオは記録として最初面白いから旅でとったがなんか見せるものを作るのはむずかしい。写りも悪いし静止画でいいのを切り出してスライドショ-にすれば多少わずかでも見せるものができる。ビデオになると実にむずかしい。時間が長いのと無駄が多すぎるのだ。やはりもっと手際よく使えのでないとだめだ。これでも全然覚えていなものがあった。私は10年前くらいからビデオカメラを買った。そしてとりためたのがあった。でもビデオの編集はむずかしすぎる。整理するのが精一杯である。せっかくとったものだからなんとか利用はしたい、できたらホ-ムペ-ジにアップしたいがビデオとなるとメモリ-の関係で大変である。記録するためにファイルが違ってくのもめんどうである。おそらく他のパソコンでもマルチドライブと言ってもうまくいっていな人が多いかもしれなん、なぜなら同じ松下製でもできないからだ。相性が悪いということはないからだ。パソコンでビデオ編集はまだ大変なものなのだ。

2004-1月23日 日本の色合いの文化は世界に独自のものだ→時事問題13へ

「もし我々が我々独自の物理学を有し化学を有していたならば、それに基づく技術や工業も自ら別様の発展を遂げ、日用百般の機械でも、薬品でも、工芸品でももっと我々の国民性に合致するようなものを生まれていなかっただろうか」陰翳礼賛(谷崎潤一郎)

これは現代の文明化した日本に対するかなりの重い予言だった。日本という国が全く日本でないような国になっていることこれは科学というものが日本の国に適合したものとして作られなかったということを示唆している。もちろん科学は国の文化に関係なく適用されるものだから世界はみんな同じ灰色のコンクリ-トのビルになるのだといわれればそうなのかとなる。しかし今切実に何かが失われているものに気づいた。私も俳句とか短歌とか作ってきたが日本に日本的なものがあらゆる面で失われたという喪失感である。そして江戸時代から明治とあった日本的なものがある意味で救いとまで思えるようになった。そこには癒しがあったのだ。和風の世界に癒しがある。国会に和服を着て登院したがあれも形だけでも日本的になるからいい、和服を着るだけでやはり日本人的になる。文化とはそういうものである。和紙のくすんだような色合いとか浅葱桜というその色も独特なのである。これを自分も和風の素材で発見して壁紙に使った。このなんともいえぬ明るい緑ではない浅葱色というものに落ち着きを見いだしたのだ。日本人の好む色はハデなものではない、わび、さびの地味なくすんだような落ち着いた色である。これは天気と関係あるかもしれない、砂漠や南国のようにからっとは晴れないからだ。強烈な原色の色を日本人は好まない、韓国からしてチマチョゴリにして原色である。大陸はたいがい原色である。南国もそうである。花自体が強烈な太陽のもとで原色なのである。日本人の色、模様は違う、これは世界的に見て独特である。日本人だけが好む色がある。浮世絵にしてもそうである。あれをよく見て研究する必要がある。そこに日本人に回帰する文化が残されている。私自身芸術の創作者であってもそういう日本的なものを本当に知りたいとかそこに癒しがありそこに実は新しい文化を再生(ルネサンス)させるものがあるということは強く思っていなかった。ルネサンスというとヨ-ロッパのルネサンスを考えていたのだ。

日本人の癒しの色とかかつて日本にあったもの、そうしたものが街から消えたとしても何かそういうものを街に再現されればそれは非常に落ち着いた、日本的風景の中で安らぐことになる。それには今のような自動車社会とかでも多少は変える必要がある。日本的歴史的風景にマッチするような工業、科学、機械が必要とも言えるのだ。これからはそういうものを作る必要があるのだ。そうなればかえって日本は欧米のまねだけではない、日本独自の科学の応用をした社会として世界から注目されるのではないか、もちろんこれは科学にはからきしだめだからなんともいえない、でもそういう日本的なものの回帰がかえって今やそれは新鮮であり癒しであり創造にもなってゆく。だから日本的なものの再現というとき何を再現するのかとなるが日本的なもの本来日本にあったもの日本人が作ったもの日本の独特な色合いの再発見とかが必要なのだ。これは確かにパソコンで和風の素材として復活している。これをもっと農家でも街でも活用することが必要である。今や日本人は物だけには満足しない、それに対する付加価値を望んでいる。それがデザインとか日本的色合いとかそうした回りに日常的にあったものが実は貴重なものだったのだ。益子焼がただ平凡な庶民が作ったものであったがそれを芸術作品として再発見した陶芸家のようにである。日本には世界にはない独特な色の文化をもっていたことは間違いないのだ。これは非常に貴重なことである。染め物でも漆でも陶芸でもそうなのである。相馬焼きのひび割れた緑色でもそうである。これも独特の緑なのだ。緑といっても何十種類もの緑があるのだ。色の不思議がここにある。色は本当に神秘的なものなのだ。それは明らかに精神に作用する不思議なものである。この日本的色合いの探求が必要である。



2004-1月22日 何を判断の基準に


まずいね。こんな「爆弾」をかかえて国会議員になろうとしていた
とは・・。必ずばれる。山拓を倒したヒーローだからやたらと
めだってしまう。いわば正義の味方。経歴は必ず詳細に調べられてしまう。
自殺行為だ。県議レベルならば別にどうということもなかったわけだ。

古賀は格好をつける癖があったわけだ。しかし古賀はそれなりの政治家になれ
る玉だったとは思う。成長次第だがもしかすると民主党の党首にまでなった
かもしれない。無能ではないことはわかっている。

しかし実に残念だが、こうなった以上もはやもちこたえらないだろう。

選挙みたいに短い時間で、接触のない人を判断しな
ければならない時、
学歴や職歴は大きく人の判断に影響する。
学歴で入れたのではないという者も
候補者がどんな人か、そのイメージに学歴が全く影響していないことはないだろう。
アメリカ大卒、爽やかな優勝経験あるテニスプレイヤーというイメージは
票とりに大きく貢献したはずだ。ハロー効果はけっこう馬鹿にできないだろう。
そこを恣意的に歪めて当選するのはありだとなったら、えらいことになる。



選挙に出る人物がいかなる人であるかはわかりえようがない、普通確かに経歴からしか判断できない、あとはテレビばかり見ているような人はテニスのプロか、アメリカの大学に留学か、かっこういいなで決めてしまうのだろう。これはあまりに対照的な候補者だった、一方は婦人にとっては汚らわしいやつだ、エロ爺だとか余りにも対照的な候補者だったから民主党の候補者が勝った。実際本当に選挙でその人物などわからない、自分の区から出た若い候補者についてもまるっきりわからなかったが民主党ということで入れたのだ。2ちゃんねるの議論でもわからない、確かに一部身近にいる人の発言があったがこれも返答がないからくわしいことはわからない、そもそも2ちゃんねるの欠点は面白がる、他人の過ちや失墜するのを面白がるという悪魔の掲示板でもある。ただ誰でも真実を知りたいと思っているし自分の場合、あることに関してどう思うのか個々の反応が知りたいのだ。マスコミの反応だけではフィルタ-がかかるから真実が見えないからだ。個々人がどういう立場でそうした意見を持つようになるのか、反感を持つようになるのかなどが知りたいのである。個々人の反応がインタ-ネットでは聞けるから今までの情報ではない世界が開けているのだ。ただ情報の中身が軽薄でありヤジになっている。もっと真面目に深く情報の真実を探求する場があればいいのだがあれだけのニュ-スがでているのだから地方新聞しかとっていないものにとってはさっと一覧的に見る効用はあるが深いところの議論や情報はわからないのがものたりないのだ。



2004-1月21日 むずかしい自立、民主の道

イスラムはやはり欧米社会からみると近代化されていない、それが政治的混乱を生み出している。イラクではスニン派とシ-ア派がいる。シ-ア派が60パ-セントもいる。そのシ-ア派が選挙で有利だから選挙で決めるべきだとなる。するとどうなるか、シ-ア派が実権を握り権力はシ-ア派のものになる。そしてシ-ア派はイラン寄りだからイランよりの政策になる。なぜスニン派のフセインがあんな圧政になったのかというと少数派だったからだ。それとフセインを前はアメリカが支持していたのだ。シ-ア派はイランだったからだ。イラクの混乱は政教分離していなことなのだ。スニン派とシ-ア派という二大勢力は宗教団体である。政教分離していないということはシ-ア派が実権を握ればシ-ア派の人が優先的に実益を得ることになる。イスラムでは宗教と実益、権力が結びついている。宗教は欧米では心の内面の問題に限定したがイスラムではそうした改革はなく政治と宗教は一体なのだ。だから民主主義はありえない、アイルランドでもカトリックとプロテスタントが争った。それもアイルランドのもともとの住民はカトリックでありイングランドはプロテスタントだから両者の宗教争いというより権力争いになった。就職がプロテヒタントに有利にされるとか不満になった。イラクでもそうなのだ。就職などでシ-ア派が選挙で勝つのはわかっているから有利になる。少数派のスニン派は不満になり争いになる。宗教に関係なくイラクが選挙で国の政策を決めるのならこうはならない、選挙では創価が必ず公明党に入れるようにシ-ア派は百パ-セントシ-ア派に入れるのだ。シ-ア派でもシ-ア派でない候補に入れれば別だが宗教ではそういうことはない、信仰=政治であり政治は権力と実益と結びつくから権力争いになる。宗教の争いはどっちも妥協しないからフセインのように独裁になるのだ。これはイラクのことではない、日本だって創価は明らかにそうした団体である。権力と実益の政治と一体化したものでありだから反権力となる野党の政治団体から攻撃される。それは別に宗教批判ではないが宗教を日蓮さまを批判するやつは地獄に落ちると仏敵だ、仏罰だとなってしまう。

そういう団体と一体化している自民党はそうした危険をかかえこんでいる。やはりイスラム社会も政教分離が必要でありそれが近代化であり王族支配からなどの脱却が必要なのだ。アメリカにテロをする不満はわかるがまず自分の国の内部の問題が解決していないのだ。中国はやはり内部で自分の国で全部ではないにしろ改革したからあそこまで経済成長できたのである。イスラム社会には政教分離していないことが一番の問題なのだ。ただわからないのは同じイスラム教なのにスニン派とかシ-ア派とか憎み合うのかということである。これも部族同士の争いとかが根底にあり必ずしも宗教だけではない、根っこに人間が争うときは権力が実益が関係している。いづれにしろ政教分離していないことは民主化しようとしたって選挙自体、選挙にならないのだ。すでにやるまえに票決しているからだ。では政教分離しろといったってそれもできない、外部から民主化しようとしても内部からできなかったら民主化はできない、アフリカであれどこであれ遅れた国が民主化できないのは内部からできる力がないからである。日本の場合は内部から欧米化したから民主化できたのだ。人間個人でも外部から確かに励ますことはできる、ここを飛んで向こうの岸に行けとは言えるが実際飛ぶのはその本人でありその本人が勇気を持って飛ばない限り飛ぶことはできない、本人が勇気をだして飛んでこそ本当の力がその人についたことになる。人生もそうなのだ。他者が励ますことはできても本人が飛ばない限りどうにもならない、他人に励まされても飛ぶのはその人個人である。

創価をやめたいとか宗教団体を脱出することはものすごくむずかしくなる。カルトからの脱出で苦しんでいる人を見ればわかる。地獄に落ちるとかなんとかかんとかこうした洗脳からなかなか脱しきれなくなる。だから別な宗教団体に入り安住し同じ奴隷となってしまうのである。
人は安易に他人に頼り団体に頼りすぎるのだ。もちろん自分もその弱い一人だから頼ることは悪いことではない、何かに頼らなければ生きていけない、しかし人生を決断したりその方向を決めるのは他人ではない、団体でもない、その個人が決断する他ない、そこに神の導きがある。神が導くとしてもその本人が決断しない限り導くことはない、神もなんでもしてくれるわけではない、人間個人の意志とか決断があってそれに神の導きが加わるのである。個人にしても国にしても外からいくらうながしても内部から改革できなかったら自立も民主化もできないのだ。だからイラクの民主化の道は厳しい。そういう素地ができていないからだ。


2004-1月18日 韓国分断の悲劇(シュリという韓国映画を見て)

今日の映画のシュリというのはなかなか感動的だった。普通スパイ映画だとこんなストリ-ざらにあるけどただ娯楽番組として見ている。この映画もストリ-はそうなのだが切実な現実を背景としているからその切実な分断の悲劇がこのドラマにもそのまま現実のように見てしまう。
「北では飢えて死ぬやつがいるというのに南ではハンバ-グだなんだ食い放題で育った、そんなやつらと俺らは違う、俺らが朝鮮を統一するんだ」
こうしたセリフって作られたもんじゃない、ドラマのことじゃない、今の北朝鮮そのままなんだよ、韓国はこうした北朝鮮をかかえている現実は大変である。恋人同士がスバイで殺し合いしなきゃならないというのがまさに分断の悲劇だった。これが日本と関係ないかというとあったのだ。朝鮮戦争のとき日本は特需でもうけた。日本を基地としてアメリカは日本から武器を運び日本に物を作らせた。それで日本経済は立ち直った。子供の頃鉄くず拾いしていた。これを拾って売っていた。鉄くずがなぜ必要だったか、戦争のために作る鉄が不足していたんだ、なんらかで日本は鉄が不足した。それは戦争のために必要な鉄製品をつくるためだった。ベトナム戦争のときも日本は経済的には得した。戦争には参加しなかったから。今回イラクに派兵されるのはついに日本にも悲劇の番が回ってきたのか。自衛隊員が死ねばそうなる。切実な悲劇はでもなぜ感動的なのか、そこにやはり恋人同士とか肉親の愛とかが平和で当たり前のことが無惨に引きさかれる。その悲劇を通じてそうした当たり前のことができないこと、それが痛切に意識されて涙する。またそんな悲劇があればこそ平和の意味も大きくなる。朝鮮半島はそうした悲劇の舞台だった。日本の特攻隊もその悲劇の一つだった。その悲劇が故に感動的になっているのだ。朝鮮と日本は一番の隣人であり身近なことは確かである。




2004-1月17日 集団組織の意向が本当の権力だ


集団化組織化するとそれは個々人の意志と別なもとなる。例えばなぜ池田大作が日頃平和の権化のように平和だ平和だと運動していたのにイラクの自衛隊派遣に対して一言も言わない、めずらしいことに内部から100人くらい本部に抗議があった。これはめずらしいことである。内部の不満が表にでることはありえないことだったから。池田大作がなぜ何も言えないのか、沈黙しているのか?池田の一言ですべては決まる組織ではないか?つまり団体化組織化したところでは実はそのトップに立つものはその個人の意志より団体組織の意向の方が強くなる。池田大作が力を権力をもっていると見えたが実際の権力は集団組織の意向にある。小泉首相にしたって「私個人では自衛隊は派遣したくない・・・」と思っているかもしれない、戦争のときだって天皇は「私は戦争などしたくなかった、戦争には反対だった、私は神などではない・・・」こういうふうに個人的には思っていたのかもしれない、ブッシュにしたってイラクと戦争したくなかったかもしれない、個人的にそう思っても背後の団体組織の意向によって決められる。それはいろいろな圧力団体かもしれない、個人的に私はこう思うからこうすべきだとは団体組織の長は言えない、そう言ってもだめだとなる。通らないのだ。会社だって利益優先になるから会社全体の利益に反することはできないとなる。それも組織集団の意向で決まる。だから池田大作でも小泉首相でも天皇でも会社の社長でもインタ-ネットの日記のような私信を書けない、それは集団組織を代表しているからだ。

「私は自衛隊派遣は反対ですが、いろいろ圧力がありましてね・・・」そんなこと書けない、団体化組織化したところはそこには良心は存在させられなくなる。マスコミなんかも本当のこと真実を追及したいのですかいろいろ組織団体の圧力があるし経営にひびきますからできませんよとなる。現実週間現代に創価の機関紙の潮の宣伝をしているのもわからなくなった。創価を批判していたのに、おそらく金の問題でそうなるのだろう。これまでの情報環境はこうした組織団体の意向によって決められていた。テレビは影響力あるからどこかの組織団体からクレ-ムがつくと何も言えなくなる。それで差別用語の狭苦しい規制ができた。そうした団体に気をつかい何も言えなくなる。一方インタ-ネットはそうした規制がないから個人的にも金がかからないから言いたいことが言える。個人的にも言える。だから意外とそうした組織団体に従属していない個人の意見の方が真実を言っているのだ。インタ-ネットはまだまだ未明のメデアだが驚いたのは中国の共産党の幹部の不正をインタ-ネットで告発してそれが騒動になっている。西安での日本人学生の攻撃もインタ-ネットで最初に告発された。インタ-ネットが中国のような所でこんな影響力もつのはそもそも自由な報道機関が中国にはないからだ。だからかえってインタ-ネットはその捌け口となったのかもしれない、インタ-ネットが個人的にも発言できるということ団体組織と関係なく発言できることはすごいことなのだ。だからインタ-ネットの発言の方に真実がある。インタ-ネットって誰かわからないやつが勝手に言ってるだけだとマスコミで言っているがその逆の場合もあるのだ。


2004-1月14日 せかされる文明の時間

長煙管にキザミ煙草をつめこんでタバコをスパスパ吸っているのはかなり時間がかかる。今でもアラブなどのイスラム圏の水タバコと似ている。なんか昔の時間の流れにひたる。今タバコを吸うにも道端とか歩きタバコとかせかせかして追われるように吸っている。時間の流れが違っていたのだ。携帯電話でもそうである。何かせかされて文字を売っている。一つのものはやはりそれなりにその時代を如実に示すものなのだ。のんきな父さんなどという漫画もあったが人間自体のんびりしていたのだ。貧乏なわりにそうなのである。戦後十年くらいはそうだった。それから高度成長期に入り時間の流れは新幹線のようにスピ-ドアップしたのだ。今でも田舎と都会の時間の流れは違う。また辺鄙な所、離島なんかの時間の流れはかなり遅く感じるだろう。現代は常に何かに追われている。ニュ-スに追われ事件に追われ自動車に追われ電車に追われ流行に追われこれを買いあれを買いとせかされる。人と人がゆっくりあって話すこともない、会ったらすぐ別れる、そして携帯電話でつながる、ネットで常時つながる。テンポが全然違っている。おそらくこうした文明の時間からは田舎でも多少は緩和されても一様になっている。かなり文明から離れた場所に行かないとこうしてせかされる時間から解放されることはない、団体旅行のいやなのはゆっくり見ていられない、次から次とせかされるからゆっくり見れないのだ。ゆっくりその土地の雰囲気などを味わいる時間がないのだ。その分旅の印象は薄いものになるのだ。

そもそもなぜこんなにせかされるのか、すべてが金で動かされているからである。ゆっくり海外旅行するにはそれだけ金がかかる。金を節約して見るには早くしなければならない、勤めている人は時間がないから早くせねばならない、また世界が広くなると知識の量が増えると仕事の種類が増えて多様になると時間も短くなる。情報が多いとまたその多くの情報を消化するのに時間がかかるから時間に追われることになる。いろいろなものが欲しくなれば時間が短くなる。なぜならば世界中で電気製品が欲しい、自動車欲しいとなるとアフリカの奥地の部族であれ忙しくなる。コ-ヒ-やバナナをそれをうまいのを多く作って売らねばならなくなる。すると自給自足でやっている時間ではない、絶えず売るために今までの何倍も働かねばならぬ。こうして世界中が文明世界では時間お追われるようになる。ピラミッドを建てた古代文明やその文明の時間は今と全然違う。非常に遅かった。そんなに外国から買ったり欲しいものも限られていたから自給自足的だから時間にせかされて生産することはなかった。今や時間が勝負なのだ。日本の半導体メ-カ-も注文を勝ち取るために時間を早めてその受注に答えようとして必死だった。文明は時間まで奪ったのだ。

だから文明を離れた中で初めて時間が正常な感覚にもどる。何にも追われない自然の中の時間の流れ、リズムを感じるのだ。人間は時間まで奪われ酷使されている。小刻みな時間に刻まれている。そして消耗される。時間によって大きくなるのではなく刻まれた時間に酷使され消耗される。だから過去の偉大な遺産であるピラミッドであれ大聖堂のようなものは作れない、時間の中でさらに重みを増して成長しているようなものは作れない、一時的なものそれもその時間はさらに短くなりつぎつきに物も変わるのだ。おそらく子供を親が虐待するのは育てるのがめんどうだから早く一人前の大人になれとなる。数年で大人になれとなる。長い目で手をかけることや見守ることができないのだ。親自体が時間に追われているからそうなる。なんでもそうして人間まで即席にインスタントに仕上げようとするときロクな人間は育たない、文明というのは今や世界共通の中にありグロ−バリ-ゼ-ション化されているからどこも時間に追われているのだ。文明の時間は工業の時間、商業の時間であり人間がこれまで基本にしてきた自然の中の農業とか牧畜とは余りにも違いすぎるのだ。農業は三代くらい継続されてできるものだということは自然が相手だからだ。森林の木材にしても50年かかるとしたら次の代の人がその木を利用することになる。長い時間が必要だから長い目でみる時間の感覚が生活ができあがる。継続される時間の中で技術などが伝えられてゆく。自然で学んだ知恵も伝えられてゆく。ともかくあまりに様々な欲望を持つと人間の精神的平衡が失われる。常にいらいらして落ち着かなくなるのだ。だから昔の今でも部族の人の顔だちなどと文明人とは全然違う。人間そのものが違っているのだ。欲が少ないから比較的なごやかな平静な顔だちになる。一方いらいらして常に落ち着かないのが現代人なのだ。



2004-1月13日 他人まかせの人生に福はない

今年一番の福をとるために走った人に不正があったとか言っているが不正までして福をとりたいという熱意はたいしたもんだ。福はみんな棚からぼた餅のように授かると思っているが福はそんなふうに授からない、福はあるとき積極的に取りにいかないと福はもらえない、人生だって苦闘したり冒険したり悩んだりして間違いながらも自分なりに判断してその人の人生がある。ところが棚からぼた餅のように他人まかせにしてしまうのが宗教団体とかに安易に入ってしまう人である。そうした組織に入ると悩みが解決してしまうよう思う人がいるがこれも実は他人まかせなのである。そうした組織に入ったらもう自主性はなくなるのだからその人の独特の人生は奪われる。自分で考えることもないしただ他人の指示をあおぐだけの存在となる。楽といえば楽である。創価でもそうだがこういう組織に入ってやめたい人は多いがこれまたやめるとき他人に頼るのだ。たいがい別な宗教団体に入る人が多い、結局自分で考え判断しているのではない、みんな他人まかせなのである。棚からぼた餅のように福は授からない、人生は他人によって作られるのではなく自分によって作るものである。そもそもそこに人生の意味があるのだ。そうでないなら人間個人として生きたかいはない。生きる意味もなかったこととなる。他人まかせ組織まかせの人生に福はない。必死に福をとるために走らねばならない、そこに福が待っている。


2004-1月11日 織物文様の多様性

インタ-ネットは検索が生命である。検索に通じない限りうまく利用できないようになっている。今回の時事問題深層の13で書いた「虞美人草から地方の産物を読む」ではそれがうまくできた。そこには今では利用されていないものがその当時は日常生活で利用されていたのだ。これがいかに多様だったかわかる、

沖縄のある地方では600種類くらいの文様を作っていたという、これはすごいことであり芸術的なことである。その土地の一軒の家でしか着ない絣も作っていたかもしれない、その土地土地で織物はあり、その文様はみんな違う、これはインドネシアでこの絣が始まったらしいが南米でも同じである。イスラム社会の絨毯もそうである。その部族ごとに違うのだ。これは別に売るつもりではなく土地の人が思いをこめて作ったものである。売る前に自分たちのものとして作ったから多様だったのだ。この多様な世界が大量規格化生産で失ったのである。

江戸時代であれそこは職業によって着るものその文様がかなり違っていた。それは半纏を見ればわかる。浅葱桜というのも半纏の文様にありみんな組によって半纏の文様が違っていたのだ。今の消防隊や警察のように一様化されていない、それを見たら確かに江戸っ子のイキであるきか今でならカッコイイとなる。現代が一見多様だと思っているが実際は現代は着るものからして灰色のス-ツを着たサラリ-マンのように規格化された世界になっている。江戸時代の色はなかなかわからないがかなり豊かな色彩があったような気がする。江戸の繁華街を歩いたら様々な文様を着た人たちが歩いていたに違いない、この文様の多様化はホ-ムペ-ジで使う壁紙文化で復活している。非常に多様な壁紙生産されている。これは自分も作ったからパソコンで誰でも作れるのだ。

グロ−バリ-ゼ-ションは世界を一様化した。しかし一方で世界はもともと多様でありその多様性が文化なのだ。今はだから日本ではなく外国に多様性を文化を求めているのだ。その反面日本の地方にも多様な文化があった。それが見直すことが次の時代の課題である。


2004-1月8日 中国のことなど

少年辛苦真に蓼(たで)を食らい
老景清閑蔗(しゃ)を食らう如し
(宋-蘇軾)


この意味は若いときは蓼を食うように辛い日々だったが
老年になって思い出したらそれが蔗(しゃ)のように甘い思い出となったという
蔗(しゃ)というのはサトウキビであり宋の時代から中国ではサトウキビを食っていた。沖縄にかなりあとにサトウキビが伝わった。サトウキビは南米からも大航海時代にヨ-ロッパに伝わった。サトウキビは贅沢なものだった。一部であるが中国は食は古代からそれなりに豊富で贅沢していた。これは自分も若いとき思い出してそう思った。若いときはかってでても苦労しろというのは若いとき苦労がないことは老年になってつまらないものとなる。バブルのように贅沢に踊った時代はふりかえるとかえって虚しくなるだろう。今でも戦友が忘れられずつきあっているのは苦労を生死をともにしたからである。快楽を共にした友はすぐ忘れるし記憶になくなる。
人生の快事は苦難を乗り越えたことや苦労してそれが過ぎ去ったときそれが大きな思い出となる。それぞれにこうした思い出をもっている人は何か大事なものを心に残していることになる。快楽に過ごした日々は何にも残らないのだ。
こうした体験はあとで貴重なものとなる。ちょっとの間であれホ-ムレスであったりして日銭稼ぎしたことがあったがそれを思い出して奇妙だった。

にぎりしむ日銭や都会の寒さかな

この句は今余裕あるから思い出してできたのだ。そのとき明日寝る所も食う金もないというとき詩など書けない、詩は余裕がないと書けない、客観的に自分を見つめないと書けないのだ。若いときの苦労はあとで宝となるが快楽の青春は夢と消える。あとでふりかえって何にも残らないのだ。いづれにしろ人間思うことは昔であれ
国が違っても同じである。人間が年をとり悲哀を感じるのは国とは関係ない、それは同じである。

中国には様々な教訓がある。あれだけの人間がいて歴史があるのだから当然である。

「奇貨置くべし」
とかいうのは実に面白い。奇貨とは変わった奴、一芸のあるもの、今ではなんか個性のある人である。これは大陸的に変わったやつでも何かしら才能のあるやつは何か役立つからとっておけ、養っておけということである。日本では変わった奴は敬遠される。みんな同じでないとだめなのだ。アメリカでも中国でも才能あるものは外国人でも登用して育てる。だから人材が集まり世界をリ-ドできる。日本にはそれができないからやはり中国に追い抜かれるというのもやむをえないのかも、日本にはそれだけの国の大きさそもそも欠けているのだからしょうがない、中国のことが今かえってわからない、中国が情報を規制しているせいもある。

5、6年前に行ったときはひどいめにあった。盲流ということがあった。人がまるで大河の濁流のように汽車で移動していたのだ。あれだけの人間がいるのだからときどき民族移動のようなことがおこる。今でも海岸地帯に労働力がまるで尽きないように人が流れてくるのだ。売春する女性がホテルに500人も来たというのもそうした貧しい地帯から流れてくるものがいくらでもいるからだ。その人のエネルギ-も凄まじいものなのだ。だから日本自体もそうしたエネルギ-に巻き込まれてゆく、それが中国なのだ。中国で動乱が起きると恐ろしい結果になるのはあれだけの人が盲流となり移動したりするとそこに政変が起きて変わってしまうからだろう。今の政権をもっている階級もそういう盲流に押し流されるということを恐れる。まさに盲であり目に見えぬどこに流れるかもわからない恐ろしさである。文化大革命の紅衛兵もそうだった。そこに留めることのできない流れが大河のよう渦巻き中国全土を席巻したのだ。そのスケ-ルは日本では想像できないものだろう。大陸ではゲルマン民族の移動とかいろんな民族自体の移動がおきる。それは戦争にもなる。陸続きだから民族の移動によって世界が変えられてしまうのだ。陸続きだということはそういう巨大な変化にさらされるのだ。中央アジアが未だに動乱地域なのはそのためである。


2004-1月5日学問の方法(インタ-ネットのリンク学習)linkaged study for internet

学問は学問の方法が大事なのだ。どういう方法で勉強するか、研究するかが意外と大事である。これが今まで欠けていた。英語なんか特にそうである。英語的環境作りの方が大事なのだ。日常的にパソコン中で英語の字幕つきの英語を読んだり時事英語を原文で読んだりまたはネテブの人のを聞いたりしていれば日常的にしていれば上達する。いまそれができるようになった。だからこれからは英語を学ぶ日常的環境がインタ-ネットでできてくるから確実に上達する。つまり日本人が英語ができないということがインタ-ネットで解消されるかもしれないのだ。

学問も変わる。学問も知的環境が大事なのだ。資料とか本とかがそろっていなければ研究もできない、地方にいたらこれは致命的である。本はそろえるのに限界があったからだ。図書館でも本は少ないし本というのは調べるのに不便なのだ。図書館はいちいち本を書庫からとりだしてもらったりそれも名前を書いたりと不便だから今では行かない、学問には明らかに自宅でやるのが一番いい、インタ-ネットにつながれて自宅の画面で調べられれば一番効率的にできる。なぜならものを書くにしても必ず調べねばならない,それが手元にないとしたら何もできない、大作家が一軒家くらいの書庫をもっていたのがわかる。調べるのにはそれくらい必要なのだ。インタ-ネットの問題はプロの研究などが著作権の関係ででていないことだがそれでもかなりの量になっている。地方の図書館より充実しているのだ。

学問の基本は何か、それは類似なもの、共通項を集めることである。地名でもそうである。類似なものが外国にもありそれを分類すれば一つの地名体系となるのだ。
民話などにしてもそうである。これはインタ-ネットにと多いから、同じものを集めると全国的に集めると一つの体系ができてくる。これは俳句とか短歌にしてもそうだった。類似なものがかなりありこれを集めると一つの世界が浮かび上がってくる。俳句の場合は季語になる。ある季語をテ-マに探すとそれにふさわしいものが必ずまとまって集められる。人間個人の能力には限界があるがやはり地域により個性により違ったものとなっているから面白いのだ。

例としてヨ-ロッパの都市は城壁に囲まれている。これは領主がいた古い街である。ところが不思議なことは王宮というのは市民が生活する城壁の外にあったのだ。つまり王宮ができたのは城壁で囲まれた都市のあとにできたのである。フランスの絶対王政とかベルサイユ宮殿とか有名であるがこれは大砲などの武器の発達で城壁が効力がなくなり地方の封建領主が衰退して王権にまとめられる。王の配下に入り強力な中央集権国家となった。古くからあった市場などがあった城の中や教会や市民の活動の場は城壁内にあり王宮はその外に作られた。日本では封建領主が支配していたが王は天皇になるが天皇は何の実権もなかった。ヨ-ロッパのように王宮として強大な権力を作ることができなかった。だからヨ-ロッパではこの絶対的な中央集権の権力の王宮に向かって市民が反乱を起こしたのがフランス革命だったのだ。フランスのパリなどでも石作りの壮大な王宮があるがあれだけの権力をもっていたのだからそれを倒すことが革命となった。またルタ-の宗教革命はロ-マカトリックに対してなされたものだがこれも教会は信仰だけの場所ではない、行政組織だったのだ。市民を支配する市役所の役目を果たしていた。政治的な場だったのである。そしてカトリックの僧は世俗化してかなりの贅沢をしてしいたから反発された。権力をもっていたからその権力に反発する、権力闘争が起きたのだ。宗教でも権力を持てば必ずそれに反発する集団がでてきて闘争が起きるのだ。それは宗教とは関係ない、常に人間の歴史にあった権力闘争だったのだ。




地図に見る地域の形成史

http://koho.osaka-cu.ac.jp/vuniv1997.html


2004-1月1日 待ったなしの人生

元旦や逃げて勝ちたる将棋かな

元旦も様変わりだ。通信の将棋はやっても負けるからやめた。一回ミスすると必ず負ける。よく盤が見えないなどやりずらいのだ。時間の制限もある。それでソフトで将棋するとかえって面白い。ソフトは今は段クラスだから強い。なぜ面白いかというと待った待ったでぎりぎりの勝負になるからだ。勝つまで待ったでやれるからだ。これがかえって将棋の奥深さがわかる。将棋はどうして勝てるのか負けるのかわからない、守っても勝てない攻めても勝てない、守ること、逃げることも勝ちの大きな原因となる。日本の将棋は最後まで駒が生きるから伯仲する。だから待ったしてソフトでやっても面白いのだ。そして将棋は強いのとやらないと面白くない。
ソフトはかなり強いから将棋を覚える。でも実践でやると一回のミスと時間制限で負ける。一回勝負というのはつらい。現実の勝負には待ったはない、戦争中、「待った」といっても銃で撃たれる。一回きりの勝負だから厳しい。人生も実際は待ったはない、一回きりの勝負だ。失敗したらそれきりで終わる人が多いのだ。人生は何もわからないのに厳しい現実の場にたたされる。今回ゆくイラクに行く自衛隊もそうである。訓練と実践は全然違う。そこでは予期せぬ思いがけぬことがおきる。そして死ぬこともある。人生はたいした訓練もされず現場にたたされることなのだ。どんな職業でもそうである。

そして人生は短い、特に青春は短い、そこで懸命に生きないと人生はとりかえしつかなくなる。特に現代は複雑でありその複雑な社会に放り出されるからかえって江戸時代より厳しい。知識も膨大なものでありそれを理解することも不可能である。だから医者が医療ミスするのもわかる。つまり現場に放り出されてメスをふるうのだから怖い、それを要求される。実際最初はみんな初めてやるのだ。どこの世界でもそうである。熟練になるのは時間がかかる、その前におぼつかない手でメスをとる医者がいるから医療ミスはなくならないしそれを一方的に責めることも酷なのである。だから江戸時代のように職業は世襲制の方が安全とも言える。職業自体新しく身につけること自体大変なことであり親のすることを見て技を身につけることは理にかなったことだったのだ。人生に待ったはない、待ったと言ってもその前に撃たれる、とにかくとっさに機転をきかし逃げる他ない、訓練も実際は役立たない、これがこの世の現実なのだ。自分も死に目に二三回はあっている。これは50すぎたらそんなこと誰でも経験している。訓練も予行演習もなく現実に当てられるの人生だ。待ったはできないのが人生だ。



12月29日 個の語りの時代へ

今年も終わりになる。このところ時事問題でもずいぶん我ながら書いた。書くことは何かを明確にする、書くことによりさらに書き加えることがでてきて書くことは学問でも芸術でも思想でも宗教でも基になることである。書きながら他者のものを引用したりすると他者も生きてくる。リンクもそうである。書くということは思想を展開するのに最もいい方法である。読書して自ら考え書くことである。読書ばかりしていると他人の思想のままで自分なりに受容したものとはならない、だから書くことが文章にすることが必要なのだ。インタ-ネットは気楽に書けるからみんな日記を書いている。しかしこれも二三年でやめている人が多い。おそらく自分のように夢中で書いていたのだがつづかなくなるのが多い。つまり書くことは文章にして発表する人は今までは極端に限られていた。本を作ったとしても本屋にはおけないし出版社から出せる人は少ない、もうける本しか出版社では出さないとか出版界とか書店というのは非常に狭い範囲のものしか相手にしていない、そこから除外された人はかなりいる。だから特に写真などは出版すると高価になるから無数にでているのだ。出版界やマスコミは閉鎖的な独占団体だったのである。まず本を全国の書店に配ること自体大変なことだった。だからベストセラ-のようなものを全国的に配るのが良かったのだ。いづれにしろ情報環境はインタ-ネットなどで劇的に変わる。これからは個々人の語りの世界になってゆく、それはすごく多様な世界であ

12月26日 やまぬ災い

パソコンをxpに移すのは結構大変だ。ドライバ-はインタ-ネットにつないで最新のをダウンロ−ドできたから周辺機器はみんな使える。インタ-ネットはこういう点で便利になった。ある会社では不具合が見つかって修正したばかりだとでていた。パソコンの世界は変わりやすいから常にハ−ド類でも会社と直通していないと困るのだ。今は主な会社はみんな直通だからサポ−トしているからパソコンが変わっても使える。使えなかったのはソフトが二三あった。osの違いでできないのだ。ソフトはなれたものがいいのだ。操作がわかりにくいしかえって手間暇かかる。これはまた買う他ないだろう。自分は旅行したビデオテ−プが20巻くらいある。これを今度のパソコンで整理する。かなりこれは整理しやすくなった。ビデオの編集も面白い。編集することは想像することでもある。映像でもそうなのだ。自分は絵の才能はないが写真とかパソコンで合成するとやはりそれは創造的作品になっているのだ。これはコピ−だから著作権侵害だからやめろという人がいるが明らかにこれも創造であり新しい分野の芸術なのだ。だからあまり著作権うんぬんを言うとこの世界では活かされないのだ。とにかくパソコンは新しいのに移るといろいろ大変である。細かいところも変わっているからまた使いやすくするのが大変なのだ。ただ今や田舎でも自宅にいてもインタ-ネットは仕事ができる。ブロ−ドバンドでニュ−スの英語を解説するとか有料のやるようになったがあれはかなり英語の学習には効果的である。英語はそもそも勉強の仕方によってかなりの差がつく、英語には英語的環境が必要なのだ。その環境がインタ-ネットでは備えられるから有利なのだ。

クリスマスも終わった、今年はケ−キも食っていない、なんか不景気でホテルも空いているとかクリスマス商戦とかキリストの信仰とはなんの関係もない、馬鹿騒ぎもいいかげんにすべきだ。ある意味で宗教の冒涜であった。静かに質素に主の誕生を祝うべきだろう。


やまぬ災い

この世に災いの日はやまじ
聖なる主の生まれし日
争いはやまじ平和は来たらじ
嫁と姑のように争いはやまじ
国と国は互いに信用せず
武器に兵を備え敵対する
悪人を災いの日のために作りしと
しかし罪なき子供も死ぬはいかに
火に水に地震に病気に事故に災いはやまじ
罪なき無辜の民も災いに巻き込まれ死ぬ
この静かなる聖夜、災いなきを祈る
石のごとく今日は安らかなれ
平和なる柔和なる人よ
そこに主を迎えよ
それぞれが神の宮なるを知るべし
物にあらじ建物にあらじ
神の宮はその人なり
人に神は宿るなり
人改まざれば神は来たらじ
その憎しみの武器をおき
しばし神を想いその手を安めよ
山のごとく静かなれ
神の聖なる地を乱すなかれ
聖夜静かに神を想うべし


ともかく災いのないことこれがいいことなのだ。家康が戦乱の世を終わりにしたいということそれが問題があるにしろ300年の平和の時代を作った。それは対外的にも平和だった。中国とも朝鮮とも争うこともなかった。そういう時代が300年も続いたことは一面世界史的にもまれなことである。20世紀は世界的戦乱の時代だった。これからは300年くらいは平和でないとその傷はいやされない、今年のキ−ワ−ドは癒しと多様性である。みんな癒しを求めている、そしてインタ-ネットは多様性である。画一的マスコミの時代、大量生産の時代は終わった。各自多様な価値の追求が21世紀である。そのためには平和が必要なのだ。


12月24日
 
監視カメラ

xpはフアイルの説明がでていたり使いにくい面がある。98の方がこの点はよかった。いろいろ変えることがありソフトも使えないものがでてきたりやはりめんどうだ。パソコンはソフトでも変わるといい面もあるが使いにくくなるのだ。ソフトも5000円くらいすると高い、前は知らないから安いと思っていた。ソフトは結構何度も買うので高くつく。いづれにしろosが変わると使いないものが結構でてくるから苦しい。ファイルも映像関係が一部互換性がなく開けなかった。テキスト関係は問題ないみたいだ。

テレビで監視カメラが問題になった。確かに山の中までそれもめったに人の通らない所まで監視カメラがあった。何のためかと思ったら不法投棄が多くそれを監視するためだった。なぜこんなに監視カメラが必要なのか、世の中隣は何をする人ぞになってしまった。田舎ですら地域のつながりがうすいのだ。よそ者が侵入するには最適の条件になっている。
昔はよそ者は警戒されていた。村では入り口に大きな藁人形などを置き侵入を拒んだ。疱瘡など病気をもってくることなど恐れたのだ。世界が自由になるのはいいのだが病原菌や犯罪者も自由に出入りする。人間の世界はどうしてもいい面には悪い面がともなう。島で自分が木陰に休んでいただけで怪しまれて警察に通報されたのは一面、人間が監視カメラになっていたのだ。島では人間がよそ者を監視しているから監視カメラになっているから安全である。地域社会を中心に生活していた時代はよそから来るものは入りづらいし犯罪を起こしにくい、今は外国人でも平気で入ってくるから自由なのはいいが問題も起きる。

とにかく日本もテロを警戒する時代になった。なんとも物騒な時代である。今年も終わりだが時事問題では今年はかなり書いた。自分はしゃべるのは全くだめだが書くのは好きだった。書くこと時代、文章にすること自体楽しくて書きつづけた。ホ-ムペ-ジは気楽に書けるからいいのである。



12月20日
  
本の中味を一括検索

アメリカで本をテキスト化した全文検索のサ−ビスをしている所がある。一冊の本を買うのではなくまとめてテキスト化してそこからキ−ワ−ドで必要なものを探す、これが前から言っていたようにインターネットにあっているのだ。週刊誌でも雑誌でも、本でも全部読むことはあまりないのだ。必要なものを読みたいのだ。ところがス−パ−でも目玉商品を安くして客をひきつけるように一つの目立つ記事で必要でもない記事も買うことになると情報では高い、必要なものをピックアップして有料で読みたい人がふえているのだ。インターネットの読み方は本の読みかたとは違う、全部はそうならないが一部分の情報を集めて詳しく知りたいという要求があるからそうした検索型一括出版のようなものがでてくる。

俳句にすると「山眠る」というキ−ワ−ドで探すとそれにふさわしいものがでてくるから不思議である。つまり山眠るという季語にふさわしい句を作る人が多様な地域に住んでいるし人がいるからでてくるのである。詩でもそういうことがあった。人間は多様でありそうした多様なものがインターネットでは活かされる。本はパソコンの説明でも一通りするから無駄なものがでてくる。あることについて詳しく知りたいが無駄なものが多すぎてそれだと本は高すぎて買いないし詳しい情報を集められないのだ。だからパソコンに関してある出版社がインターネットでテキスト化してビジュアル化しして一部分を参考にできるシステムを作れば読む人がふえてくる。ただこれもなかなか今までの世界と違うから金のとり方でもむずかしくなるが、将来的にはそういう方向がインターネットでは望まれている。本という一冊にこだわるだけでない、別な情報の取得方法である。

パソコンやインターネットは体験の世界だからこの使い方はまだまだ応用範囲が広いし未知の世界である。xpになったらやはりつかいないものがでてきた。結構慣れるまで時間がかかるかもしれん、どうもパソコンは変わると困るのだが変わらないでいるとまた困る、つまり新しいものに周辺機器も合わせてくるからだ。古いものが使いなくなるのだ。だから金食い虫になっていた。でも新しいものは早いし使いやすくなっている。結構移るまでには時間がかかる。まあ、パソコンにはあまりもはや金をかけたくない、なんかきりがないのだ。今では使いやすく安くなっているがそれでも必ずその他に買うものがあり金がかかる世界なのである。だいたい完成したからこれ以上ハ−ドの面では変わらないだろう。ソフトが問題なのだ。


12月19日 
新しいパソコンへ

新しパソコンはやはり良かった。今使っているパソコンは画面が暗いことと画面が狭いのでみずらい、今度のは明るくて広いから見やすい、全然違ったように見えた。パソコンはやはり新しいものがいいのだ。画面は大きくないと見ずらい、明るさも必要だ。こんな旧式ので一年間もやっていたが新しいのに移ることにした。まだ全部ためししていないがソフトもかなり移行しても使える、ビデオの編集もできる最新式のだが編集はむずかしい。写真一枚だとこって作れるがビデオはむずかしい。でもパソコンの機能もこれ以上は不用である。機能も限界にきた。パソコンはこれ以上ハ−ド面は進歩しないかも、完成した感じだ。ただソフトはまだまだ使いにくいし進化する、そもそもソフトとは限りないものである。

個人がパソコンで絵を描くのもソフトなのだ。ソフトは人間的なものであり創造は無限である。自転車とか自動車が完成してこれ以上なかなか進化できないようにパソコンもある程度完成した。これからはソフトの時代だ。ソフトは各自の創造なのであるから多様でありつきることはない、インターネットの地域の情報の豊富なのには驚く、ちょっと見たが石垣島で日記を書いている人がいた。ここの情報はかなり読めそうだ。ヤドカリが一カ月くらい飲まず食わずにひそんでいたと書いていたが自分も知らずに沖縄から貝を持ってきたらその中にヤドカリがひそんでいて生きていたのだ。驚くべき生命力がある。こうした経験を共有することで知識が広まるのがインターネットである。

新しいのに全部移行するのは時間がかかる。慣れるのも時間がかかる。でもさほど大きな問題はないみたいだから助かった。

12月17日
 孫子の兵法

兵(へい)は拙速(せっそく)を聞(き)くも、いまだ巧(たくみ)の久(ひさ)しきを睹(み)ざるなり。

短期決戦に出て成功した例は聞いても、長期戦で成功した例はしらない

正々の旗(はた)を邀(むか)うることなく、堂々(どうどう)の陣(じん)を撃(う)つことなし。

堂々整然と進軍してくる敵や強大な陣を構えた敵とは戦ってはならない。

(孫子の兵法)

天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如(し)かず。(孟子)

アメリカの計算違いは短期決戦で事を決着しようとしたことである。短期戦では成功しやすいがそのあとのことを考えていなかった。

イラクの失敗は強大な敵を敵ともせず向かっていった。これは日本軍とにている。アメリカの強大さを知らなかったのだ。

もう一つイラクの失敗は地の利が地元であってもフセインを国民を支持していなかったから和がなく乱れてしまった。ベトナムでは地の利と和があり勝ったのだ。どんなに科学兵器の戦いになってもやはり地上戦となると人間的になる。ロバを使ってロケット弾で攻撃したとか、地元が工夫すると強大な敵とも戦える。ただこの格言も時と場合によりすべてにはあてはまらない、信長は強大な敵に急襲で勝ったし格言は数学の定理ではないからだ。イラクの最大の問題は国民に和がないことである。シ−ア、スニン派とか宗派で対立したりフセイン派もまだいて互いに争いば内戦となり混乱して復興できない、日本は常に和がある、統一しやすい国であった。だから天皇のもとに一致団結して復興できたのである。


12月16日
 
インターネット情報学
(キ−ワ−ドから探す詩や俳句)


コンピュタ−の不思議というよりコンピュタ−に入って来た情報の不思議がある。詩に関心があるからキ−ワ−ドで探しているとつまらない詩も多いのだが不思議なのは多くのつまらない詩のなかでも一つくらいキ−ワ−ドに適合した詩がある。100の詩を書いていて一つがいい詩として発見する不思議である。自分では作れないキ−ワ−ドにマッチした詩がある。俳句とか短歌でも詳しく調べればそうなる。これは何を意味しているのか。コンピュタ−が創造して出しているわけではない、人間が創造して出しているのだ。これまでは詩というのは書店に並ぶのは有名な人がわずかに出るだけだった。詩は金にならない、売れないからそうなっている。ところがインターネットでは膨大な詩がでている。つまらない詩も無数にある。しかし不思議なのは一つくらい探した中でいい詩があることなのだ。これまでおそらく詩というのが発表されず埋もれていたのである。

インターネットにはこれまで埋もれていた情報がかなりでている。地域の情報がそうである。自分は日本全国隈なく旅行した、それで困ったのが地域の情報なのだ。現代だけでなくその土地のことが知りたいのだができなかった。それで必ずその土地の本を買ったりしてきた。こうした地域の本も本屋にはおかないし専門書も普通の本屋にはない、それぞれに一つくらいいい詩があることはやはりその人なり個性を出しているのだろう。俳句でも一つくらいは必ずいいのが作れるのだ。そういう一つはなかなか注目されない、だから注目されるのはやはり大作家のものになる。ところが詩でも俳句でもその一つだけでもいいものがあることに気づいた。そのいい詩を一つ一つ取り出してまとめると読めるものとなる。それは自分がいいものと評価するものだから他の人はわからないがこれはいい詩だなと一つくらいは発見する。それらを取り出して並べると編集するとやはり読めるものとなるのだ。そうした一つくらいのいい詩はこれまで埋もれていたのだ。触れられないいい詩や俳句はかなりある。知らなかった詩も多い。

つまり人間は天才でなくても多様な能力がある。個性がある。だから一つくらいいい詩を書く、インターネットは二流とか三流五流とか十流が多いのだけどそれでも一つくらいはいいものを書いている。そういうものをピックアップしてまとめると読めるものになるのだ。個々ばらばらではなかなか読めるものとならない、インターネットで発見されるものは今までと違ったものである。マスコミとか書店ではどうしても「これがベストセラ−だよ、買った、買った」となる。インターネットはそうして宣伝されるものでなくて例えば稀少な砂金を手で水で洗い救い出してわずかな金を集めることににている。それが無駄な作業かとういとそうでもないのだ。それなりの発見はあるのだ。詩でも情報でも読み込む、解読する、深く鑑賞することが必要である。いい詩なら特にそうである。いい詩が作れなくてもそれだけでかなり有益なことである。その作品についての理解が深まり世界が広がるからだ。そして新たな自分の創造につながってゆくのだ。

詩でもそうだか選ばれたものがもっと多数公開してくれば過去のものでも新しい発見がある。インターネットとは絶え間ない知的発見の旅なのだ。本というのは一冊がまず目の前にある。ところがこれは買っても読まないことが多いがキ−ワ−ド検索だと興味がでてきたものを探すからそれに合致したものは読むのである。読み方が違ってものになっているのだ。例えば中国の万里の長城の近くに汚い小さなかれた川があり羊山橋という橋がかかっていた。羊を飼っていてここを羊が渡るからだろう。これについて詩を書こうとしたができなかった。しかしこれにぴったりあった詩がでていた。この人は詩人として知られた人だろう。こういうことが他にもあったのだ。

チグリスユ−フラテスについての詩もそうだし誰かがそのテ−マにふさわしい詩を書いている、俳句でもそういうものがあった。詩にはこういうことがあるのだ。知らない詩が非常に多いのだ。詩の雑誌は今は書店にすらないだろう。そうした少数者のものでもインターネットでは発見されるしそれなりに記録され役に立つものとなる。情報は必ずリンクが必要なのだ。知的活動は一人だけでやるものではない、必ずリンクして一つの知的サ−クル、知的輪を作ろうとしている。知識はそういう拡張してゆく、結びつく、再創造する、・・・そういう性質があるのだ。著作権に関係なくそういう作業したら今までにないものがそこに現出することは確かである。

12月15日
   
外国に亡命できない日本人

フセインがつかまった。やっぱりティクリットという地元にいた。外国に行ってのかとも思ったが受け入れる所がなかったのだろう。というのは反フセイン勢力はnhkでやっていたがサウジでもかなりの数を受け入れている。イランでもシ−ア派を受け入れているしヨルダンに行っているものや、シリアに出たものと・・・アメリカにも相当数いる・・・逆に混乱に乗じてアルカイダなどがアラブ各地から入ってくる。こうした外国に出たり入ったり容易なのが大陸なのだ。特にアラブはつながりがあるからそうなる。これが日本だったらどうなるのか、政治が混乱しても弾圧があっても外国に亡命することはまれである。亡命という文化そのものがないのだ。近くの中国や韓国に亡命するということもない、そこは言葉も文化も違う世界で日本には亡命することができない、日本人は島国だから何があっても島国で死ぬ他ないのだ。そういう歴史的地理的宿命にあることなのだ。だから日本に友がいないというとき歴史的に地理的に島国だからそうなったのだ。

どうして戦国時代に切腹という作法が天守閣で最後に主君が切腹すれば戦いは終わりになるのか?、これは外国に亡命するということができないためでもある。日本は日本で終わるしかないのだ。ヨ−ロッパでは皇室が外国人と結婚するのは当たり前である。日本の皇室にはそういうことがないのだ。日本の文化は島国文化なのだ。日本ではだから村八分は一番怖い制裁なのである。村から出て暮らすということができないのだ。日本人はだから外国で暮らし外国人になることが一番むずかしい。文化的連帯感もない、イスラムだったらイスラム教があり連帯感がもてるのだ。鎖国という300年の島国の閉鎖的歴史は全く大陸ではありえないことなのだ。ただインカのような孤立文明ではなかった。中国の文化を取り入れて歴史的に発展した文明だった。だから明治維新ができたのである。ともかく30年前にシベリア経由でフランスに行って一年も暮らすとなるとこれは明らかに英雄的存在であった。今はそれは普通のことである。

日本人はスケ−ルが小さいというのは思想的にも文化的にも歴史的にもそうである。中国人は日本にきて川を見たら小川だとかヨ−ロッパは滝だとう言ったとういが大陸の川とは全然違うのだ。日本には川もないし平原とか砂漠もない、だから大きく物事を考えることができない、アジアか一つと言ったがそもそも日本からそういう思想を持つことが無理があったのだ。だから太平洋戦争も無理があったのである。いづれにしろ大陸のような広い処に住んでいれば自ずから発想が違ってくる。発想自体雄大になるのだ。これは日本にいては身につかない、茶室の四畳半では大きな発想は出てこないのだ。小さいもの細部に目を向けるだけになってしまう。これが日本の限界である。それは地理的限界によるのだ。

思想は明らかに風土と関係している。芸術もそうである。その回りの環境の反映だった。ただ宮沢賢治のような天才は違っていた。あんな大きな発想自体、地理から離れていたからだ。これからは外国が身近になったから世界的なスケ−ルの芸術が日本から生まれてくるかもしれない、短歌と俳句がいかに日本の風土にマッチしたものかわかる。芸術は風土から生まれるのだ。


12月12日 
久米島に来た白鳥

久米島に来た白鳥が烏にいじめられて衰弱したのは自分も今年沖縄で島に行ったとき経験したこととにていた。島の烏は非常に狭い処に生活しているから縄張り意識が強い。それは人間にも通じている。よそ者を非常に警戒しているしよそ者は目立つのだ。だから見慣れない白鳥がきたので面白がってか縄張り意識からかいじめたのだろう。

「おい、オマエのような白い鳥見たことないな、どっからきたんだ」
「シベリアだよ、・・・」
「シベリアってどこだよ、・・・・」
「寒いところだよ、・・・」
「ここは一年中あたたかいよ、そんな寒いところにいるのか、ああ、それで寒い所がいやなのでここにきたのか」
「どっからこやってくる鳥はいるがオマエのような白い大きな鳥は見たことね」
「そうだ、そうだ、こんな白い鳥みたことね」
「この鳥はこの島にはふさわしくね」
「ううん、ふさわしくね、ふさわしくね」
「どこかに行ってしまい、寒いシベリアにもどれ」

このようにしてみんなして黒い烏は白鳥をつついたので白鳥は弱ってしまいました。

白鳥でもをんなところに迷うことがある。一羽くらいはそうなる。でもこんなにはずれてしまうのは珍しいだろう。まずあたたかいから肌でわかるから引き返すのが普通だろう。面白がって新し地をめざしてやってきたのかやはり沖縄は遠いし不自然である。こういうことも自然界にはあるということだ。これは一つの記録として残される。久米島に来た白鳥、それは新しい歴史となるのかも、町誌にも記されるだろう。

島の烏へ(参考)

12月11日
 
インターネットでパソコン買う

富士通のインターネットの販売でパソコン買うことにした。仙台のヨドバシも安いがかえって遠くてめんどうなのだ。カスタムでDVD-RAMがついて160gbで500MBのメモリ−だからDVDレコ−ダ−も使える。これだけでも10万はするから今だと割引があり20万切るのは安い、パソコンはどこで買っても同じである。使い方わかれば心配はない、電話で応対してくれたから安心だ。インターネット通販は画面を見て電話で聞くとわかりやすいし安心なのだ。わからなければまた聞けばいいからである。高額でも心配はない、これだけ5万くらい安くなっているかもしれない、これだと地方の店も困るだろう。インターネットはかえって一局集中になる。本だった古本までありどういうわけか青森から古本を送ってきた。全国にネットにつないでそれで連絡して送ってくるから膨大な古本市場になる。近くの古本は余りにも本が少なすぎる。これが致命的なのだ。インターネットの買い物はまだまだむずかしいが説明でもわかりやすい面があるのだ。画面を見て電話で聞くとわかりやすいが電話に応じる所は少ない、そこが問題なのだ。パソコンのソフトにしたって電話で使い方聞けるとわかりやすいのだ。前は電話で聞いてパソコンの使い方覚えたのである。中高年でもわかりやすくなるのだ。

ただ問題は便利になることは流通の流れが変わってしまうことなのだ。汽車であれ自動車であれ飛行機であれ便利さを追求するとそれで中抜きになり過疎化するところがでてくる。シルクロ−ドなどでも海の道ができてすたれたようにである。資本主義が船で遠くと商売することから始まったように交通によって世界が変わってしまうのだ。沖縄の共同売店が山原船で運ばれる船に対抗してできたことがそれを示している。利益が船を持つものに独占されてしまうのだ。インターネットの通販が盛んになっても地方では恩恵がないかもしれん、確かにインターネットで地方の産物も売れるかもしれんが、有機栽培の米とか野菜や、陶磁器類などその土地の産物は売れるかもしれない、私が買った、相馬焼きのコ−ヒ−カップは安いし物がいいものだから売れるだろう。千円のものでも二千円で売れるかもしれない、ただ送料の問題などでむずかしい面がある。ただ地元にしかない産物は全国でも売れると思う。インターネットも多少なりとも社会を変えてしまう。田舎では仙台でも1時間10分でも遠いのだ。買い物でもめんどうになった。田舎の問題は多様なものに接することができないことだが情報に関しては今はインターネットで田舎でも遜色なく取り入れることができる。)



12月8日
 
公務員は最低賃金で良い!


世の中には金儲けに大変意欲的な者と、そうでない者がいる
前者は資本主義社会で、思う存分に自己実現を目指せばよい
後者は共産主義的なシステムが必要で、それが公務員という職業
後者は競争社会に揉まれることがないかわりに低賃金を強いられる。社会のヒエラルキーの最下層にいればよい
公務員に対する認識が間違ってるんだよ
最下層、それが公務員の本来あるべき姿


うまいこと言う人いるもんだ、公務員は無駄が多い。公務員として働いている人が言うのだからそうである。自分の町でも町村合併で議員が18人から4人になるという。これはすごいリストラだ。町村合併でかなりリストラされるからすすめるのだろう。自治体はどこも借金で苦しんでいる。それだけ無駄が多いということだろう。中国でも国営化した会社はみんなだめになっている。社会主義はみんな働かなくなる。働く意欲がなくなるシステムだったという皮肉である。みんな平等であったりいくら働いても工夫してもみんな同じ待遇だと働くなくなる。社会主義はそれでみんな失敗して終わった。日本は資本主義でなく社会主義だったというのは一面本当である。社会主義とか福祉とか成り立つのは景気のいいときだけである。働かないものにも稼いだ人から回ってくるからだ。それが公務員に回っていったというのは本当だろう。公務員はまだバブルでリストラされていないのだ。

これをイスラムにあてはめるとイスラム社会も宗教的社会主義国家なのである。資本主義的社会になじまない社会システムなのだ。根本的に社会そのものが違う近代化されていない社会なのである。近代化とは欧米化になるがこれを拒否している社会ともいえる。これは今研究中で長い文になるが歴史的には中世でとまってしまったのがイスラムなのだ。だから資本主義経済であれ国家が宗教と分離していなことなど近代化していないのである。もちろんその内部から欧米型とは別な社会を目指す、作るというイスラム原理主義の主張もある。それも一つ方向であり否定できない、ただ歴史的実験だと社会主義は経済的にはうまくいかず資本主義になった。ロシアでも中国でも経済に関してはそうなったことは見逃すことはできないしこの歴史をどう活かすのか、これを無視することはできないのだ。

12月7日   
日本人のアイディンティティ

国のためというのがすべて称賛されるわけではない、また国のために尽くしているのは外交官だけではない、海外ならビジネスで働いている人も国の利益のために働いている。様々な分野で国のために働いている人はいる。掃除婦だって国のために働いているといえる。日本人は国のため、日本国のためというアイデンティティしかもちえないのだ。だから今回の外交官の死というのが身内が死んだようなショックを受けたのだ。その前に外国人が死んでいることには無関心なのである。そういう自分もそうだから他人のことはいえない、日本人は他国のことを我が国のように考えることができない歴史的経過がある。地理的にもそうだった。大陸は陸続きだからイラク辺りでも領土は変わっているしイラクという国そのものがあったわけではない、絶えずその領土はぬりかえられているのだ。ある時はペルシャ帝国の一部だったり、モンゴルの一部だったりその国の支配者は変わっている。ということは他国が自分の国だったり自分の国が他国だったりすることが歴史だったのだ。日本は他国に占領されたこともない、太平洋戦争ではじめて他国が自分の国の一部になった。が自分の国が他国になったことはないのだ。だから日本のアイデンティティは日本という島国より広がらない、だから日本人が殺された、それも国家を代表する日本人が殺されたとなると特別のことになる。これはあのアメリカのテロ以上に日本人を刺激するものだった。アメリカでテロでやられたのはねらったのはアメリカ人である。そこに各国の人がいたのだ。今回は日本人を標的にしてきたことがショックだったのだ。

靖国に祀るのも日本人だし日本人にはまた死者を特別視する信仰みたいなものがある。英霊になる、御霊になる、死んだら靖国に祀られることは国の御霊になる、それは日本人の特殊な信仰である。その御霊が国を守るという信仰である。それはあくまでも日本に限定された信仰であり外国には及ばない、宗教はキリスト教でもイスラム教でも国を越えた民族を越えたもの同士が結びつく、だから文明は宗教とか法律の下に国や民族を越えて結びつくものである。日本には世界文明となるものはない、日本人という日本の国という世界からその世界観を広げることができないのだ。日本が外交がへたなのはそのためである。自分も国際性がないからそうなのだ。

つまり今回の外交官の死に対して憤激して極端になるとテロリストを殲滅しろとなる。日本の国家に敵対したものは許せないとなる。これは日本人的歴史的に刻印された遺伝質だからこれを変えることはできない、ここから過激な行動に出ることもありうる。一億総火の玉のようになるのが日本人なのだ。その点やはりイスラム社会はそれなりに長い伝統があるんだから国を越えて広がった原理でもあるからやはり世界文明なのである。広い範囲のアイデンティティを持っている。日本人はそれがないから世界を伝統的に歴史的に肌で理解できない、つまり日本人の死に関しては共感できても外国人の死に関してはいたって無関心なのだ。それはアメリカ人に対してもそうなのだ。よそごとの世界にしかみえないのである。

いづれにしろ今回の外交官の死は日本人をかなり刺激した。この憎悪が一挙にイスラムに向けられると怖い、憎しみが植えつけられ憎しみの戦いになりかねない、人を殺したり殺すことは憎しみがまず生まれる。正義の前に戦うという前に憎しみが生まれそれが原動力となって復讐となり戦争となる。アメリカが太平洋戦争で動かしたのはリメンバ−パ−ルハ−バ−である。真珠湾でやられたことをわすれるなという憎しみの情であった。今回の事件もあのテロを忘れるなが原動力だったのだ。アメリカ人の憎しみが今度は世界に拡散される。「日本人も殺れたぞ、日本人よ、イスラムのテロリストを憎め、大和魂で殲滅せよ、・・・・」こういうふうに憎しみが植えつけられ憎しみの血みどろの戦いの中にひきずりこまれてゆく怖さである。人が殺し合うことは正義とか民主のためとか言う前にどろどろとした憎しみが生まれる。経験した人は知っているだろう。戦争の現実はアメリカもベトナム知っているのだからそれをまた繰り返すことがわからない、どんな戦争でも人が殺し合うのだから正義の戦争にしてもそれは血が流されるのだから戦争自体肯定できない、戦争の現実はそういうものなのだ。もちろんこれは経験したものが言うのではないから頭だけの解釈かもしれないがやはり戦争は殺し合いだから必ず憎しみが生まれ互いに泥沼の戦いとなってゆく、もしイラクでさらに日本人が殺されまたイラク人を殺したらそこに憎しみが生まれるのだ。憎しみの情からは平和は生まれない、憎しみという感情を持つこと自体全くそこには平和な心がないから不幸なのである。


12月7日
    
武富士会長の逮捕

武富士の会長が盗聴で逮捕された。武富士は自分と多少関係あった。身内が借金で借りて交通事故で死んだ。死んだと届けたら借金は御破算にしてくれた、誠実な対応をしてくれた。あとのサラ金は死んでも電話してきて直接催促にきたりと人の死に対してあわれむことさえない非情なものだった。武富士の対応は人間的だった。だから武富士に対しては悪い印象はもっていなかった。会長の人柄もそんなに悪いとは思っていなかった。ただニュ−スを見てあんなにワンマン体制だったのか、まるでどこかの宗教団体の会長であった。写真に毎日礼拝するごとく奴隷のごとく仕えねばならなかったのか、これは行き過ぎだしそういうことが経済の分野に一個人を会長を礼拝させることは宗教的に見て宗教の強制のようなものを感じたのだ。

つまり会社は宗教を強制してはならない、ある個人の礼拝を強制させていいのだろうか?これは政教分離とにた問題である。宗教と政治だけでなく、宗教と経済も分離せねばならない、いづれにしろワンマン体制は独裁体制はあのように会社ですらなる。盗聴といえば創価が共産党にやっていた。裁判にもなった。神崎氏がかかわっていたのだ。独裁体制は秘密警察ができてしまうのだ。こうした団体が政権の中枢にあること自体全くわからないことである。武富士に対する悪い評判を流さないために盗聴させ権力で押さえつけようとする。またマスコミで宣伝をだせばそのテレビ会社は武富士について悪いことはいえない、これは創価と似た体質である。公明党や共産党は選挙で幹部が選出されることがないしその内部では批判が許されないからそもそも民主主義などないのだ。誰によって決められるのか、創価だったら池田会長になるし共産党だったらやはり誰かが権力を持ち決めてしまう、そこに内部批判がないから武富士と同じなのである。ただ武富士に関してはいろいろかかわった人がいるからそれをインターネットで調査すれば自分のように悪いことだけではない、その対応は悪いものでもないことがわかる。個々人に対する対応が知ることができるのがインターネットである。

ではなぜこんなに世間の評判が気になっているのか、やはりサラ金という仕事がら何か後ろめたいことがあったからかもしれない、それで情報をもれることや、悪い評判がたつことを恐れていた。それが盗聴という行為になった。独裁体制では言論統制が行われる。悪い情報は出せないようになっている。これは中国でもそうだし北朝鮮でもそうだしイラクもそうだった。独裁体制はそうなるのだ。必ず批判が封じ籠められる。それが恐怖政治となる。権力者はみんな同じようなことをするのもやはり権力を持つとそうなりやすいということが人間なのである。権力は腐敗するとか絶対的に腐敗するという一例である。だから宗教自体巨大な権力を持つこと自体そこはもはや腐敗しているのだ。宗教とは全然違った権力維持組織になっているのだ。こういうことは歴史的に見てもわかりきったことなのだが未だにまかり通っている。日本にも民主主義などないのだ。一見あるように見えても現政権がそうした団体なしでありえないことがそれを示しているのだ。

12月6日
 
中東の複雑怪奇な図式

中東がなぜわかりにくいのか、簡単にイラクも日本のように負けたんだからアメリカに従い戦後復興しないのかとなるとやはりこの図のようにイラクはイラクだけで成り立っていないからだ。スニン派のフセイン政権を追放しても今度はイランに亡命していたシ−ア派がでてくればアメリカの思う政権ではない、このイランも核を持つとかイスラエルが核で攻撃されるとか大問題なのである。最近イラクのフセインについていた部族がシリアに行っているという、シリアの応援得たいからそうなる。アラブは国境があっても相互につながりがある。イスラムは連帯感をもっている。イラクは日本のような単一国家ではない、だから簡単にフセインを倒してもそれに代わる政権を作りにくいのだ。日本の外交官を殺したのは誰なのか、アルカイダなのかフセインの残党なのか、外部から入ってきた人なのか、それともイラクの自主的な新しいレジスタンなのか、・・・・・複雑にからみあってわからないのだ。

イラク一国だけを見てもわからないのが中東なのだ。砂漠には明確な国境がない、昔はベトウインなどが自由に行き来していた空間で国境はなかったとか常に日本のように島国の領土が不変な国とは違う、絶えずその地図は塗り替えられ変わっているのだ。日本の単一国家的思考ではわからない、おそらくアメリカもフセインを追い払ってもこの複雑な図式の中に入って混乱することになる。

こういう国を日本のような単純な思考で理解することはできない、歴史の経過などが複雑で理解できない、相互に作用してできあがっている国なのだ。国境があったとしても明確な国境とはいえない、常に変動する国境なのだ。だからイラクという国が消滅しても不思議ではない、そういうことは過去にもあった。欧米列強がここに介入して複雑化してさらに今度はアメリカが介入して複雑化してゆく、アメリカについてゆく日本もまたこの複雑な図式に入ってゆく、それが怖いのだ。まさにバビロンは混乱である。アメリカが力で簡単に解決できるところではなかったのだ。相互に連関して作用しあっている。これら全体の解決を目指さないとイラクだけの問題としては解決できない困難さがある。


中東TODAY


12月5日
死の値段(戦争の意味)

2ちゃんねるでイラクでの外交官の死に対して9千万円は破格の待遇だとかそのことを議論しつづけている。警察官でも消防士でも殉職することはある。確かに高すぎることはいえる。公務員、特に外務省は金の使いすぎたとか機密費問題で騒いだ。交通事故でも医療事故でも人間は死ぬ。死ぬということはどういうことかその肉親を失ったものの悲しさはどうか、一旦死んだら人は帰ってこない、二度と合うこともできない、これは恐るべきことである。金をいくら積んでも死んだ人を生き返らせることはできない、ここに死の恐ろしさがある。9千万もらおうが10億もらおうが死んだ人は帰って来ないのだ。つまりもはや死は金ではあがなえない、他に金で贖えないものが時間も取り戻すことができない、時間を金で買うことができない、これは万人に平等である。死と時間に関しては平等である。これだけは金ではどうにもならないのだ。肉親にしたって10億もらって満足などしない、もし金にこだわるとしたら死んだ人は愛されない人だったとなる。

例えば最近戦没者学徒などの手記を読んでいる。彼等はあの若さで何を思い死についたのか、これは今では考えられないような煩悶があった。今の茶髪の浮かれた若者に「お前、国のために死んでくれ、期間はあと一カ月だ」と言われたどうなるのか?どんな浮かれた若者でも必死になりその一カ月の間にそれなりに自分を納得させなければならないのだ。そのとき真剣にならざるをえない立場に追い込まれる。だからその手記は普通の手記とは違う、今日に残した尊い宝である。これから人生が始まる時に命をたたれた、それ故にその言葉も重いし後世に託すものも大きいのである。

今の若者はここまで真剣に悩まないだろう。死というのが身近にないからだ。死が日常的に身近にあれば生を真剣に考える。かえって日本のことアジアのこと未来のことを考えその短い命を終えたのだ。これもただいろいろな解釈がありむずかしい。あんなふうに従順に国に従えるのか今では考えられない、父母のためとか、天皇のためとか、国のためとか、郷土のためにとか、そうした思想は戦後はないのだ。個人主義ではない自己本位であり自己の欲望のおもむくままに生きる、欲望を満たす現代とは全然違っていた。若者は自分の世代よりも(団塊)また今の世代よりも純粋だった。個人主義的には考えられない世界だったのだ。

今死者が要求しているのはもはや遺族年金とか金の問題ではない、精神的問題である。名誉とかその意味になっているから靖国が問題になるのだ。歴史的にあの戦争は無意味な馬鹿げた戦争でありその犠牲になったのだとなると死者も浮かばれない、だから日本ではそれができないのだ。何百万人も犬死にだったのか馬鹿げた死だったのかとなる。死者が歴史と化したときその歴史的意味づけ価値づけの方が大事になる。歴史的にそれは価値あることであったとなると死者も報いられる。しかし歴史的に価値づけされないなら死者は報いられず犬死にだったとなる。この相違はあまりに大きいから未だに解決できないのである。この問題は今回の外交官の死でも同じである。9千万円もらったからいいじゃないかとはならない、それが後世に意味ある死だったのか歴史的に大きく世界の歴史のなかで意味ある行為だったのか問われる。それはアメリカの行為は価値あるものでそれに従った日本も意味ある行為をしたのかとなる。

つまり意味とか価値は物とか金で計れないからむずかしいのだ。何百年後に価値あるものとして発見されたりするのもそのためである。だから小泉首相もどういう理由で自衛隊を派遣するのかと問われても明確には答えられない、小泉首相は哲学者でもない、ワンフレ−ズの浅薄な評論家タイプなのだ。深く考えて物事を決めることはない、もちろんこれはアメリカ大統領にも言える。やられたらやりかえせというのでやったのである。でもそのあとに何の大義もない、何のためにやっているんだとか責められることになる。ベトナム戦争の「地獄の黙示録」になってしまう。何のために戦争しているのかわからない、ただ戦争の地獄だけがそこに残ってしまったのだ。正義を唱えても戦争となると人と人の殺し合いだから戦争自体が地獄になってしまう。やられたらやりかえせ、そこには凄まじい憎悪の世界となり何が正義かなどわからなくなってしまったのだ。

12月4日
 イラクから帰って来た外交官の骸


ものいわぬ骸となりて帰り来ぬ何の犠牲や師走の日本に

イラクで死んだ外交官が日本に帰ってきたけどなんか国葬のような感じになった。やはりなんであれ死ぬということは重いものなのだ。今回は特にそうである。日本国家を標的にしてきたことである。だから理屈なしで「やられたら、やりかえせ」という感情的なもになる。アメリカはテロで感情的になるのはわかる。殴られて黙っているやつはいない、右の頬を殴られたら左の頬をさしだせというがそんなことする人は皆無である。必ずカッとなるのだ。そのカッとした感情は普通おさえることができないのだ。

アメリカは真珠湾攻撃のときもこうした理屈ではどうにもならない感情で一体感を作り出し日本をせめた。今回もそうである。確実に理性のコントロ−ルがなくなるのだ。アメリカは特にそれだけの力があるから怖いのだ。感情的になり原爆まで落とす国なのだ。つまり人間を動かすのは理屈ではない、感情なのである。テレビがあれほど力を大衆に訴える力を持ったのはテレビは人間の感情に訴えるからである。かわいそうな人を出すとやはりテレビを見て涙流す人もいる。それがやらせであってもそうなのである。戦争はやはりその国民の感情に訴える方がついてくる。だから常にアメリカを憎めとか怒れとか恨めとか感情に訴えるのである。

ともかく今回の外交官の死体の帰還は前の戦争の光景を浮かび上がらせた。あのように毎日のように無数の骨が日本に帰ってきたのだ。その骨は物言わぬ、なんやかんやと物言いが絶えないのは生きている人間でありそのあとも生きている人間である。死者は一旦死ねば何も言わない、何か言うこともできない、死者の心はどこにあるのかもはやわからないのだ。その死の意味を受けとめるのは生きている人なのだ。ただ前の戦争はこのよう丁寧に迎えられることもなかった。無数の骸や骨が未だに埋葬もされず放置され埋もれている悲惨である。骨が帰って葬られたのはいい方なのだ。

ともかくスペインの殺された諜報機関の死体がイラク人が踏みつけていたというのもイラク人が好感をもっていない証拠である。日本人も太平洋戦争で欧米からの独立を支援するためだといってもその国の人は好感をもって迎えたわけではない、だから日本人は死んでも放置されたりその死体に身につけていたものも奪われた悲惨な結果になっている。その死体をけるなどするのはよほどのことである。こんなところにイラク人が望まない処に軍隊を派遣してもいいことはない、アメリカに義理立てるのもアメリカに一方的について行くのも筋違いである。

なぜ日本がそこまでしなければならないのか、犠牲を払わなければならないのかわからないのだ。だから前の戦争と同じく犬死にだとか意味がわからない死だとかになる。そしてまた死んで帰ってきたら靖国に祀るのとかなる。あの時は死んだら靖国に祀られるということが大きな励みになっていた。今回はそういうことがないがやはり国民に賛同してもらいその意味が認められ迎えられることが死ぬという危険を犯すかぎり要求される。誰も無駄死にしたくないからだ。


12月3日
  
イラク問題と太平洋戦争

人間は何なんだかわからず行動にひきずられてゆく、そして行動したあとにあれは良かった、悪かったとか、意味がなかったとか、意味があったとか、様々に考える。そもそも太平洋戦争の意味すら未だ不明である。どうして戦争になりその戦争の意味は何なのか未だわからない、というより意味も問わず、目的もなく戦争に突入したのである。そして何百万人も死んだあとにその戦争の意味を残された人、戦争に参加しない人が考えつづけている。

死というのは人間に生の重みを示す、深刻にその生の意味を問う、今回の外交菅の死もそうである。外国での戦争に巻き込まれて日本を代表する外交官が死んだことがない、戦後、国を代表するものが死んだことはなかったのだ。だから日本にとってこれは特別な事件になった。イラクまで行って何をしようとして何のために死なねばならなかったかということである。これは太平洋戦争でも同じである。死んだら犬死になるとかやはり今また太平洋戦争が問われている。歴史は繰り返すである。

日本人はあの戦争で戦争嫌惡症になってしまった。これはドイツもそうである。原爆のショックもあり回りからは叩かれるは戦争に及び腰になるのは当然であるし戦争にかかわりたくないのだ。イラクに自衛隊が行く意味がわからないのだ。意味もわからないのにイラクに行って自衛隊員が死んでも浮かばれない、犬死にだとなる。いや国家に貢献したとか言う人もいるし理屈はいくらでもつく、これも太平洋戦争と同じである。アメリカと同盟しているのだから従わねばならないとかただアメリカをたてるだけでついて行っていいのか、そこに義も意味もなくてもただアメリカの尻についてゆく、それが疑問なのだ。
そしてあとでまた自衛隊員の死は無駄ではなかった、国のために尽くした英霊だったとか議論することになる。行動する前に議論して目的と派遣する意味を問うべきなのだがとにかく最初に行動がありそのあとにその意味を考える、だから前の戦争と同じことの繰り返しなのだ。

例えばあの外交官の子供が大きくなってなぜイラクで父親は死なねばならなかったのか問われたときやはり答えられないのだ。イラクの復興支援のために努力して死んだと言ってもイラク人はそう思っていなかった、日本はアメリカの子分で親分に従わねばならなかった、あの時点ではイラクは自衛隊など必要なかったとかイラク人に言われたら何のために死んだかわからないのだ。太平洋戦争も同じである。アジアの独立を助けるためだというがアメリカのイラクのように確かにフセインを追っ払って良かったという人が多くてもやはりアメリカがイラクを支配することはいやなのである。日本だって独立を助けたからといって日本に支配されるのはいやだったのだ。それは欧米から日本に支配者が変わるだけだからだ。ともかく今回のイラク問題は太平洋戦争とダブって見えてくるのだ。つまり太平洋戦争は日本にとって未だ解決しない重い歴史的問題でありだから当然それが足かせとなる、憲法問題でもなっても当然であり躊躇してもしかたない問題である。


12月1日
 
インターネットの情報学(本を買う)

インターネットで本を買うというのも本屋で買うのとは違っていた。本屋だと立ち読みして買っていたがインターネットでは立ち読みできないから自分の思ったものとは違ったものが買ってしまった。インターネットで本を買う場合もあるキ−ワ−ドで調べて買うか、それとも前もって調べて知っている書名の本を買う、この二つの方法がある。砂漠のことが知りたくてそれに関する古本を安いのでアマゾンから買った。小説はインターネットの時代では変わってくる。小説は他人の体験や自分の体験を元に書いたものである。その体験談そのものがインターネットでは個々人が出している。では小説はどうなるのか、小説を作られたものを読むのではなくその中の体験した生々しい所を拾い読みする。小説は架空のものだがその中に実体験から書かれたものがありそれを拾い読みして参考にする。インターネットでは個々の実体験が直接書かれている。小説は実体験を元に創作したのだから架空の創作から実体験を掘り出して参考にするのである。

つまりインターネットになったら情報とか本とかの読み方まで変わる、もちろん買いかたも変わる、本というのは本屋で売るとかそういうものでなくなっている。情報の裾野が広がりすぎたのだ。本屋はハリ−ポッタ−のようなベストセラ−を売るに一番向いていた。それは田舎の小さな本屋でも売れたし全国で一様に売れるものがいいのである。コマ−シャリズムにのり全国的に一様に売れるものが売りやすいのだ。だから本屋では専門書を売るのは苦手である。ところが情報の裾野は富士山のように広い、頂点が今までのベストセラ−的なものであり次にほどほどに売れるものでありつぎにインターネットにでている個々人の情報発信になる。今や情報の摂取の仕方が変わってしまった。わかったことはこの情報の取り入れかたがわかれば知的仕事は飛躍的に増進する。本でもやはり情報のリンク、つながりを求めているのだ。

例えばインターネットは何度も言っているけど編集が不可欠である。地名に例をとれば地名の短歌を集めて発表していた人がいた。これは雑誌から集めて雑誌に発表したものである。俳句でもあるテ−マで分類して編集している人がいたようにインターネットでもそれが必要なのだ。編集する人が必要なのだがそれがインターネットのなかでは成されていないから一つの作品として読めないのである。個々の体験談や何気ない発言でも編集すると一つの意味あるものとして構成されるのだ。インターネットは明らかに編集されなければ宝の持ち腐れだ。



11月30日
 
イラクはベトナム化してゆくのか

イラクの問題はそもそもがアメリカの大義があるのかということが問われている。クエ−トにイラクが侵略した時は多国籍軍で攻めた。ではイラクにアメリカ軍が侵攻できるのか、クエ−トにイラクが侵略したから攻める、一方主権国家であるイラクにアメリカが攻め込む大義があるのか。主権国家というのはそれが独裁国家でも国として世界から認めている。大量破壊兵器をもっているとか、核をもつようになるとか、それだけの理由で攻められるのか、主権国家を侵略するものは大義がない、あんなフセインのような独裁国家は他国が占領して民主国家にふればいいんだとはならない、その国の人がそう思いやるのならいいが他国で力でやるとなると内政干渉でありそもそも武力で他国を一時的にでも支配すること自体、侵略なのだ。テロでアメリカがやられたというのもイラクが関係していたとかわからないしそうするとイスラム全体を敵になる。アフガニスタンには確かにアルカイダの基地があったのだからテロの報復が成り立つのかもしれないがイラクはテロ支援国家として侵略するとしたら次は確実にイランが侵略の対象になる。イスラム全体が侵略できるとなるのだ。こんな論理が成り立つのかあのテロはその戦争の、侵略の正当性を得たことなのか、あのテロ故にすべてが正当化されるのか、これも疑問である。

こうしたアメリカの一方的な論理に、力の横暴についてゆく日本がどうなるのか、すでに犠牲者がでた。復興支援というがその前に平和的な復興支援状態が作られないとできない、つまり今やイラクはレジスタンス状態だとか戦争状態でありそこに自衛隊を派遣することはイスラムとかイラクのアメリカへのレジスタンスの敵の標的にされることになる。アメリカでは日本の犠牲者がでて同盟軍として認め満足なのかもしれないが日本としては何のメリットがあるのか、そこに義はなくただアメリカに従う利があるだけである。その利だけで判断するとアメリカも孤立するし日本もまた孤立しかねないのだ。イスラムを敵とすることは日本も常に危険にさらされることになる。日本は経済的にアメリカにつくと得するとか利だけ判断してきた。それで経済的繁栄もあった。

しかしイスラムでもアメリカは公平でないとして攻撃してくる。つまり利ではなく義憤を感じるからあれほどのことをやるのだ。日本はやはり利だけからアメリカにつくことは危険である。いづれにしろアメリカには3千人も殺されたのだからなんでもしていいというそういう強硬論が全面にでてきた。世界を戦争に巻き込んでもいいとはならない、だから今やテロでなく国家防衛、民族防衛のレジスタンスとしてスニン派とシ−ア派も協力してアメリカを追い出す作戦があのテロになっているという、こっちの方に義があり正当性がありベトナム戦争のようになっているのかもしれない、そんな泥沼化した所に日本が巻き込まれていいのか疑問である。


11月28日
登山は一番苦しい


中高年が山に迷った。低い山だったからたいしたことはない、個人だったら話題にもならなかった。私も一時登山したが登山は一番苦しい。疲れて帰ってから一週間も寝ていたことがあった。登山は若くたってすごく負担のかかるものなのだ。でも山の醍醐味は上らないとわからないから困るのだ。厳しい山の姿は山頂まで上らないとわからないのだ。上った山は岩手山とか男体山、至仏山とか富士山くらいでそんなにはないが一番記憶にあるのは岩手山である。勾配が急なので厳しい山の姿を今でも覚えている。登山はやはり自然の荒寥たる厳しさを目の当たりにすることである。これは登山しなければわからないのだ。見るだけでは実感できない山の姿がある。

ただ体力がないので山はやめた。自転車旅行に切り換えたのだがまたもう一度山の荘厳な厳しさに触れたくなり登山したくなった。中高年になってもやはり自然に触れたい、山の魅力から離れられない人は多いのだ。若い時登山に親しんだ人は特にそうだろう。ただ中高年になると何か行動するというより行動したことをふりかえり回想して楽しむことがにあってくる。本にしてもそうである。新しい本はなかなか読めなくなる。前に読んだ本を読む方がかえってまた新しいものの発見につながっている。不思議なのは自分の場合、本を読むというより本のコレクタ−になっていた。ではそれが無駄だかと思ったらそうでもない、デュラントの歴史書の10巻くらいのものが今読んで見たら面白い。これも実際はほとんど読まず飾っておくのにいいから買ったみたいなものだった。表紙とかが良かったのだ。でもこれは内容も良いものだった。つまり本というのもこのように買っておくだけでもあとで読むことがありうるのだ。だから本というのはある程度集める必要があるのだ。

いづれにしろ中高年になると登山でもそうだが行動することがつらくなる。行動したことを回想する方が楽しいし今まで積み重ねたことを継続して発展させることが仕事になるのだ。だから60から退職して何か新しいことなどできないのだ。なぜならそれまでに積み重ねたことの継続発展しかできないのだ。90の母は働きづくめだからそもそも遊ぶことが何かも知らないのだ。それで遊ぶことができないのである。遊ぶということも若いうちにしていないとできないものなのだ。遊ぶとはいろいろ浪費することではなく、遊学などとあるように人間の幅を広げることなのだ。スク−ルが暇という意味なのはそのことである。暇をいかに有効に使うかそれを学ぶことが学校に行くことだった。しかし高校までは受験だとかで全く学問そのものの楽しさを知ることがなかった。自分が学問の楽しさを知ったのは大学でてからの方が本も読んだし興味わくものを見つけた。学問も興味がないとつづかないのだ。

しかしそれにしても人生と時間の浪費が半分である。いかに時間を浪費して身につけるべきものを身につけず知るものを知らずに成すべきことを成さずに終わっているか愕然とする。無駄なことに費やされすぎるのだ。おそらく結婚したりしたらまず生活に追われささいな知的生活すらできないというのが現実なのだ。「少年老いやすく学成りがたし」である。学問を身につけるのと時間は比例している。学問そのものがとてつもなく労力と時間を必要なのだ。一枚の資料を解読するのに一年かかったりとか知識を身につけるのにも時間が必要なのだがその時間があっというまにすぎてしまうから学成りがたしになるのだ。
やはり人間はある程度強制的にやらないとだめになる。こうして勤めのように毎日書くというのも書いて出すとなると書くことが継続されてゆく。積み重ねられてゆく効用がある。そういう場をもつことが大事なのだ。今まではそういう場がなかったから強制されなかったから
多くのものを書かずに終わってしまったのだ。


デュラント(世界の歴史)

この本の面白さは歴史を解説するのに個性がでている。年代記のようなものではない、詩が多いのも面白くしている。これは表紙がいいので古本屋で買ったがほとんど読まなかった。これは内容も面白い。これだけよみこなすだけでもかなりの労力が必要なのだ。いかに本すら読めないかの見本となった本である。


若い頃「自由」に重きを置いていたが、年取った今「秩序」に重きを置いている。「秩序無くして自由は無い」という重大な発見に至ったのである。 ―ウィル・デュラント (1885-1981)

In my youth I stressed freedom, and in my old age I stress order. I have made the great discovery that liberty is a product of order.  --Will(iam James) Durant (1885-1981)

青春は人生にただ一度だけ。 ―ヘンリー・W・ロングフェロー (1807-82): 『ハイピリオン』
Youth comes but once in a lifetime. 

青年は教わり、老いてその意味を知る。 ―マリー・フォン・エーブナー=エッシェンバッハ (1830-1916)
In youth we learn; in age we understand. 
この格言に注目したのは英語と日本語ではちょっと感覚的に違うなと感じたからだ。

青年は教わり、老いてその意味を知る。learnは学ぶであり学ぶはまねるである。本当はunderstandして本当にわかったのである。青春は一度しかないというのも厳粛なことである。その盛りの時は一回しかない、それも極端に短いのだ。そのとき浪費したらあとでそれはとりかえすことができない、これは一番恐ろしいことである。青春を欲望のままに過ごしたらその人間は廃物である。海外で薬とか女におぼれているいかれた青年はもはや人生の良きものを身につけることができない、これは本人は青春を夢のように浪費していることなど何も思っていないが恐ろしいことである。それがすぐわかる、白髪の老人になるのはすぐなのだ。!

あなたの若き日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道一二 ..

作り主を求め覚えるのは若い日しかない、その若い日はすぐにすぎさる、世の欲望にまどわされているうちにたちまちすぎる。そして神は若い日にしか答えない、老物には神は答えないから年取ってから神を求めて答えないという厳粛さがある。これほど時というのは貴重で取り戻せないものである。だから若き日が大事になるのだ。若い時にこの世の欲や惑わしを断ち切れないものは神を求めないものは永遠に神を見ないことになる。その若き日の大事を知ることはなくたちまち時はすぎ後悔だけが残るのだ。

11月27日
失われた未知なる旅

今年はなかなか出かけられない、旅することにも疲れたのか、旅というものが通り一遍の観光旅行になるので面白くないのだ。旅というものを本当に追求すれば芭蕉とか西行とか山頭火となるがそれを現代で実現することはむずかしい。便利になりすぎて旅がないのだ。道路であれ街であれ必ず便利なところにでるしどうしても遠いと感じることがむずかしくなる。いづれにしろ昔の人が旅した感覚と今の人の旅する感覚はあまりにも違いすぎる。その感覚はもはや経験できない、その時代にして初めて経験できることだったのだ。

例えば一旦別れたら昔の人は二度と会えない、一期一会の出会いである。だから出会いと別れは今の感覚と全然違っている。今なら別れがないのだ。すぐに電話したりインターネットで連絡したりできるから別れがないのである。常につながっているのだ。外国でも同じである。飛行機で8時間でいつでも行けるから実際は外国さえ別れがないという世界なのだ。そのことは結局出会いとか別れを浅薄なものにする。いつでも会えるし別れても会えるから道の別れに対する感覚が昔の人とは全然違う、それで旅も喪失した。便利になりすぎて旅も喪失したという皮肉である。旅はもともと苦労するという意味だとすると苦労がなくなって旅もなくなったのだ。そもそも苦労がなければ旅ではないのだ。今では本当の別れとは死んだ時しかないのでは、つまり死んだら遂にもはや本当に連絡できないのだから・・・

自分のように感じている人がインターネットで発見した。街道を実際に歩いて探査した。しかしこの街道も実際はとぎれとぎれになってをり自動車の洪水の中で昔を偲ぶのはほんの一部で連続したものにはならない、この人も同じことを書いていた。もう一つはホテルで観光業について書いている人のも面白かった。観光自体今や変わってしまった。団体旅行から個人旅行へと旅自体に別なものを求めている。しかし自分は汽車でもはや乗る所ないほど回ったし自転車でも回ったが現代で本当に旅することはむずかしいことを知った。自転車で行ったって便利な方に向いて行く。道路でもやはり遠くになると便利な大きな幹線道路を行きやすいから自動車の洪水のなかで情緒のないものとなるのだ。つまり昔の浮世絵にでてくるような情緒はもはや味わいないのだ。タイムカプセルにでものって昔に行かないかぎりできないのだ
その時代時代でしか味わえないことがある。芸術でもだから芭蕉のような句はその時代でしか作れないから貴重であり不変性をもっている。とにかく現代では旅とか冒険がむずかしいのは世界でも便利すぎて冒険にならないという皮肉なのだ。未知がない、世界がすべて既知のものになったという貧しさがあるのだ。未知の大陸も未知の世界も発見できない、一方昔は隣の村さえ未知であり神秘的であったのだ。これがやはりあまりにも情報化された世界の貧しさである。未知は意外と遠くにではなく近くにあったりする。自分の場合は阿武隈高原の道は文字通り未知に通じていた。未知なる発見があったのだ。

http://www.techjapan.co.jp/kitakuraHP/tokaido/index.html

http://www.ne.jp/asahi/nakano/rdr-hra/index.htm

11月26日
新しいもの買うと損するパソコン商品

XP-PENというタブレットができなくなった。ペンの電池がきれたらしい。この電池はドイツ製の変わったものだった。これはヨドバシカメラにも在庫がない、それでインターネットでホームページ見たら最初わからなかったが電話で聞いたらちゃんと通信販売で買いるようになっていた。商品も直接買えるのだ。これだと便利だ。こうしたパソコン関係の商品はめんどうだから会社から直接買った方が便利な場合がある。これがその例である。

ただパソコン関係ものはソフトでも新しいものでも買うと損するということがありうる。ソフトが使いなくなったりいろいろ使いにくくなったりする。必ずしも新しいからいいとならないのだ。つまりなれたものならいいが新しいものはつかいにくくなる。新しいものを高いものを買ったからといっていいとはならない、かえって損することもある。使いにくくなれば損したことになるのだ。そしてソフトもたいした変わっていないのに高い金をを払うことになる。ソフトでは実際最初一万でもこれがやれるなら安いと思い買っていたのが大失敗だった。win95時代のものはソフトも粗雑な使いないものが多かったのに買っていたのが失敗だった。今は比較的ソフトもいいものがでているからこういうことはないだろう。

とにかくパソコン関係は買って得するよりも新しものを買って損するという奇妙な世界でもある。それは使いこなす方がむずかしいからだ。

11月25日
 
ウオッチャ−の仕事(政界ウオッチャ−など)

政界のことなどテレビで報道してわかるくらいで情報は入ってこなかった。雑誌とか本とか週刊誌もある。雑誌は一カ月単位だし本も遅れてでてくる。週刊誌は、新聞は早いが一番わかりやすく親しんできたのはテレビなのだ。だからテレビの影響力はダントツだった。テレビに出るだけで有名人になれた。その人がいかなる人か問わない、テレビの力は絶大であった。ところがインターネットがでてきてテレビの情報も不完全なものだと思った。特に討論番組はわかりにくい、感情的なものがでてきて互いに何を言っているのかわからない、しかしインターネットでホームページ出している人の意見を読むとわかりやすいのだ。

田中宇とか森田氏は出しているからこれを読む方がわかりやすい、インターネット時代には二次三次の番組ができる。ある番組はそこで終わらず見た人が感想を書ける。番組はそこで終わらずつづいているのだ。自分も二次三次の番組を作ったからわかったのだ。こういうことは他の人も日記に書いている。それぞれの立場で感想も違ったものになるのだ。ただテレビに出た人は以前として注目されるがインターネットの日記を書いても注目はされない、番組を百万人見てその人達が日記に書いても読む人は極端に限られているのだ。テレビはでるだけで注目される。ところが肝心のその内容となるとかえってホームページに出しているのを読んだ方が詳しいとなる。テレビでは個人の発言はかなり限られるからだ。

この社会の仕事として多くの批評家がいたがインターネット時代には政界ウオッチャ−とかが必要になってくる。田中康夫氏をウオッチしている作家もいた。これはまた新しい仕事の分野になるのかもしれない、政界など普通の人にはわからない、それをリアルタイムで随時伝える人が必要になってくる。テレビも新聞もあったがある個人が政界をウォッチしてリアルタイムで伝えることは個人が放送局をもって伝えることはなかった。ホームページはそういう役目をしている。これはでも今のところ視聴者が金を払っているわけではない、アクセスがあれば広告収入が入るとしてもたかがしれている。だからテレビや雑誌でもそこに出したら金が入るからウオッチャ−としての仕事になる。なぜこれがインターネットにあっているかというと日々変わる時事問題ではその都度情報を流し感想を聞くことが必要になってくるからだ。これは政界がどんなところか知らなくてもウオッチャ−を通じて知るということになる。それは今までの大きなマスコミを通じて知るとはかなり違ったものになる。ここでもインターネットによって変わる世界なのだがこれが新しい仕事になるとかそういう自覚されたりそうかこれがインターネット的な仕事なんだとやっている人はまだ少ないだろう。

ともかくいろんな分野のウオッチャ−が必要になってくる。それでカンパしてくれと訴えている元記者がいた。それもうなづける。やはり専門的に詳しくウオッチしてくれる人には報酬を与えないと読者にとってもいいウオッチャ−は得られないのだ。ただまだまだインターネットは未知なものだからそこまではいっていない、やっぱりメデアによって仕事も変わるし新しいそれにふさわしい仕事もできるのだ。


11月24日
 
リアルタイムのの反応、コメント
     (森田氏のホームページより)

なぜ森田氏に注目するかというとテレビにでる人間は今までも注目されていた。もうひとつ注目されるのはホームページをもって発言しているからだろう。テレビでの発言とホームページの発言を照らし合わせて読んでいるのだ。それが今までにないことなのだ。それにすぐ反応して自分のホームページに書いたり他の人もテレビを見てあれがこういったとかあれはどうだとか発言はできない、しかしこのインターネットは同時間でテレビと対話できるのだ。テレビの番組の続きもインターネットではあるのだ。今回の東和町の放送でも関心あったから時事問題で自分も書いた。こういうことがしやすいがのがインターネットなのだ。

彼の言っていることはそれなりに面白い。小沢氏は怒りやすいのが欠点だ。

怒りは無謀をもって始まり、後悔をもって終わる

byピタゴラス

これを引用していたがなるほどなと思った。なぜならピタゴラスは数学者であり数学者は極めて冷静だと思うからだ。当時の科学はすべて哲学であったのが今とは違うからこうした警句もでる。今の科学者は別な世界の人でわからないのだ。

次に政治の世界の変遷を見てきたから

題しらず        読人しらず

世中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる

(巻十八雑歌下九三三−)

飛鳥川というのは細い流れだった。細い小川のような流れだから変わりやすい、あの飛鳥も実に激しい政争の場だった。あそこでもめまぐるしいほどの政争があった。これを古代だから解きあかすのむずかしい、謎ではあるが本当にめまぐるしい政争の場であり血なまぐさい権力闘争の場だったのだ。

0201 埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人は惑(まど)ふ

この舎人(とねり)は天皇に仕える官僚のような人であった。舎人(とねり)はトナリであり天皇とか武人のトナリにいるからトネリとなった。補佐する人であった。政争があって行方を知らにというのは政争に負けたり、選挙に負けると議員はどこかにいなくなる。今まで仕えた人がいなくなる。それで惑うとなった。つまり古代というと現代とはまるで違った世界かというと同じように政治の世界も変化が激しいのだ。いづれにしろこうして今の時間でつながっているからこうして今こんなことがありこんなことを書いている、ああ、そうかとか今の時間で反応して書いている。こういうことがインターネットの世界なのだ。たいがい今まではマスコミの一方的発言で終わっていたのだが今では即座にそれぞれの人の反応がありうるのだ。ただこうして書いても自分のホームページのことは知らないから読んでいないだけで
ある。


11月22日
  
情報の選別

情報が今やインターネットがでてきてからあふれてよみきれない、インターネットの情報で貴重なのは個々の体験から言う情報である。それぞれの経験が違うからその経験からの情報が貴重なのだ。今の時点での体験の情報も貴重になる。何か緊急の時インターネットで連絡しあうと役立つ、こっちでこうだとかこっちではこんな被害だとか役に立つ、あとはその人が人から聞いたことでも実感のこもる情報を必ずもっているのだ。それが2ちゃんねるでも掲示板で貴重な情報源となる。ただ掲示板は多すぎて見つけられない。今回は二つ発見した。
一つは平沢議員がパチンコ業界から4千万もらったとか週刊誌にでていたことであった。なぜ在日−パチンコ業界がこんなに問題になるのか、在日の日本人への影響力が実際どれほどあるのかわからないが毎日話されている。2ちゃんねるを読んでいると在日ってこんなにいて影響力あるのかと過剰反応してしまうだろう。
これとは直接関係ないが

筑紫のNEWS23のスパンサーは
パチンコのSANNKYO。



こういう情報は意外と貴重である。これだと韓国、北朝鮮よりの報道になるのかと判断する材料になるのだ。スポンサ−になっている団体はマスコミではチェックしていた方がいいのだ。マスコミとか出版は金がかかるからスポンサ−が必ずついているのだ。ホームページはスポンサ−などついていないから素人でもそこに真実がある場合が多いのだ。ただホームページは素人だから取材などできないから詳しい情報がだせないのだ。

次に上海で乞食がふえているというスレにでていた。

乞食もけっこう連携してて
家の近く倒れたふりして、恵んでくれた人の家をチェックしといてどこそこの家はいいカモになると広めて
あとで他の乞食もそこで倒れたふり
とかやってるぞ



これになぜ注目したかというと乞食していた人がこういうこと言っていたのだ。これと同じようなことをしていたし直接聞いたからなるほどなと思った。同情をひくためにインドや中国では子供の腕を切るとかこれを考えただけどぞっとする話だけどそこまでするのかとなるけどそれほど厳しい社会でもあることになる。乞食には性質的には悪い人間もかなりいるのだ。昔は乞食で財産築いたという人までいたらしい。いづれにしろ2ちゃんねるでもヤホ−でもどこの掲示板でももう数が多くて情報の選別が必要なのだ。ただこれも個々に関心が違うからむずかしい、でもみんな読めないんだから誰かがこれが重要だよと選別しないと情報はもう活かされないのだ。

自分が2ちゃんねるのこのスレに注目⇒即アクセス
同時間にリンクしているからすぐ参考にできるのがインターネットの使い方である。これが遅れると色あせるのがインターネットでもある。

曽根綾子の疑問

週刊現代か文春かに曽根綾子の文がでていた。それも創価批判を大々的にやっているあとに出ていたのだ。曽根綾子は時事問題にだしたが創価の機関誌第三文明にも投稿しているのだ。こういうことはありえないはずである。創価直属の機関誌にのせ創価批判キャンペ−ンの週刊誌にものる。これがマスコミで行われていることの不思議である。週刊誌とかも実際は自分も疑問である。
なぜならそこで売ることが第一だからセンセ−ショナルに書きすぎるのだ。ここにも視聴率第一とか売ることが第一にされる報道の問題があるのだ。その点逆にインターネットの方が営利と関係しないから真実が出ているのだ。ただ探すのがむずかしいのである。今や既成のマスコミの有名人はインターネットでチェックされていることに注意すべきである。
彼等はマスコミによって特権を得ていた。その中で排除されていた人はかなりいるのだ。マスコミは人を勝手に選ぶ権限をもっていたのである。出版社もそうである。出版社の方が力があるから出版社から除外されたものは出ないのである。


11月21日
百万人の声

インターネットの問題は2ちゃんねるでも他の掲示板でも聞き取れない状態になっている。個々の発言として貴重なものがあるのだがそれを読み取ることがむずかしくなっている。それで疲れたのだ。百万人の声を聞くことはできない、確かにそこに珠玉の発言は埋もれている。しかし探しえようがない、百万人の怒号や叫びのなかに埋もれかき消され解読できなくなっている。ホームページの日記にしても貴重な発言があっても読めないというのがインターネットである。

百万人の叫ぶ声
それらを聞き取れるや
静に耳を傾けるは
四五人の声
一つの墓所
亡き跡をまた訪ね
冬の日暮れぬ


11月20日
  
ソフトが使いこなせない

ホームページビルダ−なかなかつかいこなせない、固定幅というのを押してなかったから文の端がそろえられなかった。これは文章をみずらくしていた。これはわからずず−っとしてしなかった。こういうことがソフトにはかなりある。わからないままに使っているのだ。それも期間が長くなる。2年間使ってやっと今になって気づいた。これだからソフトは使うのはむずかしい。誰かに基本的なことを指導してもらう必要がある。特にホームページビルダ−とか必ず使うものはそうである。このホームページ作りはかなり手間のかかるものである。毎日日記書くだけでも労力がかかる。そしてソフトの使い方とか未だにわからないことが多すぎるのだ。どうも外国の人がアクセスしているのはメ−ルを送りつけるためだった。エロとか他の宣伝のメ−ルが来るからだ。日本のホームページのメ−ルを無闇に拾ってメ−ルを送っているのだ。内容は見ていない、それに比べ日本人のは内容を見ているのが多い。検索のキ−ワ−ドでわかった、ここに来るのにふさわしいキ−ワ−ドがかなりあったからだ。ともかくソフトはほんのちょっとしたことがわからないとそれを一年も二年もわからぬままにしているから困るのだ。前はアップするときとんでもないめんどうな手順でしていた。それも一年くらいやっていたのだ。この世界は誰かに最初手ほどきしてもらわないとすごく手間をかける不能率なものとなってしまう世界である。


11月19日
 死の意味、戦争の恐怖


イラクの自衛隊派遣問題は深刻である。死ぬ人がでてくる。犠牲者がでる。アメリカの要求は日本人の旗を見せろ、アメリカに忠誠の旗を見せろ、でないとアメリカは日本をアジアで守ってやれないぞ、アメリカは忠誠の証しの生贄を要求している。ここで死ねば日本はアメリカとの同盟軍と認められるが断ればアメリカは日本に本気で守らない、安全を保証できない。アメリカがイラクで戦う意義と日本がアメリカに従いイラクと戦う意義は違っているのだ。アメリカはイラクと戦争はあくまで世界戦略として世界を視野にしてイラクを重要な地理的要所として中東支配のためにおさえておきたいのだ。そういう世界戦略がある。日本はそうした世界戦略というより関心はアジアでの安全である。日本はイラクであれ中東のイスラム勢力と敵対したくないし歴史的にも敵対することはなかったのだ。それが世界史的な争いの渦中に入るのは怖いことである。イスラムの歴史的怨念も受けねばならぬ。いやおうなしにそういう危険な場所に戦争にまきこまれることである。ハルマゲドン的戦いの恐怖である。世界中が戦争にまきこまれる。それに日本もまきこまれる。

中国も台湾と戦争になるとか最近本当に真実味を帯びてきた。戦争を身近に感じるようになった。そこでどうしてもイラクで自衛隊員が死んだからその死の意味を考えざるをえない、それもかなり深刻である。死ぬということはその意味が本当に問われることになるのだ。それは前の戦争でも未だに死の意味が問われ靖国神社が問題になっているからだ。つまりあの戦争で死んだものは犬死になのか、今回もイラクに行って死んだって犬死にだよとなると誰も行きたくないことになるのだ。こうして歴史とは常に繰り返され過去のことが本当にまた現実の問題として深刻に考えねばならなくなる。これは一自衛隊の問題ではない、日本全国民の問題なのだ。


11月18日
編集は構成力

出版社には編集権があると主張していた。本というのは作家だけではなく出版社が援助してできる面があった。本がなかなか個人では作りにくいのは一つの建築物のように構成するからである。自分が素人で失敗したのはそのためである。出版社は図とか入れたり構成の面で一冊の本を作るために助成していた。構成とはどういうことかというと一つの全体として構成することである。材料とか部品を並べただけでは建築として完成しない、それを配置して組み合わせると一つの建築として全体が完成する。出版社はその編集を構成をしていたのだ。自分もインターネットでいろいろな知識や情報を集めそれを配置して組み合わせて一つの建築にする作業をしていることに気づいた。

インターネットの情報は材料、部品としてあってもそれを構成して組み立てないと一つの全体として完成しない、例えば橋に関してのいろいろな情報を集める、俳句もあるし古典もあるし現実の橋の歴史もあるし外国の橋がどうだとか様々な情報があるがそれをやはりそれだけでばらばらであり橋に関しての独自のものを構成できていない、だからそれらの情報を集め組み立てて構成しなおし一つの建築物とすることはやはり出版社が主張する編集権がありそれで著作権があると主張しているのだ。インターネットでは個々の体験でも情報でも2ちゃんねるのような掲示板でも情報が分散しすぎてばらばらでありこれを編集して組立直し構成しないと全体として一つの建築物とはならない、だから郷土地名散策でしたように確かに引用が多くなったのだが明らかにこれは編集して構成したのだから自分の創造力の結果できたものでありこれにも著作権はあるといえる。インターネットでは実際こうして編集して構成することが多くなるのだ。リンクすることもそうだしそもそもインターネットの情報は構成されていない、ばらばらだから部分としての情報だから構成される必要があるのだ。それでないと意味あるものとして読めないことが多いのだ。

今までの情報は雑誌でもテレビでも編集して出しているから見れるのである。取材したものをテレビでも編集して構成しているのだ。だからテレビ局の意図が裏にあり隠されたものや表に出したくないものは出さないとか編集して変えることもできる。編集して構成することはそれぞれに違ったものを作ることにもなるのだ。個々の発言をそのまま出さないから編集して出すからそこに出版社やテレビ局の出す方の意図がでる。インターネットは誰にも編集されていない個々の生の発言がでている。それらは編集されていないから読みにくい、無数の編集されない個々の発言であふれているからそれらを編集しないと読まれにくい、百万人の発言を今や読むことができないからだ。つまりインターネットでは編集して構成することを必然的に強いられるのである。それがインターネットが情報のカオスになっているから大変な作業になるのだ。

(参考)
郷土地名散策


11月17日
  
公明創価に対する反発が大きくなる

結構今公明党が自民党と一体化したことで問題になっているけど公明党が何なのかわからない人が多いのだ。創価という宗教団体と別物と考えて公明に応援している人が多い。事実創価以外の票が300万票くらい入っている。これは公明は創価と関係ない別個の政党だと思って入れている。しかし本質的には公明党は池田大作を守る創価を守る為に存在している。確かに一般の人にも恩恵を与える政策の実行の為に努力している。しかしその目的はそれ自体にあるのではなく創価の味方にして創価が天下をとることにあるのだ。ええ、宗教が天下をとるとかそんなことあるのかというが現実、「権力奪取、権力奪取」これを幹部の集まりでは叫んでいる。普通だったら疑問に思うのだが全然疑問にもならないのが創価なのだ。そもそも彼等の勢力があんなに巨大化したかというと宗教、カルトで奴隷にすることもあるが実際はそうした人間の欲、上へ昇りたいという欲望を増進させるからである。「お前ら、大臣になれるぞ、議員になれるぞ、・・・・」これだけではない、創価は天下をとったら社会の枢要な地位につくと本気で思って活動しているのだ。創価に入る人は事業に失敗した人やいろいろいる。在日のように政治的要求を通す為に入る人もいる。そこに入る動機は一様ではなく誰も解明できない怪物化している。宗教とは関係ない様々な人間の要求を満たすための団体になっている。

でもこれが実現したらどうなるのか、そうなると創価の人間だけがいい地位についてご利益を受けるのに他の人間は受けない、なぜ創価の会社に公共事業が回されて反対したものは受けられないとかなり今度は権力闘争になる。なぜなら公平にみんなにご利益は与えられない、誰かが損するからだ。そこで利権をめぐって血なまぐさい争いまでおきる。暴力団的争いが起こるしその反発も大きくなる。それがやはり自民と一体化した創価に対する反発となって今回現れている。アイルランドのカトリックとプロテスタントの宗派の争いもプロテスタント系がいい職につけるのにカトリック系がつけない、失業者が多いとかでテロがつづいたのである。宗教の争いというより利権の争いである。そもそも人間が戦争してきたのはみんなこうした利権を拡大化するためであり正義の為に戦争したというのはまれだろう。宗教の為に争うというのもやはり裏に利権がからんでいるから複雑になる。創価が政治にかかわる度合いが大きくなればなるほど必ずその反発もますます大きくなるのだ。それに対して「宗教の自由」を侵害するのかというのもおかしなことである。そういうふうに権益とか利権を権力をとるために宗教があるのではないからだ。それ自体誤っているのだ。

創価の人がなぜ自分達がいいことしているのに仏法を広める為に努力しているのに批判されるのか?といつも怒りこれは魔だとか仏法を広めると魔が現れ邪魔するとなるが全然仏法とは関係ない、権力をとる、利権を拡大化しようとするとそれに反発するのは戦国時代と同じである。利害関係で衝突するからそうなるのであって仏法を広めると魔が生じるなどと指導されていること自体おかしいのである。しかしこのことをいくら言っても理解しない、特に婦人部は理解しない、私たちはいいことを広めいいことをしているんだと思っているからあんなに熱心にやっているのである。ちょっと考えればこれはむずかしいことでもない、女性だってこれが仏法なんだろうかということをわかるはずである。学問なんかもあまり関係ないのだ。しかしそう思い込んで運動しているんだからどうにもならない、ただかえって2世はさめた目でみている。なぜか、創価の運動が家族にとっていいことない、迷惑していることを見ているからである。

創価の存在が大きくなればなるほど国民の反発は比例して大きくなる。それは別に宗教に反対するとかではない、戦国時代のように権益とかで対立することが大きくなりその奪い合いで争いになるのであり仏法とはなんの関係もないのだ。そもそもそんな「権力奪取」を目的にして活動していること自体一番仏法に反していることなのだ。それをいくら言ってもわからないしとにかくご利益がある利権があることがまたこれからもご利益があるということになるということで活動しているのだからこれをとめることはできない、毎日必死になり商売や工場で働いている人と同じである。そこでは売り上げあげるためにみんな必死になっていると同じだからである。・・・・・・・・


11月13日 2ちゃんねるの民主主義(創価問題)

今回の2ちゃんねるのスレは面白かったというより相当深い議論ができた。なぜかというと創価に実際入って活動した人、創価で活動している人、創価の2世の人、・・・・・これで創価に関する厚みのある情報がでて議論ができたのだ。つまりいろいろな立場の人がいるとあれだけの深い詳しい議論ができるのだ。創価からの内部の情報もでたから真実味が帯びてくる。一人の婦人が百人の友達票をとっていたのは驚く。創価の選挙を支えているのは婦人部なのである。創価にもいろいろな人がいる。これはもはやどういう人がいるかなどわからない、怪物である。二世の人は熱心ではなく距離を置いているから熱心な親の世代がいなくなり池田大作が死にやがて衰退して行く。実際は不思議なことは創価自体の数は二十、三〇年前と変わっていないのだ。いづれにしろ創価も自民も落ち目である。だから互いに手を結び延命を計ったのだ。やはり民主の方が伸びて未来に向かっている。まず自民の候補のポスタ−に公明に入れてくれというのは明らかに常軌を逸している。それほどもう自民だけでは戦いないのだ。それほど自民の支持基盤は弱ったのである。

今回の議論は現場の人が直接メデアを介さないで話すことにより今までにない情報の公開や議論になった。創価の人も発言してかまわない、創価は自分達だけ集まり他者には威圧的におしつけるのが手段だかここでは個人が発言するからそれが問われるからここではいつものように通じないとなる。それでなんだろうなと考える人もわずかであるがでてくるかもしれない、一方的な発言しても通じないからだ。だからここでは確かに民主主義的な場となったのである。マスメデアを通してしか情報や議論はなされていない、そのマスメデアから除外された情報はでてこないのだ。それがもう一つ問題あるにしろ情報を発信する、情報源になる場ができたことは大きいのだ。このスレは週刊誌より詳しいだろう。この一部をわかりやすいように編集すれば一つのストリ−となる。創価に対する情報源になる。

自分も創価にかかわったから発言したのだが実際わからないことが多かった。在日が創価に多いということもわからなかった。創価が何のなのかなどわかる人はいない、このスレは創価を知るにはかなり参考になる。これは別に匿名でもいいし匿名だからできたことでもあった。政治にインターネットは役に立つということがわかったのである。ただインターネットの情報は読み解くことが非常にむずかしい、2時頃までやってひどく疲れた。インターネットの情報通になるには相当な暇な人である。いちいち検索して押すだけで手間なのだ。でもみんな関心が違うのだから個々の関心に答えるのがインターネットだから今までの情報環境と違うから利用するのがむずかしいのだ。2ちゃんねるにしたってあの議論から読むだけでも大変でありそれを読みとくのが大変だからヘッドラインとして読む。つまりインターネット内の情報通になるのは大変な努力が必要なのだ。


創価のの女性の運動員逮捕(テキスト化保存)

2ちゃんねるニュ−ス速報1へ
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1068514896/l50



11月11日


岡山県警総選挙違反取締本部は10日、公選法違反(投票干渉)容疑で、  岡山市高島新屋敷の公明党運動員の無職田中逸江容疑者(61)を逮捕した。
 調べによると、田中容疑者は衆院選投開票日の9日午前10時40分ごろ、知人の 岡山市に住む無職女性(67)を投票所まで連れて行き、比例代表の投票用紙に 「公明党と書くのよ」と言って投票を干渉した疑い。

http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-031111-0001.html
 

これは一社スポ−ツ新聞紙か報道していない、これもおかしい。報道しないこと自体その重要性を無視しているのかしたくないのかマスコミだけでは今や何が重要な情報なのかさえわからない、芸能とかスポ−ツは重要ではない、国民にとって重要なことを明確に報道するだけでも報道する義務がある。これについては2ちゃんねるで詳しかった。それぞれの立場で創価について話していた。いかに創価=公明であることすら知らない人が多数いて軽い気持ちで公明に入れていたのだ。なぜそうなっているのか公明=創価ということをマスコミでもどこでも明確に伝えていないからだ。ただテレビで公明が今回の選挙でいかに自民党と一体化して票を伸ばしたかわかった。自民が公明の比例区に入れろと運動していたのだからもはや創価公明と自民は一つの党とみるべきである。だから多少国民にも危機感がでてきたのか、マスコミで公明をテレビで批判するようになった。しかし決して公明は創価だとは言わないのだ。

大阪辺りではまわりが創価が多くて悪口も言えないと言っていたからこれは金正日将軍様の悪口のいえない言論統制時代と同じになっている。これからこの反発は大きくなるかもしれない、創価公明も政治にさほど影響なければそんなに言わないし大目にみる。しかし自民と一体となり創価に支配されかねない状態では危機感をいだく人が増えてくる。民主は今度は政教分離で攻撃すべきである。そうすると自民そのものがかなり動揺してしまう。これはかつての自民が創価と一体となった新進党にやっこことである。やはり因果はめぐるのか、自分のやったことを今度は自民が受けるのだ。

ともかく今回の選挙で2ちゃんねるのようなものでもそこで発言したりすれば現実となるから白熱してくる。ちょっぴりであるが直接民主主義のようなものを経験した。今まではマスコミからしか情報がなく発言できなかったからだ。意外とインターネットは政治には実際に役に立つ。匿名の発言でも政治は世論を形成すれば動く。2ちゃんねるでの議論とか情報を参考にして投票する人がふえれば選挙はまた違ったものになる。組織票だけで左右されないものがでてくるのだ。インターネットで投票できればこれはすごいことになる。インターネットが現実となる。ここに若い人が多いということは若い人の意見が反映されるから政治も若い人向きになり今の選挙よりいい。死にかかったような老人より若い人の方が次の時代をになうから重んじるべきである。自民党は人材にしても若い人を吸収できないというのもやはり時代に合わなくなったのだ。

まあ、創価の問題のむずかしいのはこれに反対するとなんか党派化してしまう、正治化してしまうのだ。自分はどんな党派に与するものじゃない、党派的政治運動にはかかわらない、選ぶことがあっても自ら運動することはしないのだ。それがあれは政治的党派として運動しているととられるのだ。政治的闘争のなかにまきこまれることがこまるのである。宗教と政治は本来別物であり政治的闘争にはかかわらないのが宗教である。「戦争すべきではない」というとき党派的立場で言っているのではなくあくまで宗教的立場で言っているのだ。そのへんが誤解を受けやすいのである。

私の選挙分析は時事問題12へ

2ちゃんねるニュ−ス速報1へ
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1068514896/l50

このスレは面白かった。557くらいでとまってしまった。


11月8日
選挙は誰に投票するのか?

今回の選挙は情報がたりなすぎる。比例は民主だが小選挙区はまったくわからない、人物に対する情報はまったくないし何が地域で議論されているのかもまったくわからない、地域で誰が何をしようとしているのかもわからない、党では決まっていてもこれでは投票動機が作れない。民主党の小選挙区の議員は2世で36歳である。ここは入れたくない、でも他に入れる人もない、インターネットでも議論されていない、地方の掲示板は発言が極端に少ないのだ。掲示板ばかりやたら多くなって発言が集まらない、発言が分散するとインターネットはつかいずらい。だから何が問題になっているの化さえわからない、これで誰に投票したらいいのか決めるのはつらい。人物はわからないから小選挙区制は党で決める、二大政党化のためにも民主党に入れる他ないのだろうか、人物は二の次で党になってしまうのが二大政党なのだろうか、明日どうしていいか本当に困った。もう少し地域でも議論と情報がないとこれでは判断する材料が少なすぎた。連呼だけで終わりだった。

今回の選挙は都会ではやはり民主のほうが有利だろう。無党派層が動けばそうなる。田舎はどうなるのか、やはり利害関係で決まるのか、利害に関係しないものは本当にどれにしていいのかわからないのだ。2世議員というのはこれはかなり問題である。民主主義は封建時代じゃないんだから2世ばかりでは困る。でもアメリカでも大統領は2世だった。民主主義の本場でそうなのだから政治は権力がかかわっているから利権の継承のためには2世がいいのかもしれない、インターネットでも常に肝心なことで情報が不足しているのだ。インターネットの場合、探すのが手間かかるからこうした短い時間では誰かが記者が要点をついて説明してくれる。そういう人が必要なのだ。インターネットでは毎日発信できるからそれができるはずだが地方になると時事問題12にだした郷土誌は盛んだが地域の今の時事問題の記事はホームページでも少ないのだ。地域ではまだまだインターネットを通じて政治や地域の問題を議論するレベルになっていないのだ。電子政府もまだまだむずかしいからさらに地域にインターネットを利用した民主主義ができるのはまだまだであるというよりほとんどまだない、中央ばかりの党からのメッセ−ジしか届いていないのだ。

それから80以上になると老人は投票に行かない、なぜか腰曲がったりして行くのが億劫になるのだ。若い人と80以上の老人は投票率が低い、やはり若い世代が次の時代をになうのだから若い人の無党派層の投票率はあがるべきである。老人が増えて老人の投票率があがると社会はゆがめられるのではないか、世界を相手に競争するのはこれからの若者になるし引っ張るのも40代になるのだから、老人がふえて老人の意見ばかり反映されるとなると問題である。
ここにも民主主義のうまく機能しない面がでてくる。


●投票したい人がいないから

 「投票したい人がいない」という結論を出すことに意味は無いので
 思考回路を切り替えるべきである。
 自分の思惑と完璧に一致する候補者はまずいないので、できるだけ
 自分に近い候補者に投票することが選挙の本質的なありかただ。

●どうせ投票しても何も変わらないから

 このような考えを持っているということは何かを変えたいと思って
 いるのでしょう?
 ならば意識改革が必要だ。棄権するから何も変わらないのだ。
 昨今あなたのような人が有権者の多数を占めていると言われているが その中の一部が動くだけで、何かが変わる可能性は大いにある。 もちろん必ず変わるという確証はないが、変えたいのなら行動だ。

●選挙制度自体がまちがっているので投票しない
 
いまの選挙のやり方は必ずしもベストではありません。
 むしろ、政権党に有利なルールになっています。
 ですから棄権をしても、彼らを喜ばせることにしかなりません。
 投票率がいくら低くても当選は無効になりません。
 棄権した人が選挙制度に抗議をしたかったのか単に面倒くさかったのかを 選挙管理委員会は区別してくれません。すべて白紙委任と扱われます。
 黙っていれば抗議になるという勝手な思いこみと甘えを捨てて、
 あなたの意志を伝える手段=投票にいきましょう。


突然こんなコピペがでてきた。これはグッドタイミングだった、同時につながれているから選挙のときなど参考になる見本だ

11月7日
不正アクセス問題

寝るときパソコンを切ろうとしたら「このパソコンは接続しているいます」とメッセ−ジがでてくる。ええ、誰か自分のパソコンに接続してしいるのか?自分のパソコンを見ているのか、自分のパソコンを操作しているのか?これには不安になった。ウィルスには感染していないがウィルスに感染されやすくなるという、nttに聞いたら危ないからセキュリティした方がいいという、そのためにはル−タ−を一万で買い月300円払うことになる。これをしたからといってはたして不正アクセスを守れるのか?これがどういうことかわからない、勝手に自分のパスワ−ドが盗まれているのか、これはかなり不安である。自分のパソコンが壊されるのではないかという不安である。インターネットは便利なんだがこういう不安が常につきまとっている。突然デ−タ−が消えるとか消されるとかの不安である。そういう操作がしやすいのだ。でもセキュリティを万全にできるかのかわからない、常時接続にはその不安がつきまとっている。パソコンはまた金食い虫である。ソフトとかその他のとりつけても使いなくなることがある。ソフトでは大失敗したから今ではなるべく買いたくない、ソフトはその人自身の使い方のほうが大事なのだ。ソフト自体よりフリ−ソフトでもその人がうまく使えばいろいろ応用できる。高価なものでもその人がうまく使わないと応用できないのだ。だからソフトは無駄が多いのだ。いづれにしろこれには困った。でもどうにか対策を打つ必要がある。このままにしてはおけない、ウィルスに感染さやすくなるというのも不安なのだ。設置自体は簡単だからやるほかないだろう。


11月4日
 日本人に不満のはけぐちが・・・・・

今回の西安の学生のデモは日本人かスケ−プゴ−トにされたのだ。それを象徴していたのが52人の無職者がデモに加わってい取り調べられたことでもわかる。まず南と北では経済格差が相当なものである。実際北は南の召使いのようになっている。お手伝いさんとして北のものは農村部のものは雇われる。北は南の召使いということはすでにそこに階級ができあがっている。政府に対する不満が日本人を攻撃する結果となった。不満のはけぐちが日本人に向けられたのだ。日本人も裕福だから同じようにみられた。政府には反抗できないから日本人が標的にされた。共産党政府はワイロが横行する。観光の人が警察に通行料みたいのをとられるとかタバコはまず上のものにプレゼントとしてやるとか商売している人は日本人の社長も言っていた。金や物を贈り商品を特別に通してもらっている。輸出する場合、そこに常にワイロが送られている。そういうものを検査する所には金が入る仕組みになっている。つまり特権が得られるがそれを得られないものは中国ではかなり損な立場になる。その差が中国では激しいのだ。西安の地域はかなり貧しい地域である。シルクロ−ドの時代は向こうのほうが豊かだったが今は海岸部にはかなわない、中国は経済的には格差がひどいから同じ国とすら思えない状態になっている。経済的には北は南に隷属する状態になっているのだ。だからキッカケはなんであれ不満が吹き出したのだ。実際南と北は戦争になってもいいくらいの格差があるかもしれない、この経済格差が中国を分裂させる一番の要因だろう。

群衆の情的な統一を得るのはもっと低い水準の場合初めて行われる−ラッセル(権力)

こういう不満は一体化しやすいことの証明である。


11月2日
報道のモラル

週刊誌が350円になっていた。週刊誌は立ち読みだけで買っていない、350円となると高い、でも情報を出す方にすると金がかかるからそうなる。最近情報がインターネットなどからも入るので週刊誌が売れなくなったのかもしれない。2ちゃんねるはちょっとした週刊誌だから。そもそも週刊誌でも本でもテレビでも情報を出す方に金がかかりすぎた。だから高くなる。これからはインターネットでコンテンツだけいいものを出してゆけばいいがその過度期なのだろう。情報には情報のプロがどうしても必要なのだ。素人だけでは取材とか情報の取得ができないものがかなりある。しかし情報の取得はかなりインターネットでは違ってくる。

スイスのルツェレンに行ったことあるがあそこにはゆく人が少ないと野口氏が言っていたがインターネットでみたら団体で行っているしあそこはいいところだから相当な数、日本人も行っているのだ。これも情報不足なのだ。ルツェレンのいろんな角度からの写真が一杯でているのだ。有名な場所は外国でも写真は相当にとられている。ただどうしてもガイドブックに書いてあるような説明になっている。二本松だってあそこの写真は相当とられている。写真の情報が集積されているのだ。しかし情報はあることについての情報はつねにたりないのだ。あることを詳しく知りたいとなると情報がたりないのが常である。ニュ−スでもそうである。そのニュ−スの背景やそのことについて詳しく知ろうとすると情報がたりないのである。

テレビも視聴率のごまかしがあきらかになった。プロデュサ−は視聴率でその地位も決まるし視聴率とれないプロデュサ−が自殺したとか視聴率至上主義になっている。これもマスメデアの異常さを生んでいる。大衆にこびる、視聴率第一主義の時代は終わった。人間の社会には堅実なものが必要であり堅実なものが骨格となるべきである。それは少数でもいい、少数者でもきちんと真実を報道し知らせるべきである。また自分のよってたつ立場を明らかにして首尾一貫した報道の姿勢が望まれる。つまり今や一億総ジャ−ナリストになっている。そのモラルが問われている。そうした自覚がないのがインターネットだが報道とは何かとか報道のモラルが一人一人に問われるのがインターネットなのだ。自分も別に報道したことないから報道は受け身でしかなかったから考えもしなかったが報道のモラルを考えるようになったのだ。それがプロであるなら報道のモラルは是非必要だった。視聴率第一主義は全くモラルとは関係ないから今までのマスメデアの報道は歪んでいたのだ。真実は探求されず報道されなかったのだ。民主主義は言論の自由がその生命であり報道がたれほど影響するのは報道によって判断するからマスメデアが第二の権力となったのは当然であった。

中国には報道の自由などない、だから西安の学生からのエロ寸劇で排日運動になったのも日本のような報道の自由がないから日本での中国人の犯罪などとりあげないし公平に見られないから自分達だけが正しいと錯覚してしまう。北朝鮮と前のイラクと同じでありこうした言論の自由のないところは信用できない、政府によって操作されたり外から見て異常な行動も中にいるものは普通になる。情報がないため公正に判断できないのだ。今回の問題も日本人に非は多少あってもあれほどまでに過激になるのは一方的情報の操作によるためである。ただ今やインターネットが普及しているし学生ならインターネットからも情報を仕入れることができるはずだからそのへんの事情はよくわからない、西安で起こったというのはあそこは南とは違い、経済的にかなり遅れている。貸し自転車を借りたが日本では捨ててある自転車よりひどいボロボロの自転車だった。経済格差がかなりありそれも日人に対するやっかみとしてあったかもしれない、まあ、日本人は性に対してのモラルが低いから外国では注意すべきである。外国ではやはりちょっとした誤解が大きな問題になりやすい、今は選ばれた人だけが行っているのではない、普通の人も大勢行っているからあまりハメをはずすと危険なのである。


11月1日
中国は今回はやりすぎだ(西安の日本人学生の処分)

中国の西安大学での日本人学生のエロ寸劇で中国人がデモで日本人排斥に出たのはこれは集団買春でもなんでもない、どんなに厳しく見たって今の世界的状勢ではやりすぎである。仔細はわからないにしてもこれほどの政治的デモとなると学生が自主的にやれるわけがない、そもそも言論の自由がない国なんだから。買春問題はそれなりに批判されてもしかたないというのは自分もそうである。今回は世界の常識の度を越している。政府の意図が働いている。中国は今でも日本人を恨んでいる人がかなりいる。タクシ−に乗ることを拒否されたと書いてあったが自分もこれと同じ経験をしたのだ。筆談でわかりにくかったが今思えばそうであった。同じ経験をした人が西安にいたのだ。こういう確認にインターネットは役に立つ。でもなぜ今日本人攻撃するのか、明らかにこれは政治的意図がありなされたことである。台湾問題とか北朝鮮問題とか日米韓に対する対抗意識を出してきたのか、そういう政治的意図がないとしたらここまではしないだろう。日本を標的にしてアメリカに対抗する意志表示なのだろうか、ともかく台湾問題では中国はアメリカのために侵攻できない、その腹いせが日本に来たのかもしれない、そもそも中国人の民意は統一されるのだろうか?言論の自由などないのだから本心はわからない、無数の不満分子の意見も出て来ない、法輪講が弾圧されているように共産党の幹部の意志で決まる。創価や共産にも言論の自由はない、幹部や北朝鮮のように将軍様の命令で決まる。

こういう一党独裁の国とはイスラム国家でもそうだかつきあいにくいのだ。そこには民衆の意志はないのだから民衆を基礎にしたつきあいはできない、一応指導者に国益を損しないようつきあうほかないのだ。この事件に反発が多いから日米安保が大事だとなり自民が小泉が有利になる可能性もある。私もこれは世界の常識からして納得いかない、中国の言論統制とか一党独裁とか強権的な仕組みの恐怖すら感じさせるものだった。日本人が共産党によって粛清されるような恐怖である。やったことは架空の劇にすぎないからだ。そういうものをやり玉にあげてつるし上げするのは怖いことである。中国集団買春はこれは中国のやりかたに批判できないものがあった。つづいてのこの事件は何の意図なのか、全くモラル的に厳しい目でみてもわからない、やはり中国の怖さを身にしみた事件でもあった。


10月30日
歴史と教訓

歴史とは個々の無数の事件ではない、今でもニュ−スは毎日のように事件を放送しいる。ニュ−ス過剰の時代である。でもそれはその時々ではかなく消えてしまうのだ。ほとんど一回限りで消えてしまう。いちいちその事件の意味を考える前に次から次と事件が起きてそれに追われているのだ。だから一つ一つの事件についてゆっくり考えることができない、もちろんその意味について考える前に次の日は新しい事件が放送される。犯罪にしても一つの犯罪は非常に複雑な背景がありそれはそうとう調べないとわからないものである。ところが次々と事件が起こりその意味を問う暇もないのだ。歴史のなかでも無数の事件が起きている。その過去の事件もやはり今の事件と結びつけて考えるときその事件の意味も浮き彫りにされる。

ソニ−ではテレビのブラウカンで成功したから液晶時代に乗り遅れて失敗したという。成功したことで他に目がいかなくなったのだ。人間の歴史で何かで成功することは失敗することだった。聖書では人間を神が作った、しかしその人間はサタンに誘惑され罪を犯し失敗した。今詳しくは検討できないが聖書の中の人物は成功してみんなそのあと失敗している。ダビデは王になるまで成功したのだが最後は権力を持ちその権力で部下を危険な戦地に派遣してその死んだあとその妻を無理やりに妻にした。権力を持ったが故に権力の濫用が起こった。権力の魔力故の罪でもあった。権力を持つとどんな人でもそうなりやすいという教訓だった。豊臣秀吉も大成功したが朝鮮征伐とかで大失敗した。権力者故の傲慢さの故に失敗した。日本の戦争もやはり日清日露と戦争で勝ったからその傲慢さで負けた。日清日露戦争に反対した人は内村鑑三くらいであとはみんな戦争賛成論者だった。この戦争の成功が次なる戦争の大きな戦争の失敗の元だったのだ。歴史をよくよく調べてみたまい、ほとんど成功は失敗の元である。成功することは失敗することだというほど成功はつづかないのだ。それが歴史の教訓であり人間の運命でもある。

歴史の意味は個々の事件であれ大きな歴史的事件であれそこから教訓を引き出し後の世に役立てることである。それが成されなければ歴史は無意味になる。歴史はまだ長い時間の中で見るもので今という時間の中で今に目を奪われて過去の歴史をみないとその意味もわからないし判断も誤る。長い過去からの積み重ねの時間とさらに未来へのまなざしがあるとき今も見えてくる。現代の状況はあまりにも今に目を奪われている。歴史を長い時間の中で見る目を養うことが養う目をもつことが大事である。聖書は最高の人間に与えられた歴史書である。そこから長い時間の中で歴史を見る目が養われる。

ただ歴史はそうした大きなものでもなく卑近な個人の人生にも歴史があるのだ。なぜその人がそうなったのかはやはりその人の生い立ちとか歴史を考えないとわからないのだ。30まで生きたらすでにそれなりの歴史があるのだ。なぜそうなったのかはその生きてきた過去の中にその解答がある。それが他者にはわからないから突然事件が起きてびっくりするし理解できないのである。何事にも積み重ねがありそれが歴史である。例えばインターネットは非常に歴史が浅いからまだ十分に利用されないしどう利用していいかもわからないのだ。報道というのは一般の個々人がかかわった、報道主体となったことないのだ。大きなマスメデア、会社がしていたことであり個々人が報道するなどありえなかったのだ。だからここには過去の積み重ねがないし歴史もないから何かまだ重みがないし社会的に認知もされないとか情報が錯綜し混乱してわからないとかいろいろある。新聞でも過去の情報の記録の積み重ねがありそれが貴重な歴史の資料になっているのである。いづれにしろ個々人が報道できるという時代は今までなかった。その歴史もないことを今みんなしているから混乱して無秩序な情報のアナキ−のようなものになっているのだ。


10月30日
不法滞在の外国人の一掃?

不法滞在の外国人を大幅に減らすため、警視庁は27日から、
逮捕した不法滞在者が強盗などの重大な犯罪にかかわって
いない場合には、速やかに入国管理局に身柄を引き渡し、国外
退去を効率的に進めていくことになりました。



アジア、南米を始めとする貧国系外国人は、そのほとんどが金目当てで日本に来てる奴だから、やっぱり好きになれない。
金に困れば犯罪だってお構いなし。最初から犯罪目的で入国する奴も少なくない。
欧米系は祖国でも普通に暮らせるけど、日本が好きで、日本という国に興味を持って来ている人が多いから、仲良くできる。
日本人だって、わざわざ外国で生活している人は、転勤になったサラリーマンなどを除けば、その国が好きで行ってる人がほとんどだからね。


まあ、これも一つの意見だろう。台湾と与那国島は約100キロであり今年定期航路が開通する予定だった。それで問題になっているのが台湾の偽造パスポ−トで日本に入ってくる中国人である。サピオにも書いてあったが一旦日本に入ればしめたものだと沖縄でも日本だからあとは本土にも簡単に入れるのだ。意外とここが不法入国の穴場になっている。よくよく考えるとなぜ自分が与那国島で木陰に長く休んでいて地元の人に警察に通報されたのか、一つの原因は異様に日焼けして顔が黒くなっていたからそれで不法入国の人かと怪しまれたとういことも考えられる。不法入国が増えているのだ。今沖縄は明らかに日本に入るル−トとしてできあがっている。かなりの人が沖縄から入ってきている可能性が高いからだ。こういう状態で不法入国の外人を国外退去することを厳しくするというのもわかる。一方で中国人や韓国人のビザなしの入国をすすめている。これも日本に入りやすくなる。

10月25日の福島民報に相馬で偽造パスポ−トで外国人登録証を取得していたペル−人がつかまった。食品加工業につとめていた。おそらく漁業関係の仕事だろう。昨日は原町で外国人をみかけた。地方でも外国人が結構働いている。安いから雇っているのだろう。そういうふうにして不正入国でも雇うように斡旋する人がいる。これは日本人側にも問題がある。ただあまりの外国人の犯罪の多さに取り締まりが強化されるのもやむをえない状態になっている。日本でも今や鎖国などできない、しかし犯罪の増加は困る。不法入国者はやはり犯罪に陥りやすい、金だけもって母国に逃げる方が得と考える誘惑が強くなるかもしれん、では安く雇う穴埋めが日本人にできるのか、今不況の折、安くても雇えるかもしれんが経営者にとってはやはりかえって苦しい問題となる。でももはやこの犯罪の増加は異常であり限界に達しているのだからこの処置もやむをえないだろう。


10月29日 
商品の善し悪し


なぜこの商品の写真をだしたかというと別に宣伝するわけでもなんでもないんだよ、品物のどこがいいとか悪いとか使ってみてどうだとかそれを正直にマスコミでは報道されないんだよ、先にスポンサ−ありきで商品は二の次になる、商品は使った人しかそのいい点と悪い点がわからないんだよ、これは何も商品だけじゃないんだよ、今までのマスコミだと先に売れるかどうか視聴率がとれるかどうかとかそれが問題になる。出版だってそうだよ、話題性があり売れるかどうかが先に問題になり本当に知らされたいものまで本屋には出ないんだよ。営利的なところはそうなるのだ。ダイアナ妃の暴露本も金儲けが先にたっているからあまりいい印象はないしそれを鵜呑みにすることもてきない、そもそも真実は目立たないところにもある。いい商品でも宣伝されないところにもある。これをインターネットではできるんだ。それがインターネットのいいところだよ。この商品についてここに出したのはそのためである。

歯ブラシ

歯ブラシはすぐに毛がいたみ使いなくなるのが多いし硬いのが多い。それで豚の毛とかいろいろ試してみたがいいのがなかった。今回の歯ブラシは柔らかいし長持ちしそうだ。これは一番いいみたいだ。

コ−ヒ−カップ

コ−ヒ−カップは使えるのはそれなりに大きいものでないと使いにくい、小さいのが多すぎる。喫茶店で使うようなものはでは家では使えない、お土産で買ったものは四、五千円して買いためたがほとんど実用にはなっていない、鑑賞用とコレクションであった。この二つだけは実用的に毎日使っている。一つは福島の駅で買ったものでありもう一つは最近相馬の道の駅で買った。千五百円と相馬焼きのは千円だから安い、お土産のは高いだけで使い物にならなかった。
福島駅で買った  ・・・道の駅で買った相馬焼きのもの、中のひび割れは相馬焼きの特徴、これらはもちやすいし色もコ−ヒ−カップにいい。


10月28日
選挙は誰にするか

福島一区

佐藤剛男(66)自民前
石原信太郎(36)民主新
山田裕(48)共産新
亀岡偉民(48)無所会新

福島一区自体前は浜通り地区、相馬と磐城だった。それが小選挙区になり福島中心になった。相馬地区からは誰もでていない、前は相馬地区から議員がでていた。福島市と相馬市はなんかつながりが感じられないのだ。汽車で行くと岩沼から福島市に行くから遠回りになる。バスも不便である。直通はなくなっているかもしれない、間に阿武隈高原があるから地理的にもへだてられる。福島市は実際は相馬からするとかなり遠く感じる。例えば仙台には仕事で通っている人もかなりいるが仕事でかかわっている人も福島市とは少ない。福島県は県として広すぎる。だから一体感が希薄である。会津はもともと別の一国であったし伊達郡は伊達政宗の出たところだから仙台藩で宮城県になる。歴史的には三春藩とか二本松藩はなじみのあるところみたいだった。福島市は何か歴史的にもなじみがないのだ。
この中で誰を選ぶかというと比例は民主に決まっているが小選挙区はわからない、民主にしようとしたら石原氏は36歳でずいぶん若いなと思った。この人は父親が議員だったことがあるから二世になるのか、でも父親も前は落選している。どういう人なのかも全くわからない、小選挙区はやはり人物とかいろいろ考える。でも小選挙区は党中心で決めることが多くなりやすい、今回は特に自民と民主の政権選択となるとそうである。民主は若い人が多い。それで2ちゃんねるの対話で見つけた。

今の自民党は若い人材を育てる場所ではないじゃん。
親が代議士でもない、強力な応援団もない官僚スピンアウト組は
大半が民主党から政治家のキャリアを始めようとしてる。

なぜ民主党がこんなに若いかというとこういう事情がある。自民党は若いエネルギ−を吸収できなくなっている。中曽根首相の比例名簿入りからはずされた問題も象徴的である。自民党は政権政党で50年も存続してきたから老朽化してしまったのだ。だから支持基盤も弱体化して創価などの応援なくして維持できなくなった。時代の変化に自民党はついていけない政党になったのだ。50年はやはり一時代であり一区切りである。だから交代の時なのだ。

政治にしろなんでもそれに精通するには役目を与えないと精通しないし能力も育たないし能力も発見すらできない、それは自分がホームページでこれほど書いてみてわかったのだ。発表する場が与えられれば自らの知らない能力が発見されたりするのだ。役目や役割を与えられると人間はそれなりにその役目を果たそうとするから自ずとその分野に詳しくなったり能力が開発される。それは政治でもそうだしあらゆる場でそうである。医者の手術の能力も手術回数によって決まるというのがその証拠である。場数をふみ経験を多く踏んだものがその技術も身につくのだ。一見みんな自分には能力ないと思っているが能力が発揮する開発する場が与えられない方が多いのである。

補足・・・・・・

1区は社民党が出ないんで、激戦になるな。
社民の票と、公明の票と前回のK氏の票が何処に行くか?
自民は大臣のチャンスだし、無所属新人は最後の挑戦?
なんで、背水の陣だし。
民主は親子二人掛かりだし、若さで浮動票が欲しいし?
どちらにしても、大票田福島市の戦いで体制は決定だろうな。

公共事業削減の今、現役だろうと新人だろうと
見え見えの地元への利益誘導が出来るだろうか?


公明の票は自民党にゆくし社民の票は民主にゆく、やはりここは自民が有利なのか、情報がたりなすぎる。インターネットもこういうとき役に立つはずだが情報が少なすぎる。

10月26日
同じ写真が増えている

インターネットで自由に写真を出せるようになって全く同じ写真がふえてきた。写真にはそういうことが起こっても不思議ではない、絵だったらそういうことはありえないのだ。写真はどこまで創造性があるのか疑わしいものがかなりある。記録としてとっているのが多いから必ずしも芸術性、創造性があるとは限らない、例えば記録としてなら誰知らない奥地に行きとったものならそれだけで貴重だから著作権も重視される。外国でも今やみんな行っているから外国ですら同じ写真がふえているのだ。

二本松に行ってとった菊人形の写真にも同じものが多いだろう。二本松の城は石段を上る所から同じのが多い。それも全く同じでありそれはとる必要もなかったものである。デジカメの時代やたら写真を撮りホームページにだす人がふえてきたから同じ写真がいたるところに見かけるのだ。その人だけの視点でとる独自の写真もあるが同じものもふえてくる。自分のとった千人菊にも同じものがあった。とするとこれには著作権は誰にあるのか、それはみんなが簡単にとれるものであり著作権はなくなってしまうかもしれない、俳句などもまるっきり同じものがあるのだ。自分の俳句とまるっきり同じものがあった。これは時間的には早く作った方が著作権があるかもしれないがそれも確かめにくいのだ。

ともかく本に出ている写真でもホームページと同じものがでていたりする。本に出ているものはプロがとったものだからいいものが多いが中にはやはり同じものがある。本の無駄は歴史でも通史として書き一冊を完成したものとして作るので重複が多いのだ。そこがかなり無駄なのである。写真をみて一枚いいのがあったりしてこれをコピ−して使いたいとか一部の文章を使いたい、読みたいとしてもそれができないのが本である。一冊買うとなると専門書だとすごい高い買い物になるから本から情報を集めることは大変なのである。インターネットではこういうことが簡単にできるからやればいいと思うができていない、膨大な貴重な情報はこれまで蓄積された本のほうにある。それでも一部だけでもインターネットにでたら即リンクとかコピ−とか引用できるから便利なのだ。今までの情報の世界とインターネットの世界の情報が合体しないとインターネットだけでは情報は専門的になればなるほどたりなくなるのだ。

写真だったらエジプトはエジプト、イギリスはイギリス、北海道は北海道と分類するのがいいだろう、その中でプロのとったのは利用するとき閲覧するときコピ−料とかアクセス料を払うようにするのだ。それを一部しているようだがその数が今までだしたものにするとたりないのだ。プロは細部にこだわり素人のとれないものをとることに意味がありだからこそ金を払うのである。つまりこれまでの情報世界とインターネットの世界は分離されているからインターネットではまだまだ情報がたりない、調べてもわからないとなるのだ。

調べていてある特定の地域の写真とかが欲しくなるのだ。それが全部インターネットにはない、するとそれを誰かに頼む、その場所の写真を送ってくれ、インターネットに出してくれとなる。それはホームページをもっていれば簡単にできるのだ。出版社とか地域の新聞社とかテレビ局でもそういう写真はデ−タ−ベ−スとしてある。でも使うシステムがないのである。会津の松平家の側室の墓の戒名を知りたい、写真がほしいのだがその要求に答える人はないのだ。それぞれこの写真がほしいというものがあってもそれを得ることができない人はかなりいるのだ。本で写真を集めるとなると高いからできないのである。


10月25日
『読書百遍意自ずから通ず』

読書の秋であるが私は本を買うこと自体趣味になっていた。本はこれがいいなとおもったらとにかく集める必要があるのだ。そして本の読み方のコツは何か、むずかしくてもいい本を何回も読むことである。『読書百遍意自ずから通ず』である。若いとき読んだ本をまた読み返している。いい本はある程度集めないとこうはできない、読まなくても集めること自体それで読書の準備ができたことになる。本は高いがその時その時買いば何十年もすれば集まるのである。インターネットの時代確かに情報は飛躍的に増大した。しかし百篇も読むような本ホームページがあるかというと少ない、何故ならまだインターネットには過去の蓄積がないからだ。それからいいものは古本の方があったりそろっていないのだ。インターネットは今までの読書と違った使い方が今のところ適している。情報のリンク、連鎖を作ることである。百篇読むというような使い方ではないのだ。

そしてホームページ作りで発見したことは読んだ本の引用をすることである。ホームページでは簡単に文章をだせる。その時これまで読書したものの引用をすると今まで読んだものが生きてくるのだ。その引用するものは実はその本を熟読して理解していなくても拾い読みでもできる。私はそれをかなりして時事問題で書いた。その本を全部読めなくても理解しなくてもできるのだ。つまりその作者が書いた以上に読者が発見するのだ。作者も、ええ、こんな引用して利用したのかとその意外性に驚くに違いない。インターネットの情報のリンクや引用もそうである。つまりホームページとは実は読む人がいないことで悩んでいる人が多いが自分だけでも自分のメモとしても効用あるものなのだ。ホームページは見つけ出し読むほうにとってはかなりめんどうだが出すほうにとっては実に便利にできている。その時々に思いついたことをぱっとメモして書きそれが少数でも読まれること、これは今までにない体験なのだ。そもそも一庶民の日記など読む人も本に出されることもなかったのだ。とにかくだからインターネットはみんな熱心に日記を書いている。でも誰も読まないこともありうるのだ。それでは無駄かというとそうでもない、自分にとっては記録として有益なのである。

ただ読書もやはりいいものを集め読まないと無駄である。漫画ばかり読んででいてもあとで役に立たない。20代の読書も実際50代で本当に役に立つことがある。こういうことは自分がこの年になって意外なことである。例えば逆に健康のことを考えると若いときの不摂生は50代以降病気となって体の不調となって必ず現れる。若い時のふしだらな生活は必ずあとで現れる。これが怖いのである。20年後30年後のことなんかわからないよと思っているがすぐに時間はたつ、漫画読んでもインターネットで馬鹿話しても時間はたつのである。



10月23日
人は死ぬまで仕事したい

中曽根首相が85歳だからやめてくれと言われて拒否したけどそれも一理ある。というのは人間は死ぬまで仕事がしたいのだ。ある意味で仕事が人間の生きる目的である。画家だったら死ぬまで絵筆をとっているし文学者は文章を書いているし宗教者は祈っている。今回の時事問題に書いた88歳で死んだ医者は診察室から出棺したいと言っていたという。つまり仕事場からあの世に行きたいと思っていたことは仕事が生き甲斐だったのだ。それはかなわなかったが医者もそうだし政治家でもそうである。死ぬまで仕事したいし仕事ないことほど淋しいことはない、しかしこうした仕事を与えられる人は少ないのだ。その人の天性にあった仕事をできる人は少ないのだ。だから退職して仕事がなくなり淋しい思いをしている人はたくさんいる。その人達は金があっても淋しいのである。退職してもつづけられる仕事がある人は幸せである。老人でも家の中で仕事、家事でも役割を与えられないとボケてしまうという。張り合いがなくなるからそうなるのである。家事も一つの仕事であり家の中での役割である。ささいなものでもそうした役割、仕事を与えられないと人間は生き甲斐をなくしだめになるのだ。


金になるとかならないとかの前にその人に合った仕事を持つ人は幸せである。しかし金にならないとかでその人の仕事ができない人はたくさんいる。芸術家などは特に多いだろう。詩なんか書いても金にならないから出版などしてくれないとか実にこうしたことは多いのだ。営利的なものと本来のその人の仕事と一致しないのである。85歳でもその人の仕事はつづけるべきである。仕事もjobとか軽いものではなくwork(作品)は死ぬまでつづくのだ。しかし議員として現役で金をもらいつづけるのはどういうことか自分にはわからない、有権者がそれを希望しているのかどうかもわからない、人間は一生仕事なのであり死ぬまで仕事は終わることがないのだ。仕事場で死ぬのが最高の死に方である。インターネットでは毎日こうして書けるから知的な仕事をする人には便利なのである。おそらく死ぬその日まで書きつづけ報告できる。その点出版は全く普通の人には閉ざされた世界であり一部の人しかそこでは仕事はできないのだ。出版というのが非常に手間暇かかる金も人手もかかりすぎるのだ。インターネットは物書きとか報道でもまあ手間はかかるにしても出版とは違い簡単にできてしまうから便利なのだ。


いい仕事

●回りから望まれる与えられる真面目な仕事
●work(作品)につながる仕事
●権力、金だけにかかわらない仕事



この三つの要件を充たす仕事は少ない、まず金にならないから仕事にならないというのが非常に多い。金になるのが仕事でありこの世のすべてだと思っている人が多いし社会はそういうふうに動いている。workを追求しても一文の金にならないことが多い。芸術家の悲惨はそこにあるのだ。金とは全然結びつかないからだ。この世の中いい仕事することは必ず阻害されることが多いのだ。だから職業はインドでは業であり聖書でも知恵の実のリンゴを食って労働は呪われたものとなった。いい仕事が与えられできる人はまれなのである。
この世はサタンに使われるような仕事が多い。そういうものが栄えるのもこの世なのである。戦争なんかもサタンによって作られそれに人間は犠牲にされ、人身御供にされる。宗教団体があんな栄えて仕事になるのもサタンの仕業としか考えられない、売春が仕事になるのもそうである。仕事がすべて神の御意にかなったものになっていないのだ。つまりサタンが仕事を作りだしその犠牲になっている人は多いのだ。それでも金になれば仕事になった思っている人がほとんどなのである。


政治家は国会議事堂で選挙中に死ぬ
先生は教壇上で死ぬ
研究者は研究所で死ぬ
報道官は報道中に死ぬ
医者は診察室で死ぬ
農民は農作業中に死ぬ
漁師は海で死ぬ
警官は犯罪人を追いかけ死ぬ
弁護士は弁護の故に死ぬ
消防員は火事の中で死ぬ
トラック運転者はトラック運転中事故で死ぬ
ヤクザは喧嘩で死ぬ
ギャンブラ−はギャンブル中に死ぬ
兵隊は戦争で死ぬ
それもまた仕事の定め
女性は家事中に死ぬ
画家は絵筆を握りながら死ぬ
職人はその仕事場で死ぬ
旅人はその旅行中に死ぬ
それぞれの勤めの中で
仕事の中で死ぬは幸い
命をかける仕事を持つものは幸い
それが本当の仕事だ


10月22日   ままならぬ金

今回の近くの医者の突然の死には驚いた。かなりの財産家だから突然の死で貯金も下ろせないで相続税がかかるとか騒いでいる。時間があれば貯金を降ろしたり名義を別にしておけばいいのだが突然だと貯金はおさえられかなりの相続税がかかる。しかし思うに金というのはままならぬものである。自分の金が自分の思うように使えると思ったらとんでもない、ほとんどそういう人はいない、誰か別な人に金はまわってしまい使えないのだ。まあ、億以上の金だったらもうそれは自分の金ではない、自分だけの私的なものには使えなくなっているのだ。今回も残した金は遠くにいる息子のものになるのか、婦人のもとに残る。本人がそれだけの金をなんのために残したのか結局わからなくなる。自分で自分のために何か使いば良かったのだがそうならないのが金なのだ。

自分の兄弟もそうだった。交通事故で死んだ。それまでサラ金に追い立てられていた。死んだら保険料が入ったがその保険料の一円も使えなかった。みんな子供とかにわたり自分の金は一円も使えずに終わった。生きているときは金に追われまくる人生だった。死んでから金が入っても一円も使えなかった皮肉である。他にも莫大な金を残したがその金もみんなにむしりとられその本人は老人の養護施設にあづけられうば捨て山に捨てられるようにして死んでいったものもいる。こういう例はかなりあるのだ。人間の最後金がどんなにあったからといって幸せになっている人はいないのだ。もちろん金が全くいらないとか極端な話はすべきではない、金の限度のことを言っているのだ。金は衣食住を充たす金は必要である。それをこえた大きな金のことを言っているのだ。金は誰でもみんなほしい。ではその金を手にしたとしてもそれはままならぬものなのだ。限度を超えた金は自分の手のなかにない、誰かのものになって自分では一円も使わず終わっているのが多いのだ。

どうしても権力を持つとその権力がほしい人がでてくる。その人よりその人に付随している権力、金、地位などが欲しくなる。するとそこでそのあとの人が権力争いになるのだ。これは人間が繰り返してきたことである。宗教であれなんであれ組織化集団化している所は権力があるから群がるのでありだから権力をめぐる争奪戦があり熾烈な争いになるのである。
 
時事問題11へ(近くの88才の医者の死)

10月21日
地名の面白さ (月夜畑)

なぜ地名にこだわるかというと旅をするとその土地のことを知るのに一番簡単なのはまた最初に頭に入ってくるのはその土地の地名である。「ここはどこだ」というときその地名で想起して記憶する。これは当たり前であるがそれほと地名はその土地と密接に結びついたものである。今回阿武隈山中を自転車でまわって細田というのもその一つだった。細田とはどこにでもあるし姓でもありふれたものだったが細田の意味とか細田についての由来がわからなかったが阿武隈の山の中の細い田を見てなるほどまさに「細田」だった。これに気付くきっかけは「細田」へ行く道を農作業している人に尋ねたときだった。百目木(とどめき)とはこれはまさにトドロク、ドウメクとか音から来た地名でありこれもトドロク流れのそばにぴったりと町があった。これも地名とぴったりの名前であった。

そしてその近くの地図を調べていたら「月夜畑」とあった。これも細田のすぐ近くにあった。これも不思議な名だなと思いインターネットで検索したら「月夜畑」の由来がでていた。ここで相馬藩との合戦もあった。それより月夜畑とは

秋の日は、つるべ落しと言われて短い。晴天ばかり続かぬ年もある。人手不足の家では、天気を見定めて夜業(よなべ)に稲刈りをしないと、世間並に取り上げが終らないので、夕飯もそこそこにして田甫に急ぎ稲を刈る。小学生の子も手伝いにかり出される

http://www.docan.co.jp/~tama/kurashi/tukiyo.html

ここにでていた。これはなるほどと思った。月の明かりで稲刈りするから月夜畑となった。細田といい、月夜畑といいなにかそこから山の生活が浮かんでくる。ここに地名の面白さがあるのだ。旅はこうした知識がないと面白くないのだ。外国では地名についてもわからないことが多すぎてせっかく行ってもわからずじまいになるのである。それにしても月夜畑は詩的な地名でもある。でも実際地名は切実な暮らしの中から生まれたことがわかる。インターネットはこういう特殊なものだと意外とでてくるのだ。月夜畑とは他にもあるからだ。

日本全国に同じ地名が選び出される。分類などもできる。こういう分類とか同じものを選び出すのにインターネットは向いている。nhkのクロ−ズアップ現代でやっていた遺伝子操作でもそうである。遺伝子の配列の個人情報をデ−タ−ベ−ス化して類似のものを選び出すというのもコンピュタ−は得意である。地名の全国的なデ−タ−ベ−ス化もできる。ただこれも全国の地名研究しているホームページがあってもインターネットにはださない、著作権で出さないのだ。本でしか出さないのだ。インターネットでやる人はあまり著作権にこだわらない人、素人になるのだ。それでもインターネットにでるとどこかで役に立つ、デ−タ−ベ−ス化されるのである。


阿武隈の秋(写真集へ)

10月20日
  
近くの医者がなくなる

すぐ近くの医者が88才で胃ガンになっていた。それも末期だという。入院してもう医者はやれない。家のものが毎日この近くの医者に行っていた。そこは老人専用の医者になっていた。老人の病気は治らないから毎日通う人もいるしみんな知っている人でありその治療も看護婦はわかっている。だから医者はカルテを書くだけで注射は看護婦がやっていたのだ。注射もできなくなっていた。それでも医者はつづけることができた。しかしとうとうだめである。近くに医者がいなくなると困る。大病院だけでは困るのだ。でも医者は誰にでもなれないし跡継ぎもいないからここの医者はもう終わった。88歳までできたのは実際は看護婦の力だった。それ以上にそこでは老夫婦二人だからその婦人のほうも病気で動けなくなっていた。それで看護婦とお手伝いさんでやっていた。実質は看護婦とお手伝いさんで支えられていたのだ。こういうことは他でもある。社長でも名目だけで実際支えているのは下で働く人や裏方でである。こういう人は目立たないけど実質的に支えてきた人達である。社会そのものがこうした裏方によって支えられている。ただ見えるのは目立つのは表に立つのは上の人だからそれらの人が見えないのである。

それでも医者をやるには看護婦だけではできないのだ。医者という資格を持った人が名目上でも必要なのである。誰にでもなれるものとなれないものがある。医者は誰にでもなれないから跡継ぎいないと困ることになる。町内にはあるが歩いては遠いからめんどうになる。自転車にも老人は乗れないのだ。医者は近くにあると便利である。近くに必要なのである。でもどうしようもない、老人社会を支えるのが医者であることを示している。医者が近くにない地域は老人にとってはかなり住みにくい所になるのだ。


10月19日
 
「我思う、ゆえに我あり」

「我思う、ゆえに我あり」このことすら今までは存在しなかった。ええ、自由な社会で「我思う」ことさえできなかったのか?となるが実際そうなのだ。我ではなくある代表者がオピニオンが思うことを書いたり発表することがそうであり「我思う」ではなかった。
または巨大なメデアを通して発表できるものがその思いを社会に表すことができたのだ。メデア自体がまた思うことが社会にそのまま通ることにもなったのがマスコミの時代だった。メデア通してでるものは純粋に「我思う」ではない、メデアが思うことがそこに入ってしまう。メデアでフィルタ−をかけられたり選別されるのである。まず出版とかテレビに出られる人は限られた人である。その他大勢は直接「我思う」ということを表す場さえなかったのだ。

自費出版などしても本屋には置けない、邪魔になるから置けないとかここも出版社を通さない限り「我思う」という平凡なことさえ実現していなかった。そこはまたコマ−シャリズムであり営利的な場所だから「我思う」という平凡な庶民の「我思う」ということもだされない場所だったのである。インターネットはこの「我思う」ということが簡単にメモのようにその時その場から表出できる。自分自身意外だったのは「時事問題の深層」をこれほど書いたことである。これはインターネットという表す場が与えられたから書けたのだ。他にも今日の一句一首もそうである。「我思う」が簡単にできてそれが少数でも伝えられることはやはりインターネットの大きな意味である。庶民のマスメデアを通じない「我思う」がでてくるときそれは本当の民主主義に通じるものがでてくる。最初に「我思う」がありそれがないとしたら次の我は行うというのも出て来ないのである。我思うは別に知識人だけが思うことではない、庶民が直接我思うを出すときマスコミからとは違う別な真実が見えてくるのだ。その一部が出てきたのがインターネットだがまだまだインターネットは庶民的レベルの我思うが声になっていないのである。互いに読まれることも少ないの弱点である。

長いトンネル(原町−浪江(津島)−二本松へ)(時事問題深層11)へ


10月15日
   
保冷瓶での事故

沖縄を自転車で旅行して飲み物が欠かせなかった。それがすぐに熱くなってしまうので新しい水を買っては飲んで水で金を使いすぎた。ジュ−ス飲むと必ず水が飲みたくなったのだ。水は冷えていないと飲みたくなく店によっては冷たい水を飲んでいた。それであとで保冷瓶を買い水をいれて持ち歩いた。これは結構役に立ったが最後の日にこれに飛行機なのでその日に帰れるからと思いマンゴ−のジュ−スを入れて家にもって帰ろうとしたらこぼれてしまった。穴をふさぐ吸盤のゴムがはがれてとれてしまっていた。かなり乱暴に使ったのでとれてしまった。3000円もしたので投げるのがもったいないのでス−パ−で見たら同じものがあったのだ。それで吸盤のゴムを注文できるので注文したからまた使える。これは意外とここの吸盤のゴムがはがれ安いのが盲点ではないか?商品には何か欠陥がつきものである。かなり乱暴にあつかったにしてもこんなところが簡単にはがれてジュ−スをこぼしだいなしにしてしまったのは痛かった。

これは中に機械などノ−トパソコンなどもっていたからこれに流れたら大変だった。インターネットの時代こうしたそれぞれ買った商品の欠陥などを使った人がいたるところで買いている。それでその商品を買わなくなる人もいる。ソ−テックのパソコンがそうである。自分はいつも安いのなら買っていたがこれは欠陥商品だと盛んに言う人がインターネットで多かったのである。もしインターネットがなかったら確実に買っていた。パソコンもテレビと同じようにしか考えていなかったからだ。今使っている富士通のパソコンは毎日フリ−ズしても壊れない、こういうのがやはり初心者にはいい。ただ突然壊れる不安がつねにある。それがパソコンでは一番怖いのだ。

とにかくインターネットではある商品に対する使った感想がでる。それは今までのメデアにはでないがインターネットでは個々の対応がでてくる。こんなこと買いてものせるところなどなかった。こんなことを書いてこの製品を作った人が読めばそこがはがれやすいのかと参考になるかもしれない、インターネットは
個々の感想や対応がでるのだ。マスメデアは巨大な組織とか圧力団体なら相手にするが個々の弱者には対応しない、一人くらい無視しても影響ないからだ。おそらく商品の欠陥を指摘しても普通は会社では答えない、それが東芝の製品を訴えた個人がインターネットに出して問題になったのだ。





10月15日
art=discipline

Function: noun
Definition: training
Synonyms: conduct, control, cultivation, curb, development, domestication, drill, drilling, education, exercise, inculcation, indoctrination, limitation, method, orderliness, practice, preparation, regimen, regulation, restraint, self-command, self-control, self-government, self-mastery, self-restraint, strictness, subordination, will, willpower
Antonyms: chaos, confusion, disorganization, laziness, permissiveness
Concept: responsibility


時事問題11に世界ウルルン紀行「エ−ゲ海の漁師」に書いたけど日本人は西洋文明を本当に理解できていないことなのだ。そもそも文明とか文化はその土地とまたその形成された歴史と一体となり存在している。英語とか外国語を学ぶのが盛んである。しかし英語であれ外国語を学ぶことは実は外国の文化の概念を学ぶことなのだ。それは歴史に培われて洗練された言葉でありそれは単なる口とか鼻とか手とか山とか川とかを言うのではなく概念こそ外国語の本質である。

例えばartというと芸術と訳しているが実際は違う。artは日本語では芸術でもその意味するところはかなり違う。artは芸の一つでありそんな大きな意味を持っていない、ヨ−ロッパではartの概念は大きな意味をもっているし文化の全体をさしているのだ。
インターネットの辞書でひいたがartにはdiscipline という概念もありそのdiscipline にはこれだけの概念がある。これらは極めてヨ−ロッパ的概念であり何気なしに使っているがヨ−ロッパの概念を強烈に表したものである。言葉と物は一体でありその物はその壮大な石の聖堂とぴったりと結びついて表されるのだ。英語であれその言葉の持っている概念こそ外国語であり旅で使う程度の会話は外国語ではない、この概念を学ぶことこそ外国語を学ぶことなのだ。つまり言葉はその風土や地理や歴史の建造物と一体となって存在しているものなのだ。これと一体不二である。ヨ−ロッパに行けば石の文明の強固さ圧倒される。それは言葉とも一致している。人工的にシステム的に石で構築されたのがヨ−ロッパ文明である。それは自然を圧倒するように存在感のあるものなのだ。

だから外国は留学しないと本当の言葉の概念や意味をつかむのはむずかしい。最低でもその場にあってじかにふれることが必要なのだ。自分自身も遅きに失したがそれを旅から帰ってもますます感じるようになったのだ。


10月14日
世界ウルルン滞在記 エーゲ海の家族船

このテレビは面白かった。地中海というのが海をテ−マにして書いていたからだ。漁師を悩ませているのが網をひっかけて困るのが遺跡だというのはいかにも地中海らしい。その遺跡はビザンチンの遺跡だった。地震で海に沈んだのだ。アレキサンドリアもそうである。地中海はかなり地震のあるところだった。地中海にひかれるのはそこは文明の十字路になっているからだ。海は常に文明が交わる海だったのだ。ただヨ−ロッパの歴史は複雑でわかりにくい、特にビザンチンというのもわかりにくい、海が荒れて漁に行けないとか地中海はそんなに魚はとれるところではないらしい、黒潮の海などとは違う。だから生活もできないから息子は漁師をやめることになる。それを悲しんでいる親父がいる。これは世界中どこでも同じである。

地中海だったら本物の遺跡に出会いるのだからダイビングは面白いだろう。現実それを売りにして観光客を呼んでいる所もあるだろう。島でも海の底でもヨ−ロッパの魅力は遺跡があり昔を偲べることなのだ。歴史をたどることができ歴史を身近に感じるのだ。柱一本でも残っていれば昔を想像で偲ぶことができるのだ。だから地中海とかヨ−ロッパでは歴史の知識が必要である。遺跡から過去が実体あるものとして浮かんでくるからヨ−ロッパでは歴史に興味がわくし歴史が未だに現実のものとして生きていることを実感するのだ。まあ、これについてはもっと詳しい情報を知りたい、あの辺鄙な漁村から浮かんでくるエ−ゲ海の一断片は一つの物語であり詩であった。トルコにロ−ドス島からわたったときそこにも要塞かあったがそれが何の要塞かわからずしまいだった。こういうふうに外国ではわからないことが多すぎるからなかなか書くことがむずかしい。知識がその場所と結び付かないのだ。インターネットはこうしてテレビの感想でもその時々のことを書くのには向いているしこういう日記はつづけられる。


エ−ゲ海のトルコの沿岸に漁師あり
海にビザンチンの遺跡沈んで網にかかると
そのごとく地中海に遺跡は消えず殘りぬ
まさにそのことが歴史の証ししつこく残る
その遺跡の石のかけらから歴史は再び浮上する
ビザンチンの遺跡の石もまた海に沈んで重し
ヨ−ロッパの歴史は地の底からも海の底からも
延々と語りつづけて終わらじ
海の底にも教会の鐘は厳かに鳴りひびく
魚はとれず漁師はやめるとしても
遺跡は海の底にも歴史を残しぬ



ヨ−ロッパの歴史は石だから海の底まで残っているのだ。古代から重層的に構築されたのがヨ−ロッパの歴史である。エジプト、ユダヤ、ギリシャ、イスラムの文化まで文化が重層的に積み重ねられているから歴史が荘重なものになっている。つまり地中海は世界の歴史だったのだ。地中海という海は文化文明の交わる海だったから魅力あるのだ。つまりモザイクの一片でも残っていればそれらを組み合わせると過去が歴史が明確な形となって浮かんでくるのがヨ−ロッパなのだ。

文明の十字路−地中海(詩)へ


10月12日
「ソドムとゴモラ」の映画

昨日のBSのソドムとゴモラは何を意味しているのか。ロトの妻は後ろをふりかえるときつぶやいた。「神などいるはずがない、ロト、私の夫に能力があり偉大なのだと・・・・」映画ではそういっていた。神が命令し神が成すということが信じられなかったのだ。そしてソドムを見るとソドムは神によって絶滅させられた。聖書は神がなした事蹟であって人が成したことではない、神の命令を人が予言者が伝えてそれが実行されただけであり人は何もしていない、仲介者にすぎなかったのだ。人が偉大だから成しえたのではない、ただ神の言を忠実に実行したから偉大になっただけである。

ところが現代は神が成したとして神を讃えることがないのだ。ロトの妻のように「人間が偉大なのであり、人間に能力があり成された」そこに神は存在しない、その最たるものが科学技術なのだ。これは人間が成したものであり人間の力を示すものである。この世界が神の意に反しているからソドムやゴモラのように滅びるとは誰も信じていない、科学は発展してあらゆるものが解明されてバラ色の未来が待っている。現代とは科学信仰の時代であり科学万能主義の世界である。「神の力はどこにあるのか、神はどこに現れているのか」そういうことがわからなくなった時代である。宗教に頼る人は神や仏に頼っているのではなくこの世の力に頼っている。特に団体になっていればその団体に入ればいろいろ利益が得られるとか仲間できていいとかそういうこの世の力に頼っている。神に仏に頼るのではなくこの世の力があるように見えるからこそ宗教に頼るのである。
もちろん頼るということは悪いことではない、何かに頼らずに生きている人間はいない、自分も人間的に劣っているから必死に頼る人生だった。集団に人にも頼ったがでもその頼ること自体非常に危険なことであった。偶像崇拝に陥るのだ。神ならざるものに頼ることは偶像崇拝である。ほとんどの宗教が偶像崇拝になっているのはそのためである。そもそも偶像とは見えるものに頼ることである。神は見えないものだとすると見えないものに頼ること自体いかにむずかしいかわかる。人も見えるものでありだから人は人に頼る、見えるものに頼る、見えないものに頼ることは人間にとっては大変なことなのである。宗教は偶像崇拝に陥るのは当然だったのだ。見えないものを神とするほうがどれほどむずかしいことか今でも偶像崇拝を人間がやめられないのはそのためである。

いづれにしろ聖書の物語は神に頼り神が成した事蹟であり人が成したのではない、出エジフトもそうだし奇跡は神が成しえることであり人にはできないことである。ということは必然的に神を讃えることであり人ではないのだ。祈るとは神の力が個々の人に働くことを祈ることであり人の力によりこの世の力により働きかけることではない、しかし宗教でもなんでも人はこの世的にこの世の力で働きかけるときそれに賛同してついてゆくのだ。数が多いとか政治力経済力があるとか科学や技術力があるとかすべてこの世の力に頼っているのだ。戦争でも神の力で戦うということはない、この世の力がすべてである。旧約聖書の戦いは神の力で勝ったのであり人の力ではなかった。そこが現代と根本的に違うのだ。

死海の近くにソドムだったという所があり確かにあそこは荒寥としたところだからふさわしい。現実味を帯びたところである。ただイエスの生まれたナザレは全く何にもいいところが発見されなかった。ただの丘の上の平凡な街だった。そこでなぜか漢字を教えろとしきりに漢字を書いている人間がいた。果樹園で果物を作りその関係の仕事で中国と関係していた。ナザレからガラリヤ湖に行く所は美しいのだがナザレは自然もないし美しいものは何も発見されなかった。ガラリヤ湖は自然としてはきれいな所だった。ただイスラエルは内陸部は砂漠であり砂漠に水をひいて開拓したのが今のイスラエルだった。生まれた場所と偉大な人は必ずしも結び付かない、ソクラテスのいたアテネでも全くそんな人がいたのかということも思い浮かばなかった。だから聖者が生まれた場所に行ったからといって特別何か得られるということはあまりない、これは文学だってそうである。宮沢賢治の花巻に行ったってそこであれだけの文学世界を作り出した世界などないのだ。発見されないのだ。それはなぜかというとあれはその土地からではなく宮沢賢治の頭から産み出されたものであったからだ。だから他の人が行ってもここからあんな多彩な文学がうまれたのかと訝ることになるのだ。つまり人間は現実と想像世界と二つの世界に生きている。想像は創造であり想像力が加わらないと豊かな世界は作れないということである。優れた人は想像力の世界で今までにない世界を見る。新しい世界を見る。
それは現実より生々しいということがあるのだ。


10月11日
  
インターネットの利用について

インターネットをどのように利用するかむずかしいしそれぞれ違うし模索中である。

● 即時性
● コミニケ−ション
● デ−タ−ベ−ス (百科事典)
● 個人情報の発信(indivisialty)
● 知識の共有(リンク)
● 国際性(ボ−ダレス)


2ちゃんねるには最新のニュ−スについて議論されているから、うすっぺらでも即時性とコミニケ−ションがある。内容が濃いものでなくても今何が話題で問題になっているのかということを知ることだけでも有用なのだ。民主党が在日の参政権をすすめる政策をとっていることは意外だった。これは公明党の政策でもあるから政策的には公明党は民主党の方なのだ。自民党には政策的に相反するものが一緒になっている。

私は最初ニフティでこの通信をしていたとき、知らないからデ−タ−ベ−スとして百科事典として考えていた。ニフティのパソコン通信ではそういう機能は貧弱でありコミニケ−ション中心だったのだ。インターネットになってデ−タ−ベ−ス(百科事典)機能が充実してきたがこれもまだまだたりない、というのは著作権の関係で古本にいいのがあるのだ。でも不思議なのは古本に出せてなぜインターネットに出せないのかわからない、そのなかには死んですでに50年はたたないが10年とか20年の人がかなりいる。とすると古本に残っている著者の著作権が出版社とか古本屋にだけあるとも思えないからだ。著者とそんな契約をしているとも思えないのだ。著作権は死んだら誰に譲り渡されているのかこれもわからないのだ。出版社にありコピ−できないというのもわからないのだ。いづれにしろインターネットはデ−タ−ベ−スとしてはまだまだ貧弱である。でも常にインターネットでは検索で探している。つまりデ−タ−ベ−スとして使っている人もかなりいる。コミニケ−ション中心の世界の時代とは違っているのだ。

いづれにしろインターネットはこの三つの機能についてすぐれている。国境について新聞社のデ−タ−ベ−スは充実していた。本当の百科事典の機能は新聞社とかこれまでの報道や知識にかかわった世界にあるがこれは著作権の関係でインターネットにはほんの一部しかでていないからインターネットはデ−タ−ベ−スとしては貧弱なのだ。でもインターネットの世界で家にいながら巨大な図書館を持つようにデ−タ−ベ−スが充実すればやはりインターネットはすごいとなる。デ−タ−ベ−スとしては日本にしたって1パ−セントくらいしかでていないような気もする。一冊の企画したビジュアルな雑誌とか本をインターネットでは出していない、そういうものはこれまで本で出していたから本に蓄積されている。でもそれは著作権の関係でインターネットにはでていないから図書館で調べる他ないのだが田舎ではそんな大きな図書館などないからできないのだ。

さらにインターネットの特徴の一つとして個人の情報発信ができる。個人性がでてくる。それは今までのマスメデアとか出版社とかを介しないで直接発信できることの新鮮さである。例えば宗教団体に属していてもインターネットでは個人が発信することになる。個人が語ることになるのだ。これが今までにないことであり個人が問われることになる。そもそもインターネットは団体ではない、個人をベ−スとした発信媒体なのだ。だからマスコミとかこれまでの発信機能とはまるで違ったものがでてくるしこの点が本当は情報環境として根本的に違ったものとして機能しているのだ。

国際性(ボ−ダ−レス)もあるがこれは言葉の壁などでまだまだ利用されていない、でも深い詳しい情報を知りたかったらやはり外国のサイトも利用するようになる。一つだけ発見したのは北極星をフェニキアンスタ−と言っている。地中海で活躍したフェニキア人は星を頼りにして船を使い貿易したからであった。とにかく外国まで知識が広がるのがインターネットだがいろいろな壁がまだあり利用されていないのが現実だろう

それから知識の共有というのはインターネットで一番大事なのはリンク機能である。簡単にリンクできることは知識を連結して共有することである。知識は共有されるべきである。著作権で縛らないで知識を共有しようというコンセプトがインターネットのメデアそのものに備わっているのだ。メデアがメッ−セ−ジだというときその発信するものも違ってくるのだ。つまりまだインターネット的に活かした情報発信をしている人は少ない、その一番の原因がこれまで知識とか報道にたずさわった人々がインターネットに入りにくいからである。まだここで金をとるというシステムもないしまた方法もわからないからである。。


10月10日 迷宮での残酷な生贄

現代は複雑な社会だから常に迷宮に生きている感じになる。誰もこの社会を見渡せるものはいない、クレタにあった迷宮は何であったのか、アテネに対して生贄が要求されたこと、迷宮では何か残酷なことが行われていた。それはかなり忌むべきものだった。迷宮から脱出することは至難であった。これが今の時代にあてはめるとこの頃起きる犯罪のおぞましさである。16歳の少女がで少年たちになぶり殺されたような事件は何なのか。なんらか悪の迷宮に入りそこで残酷な犠牲になった。まるでサタンの悪魔がするようなことなのだ。最近なんかこういう少年の残酷な事件が多い。オウムもまさにあれも迷宮だった。迷宮の中に閉ざされそこから脱出できず残酷な犠牲が人身御供が行われた。

現代の宗教団体は迷宮である。どこの宗教団体も迷宮になりやすい、そしてそこから脱出するのは非常に困難なのだ。迷宮とは一旦入ったら抜け出ることがとんでもなく大変な所である。都会そのものが巨大な迷宮である。だからそこでは犯罪を起こしやすい、そしてそれは迷宮入りになりやすい。その迷宮の中では残酷な生贄がサタンに供される。サタンがそれを要求しているからそうなるのか、サタンなんか存在するのかというがこんな残酷な事件が次々と起こるのはやはり存在しているのだ。歴史でも残酷な事件はあった。闇に消えたものはいくらでもある。戦争で死んだものもこれまたやはり迷宮の中で犠牲にされた。現代の迷宮はクレタの迷宮よりとてつもなく広く深い迷宮である。こんな迷宮のなかで正しい進路を見いだすのはなみたいていのことではない、みんなこの巨大な迷宮にのみこまれてしまうのだ。

10月8日
危険なホ−ムレス

6日午後4時ごろ、山梨県都留市朝日曽雌の朝日川沿いにあるキャンプ場で、 男性の遺体が埋められているのを捜索していた県警捜査1課と都留署が見つけた。

倒産したとは言え、いまどき、こんなアナクロな会社って
あったんだぁ。
こりゃ下請け仕事を頼んだ元請け建設会社や
工事を発注した官庁にも責任あるな。
安全書類も、たぶんちゃんと作ってなかったろうに。

土建業界じゃユンボに踏み潰されても工具が頭に直撃しても
録に現場検証せずに事故死だからな


これはホ−ムレスが食い物にされた。ダンポ−ル箱よりは家があるのだからいいし誘われれば行くホ−ムレスが多い。こうしたひどい会社は底辺にはある。暴力団とからんでいるのもある。弱いものはどこでも食い物にされる。

ホ−ムレス
キャンプ場
悪質土建会社−給料未払い−搾取
保険金詐欺?


このへんがキ−ワ−ドだが底辺層は常にさらに割りをくうことが多い。下請けに頼むと安上がりになるからこうした悪質な会社に下請けさせるのだ。土建業者には何かいいイメ−ジがない、常に底辺層がそこを支えて来たからかもしれない、本当に現場検証もなく事故死でかたずけられているのも本当だろう。ホ−ムレスは身元がわからないからそうなるのだ。
これを歴史的に考えると江戸時代の無宿者が佐渡の金山に送られたのと同じである。それよりはましにしてもこういうことは変わらず人間の世界ではつづく。なぜ自分がホ−ムレスに興味をもっているかというと一時期ほんのわずかであるがホ−ムレスだったのだ。ホ−ムレスは非常に危険な環境にある。仲間から身ぐるみはがされることもある。ホ−ムレスという状態がすでに異常でありそこから事件とか必然的にまきこまれる。不況だからこういう事件はおこりやすい。ホ−ムレス自体非常に犯罪と紙一重にある人達なのだ。ホ−ムレスにはそうした悪の手が入りやすいのである。仕事ない、藁をもつかむように仕事を求める、そこがこうした会社であることが多い。食い詰めものの浪人を雇うのは時代劇のように悪徳商人が多いのである。こういう底辺層のことがわかるのはここに生きたものしかわからないだろう。自分もちょっとだけだがこういう危険があったのだ。

今回の書き込みできないのはすぐ解消した。まあ、自分の場合、2ちゃんねるはさ−と目を通すくらいで書き込みもほとんどしていないから読めればいいとなる。

10月6日


2ちゃんねるではぷららはもう書き込みできない

2ちゃんねるで藤森大統領について書き込みをちょっとしたが途中でまたアクセス禁止になった。読むことはできるがもう2ちゃんねるでは書き込みできない、これは苦しい、せっかく興味があってヒ−トしてきただけに残念!

では他に書き込みにいいところがあるのだろうか、読むことはできてももう書き込みはぷららは排除されたとみていい。数が多いプロバイダ−は排除される。結局誰かがひどい書き込み、悪さをするからこうなるんだよ、かといって2ちゃんねるのように情報が人が集まる所はないんだよ、これが苦しい。でももう書き込みできないとあきらめた方がいいみたいだ。
やっぱり一カ所に集まりすぎるとよくないんだよ、2ちゃんねるはあまりに種々雑多なものがそのなかにはよからぬものも集まりすぎたのだ
他の掲示板も活発にしなきゃならん、でもインターネットは一カ所に集まる、一カ所だけが栄えるような仕組みになっているのもまずい、いづれにしろ管理がないと決まりがないとアナ−キ−になりそこ自体が崩壊するということになる。
どんなにこれは注意しても無理だ、全くの匿名で無責任だからこうなるんだよ
2ちゃんねるはもう限界だ、つづけるには他のプロバイダ−にうつる他ないだろう、テケテケネットにはまだ入っている、意外とブロ−ドバンドは簡単にできた、むずかしいと思ったからぷららに入ったんだ、変えることは簡単にできる。ただ2ちゃんねるにそれだけの価値があるかどうかといことは問題だ
数がふえることはアナキ−になりそれをとめることもできなくなるのだ。
大衆の無制限の発言の怖さがここにでた。規制が強すぎてもいかんが無制限の規制なしもアナキ−になってしまうのだ。



10月5日 
personal interested news

ベトナムの傷痕

ベトナム旅行したとき、たまたま夫婦喧嘩見たけど、夫が妻に義足外されて動けなくなってるの見たよ。
アメリカを破ったベトナム兵の悲しき20年後・・・・(2ちゃんねる)


これは時事問題の深層のベトコンの墓で書いた、まだベトナム戦争の後遺症で苦しんでいる人がいる。ベトナムで乞食しているベトコンもいる。それなりに尊敬されているからただの乞食とは違うかもしれない。本当は国で保障すべきなのだが貧乏でできない、日本の戦後の傷痍軍人のようになっている。こういう情報を集めると時事問題の「ベトコンの墓」で書いたものに取り入れると情報の厚みがでてくる。インターネットではこれを自分で探し集めないとでてこないから大変なのだ。これはベトナムでビザがいらなくなるというスレッドにでていた。ビザはカンボジアからベトナムに入ると簡単にとれる。まあ、ベトナムはさほど観光地がない、一回行ったら見るところがない、あそこも日本人の買春地帯になるといやだ。ベトナム人は働き者だから日本の企業も進出しやすいだろう。

藤森大統領の二重国籍は認められない

理屈的には二重国籍はどうしても納得させられない、在日でも南米に移住した人ももう日本人ではない、ペル−人になってしまった。ということはどういうことなのか?ペル−の移住した国の歴史に組み入れられたたということではないか、日本人を救出したから日本人は恩義があるからかくまっているというがペル−では逃亡犯人にして身柄引き渡しを要求している。ただ藤森大統領の行為は日本から見るのとペル−人からみるのは違うのだ。それが正しいとか価値あるかはペル−人がその歴史で判断することであり外国人が判断することはできない、では日本の戦争は日本人が判断することであり外国人は被害を受けた外国人は何も言えないのかとなるが、これはまた別な問題である。なぜならペル−はこれは外国と戦争したわけではない、ペル−の国内問題だからだ。だからこれはペル−人が歴史の中で判断することなのだ。国とは必ずしも民族ではなく歴史によって作られた国のことである。民族だったら多様な人種がいる。南洋にはまだそうした部族段階の人種がいる。だからパプアニュ−ギニアとかアフリカでは歴史的に国が作られていないのだ。それで小さな部族同士の争いが今でもつづいているのだ。そこでなんらかの統一が行われれば歴史的国家となる。沖縄は確かに大和とは別個の王朝が確かにあったのだ。歴史的に形成された王朝があったから一面独立国家として主張できるともいえる。

こうした情報がどこにあるのか探すのはむずかしい。藤森大統領 国籍でもでてこない、これも全く別なものを探して偶然にでてきているのだ。目的をもってキ−ワ−ドで検索してもでてこないのだ。

新世紀評論(電子書店)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/4608/

これにはそれなりの主張がある。


10月4日
インターネット情報学

インターネットを利用することは自ずとインターネット情報学になっている。新聞であれ雑誌であれ本でも一つのパッケ−ジとされた情報なのだ。テレビでも実際は無数の点となる情報ではない、インターネットは無数の点なのだ。この点と点を結びつける作業がある、検索があるから使いづらいのである。

この図で解説すると
「regular cycling bases」と言ったのは常時アクセスするホームページである。これは2ちゃんねるを例とするとニュ−スの部に誰でもアクセスしているしそれもニュ−スをうまく解説するものや情報が集まるところにまず誰でも行っている。それも一覧的に見れるものがいいのだ。今日はこんなニュ−スがありこんな話題で沸騰しているなとか知る。ヨドバシカメラに派遣された社員が笑い顔がたりないと殴られたというのは驚きだった。あんなにしてまで笑いを作っていたというのもなるほどなとも思った。このニュ−スはマスコミではとりあげていない、とにかくまずポ−タルサイトは最新のニュ−スの場である。ただ2ちゃんねるでもこれを全部読むことはできないしここから何が重要なのか知ることもむずかしい。ここでは発言はほとんどできない、さ−とみて一回発言してだいたい終わりである。時間がかかりすぎるからだ。

そして「regular cycling bases」となっている常時マ−クしたホームページをまわる。このように毎日行くのはない、まわれるのはせいぜい3つくらいである。しかしこれらは毎日のように更新されていることが必要である。ニュ−スの解説のように毎日アクセスして必要な情報が得られるないとだめなのだ。2ちゃんねると連結してニュ−ス解説しているホームページがあるがそれはアクセスがふえる。情報のサイクルの中に組み入れられているからだ。そこからはずれたものはたまにしかアクセスされなくなるのだ。検索で探すときだけその情報に接するのである。

ともかくインターネットはこのように自分で情報を作っていかないと有効利用できない、だから大変なのだ。つまりインターネットは情報のサイクルとか連結が成されていない、それを個人でするほかないから大変なのだ。インターネットはこれにかかりきりで情報探索して情報のサイクルを作り連結する人が必要なのだ。ただこれも個々の要求が違うからまたむずかしい。ただ常時定期的に情報が新鮮に更新されまわってゆく基地を作ると見る人も便利になる。でも実はこの情報の遊星というべきものは太陽を中心にして回る衛星はいくつもあるのだ。情報の宇宙も広いから他の銀河にもいくつもの太陽がありそのまわりを衛星がまわっているのだ。とにかくそれを探し出さなきゃインターネットは宝の持ち腐れになる。


10月3日
現代の事件を長い時間の経過で歴史でみる

時事問題を語る時、これを一時的な現時点の現象としてでなくこれを長い目で見る必要があるのだ。それは自分が直接に見聞きしない歴史的時間の経過の中で語られればそれは説得力ある、意味ある分析になる。歴史が始まって以来、今の事件でも問題でも過去と関係ないものはない、長い時間の中で現代に起きる事件を語ればその事件も浮き彫りにされるし過去もそのなかで生きてくるのだ。。今回の名古屋でブランドが欲しくて通り魔になったという考えられない女性の事件も時事問題の深層11で書いたように戦前の世代からの女性の苦労からすると考えられない事件だということが浮き彫りにされる。

食うために食料などを余程困って金を盗んだかもしれないがブランドを欲しくて殺人まで犯すことはありえなかった。そうした過去にはありえない事件が起きているのだ。なぜこうした長い時間の経過のなかで見る必要があるかというとどんな事件も過去と歴史とのかかわりなしでは存在しないのだ。中国での集団買春問題も日本の戦争のことが取り上げられたしそういう歴史と関係して事件がある。あそこが売春都市だったとしても集団で中国の女性を凌辱したらそれは日本人の戦争を思い出し感情を悪くするのだ。日本人の傲慢は東南アジアでも以前として戦争中と同じくあるのだ。中国人の成金もタイで集団売春しているというのも理屈だがやはり過去の歴史のつながりのなかに人間は存在している。

つまり歴史とは必ずしもむずかしい知識とか本の中にあるのではなく個々の体験の中にありそこから歴史を見るのだ。歴史は実際家族や身近なものにありそこから大きな歴史も見るのである。老人は歴史の生き証人として価値あるのは今も昔も同じである。自分のようなたいした体験もないものにも歴史があったのだ。他の人もそれぞれの歴史が体験があるのだ。これがインターネットでは話しやすいのだ。個々の体験など一部の人しか語れなかったが今はインターネットで誰でも気楽に語れるのだ。だから庶民の歴史が庶民自らによって記されるのがインターネットとともいえるのだ。

時事問題の11(大きい世代間の落差へ)

10月2日
テレビ(マスコミ)の言論の規制



森田さんがどのような考え方をもっているかはホームページなどを見て知っている。しかし、わが社は小泉批判はしないことを社の方針として決めている。出演にあたりこの方針に従ってほしい」、

こういうことってマスコミには日常的にあるんでは、創価の批判をした人なんかいないのだ。創価は完全なタブ−になっている。森田氏はホームページでは好ましくないといっているがテレビでは一言も言っていない、宗教を背景に持つものが政治に深入りするのは良くないとか遠回しにも批判できないのだ。創価は完全なタブ−なのだ。自民党と政権をになうのだからこれを批判することは容易でない、なんらかでマスコミに対抗する言論は必要なのだ。インターネットがもっと普及して様々な角度からの多様な言論が必要なのだ。
インターネットでは本音がでている。マスコミではでない、テレビで語るのとホームページで語るのは違う。ホームページの方が詳しく本音がでている。そのずれが今や問題なのだ。マスコミはこうして規制されることが多いのだ。まず会社の批判とか特定の団体の批判は警察沙汰にならないかぎりできないだろう。その前におかしいと思っても批判はできない。マスコミは団体からの圧力に弱いのだ。マスコミの不思議なのはある局では「小泉は批判しない」一方の局では小泉のどこが悪いか徹底的に調べ明らかにして小泉批判をくりひろげる。どっちつかずではなく立場をはっきりするとわかりやすいのだ。言論は中立はない、どっちかにかたよるのだ。創価に賛成する局があってもいいしそれに批判的な局があってもいいのだがみんなさわらぬ神にたたりなしで立場をはっきりさせないのだ。これはスポンサ−にもよる。なぜかというとスポンサ−はより大勢の人にみてもらい商売しなきゃならない、そうだとするとある団体を批判することはマイナスになるからだ。考えてみると言論がスポンサ−に左右されると公正な言論などなくなる。現実はマスコミにはない。

社会主義国 →国家の意向に反した報道はできません
資本主義国 →スポンサーの意向に反した報道はできません


これは2ちゃんねるにでていた。インターネットはスポンサ−がいらない報道機関になれる。ただみている人が少ないからほとんど影響がないのだ。例えばテレビの司会者が一言こういうことはしていけないな、悪いことだとか言えばそれをただ一方的にテレビを見ている人には催眠術的にその意見が伝わる。つまりテレビは批判的にみれないメデアなのだ。一方インターネットなどは常に本人が強い関心を持っていないと利用できないしそういう熱意がないといい情報はでてこない、また常に書き込みができるから2ちゃんねるのようなものでも批判的な目が養われるのだ。マスコミは一方的メデアでありインターネットは違うから報道の世界も変わらざるをえないのだ。

ああ 昨日から2ちゃんねるはぷららは書き込み禁止

これはかなりの問題だ。ニフティでは発言の規制はあったが発言そのものを規制することは余程のことがないかぎりしなかった。なぜこんなに簡単にアクセス禁止にするのかというと掲示板などいくらでもあるじゃないか他で発言してくださいとなるからだ。それそうだがでは2ちゃんねるのように情報が集まる掲示板はどこなんだろうか、他はやはり2ちゃんねるのコピ−のようになっている。中国の日本人集団買春の議論はそうだった。ともかく2ちゃんねるでなくても情報が一番集まる所にゆく。そういう場が他に作れればいいのだ。そしてアラシとか無制限の匿名的発言ではなくそれなりの発言に責任をもたされる場がいいのだ。ニフティではそれがあったのだがあそこは規制が厳しすぎた。チョンと言っただけでアクセスできない、見ることさえできなくなる。だからインターネットが普及してからはやめた。ただいい点としてはアラシはできないし匿名であってもなんかその発言にかなり責任をもたされるからかってなことも言えないのし2ちゃんねるのような言いたい放題にはならないのだ。そしていつでも発言した人はいるから深い議論もできたのである。2ちゃんねるとニフティの中間くらいの情報の集まる場が必要なのだ。それがどういうものになるのかこれもわからないのがインターネットである。


10月1日
中国集団買春事件

2ちゃんねるがまたアクセス禁止

山崎正昭官房副長官は29日午後の記者会見で、中国の広東省珠海市で日本人団体旅行客が集団買春したとされる問題について、「事実関係を確認中だが、現地国の法令を守るという以前の問題があると思う」と述べ、日本人団体客の行動に問題があるとの認識を示した。 

2ちゃんねるを馬鹿にしている面あるけど中国での会社ぐるみの買春では今朝の朝日テレビで解説していたけど2ちゃんねるの解説みたいだった。2ちゃんねるの議論のさわりくらいなところを解説していた。つまり会社ぐるみでそういうことはしないとか、中国は日本での中国人の凶悪犯罪をどう思っているんだとかこっちの方がもっとひどいとか2ちゃんねると同じ議論をしていた。というよりそのちょっとした解説くらいだった。詳しい解説はなかった。

2チャンネルの方がずっと深い詳しい情報がでていた。もっとプロらしい解説があると思ったがなかった。2ちゃんねるって馬鹿にする人がいるが今やもっと深い詳しい議論や情報源になりうるようになっている。他でもそうなのだがインターネットはまだそうした価値づけがなされていないのだ。だからニュ−スでもたいしたものがないんじゃないか、嘘じゃないのかとか信頼性がうすい。やっぱり今までのマスコミ的なものが信頼を受けている。

でもインターネットは個々にであれテレビより規制のマスコミより詳しい深い議論もなされている。そうした一つのことに関してどこまでも掘り下げることも可能である。それだけの情報が広範囲にあるからだ。インターネット時代のニュ−スや報道は違ったものになる。あることに関しての詳しい深い議論が知りたい人がいるがそれにマスコミは答えていない、その点即時的にもインターネットの場合はできる。これが今回2チャンネルの方がずっと詳しいことで見直したのだ。その後のテレビの情報では大きなホテルとホステスのクラブが隣り合わせで連結しているというのもあの場所が売春クラブとして有名で集まる所だったのだ。あの映像を見るとやはりテレビがいかに訴えるものを一瞬にしてだせるかわかる。ともかく日本人は外国ではアジアではハメをはずしすぎだからこれくらいのお灸をすえられるのもいい。中国側に問題があるとしても金にあかせて街の真ん中でふんぞりかえって威張っている姿は傲慢なのだ。

ただインターネットは書いても反応が得られないとか社会的認知度が低いとかが問題であまり積極的に書き込みする気になれないことがある。でもそれが影響力がでてくるともっと多くの人が書き込みしたりホームページで発表したりするようになる。とにかくインターネットの方があることについては詳しい情報が得られることかわかった。ただ2ちゃんねるとなると今やかなりの公共性がでている。これは普通の無数のホームページとは違うようになっていることは間違いないのだ。ニフティで裁判ざたになったのはせいぜい100人くらいしかみていなとか今の数とはとんでもない数の差があるからだ。

2ちゃんねるがこんなに頻繁にアクセス禁止では使えない、それだけ影響力がでてきたんだからやはりなんらかの規制が必要になってくる。青少年に悪い影響を与える、あまりにも自覚がない人が多い、だから自ら首をしめることになる。匿名はあっていいにしてもやはりなんらかの責任を自覚させる方法が必要だ
ニフティではチョンと言っただけで会員削除になる。つまりそれほど厳しい規制があった。2ちゃんねるは公共的発言議論の場になっているときそういう自覚がない人が多すぎるのだ。でも情報が集まるからゆくだんよな・・・・・インターネットはアクセスの数が決める、読まれていると思いば熱心になるがそうでないとあまり熱心にならない、2ちゃんねるが相当な影響力があることを自覚して書いている人は少ないのでは・・・・こんなに書き込みが規制になると使いずらくなるから困るよな


アクセス禁止は本当に困る、発言できないことはそれはかなり重大問題なのだ。他の掲示板でやれとなるがやはり情報が集まるところで発言したいのだ。誰かの発言で他の人がアクセス禁止になることは大きな問題なのだ。他の良識ある人に迷惑かけることになるからだ。2ちゃんねるはやはり曲がり角にきている。

9月28日
 電子パピルスで創価批判の電子本を買う

電子バピルスで電子本を買った。これは便利だった。セブンエレブンで来たメ−ルの振込み番号をもって金を払うと20分後にはダウンロ−ドできる。pdfでよめた。前はなんかソフトが必要だったりクレジットカ−ドが必要だとか住所や個人情報を入れるのがいやだった。これは名前さえ必要ないのだ。本屋に行って名前や住所などかかない、これは普通にする買い物と同じだった。これが欲しいなというときすぐに買いてよめる。これだと楽だ。ただ読むものがなかった。エロ本がほとんどである。売れ筋になるとエロになるからそうなる。商売になるとそうなるのだ。今回買った外国布教している創価のSGIの本だった。1300円は高かった。とういのはかなり短いものだったからだ。電子本にすれば500円くらいのものだった。ただジャ−ナリストも商売であり取材するのには金がかかるのだ。事実アメリカまで行って取材していた。そしたら取材費がかかるのだ。つまりなんらかの資金援助がなければジャ−ナリストも報道という仕事はできないのだ。組織のバックがある人だけが報道にたずさわるのは公正でなくなる。公正な報道には個人でも独立した立場が必要である。そうでないとかたよるのだ。

いづれにしろ創価となると批判はむずかしいし本屋にすらおけないのだ。書店も商売だから金にならないものなどおきたくない、「創価を批判する本をおくと売れ筋の創価の本は置かない」と書店に圧力をかけるという。書店は全くあてにならない、しかしインターネットはこうした書店に置けないような本とか少部数の本を出すのに向いているのだ。創価の批判の本を結構手に入れることができるしまたインターネットでは批判もかなりでている。いづれ書店はなくなる。もう書店や出版社自体必要なくなりつつある。新聞も将来的にはなくなる、そうならなくても別なものになっている。

なぜ自分が創価にこだわるかというと藤原弘達の「創価学会を斬る」読んでやめたからだ。昔の話にしろやはりあれは創価というもの危険性をわかりやすく解明したもので記念すべき著書だった。その出版を弾圧したのだ。今でも出版は弾圧されている。自民党と一体となった今、書店には創価の批判の本は置いていない、自民と創価と対立したときは結構批判の本があったのだ。創価にとっては自民党と政権党と一体となった方が都合いいのである。とにかく票をふやすことだけが目的だから大きな権力の笠下で勢力を伸ばした方が得策である。政策とか平和とかそんな問題はどうでもいい、権力奪取のためにどんなことでもやる。こういうカルト団体と一体となりそれを助長させている自民党とは一体なんなんだろう。?そしてその自民党を支持する国民が多いというのもわからない、まあ、宗教からだけ創価批判からだけ投票するのではないからしかたがないともいえるが創価にかかわったものとしては納得がいかないのだ。

とにかく電子本もあれだけ簡単に手に入るとなると使える、ただ内容あるものがそろえられないことだろう。インターネットはやはり個人のジャ−ナリストを育てる必要がある。そうでないと巨大な権力に対抗するもの生まれないしマスコミ支配もつづく、そういう過渡期にあることは確かである。