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忘られて名残の合歓のここに咲き水清らかに山に入りぬ
ほのかにも名残に咲きぬ合歓の花でで虫歩み山の暮れにき
桐の花水に映して乱れざる静かにここに暮すべきかも
桐の花その道知るや隠れ里
ひまわりと芙蓉の赤さ影もなく重なり映り真昼明るし
ひびき合うひぐらし聞きぬ静かなれ月見草あまた道の辺に咲く
ひぐらしや古本買いて帰る道
小さなるひまわりあまた広き庭
桐の花その道知るや隠れ里
夕月や小さき庭に涼むかな
もう一里徒歩行く人や夏の夕
子育てになお忙しや夕燕
菖蒲咲き水の乱れず映る影
一軒一軒郵便配る暑さかな
ふるさとのここにも合歓や休むかな
草むらの日陰に昼顔咲く山路そを見やりて今日人一人行く
ふるさとのここにもネムや休むかな
清流の上の部落や合歓の花
この道にカボチャの花の今日も咲き陽射し明るし民素朴なれ
古本を買い漁りたる暑さかな
緑陰にノートパソコン句作かな
今日もまたハマヒルガオの咲く所海を望みし海老に来たれる
夏の日や新しき花我が家の窓辺におきて夕風そよぐ
つつじみな我に向かい咲く狭き庭
石二つ忘れ名草や狭き庭
御社を守る古木の影涼し
夏菊や海に向かいて喫茶店
沖に船自転車行きて車輪梅
青鷺の隠る水辺や里の池
黄菖蒲や店点々と6号線
赤と白バラにツバメやニュータウン
窓一つ空いて見えたり夏の山
どの庭も借景にしたり夏の山
いくつかの碑の並び古り桐の花
誰が知るや昼の月あり桐の花
門前に大岩一つ夏の月
ベランダに遠山望み夏の夕
干し物に牡丹咲き我が狭き庭
夕風や鉄線四五輪竹垣に
加賀の殿持ちし名器や春惜しむ
梨の花食堂一軒休みなむ
石二つ延齢草に小松かな
上り来て山の高みやホトトギス
街道の残れる松の影涼し老鶯なきて耳をすましぬ
夏の鳥我に向いてさえずりぬその素直なる声の良しかも
道の辺に碑の古り並び色濃くもあやめの咲きて一部落かな
郵便
一軒一軒この暑い最中郵便を配る、それが今まではあたりまえであった。しかしインタ−ネット時代になり変わった。瞬時にメールは届く、一軒一軒汗を流し苦労して配る人間の手が必要でなくなったのだ。それで当たり前のことが当たり前でないようにみえた。
メモ7月19日へ・・・紋別か届いたハガキ
ハマヒルガオ
海老の松林の緑陰にノートパソコンをもっていってホ−ムペ−ジにアップする文を書いた。富士通のlooxのいい点はキーボードが打ちやすいことである。これは大事なことである.パソコンはみんな一長一短でありキーボードにこだわる人にはいい。ノートパソコンをどう使いこなすかパソコンでもインタ−ネットでもその人により使いこなす方が要求される。それが今までの世界とは違う。余りに暑いのでこうした利用も夏はいい。ただ浜通りは電力基地であり火力発電所が目の前にありまた競輪のサテライトとか環境は悪くなった.飯館にも馬券場ができたり環境が悪くなる。第一自分の家の回りは環境が悪くなった.すぐ隣に家が建ってしまったのだ。くっつくように建てられたのである.とにかくハマヒルガオの咲く所に行き海を毎日望めば多少は涼しくなる。都会の人は大変だ。我が家でも遂に今年はクーラーを入れた.この十年異常に暑いからどにもならない。
俳句的なもの
俳句的なものとは聖と俗が交じり合う所にある。自分の狭い庭で洗濯物を干す、それは日常的にこなさねばならぬ家事であるがそのなかに高貴な牡丹が咲いている。人間は家事に追われる、日常の仕事に追われるだけでは人間ではない。その身近に高貴な花がある。その花にも眼を注がねばならない。しかしこの家事にのみ追われ仕事のみに追われて文句ばかりいうのが人間なのだ。蟻の悲劇は花が咲いても花とは無関係に奴隷のように働くことしかないことである。この世には蟻のような人間が多すぎるのである。一方花を見るだけの人間は無用に見られる.一茶にはこの聖と俗の中で苦闘する句が多く芭蕉が俳聖と呼ばれるとは対照的に聖と俗を一致させようとしたので俳句的なおかしみを句にした人といえる。
名器
テレビで加賀の殿様が愛用していたという茶碗が紹介されていた。色は赤みがっかたもので名器に見えた。加賀というと百万石だからそうしたものが残っている。人間やはりいいものを持たないと意味がない。自分もお土産に茶碗を買ったが安物だから価値がない、いいものというと茶碗だけではない、本でも絵画でも常に一流のものに触れている必要がある、知らずに感化されるからだ。まがいものに触れているとその人もゆがんだものになってしまう。見本にするべき人間も一流のもの本物ででなければならないのだがどうしてか偽者がかえって尊ばれるのはなぜなのか、つまり大衆には見る眼がないのだ。何が価値あるのか物でも人間すら皆目わからない。それで芸能人やらまがいものがもてはやされる。同時代でもてはやされるのは人間でも偽者であり詐欺師である。名器を名器たらしめるのは大衆ではなくやはりそれなりにその価値を知るものである。