行方郡和名抄の謎小林勇一作


行方郡(陸奥)

吉名郷、大江郷、多珂郷、子鶴郷、真吹郷、真野郷

宇多郡 (陸奥)

長伴(大伴氏)、高階(高橋)、仲村、飯豊



行方郡(茨城県

小高→陸奥行方郡小高

大生
大江(大枝氏)→陸奥行方郡大江郷
高家

白河郡

小野、高野(高野新笠)

会津郡

伴(大伴)、大江(大江氏)

安積郡

小野 (小野氏)、丸子(和邇氏)

磐城郡

丸部 、和(高野新笠)、小高


行方郡(茨城県


小高→陸奥行方郡小高

大生
大江(大枝氏)→陸奥行方郡大江郷
高家
鹿島郡

高家
中村→陸奥宇陀郡→中村郷
松浦→陸奥宇陀郡→松浦郷


那賀郡(なか)

河内
志万
阿波
石上→陸奥行方郡石神(石上)

信太郡→陸奥信太国造

小野
志万
嶋津

久慈郡

倭文(静織里)
志万(島、志摩)
真野→陸奥行方郡→真野郷
神前
久米 (大伴)
大田(太田里、風土記)
河内

多珂郡

伴部(大伴)
高野(高野新笠) →陸奥白河郡→高野

不破郡

大部(大伴)
高家
真野 →常陸久慈郡(真野郷)→陸奥行方郡(真野郷? )


高野朝臣新笠−789

和(やまと)新笠→改姓→高野新笠

和名抄の郡や郷がいかにして名付けられたか、郡とは軍であり行政単位ではなくもともと国ができて軍によって支配された所なのだ。その後に郷が行政単位として作られた。国造(くにのみやっこ)とは地方の国の意味であり今でも東京にでてあなたのオクニはどこですかというクニは地方の国のことである。国造から郡(軍区)ができて郷里が定められた。アイヌは大和朝廷に支配されたことがないからコタンが国だった。コタンとは一軒の家もカムイコタンであった。アイヌには大きな連合した組織がなかったことを物語っている。漁労、狩猟、採集民は国家を持つことがなかった。 大和王権が支配する前、つまり縄文時代の一万年にどのような生活があったか探ることはむずかしい。記録がないからだ。縄文土器とか伝説とかからしか探りようがない。その伝説も実は大和王権が確立されてから土地の人の話を聞いたものを風土記などに記したのだから多くのものは失われた。では縄文人の言葉はあったのか、今に残ったのかというとこれも探るのがむずかしい。ただ最初の和名抄を解読する手がかりとして確かに原住民の残した言葉が郷里の名になっている。茨城(うばらぎ)、岩城(いわき)は常陸風土記を読めばその由来は原住民の住んでいた場所が土窟(つちむろ)とか岩窟(岩屋)だったことがわかる。

言痛けば(こちたけば)小泊瀬山(をはつせ)の岩城(いわき)にも率て籠らなむ 勿恋(なこ)ひそ我妹(わぎも)−常陸風土記(新治郡)

この岩城(いわき)は古墳だという説もある。では何故岩城が国の名になったのか、古墳というものが普及してそれが国の中心になったためだろうか。土窟の方が原住民が隠れた場所にはふさわしい。小泊瀬山(をはつせ)というのも大和にあるからすでに大和などから移住した人が名づけたのであり縄文人が残した地名は非常に少ない。郡名や郷里名の由来は常陸風土記などに求める他ないのだ。

@原住民に由来するもの
A地形に由来
Bその土地にとれる産物に由来(技術伝承に由来)
(鉄、黄金、丹生(にゅう)、ハニ(土)、船木、玉造、常世(養蚕)、幡(機織り)、須恵(須恵器)(渡来人の技術集団)

C帰化人の移住
D大和などから移住、支配した氏族

@に由来するものが

芸都(キツ)の里あり。古、国栖(くず)、名は寸津眦古(きつひこ)、寸津眦売(きつひめ)という二人あり。これは原住民に由来する名である。その他にヤサカシ、ヤツクシなどがいた。常陸風土記の行方郡に男高(をたか)の里あり。古、佐伯(さへき)、小高(をたか)というものあり。この小高は明らかにオタカ族がいたことを示している。 佐伯(さへき)とはサエギルの意であり塞の神(さえのかみ)にもなった。この佐伯氏は大伴氏に組み入れられて軍事にたずさわるものとなった。元は常陸の原住民だった。その他俘囚大伴アテラとか宇奈古(うなこ)、狄志良須(しらす)などの名が蝦夷語であったかもしれぬ。ただアテラとは山形県に左沢(あてらさわ)と地名があるからアテラとは蝦夷語なのかもしれない。しかしこれはアテになるとか日本語なのである。地名からとった名であることは確かである。

Aとしては砂鉄をとりにきた一族、技能集団がいたし機織りを教える長幡部などが久慈郡にきた。土師氏や陶(スエ)など須恵器を作るものもきた。行方郡の真とは真吹郷で烏崎の製鉄遺跡の場所だったらしい。

真金吹く 丹生の真朱の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは

「真金吹く」は吉備の枕詞であり真朱とは水銀と関係して水銀をとるためだという説もある。朱色の土からとれるからである。丹生(にゅう)は鉄のことではなく水銀と関係している。真の金とは普通の鉄ではなく水銀のことかもしれない。黄金もコガネといい鉄を金というかはわからない。とにかくここで武器が作られ名取の方に大和王権が進出していった。行方郡も移動しているからである。行方軍団というのが適当であり大和王権の一個師団が配置された所だったのだ。行方郡の次の拠点となったのが名取郡だった。何故ならそこに東北でも最大級の古墳が作られたからだ。真野郷の隣が真吹郷でありそこには桜井古墳や泉廃寺跡など当時の栄えた跡がある。鉄がとれた真吹郷があってこそ大和王権の拠点となったのだ。製鉄炉123基、木炭窯149基、竪穴式住居133軒、掘立柱建物29棟の一大製鉄工場群だった。この人達の一部がそのあともここに住み着いたことは確かだろう。それでなべかんむり山と名づけたのかもしれない。これは製鉄族が名づけたことは十分にありうるのだ。それから遠田郡で真野公営山47人が賜姓されたのもここの製鉄に関係したものである。製鉄のために真野郷から移動したとみられる。山とついていること山は産鉄族の根拠地だったからだ。山に営むとは山で製鉄の仕事をしていたともとれるからだ。ただこれが真野氏からでているわけではない。真野郷にあって在地化した人達が名乗ったのである。他に賜姓された人もそうだからである。
真野氏というのは余り歴史上には浮かんでこない、そうした氏族が郷名となることはほとんどない、ただ小野真野という国司がいたならその名前をとって郷名とすることはある。小野氏は有力な氏族だからである。いづれにしろ点としてあって線としては結びつかないのである。

その他わかりにくいのは吉名郷、大江郷、多珂郷、子鶴郷である。 多珂郷は常陸からの移動したものだからわかりやすい。吉名郷とは何だろうか。小高の磨崖仏のある所である。ヨシナニという言葉からきているのか吉名町というのがあることはある。そもそも吉名とは良い名の意味である。調べると物部吉名という人がいた。古今集雑下-955 物部吉名として名が記されている。相模郡愛甲郡に物部吉女という人がいた。この吉名は他に類似なものがないからわかりにくい。物部と深く関係している土地だから関係あるのか、これは探る手がかりがない。

子鶴郷は伝説が残っていてそれを由来としているが他にも子鶴伝説があり「こづる」という地名が先にありこじつけて伝説が残されたのだろう。そういうことは他にも地名伝説としてあるからだ。地名の方が先にありその地名にちなんで伝説が生れた。ツルとは蔓(つる)のように細長く曲がった地形とかつるつるするというように低湿地帯を意味していたとか水流をつると言ったとかこっちの方が信憑性がある。現に都留(つる)郡があり鶴とは関係ないと思う。日本の地形にはこうした場所が多いからツル(鶴)の地名が目立つのである。第一鶴そのものを地名とすることは少ないから地形からつけられたことは確かである。あそこに行ってみれば低地であり実際に蔓が這うように低湿地帯が山の方に伸びている。

子鶴郷の隣の吉名郷は物部と関係して名づけられたのか解せない名である。単なるここはいい場所だという縁起をかついだ名かもしれない。低湿地帯は歩くにしても遮る場所になる。あそこはちょうどそうした場所でありそれで名づけられたのかそれしか考えられない。ただ行方郡は真野郷と真吹郷が中心だったことは確かである。そこに桜井古墳があり金銅双魚佩は発見された真野古墳群があるからだ。

次に大江郷であるがこれは大江氏と関係している。小高には大きな川などないし地形からつけられたとは思えない。会津にも大江郷があった。確かに会津には大きな川があるから名づけられたのか大江郷は他にもある。

桓武天皇の頃、土師から大枝(おおえ)に改姓した。山城国の大枝は、大和の菅原、河内の百舌鳥と並んで、土師一族が集住する地域であった。桓武天皇の頃というと、古墳も埴輪もすっかり過去のものになっており、土師氏は皇族の葬儀屋になり果てていた。土師氏はそれを恥じ、桓武天皇に取り入って改姓の機を得、学問で家運を盛り返そうとしたのである。

桓武の母・高野新笠も、山城国・大枝の人であった。
平城京・長岡京・平安京の三都の天皇だった桓武天皇です。「高野新笠」の父は朝鮮半島南部の百済から渡来した和乙継(わのおとつぐ)、母は土師真妹(はじのまいも)という。和氏の先祖は538年に仏教を公式に日本に伝えたとされる聖明王という。母方の土師氏は渡来人ではない。土師氏はもとは堺市の百舌鳥の出で乙訓郡に移った。「高野新笠」の死後地名の大枝氏に改姓した。大枝陵は「高野新笠」が789年に死去して後葬られたところ。桓武天皇は「高野新笠」の住んでいた乙訓郡で育てられて、45歳で皇位に就き、784年に長岡京へ遷都。そして794年に平安京に遷都した。母と大枝氏の影響を受けてのこととされている。桓武天皇は大枝郷にゆかりの深い天皇だったのである。その大江郷が常陸の行方郡から陸奥の行方郡に移動した。この時坂上田村麻呂との関係もあった。彼も帰化人であり桓武天皇は帰化人を重用したのである。陸奥の蝦夷征服には渡来人が深くかかわっていた。技術者として戦陣で必要とされた。また開拓にも技術者が必要だったのである。

大枝氏はもともと乙訓郡大枝村(現在の向日市大枝)あたりに勢力をもっていたようですが、姓を「大江」に改めます。大江音人が丹後の国司として赴任した、その途中に越えた与佐の大山を「大江山」と称し、わが名をあてたといわれています。


このように大江と高野と桓武天皇は密接な関係があり桓武天皇時代は坂上田村麻呂を蝦夷に派遣した。それで大江氏や高野氏などの一族が蝦夷にも派遣されたのか、不思議なことは大江、高野、井上郷というのがまとまってあることなのだ。井上親王というのもこれらの関係のなかにあったのだ。やはりこれは氏族名からきてをり地形に由来するものではない。 陸奥の黄金をとるために百済王が派遣されたことなど帰化人と密接な関係があったのだ。その関係の中で高野郷(陸奥−白河)が陸奥にも設置されたといえる。高野新笠の父方にある和(やまと)(陸奥−磐城)氏の和という郷名も残っている。 行方郡にあった大枝郷はやはり山城国の乙訓郡の大枝郷と関係していたのかもしれぬ。大枝となっているのは改姓前でありここが古くから大枝となんらかのつながりがあった。


 大江山は鬼伝説で有名だがこれも鉄と関係している。つまり鬼のいる所は必ず鉄の産地なのである。吉備にも強力な鬼がいてそこは鉄や水銀の産地だった。大和王権は鉄資源をめぐって在地の勢力と戦ったのである。それが蝦夷と言われたが明らかにその背後に物部氏がいたのである。出雲も結局ここも鉄をめぐる争いだったらしく出雲も物部氏の勢力下にあって出雲の物部氏と大和王権は争ったのだというのも説得力がある。日本全国いたる所に物部氏の跡が点々とびっしりと刻印されているのだ。最初日本が物部氏の国だったということが一地方の歴史にも色濃く反映されているのである。それはどういうことかというと物部氏が鉄の生産の主導権を握っていて山を根拠地としていたからである。その配下に蝦夷と言われる土蜘蛛とか穴に棲むと言われた人達が賊とされていたがそれらの人は穴に入り鉄をとる人達でもあった。物部氏と蝦夷とは一体であったのだ。吉野であれ吉備であれ大江山であれ伊吹山であれ鬼とか土蜘蛛とか言われた人達は山で鉄をとっていた人達であった。大和王権が争ったのはその鉄をめぐって主導権を得るためだった。鉄をとって武器や農具を作ったものが支配権を握ったからである。縄文時代が一万年あるとすると最後の方ではすでに鉄も生産していたし高度な文明になっていたのである。それは物部氏が蝦夷の中に入り技術を伝播したためである。

それから何故百済やら新羅、高句麗などの帰化人が大和王権の主導的地位にあったかというとこれも様々な技術をもってきたためである。陸奥の黄金をとりにきたのも百済王敬福と名乗る人であり技能集団が帰化人だった。これらの人が大量に大和に入り根づいたのである。その孫の百済王俊哲も陸奥にかかわりが深い。この影響力は陸奥まで及んだのである。戦争とか征服には技術者、技能集団が不可欠である。戦争が武器をめぐる戦争になる。武器が優秀な方が勝つからである。アメリカは戦争の度に最新の兵器を見せつけまるで新兵器のショ−のように戦争をしているのをみればわかる。戦争と武器(技術)は不可欠なものとして結びついているのだ。また人間は資源を求めて移動する。日本人がキルギスタンとかに何故行っているのかというと鉱物資源をとるためだった。一体何故アルジェリの方まで行く人がいたのか解せなかったが石油資源を求めて日本人も行っていたのだ。アフリカの果てまで資源を求めて日本人の技術者が行っているのと同じである。陸奥に黄金がとれたことか多くの渡来人が技術者集団が来た要因だった。


この年、百済から慕ってくるものが多かった。その者達の顔や体に斑白(まだら)や白癩(しらはた)があり、その異様なことを憎んで海中の島に置き去りにしようとした。しかしその人が「もし私の斑皮(まだらかわ)を嫌われるならば白斑(しらふ)の牛馬を飼いないではないか。・・・私は築山(つきやま)を造るのが得意です。私を留めて使って下されば国のために利益になるでしょう、海の島に捨てたりして無駄にしなさるな」と言った。それで御所の庭に須弥山(世界の中心をなす山)の形と呉風の御所に庭に築かせた。(日本書紀、巻22 推古天皇)



ここで言われたことは興味深い、人種差別が先にすでにあった。肌が黒いとか何か顔の形とか肌の色が違っていたのだ。人間は今も昔も外国人に接する時は同じ感覚だった。牛馬を飼っていたということは騎馬民族であり牧畜を生業とするものでそれを否定されることに対する抵抗であった。大和王権と蝦夷の対立も鉄をめぐる争いでもあったが蝦夷の生業は焼き畑が主であり山での暮らしが主でありそれで田を作る大和王権の人達の移住するものと対立したのである。他に大伴子羊とか羊と名のつくものがをり羊を飼っていた人達も入ってきた。とにかく技術をもっていたので渡来人は大和に受け入れられたのだ。つづきでも芸能者や池を作る人達などいろいろな技術者が入ってきて国造りをしたのだ。これらの人達がいなければ日本の国は作られなかったのである。

上総(千葉)の馬来田国造は河内(大阪)の茨田、上総の須恵国造は和泉(大阪)の陶邑、相模(神奈川)の師長国造は河内(大阪)の磯長を故郷とするものとされる。(日本古代王権試論、大和岩雄)笠間郷というのも二つくらい河内、山城国にあった。

矢田部は安積郡にのみ一人みえるが、実は清水台遺跡(安積郡衙跡)出土瓦に矢田部の刻銘があり、矢田部は安積郡衙修復の際、造瓦事業を担当した豪族であることが推定される。(福島県の歴史と考古、鈴木啓)

常陸風土記の香島郡に

郡(こおり)の北30里に、白鳥の里あり。古老のいへらく、伊久米の天皇の世に白鳥あり。おとめとなりて夕べにのぼり朝(あした)に下る、石をひろひて池を造り、そが堤を築かむとして、徒(いたずら)に日月を積みて、築きては壊(く)えて、得成さざりき。おとめら

 白鳥の 羽が 堤を つつむとも あらふまもうきはこえ

かく口口に唱(うた)ひて、天にのぼりて、また下りこざりき。これによりて、その所を白鳥の郷と号(なづ)く


池を作ろうとして失敗したことことかこのような物語を残したのだうか。白鳥とは白鳥のことではなく遠くからきた渡来人の意味もあったのかもしれぬ。近畿でも池を造ったのは渡来人だった。ではなぜここで女性が池作りしていたのだろうか?女性を労働力にしてみたが失敗したということか労働力の不足が原因だったかもしれぬ。女性まで動員して作ろうとしたが失敗したことが伝説となったのか伝説にもそれなりの意味はあるのだ。


久慈郡の謎


久慈郡には


大田の郷に、長幡部の社あり。古老の日(い)へらく、球売美万命(すめみまのみこと)、天より降りましし時、御服(みけし)を織らんために、従ひて降りし神、名は綺(かむはたひ)日女命、本、筑紫の国の日向の二神の峰より、三野の国の引津根の丘に至りき。後、美麻貴(みまき)の天皇の世にいたりて、長幡部の遠祖(とおつおや)、多ての命、三野(みの)よりさりて久慈に遷(うつ)り、機殿を造り立てて、初めて織りき。


このように養蚕の技術の伝播や機織りの技術の伝播があったのだ。三野(みの)は美濃である。美濃というと遠いが結構遠くから来ている。美濃国の不破郡に真野郷があった。安八郡に長友郷があった。これは宇多郡長伴郷に通じるのか遠いのでその移動はわからないが和名抄の郷里名は移動しているものが多いことは確かなのである。

久慈郡や多珂郡、那賀郡から漆塗文書が発見された。発見された場所はほとんど鍛冶工房だった。ここにも製鉄関係の一団が深くかかわり真野郷に移動したのだ。ここに「矢作家」「太刀」「鞘作り」とか武器に関するのが多く蝦夷征服への前進基地として武器が生産された。
 他に「長幡部」「倭文部」□伎郷がありどれも久慈郡関係である。□伎郷は上野国の甘楽郡に宗(宇)伎郷というのがある。甘楽郡(かんら)は渡来系の移住した所らしい。他に真野里、神前里(かみさき)の条里制の呼び名の漆塗文書が発見された。里というのは区画であり一里二里とか計る単位である。近江に真野郷があり神前(かむさき)郡がある。

天智4年(665)2月に百済百姓男女400余人を近江国神前郡におき、翌5年冬には百済男女2000余人を東国に移し3年の間官食を支給した。その他8年には百済男女700余人を近江国蒲生国に移住させたと記録にあり百済滅亡で亡命した人々が女性もふくめてかなりの数が来たのである。この数は当時としては多いから未開の蝦夷地に移植された。明治維新の後に北海道に移植させられた武士のようにである。そしてこれらの渡来人は高度な技術を持って移植した人々だった。おそらく常陸風土記にある未完成に終わった堤も渡来人がかかわったものだろう。近江の渡来人は百済系だが武蔵や毛野国は新羅や高句麗系だった。この渡来人同士でも勢力争いがありそれが日本の歴史にも影響した。何故ならこれらの渡来人は技術者でもあり大きな力を持っていたからである。桜井古墳の首長は在地の毛野の勢力下にあったとすると新羅、高句麗系であり真野古墳(前方後方墳)の首長は百済系ともなる。久慈郡に神前里という名が残るのはこれは百済系の人々の移住かもしれない。真野里も百済系となるのか近江からの移住とすると百済系になる。



高階

武蔵国入間郡高階郷→高階郷

『和名抄』が著された以前から武蔵国に地盤をもっていた。

高橋郷(陸奥−柴田)

高階と高橋は同系の氏族だろう。高橋は、古代の氏族時代から高橋朝臣を称して大和の高橋神社を氏神として栄え、蝦夷反乱に際しては藤原宇合の副将として出陣している。 当時の土着した子孫や家臣が多いようで、現在も東北地方に高橋姓が多く分布する。
 高橋神社についての続風土記の説明に「高橋ノ連ハ饒速日尊七世ノ孫大新河ノ命之後也」とあります。饒速日尊とあるごとくこれも元を正せば物部氏の子孫になる。

安倍氏の発祥地は大和国(奈良県)だという。今の桜井市に安部町があり、その隣の橿原市には膳夫(かしわで)とか内膳とかの町名もある。この辺がアベ氏の根拠地で、アベ氏は貴人に食を供える膳夫の役を受け持っていた。アベ氏の支族である高橋氏がそれを受け継いでいたことは「新撰姓氏録」の「左京神別」にはっきり出ている、いわく「高橋朝臣、安部朝臣と同祖、景行天皇東国に巡狩のとき、大蛤を供献す。天皇その奇美を喜びて姓を膳臣と賜へき」とあるのがこれである。同じく「新撰姓氏録」の「左京皇別上」に「安部朝臣、孝元天皇の皇子、大彦命の後也」とある。この大彦命は四道将軍の一人として東国に向かわれ各地に殖産したがこれが奥州に広まったのがアベさんなのである。各地のアベの地名はその開拓地である。

宇多郡の長伴は(部領使)長大伴部広椅)宝亀十一年(780)という漆塗文書が発見されている。これはある郡から兵馬をひく馬子の粮米を進上したことを示す文書である。長の前は部領使とみられる。
日本後記に延歴15(796)に「外正六位上上毛野朝臣益成、吉弥侯弓取、巨勢楯分、大伴部広椅、尾張連大食、外従五位を授ける、戦功をもってなり」とある。この戦功は坂上田村麻呂の戦功のことであったらしい。長伴はこの長大伴部広椅の名からとった。大を省けば長伴になるからだ。 ということはこの人が宇多郡にいたことがあり大伴氏の一族から真野の萱原のことが笠女郎に伝えられたということもありうる。

飯豊郷

飯豊山(白川郡飯豊郷) 大信村

 此の山は、豊岡姫命の忌庭なり又飯豊青尊が物部臣をして御幣を奉らしめ賜いき故に山の名と為す  古老曰へらく昔巻向の珠城の宮に御宇しめしし天皇の二十七年戌午の年秋飢へて人民多く亡せき故に宇惠々山と云ひき後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云(陸奥風土記)

「豊岡姫命」(とよおかひめのみこと)は、いずれも豊受大神と同一神とされ、また「延喜式」(えんぎしき)の「大殿祝」(おおとのほがい)の祝詞の中に「屋船豊宇気姫命」(やふねとようけひめのみこと)を注して、「是(これ)は稲の霊なり。俗の詞(ことば)に宇賀能美多麻(うかのみたま)といふ。今の世、産屋(うぶや)に辟木(さきき)、束稲(つかいね)を戸の辺(あたり)に置き、また米を屋中に散らすの類(たぐい)なり」とあり、特に稲の豊穣に関わる神とされる

飯豊青皇女(いいどよのあおのひめみこ)が忍海角刺(おしぬみつぬさし)宮で 忍海飯豊青尊(おしぬみいいどよのあおのみこと)と名のった』
飯豊青皇女も葛城襲津彦の血を受け継いでいるとされています。
 皇女を葬るという葛城埴口陵は、神社より北約1km、新庄町北花内の 大きな前方後円墳に葬られています

飯豊郷の意味は飲食富豊(みけふきゆたか)の意味であり米が豊かにとれるようにと名づけられた。飯豊山はもともと米をとる祈りの場として山になった。山の神は豊作をもたらす神でもあったのだ。つまり山は米を作る、水をもたらす場所として神聖視されていたのである。これは稲作の神で物部氏によってもたらされた。



稲荷山鉄剣銘文

埼玉県行田市の埼玉古墳群の最北端にある稲荷山古墳から、銘文のはいった鉄剣が発見された。

「辛亥しんがい、かのといの年の7月、乎獲居臣(おわけのおみは)、遠い先祖である意富比危(おおひこ)に始まり、代々子孫たちが8代に渡って杖刀人とよぶ大王の親衛隊長として仕えてきた。私、乎獲居臣は、獲加多支鹵わかたける大王の宮廷に仕えて、大王を補佐している。」
意富比危#は大毘古、獲加多支鹵は大泊瀬幼武(第21代・雄略天皇)とみられる。このときの辛亥年は、471年にあたる。
「宋書」、倭王武は、中国、順帝2(478)年には、遣使を行った。


大毘古(大彦)は、第8代・孝元天皇の第一子で、母は、内色許売、第9代開化天皇の実兄である。
大毘古(大彦)の息子の建沼河別(武渟川別たけぬなかわわけ)は東海道12道を遠征した。
東海道12道とは、伊勢(伊賀いが、志摩しま)、尾張、三河みかわ、遠江とおとうみ、駿河、甲斐、伊豆、相模さがみ、武蔵むさし、総(上総かずさ、下総しもうさ)、常陸ひたち、陸奥をいう。
「日本書紀」孝元7年、兄大彦命は、是、阿倍臣、膳臣(高橋)、阿閉臣、狹々城君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡そ七族の始祖なり。



大伴連馬来田( おおとものむらじまぐた )

生没年 ?〜683(天武12)

咋子の子。道足の父。名は望多・望陀にも作る。

略伝 672(天武1)年6月24日、大海人皇子の東国入りに際し、菟田の吾城(あき)において皇子の一行に追いつき、以後従駕する。公卿補任には天武朝の大納言として名が見える。683(天武12)年に薨ずると、天皇はこれを大いに驚き、壬申の功臣として称え、大紫位を贈位した。701(大宝1)年7月21日文武天皇の勅に、壬申功臣として賜った功封100戸のうち4分の1を子(道足)に相伝する旨見える。



父は大伴の金村であり継体天皇擁立のために働いた人であった。金銅双魚佩というのは日本海方面からもたらされた可能性が強いからこの大伴系統から真野にもたらされたのか名前としては他にないから可能性としては有力候補になる。亘理郡→望多(末宇多)とこの氏族は移動した。その途中に真野郷に関係したのかとにかく行方郡真野郷が大伴氏によって設置されたことは確かである。

 靭(ゆき)懸くる伴の雄広き大伴に国栄えむと月は照るらし(1086)

大伴氏が国を担うほど大きなものとなっていた。物部氏が日本国であったごとく大伴氏も国を担うものに拡大したのである。

毛野(賜姓の謎)