2002年2003年

    2002年


12月30日 インターネットの文化の理解の困難(中高年)

通信の世界はパソコン自体からめんどうなもんだが
それ以上にここで生まれた文化のようなものを理解するのが
むずかしい。
2ちゃんねるの世界はあんなもの猥雑でくだらないから近寄るなとする人も多いかもしれない、しかしあれも通信の特にインターネットから生まれた文化なのだ。大衆的若者的情報の文化なのだ。これはニフティの世界とはかなり違うのだ。ニフティでは問題を起こしたフォ−ラム以外紳士的でありすべてが匿名とはいえない、発言する場が極端に限られていたことである。発言する人は常連であり一つのフォ−ラムの世界は狭いからだいたい誰が発言しているのかわかる。そしてかなり長い文章が制限なく書けたのである。論文的なものも出せたのである。
2ちゃんねるとはかなり違ったものである。これは明らかに便所落書きであり大衆の江戸端会議になっている。
発言はだから極力短く要点をついてアップすることになる。それも刺激的にユ−モアも大事である。余り過激になると問題だがそれでないと話の流れにあわなくなる。

自分は多ここで何回か試しに書き込んだ。むずかしいことは書き込まない、ここでは二三回の応答で次々に変わる世界である。ニュ−スとともに次々に人も発言もめまぐるしく入れ代わる。だからここであまりむずかしい問題の議論には向いていない、ニュ−スの大衆的即興的解説である。また情報の提供である。パソコンの話であれ通信環境の話であれであれそうした情報でも全国規模で集まればみんなどう考えているのかなど多少はわかる。深くでなく広く即興的にニュ−スをしる、大衆的情報持ち寄りの場なのだ。そういうふうに作られている場だからこれもなかなかやってみないとわからん世界なのだ。この世界は参加型だから参加してみてこれはこんなふうなコンセプトなんだとわかる。これをまねしたの東北の地域的情報として立ち上げた人がいるがほとんど発言がない、これから地域的情報がでてくるのかもしれない、この世界はホームページであれ将棋であれやってみないとわからない、通信の将棋は対面的にやる将棋とかなり違ってこれが何なのか覚えるのに3ケ月くらい毎日やってわかった。スピ−ドが早いからゆっくり考えていられないのでそれで必ず負けていたりいろいろある。いづれにしろ中高年にはこのインターネットの文化を理解することはむずかしい、参加してやってみないとわからないし、それがパソコンの操作以上にわかりにくいものなのだから。


12月29日  2チャンネル事件−赤井邦夫の快挙

ニュ−スというとき総覧的に見えてくるものが必要なのだ。
2ちゃんねるは好きでないけどそういう場が見つけられない
2ちゃんねるは総覧的になっている。個々に分かれている
インターネットではニュ−スに関して総覧的にみれる。
それにしても面白かったのは赤井邦夫という偽名の人が
2ちゃんねるの発言からそっくりとったものを投稿したのが
朝日新聞にのったことは滑稽だった。
サッカ−でヨ−ロッバに注目しているが韓国に行った
日本選手の報道がないという韓国よりの報道が気にいられてのったらしい。
投稿を採用するのはその社の意向にそうものであり常連がのることが多いという。
ここに朝日新聞の偏向的なことが暴露されてしまったのだ。
インターネットの影響が徐々に大きくなってゆく兆候でもある。
実際マスコミからだけでは社会はみえてこない。古代のらくがきが
当時の社会をしる資料として貴重なように民の声はわからないのだ。
北朝鮮で便所の落書きが唯一体制の批判として取り上げられたように
マスコミとか権力をもっているものにはみえてこないものがあるのだ。
インターネットにはそうした個々の不満でものっているのである。


12月27日 インターネットのポ−タルサイトの重要性

インターネットからどうやって自分の求める重要情報を探し出せるのか
これがインターネットの変わらぬテ−マである。百万というホームページなど誰も読めないのだ。だからといって百万のホームページが無駄だとはならないし重要な役立つ情報はどんなつまらぬものといえるものでもあるのだ。ある病院がどんなんだろう、いいのだろうかというときそこに通った人の話は参考になる。無駄と思える情報も無駄ではないのだが探しえないということはないと同じなのである。本屋に行けば本というのも無数にあるがだいたい求めるものはある程度探しえる。そして選ばれたものだからそれなりに読んでも損はしない。インターネットはそうでない、本や書店に関することを調べるはいつでも違ったものがでてくる。これに関する話題が多いためでもある。それほど多様でありそれらを全部読むことはむずかしい。

暇な自分でさえインターネットから探しえるのはわずかになるのかもしれない、まずどこにゆくかというと2ちゃんねるなのだ。これも問題があるにしろニュ−スに関して知りたいときやはりそれなりにリンクなどが出ているので便利なのだ。ニュ−スについて深く知りたいのだがではどこにその解説があり有用な情報があるのかわからないから2ちゃんねるをベ−スに基地にしてニュ−スの真実を知ろうとしている。他にもこうした入り口があるとそこにゆくのだがどこに行っていいのかわからない、個人だけのホームページでは限度がある。百万のホームページが情報があったって読めるのはもう限られている。文芸だってそうである。いいものをどうして探すのかわからないのだ。まず最初にニュ−スのサイトにゆくことはみんな確かである。それが共通の話題でありそこからインターネットの一日が始まる。2ちゃんねるが問題で猥雑でもインターネットにはニュ−スにしても入り口となる便利なものがないからそうなっているのである。

インターネットとはまさに情報の混沌である。星雲である。これをうまく利用する方法はない、2ちゃんねるのようなものでなく何かもっといい入り口を作れると思えるのだがヤホ−でも他のポ−タルサイトも何かものたりないのである。もちろんインターネットにはみんな関心も違うのだからそれを求めるのは無理なのかもしれない、ただ百万のホームページは読めないということは確かである。だからどうしても選ばれたものをうまく読むということが必要になってくる。検索は余りにも不十分なシステムでありあそこからは重要な情報も見落とされてしまう。上位にくるものだけがいいとは限らないからだ。2ちゃんねるは猥雑でもどこに関心があるものがあるかリンクしている時がある。一人では探すのに限界があるから人の探したホームページが有効な場合がある。宝島の雅子様に様をつけないと右翼が襲った事件のことは2ちゃんねるのリンクにあった。とにかくインターネットの様々な問題の解決はありえないかもしれぬ。出会い系サイトの規制もやはりインターネットの発達から出てきたものであり法律であれこれから作ってゆくほかないのである。


12月26日  ソフトが使いこなせない

パソコンは本当に最初は知っている人に直接習うのが一番いい、本を読んでも間接的だとわからない。オワシスのワ−プロからパソコンに入ったのでパソコンはワ−プロの延長したものとして使った。だからオワシスだから親指シフトだからパソコンに2万円のオワシスのソフトを2万で買った。これは何回か使った終わりだった。パソコンはエディタで文章を書くものでワ−プロ用ソフトで書くものではなかった。エディタってなんだろうとこれもわからなかった。これはフリ−ソフトでも使える。今秀丸を使っているがこれも3年くらい使って初めてgrepの使い方がわかった。まず言葉を選択してからするとフォルダ内の秀丸ファイルのものを全部呼び出す、これはかなり強力な機能である。例えば俳句のフォルダを作りそこに秋の薔薇と入れるとその部分を全部呼び出す、これを3年間使っていてもわからなかった。こういうことがよくあるのだ。
何のソフトを買いどう使いこなすのかこれ自体わからないから誰かに使っている人に直接聞けると一番いいのだがそういう人はいないから困るのだ。最初は絶対パソコンは直接相談する人を持つべきである。有料でもそういう電話で相談にのってくれるものが必要なのだ。音声入力の文章変換も二、三回使って終わった。一万四千もしたのだ。その他ソフトには使えないものが多いのだ。ただバソコンは使いこなせるようになると大きな情報装置になる。巨大な私立図書館の管理人のようなものになることは確かである。


12月25日  バチカンがクリスマスを批判

クリスマスをバチカンが商業主義に走りすぎたと批判がでた。クリスマスのお祭り騒ぎは異常である。しかしヨ−ロッバでは静かに祝っているという。アメリカが商業主義にしたのだ。ヨ−ロッバでは街でもレストランでも静けさを大事にしている。ス−プをすする音さえ気にしている国である。それなのになぜ日本人はこんなに音に無関心になり騒音社会で平気なのかわからない、これは明らかに聴覚とか感覚の衰退をまねく、静寂は音のない音楽である。音がないから何もないわけではない、静寂の中に鳥の声も虫の声もひびくのだ。騒音社会のなかで日本人の感覚の衰退が起こり麻痺している。それは社会全体にも影響する。ストレス社会を増幅するのだ。明かりにしても明かり過ぎる、これ以上クリススマスのイルミネ−ションは必要ない、ろうそくの灯の方が静かでそういう暗いなかで人間の想像力は働く、文明は人間の原生的感覚を麻痺させたのである。上野霄里氏の原生人間というのはそうした本来持っていた感覚の衰退した文明人の批判だったのだ。闇は必要だし精神的に闇は心を鎮静させるものなのだ。24時間明るいということは自然に反して異常なことなのだ。文明はこうした異常なことが正常化していることなのだ。だから江戸時代はかえって自然に則った正常な人間の生き物の生活があったとも言えるのだ。


12月23日  マスコミに出ない事件

宝島の記者が襲われた。血の流されたトイレがでていた。
なぜなのか、ただ雅子様に様をつけなかったからだという。
このこともマスコミでは報道していない、これはかなり大きな問題ではないか、これも言論の弾圧である。天皇に関しては必ず暴力がありそれが社会的に言論の自由として問題にしない、天皇の是非は別にして言論の自由が保証されるのが民主主義のはずなのだ。
実際は創価の批判はされないし天皇についても批判は許されない、在日についても批判は許されていずマスコミでもタブ−だった。
雅子様と様をつけたくない人は別に天皇を否定しない人でもいるのではないか、民主主義の時代は誰も特別な人は認めたくないのだ。誰もがみんな同じだというのが民主主義なのだ。これは問題でもこれが社会が発展した結果であるとすると否定できない。だからなぜ天皇だけが特別なのかなぜ天皇家に入ったら雅子様と呼ばねばならないのか納得しない人はかなりいる。そう呼びたくない人は様をつけなくてもいいと思う。ただ天皇自体を否定することは日本の歴史に根ざしたものだから問題がある。とにかく言論の自由とはなんでも言いたいことは言えることなのだがそうなっていない。インターネットは多少なりともそういうタブ−を破る面があるのだが影響力は微々たるものである。
天皇にしろ創価にしろ実際検閲しているのだ。本屋でもそうだし公共機関さえそうなっているのだ。創価はそのために議員を出しているのである。自分の町もそうだったのである。あんな図書館は図書館ともいえないが断られたのである
あれは明らかに法律に違反している。ただ一人だから無視されるのだ。
日本に言論の自由がないのは背後に右翼の暴力であれ創価の圧力であれ
在日であれそういうものが圧力をかけるからである。マスコミは例えば一製薬会社さえ恐れている。麻薬の薬だったかなんかを正露丸とにていると言っただけで司会者が言うなと言った。それはなぜかおそらく必ずその会社から抗議がくるからである。こんな一製薬会社さえ恐れているのだからマスコミには真実の報道はしないとみた方がいい、特にテレビや新聞にはない、雑誌はそれなりの主張がある。
テレビ、新聞にはないとみた方がいい。インターネットは言いたい放題だが
これは影響力が少ないからだろう。事実読んでいる人が数名では問題にならないのだろう。


12月21日 「フロ−の文明とストックの文明」矢野暢

bookoffで買った本である。300円だった。本は一つはストックの役割がある。なぜ本を貯えようかとすると物として存在するからである。知識もそこにあるからそれが多く持っていると豊かになった気分になるのだ。一方本の内容はフロ−なのだ。知識とは情報はそもそも固定しないし物として貯えられるものではない、あらゆる分野の知識は絶えず変わっている。流通し更新されているのだ。一つの石碑がある。これはある場所に固定して何か伝えようとしている。それと同時にこうした石碑とかには言い伝えとかが残っているとするとそれは情報でありその情報は誰か旅人が聞いて伝える時なんらか変容して伝えられる。日本の神話なども実は外国の南方の国から伝わって変容したというのもそのためである。情報は絶えず伝えられるフロ−であり変容するのである。本一冊の内容が変わらないということはまるで本というのが石碑となっている。
しかし本の内容は情報である限り絶えず更新されるべきものである。この本にしても私が本を通じてフロ−とストックを解釈したように誰かによって読まれその意味も新たに加えられる。これが情報がフロ−だからである。誰かによって新たな意味が与えられ蘇るのだ。ルネサンス(再生)するのだ。

ホームページは絶えず更新される。本と違って絶えずリニュ−アルされることができる。これの方が情報としては正常なことであり本は固定して変わらない、書き加えられないということは情報としてのあり方としては普通でなかったのである。口承文化が常に語る人によりその場によりまた聞く人により変わっていったというのはそれは情報がフロ−でありその方が情報のあり方としてかなっていたのである。
本の硬直化現象は情報がフロ−であり物として貯えるものではなくフロ−としてあるものだからである。だから図書館などもストックとして情報があるのだが非常に調べるのにも利用するのにも不便なのである。やはり情報は検索がめんどうでもインターネット野中に通信でネット結ばれるのが情報のあり方としてかなっている。本はフロ−の面では石碑とか木簡でも運んでいるように不便なものとなっているのだ。つまりいかなる本の内容も実際は更新され変えられるべきものであり固定されるべきでないものが情報なのである。


12月17日   将棋道場の高校生のチャット

将棋の段クラスの人は高校生だった。4人くらい集まりチャットしていた。それが英語でしていたのだ。その英語も自分の高校生の英語力からすると格段に違う。あれだと外人とチャットで話せる。自分の場合、高校も満足に卒業できない白痴状態だった。集団生活に適応できなかったのだ。今でもそうである。一人っ子というのは友達を作ることができないのだ。彼らの英語のレベルは高いのに驚いた。
例えば
「そっちは雪がふっているかい」
「ふっていない」
「It snows in my heart」

心の中に雪がふっている......こんなセンテンスがすらすらととでてくるのか、詩的でもある。頭のいいやつなことは確かかもしれない、インターネットの主流は10代から30代である。かなりかたよった世界なのだ。高校生もかなりの数ホームページもっているから贅沢な時代である。今の若い世代は英語力はかなりあるかもしれない、環境が違うからだ。自分の英語力はこれより劣っている。すらすらと英文が出る人は英語力があるのだ。俳句を英語にしよとしたがどうもうまくいかない、だいたい詩を翻訳すること自体不可能だからである。英語での会話は確かに英語力を高める。そういう場がインターネットには多い。将棋という場が単に将棋だけの世界ではない、人間の世界であることが機械とすると違って面白いのである。棋譜が参照できることが面白い。あういうことは町の将棋道場に行ってもできないのだ。彼らは都会の高校生だろう。田舎では将棋すら上達しないと思う。なぜなら強い人とやる機会がないからである。これは他にも田舎では文化にふれる機会が少ないことはいえるのだ。大人になってからはそうしたものを補うことができるが子供ではできない、自然から学べるとしても子供は回りの人から学ぶことが刺激になるからだ。
まあ、インターネットの世界は探索すればいろいろあるのだ。今回時事問題にアップした塀の街−萩(時事問題8)で和蝋燭のこと調べたらずいぶんあった。会津の絵蝋燭というのもあるが興味がなかった。会津に何回行っても興味のないものには見えないのである。世界とはそういうものなのである。自分の足元さえ興味がなければ何もみえてこないのだ。たまたまインターネットでろうそくの灯の短歌を読んで興味を持ったのである。


12月16日 50mbのホームページ

日曜日の通信はできなかった。電話したら会社の方で復旧作業したとかこちらのパソコンが悪いのではなかった。この7月からやったが一回も接続障害がおきたことなかった。とくにこのairHは高すぎる。みんな2000円くらいなのに9000円くらいとられている。
すでに自分のホームページも50mbになった。インホ−シ−クは一杯である。写真とかビジュアル的に見せようと努力している。絵の才能は0なのだがパソコンで補うことができた。ただ詩と絵をやるとなるとかなり手間暇かかりなかなかアップできなかった。でも絵とか写真と一体になると訴えるものがでてくる。塀の街、萩というのをスラライド−ショ−にしたりこれからビデオなど映像の時代になる。テレビの普及は動画にあった。ブロ−ドバンドで動画になればかなり一般に普及する。新聞などもやはり動画での配給が迫られている。ブロ−ドバンドになったら新聞であれだけ金を使うならやはり写真とか動画とかビジュアルなもので見たいという要求が高まる。一カ月3000円もはらって新聞読むよりブロ−ドバンドの番組をみたくなるのだ。ただインターネットにはまだコンテンツ、番組が不足している。金ならないから出さないのである。本格的にやっているプロの人も少ない。一番みたのは将棋の番組だったというのもそれを物語っている。うまい人の将棋は見ているだけ面白いのである。5段クラスだと400人も見ていたのだ。400人の観客がいたのだ。これは将棋のの道場に行ってもできないことである。見る将棋がインターネットで可能になったのだ。とにかく自分が50mbもやったことは凄いことだった。これだけ表現できたことに満足した。本ではここまではできない。本を出すには出版社に入り共同作業になる。つまり出版社に勤めるようにならないとできないことである。作家は出版社との共同作業で本が出せるのだ。これが全くの個人単位で大きな出版社なみのことができるのだ。これは凄いことである。

今インターネットで起こっていることはやはりルネサンス(人間再生)ではないか。つまり表現する、書くということがこれほと容易になった時代はないのだ。自分を書くということは何か物語るということは大きな力である。自分自身を大きくすることなのだ。これができたのは今まではほんの一部の選ばれた人だった。これらの人はマスコミにでてさらに必要以上に大きくされたのである。マスコミ、メデアにより実物より何百倍も大きくされるのだ。それがファシズムを生んだのである。インターネットで行われているのはこうしたマスメディアによる作られた幻想の拡大ではなく個々の人間のリアルな存在感の表出である。つまり書くということは作家とか評論家とか特殊な人だった。書くということが大衆に解放された。不思議なことだが小説より個々の現実の体験談の方がリアルで訴えるものがある。小説はそれで衰退するし変容を迫られている。つまり何か創作していてもインターネットはライブだから現実生活と結びついたものになるからそれが今までの創作とは違う。だから一般の人をまきこんだ現実体験をもとにしたネット小説のようなものができてきたのだ。参加型になったのである。ワイドショ−があんなに見るのは現実の事件がショ−化しているからである。それと同じことがインターネットでおきているのだ。



12月14日 2ちゃんねるから(断片化の情報)


客はタイ人売春婦と外国人買春オヤジ。
ここの真中で爆発させれば、囲む形なので被害甚大。
スクムビットを隔ててアラブ人街。
タイは、仏教国。イスラムが虐められてる。

マレーシアの現地人曰く、マレーシアはアメリカと仲があまりよくなく
イスラム圏だから狙われないだろう。(バリ島はヒンズー教)
それよりもシンガポールやタイが狙われるのでは?との事。
マレーシアで狙われるとしたら、ハードロックカフェなど欧米人が多い
場所や欧米人が多いビーチでしょう。トバ湖は大丈夫だと思いますよ

それから、そうだよねー。誰かが書いているようにタイの繁華街なんて
狙い目かも。売買春地帯なんてアルカイダじゃなくたって狙うかも。

大麻からくるやつ。間違えて飲んじゃった。パニックと鬱と分裂と神経やられまちた。あんまり詳しいことわかんないけど。まあ他もいろいろやられてる

パンク防止液をタイヤの中に流し込むと
毎日乗っても、4年間はパンクしないそうな

カブとかに使ってるのが有名かな
チャリ用もあるらしい

朝鮮人は日本に帰化してからアメリカの永住権取るのやめろよ


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2ちゃんねるというのは個々の体験の情報がでている。これもまた読み取ること何を主張したいのかわかりにくいし発言もできない、一回発言して終わりだからだ。20代30代がほとんどだからかたよっている。つまりここも2ちゃんねるの案内人というか編集が必要なのある。ここはに発言したものは著作権がないから利用できるし可能である。インターネットというのは首尾一貫したものがなく断片化の情報に満ちている。モザイクのようになっているから誰かが組み合わせしないと一つの形とならない。

朝鮮人は日本に帰化してからアメリカの永住権取るのやめろよ

アメリカ国籍の在日が結構いるらしい、2ちゃんねるの特徴は在日に対する反発が強いことである。在日が日本の政治にもかなり影響力ある。社民党とか創価のシンパになっているらしいからそれらが拉致問題にも影響した。たまに老人の人が戦争中の発言をしていた。理系の学生は将来のために戦争に行かなかったという。文系はみな学徒動員された。理系はやはり重んじられた。他の無数の掲示板にも聞くべき発言はあるのだが分散して断片化している。それぞれの発言を有機的に結びつけるものが必要なのだ。それは人間しかできない、ただ著作権の問題でホテルの情報を集めて本にした人が匿名でも著作權があるとして訴えられたから編集も簡単にはできない、2ちゃんねるはそれがないからできる。



12月13日 不平不満のオンバレ−ド

インターネットにはインターネットのガイド役が必要なことがわかった。どこに何がありな何が重要な発言なのか、解説者が必要なのだ。
2ちゃんねるにも膨大な市井の人の無名の人の発言がある。これらがみな嘘だとかとるにたらない発言というわけではない、市井の人の不満やら本音で語るのが面白いのだ。患者は医者の文句ばかり言っているが医者は勤務医と研修医が主だが奴隷のようにこきつかわれている、月給は安いとかちょっとした医療ミスで叩かれて社会から葬りさられるとか・・・・患者からみる医者の本音は全く逆だった。眼科医が今ははやっているから眼科医になる志望者が増えているというのは時代である。老人は必ず白内障になる。これは必ず直るから手術する人が増えているのだ。
とにかく1000万年収があっても不満である。医者にはなるものではない、こういうことは先生も言っていたし自分の職業に不満がない人はいないことがわかる。満足して自分の職業に従事している人はいない、政治家であれ農民であれ漁師であれみんな不満なのである。その不満もぶつぶつガスがでてくるようにとまらないのだ。これほどこんな豊かな社会にあって不満な人がいるのも贅沢のような気がする。やっと食うだけの生活をしている人が世界には多いのだから。結局自分のような職業に従事していない人は不満ではない、不満を言いようがないからだ。生活保護の人も不満はある。しかしもっと生活保護費をあげてくれとか不満は言えないのである。それにしてもこれほど不満な人で満ちている社会は全く幸福な平和な社会ではない、文明社会は人間を本質的に幸福にしていない、上野霄里氏が批判したように不満不平で満ちている文明社会は決して人間本来の生き方をしていなからだという批判は当たっている。年収1000万ももらってどうして不満なのかわからない。医者がそんなに悪い職業とも思えない、その職業に満足して従事できないことは非常に問題である。
実際自分の職業に不満な人はその職につくべきではない、生活保護を与えてその仕事をさせてはいけない、そうすればその職に適した人だけ残る。それが理想の社会なのかもしれない、不満のない社会になる。その職に適していない人がいすぎることなのだ。


12月12日 カ−ドのサイトは効果的

カ−ドのインターネットのサイトは良かった。なぜかというと匿名で相談できたことである。財産や私的事情がからむことは相談しにくいのだ。匿名でも管理人が答えてくれた。それも丁寧に答えてくれた。たいがいインターネットにはいろいろな掲示板などあっても困ったことがあっても相談に本気で答えてくれるところはないのだ。そんな義務もないし金もメリットもないとしたら答えないと思う。アクセスを増やし宣伝でかせぐということはあるが全然知らない人にそんなに親身になって答える所はないのだ。それがインターネットの物足りない面でありなんにも役立たないと思っている人が多いかもしれない。しかし匿名でないと相談しにくいのが人間にはあるのだ。自分の財産のことや病気のことやそうした私的なことは匿名でないと相談しにくいのだ。それであのカ−ドの相談のサイトは有効だった。そこにはカ−ドについての情報が集積される効果がある。インターネットに向いていた。

インターネットはなかなか実用的に使いこなすことがむずかしい。なぜかというと具体的に見えてこないからだろう。対面的でないから本当に実用的な使い方ができるのかみんなしているのか疑わしい。実際、宗教や芸術や学術などでは匿名だと対話はむずかしい。宗教に関して誰だかわからない人がいい加減な気持ちで質問してきたって答える人などいない、自分で勝手に本を読んだりして考えろとなる。答えられる人間も少ないのだ。そうしたやたら何か教えてもらいたいというそれも匿名でただで教えてもらえたいという人が多いしそれも相手がどれだけ知りたいのかわからない、いい加減なものが多いしそうでなくてもインターネットはそうみられる場合が多いのだ。匿名だから真剣なものと受けとれないのである。カ−ドのサイトはそういう点でカ−ドに関してだけのサイトだから匿名でもいいし個々の情報を集積するということでインターネットに向いているなと思った。


クレジットカ−ド専門店

http://jbbs.shitaraba.com/shop/16/


12月11日 国産スバル

プロジクトXでスバルのことやっていた。ゼロ戦の技術者がかかわっていた。あの小さいのが日本の自動車の普及に火をつけた。自動車が作れることはやはりそれだけの下地があって作れた。技術の問題にしても何もないところから作れない。自分は自動車とは無縁だからわからないがやはり新しい物を作り出したということは凄いことだったしそれが日本の発展のエネルギ−になった。しかし今はそういう何か新しいものを作り出すというものがないのだ。中国の方が日本の経済成長期とにている。
何か新しいものを作り出そうという時、それは発展する動力となる。規制のものに安住する時、発展や進歩はとまり停滞してゆく。現在は規制のものに安住する停滞の時期になってしまった。

乗り物も一つの歴史だ。大正時代は自転車を手入れして一生一台大事に使っていた。自転車は捨てられない大事なものだった。それから馬車とかリヤカ−とかの時代は戦前戦後の一時期あった。それから急速にダットサンだとか二輪車や三輪車やあのスバルのような自動車が普及したのだ。しかしなぜかスバルとか自動車の記憶が自分には欠落している。結局自分は自動車に乗っていないから自動車について知らないのだ。どれだけ便利なのか自動車を利用しない人はわからないのである。自動車社会にいて自動車のことがわからないというのも奇妙なのだが自動車を使わない人は本当にわからないと思う。バソコンを利用しない人、通信の世界をしらない人はこの世界がわからないと同じである。テレビとか電気製品はみんな利用しているからわかるけど利用しない人にはわからないのだ。だから自分にとっては自動車とは便利なものとかいいものだと思えないのである。一方自動車を利用する人は自動車が手足のようになっているから肉体の一部のようになっているから自動車のない生活など考えられなくなっているのだ。ここに自動車をもっている人ともっていない人の大きな差があるのだ。

12月10日 インターネットは編集者が必要

どう考えてもインターネットの検索は不便である。なぜかというと機械には限界があることなのだ。どんな検索でも機械検索はだめである。人間的作業が必要なのだ。人間がかかわり編集することが必要なのだ。
そうでないと検索するためにだけ時間がとられ肝心なものが探せないことになる。インターネットという出版社も会社もないから金も払われないがインターネットには編集が必要である。例えばホテルは宿は宿ととして分類する必要がある。必ず宿の宣伝をしているのだ。本だったら宿は宿として紹介するし宿を集めて紹介している。本でも本は本として集めて紹介する必要があるのだ。

萩という所を知りたいとなると観光の実用的な面として宿や見どころとかの紹介は必要である。さらに一歩踏み込んでもっと萩を知りたいとなるとインターネットではなかなかむずかしくなる。実用的な面と店や宿の宣伝と萩の歴史や萩についての文化的な側面を知ることは別なのである。もちろん一体化している面もあるが萩について深く知ろうとした時なんかゆきづまる。他の街にしても同じ面がある。それでもいろいろ萩についてはでていた。志士の辞世の歌やら漢詩やらその他地名もでていたし萩を訪れた人の感想文もでていた。歴史をふりかえるものだった。それらの情報を集めて萩という街を知ることはできる。自分なりの文が書けるかもしれない。塀の街でありなんとも昔にタイムスリップしたようでよかったのである。塀の道はあまり自動車も通っていなかった。静かであった。塀が静寂の空間、瞑想的空間を作り出している不思議であった。確かに一時代前に戻ったような不思議な気分になったのだ。

とにかくインターネットには編集者が必要なのだ。ロボット検索はどんなにしても無駄がでてくる。その無駄も半端なものじゃないのだ。探すことだけに労力が費やされることになりかねない、インターネットという会社はないにしてしもなんらか編集者が必要なのである。いろいろな分野の編集者が必要である。そうでないとインターネットは宝の持ち腐れになってしまう。人を通じて編集されたものこそ読むべき価値があるものになるのだ。だから実際はインターネットでも人物をマ−クする必要があるのだがそれがないのである。なぜならどんな人でもだせるしここでは平等で水平化されるからである。

12月9日 ビザカ−ドがとれなくて困る

ビザカ−ドはとるのがむずかしい。ただビザカ−ドにもいいろあるから他のとれるのかわからない。ただアメックスは簡単にとれる。無職でも収入などもいい加減でとれた。ほとんど審査しない。おかしなことはゴ−ルドカ−ドまでとれるし誰にでもとることをすすめている。なぜビザカ−ドをとろうとしたかというとアメックスは適用範囲がせまいのだ。
ビザカ−ドでないと通用しないところが必ずある。通信の中で利用するのもそうだったし韓国ではビザカ−ドをもっていないと明洞で日本語の案内を受けられない。いたるところビザカ−ドになっているのだ。カ−ドはビザカ−ドの独占状態になっている。それが簡単にとれないとなると困る人がでてくる。無職であれなんであれ社会生活に支障をきたす。

5000万円の貯金ある主婦もビザカ−ドとれなかったとインターネットで嘆いていた。アメックスは一年に一万とられるのもいたい。アメックスはかなりビザカ−ドにおされて苦しいらしい。日本から撤退するとかなんとか不安である。会社の都合があるにしろ独占はよくない、独占禁止法に違反するんじゃないかとも思った。社会主義が失敗したのは企業を国の独占にしてしまったのだ。専売特許であり国や官僚だけうるおうようになっていた。それは当然である、国有企業には競争相手がいないのだから独占になっていたのだ。努力する必要もない独占状態が社会主義だった。

権力も集中するとよくないのだ。宗教の独占状態もよくない、創価学会に宗教が独占されることは権力がそこだけが持つようになる。独占禁止法が作られたことはそれなりの理由があったのだ。マイクロソフトが市場を独占したことも問題であった。すべての権益がマイクロソフトににぎられてしまった。出版にしても大手の出版社だけが生き残る統合されてゆくのも独占であり最後は一社支配になり言論の自由さえなくなる。多様な出版が必要だからだ。つまりファシズムとは独占なのだ。権力を一人の人間に一カ所に集中させる独占だったのだ。銀行であれ何であれすべて一つに統合されてくると弊害が生まれてくるかもしれない、すべて一つに系列化されてくるからだ。民主主義は政治であれ経済であれ宗教であれ教育であれ何であれ独占の禁止なのだ。



12月6日 評価なきインターネット

古典−評価されたもの

マスコミ−誇大、広告、権力的評価

インターネット−無評価(アナ−キ−)−私的発言


情報に接するのは今はこの三つになるがマスコミが全部こうではないがこうなりやすい面がある。ある俳句とか短歌で売り出している若い女性はTとかMであるがあれはコマ−シャル用に出版社によってまたは本当にコマ−シャル用に会社の宣伝用として作られたのである。内容などないのだがそれを評価している大衆というのもマスコミも馬鹿げているし操作されているのである。マスコミによって作り上げられるものがあることに注意すべきである。文芸の価値は判断しにくいそうなっている面もある。科学はたいがい正当に価値が判断されるが文芸の世界は見極めることがむずかしいのだ。

一方インターネットはどうかというと全く無評価の世界なのだ。古典は歴史によってその価値が作られたものである。インターネットの価値を発見するのは誰も評価しないものを評価する作業ににているのだ。無数の人があることについて発言する、その評価や批評はどこにもない、中には歴史上の人物まであいつはペテン師だとかなんとか言いたい放題なのである。もし正当に批判、批評されているならばいいがそれがないのが多いのだ。インターネットはマスコミでも専門家でもないものが自ら判断して読まねばならものなのだ。これは未熟なものにとっては混乱させられることである。情報の取捨選択すらできないものがいるからだ。マスコミに押しつけられる、マスコミで価値が決められるのも問題だがインターネットで価値あるものを発見することも大変である。インターネットにでているもがすべてはゴミではない、詩でも俳句でもいいものはある。若い人のでもいいものはあるのだ。ただ見極めることがむずかしい、ゴミの量も膨大だからだ。ところが価値が判断できないものはマスコミで売り出される内容のないものでもいいと思っている人のようにつまらないものがいいと思って読んで影響されている人がいるかもしれない、なぜなら自分では価値判断できないからだ。インターネットは自己責任であり個をしっかりと持っている判断力がある人には向いているが価値判断できない多数のものにとっては向いていない、誰かに価値判断されたものを一方的に受け入れる方が楽なのだ。


12月6日 活かされていないインターネット


常時接続で一番やったことが将棋だったというのも意外だった。
今日は打つ手がなく相手も同じ手しか打たないので勝負にならず引き分けにした。どうしてもそこが勝負どころであり引けなかったから同じ手をうつことの繰り返しだった。それで話し合いで引き分けにした。やはり人間とやることはコンピュタ−と違い面白いのだ。おそらくなぜゲ−ムが面白いのか、互いに操作して対話しているからだろう。ゲ−ムも通信の対話になっている。常時接続はまだ活かしきれていない、というのは例えばチャットを一日中やっていれば面白いかもしれん、何人か集まり一日中書き込みたい人はかきこんでゆく、レスをつけてゆく、これは常時接続でないとできないことである。時間を制限していたのではだめである。

でも2ちゃんねるのような掲示板ではだめである。あれは一回きりの発言で終わってしまうのも多いのだ。ニフティのバソコン通信のように限られた人で一日チャットするのである。するとかなり深い所までコミニケ−ションできるかもしれん、一年も二年も書き込みしていると相手のことは合わなくても理解できるようになる。ニフティの問題はそこから起こったのだ。常連の摩擦であった。匿名であってもそれは相手がどんな人がわかってしまうのだ。2ちゃんねるやインターネットでは匿名だと相手は全くわからない、2ちゃんねるで発言している人は全く誰かも見当つかない、ニフティでは見当がついたのである。なぜならどんな人でも二年間もいたら察しがつくのである。チャットでも同じ人が一日中していれば面白いかもしれん、ただむずかしい文学やら哲学やら学問の話はできる人が少ないのでだめである。俳句などいいかもしれんがこれもまた対話する人間は限られてくるのだ。とにかくホームページは一方的に発信しつづけてきたがインターネットは活かしきれていない、ただメディアはパソコンに一つに統合されるのが便利であり統合されるだろう。新聞もテレビも本も活字メディアも電話もみんなパソコンで見るようになる。つまりマルチメディアとして統合されるのである。活字や映像が一体化するのである。

ソフトとしてゲ−ムも入ってくる。通信に向いたゲ−ムが作られるかもしれない、ゲ−ムでいろい学ぶようになるかもしれん、通信のゲ−ムはコンピュタ−と違いかなり人間的なものになるかもしれん、対話があるからである。ただこの世界の可能性は未知なものが多いから使い方もそのソフトもまだまだ未開発なのである。常になんらかのアイディアが要求される世界なのである。それはソフトを作る人だけではない、利用する人もそうなのである。たまたま使った拡大鏡が役に立ったりしたりソフトを操作して思わぬ使い方を発見する人が多いのだ。つまりこれは個性に応じて応用範囲が広いのである。テレビや電化製品と違いこれは一人一人によってさえ使い方が違ってくる今までにはない道具だから今までの使い方とは違った対処の仕方が必要になってくるのだ。そもそもソフトが非常に多いというのもそのためである。ハ−ドの使い方だけでなくソフトの使い方の方が今や大事である。このソフトを使いこなすことも大変なのだ。将棋の世界も三カ月くらい毎日やっていてこの世界のことが理解できるようになった。常に通信の世界を理解することは時間がかかるものなのだ。理解するより慣れることがこの世界では大事である。解説書など読んでもわからない、実地に参加して操作して覚えるほかないのだ。操作している内に覚えてくるのだ。

12月4日 著作権の応用範囲は広い

著作権の基本的な考え方はこの世に一つしかないものにはすべて著作権がある。子供の絵だろうか文だろうがそれが未熟でもそれが同じものが他にないとしたら著作権はある。その善し惡し別として基本的にはそうである。例えば俳句は10万人くらいの人が作っている。それらの善し悪しは別としてそれがこの世に一つしかないとしたら著作権はある。ところが俳句にはまるっきり同じものが1パ−セントくらいるように思う。するとこの世に一つでなく二つとすると著作権は誰のものかわからなくなるのだ。この世に一つしかないものには貴重なのだ。芸術の価値はそこにあるのだ。その人でしか作りえないものが芸術だしそれは俳句のようなものでもあるから著作者は著作権をもつ。むずかしいのは写真である。写真もまるっきり同じでないものでも同じものができる。とういのはこれも大勢の人が同じ場面をとっているからだ。他人のとった写真をこれは自分がとったもんだ、たまたま同じになったと言われてもなかなか否定できないのが写真なのだ。それから写真はいくらでも加工できることがわかった。パソコンはその加工技術を素人に与えた。写真をパソコンで加工することは明らかに芸術である。やはりその人の独特のセンスが必要になってくる。手間もかかるからパソコンで加工した写真は芸術作品であり著作権がある。著作権の範囲はこのように広いし新たな問題はパソコンやインターネットでてきている。

六号線の農家の店で買った石の壺にも明らかに著作権がある。その石の形はこの世に一つしかないから価値がある。それを発見した人も功績があり発見した人が著作権を持つかもしれない、やはりいい石を見分ける能力が必要になってくる。明らかにこの世に一つしかないもの石の発見があったのだ。とすると1500円というのは安いかもしれない、一つしかない芸術品は高くつくのである。とにかく大量生産の同じものには著作権はあってもその一つ一つにはないのだ。しかし手作りの一つ一つ違うものには著作権があるのだ。陶芸家の作品はみな違うから一つ一つに著作権がある。それのコピ−は許されないし作者の承諾が必要になるのだ。おそらくこれはこの世に一つしかないものにはすべてあてはまるように思える。

11月28日 自壊する北朝鮮

北朝鮮はどうみても国はすでに崩壊しているし維持できる状態ではない、幹部が美食している映像をみたが民が飢えて死んでいる時美食していてもその実情は知っているのだからそれはすでに苦いものとなっている。日本でなら別に指導者が美食しても一般人すらグルメだとか食い歩いているのだから恨まれることなどない、それでも天皇家が貴族として残されていることは税金の無駄使いとか言う人がいるし反感を持つ人もいる。人間の世界は特権を廃止する歴史だった。貴族という特権も廃止されたのは人間の歴史で別に革命がなくてもそうなっていたのである。社会主義の革命でなくてもそうした余りにも理不尽な不平等は許されないものだからだ。神をも許さないことだったのだ。現代は過度の平等社会の弊害の方が多くなっているのだ。それも人間の必然の流れとするとどうしようもないといえる。

民ありて上にたつものあり
民なくして上に立つものありえじ
民飢えて上に立つもの美食するは
人の道に反して心安らぐことなし
神も許さじその非道を・・・・・
すでにそのこと自体亡国なり
民なくして国成りたたじ
農商工が国の基礎にして
その民の安寧なくして国は成りたたじ
民飢えて軍事も支えるあたわじ
すでにその国は内より崩れ保つあたわじ


11月28日 骨なし魚

骨を一本一本ぬいた骨なし魚がス−パ−でも売り出されたという。ベトナムやタイ、中国で一本一本骨をぬいている映像を見た。安い労働力で骨なし魚を作り売る。日本人も骨抜きをやっていた。これは馬鹿げていると普通の人からも非難がある。これを要求するものもするものだがそれをやらせられるものもその労働も馬鹿げている。そでも消費者は王様で売れるものは作らねばならない。労働というと何か常に価値あるものという観念がこびりついている。この世にある労働がすべて尊いものではないのだ。これは馬鹿な殿様か王様が「骨なし魚が食いたい」と言われたので奴隷が作るとにている。これはまさしく奴隷の労働なのだ。労働のなかにはこうしたものも多いのだ。ソロ−が批判したのはまさにこのことである。「金を得る手段はほとんど例外なく堕落の道をたどる。単に金を得ることができたというだけの仕事は仕事でもなんでもなく怠惰、もしくは最も悪いことである。」市民としての反抗

金のためだけの労働は実りのない労働である。労働自体に価値があり
workであるような仕事が仕事である。そういう仕事をさせてくれる所は少ない。一番価値ある労働に金が払われないというのも真実である。金なしでもできる労働が本来の労働である。農業にしてもそれが労苦となれば労働でなくなっている。労働はworkは金を払ってでもやりたいものなのだ。労働はまたそこに愛がないと疲れる。家族のために働くという時、家事も苦痛でなくなるのはそこに愛があるからだ。自分も無償でインターネットに書いているが楽しいし疲れることもないのだ。おそらくこうしたものが本来の労働である。売れる売れないとかも全然関係ないのだ。金になるかならないかということが出版では常に問題になるからだ。本屋でも売れない本はおきたくない。売れない本でも社会にとって必要なのである。だからそういう本はインターネットにおくべきである。出版社との関係なくプロの人もインターネットに書けば面白いのだがそこまでいっていない。記者でも芸術家でも自分の仕事が十分にできるからである。


11月22日 バソコンの使い方

パソコンの使い方は各自工夫する必要があるみたいだ。試行錯誤が必要なのだ。それもかなりの時間がかかる。確かにパソコンを二つ並べて一方で文章や図を参照にする使い方はいいかもしれない。自分のパソコンの部屋をこんなふうに変えた。DVDレコ−ダ−からノ−トパソコンからこれだけあると小さな個人放送局になるのだ。プリッチという10万で買ったパソコンは結構使えた。画面が小さいので拡大鏡にするとかなり大きくなる。字が見ずらいのでこれが意外と便利なものだった。文章はオワシスの親指シフトのキ−ボ−ドである。なんとか使いやすいようにすることがパソコンを便利にするのだ。これだけそろえるとかなりの仕事が効率的にできる。あとはソフトを使いこなすことだがこれがまたむずかしい。無線でパソコンを一体化して使えるのがでているがXPになるとソフトなど使えなくなるので不安なのである。今の所これでやっているほかないだろう。

11月16日 インターネットは口コミの世界

バソコンの初心者がバソコンの業者にくいものにされる。バソコンは使ってみないとわからないものだからだ。ソフト自体そうである。バソコンで簡単になんでもできると思い買ったのだ。7千円とか一万とかソフトを10くらい買った。ソフトは使いこなすこと自体大変なものである。win95時代のソフトは使いないものが多かった。素人のあさはかさでそれが簡単に使えると思ったのだ。ソフトには無駄なものが多いのだ。自分に合ったものはフリ−ソフトとか安いものとか工夫して作ることである。俳句の縦書きはフリ−ソフトの図形を描くものでできてみたりなんらかその人の使う工夫、アイディアが常に必要とされるのがパソコンなのだ。頭が柔軟でないとバソコンは使いこなせない。そういう点中高年にはつらいものがある。

2チャンネルでソ−スネクストの悪口を盛んに書いていた。初心者をくいものにしている。パソコンの性能が良くなり動作が早くなるとかのソフトはそんなことないと思ったから買わなかった。実際さほど速さなど変わりないのだ。パソコン自体性能が良くないとそもそもだめなのである。ソ−スネクストは確かにそうかもしれない、指ハ−ドデイスクというusbにつなぐものがすぐにだめになったが再インスト−ルもできないもので使いなくなった。何か調子がおかしくなってくるのだ。初心者は便利になるものを探している。そこにでかでかと宣伝されると飛びついてくることはありうる。初心者の数が膨大に増えたからだ。ソ−テックの製品については前も悪口を言う人が通信でいたが余り目立たなかった。
ただ自分はソ−テックは安くてもそれで買わないことにした。2チャンネルは見ている人が多いからかなりの影響があるのだ。ソ−テックの悪口をあれだけ書いていれば買いたくなるのが普通である。こういうことは今までのメディアにはでてこない。何故なら新聞であれテレビであれ雑誌であれそうした会社の悪口などのせない、何故なら会社は宣伝を出してもうけさせてくれるところだからだ。それがインターネットでは商売と関係ないからそうした悪口が口コミの噂が膨大にでているのだ。それらが全部嘘ではない、主観が入るにしても嘘ではないのだ。

今回の旅した感想で熊本市の市立博物館は300円だったが何の見るべきものがなかった。阿蘇の火山博物館は800円もしたがこれも映像も古いし見るほどのものではないし800円は高い。これは自分の主観だから他の人はどうみるかわからないがこうしたことはガイドの本などにはでていない。家のものがかかっている厚生病院では5人の医者が変わってみてもらったが一人は説明してくれて薬もきいたという。それまでの薬は全然効かないし悪くさえなったという。どこが悪いのかというとき説明してくれる医者はいい医者だというがその医者は確かに説明してくれたという。つまりこれからインターネットではこうした口コミが広がりやすい。口コミの世界が公(おおやけ)化してくる。こんなこと本やテレビにはなかなかでないし出せないものだがインターネットではこうしたものが出やすいのである。個人の不満、消費者の不満がインターネットには膨大にでているのだ。そこが今までのマスメディアとは違う点である。



11月16日  過剰化社会

なぜ病院では検査したがるのか、院長まできて検査しろという。
検査はやはり収入になるからだ。強引に必要ないことまで経営のために
やらされるのだ。両目の手術で払ったのは10万くらいだが実際は保険で10倍くらいになる。検査する必要なくても検査されるのだ。いらない薬も与えられる。医療も過剰になっているし物も過剰だし情報も過剰だし教育も過剰だし公共事業も過剰だし過剰化社会であることは確かである。デフレも物が過剰だからデフレになっている。考えるとこれは市場の法則であり理屈にあったことなのだ。これをさらに過剰化したら社会にとっていいことはない。デフレの解消は真に必要なもの作ることである。それは人的サ−ビスかもしれないし社会には不足しているものはある。デフレがそんなに悪いものとは思えないのだ。必要なもの足りないものいいものにはサ−ビスにはそれなりの金を払ってゆく。これは市場経済の原理であり必要でないものを過剰に作り出すのは市場経済に反している。社会主義がつぶれたのは市場原理ではない無理な上からの権力による押しつけで失敗した。これも素人の考えになるかもしれないか社会が過剰化社会になっていることは確かである。


11月12日

入院のために連帯保証人が必要になる。これは何だろうと思ってインターネットで調べたらそれなりのものがでてきた。金の保証と入院させたまま病院にあづけたまま引き取らない人がいるためと理由は二つしかわからない。連帯保証人がなければ入院できないのか前金で部屋代などを払えば入院できるとか明確には決まったものではない、ただ保証人に請求されることもあるという。借金の保証人だと同等の責任があるがに入院の保証人はそんな責任があるとは思えない。法律的にはどうなっているかわからない。ただ保証人まで必要なことはどこの病院でもそうだから病院側で困るからそうなっている。なんでも責任の所在を明確にする必要があるのかもしれない。そうしないと引き受ける側では問題が起きた時困るからかもしれない。病院側では医療ミスなど起きた時いろんな契約条項を作っていて責任を逃れるよとしているともいえる。なんでもこまかい契約条項が書かれていてそれは何か問題が起きた時責任をとらないようにしているのである。そういうこまかい契約条項を読んでいる人は少ないのだ。会社とか組織はそうした契約を交わし消費者に接している。ところが法律のわからない一個人とか消費者はそんな法律もわからないし大きなものに対しては弱者になり損することが泣き寝入りすることが多くなるのだ。そういう不満がインターネットで噴出している。訴えるところがないからである。

11月10日 airHは将来の必需品

airHは意外と役に立つものであった。簡単に通信できたことである。どこでもインターネットができた。airHはfieldworkに役に立つ。現場からの連絡など携帯電話と違うがそれとにたことができる。旅しながら毎日自分のホームページにアップしたことはエキサイティングなことだった。つまりこのインターネットは発信する能力に優れているのだ。一方受信となるとむずかしいのだ。メ−ル自体関係のない宣伝メ−ルがきてもとめることもできないのだ。だからいちいちチェックすることもめんどうなものになるのだ。マスコミとは全く逆なのだ。発信することは容易であり受信することは本当にむずかしい。だから自分では凄いものを発信していると思っても見ている人はそれほどでないのだ。発信している人が一人で興奮しているということもありうるのだ。パソコン通信でもそうであったが自分の文章がでてくるので自分だけが存在しているアピ−ルしているような錯覚におちいる。パソコン通信では対話が中心だからレスがつかなければ発信しても発信していないと同じとされるのだ。自分はそれも知らないで勝手に発信しつづけていたのだ。このホームページはまさに相手のことなどかまわずいくらでも発信できるのである。
いづれにしろairHはしかたなく常時接続できないのでやったがこれは将来的には必需品になる。どこでも通信できることこれがインターネットでは大事なのだ。ともかく10日間以上ホームページにアップしつづけたことは疲れたが凄いことだと我ながら感じた。旅の現場からの報告は他者にとってはどうであれ自分にとっては有益だった。なかなかその時の印象をあとで書くとなると忘れたりして書けなくなるからだ。その時その場で感じたことを書いて送ることは自分にとって有益なのである。



10月20日 2チャンネルの海外旅行情報から

「爆破されたクラブは、何でも有りのクラブ。 薬、乱交むちゃくちゃ」

バリとかとか東南アジアは欧米人や日本人のの安い性のはけ口にされている。イスラム国家ではそれが頽廃とみる人が多い。外貨をかせぐためにしかたがないとしているが反感を持つ人が多い。バリには行っていないが売春も盛んな所らしい。東南アジアに行く人はそれが目的の人が多い。だから一面いやになった。先進国が金の力で卑しめられていると感じる、イスラムの過激派にもそれなりの理由があることになる。余りにもひどいとなるがそういう頽廃した場所であったことも事実でありそれに耐えられない人々もいたのである。
自分の国でそういうことが行われたどうなるか、日本が戦争に負けた時アメリカ軍がやってきてそれに日本の女性がむらがった。あういう光景をみていたらいやになる、反感を持つ人がいてテロすらおかしくない、テロは容認されないのだが欧米の側からのみ世界をみていると見えなくなるものがある。イスラムの反感が何なのか、貧乏な国は弱者は卑しめられる。そういうことを肌身で感じているからである。エジプトのあの残酷な日本人射殺事件もそうだった。そこには一部の過激派の行為というより大勢の反感を持つ人がいることなのだ。日本も今度は逆に経済が衰退して中国人の金持ちの観光客がどっときて日本人の女を買いにやってくる時代がくるのかもしれない、つまり因果はめぐるなのだ、相手にしたことはまた相手にもされるのだ。それで初めて痛みがわかるのだ。
中国人とか韓国人には日本人に反感をもっている人が多いのだ。戦争のことで日本人を毛嫌いしている人が多い。東南アジアその点少ないことは確かである。
いづれにしろこれからはタイ辺りでもどこでもそうした場所は危険になるから御注意を


10月19日 判断のむずかしさ

将棋は4段とか5段クラスの人がいて300人の人が見ていた。
近くの食堂に将棋する人いないかと張り紙があったがそこにくるのは何人かの単位であり段クラスのひとはこない。将棋は見ているだけでも面白い。見ている方が適格に判断しやすい。冷静に見れるからである。自分が対戦するとあせったりいろいろとかえってみえなくなるのだ。当事者がかえって見えない、冷静な判断ができなくなる場合がある。現場で判断することはむずかしいからだ。冷静に見られなくなってしまう。そのために日本の戦争も負けたのである。世界情勢など客観的、冷静にみることができず無暴な猪突猛進となってのである。あそこにあの手を打てばということを冷静に見れるのは当事者でなく見ている方である。当事者はとんでもない間違った判断をしてしまう。将棋の場合は計算づくめの冷静な判断が必要である。しかし現実の場では将棋のようにはいかない、計算できないからだ。不測の事態や何が起こるかわからない、それで常に判断はむずかしい。今早く日朝国交正常化するべきかもう少し待つべきかと常に判断はむずかしく占星術や神頼みにもなるのだ。吉とでるか凶とでるかもその時点では誰も予測できないからだ。あとからああだこうだというのは楽なのである。歩をはるところ歩を与えてもいいのだが金をはり金をとられて命とりになる。北朝鮮は追い詰められているから歩をはるだけで十分なのだが金という経済援助を与えるとそれが軍事に転用されるようになったりしてかえって自分の国が不利になることもありえる。


将棋でrating機能がある。勝ち負けで点数が増えたり減ったりふる。あれはしかしあてにはならない。実力ではないのだ。200点上の人とやって勝つこともあったからだ。でも人間は点数というのは成果として明確だから点数で判断する。こいつは200とか300とか400とか点数が判断の目安となってしまう。これは目安にすぎないのだが点数に人間はこだわる。統計の数字にも人はだまされる。数字は誇大化されたりまた利用されるのだ。アフガニスタンの避難民が何百万人とかそれは嘘だといっている。数が多すぎるのだ。宗教団体でも毎日会員の数を数えている。創価学会では選挙の票だけがすべてだから幹部は毎日24時間数を数えている。800万票を比例区でとったとなるとみんなその数に驚き恐れるようになるのだ。数にはしかし落とし穴がある。現代の民主主義はすべて数が問題になる。数が権力に結びつくからである。しかし数で計れないものが多くあるのだ。その点宗教とか芸術は数が問題の世界ではない。質が問題である。いくら多くの俳句を作る人がいてもやはり芭蕉のような一人の芸術家以上の人が未だでていないということは芸術は一人の優れた人にかなわないしいくら多数がいても無益だということである。数ではなく質だからだ。政治、経済、の分野は数が権力とかかわる世界だからどうしても個人の力は発揮されないので無力なのでつまらないのである。


10月18日 帰らざる死者

どうしても今回の拉致事件は戦争のことと二重写しになる。在日とか韓国では日本語を強制的に習わせられ日本名を名のらせられ神社まで拝ませられた。日本をあくことなく批判してきた。批判というより断罪してきたのである。一方今回は日本人を拉致して韓国名を名のらせ韓国語を強制的に学ばせている。つまりなんかあの戦争での復讐を日本人を拉致してはらしているような気がする。そういう心情を北朝鮮では教育して
過剰に思わせている。日本人にさせられたことを今度は逆に韓国人が日本人にしている。だから彼らにはそれほど罪悪感がないのかもしれない。「親孝行にきました」というのは儒教道徳でそう教育されたから上の人に「親孝行しに行ってみない」と言われたのかもしれない。それにしても死んだという8人とは余りにもその差が大きい。死んだとされる人についての消息はほとんどない、墓もない、影も形もない、全くこの世から抹殺されたのだ。これでは語りようもないし偲ぶこともできないし死者は浮かばれない。日本人の非道は常に責められてきたがこの非道はあまりにも酷い。これは本当に酷いと客観的に誰がみてもひどすぎる。これは日本の戦争犯罪は他国からそう見えるのかもしれないが本当に酷いということが家族ではない他者からみてもし実感としてその酷さが伝わってくる事件だった。
生きて帰って来た人たちは日本の戦争で死んだ人たちとは全然違う迎えられ方をしたことも 印象に残った。戦争に行った人たち戦争に行く時は故郷の人からあのように万歳で送られたのだ。しかし負けて帰ってくるときはそうでなかった。帰って来た人たちはまだよかったが帰らぬままになった人たちが無数にいるのだ。それらの人たちは異郷の地に無惨に捨てられたままなのである。テレビの番組でジャングルから日本兵の骸骨がでてきた時はぎょっとした。日本兵の無惨な遺骨は捨てられて無数に埋まっているのである。今回死んだのか処刑されたのかその人たちと何か二重写しになる。彼らの消息は何にもわからず異郷の土と化してしまったのだ。

異郷の地に見捨てられ・・・・

彼らは異郷の地に見捨てられ
標となる墓とてない
その屍は異郷の地に埋もれぬ
讃えられることもなく
非難のみがその上にある
死者は何故と問うて訝る
我々の死はただ非難のみやと
我々は虚しく異郷の地に捨てられる
ただその上に非難のみある
死者は報いられず捨てられる
虚しく慙愧の髑髏が埋まっている
南国の地に風そよぎ花咲けど
彼らは受け入れられず安らぐことない
かく強いたのものは何なのか
心して深く省りみよ
50年の歳月ははや流れたり
彼らは我が同胞達は虚しく
讃えられることもなく捨てられ
異郷の土となり消えたり





10月16日「文化ファシズム」久本福子氏の本を読んで

「文化ファシズム」という久本福子氏の本をインターネットでみてかった。1900円は高かった。というのはホームページ9割くらい書いてあって同じだった。本を買わなくてもホームページで読んでもほとんど同じだった。こういうのは本当は電子本で安く買うのがいい。他にも電子本でいいものは多い。俳句とか詩などは豪華本にする意味がある。その内容も大事だが記念として本として残すのに意味がある。本にすると電子本より安心感がある。質感もでてくる。本というのはその内容よりその装丁とか質感とか手触りとか電子本にないものとして意味がでてくる。内容は電子本でも同じなのだ。ただこんな豪華本を作れるのは金持ちだけであり一般の人は電子本で内容だけを読めばいいのだ。

本にして発表することはもう一つの効果がある。publish公にすることなのだ。本を出せる人は社会に公にする効果が大きいのだ。しかしこの公にすることはマスコミでありここは権力がないとできない場所になっている。出版にしてもそうなのだ。出版社とか取り次ぎとか書店とかこれらは実は一体の権力機構のなかにあるのだ。こうした権力機構はまた大きな権力機構に弱いのである。だからこの本が誇大化している面があるにしても創価学会のような巨大組織が操り安くなるし現実かなりの部分はそうなっている。自民党と一体化してから余計にそうである。

文化ファシズムというときあながち誇大でもないのだ。池田大作は詩も作って文化人が好きなのである。自分も世界的文化人と権力を操作して装っている。文化とか芸術も意外と権力に弱い。創価学会のシンパのようにさせられている文化人が非常に多い。いつのまにかそうなっている人もいるかもしれない。なぜかというと出版とかマスコミの世界はそうした闇の権力とも結びつきやすい体質がある。権力なしでは公にできないのである。マスコミの世界は権力あるものにとっては宣伝に格好の場所なのだ。だからマスコミは創価学会など批判しないのである。例えば書店にしたってもし池田大作の本を山積みして売れれば収入になるからそのシンパとなるかもしれない。書店は最終的にそうした巨大権力の宣伝の場として残されるようになる。書店の機能自体そういう宣伝の場だということを知る必要があるのだ。書店で目立つ所におく本は売れるというのもそのためである。新聞が広告のチラシが一番役に立つというのともにている。書店はもはや昔のような知の創造の場所でなくなっていることを認識すべきである。

とにかく自分はこうした出版関係とはかかわりたくない、「邪魔になるからおけない」とか書店自体も作者になんら尊敬もない、売れるものだけが問題なのだ。インターネットはこれまでのマスコミや出版と違って宣伝とか広報の場としては微々たるものである。ほとんど発表しているかどうかわからないとさえなっている。この作者一軒一軒書店回りしておいてもらうことや他にも小出版社がとんでもない苦労した話もあった。本にも出している。例えば個人が出版にかかわろうとしたら都会の巨大なビルの谷間に一人無力にたたずむと同じである。ただ本に出すとインターネットよりpublishされる。宣伝効果が大きいのだ。だから中小の出版社や個人はこの中には入れないのだ。入れてもそれは極一部のものである。それも創価学会とか大きな組織のバックがあることは確かである。あとは排除されるのである。上野霄里氏でも出版ということがとんでもない大事業なことかわかるし出版そのものが権力機構と一体化したものだからそれと通じ合わないものは排除される。

だからこの権力機構にのるものは既得権があり石原慎太郎のようにインターネットは幻想だ、存在しないとまで傲慢にも言えるのだ。俺の本はいつでも書店の目立つところに並び俺の発言はいつでも大きなものとなる。だからこれまでのマスコミの権威は疑ってみる必要がある。権力による情報操作が隠微に陰で行われているのだ。将来的には書店は無くなるしその最後の本の引き取りの場所がbookoffだったのだ。本屋は消失しこれまででた本を引き取り出すのがbookoffだからこのbookoff自体も最後はなくなる。本が出なくなるからだ。電子本になり本なくなるからである。豪華本は少数の物好きな金持ちが買うかもしれんが本屋に並ぶようなものではなくなっている。一冊1万とか十万とか絵と同じように本自体芸術品としして売られる。



10月15日 インターネットに向いたもの

インターネットに向いているものは即興性である。思いついたことをメモしてその日の内に発表する。チャットでも会議室でもそれは発揮される。今日の一句一歌で毎日書いて発表したのは初めての経験だった。これがインターネットに向いていることがわかった。とにかく毎日書くこと発信することがインターネットに向いているのだ。ホームページとかはまだ使い方がわからないのだ。いろいろやってみてこの世界はわかる。参加型であり常に作り出す側にいるのだ。

将棋というのは将棋という場がインターネットに作られていることがわかった。つまり将棋をする会場に行かなくても確かにその場に行ったような気分、熱気にふれることになる。相手の対戦も常時観戦できるし棋譜も参考にできるし将棋をやっている時のチャットも臨場感があるから生きてくる。チャットとかは年配の人は苦手だがこれも通信の新しい文化なのだ。将棋のような場だと年齢に関係ないから気楽にチャットができる。むずかしいこを話すわけではないからだ。

インターネットではデパ−トであれ駅であれそうしたステ−ション的なものが必要である。ポ−タル検索サイトがそれなのだがそれももうひとつものたりない。将棋の場合、毎日、一日中いる人がいた。この人がまたいるなとその人の存在が気にかかるようになる。それからあそこの広告は有効である。そこに何度も行くし滞在する時間が長いから何度も見るのである。広告が有効なことは他のことでも有効なのだ。連絡とかその他のものをそこに出しておけば目にとまるのだ。つまりインターネットにはそうしたある一カ所から社会の様子がわかったり実用的なものになる方法が必要なのだ。

例えば俳句ならやはり雑誌のようにインターネットのホームページの動向がわかるようなものである。それがみんなばらばらに読まれずある。
なぜかというとホームページというのはあっちこっち分散しすぎて見るのが大変なのだ。便利なのだが意外と買い物するであれ何であれ手間がかかるものなのだ。だからホームページを訪れた人にはみんな「ホームページを見てくれてありがとうございました」と言っているのである。
本を買ってありがとうございましたというのは店員は言うが出版社や作家は言わない、テレビでも当番組見てくださってありがとうございましたなど言わないのだ。新聞でもそうである。お前たちに与えてやっている。ありがたく頂戴しろというものである。
ホームページは無料なのだから訪れる人が礼くらい言ってもいいようなものだが逆なのだ。ホームページの主催者が礼を言っているのである。
つまりホームページは見てもらうことが大変だからそうなっているのである。

こういうことも今までにないことなのだ。インターネットの世界はこうして今までの世界で理解できないことが多いのだ。
ホームページを繁盛させるにはインターネット的ノウハウが必要なのだ。しかしそれができないから自分のホームページはアクセスが少ないのである。自分場合は商売じゃないからかまわないがなんらか仕事にする、実用にするにはもっとインターネット特徴を取り入れたものが必要である。しかしそれはまだできていないのである。


10月13日  権力の上に成り立っていたマスコミ

インターネットがなかなか理解しにくいのはこれは今までと違う情報世界を作ろうとしているからだ。本を出すとなるとこれは実際は出版社とか書店とか本を流通させる東販とかこういう規制の出版として作られた機構と一体化することなのだ。つまり出版そのものもがこうしたものと一体化し協力しない限りできないものなのだ。出版社から本を出そうとすればその段階ですでに編集とか協力関係なしではできないのだ。個人で勝手に出せるような世界ではないのだ。ここが良く理解していないのである。インターネットの世界と規制の情報社会、本であれ新聞であれテレビであれこれが両立すると考えている。こう考えている人が多いが実際は規制のそうした情報流通構造に取って代わろうとしているのがインターネットなのである。今までのやり方で本を出そうとする人とインターネットで本格的に発表しようとする人はそれは違ったものになる。もちろんまだまだ本の世界が公認された権威あるものだがこの二つの世界に身をおくと対照的に見えるものがあるのだ。なぜマスコミでインターネットについての紹介や情報が少ないのかというと規制の情報側では余りだしたくないからだろう。俺たちが何百万人の前で放送する権利があり俺たちが大衆を指導するのだ。といってもマスコミはまた大衆のごきげんとりにならざるをえない。なぜなら視聴率が彼らの最大の目的であるからだ。つまり今まではマスコミや出版社が出す権利、出してやる権力をもっていたからである。

新聞を流通させることはそれを作る機械も大変だが配るのも大変である。新聞は新聞にする記事よりそれ自体を作ったり配る方が金がかかるのだ。これは今までのテレビでも出版でもそうである。本来は情報を出すことが目的なのだがそれを出すために膨大な設備や装置がかかるから権力をもっていたのである。マスコミの力は権力はそうした装置の方にあったのだ。その装置の中に書店なども完全に組み入れられていたのである。書店は独立したものではない、出版社とかと一体化して成り立っているのだ。
だからこうした装置は権力あるものは自ら持つことができる。宗教団体などはそうした出版の装置をもっていた。オウムは出版の機械を持っていたのである。創価学会の場合は出版する機械を持っていないが地方の福島民報社にも頼んで新聞などをすらせている。つまりお得意様になるのだ。読売とかほとんどそうした金銭的恩恵を受けているから批判などできないのである。規制の情報権力機構は権力の上に成り立っているのであり本当に情報を大衆に知らせるためにあるわけではなかったのである。
巨大な組織力、権力を持つものがテレビであり出版であれおさえていたのだ。そのカラクリがインターネットの出現で見えてきたのだ。一般的にそういうことさえわからない、見えない世界だった、一見言論の自由があるように見えていたが実際はこうしたマスコミの情報を流通させる権力機構によっていたのであり一個人とか庶民に発言の機会などなかったのである。出版すること自体福島県にしたって出版社に頼らざるをえない、自費出版など置かないのである。やはり部数を出している出版社が書店をとりしきることになる。つまりこれら規制のものが情報を出すことを握っていたのである。全国規模になれば大手出版社がとりしきることになるのは当然である。コストがかかりすぎるからだ。

例えば上野霄里氏は個人で本を出したが協力者には財産を無くしたものももいるほど個人で全国に本を出すことは大変なことになる。だからその本は一冊10万してもおかしくないくらいのものなのだ。なぜならそれだけのコストがかかっているからだ。
それが普通の値段で買うことなどできないものである。それほどの出費するものがあって出たものなのだ。出版すること自体大事業になってしまうのだ。だから要求されることも大きくなるのは当然である。本など1000円か2000円ではないかとそれ以上のものはかいたくないと普通思っているが出す方の出費を考えたらそうではないのだ。インターネットのになると出す方は無料だから手間がかかっても読む方に負担もかけないし出す方も手間が多少かかるだけになるからあまり要求することはないのである。

インターネットでいいのは写真とか絵とかグラフィック関係はいいものがと多い。これは誰がみてもわかりやすいし素人でもプロなみの人が多くなっていることがわかる。これらのほとんどは本にはでなかった。写真はものすごい高価なものになるしヌ−ド写真集なら金になるがそれらは金にならないから出ないのである。写真として出ているのはプロのものでありそれは大変高価なカメラを使い練りにねって何百枚から選んだ特別に優れた一枚である。写真は本にのせるだけでものすごい高価なものになるからである。インターネットには探せば規制の情報機構からはみ出された人々の意見や主張やその他日記など庶民の生きる息づかいを感じるものがある。


10月10日

緑内障の手術は終わった。結構見えるようになった。緑内障は見えるよにならないと聞いたが早い時期だと見えるようになるのかもしれない。
病院は何か閉じ込められたようでいやだ。悲惨なのは知り合いの人がクママッカ出血で半身不随になったことだ。その人が隣だったのである。
私の家族は一日早く退院した。病院がいやで体調崩したのだ。病院は
何か閉塞感があっていやだ。病院で死ぬのは悲惨だ。家族的な温かみある中で死ねる人は幸福だ。それには看病する人が必要なのだ。看病は大変である。丈夫な人二人くらいいないと看病できないのだ。それで病院にあづけてしまう人も多いのかもしれない。また白内障の手術があるがこれはほとんど直る。これはむずかしいものではない、でも体調崩したから様子見てまた入院である。



10月10日 インターネットはゴミの山=夢の島

インターネットの矛盾、皮肉とは何か、情報が無限にある、
すべての情報があるといってもそれが見つけだせないとしたら
ないと同じになる。ここに宝が埋まっているというだけで実際にその宝が発見されない、掘り出せなかったらないと同じなのだ。インターネットで検索が一番大事なのはそこからしか探り出せないからだ。そこが生命線だからである。ここが弱点なのだ。おそらく毎日10時間探しつづけても見つからないものがある。そもそも見つけられないのだ。それはないと同じである。人生を探すことに費やしかねないともいえる。貴重な情報があったとしてもそれはすべて探し出すことはできない。これがインターネットの最大の弱点である。掲示板というのが無数にある。そこにも貴重な発言があったとしても調べようもないのだ。その中のものを意味あるものとして取り出すのは容易ではない、非常に時間の無駄ができるのだ。インターネットは一面膨大なゴミの山でありそこで途方に暮れることになりかねない、しかしこれを制御できないし日々ゴミは遠慮なく積み重なり視界をさえぎるのだ。東京のゴミを集めた島を夢の島といったようにそれとにているのだ。奇妙なことはインターネットはゴミの山=夢の島だとインターネットの検索ででてきた。つまり同じことを考えていた人がいたのだ。
しかしこうしたインターネットの便利さと裏腹な不便さの解消がないと情報が無限にあるとしてもないと同じとして終わり活用されないことになる。


10月9日 インターネットは発信する道具

小さな町だけど生活に不便を感じることはあまりない。ビデオとかDVDを借りるのは返すのにめんどうで不便を感じた。自転車ではめんどうになるからだ。それから家のものが病気になり隣の市に行くのにタクシ−で2500円もとられるのは痛い。そのくらいが不便なことである。生活自体は刺激のない退屈にはなる。最近では仙台に3ケ月くらい行っていない、仙台に行くのは本を買うためだった。本はbookoffとかでしか買わなくなった。それで結構まにあうのだ。本自体読む力がなくなったともいえる。本はセンブエレブンでも送料無料でいつでもインターネットで買うことができる。ただ本自体が高いからかなり選んで買わないといけない。不景気の時代は本を買う人はへるのはやむをえない。退屈という問題は何か作る、創作することで解決できる。ホームページの制作は限りがないのであきることがない、作っている方が楽しいのがホームページである。今まではマスコミでも一方的に与えられるだけだった。インターネットは出す方には発信する方には便利にできている。一方受信となるとかえって検索などで大変なのである。マスコミはテレビのように寝ころんで見れるように受信には楽なのだ。つまりこれまでのメデアとインターネットは逆になっているのだ。そしてインターネットの発信に向いているのは日記とか時事問題である。毎日の変化を発信すること、時事問題は今ホットな問題を話題にできることである。北朝鮮の拉致問題はみんなが関心あることだから誰もがそれについて書くことになる。インターネットは日々発信するのに向いているし書くということも毎日とにかく書いていると書く力がつくのだ。時事問題の深層でこれだけ自分自身書けると思わなかったことを書いたからである。これまでは書いて発表する場などなかった。インターネットは気軽に書けるツ−ルなのである。だから本を読むということは少なくなるのかもしれないが書く力は大衆レベルで向上してくる。大衆に書いて発表する場など与えられていなかったからだ。

10月1日      パソコンに苦しむ

パソコンはやっかいなものである。airHのカ−ドで接続するため富士通のPLICHEという一体型のパソコンを10万でかった。あとから買ったので安かった。カ−ドスロットがついていたので通信するのに便利だった。しかしftpに転送する時フォルダが開けなくなった。ホームページビルダ−に問題あるのかと思い再インスト−ルしたがどうもホームページビルダ−には問題ないような気がする。他のパソコンでは問題なく開ける。このパソコン自体に問題あるとしか考えられない。でもその解決方法はない、富士通はいつも電話がつながらないしこのパソコン自体のサポ−トは終了した。パソコンは複雑だし周辺機器の問題もあり何か問題が起きたら解決方法がないのだ。スキャナ−がいつのまにか使いなくななったり一年くらいすぎるとソフトやドライバ−なのか故障するのだ。再インスト−ルとかすると使える場合があるが直すことはできない。このバソコン自体全部使いなくなったわけではない。ftpで転送できなくなっただけである。バソコンはいろいろな問題が起きる、バソコンは三つくらい置く必要がある。ノ−トパソコンにカ−ドがつなげるのでこれで転送してみよう。やはりもう一台買うほうかないかもしれん。パソコンというのは買うこと自体むずかしいのだ。外つけのCD-RWというのを一度パソコンが壊れ記録した消えたので保存のために買ったが使ったのが何回かで今はパソコンについている。これも大損だった。5万円は高すぎた。

このパソコン−インターネットの世界は一つの情報革命としてやる必要があるのだ。本とか新聞とかテレビとは違う情報革命でありこの革命に参加するという気持ちでやる必要がある。革命ということは大変なことなのだ。技術的問題から法律問題から人間関係から様々な問題がおきる。一方で新しい文化が作られる面白さもあるのだ。今日の一句一歌で毎日アップしたらこれは創造する方にとって創造を喚起するものであった。それを読む人はどうなのかわからないけどパソコン−インターネットは創造を喚起するものだというのがわかる。本の世界は創造されたものを出すということはあっても創造を喚起するということはない、出版社とかは作者の創造を喚起するようなことしないのである。作家であれ画家であれ勝手にいいものを作ってくれ、できたら売りましょうという世界でありそれも極限られた一部しか出版の世界には入ることができない。パソコン−インターネットは創造を喚起するツ−ルであり公平に誰の前にも開かれている。そのハ−ドルは確かに高いかもしれない、革命にはやはり困難がつきまとうのだ。今までのマスメデアから別なメデアへの移行であるからだ。だから出版社とか書店とか新聞とか図書館とかこうした規制のものを必然的に破壊する。そういう革命に参加している自覚が必要なのだ。個々の出版社とか新聞社とか書店とかの問題ではない、そうした旧来の機構自体の否定、破壊の上に新しい情報社会が成立する。だから革命なのである。武士社会の破壊の上に新しい時代が来たように革命なのである。だから旧来のメデアに依存して旧来のやり方で取り組むとうまくいかないし新しいものは生まれないのだ。本では出せないようなものを出している。本では書けない様なものをみんな書いているからだ。また作り得るからだ。



9月30日

通信の将棋は思ったよりうまくいかない、マウスで動かしていると思った所にさせず一回くらい別な所にさして負けている。将棋では勝手も操作でまける。盤が実際はよく見えないのだ。便利なものだがそこに不公平がある。操作をうまくやらないと勝てないのだ。思った以上に盤が見えにくいのだ。半分は操作でまけた。弱いことは確かだが負け惜しみではないが通信の世界はこういうことがよくある。通信のパソコンの操作の技術が必要になってくる。マウスは非常に使いにくい。二台目のパソコンでやっているのでペン操作でポインタ−を動かすようにしないとだめである。とにかくこの世界は自分なりに使いやすいにしないと何事いやになるしつづかない。ロ−マ字入力も使いにくいからオワシスの親指シフトを使っている。こういうところがまだまだパソコンの問題である。今度でるノ−トのように画面から入力したり画面から操作できるノ−ト型のパソコンなどは使いやすいかもしれない。ともかく操作の悪さでいろいろ不便なことが多いのだ。

将棋はすでにコンピュタ−が二段クラスでありコンピュタ−化できるものなのだ。ということはすでにコンピュタ−の方が格段も人間より強くなっている。ということはそこにすでに人間の創造性の入る余地がなくなっている。チェスがコンピュタ−にまけたのが話題になったがそれほどすでにへたな人間よりすでに強い。弱い人間よりコンピュタ−とやった方が強くなる。だからインターネットの将棋ではソフトを使い操作するなどということがあるのだ。コンピュタ−の将棋でコンピュタ−に勝つというのも変なことである。俳句をコンピュタ−化しようとする試みがあった。しかしコンピュタ−は一句も作っていない。作れないのだ。
コンピュタ−はだから文芸や芸術分野でなんら創造できない。創造能力がないのだ。だからコンピュタ−化できるもの将棋でもゲ−ムでも人間のやるべきことではない。頭を使うわりには徒労である。なぜならコンピュタ−の二段くらいになるのは大変だからだ。人間はコンピュタ−と同じではない、コンピュタ−にできないことこそに人間の価値があるのだ。


9月27日 インターネットに合っているゲ−ム

昨日はドイツ人と将棋をやった。英語で挨拶した。将棋はチェスよりむずかしい。将棋は複雑だから外国人が強くなることはむずかしい。14級が精一杯かもしれん。自分もなかなか上に上がれない。通信将棋はかえってレベルが高い。全国の人が集まっているからだ。将棋と大陸の中国の将棋やチェスの違いは駒を一度とったら使いない、捨てることになる。日本は駒をとってはいかしまた捨ててと複雑である。ゲ−ムにも文化がありそれが反映しているのだ。日本人は駒を捨てない、相手が敵でもまた活かす、人材のリサイクルがあるのかもしれない。大陸は敵をやっつけたら捨ててゆくという非情の世界なのか、厳しい世界を反映しているかもしれない。

チェスの特徴は王様に王女様、城の塔のようなものが駒になっている。
日本でも城は重要だが城という建物より人間が重要とされたのかヨ−ロッバでは城そのもの建物が常に社会にとって大事である。市というのが城壁に囲まれ市そのものが城だからだ。中国でも万里長城があるごとく
国自体が城化、要塞化するのだ。それは常に外敵が攻めてくるからである。それからBISHOP司教が大きな駒になっている。これもヨ−ロッバの社会を反映したものだ。王様と王女様が一対になっているのはヨ−ロッバではレディファ−ストとか男女同権の社会が形成されていたのか、今でもパ−ティは夫婦同伴であり社会的に夫婦を社会の生活に社交に組み入れるようになっている。独身はだから入りづらい。このチェスはシルクロ−ドの敦煌で外国人と日本人がしていた。なんかあそこは国際的でありチェスしているのがあっていた。立葵が咲き外は砂漠である。エキゾシズムのある場所なのだ。つまりシルクロ−ドを通じて文化が入ってきたところだから雰囲気が合っていたのである。

将棋はなかなか強くなれない、疲れる。勝負事だから負けたくないとなるからあまり深入りはしない方がいい。通信の将棋ってどうなのかと思いやってみた。ゲ−ムは通信に向いているしやみつきになる可能性が高い。チェスのゲ−ムも外国のサイトでできる。気軽に外国人と遊べることは通信の醍醐味である。インターネットの世界はいろいろな応用が可能でありゲ−ムがインターネットに向いていることがわかった。将棋24の会員はインターネットの普及とともにうなぎのぼりになって伸びている。あれだけアクセス数かあると広告は有効である。何回かクリックしたからだ。ゲ−ムはその場にとどまることが多くなるからさらに有効なのである。



9月21日 阿武隈高原は広い

阿武隈高原は高い山はない、だから高原となる、飯館はかなり標高が高い。大倉を回り飯館を回り津島の方に行く途中に原町にでるトンネルができた。あのトンネルは危険ではない、自動車が通る数が少ないからだ。だから怖くない。津島までゆくと一日では自転車でいけない。阿武隈高原は家が点々とあるだけで緑が豊かである。しかし実際の生活は山だけで暮らしてはいけないから原町辺りに勤めにでている人が多いかもしれない。牛を売り物にしているが空き家になった家がまた一軒あったので暮らしにくいことは確かだ。医者とかが一番問題である。とにかく阿武隈高原は思っているよりかなり広い領域なのだ。この広さを実感するには自転車とかで体で実感することである。緑がいかに豊かであるかわかる。

それで相馬郡の部に「緑の飯館」という詩をアップした。ただ飯館も人を集めるに苦労しているらしい。というのは競馬の馬券場を作って宣伝している。これは自分の町でも競輪場のサテライトを作ったと同じである。人を集めるということにどこでも苦労しているのだ。人が集まらないと経済効果がでてこないのだ。なんでもいいから人が集まると飲み食いしたりもするから経済効果がでてくるのだ。インターネットでも商売するならとにかくアクセスさせることがいかに大変かわかる。
東京都もカジノを作るというのも人集めのためである。ただ緑の飯館というイメ−ジがそこなわれる。石の彫刻の村というのは合っているが馬券場ではイメ−ジがそこなわれる。ただ自分の町でも反対したのだが何か常に経済優先になるのだ。しかし実際どれだけ経済効果があがっているかは疑問である。いづれにしろこの世に桃源郷などどこにもないのだ。そこに住んでいる人が悪いからである。ただ自然につつまれたところはそうした人間の醜さを隠すからいいのである。


9月21日   将棋が面白い

常時接続で一番熱中したのが将棋だった。いろいろうまくできているなと感心した。韓国のブロ−ドバンドでゲ−ムが一番盛んになったというのがわかった。

@記録機能
A全国国際性
B常時参加
Cレベル向上


将棋とかゲ−ムもコンピュタ−の機能を活かしたものであることがわかった。棋譜が保存されてをり様々な研究ができる。上位の手も覚えることができる。ratingはランクづけは比較的公平になる。何故なら対戦するのは同じクラスになり腕が上がると上位に挑戦し階級があがってゆく。これはまた全国で参加するから全国的レベルでの戦いにもなりいつでも相手がいるから便利である。必ず外国人も参加しているから外国人にとっても便利である。外国では将棋をする人が極端に少ないからだ。将棋は今田舎だってやる相手がいないし強い相手もいない。そうした地域にしばられないことである。国にもしばられないのだ。ここにインターネットの特徴が発揮されている。ただ通信の技術でごまかす人がいる。それも会員削除になるからなかなかごまかすのも大変である。将棋とかゲ−ムはインターネット的に合うものだった。双方向性があり一対一の対決が面白いのだ。それは絶えずレスをつけて話していたこととにている。例えば思想とかむずかいし学術的話になると話せる人は極端に少ないから双方向であっても相手がいないのだ。ところが将棋の場合は中学生でも十分対等にゲ−ムはできるのである



9月20日

人類は21世紀に滅亡する(糸川英樹)


bookoffに行ったら1500円の新刊本が1000円で売っていた。本屋に出た新しい本がすぐにbookoffにならぶ、1500円の本が1000円で読めるとなると得だし読んだら売ることもできる。それより500円になったら買うという手もある。bookoffは本の価格破壊を行っているのかもしれない。どういうわけか余り中身を見ず500円くらいだと本を買う場合ある。1500円だとそうはいかない。中身はあとからゆっくりみよとなる。500円だとそんなに損になると思わないからである。もし本が500円になったら相当本を買うことは確かである。1500円で買うより3倍も買いるのだから。

この本の問題提起はグロ−バリ−ゼ−ションがなぜ問題だったか、各地の伝統的生活を破壊した。それはあまりにも急激な変化をもたらした。ベトウィン族が定住生活を強いられたらこれまでの砂漠での生活の知恵は役にたたず生きがいが失われた。急激な変化は伝統的社会を根こそぎ破壊する。これが20世紀に起こったことなのだ。20世紀に起こった世界的戦争、急激な科学の発達、そのあとの冷戦や冷戦のあとの民族紛争などなど余りにも世界が急速に交わりすぎたことも一因だった。速度が速すぎたのだ。20世紀以前は世界が交わる速度が遅かった。船でヨ−ロッバからくるのに1年もかかったのだ。急速なグロ−バリ−ゼ−ションの結果としてアメリカに対するテロがおきた。異文化との交流はそもそもかなり時間をかけないとできないものだったのである。資本主義は経済原則が優先する、金だけが力となる世界だからそこに矛盾がうまれたのだ。実際江戸時代に京都の人東北の人が出会うとういことは大変なことでありその道中自体が大変な文化交流だった。歩いてゆくほかないのだからその道道から東北の遠さを自覚した。今は遠いという感覚すら外国にすらもてないのだ。だから飛行機で世界の果てまで飛んでも世界を知ったというわけではないのだ。世界を知ったというのは技術による錯覚だということになる。これはインターネットにもいえる。世界の人と交われるというけど実際はこれも技術による錯覚の面があるのだ。技術は本当の体験ではなく錯覚を生み出しているのだ。世界が一つになったというのも錯覚でありむしろ誤解が互いの違和感が急速に増大してにっちさっちもいかなくなったのが現代だったのだ。



9月19日

北朝鮮の不思議は中国、ロシア、韓国、アメリカ、日本と囲まれて圧力を受けて歩しか力ないものが成りになって金の価値を帯びたことではなかろうか。北朝鮮はこうした強国に囲まれて実際は価値ある位置にあったのだ。ロシアと結び、中国と結び、日本と結ぶ位置にあったのだ。つまり北朝鮮は回りの国に対して強硬姿勢をとる必要などなかったのだ。何の利益もないからだ。あんな軍事一辺倒の独裁政治をやめて回りの強国と協調すれば経済も好転することができる。不思議なことに戦前はロシアや中国やアメリカが覇権争いがあり朝鮮半島は分断されて悲劇となった。しかし今の世界情勢は実際は北朝鮮に有利に働く条件が整っていたのである。一体ではなぜそうした国際情勢に気づかなかったのか。なんであんな独りよがりのがちがちの独裁軍事国家になっていたのか、これがファシズム国家の怖さである。国民のためより軍隊を維持する国家だったからである。一体誰と戦おうとしていたのか?軍部が自分たちの体制を維持するために戦っていただけなのである。回りの国は別に北朝鮮と敵対しようなどしていなかったからである。ではイラクの問題がうまくいかないのはなぜなのか。イスラム教とうまくいかないのか、そうでもない、石油の利権の問題がある。アメリカは中東を取り仕切っていたのだ。もう一つはユダヤ人たちのアメリカの政府に対する圧力によりイラクは抑えていなければならない。イラクが強大化することは困るのである。人間は宗教問題でそんなに争うことはない,利害が一致するとうまくいく。ロシアとアメリカがうまくいくようになったのは利害が一致するようになったからである。国際情勢は突然に黒が白のように反転することがある。北朝鮮はこれからは隣国との協調路線に入ってゆく。そうする他生きる道がないしそれは自分の国にとって最もいいことだから何も悪いことはない、悪いと思っていたのは自分たちの体制が崩壊するという軍部だけだったのだ。


9月13日 アクセスに悩むホームページ

インターネットの世界はまだわからないことが多すぎるのだ。相互リンクの申し込みがあった。ホームページを集めているサイトである。アクセスのランクづけを行っている。ホームページの数はまだまだ少ない。
でもそういう小さいサイトでは読まれる比率は高くなる。狭い範囲だから目にとまるのである。みんなアクセスに悩んでいる。インフォーシークではアクセスなしがないということは俳句と入れると上位にでてくるからだ。googleなどでは余りに膨大で俳句だけではでてこない。インフォーシークも50万と多いのだがそれでも上位にでてくるのでアクセスが途切れなくあるのかもしれない。インターネットは今までの世界とは余りにも違うからわからないのだ。例えばリンク集など誰でも作れる。
でも勝手に集めるということもできないのだが実際はリンク集を勝手に作っている。本の世界から考えると本を自費出版で作っても本屋にさえおいてもらえない。金にならないし邪魔になると店員に言われた。本屋におかれる本は出版社と契約したもしか置かないのだ。本を書店に置くことは実にむずかしいのだ。

一方インターネットの世界は置くといってもリンクをはるだけでありあとの管理も邪魔にもならないのだ。インターネット上においてあればただリンクするだけである。無料でホームページを置くところは管理するのに手間がかかる。その分広告とかおくからミラ−サイトとしておいたインフォーシークなどでもアクセスがないとただで貸すメリットがない。ただホームページを置けばインフォーシークにアクセスするので宣伝にはなる。インターネットは本のようにがさばるとか物を扱っているのではないから容易におくことは可能だし置くというよりつなぐ手間だけなである。では誰のホームページでも勝手に置けるかというのも問題なのである。そこがそのサイトの宣伝の場になりそのサイトの繁栄に寄与することになる。アクセスアップのサイトはアクセスに悩む人が多いからそれでアクセスをあげようとしているのだ。

商売するにも何するにもホームページはアクセスが問題になるのだ。誰も見ないとすると商売にもならないからだ。ホームページの問題それは余りに多くてアクセスされない、読んでもらえないということなのだ。俳句のホームページは一万くらいあるかもしれない。その中で読まれることはとんでもなく大変なことになる。これがインターネットのアキレス腱でありやはり選別作業が必要なのだ。ヤホ−ではしているがただやたらとホームページ集めてこれからは有効ではない。読む人にはただてまがかかるだけになってしまうからだ。インターネットはキ−ワ−ド検索にしても韓国だったら韓国の情報デ−タ−ベ−スを著作権に関係ないとしたらすぐに作れる。
俳句にしても季語ごとに分類できる。実際はそういう使い方が向いているのだが著作権でできないのである。


9月12日

インターネットは私の今日の一句一歌のような毎日少しでもいいから出すのに向いている。日記に一番向いているのだ。ホームページは毎日少しでもアップするのに向いている。では誰か毎日読んでいるのかというとそれはありえないだろう。掲示板に書きこめば反応みるためにくるが読むたけではこない。自分の場合掲示板はおいてないからアクセスは本サイトは数人しかない、1週間の内必ずなしの時がある。アクセス数を考えたらあまりにも淋しい。どうしても無数のホームページはにたような状態に思える。アクセス数のあるのはラーメン屋を話題にしたものやエロサイトである。エロサイトは20万のアクセスがあったという。でも
いやになりやめたという。これだけの反応があってもやめる人も多いのである。やる意味が見え出せなくなったのだ。ホームページには様々なものがあるが何か真面目に真剣に人生を追求するものは少ない。軽薄なものが好まれる傾向が強い、私の場合はそういう人たちとは付き合う気はない。もはや無駄なことしている時間がないからだ。芸術でも単なる遊び気分というのではなく真剣さが要求される。宗教ももちろんそうである。インフォシークではどいうわけかいつもページビューが50くらいあるし0になった日はない。これは分析できないからどうなっているのかわからない。だからインフォシークにも本サイトと同じようにアップしている。これはめんどうだがしかたがない。読まれるための涙ぐましい努力をしているのだ。他の人も同じである。みんな俺のホームページ読んでくれ読んでくれという悲鳴のようなものが聞こえてくる。それは百万の人間が自分を認めてくれということになる。とにかく実際はインターネットはまだまだこれからのものでありその活用方法は模索中なのである。



9月7日

インターネットは検索にしても探すのに疲れる。掲示板とか
さらにいろいろやるとこれは疲れるだろう。WEBMASTERの仕事は大変である。文章書くこと自体疲れる。ホームページは途中でやめた人が結構多いのかもしれない。続けて書き続けるのがむずかしいのだ。今日の一句一歌は毎日だが書く量が少ないのでつづけられるかもしれない。
インターネットはなんらかの編集が必要なのだ。無数のホームページ
をなんらか結べつけるものが必要なのだ。ただインターネットというメデアの特長は個人的なことなのだ。一人一人がメデアをもっているからである。マスコミでは必ずそこにいるのは何人かいる。純粋な個人の発言ではないのだ。ところがテレビに出て発言している人がホームページで発言するとその人個人に焦点があてられる。その個人の思想、発想、素性、生い立ちとか個人に関心が向けられる。これはマスコミにはなかったことである。マスコミにでるときはその人の意見に注目してもその人個人に注目することはない。インターネットはその個人に注目が集中されるのである。だから個のメデアであり個と個が対等に向き合うことになるのだ。それは相手が中学生であろうが個と個が向き合うことになる。メデア自体がそういう性質を持っているからマスコミとは違うのだ。では個と個が対等に向き合うほどの個を持っている人がいるのかというとそういう人は少ないとなると無数の個はどうなるのか、その自分を主張できない個はどうなるのか、発言できてもその発言に価値が認められない、無視される。個性や個を持つことは実際容易ではないからだ。
インターネットは個人に発言の場を与えたのだが個として発言できるのは極めて少ないからホームページをもっても挫折する人が多いかもしれない。とにかくホームページは集団的に連句を作ったり討論したりにも向いているがメデアの特長として個のメデアなのである。個を主張する場だということが今までのメデアとの根本的な相違なのだ。



9月3日  評価なきインターネット

本が1500円だとするとインターネットだったら元がほとんどただできるから500円くらいになる。これはbookoffと同じ値段である。それでも数を売ればもうかる。本の値段の7割くらいは制作費やら流通費なのだ。本はどうしても高いとなり買うのを控えるようになる。500円だったら買うのである。これは電子本の値段である。でも電子本でなぜ出さないかというとインターネット上にだすと価値が下がるような気がするのだ。本に出せる人、本になったものは評価をすでに得たものだから高くても買う人がいる。一方インターネットで無料で出しているのはそれなりの価値しかないという見方が強い。それだけの金をだしても買うということは価値あるからだ。インターネットは金をかけないのだからそれだけの価値しかないととられる。やはり世の中評価のシステムが必要なのだ。将棋でも勝てば上に上がるようになっているからなんとか勝って上にあがろうとする。インターネットにはそれがない面がある。カテゴリー登録でも評価もなく無数のホームページが並べられてある。
俳句でも詩でもなんら評価もなく並べられている。そこからいいものを探すことは至難の技になる。googleがキーワード検索で比較的読めるものが並ぶのは不完全でも評価のシステムを取り入れたことである。その評価をしているのは人間の推薦、リンクによる。なんでも評価は避けられない、みんな平等とはいかない、評価なくして向上心もでてこない。
しかし文学関係などは評価がむずかしいから一流も十流も同じに並べられていて混乱するのだ。いいものはいいとある程度評価されないとやる気もなくなる。ここにインターネットの問題がある。



8月26日 デジタル記録の不安

この暑さは何なんだ、温暖化はやはり文明のせいか、DVDレコダーを買った。パナソニックで7万円で買った。デジタルの記録は便利なものだが
消えるとか実体がないという不安にかられる。テープに厚いテープに記録されたものはやはりアナログであり本とにていた。デジタルの記録はどこに記録されているのかおそらく最終的には一枚の盤に一個人の記録はすべて収まる。しかしまたその記録が呼び出せない、一瞬にして消えるという不安にかられるのだ。一瞬にしてこれまでの努力が水の泡になる。テープでとりためたビデオの記録が20本くらいある。これには貴重なものがある。これが消えると大損だ。だからテープは場所をとっても倉庫にとっておく。デジタル社会の不安はここにもある。ホームページでもレンタルサーバーでも保証できないのだ。故障したり悪意のある人や敵対する人が管理していたら一瞬にして消され責任もとらない世界なのだ。本はものだから物として残ろうとする。デジタルは一瞬にして膨大な記録が消える、消されるのだ。アメリカのテロでコンピュターの記録は一瞬にしてすべて消えた。ただバックアップ会社に頼んでいた会社は記録が残ったのだ。ホームページの記録も文字の部分は印刷しておくべきである。写真は消えてもあきらめるほかない。三つくらいに分けて記録しておく必要がある。記録は簡単なのだがまるで空気にでも記録している感覚がデジタルなのだ。

水に記録したのか
空気に記録したのか
それは一瞬にして消え
記録は呼び出せない
そしてその人の存在の証拠もない
なにか幽霊のように
水に記録の文字の断片が浮かび上がり

またはかなく消えて水は透明である



8月26日 老人のサイクリスト

老人のサイクリストが気仙沼からやってきた。荷物を積んでないから楽だ。結構年配の人で自転車旅行している。意外と自転車旅行は年配者向きなのだ。というのは疲れたら休めばいいし自転車を走らせること自体は重労働ではない。ゆっくり回りの景色を見ながら風のごとくに走ることは気持ちがいい。
それにしても88才で世界一周したというイギリスの人には驚いた。65才から始めたそうだが世界となると若いものでも大変である。自分にとって外国はショックだった。四苦八苦してなんとか主な所をまわった。それを自転車となるとこれは大変である。肉体的にも大変だが外国の場合精神的にまいってしまうのだ。この本自体は経験のわりには面白いといえない。こんなとてつもない経験をしてもかならずしも面白いものを書けるわけではない、行為と書くことは別な面があるのだ。例えば海外旅行した人は山ほどいてもいいものを書ける人が少ないのと同じである。
いずれにしろ六号線を老人のサイクリストが去って行った。
まだ残暑はつづく。

 老人のサイクリスト行く晩夏かな


8月21日 webの意味(2)

新聞は世界の古地図である
情報洪水ネットワーク社会のなかで
欠落しているものが多い
インターネット社会は思わず
未踏の地が浮かび上がり
詳細な点の情報をを示す
そして点と点を結び合う
新聞の情報は継ぎ接ぎだらけ
インターネット社会の羅針盤にはなれない
老人の暇つぶしでその役目を終える


webとは点と点を結ぶものでありそこがマスコミと違う。
無数の点が結びついてくると意味がでてくる。しかし無数の点が無数の点のままに結びつかないと意味がでてこない。
マスコミは面の情報でりインターネットは点の情報であり点は個人なのである。


8月17日 webの意味

なぜインターネットが不思議なのか、これが今までにないメデアだからだ。新聞であれテレビであれ雑誌であれそういうマスコミ中心の世界で情報を摂取してきた。インターネットはそれと違うのだ。新聞でもテレビでもそれを放送するものが主導権を握っている。出版でも同じである。それは巨大な権力、特権を持つ組織体でありそういうものの援助がないと情報の発信などできなかったのだ。取捨選択するのは消費者でも読者でもない、権力をもったマスコミだったのである。

 常時接続になりテレビとか雑誌を見たり読む時間がへった、果たしてそうなると社会の情勢がわからなくなるのか、そうでもない、インターネットには規制のマスコミなどを批判するものが多い、マスコミ独占の時代から別な時代に移っているのだ。それはかえってバランスがとれていいのだ。テレビとかマスメデアはある人を巨大化する、テレビにでただけでその人物いかんに関係なく巨大化するのだ。マスメデアを支配すれば社会を支配できると思わせるほどその力は絶大だったのだ。

テレビを見る時間、新聞を読まなくなる、必要なくなってくることはいいことである。インターネットがそれにかわればいいのだ。今までの規制のメデアに頼っている限りマスコミの支配、洗脳を受けるのである。

インターネットの不思議はWEBの不思議はまさに蜘蛛の巣のように結びつくことである。例えば時事問題6の「無線で常時接続ができた」という文にインターネットを探して文を書き加えた。つまり必ずそれに呼応するもの同じ思いを抱く人の意見があるのだ。政府でも中央集権の弊害を感じていたのだ。首都の移転もそこから発想された面があった。それから「軍隊手帳」に関しての情報もあった。インターネットの不思議は蜘蛛の巣のように情報が結ばれることにありこれは今までにないことだから理解するのがむずかしいのだ。


8月11日

今日の一句一歌を始めたがかえってこれは楽だ。というのは短い文だし一つだけアップすればいいいからだ。長い文にするとむずかしいのだ。
それからインターネットの世界は国境を越えていることなのだ。それで
著作権の問題がでてくる。googleの検索でimage検索があるがあの写真は外国人のもでてくる。あれを利用してもわからない。外国になると言葉も違い確かめるのも大変だし法に訴えるとしてもめんどうである。インターネットてはとにかくコピーしやすいから困るのだ。日本人同士だと発見されやすいが外国人だとわかりにくい。


8月10日
明窓出版社からでた上野霄里氏の電子本の単細胞的思考が簡単に一冊分瞬間的にコピーできた。あんなに厚いものが一瞬でコピーなのだ。電子本はいくら長編でも厚さがないのだ。ダウンロードの時間が多少長くなるくらいである。このコピーした本をメールで送付されたらどうなるのか、そうした注意がきも書いていなかった。これは与えられた鍵やパスワードで開けるようにしないとまずい。電子図書館自体が自分のパソコンに簡単にコピーできる。あんな厚い本が単細胞的思考が1mbにもならない、自宅に世界的図書館が簡単にできてしまうのだ。確かにコピーするためには金を払う必要がでてくる。コピー権である。これを始めた出版社もいる。毎日しているインターネット読書というのも不思議ならインターネットはすべて次元の違う世界だから戸惑うのである。


8月9日 電子本

上野霄里氏の単細胞的思考の電子本を読めた。メールでT−TIMEファイルで送られて来たが古いT−TIMEだったのでできないと思ったがアプリケーションからひらくでできた。それにしてもあんな厚いものを電子本にするのは大変だったように思うが一旦電子本にすればあとは
楽である。電子本も増えたようだ。500円くらいだからやはり安い。あんな厚い本が電子本で普及するとなるとどうなるかというとノートパソコンを持ち歩くと大図書館を持ち歩くと同じになる。そこでコンビニで
WEBMONEY
というのを買い電子本をインターネットで買う。これをノートパソコンに入れるのだ。そうすれば旅にでても膨大な本を持ち歩けることになる。電子本やインターネットの世界はなぜ今までと違うかというと言葉は文章となりそれを紙に定着させる。それで言葉が物のようになる。一方電子の世界はそうした定着性というか物として残るものでないからつまり電子は一瞬にして消える世界でもある。そうした不安定な文字でも何か物体化せず浮遊しているような感じになるのだ。
電子本として読むのと本で読むのもかなり違った体験なのである。
あれだけの量の文を電子本で読めるのかとなるとこれまた本の読書とは
違ったものになる。いずれにしろこれから復刻版の電子本がかなりでてくる。書店には置けなくても電子本の場合一冊原本の電子本を置けばあとは一瞬に送ることができるのだ。場所もとらないし本屋などなくてもパソコン一台あればいくらでも電子本は置けるのだ。多種多様なものが置けるのである。過去のここ50年くらいに発行された本の方がかなり価値あるものである。それは古本にあるのだが高い場合があり読めないのである。


8月7日 使いないソフトで大損だ

パソコンのソフトは使いないのが実に多い、みんな使いやすくしようとしてソフトを買ってもそれが使いにくかったり実際は開発中のものだったりすぐに古くなり使うことさえできなくなる。バージョンアップしないと本当に使いなくなるのだ。今回の上野霄里氏の単細胞的思考の電子本がメールで送付されてきたが旧バージョンではひらけないのだ。
新しいのをダウンロードできるのだがこれが古いのを削除しないとできないのだ。追加と削除にもT−TIMEが入ってないから削除できないのだ。有償のバージョンアップで使いいるようになるのかこれも馬鹿らしいのである。結局思うに新しいパソコンに最新のT−TIMEを入れてみるのが一番いいのかもしれない、2300円で買ったがどうしようもない、WIN95時代にソフトは使えるのかと思って一万近くのを
いくつも買ったのである。IBMの音声で文章を変換するものやこれは
14000円で買ったのだ。他にいろいろできると思い買った。
確実に10万は損した。ソフトは極力買うべきではない、電子本も便利だがこういうこともある。まあ古いのがない人で新しいのを買う人は問題ないと思う。こんなわけでWINXP買うのも躊躇するのだ。古いソフト使いなれたシフトが使いなくなるからだ。
いずれにしろパソコンーインターネットは便利なものだが使いこなすことが大変なのだ。ただ常時接続になりいろいろ聞いたり会社に直接メールだしたりとできるので楽だ。今まではメールのチェックは11時以降だった。これでは使いなかったのだ。


8月6日  

インターネット、ホームページは毎日更新するものである、私的な新聞でもある、時間をかけてかくものもあるが日々変化する、生きているものを報告することなのだ。今回始めた今日の一句一歌は常時接続でむたので始めた。自分の場合、毎日アクセスする人はいないだろうから無駄な面もあるがなんかホームページは自分の日記として記録としても役に立つ、人が見る見ないに限らず記録しておくとあとで役にたつ、ホームページはアクセスされることも大変だが自らアクセスすることも手間がかかりことなのだ。いいホームページがあっても何回もゆくことがないのだ。それほどアクセスされることもアクセスすることもむずかしいのだ。やはり便利なのは自分のホームページに随時必要ないい情報が流れてくることである。例えば今日の俳句とあったら誰かのいい俳句でも自分のホームページに流れてくれば面白いし手間がはぶける。他の有用な情報もである。ただそれは個人個人で違うのだから無理ではある。ともかく常時接続でインターネットの醍醐味がわかった。


8月6日

やはり常時接続は便利だ、ホームページ作りをしながらインターネットにアクセスして調べホームページに付け加えて行く、インホシークのニュース電光盤も取り入れた。インターネットは自分の場所に重要な情報が入ってくると便利なのだ。いちいち調べにゆくと不便になる。不思議なのはカウンターにしろホームページはインターネットと一体になりつながっていることなのだ.自分のホームページを相互関連の中で充実させることと自分のホームページがわからないがポータルサイト的なものに拡大進歩させることができるのがインターネットである。インターネットはどういうふうに利用するかわからないのだ。技術的にはわからないのだがやはりつながっているということがインターネットの未知の可能性なのである。それぞれがどうこれを活用するかは模索中なのだ。
とにかく常時接続で将棋やらいろいろと一日中インターネットをやっている。二つのホームページにアップするのでこれもめんどうだがインホーシークは掲示板が10とかチャットももてる。これってニフテイでやっていたことが個人レベルでできるのである。

これがインターネットのすごいところだ。それも無料で提供しているのだ。つまりこの世界は金がかからないのだ。それでなぜNHKが受信料を全国で一律にとるのか変だと思った。NHKの番組を全部の人が見ているわけでもないし一律にとる権利はないというのは本当なのかもしれない。テレビは設備費にかかったから誰もできないもので大きなメデアが放送を独占していたのだ。出版も同じであった。NHKで放送したのはほんの一部にすぎないしそれはNHKが勝手に選び作っていたのだ。なぜなら少数者であれこれを放送してくれといっても放送できないからだ。インターネットは個人レベルでかなりの放送もできるのだ。常時接続でやりやすくなったのでこれからいろいろホームページみで試してみよう


8月5日 通信の将棋

インターネットをノートパソコンで通信でやるのはやはりかなりむずかしいかもしれん、バッテリーが消耗するのか、スムーズにいかない、バッテリーの問題が大きい、距離の関係もある、性能の問題もある
確かにリアルタイムで旅の報国したら面白いと思うがこれはかなりむずかしい、家だと楽だが外になるといろいろ問題がでてくる。
第一LOOXにしたって重いのである。そしてかなり熱くなっちるから
バッテリーが消耗するのだ。まあ、もう少し実験してみよう
常時接続になり通信で将棋をやった、機械ではやっていたが人間相手となると人間がいるということは違う、しかし将棋にしてもインターネットは将棋だけをするマシーンのようになってしまう。例えば将棋するのにももし本当の人間相手だったら将棋だけのつきあいにはなれないのだ。汗もかくし息もするし顔も笑い苦しむ、ところが将棋は相手が人間かどうかわからなくなる、ただ将棋をするマシーンになってしまうのだ。
ただ今どき将棋をする時間を持ちそんな相手を探すことはできない、そんな強い相手やら五分の相手やら見つけられないのだ。通信ではいつでも相手がいる、月曜日の朝でもいたし強い人弱い人でもいつでもできるから場数を踏めば上達する。15級が最低で14級にはなったがどうも
忘れてしまったのでだめである。なぜ韓国でも通信のゲームに夢中になったかというと操作できるという快感なのである、今の世の中操作されることばかりで個人で操作する、動かすということがない、とにかく自分で操作できるということが魅力でありそこで自分の力が発揮できる気分になるからだ。気味悪いがコンピュターに機械の手がついて「馬鹿野郎」と相手がいったらその手でなぐられたりするようになるかもしれん
そいうことができるのがコンピューターだから惹かれるといえる



7月31日 磐城の浜

ヨットの航海日誌に石巻で海亀を見たとあった。磐城では磐城で海亀が産卵に来たと最近のニュースで聞いた。産卵に来るのは磐城までだろう。あそこの海には珊瑚礁があったし海の底に大きなものも発見された。
黒潮にのって南からやってきた。産卵するのは磐城が限界だろう。マルハシャリンバイが鹿島町の南限の地となっているが磐城がやはり黒潮の動物の南限である。熱帯魚もきていたからだ。石蕗の花も咲いていた。
六号線ー陸前浜街道をたどる旅の制作をしてみよう。街道は六号線と平行して通っている。ここも自動車では昔を偲ぶことはできないのだ。通りすぎるだけになってしまうからだ。地図を書いて説明するとなると時間がかかる。どうも地図がうまく書けないのだ。地図は説明するのに大事なのだ。インターネットの投げ銭システムうお作ろうと提唱していた
グループがある。50円とか百円をカンパするのだ。確かにプロがこうした企画をしないと見せるものを作るのはむずかしい。そんなにいろいろできる人はいないからだ。かなりの手間隙がかかる。



7月29日示唆に富んだ二冊の本

今古本が面白い、古本といっても10年前くらいのである。それが5万くらいの都市でbookoffで少ないがかなり買った。500円は手頃である。本が読まれない一因は高すぎることなのだ。いい本で安ければやはり売れる。どうしても不況となると本は高すぎるのだ。
「雲に鳥」村に老いる(草野比佐男)は面白い。磐城の人の本である。これは生活の実感がこもっているからだ。山村は自然と一体でありその暮らしは木が成長するように自然の大きなサイクルのなかでの営みであり代々つづくものであって村は維持できる。農や山の暮らしは商や工とは根本的に違う。一過性ではない、自然に基づいた息の長いものであるから商と工のサイクルとあわないのだ。これと平行して読んだ

山里紀行(内村節)も面白かった。ヨーロッパの村、特にスイス、ドイツ、フランス、など先進国の村には過疎はないという。昔ながらの生活に誇りをもって暮らしている。子供も跡継ぎは無理なくありかえって昔の良い生活が生きている。一方スペインなどの村は日本と同じく観光に頼りことが多く日本とにているという。日本は商工に偏りすぎたがヨーロッパではバランスのとれた発展をしたのかもしれない。グローバリゼーションのしわ寄せは貧乏な国を貧窮化した。日本ももともと貧乏な国でありそれが急速な工業化によりそのしわよせが山村の過疎化になったのだ。

とにかく500円は手頃でありこうした過去の本が手に入ると面白い。
ただここにはこうしたいい本は余り入らないので買えないのである。



7月27日 自転車で原町へ

原町に自転車で行った。生活するには鹿島だけでは買い物ではこまる。相馬は遠いのであまり行けない。一週間に一度は行っている。六号線は一回坂を上ればいいので楽だ。旧街道の一石坂は急でつらい。この坂の由来は力持ちの女が一石の米を背負って運んだという話が伝わっている。昔はあの道しかなかった。一石坂を越えると塩崎にでる。そこに一里塚が忘れたようにある。陸前浜街道の一里塚は他にもある。六号線は現代の道であり陸前浜街道は昔の道である。六号線の脇から入るとその道が残っているし今も生活の道である。

旧道を行くことまれに一里塚残る形見や夏の夕暮

原町で買ったのがイヤークリーナーと古本だった。それから魚専門店でモクズを買った。これは沖縄でとれたものである。沖縄の石垣島の珊瑚礁でモクズをとっている人を見たから知っているのだ。これはさほどうまいものでないものにしてもその土地の人にとっては恵みであり幸(サチ)である。幸とは自らがとれるもの、自らが生産できるものが幸なのだ。金で買えるものは本来恵めでも幸でもない、それは人間にとって不自然なものなのである。

古本はbookoffで買った。山村をテーマにしたもので面白い。もう一つは一人っ子を話題にしたものである。自分も一人っ子であるから一人っ子のことに興味がある。少子化で一人っ子家族が多くなるのは問題だというのは本当である。一人っ子は社会性がない。おそらく自分の性格の社会に順応できない面は一人っ子であったからであるともいえる。でも一人っ子もみんな一様ではなく性格も違う。内向的な性格が社会に適応できなくさせる。一人っ子の向いているのは芸術の分野や一人勝手にできるものになる。

古本を最近できた河原の公園でベンチに座り読んだ。あそこはなかなかいいところだ。真野川の公園ではライダーが休んでいた。梅雨も晴れ最近旅する人が目立つようになった。そろそろ自分も自転車で旅したい。
airHを試してみたいからだ。これだと町にでれば無線でホームページにアップできる。日々記録しながら報告するというのも新しい経験だからだ。とにかくこの通信の発達は新しい文化を作っているのでありそれぞれの創意工夫が発揮されるのだ。こうして私的な日記をインターネットに公開するのは明らかに新しい文化である。こういうことは本では無理である。本はそもそも書くことからして相当制限されたものなのだ。写真を出せないのも弱点である。本の世界が衰退するのは止められないだろう。しかしインターネットだけでたりるのかというとそうもいかない。インターネットは偶然に当たるという世界であり無駄が多く時間がかかりすぎることなのだ。本はそれなりに選ばれたものものだがインターネットはまさに混沌の世界である。

老鶯やベンチに古本読めるかな

ライダーの河原に休み都草

公園からすぐ桜井古墳である。そこから海の方に行くともう一つ古墳があった。それは四角の方墳だった。これが相馬郡では最も古い古墳かもしれない。この方墳から前方後方墳の桜井古墳が作られた。古墳では原町の方が古いのかもしれない。鹿島の真野は円墳と前方後円墳だからだ。大和王権がここの土着の勢力を制圧して真野郷を作ったのだ。その土着の勢力とは物部氏だったのである。同じところにも新しい発見はあるものである。


7月21日

このところ暑さがつづきホームページ作り休んだ、暑いとやはり知的仕事はつらい、クーラーはあるのだが体には良くないみたいだ。暑いところが知的に怠惰になるのはやむを得ないことである。書くことはたくさんある、韓国旅行記も中断したままになった。練って醸成して書くことも大事である。インターネットは簡単に出せるので余りに容易に書かれたものが多い。でも少なくても誰かが読むということはそれなりに責任やらがともなってくる。書いたものでその人なりが判断されることはあとあと大変になる。それにしても時間があると思いいいものがでないのに検索し続けたの徒労だった。やはりgoogleで100−200を調べるのが限度だ。ただし前にあるからといっていいものがあるとは限らない、市町村の公式ページなどは前にくるからだ。とにかくインターネットは検索がいかに大事かわかる。問題は一字違いでも出てくるものがかなり違うことである。インターネットは検索で疲れる。ここが便利なようで不便な所である。ddiで無線でアップできるか近日実験してみよう。もう一つは無線でもできるパソコンを買う必要がある。今のパソコンはカードは使えない、パソコン買うとなるとまためんどうである。

7月13日   airH128で常時接続できる

AirH 128で常時接続してインタ−ネットを余裕もってやれた。振り返ればオワシスのワ−プロで課金を気にしてニフティで通信していたのは7年前くらいになった。そしてついに常時接続になった。それもモバイルの常時接続なのだ。やっと余裕をもって通信できたので感慨深い。ただ
一、二キロ離れると遅くなるみたいだ。通信は基地局との距離に関係している。わが町にも四つくらいアンテナがありそれを合わせて早くしているという。確かに早くはないが遅くもないのだ。このくらいで常時接続だと使える。ただ基地局から離れると遅くなるので苦しい。インタ−ネットは常時接続でない限り余裕をもって使えないしインタ−ネットを十分に利用持てきないのだ。インタ−ネットの世界も発展しないのだ。

この無線通信は簡単にできる。申し込んで一週間で簡単にできた。線を引くより無線の方が簡単なのだ。ただ町でもおそらく幹線道路沿いはいいが離れると遅くなるみたいだ。いづれにしろ常時接続はいつまでもできない所がでてくる。線を引くとコストがかかるからだ。問題はパソコン三つあるうち二つはできたが肝心のいつも使っている大きなパソコンではカ−ドスロットがないことやパソコンが古い型となるから通信ができないかもしれないことだ。新しいパソコンを買うかカ−ドをつなぐものを買うか迷っている。失敗しても6000円くらいだからしょうがないとも思っている。やってみないかぎりわからないからだ。やれる可能性は高いというが保証はない。128のカ-ドがパソコンに合うかどうかわからないのだ。AH-G10との相性の問題があるからだ。しかし新しいのを買うとなるとまたいろいろ問題がある。

通信環境が整ったたのでいろい試せる。msnで外国人のチャットを見て英語の勉強したりいろいろ探索した。余裕をもってどこでもやれるから便利だ。それにしても一カ月一万は高すぎるからなんか特別利用する人でないとしないだろう。もっとインタ−ネットのなかでいろいろできることがあれば参加する人もいるが一万となると苦しい。それだけの必要性を感じるまでにはなっていない。この半分の値段ならがまんできるが一万は高い。nttはやはり何かおかしい。無線でもっと安くやれると思うのだが・・・・・




7月13日   airHは使える

airHは便利だ、ノートパソコンなら寝ころんでもどこにでも24時間インターネットだ。時間を気にせずやれる。これなら使える。速さは今までと同じである。こうなると便利だ。一カ月一万かかるがインターネットを利用する醍醐味はわかるしそれだけの価値がある。この応用範囲は広い。これは確かに常時接続できない田舎ではやる価値がある。設定とかは簡単である。ただノートパソコンはバッテリーがきれて長く使えない、これはかなりの弱点だ。一時間から二時間くらいしかもたない、これでは外で使うのにはこまる。とにかくairHは旅でも使える。その時々、現場からの実況中継さえできるかもしれない。これは楽しみだ。どこでもモバイルとかその意味がわかった。これは自分にとっては画期的だ。自分のホームページもどこでも更新送信できるとなると幅が広がってくる。そうした実験をこれから慣れたらしてみる。


7月9日

インタ−ネットの世界は日々拡大している。用途が広がっている。これを利用するには常時接続が必須である。時間を気にしていては十分な利用ができないのだ。adslの者とテレホ−ダイのものでもその差は余りに大きい。時間が制約されるし遅いからだ。アイヌ語のラジオ語講座とか面白かったが10時間以上かかるもので大変だった。こうした番組がふえるとインタ−ネットも常時接続でないかぎり使いこなすことはもはやできない。インタ−ネットは語学教育でも力を発揮するし用途が広いのである。テキストはインタ−ネット上にあるからわかりやすいのである。インタ−ネットは地域的なもの、少数者のものが出せることが特徴である。地域ごとに様々なニュ−スもあるし歴史もあるし放送することはあったのである。そこに住んでいる地元の人が報告するとリアルなより密接した情報となるのだ。今回の御田母神とダイユ−8というニュ−スもその一つであった。


7月4日 ハ−ドからソフトへ

なぜわが町ではまれにしか使わない野球場とか文化劇場とか箱もの行政がつづくのか。やはりそこには必要というより利権の構造があるからだ。田舎では土建業が働く場になってきたしそれなりに景気の下支えになってきたのだ。それは日本の経済がまだ持ち直すことができた時代である。今はそうした土建業は無駄な投資となっていないか。古い体質となり経済の足を引っ張っていないか。なぜnttのisdnすら引かれないのか,道が作れないのか、これはそんなに金はかからない、道や野球場を作るよりかからないはずだ。

ではなぜできないのかというとどこにも金が落ちない、金が回らない、つまり地元の土建業にもそれと結びついた政治家にも町の商売にも金が回らない、目に見えた経済効果が認識できないからだ。無駄であれそこに金が落ち経済効果があればサッカ−でもギャンブルでも人々は動く、しかしインタ−ネットはそれが目に見えないから利権とも結びつかないし一部ケ−ブルの敷設はあったみたいだが金が動かないもうけとならない目にみえないからITは地元の人にとってもメリットあるものとなって動かないのだ。だから結局少数者は一カ月一万も払い無線のインタ−ネットをやるほかないのだ。しかし一方でインタ−ネットはソフトであり箱もののハ−ドではない、だがこのソフトが未来には大事だ、つまり劇場を作ってもそこで郷土を見せるものが出せるか作れるかといったら番組を作れるかといったら作れない。

しかしその番組制作の方が箱ものより大事になる世界である。そこに金をかけるのがインタ−ネット時代なのだ。何故ならブロ−ドバンド普及しても見るものがなかったらつまらないとなる。そうしたソフトの時代であることが認識されていない、土建業、ハ−ドの時代は終わった、しかし次の時代に移るには大変である。そうした認識すらない人が多いし土建業の人がITに移るわけにもいかない。そこに大きなギャップがあるのだ。

7月3日AirHの常時接続は使えるのか

ここはisdnの常時接続は今年中にできないしいつできるかわからないし期待できない、電話は一番違いなのだが何かできないところができるみたいだ。
 それでAirHの無線でインタ−ネットに常時接続できるものでとにかくやってみることにした。一応局が設置されて圏内にあることはわかった。ただ料金は一カ月一万かかる。それでも常時接続はでないとインタ−ネットはもはや使えない、夜だけでは体にも悪いし苦しい、インタ−ネットは本のように情報を集めることができない、常にアクセスしていることが大事なのだ、刻々変わるものに対応などできない、いつも時間切れでは使えない、しかしこれをやるのは大変だ、まず本当に自宅でアクセス可能なのかどうかやってみないかぎりわからない、何らかの原因でできないかもしれない、、ともかくやるほかない、ノ−トパソコンでまずやってみるほかない、これは常に自分でやらない限り覚えることができないのだ。そのうちまた別な便利なものがでてくるだろう。

NTTは町村民を馬鹿にしている
http://cocoa.2ch.net/test/read.cgi/regulate/993130022/l50


6月29日アイヌ語ラジオ講座
 
最近アイヌ語ラジオ講座を聞いて面白かった。というのは自分は北海道に10回くらい行っている。仙台から船で行けるから便利なのだ。6月までは6000円くらいで行ける。ただこの講座を全部聞くのに10時間くらいかかるかも、テレホ−ダイと楽ではない、こういうロ−カルな番組がインタ−ネットには向いている。インタ−ネットは意外とこうしたロ−カルなものに注意が向けられる面があることなのだ。確かに今までもやっていたのだがその地方に住んでいる人が番組を作っているということが
違うしより地方に密着したものになっているのだ。
 
 白糠に住んでいる女性の話だったが流氷は昔は白糠まできていたという。昆布がとれなくなったのは流氷がこなくなったためとか、流氷は古い昆布の芽を取り除き次世代の新しいを昆布を作る役目をしていたからだという。これも不思議な話である。これでわかることは流氷というものはやっかいなものではなくそれなりに自然の中で役目があった。自然というのは実際無駄なものなどないのだ。無駄と思えるものも無駄ではない。無用の用というものもある。老子とか荘子の無用の用という思想は実に面白い。これは西洋の思想には欠けている。
 
 アイヌを考えると常にアイヌは蝦夷なのかとなるがアイヌ語は縄文語だったのかと考えるがどうも日本語と韓国語の関係とにているのだ。ほんの一部が日本語に韓国語入ってきたようにアイヌ語の中にほんの一部の日本語が取り入れられた。縄文語が何であったかわからないがアイヌが日本語のほんの一部を取り入れたということは間違いないのだ。日本語にアイヌ語があったかもしれぬがアイヌ語を取り入れたということは見受けられないのだ。ただ韓国語でもアイヌ語でも文法や言葉の構成は余り変わりないもののようである。蝦夷というのが未だに謎であり大和王権に抵抗した存在というだけでその蝦夷というのには物部氏が入っていたり様々な人達がいてその一部にアイヌもいたのかもしれない、それは青森や秋田などであり福島県辺りにはいなかった。蝦夷のなかの一部にアイヌがいても蝦夷の全部がアイヌではないことは確かである。だからアイヌが縄文人の末裔とはいえないのである。

アイヌ語講座
http://www.stv.ne.jp/radio/ainugo9907

6月27日

歴史研究や学術分野は一人では成果があげられない。何故かというと考古学や地理学や文学や広範囲な知識と情報が要求されるからだ。素人はすでにそうした情報にアクセスできないのでより深いものが出せなかった。インタ−ネットはそうしたことを克服する面がでてきた。ある程度インタ−ネットで調べることができたからだ。浮田国造のウキは当て字であり近江の高島町の宇伎多神社が元だったらしい。これは出雲系の物部氏の奉じる神であろう。インタ−ネットで福島市の信夫郡の腰浜廃寺跡の瓦もでてきた。こうして過去の発掘の成果などを参照してゆくと複雑にからんだ糸がほぐれて結ばれてゆく。歴史研究や学術分野は共同研究が必須である。それがある程度インタ−ネットでできた。自分の研究成果もインタ−ネット上にあれば誰かが容易に参照できて役に立つはずである。それはアクセスがいくらだとかは関係ないのである。インタ−ネット上に必ず必要なのだ。何故なら誰かがまた参考にされるものだからである。




6月24日 済州島の海女

大阪に住んでいる済州島の海女のことをbsテレビで放映した。50年ぶりとかで故郷を訪ねたとか国籍が朝鮮になっているから帰ることができなかった。海女の仕事は対馬で半年くらいしてまた大阪に帰っていた。子供と接する時間がなく子供がひねくれたとかいろいろあったみたいだが海女の稼ぎは高給だった。済州島では事件があり大量に大阪と定期船が通っていた時代、逃れて来た人達だった。済州島は日本にとって身近な島だった。しかし私の印象はそこは島全部が溶岩の島であり垣根も溶岩であり墓も溶岩であり溶岩だらけの島だった。放送された海女も溶岩の墓にお参りしていた。済州島で印象に残ったのは椿が通りの並木になっていた。椿の原産地のようで椿がにあっていた。椿はそもそも南方産のもので南にあうものなのだ。景観としては珊瑚礁の海がないので沖縄の方が美しいと思った。

済州島の海女の悲しもその歴史日本に伝い年古りにけり

溶岩に椿の古りぬ済州島

海望み溶岩の墓に椿かな


韓国紀行続き書かねばならなかったのだがどうも書けない、郷土史の方に横道にそれてしまった。それでも東北も韓国と古代において深い関係があったことがわかるのだ。

 少しつづでも書いてあとからまとまったものにまとめるのもいいだろう。

6月20日 インタ−ネットは一つの本を作る作業だ

サッカ−の馬鹿騒ぎは終わった。それでもみんな見てしまった。90のばあさんまで巻き込んでだ。何故ならボ−ルが枠に入ればいいのだから見ていてわかるからだ。野球はわからないのにサッカ−は全部見たのである。


インタ−ネットは何なのか、未だわからない面がある。インタ−ネットは一つの本であるというより一つの本にする作業をしているともいえる。特に歴史や学術関係はそうである。自分の出した古代の郷土史はあるホ−ムペ−ジの引用をそっくりした。でもそれは辞書的な説明だから著作権にはならないはずだ。歴史とか学術関係には百科事典に書かれたようなことが必要なのだ。ではそういうものに著作権があるかとなると疑問だ。「創作的に表現したもの」に著作権があるとしているからだ。でもホ−ムペ−ジには創作的に表現していないものでも引用する資料としてかなりのものが必要なのだ。アクセスに関係なくそうした資料がインタ−ネットあることが必要なのだ。

インタ−ネットに発表することは実はすでに一冊の本にする作業にかかわっているのでありアクセスに関係なく相互関連の中で一冊の本として作られるべきものとなっている。自分の今回出したものも今はアクセスなくても必ず将来、古代史であれ、万葉集関連であれ役に立つはずである。「真野の萱原」と検索するとでてくるのは非常に少ないがそれでもそれなりの情報になる。一方本に出したり学術書になっているものはすぐに読めないし参考にしたりリンクを張ったりもてきないから不便なものになる。別個の本になってしまうからだ。

ただまだ重要な著作権あるものはインタ−ネットには少ししかだしていない。金にならないことと、出してもあまり得にならないということで出していない。しかしもし新聞であれ雑誌にでたものであれ過去のものもデ−タ−ベ−ス化したら凄い便利なものになる。新聞とか雑誌でも過去のものでも現在に生きてくる。つまり何かしら調べるときそれに関したものがでて来るとわかりやすいからだ。ホ−ムペ−ジ素人的なものが多いのだがそれでも最近はその情報量は凄いものになっている。この情報量は日増しにふえているのだろう。いづれにしろアクセスをあまり考えるとホ−ムペ−ジ作りはつづかない、何故なら今や常時アクセスされることは非常にむずかしくなっている。

それでもインタ−ネットには誰かが調べる時稀少なものでも必要なのである。真野の萱原についての情報が必要なのである。
こう言ってもインタ−ネットに無料で貢献しても誰もごくろうさんとも言ってくれないのはなんか張り合いがなくなるのである。
自分も勝手に読んでいるだけだからしょうがないのかもしれないがこういうことで規制のメディアの人、マスコミ関係や、プロの人は書かないのである。なんか何の見返りもない世界に思えるからだ。書いても書いてもそう思えるのである。なんらかの課金制度は必要である。本を買うよりはかなり安くなるから金を出しても読む人はいくらでもいる。稀少な学術書でも読みたい人にとってはそれなりの金を払うのである。私は笠女郎について書いた本を5000円で買ったからだ。それはどうしてもよまなければならない、貴重なものだからだ。でもこうしたものもネット上にでると便利である。リンクをはり関連づけできるからだ。


6月19日

サッカ−全部見た、わからなかったけどやはりつられて見てしまった。あとは全然関心はない。

インタ−ネットの方はテレホ−ダイでは本格的にはやれない、メ−ルさえ返事を出すのがめんどうだ。パソコン通信の時代は面白くてやっていたが二年間はホ−ムペ−ジ作りに没頭した。インタ−ネットの情報は濃密なもの、規制のメディアの人達もほとんど参加するようになっている。ホ−ムペ−ジ見ているだけであきない、いつもそれだけで時間切れで終わりになる。対話する時間はない、常時接続にならない限りもはやインタ−ネットの世界を十分に利用することは不可能である。対話することは大変なエネルギ−が必要だからだ。ホ−ムペ−ジにアップすることもそれなりのものをアップするとなるとエネルギ−が必要である。韓国旅行記の続きがあるのだがそれなりのものに万葉集など利用して書くとなると時間がかかる。ありきたりの旅行記はもうたくさんでている。それなりの内容の濃いものを書くとなると時間がかかるのだ。練ってかかないとただのありきたりの海外旅行の報告になってしまうからだ。日々の短歌、俳句も一休みになってしまったが写真を入れると結構大変であった。とにかくホ−ムペ−ジを更新し魅力あるものにしてゆくこと自体手間暇かかり骨の折れるものなのだ。一人で絶えず新鮮なものとして更新してゆくことはエネルギ−が必要だ。これに対話していたらさらなるエネルギ−が必要となる。内容あるものを書くこと自体疲れるのである。まあ今年の後半戦だがなんとかがんばろう。



6月10日

ここのところ暑さやら何か疲れたので書き込めなかった。今年の前半戦は終わったということで休みになった。ホ−ムペ−ジは更新しつづけることがむずかしいのだ。インホ−シ−クのように小さいグル−プに入ると読まれる率は高くなる。更新したら次の日にその更新したものが検索されるようになっている。ホ−ムペ−ジはヤホ−とか大きな目立つところに置かないと読まれること自体むずかしいからやる気がなくなるかもしれない。とにかくインタ−ネットはテレホ−ダイでは実際使えない。11時から衛星放送のニュ−スも見ないといけないしそうすると時間がなくなるだ。常時接続を待って本格的にやれるようになる。書くこと自体面白くてホ−ムペ−ジにアップしてきたが今年の前半線は終わり休息になった。それなりの量を出したがここで反応を得ることはむずかしかった。


6月1日

ホ−ムペ−ジはグル−プ化しないと読まれないのではないか。ミラ−サイトのインホ−シ−クは更新された日付けがでて検索にでてくる。ホ−ムペ−ジの量が少ないからしぼられてホ−ムペ−ジが比較的よまれることがありうる。時事問題に今日出した「サッカ−つまらない」という文も明日には検索にでる。そうするとサッカ−に関心がある今それを読む人がでてくるかもしれない。ホ−ムペ−ジはばらばらであり対話がないことが多い。ホ−ムペ−ジ同士の対話はしにくいのだ。なせなら余りに分散しているからだ。そこでホ−ムペ−ジをしぼりグル−プ化することが必要なのだ。ただホ−ムペ−ジは独立性が強いものだからグル−プ化できない面もありむずかしい。いづれにしろ互いに読まれないとホ−ムペ−ジは生きてこないことは確かである。ホ−ムペ−ジを読むということそこにアクセスすることはかなり手間がかかりほとんと一回行って終わりなのはそれだけ連続して読みにゆくことが大変だということである。あちこちつぎつきにホ−ムペ−ジを見ることは不便なことなのだ。どこかに一カ所いいものがまとまっていることは楽なのだ。

5月29日


古代史−鹿島町(真野郷)の解読にまた物部氏のことなどインタ−ネット利用して調べ書き加えた。歴史の考証はめんどうである。インタ−ネット利用して少ないが結構役に立った。図書館で調べるのも大変である。どこに何があるかわからなくなるからだ。インタ−ネットの便利さはすぐにコピ−して移せることである。かなりわかりやすく解説できた。ホ−ムペ−ジはこのように表現力に富んでいるのだ。本ではこんなふうに説明できないし大変な手間と金がかかる。あとからいくらでも追加できるのも便利なのだ。図解がもっとうまければいいのだがこれは誰か絵のできる人に頼まないとできない。自分が担当したのは歴史考証の部分である。

インタ−ネットは素人でもそれなりに勉強すれば専門家にも肉薄できるということである。専門家はいろんな特権が与えられている。素人はまず表現する場が与えられないのである。本一冊出すこと自体とてつもなく大変であり無視されるからである。本にしてもこれまで研究されてきたことを長々と繰り返している部分が多く新しい見解はほんの一部になってしまうのだ。誰でもその土地の専門家にはなれる。地理は他の人にはわかりにくいからだ。それなりに自分が書けたのも地理を知っているからなのだ。
インタ−ネット時代は素人の時代であり専門家だけが特権を享受する時代ではない、だから余りにも著作権にこだわると表現する幅が狭くなる。だから特に資料などは電子化するべきなのだ。腹たつのは素人は出る幕ではない、そんな甘いものではないとかインタ−ネットで学者が素人を拒絶している人がいたのだ。学者の役割は特権を享受することではない、広く研究したものを教えることが任務なのだ。素人は素人で俺はしょせんし素人だからですまされなくなったのがインタ−ネットの時代なのかもしれない、表現することではインタ−ネットは平等だからだ。

5月28日


古代史−鹿島町(真野郷)の解読

古代史はこみ入っているから大変だ。こんなめんどうなものは古代史マニアしか読まないかもしれん。郷土史という分野はインタ−ネットで活気を帯びてきた。というのは郷土史の本など書いても読むのはせいぜい相馬郡内でありその中で興味ある人だけである。本など出しても金かかるだけなのだ。インタ−ネットの違いは郷土でも全国に発信できる、紹介できることなのだ。だから有名な所でなくてもこんな所あったのかと日本を再発見するのである。その土地の魅力は全国に紹介されていないのが多いのだ。マスコミはこうしたものに向いていないからだ。小さな島の報告など読んであれこんな島あったのかなど初めてそこにも人が住んでそれなりの歴史が名所があることに気づいたのである。

郷土の紹介でもこれからプロ−ドパンドでコンピュ−タ−グラフィクなどで紹介すればより面白くなる。真野の萱原の歌などもそうである。ただこれには何百万かかるかもしれん。ただこうしたものが全国に紹介できるのがインタ−ネットなのである。だからこれからはソフトの方が大事になるのだ。つまり郷土を自らいろんな面で発見する開拓することが必要になってくる。それは米を作るのではなく知識とか美とかを発見し伝えることなのだ。


5月26日


昨夜は停電が三回くらいあった。パソコンが二回くらい突然きれた。この富士通のパソコンも一年以上使っている。でも一日一回はフリ−ズして電源を切ってまたやりなおしている。また壊れるのではないかと心配になった。前のはビデオカ−ドを入れていたからそれが原因で壊れたのかと素人の勘繰りであるが思っている。今回はカ−ドは入れていない。普通だったらこれだけフリ−ズしていたらかなり危ない、富士通は安全に作っているのか、こういうところはわからない、へたにメ−カ−でない安物をパソコンの場合は買うと恐い、安全性は非常にパソコンの場合は大事だ。これはしかし素人にはわからない、XPは安全だから変えたいがパソコンは変えるとソフトの問題でめんどうになる。いづれにしろこれだけフリ−ズして電源を切っているのだからどうなるのか不安になっている。



5月24日


上萱まで自転車で行った。ひどく疲れた。運動不足で体がなまったためかこれでは自転車の長旅は無理だ。栃窪でデジカメでとった金比羅の碑は明治時代のだった。もう一つ古いのがあったのだ。郷土研究というというと何もないと思っているがそこに住んでいても知らないものが結構ある。過去は歴史はそれぞれの人が関心をもって尋ねない限り浮かんでこないのだ。驚くべきはこんな地方史が中央の古代の再現だったということである。真野の入江と八沢浦に追加した毛野王国の浮田国造はまさにそれを示していたのだ。(次回アップ)

5月21日

何故本作りはむずかしいかというとどうしても編集作業が必要でありそれが思った以上大変な作業なのだ。だから出版社の役割は大きかったのである。これだけではない出版はその後も大変な金のかかるものなのだ。ホ−ムペ−ジは編集作業と発信が同時進行しているのである。失敗作だった「
古代史の中の真野郷」の発展したものをホ−ムペ−ジで制作中である。編集作業がホ−ムペ−ジでは簡単にやれるが本作りでは本当にむずかしい、一旦書いたら直せないのである。だから素人では自分の本のように雑なものになってしまうのだ。しかしホ−ムペ−ジは何度も直したり付け加えることも自由だから便利なのだ。これができないと一つの作品にすることは容易でないのだ。最初から大幅に書き換えて追加しまたアップする予定である。とにかくホ−ムペ−ジを出してから編集作業やら文や絵や写真作りに追われているのである。個人放送局は手間暇かかるものなのだ。ただビジュアルに表現できるとしてもこれは絵の才能などないからなかなかむずかしいのだ。ともあれ今や一人出版社であり一人放送局になっているのだ。

5月18日

NHKの韓国特集やっていたがあの番組をみて全国でインタ−ネット利用した討論会をすればもっと面白いものとなるだろう。つまり韓国については戦前であれ現在であれいろいろかかわる人多いからあの番組から発展するものは膨大なものになるはずである。NHKだけの番組で終わらずにそこからインタ−ネットで発展する番組作りがこれから要求される。それをインタ−ネットで公開しているがまだまだたりないのである。ただインタ−ネットは余りにも多くて統一がとれずばらばらになりやすい。私のホ−ムペ−ジにその感想を書いたとしても読む人は極々わずかであり果たして読まれているかどうかもわからないのである。それでインタ−ネットに書いていたものをわざわざ手紙でよこしたホ−ムペ−ジをもっている人もいた。確かに読んでいなかったのである。メ−ルがと届いているかどうかわからず電話した人がいた。

つまりそれほどインタ−ネットの世界は個人個人の日記であり独白でありそれを読む人は余りにも少ないから書きつづけることもむずかしい面があるのだ。誰に向かって書いているのか自分に向かって書いているという感覚になってしまう面があるのだ。10人20人であれそこに聴衆がいれば誰かに語っているという感覚がでてくるがインタ−ネットの場合それすら感じないことがある。だからパソコン通信ではレスがないのは発言しないと同じだったのである。自分の場合知らないで今のホ−ムペ−ジのように一方的に発言していたのである。しかしインタ−ネットで交流することは疲れる。掲示板にしろそこで近況を話すくらいならいいが討論とかむずかしい問題を話すとなると時間もかかり疲れる。テレホ−ダイでは無理である。個々に対応して話すことは大変な労力を課せられる。だから心の悩みなど宗教団体の長でもそういうことはしないのである。何万人であれ何十万であれその上にたって叫んでいるのは実際は楽なのだ。それが一人一人から問われたら答えきれない。対話誰であれ一対一の勝負になるから大変なのだ。だから相手がそれなりに求めるものでないとできない。いい加減なものと対話している時間はないのである。

5月15日

ホ−ムペ−ジはまず毎日書き込むのも必要だが十分に見せるコンテンツを作ることが先決だ。なぜなら一般的に情報量がすくなすぎる。たいがい一回アクセスして見て終わりなのが多い。プロの人は自分の本の紹介くらいで終わっている。金にならないからであるがこれでは次にアクセスする気にはなれない。自分の場合も故郷の情報はまだまだ少ない。故郷の紹介でもほとんどのホ−ムペ−ジは一・二ペ−ジで終わりなのだ。それなりのものを量を書くことは大変である。ただアクセスを考える前にそれなりのものを作って公開すべきである。一冊の本を読むくらいのホ−ムペ−ジがないのである。自分の場合も故郷編はまだまだ少ない。一回見て終わりだろう。
日々の俳句短歌は更新しているから定期的に読まれることがある。アクセス増やすには掲示板などに書き込みがないと無理だろう。自分の書いたものには関心がありまた来るからである。ホ−ムペ−ジとはこのように自分中心なのである。見る方もただ読むだけでなく何か反応してもらいたいのだ。ホ−ムペ−ジをもっている人は特にそうである。自分の場合それをしてないからアクセスはふえないだろう。とにかく半年に一回くらい見て十分なホ−ムペ−ジが多いのである。定期的に行くホ−ムペ−ジは見つからないしアクセスすることは次々に新しいものを見つけようとしてアクセスしているのである。とにかく一冊の本でも二三日で読むとするとそれだけの内容の濃い情報量があるものはほとんどないのである。だから一回読んで終わりなのである。

5月14日

「古代史の中の真野郷」を図や合成写真でわかりやすく解説する。古代人名辞典とか古代の郷とかはこれは分厚いもので一冊一万もした。こういうものはテキスト化して電子図書館におけば便利である。資料も電子化するといい。すぐに家にいて利用できるからだ。こんな分厚いものを一冊一冊配布して置くのさえ大変である。

これから本屋や出版社の役割はかわらざるをえない。再販制とか新聞の宅配制とかも無駄である。電子化の世界はとにかく原本を一冊作っておけばあとは流通するのだ。その原本の一冊、コンテンツがすべてなのだ。本屋は買い切り制になればいい。買い切りだということはリスクがともなう。本の値段も安く作れるから半分くらいは本屋の利益にならないとやっていけない。しかし買い切り制になると自費出版の本などもおけるのである。本屋の選択に任せられるからだ。自費出版や少数部数の本は本屋におけない。だから本屋には大手の出版社の本しかおいていない。どこの本屋もにたりよったなのである。ところが買い切り制になると個性的な本屋がでてくる。その本屋の好みが反映されるからだ。

創価学会系や共産党系とか他の宗教団体とか本がその系統のだけ置かれることにもなるかもしれない。そこでは信者が買うことになる。創価学会系の人は創価を批判する本などおきたくないしその他の共産党や宗教団体でも同じである。こういう団体は組織があるから本屋ももてるのであり宣伝にも使えるからだ。買い切り制になればそれでもいいのである。その本屋の個性が問題になるのだ。しかしこれは田舎とかではむずかしいし限られたものとなるかもしれない。いづれにしろインタ−ネットの普及で出版社も本屋もこのままでは取り残され生き残れなくなる。インタ−ネットは実に表現しやすい媒体なのである。ただ絵とかその他ビジュアルには作れないのでこれは共同作業が必要になる。新聞社とか出版社はイラストを書いてもらうにも金を払っていたが個人ではできないのである。

予定としては「
真野の入江と八沢浦」を書き「韓国紀行」のつづきをかく、これも古代史のなかで連続したものである。

5月14日

小高の生駒家から秀吉の書状と相馬中村藩主からの年賀状などが50通ほどあった。生駒家は秀吉に仕え中村藩に仕官し家老職にまでなった人もいた。歴史の研究ではこうした書状のような記録が大事であることがわかった。相馬藩のことが具体的に浮かんでこないのである。どういう人物がいて何があったのかも浮かんでこない。インタ−ネットで偶然に書状を発見して過去の事件や問題が浮き彫りにされた。勉強で大事なのは勉強の仕方である。これは誰も教えないから盲点である。英語も勉強の仕方が悪いことは確かである。インタ−ネットもこれも使い方がわからないのだ。インタ−ネットは相互のつながりの中に地方が結ばれるということがある。それは歴史であったり文化であったり様々な情報である。人と人が結ぶこともある。でも相馬郡内で郷土研究ではインタ−ネットに出している人は極めて少ないから余り役にたたない。相馬郡内でも相当な資料や文献もあるがそれらは図書館とか本にしてあるからそれらを参考にするのは手間がかかるのだ。福島市にいくら大きな図書館があっても泊まりがけで調べにゆくようになるから全然利用していないのだ。インタ−ネットはビジュアルに表現できるからすごいのだ。自分の出した「古代史の中の真野郷」を掘り下げてわかりやすくホ−ムペ−ジで展開してゆくつもりである。ただこのインタ−ネットはホ−ムペ−ジに出すのにも手間暇かかる。ただ個人が放送局になることは凄いことなのだ。ビジュアルな面は絵の才能なくてだめだがこれを写真などで補ったりいろいろパソコンは役に立つのである。ただ個人の放送局で問題なのは著作権なのである。公共的なものやその他利用できないのが多すぎるのである。

5月13日

海南島に日本人の作った鉄道で蒸気機関車が走っている。韓国の鉄道も日本人か作った。ソウルの駅はそうである。満州にも鉄道を作った。日本は鉄道が先進国だったのだ。いち早く鉄道を作りそれがインフラとなり発展の礎となった。新幹線を日本人が作ったのも世界で最初だった。満州に日本人とかかわった中国人がいて日本人のビジネスマンの通訳をしていた。それからゴビ砂漠の所を蒸気機関車が走っていた。(写真あり)自分は20年くらいは鉄道の旅が主体であった。そこで地名に興味を覚えた。世界を旅してかなりの鉄道をのった。インドの鉄道にものったから鉄道をテ-マにした文を書くと面白い。書くネタはまあこれだけ旅していればある。日本の歴史を知る上で鉄道は日本からアジアに普及したということで面白い。インドの技師も日本の鉄道の技術研修にきていた。船の歴史もあるが鉄道の歴史も世界的な歴史の推進役だったのだ。これはちょっとした小冊子くらいにはなる。こういうものを書くには資料が必要になる。

5月12日

私の家のものがかかっている医者が朴沢というのは在日の人か韓国系の人かこれにも複雑な裏の事情があるのでは。というのは李とか一字であればすぐ在日とか中国系とかその出自を語る。二字になるとそれも日本系の字にすると複雑である。これは韓国系の出自と日本系の出自の合体なのである。韓国系であることは消したくないがそれを露骨に示すのは良くない、それで韓国と日本の合体を計った。アメリカ国籍をとるとなると韓国と日本とアメリカの合体になる。そういう人が現実にいること自体自分にとっては驚きだった。この先生ついての不満を言っているがそれは差別でもなんでもない、日本人であれ在日であれ何であれいい医者はいいしまた劣る医者もいるのだから。韓国についてはまた紀行文で書きつづける。

5月8日

インタ−ネット時代の情報はマスコミとは違うと言ってきたがそれはどういうことなのかというと今まで全然注目されないものが注目されるということである。テレビに出るものは日本人口に比すれば10人単位とか100任単位である。ところが日本人は一億二千人いる。じつはそれらの大勢は発言はできなかった。これが全部発言するとなると大変だが社会の主導的立場にある人も発言できなかった。中小企業の工場長であれいたるところにそれなりに上にたつ人はいるしまたそれなりに精一杯生きてきて発言したい人はいた。その中で本に出るものも多いがそれだけでも確かに多いのだがインタ−ネットでは何かそれ以外のものの発言にふれることがある。
アパレル業界の人の発言、ファッションにかかわる人の発言は確かに面白かった。自分はファッションとは全く縁がない不細工な身なりもかまわない人間だからファションなど関係ないと思っていた。

しかしこの人の発言を読むと実社会で上にたつ人はそれなりに社会を考え努力しているんだということがわかった。これをどうして知ったかというと「老人、醜い」で検索したらでてきたのだ。自分の場合偶然に出会わざる者に出会う。インタ−ネットは予期しない偶然の作用が多いのだ。なぜなら検索自体これは自分が意図したものがでないものなのだ。だから結局全然違ったものがでてくるのが多い、ではそれが無益かというと読んでみるとあれ面白いなとなる。インタ−ネットの不思議がここにある。全然関係ない様な異種のものと出会うことがある。雑誌とか本ではファッションのことなど興味ないから読まないのだ。インタ−ネットは検索の関係でそうした意図しないものが必ずでてきて何だろうと読むことになるから奇妙なのだ。特に士農工商の分析は独特で面白かった。あくまでも農と工を重んじるのが正常な社会だというのは説得力がある。



http://www.j-fashion.net

5月7日

どう考えても本は今や高い。bookoffで100円とかで結構いいもの売っている。二冊ではあまりに安いので500円のも買った。それは500円の価値はない、100円のものである。値段のつけ方もいいがげんなのだ。この辺では本の数が少ないがそれなりに買うものがあり買っているのである。というのは安いからである。100円となると買うという感覚がない。それらはみんな1000円以上したものなのだ。それから普通の本屋に行き二冊で2400円本を買った。これは非常に高く感じた。本は今の定価の半分にならないと売れない。インタ−ネット時代ではそうなるのだ。辻本元議員の本が出たというがそれはホ−ムペ−ジで読めばすむものであるからだ。

自分は本を集めることが趣味のようになっていた。知識を深めようとすれば本しかなかったからだ。本を読むために買うのだが本のコレクタ−でもあったのだ。人間みんなコレクタ−なのだ。過去に買った本を読むとその時の時代状況がわかって面白い。バブルになる前も日本の危機を言う人がいたしバブル時代に人間は傲慢であった。にわか成り金の醜い人であふれていたとか・・・ということは現代の不況は人間をひきしめる、真に価値あるものを求めさせる時代になるともいえる。不況にもいい面はあるのかもしれない。そんな呑気なものかという人もあろうが富は人間を傲慢にする。その傲慢が海外の買春とかになって拡散した。それが今不況で中国の会社に日本に来てくれというのも時代である。奢れるもの久しからずはやはりどこの国にもあてはまるのだ。長く栄えた国はどこにもない、必ず衰退の時がくるのである。世界も国々も相互に関連してめぐってゆく、富も巡ってゆくものだからどうしようもないといえる。


5月6日

この町で知り合ったスリランカ人が一時レンガの会社の社長になったがやめて日本食のレストランを開くとかF氏が伝えてきた。彼も暇だから全世界を回っている田舎ではめずらしい。
エスペラントやっている人も全国でそんなにいるものだろうか。宮沢賢治はエスペラントをやっていた。でも実際彼が外国に行ったのはカラフトだけだった。だから外国の憧れから北上川の岸辺をイギリス海岸などとつけたのだ。スリランカはある人の報告ではコロンボ市内に生首が並べられてあってもうここには来たくないと書いてあった。自爆テロで死んだ人を政府でさらしものにしていたものらしい。そういう映画もやっていた。確かにそんなところに行く気はしない。スリランカであれ朝鮮半島であれ小国は大国によって引き裂かれふみにじられる。スリランカはインドという大国が隣接しているから容易ではない。アメリカが基地を作るため介入しているとか分離政策が画策されているみたいだ。

スリランカは、シンハラ、タミール、ムスリム、ヴェッダなど多民族が生活し、分離独立を要求するタミール・イーラム・解放の虎(LTTE)と政府との内戦状態が続いてきました。
 LTTEの分離闘争は、かつて、抑圧された少数民族タミールの民族自決闘争のように宣伝され、国外で共感を広めていた時期もあります。しかし、そのときどきでアメリカ、イスラエルなどの支援を受け、タミールの他組織やムスリムなどを暗殺・虐殺を含む手法で潰滅させ、多くの少年・少女兵の自爆闘争までを含めて内戦をつづけるLTTEの運動が、少数民族、労働者・貧民解放の闘いではないことはますます明らかになっています。 (新憲法反対声明)
http://members.tripod.com/~jvp_srilanka/constitution.html】


とにかくインドであれ日本と違い宗教も多様、民族も多様、水と油の様なものが混在している。F氏のドミンゴというホ−ムペ−ジは
掲示板には多少書き込みがあるがいつみても同じ記事が多い。いづれにしろホ−ムペ−ジは更新しつづけることがむずかしいのだ。でも毎日何かしら書いている必要がある。掲示板に書き込みあれば生きたものになることはいえる。掲示板は読んでレス書くだけで30分かかるから他の掲示板に書き込むこと自体大変になる。パソコン通信時代もあれは学者とか暇な人間しかできなかったのである。
 

5月3日

いろいろあって書き込みできなかった。自分の体の不調やまた家のものの病気である。旅行中はなんとか無事だったのでよかった。韓国紀行を中断していたがまたなんとか書きはじめよう。ホ−ムペ−ジは考えて見れば更新してゆくことがむずかしいのだ。たいがい二年くらいで更新がとまるのはつづかないためである。インタ−ネットの場合、やはり対面的でないことやいくら書いても手応えが得られない場合がありそれで行き詰まることもある。パソコン通信の場合はレスがないのは書いても無効だったのである。常に反応があってかきつづける場だったのだ。ホ−ムペ−ジの場合はアクセスされたかどうかが反応でありパソコン通信とは違う。
ただホ−ムペ−ジは自分の基地局として持ち発信してゆく必要がある。アクセスの問題もあるがいろいろ基地局として活用方法があるのだ。

相馬の事件で真野ダムに死体が投げられた。あの真野ダムから飯館に入った道はいつも行く所で自分にとって神聖な場であった。それがなんか汚された感じになった。自然も人間の罪によってかなり汚されるのである。公害だけではないのだ。実際人間の罪は神の場を汚すことになるからその罪が大きいのだ。都会辺りでは歓楽街とかがありそこがすでに汚れた人が集まる所でありそうした汚れた場がかえって必要になっている。そもそも汚れた場だから汚れてもいいともなる。ところが田舎や自然の残っている所は清らかな所がありそういう所はそうした人間の罪によって汚してはならないことを特に感じる所なのだ。あの殺人事件は自然を汚したので罪が重い。人間は自然をかく汚しているのになぜ神が怒らず罰しないのか不思議である。エデンの園からは追放されたが以前として人間は神聖な自然なる神の創った世界にいるのである。そうした清らかな世界と余りに醜悪な世界が共存していることが理解できないのである。

4月27日

メディアとういと実は人間自体メディアなんだ、視覚、聴覚、味覚、触覚・・・人間が世界を映す最高のメディアなんだ、ところが文明化すると必ず道具を機械を利用するようになる。道具もメディアなんだ、老子は道具も鍬まで便利さの故に人間の心を失うと否定した。旅行を考えると歩いてみているものと自転車にのりみているものとバスや汽車で見るものと自動車から見えるものこれはみんな違っている。自動車には乗らないからここから見えるものはわからない。俳句でも歩いて見て作る俳句と汽車に乗って作る俳句はまるで違ったものとなる。現代では歩いて見て作る俳句は近辺ではできるが遠くではできない。だから芭蕉のような山頭火のような西行の俳句であれ詩を理解することがむずかしい。歩く感覚で書いたものを汽車で二三日で旅するのとはまるで違ってしまうのだ。最初自分は汽車の旅していたが自転車で旅を試みるようになったのはそのためである。自転車で峠を越えまた峠を越えてゆく旅は五感を総動員した旅になるのだ。

またメディアというと舞台で見るのとスクリ−ンの映画やテレビで見るのと本で読んだりするのも全然違ったメディアであるということなのだ。舞台は生身の人間が出ているのでスロ−テンポであり人間的であるが映画になると全く違う、映画の作り方は舞台と全く違う方法で作られている。一場面一場面切り貼りして作られている。つまりメディアによってそれぞれ表現の仕方は変わるのである。本も実はメディアの一つであり本を通じて表現されるものとインタ−ネットでパソコンが表現するものは自ずと違うものとなるのだ

ニフティの裁判ざたもあういう世界が今までにない世界で問題がおきたのだ。パソコンというメディアによる表現の変化があった。パソコン通信はインタ−ネット世界になり消えたように思う。何故ならパソコン通信は掲示板の対話とも違う実際はそこに集まったものの濃密な対話であったのだ。二年間も同じ人間が会話するなどインタ−ネットではなくなっている。インタ−ネットが学者の情報交換や研究の場所として作られたことでもわかる。共同であるテ−マを科学者や学者が情報を交換して対話して研究する場として作られたのである。そういうメディアとしてパソコンは向いていたのである。ホ−ムペ−ジは一方通行でありそういう面に欠けているである。


4月26日

インタ−ネットは疲れる。夜しかやれないから余計そうなのだ。
テレビは楽だ、寝ていても見れるのだ。
インホ−シ−クの無料のホ−ムペ−ジは突然勝手に消された人がいた。予告なし消すのはおかしい。無料でも事前に連絡くらいする必要がある。ミラ−サイトとして実験的にやっていたがどういうわけかアクセスログを見るとグラフになっていて必ず誰か読んでいるみたいだ。それからジャストネットは表紙だけにしたのでgoogleでアクセスされることはむずかしくなった。ほとんどでてこない。インホ−シ−の方が出るようになってしまった。urlを変える事はよくない。とにかくアクセスがあるとそれなりに力を入れるようになるのがこの世界である。インホ−シ−クは広告も出るしミラ−サイトとして実験的にやっていたがweb上からホ−ムペ−ジにアップできるとか便利にできている。それでsoma.acrweb.comと同じようにアップするようになった。googleに反映するには半年とか一年くらいかかるかもしれない。ヤホ−とかに出るとgoogleにも出やすいのである。
とにかく韓国紀行を完成せねばならぬ。6ペ−ジくらいつづくだろう。自ら書いてまたその書くことによって創造力を高めてゆく作業がつづく。それがホ−ムペ−ジの効能である。素人で本を作ろうとしたら軽く一年はかかる。いや二年くらいかかる。編集とかいろいろ大変だからいやになる。ホ−ムペ−ジは日々創作し編集し発信しているのである。書く方にとっては便利だが一旦読む方になると必ずしも便利ではない。探すことが大変なのだ。常時接続なれば昼間暇な人間だからかなりの情報を集めることができるが夜では無理である。結局自分のホ−ムペ−ジを出すだけで精一杯になっている。


4月24日

インタ−ネット時代の問題に著作権がある。これまでは出版社が法律的にもいろいろ配慮してやっていた。例えばアメリカの博物館で見たものを一部借用した。韓国の博物館のはおそらく加工したのでわからないだろう。これまでは出版するとなるとそれは営利事業だからおそらく博物館から許可をとって出していた。金も出版社として払っていた。ところが個人単位で簡単に出せる時代になると個人ではそんな許可をとったり金を払ってまで許可を得ることなどできない。でも個人のホ−ムペ−ジは営利事業でない所が多いのだ。こうなるとかなり表現が制約されることになる。それにしても出版されたものは古典すら著作権きれたものすら出版社になにがしの権利があるように思えるのだ。なぜなら今まで古典すら出版社が出版したものを読んでいたからだ。

ところが個人でもホ−ムペ−ジで簡単に出せることができる。出版社の独占は崩れることになる。でも現代の詩人の詩を勝手に許可なくのせている人がいたのだ。あれは明らかに違反である。それは出版社がやっていたのである。でも個人でもそういうことが簡単にできるのだ。何も自分のものを出せない人は過去のものであれ他人のものでも簡単に出せるのだ。とにかく出版社は大きな権力を持った独占企業であった。実際本を出せるのは大手の出版社がほとんどであり書店も大手の出版社から来るものをただ一方的に陳列していただけである。大きな出版社の出店が書店なのである。例えば松下とか東芝の電気製品を売る小売店とにているのだ。そうした大きな組織を通じてしか本は流通しない仕組みになっていたのである。だから出版とは大きな組織権力機構の中に組み込まれている強者のものだった。マスコミもそうした大きな権力機構でありその中でしか発言は許されないのである。

なぜ自分が本にこだわるかというと50年はほとんど本の時代に生きていたからだ。でも隣の市のT本屋は大きなチェ−ン店だが本を全然知らない。いい本がおいてないしただ雑然と新刊本をおいているだけである。本にも内容があり内容によって陳列する必要があるのだ。本はやはりインタ−ネット関係ならその部門の本が種類と量をそろえる必要がある。本は知識的分類され整理されていることが必要なのだ。インタ−ネットともいいのが探せないのは整理されていないからである。もう一つは評価のシステムがないことである。評価のシステムをリンクによる多寡でgoogleがとり入れて成功したがあれも偏ることがある。自分の場合URL変えたら余り出なくなった。なぜ本を読むより買う方が多いのかというと調べるためなのだ。全部読まなくても自分で書くとなると必ず参考にしないと書けないからだ。だから古本は最近貴重である。安いのと過去に出したいいものがあるからだ。これからはそんなにカラ−の金のかかる本はでないかもしれない。カラ−なら無料でインタ−ネットならいくらでも出せるからだ。ただ出版社では金にならないのでインタ−ネットで出していない。

でも一冊千円以上の本を買うよりインタ−ネットでその半額にでもなればいい企画のものをコンテンツを出せば金を払ってもいいのだ。そのコンテンツにそれなりの金を払う人はいる。インタ−ネットは必ずしも本というものでもない、別なものなのだ。どうしても本として考えてしまうが本とも違うことは確かである。とにかく本で買うか電子で買うかの違いであり問題は内容だからだ。電子ペ−パ−になると出版社と書店の役割はますます低下する。いづれにしろ情報の独占は崩れるべきである。本が売れないということを嘆くより出版そのものの機構の構造改革に目を向けるべきだったのだ。本は今簡単に作れるがそれを書店に出して流通したりすることは大手の出版社くらいしかできないしますますその独占は強化されるのである。


4月22日

韓国と日本は調べれば調べるほど古代において関係が深いかわかる。古代の歴史は韓国と一体でありそこが日本という島国で唯一外国と結びつく接点として興味がつきないのだ。日本は海から流れ着いたものが作った国だがその後海によって閉ざされた国でもあった。そこが特殊なのである。陸つづきでないことが日本という特殊な国を作ったのだ。韓国は中国と陸つづきだから小中華になってしまったのだ。アジアの将来像としてはやはり古代が海で結ばれたように海に接した所が共存共栄の場となってゆく。文化的にも経済的にも政治的にもそうなってゆく。アジアが一つだとか日本の戦争もそういう意図がありその先駆けだったのだが挫折した。それはアメリカがかかわってきたからである。右左曲折があってもやはり海を通じて結ばれるアジアが興隆する。現実に中国の海岸部や韓国や東南アジアが発展しつつあるのはそれを示している。大きな歴史の流れがそういう方向に向かっている。だから止めることができない。
バビロン→エジプト→ギリシャ→ロ−マ→イスラム→ヨ−ロッパ→アメリカ・・・・・日本→海のアジアと興隆してゆくのが大きな世界史の流れではないか。東洋ルネサンスが百年後二百年後に起きるというのはありうる。つまり日本はその先駆けであり先達となったのだ。そこに行き過ぎもあったがその大きな流れは変わらない。日本が経済的には下降気味でもアジア全体は興隆してゆく。自分の文化活動もその一端だと言える。


4月18日
  韓国旅行より帰る

今回の韓国旅行は10日間は韓国だったが6日間は日本だった。行くまでに三日かかり帰りも同じようにかかった。韓国一周したのだが思ったほどゆっくりみていない。日本でも青春18切符で普通列車で下関まで行ったから大変だった。船とかバスとかなんか乗り物にのっている時間の方が多かった。その現場に行って見る時間が本当に少なかった。というのは韓国のバスは街に入ると渋滞になり3時間の予定でも実際は二時間くらいオ−バ−するのだ。地方の方ではそうではないがソウルは一番混んでいる。バスは確かに便利だったが時間がオ−バ−するから現地に行って見る時間が少なくなるのだ。常に乗り物にのっている旅だった。タクシ−も安いのでついつい乗ってしまった。歩くことすらあまりなかったのである。日本から汽車に乗り船にのりバスにのりタクシ−にのり汽車にのり終わった。もっとゆっくりみれるはずだったが一人でもゆっくりみれなかった。宿賃などは2500円で安かったが果物は日本と同じだった。ジュ−ス類もさほど変わらなかった。果物が好きなので買わざるをえなかった。今回もいろいろ失敗があった。海外旅行はいくらやっても失敗があり慣れるということがない、韓国も確かに6年前くらいに行ったがあの時は道連れの人に従うだけだったので実際は団体旅行と同じだった。ただ言葉は全然知らなくてもハングルが読めなくても旅行できた。というのはガイドブックの行く先の漢字とハングルをバスタ−ミナルで見せると切符は買えたしその行く先のバスに案内してくれたからだ。ただ途中下車はできない。タ−ミナルからタ−ミナルまでは簡単にのることができた。韓国は設備が充実しているから言葉ができなくても旅行できたのだ。バスは10人くらいしか乗っていないことが多かった。ゆったりとのれたので楽だった。中国ではすしずめだからひどい。韓国はやはり旅行しただけだが余裕がありのんびりしている。韓国と日本は田んぼがあり山があり桜もいたるところに咲いていて梨桃の花も咲き日本とにていた。やはり何かと日本と一番にている国だと思った。いろいろあったのでこれから一気には書けない。釜山から博多まで高速の船で来たことは昔を偲ぶためにはよかった。飛行機などではつまらないし昔を偲ぶこともできない。やはり海と深く関係した旅になった。日本の歴史は海なしではかたれない、海によって作られた国なのだ。



3月29日

明日晴れるから韓国にでかけることにした。今回は一人であるが一人だと自分の見たい所見れるからいい。前はゆっくり見れない所があった。ただ二人は二人で意義ある旅だった。期間は10日間くらいになるかもしれん。済州島も予定にある。また何かで失敗することはまちがいない。日本でもどこでも必ず旅ではとんでもない失敗しているのが自分だ。何か必ず大事なものをなくすのである。カ−ドから航空券もそうだったし金もそうである。ノ−トパソコンとをもってゆくが韓国からは報告できない。日本にいる間ホ−ムペ−ジにアップできるかもしれん。報告するとなると取材にゆくようになる。常にホ−ムペ−ジをもってから何かを発見し報告しようとする気持ちになった。写真でもこれをとって見せたら面白いとかそういう点がホ−ムペ−ジをもつ効能がある。その時々のホットな情報のアップは臨場感あってインタ−ネットでしかできないからこれみんなもやってみる価値はある。つまりインタ−ネットは本とは違うメデアでありこのメデアの特性を活かした表現は新しいものなのである。本はあとでふりかえってじっくり回想して書くのに向いているがその時々のホットな情報伝達はインタ−ネットでしかできないのだ。これは自分の旅の記録としてもあとで役に立つからノ−トパソコンは旅には今や不可欠なのだ。



3月26日


6年くらい前になってしまったのかな、韓国を旅行した時の詩をまとめた。大津のU氏と一緒に旅したことは有益だった。大津の人だったが近江は百済と縁が深い。百済はみちのくと関係ないかというと百済王という人が黄金をとりに来て天皇から位を授かっている。大和と百済は一体不二の関係にあり大挙亡命した百済の人々が大和の国造りに大きな役目を担ったのだ。1500年前になるが日本にとっては大きな歴史の節目だったから今なお論じられ記憶は新たにされるのだ。日本は唐と新羅の連合軍に攻められるという恐怖にかられていたのだ。朝鮮半島は常に日本とっては大陸の防波堤のような存在であり大陸から朝鮮半島を通じて攻めてこられるという恐怖を感じていたのだ。それが事実となったのが元の軍隊がモンゴルが攻めてきたことなのだ。高麗と一体となり日本に攻めてきたのだ。あと二三日で韓国の方に旅するかもしれない。家のものが病気ではあるが老人の病気は直ることがない。青春18切符で行くのが節約になるが時間がかかる。今回は10日くらいの予定になる。ノ−トパソコンとデジカメもってゆくのでホ−ムペ−ジにアップできる。韓国からは無理ではある。青春18切符は10日までだから長くは旅できない。ただこれも急行とかにのれないし時間がかかりうまく使えない面があるからそれほど得になるとは限らないのだ。韓国はやはり一番身近な国であり近親憎悪の国でもあるがやはり歴史的に結びつきが深いことは一番近い親戚関係にある国といえる。

3月21日


春はいろいろ忙しい。3万のデジカメ買ったり家のものがまた病気になり気候も変だ、すでに磐城で桜が散ったというのも異常だ、丸森では山火事があった。自分の場合病人をかかえると苦しい。なかなか旅行もできなくなる。日本は九州を除いてほとんど行っているので旅行する所がなくなっている。外国はまだまだ行きたい所が多い、やはり外国は百聞は一見にしかずだから一回だけは見ておきたいのだ。書くものにもグロ−バルな視野がえられるから見ておきたいのだ。私の近辺はここ3・4年めまぐるしく変わった。回りの環境が変わりすぎたのだ。まったくこの世は人も環境も常に変わってゆく。年を重ねると身近な人も死んでゆくから無常を感じるのだ。これから海を通じて結ばれるアジアのつながりを追求するものを書く予定である。

3月12日


url変えることは大変なことだった。そもそもアクセスも少ないのにgoogleのペ−ジ検索で今までのアドレスがいい所にでるのが結構あった。カテゴリ−では登録されていないので読まれることが非常に少ない。インホ−シ−クに毎日一人がきているのはホ−ムペ−ジを無料で持つ者のグル−プ化されているからかもしれない。自分の場合アドレスを変えることはかなりアクセスに影響するからまずかった。しかし容量の面で一杯なのでどうしようもなかった。それで今までのアドレスからでもgoogleのロボット検索で読みこまれるように新しいレンタルサ−バ−のファイルを見られるようにした。とにかくホ−ムペ−ジの問題は読まれることが余りにも大変な世界だということである。読まれるようにするにはホ−ムペ−ジ同士の交流とか相互リンクして相互にアクセスさせる工夫とかが掲示板に書き込ませるとかが必要なのだが結局それらが時間がかかりできないのである。自分のホ−ムペ−ジを更新させるためにテレホ−ダイの半分の時間がかかりそうした交流ができないのである。インタ−ネットは常時接続にならない限り本格的には使えない。ここではisdnの常時接続さえいつになるかわからないしプロ−バンドなどいつになるかまったくわからないからせめて常時接続できるISDNに期待しているが今年中にできるのかもわからない。福島県はかなりインタ−ネットの面では遅れているのだ。
次の図は私のホ−ムペ−ジの図である。費用は一年で2万5千円くらいだから安いものである。ジャストネットは百円で10mbのホ−ムペ−ジがおけるから奇妙だ。ニフティは千円かかっているからだ。ホ−ムペ−ジはみんな無料のを使っているのがこの世界なのだ。とにかくこの世界はこうして簡単に結びつけることができるのだ。つまり表紙だけおいて中味は中心のレンタルサ−バ−におくのである。情報が消えること考えて分散するためwebpocketというファイルだけおけるのを利用することにした。これも共有で利用できるようにすることもできるのだ。容易に共有できる世界なのだ。


 
3月8日

url変更してやはりスム−ズにはいかなかった。
レンタルサ−バ−もいろいろありarcwebは最近始めた所だった
ジャストネットはやめる時になって問題が起きた
アクセス権というのがおかしくなり更新できなくなったのだ
電話で聞いてなんとかわかった。いかに電話が通じるかが大事な
ことかわかる。他のプロバイダ−ではほとんど電話が通じないのだ。ニフティでホ−ムペ−ジ作りできなかったのはそのためである。とにかくパソコンはおかしくなりはじめるといろいろ連続しておかしくなる。外付けのスキャナ−も使いなくなったり指ハ−ドデスクもだめになりいろいろ何かおかしくなるのがこの世界である。
そしていったん直すとなるとその環境がみな違うから自分でできるだけのことはしないとだめなのだ。スキャナ−で前の故障は線だったが今回のノ−トパソコンの通信ができなかったのも線が悪かったのだ。バソコンは必ず外付け関係がおかしくなるのだ。一年くらいでなんらかおかしくなる。新しいのにするにしても周辺機器を新しく買ったりソフトが使いなくなる。この出費は大変なのだ。パソコンは便利なものだが使いこなすことが大変なものなのだ。


3月3日

ホ−ムペ−ジとは何なのだろうか、これはそれぞれの日記というのが一番適当である。日記とは誰も読まなくても書き続けていたのだ。その人の記録である。日記は死ぬまで書き続けることになる。それは読まれなくてもそうしている人がいたのだ。このホ−ムペ−ジもそれとにている。読む人が少ないにしろ死ぬまで書き続けるものとなる。これでいいことは締め切り日が迫り書くことが要求されることである。今までなち誰も読むわけでないから書くこともなかったことをつまり俳句一句でものせようとすることになることなのだ。ただ読む人は少なくてもそういう気持ちに追い立てられるのである。本など出すと個人なら一生に一度くらいしかできないのだ。それほど普通の人は表現する場など与えられていなかったのだ。ホ−ムペ−ジにはそういう日々何かを書き続ける創作し続ける場としては気楽に少しでもできるから便利なのだ。おそらく死ぬ日まで書き続けることになるからホ−ムペ−ジを見ればどういう変化がその人にあるかわかることになる。でもそこまで関心を持つ人は少ないことになる。出す方にしても二年間くらいで更新が終わった人がかなりいる。それは出す方にしても読む方にしても関心を持ちつづけることがむずかしいためである。自分自身にしてもそんなに関心を持ったホ−ムペ−ジがなかったからだ。不思議なのはインホ−シ−クには一人は来ているみたいだ。80ペ−ジくらい読まれた時もあるからこの人は関心もっている人だなとわかる。
ジャストネットの解析ではペ−ジビュ−がないのでわからないのだ。
一人でも来れば誰も見ないよりは書く励みなることはなる。


2月20日

スキャナ−がおかしくなった。もう一台のパソコンでは使えた。何か問題があるとパソコンはめんどうだ。最近フリ−ズが多くなった。また壊れるのではないかと怖い。一年以上たつとなんらか調子悪くなるのがパソコンのような気がする。故障の原因はたいがい外付けの機器をつなぐことから起こるようだ。前はビデオカ−ドが原因で壊れたと思える。XPは故障がない安定しているというからいい。やはり突然壊れることが一番こわい。とにかくなんらかおかしくなるのがパソコンである。

 もう一つの問題が100mbのレンタルサ−パ−をかりたことだがこれも今までのアドレスを変えるとなかなかアクセスされなくなるのが問題だ。というのは自分の場合目立つ場所には登録されないからである。ドメインというのは変わらないインタ−ネットの住所となるからそれなりの金を払う価値があることをアドレスを変えようとしてわかった。つまりこの世界は自分がそういう立場にたたないとわからないのだ。ホ−ムペ−ジを置いているところがこれで四つになった。どこかへらさねばならん。一発太郎に登録してみたがあれは全然登録されなかったみたいだ。どうもこの世界はこういう点うまくいかない。アクセスされるようにすることがとんでもなくむずかしいのだ。そこの一部では毎日百の単位か千の単位か新しいホ−ムペ−ジが登録されている。その中で読まれることはとんでもなくむずかしいのだ。読む方にしたっていいものを見つけることは大変なのだ。ただいいものがそれなりにふえてきたしあることは確かである。しかし詩にしても古典に残るような詩をインタ−ネットから探し出すことはできない。それは結局古典として残った詩であり現代のホ−ムペ−ジから探すことはほとんど0である。何故なら膨大なゴミの山がホ−ムペ−ジでもあるからだ。もちろんあったとしても本当にまれなのだ。カテゴリ−検索でもわからない、詩などと関係ない人が見映え田けで選んでいるからである。自分のホ−ムペ−ジもロボット検索では上位にでている場合が結構ある。今回のアドレスはhttp://soma.acrweb.comであり短いので便利だったがこれにすぐに変えるわけにはいかないみたいだ。



2月20日

検索は一字違いで数がしぼれる。俳句だと定番のが上位にきて一万くらいヒットするが俳句紀行となると格段に少なくなる。俳句紀行 北海道とか俳句紀行 中国とか場所を限定するとさらに少なくなり必ず自分のホ−ムペ−ジがでてくる。こうしてかなり検索ではgoogle他にもでてくるのだが読まれないのは俳句と入れる人は多いが俳句紀行と入れる人は少ないのである。俳句紀行 ヨ−ロッパとかになるとさらに少ない。ましてや俳句紀行 霊山となると0だろう。ここに検索の問題があるのだ。俳句ではいつもの定番はでてアクセスされやすいがそのほかはアクセスされにくいのだ。しかしこのキ−ワ−ドの組み合わせの工夫でいいものがみつかるかもしれん。とにかく特殊なキ−ワ−ドはあまりみんな使わないからヒットされにくいのだ。
大手カテゴリ−登録→自主的リンク→キ−ワ−ド検索
となるが意外と最後のキ−ワ−ド検索がいいものを出す場合がある。ただこのキ−ワ−ドを何にするかむずかしい。一字違いでもでるものがかなり違うからである。


2月19日

ホ−ムペ−ジの問題としてまとまって長く読めるものがないような気がする。短いのがいいというがまとまって長く読めるものも必要である。そうでないと断片の集まりになってしまう。ホ−ムペ−ジの特徴として更新がとまっているのが多いことである。アクセスが万を越していても更新は一年前くらいで止まっているのである。ホ−ムペ−ジはいかに更新しつづけることがむずかしいかわかる。いくらでも書くのは自由なのだが息切れして長く続かないのが特徴なのである。更新が止まればそのホ−ムペ−ジが過去にいくらアクセスがあっても死んだホ−ムペ−ジなのだ。更新されないから何回も見に行くところがほとんどない。だいたい一回みてあとは熱心にみないのが多い。ニュ−スだけは毎日見に行くがあとは毎日行くのは検索のポ−タルだけである。

 要するにホ−ムペ−ジは断片的なものが多すぎるし一過性のものが多すぎることである。2ちゃんねるは情報源としてはいいのだがめまぐるしく変わりすぎるしあることをじっくり議論することなどには向いていない。ニフティでは同じメンバ−だったがじっくりと何年も議論していたのだ。自分の場合はあの世界がわからなかったので議論できなかったのだ。それからホ−ムペ−ジはリンクが大事でありリンクされないものは読まれない仕組みになっている。リンクをたどり読んでいるからだ。googleはリンクで優先順位を決めたのはインタ−ネットの特徴を生かしたものである。ただアクセスだけを考えているのも問題である。何故なら詩のホ−ムペ−ジみてもくだらない詩のやりとりのホ−ムペ−ジの方がアクセスが多いからだ。この世界どんなつまらないものでも受け入れる世界だからである。アクセスだけを中心に考えるのは問題だがアクセスがないと結局自分自身の作品作りだけになることはいえる。ここにジレンマがある。



2月16日

インタ−ネットで調べたら中国の映画で山の郵便配達というのが上映されて好評だった。「郵便配達」と入れたらでてきたのだ。郵便ではでてこない。今も各地で上映されている。上映されている映画館もでている。本もアマゾンで買える。輸送量は無料になった。私の時事問題の深層で「過去になった郵便」とか「冬の日の郵便受け箱」というのを書いたがこれはそれと通うじるもので興味をもったのである。中国の山奥で郵便物を配る苦労を映画にしたものである。とにかくインタ−ネットは郵便に関心を持つとそれと関連するものがでてくるのだ。ただ自分の近くでは仙台でも上映していないのでみれない。でもぜび見たい映画である。


2月15日

デスプレイの画面に一部ちらつきがでた。三年間くらい使っているから
消耗したのかもしれない。とりかえてみればわかる。ただデスプレイはIBMのものだから富士通に聞くわけにいかない。故障した場合は一社だとアフタ−サ−ビスを受けられるがパソコンの場合いろんな会社のをつないでいるからむずかしくなるのだ。

2月11日

100mbのレンタルサ−バ−を使うことにした。この世界のわからないことは経験しないと理解できないことである。この会社ではドメインサ−ビスはしていないがドメインはドメインで別にとれるのだ。他に転送サ−ビスというのもある。これも不思議な世界である。なぜこうなるかというとインタ−ネットはみな結びついているから分業も成立する。分業していても一つにつながっているから同じインタ−ネットのなかで仕事ができるのだ。リンクやコピ−が容易なこともそれを促進している。ホ−ムペ−ジはいろいろな表現がほとんど無料でできる場なのだ。カラ−写真入りの本など作ると大変なコストがかかるがホ−ムペ−ジでは100mbでも一年間で一万である。


2月7日 ホ−ムペ−ジ作り2年

ホ−ムペ−ジ作り約2年になる。これも覚えるのが楽なものではなかった。最初の失敗がニフティで電話連絡できなくて用意されたもので作ろうとしたことである。ところがまだ技術的な問題もありエラ−がでてできなかった。一カ月くらいやってもできなかったのだ。用意されたものはかえってめんどうなものだったのだ。こういうところがパソコンのわからないおかしな点なのだ。わかりやすいというのがむずかしかったり簡単だというのがむずかしかったりする。こういうことは知っている人に聞くと一発でわかるし電話で聞くとすぐわかる。その電話が通じないのである。もう一つの大失敗はこれもFTTPで転送する時更新した日ずけをみて一気に送ればよかったのだがバ−をずらさずに全部みていなかったのでいちいちファイルの名前をチエックして一つ一つ送っていたのだ。これも馬鹿げた時間のロスだった。ホ−ムペ−ジビルダ−はどこかで金払っても習った方がいい。かなり複雑だしいろいろな使い方がある今までは一番内容のあるソフトだったからだ。

ホ−ムペ−ジ作りというものも初めての経験だからこれが何なのか理解すること作ることもそうだがむずかしいのだ。2年間やってやっとこんなものかと理解した。ホ−ムペ−ジは極めて個人的なメデアでありパソコン通信時代とはかなり違ったものであった。パソコン通信はあくまでグル−プでのデスカッションであり個人を全面的に出せるような所ではなかった。ところが知らないからホ−ムペ−ジのように相手を考慮せず書き込んでいたのだ。向こう側に人がいるということを考えないで勝手に書き込んでいた。そういうことは許される場ではなかった。パソコン通信でも自分だけが主役になったような錯覚におちいるのだ。相手が見えないから自分だけが存在する自分だけが拡大する感じになる。しかしこのホ−ムペ−ジは一方的に発信する方が多いからこれはパソコン通信時代に相手を考慮せず勝手に自分を主張していたことを実行している。これの方がわかりやすいし老人がホ−ムペ−ジを作るのも容易である。掲示板とかレスを重んじるのとは全然違う勝手に書きたいことをいくらでも書きあとは勝手に読んでもらうだけでのである。

ホ−ムペ−ジ作りは技術的なものをクリア−すれば老人でも容易に作れる。しかし掲示板での対話とかパソコン通信のようなやりとりになるとあの世界には老人は入れない。その分パソコン通信のやりとりをなつかしみもう一度活発な討論をしてみたいという人がでてきている。でももはやニフティでも一カ所に有力な人間が集まり討論する場はない。あまりにも分散したのである。2チャンネルはあのパソコン通信のやりとりとは違う。パソコン通信では二年くらい同じ人が集まり討論を繰り返していたし同じテ−マでも討論していたのである。2ちゃんねるはその時々で盛り上がっては人も消えてゆく。継続性がないのだ。一日で消えるものもあるのだからその差は大きい。

とにかくこれからブロ−ドバンドになると確かに掲示板でのやりとりとかしやすくなるし映像でのプレゼンテ−ションがしやすくなるからそれの準備が必要だがビデオになると写真よりむずかしいから素人でいいものがだせるか疑問である。


2月3日   今日の検索

 インタ−ネットの検索はわかりにくい。カテゴリ−に並べられているのを探すより自分の場合、キ−ワ−ド検索が面白い。冬菜と入れたら冬菜の俳句が絵つきででていた。ティ−タイム季(河北新報社)ここに専門家の絵と選ばれた俳句がのっている。過去に新聞にのったものが集められている。インタ−ネットでは集積することが簡単だから新聞社や他に出版社でも過去の作品をいくらでも出すことができるし読者にとっても読むのに便利である。新聞社でも日本で百くらいあるからその記事の集積は膨大なものになる。しかし新聞社だけではない、読まれない情報が膨大な数あるしインタ−ネットで公開されていない、著作権とか無料ではできないという問題はあるのだが情報は利用されてこそ価値があるのだ。中世には聖書は鍵をかけられ一般の人には読むことができなかったがルタ−やグ−テンベルグがでてきてみんなが読まれるようにしたことが革命になった。まさにインタ−ネットはそういう革命的なものがあるのだ。

つまり情報は本や新聞やテレビ以外からは得ることがむずかしいから実際はかなり限られたものだったのだ。また出版は個人では不可能であるから一般の人はいいたいことも言えなかったのだ。情報は一見自由のように思っていたが大きなメデアによって独占されていた。新聞社でも出版社でもテレビでもその力が大きかったのはまさにそこを通さないと情報を流すことかできなかったからだ。政治というのもテレビ民主主義でありテレビで判断されること多かった。小泉首相があんなに人気になったのはテレビのためでありまた人気が下降したのもテレビによってである。田中真紀子もまたテレビによって国民は知り人気が高くなり力を持つことになる。

もう一つ紹介すると奇妙なのだが隠者 詩と検索したらある旅館がでてきた。ここはいろいろうまく説明している。集めた壺に面白いのがあったし行ってみたくなるような所だった。インタ−ネットは必ずその人が住んでいる場所と結びつく。富士山が見える場所の人は必ず富士山を紹介し富士山の句を作っているしなるほどなと思う。その場所から辺りの光景が浮かんでくるのだ。インタ−ネットはまたテレビのように広く多数の人に宣伝することはできないが口コミで伝わる。googleのリンクされたものを上位にもってくるのは口コミなのだ。口コミで推薦されたものが上位にくる仕組みを利用したので極めてインタ−ネット的な手法をとったためにヒットした。これをみてもインタ−ネットは今までのマスメデアと違うから今までのマスメデアの手法は役にたたないことになる。それが大手のマスメデアでは対処方法に困る要因となる。

ティ−タイム季(河北新報社)
http://www.interq.or.jp/jupiter/kozo/kiword/kiword_index.htm

花と味のお宿「椿道旅館」の御案内
http://www5.ocn.ne.jp/~tubakido/index.html

2月1日 インタ−ネットは「今」が大事

インタ−ネットやパソコンをどう利用するかまだわかっていない。それは個人的にもいえるし団体でも社会そのものでもこれがどういうものかわからない人が多い。
インタ−ネットとは限りなき「今」に焦点をあてている。それは「今」という時間に同時につながってをり「今」を共有する。インタ−ネットがジャ−ナル(日記)に向いているのはそのためである。日々刻々変化するというより時々刻々変化するなかに生成発展するものなのだ。昨夜は真夜中まで起きて「寒月」をみていた。この「寒月」からインタ−ネットで寒月を検索するとまず必ず俳句がでてくる。実際いいのがでたのは蕪村とか子規の句だった。これはテキストファイルでも古典はテキストファイル化されているので検索で調べられる。古典でも漢詩でもテキトファイル化される必要がある。そこで寒月の検索をすると寒月の今も生きてくるのだ意外だったのはテ−ブルフエアというテ−ブルにいろいろ飾る芸術を初めてみた。これは一見する価値がある。

 インタ−ネットは「今」が同時につながることが画期的なことなのだ。本は雑誌でも一カ月遅いから田中真紀子大臣のことについて書くこと田中真紀子の今を共有することができない。本は一年とか二年前だから今の共有には向いていない。それが価値がないというわけではないが過去のものとして存在する。インタ−ネットの利用方法は「今」という時間の共有だから例えば寒月を今みている人が全国にいる。そこで北海道の寒月や日本海の寒月や様々な地域での寒月の句会さえ実際はできるのだ。チャットでできるのだ。ただそういう人が集まらないだけである。今確かに自分一人のみで発信しているだけだが実際は「今」という時間を共有することであり「今」が全国的世界的につながることがインタ−ネットを生かすことである。そのためにはやはり常時接続でないとだめなのである。夜のテレホ−ダイでは限界がある。

 とにかくインタ−ネットは実際は様々な分野で活用範囲が広いのだが生かされていない。ばらばらの無数のホ−ムペ−ジも実際は相互につながらないし生かされていないのだ。定期的にゆくのが検索のポ−タルだけだということがそれを示している。定期的に「今」を共有しうるものがないということである。パソコン通信の時は常に相手があっての発言だからその数が極めて限られていても「今」を共有していた。「今何している」「今風呂入りにゆく」とか電話的会話を楽しんでいたのである。発言する場は限られていたからそこにみんな集まり話し合うことになったのだ。それで問題を起きた。ホ−ムペ−ジはそうしたみんなが集まる場での発言ではない。無数にある個々のホ−ムペ−ジはただアクセスを待っている。そのアクセスも極めて限られたものだから生きてこないのである。