(小林勇一)
(図を参照して読んでください)
きみこ(べ)
宇多郡−吉弥侯部→上毛野陸奥臣
上毛野陸奥公
名取郡−吉弥侯部→上毛野名取朝臣
信夫郡−吉弥侯部→上毛野鍬山公
下毛野静戸公
耶麻郡−丈(はせつかべ)→上毛野陸奥公
毛野は吉弥侯部から賜姓されている。参照図1の斜線と色をぬった所に毛野が賜姓されている。一方縦の青い線になっている所は毛野は賜姓されていない、毛野の勢力は耶麻郡→信夫郡→行方郡→宇多郡という経路にあり青い縦の線の領域は大和王権の勢力の進出なのである。会津の大塚山の前方後円墳から三角神獣鏡が発見された。これは吉備で発見されたものと同形のものだった。氏族でも矢田部とか丸子部(まりこ)部とか継体天皇系統が多い、継体天皇は河内の勢力と結び王権を継いだ天皇である。安積で采女の残した万葉集の歌は葛城王であり葛城の系統で後で橘諸兄と改姓した人であった。
耶麻郡→信夫郡→行方郡→宇多郡が毛野の支配地域とすると大和王権の進出を阻んだのは毛野の勢力下にあったものになる。その焦点に覇権争いになった場所が浮田国造であり行方郡の真野郷だったともいえる。信夫郡の腰浜廃寺跡と行方郡の植松廃寺跡の軒丸瓦の紋様が同種なのは毛野に移住した新羅、高句麗系統の渡来人が技術的に関与したかもしれない。
真野郷に金銅双魚佩をもたらしたものは継体天皇系の大和王権であった。そして吉弥侯部(きみこべ)は焼き畑に従事していた民のことと言う人もあり阿部氏に賜姓した。阿部氏は謎なのだが本来は蝦夷であり大和王権に服属した。アベはアペ、アピ、でアピはアイヌ語で火のことであるという説がある。阿武隈とは阿部氏の支配した地域故名づけられたのかもしれない。阿部氏が装飾古墳を残したという説も阿部氏に改姓した地域に装飾古墳が多いということも要因である。オオ氏は早い時期に衰退しているからだ。とにかく最終的に主勢力になったのは大伴氏である。
阿倍陸奥臣 白河郡の丈部子老、
賀美郡の丈部国益
標葉郡の丈部賀例努十人。
阿倍安積臣 安積郡の丈部直継足
阿倍信夫臣 信夫郡の丈部大庭
阿倍柴田臣 柴田郡の丈部嶋足
阿倍会津臣 会津郡の丈部庭虫
於保磐城臣 磐城郡の丈部山際
阿部氏の勢力がどちらかというと中通りに多いのは阿部氏はもともと日本海に勢力をもった氏族でありこれが毛野氏と結び進出したとすると中通りの方が多くなったのか阿部氏も謎が多い。阿部氏が装飾古墳を残したという説もある。ただ行方郡と宇多郡にはその跡が見られない。磐城と標葉郡(浪江)までは関係していたが行方郡は大伴氏が指揮権を握って進出した。ただ装飾古墳は行方郡にもあるから阿部氏が関係しないとはいえない。。
阿倍会津臣 会津郡の丈部庭虫
於保磐城臣 磐城郡の丈部山際
でわかるようにどちらも丈部(はつせかべ)という役目の人だったことは共通している。稲荷山鉄剣の銘文にある。杖刀人とよぶ大王の親衛隊長として仕えてきた。杖刀人にあたるのが丈部(はつせかべ)なのである。
宇多郡で吉弥侯部(キミコベ)→上毛野陸奥臣を賜姓された人が二人いる。行方郡では大伴氏が二人である。何故こうなっているかというと行方郡も宇多郡も元は毛野氏の浮田国造で一つであったが大和王権の大伴氏などの進出で大伴氏の支配下に入り浮田国造は二つの郡(軍)に分割されたのである。図で示すごとくもともと浮田国造は宇多郡の方に重きを置いていた。それが真野の入江から入ってきた大和王権の軍に押されて後退し浮田国造の主要部分の中に鹿島御子神社が建てられた。行方郡が設置され真野郷が浮田国造に変わり設置されたのである。陸奥の真野の萱原が歌われたのはこうした大伴氏の陸奥への進出を如実に物語るものだったのだ。これは武蔵の国では、5世紀末頃から大きな政治集団が発生して、この地域に変革をもたらした。6世紀に入り、武蔵国造の地位をめぐって争いが起き、大和朝廷の支援を受けた笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が勝ち、以後大和の支配が強化された。これを伝統的な毛野政権に対する楔として、埼玉の政権にてこ入れし毛野の古墳は埼玉古墳群が出現する頃から規模を縮小してゆく。
埼玉県行田市の埼玉古墳群の最北端にある稲荷山古墳から、銘文のはいった鉄剣が発見された。
「辛亥しんがい、かのといの年の7月、乎獲居臣(おわけのおみは)、遠い先祖である意富比危(おおひこ)に始まり、代々子孫たちが8代に渡って杖刀人とよぶ大王の親衛隊長として仕えてきた。私、乎獲居臣は、獲加多支鹵わかたける大王の宮廷に仕えて、大王を補佐している。」
意富比危#は大毘古、獲加多支鹵は大泊瀬幼武(第21代・雄略天皇)とみられる。このときの辛亥年は、471年にあたる。
「宋書」、倭王武は、中国、順帝2(478)年には、遣使を行った。
大毘古(大彦)は、第8代・孝元天皇の第一子で、母は、内色許売、第9代開化天皇の実兄である。
大毘古(大彦)の息子の建沼河別(武渟川別たけぬなかわわけ)は東海道12道を遠征した。
東海道12道とは、伊勢(伊賀いが、志摩しま)、尾張、三河みかわ、遠江とおとうみ、駿河、甲斐、伊豆、相模さがみ、武蔵むさし、総(上総かずさ、下総しもうさ)、常陸ひたち、陸奥をいう。
「日本書紀」孝元7年、兄大彦命は、是、阿倍臣、膳臣(高橋)、阿閉臣、狹々城君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡そ七族の始祖なり。
大伴連馬来田( おおとものむらじまぐた )
生没年 ?〜683(天武12)
咋子の子。道足の父。名は望多・望陀にも作る。
略伝 672(天武1)年6月24日、大海人皇子の東国入りに際し、菟田の吾城(あき)において皇子の一行に追いつき、以後従駕する。公卿補任には天武朝の大納言として名が見える。683(天武12)年に薨ずると、天皇はこれを大いに驚き、壬申の功臣として称え、大紫位を贈位した。701(大宝1)年7月21日文武天皇の勅に、壬申功臣として賜った功封100戸のうち4分の1を子(道足)に相伝する旨見える。
父は大伴の金村であり継体天皇擁立のために働いた人であった。金銅双魚佩というのは日本海方面からもたらされた可能性が強いからこの大伴系統から真野にもたらされたのか名前としては他にないから可能性としては有力候補になる。亘理郡→望多(末宇多)とこの氏族は移動した。その途中に真野郷に関係したのかとにかく行方郡真野郷が大伴氏によって設置されたことは確かである。
靭(ゆき)懸くる伴の雄広き大伴に国栄えむと月は照るらし(1086)
大伴氏が国を担うほど大きなものとなっていた。物部氏が日本国であったごとく大伴氏も国を担うものに拡大したので