川俣の歴史と詩情(川俣は山の影なす町)小林勇一

●史実の小手姫伝説

川俣町・飯野町・月舘町などを含めた地域は「小手郷」と呼ばれていました。これは、養蚕・機織りの祖「小手子姫」の名前に由来するもので、川俣の地名も小手子姫の郷里、大和国(やまとのくに・奈良県)高市郡川俣の里にちなんで名付けられたという説、もう1つは、町を流れる広瀬川(小手川)と富田村より流れる五十沢川が合流する地域(川股)の形状から、以来これを川股と称えたという説です

羽黒山は本堂床下等から、振ると「からから」鳴る、不老不死の霊薬「お羽黒石」を産出する、実に不可思議な霊山で、その名は広く都にも伝わっていた。その出羽三山の中心といえる羽黒山は、今から約1400年前、崇峻天皇の皇子、蜂子皇子によって修験の教化を受け開かれたと伝える。それから100年後、和銅5年(712)に出羽国が置かれ、城輪柵が設けられた。


異名: 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと:日本書紀)・長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと:古事記)
生没年: (?)〜 崇峻天皇5年(592)(?才)
在位: 用明天皇2年(587) 〜 崇峻天皇5年(592)
時代: 飛鳥時代
父:  欽明天皇(第12皇子)
母:  蘇我小姉君(そがのおあねのきみ:蘇我稲目の娘)
皇后: 大伴小手子(おおとものこてこ:大伴連糠手の娘)
皇妃: 蘇我河上娘
皇女子: 蜂子皇子、錦代皇女
宮居: 倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや:奈良県桜井市倉橋)
御陵: 倉梯岡陵(くらはしのおかのえのみささぎ:奈良県桜井市大字倉橋)


崇峻天皇の皇子の蜂子皇子(はちすのみこ)は、聖徳太子に助けられ都を脱出し、東北まで逃れて、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の開祖になったと言われており、大阪市天王寺区茶臼山町には、聖徳太子が崇峻天皇を偲んで建てたという「堀越神社」が残っており、祭神は、「崇峻天皇・小手姫皇后・蜂子皇子・錦代皇女」となる

物部と蘇我の神道と仏教派の争いがありその時政争に敗れて逃れてきたのが崇峻天皇・小手姫皇后・蜂子皇子でありこれは史実の人であり史実を基にした伝説である。羽黒山→月館→川俣→飯館と伝播した。飯館の 小手森山(おでもりやま)がそうである。女神山も小手姫から名付けられたものである。この小手姫伝説は飯館までであり浜通りの方には伝わっていない。飯館は八木沢峠とか急峻な山にさえぎられ相馬の方には伝わらなかった。小手郷があったとすると真野郷も万葉集のみちのく真野でこれは近江の真野からの地名の伝播なのかと推測するのもそのためであるがこれは実際はわからない、真野とか川俣とかはよくある地名だからだ。東北は都での政争に敗れた官人が流される場所でもあったから義経のように悲劇的な伝説が残る。地方に流されるのは中央での政争で敗れたものでありその人たちが無念の伝説を残すことになった。それから地元の人にとって都から来た人は技術を文化をもたらす人だから歓迎された。日本人も海外に行くとやたら電気製品の優れていることが言われると同じである。一方で白石の子捨川とか福島市の信夫文知摺(しのぶもちずり)石伝説のように都の人に捨てられたり待っていても戻って来なかったとかいう伝説が多いのも都の人との交流では良くあったのだ。フィリッピンでは日本人の子供が数多くいて父親を探しているというのと同じである。歴史は繰り返すというより人間のやることは変わっていないからだ。地名を考えると古代につけられた地名は一番古いことになる。小手姫に関する地名は一番古いからだ。月館とか飯館とか館のつくのは中世の地名である。飯館の基は大館だったし月館は築館である。東北では古代から地名となっているのはまれである。ただ真野とか川俣となるとこうした地名の命名は中央から来た人が名付けた場合が多いのだ。東北では蝦夷、アイヌがいたとして北海道のようにアイヌ語が明確に残っていないから古代からの地名であるかどうか見分けることはむずかしいのだ。みちのくに都から追われた官人の話で悲劇的なのが多いのは政争で敗れたものが逃れる場所だったからである。

みちのくに敗れしものの逃れたる山に没り陽や残菊あわれ

●口太山(くちぶとやま)の名の起こり


長徳3年(997年)藤原氏一族の藤原中納言実友が地方巡視の為陸奥に下った。岩瀬郡鉾衝(ほこつき)宮(長沼町鉾衝神社)にたどり着き、ここで一夜を過ごした時のこと、一人の老翁に阿古屋の松(出羽国阿古屋にある老松で、枕詞に使われる当時の名所)は、何処にありやと問うたところ、老翁は我家の近くなりと案内に立った。
 併しゆけども行けども、山また山の深山幽谷に踏み入ってしまった。その時老翁は忽然と変じて老猿となり、一声高くうそぶくや瓦石を投じて危害を加えんとした。
 その時中納言、今はこれまでと「みちのくの阿古屋の松を尋ねわび、身は朽人となるぞ悲しき」(後この歌により口太山と称す)と詠じたところ、不思議や一頭の白鹿現れ、群猿をけちらし一條の藤蔓を口にし中納言に渡し、その端を口にして先導し漸くに人里(小綱木村)に逃れ出した。(川俣町史)


長徳1年(995)左近衛中将にまで昇った歌人の藤原実方朝臣は、殿上で大納言藤原行成と口論の末、笏で行成の冠を打ち落としてしまい、一条天皇の勘気に触れてしまいました。天皇から、「陸奥の国の歌枕を見て参れ。」と命ぜられ、陸奥守に任ぜられて下向してきました。 陸奥国に来て4年の間、各地に歌枕を尋ね歩いたが、阿古屋の松に限って所在が分からずにいたところ、阿武隈の東に六本松という名木があることを聞き、その地にいってみたがなかったのです。疲れ果てた実方がこの時詠んだ歌は、

「陸奥の 阿古屋の松をたずねかね 身は朽ち人と なるぞものうき」

でした。小手森の樵明神は、実方の心をお哀れみになり、樵の老夫に身を変えて、疲れ倒れている実方のそ袖を引いて目を覚まさせ、次のように教えました。

「陸奥の 阿古屋の松の木の高さに 出づべき月の 出るもやらねばの古歌の心で陸奥を訪ねるこの歌は、古い陸奥出羽が一つの国で陸奥と言っていた時に詠まれた歌である。その後、陸奥を割って出羽国が置かれたのであるが、阿古屋の松は出羽国にあるのだ。その地をさがすがよい。」 実方は、出羽国に赴き、阿古屋の松を訪ねることが出来たのです。しかし、その帰途を急ぐあまり、岩沼(宮城県)辺りで落馬し、帰らぬ人となってしまったのです。

小手森の樵明神というと飯館の小手森山のことなのか、とすると小手森山の命名は古代からのもので古いとなる。香野姫明神の伝説も不思議がある。香野姫(かのひめ)はカノは焼き畑のことである。真野明神の草野姫(かやの)伝説も焼き畑のことなのだ。奈良の川俣からの地名伝播といい真野の歌といい共通性があるのだ。


「みちのくの阿古屋の松を尋ねわび、身は朽人となるぞ悲しき」口太山の起こりはこの歌から名付けられたのだ。朽人(クチヒト)がクチブトとなった。ヒトはフト、ブトとなまった。樺太(からふと)のフトも方言で実際はヒトの意味なのである。となるとここが姥捨山だというのはどこから生まれた伝説なのかわからなくなる。姥捨山の伝承がどこから生まれたのか?それが定かでないのだ。ただこの歌から口太山となったのであり何かそうした伝承があったことが明確ではないのだ。だからこの山が簡単に姥捨山だったのかどこにそうした根拠があって言っているのか不可解なのである。

事実でない姥捨山の伝説(作られる伝説と報道)(時事問題の深層30)

香野姫についての物語
http://www.town.towa.fukushima.jp/mobile/story/kayahime03.htm

ここに出ている白猪森も東和町にあるがこれはあとから作り出した地名伝説だろう。ただ白猪森はかなり古い地名で古代からのものでやはり中央から伝わった話が脚色された。白猪が姫を助けたというのは作り話なのである。白猪は関係ない、白猪森があったからそれにこじつけたのである。この実方の妻の話はその前に小手姫が息子を慕って川俣までやってきたというのと似ている。こういう伝説は悲劇の故に作られてゆく。

●藤原山陰中納言の謎

昔、山陰中納言が阿古屋ノ松と呼ばれる銘木を探して口太山にやってきた。大猿に化けた山賊たちが中納言目がけて襲いかかったそのとき、白鹿がどこからともなく現れて中納言を救ったという。このとき中納言が逃げ込んだ岩窟が乳子岩、大猿の首を取ったところが「猿の首取」と呼ばれている。

 土地の伝説に、陸奥守として赴任した藤原豊光の娘、阿古屋姫は地元の男と恋に落ちた。ある日、男は今日限りの命と言って別れようとした。姫はすがりついて泊めようとしたが、消え失せた。その後に、松の影のみ残った。
 ある時、老松が橋普請のため切り倒され、運ぼうとしたが、少しも動かなかった。姫は老松のことを思い出し「山の千歳の松よ」と声を掛け、懇ろに供養すると、不思議や人夫の思うとおりに動き出した。姫はこの松に操を立て尼となり、松のあった所に庵を結び終世松の霊を弔ったと言う。死んだ時は、この松の根元に埋めて貰い松を植えて貰った。この松が、阿古屋松だ。
 この話を聞いた藤原実方(さねかた)は感銘して自分もこの地に移り住んで一生を終えたそうだ。

(花巻市史)
一般的に稗貫に入部した領主については、藤原北家魚名流の山陰中納言の後胤に、伊達念齊と号した者があらわれ常陸に居住していた。その子に常陸四郎なる者があって、頼朝の奥州征伐に従って軍功をあげ、稗貫郡を与えられて下向したという説が有力である。しかし、稗貫氏の出自と奥州下向に関してはさまざまな説があり、稗貫氏が滅んだあと、その一族や家臣は伊達家や南部家に任官したが、それぞれの家が伝える系図もまさに諸説紛々でいずれが真実を伝えたものかは判然としないといったところである。


藤原山陰という人は天皇の料理人として仕えて有名な人である。それを先祖とするのが伊達氏となっている。それで藤原山陰が川俣の口太山と関係した。口太山の名前の起こりは実方の歌であるが山陰中納言としているのは伊達氏との関係でそうなった。

●阿古屋の松は都の人が黄金や鉄を求めた伝説

「みちのく伝承-実方中将と清少納言の恋」相原精次によると東北の歌枕とされた地は鉄の産する場所のことであり実方は中央から鉄資源の発掘に使わされた人だとしている。みちのくは最初に「すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く 大伴家持」の歌のように黄金がでる国として注目されたのだ。歴史的にも辺境や未開の地が注目されるのは黄金が出るとか鉱物資源があることによってである。アメリカの西部開拓もそうだしコロンブス自体エルドラ-ド(黄金郷)を求めて大西洋を渡ったのである。それがマルコポ-ロによって伝えられたみちのくの平泉の金色堂だったというのも黄金の魅力が人を動かしたのだ。屋根まで黄金でふかれていたというのは確かに一致しているのだ。今でもキリギリとかアルジェリアとか中東の何もない砂漠などに日本人が行っているのは石油のためでありまたアフリカに行っているのも宝石を求めてである。そんな遠い所まで人間は鉱物資源とか実利になるのを求めて行くのだ。風流を求めて行くのはそのあとの話である。歌枕を求めて芭蕉が旅したのはわかるが古代はそうはいかない、松というのは鉄作りの燃料には一番いいから松が名所になったというのもわかる。近くの陶芸をしている人も松を燃料として求めていた。真野の草原(かやはら)を憧れの地とするわけがない、景色がいいからとかではない、そこは何か資源が出る所であり実利的なものとして注目されたのである。そこが歌枕となったのだ。こう考えると口太山に実方が来たとすると鉄資源などを求めて来たのである。そこに乳清水とか乳子岩とかあるがこの乳も女性がこの清水を飲んだら乳が出たという伝説とあるがもう一つの解釈として乳が産鉄とも関係していた。

壬生(みぶ)氏とは「乳」「入り」とも書き(丹生)とも書くとあり。上古、天皇が生まれたとき、産殿に仕えた部民に与えられた名である。この丹生(にう)のある所は水銀とか鉄などの鉱物資源の豊富な所にみられる。(相原精次)

乳清水とか乳子岩とかは鉄に関係した名ともとれるのである。乳が出ないとか乳に関するものは江戸時代からであるが鉄に関するものは古代からあるのだ。伊達家の竹と雀の紋も鉄に関係していたのである。竹の笹の笹は鉄と関係していた。


商売繁盛で笹もってこい!
えべっさんの総本社西宮神社と、大阪ミナミの今宮戎神社に参拝して、商売繁盛を祈願してきました。

笹もってこい-この笹は鉄のことなのである。笹もってきたって笹が何になるんだとなる。笹とは鉄のことでありこれが繁盛の基だったのである。江戸時代まで東北は鉱物資源が豊富であり大坂に日本海から船で運ばれていた。秋田でも青森でもそうである。今は鉱物がとれたところはみなからっぽの穴になっているだけである。鉱物資源は取り尽くすとなくなるからそうなりやすいのである。ともかく実方と藤原山陰中納言のどちらが口太山の伝説の実在の人かとなると歌を残したのは実方であり実方が有力である。藤原山陰中納言は伊達家の先祖としてつながるものとしてもってきたのである。

●川俣は山影の町

川俣の地形的特徴は山が影なす坂の町である。まず最初に阿武隈の大きな山影が飯館の境の水鏡神社を越えた所から見えてくる。安達太良山が前面に大きな影となって現れるのが異郷に来た感じを与える。飯館までは大きな山がないからだ。回りも山の影が重なっていかにも山間の町だという雰囲気になる。こういう山間の場所は日本に多い。日影山とかあるのもそのためである。山のために日影になる地域が多いのだ。その山の間に秋の夕陽が沈んでゆくのも山国の趣を与える。阿武隈は高い山が少ないから余り会津のように山国の感じを与えない、川俣に出ると安達太良とか吾妻山とか見えるから大きな山の影におおわれる。水鏡神社の峠を越えると別な世界に入った感じになるのだ。福島県だけでも非常に山が多い、会津の山も奥深くわからない山が相当数ある。会津はまた福島県でも別世界になっているのだ。会津の山は高いからなかなか上れないからわかりにくいのだ。ともかく川俣は山が影なす坂の町である。安達太良山が印象的になる場所なのである。それから坂の町である。水鏡神社から下る坂は長いし急である。そこから狭い歩道を高校生が自転車で突然突っ走ってきてバス停の前を触れるように走り去った。一瞬ヒヤッとした。ちょっとでも前に行っていたら大事故になっていた。実際自転車が急な坂を下って衝突して死んだという事故が最近あったばかりなのだ。坂では自転車もかなり危険なのである。ここからは福島市に近いから福島市へ行くバスは一時間間隔で出ている。川俣から中通りの領域に入る。飯館はその中間なのだが相馬郡に編入されていた。山中郷としてあったからである。山の影なす山ということで秋の山影がふさわしかった。口太山を険しい道の方から下りたところに視界が開け遠くの大きな山影が見えた。そこから川俣の町まで歩いて帰って来た。

晩秋の口太山や月見草

一二里を歩む山路や秋薊


口太山が姥捨山だったとしたら月見草というのがなんとなくあっている。でもこの山が姥捨山だったかどうかここで考察したように明らかではないのだ。人が朽ちるは実方の歌から出たものだしこれは別に姥捨山だから言ったわけでないからだ。とにかくまず史実をできるだけ明らかにしてそれから伝説などは考えるべきであり小説のように余りにも作られると誤解を生むし間違ったことを詩的に小説的に創作してしまいがちなのだ。これは詩人でもないのにそうなっているのだ。真野の草原も草原(かやはら)だったのどうかわからない、私が地名説を論証したように詩的にロマンッチックに地名はつけられない、実利的なものとしてつけられた地名がほとんどであるからだ。


山影の町、川俣

安達太良の大いなる山影や
川俣に秋の山影かさなりぬ
小手姫の伝説あわれ
昔機織る音のひそかさや
口太山は姥捨て山と乳清水
山の暮らしの貧しさや
山の落葉を踏みて下り来ぬ
歩みつつ聞くかそか虫の声
残菊に山の夕陽のさして没る
阿武隈の山懐に抱かれて
山にまた山の影重なりぬ川俣や
その坂上り下りしてはや日は暮れぬ
(みちのくの晩秋の山をはるかにも望みて下りぬ口太山を)


霊山と後ろは吾妻山