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桜前線の俳句短歌3

みちのくの桜と明石の桜(西行の歌などより)
(小林勇一)


明石城淡路島望み花の夕

海に船花に染まりぬ明石城


これも思い出してできた、明石の城から淡路島が見えた、花は満開であり花見の人でこんでいた。あの辺の花は見事である。というのは最初に日本で一番栄えたところだからだ。城もたくさんあり商業も盛んであった。東北と違って歴史の厚みがあるのだ。日本では最も春らしい所になる。瀬戸内海の交通も盛んであった。大坂城の桜も見事である。明治維新のとき、大坂とか京都では豪商がいてそれが後ろ楯になった。一方東北は庶民と武士とかの二階級しかなくその間を埋める商人階級が存在しなかった。そこに明治維新のとき東北が西に圧倒された原因があったという説は面白い、明治維新というと下級武士と商人階級も加わっていた。そういう経済力をもった階層が西には存在したのだ。東北は農民階級と武士の階級の二層構造であり農民はむしろ明治維新を歓迎した。だから西からの明治維新に逆らうことはしなかった。その一つの例が喜多方だったのだ。会津は旧弊な武士の社会であり新しく商売を起こすことができないのでこっちに開けたのだという、前も喜多方は武士により会津の城の人にさげすまれていたとかかえって農民は圧迫されていたから明治維新は新しく庶民のエネルギ-を解放したのだ。

日本が一番美しくなるのは桜の時期である。桜を短歌でも俳句でも花というから日本の花といえば桜であり外国の花といえば薔薇である。教会の窓も薔薇の形を象った薔薇窓で有名である。薔薇に関して一つの文化となっている。日本では桜なのだ。桜という時、これは近くから見たとき桜であり遠くから見たときは花というのは知らなかった。そんなふうに分けて見ていなかった。花の夕となると花という全体とか遠望した花である。桜というと桜の花びらが見えるほどに近づいた時に桜となる。「花の雲鐘は上野か浅草か」は遠くから見た桜の全体をさしている。この桜の見方は様々でありこれをとりだして全部を語ることはできない、桜については日本の文化そのものなのだ。桜は桜前線があり一カ月で日本列島を北上して桜にそめる。だから西行のような桜の歌人も生まれたのだ。桜に魅せられてしまった詩人や画家がいても不思議ではないのだ。

 
ききもせず 束稲山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは 西行

こう歌うときまさに花だけではない、京からこんなに遠い所に平泉が栄えていたという驚きである。ここで自然と文化、歴史は一致しているのだ。九州の桜となると玄界灘からさらに百済や新羅と文化と歴史がつづいている。だから加耶山というのは魅力的なのである。当時の距離感覚では平泉はまさに外国のように遠いのである。その遠さの感覚が消失したからこの歌の意味もわからなくなる。実際今歩いて京都から平泉まで来たらどうなるのか、信じられない遠い感覚になる。だから常に旅することと死が結びついていた。死ぬかもしれないという恐怖と結びついていたのだ。

みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき 西行

これほどに訪ねたい阿古耶の松とは何なのかわからないが死んでしまうかもしれないという当時の旅があった。朽ち人とあるのは川俣の口太山というのは朽ちるからきているからやはりうば捨てやまだったのだろう。縁起が悪いから字を変えたのだ。

かさこしのみねのつゝきにさくはなはいつさかりともなくやちるらむ 西行

このかさこしにあぶくまといれるとなにか同じような感じになる。みねというと高い山になるから阿武隈にはそうした高い峰はないのだがいつさかりともなくやちるらむというのがあっているのだ。阿武隈地域には文化は栄えていない、文化の盛りがなく散ってしまったということである。阿武隈の花の盛りの時期を行けばそう感じるのだ。まずこの阿武隈という地域に観光でも知っている人が少ないからだ。とりたててみるべきものもない地域だからである。でもここは前にも書いたがそれなりの広い領域であり独特の風土の美をもっている地域なのである。

色といえば、エドヒガン桜は東北から九州にかけて分布、南下するに従い、花の色は濃くなる。人工的に品種改良されているのが多い。現在、私達が良く見る「染井吉野」はエドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせシダレザクラもこの園芸品種
       
ミヤマザクラは亜高山地帯にあるが、ヤマザクラとオオヤマザクラの分布を包含するかのように環状に分布する。見た目には華やかさはないが。

色がこくなるとき日本列島を桜色にするとみちのくは桜の色がうすくなり南にゆくほど濃くなるのだ。でも文化的に一番濃くなるのは大坂辺りであり九州は逆に辺境となった。でもその花の色は濃いしそれは百済や新羅とも結びついているのだ。新羅の古都の慶州に桜並木があったのも桜は日本列島から韓国までつづいている。韓国は山が多く日本の風土ともにている。桜前線は文化を考えると韓国までつづいているのだ。

春の可也山

海より春風そよぐ潮の香や
可也山の海を望みて韓国望む
はるか古にここにわたり来しかな
加耶の国は滅びて何を残せしや
可也山の名一つここに残せしや
春風は海より吹きそよぐかも
この麓に加耶の人の住みにけるかな

でも古代は桜は注目されていなかった。中国から来た梅が春の花だった。九州の太宰府で催された宴も梅をめでることだった。
桜が日本人の花となったのは花見の習慣ができたのは江戸時代であるから実際は遅いのである。ヤマザクラは咲いていてもあまり注目されなかったのだ。やっぱり桜は一面に咲くとき美しい、ヤマザクラでも山を染めるように咲けば美しいのだ。染井吉野がでてきて桜が日本人の花となったのである。西行が束稲山で見たのは自然の桜だった。西行が見たのは江戸時代の染井吉野ではない、自然の桜でありヤマザクラだった。ここが錯覚するのだ。今花見の染井吉野と錯覚するのだ。ヤマザクラだとするとそんなに華やかな感じはなかったはずだがやはり最初に桜の美を最も感じた歌人だった。桜の美を発見したのは西行だったのか、桜については日本の文化そのものだから解きあかせないものがある。その頃枝垂れ桜はなかった。これが園芸種だとは思わなかった。

北の果枝垂桜の一木の城跡に根ずき雪踏み帰りぬ

弘前の桜は有名である。ここはまだ見ていない、雪の時に行った。そこにいかにも古そうな大きな枝垂れ桜があった。桜には各地に古い謂われあるものが多い、今盛岡の石割桜なども雪にうもれてある。街中にありみちのくの長い冬を耐えて花咲く時がくる。そのほか会津であれいたるところに由緒ある、伝説を残した古い桜の樹があるのだ。一番桜の歌で有名なのは
次の歌である。


勅撰集入集歌は千載集に1首のみ。

陸奥国(みちのくに)にまかりける時、勿来(なこそ)の関にて花のちりければよめる


吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな(千載103)


源義家 みなもとのよしいえ 長久三〜嘉承一(1042-1106) 通称:八幡太郎

生年を長暦三年(1039)とする説もある。鎮守府将軍頼義の長男。母は上野介平直方女。義朝の祖父。頼朝の曾祖父。

父とともに永承六年(1051)より前九年の役に参戦、陸奥の安倍貞任らを討ち、康平六年(1063)、その功により従五位下出羽守に任ぜられる。永保三年(1083)、後三年の役が勃発すると、陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、奥州を鎮定。しかし朝廷はこれを私闘とみなし、功賞を行わなかったため、義家は私財を投じて配下の将兵をねぎらった。寛治二年(1088)、陸奥守罷免。左大臣源俊房の家来となり輔仁親王(後三条天皇の第三皇子)と密接であったため、白河上皇の院政下では疎外されたが、承徳二年(1098)には正四位下に叙され、院昇殿を許された。嘉承元年(1106)七月、出家の後病没。六十五歳。「天下第一武勇の士」と賞讃され(中右記)、源氏武士の鑑とされた。

義家の伝説が東北にいたるところにある。茨城県にもある。これはなぜなのかなぜこんなに伝説を残したのか、東北の人達が残した理由は何なのか、必ずしも朝廷側につかなかったのか、坂上田村麻呂も蝦夷に同情的だった。何かわからないがともかくいたるところに義経に継いで伝説があるのが義家なのである。この歌は桜前線の歌にふさわしい、何故なら東北に桜が咲きまさに桜前線が東北まで来たという歌にふさわしいからだ。




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