@毛野王国の浮田国造
A真野の入江と八沢浦
B和名抄行方郡の謎
C毛野氏(賜姓の謎)
図で良く検討してください
最初に国名が出るのは国造本紀に「浮田国造」(ウキタクニノミヤッコ)である。この国造は大和政権が確立する前の一つの国だったのだ。在地の勢力であり大和政権に服従していたわけではなかった。これは相馬の宇多の方まで範囲が広かった。鹿島町に浮田とある所がやはり一番早く開かれた所なのだろうか。昔は海の方は海が深く入り込んでいたから地理的にも浮田が最適な場所だったといえるのかもしれない。
この「浮田国造」は
志賀高穴穂朝、瑞籬朝五世孫賀我別王定賜国造
とあり志賀とは近江なのである。近江臣毛野という継体朝の新羅征伐の将軍がいる。賀我別王とは毛野系統であり毛野氏が最初にこの地に関係したことは確かである。というのは毛野が最初に蝦夷に接した氏族であった。
この浮田は田とは関係ないみたいである。音があり後から漢字をあてたので漢字の意味から解読すると間違い安い。北海道の地名をみればわかる。アイヌ語に漢字をあてたがその漢字の意味と元の意味はまるで違う場合があるのだ。このことでとんでもない錯覚や間違いをしやすい。漢字は表音文字でなくて意味があることが複雑にしているのだ。浮田は別の漢字では宇伎田、宇伎多なのである。これが古いものらしくそもそもの元はウキにありこれが元であった。
はじめて「さかづき」の言葉が使われたのは「古事記」より須勢理毘売命【すせりひめのみこと】が旅立つ大国主神に大御酒坏を挙げ歌った記事が最初である。そして、大国主神と須勢理毘売命は「宇伎由比【うきゆひ】をなさった」とある。「宇伎由比」の「宇伎」は「盞」【さかづき】、「由比」は「結」で「ゆふ」という言葉から来たのである
浮田物部 備前、浮田。
近江、高島郡宇伎田。 (うきた)
滋賀県高島町に宇伎多神社
石岡市で発見された漆塗文書に久慈郡□伎郷は宇伎であり宇伎田でありこの元は滋賀県高島町に宇伎多神社にある。上野国の甘楽郡に宗(宇)伎郷というのがある。上野国の物部氏からの移動した郷ではなかろうか。浮田国造が志賀であることもそれを示している。つまりこれは滋賀県高島町に宇伎多神社を基として物部氏が上野国に移り常陸の久慈郡に移り陸奥の浮田国造となったという経路が推測されるのだ。この高島町には継体天皇と縁が深く金銅双魚佩が発見された。継体天皇と関係して真野にもたらされたとする説はやはり確率が高いのである。つまり桜井古墳は物部系の首長で金銅双魚佩が発見された真野の前方後円墳は大和王権の進出によってもたらされた。それは継体天皇を擁立した大伴氏であるから
大伴氏が押す首長である。継体天皇の時代各地の有力者に配られたことは間違いないだろう。
この毛野の祖の豊城命が三輪山に誓いをたて東国の蝦夷征服に出た。その三輪山は大物主命であり出雲の神なのだ。宇伎多神社も大国主だから出雲系の物部氏の奉ずるものかもしれない。出雲が大和政権に立ちはだかった最大の敵であり出雲は実は日本の蝦夷を統べる神だったという。出雲と物部は早くから結びついていたのである。古事記がスサノオや出雲を重要視しているのはそのためである。邪馬台国とは九州に発して東遷した。毛野はこのように大和政権が進出する前は在地の勢力として一つの毛野王国を形成していた。それが故にまず大和政権は毛野氏を服属させて蝦夷を討たせたのである。蝦夷が反乱を起こし上毛野君形名が将軍に任じられ鎮圧に向かった。しかし大軍に包囲されもはやこれまでと諦めた時、その妻が「上毛野君の一族で戦いに負けたものはおりません、蝦夷などに負けて恥ずかしいと思いませんか」と言って十数人の女官に弦を鳴らさせて進軍し蝦夷を敗ったという。古代には蝦夷にも女酋長がいたように勇ましい女性がいたのだ。
最初に蝦夷を制圧に相馬郡に来たのは毛野でありその毛野の一族の中に物部氏がおり物部氏が主体ともなっていた。というのは物部氏は製鉄の技術者であったからだ。磯部物部というのも製鉄集団であった。鍛師(かねち)磯部君麻呂という物部の統率者もいる。磯部は海に近いから磯部ではなく磯部という集団が毛野から移ってきたのだ。ここは最初毛野国の国造(クニノミヤッコ)が置かれたところなのだ。その中核になったのが物部氏なのである。右田の御刀神社は最初に蝦夷征伐で上陸した地点でありそこで戦いがあったのだ。海が近かったから海から船で上陸したとしか考えられないのだ。そうでないにしてもあそこで戦いがあったことは言える。そこから浮田に入り国造(クニノミヤッコ)を置いた。おそらく山下の鎰取(カギトリ)の伝説は鍵取のことで屯倉、正倉が置かれてその屯倉を管理する人がいた。その人を鍵取(カギトリ)と言ったのだ。これは鹿島町では一番古い伝説になる。
(山下川に鎰取と名づくる所あり。昔村人川傍らに至り長櫃のごときものの流来するを見る。県(あがた)鎰将にこれとらんとして落とす。その器化して石となる。鎰取(カギトリ)の名ここに起こる。)
冠嶺神社は冠小坂でで鳥取越のことで産鉄族の鳥取部と関係していた。「白鳥伝説」谷川健一にこうしたことが詳しく書かれている。猿田彦を祀る勝子神社はカジコで鍛冶ともなる。物部氏とすべて浮田国造は密接な因果関係があるのだ。原町の信田沢はシダ沢であり常陸の信太郡からの地名の移動でありそこは物部氏の領する地域だった。ここにも冠嶺神社があった。物部氏の移動がここでも語られている。唐神は韓神であり帰化人がここに来たのかもしれない。物部氏は武器製造の氏族でありもののふというごとくモノは武器のことでもあった。この一族が桙衝神社(長沼)押雄神社(原町)御刀(ミハカセ)神社を祀った。その他駒ヶ峰神社は上毛野国から入った。和銅元年(708)上毛野朝臣男足陸奥守となった。「和銅三年蝦夷に君姓を賜い編戸を同じくす」とある。同年に上毛野国では新羅人配置の郡郷が置かれた。この年代をみても真野萱原の歌が750年頃とすると最初に毛野国に従属していたがそのあと大和政権が入ってきて毛野国は大和政権に服従した。その明らかな証拠が多賀城漆紙文書」に「宝亀11年9月廿□行方団□毅上毛野朝□」の発見であった。
常陸の行方郡に小高とあるのも移動したのだ。常陸の久慈郡に真野郷があったのも陸奥の真野郷が移動した有力な証拠である。
相馬の中村というのも常陸の鹿島郡の中村郷や松浦郷からの移動でありもともとあった地名ではない。飯豊郷とか飯豊山がありこれも物部氏と関係した移動地名だろう。田中というのも本来浮田国造地域にあり物部田中なる人物などと関係していたのかも知れぬ。
筑紫の古歴史
磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神
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磯上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触
田中とは田と関係なく氏族名と関係していた。中世に田中城があったから古い地名なことは確かなのだ。
剣岳の西側には鞍手郡鞍手町の新北(にぎた)という地名がある。これは和名抄にいう鞍手郡新分(にいきた)郷で「旧事本紀」のニギハヤヒの降臨に供奉した天物部二五部人のなかの「筑紫贄田物部」に比定されている。そこに剣神社がある。(白鳥伝説)谷川健一
この国造は大和政権とは別の地方の独立した国々であった。右田という地名も 筑紫贄田(にえた)物部とか新分(にいきた)郷がありこれがなまったものでニギタが右田となり右という字があてられたのであり右にある田の意味ではない。新田川も(にいだ)はニエタであり贄田物部とか二田物部から名づけられた。から由来しあとでその音に字をあてたのだ。アイヌ語の地名はアイヌの音に漢字をあてたのと同じである。つまり人名に由来するものであり地形に由来するものではない。アイヌ語で縄文人の残した地名を解読することはむずかしい。あったとしても消されてしまったのだ。ニッケシ(にったき)がアイヌ語だというが証明できないのである。とにかく浮田国造のち中心に物部氏の神のニギハヤヒの命(みこと)を祀った降居神社があるのが象徴的なのだ。つまり神社の位置は正確に歴史を語っている。神社は歴史の証人なのだ。
二田物部 二田物部神社 新潟県刈羽郡
當麻物部 當麻山口神社(元の當当麻都比古神社が合祀)奈良県香芝市
芹田物部
鳥見物部もしくは馬見物部 馬見神社 福岡県嘉穂郡嘉穂町、馬見古墳群 奈良県大和高田市
横田物部
嶋戸物部 高倉神社「大倉主命、菟夫羅媛命」 福岡県遠賀郡岡垣町、岡湊神社「大倉主命、菟夫羅媛命」福岡県遠賀郡芦屋町
浮田物部
巷宜物部もしくは菴宜物部
疋田物部 秉田神社奈良県櫻井市、石神神社「布都御魂神」香川県大川郡引田町、(賣沼神社)鳥取県八頭郡河原町曳田 福井県敦賀市引田 東京都秋川市引田?
須尺物部もしくは酒人物部
田尻物部
赤間物部
久米物部
狭竹物部 稲村神社「饒速日命」茨城県常陸太田市
大豆物部
肩野物部 片埜神社 大阪府枚方市、岩所(磐船)神社 星田神社 大阪府交野市
羽束物部
尋津物部
布都留物部
経迹物部もしくは住道物部 神須牟地神社、中臣須牟地神社、住吉大社 大阪市住吉区、東住吉区
讃岐三野物部 御野県主神社 大阪府八尾市
相槻物部
筑紫聞物部 籾山神社「直入物部神、饒速日命 ほか」大分県直入郡
播磨物部 物部神社 神戸市垂水区、可美真手命神社 神戸市西区
筑紫贄田物部 剣神社 福岡県鞍手郡鞍手
「多賀城漆紙文書」に「とあり毛野氏のあとに真野郷を命名した人達がやってきた。宝亀とは780年となると真野の萱原が歌われたのは750年頃しとされるがこの時すでに大和政権に組み入れられてかなり時間がたっていたが毛野は大和政権に服従し臣下となっていたのだ。関東で大和政権との争いがありそれ以後臣従するようになっていた。その象徴が稲荷山古墳の鉄剣だったのだ。ここに大彦を祖とする字が刻まれていた。浮田とか宇多にしてもこれと同じ地名が近畿などにありそっちの方から移動したことも考えられる。
大和の宇陀の真埴のさ丹付かばそこもか人の我を言なさむ 1376
かくしてやなほやまもらむ大荒木の浮田の社の標にあらなくに 2893
宇陀とか浮田とか先に地名としてありそこに住んだ人が物部氏の一族が宇陀とか浮田とその土地の名をとって土着する。真野氏というのも真野という地に移り真野氏を名乗り小野氏も小野という地に移り小野氏を名乗ったのである。そしてその地名は氏姓となり移動することになったのだ。氏族名ではないにしてもその土地を命名するのは故郷からイメ−ジされることが多いわけである。
地名は世界的にみても移動しやすいのだ。アメリカの地名がほとんどヨ−ロッパからの移動であることからみても東北が大和朝廷に征服されたならその地名も征服者によって名づけられる。古代の地名は移動したのが多いのである。インディアンの地名が残っているがではアイヌの地名が蝦夷の残した地名なのかというと不明であり信用できないのか多いのだ。
次に見逃せないのが常陸での攻防である。常陸は大和政権にとって蝦夷征服の重要な拠点になった。ここは毛野の勢力下でもありそこに喰いえることや在地の蝦夷の原住民がいてかなりの抵抗にあったところなのだ。
.わかりにくいと思うが図1で注意してもらいたいのは斜線をひいた部分である。何故かというと浮田国造の地は毛野が支配し物部氏が在地の勢力になっていたのである。右田の御刀神社から栃窪までもそうである。桜井古墳のある原町市もそうである。そうすると大和政権の勢力はまず桜井古墳のある首長がいた有力者を倒さないとこの地に入っていけないことになる。そこで竹水門からヤマトタケルが攻め入ったという伝説が生れたのかもしれない。景行記に
「日本武尊、則ち上総より転じて、陸奥地入りたまふ。時に大いなる鏡を玉船にかけて、海路より葦浦にめぐる。よこしまに玉浦をわたりて、蝦夷の境に至る。蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神、国津神等、
竹水門(たかみなと)に屯(いは)みて、距(ふせ)かむとす。蝦夷既に平(む)けて、日高見国より還りて、西南(ひつじさるのかた)、常陸を歴(へ)て、甲斐国に至りて、酒折宮に居(ま)します」
鏡は何のためのものだったのか、鏡は羅針盤の役目を果たしたともいう。船に関係していたことは言える。または相手を威嚇するものだったのかいづれにしろ鏡は大事なものだった。竹水門はタカミナトであり日高見の国のことである。日本は九州まで最初は蝦夷の日高見の国だったが最後に蝦夷は追われ東北に逃れたのだ。葦浦とか玉浦というのは浦伝いに来たのだ。八沢浦が浦だったころの写真には葦が繁くしげっていたのである。
とにかく浮田国造が置かれた時すでに蝦夷は毛野とその配下の物部に支配されていたのである。蝦夷といってもそれは原住民ではなく大和政権に反抗する人達をさしているのでありそれは中央で追われた物部一族の一部でもあった。物部は何故なら津軽外三郡誌で日高見の国を構成する一族にもなっていたからだ。蝦夷というものの実体は不明であり様々な人達の連合体であったのだ。その中に原住民もいたしアラハバキ族もいたし物部氏もいたし毛野氏も最初は大和政権に服従していなかった。稲荷山古墳の鉄剣の銘文発見でわかるように争い敗れ服従したのである。鹿島町で戦闘があった地点は二カ所である。御刀神社がある右田と桜田山の下にある第六天の祠のある所である。最初の御刀神社では在地の原住民と戦った。これも原住民といってもどういう人達かは不明だが物部氏が制圧したので刀をさして勝利の記念として神社を建てたのである。物部氏は武器の製造をになった部族でもあり剣神社が物部氏の行く所にある。物部氏は武器製造の氏族でありもののふというごとくモノは武器のことでもあった。この一族が桙衝神社(長沼)押雄神社(原町)御刀(ミハカセ)神社を祀った。その他駒ヶ峰神社は上毛野国から入った。和銅元年(708)上毛野朝臣男足陸奥守となった。「和銅三年蝦夷に君姓を賜い編戸を同じくす」とある。同年に上毛野国では新羅人配置の郡郷が置かれた。
毛野と物部氏は密接な関係にある。物部私印が群馬県、毛野国から発見されていたり石田川式土器という東海系の土器が、上毛野地方に大量に出土することから推測できる。「弥生時代の上毛野には樽式土器を持つ先住民がいたが彼らはしだいに淘汰され、石田川式土器という東海系の移住者たちが毛野の王者にのしあがった。」(古代東国物語)永岡治
桜井古墳から発見された土器なども東海系だから毛野の国を支配した物部氏系の首長級の人物が祀られたことは間違いないだろう。前方後方墳というのも大和王権系の前方後円墳に対抗して作られたものであり東海、関東、東北に多く残された。
この前方後方墳は新羅とか高句麗系につながるものでそうした渡来人の勢力図とも関係していたのである。つまり百済系は大和王権に厚遇された。これは桓武天皇の平安時代までつづいた。大和王権の中枢に入ったのは百済系が多かったのである。
新羅と高句麗(高麗)系はそれに不満を持ったから大和王権と対立する構図があったともいえる。
桜井古墳を制圧し次に第六天で戦闘があった。第六天とは仏敵であり大和政権に逆らうものである。この第六天は関東に非常に多いのだ。大和政権と戦う賊を言ったのである。毛野王国の物部氏もその中に入っていたともいえる。邪馬台国の東遷と蝦夷の首領のナガスネヒコの争いが地方にも展開したのである。つまり秀吉と家康の戦いをあてはめると秀吉が家康を追い詰め最初に天下をとった。しかし家康の勢力は強大であとでまた征服された。大和政権の場合はどんどん逆に反乱軍の蝦夷を東北に追い詰め遂には津軽まで追い払ったのだが津軽には日の本将軍を名乗る阿部氏や日本中央碑を建てた蝦夷の末裔が残ったのである。つまりこうした河内や奈良での政治勢力図がこの小さな相馬郡にも反映されていたのだ。第六天で戦ったものは蝦夷を先に支配していた毛野氏配下の物部氏しかいないのである。あそこで進出してきた大和政権に敗れ制圧され鹿島御子神社が建てられたのだ。そして浮田国造は消えて真野郷となったのである。ヤマトタケルの神話はオオ氏の日本への進出を基にしているからだ。
笠女郎の歌は大伴氏によりこの地が制圧されて以後できたのである。東北では万葉集にのった歌は非常に少ないから真野という地点は大和政権に制圧された重要な地点として都の人に記憶されたのである。そういう大きな政治的背景の上に歌われたものなのである。実際の歌の意味は萱原がなびく荒蕪の辺境も大伴氏の力により大和の一部になりましたという意味でもあったのだ。「陸奥の真野萱原遠けれど面影にして見ゆというものを」とあるけれども実際は都の人にはっきりと思い浮かぶ世界になったのである。それでここを征服した功績のあった人にそれは誰かここに遣わされたものか在地のものか不明であるがどちらかというと遣わされたものかもしれない、何故ならここの首長とは戦ったはずだからその敵に金銅双魚佩を下賜しないだろう。浮田国造の領域ではなく前方後円墳が寺内に作られたのもその位置がこの地の勢力図を如実に示しているのだ。つまり金銅双魚佩が下賜されたことと真野郷が万葉集に歌われたことはセットなのである。金銅双魚佩はどうしてここまでもたらされたのか解明するのはむずかしいが大和政権がここを征服した記念としてもたらされたのである。いづれにしろ古代史を確証することは至難である。限りなく真実に近づける方法をとる他ないのである。しかしそれで確定することはできないのである。
まず毛野王国の一部であった浮田国造は物部氏を従いこの地に勢力をもった。しかし次に真野の入江から侵入したオオ氏一族と衝突した。真野の入江の山側の江垂(エタリ)に装飾古墳があった。それは九州のと酷似しているのだ。何故あの場所かというと地図2をみてもらえばわかるが真野の入江の方から入ったきたまたはオオ氏を祖とする岩城国造が侵入しようとするとあの山でさえぎられる。今陸地の所は海だった可能性が強いからあの山を越えねばならぬ。だからあそこに装飾古墳を作ったのである。そして山を越えて在地の勢力と衝突した。それは誰かと言ったら既に蝦夷を服従させていた毛野王国なのである。国造は別に大和政権で統一されていたわけではない、別々の国とすると争うことがありうるのだ。そこで山を下りた所で戦闘になった。そこで在地の抵抗勢力が第六天とか仏教の賊にされて殺された。この第六天は関東一帯にあることは常に蝦夷という抵抗勢力があったのだ。蝦夷といってもそれは浮田国造のものとしか考えられないのである。鹿島御子神社の位置も浮田国造の中に喰いえるよう建てられたことがわかる。
だいたいの結論は毛野王国(物部)→(継体天皇)(大伴氏)→オオ氏の進出(阿部氏の進出)→大和、近江系の進出(大伴氏)→金銅双魚佩下賜→真野萱原の歌(万葉集)となってゆく。とにかく最後は大伴氏が来たのであり笠女郎はその最後の大和、近江系の人から陸奥の真野のことを聞いたのである。
ここで常陸から進出したオオ氏関係の一団が勝利して前方後円墳を寺内に作ったのかもしれぬ。ただこれはオオ氏ではなくその後続の大和や近江系や天皇の近衛兵の大伴系の人が作りここに葬られたのかも知れぬ。
オオ氏と大伴氏はともに行動したともあるから大伴氏の人が前方後方墳を作りその主に金銅双魚佩が下賜されたとみるのが妥当だろう。千葉県の馬来田は継体天皇と坂田大跨王の女広媛の間に生れたとあり日本海から渡来人がやってきて近江に至り金銅双魚佩の原型の一つだけの魚佩をもたらし伝播した経路があるのかもしれない。というのは韓国の武寧王の墓からも魚佩は発見されているからだ。これは大陸系のもので騎馬民族のものでシルクロ−ドを通じてもたらされたル−ツは遠いのである。王冠もこれはもともとシャ−マンがかぶった鹿の角らしくこれも新羅の天馬塚から発見されたり韓国経由で日本海から近江を通じて伝わった傾向が強いとある。
この馬来田皇女をオオ氏系の印波国造で合祀しているのかというと同祖だからである。ここにも金銅双魚佩が発見されたとするとオオ氏の征服のあとに近江や大和系が進出しここの在地を治める人なのか大伴連馬来田(−687)という人が出ているからだ。継体天皇の時磐井(いわい)の乱があり大和政権の確立期に九州のオオ氏の出身地で勢力争いがあったのだ。これにいづれにしろオオ氏がキ−になることは確かである。すでにこの次点で馬来田は大伴氏に編入されたことは大事である。
多坐弥志理都比古神社
神武天皇 小子部すがる命 神八井耳命 太安萬侶卿
まず、三輪山の周辺は「多の地」と呼ばれ、大和の国中(くんなか)すなわち中央であった
多氏の先祖は神八井耳命(かむやいみみのみこと)といわれる。このミコトは初代天皇といわれる神武天皇の子で、母は三論山の祭神オオモノヌシの娘とされている。
オホ氏は秦氏に極めて近い新羅(もしくは加羅)系氏族なのである神武皇子には神八井耳命の上に日子八井命という兄があり、その日子八井命の子孫が茨田連や手島連(ともに百済系氏族)だ、と。神八井耳命とよく似た名の日子八井命という兄を立て、あえて区別したことが分かるだろう
「春日氏」「和邇氏」「尾張氏」「多氏」「阿部氏」「膳氏」は紛れもなく同族ということである
真野明神は祭神は草野姫命(カヤノヒメ)ですがこの姫神は比売許曾神社(ヒコソ)の祭神と同一神 コソが朝鮮語の社である。草野姫命とは焼き畑関係の神でもあった。あの辺でもともとは焼き畑が行われていたのかもしれない。唐神といいこれも韓国系の神社かもしれない。ここに帰化人の匂いを感じるのである。真野明神は前方後円墳に近くそこから金銅双魚佩が発見された、そこに韓国系の神社?があるとしたらそしてそこに笛一管を阪上田村麻呂が収めたという伝説も帰化人の関わりが感じられるのである。
またなべかんむり山は日立に「かんぶり穴古墳」があり装飾古墳がある。イカツチとかんぶりと読むと「東国の古代」産鉄族オオ氏の軌跡という本で言っている。なべかんむり山オオ氏一族が移動して名づけたのである。そんなに古いのかとなるとなべかんむり山と伝承されてきた名前はそれだけの歴史が古さがあるということになる。最初はかんぶり山だったのがナベがあとからつけられたのか近江になべかんむり祭りがあり文字通りナベを頭にかぶる祭りなのだ。産鉄族が関係していたのである。烏崎(からすざき)も岩松氏の伝説でここに船で上陸した時ヤタ烏が導いたとあるがもともと烏崎という名がすでにあり烏崎だからわざわざ神武天皇の故事をここに利用したのである。地名はこのように古いものなのだ。地名が先にあって伝説があとから付け加えられたのだ。烏浜というのは多い。それは神武天皇が大和に導いたヤタ烏にちなんで名づけられたとすると古代に由来しオオ氏の進出と関係している。ここの烏浜もオオ氏の一団が名づけたものかもしれない。
記紀の国譲り神話によれば、失敗を重ねる葦原中国の平定に、アマテラスは業を煮やしていた。そこで、アメノトリフネにタケミカヅチとフツヌシを乗せ派遣することにした。出雲の稲佐の浜に降り立った彼は、十拳剣を波間に突き立て、その剣先に胡座をかいてオホクニヌシに国譲りを迫った。
神武天皇の東征の神話はオオ氏の出雲への進出や東北の常陸の進出を基にして書かれたのかもしれない、そこはどちらも鉄の産地だったのだ。鉄をめぐる争奪戦が古代のテ−マでもあった。そもそも韓国に日本が進出したのも鉄をめぐっての争奪戦のためであった。現代の戦争がすべて石油とからんでいるのと同じである。サウジアラビアとかは出雲なのかもしれない、何故なら神権国家であり一方アメリカは石油のみを得たいために大軍を派遣してきたのである。出雲は天鳥船を遣わしたタケミカヅチの神によっていともたやすく征服された。
出雲国は外敵に対して無防備な平和な国だったのだ。常陸の賊とされたものも簡単にだまし討ちにあい征服された。この一団は韓国から来た強力な鉄の武器をもった戦闘軍団でありひとたまりなく征服されたのだ。蝦夷といってもそれらが誰なのかわからない、この九州から攻めてきた一団が戦ったのは在地の幼稚な抵抗力のない賊だった。しかし以前として東北には大和政権に対抗する集団が存在したのだ。それは誰なのか一部族の酋長といったものではない、大きな連合軍であった。そうでなければ戦いないのだ。要するに蝦夷とは大和政権に逆らうものとしかいえない集団であって特定できないのである。
真野氏に焦点をあてると真野氏は和邇氏の支族であり和邇氏は奈良に本拠をおき後に近江に移った。和邇氏の一族が真野という地に移り真野と名乗った。小野も小野という地に移り小野氏を名乗った。真野とか小野という地名が先でその地名をとって姓とすることはよくあることである。ただ和邇という地名は氏族名であり地形とか先にあった地名とは異質の氏族名である。ただ不思議なのは真野氏の他に真野首弟子(まのおびとでし)がおり日本書紀によれば推古二十年(六一二)少年とし大和国桜井において帰化した味摩之(みまし)に従って伎楽(くれがく)の舞いを伝習したとある。ここにでてくる桜井という地名も伝播したのかせしれぬ。桜井古墳の桜井だからである。この味摩之は日本語ではアジマノとなり越前に味真野という地名がある。真野がこの名からきているのか不明である。百済の扶余にこの石碑がある。百済から来たことは確かなようである。アジとはあじすきたかひこね‐の‐かみ【味耜高彦根神・阿遅高日子根神】がいるように何か開拓することと関係している。開拓するのに良い土地のことかもしれない。
尾張の物部系神社にアジマ神社がある。味鋺(あじま)は「物部氏の可美真手命の名にちなんでいる。饒速日命の御子で、物部氏の祖神とされている。」このアジマは何かわからないが味真野(アジマノ)もありアジマ・野となる。開拓するのに良い野という意味かもしれない、他に託万(たくま)郷が九州にありこれもタクマ・野となる。託万郷にある野となる。真野の真は単なる接頭語であり本来は良い野、開拓に適した野ともなるかもしれない。味良(あじよし)も尾張にあり大きな古墳群がある。尾張連草香(おわりのむらじくさか)は娘の目子媛(めのこひめ)を継体天皇に嫁がせて,天皇の外戚となった。継体天皇と目子媛との2人の子は大王となる。これにより尾張氏は大和王権とも密接につながり,益々その支配力を大きくしていったとあり継体天皇の連合があった。
さて「託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり」という笠女郎の歌と陸奥の真野萱原は対をなしてをり何かそこに偶然ではない意図が感じられるのだ。託は九州の託摩郡や託万郷とされていた。最近の説ではこれはツクマノと読むべきで近江の米原の託馬野が有力になった。ただこれもツク・馬野(真野)となるから両方の真野を近江と陸奥の真野を意識したのかもしれれない。こういう歌は身近かで植物を良く観察してなれ親しみ良く知っていないとできない歌だからこれは妥当である。
他に身狭村主青(むさのすぐりあお)も関係していた。身狭=武射(むさ)国造がをり上総にその一族の残したらしい古墳群がある。武射郡もある。牡鹿の道嶋氏も武射氏系統である。「続日本記」に牡鹿郡の春日部が武射臣を賜姓したとある。この一族は房総半島から移住したらしい。桃生郡の横穴古墳群が東北地方では異質なもので房総半島にあるものとにている。それから東北に丸子部とのかかわりが深い、丸子は和邇氏の別名でもある。和邇氏は海人族であり丸子とは旗に○印を使っていたためともある。この丸子は牡鹿郡に集中しここからさらに東北に広がった。房総半島か常陸国の久慈郡辺から丸子部は海上を通って移住してきた。継体王朝−和邇氏−丸子部−真野と関係して石巻に真野の地名が伝播したかもしれぬ。真野の萱原というのは二つあっても不思議ではない。氏族の移動とともに郷名は伝播しているからだ。何故なら房総半島には小野真野なる人が国司として派遣されていたからだ。その移動もまたありうる。行方郡(相馬郡)の真野郷から移動したのかもしれぬ
雄略天皇二(475)年、身狭村主青、檜隈民使博徳がいる。雄略八(481)年、青と博徳は呉に渡り、漢織・呉織・衣縫を連れ帰ったと出ている。この名前からして帰化人的である。スグリが韓国語で村主である。スグリには勝をあて字としている。
カツはカイトで村の意味とかすると村では共通しているから勝をあてたのかもしれない。アオというのもあおによし奈良の青である。韓国の旅で青い瓦の屋根の家が印象に残った。日本では家に青を使うことはない。とにかく古代は渡来系の人達が多く国の中枢にあった。陸奥に黄金をとりにきた百済王敬福もそうであり坂上田村麻呂もそうらしい。両者は関係が深かった。日本名になっているが本来は違う。在日でも日本名になっていても韓国系なのである。こうした渡来系の人が陸奥に来ていたのだから韓国は歴史的にもつながっている。不思議なのは真野明神に坂上田村麻呂が笛を収めたという伝説である。笛は芸能者が使うものでありこれが味摩之と関係あるのか謎である。ただ言えることは渡来系の一団がこの真野にも陸奥にも来たことは確かである。 それと物部系神社に笛吹き神社があることも気にかかる。物部氏は早くから在地の勢力化した氏族だからこっちの線も有力である。笛を吹くことは葬式でも行われた。奇妙なことは「枚方(ひらかた) 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る(紀98)」という歌がありあそこも毛野系の有力者を葬った場所かもしれん。
上総に小野真野という国司が存在したことは真野という氏の一団も来ていたということである。ただこれは小野氏に吸収されて小野氏一族の配下に入った。真野氏は和邇氏一族のものでありこの和邇氏も製鉄に従事する渡来集団という説がありその配下の真野氏や小野氏もそうだとなる。つまり鉄を求めて移動した人々がその鉄をめぐって争ったということがこれからも裏付けられる。とにかく蝦夷が住んでいたところには真野という地名はつかない。あとから入って来た人がつけたことは確かである。真野郷は広い範囲であり一小地域の地名ではないからだ。
真野郷という地名になるのはやはり遅いからやはりこうした攻防の結果によって大和政権に服属されたのかもしれない、いづれにしろこれには大変なドラマがあったのだ。それが今や化石のように地名だけが語っているのも無情である。この一地方史でも歴史で大事なのは地理だということである。地形は変わらないので歴史の証人となるのだ。その他のものは歴史書でも変えられるしいろいろ変わってしまうのでわからなくなるのである。
笛吹若宮神社 北葛城郡新庄町南花内24
祭神 天香山命
葛木坐火雷神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置き大彦命を北陸に差向けた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)がこの軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)に着いた時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返えし天皇にこのことを報告した。建埴安彦は大彦命軍に属していたぞくしていた櫂子の射放つた矢で建埴安彦は討ち取られ、その妻の吾田姫は五十挟芹彦命によって討伐された。
天皇は大いに櫂子の戦効を賞して天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を与えたと言う。
功績のあったものに笛を与えるという習慣があったのだ。この習慣はかなり古いことがわかる。とにかく物部氏系統の方が濃厚に残っているのだ。