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春の部(2001)

原町⇒津島⇒飯館

春風に駿馬跳ねしも柵のあり

長閑さやまた一村を巡り来ぬ

原町の郊外広し春の山

鶯や凍みもち売りぬ山の茶屋

都路へ道のつづくや春の暮

一村に道は分かれて春の暮

淋しさや余花に暮れゆく山の里

山の家誰か帰るや夕蛙

山の家離れ離れや夕桜

清流に山の桜もはや散りぬ命短く散るも良しかも

阿武隈の山中深く誰が訪ふや弁慶石に春の日暮れぬ


 タムシバの花

タムシバの白き花びら
幾重にも咲き増えゆくも
この山里に耕しの人少なきや
この山道に桜散り淋し夕暮れぬ

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黄と白のクロカッスの咲きその間紫も静か咲くもゆかしき

山の村淋しく暮れむ春の日や蛹一つを見て去りゆき


春の日や家族の墓がじき前に

十数軒山の部落や残る雪

春陰に休み隣の村へ行く

のんびりと山に留まる春の雲



 店一つ在の部落や春の山

春到来
  
 行雲流水
 人も動きて
 刷新の時
 堅き磐に
 足をすえ
 新しき時代の
 活力とならむ


 山鳩の番(つがい)に紅梅の匂うかな

仙台の春

  街に出て人と交わる春の雲

  乙女像春日を浴びて人を待つ

  春の雲ベンチに座り誰か待つ

  残雪の泉が岳見ゆ河畔には乙女の像あり我がよりぬかも

  広瀬川のひびく流れや人々の行き交う橋に春の日さしぬ


  七軒屋雪に埋もれて久しかな
 世をよそに田舎の春の昼の月
    誰か来ん春の田舎や昼の月

     耐えてのち共に開くや福寿草

市に来て百円ショップや春の星

聖なる場

その道は山蔭にあり日陰になるのが早い。その道は前は森の中にあり人も通らない細い山道だった。
清らかな流れと森につつまれ花はひっそりと咲いていた。そこは心を清められる場なのだ。自然の中にはそういう特別な場所がある。なぜかそこにくるとしーんとするのだ。アイヌの人や原始人も直感的に感じていた
何か清らかな特別な場所である。そういう所に神は祭られたのかもしれぬ。自然とは汚れのないものであり本来聖なるものなのだ。この汚れた世にとってそういう聖なる場が必要なのだ.宗教と言うのは聖なるものを
追求するものなのだが宗教の場はむしろ世俗にまみれ世俗以上に汚れた場になっている。宗教の場に聖なるものを求めることはもはやできない、そこは魑魅魍魎と俗物の跋扈する暗黒の世界である。
そういう所にいられこと自体何らか感覚が麻痺してどっぷりと世俗の中にひたって満足しているのだ。
豚には豚と一緒に汚れたところにいることが当然でありそれが汚いとは気ずかない。そこが汚いときずかないこと自体聖なるものから人間は離れ豚になってしまっているのだ。その豚が聖なる宗教を持ち出すことが人間界ではできるからこの世は聖なるものさえ容易にサタンのものとして使用されるのである。
自然だけでなく人間も聖なるものであるべきなのだ。しかし今の宗教団体にはこの聖なるものから最も遠いものでただ人間の欲が容認され世俗の欲を追求する異常な場となっている。


山中の岩二つ

岩二つ
ここに変わらず
声もなく
まことの契りを
交わすごとく
ここにありしを
残る雪
清らかにして
さえずりの音に
ひびく流れや
また訪ねきて
心鎮まる
この山蔭に
世の喧騒を知らず
声をひそめて
また暮れぬ


店一つ

在には今まで万(よろず)屋があった。雑貨でも食料品でもなんでも売っていたから万屋だった。
しかし今はそうした店はほとんどなくなった。ただ過疎地の山の中に残っていたりする。
小さな部落の中に小さな店が一つ、何かなつかしい昔の光景が思いだされた。
今のようにせわしくない隣近所の子供が集まっている風景である。春の山が見える。
自転車で行くとこうした今では過疎地になっているところが景色も良くいい感じなのだ.
ただそこが実際は寂びれて淋しくなっていることが問題なのだ.

春到来

本当に春が来た、盛んに雲は流れ奔騰する流れが山にひびく、再び活動の時が来た。やはり人間の活動は常に新しい所に向かってゆく、春の風は常に新しいものに向かい活動をうながすITというのもわからないものだが今までにはない、表現の場を与え新しい活動をうながしているのだ。今までのメデアや出版や本屋はそうした新しい活動をうながさない、極めて閉鎖的なものでその恩恵に欲したのは一部の権力を持つものやコマーシャリズムにのせられたものだけである。
自分もこうしていろいろ問題は感じるのだがこうしてここにエネルギーを注ぐのもそのためであるとにかくITには新しい活動をうながすものがあるのだ。
ただ新しいといっても常に堅い磐の上に不動の磐を基礎にして新しいものが起こるのである。そこの世は古いものと新しいものの抗争でもあるのだの堅い磐は伝統であり変わらぬ自然の真理であり歴史のなかで色あせぬものである。維新とはもともとあったものを新しくするのでありなにもないものだったら新しくすることもできないのである.

仙台の春

久々に仙台に行った、本当にやっと春になった。やはり街は街で歩くと気持ちがいい。人々の中に交じり歩くとなんか元気が出てきた。やはり街は街で必要であり人間の生活に活気をもたらすのだ。仙台はまだ小さいので自然もあるのでいいのかもしれない、都会には都会の情緒、生活がある。

矢矧の市に 沓買ひにかむ 沓買はば線鞋の 細底を買へ
さし履きて 上裳とり著て 宮路通はむ (催馬楽)

平安時代にもすでに市に通い靴を買っていたことはおどろきである。これは中国から流行してきた最先端の鞋だったというのも驚きである.この気持ちは今でも同じだった.自分も新しい靴で仙台の街を歩いたのだから・・




七軒屋

田沢湖の湖岸に七軒屋という地名がある。四つ屋とか何軒かがかたまり暮していたのでそうした地名がついた。
今年は寒く、ここにも雪がふった。なおさら秋田の山は雪が深くうもれているだろう
すぐ家の脇の堀の工事がまた始まるので国民休暇村に行くかもしれない


昼の月

  未だに近辺の工事は終わらない、その豪華な橋は自動車道路より歩道が広いし贅沢過ぎる、その橋から道を作っているのだがこれも無駄な道なのだ.実際この道沿いにある菓子屋自動車の通る6号線に引っ越したのだから、ただ土建業者のために道作りをしているのだ。山の中に誰も通らない立派な歩道を作っている。公共事業は今や無駄というより自然破壊と迷惑になっているのだ。今や景気対策にもならない。確かに家を建ててもらったことは問題があるにしろ有益だったが道は誰のためにもならないのだ.働くとはハタを楽にすることであり直接人に関係して人を助けることなのだ。今やハタ迷惑である。
それでぽっかり出ていた春の昼の月がなんとものんびりしていた。この世の騒擾をよそに実にのんびりとして余裕がある.あくせくしていない、それに救われたような感じさえした.
百円ショップ、bookoff,セブンエレブ

 これら時代の流れにあったもので繁盛している、bookoffは消費者が売り手にならないと成り立たない
出版社があり本屋があって流通は上から下へと一方的だったがbookoffは消費者が流通にも参加する
極めてユニークな発想からできている、100円では買ったという感覚がない、回し読みする感覚なのだ
これも時代である。


 タンポポやセブンエレブンに今日も行く